Tumgik
#ミシン部
sa-rahmarket · 1 year
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NHKすてきにハンドメイド2022年5月号に掲載していただいた、私のお裁縫箱◎ 平澤まりこさん @mariko_h の絵が描かれた、お気に入りのboxなのです。 2023年4月号では、可愛いパンツを掲載していただきます。 お楽しみに(﹡ˆᴗˆ﹡) Posted @withregram • @nhkpb_handmade 今日は3つに分けて、『すてきにハンドメイド』テキストの目次ページに掲載している、先生方のお針道具をご紹介していきます🪡 2022年4月号 マカベアリスさんのお針道具 2022年5月号 帽子千秋さんのお針道具 2022年6月号 青木和子さんのお針道具 2022年7月号 鷲沢玲子さんのお針道具 #マカベアリス #帽子千秋 #青木和子 #鷲沢玲子 #ソーイング #手芸 #ちくちく #刺しゅう #刺繍 #embroidery #ミシン #ミシン部 #ソーイング #洋裁 #手編み #編み物 #かぎ針編み #棒針編み #crochet #knit #knitting #handmade #ハンドメイド大人服 #編み物好きさんとつながりたい #ハンドメイド好きさんと繋がりたい #すてハン #すてきにハンドメイド #平澤まりこ https://www.instagram.com/p/Cp4SgudvbUm/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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ongakus2007 · 2 years
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♪ #リペア 今回は水色のデニムを裏からあてて ぐるり、しつけ糸で仮止め←やっぱやりやすい。 そしてミシンステッチで補修しました。 時折やってみるこの手法。 ジグザグ模様の振り幅を毎回惑うのだけど こちらわりと均一にできて気持ちよかったです◎ #作業着 . #Ongakus #ミシン部 #ミシンステッチ #デザインステッチ #ジグザグ #裁縫 #繕い #繕い物 #ワークウェア #ワークパンツ #mendingclothes #zigzagstitch #designstitches #workpants https://www.instagram.com/p/ChEy9sxPZks/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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ashi-yuri · 11 months
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あなたや私と同じ普通の少女の話
FAITH: The Unholy Trinity fanfiction
エイミーのお話です。
※バチカン非公認
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1.    家(予兆)
 誰も口にしないパーティーのチキンをゴミ箱へ捨てる。招待状を捨て、お誕生日の飾りを捨てる。地下からだかだかとミシンペダルを踏み込む音が聞こえる。毎日、毎日。父さんから中東だかアフリカだかの人形が送られてきてから、お母さんは毎日地下室にこもってマネキン相手になにかを作り続けている。父さんはどうかしている。不安を抱えてるお母さんにあんな気持ちの悪い人形を送りつけるなんて。家にもろくにいないのに。この家にいるのは私とお母さんの二人きり。そして会うことのなかった弟たちの二人。
 階段を上がり、隣の部屋へと続く扉を見つめる。もうあの扉を開けたくない。真新しかったはずのおもちゃにうっすらと埃がかぶっているのを見るのがつらい。父さんもお母さんも誰もずっとなにもできないでいる。捨てることも、掃除することさえも。ほんとは片づけるべきなんだろう。家に来たお医者さんの先生もそう言っていた。だけど、あの部屋を片付けた瞬間に私の家は終わる。どうしてだろう。でも、あの部屋だけが私たちを何とかつなぎ留めている。気が狂いそうだ。
 リビングの片づけが終わっても、ミシンのだかだかという音がまだ聞こえる。きっと明日も、明後日も。今度は何を作るのだろう。ミシンのあの音は大嫌いだけど、何か作っているあいだのお母さんの具合はまだよかった。一度、あのミシンの音をやめてほしくてお願いしたら、急にすごい大声でいつもの双子の話をまくしたて、森へと飛び出してしまった。慌てて森に探しに行こうとしたら、両手を血まみれにして帰ってきた。「狼がいるの。あなたも、あの子たちも、私が守らなくちゃ」と呟きながら。このあたりに狼なんていないよと言ったけれど、お母さんは手を洗って、そのままふらふらと地下室へ行ってしまった。
 お母さんに私の声は届かない。ずっと双子に憑りつかれているから。
 お母さんの調子が悪くなって、父さんは仕事で家を空けることが多くなった。それとも、逆だったろうか。外に続く森は暗く、幹線道路を走る車の音も聞こえない。この家にずっと私とお母さんと二人きりでいる。地下室のミシンの音がようやくやんだ。その代わりにすすり泣く声が聞こえる。
 お母さんは可哀想な人なんだ。これ以上傷つけたくない。私がしっかりしな��ちゃいけない。気が狂いそうだ。
2.    樹
 お気に入りの松の木に寄りかかって座る。どの木も同じに見えるけれど、この木はとりわけ枝張りがよく、近くにいると落ち着けた。この場所ならおかしな声も音も聞かなくて済む。家のことを考えるのが怖かった。中にいると、歪んで、まっすぐに進めなくて、家自体が軋んで悲鳴をあげている気がする。お母さんには、学校に行けずに家に閉じこもっているからストレスがたまっているのだろうと言われた。私とお母さん、おかしいのはどちらなんだろう。この家と森にふたりでいると、すべてがどんどんおかしくなっていく。出口が見えない。
 前にこの木のそばでひとりで泣いていたら、そのすすり泣く声がお母さんにそっくりで、それが怖くてもうずっと、泣けなくなっていた。
 誰もいない木々のあいま、鹿が通り抜けていくのだけを眺めている。ずっと眺めていると、赤いものを身に着けた大人の人たちが歩いていくのが見えた。ふとその一人と目が合ってしまうと、あちらか声をかけてきた。
「そんな顔をしてどうしたの、お嬢さん。なにか辛いことでもあった?」
 なんてことない言葉だったけれど、そこには随分とひさしぶりに感じた暖かさがあった。
3.    診療所
 ハートフォードのクリニックでお手伝いをするのはとても楽しかった。チームのみんなが近くまで車で迎えに来てくれるし、街には森にはない色々なものがあった。それにクリニックでボランティアをすることは、すごく人のためになることのように思えた。そこにはいろいろな悩みや不安を抱えた女の人たちがやってくる。私は医者でも看護師でもないから大したことはできないけれど、ちょっとした事務仕事や患者さんの話し相手になることはできた。
「赤ちゃんを失ってしまったことは、あなたのせいじゃないんです」
「今はつらいけど、きっと受けいれられる日が来ます」
 そうだ。本当にそうなんだ。
 少しだけ肩の荷が下りたようにクリニックを出る人を見ると、私の心も少し軽くなる。だから、このクリニックのことを悪く言う人がい ても気にならなかった。
一度だけ、このクリニックを経営する団体のトップだというミラーさんという人と会ったことがある。スタッフみんなに親しげに声をかけながら、最後に私のところへと来た。赤いへんなローブから覗く瞳が、真正面からこちらを見つめる。
「いつもクリニックのため頑張ってくれてありがとう。これからも期待しているよ」
 強面のわりに言葉は思いのほか優しく、握手した右手は骨ばっていた。そしてなにより見つめた瞳の奥の翳りは、どこかで見覚えがあるような気がした。ミラーさんと一緒にいた女の人が私を睨んでいたような気もしたけれど、私はあの翳りをどこで見たのか、そればかり思い出そうとしていた。
4.    家(変容)
 頭がぼんやりする。眠れないとき、不安で息が苦しくてたまらないとき、クリニックでもらった薬を飲むようになった。あれを飲むと、すこし不安が消えて落ち着ける。時々、ぼうっとしてしまったり、たまに何かよくわからないものが見えることもあったけれど、形の見えない不安に苛まれ続けるよりはよかった。
