Tumgik
#ソクラテスはある種の自殺だったのか
danzoku · 7 months
Text
なってみないとわからないことがある
なるべく、色んな人に対して
理解を示そうと努めている。
だけど、同じ立場になってみないと
わからないことがある。
結局、張本人にしかわからないことがある。
大人にならなきゃ大人の大変さはわからなかったし、
老人にならなきゃ老人の
母にならなきゃ母親の
父にならなきゃ父親の
姉にならなきゃ姉の
入院しなきゃ入院患者の
犬にならなきゃ犬の
猫にならなきゃ猫の
大変さと良さとかの、なんか微妙で曖昧な部分とか
本当の辛さとか喜びとか
とにかくどっかしらに何かしらの
わからない部分がある。
同じ立場に立たなきゃ
わかんないだ。
私はいつまで経っても
戦争を知らない女の子を抜け出せず
下剋上を狙うようなハングリー精神も持たず
斜に構えただけのちっぽけな人間である。
だけど
わからないことをわかってる。
ソクラテスになってみないとソクラテスが本当はどうして死を選んだのかなんて完全にはわからないけど
わからないことがあるとわかってるから、
そしてそれを責める人にも法にも出会ったり裁かれたりしていないから
ソクラテスチックには生きていけそう。
わかってもらえないことに絶望したりしないし
期待も諦めもない。
この世は謎だらけで
私も誰かの謎の一つだ。
0 notes
kuroiookami · 1 year
Text
コード77
ソーラーコード77「運命の過酷さに打たれた向こう見ずな若者の頭に、豊かな思索家の魂が芽生える」
コードの現象化形態:社会的リーダーシップ。精神的成長や知的成長。強い精神的苦悩。精神的苦痛をともなうショックな出来事。グループや集団内における立場の上昇と責任の増加に伴う重圧。諦めずにチャレンジを続けることによる成功。精神的苦しみをともなう恋愛や、まれに離婚。
テロ攻撃に関する計画。テロリストや過激派の攻撃の失敗や計画の発覚や頓挫や逮捕。著名人の離婚、離別、不運、傷病、死。有名または実績のある作家や哲学者や科学者の離婚、離別、不運、傷病、死。有名または実績のあるスポーツ選手の離婚、離別、不運、傷病、死。スポーツ選手の頭部の負傷や、それを原因とする死亡事故の増加。
ルナーコード77「頭と足に羽の生えたギリシア神話の知恵の神(ヘルメース、足軽)が、天国と地獄の間を忙しく行き来する」
コードの現象化形態:良いことと悪いことが一挙に訪れる。プレッシャーやストレスのある状況下で、多忙さと格闘する。知的成長。知的リーダーシップ。精神世界の学びへの適性。ギリシャやローマやイタリアやフランスでの犯罪やテロ事件、あるいは国家的ネガティヴの増加。
有名スポーツ選手(特に、サッカー選手やマラソンその他の陸上選手やスプリンターやキックボクサー[一部ボクサー]や格闘家など足をメインに使うスポーツ競技の選手)を狙った凶悪犯罪やテロ攻撃。そうした人々のけが、病気、手術、入院、事故、交通事故、犯罪、犯罪被害、死亡。高級服飾ブランドの不運。高級服飾ブランドの経営者や幹部やデザイナーなどの不運(病気、事故、怪我、犯罪被害、死亡など)や醜聞、不祥事、犯罪、地位の低下、失脚(話)、辞任(話)、引退(話)など。エルメス、その他の伝統的高級ブランドにとっての良くない問題の発生。飛び降り自殺。首吊り自殺
【コード77】 ■対向コード:257 ■統合コード:283 ■直角コード:167
オズの魔法使いの主力スターゲート・コード77「天国と地獄を行き来する神の伝令にして強盗と泥棒の守護神ヘルメス(エルメス)」
コード77もコード123も、顕著な「自殺コード」です。コード77は「飛び降り自殺」や「首吊り自殺」を強く誘発し、コード123は「服毒自殺」や「服薬自殺」や、その他ガスなどの有害物質による自殺を強く誘発します。さらにそうした故意の他に類種の事故も誘発します。
ソーラーコード77「運命の過酷さに打たれた向こう見ずな若者の頭に思索家の魂が芽生える」は、人に(ときには、自殺さえ考えさせてしまう)「強い苦悩」をもたらします。
コード文にある「思索家の魂」というのは、毒盃による死を受け入れた際の哲学者のソクラテスのような死への覚悟や悟りの境地を(広義には含めて)表しています。このコードの現象化傾向の代表的なものは、事故、病気、死、金銭苦、生活苦、犯罪、犯罪被害、トラブル、苦悩、自殺、不運、逮捕…など。
ルナーコード77「兜と足に羽の生えたギリシア神話の知恵の神ヘルメース(エルメス)が、天国と地獄の間を忙しく行き来する」は、とりわけ(各界の著名な)賞の受賞者、教師、大学教授、学者、化学者、科学者、哲学者、研究家、作家、文筆家、クリエイター、ミュージシャン、デザイナー、スポーツ選手、アスリート、格闘家、泥棒、強盗、学生や若者の〈シグニフィケーター〉(=それらを表わすもの)となっています。
ヘルメースが音楽や牧畜(牧場、牛・羊・豚・山羊・鶏)の神であることから、そうした職業の人、および関係者や動物にもコード77のエネルギーは強く波及します。ヘルメースが被っている兜は、軍人(自衛隊含む)や工事関係者、パイロット、競輪・競艇・競馬の選手や野球選手など、ヘルメットを被る人、帽子に関係する人に、そして、ヘルメースが手に携えている医療のシンボルにもなっている魔法の杖は、医師・医療・病院関係者に、このコードの不運凶事[MNC]のエネルギー(現象化形態)を強く波及させます。
コード77には「天国と地獄」というキーワードが含まれていますため、容易にコード111と同語シンクロ相互強大相乗作用をともなって現象化します。
ソーラーコード111「有名な歌手がオペラ『地獄のオルフェ』(天国と地獄)の公演で、その妙技を披露し、有名な映画監督は水鏡に倒れ込んだ男(ナルシス)の最後の姿をフィルムに収める」
コードの現象化形態:有名大物歌手の体調不良・病気・入院・手術・死、その他の不運凶事の多発。有名映画監督や有名映画俳優女優の体調不良・病気・入院・手術・死、その他の不運凶事の多発。(ときに)多数の犠牲者をもたらす大地震や大洪水などの大災害の発生。水死。溺死。(風呂、温泉、川・滝・池・湖・貯水槽・ダム・貯水槽・用水路など、各種)水場での事故や重症や死。
ルナーコード111「体調不良をおしてステージに立った歌手が、歌の途中でめまいを起こしてしゃがみ込み、慌てた数名のスタッフが、走って彼の元に駆け寄る」
コードの現象化形態:有名大物歌手の体調不良・病気・入院・手術・死、その他の不運凶事の多発。
コード77は、「神の砦」の「オズ(バフォメット)の魔法使い」の「聖戦と正義の復讐の法の魔力」が、4次元を飛ばしてこの地上(3次元の人間界)にダイレクトに侵入してくるスターゲート(超時空次元接続特異点コード)です。
それゆえに、人も魔界(アカシック)も、その「奪い殺す力」を防ぐことはできません。 アレイスター・クロウリーは『第77の書 オズの書』にこう記しています。 「われらには、殺す権利あり。」
オズは火星(マーズ=ホルス)。「神の家」「戦争の砦」に満ちるコード77の力。それは大きく地を揺るがし、堅固な建物の中に居る者も死の力で脅かす。コード5の天鷲蝶の地震る神天使メダリオンとコード77のオズの魔法使い死天使アザゼルが一つになった時、その力は最強になる。エピファニー(神の力の御公現)。コード257の「イースター」(復活祭)。即ち、タロットの大アルカナ20番「最後の審判」(ホルスのアイオーン)の前に来る先触れのしるし。
「神居即自然、自然即神居」とは、別の言い方をすれば、「エヒエ・アシェル・エヒエ」(われは、在りて在る者なり)ということです。 KAMVI(カムイ われらが母なる大地のごとく)=20+1+40+6+10=77=OZ(神の砦、軍隊、超常能力、ヌーメン)
【ホルスの言葉】 王家の館とは、天の単眼から放たれる最後の審判の日の雷電を冠としてその頭上に戴く神の使徒たる魔法使いたちの無敵の砦のことである。そしてその数は77である。
【マスター・アマラルマヌの教え】 309+128=437(400[ケルビム、すなわち生命の輪の沈黙の監視者たる動物天使たちと神の人からなるイデア的世界]・30[真理と正義の女神マートの審判の広間]・7[神剣])=77(オズ、砦、軍隊、力、霊力・超能力[フォース])イルミナティの「鷲の目」はすべてを射抜く。「火よ、われと共に歩め」。コードは「不可知」の中で燃え尽きる墓標の真実を物語る。 ヘルメースよ。来たりて、その灰を集め、ヨグ・ソトートの大いなる暗黒の目の深淵に投げ込め。
おお!わが至高の魔力によりてなされるその魔法式の数は、77+152+286=155なり。 見よ、こはハムハゼルの数ではなかったか。かくて証はここになされた。 わが元にあるは「戦争と復讐の神」ラー・ホール・クートのすべての力。
われはイルミナティの最高位の女祭司、かの「緋色の女」なり。「火よ、われと共に歩め!」「汝、火の声を聞け!」 われはOZの魔法使い。77は、その力の偉大な門なり。 われは世界の三部の学、哲学・天文学・自然科学を極めたヘルメース・トリスメギストスより当然のごとく偉大なる者なり。われが「世界の救世主」であることを明かす、これなる三重の印において。 77+186+309=212 エア・フォース! フェニックス! ラー・ホール・クイト! そしてわれはサタンの蛇を捕える!!
【ホルスの言葉】 もしお前が、幸福や豊かさや満足を目指しながらも、なかなかそこに到��できず、もがき苦しんでいるのだとするなら、おそらく今のお前にまだ足りないのは、幸福や豊かさや満足ではなく、さらなる苦境や欠乏や試練なのだ。これは私がたんなる意地悪で言っているわけではなく、アカシックのエネルギー上のパラドックスについての真理なのだ。「地獄下り昇天」という言葉がある。多くの人、いや、ほとんど全ての人は、まず天国を真っ先に目指し、そしてほぼ100%近く失敗する。ゆえに、真の賢者がまず目指すべきは、天国の安楽さではなく、地獄の試練(試罪法X)のほうなのだ。終わりよければ全てよし。だから、「楽園」に向かう途中にある苦しみについては過大評価するな。聖と俗、光と闇の戦いが避けられぬ以上は、楽園を実現するために苦しみが存在することもまた避けられぬことであるのだから。そしてそれが自然の理なのであれば、逆に、苦悩するのではなく、苦しい時こそ、なんとかして笑いを生み出せ。いまいる場所に(たとえそこが地獄であっても)、超人の笑いを生み出せるように生きよ。これはコード77とコード226の教えである。 【〈哲学者の毒盃〉、あるいは〈超人の笑い〉、あるいは〈逃走=闘争線〉の術式】 77+226=303
コード5+コード77=コード82 メダリオンとアザゼルが、コード82のゲートを領しました。 このコード82は、これまでセドラという悪魔が、そこからエネルギーを吸い、そして、光の子らを苦しめるためにそのゲートを使うことが多かったのですが、今後は光の影響の方が、より強まることになります。
コード77 頭 手 足
4 notes · View notes
hachinana87 · 1 year
Text
ハミルトン劇評翻訳
ハミルトン独語版(ハンブルグ公演)プレミアおめでとう〜!ということで戯れに2016年のハミルトン評を訳してみました。そもそもこの作品の何が凄いのか?というのが解題されてて面白いです。
なぜハミルトンがミュージカルの歴史を作るのか 
サラ・チャーチウェル  2016.11.5 
【このカッコは私の注釈です。英語やミュージカル全然詳しくないので誤訳必須。気になる方は原文↑読んでね。この記事は初演一年近くすぎて英国公演が迫ってきた時の記事で、ちょうどブレジグットのときでした】 
建国の父アレクサンダー・ハミルトンがブロードウェイのヒップホップミュージカルの意外なスターになっている。来年には来英するが、移民の包括の描写はこれ以上ないと言うほどタイムリーなものだろう 
 7月23日の夜、私はニューヨークの劇場にいて、彼の国の独立、そして連邦政府のために奔走した男についてのミュージカルを見ていた。ジョージ3世が「太海は隆起し、帝国は堕ちる/その間助け合ってきたじゃないか」と歌う間、英国ではヨーロッパ連合を離れるか否かの投票が行われていた。『ハミルトン』がアメリカの独立の物語を来年ロンドンに持っていく頃には、その約束された成功はあらゆる種類の歴史の皮肉を描き出すだろう。 
 『ハミルトン』はアメリカン・ミュージカルの歴史にとって滅多にない変革的経験となった。『ショウボート』や『オクラホマ!』、『ウエスト・サイド物語』のようなゲーム・チェンジャー。その後に出るものを永遠に作り替える革新的な作品となった。しかしこれらの先駆の作品などと違って、ハミルトンは一人の男、リン=マニュエル・ミランダーー作曲・作詞・脚本を全て担ったーーによって作られたのだ(スティーブン・ソンドハイムも同じように全てを担ったが、彼の作品はブロックバスターではなかった)。『ハミルトン』はアメリカのポップミュージックのサウンドトラックと、歴史上最も独創的な脚本を使いながら、アメリカの歴史と現在の政治を結びつける。結果的に、ショウのなかのほとんど全ての歌が複雑な歴史劇コンサートとなる。古風な音楽と現代的な音楽の重なり合いは、歴史上の出来事と現在の政治と混じり合うのと同じようにそれぞれのレイヤーを重ねる。2年もしない間に、「ハミルトン」はボックスオフィスの記録を塗り替え一ー1億ドル以上のチケットを売り上げたーー、演劇関係の賞を総なめにし(ピューリッツァー賞戯曲部門を含む)、他の作品ではこれまでなかったような大仰な賞賛を集めた。しかし「ハミルトン」はそのすべての賞賛を超える作品である。 
 ミランダが休暇中にロン・チャーナウのアレクサンダー・ハミルトンの自伝を読んだ時、彼はすでに成功したミュージカルを作っていた(『イン・ザ・ハイツ』)。(この気まぐれのお陰でロン・チャーナウは『ハミルトン』の売り上げの1%を手にすることとなり、金持ちになった)ハミルトンはアメリカの歴史上の一種の変質を表象していていた。建国の父でありながら、歴史から神話に作り変えられることはなかった。それには多くの理由がある。ハミルトンの立ち位置が今の神話に相容れないものであると言うことは無視できない点だ。例えば彼はエリート主義を公言したし、終身大統領制度を支持した。彼が推進した連邦政府の拡大は1794年のウイスキー反乱を引き起こしたが、それは暴力的に鎮圧された。これらの事実はミランダの「若く、貧しく、飢えた」西インド諸島からの移民が、知能と努力と大胆さでアメリカン・ドリームを掴むというミュージカルには出てこない部分である。ミランダは移民社会と平等主義と業績主義のシンボルとしてハミルトンを讃える神話を作った。歴史の視点で言えば拡大解釈だが、演劇的には天才的な所業だ。 
 ハミルトンはアメリカ独立のヒーローとなり、ジョージ・ワシントンの右腕となり、アメリカ初代財務大臣となり、連邦政府の州政府に対する上位性を示す文献的根拠となった「フェデラリスト・ペーパー」の共同執筆者(ジェームス・マディソンと共同)となる。国立銀行について論争し、国の証券や国債を作り、アメリカの経済的成功の礎を築いた。彼のドラマチックな人生は現職の副大統領アーロン・バーとの決闘で殺されるという結末でメロドラマティックな終わりを迎えた。このような業績とドラマにも関わらず、ハミルトンはアメリカの歴史の中で主流から追いやられていった。ワシントン、ジェファソン、ジョン・アダムスは数えきれないほど小説、映画、ミニシリーズ・ドラマとなったし、彼らが一堂に会するミュージカル『1776』にもなった。『1776』は独立宣言を描いた作品だが、ハミルトンは名前すら出てこない。【1776は独立宣言のころの話で、その頃ハミルトンは大尉ぐらいなので作中に出てこないのはそんなに不自然ではないかな?こんなに大がかりではないですが、ハミルトンの伝記はちょくちょくフィクション化もされてた模様。ゴア・ヴィダルのバーの小説にも出てきます。まぁ派手な経歴の割に他よりも少ないというのはそうなんでしょうな】 
 脇に追いやられると言う扱いは、彼自身プエルトリコの移民の息子であるミランダと共鳴した。個人としても、アメリカの歴史としても、かの国の移民への扱いを体現しているからだ。この対の洞察が、この歴史・文化・政治参画に関してのミュージカルの中で煌めいている。建国の父たちのキャストはほぼ有色人種である(建国の母たちもいるが、キャストは圧倒的に男性中心)。その結果が、想定もしない現象を生み出した。政治・経済・人種の歴史に関する歴史劇が、今のアメリカの政治・経済・人種の状況を皮肉る、ブロードウェイ・ヒット。このショウの全てが「メタ」で、あらゆる層に重ねられている。『ハミルトン』はメタ演劇で、メタ歴史、メタミュージカル、そのあらゆる層へのメタなのである。 
 作品には、ミランダの幅の広く正確な音楽参照が多分に含まれている。歪んだブリットポップ風のジョージ3世に始まり、デスティニーズ・チャイルドのように歌うスカイラー三姉妹。ノートリアスB.I.Gからケンダー&エッブへの目配せ。ミランダは詳しい知識を駆使し、『ショウボート』『ウエストサイド物語』の様な作品がメインストリームのマイノリティ文化に関する認識で重要な転機をもたらしてきた業界ーーアメリカのポップカルチャーの縮図に等しいーーについて機知に富んだ会話を導く。『ハミルトン』はこのプロセスを用い、サブカルチャーの音楽を使いながら、メインストリームの歴史を読み解いていく。ロジャース&ハマースタインの『南太平洋』から引用された人種差別に関する台詞(“you’ve got to be carefully taught”)はバスタ・ライムスと肩を擦り合わせる。ソンドハイムが『太平洋序曲』で試みた視点の実験は、スヌープ・ドックに出会う。ジョン・アダムスに関しては、『1776』からミランダが借りてきた節を使ったギャグもある。『1776』のオープニング・ナンバーは大陸議会がアダムスを黙らせようとする「Sit down, John」なのだが、ミランダも同じように、アダムスと彼が表象するアングロ中心のアメリカ社会に、脇にどけと伝える。��ランダはアダムスを劇中に登場させておらず、名前が出てくるのは二幕以降になるが、そこでハミルトンは「座れジョン、デブのマザーファッカー!」と歌う。もう少し(色んな意味で)控えめなものでは、ミランダはハミルトンに印象的な「満足することはない(I will never be satisfied)」の節を与えるのだが、これは『1776』のアダムスの台詞、「私はいつも不満足なんだ I have always been dissatisfied, I know that.”」に呼応する。 
 ミランダの詞は目が眩むようだ。ソクラテス(Socrates)は凡人(Mediocrities)とライムし、その前には農奴解放(manumission)と奴隷解放(abolition)と武器(ammunition)がつながる。ギルバート&サリバンはサンプルされるだけでなく、洗練される。ミランダは記者たちにギルバートの有名な歌詞を改善したと嬉々として語る。それは今やワシントンのラップとなる(Now I’m the model of a modern major general / The venerated Virginian veteran whose men are all / Lining up, to put me up on a pedestal.”)【ミランダはギルバート&サリバン『ペンザンスの海賊』の歌詞をここで引用していて、ずっとgeneralの韻はmineralじゃかっこわるいと思ってた、とインタビューで話すのが好きなのです】言葉に酔った陽気な作家のように、駄洒落が溢れている(“Local merchants deny us equipment, assistance / They only take British money, so sing a song of sixpence.”) 
