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canty-essay · 1 month
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何かしたい症候群
                           
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 人はいつでも何かしたいと思っているのではないだろうか。もちろん何もしないでぼーっとしていたいときもあるだろうけど。その人の本業の他に、何かちょっとした楽しいことをしたいのじゃないかと思う。
 ここでは、糸や布を使った手仕事の世界について考えてみたいと思う。私は機織り教室をしているので、「なんか機織りって、おもしろいかも。やってみたい」という人が訪ねてきてくれる。ほとんどの人が初めて織り機を見て触り織る。そして多くの人が「これは楽しい、無心になれますね~」とおっしゃる。そう、人は無心が好きなのだ。何かに打ち込みたいのだ。
 私も織り機の前に座る。私にとって機織りは、無心の時間の部分もあるけれど、大抵は自問自答の時間になってしまう。「またいつものパターンにはまってるな~」なんとか自分のパターンを抜け出したいと思っている今日この頃なのだ。でもこちらは本業なので、これは置いておくとして。
 
 絶えず何か手仕事をしたいなあと、実はウズウズしている。いつでも鞄からさっと取り出して取り掛かれるもの。編み物などはその筆頭にあげられるだろう。だけど私には編み物は向いていない。私が初めて編み針を持ってからこの五十年というもの、何かを完成させることができたためしがない。それは一体どういうことなのだろう。
 セーターは後身ごろを編んだだけで嫌になるし、靴下も両足まで行けない。そもそも一本の糸を完成までこねくり回す、というのが途中で飽きてしまいできず仕舞いだ。じゃあだんだら染めで、どんどん色が変わる糸だったら? これはけっこう楽しかったけど、やっぱり完成までたどり着けない。なぜなのか。
 完成図が横にあって、それを目掛けて進むというのが苦手みたいなのだ。何それ、住んでる家だってなんだって、世の中完成図があるからこそ成り立っているんじゃないの? おっしゃる通りですけども。
 これはやっぱり、成り行きで生きている人の姿勢だろうか。行き当たりばったりが好き。これを行き当たりバッチリと言う人もいる。
 話を元に戻そう。では、行き当たりバッチリの人に向いている手芸ってなんだろう。手芸用品屋さんのユザワヤなどに行くと、それこそたくさんの手芸キットが売っていて、どれもちょっとかじってみるには楽しそう。うちの息子などもなぜか刺し子が好きで、刺し子のキットを買う。洗えば消える薄い青い線で縫うところがプリントされている晒しの布と、木綿のやや太めの縫い糸がセットになっている。彼はちょっとした待ち時間とかにそれをとりだしては、ちょこちょこと縫っている。決してきれいな針目ではないけれど、重要なのはそこではなくて、隙間時間に手を動かせることが楽しいらしい。出来上がった布は惜しげもなく、フロアモップに取り付けて使っている。「もったいなくない? 」と訊くと、「これが生活を楽しむということなんだよ」と相変わらずいいことを言う。でも完成図がわかる刺し子は、私には向いてない。何かない?
   NHKテキストの「すてきにハンドメイド」が好きで、定期購読している。テレビの無い我が家には貴重な情報源で、ページをめくるたびに「こんな手芸があるのね~」と毎月新しいアイディアに触れることができて、私にとってワクワクタイムだ。手芸本は何か作りたい症候群の人の心をくすぐる起爆剤なのだ。テキストとしても作り方の説明がとてもわかりやすいので、今まで何着か服も作った。さすがに服作りの時は完成図に向かって進む。
 読者が「テキストを見て、私も作りました~」と作品の写真を投稿するページが好きだ。家にある材料で、または新しく買った材料でも、工夫して作ってあるのがすばらしい。我が家には、新品の材料も、使い残しの材料もたくさんある。これらをなんとか活かせないものか、、、私の中でモヤモヤが渦巻いている、まるでこんがらがった糸のように。どこか一箇所から糸口が見つかれば、あとはスルスル出てきそうなんだけれども。
 昔は刺し子でもパッチワークでも、必要に迫られてボロをつぎ合わせて作っていたわけだから、今の新品の材料を使って作るのは、まあそうとう贅沢な話なわけだけど、逆につぎを当てなければならないボロも減ってきたのだ。でも私たちの気持ちのどこかで、ボロにつぎを当てたい本能のようなものが残っていて、手を動かしたいのだ。
 すてきにハンドメイドのバックナンバーを見ていたら、次のような一文に目が止まった。「型紙を使ってバッグや洋服を作ります。型紙��内側に当たる部分の布は作品になれるけど、外にはみ出た分はハギレとなる。同じ布として生まれてきても、ハサミの右と左で人生がかわり、ゴミと呼ばれ忘れられてしまう」そうなのだ、ハギレたちに救いの手を! 短かく切り捨てられた糸たちにも愛の手を!
     部屋を掃除するのは、部屋をきれいにするため。でも同時に自分の心の中のゴミも取り除いてきれいになっていると思ってる。じゃあつぎを当てるのも、自分の心につぎを当てている? 実は私はさっきから、文章に詰まるたびに、パソコンの横に置いた小ぎれに、ひと刺しひと刺し即興で思いついた刺繍をしている。刺繍と呼べるかもわからないけど、残り糸の中の太い糸を細い糸で布の上に縫い付けている。図案もなくて、ただ気がむくままに、どうなるかもわからず、、あれ、これって、行き当たりバッチリ? の私の人生そのものじゃない? でもこんなことでも、なんだか心が安らぐみたい。針が進むと文章も進むようだ。
 私はこちらの移住者ばかりの農業コミュニティの中で、衣食住の衣の担当で、機織りを広めるのもその役目のひとつだ。今度「チクチクタイム」というような名前の、ちょっとした縫い物を持ち寄って、何人かでお茶でも飲みながら手を動かす時間を、提案してみようかと思う。何か手仕事してみたいなという人に、お互いの手仕事を見ながら、何かその人に合うものが見つけられたらいいし、また何となく災害のニュースなど聞いて心ざわつく時に、手を動かすことによって心を落ち着けることができたらと思う。
  
  2024年2月
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canty-essay · 2 months
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考えてみる、サバイバル
              