 父さんもお母さんも私がクリニックでボランティアすることを快く思っていなかった。変な噂があるとか、私の様子が最近おかしくなっているとか。確かにそうかもしれない。けれど、この家にいるよりずっと普通だし、ちゃんと誰かの役に立てている。チームのみんな、私の話を聞いてくれるし、親切にしてくれる。
 夕方の食事の席で、久しぶりに帰ってきた父さんが諭す。
「お前のことを心配しているだけなんだよ。」
「そうよ。あそこには変な人が出入りしてるっていうじゃない。」
「うちよりずっと普通だよ。」
「どうしたの、エイミー?」
「うちよりずっと普通だって言ってるの!」
 なぜか、これまでずっと言えなかった言葉が喉の奥で渦巻いている。目の奥が引き攣り、頭の中で聞いたことのないノイズが呻き鳴く。
「どうしたの、あなた……ねえ、本当におかしくなってしまったの?」
「おかしくないよ。私はずっとまとも。」
「エイミー、そういう話は食卓では……」
「エイミー、何がおかしいっていうの?」
「うちだよ。」
「えっ」
「うちがおかしいんだよ。」
 耳鳴りがひどくなる。家が軋む音が聞こえる。戸棚がガタガタと震え始める。
「父さんもお母さんも、ずっとおかしいよ。」
「エイミー、」
「弟たちがいるふりなんかして。」
「エイミー、やめなさい……」
「とっくに双子なんていないってわかってるくせに。」
「エイミー!」
「あなた、おかしいわ……」
「おかしくない。」
 口の端からごぼりと血がこぼれ出す。
「エイミー、やめなさい!」
「いもしない双子の幻影なんかにすがり続けてるほうがおかしいんだよ!」
「エイミー、お前がおかしい。謝りなさい!」
「私はおかしくなんてない!」
「あなた、悪魔が憑いてるのね!」
 バン、とグラスがはじけた。
 救えない。この家は、もう救えない。
 ふらふらとダイニングを出る。手足がガクガクと震えてうまく歩けない。ふと振り返ると、鏡に映った自分が見えた。そして、気付いた。あのゲイリーという人の目にあった翳りをどこで見たのかを。
 それは、自分の眼の中にあった。
5.    家(事件)
 椅子に縛り付けられ、どこかからやってきた大人たちが私に向かって聖書を読み上げている。無性におかしくて笑い声をあげると、自分のものじゃないノイズが混じる。薬が切れたせいだろうか、やけに息苦しくて体が震える。なんで神父さまなんか呼んできたんだろう。ふたりとも、神様なんて信じていないくせに。いつもそうだ。ずっとそうだ。救ってもくれない幻影を、偽りの救いを信じ続けるなんてあまりにも哀れだ。そういえば、結局なんの役にも立たなかった、アフリカに派遣された神父さまの手紙は地下のどこに置いたっけ?口が勝手になにかを叫ぶ。体は震え、熱く苦しい。なのに心だけは、��くほど静かだった。
 一人きりになった年長の神父さまがなにかを唱え、十字架を掲げる。途端に体が燃えるように熱くなり、胸の奥に蠢く何者かごと圧し潰そうとしてくる力を感じる。今までのものとは比べ物にならないほど苦しい。胸の奥の「それ」が苦しみ外に出ようと滅茶苦茶に暴れ出す。口から聞いたこともない悪態の言葉が飛び出す。苦しい。死んでしまいそうだ。でもまだ死にたくない。神父さまのほうを見上げると、その表情は力強くまったく揺るがない。だめだ。私では勝てない。このままでは圧し潰される。まわりを見渡すと、奥にマネキンたちが見えた。視線を強く向ける。自分とマネキンの間に繋がりを感じ、触ってはいないけど手ごたえがある。そのまま引っ張るように顔を引き上げると、がしゃんとマネキンが倒れた。警戒しながら神父さまが振り返る。めくれた布の間から、異様に精巧で生気のない、まったく同じ表情をした二つの少年の顔が覗く。神父さまの眼に一瞬、戸惑いと疑念が浮かんだ。それで十分だった。
 胸の奥の「それ」が無限の力を貸してくれる。私には何をすべきか分かっていた。
 手に力を入れるだけで、それはあっけなく終わった。 
 ブレーカーの方に視線を向ければ、バチン、と音を立てて家の中が暗くなる。明かりはなく真っ暗だけど、私には家のすべてが見えている。足を踏み出さなくても、どこへでも移動できる。この家は、いまや私の手中にある。なぜなら私が、私だけが、この家の真実を知っているからだ。
 暗闇の中、私の手がずぶずぶと人の体に沈んでいく。粘土細工をこねるようにかき混ぜる。内臓が引き千切れる音がしようとも、断末魔の叫びが響こうとも、私の心はずっと静かなままだった。
6.    家(対面)
 家中の電気がすべて落ちても、月明かりが差し込むこの屋根裏だけはほんのりと明るい。差し向かいに立つ若い方の神父さまの顔は、けれど屋根の影になっていて私には見えない。
「戻ろう、エイミー。君は良くならないと。」
 良くなるってなんだろう?これ以上、いったい何が良くなるというのだろう?若い神父さまの言葉は弱くて偽りだらけで頼りない。誰かを救うにはまったく足りない。視線は揺らぎ、握った十字架は小刻みに震えている。それでも一歩こちらに近づいた神父さまの顔を月明かりが照らす。その眼の中には、見覚えのある翳りがある。見つけた。
「あなたはメレディスを救えなかった。違う?あの人はいま、私と同じところにいるんだよ。」
「やめてくれ。」
 神父さまの体がぶるぶると震えはじめる。やっぱりだ。これでいい。この人の言葉は、心はあまりに脆い。大きいのは図体だけ。掲げられた十字架も怖くはない。十字架を見た胸の奥の「それ」が騒ぎ出す。自分の体が勝手に動き、よじれ、眩暈がするなかで、神父さまの眼の奥すべてが恐怖に呑み込まれるのが見えた。これで終わりだ。
 手を伸ばすと、急にまばゆい光が目の前ではじけた。
 頭を強く打ったのだろうか、気が付いたら床に仰向けで横たわっていた。右手と左足がありえない方向にねじ曲がっている。傷はついていないのに、血が鼻と口からだらだらと流れ出す。あの神父さまは、入口の奥に積み重なったマネキンの向こうにいるのか、もう見えない。激痛の中をぼんやりと漂っていると、急にわかった。
『私はおかしい。』
 すべてから裏切られた気がした。すべてを失ったのだと知った。
 この家で、屋根裏の窓から見える月だけが好きだった。月はいま、目から流れる血で赤く染まっていた。
7.    病院
 ずっと頭がぼんやりとしている。麻酔、鎮痛剤、抑制剤、見舞いに来たクリニックのメンバーが差し入れる薬。あの日から、私の体はよくわからない薬漬けとなっている。時の流れももうよくわからない。混濁と覚醒を繰り返しながら、時折体の、心の激痛に叫ぶ。そしてほんの束の間、はっきりと物事がわかる時がある。
 親戚は一度だけ面会に来て、二度と姿を見せなかった。当たり前だけど見放されたのだろう。病院の先生たちも、重罪を犯し、よくなる見込みもなく、うわ言しか言えなくなった私を哀れな厄介者としか見ていなかった。頻繁に見舞いに来るクリニックのメンバーたち、彼らのことはもう信用できなかった。けれど、すべてから見放された私を気にかけているのは彼らだけだった。先生たちも、親切で情け深い友人たちとして、あの人たちを何の躊躇もなく病室に入れた。そして彼らはいつもなにかを唱え、大量の薬を渡して帰っていった。
 私の体はじょじょに腐っていくようだ。悪臭でも放つかのように。まともな人は誰も私に近づかない。私はまともじゃない。私はおかしい。ずっと。ずっと前から。そういえばあの人はどうなったろう?だれも救えないあの神父さまは。わからない。わからない?なぜあの人は助けられた?どうして私はこんなことになった?始まりはどこ?始まらない道はあった?私はとっくに終わってる。終わってるのに終わらない。私の終わりはどこにあるのだろう。
8. 儀式
 目覚めると、いつもは外から施錠されている病室の扉が開いていた。変な気がした。なんでもいいから、この場所から出たかった。ずっとまともに動かせなかった体はふらつき、足はおぼつかない。あせらずに歩く。一歩ずつ進んでいく。
 あの場所に戻らなければいけない。家に帰らなければいけない。あの場所だけが、私の終わりで、私の始まりだ。あの場所できっと、私に手を下してくれる人が待っている。手を差し出してくれる人はいなくても。
 わき目もふらず、まっすぐ歩いていく。と、急に手を引かれる。その手は赤く染まっていた。