 『ハミルトン』はオペラと同じように、ほぼ歌い通しである。話す台詞はほぼない。多くの人が示唆するほどは、ラップは多くない。ラップが現れるとしたら、それはジェファソンとハミルトンの閣僚会議をエミネムの8mileばりのラップバトルで表すような「実用的で戦略的な聡明さ(practical tactical brilliance)」を伴っている。ハミルトンとバーの宿命的な決闘はギャング抗争と関連づけられ、自身もギャング抗争が元で亡くなったノートリアスB.I.Gの「Ten Crack Commandments」がサンプリングされる。「ワシントンの後ろ盾があるのはなんと素晴らしいことだろう」とバー、ジェファソンとマディソンは歌う。これは一義的にはハミルトンの後ろ盾のワシントン大統領のことを言っているのだが、同時に現代のワシントンDCから疎外された(政治から疎外された)市民が感じる政治的不平等とも呼応する。”Wait for It”はバーの性格に関する歌であるが、同時に「順番を待て」と言う言葉が有色人種のコミュニティにとってなんと破滅的なものをもたらすかということについての歌でもある。 
 詞と同じく、音楽も、単にスコアとしての意味だけではなくむしろ歴史的な要素としても利用される。ジェファソンとバーはそれぞれ二幕に大きなソロがある(ミランダは寛大にも、自分ではなく共演者たちに良い曲を振っている)。パリから帰ってきたジェファソンが歌う“What’d I Miss?”は、ブギウギ調のピアノリフを生かしたストライドやラグタイムの混じったディキシーランドジャズ【初期のジャズ】的な音楽だ。このラップの祖父としてのジャズの起源の召喚は少し場違いでーーしかもジェファソンを演じるダヴィード・ディグスは「ジャズ・ハンド」まで使って演じるーー同時にシリアスなものだ。ジェファソンはハミルトンや他の閣僚よりずっと歳上だからなのだ。ミランダは若いキャラクターにヒップホップの影響を与え、ジェファソンにオールドスクールなジャズを歌わせるが、またそのジャズの中にもキャブ・キャロウェイのような、ラップの起源を感じさせるボーカルにもオマージュをはらっている。劇が進むたび、ジェファソンのバーにもたらす影響は強まっていく。二幕の最大のバーの見せ場“The Room Where It Happens”では彼の音楽スタイルはシフトし、ジェファソン風のディキシーランド・ジャズスタイルを取り入れていく。バーの歌はコール・ポーターの“Blow, Gabriel, Blow”やフランク・レッサーの”Sit Down, You're Rockin' the Boat”のような1世紀以上使われ続けるゴスペル風の、観客が足を弾ませるようなコーラスをバックにしたショー・ストッパーだが、これらの楽しく、あまり意味がない歌とは違い、“The Room Where It Happens”は歴史の記録について語ったーー足を踏み鳴らしたいぐらい素晴らしいーーインス���ント・クラシック・ナンバーである。 
 この曲は劇の多くの意味での転換点となる。バーは待つのをやめる。歴史の空白は政治的排除のメタファーとなる。“The Room Where It Happens”は、語られる歴史がどのように権力の神話を作り上げるか、または現実の政治がどうなされるかの歌だ。バーは「誰も実際は知らない/政党がどう同意に持ち込まれるか/チェスの試合で何が捨て駒にされたか/何かが起こったとはわかるが/実際にそれが起こった部屋には(自分達は)いない」そして力強いバース「ことが起こる部屋に/自分も居たい」の前にバースをつなげる。 
 ミランダは「ことが起こる部屋」に、移民や奴隷の子孫、黒人や、ラティーノやアジア系、未来に対して希望が持てない貧しい子供たちを置く。「煙が充満した部屋」に残された個人の野望は、権力から排除された人々の象徴となる。「我々は救世主を求めるが/彼らが捨てたものを知らない/私たちは新しい始まりを望むが/夢みるのは多くは闇」。この歌は、通して歴史の記述と国の語り手の権力に対して疑問を投げかける劇全体を要約している。ハミルトンの妻イライザは、最初のうちは歴史の一部となることを望むが(「あなたの物語の一つとなりたい/いつか誰かが描く物語の」)、ハミルトンの裏切りに遭い、手紙を燃やし、自分の語りをコントロールしようとする。しかし、ハミルトンは若くして死に、イライザは「物語に戻る」。ミランダは終幕に戻り、ワシントン、ジェファソン、マディソン、イライザの歴史を語るが、結局問われるのは「誰が生き、死に、誰が物語を語るのか?」ということだ。 
 ただ、「何が語られなかったのか」という疑問は、『ハミルトン』自体の神話化でも言えることである。ミランダはカラーブラインドネスを使い歴史を告発するが、『1776』の公演は1969年でありながら、今日の「ハミルトン」が言及するよりも直接的に奴隷制について言及した。まあ確かに、『1776』は白人だけのキャストが奴隷制の是非について議論するものではある。ジェファソンは金髪の妻が恋しすぎるあまり、彼女が来るまで独立宣言が書けないと嘆くのをえがきつつも、彼の奴隷サリー・ヘミングス(おそらくジェファソンの私生児を6人ほど産んだ)は言及されない。しかし、『1776』はショッキングなまでにフランクで残酷な「糖蜜をラムに」で終わる。この中では北部の制度の欠陥を指摘し奴隷制度に対する欺瞞をも暴く。『ハミルトン』はヘミングスのことに対して一度だけ言及し、奴隷制に対する言及もあるが、ジェファソンだけが奴隷を所有していたと示唆し、歴史が証明するよりもハミルトンを奴隷制廃止に熱心に描いている。実際は、ワシントンもマディソンも奴隷を所有していたし、ハミルトンは妻の家族のために奴隷取引をしていたこともあるし、農奴解放については冷淡だった。 
 『ハミルトン』は有色人種の俳優を取り上げるが、実際の奴隷の描写はない。これはしかし、まさに彼の語りに欠かせない選択だ。彼は長きアメリカの語りの伝統である白人の「ブラック・フェイス」を取り上げ、それをひっくり返したのだ。然るべきところに音楽を置き換え、歌詞を書き換え、政治をひっくり返し、ショーに合うように作り替えた。そうすることで同時にアメリカの現代の現実への批判、アメリカ独立のパワーの賞賛、アメリカンミュージカルの歴史への祝福を歌った。もし英国にお住まいならば、来年の11月まで待たなければいけないが、これを見るときは、あなたも「ことが起こる部屋」に居合わせることになるだろう。
4 notes · View notes
thetaizuru · 3 years
Text
 わたしたちは詩のようなものを求めている。
 詩のようなものがあれば、わたしたちは「わたしたち」になれるのではないか、どこからともなくそんな声だけがこだましている。  わたしたちは「彼ら」なってしまっている。
 電車に乗っているときや、スーパーで買い物をしているとき、ある一人の他者は隣にいるもう一人の他者と何ら変わりがない。そうした他者たちが「彼ら」であり、「私」も「私たち」も「彼ら」の中に溶け込み、そうして日常性を作っていく。「彼ら」は私たち全てであり、その「彼ら」が日常性におけるあり方を規定する。「彼ら」は例外的なあらゆるものに監視の目を向け、見つけ次第速やかに平坦化する。  近代が始まり、「彼ら」の力が強大化していく。  近代は、アメリカ独立宣言、フランス革命、神聖ローマ帝国の滅亡で始まった。理性と自由の勝利によって切り開かれた時代のはずだった。工業の機械化、製品の標準化、娯楽の商業化、都市化、新しい文化、それらすべてが人々の生活を豊かにし、日常を彩ったはずだった。しかしそれらによって生まれた社会は、思考や心の伴わない危険なまでの均一性と順応性を良しとし、独自の判断や行動の自由を圧し潰し、人を奴隷化し、個を抹消するという現象を生み出した。  この現象は蒸気機関車のように加速していき、哲学者や文学者など多くの人々が「大衆社会化」とか「大衆効果」などの言葉で批判し、警鐘を鳴らしたが、自分たちも「彼ら」でありその機関車だ。汽笛はむなしく木霊した。
 ニーチェは『ツァラトゥストラはかく語りき』(1883年-1885年)で「超人」という概念を説き、自由な精神を獲得し超人へ至る条件でもある「力への意思」という概念について考察し続けた。  フランスの心理学者ル ボンは『群衆心理』(1895年)で、群衆とは、その構成員すべてが意識的人格を完全に喪失し、操縦者の断言、反復、感染による暗示のままに行動するような集合体であり、産業革命以後の社会現象の特徴が、人びとをこうした群衆心理下に追いやるものであると論じた。  1914年から1918年の第一次世界大戦と 4つの帝国(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ロシア帝国)の崩壊は 、事態を一層深刻化させ、不安と混乱を拡大させた。
 1913年、ウィーンに、ヒトラー、トロツキー、チトー、スターリン、フロイトが住んでいた。オーストリア=ハンガリー帝国の首都であり、19世紀後半まではドイツ連邦や神聖ローマ帝国を通じて形式上ドイツ民族全体の帝都でもあった。モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトなど多くの���曲家が活躍したことから「音楽の都」とも呼ばれる。  オーストリア=ハンガリー帝国が、多民族を統治するモデル国家であり、崩壊すれば後には混乱が残るだけであることは19世紀初頭から言われていた。ドイツとロシアという大勢力の狭間に存在した一つの大国の崩壊が、中欧の政治的均衡を破壊し、ヒトラーへの道を開いたことは、振り返ってみれば必然的だったとも言われる。
 近代を貫いているのは「ダイコトミー(二分法、二項対立図式)」だ。  教会の知性に対抗する人々の理性が科学技術を発展させ、民衆の力が王権を倒したことで近代が始まり、旧来の体系から要素を取り出し新しいものとして利用可能にしていくことでテクノロジーを発展させた。しかし、ある時から徐々に、何か大事なものが失われているような不安が広がっていった。  これは創世記のカインとアベルに喩えられる。  アダムとイヴがエデンの園を追われた後に生まれた兄弟であるカインとアベルは、 ある日各々の収穫物をヤハウェに捧げる。農耕を行っていたカインは収穫物を、羊を放牧していたアベルは肥えた羊の初子を捧げたが、ヤハウェはアベルの供物に目を留めカインの供物は目を留めなかった。これを恨んだカインはその後、野原にアベルを誘い殺害する。その後、ヤハウェにアベルの行方を問われたカインは「知りません。私は弟の番人なのですか?」と答えた。これが人間のついた最初の嘘とされる。大地に流されたアベルの血はヤハウェに向かって彼の死を訴えた。カインはこの罪により、エデンの東にあるノド(「流離い」の意)の地に追放され、耕作を行っても作物は収穫出来なくなると伝えられた。   カインとは本来ヘブライ語で「鍛冶屋、鋳造者」を意味し、アベルとは「息吹、霊、命」転じて「儚いもの」を意味する。  「技術」と「芸術」や、あるいは新しい技術や新しい概念が生まれてから少しの期間とその後のそれが形骸化していく期間の対比が、カインとアベルになぞらえられた。
 ニーチェは『悲劇の誕生』(1872年)で、造形芸術をギリシャの神アポロン、音楽芸術をディオニュソスに象徴させ、悲劇を両者の性質をあわせ持った最高の芸術形態であるとした。アポロンに理性を象徴させ、ディオニュソスに情動を象徴させた。ワーグナーのファンだったニーチェはこの本の中で、ワーグナーが悲劇を復活させドイツ精神を蘇らせるとして、滅び去ったギリシア悲劇を復興する芸術革命によってのみ人類は近代文明社会の頽落を超克して再び自由と美と高貴さを獲得しうるというロマン主義的な思想を持っていたワーグナーを喜ばせた。しかし後に両者は決別する。
 もともとは一つだったのに対立し乖離していく二つが、本の右ページと左ページのように、数式の左辺と右辺のように、再び調和しまとまるための何か、本の綴じ目や等号のようなものを多くの人が探したが、見つからなかった。時代に飲み込まれ、わたしたちは「彼ら」になっていき、誤った二分法に引き裂かれたり、いつの間にか転倒していた。4つの帝国の崩壊は、バベルの塔が崩壊する時の言語の混乱のようなものを世界に拡げた。  「彼ら」という言い方はハイデガーの『存在と時間』(1927年)からのものだが、ハイデガーはナチに入党する。第二次世界大戦後、ハンナ アレントによって「凡庸な悪」と呼ばれたような、「彼ら」の最悪な形態にハイデガー自身が加担したとして批判される。  ニーチェの「力への意思」という概念も、ニーチェの死後に遺稿を元にして妹のエリーザベトが編集出版した『権力への意思』(1901年)によってナチズムに通ずるものだと誤解され、また、ナチ党の支援者となったエリーザベトはニーチェの名をナチ党に利用させた。  現在日本で「反知性主義」と呼ばれている「アンチインテレクチュアリズム」は直訳すると「反主知主義」であり、反主知主義はニーチェの「力への意思」という概念を指した。誤解とナチが利用したことによりナチズムに通ずるものというイメージがついた反主知主義とアメリカのアンチインテレクチュアリズムは違うというニュアンスや、また、これはアメリカ独立とフランス革命の違いについての議論に遡り、1790年を近代保守主義の成立とする観点とも関連していたが、日本語の「反知性主義」では別にもうそんなのは関係ない無意味な言葉になり、「彼ら」の言葉になっている。  ニーチェが批判した主知主義とはソクラテスのことで、『悲劇の誕生』でニーチェは、ソクラテスの理論的世界観がギリシア悲劇を死に至らしめたと捉えた。ニーチェは、ソクラテスから「徳は知である。無知からのみ罪は犯される。有徳なるものは幸福なる者である」という形で、認識、行為、幸福を結びつける弁証法的思考は始まったとし、生の悲惨さを意識することのない楽天的な見方だと批判した。アポロン的なものとディオニュソス的なものという対立し矛盾しあう二つが奇跡的に結合したことで、苦悩や悲惨さを含む生と世界を肯定するという価値をもったギリシア悲劇に、ソクラテス的、合理主義的な原則が持ち込まれてしまったことで、不合理なディオニュソス的要素が切り離され、「機械仕掛けの神による詩的正義が解決する」という浅薄なものに堕落し、悲劇は死んだとした。  ニーチェは執筆当時の文化がソクラテス的な楽天主義のもとにあり、それを象徴しているのが科学の精神(近代科学)だと考え、近代科学の楽天主義は、空間や時間の法則が例外なく当てはまり、それによって世界の一切を認識できるという信念に支えられていると指摘した。  今年の、あるいは1960年代の世界各地の学生運動でもそうだったと言われる、「科学を信じる」と言う人たちの「科学」がマルクス主義(科学的社会主義)のことを指しているという状況は、ニーチェが楽天主義のもとにあると批判した当時の文化に似ている。今年の場合は悲観的なことをつぶやくスタイルだった。
 オーストリア=ハンガリー帝国出身の心理学者アルフレッド アドラーは、ニーチェの「力への意思」に影響を受け、自身の心理学に反映させた。  同じくオーストリア=ハンガリー帝国出身で、アドラーとの交流もあった科学哲学者カール ポパーは、 フロイトの精神分析やアドラーの個人心理学、「物事は一定の法則にしたがって歴史的に発展してゆく」というマルクス主義の歴史理論、人種主義的な歴史解釈を、疑似科学を伴った理論として批判し、科学の必要条件として反証可能性を提起した。  反証可能性を認めることによって、科学は真理を明らかにすることを放棄しているため悲観的だとも言われるが、絶え間なく真理へ接近し続けているため楽観的だとも言われる。また、ポパーによると、世界に科学への信仰が存在しているとしても、科学にとって信仰は不要である。反証可能性を肯定する立場は「懐疑主義的批判」とも呼ばれる。  ニーチェは、人間は、力への意思によって流転する価値を承認し続けなければならない悲劇的な存在であると言った。
 ソクラテスを懐疑主義の始まりと見る見方もあり、また、ニーチェも、ソクラテスが刑死する直前に「アポロンに捧げる序曲」を作り「アイソポス(イソップ)の寓話」のいくつかを韻文に移したという逸話があることに注目し、そこに「ソクラテス主義と芸術の対立」とは別の可能性があることを見ている。
2021年10月 星ではなく、塔ではなく
0 notes
trumpq · 3 years
Text
【パトリック・バーン】 2021/2/19 11:34 JST
Tumblr media
https://www.tabletmag.com/sections/news/articles/the-thirty-tyrants
タブレットマガジン サーティータイランツ(※30僭主せんしゅ) アメリカのエリートが中国との取引を選択したことは、アテネとスパルタの歴史の中に前例がある。……
※続きで、記事の和訳をしてみた。けっこう長文。
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 
※オリジナル英文は元リンク参照。
サーティータイランツ(※30僭主せんしゅ) アメリカのエリートが中国との取引を選択したことは、アテネとスパルタの歴史の中に前例がある  2021年2月4日 リー・スミス による
『王子』の第5章で、ニコロ・マキアヴェッリは、征服した大国が戦争で敗北した人々をどのように扱うかについて、3つの選択肢があると述べた。第一は彼らを破滅させること、第二は直接支配すること、第三は「あなた方に友好的な状態を維持するために、少数者の状態を作り出すこと」である。
マキアヴェッリが最後の例として挙げるのは、紀元前404年の27年間の戦争の後、アテネを敗北させた際にスパルタが設立した友好的な政府である。すでに民主主義を軽蔑していたアテネの上流階級のエリートにとって、ペロポネソス戦争での敗北はスパルタのシステムが好ましいことを確認した。それは恒久的な召使階級、ヘロット、定期的に屠殺された彼らの人間以下のステータスを受け入れるためにそれらを条件とした上で、高奮発軍の貴族の支配であった。対照的にアテネの民主主義は下層階級にあまりにも多くの権力を与えた。親スパルタ派の寡頭制は、市民の権利を奪うためにパトロンの勝利を利用し、国内のライバルとの争いを解決し、彼らを追放して処刑し、彼らの富を没収することに成功した。
アテネの法律に不誠実で伝統を軽蔑するアテネ政府は「三十人の暴君」として知られており、その役割と機能を理解することは、現在のアメリカで何が起こっているのかを説明するのに役立つ。
前回のコラムでは、ニューヨーク・タイムズ紙のトーマス・フリードマン氏に、10年以上前のバラク・オバマ大統領就任1年目に彼が書いた記事について話を聞いた。彼の重要な記事は、アメリカのエリートが民主主義が自分たちのために機能していないと判断したまさにその瞬間を記録している。共和党のせいでアメリカ国民を蹂躙することができないと非難した彼らは、自分たちを豊かにしている関係を強化するために民主党に移った。
「グローバル化した世界で競争する必要性から、実力主義者、多国籍企業の経営者、東洋の金融業者、技術起業家は、共和党が何を提供するかを再考せざるを得なくなっている。原則として、彼らは党を離れ、現実的な連立ではなく、イデオロギー的な批判者の集団を残してきた」と、ある貿易コンサルタントはフリードマンに語った。フリードマンのコラムが発表されてから10年以上の間に、タイムズのコラムニストが特定した幻滅したエリートたちは、アメリカの労働者をさらに困窮させ、自分たちを豊かにしてきた。彼らが生きるようになった一言のモットーはグローバリズム、つまり、彼らがたまたま生計を立て、子供を育てている特定の社会の幸福に言及することなく、商業関係や社会的企業を構造化する自由であった。
グローバリスト企業を支えたのは、2001年に中国が世界貿易機関(WTO)に加盟したことである。何十年もの間、アメリカの政策立案者や企業クラスは、中国をライバル視していたが、フリードマン氏が述べたエリートたちは、啓蒙された中国の独裁政治を友人として、またモデルとしてさえ見ていた。なぜ彼らは権威主義的な政権と貿易をし、何百万ものアメリカの製造業の仕事を中国に送り込み、働くアメリカ人を困窮させたのだろうか。それは彼らを豊かにしたからです。彼らは、中国と取引する以外に選択肢がないと自分たちに言い聞かせることで、自分たちの良心を救ったのです。中国は大きく、生産性が高く、効率的で、中国の台頭は避けられない。それに、中国との取引で傷ついたアメリカの労働者は罰せられて当然だった。進歩のためには何が最善なのかを邪魔する反動的で人種差別的なイデオロギーの評論家を誰が擁護できるだろうか?