                                  
 今年は元日に突然携帯の地震を知らせるアラームが鳴り出し、ギョッとなった。まもなく、能登で大きな地震があったことを知った。本当にいつどこで地震に遭うのかわからない今日この頃だ。日頃の備えが大事というが、どんな備えをすればいいのだろうか。どうすれば、自分や家族や周りの人の命や財産を守れるのだろうか。
 「サバイバルファミリー」という映画を観た。どういう話かというと、主人公は東京のマンションに住む、中年の夫婦と高校生の息子と娘の一家。お父さんは平凡なサラリーマンで、会社から帰れば、晩酌しながらテレビをみている。息子と娘は親に関心がなく、勝手なものを食べている。お母さんはひとり台所で、実家の鹿児島から送られてきた大きな丸一匹の魚を捌こうと格闘しているけれど、誰も手伝わないし、食べたがらない。
 そんなある日朝、突然電気という電気がみな停まってしまう。電気ばかりでなく、乾電池や車のバッテリーも全く働らかなくなる。お父さんと子どもたちは、文句を言いながらとりあえず会社や学校に向かう。自分のマンションだけでなく、かなり広範囲に停電していることがわかってくる。スマホで検索しようと思っても、画面には何も映らない。お母さんがスーパーに行くと、みな買い出しに来ているが、レジが動かずそろばんで計算するので、長蛇の列となる。
 三日ぐらいは、ロウソクとカセットコンロとレトルト食品で凌いでいるが、水道からの水も出なくなり、会社や学校も休みとなり、多くの人がだんだんと東京脱出を始める。大勢の人が家族を伴って、ガラガラとスーツケースを引いていく。この一家はお父さんがうまく調達したおかげで、一人一台自転車がある。途中の商店では、ペットボトルの水が一本2500円の高値で売りに出されている。この家族も高値承知でありったけを買い占め、旅を始める。お母さんの実家の鹿児島を目指して。途中のお米屋さんでは、水や食べ物を持って行くと、お米一合と交換してくれる。そこにロレックスや高級車の鍵を持って交換に来る人物が現れるが、「そんなもの食えるかい! 」と突き返される。
 「大阪から先の関西では電気が来ているらしい」という噂が飛び交い、今や車の走らない東名高速道路を大勢の人が歩いたり、自転車だったり、中には荷車を引く人も、西に向かう。途中のサービスエリアで野宿。寒い季節ではないのが、まだよかった。寝ている間に、水を一本盗まれて、息子がすぐに追いかけるのだが、盗んだ家族には赤ちゃんがいて、取り返すのをやめる。
 脱出から16日目高速道路を降りて、川で洗濯をする。水が一見きれいだからと飲んだお父さんが下痢をする。強風に煽られて転倒し、自転車やお母さんのメガネが壊れる。次に通りかかったちょっと大きい街の無人のホームセンターを覗くと、食べ物はとうに無いが、キャットフード、精製水( コンタクトレンズに使うもの? )、自転車の修理材料などを手に入れる。火おこししようとしたもできないお父さんを横目で見つつ、おいしくないキャットフードを食べる。
 さらに高速道路を走り続ける。長いトンネルの入り口で報酬と引き換えに、トンネルの案内を買って出る盲目のお婆さんたち。無視してトンネルに入るも、真っ暗な中、停まっている車や障害物に阻まれて進めなくなり、盲目のお婆さんに手引きしてもらう。
 次はいやに元気な家族と遭遇する。彼らは日頃サイクリングしながらキャンプをしているらしく、装備も揃っていて、みなで楽しそうに食事をしている。「食料や水はどうしているんですか」と尋ねると、山の中の岩場の間から湧き出ている水は、周りに苔が生えていればそれは安全な証拠なのでそういう水を汲んだり、地面から直に生えているオオバコのような植物は食べられますよ、セミなどもおいしいですよ、と教えてくれる。
 43日目、やっと大阪に到着。電気は来ていない。通天閣のタワーの入り口には、たくさんのメモ紙が貼ってある。「岡山のおじさんのところに行く。◯◯」などの伝言が。娘がブチ切れて「もう嫌だ! お父さんが大阪に来ればなんとかなるって言ったよね?」「そんなこと俺いったか? 」「ほら、そうやってまたいつもの責任のがれ」「親に向かってなんだ、その口の聞き方は! 」すると息子が「親らしいことしてくれたことあったかよ! 」今度はお母さんが、「いい加減にして! そんなこととっくにわかっているじゃないの、お父さんがそういう人だってこと」ここでお父さんはがっくりとなってしゃがみ込んでしまう。水族館の前で、飼っている魚を調理した炊き出しの列に並ぶも、自分たちの前で終わってしまった。お父さんは調理していた人に、土下座をして「せめてこの子たちだけにでも何か食べ物を」と懇願するが、「無いものは無い」と断られる。
 67日目、食料も水も無くなり、岡山あたりの田舎道をとぼとぼ歩いている。と、一頭の豚が目の前を通り過ぎていく。えっ、となり夢中で追いかける。四人でやっと捕まえてみたものの、どうやってとどめを刺すのと手間取っているところ、後ろから「うちの豚に何をする! 」とお爺さんの怒鳴り声。お爺さんのうちの電気柵が働かなくなり、豚たちが逃げ出したのだった。お爺さんが、持っていたナイフで手早くとどめを刺し、豚を運ぶのを手伝い、そのお爺さんの家に。庭先の井戸水を汲ませてもらい、ごくごく飲む。久しぶりの白いご飯に、卵や野菜のおかずに豚肉の燻製。近所のお婆さんがキャベツや大根を届けてくれる。「あれまあ、お客さん? お孫さんたちが帰っているのかと思った」お爺さんの家族はアメリカにいて、連絡もつかないのだ。
 ご飯の後は、さっきの豚の解体を手伝う。バラバラにした肉に塩をすり込む。一週間ほど熟成させてから燻製にするのだそうだ。逃げた他の豚も、みんなで追いかけ回して捕まえる。井戸水をバケツで汲んでは、お風呂に運び薪でお風呂を沸かす。何十日ぶりのお風呂に入り、夜はお孫さんたちが着る予定だった新しい寝巻きを貸してもらい、これまた久しぶりの布団に横になる。
 毎日薪割りしたり、洗濯をしたり、お爺さんの手伝いをして過ごす。一週間後、豚肉を燻製にしながらお爺さんが語る。「お前さんたちさえよければ、ここにずーっと住んでもいいんじゃぞ。わしも年取って、一人で車も洗濯機も使えない生活では大変でなぁ・・」と誘われるが、この一家は鹿児島にいるお母さんの実家のお父さんの安否も気になっていて、結局お爺さんの申し出を断り、たくさんの食料をもらって、また自転車の旅を続ける。
 そのあともいろいろあって、命の危険にも晒されて、奇跡的に誰かが動かしてくれたSLに拾われて、ようやく108日目に鹿児島のお祖父ちゃんの家にたどり着く。お祖父ちゃんは元気だった! お祖父ちゃんは浜で魚釣りをしていた。それからは村人同士助け合って、魚を捕りに行ったり、畑をしたり、鶏の世話をしたり、お婆さんに機織りを教えてもらったりして、みんなで元気に楽しく一生懸命に暮らし始める。
 それから、2年と126日目の朝、突然村のスピーカーから埴生の宿のメロディーが流れてくる。みんなが驚いて家を出てみると、街灯が次々と点き始めた。すっかり忘れていた電気が戻ってきたのだ。そして場面は変わって、東京の一家のマンション。日常を取り戻し、以前の生活に戻る。テレビからは、「世界同時停電の原因は、太陽フレアか彗星の異常接近ではないかと、専門家からは語っている。サイバーテロの疑いはなくなったとのことです・・」停電前はそれぞれ勝手に心もばらばらに生きていた家族だったのが、思いやりのある温かい家族になっていた。
 とまあ、そういう話であったが、いろいろといいヒントがあった。非常時にはアナログが強いこと。キャンプ生活などに慣れておくこと。北杜市に住んでいて、地震などで自分の家が壊れていない限りは、ここにいた方が湧き水もそばにあるし、薪や焚き木を燃やして暖を取ったり煮炊きすることもできる。むしろここは、首都圏からの避難地域となるだろう。今できることといったら、いつでも人を迎えられるように、家の中を整えておくこと、食料や薪を備蓄しておくこと?
 もうひとつ気になるのが、「年長者としての知恵」のようなもの。年長者はパソコンやスマホに弱く、操作方法などは若者に訊かないとわからないことばかり。でももしパソコンやスマホが一切使えない世の中になった時に、どこまで年長者がサバイバルの知恵を出せるだろうか。本当に長く生きた分だけいい知恵があればいいけど。
 さっきの映画の話では、最初はばらばらだった家族の気持ちもだんだんとひとつになり、お互いにかけがいのない家族として心が結ばれる。停電が終わり東京に戻るのだけど、本当に戻る必要はあったのかなぁ。鹿児島にいた二年半は、みなで漁をしたり、畑をしたり、はた織りしたりして、お金も介在せずに生きていたわけだ。これからこの地震や災害の多い日本で生き抜くには、都会を出て地方でコミュニティを作って、いろんな年齢の人が、各々出せる力を合わせて生きていく以外の得策は無いのではないかしら。
 2024年1月
映画「サバイバルファミリー」は、2017年2月に公開された。監督 矢口史靖。
主演 小日向文世、深津絵里、泉澤祐希、葵わかな
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canty-essay · 10 months
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ホームステイの受け入れ、始めました
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 山梨に越してから、我が家に訪ねて来て泊まる人が増えてきた。東京から日帰りができない距離ではないけれど、せっかく来ていただいたのだから八ヶ岳ライフを楽しんでもらおうということで、気軽に「泊まっていったら?」と声をかける。お客さま用布団も二組用意してある。
 訪ねてくる人の多くは息子の友人たちで、夏だったら彼らはテントやハンモックを持ってきて、庭で寝起きする。自分たちで食事の支度をし、私たち夫婦の分も含めて作ってくれて、後片付けもして、お風呂も近くの温泉に行くので、全くの世話なしだ。
 うちの息子は一年中庭のテントで寝起きしている。もちろん防寒対策はバッチリしてのことだ。ところが友人たちはそこまで装備がないので、夏季意外はいきおいわたしたちの住まいのドーム内に泊まることになる。夕食が終わりひとしきり私たちも一緒に語らい、彼らだけ温泉に行くこともあるが、代わる代わる我が家のお風呂に入ることもある。全体で一部屋しかない我が家では、私が布団に入る十時半が消灯時間という暗黙の了解があり、若い彼らも二階のロフトに布団を敷き大人しく休む。普通若者はそんなに早い時間には休めないものだが、我が家のあたりの標高は1030メートルあり、これはお母さんのお腹にいる時の気圧と同じで、けっこう眠くなる土地だと言われていて、初めて来る人の多くは眠気に襲われる。
 時には私の友人が泊まることもある。その時は私の隣に寝ている夫には二階に移動してもらう。二階の方が多少はプライバシーがあるのだが、夜中トイレに起きた時の階段の上り下りが慣れないと危ないので、友人には一階で寝てもらう。
 三、四日から一週間ぐらい滞在する人もいて、ちょっとはお互いに気を遣うのだが、けっこう楽しく過ごしてしまう。
 先月から、息子とタンザニア滞在中に知り合ったという男の子が訪ねてきて、しばらく一緒に暮らすこととなった。男の子と言っても三十二歳で、国立大学の大学院を出て公務員やいろいろな仕事を経て、一旦全てを休止して、タンザニアで四ヶ月を過ごして戻ってきて現在休職中。でもすぐ就職活動する気にもならず、息子に誘われるままに八ヶ岳にやってきた。農業にも興味があるということで、我が家にいればいつでも農業コミュニティに行きたい時に参加することができるし、ということで。彼の名はマーくん。
 息子がマーくんを連れてきた翌日、息子はガールフレンドの待つ沖縄に行ってしまった。「息子の代わりやっといて」と言い残して。
 我ら夫婦とマーくんの共同生活が始まった。彼は料理が上手だ。JAに勤めていたこともあり、八百屋の店長をやっていた経歴もあり、野菜や果物に大変詳しい。野菜たちをこよなく愛していて、野菜の特性を活かした料理をする。マーくんが来てから、私たちは毎日彼のおいしい手料理にあずかることになった。
 私がいただいた山梨特産のこんにゃくを、マーくんは薄切りにして、すりおろしたリンゴのジョナゴールドを乗せて岩塩を振って出したくれた。組み合わせにびっくりしたけれど、「春の訪れ」を感じたなかなかな味わいだった。
 私がお客さまで忙しい時は、マーくんが夫を車で送ってくれたりもする。ほんとに息子代わりをしてくれている。
 うちにはお客さまが多いので、その度にマーくんを皆さんに紹介する。最初は「今うちに泊まっている・・・」と説明して、本人も「居候してます」などと言っていたが、居候という言葉にはどこか邪魔っけみたいなニュア���スもある。それで思いついたのが「ホームステイ」という言葉で、「今うちにホームステイしているマーくんです」と紹介するとすんなり通じるようになった。
 私は彼を農業グループの仲間にもどんどん紹介して、農作業の手伝いや、コミュニティでやっているカフェの食事作りのお手伝いにも行ってもらう。彼の持ち前の明るい性格と誰とでも気軽に話せるキャラクターで、みんなの人気者となっていった。
 彼が家の中にいても気にならないのが不思議だ。実際のところ、お互いの寝息も聞こえてしまう、ひとつドーム内生活なのだが。最初のうちは多少のぎこちなさがあり、トイレに入るタイミングとか、お風呂に入る順番とか、お風呂から出た人をまとも見ないとか、それらもだんだんスムーズに行くようになった。彼も朝寝坊する日はするし、農作業から帰って疲れたからと居間でお昼寝している時もある。好きな時にうちの車で出かけたりもする。
 そんなある日、息子が一旦沖縄から戻り、連休明けにはガールフレンドのリホちゃんを呼んで一緒に住むという。「えっ、普通同棲ってふたりでするものじゃないの? 」とまたびっくりする私。先日ドイツから一時帰国した娘と彼氏との家族関西旅行で、京都でリホちゃんとも合流して、一晩私たちと同じ宿に泊まったけれど・・・
「ドームで寝起きするの? 」
「いや、テントで・・・」
「女の子を? かわいそうじゃないの? 」
結局リホちゃんが来る前の二日間にかなりの雨が降り、テントに浸水したので諦め、近く知り合いのペンションの部屋を借りることにした。リホちゃんにも仕事があるので、しばらく滞在したら、また現在の仕事場所の気仙沼に戻ると言うが。
 私は自分の心の乱れをマーくんにぶつけてみた。「どうする、今度リホちゃんも私たちと住むって」「そうスか」まあくんもリホちゃんの写真は息子から見せられて、顔は知っているらしい。「明日のお昼にはこちらに着くって。そしたらウエルカムランチでもする? 」私は今や我が家の料理長となったまあくんの顔を仰ぎ見る。「そうスね。うん、何がいいかなぁ」
 マーくんには、その日来たお客さまの顔色や体調を見て料理をするという特技がある。気がつけば、彼の料理を食べている私たちはなんだか体調がいい。身体が凝らなくなった。食事で身体がそんなに変わるものなのかと驚いている。
 マーくんがいて、リホちゃんも来る。考えてみたら、わたしたち夫婦だけのところにリホちゃんが来るより、他人のマーくんもいた方が、返って気づまりにならなくてもいいかも、もう何があっても楽しむしかないじゃないの、そう思うことにした。
 ウェルカムランチはおいしかった。玄米麺に、去年この近くで採れたきのこを乾燥させて保存していたものを戻し、豆乳と合わせてクリーム状にしたものにアスパラを加えたクリームパスタ。それにケールに甘夏を隠し味にしてナッツと和えたサラダ。薬膳も学んでいるマーくんの作るものは、加える素材のひとつひとつにも、例えば疲労回復などの意味がある。
 しかし滋賀から長距離移動してきたリホちゃんには、次第に疲れが見え、貧血症状を訴え横になってしまった。そこで、マーくんがまた工夫を凝ら��て、貧血に効く食材や気持ちのほぐれる料理をする。
 この寒い山梨に来るというのに半袖の服しか持ってこなかった彼女に、あれこれと似合いそうな服を引っ張り出しては着せる私。彼女は大変小柄で、色が白く、潤んだような大きな瞳に濃いまつ毛の、大変かわいらしい女の子だ。
 次第に彼女も打ち解けてきた。将来この彼女が本当に息子と結ばれるのかは今の私にはわからないが、かわいい人なのだから、とにかくかわいがっちゃおうと決めた。
 ある晩、息子とリホちゃんが、知り合いの若い夫婦のところへ晩御飯に出かけて行った。久しぶりに夫と私とマーくんの三人で食卓を囲む。
「なんかちょっとホッとしましたね。なんだろう、このリラックス感」まあくんは、息子たちがいない今日の空気感をそう語った。
「ほんとにそうよね。けっこう緊張していたよね、私たち」
まあくんは、年上の自分が何か優れたところを見せて、リホちゃんの前で息子のプライドを傷つけることになってはいけないと気を遣っていたみたいだし、私もリホちゃんが私たちの誰かの無神経な言動に傷付いてはいけないと、けっこうドキドキしていたのだ。
「どうもお疲れさまです」すっかり身内のようになって、お互いを労いあったのだった。
 なんだか、こういうよくわからない家族もおもしろいなぁ、と感じる今日この頃だ。お客様たちも皆おもしろがって、ひとしきりマーくんやリホちゃんとお話していく。血が繋がっていてもいなくても大事な人であることに変わりはないし、食費や光熱費だって、本当の娘たちがここにいたとしたら同じにかかるし、娘たちだって異国の地でいろいろお世話になっているのではないかと思うと、今私がここできることを精一杯しようと思う。
 マーくんもいずれはここを去る日が来るだろう。リホちゃんだって、いずれ息子と別の場所に住むだろう。その時は一抹の寂しさを感じるだろうけど、これからはいろんな人をホームステイの人として受け入れて、一緒にご飯を食べて語って休んで、その人がゆっくり身体を休めてまた元気になって出発できるようになったり、何か目には見えないものを受け取っていかれる(いや実際には受け取っているのは私たちの方なのかもしれないが)、通過点としての場所を提供できるのが、私たちの幸せかもしれないなぁと思っている。
  2023年5月
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canty-essay · 1 year
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お空に旅立っていったるりこちゃん
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 我が家の愛犬るりこは、昨年十月の終わりから、突然朝ご飯を食べず、散歩に行こうとしなくなった。その前に、ドイツ在住の次女が三年ぶりに一時帰国し、私たち家族はるりこも一緒に次女のスケジュールに合わせ、東京に行ったり、山梨に来たり、こちらでも諏訪にお出かけしたり、最後は次女を羽田まで見送りに行き、そして山梨に帰ってきたのだ。
 その翌日から、るりこはご飯をあまり食べず、散歩にも行きたがらなくなった。きっと疲れたのだろうとしばらく様子を見ていたが、だんだん一日二食から一食が普通になり、痩せ細ってきて、散歩も抱えて連れ出し、途中地面に降ろして歩かせる、というようになってきた。
 それでもわりあいよく歩く日もあったり、二食食べることもあった。年齢も十三歳と、犬として決して若いわけではないので、そんなものかとも思ったが、東京でかかっていた獣医の先生に相談してみた。
 その先生はいつも、「るりこちゃんは、本当に賢くて、家族思いで、いい子だ」と言ってくださっていた。日頃の様子を伝えると、「十三歳というのは、人間で言えば八十歳ぐらいの大変なお歳です。一度今の状態を知るために、近くのお医者さんにかかって、検査してみてください」とのことだった。その先生は普通の獣医さんでもあり、エネルギーヒーリングと言って、遠隔からも治療をしている先生なのだ。
 るりは八歳ぐらいから、よく吐くようになったり、散歩中に突然怯えたようになって歩けなくなったりして、どこの獣医さんに行っても原因のわからない症状に悩まされていたが、その先生に出会ってから回復することができた。
 近所の獣医さんに行く。血液検査とレントゲンを撮りましょうとのことで、その前にまずはと聴診器で心臓の音を聴くと、「雑音がありますね」と初めてのことを言われた。レントゲン検査の結果は、心臓に雑音があるものの、肥大まではしていない。喉に腫瘍があり、悪性のものか良性のものかは、もっと大きな病院で検査してみないとわからない。血液検査の結果は、貧血がある。腫瘍が原因かもしれないが、そのほかの数値に異常は見られない。もっと大きな病院で検査をするなら紹介します、とのことだった。
 しかし、病院にかかるというのは、犬に大変なストレスを与える。とりあえず家に帰り、休ませることにする。
 るりこは保護犬だった。保護犬というのは、一度保健所に入れられて殺処分になる前に、ボランティアさんに助けられて保護された犬で、ボランティアさんは家で犬を保護しながら飼い主を探すのだ。私は犬が飼いたいなと思った時に保護犬の存在を知って探してみると、月に一度江戸川河川敷で、犬と人間のお見合い大会が開かれているということで見に行った。
 私には欲しい犬の条件があって、茶色くて鼻の黒い女の子が欲しいと思っていたら、まさにそのまんまのるりこがいたのだ。彼女はその時生後四ヶ月ぐらい、お転婆な感じで、そばに寄った私には見向きもせず、熱心に地面にいる虫か何かをほじくり返していた。私はその時実家の母とふたりでそこに行った。「ね、この子がかわいいよね、この子がいいよね」母と私の意見は一致した。昔飼っていた子にそっくりなのだ。違うのは、前の子は男の子だったこと、るりこの方が耳が長く垂れ下がっていることだ。前の子は、私が小学六年生から二十九歳になるまで生きていた。
 保護犬はその場ですぐ譲渡してもらえるのではなく、申し込んで、いろんな質問に答えて、この人はちゃんとした飼い主になれそうだと判断されたら、譲渡してもらえる。どんな家に住んでいますか、家族構成は、留守番は週に何時間何日させますか、犬を飼ったことがありますかなどなどの質問に答えて紙を送ったが、一向に返事がこない。もうだめかと思っていたら、譲渡会から電話があり、前飼っていた犬は最期はどうなったのですかと質問されたので、私と母の膝の上で息を引き取りました、と答えた。その数日後その答えが決めてとなって、るりこは我が家に来ることとなった。
 ボランテイアさんが保護中につけた仮の名前はルーだったのだが、うちの娘たちの名前はみな子がつくので、る~子? でるりこにした。
 さて、当時高二、中二、小五の子どもたちに加えて、もうひとりやんちゃな子どもが増えたのと同じで、畳や布団の上でオシッコをしたり、当時私たちは畳の上で低いちゃぶ台で食事をしていたのだが、るりこはなんとか私たちのおかずを取ろうとしたり、家具の足やパソコンのコードをかじったりと、ただでさえめちゃめちゃなうちの中がますますめちゃめちゃになった。しかしそれ以来、るりこは我が家の中心的存在になり、家族全員が惜しみのない愛情を彼女に注ぎ、彼女もそれに十分応えてくれた。
 るりこをお医者さんに連れて行って、検査や入院となるとケージに入れられてしまう。彼女は何よりもケージに入れられるのを嫌がった。それは保健所で殺処分されそうになった時の怖い体験が蘇ってしまうからだろうと思うと、それだけは避けたかった。私たちはできる限り、家族でできる手当をしていくことにした。
 翌週、遠隔ヒーリングの先生の診察日になった。るりこの前にiPadのカメラを開いて置いて、先生からるりこが見えるようにする。「るりこちゃんはよく頑張っているね」とヒーリングを受けると、その日はよく食べたり、歩いたりした。
 ある朝、おしっこに外に出るというので出してやると、いつまで経っても戻ってこない。庭に出て探す。見つからない。まさかどこかで倒れているのでは、と夫や息子も呼んで探すと、ほとんどご不在の隣家の縁の下にうずくまっていた。抱き上げると、うっすらカビの匂いがした。
 次第にるりは、喜びの表現の尻尾振りはしなくなり、家族の誰かが家に帰ってくるたびに上げていた喚声を上げなくなり、知らない人が来ても吠えず、大好きな石拾いもしなくなった。それでも私たちは、るりがいつもより多く食べた、歩いたと言っては一喜一憂していた。
 また遠隔の先生の診察の日になった。「るりこちゃんは、自分がいなくなってあなたたち家族を悲しませたくないと頑張っています。でもあんまり無理をしないでねと言ってあげてくださいね」先生はつまり、るりこの最期の日がそう遠くないと、遠回しにおっしゃったのだ。
 るりこは一日のほとんどを寝て過ごした。喉の腫瘍は大きくなってきていたが、苦しいとか痛いとかは無いようだった。自然療法の本に書いてあった、心臓病にいいという、柿のへたを煎じた水も作って置いておくとよく飲んだ。その他にも、犬にもお灸がいいと聞けば、やってくれるところを探して連れて行き、お灸の道具も買い、家でも見よう見まねにやってみる。るりこは特に嫌がりもせず、されるがままだった。友人宅の猫ちゃんを診てくれるという評判の気功の先生にもかかると、だいぶ身体がらくになったように見えた。
 食事はずっと手作りのものを与えていて、昆布だしの野菜スープに、ご飯、鶏のささみ、ゆで卵、納豆などをあげていた。栄養が行き届いていたのか、毛の艶がとてもよかった。犬の飼育の本を見ると、年取った犬にはささみより、高タンパクの豚肉の方がよいと書いてあったのでそうしてみると、よく食べるようになった。しかしそれも次第に食べなくなってきたので、お刺身に火を通したものにするとまた食べるようになった。
 我が家ではここ数年、ミキという、お粥にすり下ろしたさつまいもを入れて発酵させた飲み物を作り続けていて、これにやはり自家製の甘酒を入れたものが彼女のお気に入りで、日に三回ぐらい小さな盃に入れて飲ませていた。だんだん食事が摂れなくなり、ミキと柿のへたの煎じ水と普通の水ばかり飲むようになってきた。
 我が家には連日のようにはた織りのお客さまがいらしては、みな「どうしたの、るりこちゃん、元気が無いわね」と頭を撫でていった。散歩も抱いて連れて行き、私たちが焚き木拾いをしているそばで、日向ぼっこをして待っているようになった。
 私は頭の隅で、現在のるりこの様子をドイツにいる娘たちには伝えなくてはと思いながらも、いざ「るりこちゃんの調子が最近ね・・」と言いかけただけでもわっと泣き出してしまいそうで、連絡しないままで過ごしてしまっていた。
 るりこは自分の寝床から、日に何度も数メートル離れた自分の水が置いてあるところまで歩いていたのが、よろめくようになったので寝床の横に水を置いてやった。
 その日は大寒波の予報で、東京からはた織りのお客さまの予定だったのがキャンセルになった。私は時間に余裕ができたので、いつもより念入りにるりこの耳を掻いてやると、気持ちよさそうに頭を傾けた。
 朝の散歩の後、食事やミキをあげても受け付けず、水しか飲まない。水は何度も大量に飲んだ。外へ抱いて連れて行けば、なんとかよろめきながらもオシッコをした。夜になり、寝る前のオシッコに連れて出る。よろよろになり、オシッコをしようとすると倒れてしまうので、起こして身体を支えてやると、やっとこさする。寒い外から戻ったので、お灸をじっくりとしてやると気持ちよさそうにした。
 夫と私の布団を敷く。るりこはいつも布団を敷けば真っ先にやってきて、乗っかっているのだが、ここ数日はしんどそうなので、抱いて布団の中に入れてやる。
 お風呂から出て日記を書いていると、るりこの視線を感じた。「ママ、早く来て」と言っているように感じて、一緒にお布団に入る。息子は外のテントに行ってしまい、夫はお風呂に入っている。
 「るりこちゃん、今まで一緒に子育てしたね。みんな大きくなったね。るりこちゃんがいてくれたおかげで、みんないい子に育ったよ、ありがとう」るりこは普段より早い息をしながらもじっと私の目を見て話を聞いているようだった。「るりこちゃん、この次生まれ変わったら、たくさん赤ちゃんを産むといいよ。」るりこは保護犬だったので、不妊手術をしないと譲渡してもらえなかったので、やむなく手術をしたのだった。「そうだこの次は、うちの子たちの誰かのうちの子に生まれておいでよ。私おばあちゃんになって、またあなたに会えたら嬉しいよ。ね? いい子ちゃん、かわい子ちゃん」日に何回も、そして夜寝る前には必ず「いい子ちゃん、かわい子ちゃん」と言ってきた。いったい今まで何千回そう言ってきたことだろう。でも言っても言っても伝えきれないほどいい子でかわいい子だったのだ。「明日の朝も、一緒に元気に起きようね、おやすみ」ふとるりこが悲しそうな顔をしたように思った。あ
 時折るりこの息づかいを感じながら、いつの間にか眠ってしまった。と、突然るりこが「クオーン」と鳴いた声にびっくりして飛び起きた。この何ヶ月も彼女の声を聞いたことはなかったのだ。隣の夫も驚いて起き上がった。「あかりをつけて」夫がすぐ電気をつけてくれた。「るりこちゃんが息をしていない! 大変すぐお姉ちゃんたちに電話しなきゃ、私の携帯取って!」家族ラインに電話すると、次女はすぐに出た。「何、ママ?」「るりこちゃんが、るりこちゃんがね・・」一旦止まったに見えた呼吸がまた少し始まって、口を動かしていた。舌が普段より白いと思った。「外からおさむを呼んできて!」夫が走っていく。長女は電話に出ない。るりこの口の動きが止まる。私を見ていた目の光がすーっと消えていく。夫と息子が駆け寄ってくる。夫が自分の携帯で長女に電話すると出る。「今るりこちゃんがね・・・」私はわっと泣き出してしまうと、全てを察した長女も泣き出す。「もっと早く帰ればよかった」彼女はビザの更新のタイミングで近いうちに帰ると言っていたが、日にちを定められずにいたのだ。
 夜明け近くにお姉ちゃんたちとは電話を切り、夫と私と息子で、るりこの身体を囲むようにして眠った。起きてるりこを見ても、眠っているようにしか見えなかった。私は半日ずっと泣いていた。
 次の次の日、長女がベルリンから戻ってきた。彼女は二年間るりこに会っていなくて、もしるりこの最期の姿を見なければ一生後悔するからと、急遽飛行機を取って来たのだ。るりこはいつもの場所に愛用の毛布を敷いて、私が織った布を顔だけ出して被っていた。目は開けたまま優しい顔して横たわっていた。長女と私はるりこの前で抱き合って泣いた。「なぜもっと早く言ってくれなかったの」と責められるかと思ったが、二年の間に成長した娘は、自分が嘆くよりもむしろ私を慰めてくれた。
 去年ねこちゃんを亡くした人が、庭にコンポスト葬をしてもらってとてもよかったと聞いていたので、やってくれる人を紹介してもらった。環境整備士と言って、植木屋さん的な仕事の傍ら絵画や彫刻などもなさっている人で、連絡を取ったら早速訪ねて来て下さった。
 「お庭のどこに埋葬しましょうか」「できるだけ家族のそばで、今後建物を建てる心配のない場所で」玄関のデッキを降りてすぐ横の場所に決まった。ここなら毎日通る場所だ。コンポスト葬というのは、落ち葉や炭の粉と一緒に身体を埋めて、できるだけ早く土に戻す方法で、匂いも消して他の動物に掘られたりもしないようにする。そばに木が生えていた方が木が養分を吸って、早く分解するとのことだ。
 友人たちが次々とお花を持って、弔問に来てくれた。「人の気持ちのわかるワンちゃんでした」と泣いてくれる人もいた。東京からも「若月るりこ様」と花が届く。「死んで初めてその人の価値がわかると言うけれど、るりこはすごいねぇ、次々とお花が届いて」と家族でも感心した。
 外は雪が降り、るりこは静かに眠っている。寝息でかけた布が静かに上下しているような錯覚に陥る。毛皮もつやつやで、手足も柔らかく、肉球もぷにぷに触ってしまう。
 埋葬の日になった。空は晴れている。お昼過ぎから環境整備士さんの男女二人が来てくださり、まず土地の神様にニ礼八拍する。土用の期間なので本来は土には触らない期間なのだそうで、そのため神様にお断りをする。近所のるりこをかわいがってくれていた友人も来てくれた。
 夫や息子も手伝って穴を掘る。穴の中に縦にも横にも、たくさん稲藁を刺す。通気をよくするためだという。突き出している稲藁はハサミで切り、穴の底に厚く落ち葉を敷く。
 友人と家に入り、最期のお別れをする。友人は数年前に自分の犬を亡くした時のことと重なり、さめざめと泣いている。私たちもこれが最期と思い、るりこの身体を撫でさする。毎日触るのが気持ちよかった、濃いカステラ色のビロードのような耳。もうこれも土に還してしまうのだ。
 毛布���四隅を持って、るりこの身体を庭に運ぶ���身体だけそっと落ち葉の上に下ろす。自然と胎児のような形になる。家族みんなで、落ち葉、炭の粉、土を繰り返しかけていく。穴がすっかり塞がったら、さら炭と稲藁の切ったものをすき込んだ土を盛り上げる。てっぺに環境整備士さんの女性が用意してくださっていた、大きな松ぼっくりのついた松の枝と赤い実の枝を束ねた飾りを刺して、埋葬は無事に済んだ。
 今まで撮ったるりこの写真を、長女がパソコン上に家族共有のアルバムを作って集めてくれた。あんな時もこんな時もあったねと、家族で泣き笑いしながらるりこと歩んだ日々を振り返る。いつの間にかるりこはうちの子どもたちの年齢を追い越し、年長者として子どもたちを見守ってくれていた。夫や私のことも常に気遣いしてくれていた。散歩の時もるりこは先頭を歩いていても、常に後ろを振り返り振り返り、家族が全員ちゃんとついてきているかなとチェックしていた。
 私たち家族とるりこと一緒に車で旅をしたことのある九州の友人は、「あれは犬の格好はしていたけど、犬じゃなかったね。若月家の護衛隊長やっていたね」本当にそうだった。いつでも私たちのことを守ってくれていた。
 るりこがいなくなった今も、私たちは朝の焚き木拾いに出かける。常に阿吽の呼吸で一緒に歩いていた子の身体はないけれど、この大地に空気に溶け込んだるりこの息吹をそこここに感じ、私は不思議な安心感に包まれている。るりこと過ごした十三年と十ヶ月は、あっという間ではなく、とても長く深い時間だった。そしてそれは今も続いている。
 るりこちゃん、ありがとう。家事や育児にてんてこ舞いしていたママのところに、助けにきてくれたんだね。神さまがるりこちゃんのことを私たち家族に貸してくれたんだね。賢いあなたにはまた次の使命があるから、お空に帰っていったんでしょう。どんな大変なことでも、るりこちゃんならできるよ、きっと。でももし疲れたら、うちに来て休んでね。ママたちはいつでも歓迎するよ。るりこちゃん、本当にありがとう。いつかまたきっと会おうね。
 山梨に大雪が積もった。積もる前に、長女がドイツに帰国するのを送るため、東京に出発した。るりこのお墓が心配になり、ひとり山梨に残っている息子に聞くと、不思議とお墓の上にはあまり雪は積もっていないのだという。そこだけ温かいのだろうか。るりこの温かい気持ちがまだそこにあるのかもしれない。
  2023年2月
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canty-essay · 1 year
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冬仕度
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 薪ストーブを毎晩つける季節になると、日々の焚き木拾いに精を出す。薪ストーブ用の薪は太くて大きいので、マッチでいきなり火をつけようとしてもてもつかない。最初はストーブの中にひねった紙を置き、その上に燃えやすい竹串か鉛筆ぐらいの細めの枝を積んで、まず紙の方にマッチで火をつける。火吹き竹をふーふー吹いて、火が小枝に燃え移るようにする。よく乾いた小枝だとすぐ火が燃え移り、上昇気流が起きて、煙は煙突に吸い込まれていく。火に勢いがついてきたら、もう少し太い枝を次々に放り込む。二十分ほどしてストーブの外側についている温度計が300度になったら、ここで初めて太い薪を入れる。その時はストーブの空気孔は閉じて酸素を減らして、太い薪がゆっくりと燃えるようにする。
 太い薪の方は、移住してきた年の初めての冬は、軽トラ四杯分を買った。翌年からは、夫と息子が林業グループに入り、伐採のお手伝いをして(と言っても木を伐るのはベテランの人たちで、夫と息子は枝を拾ったり集めたりの仕事)、帰りに薪を分けてもらったり。古い納屋を片付けるので手伝いに来てと言われて、中にかつてそこのおじいさんの作った大量の薪があって、そのお宅にはすでに薪ストーブはなかったので、全部持ち帰らせていただいたりと、こちらでは薪を手に入れられる情報にいつも気をつけてアンテナを張り巡らしている。また家で薪割りした分も、一年乾かしてから使うので、常に先を見て準備していく。
 最初のスタートと温度をどんどん上げるために燃やす小さな焚き木拾いは、日常生活の一部になっている。近所にはたくさんの木が生えているので、愛犬るりの散歩の時に、大きな布の手提げ袋を持っていく。この手提げは、昔子どもたちが小さかった頃、図書館に通っては三人分の絵本や紙芝居を借りるときによく使っていたものだ。厚い木綿地の丈夫な手提げだが、取っ手は修理して、別の布を当ててある。これを持って散歩して、道々落ちている小枝を拾うのだ。
 ご近所に、日本人の方の住まいだが「TARA」と洒落た立て札のあるお家があって、その家を過ぎるとずっと林になっている。我が家ではそこを「タラ裏林」と呼んでいて、車の通れない小道の続く林になっている。そこで竹串ぐらいの細い枝から、すりこぎぐらいの太さの枝まで、歩きながら次々と拾っていく。降り積もった落ち葉で隠されている枝もいっぱいあって、それを宝探しのよう���見つけては手提げに放り込む。毎日同じ道を歩いても、木たちも日々新陳代謝をしているので、毎日のように古い枝を落としている。強い風の吹いた次の日は、あっという間に手提げ袋がいっぱいになる。杉や松の枯れた葉っぱのついた枝も、大変良く燃えるので必ず拾う。針葉樹は油を含んでいるのでよく燃えるのだ。
 子どもたちが、もしまだ小さくてここで暮らしていたとしたら、喜んで焚き木拾いをしたことだろう。先を争って、誰の手提げが先にいっぱいになるか競争していたかもしれない。もう大きくなってしまった子どもたちの幼い頃の顔を思い浮かべる。あの頃週末だけでもこんな場所に来ていたらと思うが、当時夫は毎日深夜まで働いており、とても週末に出かける元気はなかっただろう。
 あるいは、もし子どもたちがずっとここで生まれ育っていたら楽しかっただろうなとも想像するけれど、そうしたら焚き木など拾うのには飽きて、東京ディズニーランドに行きたいなどと言っていたかもしれない。この辺りでもいくらか子どものいるうちはあるけれど、スクールバスで学校から帰ってきた後に、林で遊んでいる子どもや親子の姿を見たことはない。
 ご近所に住む人はたいてい家に薪ストーブを備えているので、みんなこぞって焚き木拾いをしているかと言えば、全然そんな姿は見かけない。みんなどうやって薪に火をつけているのかしらんと思うけど、オガクズを圧縮したすぐ火がつく着火剤などの商品もあるので、そういうものを使っているのかもしれない。
 前時代的な我が家では、大きな袋を持って、更にこちらに来てフリマで買った昔ふうの竹でできたしょいこを担いで拾いに行くこともある。昔読んだ物語の中では、継母に言われて寒い吹雪の中焚き木を拾いに行く話もあったように思う。そんな物語の主人公になりきって、一生懸命焚き木拾う自分が可笑しい。
 しかしちょっと前まで、人間は暖を取るため、煮炊きをするためにけっこう必死に焚き木拾いをしてきたのだ。この辺りは縄文時代には多くの集落があったそうだ。男たちは狩猟に出かけ、女子供は焚き木拾いや、食べられる木の実やキノコ集めをしていただろうか。それから何千年も後の自分が、林の中で太古の昔の人の気持ちを味わおうとしている。
  焼きりんご作り
 薪ストーブを使うのも三年目になり、だいぶ慣れてきた。近所の果樹園を持つ友人のところで、地面に落ちたりんごをたくさんいただいたので、生で食べるだけでなく、せっかくストーブがあるのだからと、焼きりんごを作ってみることにした。
 最初はりんごを銀紙で包んで、ストーブの上に置いてみたが、思ったほど火が通らなかった。では今度はと、銀紙に包んだりんごを小さい土鍋に入れてストーブに置いてみたが、それはまだ蒸しりんごだった。
 その次に銀紙に包んで、ストーブの中に入れてみた。すると今度は皮がだいぶ焼けて、焼き芋のような風味になって、なかなかおいしかった。次の日も同じようにしてみると、それはいぶりがっこになって、もはやりんごの味はしなかった。ちょっとした火加減や加熱時間の長さで変わってしまうようだ。
 ネットにいいヒントはないかと探してみると、りんごを濡らしたキッチンペーパーでくるんでから銀紙で包んで焼くとあり、やってみると失敗が無くなった。ストーブが300度になってから、50分ほど入れておく。夜それをやって、翌朝いただく。種と、わずかな硬いところを除いて、ほとんど全部食べられる。好みによってシナモン少々振りかけてもおいしい。
 
