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#スーザン・ソンタグ
tamago-toji · 1 year
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She is one of the people who has inspired my way of thinking.
Her thought is so inspiring and so cool!
https://twitter.com/so_contrary/status/1636707715203448832?s=20
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kennak · 3 months
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著者が注目するのが、ソンタグの「ヴァルネラビリティ(脆さ)」に関する思考だ。ソンタグによれば撮影とは被写体のヴァルネラビリティに関与することである。この姿勢なしに苦しむ被写体を見ても、その苦痛は決して理解できない。ソンタグは、苦しむ体に興味を抱くのと同じ人間が裸体の写真を見たいという欲求を持つ以上、「苦痛の身体」のイメージは簡単に「ポルノ的な身体」に変わりうると看破していた。ソンタグの写真論は、苦しむ他者に興味や同情は寄せても、写真を鑑賞する特権的な立場にいる自分がその苦しみに関わっている可能性には無自覚な私たちへの批判に満ちている。(中略)  写真や映像で苦痛を伝えることの限界を見据え、だからこそ言葉を尽くして語り続けたソンタグ。その思索を丹念に辿った本書は、私たちの人間理解を確実に豊かにしてくれるはずだ。
波戸岡景太『スーザン・ソンタグ』を読む - mmpoloの日記
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nandenandenande · 5 months
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"都甲 ウォーホル自身は割とキャンプな感じじゃない? 梱包用の紐みたいので作ったかつらをかぶっているんだよね(笑)。それで、パーティに行くと、イエスとかノーしか言わない。後は黙ってる。
波戸岡 めんどくさい人だ(笑)。"
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straycatboogie · 5 months
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2023/12/07
BGM: David Holmes - Don't Die Just Yet
今日は休みだった。Facebookの早朝のミーティングには参加できなかった。本の蔵(近くにあるブックカフェ)に行く。そこでぼくは仕事のこと、あるいはぼくが童貞であることについて話をしたかったのだけれど、実際にはそのブッキッシュな空気を静かに楽しむことを選んでしまった(もしよろしければ、スタッフの方にこれらのことについていつか打ち明けられたらと思った)。そこでぼくは本棚からカミュ『カミュの手帖』を見つける。あとは阿部昭の『緑の年の日記』も面白そうだったのでさっそくランチタイムに図書館に行き、阿部のその本を借りた。
お昼にグループホームで昼寝をする。郵便が届き、小林信彦『夢の砦』を受け取る(古本で買っていたのだった)。スーザン・ソンタグの『隠喩としての病い』を読み始め、即座にこれは実に「使える」「すごい」本だと思い始めた。これは「病い」ではないにせよ、発達障害についてもソンタグのこのロジック、この卓見を応用できないか。というのはぼくは、この時代におけるもっとも影響力ある現象として発達障害を捉えているからだ。人は言う。発達障害者はギフテッドな人たちだ(天才、とすら言う)。でも、容易にわかるようにこれはロマンティックすぎるイデオロギー/理想だ。「病い」や障害を事実として実際に認めなくてはいけない。ソンタグの本は冷静さが大事だと教える。その言葉はあたたかい。
歯医者に行くべきだったのだけれど、鬱だったので(だから本の蔵で何も喋れなかったのかもしれなかった)キャンセルしてしまった。Discordであるサーバで予約していたアドベントカレンダーの企画の文をしたためる。書きながら、2022年にどれだけ本を読んだか振り返り198冊であると知る。ああ、2日に1冊だ。インナービースト(ぼくの中のケダモノ)について書く。魂を癒すためにそんなにもたくさんの本を必要とするケダモノ。
この多忙な時期にどんな本を読もうかと考える。いや、そんな多忙な時期に本なんか読まなくても、と言うかもしれない。でも、こんな苦痛な時期にこそ本を読んでしまうのである――それがぼくだ。
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3103dayo0201 · 7 months
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早速取り寄せて、スーザン·ソンタグの本読んでるけど、その感覚わかる気がするって感じられる記述が多いと、嬉しい。私の乱読時間が復活してる気がする。
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ykmskmemo · 7 months
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ohmyanfg · 1 year
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若い読者へのアドバイス……
(これは、ずっと自分自身に言いきかせているアドバイスでもある)
  
 人の生き方はその人の心の傾注(アテンション)がいかに形成され、また歪められてきたかの軌跡です。注意力(アテンション)の形成は教育の、また文化そのもののまごうかたなきあらわれです。人はつねに成長します。注意力を増大させ高めるものは、人が異質なものごとに対して示す礼節です。新しい刺激を受けとめること、挑戦を受けることに一生懸命になってください。
  