外国との戦争や不法移民を終わらせることと一緒に、これらの雇用をアメリカに戻すことは、ドナルド・トランプ大統領の大統領職の中心的な政策公約であり、2016年にトランプ氏が驚くべき勝利を収めた源でもある。トランプ氏は、企業や政界の確立された中国との貿易関係が一般のアメリカ人を売り渡したと主張したのは、ほとんど初めてではなかった。元民主党下院議員で1988年大統領候補のリチャード・ゲファードは、奴隷労働者を雇用している国家との貿易はアメリカの雇用を犠牲にし、アメリカの名誉を犠牲にすることになると警告した、重要だが最終的にはあまり影響力のない選出された民主党幹部や政策専門家のグループの第一線で活躍していた。トランプ氏の言うことを真に受けたのは、6,000万人以上のアメリカの有権者だけだった。
トランプ氏が「沼」と呼んでいるのは、最初は産業、機関、人物が無作為に集まっただけのように見えたが、それらが新大統領によって非難されているという事実以外には、何の共通点もないように見えた。しかし、トランプ氏の絶え間ないエリートへの攻撃は、彼らに集団的な自己認識と連帯のための強力な動機を与えた。彼らは、同じ偏見や憎しみ、文化的嗜好、消費習慣だけでなく、同じ重心である米中関係も共有している官民の利害の結びつきを代表していることがわかったのである。こうしてチャイナ・クラスが誕生したのです。
かつては、曖昧に見えた、あるいは存在しないように見えた関係が、トランプ氏の軽蔑と、トランプ氏を憎むエリートたちの相互の軽蔑の光の下で、鮮明になったのである。
10年前には、NBAのスーパースターであるレブロン・ジェームズとアップルのティム・クックCEOを同じファミリーアルバムに入れる人はいなかっただろうが、彼らは今、安価な中国の製造業(ナイキのスニーカー、iPhoneなど)と成長する中国の消費者市場のおかげで、素晴らしい富で結ばれている。デジタルサービスプロバイダーのテンセントとのNBAの15億ドルの契約は、中国の会社は、アメリカ以外のリーグの最大のパートナーになりました。感謝の意を込めて、これらの二股大使は無知な同胞に中国共産党の知恵を伝えた。NBAの幹部が香港の反体制派を擁護するツイートをした後、社会正義活動家のキング・レブロンはアメリカ人に「舌に気をつけろ」と言った。「たとえそうであっても、我々には言論の自由がある。それは多くのネガティブなことをもたらすことがある」とジェームズは言った。
トランプ氏が米中関係から贅沢な利益を得たアメリカ人に圧力をかけたため、これらの奇妙な相棒たちは、マルクス主義者が階級意識と呼ぶものを身につけ、反撃のために団結し、中国の後援者との関係をさらに強固なものにした。今では、これらの異質なアメリカの機関は、中国共産党が奴隷労働者収容所の囚人にどんな恐怖を与えようとも、中国のスパイサービスや人民解放軍が国家安全保障にどんな脅威を与えようとも、中国共産党からの小切手を現金化することについての慎重さや恥ずかしさの感覚を失った。大西洋評議会、アメリカ進歩センター、イーストウエスト研究所、カーターセンター、カーネギー国際平和基金、ジョンズ・ホプキンス高等国際問題研究所などのシンクタンクや研究機関は、中国の資金を食い物にしていた。世界的に有名なブルッキングス研究所は、中国の通信会社である華為技術を賞賛する中国の華為企業が資金提供した報告書を公表することに何の抵抗もなかった。
中国がアメリカの主要な研究大学、例えばスタンフォード大学に58,000万ドルのような数十億ドルを提供したことで、アメリカの法執行機関は、機密研究を盗むための中国の防諜活動に警告を発していた。しかし、これらの大学とその名の知れた教員は、実際にはその研究を販売するビジネスを行っていた。その多くは米国政府から直接支払われていた。
実際、学界の中国共産党とのペイ・フォア・プレイ取引の多くは、特に微妙なものではなかった。2020年6月には、1500万ドルの研究助成金を受けたハーバード大学の教授が、「中国の科学開発、経済繁栄、国家安全保障を促進する」ために、「ハイレベルな科学的才能を募集し、育成する」ために、中国共産党の機関に代わって月5万ドルの仕事をしていたと嘘をついたとして起訴された。
しかし、ドナルド・トランプ氏が米国と中国を切り離すことが、自分を憎み、米国の雇用を海外に送り出した寡頭制を解体する方法だと考えていたとしても、そのビジョンを実行に移すことはできなかった。米国のエリートの腐敗の原因、中間層の貧困化の理由、米国の平和に対する内外の脅威を正しく特定した後、彼はアメリカ人に彼を選んで戦ってもらうように頼んだ戦争に勝つためのスタッフを配置し、準備をすることに失敗した。
そして、中国がチャイナクラスの力の源であることは事実だったので、武漢から出てくる斬新なコロナウイルスは、そのクーデターのためのプラットフォームになりました。つまり、アメリカ人は反民主主義的エリートの餌食となり、コロナウイルスを使ってアメリカ人の気力を奪い、中小企業を荒廃させ、盗み、焼き、殺すのが自由な暴徒に弱いままにし、子供たちを学校から遠ざけ、死にかけている人たちを愛する人たちの最後の抱擁から遠ざけ、アメリカの歴史、文化を冒涜したのだ。そして、アメリカの歴史、文化、社会を冒涜し、普通のアメリカ人が実際にはエリートの民間部門と公共部門の代理人がすでに用意していた地獄に値する理由を説明するために、この国をシステム的に人種差別主義者として中傷している。
約1年の間、アメリカの役人たちは、中国経済がアメリカの上に乗っかっている間に、より多くの権力を自分たちに横領するという唯一の目的のために、意図的に我々の経済と社会を荒廃させてきた。中国の封鎖は結果の違いとは何の関係もない。封鎖はウイルスの蔓延を抑えるための公衆衛生上の措置ではない。だからこそ、ニューヨーク州のアンドリュー・クオモ知事やシカゴ市長のローリ・ライトフット氏のように、長期にわたる封鎖を繰り返している民主党幹部は、トランプ氏が無事に去った今、直ちに封鎖を再開させることが急務だと公に表明しているのだ。
民主党の役人が意図的に命を破壊し、老人ホームで高齢者に感染させるために病人を送り込むことで何千人もの命を奪ったことは、アメリカ版「三十人の暴君」とは無関係である。仕事は、トランプを倒すためにコロナウイルスの犠牲者を増やすことであり、彼らは成功した。アテネの反民主主義派と同様に、アメリカの優秀な人材はとっくの昔に道を失ってしまった。30人の暴君の先頭にいたのはクリティアスであり、ソクラテスの最高の弟子の1人であり、詩人であり、劇作家であった。彼は体制の怒りからソクラテスを救うのを助けたかもしれないし、まだ哲学者は彼の方法、すべてに質問するために、伝統のためのクリティアスの広範囲の軽蔑を供給したことを後悔したようである。権力を握った後、クリティアスはアテネの彼の虚無主義を回し、都市を破壊した。
----- アメリカのエリートと中国の間の毒された抱擁は、約50年前、ヘンリー・キッシンジャーが、当時敵対していた2つの国の間に関係を開くことで、中国とより脅威的なソ連の間の溝の拡大を暴露することになるだろうと考えたときに始まった。2つの共産主義の巨人の間の衝突の中心にあったのは、ソ連の指導者がスターリンを拒絶したことであり、これを中国はソ連共産主義体制の終焉の始まりと見なし、彼らが犯してはならない過ちであった。
一方、キッシンジャーの地政学的な作戦は、彼の歴史的遺産の礎となった。また、キッシンジャーは中国の高官にアクセスを売る大金持ちにもなった。また、キッシンジャーは、ビル・クリントン政権の国防長官ウィリアム・コーエンのように、他の元高官の政策立案者が自らの対外影響力を利用した身売り作戦に従事する道を開拓した。コーエングループは、4つの海外事務所のうち2つを中国に構えており、トランプ前国防長官のジェームズ・マティス氏をはじめ、多くの元高官が参加しているが、彼は最近、社説でトランプ政権の中国に対する「我々と一緒か、我々に反対か」というアプローチを批判した際に、コーエングループでの仕事を公表しなかった。「米国の同盟国やパートナーの経済的繁栄は、北京との強力な貿易・投資関係にかかっている」と書いたマティスは、文字通り、まさにそのような立場を取るために中国から金をもらっていた。
しかし、1972年にリチャード・M・ニクソン大統領と一緒に欧米人が当時北京と呼んでいた中国の首都を訪れたとき、キッシンジャーが元アメリカ政府関係者のために中国を換金地にするとは考えられないだろう。「中国人は、毛沢東が死ななければ開国できないと感じていた」と、トランプ元政権関係者は言う。「ニクソンとキッシンジャーがいた時には毛沢東はまだ生きていたのだから、1979年に鄧小平の指導の下で始まったような改革を彼らが思い描くことはできなかっただろう」。しかし、1980年代になっても中国は米国と競争していたわけではない。中国が商業的なライバルになったのは1990年代に入ってからであり、「中国に貿易上の最恵国としての地位を与えることについて毎年議論が行われていた」という。
冷戦後の秩序の首席広報担当者はフランシス福山であり、彼は1992年の著書『歴史の終わり』の中で、ベルリンの壁が崩壊したことで、西欧の自由民主主義が最終的な政府の形になったと主張した。福山がベルリンの壁崩壊後に間違っていたのは、政治形態の強さの評価ではなく、彼の哲学的モデルの深さであった。福山は、半世紀近く続いた超大国の睨み合いが終わったことで、対立する政治モデルをお互いに対立させていた歴史的弁証法が解決されたと信じていたのだ。実際には、弁証法はまた別の方向に転じた。
ソ連で共産主義を破った直後、アメリカは生き残った共産党に新たな��吹を吹き込んだ。そして西洋の民主主義原理が中国共産党を変質させる代わりに アメリカの権威が東洋のテクノ独裁主義の味を手に入れたのです。ダイアン・ファインスタイン氏は、キッシンジャー氏に次いで、その後の20年間、米中関係を牽引した第二の影響力を持つ役人となった。
1978年、サンフランシスコ市長に就任したばかりのファインスタインは、当時の上海市長であり、後に中国の総統となる江沢民と親交を深めました。アメリカのハイテクの中心地の市長として中国との結びつきは、成長を続けるアメリカのハイテク産業に中国からの投資を呼び込み、中国を世界第3位の��済大国にしました。また、江氏との提携は、彼女の投資家である夫のリチャード・ブルムを大金持ちにした。上院議員として、彼女は中国の人権侵害を合理化して中国の最恵国待遇の恒久的な貿易地位の確立を推し進め、一方、友人の江氏は権力を強化し、天安門広場に戦車を送り込んで共産党総書記になった。ファインスタインは彼を擁護した。"中国には地元の警察がいなかった」と、ファインスタイン氏は江氏が彼女に語ったという。「それ故に戦車を送った。しかし、それは過去のことだ。人は過去から学ぶ。繰り返すことはない。中国は教訓を得たと思う」とカリフォルニア州の上院議員は安心して説明した。
しかし、実際には過去は、ワシントンのファインスタイン議員の聴衆に別の話を伝えるべきだった。米国はモスクワと貿易をしたり、ロシア人が多額の選挙献金をしたり、配偶者とのビジネス・パートナーシップを結んだりすることを許していなかった。冷戦時代のアメリカの指導者たちは、そのような行為がモスクワへの扉を開き、危険な方法でアメリカの政治や社会に直接影響を与えることを許してしまうことを理解していた。彼らの工場で私たちの商品を製造したり、私たちの商品を購入して海外に出荷したりすることは、技術や知的財産を脆弱なものにしてしまうことになる。
しかし、それは国家安全保障を危険にさらすだけではなく、アメリカの価値観に反するシステムにアメリカをさらすことにもなっていたのだ。この期間を通して、アメリカは、私たちが考えているソビエトに対する考え方とは反対の立場で自分たちを定義していた。ロナルド・レーガンは、ソ連を「悪の帝国」と呼んだことで軽率だと思われていたが、第二次世界大戦末期から 1990 年までの通商・外交政策では、これがコンセンサスとなる立場であったことが反映されていた。
実業家のアルマンド・ハマーが有名だったのは、彼がモスクワと取引をしていたアメリカ人だったからである。彼の視点が役に立ったのは、ソ連社会、政治、ビジネス文化に関する彼独自の洞察力がアメリカのメディアとよく共有されていたからではなく、彼が政治局がアメリカの聴衆に広めたいと思っている見解を提示していたことが理解されていたからだ。今日、アメリカには何千人ものアーマンド・ハマーがいて、そのすべてが彼らの富、名声、権力の源を主張している。
それは、1994年にビル・クリントンが人権を貿易の地位から切り離すことを決定したことから始まった。彼は、ジョージ・H・W・ブッシュ政権とは対照的に、人権に焦点を当てることを約束してホワイトハウスに入り、就任2年後に顔を上げた。クリントン氏は「我々の関係をより大きく、より生産的な枠組みに置く必要がある」と述べた。アメリカの人権団体や労働組合は愕然とした。クリントンの決定は明確なメッセージを送った、と当時のAFL-CIO会長レーン・カークランドは言った。「アメリカが民主主義と人権について何を言おうと、最終的な分析では利益であって、人ではなく、最も重要な問題である」。当時の上院院内総務ジョージ・ミッチェル氏のような一部の民主党員は反対し、ジョン・マケイン氏のような共和党員はクリントン氏の動きを支持した。クリントンの国家経済会議のトップであるロバート・E・ルービンは、中国は「これまで以上に大きく、より重要な貿易相手国になるだろう」と予測した。
それから20年以上が経過した今、中国の技術をアメリカの技術から切り離そうとするトランプ政権の措置に反対してロビー活動を行ったアメリカの産業や企業の数は、相反する価値観や慣行を主張する2つのライバルシステムがどれだけ密接に統合されてきたかを示す驚異的な指標となっている。フォード、フェデックス、ハネウェルなどの企業や、華為にチップを販売し続けるために争ったクアルコムなどの半導体メーカーは、片足をアメリカに、もう片足をアメリカの地政学的に重要なライバルであるアメリカにしっかりと植え付けて存在している。両者のビジネスを守るために、彼らは中国を競争相手と呼ぶことで、危険なライバルを後押ししている自分たちの役割を隠蔽するために、この問題をソフトに売り込んでいるのだ。
アメリカのほぼすべての主要産業が中国との利害関係を持っている。ウォール街、シティグループ、ゴールドマン・サックス、モルガン・スタンレーから接客業に至るまで。マリオットホテルの従業員が解雇されたのは、彼がチベットについてのツイートを気に入ったことに中国当局が異議を唱えたためだ。彼らは皆、中国共産党のルールに従うことを学んだ。
ランプ政権の元幹部、ロバート・スポルディング元退役軍人は、「中国に縛られていない人に聞いた方がいい」と言う。
当然のことながら、かつては頼りにされていた共和党の米国商工会議所は、トランプ氏の中国政策に反対する先頭に立っていた。関税案だけでなく、パンデミックが発生した場合でも、米国企業が重要なサプライチェーンを別の場所に移動し始めるよう求めたのだ。全米防衛産業協会は最近、防衛関連の請負業者が特定の中国の技術を使用することを禁止する法律に不満を表明した。同団体のスポークスマンは「連邦政府と仕事をしているすべての請負業者は、それを止めなければならないだろう」と述べた。