 体が動かない。おぼえのある気怠さが体全体を覆っている。顔になにか被せられている。内側になにか塗られているのかドロドロして気持ち悪い。皮膚が溶けていくように熱い気もするけど、感覚がなくなってよくわからない。もう喋れない。もう動けない。私はどこまでも降りていく。ここが本当の終わりだろうか。ちがう。いやだ。ここじゃない。顔からなにか引き剥がされ、息をのむ音が聞こえる。赤い人影は見分けがつかない。ろうそくの灯のなか、まばゆく光るナイフが見える。目が痛くてほかに何も見えない。あの煌めきの先に私の終わりは、私の救いはあるのだろうか。
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あとがき
あるいは、失われた断片について。
エイミーに何回もMortisさせられ、この娘はなんでこんなに強いん?と思ったので書きました。書いてみて、これじゃ100回Mortisさせられても文句言えないなあと納得したので、満足です。
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つよつよ悪魔になったら楽しく悪魔ライフをエンジョイしていてほしい。
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petapeta · 10 months
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ニューヨーク州アンゴラで生まれる。時計やミシンなどの修理を趣味としていた。数学が得意で、1895年にコーネル大学に進み、1901年に機械工学の学士号を得て卒業。その後、ヒーター、ブロワー、換気システムなどを作る企業 Buffalo Forge Company に入社し、ヒーター部門で材木やコーヒー豆を乾燥させるヒーターシステムの設計に従事した。 1902年7月17日、ニューヨーク州バッファローで働いていたころ、ブルックリン区の Sackett-Wilhelms Lithographing & Publishing Company に納入した装置に品質問題が発生し、その対策としてキャリアが書いて送った設計図が後に世界初のエア・コンディショナーと呼ばれることになった。この1902年に設置された装置は湿度制御を追加したものだったことから、これをエア・コンディショナーの誕生とする。一般に空気調和には次の4つの機能が必要である。 温度制御 湿度制御 空気循環と換気の制御 空気清浄化 さらに数年間改良と実地試験を重ね、1906年1月2日、キャリアは自身の発明の特許(米国特許番号 808897)を取得し、この世界初の噴霧式空調装置を "Apparatus for Treating Air"(空気を取り扱う装置)と呼んだ。水を加熱したり冷却したりすることで加湿と除湿ができるよう設計されている。この装置の1号機は1906年末に LaCrosse National Bank に納入された。 1906年、キャリアは結露し始める温度(露点温度)と湿度には比例関係があることを発見した。この発見に基づき新たに自動制御システムを設計し、1907年5月17日にその特許を出願。1914年2月3日にその特許を取得した(米国特許番号 1,085,971)。このためキャリアは「露点制御」の発明者でもある。 1911年12月3日、アメリカ機械工学会の年次会合で、キャリアは空気調和における最も重要かつ画期的な論文 "Rational Psychrometric Formulae" を発表した。この論文は、相対湿度、絶対湿度、露点温度の3者の概念を互いに結びつけたもので、与えられた条件に合うように空調装置を設計することを可能にするものだった。 会社設立[編集] 1914年に第一次世界大戦が始まると、キャリアが12年間勤めていた Buffalo Forge Company は新規開発をやめ、製造のみに特化することを決めた。このため、キャリアを含む7人の若い技術者が貯金を集め、32,600ドルで会社を設立した。これが Carrier Engineering Corporation で、1915年6月26日にニューヨーク州で設立したが、間もなくニュージャージー州ニューアークに移転した。 遠心形冷蔵機を開発し、1920年代には建物の冷房のための空気調和設備の市場が急激に成長したが、1929年10月のウォール街大暴落の影響で会社は財政的に行き詰まった。翌1930年、同社は Brunswick-Kroeschell Company と York Heating & Ventilating Corporation と合併してキヤリア社 (Carrier Corporation) となり、ウィリス・キャリアは会長に就任した。 ニュージャージー州やペンシルベニア州の4つの都市に拠点を持つようになり、1937年にはニューヨーク州シラキュースに本社を移転した。ニューヨーク州では最大の雇用を生み出した企業の1つとなった。1930年には日本に東洋キヤリア工業株式会社を設立している。朝鮮半島にも工場を設立した。 世界恐慌によって空調設備の導入は遅れることになった。ウィリス・キャリアは1939年のニューヨーク万国博覧会で未来の空調を展示したが、それによって空調設備の人気が回復する以前に第二次世界大戦が始まった。戦後になり、やっと空調設備市場が急速に発展することになった。 キヤリア社は大型の冷蔵庫の設計製造を最初に始めた会社である。また、空調の進歩により産業全体の夏季の工業生産能力が大幅に改善された。また、1920年代から住宅用空調設備が導入されたことで、サンベルトへの移住が促進された。同社は1980年にユナイテッド・テクノロジーズの傘下となった。キヤリア社は今も空調や冷蔵の分野で世界をリードしている。2007年の売り上げは150億ドル以上で、従業員数は約45,000名である。
ウィリス・キャリア - Wikipedia
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maigochan · 4 months
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2023/12/27
たんぽぽがのったしゃぼん玉をミシン針で割るおしごとを当欠した。ごめんなさい。
これからJ・K・ローリングのやつみてせめてもの償いにお部屋の片付けをする。したい。おふとんから出たい。枕元にみかんを転がしていたので栄養と水分は摂取できていますが……。
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harawata44 · 9 months
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マグネットみたいに使える。ダイソーの「水洗いで粘着力が復活するテープ」が便利すぎた話 | ギズモード・ジャパン
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以下、一部引用
両面粘着ゲルテープは、「KAERU」の名前のとおり、プニプニとしたポリウレタン製で引っ張るとよく伸びる柔らかい素材。 弱粘着の両面テープで、いろいろな場所に吸盤のようにペタッと貼り付けることができます。
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ミシン目などはないので、ハサミで好きな長さにカットして使います。 素材感は、耐震ゲルが薄くなったような感じ、というと伝わるでしょうか?写真では厚みが分かりやすいようフィルムを剥がしていますが、実際は使いたい場所に貼ってから剥がすとスムーズです。
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ふせんよりもしっかりくっつくので、PCディスプレイの端っこなどをメモスペースにしても◎。 取りたいときも片手でペラっと取れるので、気軽に貼り付けられて便利です。 弱粘着なので、凹凸が少なければ壁紙にも貼れるのがいいところ。 剝がしても壁紙を傷めたり糊跡が残ったりする心配もありません。
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しばらく使っていると、どうしてもホコリや繊維がついて接着力が落ちてしまいますが、そんなときも、水洗いすれば粘着力が復活! 水気が残っているとくっつかないので、キッチンペーパーなど繊維がつかないものでそっと押さえるか、ザルの上において自然乾燥させるのがおすすめです。
