さよならいろいろ
その樋口のとんでもなく強烈なびんたが私の奥の歯をぶっ飛ばしたのは2025年のことだった。右下のだった。びんたっていうか、手のひらのつけ根のあたりの骨のところで思い切り殴るという一撃にはびんたなんてかわいい響きでない名前があると思うのだけど私はその呼び方を知らない。私はだいたいのことを知らない。2025年。私は自分が22歳なのか23歳なのかあいまいだったしノクチルのレーベル移籍を聞かされたのがつい何日前なのかもう忘れているし、いわんや樋口にびんた(ではなさそうなやつ)をされた理由なんてわかるわけもない。
ところで歯はぶっ飛んだわけではなかった。口の中の痛みと別のいやなかんじをかろかろぺっと吐き出すと、血まじりのつばといっしょに歯は落ちた。みじめっぽく転がり、でかいバルコニーの排水溝に消えた。すごい。消えてしまったのだった……。
「樋口……」
私は感動して呼んだ。樋口はしばらく黙っていた。私は樋口のことばを待つことに決めた。
ところで2025年は少しいい。にーおーにーごー。口にしてみたらわかると思う。ちょっとだけ、明るいきもちになる。
にーおーにーごー。
にーおーにーよん。
”私たちのプロデューサー”が倒れた年だ。
かれが倒れたと知らされたのは夏になるのかならないのか曖昧な季節だったと思う。理由は知らされないけれど長期間――結局は四ヶ月とちょっとになった――休養をとるということだった。事務所はたいへんなことになった。はづきさんと社長さんと、もうひとり、半年間の契約ということで若い男の人がかれの代わりにやってきて、こいつがやばかった。仕事はよくできたらしく私たち的にもいい印象だったのだけど、事務所との契約が終わってすぐ大麻を持っていたとかで逮捕された。契約、延ばせばいいのにとかのんきにも私は思っていたから大人ってやばいなと思った。そのころ戻ってきていたかれと、カウンセラーさんと、たて続けに面談が組まれて私は正直に大麻について知らなかったとこたえた。面談は全員に組まれていると聞いて、私はまたかれが倒れるんじゃないか? と思ったけど、倒れたのは事務所のほうだった。正確には? 倒れたのではなくて倒れる前に手を打つことにしたらしい。大人ってやばい。
「バーターでしょ」
樋口は言った。にーおーにーごー。そのことばの意味はいつか樋口が私に教えてくれた。カートンで煙草を買うとついてくる百円ライターがノクチルだということだった。樋口はライターを擦った。暗い夜が揺れた。樋口が火を移したのは放クラさんなのかアルストロメリアさんなのか私にはわからなかった。
私たちはセックスをしていた。移籍を告げられた夜だった。雛菜や小糸ちゃんとなんだか夜通し過ごそうかみたいな流れになりかけたところを樋口が切り捨てて、あとあと個別のやり取りから私の家でやった。高校生カップルみたいだとぽんと思ったけどなにがそう思わせたのだろう。セックスは初めてってわけじゃなかった。初めてのときのことは忘れようもない。私はなにか光が、ひかりがまっ暗い部屋に満ちていくのをうつくしいな、と思って見つめていたのだけれど、いまも時おり光は見える。光は煙草よりちいさい。
私はたずねた。
樋口はふっと笑ってくれた。
「浅倉」
煙草の先が目に近づく。目を熱いとたぶん初めて感じる。私は樋口にならしかたないと思った。ちいさい光は見てみると無数の微小の業火が集まってできていた。
だけど樋口は煙草を吸う。
私がむずかってあちこちくちづけるのを深いふかい優しさでいなし、きっちり吸い終えた煙草をビンに放り込むとまたやってくれる。樋口。私はかれとはひと晩に一度しかしなかったけど、樋口とは何度もする。何度も何度も。べろが入ってくる。このとき奥歯は揃っている。
”私たちのプロデューサー”が倒れているあいだ連絡は控えるよう言われた。それはそうだと私もわかった。いろいろと話して頭を深く下げた社長さんは私たちのなかの誰よりきつそうに見えたけど、モニタのむこうにはもっと苦しんでいる誰かがいるのかもしれなかった。その夜、私たちは四人して私の家で眠った。意外と話すことはなかったし、眠れないこともなかった。朝起きると樋口と雛菜はいなかった。仕事に出かけていた。小糸ちゃんは私の作った朝ごはんを残さず食べてくれた。それから家にひとりになると、入りの十七時までかれの家を見ることにした。かれの家のありかはあまり多くの愛みたいな呪縛にさらされていたから、永世中立地とか聖地とか禁足地として誰もが知るところになっていたのだ。