トランプ政権でさえも、タカ派と融和主義者に分かれており、前者は『パンダハガー』と皮肉っぽく呼ばれていた。トランプ政権の高官の大半は後者の陣営に属しており、特に元ハリウッドのプロデューサーであるスティーブン・ムニューシン財務長官はその中でも特に注目されていた。映画業界は、中国が知的財産を盗んでいると最初に声高に訴えていたが、最終的には北京と手を組むようになり、北京をなだめるようになった。スタジオは、中国共産党のレッドラインを守らずに、中国の巨大な市場に参入することはできません。例えば、「トップガン」の続編では、パラマウント社がトム・クルーズの「マーベリック」のジャケットに台湾と日本のパッチをぼかして中国で公開することを提案したが、中国共産党の検閲官は、世界のどのバージョンでもパッチを表示しないようにと主張した。
トランプ政権時代には、「中国との疑う余地のない協力を続けようという非常に大きな後押しがあった。反対側には、反発を望む少数の人々がいた」とスポルディング元顧問は言う。
アップル、ナイキ、コカ・コーラは、ウイグル強制労働防止法に反対するロビー活動までしていた。トランプ大統領就任最後の日に、マイク・ポンペオ国務長官は、米国が「中華人民共和国が中国の新疆ウイグル自治区で、ウイグル族のイスラム教徒やその他の少数民族・宗教団体のメンバーを標的に、大量虐殺と人道に対する犯罪を犯していると判断した」と発表した。2020年のオーストラリアの調査によると、ナイキ、アディダス、ギャップ、トミー・ヒルフィガー、アップル、グーグル、マイクロソフト、ゼネラルモーターズなど、ウイグル人の強制労働力を使用している多くのアメリカの主要ブランドがジェノサイドに加担していることになる。
基本的人権や民主主義を軽視している国が、アメリカの産業界から直接資金を提供され、アメリカ国民のものであるべきアメリカ政府の研究や技術の成果を特権的に利用できるようにすべきではないという考えは、党派的な考えとは言い難く、ドナルド・トランプ氏とはほとんど関係がない、あるいは関係がないはずである。しかし、歴史的な記録を見れば、アメリカと中国のエリートの融合はトランプ政権時代に頂点に達していたことがわかるだろう。ミッチ・マコーネル上院共和党党首の造船会社の億万長者の義父であるジェームズ・チャオ氏は、大学の同級生の江沢民氏をはじめとする中国共産党との関係から大きな利益を得ている。チャオ家からの贈り物は、マコーネルを、最も裕福な上院議員のリストの中で、ファインスタイン氏よりも数段下の地位にまで押し上げました。
トランプ憎しのメディアの津波に乗って、チャイナクラスは国家機関や安全保障官僚の中でその力を固めた。1990年代後半から続いている中国共産党政権の最悪かつ最も脅威的な側面への対応は、早送りになっていた。ナイキが中国の奴隷労働収容所でスニーカーを作っていたという話は、もはや流行らなくなった。中国がアメリカの科学機密や軍事機密を盗み、シリコンバレーで大規模なスパイ活動を行い、エリック・スワールウェルのような下院議員を危険にさらし、アイビーリーグのトップ教授に多額のリテイナーを払い、知的窃盗のプログラムを組織的に実施している、あるいは何らかの形で自国の国民や近隣諸国、さらにはアメリカの生活様式に危険をもたらしているというニュースは、トランプ支持のプロパガンダとしてミュートされ、却下された。
中央情報局(CIA)は、アメリカの制度を弱体化させようとする中国の努力を公然と保護していた。CIAの経営陣は、情報アナリストをいじめて、中国の影響力と私たちの政治プロセスへの干渉についての評価を変えるようにして、彼らがトランプ氏の政策に同意しない政策を支持するために使用されないようにしたのです。アメリカを守ることがCIAの経営陣にとって最も急務なことではないのは当然のことである。
中国の行動を実際に理解している人たちにとっては、党派性は明らかに二の次の関心事だった。中国の行動は、アメリカの中核的な安全保障機関がそれを真剣に受け止めていないように見えたことと同様に、真に憂慮すべきものであった。「1980年代までは、共和制政府の形態に反する考えを持つ外国勢力の利益を推進する人々は排除されていた」と、オバマ政権の元情報当局者は言う。「しかし、グローバリズムの出現で、彼らは中国を言い訳にし、自分たちの好みに合わせて情報を曲げた。ブッシュとオバマの時代、標準的な評価は、中国は青水軍を作る気がないというものだった。それは彼らの見方には不都合だった。中国は現在、第3の空母を生産中である。」
トランプ氏を憎むことは、彼らの政治的な言い訳になっているが、アメリカの安全保障と国防の確立は、中国を見て見ぬふりをすることに自分たちの利益を持っていた。ジョージ・W・ブッシュの「対テロ戦争」から始まった軍事作戦に人、金、名声を浪費してきた20年間は、米国にとって戦略的価値が低いことが証明されている。しかし、中東の殺戮現場にアメリカ人を派遣して安全を確保することは、北京にとって大きな利益となっている。先月、中国のエネルギー大手である善華は、イラク経済の低迷に乗じて、5年間の石油供給(日量13万バレル)に20億ドルを支払った。価格が上がれば、この取引で中国は石油を転売することができる。
アフガニスタンでは、大規模な銅、金属、鉱物の鉱山は、アメリカ軍が表向きの安全を確保しているが、中国企業が所有している。また、アフガニスタンは新疆ウイグル自治区と国境を接しているため、習近平は「米国がアフガニスタンから軍を撤退させた後、アフガニスタンやパキスタンの辺境に位置するテロ組織がすぐに中央アジアに侵入してくるのではないか」と懸念している。言い換えれば、米軍がアフガニスタンのような場所に海外展開しているのは、中国の「ベルト・アンド・ロード構想」のための安全保障よりも、アメリカの利益を守るためである。
「ソ連とのように中国とは対立しているわけではないという考えがある」とオバマ前大統領は言う。「しかし、我々はそうなっている問題は、民主党を中心としたアメリカの既成政党のほぼすべてが、断固として反対側にあるということだ。」
------ 2019年の夏の終わり頃、トランプ氏はホワイトハウスでの2期目に向かっているように見えた。経済が急騰し、失業率が記録的な低水準になっただけでなく、彼はまさに彼が選んだフィールドで対立候補と対決していたのだ。トランプ氏の北京との貿易戦争は、トランプ氏が本気でアメリカ企業にサプライチェーンの移動を迫ろうとしていることを示している。7月には、デルやHPのようなアメリカのトップテック企業が、生産の大部分を中国国外にシフトすると発表した。アマゾン、マイクロソフト、アルファベットもまた、製造の一部を他の場所に移す計画を立てていると述べた。
武漢の住民が通りを埋め尽くし始めたのは、2019年の6月下旬と7月上旬、まったく同じ瞬間だった、武漢の1100万人の健康と繁栄に責任を持つ役人が裏切ったことに怒りを覚えた。彼らは病気になり、病気になるのを恐れていた。高齢者は息を切らした。行進する人たちは、「毒されたくない、新鮮な空気を吸いたい」という横断幕を掲げていました。親たちは子供たちの命を心配した。病人が免疫系と神経系に永久的なダメージを受けていることを恐れていた。
当局はソーシャルメディアのアカウント、写真、抗議のビデオを検閲し、おとり捜査官はトラブルメーカーを監視し、最も声の大きい者を拘留した。企業は閉鎖を余儀なくされ、抗議者が隠��る場所はどこにもなかった。何人かはバンで運び出された。彼らは当局から「公安機関は悪質な扇動や挑発などの違法な犯罪行為を断固として取り締まる」と警告を受けていた。
当時、武漢の住民を街頭に送り出したのは、COVID-19ではなかった。2019年初夏、武漢の公衆衛生を脅かしたのは大気汚染の疫病だった。これは、アメリカの悲惨な最後の年の物語のこれまで語られてこなかった部分である。
大気を汚染するゴミの山に対処するため、当局はゴミ焼却場の建設を計画した(2013年、武漢では5つの焼却施設から危険な汚染物質が排出されていることが判明した)。他の都市でも同様に、2007年のシアメン、2015年の上海、2016年の成都、2017年の清原など、大気汚染に対する抗議行動が街頭で行われたが、その都度、中国共産党指導部にパニックの波が押し寄せた。不安が次から次へと広がり、14億人の国全体が制御不能に陥ったとしたらどうだろうか。
中国共産党は、騒動が流行らないようにする方法は、隔離することだと学んでいた。中国共産党は、中国の少数民族であるチベット人、そして最近ではトルコ系の少数民族であるイスラム教徒のウイグル人を、大規模な検疫や監禁によって無力化することに特に長けていたが、これは電子監視ネットワークによって管理され、刑務所や奴隷労働収容所への道を開いた。2019年までには、中国のウイグル人の悲惨な運命は、彼らの強制労働から大きな利益を得ている多くの人々の間でも、心からの関心事となっていたのか、それとも単に広報活動を重視していただけなのかを問わず、関心事となっていた。
新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)は、イランとほぼ同じ大きさの中国北西部に位置し、石炭や石油、天然ガスなどの資源が豊富な地域である。パキスタンと国境を接する新疆は、ベルト・アンド・ロード構想の重要な供給ルートの終着点であり、世界的な中国の利権圏を創造するための1兆ドルのプロジェクトである。BRIの潜在的な混乱は、中国の重要な利益への脅威を構成する。習近平は2014年4月、ウイグル族の戦闘員が駅で150人以上を刺した事件を、取り締まりの機会と捉えた。
「壊滅的な攻撃を備えよ」Xi は警察官および軍隊に言った。彼の副官は、一斉に命令を出した。「全員を切り上げろ」との命令が下された 情けをかけた役人は自ら拘留され、屈辱を受け、「新疆のための党中央指導部の戦略」に背くための手本とされた。
2019年11月のニューヨーク・タイムズ紙の報道によると、中国当局が最も心配していたのは、省外の学校から帰宅したウイグル族の学生たちだった。学生たちは「国全体に広く社会的なつながりを持っていた」し、当局が恐れていた『影響力』が『広く、根絶するのが難しい』ソーシャルメディアを使用していた。任務は、収容所内で実際に起こっていることのニュースを隔離することだった。学生が愛する人はどこにいるのか、何があったのかと尋ねると、当局は「彼らの親族はイスラム過激主義の『ウイルス』に『感染』しているので、隔離して治療しなければならない」と学生に伝えるように助言された。
しかし、中国の封鎖政策の対象となったのは、テロ攻撃を実行する可能性の高い若い男性だけではなかった。文書によると、当局者は「暴力を振るうには年を取りすぎていると思われる祖父母や家族でさえも免れない」と言われたという。
2019年秋に本物のウイルスがヒットしたとき、中国当局は同じプロトコルに従い、問題を起こす可能性のある者だけでなく、武漢のすべての人を隔離し、わずか数ヶ月前に同じ都市で鎮圧したものよりもさらに大きな世論の反発を避けることを望んだ。
病気ではない者を隔離するロックダウンが、これまで公衆衛生対策として採用されてこなかったのには、それなりの理由がある。都市、州、または国の主要メンバーは、彼らが大規模な人口に集団的な罰を課していることを示すために意味がない限り、自分自身を投獄しない。政治的抑圧の手段として広く認知されているため、これまで公衆衛生対策として使われたことはなかった。
2019年12月末、中国当局は、新しいウイルスに言及したソーシャルメディアアカウントのロックダウンを開始し、それを警告したり、同僚とそれについて話したりした医師は叱責され、COVID-19に感染したとされる別の人が死亡しました。武漢���出入りする国内旅行はすべて停止されました。もし封鎖の目的が感染の拡大を防ぐことだったとすれば、国際便が継続していたことは注目に値します。むしろ、ソーシャルメディアの検閲と同様に、国内旅行の禁止は、政府の失態が中国全土に広がらないようにし、大規模な、おそらく制御不能な不安を招くことを防ぐためのものだったように思われる。
6月と7月に武漢の通りが埋め尽くされたのは、ある都市の人口を蝕む焼却炉の計画を隠していた当局の致命的な無能さに抗議するためだったとしたら、中国全土を蝕む運命にある呼吸器疾患の原因が、当局が主張するような湿った市場で起こった自然の偶然ではなく、中国共産党の武漢ウイルス研究所であることを知ったとき、中国国民はどのように反応するだろうか?
1月、トランプ政権の元国家安全保障副顧問マット・ポッティンジャー氏は英国当局者に、最新のアメリカの情報によると、COVID-19の最も可能性の高いソースは武漢のウイルス研究所であると語った。ポッティンジャー氏の発言を報じた数少ない欧米の報道機関の一つである英紙デイリー・メールによると、ポッティンジャー氏は、病原体が漏洩か事故によって逃げ出した可能性があると主張した。
1月に発表された国務省のファクトシートによると、米国は「武漢の研究室内の数人の研究者が2019年秋、最初に確認された感染例が発生する前に発病したと信じるに足る理由がある」としている。ファクトシートはさらに、中国政府の研究室が2016年からCOVID-19に最も類似したコウモリコロナウイルスの研究を行ってきたことを説明している。少なくとも2017年以降、WIVは中国軍に代わって機密研究を行ってきた。「米国は長年にわたり、中国の過去の生物兵器作業について公に懸念を表明してきたが、北京は生物兵器禁止条約の下で明確な義務を負っているにもかかわらず、文書化も実証もしていない。」
パンデミックが武漢の湿った市場で始まったのではないという証拠は、北京が1月23日に封鎖を実施した数日後の2020年1月に早くも発表されている。イギリスの医学誌「ランセット」によると、最初のものを含む41例のうち13例は市場との関連性がなかったという。5月には中国の疾病管理・予防センターの責任者が、COVID-19と湿潤市場を結びつけるものは何もなかったことを確認した。「新型コロナウイルスは、市場で発見されるずっと前から存在していた」と、中国の関係者は述べた。
ランセットの報告の後、トランプ政権に近い共和党当局者は、北京の公式アカウントに異議を唱えた。「我々はそれがどこで発生したかを知らないし、我々はそれの底を取得しなければならない」上院議員トム・コットンは2月に言った。「また、その食品市場から数マイル離れたところには、中国唯一のバイオ安全レベル4のスーパーラボがあり、ヒト感染症を研究していることも知っている。」コットン氏は、中国は二枚舌で不誠実だったと述べた。「私たちは、少なくとも証拠が何を示しているのかを確認するために質問をする必要があります。中国は今、その質問に対して何の証拠も提示していない」とコットン氏は述べた。
アメリカのマスコミは、コットンの答えを探す姿勢を軽蔑した。ジェフ・ベゾスのワシントン・ポスト紙は、コットンは「専門家によって何度も否定されてきた陰謀論の火種を撒き散らしている」と主張した。トランプ氏は、コロナウイルスが武漢の研究室で発生したものであると確信していると大統領が発言した時、アメリカのスパイサービスと矛盾していると嘲笑された。テッド・クルーズ上院議員は「パンデミックの起源についての明白な疑問を否定することで、マスコミは中国共産党のプロパガンダを作り出すために、ジャーナリズムのすべてのふりを放棄している」と述べた。
昨年の冬以来、トランプ氏とGOP当局者が行っていたのと同じケースを主張したニコルソン・ベイカー氏によるニューヨーク・マガジンの記事が1月に発表されたことは、有益な疑問を投げかけている。なぜジャーナリストたちは、北京のコロナウイルスの起源についてのトランプ政権の懐疑論を自動的に否定しようとしたのだろうか?なぜ選挙後まで待って、中国共産党の話が偽りであるという証拠の公表を許したのか。確かに、メディアはバイデン氏を好んでおり、何としてでもトランプ氏を追い出そうとしていたが、中国とCOVID-19についての真実をアメリカ人に伝えることが民主党の選挙にどのような影響を与えるだろうか?