 検閲を警戒すること。しかし忘れないこと──社会においても個々人の生活においてももっとも強力で深層にひそむ検閲は、【自己】検閲です。
  
 本をたくさん読んでください。本には何か大きなもの、歓喜を呼び起こすもの、あるいは自分を深めてくれるものが詰まっています。その期待を持続すること。二度読む価値のない本は、読む価値はありません(ちなみに、これは映画についても言えることです)。
  
 言語のスラム街に沈み込まないよう気をつけること。
  
 言葉が指し示す具体的な、生きられた現実を想像するよう努力してください。たとえば、「戦争」というような言葉。
  
 自分自身について、あるいは自分が欲すること、必要とすること、失望していることについて考えるのは、なるべくしないこと。自分についてはまったく、または、少なくとももてる時間のうち半分は、考えないこと。
  
 動き回ってください。旅をすること。しばらくのあいだ、よその国に住むこと。けっして旅することをやめないこと。もしはるか遠くまで行くことができないなら、その場合は、自分自身を脱却できる場所により深く入り込んでいくこと。時間は消えていくものだとしても、場所はいつでもそこにあります。場所が時間の埋めあわせをしてくれます。たとえば、庭は、過去はもはや重荷ではないという感情を呼び覚ましてくれます。
  
 この社会では商業が支配的な活動に、金儲けが支配的な基準になっています。商業に対抗する、あるいは商業を意に介さない思想と実践的な行動のための場所を維持するようにしてください。みずから欲するなら、私たちひとりひとりは、小さなかたちではあれ、この社会の浅薄で心が欠如したものごとに対して拮抗する力になることができます。
  
 暴力を嫌悪すること。国家の虚飾と自己愛を嫌悪すること。
  
 少なくとも一日一回は、もし自分が、旅券を【もたず】、冷蔵庫と電話のある住居を【もたない】でこの地球上に生き、飛行機に一度も乗ったことの【ない】、膨大で圧倒的な数の人々の一員だったら、と想像してみてください。
  
 自国の政府のあらゆる主張にきわめて懐疑的であるべきです。ほかの諸国の政府に対しても、同じように懐疑的であること。
  
 恐れないことは難しいことです。ならば、いまよりは恐れを軽減すること。
  
 自分の感情を押し殺すためでないかぎりは、おおいに笑うのは良いことです。
  
 他者に庇護されたり、見下されたりする、そういう関係を許してはなりません──女性の場合は、いまも今後も一生をつうじてそういうことがあり得ます。屈辱をはねのけること。卑劣な男は叱りつけてやりなさい。
  
 傾注すること。注意を向ける、それがすべての核心です。眼前にあることをできるかぎり自分のなかに取り込むこと。そして、自分に課された何らかの義務のしんどさに負け、みずからの生を狭めてはなりません。
  