十五時に樋口は来る。かれの家の前に立ち、インターホンを鳴らすと、ひらかれたドアの中へ入っていく。かれの姿は見えない。私はスタジオに行ってウェブラジオを録る。ディレクターの中浦さんや構成作家の梶井さん、メインパーソナリティの坂野さんなんかはかれの休養を知っていて私を気遣ってくれる。それで収録は滞りなく進んだ。樋口はかれとセックスをしたのかもしれなかった。そう思うのは私がかれとセックスをしたからだった。
私がすることは樋口もする。
三日くらいして樋口は来る。私は樋口の声が好きだ。そしてもうかれの家へ行かなかった。
ノクチルの移籍は、プロダクションが他事務所の子会社となり、マネジメント体制の再編が必要となったことから、いくつかのユニットとあわせておこなわれます。
小糸ちゃんの整理してくれた文章を読むとだいたい頭がすっきりする。樋口は機嫌がいいらしくお酒を注ぐ手をとめずに「ん」とこたえる。反対はそうでもないけど、樋口の機嫌は私に入ってくる。だから言おうかは迷う。どころか実際言うのは後まわし後まわしされるうち日付が変わる。決意と諦めと半々くらいになったころ、樋口がバルコニーへ出る。私はついていく。バルコニーは寒かった。寒く、美しかった。屋根がなかった。冷たい星がひかっていた。初めて樋口とやった夜みたいだと思った。あれはそうか、私は思った。冷たいから美しかった。私は感動した。涙が出そうだった。けれどもう無理だった。私たちは温かく、私も樋口もかれもどこをとっても温かく、もうあんな美しいものにはなれないのだった。
「樋口」
私は呼ぶ。
「なに」
樋口はこたえる。
春愁の候だった。
そんなことばを私が知っていたのは、かれがとても嬉しそうに教えてくれたからだった。
「さよならって言ったよ。あのひとに」
私は続けた。
「き――
2024。
私がかれとする。
樋口がかれとする。
私と樋口がする。
私たちは分かれていたし分かちがたく結びついていった。
2025。
こうして右下の私の奥の歯はうしなわれたし、私とかれには二度とない別れが約束された。なくしてばかりだった。頬がずしっと痛かった。さっきした感動の涙がいまになって落ちた。
樋口は黙っていたけれど、黙っていたいわけではないのがわかった。無数の微小の業火だった。奈落に立ったときのようだった。
「撤回して」
やがて樋口は言った。それはとても樋口っぽくないことばだった。
「まだ、間に合うから」
はあーっ??? 私は思った。ちょっといらつくくらいだった。なら消えてしまった歯は? 倒れてしまったかれは? 樋口とかれにありえた明日とか未来は? 間に合うものなんてなかった。
「歯。折れた」
私はイヤミっぽく言ってからかなりイヤミっぽかったなと気付き、だけど樋口が先にこたえた。
「殴っていい」
続けた。
「殴って。あのひとのところへ行って」
青春じゃん。私はうっかり言いそうになったのをとどめる。そういうふうに、私もちょっとずつだけどやばい大人になっていくのかもしれなかった。「私」私は言った。ない歯のところがひんやりしていた。「殴りたくないよ。樋口のこと」続けた。「てかさ。きれいだね。樋口。ずっときれいだったんだ。驚いてるよ。私」
それは告白だった。けれどなにを告白するのかは私にわからなかった。だからそれを決めてくれるのは、樋口なのだと私は思った。
樋口は黙ってしまった。私はくちをもごもごして待った。奥の歯が折れました。右下です。移籍はまだだから”私たちのプロデューサー”に連絡しないとなのだろうか。今度はそんなに待たなかった。
「寒い」
と樋口は言った。
「入ろ」
と私はこたえた。
私たちはバルコニーをあとにした。部屋は温かった。樋口は歯がぶっ飛んだらなにをすればいいのか調べてくれた。そうして私たちは、私と樋口はかれをなくしてしまった。私たちがどうなるのか、私にはぜんぜんわからなかった。にーおーにーごー。にーおーにーごー。私たちはなにかになるのかもわからなかった。
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今日の朝ごはんは、
目玉焼き🍳️パン!
ラピュタパンですねー
朝にぴったり!美味しかった!
ごちそうさまでした😋️
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5月10日(水)open 12-18
定休日明け、晴れ。
オープンしております!
とある取材の方と猫トークでひと盛り上がり。
写真は定休日中に会った猫さん。
冬を乗り越え、これからの暑い日々に備えて...