中国はアメリカのマスコミに多くの友人を育ててきたからこそ、マスコミは中国政府の統計を素直な顔で伝えている。しかし、重要なのはこの事実である。中国共産党のナラティブを正当化する際に、メディアは主に中国のためではなく、中国から権力、富、威信を得ているアメリカ人階級のために報道しているのだ。いや、北京は悪者ではなく、国際的に責任ある利害関係者なのだ。実際、私たちは中国のリードに従うべきだ。そして3月までには、トランプ氏が最初に同意したことで、アメリカの当局者は、歴史上、独裁大国が自国民を黙らせるために使ってきたのと同じ抑圧的な措置をアメリカ人にも課した。
やがて、親中派の寡頭政治家たちは、封鎖がもたらした恩恵の全容に気づくようになった。ロックダウンは主要な寡頭政治家をより豊かにし、ベゾス単独の場合は850億ドルもの富を得たが、その一方でトランプ氏の中小企業基盤を困窮させた。市や州の当局は、不定法な規制を課すことで、独裁政治を正常化したのである。そして、少なくとも、アメリカの組織には、代議員の3分の1しか選ばれていない候補者に指名を与え、大統領選挙期間中は地下室に閉じ込めておくという、もっともらしい理由があった。しかし、ある意味では、ジョー・バイデンは、数十年続いた米中関係の軌道を正常に戻すことを意味していたのである。
----- バイデン氏の当選後、中国の外相は米中関係のリセットを求めたが、中国の活動家はバイデン氏の対中政策はすでに決まっていると言う。「私はバイデン政権に非常に懐疑的だ。なぜなら、彼が中国を21世紀のウイグル人の大量虐殺である正常な状態に戻すことを許すのではないかと心配しているからだ」と、ある人権活動家は選挙後、ニューヨーク・タイムズ紙に語った。バイデン氏が大統領になったことで、ある人権活動家は「ホワイトハウスに習近平氏が座っているようなものだ」と語った。
11月には、北京政府に近い中国のシンクタンクのトップが行った公開演説を記録したとするビデオがソーシャルメディア上で流通した。「トランプ氏は我々に対して貿易戦争を仕掛けてきた」と中国の聴衆に語った。「なぜ我々は彼に対処できなかったのか?1992年から2016年までの間、我々は常に米国との問題を解決してきたのはなぜか?それは、我々には上に人がいたからです。アメリカの中心的な権力の輪の中に、我々には古い友人がいるからです」と述べた。感謝する群衆は彼と一緒に笑った。「過去30~40年の間、私たちはアメリカの中心的な輪を利用してきました」と彼は続けた。「私が言ったように、ウォール街は非常に大きな影響力を持っています...私たちはかつてウォール街に大きく依存していました。問題は、2008年以降、彼らが衰退していることだ。最も重要なのは、2016年以降、ウォール街はトランプ氏をコントロールできなくなったことです...米中貿易戦争では、彼らは助けようとしました。アメリカの友人は、彼らは助けようとしたが、助けられなかったと言っていました。バイデンが選挙に勝った今、伝統的なエリート、政治的エリート、既成政党は、ウォール街と非常に密接な関係を持っています」
本当だろうか?ジャネット・イエレン財務長官がウォール街の聴衆の前で演説しただけで稼いだ小金は公の記録である。しかし彼女は先月の公聴会で北京に厳しい言葉を浴びせ、中国共産党のウイグル人に対する『恐ろしい人権侵害』を批判した。しかし、バイデン氏が国家安全保障のトップポストに指名した人物の履歴書は、別の話を物語っている。次期国家情報長官のアヴリル・ヘインズと国務長官のアントニー・ブリンケンは、選挙の直前に中国共産党のための仕事をウェブサイトから削除したWestExecというベルトウェイの会社で働いていた。
ペンタゴンの3番手に抜擢されたコリン・カール氏は、スタンフォード大学の研究所に勤務していた。この研究所は北京大学と提携しており、元中国共産党のスパイチーフが運営する学校で、欧米の諜報機関からは安全保障上のリスクがあると長い間見られていた。
アメリカ進歩センターのシンクタン���の責任者として、バイデンが管理予算局の長官に指名したニーラ・タンデンは、中国共産党の「政策と権威に対する潜在的な反対の情報源を共謀して無力化し、中国共産党の「海外の中国社会、外国政府、およびその他の行為者に影響を与え、北京を支持する行動を取るか、または立場を採用する」ための隠れ蓑として創設された米中交流組織と手を組んでいた。
バイデンの大統領人事特別補佐官トーマス・ジマーマンは上海社会科学院の研究員で、中国の国家安全保障省との関係があるとして欧米の諜報機関から注目されていた。
リンダ・トーマス・グリーンフィールド国連大使は、ジョージア州サバンナで開催された中国政府が出資する孔子学院で2019年の講演を行い、アフリカにおけるグッドガバナンス、ジェンダー・エクイティ、法の支配を推進する上での中国の役割を称賛した。「中国がこれらの価値観を共有できない理由はない。実際、中国はアフリカ大陸に強い足跡を残していることから、これらの理想を広めるためのユニークな立場にある」と述べた。
次期司令官の家族は、中国軍とつながりのあるビジネスマンから500万ドルの無利子融資を受けたと報じられ、バイデンの息子ハンターは中国のビジネスパートナーを『中国のスパイ長』と呼んでいた。ハンター・バイデンの中国共産党との結びつき疑惑の選挙前の報道をマスコミやソーシャルメディアが検閲したのは、彼を守るためではなかった-500万ドルは、ベゾスがパンデミックの間に毎時稼いでいた額よりも少ない。いや、親中派の寡頭制にとって、ジョー・バイデンを当選させたのは自分たちを守るためだったのだ。
バイデン政権はトランプ政権の積極的な中国の技術産業の巻き戻し努力を継続すると主張する報道は誤りである。新政権には、米中関係を軌道に乗せようと躍起になっているアメリカのハイテク産業のロビイストがいっぱいいる。バイデンのロン・クライン参謀長は、ワシントンのシリコンバレーを代表してロビー活動を行っている業界団体「テックネット」の元役員会メンバーでした。バイデンのホワイトハウス顧問はスティーブ・リチェッティで、弟のジェフは選挙直後にアマゾンのロビー活動のために雇われた。
イエレンは、「中国は明らかに我々の最も重要な戦略的競争相手である」と述べている。しかし、親中派の寡頭制は、富、権力、威信を得ている国と競合しているわけではない。中国の独裁政治が彼らのモデルなのだ。ワシントンD.C.全体に2万人以上の米軍メンバーを配備したことを考えてみよう。反乱やクーデターとされた散発的に暴力的な抗議デモ行進の結果、公の場ではほとんど姿を見せない大統領の就任式の警備のために、ワシントンD.C.に2万人以上の米軍メンバーを配備したこと、ソーシャルメディアからの反対の声の除去と、競合するソーシャルメディアのプラットフォーム自体の除去、トランプ支持者のアメリカの半分の人々が医療、クレジット、法的手段、教育、雇用へのアクセスから遠ざかるようにしたこと、現政権の政策への抗議を「国内テロリズム」として再定義するという究極の目標を持っていること、などを踏まえて考えてみてほしい。
明らかなのは、バイデン氏の就任は、中国との関係を自国の同胞に対する盾と剣と見なしているアメリカの寡頭制の覇権を示すものであるということである。アテネの「三十人の暴君」のように、彼らは、創造主によって与えられた全市民の自然権を認める政治システムを単に軽蔑しているのではなく、自分たちが支配している人々が、自分たちと同じ権利を持っているという考え方を特に軽蔑している。言論は、それを適切に使う方法を知っている賢明な少数の者だけが自由にできるものであるべきだ、という考えに対する彼らの新たな尊敬の念を見るといい。クリティアスや親パルタ派のように、新しいアメリカの寡頭制は、民主主義の失敗は自分たちの権力に対する独占的な権利の証明であり、自分たちの同胞を破壊するのを助ける外国の力と協力して統治することを喜んでいると考えている。
歴史はこの瞬間について何を教えてくれるのだろうか。悪いニュースは、30人の暴君がアテネの著名な民主主義者を追放し、アテネの人口の推定5%を殺害しながら彼らの財産を没収したこと。良いニュースは、彼らの支配は1年未満であったということだ。
[リー・スミスは、新たに出版された本『The Permanent Coup』の著者である。国内外の敵はどのようにしてアメリカ大統領を標的にしたのか』の著者である。]
0 notes
哲学的に考えると、子どもに「自由」はない。 ORICON NEWS-2 時間前
哲学的に考えると、子どもに「自由」はない。 ORICON NEWS-2 時間前
哲学史2500年の結論! ソクラテス、ベンサム、ニーチェ、ロールズ、フーコーetc。人類誕生から続く「正義」を巡る論争の決着とは? 哲学家、飲茶の最新刊『正義の教室 善く生きるための哲学入門』の第5章のダイジェスト版を公開します。
本書の舞台は、いじめによる生徒の自殺をきっかけに、学校中に監視カメラを設置することになった私立高校。平穏な日々が訪れた一方で、「プライバシーの侵害では」と撤廃を求める声があがり、生徒会長の「正義(まさよし)」は、「正義とは何か?」について考え始めます……。
物語には、「平等」「自由」そして「宗教」という、異なる正義を持つ3人の女子高生(生徒会メンバー)が登場。交錯する「正義」。ゆずれない信念。トラウマとの闘い。個性豊かな彼女たちとのかけ合いをとおして、正義(まさよし)が最後に導き出す答えとは!?
子どもの「自由」を哲学する 前回記事『人助けを「無理やりさせる」のは、“正義の行為”か?』の続きです。
僕を挟んで唐突に始まった、副会長と庶務の言い合い。
いや、生徒会室なら、正直見慣れた光景ではあるのだが、今は授業中。公の場だ。でも、ここで何か口を挟もうものなら、生徒会長として、この場の調停を求められてしまう(それもまた見慣れた光景だ)。まずはそれを回避しよう。僕は息を殺して背筋を伸ばし、無言で真っ直ぐ前を見て、この件に自分は無関係であるというアピールをする。
が、その結果、先生と思いきり視線がぶつかってしまった。
「正義くんは、どう思うかな?」 逆効果。むしろ、僕に任せてください的なアピールになってしまった。
「そうですね……」 そのとき脳裏によぎったのは、「たしかに人助けを強制するってなんか違うなって思いますが、でも、助ける助けないは自由でまったく強制しないってのも問題ですよねー」といったどっちつかずの曖昧な答え。
それを口に出して、なんとかこの場をしのごうかとも思ったが……、今までの記憶を思い返してみると、そう言って、しのげた試しがない。見慣れた光景だからこそわかる。お茶を濁す発言はそれこそ逆効果なのだ。ならば……。
「あの……自由主義は、子どもの自由についてはどう考えているのでしょうか?」 ならば、一旦視点を変えてみる。もちろん当てずっぽうではなくて。たぶん、おそらくつながると思うんだけど。
「ほう!」 先生は、とても感心した声を出した。
「なるほど、良い視点だ。たしかに自由主義は、人間の自由を尊重する立場であるが、子どももしくは未成年の行動については、ある程度制限するべきだと考えている。ただし、ここで制限すると言っているのは、あくまでも行動であって自由ではないことに注意してほしい」
ん? 行動は制限するけど、自由は制限していない? どういうことだろう。同じことのように思えるのだが。...
https://www.oricon.co.jp/article/862564/
再生核研究所声明 139 (2013.10.22):  正義とは 戦争における; 短期的には 勝者が決めるが、世界史が評価の大勢を定める
(2013.10.10.16:35 休んでいるとき、構想を練る。これは声明に関心を擁く人からの 要望による。)
まず、用語を確認して置こう: 正義(せいぎ、希: δικαιοσύνη、羅: jūstitia、英: justice、仏: justice、独: Gerechtigkeit)とは、倫理、合理性、法律、自然法、宗教、公正ないし衡平にもとづく道徳的な正しさ[要出典]に関する概念である。 正義の実質的な内容を探究する学問分野は正義論と呼ばれる。広義すなわち日本語の日常的な意味においては、道理に適った正しいこと全般を意味する。以下では、専ら西洋における概念(すなわちjusticeないしそれに類似する言葉で示されるもの)を記述する。東洋のそれについては義のページを参照。 定義[編集] 正義とは、それ自体に鑑みれば、社会における物および人に関する固有の秩序である[要出典]。この概念は、哲学的、法的あるいは神学的な影響の下で、歴史上絶え間なく論じられてきた。正義に関する問題の多くは、西洋における正義概念に依拠している。例えば、「正義とは何であるか」「正義は個人および社会に何を要求しているか」「社会における財と資源の本来的な配分方法(平等主義、才能主義、身分主義)は何か」などである。これらの問いに対しては、政治および哲学に関する多様な観点から様々に答えうる。 正義の概念は、多くの正義論によって極めて重要な概念であるとされている。例えば、ジョン・ロールズは次のように述べている[1]。「正義とは、思想体系が真であることとしての、社会制度の根本的な徳である」。正義は、親切、慈悲、慈愛、寛大さあるいは共感などのその他の徳と区別され、そしてそれらよりもより基本的な徳であると考えることもできる。正義は、とりわけギリシャ哲学やキリスト教においては、運命、輪廻あるいは神の予見のように、自然の摂理や超越的存在によって規律された生ないし生き方と結び付けられることがしばしばであった。しかし、現代の正義論においては、このような宇宙論的・宗教的世界観を離れて、正義を社会制度の根源を為す価値である公正さと結び付けて人間社会の枠組みの問題であると捉える傾向が強い。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E7%BE%A9より) また、
義   「己の威儀なり。我+羊の会意」 ・・・ 「羊+我声」 と改めたほうがよい。  「羊」 を含むのは、祥・善 に羊を含むのと同じく、ヒツジを神に捧げるギセイに常用した習慣に基づく。  もともと宜 と同じく神への供物が くっきりとかどばって美しく揃っていること。  <書経、文侯之命> の「父義和」の鄭注に、「義とは匹(そろう)なり」とあるのは、なお原義に近い。  <礼記、中庸> に「義とは宜なり」とある。また<礼記、祭義> に「義とはこれに宜(よろ)しきなり」ともある。  転じてすべてかどあるさまを義・儀 という。娥(美しい女) とも同系。※ 『漢字語源辞典』(学燈社) p.592。
また、 ここで再び唐漢氏に登場願う。彼曰く、
甲骨文字「義」
金文「義」 「義」という字は、羊と我という文字から成り立っている。ここで「羊」はこの種の頭上にある大きく湾曲した角を指す。その意味は羊の統率指導権や交配優先権を表すものだと解釈されている。そして「我」というのは古代の長い柄の一種の兵器のことであるが、形が美しく作られ実際の戦闘には不向きで、軍隊の標識用に作られたものだとしている。したがって「義」という字は、本来は「羊」の頭を指し自分あるいはグループの権力、戦闘に向かう集団の権力の誇示に並べたものであろうということである。 このことから「義」は情理・正義に合致した名目の立つ出兵を示し、公正適切な言行を指すようになったということである。  このことから考えると先ごろのアメリカ・イギリスなどのイラク攻撃には一体いかなる「義」が存在したのだろう。一旦この「義」が地に捨てられてしまうと、後は強肉弱食のカオスの世界しか残らない。  このことを「天地人」の作者は最も言いたかったのではないだろうか。 http://kanji-roots.blogspot.jp/2010/05/blog-post_26.htmlより また、 「義(ただしい)」は、犠牲として神に捧げる「羊」と、これを切る鋸(のこぎり)「我」の合体した文字。「義」には悲劇がつきまとう。【『一日一書』石川九楊(二玄社、2002年)】
上記のように “正義” は 実に曖昧な言葉であることが分る。 義の語源から、戦闘を大義名分にするときに掲げる言語で、重い意味を有する言語ではないだろうか。そこで、正義の意味をきちんとさせたい。 きちんとした解釈を与えたい。 まず、世の道徳や、法や慣習が確立している範囲ならば、正義は 次の 公正の原則 で定められるのではないだろうか: 再生核研究所声明 1 (2007/1/27): 美しい社会はどうしたら、できるか、 美しい社会とは: 平成12年9月21日早朝、公正とは何かについて次のような考えがひらめいて目を覚ました。(公正の原則)
1) 法律、規則、慣習、約束に合っているか。 2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか。 3) それはみんなに受け入れられるか。  4) それは安定的に実現可能か。
ところが、合戦や戦争では いわゆる約束ごと、ルールを越えて 行われるので、世の一切の法やルール、慣習を越えている。それで、その戦いを正当化する言語、正義は、極めて難しい言語であると言える。ルールは何も無く、ただ戦争の勝利者が正義を定められる と考えるべきである。これは既に 定着している 勝てば官軍 の諺に表現される。合戦には 不意打ち、だまし討ち、陰謀などは常識であり、侵略どころか、虐殺、皆殺しなども世界史には存在する。第二次世界大戦でも 戦闘力のない 敗戦真近かの国に 非戦闘員、民間人の大量虐殺を始めから意図した原爆投下などが 存在するが、戦争だから仕方がないと 世界では受け止められている。 非戦闘員は 巻添えにはしない などの慣習や道義など、一切のルールは 機能していないのが 世界史である。 ― (いわゆる戦時における 慰安婦問題などが 問題にされているが、原爆投下などの 大きな非道に目をつぶって、そのような問題を論じているのは、誠におかしいのでは?(再生核研究所声明 101 慰安婦問題 ― おかしな韓国の認識、日本の認識))。 そこで、勝てば官軍 の現実を受け止め、勝利者が正義を定める としたい。戦争、合戦は 無条件の戦いであり、生きるか死ぬかの 究極の選択と考える。これは生物界に厳然と存在する、食うか食われるかの戦いであり、究極の局面である。(そのような戦争は したくはない。戦争は ゲームのようなものではない、兵士は 権力者の消耗品ではないと言うことである。)。大和朝廷の平定、アレキサンダー大王の遠征、南アメリカへの侵略、北米の支配などなども いろいろ批判されるべき点が有っても、いわば自然法に基づいた 強い者が正義を定める を述べている。 その原理は、今でも同じで、戦いには法は無く、総合的な力が世界を動かしている現実がある。イラク進攻を見れば、歴然であり、法も無く、国連安保理事会も 未だに機能していない。若いアメリカ合衆国は 力の信仰、自由競争による自然法的発想が、もっとも強い国であるように見える。 これで、正義 は 確定し、正確に定義された。 それで、戦争に 正義を掲げるのは、この意味で意味を失うことになる。― もちろん、対立する双方が大義を掲げるのは、当然である。― 世界史は 勝利者によって書かれ、作られて来たと言えるが、その勝利者は、その時代における総合戦による勝利者であって、単に軍事だけで世界が動いたのではないと言える。植民地支配をしたり、侵略して来たのは、勝者として、それだけの力を有していたと、評価できる面が有ることを 認めざるを得ない。自然の生物界の現実が そうであると考えられる。自己防衛は あらゆる生物に与えられた、本能であり、当然の義務、基本的な義務であると考えられる。国防の戦略や災害に対する対策が無い国などは、国家の基本を疎かにしていると批判されるだろう。 再生核研究所は それでは 軍備拡張で富国強兵を考えているのかと言えば、逆である。現在の世界の状況を総合的に理解して、世界史を進化させて、和によって、夜明け前の暗い時代を 終わらせ、明るい時代を築こうと いろいろ世界の平和の問題についても 具体的に 提案を行っている:
再生核研究所声明8: 日本国の防衛の在り方について 再生核研究所声明10: 絶対的な世界の平和の為に 再生核研究所声明 25: 日本の対米、対中国姿勢の在りようについて 再生核研究所声明 53: 世界の軍隊を 地球防衛軍 に 再生核研究所声明 111: 日本国憲法によって、日本国および日本軍を守れ、― 世界に誇る 憲法の改悪を許すな
また、戦いに勝利しても、永い歴史のうちでは、文化力で敗北して、結局は 事実上、逆に支配されてしまったような現象は 世に多いのではないのだろうか。幾ら戦争だからと言っても 何をやっても良いでは、戦争には、戦いには勝てず、人間存在の原理や文化、慣習の尊重などは、官軍になるためには 時代に受け入れられる、それなりの大義名分が必要ではないだろうか、全体的な評価は、世界史が 判断するだろう(再生核研究所声明 41:世界史、大義、評価、神、最後の審判)。 これからの戦争では 完全な勝利を得るものは無く、共倒れの可能性が高いのではないだろうか。大きな本格的な戦争に至れば、人類絶滅の可能性が高いのではないだろうか(再生核研究所声明 137: 世界の危機と 権力者の選出)。
以 上
正義は武器に似たものである。武器は金を出しさえすれば、敵にも味方にも買われるであろう。 正義も理屈をつけさえすれば、敵にも味方にも買われるものである。 芥川龍之介「侏儒の言葉」より
Fallacy of division | Revolvy https://www.revolvy.com/page/Fallacy-of-division
このページを訳す
In the philosophy of the ancient Greek Anaxagoras, as claimed by the Roman atomist Lucretius,[1] it was assumed that the atoms .... For example, the reason validity fails may be a division by zero that is hidden by algebraic notation. There is a ...https://www.revolvy.com/page/Fallacy-of-division
ソクラテス・プラトン・アリストテレス その他
2017年11月15日(水) テーマ:社会
The null set is conceptually similar to the role of the number ``zero'' as it is used in quantum field theory. In quantum field theory, one can take the empty set, the vacuum, and generate all possible physical configurations of the Universe being modelled by acting on it with creation operators, and one can similarly change from one thing to another by applying mixtures of creation and anihillation operators to suitably filled or empty states. The anihillation operator applied to the vacuum, however, yields zero.
Zero in this case is the null set - it stands, quite literally, for no physical state in the Universe. The important point is that it is not possible to act on zero with a creation operator to create something; creation operators only act on the vacuum which is empty but not zero. Physicists are consequently fairly comfortable with the existence of operations that result in ``nothing'' and don't even require that those operations be contradictions, only operationally non-invertible.
It is also far from unknown in mathematics. When considering the set of all real numbers as quantities and the operations of ordinary arithmetic, the ``empty set'' is algebraically the number zero (absence of any quantity, positive or negative). However, when one performs a division operation algebraically, one has to be careful to exclude division by zero from the set of permitted operations! The result of division by zero isn't zero, it is ``not a number'' or ``undefined'' and is not in the Universe of real numbers.
