MARQUEE Vol.119
★特集 乃木坂46 39ページ大特集
・3期生 25P特集 starring 山下美月 与田祐希 大園桃子 伊藤理々杏 岩本蓮加
集合&単独撮影&インタビュー「乃木坂46のこれから」
「何万人の中から私達12人を見つけてくださって、ここに集まれたというのは、ほんとに感謝しなきゃいけないって思うんです」
山下美月 「今年は、先輩達の中に入っても埋もれないぐらいの個性だとかキャラだとか、魅力のあるメンバーに成長出来たらなって思ってます」
与田祐希 「人に何かするのが好きなんです。してあげたい願望(笑)が強くて。人の役に立ちたい、です」
大園桃子 「いや、やる気はあるんですよ。あるんですけど、思うようにできないんです。やるからには完璧に近づけたい」
伊藤理々杏 「お見立て会が終わってしまったので、また早くお客さんと会いたいなって思います。握手会も楽しかったのでまたすぐやりたいです」
岩本蓮加 「今日みたいな撮影だって普通なら夢でもないことじゃないですか。だから、目の前にある事を全力でやれば、いつか大きな事につながるって信じてがんばっていきたいです」
・堀 未央奈+樋口日奈 6P
ヴィジュアルテーマ:「Valentyne Suite」
インタビュー「乃木坂46のこれから」
充実の2016年を経て、勝負の年を迎える彼女達が語る「乃木坂46のこれから」
・川後陽菜×伊藤純奈 4P
連載:川後陽菜「川後Pの魔法でプロデュース☆彡」 File 15.starring 伊藤純奈
その名も“川後P"川後さんが発案と人選をして毎回、乃木坂メンバーをプロデュースしていきます。
今回のゲストは同じ“スイカ"のメンバー伊藤純奈さん。黒が好きなお二人で「悪の女王」をイメージ。トークでは今年正月にスイカメンバーで行った香港エピソードも
・山崎怜奈 4P
ヴィジュアルテーマ:「秘密」
インタビュー「乃木坂メンバーとしての安定感」
いかにストッパーを外せるか、ここから何を掴むか、山崎さんの“これから"について。
★特集 欅坂46 上村莉菜 6P
「上村莉菜 これまでの欅坂46ストーリー」
一人ひとりが欅坂46、一人ひとりのドキュメント。今回は欅坂46きってのガーリー&ドーリー趣味を持つ上村莉菜さんをクローズアップ!
上村さんの世界観を撮影展開しました。と同時に、欅坂46の始まりから現在に至るヒストリーを、上村さんのその時々の想いを語ってもらうことで綴ります。
★特集 けやき坂46 齊藤京子+高本彩花 6P 撮り下ろし+インタビュー
「あやは、アイドル感がめっちゃあるので、かわいいところはいいなと思います。ダメなところは、頭が悪いところ(笑)」
「でも、齊藤京子も私とは比べ物にはならないくらいおバカだと思います(笑)。人の話を聞いてないことが多いです」
対照的でありながら、とてもマッチングがいい2人に、パーソナルな部分や、けやき坂46での活動についてをたっぷり聞きました。
★裏表紙 アキシブproject 8P
計良日向子+田口未彩「本格始動から約3年、女子人気も高いアキシブprojectの新たな挑戦」
パーソナル���ンタビュー:荒川優那、石川夏海、宮谷優恵、船木沙織、新メンバー(星乃まひろ+加藤ゆりな+小此木流花+津代美月)
★巻頭特集
2o Love to Sweet Bullet 6P
JC・JK組:伏見莉穂+新城真衣+深見真夕 制服撮影&インタビュー
お姉さん組:藤野志穂+三田佳・+山広美保子+立花佳純 衣装撮影&インタビュー
★巻末特集
わーすた 6P
『お金がないニャ』『ゆうめいに、にゃりたい。』...グレーを攻めるアイドルグループです(一同笑)」
連載:わーすた「世界標準アイドルへの道」WORLD-02 starring:三品瑠香
★PASSPO☆ Book in Book 綴じ込み特集 10P
全員撮影+インタビュー「ガールズグループの前進/アイドルのリアル未来」
根岸愛 単独撮影&全員トーク「慣れちゃってるからなんとも思わないけど、よくよく考えてみると変なあいぽんの言動行動」
★MARQUEE祭
出演:夢みるアドレセンス、わーすた、妄想キャリブレーション、アキシブproject、La PomPon、原宿物語
★夢みるアドレセンス
「2枚のシングルの後、ツアー、そして3月にはベストアルバムもリリース。突っ切れ! 夢アド! ! 」
連載:志田友美「夢アド 志田友美のかまちょタイム☆」14
★妄想キャリブレーション
「作詞作曲もメンバー発信! 音楽をクリエイトしていくグループに進化中」
★La PomPon
「ダンスもガッツリ強力だけど素顔の6人がキラキラ素敵」
★原宿物語
starring 柊宇咲、福本カレン、香山あむ、倉澤遥、工藤茶南
噂の美少女ダンス&ヴォーカルグループ 原宿物語の本気。原宿物語 代表選抜チーム、いよいよ始動!