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cavane · 1 year
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klause Overallsオーバーオール / kla-23001 + C.S.P.O SHIRTS / kla-23005 + SHOULDER BAG(HARD)マチなしS/ kla-23013 made in Japan クロイゼより東欧の国ベラルーシで織り上げられた平織りリネン素材を使用したオーバーオール 独特の粗野感のあるリネンファブリックでヴィンテージ味のある装いとなります。 着用する度にくたっと馴染み、また、柔らかさが増します。 鞄は、カーブ部分はどこから見てもキレイな曲線的な仕上がりとなっております。 全て手縫いとミシン縫いをミックスして仕上げた革鞄 詳細は下記よりオンラインストアをご利用下さいませ。 Please the contact below for more information on cavane https://cavane.shop ・ ・ klause NO : kla-23001 ITEM : Overallsオーバーオール TYPE : women・men SIZE : F COLOR : NATURAL ・ ・ klause NO : kla-23005 ITEM : C.S.P.O SHIRTS TYPE : women・men SIZE : M・L COLOR : BLACK STOCK:1 ・ ・ klause NO : kla-23013 ITEM : SHOULDER BAG(HARD)マチなしS TYPE : women・men SIZE : Small COLOR : DARK BROWN STOCK:1 ------------------------------------------------------- New brand... klause_ Hideki Ishihara 1900 年代前半~中盤の市井の人々の暮らしの中の服をデザインソースとして構築。 シンプルなデザインの中にも、そういった昔のデザインや技術、雰囲気を僅かながらも取り入れたいと考えて製作しています。 klauseの名前の由来は、 東スイス地方の風習でシルベスター(大晦日)に行われる祭典、「シルベスタークロイゼ」でマスクをつけて歩く精霊の偶像を”クロイゼ”Kläuseと呼び、 「美 «Schöne»」「醜い «Wüeschte»」「自然(または森)« Natur(Wald) » 」という3つの偶像が町を練り歩く習慣があります。 東北地方のなまはげに近い祭りで、何事もなく1年を過ごせた事を祝い称える祭りです。 その祭りの名前や雰囲気を直感的に気に入ったというのが一番大きいのですが、”クロイゼ(kläuse)”という偶像が、長年の間に東スイス地方で生きてきた人々の内面(情熱や誇り、希望など)から出てきたように、自分の感じた、ありのままを製作したいという思いや美しいものをより美しくというよりも、それら(素材やパターンニング、縫製、今の雰囲気など)を自然なかたちで表現したいという思いがあり、この名前を付けました。 ------------------------------------------------------- カジュアルなスタイルから、クラシック・ヴィンテージまで幅広いテイストに溶け込むデザインとなります。 ※ 当サイト内画像の無断転載はご遠慮ください。 画像等の無許可の転載、複製、転用等は法律により罰せられます。 ※ Unauthorized copying and replication of the contents of this site, text and images are strictly prohibited. ・ ・ #cavane #klause #leatherbag #classic #artisan #handsewing #handmade #fashionphoto #vintage #Overalls #Belaruslinen #ベラルーシリネン #ヴィンテージ #革鞄 #コンパクトバッグ #オイルドレザー #クロイゼ #手縫い #カウレザー #23ss (Cavane) https://www.instagram.com/p/CoWY9rDPJJL/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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itokara · 9 months
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20230731
アツイアツイ言ってたら7月も終わり。
でもまだ7月だった🥵💦
明日からは8月夏本番ですねー!
今日は涼しいアコさんのかぎ針編み教室のすみっこで
ミシンさせて貰いました。
アコさんの黄色いフリルも可愛かった。
(色黒の私にも似合いそうw)
お客様が編んでた黒の四角も可愛い!
これ、もしかして何色で編んでもかわいいのかも。
夏だし。
色んな色で編んでみてください〜!
初心者の方には少し難しいかもですが
頑張って編んだ方もいらっしゃるので
挑戦してみたい方はかぎ針編み部に参加してみてくださいね!
あーアツイアツイ💦
今日もお疲れ様でした。
#hibi #news
#crochet #knit #knitting
#sasawashi #かぎ針編み #かぎ針
#手編み #編み物 #糸 #yarn
#손뜨개 #코바늘 #털실 #뜨개질
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cotton-milkyway · 10 months
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カフェカーテンヘッド入荷
7c巾と9c巾
オフホワイトとキナリ
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お気に入りの花柄やレース布
3辺の布端を
テープ又はミシンで始末
上部に穴あきヘッドテープを
貼り付け又は縫い付けて
棒に通して出来上り
窓にあった丈・プリーツのゆとり
ご自由のsizeでお作り下さい
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水に強い布用両面テープ
10mm巾✕20m巻
布接着後、あて布して中温でアイロンをあてると接着力が強くなります 
すそ上げ・衣装・カフェカーテンに
おすすめです
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someones-voice-2021 · 11 months
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#05 中沢レイ
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一日の流れ
朝は6時半くらいに起きて朝ご飯とお弁当をつくります。家は私と息子と私の母の3人暮らしです。息子に持病があって、12時間おきに飲まなきゃいけない薬があるので、彼が寝てようが何してようが飲ませてから出かけます。職場は三重県内の市役所で、移住関係の仕事をしています。非常勤で働いてもうすぐ3年になります。
家から市役所までは車で山道を走って40分ぐらいで、道が混んでいたら小一時間ぐらいかかるときもありますね。仕事は17時15分までで、時間になったらすぐ家に帰ります。以前、息子と二人で暮らしていたときは夕飯のお弁当を買って帰っていましたが、今は母親が夕飯の支度をしてくれているので、それをありがたくいただいています。夕食後はだいたいぼーっとスマホを見たりして、気づくと2時間ぐらい経ってたりします。息子はゲームが好きで、夜はゲームのコアタイムだから私とは全然話をしてくれないんですよ。みんなが思い思いに過ごしているのを確認してからお風呂に入って、寝るのは23時ぐらいです。