 傾注は生命力です。それはあなたと他者をつなぐものです。それはあなたを生き生きとさせます。いつまでも生き生きとしてください。
  
 良心の領界を守ってください……。
  
  
 2004年2月
 スーザン・ソンタグ
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micknomura · 1 year
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アンドプレミアム 2018年12月号(Vol.60)エレガンス、ということ。
マガジンハウス
「あの人が心がけていたこと。」オードリー・ヘップバーン、原節子、茨木のり子、ピナ・バウシュ、須賀敦子、向田邦子、高田喜佐、マリー・ローランサン、スーザン・ソンタグ 執筆
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22centuryworks · 1 year
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Everything Everywhere All at Once
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 言語は言語を阻止するために、沈黙を表現するために、使うことができるのだ。(スーザン・ソンタグ)
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Angel Flight
「私は正直、オファーをいただくまでは国際霊柩送還士というお仕事を知らなかったんです。体力的にも精神的にも大変で過酷。作品を通して、このお仕事の尊さを感じました」(松本穂香)
好きな人に殴られたあの日、血よりも先にこころが飛び出たことにびっくりした。思ってもいないところから飛び出してくる槍みたいなものが日常には潜んでいて、まんまと突き刺されたような。(…)私はもう二度と不味いものを食べに変なところには行きたくないけれど、綺麗な花束はいつまでも欲しいと思う。
「その恋愛がことごとくうまくいかないのは」紗倉まな
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「当たり前」を覆し、次世代にとってより生きやすい世界を映画作品を通して作り上げる過程は、一つの小さな行動であってもZ世代にとっては大きな希望だ。(竹田ダニエル)
アカデミー賞7冠『エブ・エブ』の「怒涛の感動」の正体…60代もZ世代も「まとめて癒す」不思議なパワー
「エブ・エブ」という���画の日本公開日2023年3月3日に大江健三郎氏が亡くなった。
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stairs21 · 1 year
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79nihs · 1 year
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日記 / 12.20 / A pound of pictures
手にした重量感は、確かに自分がそれを所有したり、自分の眼差しによって見たもののような経験を味わせるように錯覚させてくる。写真集が量り売りされているというので、表参道にあるTwelvebooksに向かった。「1kg=4400円」という単位で売られているセール・イベントだ。流通のプロセスで傷がついたり、ページが破れたり、角が折れてしまったり。店頭に出せないB判定品となってしまったデッドストックを再び流通に乗せるという試みだという。
思い返すのは、写真集団マグナムに所属するアメリカの写真家、アレック・ソスの最新作「A pound of pictures」だ。8x10の大判フィルムカメラでアメリカの人々のポートレイトや風景をドキュメントし、アメリカ社会の姿を写すことで有名なアレックは「この本の中の写真には、きらきらと輝く表面以外に意味はありません」と前置きを語る。そして、「この作品群はイメージが作られるプロセスについての写真です。夢中になれる具体的な世界に入りこみ、光や時間などの一時的なものと目玉や映画などの身体的なものの間につながりを作り出すことをテーマにしています」と続けるのだ。
この作品を作るにあたって、エイブラハム・リンカーン大統領の葬儀列車の足跡をたどることから始めようとしたというが、アレックはそのプロジェクトではないと決断し、膨大な写真のイメージの概念を描こうとした。(マグナムの一人、ポール・フスコはロバート・ケネディの葬儀列車を見送る人々を列車の中から移したRFKは伝説的写真集であり、こうして葬儀列車が走ったのは、リンカーン以来だった)。そこで、アレックは写真が量り売りされていることに着眼点を置いた。撮影者が不明の写真たちは「Found photo(ファウンド・フォト)」と呼ばれている。eBayなどでも束で量り売りされていることが確認できる。実際、アレックは「A pound of picture」の写真集の中にランダムで5枚、ファウンドフォトの複製プリントを織り交ぜており、開くと誰が撮ったのかもわからないアメリカで生きる市井の人々が撮ったであろう光景に巡り合う。