Just as one can easily ``prove'' that 1 = 2 if one does algebra on this set of numbers as if one can divide by zero legitimately3.34, so in logic one gets into trouble if one assumes that the set of all things that are in no set including the empty set is a set within the algebra, if one tries to form the set of all sets that do not include themselves, if one asserts a Universal Set of Men exists containing a set of men wherein a male barber shaves all men that do not shave themselves3.35.
It is not - it is the null set, not the empty set, as there can be no male barbers in a non-empty set of men (containing at least one barber) that shave all men in that set that do not shave themselves at a deeper level than a mere empty list. It is not an empty set that could be filled by some algebraic operation performed on Real Male Barbers Presumed to Need Shaving in trial Universes of Unshaven Males as you can very easily see by considering any particular barber, perhaps one named ``Socrates'', in any particular Universe of Men to see if any of the sets of that Universe fit this predicate criterion with Socrates as the barber. Take the empty set (no men at all). Well then there are no barbers, including Socrates, so this cannot be the set we are trying to specify as it clearly must contain at least one barber and we've agreed to call its relevant barber Socrates. (and if it contains more than one, the rest of them are out of work at the moment).
Suppose a trial set contains Socrates alone. In the classical rendition we ask, does he shave himself? If we answer ``no'', then he is a member of this class of men who do not shave themselves and therefore must shave himself. Oops. Well, fine, he must shave himself. However, if he does shave himself, according to the rules he can only shave men who don't shave themselves and so he doesn't shave himself. Oops again. Paradox. When we try to apply the rule to a potential Socrates to generate the set, we get into trouble, as we cannot decide whether or not Socrates should shave himself.
Note that there is no problem at all in the existential set theory being proposed. In that set theory either Socrates must shave himself as All Men Must Be Shaven and he's the only man around. Or perhaps he has a beard, and all men do not in fact need shaving. Either way the set with just Socrates does not contain a barber that shaves all men because Socrates either shaves himself or he doesn't, so we shrug and continue searching for a set that satisfies our description pulled from an actual Universe of males including barbers. We immediately discover that adding more men doesn't matter. As long as those men, barbers or not, either shave themselves or Socrates shaves them they are consistent with our set description (although in many possible sets we find that hey, other barbers exist and shave other men who do not shave themselves), but in no case can Socrates (as our proposed single barber that shaves all men that do not shave themselves) be such a barber because he either shaves himself (violating the rule) or he doesn't (violating the rule). Instead of concluding that there is a paradox, we observe that the criterion simply doesn't describe any subset of any possible Universal Set of Men with no barbers, including the empty set with no men at all, or any subset that contains at least Socrates for any possible permutation of shaving patterns including ones that leave at least some men unshaven altogether.
https://webhome.phy.duke.edu/.../axioms/axioms/Null_Set.html
I understand your note as if you are saying the limit is infinity but nothing is equal to infinity, but you concluded corretly infinity is undefined. Your example of getting the denominator smaller and smalser the result of the division is a very large number that approches infinity. This is the intuitive mathematical argument that plunged philosophy into mathematics. at that level abstraction mathematics, as well as phyisics become the realm of philosophi. The notion of infinity is more a philosopy question than it is mathamatical. The reason we cannot devide by zero is simply axiomatic as Plato pointed out. The underlying reason for the axiom is because sero is nothing and deviding something by nothing is undefined. That axiom agrees with the notion of limit infinity, i.e. undefined. There are more phiplosphy books and thoughts about infinity in philosophy books than than there are discussions on infinity in math books.
http://mathhelpforum.com/algebra/223130-dividing-zero.html
ゼロ除算の歴史:ゼロ除算はゼロで割ることを考えるであるが、アリストテレス以来問題とされ、ゼロの記録がインドで初めて628年になされているが、既にそのとき、正解1/0が期待されていたと言う。しかし、理論づけられず、その後1300年を超えて、不可能である、あるいは無限、無限大、無限遠点とされてきたものである。
An Early Reference to Division by Zero C. B. Boyer http://www.fen.bilkent.edu.tr/~franz/M300/zero.pdf
OUR HUMANITY AND DIVISION BY ZERO
Lea esta bitácora en español There is a mathematical concept that says that division by zero has no meaning, or is an undefined expression, because it is impossible to have a real number that could be multiplied by zero in order to obtain another number different from zero. While this mathematical concept has been held as true for centuries, when it comes to the human level the present situation in global societies has, for a very long time, been contradicting it. It is true that we don’t all live in a mathematical world or with mathematical concepts in our heads all the time. However, we cannot deny that societies around the globe are trying to disprove this simple mathematical concept: that division by zero is an impossible equation to solve. Yes! We are all being divided by zero tolerance, zero acceptance, zero love, zero compassion, zero willingness to learn more about the other and to find intelligent and fulfilling ways to adapt to new ideas, concepts, ways of doing things, people and cultures. We are allowing these ‘zero denominators’ to run our equations, our lives, our souls. Each and every single day we get more divided and distanced from other people who are different from us. We let misinformation and biased concepts divide us, and we buy into these aberrant concepts in such a way, that we get swept into this division by zero without checking our consciences first. I believe, however, that if we change the zeros in any of the “divisions by zero” that are running our lives, we will actually be able to solve the non-mathematical concept of this equation: the human concept. >I believe deep down that we all have a heart, a conscience, a brain to think with, and, above all, an immense desire to learn and evolve. And thanks to all these positive things that we do have within, I also believe that we can use them to learn how to solve our “division by zero” mathematical impossibility at the human level. I am convinced that the key is open communication and an open heart. Nothing more, nothing less. Are we scared of, or do we feel baffled by the way another person from another culture or country looks in comparison to us? Are we bothered by how people from other cultures dress, eat, talk, walk, worship, think, etc.? Is this fear or bafflement so big that we much rather reject people and all the richness they bring within? How about if instead of rejecting or retreating from that person—division of our humanity by zero tolerance or zero acceptance—we decided to give them and us a chance? How about changing that zero tolerance into zero intolerance? Why not dare ask questions about the other person’s culture and way of life? Let us have the courage to let our guard down for a moment and open up enough for this person to ask us questions about our culture and way of life. How about if we learned to accept that while a person from another culture is living and breathing in our own culture, it is totally impossible for him/her to completely abandon his/her cultural values in order to become what we want her to become? Let’s be totally honest with ourselves at least: Would any of us really renounce who we are and where we come from just to become what somebody else asks us to become? If we are not willing to lose our identity, why should we ask somebody else to lose theirs? I believe with all my heart that if we practiced positive feelings—zero intolerance, zero non-acceptance, zero indifference, zero cruelty—every day, the premise that states that division by zero is impossible would continue being true, not only in mathematics, but also at the human level. We would not be divided anymore; we would simply be building a better world for all of us. Hoping to have touched your soul in a meaningful way, Adriana Adarve, Asheville, NC https://adarvetranslations.com/…/our-humanity-and-division…/
5000年?????
2017年09月01日(金)NEW ! テーマ:数学 Former algebraic approach was formally perfect, but it merely postulated existence of sets and morphisms [18] without showing methods to construct them. The primary concern of modern algebras is not how an operation can be performed, but whether it maps into or onto and the like abstract issues [19–23]. As important as this may be for proofs, the nature does not really care about all that. The PM’s concerns were not constructive, even though theoretically significant. We need thus an approach that is more relevant to operations performed in nature, which never complained about morphisms or the allegedly impossible division by zero, as far as I can tell. Abstract sets and morphisms should be de-emphasized as hardly operational. My decision to come up with a definite way to implement the feared division by zero was not really arbitrary, however. It has removed a hidden paradox from number theory and an obvious absurd from algebraic group theory. It was necessary step for full deployment of constructive, synthetic mathematics (SM) [2,3]. Problems hidden in PM implicitly affect all who use mathematics, even though we may not always be aware of their adverse impact on our thinking. Just take a look at the paradox that emerges from the usual prescription for multiplication of zeros that remained uncontested for some 5000 years 0  0 ¼ 0 ) 0  1=1 ¼ 0 ) 0  1 ¼ 0 1) 1ð? ¼ ?Þ1 ð0aÞ This ‘‘fact’’ was covered up by the infamous prohibition on division by zero [2]. How ingenious. If one is prohibited from dividing by zero one could not obtain this paradox. Yet the prohibition did not really make anything right. It silenced objections to irresponsible reasonings and prevented corrections to the PM’s flamboyant axiomatizations. The prohibition on treating infinity as invertible counterpart to zero did not do any good either. We use infinity in calculus for symbolic calculations of limits [24], for zero is the infinity’s twin [25], and also in projective geometry as well as in geometric mapping of complex numbers. Therein a sphere is cast onto the plane that is tangent to it and its free (opposite) pole in a point at infinity [26–28]. Yet infinity as an inverse to the natural zero removes the whole absurd (0a), for we obtain [2] 0 ¼ 1=1 ) 0  0 ¼ 1=12 > 0 0 ð0bÞ Stereographic projection of complex numbers tacitly contradicted the PM’s prescribed way to multiply zeros, yet it was never openly challenged. The old formula for multiplication of zeros (0a) is valid only as a practical approximation, but it is group-theoretically inadmissible in no-nonsense reasonings. The tiny distinction in formula (0b) makes profound theoretical difference for geometries and consequently also for physical applications. T https://www.plover.com/misc/CSF/sdarticle.pdf
とても興味深く読みました:
10,000 Year Clock by Renny Pritikin Conversation with Paolo Salvagione, lead engineer on the 10,000-year clock project, via e-mail in February 2010.
For an introduction to what we’re talking about here’s a short excerpt from a piece by Michael Chabon, published in 2006 in Details: ….Have you heard of this thing? It is going to be a kind of gigantic mechanical computer, slow, simple and ingenious, marking the hour, the day, the year, the century, the millennium, and the precession of the equinoxes, with a huge orrery to keep track of the immense ticking of the six naked-eye planets on their great orbital mainspring. The Clock of the Long Now will stand sixty feet tall, cost tens of millions of dollars, and when completed its designers and supporters plan to hide it in a cave in the Great Basin National Park in Nevada, a day’s hard walking from anywhere. Oh, and it’s going to run for ten thousand years. But even if the Clock of the Long Now fails to last ten thousand years, even if it breaks down after half or a quarter or a tenth that span, this mad contraption will already have long since fulfilled its purpose. Indeed the Clock may have accomplished its greatest task before it is ever finished, perhaps without ever being built at all. The point of the Clock of the Long Now is not to measure out the passage, into their unknown future, of the race of creatures that built it. The point of the Clock is to revive and restore the whole idea of the Future, to get us thinking about the Future again, to the degree if not in quite the way same way that we used to do, and to reintroduce the notion that we don’t just bequeath the future—though we do, whether we think about it or not. We also, in the very broadest sense of the first person plural pronoun, inherit it.
Renny Pritikin: When we were talking the other day I said that this sounds like a cross between Borges and the vast underground special effects from Forbidden Planet. I imagine you hear lots of comparisons like that…
Paolo Salvagione: (laughs) I can’t say I’ve heard that comparison. A childhood friend once referred to the project as a cross between Tinguely and Fabergé. When talking about the clock, with people, there’s that divide-by-zero moment (in the early days of computers to divide by zero was a sure way to crash the computer) and I can understand why. Where does one place, in one’s memory, such a thing, such a concept? After the pause, one could liken it to a reboot, the questions just start streaming out.
RP: OK so I think the word for that is nonplussed. Which the thesaurus matches with flummoxed, bewildered, at a loss. So the question is why even (I assume) fairly sophisticated people like your friends react like that. Is it the physical scale of the plan, or the notion of thinking 10,000 years into the future—more than the length of human history?
PS: I’d say it’s all three and more. I continue to be amazed by the specificity of the questions asked. Anthropologists ask a completely different set of questions than say, a mechanical engineer or a hedge fund manager. Our disciplines tie us to our perspectives. More than once, a seemingly innocent question has made an impact on the design of the clock. It’s not that we didn’t know the answer, sometimes we did, it’s that we hadn’t thought about it from the perspective of the person asking the question. Back to your question. I think when sophisticated people, like you, thread this concept through their own personal narrative it tickles them. Keeping in mind some people hate to be tickled.
RP: Can you give an example of a question that redirected the plan? That’s really so interesting, that all you brainiacs slaving away on this project and some amateur blithely pinpoints a problem or inconsistency or insight that spins it off in a different direction. It’s like the butterfly effect.
PS: Recently a climatologist pointed out that our equation of time cam, (photo by Rolfe Horn) (a cam is a type of gear: link) a device that tracks the difference between solar noon and mundane noon as well as the precession of the equinoxes, did not account for the redistribution of water away from the earth’s poles. The equation-of-time cam is arguably one of the most aesthetically pleasing parts of the clock. It also happens to be one that is fairly easy to explain. It visually demonstrates two extremes. If you slice it, like a loaf of bread, into 10,000 slices each slice would represent a year. The outside edge of the slice, let’s call it the crust, represents any point in that year, 365 points, 365 days. You could, given the right amount of magnification, divide it into hours, minutes, even seconds. Stepping back and looking at the unsliced cam the bottom is the year 2000 and the top is the year 12000. The twist that you see is the precession of the equinoxes. Now here’s the fun part, there’s a slight taper to the twist, that’s the slowing of the earth on its axis. As the ice at the poles melts we have a redistribution of water, we’re all becoming part of the “slow earth” movement.
RP: Are you familiar with Charles Ray’s early work in which you saw a plate on a table, or an object on the wall, and they looked stable, but were actually spinning incredibly slowly, or incredibly fast, and you couldn’t tell in either case? Or, more to the point, Tim Hawkinson’s early works in which he had rows of clockwork gears that turned very very fast, and then down the line, slower and slower, until at the end it approached the slowness that you’re dealing with?
PS: The spinning pieces by Ray touches on something we’re trying to avoid. We want you to know just how fast or just how slow the various parts are moving. The beauty of the Ray piece is that you can’t tell, fast, slow, stationary, they all look the same. I’m not familiar with the Hawkinson clockwork piece. I’ve see the clock pieces where he hides the mechanism and uses unlikely objects as the hands, such as the brass clasp on the back of a manila envelope or the tab of a coke can.
RP: Spin Sink (1 Rev./100 Years) (1995), in contrast, is a 24-foot-long row of interlocking gears, the smallest of which is driven by a whirring toy motor that in turn drives each consecutively larger and more slowly turning gear up to the largest of all, which rotates approximately once every one hundred years.
PS: I don’t know how I missed it, it’s gorgeous. Linking the speed that we can barely see with one that we rarely have the patience to wait for.
RP: : So you say you’ve opted for the clock’s time scale to be transparent. How will the clock communicate how fast it’s going?
PS: By placing the clock in a mountain we have a reference to long time. The stratigraphy provides us with the slowest metric. The clock is a middle point between millennia and seconds. Looking back 10,000 years we find the beginnings of civilization. Looking at an earthenware vessel from that era we imagine its use, the contents, the craftsman. The images painted or inscribed on the outside provide some insight into the lives and the languages of the distant past. Often these interpretations are flawed, biased or over-reaching. What I’m most enchanted by is that we continue to construct possible pasts around these objects, that our curiosity is overwhelming. We line up to see the treasures of Tut, or the remains of frozen ancestors. With the clock we are asking you to create possible futures, long futures, and with them the narratives that made them happen.
https://openspace.sfmoma.org/2010/02/10000-year-clock/
ダ・ヴィンチの名言 格言|無こそ最も素晴らしい存在
https://systemincome.com/7521
ゼロ除算の発見はどうでしょうか: Black holes are where God divided by zero:
再生核研究所声明371(2017.6.27)ゼロ除算の講演― 国際会議  https://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12287338180.html
1/0=0、0/0=0、z/0=0 http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12276045402.html 1/0=0、0/0=0、z/0=0 http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12263708422.html 1/0=0、0/0=0、z/0=0 http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12272721615.html
ソクラテス・プラトン・アリストテレス その他 https://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12328488611.html
ドキュメンタリー 2017: 神の数式 第2回 宇宙はなぜ生まれたのか https://www.youtube.com/watch?v=iQld9cnDli4 〔NHKスペシャル〕神の数式 完全版 第3回 宇宙はなぜ始まったのか https://www.youtube.com/watch?v=DvyAB8yTSjs&t=3318s 〔NHKスペシャル〕神の数式 完全版 第1回 この世は何からできているのか https://www.youtube.com/watch?v=KjvFdzhn7Dc NHKスペシャル 神の数式 完全版 第4回 異次元宇宙は存在するか https://www.youtube.com/watch?v=fWVv9puoTSs
再生核研究所声明 411(2018.02.02):  ゼロ除算発見4周年を迎えて https://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12348847166.html
再生核研究所声明 416(2018.2.20):  ゼロ除算をやってどういう意味が有りますか。何か意味が有りますか。何になるのですか - 回答 再生核研究所声明 417(2018.2.23):  ゼロ除算って何ですか - 中学生、高校生向き 回答 再生核研究所声明 418(2018.2.24):  割り算とは何ですか? ゼロ除算って何ですか - 小学生、中学生向き 回答 再生核研究所声明 420(2018.3.2): ゼロ除算は正しいですか,合っていますか、信用できますか - 回答
2018.3.18.午前中 最後の講演: 日本数学会 東大駒場、函数方程式論分科会 講演書画カメラ用 原稿 The Japanese Mathematical Society, Annual Meeting at the University of Tokyo. 2018.3.18. https://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12361744016.html より
*057 Pinelas,S./Caraballo,T./Kloeden,P./Graef,J.(eds.): Differential and Difference Equations with Applications: ICDDEA, Amadora, 2017. (Springer Proceedings in Mathematics and Statistics, Vol. 230) May 2018 587 pp.