市役所の仕事のほかにヨガを教える仕事もしていて、レッスンがあるときは、仕事のあと家に一旦帰って晩ごはんを食べて、借りているレッスン場に出かけます。土曜日はバレエ教室で子どもたちにコンテンポラリーダンスを教えています。ダンスというか、キャッキャ言いながら自由に動いたり、何でも試してみようというクラスですね。日曜は基本的に休みですが、移住の仕事は土日にイベントがあることが多いので、結構出張したりもしています。空いている日は子どもと一緒に過ごそうと、何をするわけじゃないけど、家にいるようにしています。
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生い立ち
生まれは岐阜県岐阜市です。母方の祖父母が縫製業を営んでいて、一家総出で服をつくっていました。両親は朝から晩まで、すごくうるさい工業用ミシンを踏んでいて、家には有名なブランドの布が置いてありました。だけど、私が小学校1、2年生の頃に景気が悪くなったのか、父が仕事を辞めて養鶏場に働きに出���ようになりました。それまでは家にずっと親がいたけど、突然鍵っ子になって、弟は泣いていましたね。姉である自分はしっかりしなくちゃと思っていた記憶があります。
中学3年のときに親が頑張って家を建てて、引っ越しをしたんですよ。私は転校もしたんだけど、ある日修学旅行から帰ってきたら両親に「離婚するわ」って言われて。私から見たら仲は悪くなかったんだけど、実際はそうじゃなかったみたいです。せっかく建てた新居も出ることになって、その家は私の叔母さんが住むことになりました。弟は父に、私は母についていくことになったんですが、母の家に引っ越すと中学校を変わらなきゃいけないと言われたので、卒業までは叔母さんのもとで居候をしていました。叔母さんは私のことをかわいがってくれて、叔母さんというよりお姉さんという感じでした。
母は家を留守にしがちだったので、高校からは一人暮らしのような感じでした。家の下がうどん屋さんだったので、母が置いていったお金で天丼の出前を頼んだりしていました。高校3年のときに母が再婚して新しい家族ができましたが、私はもう高校生だし「あなたたちとは関わらないので」と言って、学校もあまり行かずに好きなように過ごしていました。高校卒業後は好きな英語を勉強するために、英語の専門学校に入りました。
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仕事のこと
私が専門学校に入った頃は超バブルの時代で、成績が良い子は先生の薦めで在学中から証券会社とか銀行に就職するんですよ。私も1年の終わりには学校に籍を置きながら商社で働きはじめました。同じころ、音楽をやっている友だちから「岐阜放送っていうラジオ局で話す人を探してるんだけど」と言われて。当時はバイリンガルのDJが流行っていて、私が英語を話せると思って声をかけてくれたんですね。実際はそんなに話せないんだけど、洋楽を聴いていたからそれっぽくは話せるんです(笑)。それでラジオ番組のDJをやることになりました。商社は1年勤めて辞めました。
田舎の放送局だけど案外仕事はありました。レコード会社の人がプロモーションで名古屋に来たときに、そんなに回るところがないから岐阜放送まで来てくれるんですよ。「若くてちょっと変わった子がいる」みたいな感じでいろんな人に良くしてもらって、外タレのアーティストに直接インタビューさせてもらったりもしましたね。でも、DJとかタレントになりたいという気持ちはまったくなかったです。どちらかと言うと裏方や制作をやりたくて、19歳ぐらいから台本や企画書を書いたりしていました。自分の番組では選曲も全部自分でやっていたし、そうした仕事が周囲に伝わって愛知や東京でもDJをやるようになりました。
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踊りのこと ラジオと平行してやっていたのが、幼少期から続けていたダンスです。うちの親は全然そういう素養はなかったんですが、私が幼稚園のころに「バレエをやりたい」と言ったみたいで、母が習わせてくれました。ただ、習っていた先生が怪我をしてバレエをやめることになってしまい、次に入ったのがモダンダンスの教室でした。少しして「これはバレエじゃない」って気づいたんですが、それがかえって良かったんです。というのも、その先生は生徒にお手本を見せないんです。「シュッとなってパッよ」というふうに擬音で振り付けをするので、みんなそれぞれの「シュッとなってパッ」をやるんですね。中学高校と、その先生のもとでダンスを続けました。
あるとき、名古屋で開かれたダンスの大きなコンクールに通訳として参加したんですが、そこで出会ったのが(舞踏家の故・)和栗由紀夫さんです。和栗さんに「お前、踊りやってるのか。うちに遊びにこいよ」と言われて、東京に行ったら板橋にあった和栗さんの家に遊びにいくようになりました。ある日、和栗さんの家に行ったら、ベニヤ板を2枚出してきて、「ここに座って」と言われて。言われたとおり座ったら今度は「右手をこう出してみな。左手は上から出して。これが閉じてさ、開くんだよ」とか言われて。「こうですか?」みたいな。それで「今度舞台やるんだけど出ない?」とくるわけです(笑)。
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それで出演したのが、新宿���パークタワーホールでやった和栗さんの『エローラ〜石の夢』という作品です。その後、和栗さんが主宰していた「好善社」に入るとともに、東京に引っ越してきました。好善社の男の人たちは、それまでダンスをやったことがなくて突然踊りを始めているから、発想がとても面白かったんですよ。そこから結局6、7年は東京に住んでいたと思います。
その後、もう踊りはやめようと思うことがあって、カポエィラに打ち込んでブラジルに行ったりもしました。ダンスの世界は、なんだかんだ言って身体を動かすことが得意な人しか入ってこないけど、カポエィラは、趣味でやってますみたいなお姉さんとか、イケイケの男の子とか、格闘技好きのオタクっぽい子とか、いろんな人がいるんです。一般社会では絶対に仲良くならないような人たちが嬉しそうに一緒にやっているのがすごくいいんですよね。でも、ブラジルにいたとき、テレビから流れてきた音楽に合わせて、やめたつもりの踊りをふと踊っていたときがあって、やっぱり踊りはやめられずにいます。
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妊娠・出産
出産したのは38歳のときです。妊娠がわかったときは、当時結婚していた夫とフランスに住んでいました。日本では私がダンスをやっていると言うと、初対面の人にさえ「いつまでそんなことやってるの」と言われたりしましたが、フランスではまったく逆で、みんな興味を持ってくれました。現地の人たちと仲良くなって一緒に作品をつくったり、小劇場で即興の企画をやったりもしましたが、一方で自分の底が知れた感じもあって、妊娠を機に日本に帰ることに決めました。
出産はだいぶ時間がかかって大変でした。それでも元気に生まれて良かったと思っていたんですが、生まれてからがさらに大変だったんです。とにかく夜まったく寝なくて、ベッドに置いたらどれだけ寝ていても起きて泣いて……。子どもってそんなもんなのかなと思ってたけど、自分も寝れないから信じられないくらい痩せてしまって、布団で寝ていても背骨が痛くなってしまうほどでした。夫は仕事に行ったきりほとんど帰ってこなくて、赤ちゃんと二人暮らしみたいな感じです。しかも、夫の希望で都内からもう少し田舎に引っ越すことになって、それまでは遊びに来てくれた人たちも来れなくなって、本当に孤独になってしまいました。
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それでも息子を地元の幼稚園に入れてなんとか生活していたんですが、2011年の1月末に、幼稚園に息子を迎えにいったら、先生から息子の様子がおかしかったと言われました。確かに、家に帰っても何もしゃべらないし、ご飯も食べないんです。病院に連れていって、インフルエンザの検査をしたりしたけどなんともなくて。食塩水を点滴してもらって、ちょっと良くなったように見えたんですが、次の日にはもっと具合が悪くなってしまって。抱っこしたらびっくりするぐらい重たくて、これはおかしいと思いました。
再度病院に行って尿検査をしたら、測れないぐらいたんぱくが出ていて、大きな病院に行くように言われました。行った先で「これはネフローゼという病気で、治療に長い時間がかかります」と言われて、そのまま入院です。ステロイドを大量投与する治療をはじめたんですが、息子はステロイドを半量に減らしたところで再発してしまい、それから一切ステロイドが効かなくなってしまいました。