その巡り合わせはまさに、写真集の山をかき分け、自分が欲しかった写真集や予期せぬ出会いを期待しながらディグる作業は、まさにソスの写真集のタイトルのように、膨大なイメージの束から見つけ出すような感覚だった。
伏線回収は見事に起きた。心が踊った。黄色いプラスチックボックスのなかにある写真集が光っているのだ。こういうときは、光って見える。光石のように存在感を放っていたのは、もちろん「A pound of picture」。紛れ込んでいるその一冊に出会い、ニヤけるほかなかった。このTwelvebooksに訪れたのは、7月にアレックが来日して交流会イベントがあって本人に会いに来たとき以来。ときとして、こういうことが起きると思うと浮足立ってしまう。ただ、すでに僕は所有していたので、必要な人が手にできればいいと思ったからボックスに戻すと、すぐに嬉しそうに手に取り脇に抱えながら笑顔の海外の人がいた。ぼくは「Sugar paper theories」というアイスランド史上最大の殺人事件捜査をビジュアルストーリーテリングで描いた写真集を見つけ出し、持っていると「それはとても奥行きのあるドキュメンタリーだ。いいものを選んだね」と言ってくれた。普段生活する世界とは遠い世界を結びつけてくれるきっかけを与えてくれる写真集の力を思うのだ。
接続し得ない写真たちが次から次へと物語を編んでいくことを体感した。そして、ぼくは元々欲しかった写真集も見つけ出し計4冊選んだ。重量計にドサッと乗っけると、針が時計回りに振れる。3kgを指して値段が決まるその光景に、写真とは、物体・フィジカルとして経験に残ることで価値の見出し方が大きく変わり、重みとして身体的に刻まれるということを改めて強く認識したのだった。この経験は意図せずして前日から続くものだった。
◇◇◇
「写真を手にとってもらい、指紋が残ることで、自分とは切っても切り離せない世界として感じ取ってもらいたいんですよね」。そう口にしたのは、写真家の児玉浩宜さんだ。ロシア軍のウクライナ侵攻が始まって間もない2022年3月上旬から3度に渡って渡航して取材撮影を重ね、写真集「Notes in Ukraine」を刊行した。その記念トークイベントが下北沢の本屋「B&B」で行われていて、写真展の意図を語った。
児玉さんが写してきたのは、僕たちが目にする典型的といえるような戦禍の惨状を写した報道写真ではない。攻撃を受けたマンションや様々な施設、荒廃した場所なども記録しているのだが、凄惨で残虐な光景よりも脳裏に刻まれるのは、戦時下のウクライナで今を生きる人々の姿だ。多くの報道カメラマンが扱うような堅牢性に長けたデジタル一眼レフは扱っていない。1本のフィルムで15枚ほどしか記録できない、中判フィルムカメラで撮られているのがそもそも大きな違いだ。フィルムに焼き付け、粒子を感じることのできる丁寧なポートレイトは、日常が非日常になってしまったウクライナの姿を刻銘と残している。
3月に西部の首都チェルニウツィーからビデオ電話で取材に応じてくれたときに聞いた言葉が印象的だった。「センセーショナルな映像はしかし消費されやすい。1日たってしまえば忘れられてしまう」。凄惨なイメージ(写真・映像など)は大河を流れる濁流のようにものすごいスピードで川岸をえぐるようにして過ぎ去り、僕達はあたかもそれを想像できる痛みとして受け止めるのだが ーこの痛みについては、アメリカの作家、スーザン・ソンタグが「他者の苦痛へのまなざし」で「想像できない」として突きつけるようにして警鐘を鳴らす― 、あまりに強烈なイメージについて実際は受け止めることは到底できず、忘却の彼方へと消えていってしまう。
元々NHKの報道カメラマンとして東日本大震災で被災した東北の地を取材した経験がある児玉さんは「涙を誘うようなシーンを求められているような空気」に違和感を覚えた経験があると言っていた。感情に訴えるわかりやすさが重要視され、現場に行かなければわからない奥行きへ眼差しを送ることを拒絶するような報道のありように疑問を呈した。しかし、フィルムに焼き付けることで、情報がスピーディーに拡散されていく時間軸、そして忘却に抗えるのだと体現している。
遠い異国の戦争を我が事に捉えようと意識しようとできるかもしれないが、実際には困難かもしれない。児玉さんはしかし「まだ答えを出すには早急すぎる」と言う。当初から「写真が5年後、10年後、そのまた何年も後になって意味が見いだせるものとして人々に働きかけるかもしれない」と言っていた。写真集や展示でも、実際にウクライナでともに釣りを興じた親子の写真が気に入っていると言うが、選定から漏れた写真もどれも「大切なもの」だという。「写真一枚が戦争を止めるというフォトジャーナリズムの大義を掲げることなんて自分はできない」と割り切る、その実直な姿勢に写真の「分かりやすさから距離を置く」ことの重要性を学び取る。
そんな背景を思い出しながら、展示の意図は児玉さんの思考が形になっていたと思った。
大きな平台に置かれているのは、フィルムカメラで写し取ったウクライナの人々のポートレイトや風景が印刷されたL判サイズプリント。3〜4枚ほどが1セットとなり、列をなす。そして隅っこのボックスには、重量を感じる束となって置かれている。ぼくはその写真の束を手に取り、次々と手を動かしながら写真を見ていく。児玉さんが言ったように、指紋は残り、「私」が手を触れたことが写真にも身体的にも刻まれていく。そして感じたのが、束になっている写真を一つ一つ見ていくその感覚が、「私」がウクライナの街を歩きながら、見ているような気持ちにさせるということだった。知らない世界と私が接続して��るような錯覚に陥り、いつしか、手にしたイメージによって編み出された世界を無視してはいけない、向き合わなければならないという感情を呼び起こされていた。