  土鍋愛用
 ある時、土鍋でお味噌汁を作ってみると、大変なおいしさであった。それまではたいていステンレスのお鍋か、大量に作る時はアルミの大きな大きなお鍋を使っていた。同じ材料と作り方なのに、お鍋が変わるとこんなに変わるとは! 
 土鍋についていた説明書を取り出して改めて読んでみると、土鍋は金属鍋に比べると非常に多くの遠赤外線を出しているので、食材の中心部に早く熱が伝わる、と書いてあった。読んだだけでは、わかったようでわからない。遠赤外線という言葉はよく聞くけれど・・・
 ともかく味噌汁で気をよくしたので、何を料理するのにも土鍋を使ってみる。最近昔の同級生のライングループで、おでんが残り少なくなったら、その煮汁と具材を細かく切ったので炊き込みご飯を作るという話題が出ていたので、早速作ってみる。お米を研いでおでんの残りと合わせ、お醤油少々を足して水加減して土鍋で炊く。大変おいしいご飯ができて、胡麻と海苔をかけていただく。
 ますます土鍋に気をよくして、大中小と取り揃えた。さらに、物置にしまっていた釜飯弁当の釜も仲間に入れた。よく炊飯器で麹を使って甘酒を作るのだが、温め直すのに今まではステンレスの小鍋を使っていたが、使い終わった後こびりついてしまうので、たわしでガシガシ洗う必要があったのだが、釜飯の釜で温め直すと、後はするりと洗うことができる。
 豆を煮るのに、ずっとアルミ製の圧力釜で煮ていたのだが、それも短時間で煮えてよかったが、土鍋でコトコト煮た方がなんだかおいしい気がする。
 台所は土鍋オンパレードとなった。難点は場所を取ることだ。またお鍋のお尻の水気をよく拭いてから火にかけないと、あえなくぱっくりと割れてしまうこともある。一番小さい土鍋はぱっくりいってしまい、買い直した。
 以上の料理はあたかも私が調理しているような書きぶりだが、全て夫がやっていることをお断りしておく。
  2023年1月
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canty-essay · 2 years
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静かな私
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 なんとく心がざわざわするなぁ、というのが最近の実感だ。何かをしていても、そのざわざわのせいなのか集中できない。身体がどこか悪いわけでもないと思うのだけれど、倦怠感がありすぐごろごろするか、ボーッとしたくなる。私はこの数ヶ月、機織りも仕立ての仕事も進まず、一体どうしたことだろうと思っていた。
 そんな矢先、この春から北軽井沢に移住した友人を訪ねることとなった。そこは彼女のご両親の別荘のすぐ隣の土地が数年前にたまたま売りに出たという場所に、彼女とご主人が家を建て、まず先に定年退職したご主人から暮らしの拠点��北軽井沢に移し、彼女もこの春定年退職し、横浜のマンションを引き払い、完全移住を果たしたところだ。
 我が家から車で約2時間、北軽井沢に到着した。山梨の我が家のあたりと雰囲気が似ているけど、空気感がちょっと違う。こちらは完全なる避暑地の感がある。我が家の辺りも別荘地エリアではあるけれど、地元の人の農地もたくさんあるし、移住してきた人も農業やらお店をやろうという人が多いので、住む人の意識の違いが空気に表れているのかもしれない。
 早速見せてもらった彼女の真新しい住まいは、全面に貼られた無垢板もおろしたての香りを放ち、微塵の翳りも無くきちんと整えられた、大人2人の住まいであった。吹き抜けのリビングに立派な薪ストーブ、その横に敷かれたふかふかの絨毯に、2人分のリクライニングチェアと大画面のテレビ。白い流しの対面キッチンに丸いダイニングテーブル。1階奥の寝室には、ダブルベッドにきれいなベッドカバーがかけられホテルのよう。吹き抜けから階段を上ると、天井が斜めになっているちょっとした空間があり、1階のリビングやキッチンが見下ろせる。その奥にはご主人のオーディオルームがあり、スピーカーが置かれ、ここで音楽を聴いたらさぞかしすごいだろうなと思わされた。ご趣味のカメラとレンズがガラスケースの中に並べてあった。
 長年フルタイムできちんと働いてきた彼女とご主人の夢が実ったお家だと思った。お茶のお稽古を重ねてきた彼女がたてたお薄に、和菓子とフルーツを添えた洋菓子のおもてなしを受けた。最後に青く塗った外壁と洒落た赤いドアの前で彼女と記念撮影して、いとまを告げた。
 帰った翌日は、服の仕立てをしなければと思いつつも、前日の遠出の疲れもあり、例によってごろごろしていると、お昼過ぎに友人グループからラインがあり、安倍元首相が狙撃され、救急搬送されたというニュースを知った。夕方には死去されたというニュースに変わった。友人たちは、身内のおじさんが非業の死を遂げたかのような、「断じて許せない、あってはならないことだ、悲しい」と口々にラインしてきた。それはそうなんだが・・・私は自分の意識をそのニュースに持っていかれたくないなと思った。その晩は気分転換に、アマゾンプライムで映画を観た。
 翌朝室内を裸足で歩くと、ずいぶんざらざらしているなと思い、夫も息子も朝から出かけているし、気の済むまで掃除をしようと思い立った。棕櫚のほうきで床を掃く。愛犬るりの毛の抜け替わる時期なので、ほうきの先はすぐ毛だらけになる。それを手でむしってゴミ箱に入れながら掃く。我が家の床は、薪ストーブの周りを除いて全て板張りだ。板と板の間に溝があり、そこにるりの口から落ちたと思われる乾いたご飯粒やら砂つぶが溜まり、掃除機をかけてもなかなか取りきれないが、ほうきだと全てではないが、はき集めることができる。
 はき終わったら、雑巾をかける。ところどころ床の木が白く乾燥しているところが目立ってきたので、最近「ミストdeワックス���という、汚れを取りながらも艶を出すという液体を買った。材料はエゴマとミツロウとアルカリ水のみでできていて、子どもや動物が舐めても安心というので、これに決めたのだ。なるほど、けっこうきれいになり白っぱくれていたところが目立たなくなってきた。1階の床と2階に上がる階段も拭いたらくたびれたので、ちょっと早めのお昼にした。
 お昼ご飯の支度をしながら、掃除の仕方って、実はちゃんと習ったことないなと思う。お料理教室はあっても、お掃除教室なんて聞いたことない。みんなどうやって掃除をしているのかな。最近は何か知りたいことがあったらユーチューブを観るのが習わしになっている。どれどれ。
 きれいなお家の人は押し並べて、モノトーンの家に住んでいる。顔出しはしないで、その人の手元や後ろ姿、首から下のみの出演が多い。無印良品的な家具や食器に囲まれた生活。カラフルなものがごっちゃりなんていう家はまず出てこない。そしてみんな口を揃えたように同じことを言う。「ものが多いと掃除も管理も大変なので、極力ものは減らしています」と。頭の中には北軽井沢の友人の住まいの映像も浮かび、がんばろうと思った。
 午後は、気になっていた窓ガラスを拭くことにした。最近どうも視界が曇っているなと思い、指でガラスをなぞると、外側ではなく内側に指の跡がついた。内側を拭くにあたってまず邪魔になる、十センチほどの幅の窓枠に並べていたものをどける。天井近くに張ったクモの巣をはたきではたく。こちらは昆虫が多いので、クモの巣がすぐ張るのだ。ガラスを拭くと雑巾はたちどころに黒くなった。冬の間に焚いた薪ストーブの煤がついたのだろうか。ようやく外がクリアに見えるようになった。
 さて、どけていた小物を戻そうとしたら、ふと何もない方がすてきじゃない? と思った。並べていたものは、両親や祖父母の家にあったものだ。ただ捨てるには忍びないと思っていただけで、役に立つ物でもなく、格別愛着があったわけではなかった。無い方が掃除がラクではないか。思い切って手放そうか。ユーチューブで言っていたのはこういうことだったのだ。
 もう一箇所の窓も同じ手順できれいにした。また同じように、窓枠に置いていたものがいらなくなった。なんだか楽しくなって、食卓の横で炊飯器やオーブントースターにティッシュの箱など置いている低いテーブルも同じように片付けると、やはりいらないものが出てきた。
 こうして掃除に夢中になっているうちに夕方になった。お茶を飲みながら、ひとりきれいになった窓を眺めていたら、掃除というのは部屋を掃除しているように見えて、実は自分の内側からいらないものを取り除いて、きれいにするためにしているのかもしれないなぁと思えてきた。禅寺などでも掃除を修行の一環として大事にしているではないか。
 昔読んだ本に、ある女流作家が幼い頃、明日家にお客さまがあるとなると、小さな子どもでも自分の引き出しを開けて、中からゴミや不要なものを取り出し、鉛筆などもきちんと削って元の場所に戻すことが慣わしになっていたとあった。ある時そんなことをしてもお客さまには見えないのに、なぜするのと母君に尋ねるとその答えは、たとえ見えなくても内側のちょっとした乱れをお客さまは感じてしまうのよ、というものだった。
 これはずいぶん前に読んだ本で、その中でさらに昔の話として書いてあるのだから、昭和の戦前あたりの話だろうか。その頃の人は感覚がこんなにも繊細だったのだろうか。きれいに拭き清められた室内にきちんとしまわれた持ち物。そこにはざわざわ感など少しも無かったに違いない。
 考えてみると、私たちはもう長いことざわざわ感の中に生きてきたのではないだろうか。ああしなくっちゃこうしなくっちゃと常に追い立てられるような感じ。たくさんのものを買っては捨てて。ざわざわが聞こえそうになると、テレビなどつけて世の中のニュースに注目して、自分の気を逸らす。自分の中から自分宛にメーセージが届こうとしているのに、聞こうとしていないのでは? 無視し続けていると、もしかして大切な何かが手遅れになるかも。
 夜になり息子が帰ってきた。
「お母さんは今日一日何をしていたの?」
「なんだかね、一日中掃除しちゃった。そしたらけっこう自然に捨てられるものが出てきて、片付けられたわ」
「うん。なんか少しすっきりしているよ。そういうことが世界平和に繋がるって知ってる?」
「え、そうなの?」
「よくさ、『戦争反対』とかのプラカードを持って行進するとか、この議員さんなら世の中をよくしてくれるかもと応援するとかあるけど、そんなの全然関係ないんだ。それよりも、ひとりひとりが家を片付けて、物を持ちすぎないで気持ちよく暮らして、その上で好きなことをする。それをみんなができたとき、世界は平和になるんだよ」
 そうかもしれない。コロナだ、ワクチンだ、マスクだ、戦争だ、狙撃事件だ、これから食糧危機が起きるかも、、、と今いろいろな心をざわざわさせることが次々に起きているけど、大事なのは「静かな自分」を作ること。ほうきで掃いて雑巾で拭いて、案外こんな単純なことで自分を整えることができたなら、世界も整っていくのかな。
  