これはもう救急車で運ばなければという状態になってしまって、埼玉から東京の世田谷にある成育医療研究センターに救急車で運ばれて入院しました。それが2011年の3月11日です。病院について、しばらくしたらダアーッと揺れて点滴は倒れるわ、壁に亀裂が走るわで大パニックです。しかも原発事故で放射能がどうこう言われていたから、ガラケーで一生懸命情報を調べました。食事も大変で、子どもには病院食が出るけど、自分の食事は出ないからコンビニに行くんだけど食料がないんです。なんとかゲットしたパンひとつで一日過ごすなんてこともありました。
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生きていてほしい
入院して息子の具合は良くなるどころか、同室の子から風邪をもらったのがきっかけで敗血症になってしまいました。ICUに入って人工呼吸器をつけられて、カテーテルを入れられて……まだ小さくて暴れてしまうので、鎮静をかけられて眠らされていました。そんな息子の姿を見たときに、親としてこんなことを言っていいかわからないけど、この子は何ヶ月も苦しんできて、これ以上苦しむなら、楽になって逝ってしまった方がいいのかなとも思いました。
でもあるとき、私が「今日はもう帰るね」と言ったら、小さくイヤイヤしたんです。鎮静をかけられていて目は開かないけど、耳は聞こえていたみたいで。ICUで隣だった女の子も、私からすると寝てるだけに見えるんだけど、その子のお母さんが「この子は嵐が好きなのよ」と言って、嵐の曲をかけると「喜んでる」って嬉しそうにするんですよね。それまで私は、寝たきりの人や重い障がいのある人が生き続けるのってどうなんだろうと正直思っていたんです。
だけど、1ヶ月ぐらい経つと、嬉しそうな感じがするとか、これは嫌なんだなって分かるようになるんです。それで、やっぱり息子には生きててほしいって思うようになりました。なんて言っていいかわからないけど、何もできなくても生きているという事実が目の前にあるだけで、周りの人が安心するというか。息子がイヤイヤする姿を見て「ああ、とにかく頑張るしかないな」って思ったんです。息子の病気をきっかけに、私の考えはすごく変わりました。
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やってみたいこと
治療は長くかかりましたが、幸い息子に合う免疫抑制剤が見つかって、1年くらいかけて普通の暮らしができるぐらいまで回復しました。何かあったときのために、そのまま入院しておくこともできたけど、外に連れていこうと思って思い切って退院させました。その後、息子が4歳になる前に埼玉から三重に移住して、間もなく夫とも離婚しました。 息子は小学校4年生ごろに自閉スペクトラム症の診断を受けて、学校生活も苦労しましたね。小学校1年生からずっと行き渋りで、6年生まで毎日送迎していました。下駄箱でしばらく入れずにいるのですが、なんとか中に入っていくのを確かめてから自宅に戻り、学校からの電話があるといけないので待機していました。中学3年間は完全不登校でしたが、この春から通信制の高校生になりました。
息子が東京で入院していたときは、家と病院が離れていたので、病院の近くにある(ドナルド・)マクドナルド・ハウスという入院患者の家族のための施設で寝泊まりしていました。そこには、地方から出てきて泊まり込みで付き添いをしているお母さんたちがいて、中には子どもが生まれてから10年間そういう暮らしをしている人もいました。みんな自分のことは置き去りで子どもに付き添っているんです。
そういうお母さんたちのために何かできないかと思ったけど、「ダンスしましょう」とは言えないじゃないですか。「ダンスなんてハードルが高いし、そんな気分じゃないわよ」って言われると思うんですよね。でも、みなさんマッサージとかにはお金を払って通っていたので、ヨガだったらやってもらえるかなと思って。これまでも障がい者施設や高齢者施設ではヨガやダンスをやってきましたが、病気の子どもたちに付き添っているお母さんのためのヨガも、いつか実現したいことのひとつです。
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みんなに場をつくりたい
私は踊るのは好きだけど、舞台の真ん中で踊りたいとは案外思っていないんですよ。私が踊りをやるのは「みんなに場をつくりたい」からです。1998年に「オービタルリンク」という即興のイベントをはじめたのも、あらゆるジャンルのパフォーマーが自分の表現を模索しながら、やる側も観る側もジャンルの垣根を超えて出会ってほしいという思いがあったからです。ラジオDJをしていたときも、自分が面白いと思ったら無名の人でもゲストに呼んだりしていましたからね。当時から今にいたるまで、やっていることは変わらないと思います。
今日撮影をしたアトリエ第Q藝術も、大きすぎない規模だからこそ「個人」が見えて好きなんです。劇場が大きくなればなるほど、後ろの方まで届くように表現しようと思って動きが大きくなり、身体の動きだけを見せることになることが多いと思うんです。そうすると結局、どれも同じような作品になってしまうというか。私は、踊りの完成度はどうでもよくて、その人が踊りを通して「本当のこと」を言ってるかどうかを知りたいんです。そういうことが見えるのは、このぐらいの規模の劇場かなと思います。チーフディレクターの早川誠司さんには以前からお世話になっているし、舞踏や演劇関係の友だちもよくここで公演をしているので、私のルーツのような場所でもありますね。
人生って、「あのときあそこに行ってなかったらあの人に出会ってない」とか、そんなことばかりじゃないですか。でも本当に好きなことを続けていたら、絶対にまた元のところに戻ってくるし、ずっと会っていなかった人ともまた会えるんですよね。もっと別の仕事をする機会も、別の人と付き合う機会もあったろうけど、そのときの自分がそれをやりたくて選んだんだしなって。自分は、いつも「こういうことを考えている人がいるなら、こういう場所をつくったらいいんじゃないかな」と思って、場所をつくって人と人をつなげてきたんですよね。さらに、自分の場合はそこに「踊り」がありました。そうしてここまでやってきて、今の自分があると思います。
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(2023年3月26日収録) 取材協力=アトリエ第Q藝術
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sa-rahmarket · 1 year
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現在書店で販売されている、NHK出版『すてきにハンドメイド4月号』に、バルーンパンツを掲載していただいております。 動きやすくておしゃれなパンツ。 ロングタイプは、足元をクルクルと折り上げると、軽やかなスタイルにも変わります。 他の作家さんも、春のお出かけにぴったりのアイテムをご紹介されていますよ。 ぜひ、手に取ってご覧下さいませ◎ Posted @ withregram • @nhkpb_handmade 大特集! 春のソーイング 今日は一気に3作品ご紹介します🌷 🌸ポケットがポイント! すっきりバルーンパンツ(帽子千秋) すそに向けて緩やかに絞られたシルエットのバルーンパンツ。 ウエストゴムで動きやすく、ポケットもたくさん。特に後ろポケットは、大きさと位置に秘密が! (テキスト4月号p.18~) 🌸たっぷりそでのブラウス&ワンピース(中野ユカリ) ボリューム感たっぷりのそでが印象的なブラウス&ワンピース。春のお出かけに重宝する1着を作ってみませんか? 🌸デニムのコートワンピース(かたやまゆうこ) デニムで作った前あきのワンピース。程よい厚みがある生地で、落ち感が出てすっきりと見えます。 そのまま着たり、ボタンを留めずにコートとして着たりと、いろいろなおしゃれを楽しみましょう。 #中野ユカリ #かたやまゆうこ #帽子千秋 #ワンピース #手作りワンピース #ブラウス #手作りブラウス #パンツ #手作りパンツ #ミシン #ミシン部 #ソーイング #洋裁 #ハンドメイド大人服 #ハンドメイド好きさんと繋がりたい #すてきにハンドメイド4月号 #すてハン #すてきにハンドメイド @couturier_sewing @katagamisewing @chiaki_boshi (Sa-Rah) https://www.instagram.com/p/CqZHfhcvyuv/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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newwaynewlife · 2 years