連載:原宿物語「原宿物語がアイドルを学ぶ! 原『塾』物語! ! 」04 原宿物語(竹内己夏+西銘紗英)×マジカル・パンチライン(リーナ+ヒマワリ)対談
★Luce Twinkle Wink☆
和テイストのルーチェが放つアニソン第二弾「go to Romance>>>>>」
錦織めぐみ:アイドル役で出演の映画『堕ちる』
★連載:「ArcJewel 夢の架け橋」
Ange☆Reve「新体制Ange☆Reve、最強ユニット誕生! 」
★東京パフォーマンスドール
高嶋菜七、脇あかり、橘二葉
「ダンスサミット“DREAM CRUSADERS"」ツアーがスタート。3/26には中野サンプラザにてこれまでの集大成となるライブを開催
★アフィリア・サーガ
コヒメ・リト・プッチ、マホ・ソット・ボーチェ、モモコ・リトルベリー、カナ・R・ノーウィッチ
バレンタイントーク:「恋が実るチョコの渡し方」
★predia
まえだゆう、青山玲子、村上瑠美奈
新たな領域“大人アイドル"を確立しつつある先陣グループ
★エラバレシ
朝倉ゆり、針尾ありさ、神崎しほ、浜口藍子
選ばれしバスケットクィーン達
★HR
安田玲、篠山せら、橋本菜々、中沢友希、山本侑里、渡辺心
地元愛を貫き7年。福岡の元祖的グループHRが放つ「日本ハカタ化���作戦」
★煌めき☆アンフォレント
中部・関西地区、最注目アイドル、キラフォレに迫る。
★ピンク・ベイビーズ
大森莉緒、櫻井優衣、佐藤琴乃、始関琉央、菅沼茉祐、鈴木千夏
ピンク・レディーに加え、山本リンダもカバー。昭和アイドルと現代ダンス&ヴォーカルの融合
★転校少女歌撃団
新入生のまお、転校生として元GALETTeの古森結衣が加わり、7人の新体制になった転校少女達
連載:「転校少女歌撃団のキラキラミッション」08 栗田恵美
★FES☆TIVE
最初で最後の6人体制FES☆TIVEによるニューシングル「ディスコ列島浮世の夢」
★メチャハイ
新体制メチャハイの決意
★SWEET CUTIE LOVELY DELUXXX
メチャハイの妹分SCLDは、王道アイドル路線
★PREDIANNA
リーダー侑杏と新メンバー瞳による新体制PREDIANNAの“これからの気持ち"
連載:侑杏「YUA Magic」05
★Clef Leaf
神谷泉水、幸重なな、伊原佳奈美、板橋加奈、坂下雅
コロムビアのアイドルレーベル「Label The Garden」から2組目のメジャーデビュー。デビュー直前の5人に直撃取材!
★ゆるめるモ!
メンバーしふぉんが語るゆるめるモ!