  2022年7月
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canty-essay · 2 years
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新しいキッチンで
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 久しぶりにケーキを焼いた。私は家族の誕生日には大体手作りのケーキを焼くことにしている。先日は夫の誕生日だった。65歳という記念すべき? 歳なので、なにかいつもとは違う感じのケーキにしようと思った。夫は硬いものが好きなので、例年ナッツ入りのケーキが多かった。今年はどんなケーキにしよう。どのレシピを使おうか、どの型を使おうか、考えてみると、最近は滅多にお菓子作りをしていなかった。
 ケーキ作りから遠のいていたのは、子どもたちが大きくなったこともあるし、介護や引っ越しが重なったこともある。私がずっと子育てをしていた時代に住んでいた中野の家には、大きな頼もしいガスオーブンがあった。中が3段にもなっていて、ケーキやらクッキーやらたくさん並べて焼いた。ケーキ型やクッキー型もずいぶんいろんなものを買った。
 上の子2人が社会人になってから、両親が年を取り、実家に近い杉並区に引っ越した。そこからガスオーブンが無い生活になり、小さな電気オーブンを量販店で買った。大半のケーキやクッキーの型は置いてきた。それでも家族の誕生日には、簡単なケーキを焼いた。
 そして山梨に引っ越してきた。小さな電気オーブンと、まだ使いそうに思ったケーキの型、電動泡立て器、粉ふるいなどは持ってきた。けれども台所の収納が少なく、お菓子作りの道具はまとめてカゴに入れ物置にしまっていた。
 山梨の家は、前に住んでいた人は別荘として夏の避暑と冬のスキーの時しか来ていなかったとのことで、築30年というものの家の状態はとてもよかった。ただ台所はお湯を沸かしたり、簡単な調理をするぐらいだったのか、流しもコンロも調理するスペースも小さく、日に3度の食事を作るにはかなり手狭だった。
 移住して1年経ち、いい大工さんと知り合ったのをきっかけに、台所をリフォームすることにした。我が家はドーム型の家なので、台所の内側の壁は直角ではない。知り合った大工さんは、数多くのドームハウスを手がけている人で、他のキッチンメーカーや工務店が難色を示したリフォームを引き受けてくれることになった。
 限られたスペースに、いかに使い勝手のよいキッチンを収めるか。ベテラン主婦?の腕の見せどころだ。私の望みは、流しやコンロのある作業台の下を、従来は扉を開けるタイプだったのを引き出しにすること。やっと手の届く吊り戸棚を、奥行きを25センチと薄くする代わりに、作業台からわずか40センチの高さにすることであった。
 作業台の材質も、細かい凹凸模様のあるステンレスから( うろこのようで、この質感が苦手だった)、滑らかな白一色の人工大理石にすることにした。大工さんの勧めで、流しも白い人工大理石にした。人工大理石とは樹脂のことで、要するにプラスチックなのだが、最近は耐熱温度も高く傷もつきにくいとのことだった。ちょっと不安もあったが、視力が弱ってくると、明るい白の方が汚れもわかりやすいと思い、踏み切ることにした。
 キッチン作業台の背面には、すでに昨年の秋に同じ大工さんに、人一人が中に入れる大きさの食品庫と、その隣にやはり薄くて低い吊り戸棚と作業台をつけてもらっていた。私はそこにお茶やお菓子をしまっているが、薄くて低い吊り戸棚は物が重ならず1列に並んで、大変使い勝手がよい。山梨に住んでいると、お店もそう無いし、冬の雪に備えて、食料品のストックも多くなるので、食品庫もつけてみてとてもよかった。
 キッチンができあがり、物置からお菓子作りの道具を取り出してきた。ほこりを洗って拭き取り、「ほら、あなたたちにもやっとついの棲家ができたわよ」と低い吊り戸棚に収めてやった。おそらく私にとっても、ここが最後のキッチンになることだろう。将来、娘たちやお嫁さんや孫たちも遊びに来て、楽しく使ってくれたら嬉しいけどなぁ。
 さて、今日のケーキは庭からよもぎを摘んできて入れてみよう。あずきも入れてみよう。でも分量の配合がわからない。ネットで調べてみる。よもぎとあずきの両方が入っているレシピは、案外見つからない。そこで、「よもぎのケーキ」と「小豆のケーキ」の別々のレシピはいくつかあるので、その中間あたりを取ることにする。
 いつも不思議に思うのだが、「パウンド型1つ分」という記述があっても、その型の大きさは書いていないことが多い。パウンド型と言っても、もとは1パウンド( ポンド=約450グラム)だったかもしれないが、現代はいろんな大きさがあるのだ。ちゃんと大きさを書いてほしいな。でもお誕生日なので、長方形のパウンド型より丸い型の方が雰囲気が出そう。
 パウンド型ひとつ分の材料を、うちにある丸い型に流し込んだ場合、高さは何センチになるのかしら。両方の体積を比べてみる? だんだん私の苦手な算数の世界になってきた。
「円柱の体積って、どうやって出すの?」夫に聞いてみる。「うーんと、直径いや、半径かける半径かける高さかける円周率かける3分の1かな」「何よ、3分の1って」「それは円錐か」「もういい、ネットで調べる」
 果たして円柱形の体積は、半径かける半径かける高さかける円周率だった。パウンド型ひとつ分の生地を丸い型に流し込むと、かなり薄くなることがわかった。ケーキといえば、厚みが4、5
センチはあるイメージだが、今うちにある電気オーブンでは火力が弱いので、なかなか火が通りそうもない。今回キッチンを新しくするときに、ガスオーブンも入れたかったのだが、今世界的な半導体不足で、オーブンはいつ入荷するかわからない状態だという。杉並時代から連れ添った電気オーブンで焼くしかない。丸く薄く焼くことにする。
 庭でよもぎを摘む。春になるとそこここに、いくらでも生えてくる。タダで生えてくるというのに、人間の身体にいい成分がたくさん入っているらしい。レシピによるとよもぎ30グラムとあるのだが、摘みたては香りが強い。ちょっと減らした方がいいかもしれない。
 キッチンに戻り、よもぎの葉を茎からむしって、ボールの中で洗い、さっとゆでざるにあげる。それをフードプロセッサーの中に少量の豆乳を入れて回す。どの道具も吊り戸棚や引き出しからスッと取り出せるので、実にスムーズだ。お料理番組みたい。
 でも豆乳の分量が少ないので、よもぎがまだ細かくなっていない。生地にの方に入れる予定だった卵をフードプロセッサーの方に入れてみよう。どうせ最後に全部合流するのだから、同じだわ。けれどもやってみると、思ったほどよもぎは細かくなっていないが、このままやろう。バターと砂糖を混ぜる。ゆであずきにも砂糖が入っているので、砂糖の量は少なめに。
 粉はレシピ通りだと小麦粉だけど、夫は今年の一月に帯状疱疹になり、鍼灸の先生から小麦粉は控えるようにと言われている。小麦粉は身体を冷やす作用があるからだそうだ。では米粉に置き換えるとして、小麦粉のときと同じ分量でいいのだろうか。ベーキングパウダーを増やすとか? わかない。同じ分量でやってみるしかない。
 こうして、よもぎあずきケーキは焼きあがった。直径18センチの丸い型に、厚みは2.5センチほどだが、この分量が電気オーブンにもちょうどよかったのだろう、中まで火が通ってる。
   夫は昼間農作業の手伝いに行っているので、お誕生日会は夕方からだ。近所に住む、最もこの町は小さいのでみんな近所なのだが、息子の友だち一人と私の友だちも一人招いた。夫の誕生日会なのに夫の友だちを呼ばないのもおかしいが、夫の年齢の移住者は少ないので、まあそうなったのだ。
 「6」と「5」の数字型ロウソクを立てる。そういえば、50歳の時に50本立てた時は大変だった。ケーキは穴だらけになるし、炎が大きくなって恐かった。それ以来、数字のロウソクを立てている。ドイツにいる娘たちも、オンラインで参加してもらう。あちらはまだ朝の8時だったが、日曜日なのでそれぞれ家にいた。
 こちら4人とドイツから2人で「ハッピーバースデー」を歌う。夫がロウソクを吹き消す。ケーキを切り分ける。さて気になるお味は・・・ふわふわのスポンジではなくて、しっかりした硬めの食感。よもぎの筋は気にならずほのかな香りと、小豆も入り甘過ぎない甘さで、「大人のケーキ」としてよかったのではないか。
 今回改めて、我が家のキッチンが文字通り身の丈にあった、使いやすいキッチンであることを実感した。キッチンさん、私たちまだまだがんばるからよろしくね。
 
 
  2022年6月
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canty-essay · 2 years
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還ってきた息子 2
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   友人たちは私とるりを家まで送り届けると、ゆっくり休んでねと言って帰って行った。気になっている幼稚園の坊やの卒園式は明後日で、当日私が着付けてあげる予定だったが、いつ急に東京に行かなければならなくなるかわからないと思い、坊やのお母さんに袴と着物を取りに来てもらうよう連絡し、私はとりあえず、横になることにした。 
 ドアのノックにるりが吠えて、目を覚ました。ドアを開けて坊やのお母さんを迎え入れた。実は、、、と息子のことを話したらとてもびっくりされて、そんな大変な時に着物まで縫ってもらって、この間仮縫いの時サムくんいたよね、うん、あの時はまさかマラリアだなんて思ってなくて、、、などと話した。すると彼女は、半ば自分にも責任があると思いこみ泣きそうになりながら、「できるだけ多くの人に祈ってもらう」と言って帰って行った。
 私は再び眠ることにした。またるりが吠えるので起きてみると、あたりはもうすっかり暗くなっていた。るりのご飯の時間だった。散歩にも行ってなかった。ご飯をやり、外に出してやると、かなりの雨の中ひとりで庭で用を足してきてくれた。体を拭いてやると、落ち着いて丸まって寝始めた。
  