児玉さんは自らを「そこまでアクティブじゃない」と言う。ウクライナにいっても憂鬱だった日が多かったという。何か理由を見つけて重い腰を上げて外に出る。そして街を歩いて、人に声をかけて写真を撮らせてもらう。写真展では、児玉さんが見てきた風景をともに見ているよな錯覚に陥らせ、孤独さを紛らわしてくれるように思えた。
B&Bのトークで眠れなかったり憂鬱なときはYoutubeでトラック運転手の視点で撮られた「ロードムービー」を見ると落ち着くことができると言っていたことが印象に残っている。深夜に目が冷めて、しんどいなと思っても「運転手のこいつはまだ運転しているのか」とどこかふと気持ちが軽くなるらしい。過ぎ去っていく取り留めもない光景があるからこそ、生きていることを確かめられる。児玉さんは、ウクライナに足を運んで、日々歩くことで自分が戦争の中で生きていることを確かめていたのではないかと推察する。
◇◇◇
児玉さんが残した「生」の概念を、膨大なイメージを手に取ることにとって感じ取る。それは、写真の束を世界にある様々な光景の断片として、この社会を生きる僕たちが現実に起きている諸問題が切っても切り離せない事象であることを突きつける。平台に置かれた小さなプリントは、児玉さんが撮ったものでありながら、ぼくの知らない人々や光景が児玉さんに写してくれと言わんばかりにたただたこの世界に散らばる星のように存在する「ファウンドフォト」だった。
哲学者でアナキズムについて研究している長崎大准教授の森元斎さんがトークで示唆していたのは「星を結べば星座として立ち上がってくる」ということだった。児玉さん自ら、正義感を押し出したフォトジャーナリズムを掲げて戦地へ赴いたということではないと公言しているし、「意味を早急に捉える必要性はない」と語っているからこそ、余計にその星座が浮かび上がってくるように感じる。戦争が起きている現実世界の時間軸においてほんの一瞬(カメラの話をすればシャッターのスピードである。1/30〜1/500秒あたりであろう)を切り取っているからだ。
児玉さんは、この写真集は「まだまだ終わりではなく、これが始まり」と言っていた。点を打ち続けること、その点を結んでいくこと。それは暗闇の中で夜空を見上げて、光を放つ星々を指でなぞりながら結んでいき、星座としてのイメージ、新たな像を立ち上がらせていくことにほかならない。
まだまだ収束の見えない、ウクライナ侵攻。多くの人々が避難を余儀なくされ、難民としての生活も強いられている。既存のマスメディアによって流通するイメージや為政者の雄弁ではなく、ぼくたちは戦時下の今という「点」を残した児玉さんの写真の”束”から答えを探る一歩を踏み出せるのかもしれない。僕たちが想像できないような現実を掴み取り、自分ごととして捉えていこうとする行為を児玉さんは、写真を見る受け手とともに共有しようとしているのではないかと思う。写真の不確かさを力に変えていくことを信じているように。
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2fishinme · 2 years
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8/4
一枚の写真に全てを語らせよう。それだけが全てであると。まさしくこれこそが私が彼女を見る目である。そこにははっきりしたものなど何も写っていない。実像は背中を向けて、虚像の顔が見えている。私は虚像を通してあなたを正面に捉える。仮に、あなたが振り返ったときに見せる顔は?その不確かさこそが、あなたであると定義しよう。顔。あなたの顔だ。
カメラを随分と久しぶりに手にとった。最後に撮ったのは親友との鳥取旅行だったか。あれは、記念としてだった。最後の。終わりを忘れないための。それ以来、それを手にとることはなかった。残したいものなど、忘れたくないものなどありやしなかった。それを無意識のうちに手にとることに恐怖さえおぼえた。
スーザン・ソンタグは「カメラは銃のメタファーである」と言った。カメラは現実を、被写体を文字通りの意味で殺す。瞬間に閉じ込めることによって。カメラは暴力装置だ。その瞬間を永遠に残す。かたちにすることによって。瞬間は引き伸ばされ、時間は物化する。あたかも、その瞬間が疑いようもなくそこにあったかのように。その証拠として。そしてそこに写ったものが全てであるかのように。
写っているものはそこにあったものであり、写っていないものはそこになかったものである。本当か?カメラによって残せないものを残すためにカメラを捨てた。おれはそれを言葉によって代替した。カメラには写らないものをありありと記述しなければならなかったし、そうすべきだったからだ。それもまた、暴力性の象徴である。だからこれは二重の暴力である。
これはあらゆる欲望の成就である。ポルノグラフィとしての写真。完璧な再現の装置=カメラ。写真は所有だ。これは私が撮ったものだ。これは私が見たものだ。皆、そうしてその所有権を誇示するために写真をとる。「これは、私のものだ」。
写真を撮れたならどれだけ楽だろうと夢想していた。記憶だけを頼りに、デッサンするしかなかったのだ。その不確かな輪郭や部分の配置にとれだけ失望したことか。だけど、こうして写真に残しても、そこには何も写っていなかった。見えているものなど、何も写りやしない。