外に生きる猫たちが少しでも幸せな時間を多く過ごせますように。
(家の中の猫さんたちも、もちろんね)
取材の方々が、店頭で配布しているフリーペーパーを「無料なんですか!」と驚きながらひと通り手にとってくださって嬉しい。(写真2枚目)
それぞれフリーダウンロードができ、配布自由なのですよ。
お気軽にお手にしてくださいね。
ダウンロードはこちらから↓
ペットショップにいくまえに
ネコの種類のおはなし
犬と猫人とが幸せな暮らしを考えてみませんか?
ねこの室内飼いのススメ
さあ今日も、気ばらしにお出かけください。
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ひなまど+とおこい漫画
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感想
観た…オラは見た。
とんでもねえ物語をオラはみてしまった
もうだめだ、自分の中でとどめてはおけない。時は来た…我が家にもあの。噂の、アンソロがやってきたのだ
(こんな辺境の地を先に見る人絶対居ないと思うが、なんせ奇跡の作品。500万が1、次元の歪みが起こるという危惧をも想定。)
この先
ドラゴンボール地上げ屋アンソロジー😇の
「"Happy 318 day”」のネタバレが全体的に含まれますので
未読の方は、絶対にみないでください。
CAUTION!
If you have not read the cartoon Saiyan Anthology"Happy 318 day"by Supobi,
do not read the rest of this article.
祝!SUPOBI・紙・媒体!!!!!⭐️✨🙏🙏🙏🙏✨👏👏🙌🙌🙌✨⭐️
I’mSUPOBIの紙媒体コレクターマン(買うよ~←ダフ屋?!←WBCの東京ドームで声かけられた)
ssssssssssssssssssss
SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSAIKOU!!!!!!!
SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSUPOBI!!!!!!!!⭐️✨⭐️✨😭⭐️✨⭐️
人類に告ぐ
人よ忘れるな
これが、
ドラゴンボールのサイヤ文化を千代に八千代に遺した御仁なのだ
スカウターを
スマホのように扱うのスポビさんが人類初だからね?!
↑これに始まる、
スポビさまのサイヤ風俗史観
公式も影響受けてるから、みんな見慣れてて気が付かんかもしれんけど
(自然すぎて気が付かないつうのも、すげーことなんだよ!!!)
スポビ発やねんまじで!
当時・・・
なんでそうリアルな描写が次つぎにpobiちゃまから編み出されていたのかなと改めて考えてみて
スポビさまは、世界観に誰よりも深く入り込んでいたから。
自然と、スカウターならこういうふうに扱ったんだとか、そういう思いに至ったのだろうと
誰よりもコンテンツを愛するこころ
正しいファンアートのありかたを学んだ
一言で言うと感銘を受けた
歴史があるんだ…
でさーーーーーーーーー
もうね…読み終わった後、
「・・・なに、この話…
なに、なに、なんなん…
ヤバい、ヤバいヤバいって!!!」
叫んでしまったもんそれから
毎日毎日
この話ヤバくね??? って改めて言ってる
あと…こんな高クォリティ読んだ後にとてもじゃないが
絵で上手く書けないからよ…
文章で描きますが、稀代の猫好きとしてpobi'sコゲちゃん!(タマ)におどれえた
顔があの顔なのに身体が、動きがちょうリアル猫だった クッソかわいかったどの猫漫画よりも
音が聞こえた(持って、おろして トン みたいな)
猫、箱、かぎに来るよねーーーーーッッ 💕🐈 😭😂🤣
ナッパかっけーーーーEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEE
ほんとにほんとにカッコいい
pobi'sナッパ
くそかっけーラディッツと
超かっけーベジータ王子とのリアル男同士の会話を見よ!!!