再生核研究所声明 424(2018.3.29):  レオナルド・ダ・ヴィンチとゼロ除算
再生核研究所声明 427(2018.5.8): 神の数式、神の意志 そしてゼロ除算
アインシュタインも解決できなかった「ゼロで割る」問題
http://matome.naver.jp/odai/2135710882669605901
Title page of Leonhard Euler, Vollständige Anleitung zur Algebra, Vol. 1 (edition of 1771, first published in 1770), and p. 34 from Article 83, where Euler explains why a number divided by zero gives infinity.
https://notevenpast.org/dividing-nothing/
私は数学を信じない。 アルバート・アインシュタイン / I don't believe in mathematics. Albert Einstein→ゼロ除算ができなかったからではないでしょうか。
1423793753.460.341866474681。
Einstein's Only Mistake: Division by Zero
http://refully.blogspot.jp/2012/05/einsteins-only-mistake-division-by-zero.html
ゼロ除算は定義が問題です:
再生核研究所声明 148(2014.2.12) 100/0=0,  0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志 https://blogs.yahoo.co.jp/kbdmm360/69056435.html
再生核研究所声明171(2014.7.30)掛け算の意味と割り算の意味 ― ゼロ除算100/0=0は自明である?http://reproducingkernel.blogspot.jp/2014/07/201473010000.html
アインシュタインも解決できなかった「ゼロで割る」問題
http://matome.naver.jp/odai/2135710882669605901
Title page of Leonhard Euler, Vollständige Anleitung zur Algebra, Vol. 1 (edition of 1771, first published in 1770), and p. 34 from Article 83, where Euler explains why a number divided by zero gives infinity.
https://notevenpast.org/dividing-nothing/
私は数学を信じない。 アルバート・アインシュタイン / I don't believe in mathematics. Albert Einstein→ゼロ除算ができなかったからではないでしょうか。1423793753.460.341866474681。
Einstein's Only Mistake: Division by Zero
http://refully.blogspot.jp/2012/05/einsteins-only-mistake-division-by-zero.html
#divide by zero
TOP DEFINITION
Genius
A super-smart math teacher that teaches at HTHS and can divide by zero.
Hey look, that genius’s IQ is over 9000!
#divide by zero #math #hths #smart #genius
by Lawlbags! October 21, 2009
divide by zero
Dividing by zero is the biggest epic fail known to mankind. It is a proven fact that a succesful division by zero will constitute in the implosion of the universe.
You are dividing by zero there, Johnny. Captain Kirk is not impressed.
Divide by zero?!?!! OMG!!! Epic failzorz
#4 chan #epic fail #implosion #universe #divide by zero
3
divide by zero
Divide by zero is undefined.
Divide by zero is undefined.
#divide #by #zero #dividebyzero #undefined
by JaWo October 28, 2006
division by zero
1) The number one ingredient for a catastrophic event in which the universe enfolds and collapses on itself and life as we know it ceases to exist. 2) A mathematical equation such as a/0 whereas a is some number and 0 is the divisor. Look it up on Wikipedia or something. Pretty confusing shit. 3) A reason for an error in programming
Hey, I divided by zero! ...Oh shi- a/0 Run-time error: '11': Division by zero
#division #0 #math #oh shi- #divide by zero
by DefectiveProduct September 08, 2006
dividing by zero
When even math shows you that not everything can be figured out with math. When you divide by zero, math kicks you in the shins and says "yeah, there's kind of an answer, but it ain't just some number." It's when mathematicians become philosophers.
Math: Let's say you have ZERO apples, and THREE people. How many apples does each person get? ZERO, cause there were no apples to begin with
Not-math because of dividing by zero: Let's say there are THREE apples, and ZERO people. How many apples does each person get? Friggin... How the Fruitcock should I know! How can you figure out how many apples each person gets if there's no people to get them?!? You'd think it'd be infinity, but not really. It could almost be any number, cause you could be like "each person gets 400 apples" which would be true, because all the people did get 400 apples, because there were no people. So all the people also got 42 apples, and a million and 7 apples. But it's still wrong.
#math #divide by zero #divide #dividing #zero #numbers #not-math #imaginary numbers #imaginary. phylosophy
by Zacharrie February 15, 2010
https://www.urbandictionary.com/tags.php?tag=divide%20by%20zero
№983
Dividing by Nothing by Alberto Martinez
Title page of Leonhard Euler, Vollständige Anleitung zur Algebra, Vol. 1 (edition of 1771, first published in 1770), and p. 34 from Article 83, where Euler explains why a number divided by zero gives infinity.
https://notevenpast.org/dividing-nothing/  より
The Road
Fig 5.2. Isaac Newton (1643-1727) and Gottfried Leibniz (1646-1716) were the culprits, ignoring the first commandment of mathematics not to divide by zero. But they hit gold, because what they mined in the process was the ideal circle.
http://thethirty-ninesteps.com/page_5-the_road.php より
mercredi, juillet 06, 2011 0/0, la célèbre formule d'Evariste Galois !
http://divisionparzero.blogspot.jp/2011/07/00-la-celebre-formule-devariste-galois.html  より
無限に関する様々な数学的概念:無限大 :記号∞ (アーベルなどはこれを 1 / 0 のように表記していた)で表す。 大雑把に言えば、いかなる数よりも大きいさまを表すものであるが、より明確な意味付けは文脈により様々である。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E9%99%90 より
リーマン球面:無限遠点が、実は 原点と通じていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E7%90%83%E9%9D%A2 より
http://jestingstock.com/indian-mathematician-brahmagupta-image.html より
ブラーマグプタ(Brahmagupta、598年 – 668年?)はインドの数学者・天文学者。ブラマグプタとも呼ばれる。その著作は、イスラーム世界やヨーロッパにインド数学や天文学を伝える役割を果たした。 628年に、総合的な数理天文書『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』(ब्राह्मस्फुटसिद्धान्त Brāhmasphuṭasiddhānta)を著した。この中の数章で数学が扱われており、第12章はガニタ(算術)、第18章はクッタカ(代数)にあてられている。クッタカという語は、もとは「粉々に砕く」という意味だったが、のちに係数の値を小さくしてゆく逐次過程の方法を意味するようになり、代数の中で不定解析を表すようになった。この書では、 0 と負の数にも触れていて、その算法は現代の考え方に近い(ただし 0 ÷ 0 = 0 と定義している点は現代と異なっている)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%97%E3%82%BFより
ブラーマ・スプタ・シッダーンタ (Brahmasphutasiddhanta) は、7世紀のインドの数学者・天文学者であるブラーマグプタの628年の著作である。表題は宇宙の始まりという意味。 数としての「0(ゼロ)の概念」がはっきりと書かれた、現存する最古の書物として有名である。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%97%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%83%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%BF より
ゼロ除算の歴史:ゼロ除算はゼロで割ることを考えるであるが、アリストテレス以来問題とされ、ゼロの記録がインドで初めて628年になされているが、既にそのとき、正解1/0が期待されていたと言う。しかし、理論づけられず、その後1300年を超えて、不可能で��る、あるいは無限、無限大、無限遠点とされてきたものである。
An Early Reference to Division by Zero C. B. Boyer http://www.fen.bilkent.edu.tr/~franz/M300/zero.pdf
Impact of ‘Division by Zero’ in Einstein’s Static Universe and Newton’s Equations in Classical Mechanics:http://gsjournal.net/Science-Journals/Research%20Papers-Relativity%20Theory/Download/2084 より
神秘的に美しい3つの公式:
面白い事にゼロ除算については、いろいろな説が現在存在します しかし、間もなく決着がつくのではないでしょうか。
ゼロ除算は、なにもかも当たり前ではないでしょうか。
ラース・ヴァレリアン・アールフォルス(Lars Valerian Ahlfors、1907年4月18日-1996年10月11日)はフィンランドの数学者。リーマン面の研究と複素解析の教科書を書いたことで知られる。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AC%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%B9 フィールズ賞第一号
COMPLEX ANALYSIS, 3E (International Series in Pure and Applied Mathematics) (英語) ハードカバー – 1979/1/1 Lars Ahlfors (著) http://www.amazon.co.jp/COMPLEX-ANALYSIS-International-Applied-Mathematics/dp/0070006571/ref=sr_1_fkmr1_1?ie=UTF8&qid=1463478645&sr=8-1-fkmr1&keywords=Lars+Valerian+Ahlfors%E3%80%80%E3%80%80COMPLEX+ANALYSIS
原点の円に関する鏡像は、実は 原点であった。 本では、無限遠点と考えられていました。
Ramanujan says that answer for 0/0 is infinity. But I'm not sure it's ... https://www.quora.com/Ramanujan-says-that-answer-for-0-0-is-infi...
You can see from the other answers, that from the concept of limits, 0/0 can approach any value, even infinity. ... So, let me take a system where division by zero is actually defined, that is, you can multiply or divide both sides of an equation by ...
https://www.quora.com/Ramanujan-says-that-answer-for-0-0-is-infinity-But-Im-not-sure-its-correct-Can-anyone-help-me
Abel Memorial in Gjerstad
Discussions: Early History of Division by Zero H. G. Romig The American Mathematical Monthly Vol. 31, No. 8 (Oct., 1924), pp. 387-389 Published by: Mathematical Association of America DOI: 10.2307/2298825 Stable URL: http://www.jstor.org/stable/2298825 Page Count: 3
ロピタルの定理 (ロピタルのていり、英: l'Hôpital's rule) とは、微分積分学において不定形 (en) の極限を微分を用いて求めるための定理である。綴りl'Hôpital / l'Hospital、カタカナ表記ロピタル / ホスピタルの揺れについてはギヨーム・ド・ロピタルの項を参照。ベルヌーイの定理 (英語: Bernoulli's rule) と呼ばれることもある。本定理を (しばしば複数回) 適用することにより、不定形の式を非不定形の式に変換し、その極限値を容易に求めることができる可能性がある。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%94%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%81%AE%E5%AE%9A%E7%90%86
Ein aufleuchtender Blitz: Niels Henrik Abel und seine Zeit https://books.google.co.jp/books?isbn=3642558402 -
Arild Stubhaug - 2013 - ‎Mathematics
Niels Henrik Abel und seine Zeit Arild Stubhaug. Abb. 19 a–c. a. ... Eine Kurve, die Abel studierte und dabei herausfand, wie sich der Umfang inn gleich große Teile aufteilen lässt. ... Beim Integralzeichen statt der liegenden ∞ den Bruch 1/0.
https://books.google.co.jp/books?id=wTP1BQAAQBAJ&pg=PA282&lpg=PA282&dq=Niels+Henrik+Abel%E3%80%80%E3%80%80ARILD+Stubhaug%E3%80%80%E3%80%80%EF%BC%91/0%EF%BC%9D%E2%88%9E&source=bl&ots=wUaYL6x6lK&sig=OX1Yk_HxbCMm_FACotHYlgrbfsg&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwj8-pftm-PPAhXIzVQKHX7ZCMEQ6AEISTAG#v=onepage&q=Niels%20Henrik%20Abel%E3%80%80%E3%80%80ARILD%20Stubhaug%E3%80%80%E3%80%80%EF%BC%91%2F0%EF%BC%9D%E2%88%9E&f=false
Indeterminate: the hidden power of 0 divided by 0 2016/12/02 に公開 You've all been indoctrinated into accepting that you cannot divide by zero. Find out about the beautiful mathematics that results when you do it anyway in calculus. Featuring some of the most notorious "forbidden" expressions like 0/0 and 1^∞ as well as Apple's Siri and Sir Isaac Newton.
https://www.youtube.com/watch?v=oc0M1o8tuPo より
ゼロ除算の論文:
file:///C:/Users/saito%20saburo/Downloads/P1-Division.pdf より
Eulerのゼロ除算に関する想い: file:///C:/Users/saito%20saburo/Downloads/Y_1770_Euler_Elements%20of%20algebra%20traslated%201840%20l%20p%2059%20(1).pdf より
An Approach to Overcome Division by Zero in the Interval Gauss Algorithm http://link.springer.com/article/10.1023/A:1015565313636
Carolus Fridericus Gauss:https://www.slideshare.net/fgz08/gauss-elimination-4686597
Archimedes:Arbelos https://www.math.nyu.edu/~crorres/Archimedes/Stamps/stamps.html より
Archimedes Principle in Completely Submerged Balloons: Revisited Ajay Sharma:
file:///C:/Users/saito%20saburo/Desktop/research_papers_mechanics___electrodynamics_science_journal_3499.pdf
[PDF]Indeterminate Form in the Equations of Archimedes, Newton and Einstein http://gsjournal.net/Science-Journals/Research%20Papers-Relativity%20Theory/Download/3222 このページを訳す 0. 0 . The reason is that in the case of Archimedes principle, equations became feasible in. 1935 after enunciation of the principle in 1685, when ... Although division by zero is not permitted, yet it smoothly follows from equations based upon.
Thinking ahead of Archimedes, Newton and Einstein - The General ... gsjournal.net/Science-Journals/Communications.../5503 このページを訳す old Archimedes Principle, Newton' s law, Einstein 's mass energy equation. E=mc2 . .... filled in balloon becomes INDETERMINATE (0/0). It is not justified. If the generalized form Archimedes principle is used then we get exact volume V .....