 息子はこれからどうなるのだろう。それにしても、なんと私たちは愚かだったのだろう。私の父がケニアで働いていた時は、住んでいた首都ナイロビは1700メートルと高地にあり、蚊はいなかったが、年に2回ほど海岸沿いに出かける時には、蚊に刺されないように注意していたと思う。アフリカのゼロメートル地帯で毎日半裸で過ごしていたら、それはマラリアにもなるだろう。今頃父はあの世で「馬鹿だなあ」と言っていることだろう。「パパ、おさむがそちらに行こうとしたら、追い返してよ」私は亡き父に祈った。
 夫が奄美大島から羽田に着き、病院に電話したところ、やはりコロナ対策で面会はできないので来なくていいと言われたと連絡が入った。東京の自宅で待機することも考えたが、山梨から車で羽田に行って奄美大島に行った仲間がいて、一緒に戻ってくることになった。
 羽田から都心を抜けるのに、たいそう混んでいたそうで、途中のパーキングエリアで食事をすると夫から連絡があり、私は自分が何も食べていないことに気がついた。味噌汁の残りを温めて飲んだものの、味はわからなかった。夫は11時近くになって戻ってきた。ずっと運転をしてきたまだ若い友人に「疲れたでしょう」と声をかけると、玄関の少し暗い灯りの中で、息子のこともよく知っているその人は、優しい慰めるような微笑を浮かべた。
 次の日、農業コミュニティのライン中で袴の坊やのお母さんが、
「サムくんが元気で戻って来られるよう、祈ってください」
と呼びかけをしてくれて、多くの人が励ましや祈りの言葉を送ってくれた。農業コミュニティが始まって1年、息子は多くの人に認知され、愛されてきたと思う。
「ヤツは死なない。必ず戻ってくる」
と力強いメッセージをくれた人もいた。
 コミュニティの新年度のオープニングの中のはた織りイベントは、友人たちに任せきりで、3日目にようやく顔を出すことができたが、心配して駆け寄ってきてくれた人たちと涙を流して抱き合うばかりだった。夫はその日はコミュニティハウスに泊まる用事があり、私はるりとふたりで自宅に戻った。
 ぼーっとテーブルで頬杖をついていると、ふと、息子が熱を出して寝ている時にメルカリで買った本が、テーブルの上に置いたままだったのが目に入った。それは「黎明」という山梨在住の人が書いた本で、コミュニテイの間では流行っている本だった。パラパラとページをめくっているうちに次の一文を見つけた。
 「あらゆる出来事は、本人が自らの意志で選択しているものであり、決して誰かに強制されてそうなるのではないということ。つまり、本人が望んでいないように思われることであっても、その人は魂のレヴェルではそれを承諾しているという前提があるわけです」
 私は思わず唸ってしまった。このタイミングでこういう文章を見つけてしまうとは。私には息子がこの歳で人生を終わりにすることを選択しているとは到底思えなかったが、同時に私も息子が若くして死んでしまう母親の人生を選択している?していない?もししているとしたら、私はこの後息子無しの人生を歩まなくてはいけないだろう。ぽっかりと心に穴が空いたまま10年、20年生きる人生は、どんな味がするのだろう。しかし、そんな人生もいつか必ず終わる日が来る。
 そうだ、生きるも人生、死ぬも人生、何が起きても受け入れようと思った途端、スッと気持ちが楽になった。私は今自分ができることを精一杯しようと思った。
 翌朝、るりを散歩に連れて行ったり、家事をしていると10時ごろ息子から、ラインで自撮りした写真が届いた。病院の寝巻きを着て、点滴をしている腕を伸ばして撮った写真の息子は、何だか栄養満点みたいな顔をして微笑んでいる。これは一体どういう顔だろう。真っ黒に日焼けして、長いドレッドを垂らしている姿。何かを成し遂げたような、不思議な余裕を感じさせる顔。我が息子ながらこういうのもおかしいが、黒人セレブが避暑地の朝自撮りして公開したプライベート写真みたいな印象を受けた。「これは死なない、この顔は死なないよ」私は深く確信して嬉しくなった。
 それからの毎日は、私は機織りや服の仕立てに精を出し、お客さま用の経糸の準備にもいそしんだ。息子からも日に何回かラインが届く。
「看護婦さんに、今までたくさんのマラリア患者さんを看てきたけど、その中で一番元気な人って言われた」
「日本人?て訊かれた」
「初めてお風呂に入って、すごい垢が出た」
など吹き出してしまう内容もあった。
 差し入れ品が必要になった時は、病院の比較的そばに住んでいる息子の小学生時代の友だちが、遠い山梨に住んでいるわたしたちに代わり差し入れてくれた。
 じきに個室から大部屋に移り、点滴と服薬の治療は終わり、血液中のマラリアが増えていないか経過観察に入った。本人もだいぶ元気になり退屈を感���るようになったのか、パソコンとモバイルワイファイを送ってほしいとのことで、宅急便で病院に送る。ご飯が足りないということで、看護婦さんに言って増やしてもらう。昼間のほとんどを、病室と同じ階の談話室で過ごし、友だちと何時間も電話で話したり。入院患者のおばあさんと仲良くなり、携帯の設定を直してあげたり。放射線でがん治療をしているが身体が弱っていくばかりの女性の話を聞いてあげたり。しまいには病棟の談話室から「タンザニアに行ってきたよ」というユーチューブライブ配信もしたりして、何だかだんだん楽しそうな入院生活に変わっていった。
 長くかかると言われていた入院も、2週間で退院の運びとなった。退院の朝、山梨の自宅の最寄り駅の小海線甲斐大泉駅から小淵沢に出て特急あずさに乗り、新宿に向かった。入院中何度も差し入れに行ってくれた小学校の同級生のレンくんと病院で待ち合わせた。ふたりで迎えに行こうと思っていたら、コロナで病室まで行かれるのはひとりだけということで、私ひとりエレベーターで入院していた8階まで昇る。
 看護婦さんにあちらですよと言われ談話室に行くと、息子は眺めのよい大きな窓際に、いつも通りに着飾って座っていた。男子が着飾ってというのもおかしいかもしれないが、息子はいつもたくさんのネックレスや指輪をまとい、ドレッドヘアを不思議な形に結い上げている。私が織った布も肩に大きく巻いている。
 「いたいた、会いたかったよ!!」
駆け寄って抱きしめた。
「まあ、すてきなお母さま」
振り返ると痩せ細った女性が目を丸くしていた。仲良くなったがん治療中の女性らしい。ちょっと軽くおしゃべりしてから、
「お世話になりました。どうぞお元気で」
私たちは本当にその女性に元気になってもらいたいと思いながら挨拶して、1階に降りた。
 1階のティールームで待っていたレンくんのところに行く。
「サム~」
「レンタロウ~」
2人も抱き合って再会を喜んでいた。何度も差し入れに病院に来てくれたけど、コロナのため面会はできなかったからだ。2人のツーショット写真を撮り、私と息子2人の写真も撮ってもらう。「退院できたよ~」とその写真を家族ラインに送る。ドイツにいるお姉ちゃんたちも心配していたのだ。
 レンくんに息子の重いリュックを代わりに背負ってもらい、3人で病院の外に出る。
「さみぃ~」
久しぶりに外気に触れた息子が半分嬉しそうに叫ぶ。
「そうよ、娑婆の空気は冷たいぜ」
いつものように男言葉で返事する私。(お姉ちゃんが2人という環境で育ったので、小さい頃は女言葉で話していた。そのことに気がついてから、息子には男言葉で接するようにしてきた )そういえば今朝山梨を出る時は雪が降っていたのだ、4月1日だというのに。
 3人でタイ料理屋に入る。いつもと変わらない食欲を見せる息子。私は自分の焼きそばが多いと思ったので、2人にちょっとずつ分けた。小学生の時から知っているレンくん。今は髭を伸ばして一人前の顔をしている。中学は別のところに進んだが、高校でまた一緒になった。山梨にもよく遊びに来てくれる。2人の友情がずっと続き、今回こうしていろいろ助けてもらって、本当にありがたいと思った。
 レンくんにまたリュックを背負って駅まで送ってもらう。私たちはあずさに乗り、帰途についた。
 数日後、退院したらぜひ来るようにと言われていた、友人の鍼灸師ゆかりさんのところに行く。健康な成人男性が14ぐらいあるというヘモグロビンの値が、入院時は7まで下がり、輸血を2回した。ゆかりさんが息子の身体を診察しながら、
「輸血をするとね、肝臓に負担がかかるからね。これから血液の質と量を高める治療をしていきましょうね」
というありがたい言葉をかけてもらった。
 ゆかりさんは「夢療法士」という資格も持っているのよと息子に言うと、実は不思議な夢を帰国後に見たんだと息子が話し始めた。夢の中でもう1度、タンザニアから帰ろうとしている自分の横にもう1人の自分がサポートについて、滞在していた海岸沿いの村から車に乗って首都に向かい、飛行場に行って飛行機に乗り、中継地点のドーハで乗り換えて、また飛行機に乗って成田に着いて、を丁寧にやり直したというのだ。
 これを聞いたゆかりさんは、
「サムくんはタンザニアが楽しくて、最初帰ってきた時は向こうに意識を置いてきてしまったのね。空っぽの身体で帰ってきてしまった。その空っぽのところに魔が入って、マラリアになったのかもしれないね。もう1度帰り直す時に、三途の川から引き返して来たのかもしれないわ」
「サムくんのことだから、またアフリカやいろんなところに行くでしょう。でも今度からは、グランディングして必ず意識と一緒に帰ってくるのよ」
私たち2人はゆかりさんのこの解釈に、全くもって感心して腑に落ちたのだった。
 今回のことは、できるだけ西洋医学から遠ざかるようにしてきた我が家には、新しい経験だった。血液の20%がマラリアに侵されていたのを迅速に治してくれたのは、やはり西洋医学のおかげだったろう。けれどもそれに加えてホメオパシー、フラワーエッセンス、イネイト療法の想い送り、色彩治療、妖精茶会を開き妖精さんに頼む、そして多くの人に祈ってもらう、とありとあらゆる思いつく限りのことをした。きっとそのどれも効いて、大いなる力が働いて息子を死の淵から引き戻してくれたのだろう。
 ようやく辺りの野山が春めいてきて、家の中に当たり前に息子がいて、我が家の日常が戻ってきた。あれからひと月半経ち、息子の貧血も治ってきて、大病をしたかけらも見えなくなった。
「あの時、ヘリコプターに乗りたかったな」息子がつぶやく。
「ばかね」私は鼻で笑い、あれは何だったのだろう、夢だったのかしらと思う。
 2022年5月
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canty-essay · 2 years
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還ってきた息子 1
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  ある日息子が帰ってくるなり、
「タンザニアに行く話があるんだけど」
と言い出した。かねてよりアフリカ大陸に上陸するのは、長年の彼の夢だった。長年のと言っても歳が若いので、5年間ぐらいだろうか。レゲエ音楽を聴くようになって、レゲエのルーツがアフリカにあることを知って以来、アフリカに漠然とした憧れを抱いてきたのだ。
 タンザニアで何をするのかといえば、ある日本人がリーダーとなって「エコ・ヴィレッジ」なるものを作るのだそうだ。その人は世界のいろいろな国に、手作りでコミュニティの拠点を作っているらしい。フェイスブックで、一緒にやりたい人この指とまれと募集していて、その指にとまってみようかと息子は思ったわけだ。パスポートの期限が半年以上あれば参加できるのだそうだ。
 果たして、息子のパスポートの期限は10ヶ月あり、
「これは参加しろということじゃないかな。行ってもいいかな?」
今まで息子がこうしたいと言ったことに、ほぼ反対したことのない私だ。
「そうね、行ってみたらいいわ」
かつて私の父は、タンザニアの隣国ケニアで3年間ばかり技術援助の仕事をしていたので、今回のことにそんなに驚かなかった。
 行くと決めて、出発まで1週間しかなかった。タンザニアでは、参加する14人の日本人全員が、首都ダルエスサラームから車で5、6時間の海岸に各自テントを張って、できるだけ海で魚を獲ったりして自給自足の生活をするそうなので、テントやら寝袋、役立ちそうなアウトドア用品をバックパックに詰め込んで息子は出掛けて行った。
 空港でメンバーの初めての顔合わせをしてみると、小学4年生の男の子とお母さんもいたそうだ。すでに先に入国している幼稚園児の女の子とお母さんもいるそうなのだ。強者でなければとても出来そうもないプロジェクトなのに、幼な子を連れてと感心するばかりだ。
 カタール航空でドーハ乗り換えでダルエスサラームへ。息子から無事到着したと連絡があったのは、ここまでだった。渡航中の連絡はwi-fi環境が整っていないので難しいと聞いていた。私にはそれでも何となく、彼が毎日を生き生きと楽しく過ごしている姿が目に見えるように感じたので、心配はしていなかった。
 帰国予定日が近づいてきた。首都に戻ればWi-Fi環境もあるだろうからと、連絡を心待ちにしていたら、40数日ぶりにラインが来た。
「今日ダルエスサラームに来て、明日PCRを受けて、明後日結果を受け取って、帰ります」
「ラインはデータを消費するから、返事はすぐ出来ないかもしれないけど、とりあえず幸せな時間だったよ」
やっぱり彼は充分に楽しんだのだ。
 次の連絡はドーハ乗り換えの時だった。
「やっとドーハ、なんか熱が出たり寒かったりして、下痢もしたし、一瞬吐きそうだった、食欲もない。今少し落ち着いた」
飛行場の冷房がきつくて、体調を崩したのだろうか。ずっと原始的な暮らしをしていて、急に文明に触れて具合が悪くなったのかもしれない。
 案じながら半日を過ごすと、
「成田に着いたよ。食欲も戻ったし、熱も引いた」
と連絡が入り、あの子はやっぱり丈夫な子だなと思ってホッとした。到着便4便分の人がPCR検査待ちしている間に、家族ラインにアフリカで撮った写真が次々と送られてきた。そこに��彼が生き生きと、現地の人と仲良くしながら楽しんで家を建てたり、ボートで漁をしたりしている様々なシーンが写っていた。
 飛行機が成田に到着してから5時間以上経って、PCR陰性結果をもらって、深夜の空港から友だちの迎えに来てくれた車に乗って、そのほかの友人も待つ都内の家に一泊するために向かった。
 昨夜は遅かったから、山梨に向けて出発するのはお昼過ぎにはなるだろうなと思いつつも、まだかなと待っていると、午後しばらくしてから、クラクラするので友だちに運転してもらって帰る、と連絡が入った。夕方4時半ごろ、よく山梨にも遊びに来ている見慣れた友だち3人が、息子の車を運転してきてくれた。開いたドアから顔を出した、久しぶりに見た息子の顔は、日焼けを差し引いても顔色が悪いなと思った。彼は家に入るなり、ストーブの前にごろりと横になった。重い荷物を友だちが運び入れてくれた。親切な友人たちは、明日バイトだからと高速バスで早々に引き上げて行った。息子は熱を測ると40度あり、何も食べたくないとすぐ眠ってしまった。
 翌日は前からの予定で、我が家に7人のお客さまが集まってある勉強会を開くことになっていた。息子の体調も気になったが、とりあえず椅子やテーブルを並べて準備を始めた。そうだと思って、日ごろお世話になっている友人でもある鍼灸師さんに、息子を診てもらえないか電話した。すると、高熱の時に鍼灸の治療はできないとのこと、またそれだけの高熱が出ているということは感染症が考えられるので、近所の病院で検査をしてもらうようにという話だった。
 山梨に来てからどこの病院にもかかったことがないので、先日ポストに入っていた市の電話帳を開いてみた。近くの病院に電話する。タンザニアに行っていたことを言うと、うちでは検査はできません、山梨中央病院に聞いてみてくださいと言われ、そちらにかけ直す。するとまず、最寄りの保健所に電話してくださいとのこと。保健所に電話すると、喉が痛くないか、味がわからなくなってないかと、コロナを疑っている。一昨日の成田の検査で陰性だったと言っても、まずコロナの検査をとのことで、中央病院から連絡が行くのでそれまで待ってくださいとのことだった。
 10時になると予定のお客さまが集まり、勉強会が始まった。息子は2階で寝ている。11時半ごろに知り合いに頼んでいた、手作りのお弁当が届く。息子はうどんが食べたいというので、彼の分の弁当も頼んであったが、別にうどんを茹でて、つゆや薬味を用意する。お昼になり、皆でお弁当を食べ出したら、ようやく病院から電話が入った。まずPCR検査に来て、一旦家に帰り、結果が陰性だったらまた病院に来てくださいとのことだった。
 病院は甲府にあるので、車で高速に乗っても1時間ぐらいはかかる。我が家は夫は運転できないし、私も高速は苦手だ。行くにしても下道になると2時間近くはかかるだろう。それをまずPCRの検査のためだけに行って、一旦家に帰るとは。近所で検査をして、その結果を持っていくのではダメかと尋ねると、ではまた保健所からの連絡を待ってくださいとのこと。しばらくして、保健所から電話で、それは出来ないとのこと。どこの病院でもコロナを恐れるあまり、コロナにのみフォーカスして、患者を二の次にしてやしないかと思った。息子にこの話をすると、病院には行かないと言った。私も息子は丈夫なので寝れば治るのではないかと思って、病院に行くのは止めにした。
 3時過ぎに勉強会は終わり、みなが息子さんお大事にと言って帰っていった。息子はお昼のうどんもほとんど手をつけずに寝ていた。どうしたものかと思いながらも様子を見ていると、しばらくして息子の熱は下がり、お風呂に入ると言って入った。まあやっぱりアフリカでの疲れが出たのだわと思った。夜は少しだけ食事をしてまた眠った。
 翌日はまた別の勉強会があり、私は出かけ午後3時前に戻った。息子は38度代の熱があったものの、元気で少し食事もしていた。よくなっているものと思っていた。またその翌日、前からの予定で夫が奄美大島に行くので、東京行きの高速バスのバス停まで車で送る。私自身もその週末にはた織りイベントがあるので、準備に取り掛かる。息子の熱はまた高くなり、アイスが食べたいというので、コンビニに買いに行ったりした。
 もうじき幼稚園の卒園式がある。卒園する坊やのために袴を作りたいと言って、昨年我が家でシルクの糸で布を織ったお母さんがいて、袴に仕立てるのは私に任されていた。それは8部通り出来上っていたが、坊やのウエストが思っていたより太くなり、若干の修正をしなければならなかった。またそのお母さんは中に着る着物の準備は出来なかったので、私としてはせっかくの袴に合う着物もぜひ作りたいと思い、いろいろな文献を見ながら、着物作りに没頭していた。そばで息子は寝ながら、時折タンザニアでの体験を話してくれた。
 次の日からは、はた織りイベントを一緒にやる友人が来て、一緒に下準備をしたり、袴の坊やが来て仮縫いしたり、そんな状態で3日経った。
 翌朝トイレに行くと、流していなかった息子のおしっこの色が茶色なのに驚く。こんな色のおしっこいつからしていたのと聞くと、わからない、気が付かなかったと言う。それでもその日は、週末のイベントのため、荷物をまとめて搬入しなければならなかったので、忙しく過ごしてしまった。
 夕方近所に住む、息子が習っている整体の先生がお見舞いにいらした。息子の様子をどうぞ見てやってくださいと言うと、先生は上がられて息子を見るなり、すぐ近所の診療所で診てもらいましょうよとおっしゃり、すぐに電話してくださった。先生は数年前にご主人を癌で亡くされていて、終末医療をそこの先生に診ていただいたことがあるそうで、よく知っていた。私はその診療所は前を通ったことはあったが、まるで頭になかった。
 その日は遅くまで診療している日で、夕方の6時近かったものの、すぐ診て下さることになり、先生が車で連れて行ってくださった。まず車の中でPCR検査をして、程なく陰性結果が出たので、診療所の中に入れてもらった。脱水症状を起こしているとして、すぐに点滴が始まった。そして尿検査。点滴の間一旦家に戻り待機して8時半ごろまた行くと、先生の診断は、80%の確率でマラリアだと思うということだった。息子の足にある無数の虫刺されの痕を丁寧に見てくださり、何箇所か化膿しているところがあること、黄疸も起こしていること、尿の中に出血があることなどからの診断だった。翌朝この近隣でマラリア治療のできる病院を探しておくのでまた来てくださいとのこと。この近くでは、山梨中央病院か山梨医大、信州大学病院などになるという話だった。
 どの病院になるにしろ、私の運転能力では行かれそうにないので、友人に頼んだところ、快く引き受けてもらえた。留守番のできない我が家の愛犬るりも車に乗せて行って、私と息子が病院内にいる間も面倒を見てくれることになった。
 翌朝診療所に行くと、山梨中央病院で診てくれることになり、紹介状をいただき、一旦家に戻り支度をして、友人に迎えにきてもらう。もう一人の友人も同乗してきて、一緒に病院に向かうことになった。高速を使って降りてからもしばらく走るので1時間ちょっとはかかり、救急受付に行く。中で車椅子を借りて息子を乗せて入ろうとすると、外で待つようにと言われた。外気はまだ寒く、本人の熱も40度以上あるのにと思い、家から持ってきた膝掛けをかけて待っていると、程なくして中から手術着のようなキャップにマスクに白衣( 薄いグリーン)を身につけた医師が2人出て来て、息子の車椅子を押して行った。私は救急受付で息子の名前や生年月日を書き込むのだが、98年生まれが平成だと何年になるのかがどうしても思い出せずに、計算しようと思っても頭が働かず考えあぐねていると、受付の人が平成10年だと思いますよと教えてくれて、救急外来で待つように言われた。
 1時間半ぐらい経っても、医師や看護師からの説明もなくただ待つだけだった。ふとお昼の時間を過ぎていると思い、車で待っている友人たちににお昼をとってくださいと連絡する。るりが乗っているので、お弁当を買ってきて車内で食べることにしてくれた。私も朝握ってきた小さなおにぎりを鞄から出して食べた。針と糸を出して、幼稚園の坊やの着物の襟の最後のまつり縫いをした。
 さらに1時間ぐらいしたら、インターン生のような人が出てきて、この後担当医が来て説明しますと告げて戻って行った。まもなく担当医という、思ったより若い医師が来て、
「重症のマラリアです。命の危険があります。この病院ではこれ以上の治療はできませんので、これから東京新宿にある国際医療センターにヘリコプターで搬送します」
そんなに悪いとは思ってもいなかった私は口もきけずにいると医師は、
「今日は金曜日。まあ、春分の連休前に病院に入れただけでもいいと考えましょう。では搬送の手配をしてきます」
と行ってしまった。その日で帰国してから1週間が経っていた。私は慌てて、奄美大島にいる夫に電話をしたが、電波状況がよくないのか、あまりお互いの声が聞き取れなかったので、ラインで手短に状況を伝えた。
 「お母さん、来てください」
とまたインターン生のような人が呼びに来た。処置室に入ると、息子は点滴やら、心電図計などに繋がれていた。
「あんた重症だって。しっかりしてよ」
と私が息子に駆け寄って涙声で言うと、
「大丈夫だよ。行ってくる」
と息子は親指を立てて答えた。
 その日はかなり雨が降っていたので、ヘリコプターは飛べないことになり、救急車で行くことになった。お母さんは一緒に行っても、病院に着けばコロナ対策で面会はできなくなりますから、行かなくてもいいです。息子さんから聞きましたが、ワンちゃんも一緒に来ているそうですね。うちにも犬がいるからわかりますが、お母さんは山梨に残った方がいいでしょう。そういうことで私は一緒には行かないことになった。
 息子はストレッチャーに乗せられ、さっき入ってきた救急口に運ばれた。私も一緒に着いて外に出る。救急車にストレッチャーごとガチャンと乗せられる。横の扉を開けてくれて、出発前の最後の対面をさせてくれた。救急車は昔息子が小学校で骨折した時に乗った以来だが、その時よりも中の設備が整っていて、心電図計などの機械がびっしり積んであった。
 「愛する息子よ、ちゃんと帰ってきてね」
と言うと、息子は一瞬ハッとして、また
「大丈夫」
と言うと親指を立てた。息子は昔数々の悪いことをして、叱っても言う事を聞くわけではないので、私は「北風と太陽」を見習って「愛する息子よ」を多用してきた。「愛する息子よ、行っておいで。早く帰ってきてね」と言って送り出せば、悪いこともそうはしないだろうと思ったからであった。
 私が最近織ったばかりの布を息子が気に入っていて、膝掛けとして持ってきていたので、それをお守り代わりに息子の身体にかけてから救急車を降りた。替わりに医師と看護師2人が乗り込み、救急車はけたたましいサイレンを鳴らして走り出した。
 息子は必ず帰ってくるだろうという思いと、マラリアによる多臓器不全で死ぬかもしれないという真っ黒な不安を抱えて、私は友人たちと愛犬の待つ車に向かった。
 つづく
 2022年4月
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canty-essay · 2 years
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赤松林
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 朝のウォーキングをしている人は多いと思う。私も最近息子に勧められて、朝のウォーキングを始めた。愛犬との散歩は毎朝しているが、一人でただ歩くのは、はるか昔、実に妊娠中安産のために毎朝歩いていた以来のことだ。
 山梨に住んでいるとどこに行くのにも車なので、とにかく歩かない生活になりがちだ。そんな私の健康を気遣っての、息子からの提案だった。息子とふたり、犬を連れて散歩に出た朝、「るりちゃん、今日は気持ちいいよ、もっと歩こうよ」と誘っても、帰りたそうにしている。そうしたら息子が「るりは連れて帰るから、お母さん歩いておいでよ」と言ったのが始まりだ。
 急に解放された私は、さてどこへ行こうかと思いながら、歩き始めた。もうすっかり秋で、空気は少し冷たい。空は青く高く、雲が秋らしいうろこ雲を見せている。
 日頃から、あの交差点をどんどん行ったらどこに行くのかしらと思っていたところが近くにあったので、そちらに進む。この辺りは北に八ヶ岳があるので、横に進む道以外は全て上り坂か下り坂になっている。交差点まではずっと上りで息が弾んでくる。お尻の下の筋肉ががんばっているのを、久しぶりに感じる。
 目的の交差点から道は少し下りになり、道は大きくカーブして、私を知らない世界が広がっていた。しばらく行くと、大きな屋根の木造の家が現れた。外国にあるゲストハウスのような外観で、庭にはいく種類もの花が植っている。同じ敷地にもう1軒母屋より小さな家が建っている。手前の門柱には2枚表札が出ており、2世帯で住んでいるのかもしれない。「いいなあ。将来子どもがそばに居たらなあ」3人の子どもの顔を思い浮かべてみるが、これはどうなるかわからないことだ。
 さらに上って行くと、廃屋の手前にコスモスが咲き乱れている。この千メートルを超えた地帯は別荘が多く、山梨の地元の人はあまり住んでいない。みな寒さを避けて、もっと低い方に住んでいるからだ。地元の人の家は瓦屋根の和風の家が多いが、別荘地の家は洋風の家ばかりで、みな薪ストーブに憧れているので、屋根には煙突があり、家の外には薪のストックがずらりと積んである。しかしせっかくの別荘も、年を取って来られなくなったのか、廃屋と化しているものも多く見かける。
 曲がり角に来て、曲がるかどうか道を覗き込むと、乗馬用品と書いた店の看板が見えた。小���沢の方にはいくつも馬場があるけれど、こんなところにもあるんだなぁと興味を惹かれて道を曲がる。乗馬用品のお店は開店時間前とはいえひっそりとしていたが、その後ろからずっと下りになっていて、長く続く赤松の林が見えたのに目を惹かれて、足を進める。赤松は背が高く、十メートルぐらいもあるだろうか。枝があまりなく、ひょろっとした幹が並んでいる。人の姿は無く、今この赤松林を見ているのは私しかいないみたいだ。赤松林の横からは舗装道路は終わり、細い砂利道が続いている。どこに通じているのかはわからないけど、とにかく歩いてみたくなった。
 ずんずん進む。赤松林もずっと続いている。はるか上の方で赤松の葉がざわざわと風に揺れている。不思議な音のシャワーを浴びているようで、なんだか頭の中からもつれた糸端が出てきて、すーっと風に乗って、糸端は引っ張られて、頭の中のもつれが解かれて行くようだった。
 赤松林と砂利道を挟んで反対側に、古いペンションだったと思われる建物が見えてきた。車が数台停まっているので、中に人はいるのだろうけれど、ペンションを営業しているようには見えなかった。そこを過ぎると、ぼろぼろに老朽化したテニスコートが現れた。コートはぼこぼこで、もう到底テニスができる状態ではない。さらにもうひとつ、そしてもうひとつ古いテニスコートが続いていた。
 昔アンノン族というのが流行っていて、雑誌アンアンやノンノの読者層の若い女性たちが、こぞってテニスラケットを持って、清里やこの辺りの洋風なペンションに泊まりに来ては、ボールを弾ませていたことだろう。今街中でラケットを持ってテニスに行こうとしているのは中高年ばかりで、彼女たちもかつては夏にこんなところに来てテニスに興じていたのかもしれない。今若い人でテニスをしている人はほとんどいないようなのは、どうしたわけだろう。
 テニスコートが終わると今度は、ヨウシュヤマゴボウの群生地が続く。もしかしてこの辺りは元は畑だったのかもしれないが、今は耕す人も無いのだろうか。赤松林は終わり、今度は低い杉林に変わり薄暗いトンネルになり、砂利道はその中に続いている。今度は赤ずきんちゃんの心境だ。オオカミに会いやしないかドキドキする。いや本当のオオカミはいやしないが。木立の奥に小さな家が見えると、ヘンゼルとグレーテルの気持ちになる。でもその横にはダイハツの軽自動車が停まっている。現代人の誰かが住んでいる証拠だ。
 