pobiちゃまのパパ王見られて嬉しいよ~~~
ほんとにほんとに嬉しいな筆舌にしがたいとはこのことだ
いやーすげー漫画だった…
まさか318の日をテーマに、
描かれるなんてなあ…泣ける
ごちそうの中に宇宙カニ🦀いた…😂🤣
いつも思うが、
こんな漫画見たことない。。🎶✨🎸🎹✨けど感銘が別格だよ…
pobiさまのサイヤが
My wayなんだよ
俺ぁ
サイヤと
Coolで面白くて、やさしい
supobiを愛してんだよ
もう思い残すこたあない…
・・・・感謝、宝物にします。
VIVA・HAPPYサイヤの日!!!! 🎂🍰3🍰18🍰💕
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好きなオープニングを投稿できますか?💕
🌈これは私のお気に入りの一つです🌈
* .₊̣̇. + · .₊̣̇. . · . + · . + .₊̣̇. · ** .₊̣̇. + · .₊̣̇. . · . + · . + .₊̣̇. · ** .₊̣̇. + · .₊̣̇. . · . + · . + .₊̣̇. · *
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#昨日のランチ🍴 ・ #いつものやーつ #ワンパターンですみません #うどんか牛丼かドトール #おにやんま #おにやんま渋谷パルコ ・ #だから太る #もう太ってる 😂 #とり天ちくわ天ぶっかけ #とり天ちくわ天ぶっかけうどん ・ #いつもお昼は早めです #美味しゅうございました ♡ #Japanesefood #food #foodie #instafood #instafoodie #foodgasm #foodpics #yummy #foodstagram #foodporn #飯テロ #lunch #ランチ #昼ごはん #昼飯 #ひとりごはん #おひとりさまごはん (うどんおにやんま 渋谷パルコ店) https://www.instagram.com/p/CqoXf4CyyyQ/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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ヤブウチ家のヘンテコ雛祭り カラフルで可愛いおくどさん。丼鉢や様々なお皿がきちんと棚に収まるのが偉い… 大好きなお雛様。好きすぎて一年中飾りっぱなし。流石に傷みも心配なのでケースを作らないと… 小さな御殿は全部バラバラに出来る立体パズルみたいな組み立て式。 ウチに来たとき女雛の冠は壊れた指輪と不思議な飾りで出来た手作りでした。指輪の石が無かったのでワタシがアイリスグラスを入れました… 男雛も優しげなお顔。二人共お顔は小ぶりな空豆ぐらいしかないちっちゃさ。 #お雛様 #御殿飾り #おくどさん #水屋 #おままごと https://www.instagram.com/p/CpVTnyxPLu7/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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あつ森の次がわからない
私は根っからのゲーマーなので、なんでもやる。FPSもTPSも、アクションも格闘も、音ゲーもパズルもストラテジーもシミュレーションもRPGもナイアンティックもアイドル系も恋愛系もやれる。
好き嫌いや得手不得手はあれど、操作くらいはできるし。
ところが、あつ森のためにSwitchを買い、あつ森以外のゲームを楽しんだことがない友人達には
【その次にすすめるべきソフト】が
ない!
という問題がある。
操作できて世界観に魅力を感じてくれるならば、ゼルダの伝説やモンハン、ウィッチャーなんかのAAAタイトルをすすめたいのだが
それらが【あつ森の次】ではないのは確かだ。あつ森の次にそこに手を出して楽しめるレベルだったらもっと早く本体を購入していたはずだ。
あつ森の次にそこら辺を挙げちゃったらもう終わりである。操作億劫、次何やったら良いのかわからない、なんのためにやっているかわからない、で詰みだ。
戦いとか競い合いを苦手としてる場合も多い。人を倒すためにエイペックスとかFortnite(フォートナイト)とかやったりしない。スマブラとか絶対しない。ゲーム初心者の彼女にスマブラやらせようとする男は反省した方が良い。楽しいのは自分だけ。マジでやめて欲しい。彼女が「楽しい」とか言ってくれるならその彼女はお前にはもったいないほど気遣いができる娘なので、猛省すべき。私のようなゲームのできる女友達に愚痴るのがオチ。目を覚ませ。
ドラクエですらなぜ戦うのか疑問に思うのだ。マリカで一位とりたいとかないし、ピーチ姫を助けたりしないし、マリオをメイクしてやろうとかもない。
アクションは苦手(やったことない)で
、ファンタジーとかストーリーすらさほど求めていなかったりする。
攻略を見るという習慣もない。
牧場物語は皆が想像している100倍作業ゲーだし(私は好き。でもタイトルによって出来不出来のムラがすごいのも難点)、せっかくあつ森を楽しんだ人達にパズルゲームとかのカジュアルゲームは違うよなと思う。すごろくとかスポーツとか恋愛とかのジャンルはとっつきやすいが、あつ森の熱量に並ぶことはないだろう。
そうしてSwitchを腐らせていく人のなんと多いことか。
【次】の出ない私が悔しい。
あつ森が名作過ぎるのもあるけど。
女児向けのゲームくらいからはじめた方が楽しいとは思うんだけれども、大人になると手を出せないと言う人もいるし。
果たして、あつ森の次はどうぶつの森の新作しかないのか、と思うけれども、一度本体を腐らせた経験があると、次の本体は買わないだろうなと思う。
どうぶつの森は今まで1ハードに1つしかでていないことから、次が出たらまたハードを購入しなければならないのだ。
コロナ禍もほぼ終わり、そのハードルは高い。
現状、同じハードでどうぶつの森の新作が出ることを期待するしかない。
そろそろ、どうでしょうか?
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