連載:ゆるめるモ! 「DIGメルモ! 」17
■連載
中川美優(まねきケチャ)「中川美優、職業:アイドル」 02
滝口ひかり(drop)「滝口ひかりの汗も滴る全力日記! 」 08
パピマシェ「パピ de 通信」 04
閃光ロードショー「絵コンテ無しでクランクイン! 」06:全員
CAPSULE「CURRENT CIRCUMSTANCE」
ASOBISYSTEM「CLUB or MORE?」
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死と超越の多層性――「変わらないこと」と「生きていくこと」
『リバーズ・エッジ』は1993年~1994年にかけて女性向けファッション雑誌『CUTiE』に連載され、1994年6月に単行コミックとして刊行された、岡崎京子原作の漫画作品である。2018年2月、行定勲によって映画化された本作品は、90年代当時の高校生たちが抱く、不安や欲望と一口に言えないような、心の内に絡み合った複雑な感情を多様なキャラクター設定を含め、その行為、出来事によって描き出す青春群像劇だ。私は原作を読んでいないのだが、ファッション、公衆電話の使用、テレビCMのイメージなど様々な要素を媒介して、その逸脱的なストーリーを脇においても、 ちょうど自分が生まれた時代の空気感を感じることができる。
タイトルを直訳すれば、リバーズ・エッジ(River's Edge)=川の縁である。物語のメインストリームから素直に意味をくみ取れば、吉沢亮演じる山田一郎と、SUMIRE演じる吉川こずえが「宝物」と呼ぶ人間の亡骸がある、河川敷の片隅のことを指していると言える。しかし"Edge"という単語はまた、刃や鋭さ、転じて情動の激しさという意味をも内包している。『リバーズ・エッジ』というタイトルは、物語における可視的で、特定的な「川縁」という場所とともに、不定形な揺らぎとして時間の流れの底に漂いながら、人々の関係性をめぐって表出される、個々人の「狂気混じりの情動」を示唆している。
二階堂ふみ演じる主人公の若草ハルナが、画面外の男性と対話するインタビュー形式のシーンから映画は始まる。その構図は一見したところ、取り調べを受けているか、もしくは何かしらの出来事に関する証言を行っているように見える。以降、この画面外の男性を「聞き手」と呼ぶことにしよう。聞き手の質問は、ハルナの持っているクマのぬいぐるみについてのもので、その質問に対してハルナは淡々と、しかし自身の家庭事情を示唆する(両親が離婚しており、離婚前に父親がそのぬいぐるみを買ってくれたことをほのめかす)ような仕方で答えていく。
このインタビュー形式のシーンは、ハルナを取り巻く他の主要なキャラクター五人についても同様に存在し、物語が進行していく途中で一人一回ずつ(ただしハルナに関しては最初と終盤の二回、厳密に言えば終盤のシーンはさらに二つのパートに分割されている)差しはさまれている。つまりこのインタビュー形式のシーンは物語に「関係する」ものではあるが、基本的に物語内の時間の外側に位置づけられた映像なのだ。いわばその映像は物語の注釈と言い換えることもできるだろう。それらのインタビューらしきシーンにおいては、各々のキャラクターが自身の性格や家庭環境、人間関係などについて聞き手から投げかけられる質問に答えている。いわばメタな視点から自分について説明しているような状態だ。各々のキャラクターはあくまでも物語のなかの人物=役柄としての自己を維持しながら自らについて語るのだが、その話し方や態度は、物語内における振舞い方とは差異があるように感じられる。どういうことだろうか? 各々のインタビューにおけるキャラクターの話し方は、物語内のそれと別物のように見える。すなわち冒頭のハルナのシーンを例にとると、それは演者である二階堂ふみが若草ハルナのキャラクターについて語っているかのようにも見えるということだ。しかしその語りの内容を聞く限り、一人称で語っているのは明らかにキャラクターとしての若草ハルナであり、彼女自身が自分のことを語っているのだ。ではなぜそのようなキャラクターにおける身振りの分離が起きているように錯覚するのだろうか? 詳しく見てみよう。