 こわごわと進んでいたら、急にポンと舗装された明るい通りに出た。いったいこの辺りはどこだろう。ずいぶん遠くまで来た気がするけれど。方向音痴の私には見当もつかない。ポケットから携帯を取り出し、グーグルマップを開いてみると、意外や意外、ここは我が家のほぼ真横ではないか。ただし間に道がないので、Vの字型にずっと道を下って、角に来たら今度は上って行かないと帰れない。
 舗装された道は広いけれど、車はほとんど通らず、犬連れの人とすれ違っただけだ。この辺りでは、見ず知らずの人でも、すれ違う時には挨拶をする。人も犬もたいてい挨拶を返してくれる。
 ふと、そうだ、息子に言われたことを思い出す。脚はみぞおちから生えていると思って歩くんだよ、と。脚だけで歩くつもりで��ると、ちょこちょこ歩きになりがちだ。みぞおちから脚を振り出すような気持ちで歩くと、歩幅も広くなるかな? そうやってしばらくは意識して歩くが、きれいな別荘、かと思えば崩れ落ちた別荘などを見ていろいろ想像しているうちに、いつもの意識しない歩き方に戻ってしまう。
 最後にやっと、近所のパン屋さんのところに出た。この道はこんなところに通じていたのねぇ。ここからうちまではずっと砂利道の上り坂が続き、10分ぐらい歩くと我が家にたどり着く。ウォーキングに出て50分ほど経ち、ずいぶん歩いたと思って携帯の万歩計を見てみると、わずか2.2キロほどだ。な~んだと思った。それでも、うっすらと汗ばみ、いい運動になった。
 翌日から、あの気持ちのいい赤松林の横を歩きたいと思い、またウォーキングに行く。赤松林まで来ると、頭からまた、するすると糸の端が出てくる。赤松の立てるギギギーという音に耳をすませていると、もうひとりの私が私に話しかけてくる。
「もう心配事はないね」
「え、そうだっけ? 」
「そうよ、じいとばあは死んじゃったじゃない。もう誰も死ぬ人もいないわ」
「そうか、もう心配しなくていいんだ」
私は両親の死に関しては、全くもって納得していて、父母は戦争中や晩年身体を悪くしてからは大変だったとは思うけど、何度も海外生活を送ったり世界中を旅をしたりの充実した人生だったと思う。それを全うしたことを見届けることができて、本当によかったと思っている。
「みもちゃん、さやちゃんは大丈夫かな」
「大丈夫よ。いい彼氏がついてるよ」
「そうだね」
ドイツにいる娘ふたりは、元気にやっている。
「うちの夫、頭おかしくないかな? 」
「何十年も結婚している人は、みんなそんなこと言ってるよ」
「そうか。普通かな、あの程度のおかしさは」
「うん」
「じゃあ、もう何も心配しなくてもいいか」
「うん」
 ふたりの自分が会話するのは久しぶりだった。昔はもっとしていたような気がするが。今はドームハウスに住んでいて、つまり家の中がひとつの空間なので、ほとんどひとりでいることがないからなのかもしれない。
 もうひとりの自分は、出てくる日も出てこない日もあるが、そんなことも楽しみにウォーキングに行く日々となった。これから冬となり、いずれ雪が降り積もる日も来るかもしれないが、そんな日にも、あの赤松林を歩いてみたい。
 
  2021年11月
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canty-essay · 2 years
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60代からのソーイング
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 最近、「60代からのソーイング」という本を教科書にして、服作りにはまっている。まあ、はまっている、というほど作ってはいないのだが、この夏2枚のワンピースを「いい感じ」で作ることができた。今までにも、ワンピースやブラウスは自己流で作ってきたのだが、この本の通りに作ると実にスムーズに作れる。
 この本との最初の出会いは本屋さんで、まだ私は50代の終わりだったのだか、ふと手に取ったこの本の「作り方」のページがカラーで大きくて見やすかった。
 当時東京に住んでいた私の楽しみのひとつは、大型書店の「手芸・ソーイング」コーナーに行って、最近の手芸・ソーイング事情を時々チェックすることだった。
手芸は刺繍でも編み物でもやり尽くされていると思いきや、後から後からいくらでも新しい切り口で、魅力的な写真とともに出版される。ソーイングの方はいかに簡単にステキな服が作れるか、ということに主眼が置かれて、やはり次から次へと出版される。
 思えば、昔の服作りは大変なスキルを要求されていた。小さい頃から、母が服を作るのを横から見ていたのだが、まずスタイルブックを見てどの服を作るか決めたら、後ろに載ってる白黒の小さな製図の仕方を方眼ノートに書き写し、自分のサイズに計算して型紙を起こす。布地への印つけは、たいてい「切りじつけ」といって白い糸で型紙の輪郭やダーツを縫いながら印をつけていた。母は決してはしょったり手を抜いたりせずに、きちんと工程を踏んで、身体にフィットしたすばらしい服を作っていたと思う。昔の婦人服は胸のダーツをとって、ウエストも細くくびれさせた服が主流だったのだ。
 母は服が出来上がると、残りぎれの一部を切手大に切って方眼ノートに貼り付けていた。私はその母の方眼ノートをパラパラめくって、色とりどりの小さなきれを眺めるのが好きだった。母が亡くなった後、押入れの奥から出てきた何冊もの方眼ノートは、パラパラとすると、変色したセロテープの跡のついた小きれがいくつも落ちてきた。どれも見覚えがあり、懐かしい若き母のワンピース姿が目に浮かんだ。
 さて、「私はまだ50代なんだけど」と心の中でつぶやきながら、「60代からのソーイング」を買って帰った。スタイルブックを見ながら、どれを作ろうか、生地はどれにしようかと思いを巡らすのも、またたまらなく楽しい。こんな楽しいことがあるだろうか、と思ってしまう。けれど時間だけはどんどん経ってしまう。当時の私は週に2回は両親のいるホームに通っていたし、世の中ではコロナ騒動が始まっていた。両親は相次いで亡くなり、私たち家族は山梨に移住した。
 山梨に来てから、買い物をする場所が少ないこともあって、生協に入った。いや、東京にいる時だって、子どもが生まれてからずっと生協に入っていたのだが。私はスーパーやらデパ地下で買い物するのは、時間がかかるのであまり好きではない。今までも、食べ物から日用品からパジャマや下着など、何もかも生協で買ってきた。いろんな本もまた生協で買ってきた。山梨で入った生協は、カタログを広げて見ると、東京で入っていたのとは品揃えがちょっと違うところがなんか新鮮だ。そして今度のカタログにも、わずかだが書籍のページもある。
 ある日、その書籍案内のページに「60代からのソーイング」を発見した。春夏版だった。私が買ったのは秋冬版だった。へー、懐かしい友人に久しぶりに会った気持ちだった。調べてみるとその本は年2回出版で、私が最初に買ったのはVol.4だった。今度の新しいのはVol.7だ。
 早速注文して、またあれこれ思いを巡らせる。春夏物だから、秋冬物より作りやすそうだ。母の遺した布地がいっぱいあって、どの生地でどれを作る? 楽しい時間の始まりだ。
 そんなある日、我が家から車で20分ほどのところにある、「アフリカンアートミュージアム」に出かけた。展示品のアフリカの仮面もおもしろかったのだが、ミュージアムショップに色鮮やかな布が売っているのが気になった。布地はいっぱい持っているのに、新しいものを見るとまた欲しくなる、これは一種の病気だ。
 その布は「カンガ」という、アフリカの女性が体に巻いて胸から膝までを覆う布で長方形の布で、太い額縁と中の絵があるような構図になっているのは、どの布も同じだ。そして絵のタイトルのように、スワヒリ語で「KUELEWANA KWA NDUGU NI UTAJIRI」とプリントしてある。意味は「親身になってくれる人がそばにいるのはいいものだ」とのこと。色も大好きなターコイズブルーで、これで何としてもワンピースが作りたいと思った。
 家に戻って「60代からのソーイング」春夏版を広げる。どの型だったら、カンガの柄を生かせるか。これだったら、というのが見つかり、実物大型紙をハトロン紙に写す。母が洋裁をしていた時代のスタイルブックは製図しか載っていなかったのが、今の本は逆で、製図はまず載っていない。SMLのサイズのどれかの型紙を選んで写すのだ。
 以前はそうした本の型紙をそのまま写して、生地に乗せてから周囲に縫い代を、ここは1センチ、ここは1.5センチとチャコペンで印をつけていた私だが、最近は( 以前からあった方法なのに、私が知らなかっただけかもしれないが)縫い代付きの型紙にして、縫うときにここは1.5センチの縫い代だからと、ミシンの針が落ちる板に刻印してある1.5センチの刻み線に沿って、布端から1.5センチのところを縫うというルールだ。母のやっていたような糸による切りじつけや、あるいはチャコペンで簡単に印をつけることさえ省略しているのだ。昔の服は身体にきちっと沿っていたから、厳密な印付けが必要だったが、現代はゆとりのある服を着るのが普通になっいるので、そうなったのだろう。
 「60代からのソーイング」も大きめサイズをスポンとかぶるスタイルが多く、胸のダーツを取るスタイルは少なく、ボタン開きのデザインも少ない。普段はM~Lサイズを選ぶ私だが、「60代からのソーイング」ではSを選んだ。
 縫い代付き型紙を作って布に乗せる。例の「親身になってくれる人が・・・」の文字が、ちょうど切れないようにスカートの幅いっぱいになるように置く。布のど真ん中で前身頃を取ったので、後ろ見頃は布の両端で取って、背中の真ん中ではぎを取る。でもそれを額縁の絵の両端同士をはぎ合わせて、背中にも新たな長方形を作るか、前身頃から続いているようにして、額縁の外側同士をはぐか迷ったが、前者にすることにした。残りのわずかな部分で、襟ぐりの見返しを取った。
 こうして移住一年目にして、初の「60代からのソーイング」ができた。気づけば私もちょうど60歳になっていた。母のやり方に比べれば、随分ラフな作り方だが、サイズ感もちょうどよく、これが現代にマッチした服作りなのではないだろうか。
 今までも自己流で作ってきた型紙は、一作ずつビニールに入れていた。タイトルも「何の本の何ページの服Lサイズ」などと書いたシールをビニールに貼って保存してきたが、いざ「あの型紙はどこだっけ」と探すとなかなか見つからない。みんなどうやって整理しているのかなとネットで調べると、出るわ出るわいっぱい参考になる整理法がある。
 「とにかく人間は忘れやすいので、襟だとか見返しだとか小さい型紙の全部に、何の型紙か書くこと。一枚だけ部屋に落ちていてもどの型紙とセットかすぐわかる」なるほど。型紙は畳んで、A4のクリアファイルに収めている人が多いようだ。「作り方の順番も全部書いて型紙と一緒に保存して置くと、すぐ取りかかれる」なるほど。作り方のページをコピーして、自分なりのメモも忘れないうちに書き出しておく。「作った布地のはし切れを型紙に貼って置くと、次回あの服を作った型紙はと探すとき一目瞭然」なるほど。
 こうして私の宝物のような型紙ファイルができた。同じ型の服を作るならすぐ作ることができる。そして最初のワンピースに続いて、次に秋冬物の本から、袖が七部丈のワンピースを作ることができた。布地は母が遺していたものだ。母がこの布を買ってから、40年ぐらい経っているのではなかろうか。でも、布の柔らかさとワンピースの型がうまくマッチしたようで嬉しい。山梨の風景にも合っている服だと思う。「60代からのソーイング」の新しい秋冬号も今から楽しみだ。
  2021年8月
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canty-essay · 2 years
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捨てられちゃいそうな男たち
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 最近同年代の友人と会うと、「夫を捨てたい」話題が実に多い。捨てたい、までいかなくても、夫の存在が重たい、邪魔。離婚しないまでも別居したい・・・等々、これは断捨離ならぬ「男捨離」?!と思わされるものがある。
 
 「あなたは山梨に移住して、よくご主人がうんと言ったわね」とよくいろんな人に言われる。「あははー、うちはみんな私の言うことをきくことになっているのよ」それも本当だが、夫ももうリタイアしていたし、息子も学生でもなく勤めてもいなかったので来られたというのはある。もっとも家族が反対しても、うちのお母さんは犬だけ連れて行ってしまうだろうと家族は思っていただろう。
 私の周りでは、私がしたからというわけでもないだろうが、移住ブームが起きている。まず奥さんが移住したいと言い出して、夫は反対するという構図が圧倒的に多い。
 近所に住む、私より一年早く移住して来た女性は、子どもをこの自然がいっぱいの八ヶ岳エリアで育てたいという希望を持っていたが、ご主人は移住したくなかったので「卒婚」してきたそうだ。
 もう一人の友人は、自分も移住したいが、連れていくのは愛犬と息子だけでご主人は置いてきたいと言う。さらに別の友人からは、移住に反対する夫と離婚寸前までいったが、夫を捨てきれず踏みとどまっているという近況報告があった。
 ああ、男たちよ、なぜこうも妻たちに嫌われているのか。一緒にいても楽しくない、かわいがってくれない、家事を何もしないのでもう嫌だ、などがよく聞く話だ。私ももしこの三つに自分の夫が全て当てはまったら、それは嫌だろうなと思う。 
 最初の二つは置いておくとして、私ぐらいの年代では家事の分担というより交代は、これからの双方にとってまさに大事な事だと思う。女性の方はまず、そろそろ何かの面倒を見ることから私を解放して~! と思っている。子育てやPTA、町内会、介護、仕事と、自分のやりたいことはずっと後回しにしてきたのだ。男性の方も長きに渡る会社人生を卒業して、今こそ人間として日常のことを一人前にできるようになるためのスタートを切るには、ちょうどいい時期なのではないか。
 幸い我が家では、夫が退職した時に知り合いの漢方の先生から、これからはご主人が食事作りの献立から、買い物、調理まで全部やりなさい、凝り固まった頭と身体をほぐすのにはそれが一番と言われて、夫も素直にそれを受け入れてくれたので、スムーズにバトンタッチをすることができた。もっとも最初のうちは、夫が「今晩のおかずはお鍋」と決めても、夕方の6時になってから、さてとと白菜を一枚一枚刻んでいるのを見て、「これはいつになったら食べられるかな~」と8時9時になり空きっ腹を抱えながら思ったものだった。
 今では、ネットで〇〇の作り方と調べれば、動画入りでなんでも出てくるので、パソコンで何かを調べるのが好きな夫は、メインのおかずの他にもジャムなども楽しんで作ってくれるようになった。おかげで私も安心して仕事に打ち込めるようになったというものだ。
 さて、一緒にいて楽しいかと聞かれれば、近頃は反対に「まぁ、このひと、頭大丈夫かしら」と思うことが増えてきた。結婚した頃は、夫が私を守ってくれる立場だったが、それがだんだん逆転してきた気がする。夫に物忘れが多発していることも気になる。ああ、どうか彼も私も認知症になりませんように。
 そして夫が私をかわいがってくれるかというと、日本の男性はそういうことに馴染みがないのが常なのである。娘ふたりのパートナーはそれぞれドイツ人なのだが、かわいがり方というか愛情表現がハンパない。
 長女の家を訪ねたら、カゴ盛りの赤いばらが飾ってある。これどうしたのと訊くと、彼から初めて出会った日の記念日だから届いたの、とのこと。娘は東京にいて彼氏はドイツにいるのにだ。頭痛持ちの娘が頭が痛いよ~と彼に言うと、今度は近所からピザが届く。これもドイツからの注文だ。ピザを食べて頭痛が治るとも思わないが、心遣いが嬉しいではないか。
 次女はドイツで働いているが、帰宅するとなんと彼氏が手打ちうどんを打って迎えてくれるそうだ。娘はうどんが大好物なのだが、ドイツでは入手が難しい。それをドイツ人の彼氏が手打ちしてくれるとは・・・。
 国民性や文化の違いもあるのだろうが、彼らの爪のあかでも取り寄せたいところである。
 息子が先日、とてもかわいい女の子を連れてきた。ふたりのおつきあいがこれから深まっていくのかはわからないが、もしこのふたりが結ばれたらと軽く想像してみると、今はあどけなさの残る彼女も10年経ち、20年経ちしたら、そうとう強そうである。・・・息子よ、そのときには捨てられないようにね!
  2020年12月分
付記
  しかし、なぜ世の多くの男性は移住に反対するのだろう。まず仕事が、という理由が多いのだろうが、最近はコロナのおかげでリモートワークが増えてきた。本当に都会に居続ける理由があるのか、一度考えてみたらよいと思う。
 そして、なぜ奥さんがそう言い出したのか、考えてみてほしい。女性というのは、家族や家庭を守る本能が強い。どっちが損か得かという理屈ではない、何かに突き動かされて彼女は移住しようと言っているのだ。例えば明日にでも首都直下型地震が起きないと、誰が言えるだろう。災害が起きないまでも、新天地で家族にとってすばらしい展開があるかもしれないではないか、と私は思う。
 その後も、私の周りには移住者がどんどん増えている。「ねえ、今度来た◯◯さんもXXさんも、みんなダンナさんを置いてきているんですってよ。すごいわねぇ、そんなにいやなのかしら」と家で言ったら息子が、「移住するときは、みんな必要なものしか持ってこないでしょ、そういうこと」
 大男捨離時代の到来である。
  2021年5月
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canty-essay · 2 years
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山梨での生活 ーー初冬篇ーー
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 山の朝はゆっくり始まる。雨戸もカーテンもひとつもない我が家の全ての窓からさし込む光は、夜が明けてもしばらくグレーのままだ。「今日はお天気が悪いのかな」と思っていると、ある時急に陽がさしてくる。山の向こうから日が登るので、朝の訪れが遅いのだ。
 私たち家族は、今年の夏に東京から山梨県北杜市に引っ越してきた。この辺りは八ヶ岳エリアとも呼ばれている。我が家は標高1030メートルにあり、家の後ろを北に登っていけば、やがて八ヶ岳・天女山の登り口となる。南の方角には南アルプス、南東にはひときわ肩線の長い富士山が見える。
 南アルプスの山肌は、くっきりよく見える日もあり、雲に霞んでいる日もあるが、その雄壮な山の連なりは象か水牛の群のようにも見え、ずっと目で辿っていると不思議な気持ちがしてくる。遠い遠い昔に、自分が粗布をまとった原始人か、もっと前の世代の生き物か定かではないが、その山を眺めていたような気がするのだ。それは縄文時代? もっと大昔? それはわからないけれども、地質学的に見ても南アルプスは八ヶ岳よりもはるかに古い山だそうだ。
 つい、「山での暮らしはね・・・」とか自分の家を「山のお家」と言ってしまうが、実はそんなに山の中にあるわけではない。すぐそばには交通量の多い幹線道路が走っているし、三十数歩歩けばお隣近所の家も四軒建っている。そのうちの一軒が幹線道路沿いにあり、カフェレストランを営んでいらっしゃるので、そのレスランの名前を告げて、そこを曲がって三軒目だからねと言うと、うちの場所をすぐわかってもらえるのがありがたい。そこのオーナーさんも、あと二軒の家の方も他県からの移住者で、奥の一軒が地元の方である。
 引っ越しの挨拶に行った時は、まず「別荘ですか、定住ですか」と訊かれた。なるほど、お向かいの方は別荘にしているので、たまにしかいらっしゃらない。私たちは、「これから定住しますので、よろしくお願いします」と挨拶した。
 レストランの方は菜園もなさっていて、よく野菜を分けてくださる。夏に初めていただいたモロッコいんげんとジャガイモの美味しかったことと言ったら。つい先日いただいたほうれん草は、葉が柔らかく、生のまま食した。ピーターラビットにでもなった気持ちがした。根っこもきんぴらにした。
 奥の地元の方には、たくさん採れたからと、一度に白菜三つと大根三本とキャベツひとつをいただいた。会社の近くの畑からということだった。どうもこちらに住んでいると、野菜には事欠かない。
 野菜を買いに行こうと思ったら、スーパーもあるけれど、うちの北側を登っていくと無人の畑がある。入り口にはちゃんと収穫用のカゴやハサミ、いろんなサイズの長靴までも用意してあって、網のゲートを開けて畑に入ると、旬の野菜がなっていて、小さい野菜はビニール袋一杯でいくら、大きい野菜はひとついくらの表示がしてある。おいしそうなところを自分で収穫する。中にはなっている姿を初めて見る野菜もあり、「へー、オクラってぶら下がっているのじゃなくて、剣のように尖ったところが上向きでなっているのね」と感心してしまったり。そして出口にある紙に、何が何個でいくらと書いて、お金を置いてくるという、全く性善説に基づいた商売なのだ。小銭の無い場合はお支払いは次の機会でも、とすら書いてある。
 このすてきな畑も十一月いっぱいで終わりで、再開は来年の六月ということだ。春になって種を蒔くので、次の最初の収穫が六月頃ということらしい。
 我が家の近辺にはスーパーが二軒あり、近い方のは車で八分ばかりのスーパーひまわりさんだ。ここはコンパクトなお店ながら、おいしいものがぎゅっと詰まっているところで、店長さんも店員さんも元気で感じがいい。北杜市には国産小麦と天然酵母のこだわりのパン屋さんが多く、そのほとんどのパン屋さんがひまわりさんに卸しているので、ここに行くだけで、あそこのパン屋さんのもそっちのパン屋さんのパンも選べるのが楽しい。私はまずパンコーナーに行く。
 野菜もおいしいけれど、果物もおいしい。桃やぶどうはもちろんのこと、特にりんごが産地に近いせいか、大変おいしい。お肉やヨーグルトもおいしい。お魚だけは海から遠いせいか、お刺身なども並んでいるが、種類が少ない。
 もう一軒のスーパーまでは車で15分ほど、ひまわりさんより値段は安いが、どこにでもあるスーパーの感じで、北杜市ならではの特色は無い。同じ建物に、衣料品店、靴屋さん、メガネ屋さん、写真屋さん、小さな本屋さんなどが入っている。
 そのすぐそばに一軒大きなホームセンターがあり、コンポストやら材木やら電動ヤスリなどを買った。
 北杜市には、ユニクロも無印も、百均も、あっても行かないがスターバックスやマック、それにパチンコ屋もない、ちょっと不便だが、清々しいところなのだ。
 