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たまにはヘビーな香りのブツを投下しておきます。 COVERALL 2.0 リネンで制作しているCOVERALLをベースにして、サイズ感やシルエットなどのパターンはそのままに細部のデザインを大幅に変更しました。 細かいところは現物をどこかの現場で見て頂く楽しみとして、今回あまり日の当たらない仕立てについて。 ・ このCOVERALL 2.0をはじめ、リネン以外のいわゆるメンズサイズのアイテムは7割がた全てのシームを折りふせ縫いのダブルステッチで仕立てています。 これ、工場ならおそらく巻き縫いで仕立てると思いますし、僕らもそのように指示書に書くと思います。 ある属性を持った人には憧れがあるんですね、巻き縫いに。 巻き縫いはジーンズやワークウェアなどによく使われる仕立てで、布端を巻き込んで表からたたく縫い方です。「巻き縫いラッパ」と呼ばれるアタッチメントが付いたフリーアームの2本針ダブルステッチミシンで縫われます。(工業用ミシンを買えばこの「ラッパ」を付けられると思っていたのですが、どうも専用のミシンっぽくてガッカリしましたよ) で、このミシンかなり熟練しないと上手く縫えないらしいのですが、量産の現場ではコレで布端の処理をしながらステッチによってパーツを縫い付けて一気に終わらせるのです。 お察しの通り、うちにはこのミシンは無いので、より丁寧で手間のかかる折りふせ縫いで仕立てています。 これは本縫いをした後に、アイロンで片返しにし、巻かれる方の縫い代をカットし、巻く方の縫い代を折って、ステッチで留めていく縫い方です。これをシングルステッチのミシンで縫うので、同じ箇所に3回ミシンをかけることになります。 よく分からないけど時間がかかりそうなことはお分かり頂けたでしょうか。時間をかければ良いモノじゃないですしコストも上がりますが、デザイン性や耐久性そして自分の好み(これが最重要)でこうなっています。 こういうものにもお付き合いして下さる方々、 引き続きよろしくお願い致します。 ちなみに前回シェアした画像のノーカラージャケットは全て袋縫い(フレンチシーム)で仕立てています。袋縫いは表にステッチが出ないのでスッキリと上品に見えるのです。手間は折りふせ縫い並にかかります。 それでは。 #nwnl #newwaynewlife #coverall #jacket #カバーオール #クラフト https://www.instagram.com/p/CiUwhMVP97G/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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blueberryfactory · 2 years
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WEBSHOP #STORES 出品アップしました。 鳥さん好きには たまらない🎵 可愛いプリントで パクパク鍋つかみ キッチンが明るくなって 元気が出そうなアイテムです。 プレゼントにも いかがですか? アトリエでは 手にとってご覧いただけます。 お気軽にお問い合わせしてくださいね♥ ⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐ お友達同士で ワンディショップや ミニイベントや ワークショップに スペースレンタルしています。 お問い合わせはお気軽に ⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐ 大阪市東住吉区桑津1-32-21 ブラウンタイルのレトロビル2階 #BLUEBERRYFACTORY 🔵気まぐれランチタイムに更新中 🔵お気軽にフォローお願いします #ブルーベリーファクトリー #blueberryfactory #アトリエ #貸しスペース #作業部屋 #東住吉区 #天王寺 #ワークショップ #出店者募集 #ハンドメイド好きさんと繋がりたい #ハンドメイドイベント #ミシン部屋 #ハギレ活用 #ミシンワーク #handmade #アトリエシェア可能 #作業部屋シェア可能 https://www.instagram.com/p/CeFbGu-vVRV/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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canty-essay · 2 years
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60代からのソーイング
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 最近、「60代からのソーイング」という本を教科書にして、服作りにはまっている。まあ、はまっている、というほど作ってはいないのだが、この夏2枚のワンピースを「いい感じ」で作ることができた。今までにも、ワンピースやブラウスは自己流で作ってきたのだが、この本の通りに作ると実にスムーズに作れる。
 この本との最初の出会いは本屋さんで、まだ私は50代の終わりだったのだか、ふと手に取ったこの本の「作り方」のページがカラーで大きくて見やすかった。
 当時東京に住んでいた私の楽しみのひとつは、大型書店の「手芸・ソーイング」コーナーに行って、最近の手芸・ソーイング事情を時々チェックすることだった。
手芸は刺繍でも編み物でもやり尽くされていると思いきや、後から後からいくらでも新しい切り口で、魅力的な写真とともに出版される。ソーイングの方はいかに簡単にステキな服が作れるか、ということに主眼が置かれて、やはり次から次へと出版される。
 思えば、昔の服作りは大変なスキルを要求されていた。小さい頃から、母が服を作るのを横から見ていたのだが、まずスタイルブックを見てどの服を作るか決めたら、後ろに載ってる白黒の小さな製図の仕方を方眼ノートに書き写し、自分のサイズに計算して型紙を起こす。布地への印つけは、たいてい「切りじつけ」といって白い糸で型紙の輪郭やダーツを縫いながら印をつけていた。母は決してはしょったり手を抜いたりせずに、きちんと工程を踏んで、身体にフィットしたすばらしい服を作っていたと思う。昔の婦人服は胸のダーツをとって、ウエストも細くくびれさせた服が主流だったのだ。
 母は服が出来上がると、残りぎれの一部を切手大に切って方眼ノートに貼り付けていた。私はその母の方眼ノートをパラパラめくって、色とりどりの小さなきれを眺めるのが好きだった。母が亡くなった後、押入れの奥から出てきた何冊もの方眼ノートは、パラパラとすると、変色したセロテープの跡のついた小きれがいくつも落ちてきた。どれも見覚えがあり、懐かしい若き母のワンピース姿が目に浮かんだ。
 さて、「私はまだ50代なんだけど」と心の中でつぶやきながら、「60代からのソーイング」を買って帰った。スタイルブックを見ながら、どれを作ろうか、生地はどれにしようかと思いを巡らすのも、またたまらなく楽しい。こんな楽しいことがあるだろうか、と思ってしまう。けれど時間だけはどんどん経ってしまう。当時の私は週に2回は両親のいるホームに通っていたし、世の中ではコロナ騒動が始まっていた。両親は相次いで亡くなり、私たち家族は山梨に移住した。
 山梨に来てから、買い物をする場所が少ないこともあって、生協に入った。いや、東京にいる時だって、子どもが生まれてからずっと生協に入っていたのだが。私はスーパーやらデパ地下で買い物するのは、時間がかかるのであまり好きではない。今までも、食べ物から日用品からパジャマや下着など、何もかも生協で買ってきた。いろんな本もまた生協で買ってきた。山梨で入った生協は、カタログを広げて見ると、東京で入っていたのとは品揃えがちょっと違うところがなんか新鮮だ。そして今度のカタログにも、わずかだが書籍のページもある。