全てが変わってしまった日に、あなたという瞬間を永遠に残してしまったことを祝福しよう。そしてそれをいつの日か悔い改めよう。
あなたへ。
これがわたしがみているあなたです。あなたはなにをみているでしょうか。
(追記)
壮大な物語を書き残す前に、一つの写真からプロローグを語り始めた。この日に残した写真には、こうした反射のイメージがいくつもあった。おれはそれをまさしくわたしたちの象徴であると思った。鏡に反射するあなた、あるいは、ガラスに反射するわたしたち。そうだ。それしか方法がないのだ。実像ではなく、虚像のなかの2人として。現実には存在しない並んだ姿。その反射のなかで触れ合うことは可能か?あるいはわたしたちが触れ合ったのは反射のなかでなのか?できることなら、あなたを写真に撮ることなく、一生あなたへとこうした手紙を書いていたいものです。
続く.
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keisukenikki · 2 years
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https://ykmskmemo.tumblr.com/post/675632743654260736/weko-%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E3%83%AA%E3%83%9D%E3%82%B8%E3%83%88%E3%83%AA
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straycatboogie · 5 months
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2023/12/03
BGM: 松任谷由実 - ANNIVERSARY
今日は休みだった。今朝、ぼくはいつものようにイオンに行った。何もすることがなく、買うものもなくともぼくはそこに行く。そして考えごとをしたりリラックスしたりする。そこで、ぼくは父と会った。ぼくたちはぼくの近況について話した。父にぼくは、自分が元気でやっていることを話す。父もFacebookを使っている(投稿はしていないけれど)。そしてぼくの投稿を読んでいる。ぼくの書く活動が父にとって何らかの「感謝」の「親孝行」になっていればと願う。
その昔、ぼくは父を嫌っていた。というのは、父はぼくのことを理解する素振りを見せてくれなかったからだ。ぼくたちはそれぞれのテリトリーに留まり、心理的に離れていた。両親と同居していた頃ぼくはアルコールに溺れ、とっとと死にたいとばかり思っていた。誰からも望まれて生まれてきたわけでもなかったのだとも信じ込んでいた(何たるか)。でも、40になりこの飲酒癖を止めた。そして未来をまっすぐ見つめるようになった。あるいはぼくがやらなければならないこと、未来に向けてなすべきミッションについて(「いま」立っている「ここ」について、とも言える)。いま、ぼくは両親に「ありがとう」と言える。
その会合のあと、ぼくは昼食を摂った。その後本の蔵というブックカフェ(?)に行く。古本を買うためだ。小林信彦の古本『読書中毒』『1960年代日記』を買い、しばらく滞在し英語メモを書いた。そしてグループホームに戻って昼寝をする(1時間ほど)。そして借りてきた本を読んだ。ジョナサン・コットーの『スーザン・ソンタグの「ローリング・ストーン」インタヴュー』だ。
スーザン・ソンタグのこのインタビュー集はさまざまなアイデアを与えてくれている。そして考えさせてもくれる。かつて、ぼくは彼女の本をつとめて読まないようにしようと思った。彼女の態度が「冷たい」「理知的過ぎる」ものと決めつけていたからだ。何でもかんでも知的に分析できるマシーン……でも、いまぼくは彼女の言葉の中に「ホットな」「情熱的な」ものを感じる。彼女はこの世界における多様なリソースを楽しんでいる。本、映画、音楽。でも悪い意味での「オタク的」な態度ではない。彼女は救われるためにそうしたものが必要だったのだ、と思う(こんな理解は失礼に過ぎるものではあるにせよ)。
いま、ぼくは彼女の仕事がいまもアクチュアルであることを認める。もっと読まないと。
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3103dayo0201 · 7 months
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それで、最近、ルーリード繋がり検索してたら、スーザンソンタグって人の本があがってきて、あたしはなんでこの人の名前を知ってるんだろうって思ったら、実は、本屋でこの本を20年前ぐらいに買ってたの(ソンタグって苗字すっごい印象に残るっていうのもあるけど)。
 
当時は表紙の写真を見て買ったのだけど、内容を全然覚えてないから買いなおすかも。この頃は村上春樹の短編とポールオースターの本の私の中で言う、『だから何』的な日常なんだけど映像が浮かぶあの世界がとにかく好きで、ポールオースターの本はフリーがおすすめしてたから知ったんだけど、実はSmoke書いたのオースターだったんだって後から気づくみたいなそんな感じだった。
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pentata · 2 years
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