 ゴミ収集車は一軒一軒の家には取りには来ない。地域ごとに出す場所があり( 金網張りの小屋みたいなもの)、住民は車でそこに出しに行く。私たちのような移住者のうち住民票を移していない人は、その集積所に出すことはできず、毎週日曜日の午後公民館に出しに行く。日曜日の午後に都合がつかないと、ゴミはどんどん溜まっていく。
 そこで生ゴミは、庭に穴を掘って、蓋つきバケツの底がないみたいなコンポストを埋めて、毎日その中に入れては土と混ぜ合わせておく。台所には生ゴミ入れを二つ置いて、一方はコンポストに入れられるもの、他方はコンポストに入れても土に戻りにくい、卵の殻や動物や魚の骨、玉ねぎの皮などを入れることにしている。
 でもなんとなくゴミが出しにくい感はいつもあるので、できるだけゴミを出さないように心がけるようになってきた。古新聞も、今や新聞を取ってないので貴重品で、引っ越す時の梱包に使った古新聞を大事に伸ばして、ペンキ塗りの養生に使っても、また畳んでしまっている。
 冬本番のここでの生活の醍醐味は、薪ストーブのある暮らしだ。我が家の薪ストーブは小ぶりながらも、家の中心に構えている。石油ファンヒーターもあり、これはボタンひとつ押せばすぐ温風が吹き出してくるありがたいものだけど、いわば前座みたいなもので、真打ちは薪ストーブだ。暖かさが違う。
 生まれて初めて付き合う薪ストーブは、知らないことばかりだった。まず薪はその辺の木を伐ったものでも、拾った木でもいいのかと思ったら、薪は伐ってから最低でも八ヶ月以上乾燥させたものを使う。針葉樹と広葉樹の使い分けもあって、針葉樹は火がつきやすいが短時間で高温になるので、そればかり使っているとストーブを傷めてしまう。広葉樹はなかなか火がつかないが、燃え始めるとじっくり燃えるので、両者をうまく組み合わせて使う。
 火熾し火加減は難しく、火をつけるときは寒くても窓かドアを開けて吸気しないと、煙が部屋中に充満してしまう。火が熾って煙突に向けて上昇気流が発生してから閉めないといけない。火をつけてから、火が安定するまで二十分ぐらいは面倒を見ていないといけないが、この作業は息子が買って出てくれている。薪ストーブがうまく操れるようになったら、一人前だ。来春には、斧を振るって薪作りもしてくれるだろう。
 もうひとつ活躍している暖房器具が火鉢だ。数年前に祖父母の家を空っぽになるまで片付けたときに出てきたもので、いくつも出てきたのだが、その中で一番小さくてきれいなものを、防災用品のひとつとしてもらってきた。ライフラインが止まったとき用と思っていたが、東京で使うことはなく、思いついて山梨に持ってきた。炭も大袋ひとつあって、一体何十年前のものなのかわからなかったが、火をつけてみたらちゃんとついて暖かい。それを今、食卓の下に置いて脚を温めている。夜は脱衣所に持っていき、深夜はトイレの中に置いている。夫も私も、遠い昔に祖父母が火鉢を使っているのを見ていた記憶があるだけで、使い方はインターネットで調べて、見様見真似だ。
 今週に入り、朝晩の外気は0度を下回るようになった。昨日は粉雪が舞った。家の中ではクリスマスソングが流れ、薪ストーブが燃えている。こんな生活初めてだね、と家族で山梨の冬を味わっている。
  2020年12月
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canty-essay · 2 years
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洗濯大好き、私の幸せ
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 昔から家事の中では洗濯をするのが好きだった。と言ってもやたら家中のものを毎日全部洗うというようなことではなくて、自分なりにこれはこういう洗い方でと、洗剤を変えたり、水の温度を変えたり、ちょこちょこ工夫するのが楽しい。そうはいっても手洗いするものはわずかで、ほとんどのものは洗濯機に任せるのだが、洗う時間と脱水する時間をその都度変えてみたり、わずかの工夫をする。水のバシャバシャいう音も心地よい。
 洗いあがったものをパンと振って、干すのも楽しい。洗濯バサミにはさむ作業とハンガーにかける作業は洗濯機の上に渡した棒に吊るして行い、出来上がると2階のベランダに干しにいく。
 我が家のベランダは東側にあり、午前中が勝負だ。シーツなどの大物は直にベランダに持っていき、バサッと振ってロープにかける時の気持ちよさ。ベランダの目の前は雑森林で他に家もなく、まるで森に向かって洗濯物を投げるように干すのだ。これでお天気がいいと、気分は最高だ。
 ところが所詮は他人の土地。長年雑森林としてほっぽらかしてあった隣地の生産緑地の地主さんに相続が起こり、突然木々は切り倒され、あれよという間に化学物質のかたまりのような建売住宅が12棟も立ち並んだのである。
 あろうことか、私の愛するベランダの半分は境界線ギリギリに建てられた隣家に視界は遮られ、まさにその隣家の屋根が手の届くところに現れた。ものが干せるスペースも半減した。仕方がないので、枕を干すのに隣家の屋根の上に並べてみた。熱くなった瓦で、完全熱射消毒された感じにはなったが。
 洗濯干し場も半減したが、我が家の一階の部屋はさらに悲惨なことになり、朝になって雨戸を開けても、開けるのを忘れたかなと思うほど、暗くなってしまった。洗濯の楽しみを奪われ、色判断に大事な光もスタジオには届かなくなった。
 コロナ騒動が起こり、部屋も暗くなったが、世の中も暗くなってきた。「うーん、このままではいけない。これからの時代を生き抜くには、農業が大事かもよ?」何か打開策が見つかるかもと思い、山梨県での農業体験に申し込んでみた。
 がら空きのあずさに乗り、小淵沢に向かう。初めて会った農業体験仲間は、話してみると、山梨県北杜市への移住を考えている人が大多数だった。二日間の農作業を終え、帰りじたくをしていると、一人の女性が北杜市内の物件を見に行くという。おもしろそうなので、私も便乗させてもらうことにする。その女性は、自分も一緒に住めるシェアハウスをこの土地で始めたいということだった。
 まず一軒目はドームハウス。ドーム型の家だという。へーどんな家かしら。わりあい大きな幹線道路沿いのカフェを曲がって4軒目に、その家は現れた。木立の中に苔むしたようなドーム型の家が現れた。「物語の中のおうちみたい! なんてかわいいのかしら」
 案内の不動産屋さんが、家の鍵を開けるのももどかしく、家の中に飛び込む。そこは全て無垢の木組でできた、大きな空間が現れた。サッカーボールの内側のように、六角形と五角形が組み合わされてドーム型が形成されている。天井板というのは無くて、ドームのてっぺんからは、南国のような大きな扇風機が下がっている。
 玄関扉を開けてそのまま広がった空間には、左側に薪ストーブコーナー、右側に大きなダイニングテーブルが置かれ、その奥にはキッチン。キッチンを遮るように階段が伸びていて、ロフトへと続く。
 ロフトからダイニングにいる人に話しかけるのも容易どころか、ドームの不思議な音響効果で、独り言でも聞こえてしまいそうだ。プライバシーがあるのは、ドアのあるトイレと洗面所・お風呂、玄関横の寝室のみとなる、空間は大きいのに一体感のある作りだ。これから夫と二人暮らしになるのだったらいいかもしれない。機織りに来るお客さまも、この家の作りをおもしろがってくれそうな気がする。玄関前のデッキが広く、ここでお茶を飲んだり、機織り機を出してトンカラしたり、ちょっとした大工仕事とかなんでもできそう。敷地は300坪あり、様々な木が植えられ、隣地はレタス畑となっている。
「この家で暮らしたら、どんなに楽しいかしら」私にはここで自分がいろんなことをしている姿がまざまざと目に浮かんだ。すぐにこのことを家族に伝えようと思い、「今からなら、次のあずさに間に合うので、これで帰ります」といとまを告げて、東京の自宅へ急いだ。
 四日後、息子の運転で、普段は別に住んでいる娘も誘って、夫と愛犬も乗せて、北杜市のドームハウスへと向かう。
 「どうかしら、この家? これからこの家に住もうと思うのよ」「北杜市に住むの?」「そうよ。もう東京に住んでいる場合じゃないわ」「お金はどうするの?」「もうじき、おじいちゃんの遺産が入るわ。たぶん足りると思うの」
 かくして、私たちは北杜��に住まいを移した。標高千メートル、右を見れば八ヶ岳、左を見れば南アルプスと奥秩父。デッキにテーブルを出し、前の持ち主さんが植えたブルーベリーを摘んできて、朝食に並べる。「私たち、なんて幸せなのかしら。もう何もしなくて、ただ生きているだけで幸せだわ」
 新調した洗濯機を回す。今度の洗濯機は、おまかせボタンが幅を利かせて、洗濯時間や脱水時間は好きには変えられない。そのぶん、洗濯の一連の動作を丁寧にやってみる。洗濯そのものは洗濯機がするのだが、その前後を丁寧にしてみる。汚れているものは下洗いをしてネットに入れる。適温のお湯に環境に優しい洗剤を溶かして、よく泡立ったら洗濯物を入れる。洗濯が終わったら取り出し、洗濯物をひとつひとつはたき、さらに丁寧にする時は、閉めた洗濯機のふたの上で、洗濯物のシワを手で伸ばす。新しい洗濯機にしたら、宣伝文句通り、絡みにくくなり、取り出しやすくなったのが嬉しい。さらに洗濯槽内のごみ取りネットをきれいにして、他のネットと一緒に乾かす。槽内もきれいに拭く。
 洗濯はどこかお茶の作法に似ていると思うと言ったら、笑われるだろうか。その昔、中学生の頃、裏千家の先生のお宅に二年間ほど通った。母が行儀見習いを娘にさせようと思ったことに従ったというより、何かおもしろそうと思って仲のよい友だちと通った。
 実際には、足はしびれるし、ひとつひとつの動作の意味がわからなかった。それでも、一年ぐらい経つと一応、一連の動作はできるようになった。そっとひしゃくを釜に置いたり、四角く丁寧に畳んだ布で茶杓を拭ったり、パンと袱紗をはたいてみたり。
 あの中学生の時以来、茶道からは全く離れ、抹茶もカフェインが強く苦手になった。けれどもあの時意味のわからなかった動作が、お茶の作法にとどまらず、日常の全てに応用できるのだと、今勝手にそう解釈して、とても腑に落ちている。客人をもてなす気持ちも、洗いあがったものを使う家族やお客さま、ひいては自分自身をも大切にしているからと考えれば、気持ちがいい。当時先生はすでに高齢の方で、今はもうこの世にはいらっしゃらないと思うが、「先生が教えてくださったことは、このことなのですね?」と訊いてみたい。
 さて、洗濯機の横の勝手口を開けると、すぐ洗濯物を干す事ができる。庭にロープを張り、緑の木立の中に洗濯物を干す。洗濯物の重みでロープがしなり、服の裾が草地につきそうな中を蝶々が舞う。「ああ、なんて幸せなのかしら」
 デッキに折りたたみテーブルと椅子を出し、時間帯により動いていく木陰を求めて、テーブルと椅子をずらしながら、パソコンで原稿を書く。あ、パソコンの角にとんぼが止まった。風が木々を揺らす音が心地いい。足元では愛犬るりが、大あくびをして寝そべっている。庭のすみでは夫が畑を作ろうと鍬を振るっている。遊びに来た娘は、台所でみんなのためにズッキーニパスタを用意している。息子は庭にテントを張って、キャンプ気分を味わうことにしている。夢なら覚めないでほしいと思う、この幸せである。
  2020年8月
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canty-essay · 3 years
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母の葬送
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   父が旅立って3ヶ月、認知症ながら平穏に暮らしていた母も、誤嚥を起こしてからわずか2週間で旅立ってしまった。
 最後の2週間、積極的な延命はしないという、主治医と私の合意のもと、母は一日置きの水分点滴と酸素吸入で過ごした。当初目を開けて、時折微笑んでいた母も、日を追うごとに目も開けなくなり、酸素吸入器により、無理やり呼吸をさせられているようにしか見えなくなってきた。
 「もういいわ。苦しそうで見てられない。もうお逝き遊ばせ」見舞う度に、母の時代の言葉でそう話しかけた。
 「今なら、みんなここに来て見守っているわ。さあ、お逝き遊ばせ」娘と息子、夫も一緒に来たところでそう言ってみたものの、母の苦しそうな呼吸は続いている。 
 目の前で生き物が息をひきとるのを見たのは、昔飼っていた愛犬が、私と母の膝の上で息絶えたのを見たのしかない。息を吸って吐いて吸って吐いて、3回目に大きく吸って吐いたのが最期だった。そのあとの体はぐにゃぐにゃになり、抱いているのも難しくなった。
 母も息を引きとろうとしているのに、次から次へと酸素が送られて来て、引きとり損ねているのだろうか。水分点滴も、すれば喉に痰がたまり、吸引してもらうのだが、それも苦しそうだ。最低限の水と酸素と思ったのだけど。
 最後に残る感覚は聴覚と嗅覚と聞いたので、近所の公園に咲いていたクチナシの花を一輪手折って、母の鼻のそばに持っていったけれど反応は無く、枕の横に置いて帰った。
 翌朝7時過ぎ、ホームから電話があり、「先ほど、お母様の呼吸が止まりました」私たちは慌てて、ホームに向かった。
 母は黄色く縮んだ身体で、まだ酸素マスクをさせられていた。ホームの主治医が申し訳なさそうな様子をして、瞳と心臓と呼吸を調べ、臨終が告げられ、やっと酸素マスクが外された。
 「母上、申し訳なかったわね、酸素や点滴は返って苦しかったわね」後ろで娘がすすり泣きを始めた。母は半ば口を開いたまま、完全に時間の止まった人となっていた。枕元には萎れたクチナシの花が置かれたままになっていた。
 ホームの母の部屋のクローゼットには、すでに私の用意していた「旅立ちの服」が入っていて、最期の着替えをさせてくださるということで、私たちは別室で待った。30分ほどで呼ばれて部屋に戻ると、母は私が用意した通り、細かなレースの白いブラウスにピンクのカーディガン、掛け布団をちょっとめくってみると、ちゃんとグレーのプリーツのロングスカートとストッキングも履かせられていた。
 「おばあちゃんはいつも爪もきれいにしていたから、マニキュアを塗ってあげましょうよ」私と娘とで母の組んだ手の爪に、透明のマニキュアを塗った。
 母の爪にマニキュアが塗られたのは、一体何年ぶりのことだろう。3年半前にホーム入所した時点で、母は自分の身支度はできなくなっていた。その数年前から、家の中はめちゃくちゃになり、母はまるででたらめな格好をしていた。
 きれいで頭のよかった母がなぜこんなことに・・・意思の疎通もできなくなり、もうあの時点で私の母は遠くに行ってしまっていた。
 「なぜもっときれいなうちに死ななかったの」しかし、自然界を見回して見ても、白く芳しい花こそ、最後は汚らしく茶色になって散ってゆく。
 
 父が亡くなった時「おじいちゃんの旅立ちを祝う会」をしたように、今回も葬儀ではなく「おばあちゃんの旅立ちを祝う会」をすることにする。息子の発案で、母が生前たくさん作ったり編んだりした母の服や私の服、刺繍や織物を展示する「展示葬」にしようということになった。実家に帰り、いくつもの茶箱の中から母の作ったものを取り出す。ああ、ああ、この服もあの服も着ていたなと、まだ若かった頃の母の姿を思い出す。
 夫と息子が我が家のスタジオのピクチャーレールから棒や木の枝に紐をつけて吊るし、洋服を掛けられるようにする。娘は何時間もかけて、ずっと服にアイロンをかけてくれる。
 私は「祝う会」をするにあたって、母の病状の話には触れず、実家を片付けていてごく最近見つけた、まだ50代の頃の母の書いた「自分史」を今回初めて読んで大変おもしろかったので、それを朗読することにした。
 3日後、母は私の選んだピンク色の棺に納まって、きれいに死に化粧されて私たちの住まいに届けられた。その様子は、いつの時代かに手厚く葬られた高貴な人の、腐らない処理をされて安置された遺体のように思った。
 翌日、我が家のスタジオで「祝う会」は始まった。祝う会なので、私たちは喪服も着ずに、母の好きな音楽をかけた。参列者は私たち家族4人と愛犬、ホームの母担当の介護士さん1人と、葬儀社のお世話係の方の計6名。
    介護士さんとお世話係の方は、前回父の祝う会にも出てくださったので、我が家の変わったお葬式には驚くこともなく、むしろニコニコして、「まあ、お母様おきれいだわ」とか、「この服みんなお母様がお作りになったんですか、なんてすごいんでしょう。器用な方だったんですね」と、まさに私たち家族が望んだような雰囲気のスタートとなった。
 