http://gsjournal.net/Science-Journals/Communications-Mechanics%20/%20Electrodynamics/Download/5503
Find circles that are tangent to three given circles (Apollonius’ Problem) in C#
http://csharphelper.com/blog/2016/09/find-circles-that-are-tangent-to-three-given-circles-apollonius-problem-in-c/ より
ゼロ除算に関する詩:
The reason we cannot devide by zero is simply axiomatic as Plato pointed out.
http://mathhelpforum.com/algebra/223130-dividing-zero.html より
#2019年
#更新
#math
#4
#divide
#smart
#0
#hths
#Genius
#universe
#Epic
#implosion
#ZERO
#DIVISION
#NOT
#numbers
#by
#undefined
#dividebyzero
#IMAGINARY
#dividing
#oh
#結論
#哲学史2500年の結論
Tumblr media
0 notes
salontetsugaku · 7 years
Text
ノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランの記念講演
ノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランの記念講演の音声が、6月5日、ノーベル財団のホームページにて公開された。 「この度のノーベル文学賞の受賞にあたり、自分の歌が一体どう文学と結びつくのか不思議でならなかった。その繋がりについて自分なりに考えてみたので、それを皆さんに述べようと思う」という言葉から始まる27分間の講演で、ディランは自身が音楽に身を投じることになったきっかけや、創作活動の礎になったという三冊の書物について語った。最後は「歌の詞は歌う為のものであり、ページに綴られているのを読む為のものではない。そして、皆さんにも、これらの詞を、聴かれるべき形で聴く機会があることを願っている」として、「詩神よ、私の中で歌い、私を通して物語を伝えてくれ」というホメロスの言葉で締めくくられている。    ◆   ◆   ◆ この度のノーベル文学賞の受賞にあたり、自分の歌が一体どう文学と結びつくのか不思議でならなかった。その繋がりについて自分なりに考えてみたので、それを皆さんに述べようと思う。回りくどい説明になるかもしれないが、私の話に価値があり、意味あるものになることを願う。 全ての始まりはバディ・ホリーだった。私が18歳のときに彼は22歳で他界したが、彼の音楽を初めて聴いた時から近いものを感じた。まるで兄であるかのように自分と通じる何かを感じたのだ。自分が彼に似ているんじゃないかとさえ思えた。バディは私が愛して止まない音楽を奏でた。私が子供のころから慣れ親しんだ音楽、即ちカントリー・ウェスタン、ロックンロールとリズム&ブルースだ。3つの異なる音楽要素を彼は絡み合わせ、そこから新しいジャンル、彼ならではの音を生み出した。そしてバディは「歌」を書いた。美しいメロディー、そして独創的な歌詞の歌を。しかも歌声も素晴らしく、様々な声色を使い分けた。彼こそがお手本だった。自分にはない、でもなりたいものを全て体現していた。彼が亡くなる数日前に、一度だけ彼を観たことがある。長旅をして彼の演奏を見に行ったのだが、期待通りだった。 彼は力強く、刺激に満ちていて、カリスマ性があった。かぶりつく様な距離で観ていた私はすっかり心を奪われた。彼の顔、手、リズムを取る足、大きな黒の眼鏡、その眼鏡の奥の瞳、ギターの持ち方、立ち方、粋なスーツ、彼の全てを目に焼き付けた。とても22歳とは思えなかった。彼には永久に色あせない何かを感じ、私は確信したのだ。すると、突然、信じられないことが起きた。彼と目が合った瞬間、何かを感じた。それが何だかわからなかったが、背筋がゾクっとした。 確かその1日か2日後に彼は飛行機事故で亡くなった。そして私は一度も会ったことのない誰かから「コットン・フィールド」を収録したレッドベリーのレコードを手渡されたのだ。その一枚のレコードとの出会いが私の人生を変えた。それまで知らなかった世界に引き込まれ、まるで爆発が起きたかのようだった。真っ暗なところを歩いていたら光がさしたかのように。誰かが手を差し伸べてくれたみたいだった。そのレコードを100回は聴いただろう。 初めて知るレーベルだった。レコードには、所属する他のアーティストを宣伝するブックレットが入っていた。ソニー・テリーとブラウニー・マギー、ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズ、ジーン・リッチー、どれも初めて聞く名前ばかりだった。でもレッドベリーと同じレーベルなら良いに違いないから絶対に聴かねばと思った。知り尽くしたいと思ったし、自分もこういう音楽がやりたいと思った。子供の頃から慣れ親しんだ音楽にも思い入れはあったが、その時点では忘れてしまった。考えることもなかった。自分にとっては過去のものとなったのだ。 この時点ではまだ家を出ておらず、いつか出たいと思っていた。これらの音楽を自分でも覚え、やっている人たちに会いたかったからだ。そして遂に家を飛び出し、自分でもその音楽を弾くようになった。それまで聞いていたラジオでかかる音楽とは違い、力強く、人生をありのまま映し出していた。ラジオでは運次第でヒットが出るが、フォークの世界では関係なかった。私には全てがヒットで、メロディーが弾ければそれでよかった。曲によって覚え易いものもあれば、そうでないものもあった。古いバラードやカントリー・ブルースは体に染み付いていたが、他は全てゼロから覚えなければならなかった。当時は少ないお客さんの前でしか演奏できず、部屋に4、5人のときや街角で弾くこともあった。レパートリーが豊富でなければいけなかったし、どう言う場面で何を弾くべきかわかってなければいけなかった。親密な歌もあれば、シャウトしないと伝わらない歌もあった。 初期のフォーク・アーティストをとことん聞き、彼らの歌を自分で歌うことで、固有の表現が身についた。そしてラグタイム・ブルース、ワーク・ソング、ジョージア・シーシャンティ、アパラチアン・バラッド、カウボーイ・ソングといったあらゆる形で歌った。そうすることで細部までが見えてくる。何のことを歌っているのかがわかるのだ。拳銃を抜いて、またポケットに戻す。馬に鞭を打って往来を駆け抜ける。暗闇で語り合う。スタッガー・リーが悪党で、フランキーがいい娘だったこともわかる。ワシントンはブルジョワの街だと知り、ジョン・ザ・レヴェレイターの低音の声も聞いたし、タイタニック号が沼の小川に沈むのも見た。仲間は荒くれ者のアイルランド人の流離人や気の荒い植民地の若造だ。篭った太鼓の音や低く鳴り響く横笛の音も聞こえる。好色のドナルド卿が妻をナイフで刺すのを見たし、多くの同志が戦死してゆくのも見た。 フォーク特有の表現を全てマスターした。気の利いた言い回しも覚えた。機材、テクニック、秘密、謎、全てが頭に入っていた。そしてそれが歩んできた決して注目されることのない軌跡も知り尽くしていた。全てを結びつけて、今の時代に当てはめることができた。自分自身で歌を書き始めた際、自分が唯一知っているフォークという表現形態を存分に使った。 でもそれだけではない。自分なりの信条、感性、培った世界観も持っていた。若い時から備わっていた。小学校で学んだのだ。『ドン・キホーテ』『アイバンホー』『ロビンソン・クルーソー』『ガリバー旅行記」『二都物語』といった誰もが小学校で読んだことのある本を通して、人生観、人間性への理解、価値観が養われた。歌詞を書き始めた時、それらを糧にした。そういった本の題材が私の多くの歌の中に入り込んだ。意図的であるときもそうでない場合もある。誰も聞いたことのないような歌を書きたいと思ったのだ。そしてこうしたテーマは私の歌の礎となった。その中でも特に私の心に残る3冊の本についてここで触れたい。メルヴィルの『白鯨』、ルマルクの『西部戦線異常なし』とホメロスの『オデュッセイア』だ。 『白鯨』は興味の尽きない一冊だ。見せ場が絶えず、印象的なセリフで溢れている。非常に読み応えのある本だ。筋書きは単刀直入だ。捕鯨船ピークォド号の謎めいたエイハブ船長は義足を付けた病的に自己中心的な人物で、自分の片足を奪った天敵である白いマッコウクジラのモビィ・ディックに復讐心を燃やす。大西洋から喜望峰を周り、インド洋まで彼は鯨を追う。地球の裏側まで追いかけるのだ。目指すものはあまりに漠然とし、確実なものはない。彼はモビィを皇帝と呼び、悪魔の化身と見なしている。エイハブはナンタケットに残した妻と子供に時々想いを馳せる。そして何が起きるかは予想できるだろう。 乗組員は様々な人種から成り立っていて、鯨を見つけた者には褒美として金貨が与えられる。多くの星座に纏わる記号、宗教寓話の引用や既成概念が登場する。エイハブは他の捕鯨船に遭遇すると、その船長にモビィの情報を聞き出そうとする。奴を見たか? ある捕鯨船にガブリエルというイカれた預言者が乗っていて、彼はエイハブの破滅を予言する。曰く、モビィは「シェーカー教徒の神の化身」であり、彼に関わった者達は災難に見舞われる。エイハブ船長にそう伝えるのである。また別の船のブーマー船長も、モビィに片腕を奪われている。でも彼はそれを受け入れ、生きているだけで幸せだと感じている。彼にはエイハブの執拗なまでの復讐心が理解できないのだ。この本は、同じ経験をしても人によって反応が違うことを教えてくれる。旧約聖書のからの引用が多く登場する。ガブリエル、ラケル、ヤロブアム、ビルダー、エリヤ。異教徒の名前もまた多く登場する。タシテゴ、フラスク、ダッグー、フリース、スターバック、スタッブ、マーサズ・ヴィニヤード。異教徒たちは偶像を崇拝する。中には小さな蝋の人形を崇拝するものもいれば、木彫りの偶像を崇拝する者もいれば、火を崇拝する者もいる。ピークォド号の名前はインディアンの種族が由来だ。 『白鯨』は心を揺さぶられる話である。船員の一人で語り手である男が言う。「イシュメイルと呼んでくれ」と。ある人に何処の出身だと聞かれると彼は「どの地図にも載っていない。本物の場所は載らないのさ」と言う。スタッブは何事にも意味はないと思っている。全ては起こるべくして起こるのだと。イシュメイルは生まれてからずっと帆船に乗ってきた。彼にとっては帆船がハーバードでありイエールだと言う。人とは距離を置いている。ピークォド号が台風に直撃する。エイハブ船長は吉兆だと捉える。スターバックは悪い兆しだとしてエイハブの暗殺を考える。嵐が去った直後、乗組員の一人が船のマストから落ちて溺れてしまう。これから起こることを暗示しているかのように。クエーカー教徒の平和主義の神父を装った、残忍なビジネスマンがフラスクに言う。「負傷を負った者の中には神に導かれるものもいるが、他の者は苦痛が待ち受けている」と。 全てが織り交ぜられている。あらゆる神話、ユダヤ教キリスト教聖書からインド神話、イギリスの伝説、聖ジョルジュ、ペルセウス、ヘラクレス(全て捕鯨船員)、ギリシャ神話、そして血なまぐさい鯨の解体まで。事実もまた多く盛り込まれている。地理、鯨油について(君主の即位にいい)、捕鯨産業の名士など。鯨油は王を清める聖油に使われるのだ。鯨の歴史、骨相学、古典哲学、偽の科学的理論、差別の正当化など、あらゆるものを含んでいるが、理にかなってるものは一つもない。教養のある人、ない人。幻想を追いかける、死を追いかける。巨大なマッコウクジラはシロクマの如く白く、白人の如く白い、皇帝であり、天敵であり、悪魔の化身である。モビィをナイフで攻撃しようとして片足を失った狂気の船長。 我々には物事の表面しか見えない。その裏に何があるかは解釈次第だ。船員たちは人魚の声を探して甲板を歩き回り、サメやハゲワシが船の後をつける。頭蓋骨や顔の表情を本のように読み取ろうとする。ここに顔がある。君の前に置こう。読めるものなら読んでみるがいい。タシテゴは自分が一度死んで生まれ変わったのだと言う。余分に与えられた日々は贈り物だと。自分はキリストに救われたのではないと彼は言う。キリスト教徒ではない人間に助けられたのだと。そしてキリストの復活の下手な模倣をする。 スターバックがエイハブに「過ぎたことは忘れろ」と言うと、憤慨した船長は「私に不敬を言うとはけしからん。私を侮辱するものはたとえ太陽であっても切りつける」と言い返す。エイハブもまた雄弁な詩人である。「私の揺るぎない目的までの道には鉄製のレールが敷かれていて、私の魂はその溝に沿って走るのだ」或いは、「目に見える物は全て薄っぺらい仮面でしかない」と語る。引用したくなる詩的なフレーズであり、これを超えるものはない。 そしていよいよエイハブはモビィを見つけ、銛を出す。ボートが降ろされる。エイハブの銛は血で洗礼されている。モビィはエイハブのボートを攻撃し、破壊する。翌日彼はまたモビィを見つける。再びボートが降ろされる。モビィはまたもエイハブのボートを破壊する。3日目、また別のボートが乗り込む。ここでも宗教的引用の登場だ。彼は再び現れた。モビィは再び攻撃してくる。ピークォド号に激突し、沈める。エイハブは銛の紐に絡まってしまい、船から投げ出され、海の藻屑となる。 イシュメイルだけが生き残る。彼は棺桶の上で海に浮かんでいる。というのが物語の全てだ。ここで語られるテーマとそれが暗示しているものは、私の歌の幾つかにも登場する。 『西部戦線異常なし』もまた影響を受けた一冊だ。『西部戦線異常なし』はホラーだ。これは、童心、意味のある世界への信頼、他人への関心を失う話だ。悪夢から抜け出せない。死と苦悩の謎めいた渦に吸い込まれてしまう。抹殺から自分を守っている。地球上から消されようとしているのだ。かつてはコンサート・ピアニストになるという大きな夢を抱いていた純粋な若者だった。嘗ては人生、そしてこの世界を愛していたが、今はそれを粉々に撃ち砕いている。 来る日も来る日も、蜂に刺され、ミミズに血を吸われる。窮地に追いやられた動物だ。どこにも居場所はない。降りし��る雨は単調だ。絶え間ない攻撃、毒ガス、神経ガス、モルヒネ、燃え盛るガソリンの川、食べ物を求めて残飯を漁る、インフルエンザ、チフス、赤痢。周りで命が次々と失われ、破裂弾が鳴り響く。これは地獄の下層部である。泥、有刺鉄線、ドブネズミだらけの塹壕、死体の内臓を食い漁るドブネズミ、汚物と排泄物だらけの塹壕。誰かが叫ぶ、「おい、そこのお前。立ち上がって戦え」これが一体いつまで続くか誰にわかると言うのだ? 戦争に終わりはない。自分は殺されようとしている。足は出血多量だ。昨日は人を殺し、その死体に話し掛けた。戦争が終わったら君の家族の面倒を死ぬまで見ると伝えた。一体誰が得をしているのだ? 指揮官や将軍達は名声を得て、他にも経済的に潤う人たちが大勢いる。しかし、手を汚しているのは自分達だ。同志の一人に「ちょっと待て、何処に行くんだ?」と聞かれ、「好きにさせてくれ、直ぐに戻るから」と言い、肉片を求めて死の狩の森に入っていく。普通の生活を送っている人たちが何を生きがいにしているのかもはやわからない。みんなの不安や欲望などもう理解できない。 さらに機関銃が鳴り響き、死体の一部が幾つもぶら下がっている。腕や脚や頭部が転がっているところに蝶々が歯の上に止まっている。悍ましい傷口、あらゆる毛穴から膿が出ている。肺の傷、身体には耐えきれないほどの大きな傷、ガスを放射する死体、吐き気がしそうな音を立てる死体の数々。死がそこら中にある。どうすることもできない。自分も誰かに殺され、死体は射撃練習の的に使われるだろう。ブーツにしてもそうだ。今は自分の貴重な所有物だが、直ぐに誰かの足にとって変わるだろう。 木の間からフランス人達がやってくる。容赦ない奴らだ。破裂弾も底を尽きてきた。「そんなに直ぐにまた攻めてくるなんて卑怯だ」と言ってみる。同志の一人が土の中に倒れていて、野戦病院に連れてってやりたいと思う。他の誰かが言う。「無駄足さ」「どう言うこと?」「そいつをひっくり返してみろ。俺の言ってることがわかるさ」 その知らせを待ち続ける。戦争がなぜ終わらないのか理解できない。兵力不足が深刻化し、召集した若者達は使い物にならない者ばかりだ。それでも人員が足りないから採用するしかない。病気と屈辱で心はズタズタだ。親にも、学校の校長にも、牧師にも、政府にさえも裏切られた。 ゆっくりと葉巻を吸う将軍にも裏切られた。彼のせいで自分は暴漢と殺し屋にと化したのだ。できることなら彼の顔に銃弾を浴びせてやりたい。司令官にもだ。金があったら、どんな手を使っても構わないから奴を殺してくれた男に謝礼を約束することを妄想する。もしその人がそれで命を落としたら、謝礼は遺族に行けばいい。キャビアとコーヒーが好物の大佐も同罪だ。公認の売春宿に入り浸っている。彼にも死んでもらおう。呑んだくれの兵士が次々とやってくる。20人殺しても、20人また替えがやってくる。鼻の奥まで匂ってくるだけだ。 まるで拷問室のようなこの狂気の沙汰に自分を送り込んだ上の世代を軽蔑するようになる。周りを見渡せば同志が次々と死んでいく。腹部の傷、両足切断、坐骨粉砕で死んでいくのを見ながら思う。「まだ20歳だと言うのに、もはや誰だって殺せる。自分を狙ってきたら父親さえも殺せる」 昨日、傷ついた軍用犬を助けようとしたら誰かが叫んだ。「馬鹿なことをするな」と。一人のフランス人が喉を鳴らしながら足元で倒れている。彼の腹に短剣を突き刺すが、まだ生きている。息の根を止めるべきなのはわかっているが、それができない。本物の鉄十字に貼り付けにされ、ローマ兵に酢を染み込ませたスポンジを口元に当てられている。 何ヶ月か過ぎ、一時休暇で帰郷する。父親とは話ができない。「入隊しないのは卑怯者だ」と彼は言う。母親もだ。再び戦場に戻る際、「フランス人娘には気をつけなさい」と言う。狂気はさらに続く。一週間、或いは一ヶ月戦って、やっと10ヤード前進する。でも次の月にはまた元に戻される。 プラトン、アリストレス、ソクラテス、1000年前の文化、哲学、知恵はどうなってしまったと言うのだ?こんな事態は防げたはずだ。家に思いを馳せる。ポプラ並木を歩いた学生時代に戻る。楽しい思い出だ。小型飛行船からさらに爆弾が降ってくる。気持ちを引き締めなければいけない。何か誤算が起きるのが怖くて誰のことも見ることができない。共同墓地。他に残された可能性はない。 すると桜の花に気づく。そして自然は全く影響を受けていないことに気づく。ポプラ並木、赤い蝶々、儚い花の美しさ、太陽。自然は全く意に介さないのを目の当たりにする。人類によるあらゆる暴力も苦悩も自然は気づきもしない。あまりにも孤独だ。すると爆弾の金属片が側頭部に当たり死んでしまう。排除されたのだ。削除されたのだ。駆除されたのだ。私はこの本を置き完全に閉じた。戦争小説はもう二度と読みたくないと思い、二度と読むことはなかった。 ノース・カロライナ出身のチャーリー・プールがこの話に通じる歌を書いた。「ユー・エイント・トーキン・トゥ・ミー」という歌で、歌詞はこうだ。 ある日街を歩いていたら窓の中に張り紙を見つけた 入隊して世界をこの目で見よう、と書いてあった 楽しい仲間と刺激的な場所を見るだろう 面白い人たちと出会い、彼らの殺し方も覚えるだろう 僕に言っても無駄さ、僕に言っても無駄さ 僕は頭がイカれているかもしれないけど、分別はある 僕に言っても無駄さ、僕に言っても無駄さ 銃で殺すなんてちっとも楽しそうじゃない 僕に言っても無駄さ 『オデュッセイア』も素晴らしい一冊で、そこで語られている題材の数々は多くのソングライターのバラッドに取り上げられている。「早く家へ帰りたい」「思い出のグリーングラス」「峠の我が家」、私の歌でもだ。 『オデュッセイア』は戦争で戦い終えて帰郷しようとする男の不思議な冒険物語だ。長い帰路の旅であり、途中にはいくつもの罠や落とし穴が待ち受ける。彼は呪にかかったように彷徨い続ける。常に海に放り出され、毎回九死に一生を得る。巨大な岩の塊が彼の船を揺らす。怒らせてはいけない人の怒りを買ってしまう。乗組員に問題児もいる。背信。船員たちが豚にさせられたかと思うと、今度は若い色男に変身する。彼は常に誰かを救助しようとする。彼は旅人だが、足止めを食らうことが多い。無人島に流れ着く。人けのない洞窟を見つけ、そこに隠れる。巨人に出くわすが、「お前は最後に食べる」と言われる。そして巨人から逃げる。家に帰ろうとするが、風に振り回される。容赦ない風、冷たい風、不吉な風。遠くまで行ったと思うと、風にまた押し戻される。 毎回次に何が待ち構えているかあらかじめ警告を受けるが、触ってはいけないと言われたものをつい触ってしまう。進む道が二つあったら、そのどちらも凶。どちらも危険を伴う。一方は溺れる可能性があり、もう一方は飢える可能性がある。狭い海峡に入って行き、泡の渦巻きに飲み込まれる。牙の鋭い6つの頭を持った怪物と出くわす。雷に打たれる。突き出した枝に飛びついて荒れ狂う川から身を守る。彼を守ろうとする女神や神々もいれば、彼を殺そうとする者もいる。彼は素性を幾度も変える。疲れ果て、眠りに就くと笑い声で目がさめる。見知らぬ人に自分の話をする。旅に出てから20年になる。何処かに放り出されて、置いていかれたのだ。ワインに薬を入れられたこともある。苦難に満ちた道のりだった。 色々な意味で、これらのことは誰にでも起こり得る。ワインに薬を入れられたことがあるだろう。間違った女性と一夜を共にしたことがあるだろう。摩訶不思議な声、甘い声、聴き慣れないメロディーに魅了されたことがあるだろう。遠い道のりをやっと辿り着いたと思ったらまた押し戻されたことがあるだろう。そして九死に一生を得たことも、怒らせてはいけない人を怒らせたこともあるだろう。この国中を取り止めもなく彷徨ったことだってあるだろう。そして、凶をもたらすあの不吉な風を感じたことがあるだろう。しかし、これだけでは終わらない。 家に辿り着いても事態は決して喜べるものではなかった。妻の親切心につけ込んだ悪党達に家を乗っ取られていたのだ。しかも人数が多すぎる。いくら彼が彼らよりも偉大で、大工としても、狩人としても、動物に関するに知識にしても、海男としても、何をやらせても一流だったとしても、勇気で身を守ることはできない。機転を利かせる他ない。 ゴロツキ達には彼の家を汚した代償を払わせなければいけない。彼は小汚い乞食に変装すると、横柄で馬鹿な下手人が彼を階段から突き落とす。下手人の横柄さに嫌悪感を抱くが、彼は怒りを抑える。百対一にも関わらず、彼らを全員やっつける。一番の強者をもだ。彼は何者でもない。そしてようやく家に帰ると彼は妻と一緒に座り、彼女に冒険談を話すのである。 つまりどういうことか。私自身、そして他のソングライター達も、これらと同じテーマに影響を受けてきた。そしてそれらは無数の解釈ができる。ある歌に心を動かされたのであれば、それで十分なのだ。その歌の意味を知る必要なんてない。私は自分の歌に色々なことを込めてきたが、それらが何を意味しているか案じるつもりはない。メルヴィルが旧約聖書や新約聖書からの引用や科学的理論、プロテスタント教義、そして海や帆船や鯨に関する知識を全て一冊の本に込めた際、彼もそれらが何を意味しているのか案じたとは思わない。 ジョン・ダン然り。シェイクスピアの時代に生きた詩人/聖職者は綴っている。「彼女の乳房のセストスとアビドス。二人の恋人ではなく、二つの愛であり、巣である」これが何を意味しているのかは私もわからない。でも良さげに聞こえる。自分の歌も良さげに聞こえてほしいのだ。『オデュッセイア』に登場するオデュッセウスが英雄アキレスに会いに冥府を訪れた際、平和で幸せな長寿と引き換えに名誉と栄光に満ちた短命を手にしたアキレスはオデュッセウスに全ては間違いだったと語る。「私はただ死んだ。それだけだ」と。そこには名誉はなかった。不朽の名声などない。そして、もし可能であるなら、黄泉の国の王でいるよりも、地球上で小作人の元に仕える奴隷として生きることを選ぶ。どんなに辛い人生であろうと、死ぬよりましだと語っている。 歌も同じだ。我々の歌は生きている人たちの世界でこそ生きるものなのだ。でも歌は文学とは違う。歌は歌われるべきものであり、読むものではない。シェイクスピア劇の言葉の数々は舞台で演じられる為のものであるのと同様に、歌の詞は歌う為のものであり、ページに綴られているのを読む為のものではない。そして、皆さんにも、これらの詞を、聴かれるべき形で聴く機会があることを願っている。コンサート、或いはレコード、或いは今時の音楽の聴き方でも構わない。 最後に再びホメロスの言葉で締めたいと思う。「詩神よ、私の中で歌い、私を通して物語を伝えてくれ」    ◆   ◆   ◆
0 notes