 ある日、その書籍案内のページに「60代からのソーイング」を発見した。春夏版だった。私が買ったのは秋冬版だった。へー、懐かしい友人に久しぶりに会った気持ちだった。調べてみるとその本は年2回出版で、私が最初に買ったのはVol.4だった。今度の新しいのはVol.7だ。
 早速注文して、またあれこれ思いを巡らせる。春夏物だから、秋冬物より作りやすそうだ。母の遺した布地がいっぱいあって、どの生地でどれを作る? 楽しい時間の始まりだ。
 そんなある日、我が家から車で20分ほどのところにある、「アフリカンアートミュージアム」に出かけた。展示品のアフリカの仮面もおもしろかったのだが、ミュージアムショップに色鮮やかな布が売っているのが気になった。布地はいっぱい持っているのに、新しいものを見るとまた欲しくなる、これは一種の病気だ。
 その布は「カンガ」という、アフリカの女性���体に巻いて胸から膝までを覆う布で長方形の布で、太い額縁と中の絵があるような構図になっているのは、どの布も同じだ。そして絵のタイトルのように、スワヒリ語で「KUELEWANA KWA NDUGU NI UTAJIRI」とプリントしてある。意味は「親身になってくれる人がそばにいるのはいいものだ」とのこと。色も大好きなターコイズブルーで、これで何としてもワンピースが作りたいと思った。
 家に戻って「60代からのソーイング」春夏版を広げる。どの型だったら、カンガの柄を生かせるか。これだったら、というのが見つかり、実物大型紙をハトロン紙に写す。母が洋裁をしていた時代のスタイルブックは製図しか載っていなかったのが、今の本は逆で、製図はまず載っていない。SMLのサイズのどれかの型紙を選んで写すのだ。
 以前はそうした本の型紙をそのまま写して、生地に乗せてから周囲に縫い代を、ここは1センチ、ここは1.5センチとチャコペンで印をつけていた私だが、最近は( 以前からあった方法なのに、私が知らなかっただけかもしれないが)縫い代付きの型紙にして、縫うときにここは1.5センチの縫い代だからと、ミシンの針が落ちる板に刻印してある1.5センチの刻み線に沿って、布端から1.5センチのところを縫うというルールだ。母のやっていたような糸による切りじつけや、あるいはチャコペンで簡単に印をつけることさえ省略しているのだ。昔の服は身体にきちっと沿っていたから、厳密な印付けが必要だったが、現代はゆとりのある服を着るのが普通になっいるので、そうなったのだろう。
 「60代からのソーイング」も大きめサイズをスポンとかぶるスタイルが多く、胸のダーツを取るスタイルは少なく、ボタン開きのデザインも少ない。普段はM~Lサイズを選ぶ私だが、「60代からのソーイング」ではSを選んだ。
 縫い代付き型紙を作って布に乗せる。例の「親身になってくれる人が・・・」の文字が、ちょうど切れないようにスカートの幅いっぱいになるように置く。布のど真ん中で前身頃を取ったので、後ろ見頃は布の両端で取って、背中の真ん中ではぎを取る。でもそれを額縁の絵の両端同士をはぎ合わせて、背中にも新たな長方形を作るか、前身頃から続いているようにして、額縁の外側同士をはぐか迷ったが、前者にすることにした。残りのわずかな部分で、襟ぐりの見返しを取った。
 こうして移住一年目にして、初の「60代からのソーイング」ができた。気づけば私もちょうど60歳になっていた。母のやり方に比べれば、随分ラフな作り方だが、サイズ感もちょうどよく、これが現代にマッチした服作りなのではないだろうか。
 今までも自己流で作ってきた型紙は、一作ずつビニールに入れていた。タイトルも「何の本の何ページの服Lサイズ」などと書いたシールをビニールに貼って保存してきたが、いざ「あの型紙はどこだっけ」と探すとなかなか見つからない。みんなどうやって整理しているのかなとネットで調べると、出るわ出るわいっぱい参考になる整理法がある。
 「とにかく人間は忘れやすいので、襟だとか見返しだとか小さい型紙の全部に、何の型紙か書くこと。一枚だけ部屋に落ちていてもどの型紙とセットかすぐわかる」なるほど。型紙は畳んで、A4のクリアファイルに収めている人が多いようだ。「作り方の順番も全部書いて型紙と一緒に保存して置くと、すぐ取りかかれる」なるほど。作り方のページをコピーして、自分なりのメモも忘れないうちに書き出しておく。「作った布地のはし切れを型紙に貼って置くと、次回あの服を作った型紙はと探すとき一目瞭然」なるほど。
 こうして私の宝物のような型紙ファイルができた。同じ型の服を作るならすぐ作ることができる。そして最初のワンピースに続いて、次に秋冬物の本から、袖が七部丈のワンピースを作ることができた。布地は母が遺していたものだ。母がこの布を買ってから、40年ぐらい経っているのではなかろうか。でも、布の柔らかさとワンピースの型がうまくマッチしたようで嬉しい。山梨の風景にも合っている服だと思う。「60代からのソーイング」の新しい秋冬号も今から楽しみだ。
  2021年8月
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warehouse-fujiki · 2 years
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ジョンマンデニムプロジェクトは、幕末と明治に活躍した偉人を多く輩出した四国、高知県の公式な企画として生まれたものです。ジョン万次郎さんが生まれた土佐清水市。
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高知出身のベルベルジン藤原裕さん。そして高知でデニムといえばジーンズファクトリーさん。といったチームで構成され、ウエアハウスは生産を担当させていただきます。
この度、3度目の結成に至った理由は「ジーンズファクトリー40周年」の一環としてのもの。日本にはじめてアメリカを伝えた偉人、そして四国で一番アメリカンカジュアルを伝えてきたジーンズファクトリーを中心として、その歴史を振り返りながら展開するものです。今回生産するプロダクツは、デニムのセットアップ。ジーンズは1870年代に生まれたジーンズのディテールを踏襲し、ファーストモデル(2018年)と同じ仕様で再現します。当時のカメラの特性による、左右が反転する写真を見た万次郎のデザインによって、コインポケットが逆側につくなどの仕様も再現します。また、オレンジの綿糸を基調にしたファーストタイプのパンツに合わせて、同じミシンを使用してオレンジの色糸で仕上げるブラウス(デニムジャケット)も展開します。
好評をいただいた前作からの大きな変更ではなく、細部の変更により、また新たなジョンマンデニムの魅力をご案内できればと思っております。「1827」と、ジョン万次郎の生まれた年が入るオリジナルボタンにもご注目ください。
Warehouse&Co. 広報:藤木 将己
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tikutikumeg · 2 years
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スイスバーゼル卸しアニマルロンパース、交渉成立。
大量発注きたー。きたー。
しかも、国際郵便ems、コロナやら、ウクライナ戦争やらでヨーロッパ遅延してるらしく、2回に分けて2週間後には送って欲しいとのこと。
すぐにけいちゃんに、毛糸と編み機をアトリエから送ってもらい、実家に監禁状態で一日中編みまくる日々。
こんな静かな田舎、編み機の音近所迷惑かも。
私が高校生の時、バイトして貯めたお金で買ったミシン。もう使えないかなー。懐かしいな。
そのミシン台に編み機を取り付けてみた。
バッチリ。
この自分の部屋で夜な夜なまで針仕事してたもんだ。懐かしいなーと余韻にひたったり。
結果、実家に帰って編み機に向き合える生活悪くないな。
すごくはかどるではないか。
1か月中10日位広島帰るのも悪くないと思った。
いわゆる2拠点生活。
なんだか、豊かだなあ。
なんなら、家から歩いて5分のとこにはローカルだけど宮浜温泉♨️があるしね。
さあ、今日は、昼まで編み機動かして、昼から地元と幼馴染とごはん。
楽しいな。楽しいな。
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