 「本日は、私の母の旅立ちを祝う会にお越し下さり、ありがとうございます。普通でしたら葬儀と言う、別れを悲しむ式をするのでしょうが、しかし考えてみますと、母は88年の生涯をしっかりと生き抜き、今天に昇ろうというところです。母の生涯を感謝し、今日は母の旅立ちを祝う会としたいと思います」
 それから私のわかる範囲で、母の生い立ちやら、来歴を短く話した。そして、いよいよ母の「自分史」の朗読を始めた。
 そこには、37歳の母が、生まれて初めての外国に、駐在員夫人として約2年間に渡りその土地に住むという驚きと喜びが、原稿用紙14枚の中に溢れていた。52歳の時の母が、どこかの文章教室に行って書いたらしい。
 私たち家族がセイロンに滞在したのは1969年から70年のことで、当時の私は小学1年生だった。1学年3クラスあった荻窪の小学校から、先生1人に生徒が全学年で7人という小さな日本人学校に転校して、今思い出してもどうやって勉強していたのやら、休み時間にお兄さんお姉さんと遊んでいたことしか思い出せない。
 我が家は広い庭の大きな家で、運転手やボーイや庭師がいて、出かける時はいつも車、学校から帰るとたまに、年の近かった大家さんの娘さんデリハラちゃんと遊んだり。夜は両親が共に揃ってパーティーに行くことが多く、早夕ご飯を食べて1人で留守番することが多かったが、さびしかったり退屈したことはなく、1人飽きずに本を読んだり絵を描いていた。
 家に大勢人が集まってパーティーをすることもよくあって、そういう時も早夕ご飯を食べて、遠くにガヤガヤ音を聞きながら1人で部屋の中で遊んでいて、眠くなったら1人でベッドに入り眠っていた。
 私の両親は子どもに関して放任主義だと思っていたが、そうではなくて、海外での慣れない生活に必死だったのだと気付いたのは大人になってからだ。
 母の手記の中には、まさにそのあたりのことがたっぷりと書かれていた。私が1人で留守番している間、母は父と仕事上のパーティーに出席して、外国人と色々な話題について話したり、自宅でもパーティーを催すにあたり、ケーキの作り方から勉強した、とある。でも大事なのはご馳走を作ることではなく心の問題だ、ともある。
 また単身赴任している日本人男性たちに、なけなしの材料で日本食を振る舞うのも自分の役目で大変だったが、皆が喜んで食べてくれると本当に嬉しかった、などともあった。
 母はどんな大変な状況でも前向きにがんばっていた。発展途上国での暮らしを不便とか不衛生と言う人も多いが、母は一度もそんなことを言ったことはなく、豊かな自然を楽しみ、現地の人たちのことを、物を大切にしてハエ1匹殺さない、優しい信心深い尊い人たちだと記していた。
 随分長い時間をかけて読んだつもりだったが、時計を見るとまだだいぶ時間があったので、息子と娘に感想を言ってもらうことにした。ふたりとも異口同音に、おばあちゃんがこんな人生を送っていたなんて知らなかった、すごくがんばったんだね、もっといろんな話を聞けばよかったな、と。そうしたら介護士さんも、「私にも言わせてください。ホームの利用者さんがどんな人生を送ってきたのか理解するのはとても大事です。先に亡くなったお父様からお母様の以前のご様子はできるだけ聞き出すようにしていましたが、お母様がここまでいろいろなさっていた方とは知りませんでした。知ることができてよかったです。他の介護職の者にも伝えたいと思います」
 日頃ホームの職員さんが、父にも母にも常に尊厳を持って接してくださっていたことに感謝であったが、入居した時点で、母の認知症はかなりひどく、いつも不機嫌な顔をして時には暴れたりしていて、尊厳を持って接するなんて並大抵のことではなかったと思う。入居途中から始めたホメオパシー治療が功を奏したのか、母は随分穏やかになり、目のあった相手に微笑みすら浮かべるようになったが。
 それにしても、なぜ母は認知症になったのだろう。社交的で友人も多く、60手前でスキューバーダイビングを始めたりヨガをしたり、コントラクトブリッジをしたり、古典を学んだり、体も頭もよく使っていたのに・・・と思う。
 祝う会も終わりに近づき、棺に花を入れ最期のお別れをする時間となった。母がよく口ずさんでいた、ドリス・デイの「ケセラセラ」、それも晩年に吹き込まれたバージョンをかけながら、私たちは花を入れた。両親の家の庭から切ってきた紫陽花も入れた。
 母はもはや認知症を患った人の顔ではなく、堂々とした88年の生涯を生き切った人の顔をしていた。ドリス・デイの声も若かった頃の声とはまた違い、円熟した人生の厚みを感じさせた。ピンクや薄紫の花に埋もれていく母の姿は、神々しいばかりの美しさとなった。 
 「そうだ、ドイツにいる下の娘に���、この美しい姿の写真を見せなきゃ」と私は何枚か母の死に顔を撮った。すると介護士さんが「とてもきれいだから、お母様とみなさんの写真を取りましょう」と言ってくださったので、私たちは母の棺を囲むようにしゃがみ、カメラに向かって笑顔になった。
 そう、悲しむことはないのだ。母は今日全てのことを終えて旅立っていく。父を助け、なかなかできないような体験をたくさんした人生だった。「おめでとう」それ以外の言葉が見つからない。私たちは拍手拍手で母を見送った。
  2020年8月
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canty-essay · 3 years
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母の遺した「自分史」
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                                                  自分史
                              飯島美智子
1、生い立ち
2、青春時代
3、結婚 三鷹 1959年
4、金沢 1960~62
5、野方 1962~64
6、熊本 1964~66
7、荻窪 1966~69
8、コロンボ 1969~1970
9、ヨーロッパ旅行 1970~71
10、麻布 1971~73
11、ジャカルタ 1973~77
12、東南アジア旅行 帰国 1977
13、池袋 1977~80
14、深大寺 1980~81
15、ナイロビ 1981~84
16、ドイツ旅行 1983 9月
17、エジプト旅行 1984 1月
18、カナダ旅行 1984 9月
19、深大寺 現在
 結婚して26年になりますが、結婚3ヶ月目から転勤すること10回、引っ越しは13回となりました。日本国内はもとより、外国も任地や旅行を含めると20数カ国となり、様々な珍しい体験をしました。
 その中でも、一番印象の深かったコロンボの生活をまず書いてみました。あまりにも多くのことがあり、何から書いていったらいいのかわからず、半分ほども表現できなかったのが残念です。
                                コロンボでの生活 1969~70年
 私は生まれつき色が黒かったので、小さい時から南国じゃ美人とか、酋長の娘とかよく云われからかわれたものだった。いつしかそれが、南の国に対する大きな夢と憧れに変わっていった。
 小学生になってから、母はよく私に翻訳物の本を買ってきてくれた。インドの昔話とかロシアの民話とかグリム童話集とか・・・
 そんな環境で育った私は、中学に入ってから英語、西洋史、世界地理などにとても興味を持つようになった。卒業して外国商社に勤めた私は、外国がまた一歩近づいたような気がした。
 26歳の時に、電々公社に勤める夫と恋愛結婚をした。それまでは、夏休みの海山での生活以外、東京を離れたことのなかった私が、結婚3ヶ月目にして金沢に転勤となる。この時から私の人生は、引越しと旅行の繰り返しで今日に至ることになった。
 初めての任地金沢で娘をもうけ、その後2年間ずつ金沢、東京、熊本と生活をし、また東京に戻った。もうこの頃になると、ひとつの場所で1年半を過ぎる頃になると、次の任地はどこかなと落ち着かなくなった。
 そんなある日、夫に、セイロンで日本人のITU( 国際電気通信連盟 )専門家を求めているから試験を受けてみないか、という話があり、書類を提出する運びとなった。すぐに応募したものの、それから半年以上何の音沙汰もなく、だめかと思っていたら、1968年の大晦日に採用通知が来て、1週間以内にジュネーブの本部に出頭せよとのことだった。正月休みで手続きが遅れ、1月10日、夫はジュネーブに向け出発した。そこで採用決定となり、そのままコロンボへ赴任した。
 セイロンは何もない発展途上国なので、あれもこれも買ってきてほしいという手紙を受け取るたびに買い物に奔走し、段ボール箱百個近い荷物を作り船便に出した。日本に置いていく家財は、親兄姉たちの家に預け、夫の出発からひと月遅れで、小1になった娘を連れて日本を後にした。
 途中香港に2泊し、かつての勤務先の上司であったオーストラリア人女性を訪ね旧交を温めた。そして次の日夜遅く、シンガポールに着く。翌日ここで半日を夏物買いに費やし、ついに私は疲れから寝込んでしまった。39度5分ほどの熱があり、寒気もひどく、明日早朝の出発を危ぶみながら、祈る気持ちでアスピリンを飲み、早寝をした。
 幸い次の日、熱はどうにか下がり、やっとの思いで空港へ。シンガポールは、熱隊の美しい木や花に囲まれた公園のような街で、私は一目で好きになってしまった。もっとゆっくり観たかったのに、本当に残念だった。( 後日、2度ほど訪れる機会があり、思う存分シンガポールのよさを味わうことができた )
 数時間の空の旅の後、紺碧のインド洋に陸地が見えてきた。飛行機がだんだん降下していくと、そのあたりは遠浅なのか、水の色も薄青になり、長く続く白砂の浜辺に打ち寄せる波が幾重にも連なり、岸辺近くで次々と白く砕けていく。陸地は一面の椰子林で、海風で大きく揺らいでいた。その中に吸い込まれるように着陸した。 
 機内を出ると、焼けつくように照らす太陽、明るい真っ青な空、心地よい風、ああこれが南の国なのだ、そして今私はそこに立っている!
  「エクスキューズミー、アーユー ミセス イイジマ? 」ハッとして我にかえる。見ると、真っ黒な顔に人懐っこい目をした人が、白い歯を見せて微笑んでいる。国連の職員で、我々を迎えに来てくれたそうだ。おかげで入国手続きも簡単に済み、出迎えに来た夫とひと月ぶりに再会した。
 飛行場から40分ほどの道のりを夢見心地で車窓からの景色を眺めながら、当座の住まいのゲストハウスに向かう。道々、色とりどりのブーゲンビリアや真紅のカンナが美しい。肌に陽が当たると、ジリジリと焼けていくのがわかる。けれど一旦日陰に入ると、すっと涼しく快適だ。大きな木の下で昼寝をする人々があちこちに見られた。
 翌日、ショッピングセンターに行く。たらたらと流れる汗をぬぐいながら、商店を覗く。がらんとした店内の棚のところどころに品物が置いてある。ラベルの色は褪せ、形のひしゃげた缶詰などが並んでいる。終戦後の物資のない時代を思い出した。底がでこぼこの鍋、ブリキでできたケーキ型、ホーロー引きの洗面器、分厚い不透明なガラスのコップ等・・・子どもの頃の記憶が甦ってくる、何とも懐かしい光景だった。
 マーケットの肉屋に入ると、大きな骨つきの肉の塊が吊るされている。足元には皮や骨や蹄などが落ちていて、どこもかしこも真っ黒にハエで覆われている。魚屋はもっとひどく、マーケット全体が異様な臭気で満ちている。日本人の多くは不潔で嫌だと言っていたが、生来楽天家の私には、不潔ということに全く煩わされることがなかった。
 街には、ヘッドライトの壊れた片目の車。雨が降ると立ち往生のワイパーの無い車。走ると足元から地面がちらちら見える床のめくれた車。道を曲がる時はウィンカーは壊れていることが多いので手を出して合図をする。ここではどんなに壊れていようと、走れば車なのである。
 そういう車を大切に修理しながら、だましだまし使っている人たち。道路にも海岸にもゴミが無い。彼らは何でも拾って役立てようとする。物質文明に浸って、物の有り難さを忘れていた私にはよい教訓だった。
 削っても削っても折れている鉛筆。ロウが多くて描けないクレヨン。消しゴムでこすると破れてしまうざら紙のノート。娘は改めて、日本製品のすばらしさを知り、3センチぐらいに短くなった鉛筆どうし2本をお尻のところで貼り合わせて、大事に使っていた。日本から来た人に、消しゴム1個、鉛筆1本でもいただくと、それはそれは喜んで大切にした。
 
 数十軒もの家探しの後、海岸に近い見晴らしのよい場所に家を決めた。千坪ほどの敷地の真ん中に、南北に長い2階建ての家が建っており、1階には家主が住み、東側の四百坪あまりの庭を芝生と美しい花壇にしている。入口が別の2階と、家を挟み反対西側四百坪の椰子の木と沢山の樹木に覆われている庭を我々が借りた。
 我が家の西側のベランダに出ると、インド洋が見える。朝、昼、夕と太陽の光線の加減で、海の色も微妙に変わっていく。海岸に近い浅瀬は白っぽく、だんだん薄緑から濃い緑となり、ついに紺碧の海となる。
 朝は夜明け前、いっせいにさえずり始める鳥の声で目が醒める。東の窓を開けると家主の庭に十数種類、数十羽の鳥が集まり、餌をついばんでいる。黒くて嘴だけオレンジ色の鳥、黄色の鳥、青い鳥、大きい鳥、小さい鳥・・・まさにこれがこの世の楽園ではないかと思われる光景であった。
 西側の窓を開けると、椰子の木にリスたちがいて、尾をぴんと立て、小さな手で一生懸命顔をこすっている。朝の身だしなみが整うと、枝から枝に飛び移り、木の実を採って、両手でしっかり持って食べ始める。涼しい朝の風に吹かれながら眺める、何とも楽しい心温まるひとときである。
 夫は、途中先生ひとりに生徒7名の日本人小学校に娘を送り、出勤する。私は友人の紹介で来たボーイに家の仕事を教える。初めはボーイの目の前で部屋や戸棚に鍵をかけることをためらい、ときおり小物が無くなった。鍵をしない私が悪いと、友人や家主に云われ、次のボーイからはしっかりと鍵をかけた。全部閉めると十数個の鍵の束となってしまった。その頃は、鍵のかかっていない処の物は盗まれてもこちらが悪いということもわかり、この鍵の生活にもすっかり馴れた。
 自動車や引っ越し荷物が日本から届き、落ち着いたところで、今度は国連の人たちとの付き合いが始まる。WHOから派遣されていた日本人夫妻が、半年の間に我々を国連の皆に紹介し帰国された。その後日本人は我々一家族だけになった。
 週に2、3回開かれる国連の婦人の集まりに出席し、我が家にも月に1度は、20人ほどの婦人がたを招待しなくてはならない。出来合いのものなど無く、全てはホームメードだ。ケーキの作り方から勉強する。でも外国人との付き合い方は心の問題で、日本人のように食べきれないほどご馳走を作る必要はない。数ヶ月後には、コーヒーモーニングも、ディナーパーティーも、週に1、2回出来るようになった。 
 外国人との付き合いは、献立以上に話題を考えなくてはならない。女性同士の場合は問題はないが、男性との話題を見つけるのは難しい。何しろ、娯楽もテレビも無いこの国での楽しみは、人との交わりに尽きる。人懐っこいセイロン人も、呼んだり呼ばれたりが大好きだ。
 日本と違い、パーティーは大人だけのもの。娘はセイロンに着いたその晩から留守番役となり、家でのパーティーも、始めの挨拶以外、顔を出すことは許されなかった。この習慣は、子どもの自立心を高め大変よいものだった。夫は夕方には戻り、夜の外出は夫婦同伴で、子どもとよりも夫と一緒にいる時間の方が長い生活など、日本では考えられなかった。
 またその当時は、ほとんどの日本人は単身赴任で、この人たちに日本食まがいのものをご馳走するのも、私の務めだった。材料も無く、とろろ、さつま揚げなどすべて手作りだ。いただいた日本食の土産物なども、その日のためにとっておき振る舞った。大したものもできなかったが、皆が喜んで食べてくれると本当に嬉しかった。
 来客の無い日は、家族3人で近くの浜辺に行き、日没前の真っ赤な夕日を浴びながら、お湯のように温かい海で波乗りを楽しんだ。空全体が茜色に変わっていく。海の水まで真っ赤に染まり、そして黒ずんでいく。あたりに夕闇がたちこめ、やがてひとつふたつと星が輝いてくる頃、海から上がり、家路をたどる。
 平和な南海の島の大自然は、私の夢を十分に満たしてくれた。そしてそこでの生活は、宗教や人種によって、様々な暮らしや習慣のあることを教えてくれた。
 街角の菩提樹の木の下には、必ず仏陀の像があり、花が捧げられている。月4回のポーヤデー( 新月、上弦の月、���月、下弦の月の日 )には、身を清め、お花を持ってお寺にお参りに行く人々。セイロン人の大半は仏教徒で、とても心が温かく殺生は一切しない。ハエも蚊もそっと追い払うだけである。
 我々が失いかけている宗教心、動植物を愛する優しい心があり、物を大事にするセイロン人を、私は心から好きになった。
 ちょっと長い夏休み、そんなぐらいにしか感じられなかった1年10ヶ月のコロンボの生活。それは故郷を持たない私にとって、心の故郷となった。
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canty-essay · 3 years
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おばあちゃんの旅立ちを祝う会の台本
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〈おさむ〉これから、僕のおばあちゃんの旅立ちを祝う会をします。
僕は孫の若月整です。よろしくお願いします。今日は祝う会なので、僕たちは喪服は着ませんでした。僕が今着ている服は、昔おじいちゃんがインドネシアで仕事をしている頃に買ったインドネシア更紗のシャツです。お母さんとお姉ちゃんもインドネシア更紗の服です。おばあちゃんはとても手先が器用な人で、たくさんの洋服を縫ったり編んだりしました。今日はそうしたものの展示をしましたので、ぜひご覧になってください。でははじめに、お母さんからご挨拶をお願いします。
〈お母さん〉本日は、母飯島美智子の旅立ちを祝う会にお越し下さり、ありがとうございます。
普通でしたら「葬儀」と言う、別れを悲しむ式をするのでしょうが、しかし考えてみますと、母は88年の生涯をしっかりと生き抜き、今天に昇ろうというところです。母の生涯を感謝し、今日は母の旅立ちを祝う会としたいと思います。
母は昭和7年文京区本郷で生まれました。4人兄弟の末っ子で、大変みなにかわいがられて育ったようです。キューピーのような子ということで、家族の中ではピーちゃんとかピー子と呼ばれておりました。
家の仕事はハイヤーの会社でしたので、小さい頃から車に乗る機会があったそうです。夏には車で海岸の避暑地に行き、バスケットに入れていった伝書鳩の足に「無事着いた」という小さな手紙をつけて離したそうです。
戦争中は爆撃にあったり、家も空襲で焼けたり、お父さんが病死したり、愛犬も焼け死んだり、大変な経験をしたようです。また学童疎開に行くことが決まっていたのですが、行く前の日に「行きたくない」とお母さんに言ったら、「行かなくてもいいわよ」と許してくれて行かずに済んだことを後々までずっと「私のお母さんは偉かった」と言っておりました。
小さい頃より外国に対する憧れが強く、ずっと熱心に英語の勉強のみならず、フランス語やロシア語も勉強していたようです。学校を卒業してからは外資系の会社に勤めました。先日実家を片付けていたら、その外資系の会社を母が結婚して退職する時に、会社のみなさんが寄せ書きで「結婚生活が永く幸せなものとなりますよう」にと書かれたものを見つけました。去年父と母は結婚60周年を迎えておりましたので、まさにその時頂いたメッセージの通りとなったわけです。
2人は昭和34年に結婚し、最初は三鷹の新川団地から始まり、金沢市に転勤、私はそこで生まれました。それから中野区の野方、熊本、荻窪と転勤は続き、初めての海外のセイロン、2年滞在して、港区麻布に戻り、今度はインドネシアに4年、池袋に戻り、しばらくして調布市深大寺に家を買いました。初めての自分の家でしたがまたもや転勤でケニアに3年住みました。それから戻って深大寺に定住しましたが、夫婦でその後ドイツ、エジプト、カナダを訪れました。
さて、先日実家の片付けをしていた時に、母が52歳頃に書いた「自分史」というのを見つけました。どこかのカルチャースクールで書いたもののようですが、私は母がそのようなことをしていたとは全く知りませんでした。それは母が初めて行った外国、セイロンでの生活について書かれたものです。母の新鮮な驚きから始まり、次第に生活に慣れて行く様子が描かれていてとてもおもしろかったので、ここで朗読させていただきます。
              朗読
こうしてみると、小さい頃から南の国に対する憧れを持っていたのが、父と結婚してそうしたことが実現できたのは、もう運命だったのかもしれません。不便な外国暮らしの中で、母はご覧のようにたくさんの自分の服や私の服を作り、お料理も無い材料をやりくりして様々なものを作りました。母の手作り精神は、私にも、孫たち3人にも受け継がれており、改めて母に感謝したいと思います。
最後になりましたが、***ホームのスタッフのみなさまには大変お世話になりました。母は認知症を患っておりましたが、いつも尊厳を持って接してくださったこと、心よりお礼と感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。
〈おさむ〉では次に故人の旅立ちを祝して、献花をしたいと思います。みなさん、順番にお願いいたします。( みもこ、参列者に花を渡す)
              献花
〈おさむ〉弔電をいただいておりますので、お父さん読んでください。
              弔電読み上げ
〈おさむ〉では最後に、おばあちゃんのひつぎにお花を入れる準備を葬儀社さんがいたしますので、みなさんは隣の部屋に移動して、しばらくご休憩ください。( みもこはお茶をお出しする)                                          
                                                お花入れ
〈おさむ〉ではここでお父さんに締めの言葉をお願いします。
〈お父さん〉これで飯島美智子の新しい旅立ちを祝う会をお開きとしたいと存じます。最後にみなさんで、飯島美智子の生涯に感謝して拍手を贈りたいと思います。
              パチパチパチ
本日はお忙しいところお集まりいただき、誠にありがとうございました。これでお開きといたします。みなさまどうぞお気をつけてお帰りください。
              スタッフさんをお見送り
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