物語内において描かれるキャラクターたちの関係は、主に同世代の、日常的に関わる同級生との出来事に限定されて描かれている。彼/彼女らと異なる世代の人物としてほかに登場するのは、ハルナの母親や、土居志央梨演じるルミの姉と母親くらいであり、そこでも家族という身近な人物との関係性が描かれているのみである。つまり、高校生たちがそれほど親密でない「大人」と話す描写は、この映画の中には出てこない。一方でインタビュー形式のシーンの聞き手という存在は、姿は見えないが少なくとも高校生たちと親密ではない関係の人物であり、声を聴くかぎり彼/彼女らよりも年上の男性である。したがってその言葉は敬語で、どこかよそよそしい。そのため、インタビュー形式のシーンで聞き手に向かって話す彼/彼女らの話し方や身振りは、ある種見覚えのない、物語内の姿と少し距離があるもののように見えるのだ。
このインタビュー形式のシーンにおける特異性をめぐる二つの要素――それぞれのキャラクターが、自分自身の環境や経歴についてメタ視点で語ること、その聞き手が姿の見えない匿名の年上男性であることによって、応答する彼/彼女たちの身振りが脱物語的になること――は、物語内のキャラクターたちを、ある種超越的な存在として描き出している。しかしそれは完全に物語の外の出来事なのではなく、各人が自己のアイデンティティを保持したまま、自分にまつわることについて俯瞰的に語る、いわば内在的でありながら超越した存在として描きなおされているのだ。以下ではこの映画における超越というテーマについて、死と言語をめぐる物語の筋と、ときに分離不可能に響きあう映像のあり方に注目し、いくつかの具体的なシーンを取り上げながら考察してみたいと思う。
◆――死への境界を越えること
この物語は、あらゆる死をきっかけに展開していく。死に関わる出来事が描かれている主要な場面を、時系列に沿って挙げてみよう。①山田と吉川が「宝物」と呼ぶ河川敷に放置された人間の死骸が現れる場面。②松永拓野演じる高橋が、亡くなったホームレスの老人による遺産の埋蔵金が埋まっているかもしれないという嘘をついたことで、同級生たちを死骸のある川沿いに向かわせることになる場面。③後者の裏で山田とハルナが世話をしていた猫の死骸を吉川が見つけ、ハルナに見せる場面。④河川敷で上杉柊平演じる観音崎が、感情的になりルミの首を絞めて殺してしまったと勘違いする(実際は気を失っただけであった)場面。⑤富山えり子演じるルミの姉がルミをカッターで切り付けたあと複数回に渡って刺し、出血多量になったことでルミが懐胎していた子が死に至ったことが判明する場面。⑥山田と交際していた、森川葵演じる田島カンナがハルナの住む部屋を焼こうとした際、自身に火が燃え移り、マンションから落ちて死ぬ場面。
以上の6つが、物語で起こる死に関する主な出来事だ。死への「境界を越える」という言葉には、ここでは二つの意味を持たせたい。一つは死を俯瞰的に目撃すること。もう一つは当事者として実際に死の経験を引き受けるということだ。①において、その目撃という仕方で死にもっとも密に接しているのは、山田と吉川だ。ハルナものちにその死骸の秘密を知り、またそのあとの③、④の場面においても、前者の目撃する側の立場にいると言える。④、⑤の場面における観音崎とルミの姉は、ともに相手への憎しみや拒絶によってルミを死に至らしめようとする側として、そしてルミとその胎内の子は死に追い遣られる側として、後者に属する。⑥における田島もまた、死に至る人物として後者に属する。その田島の死をめぐっては、山田とハルナの「目撃者」としての立場が揺らぐのであるが、それに関しては後に詳しく考察する。以下では主要なキャラクター六人における死への関わり方について、順に考察してみよう。
これらの死に直面する場面で、それぞれのキャラクターの本質とでもいうべき性格の髄が明確に描写されている。まず山田と吉川は、ともに河川敷の死骸を「宝物」として心の拠り所としている(付言しておくと、山田はゲイ、吉川はレズビア���というセクシャリティを持っており、互いにマイノリティとして生きることの息苦しさを共有した存在として暗示されている)わけだが、その死に対する態度には明確な違いがある。それはまず、山田がハルナに「宝物」の存在を紹介するシーンで「生きてるか死んでるかいつも分からないけど、これを見ると勇気が出るんだ」という彼の言葉に表れている。続いて②の場面における山田の行動にも、その態度は見られる。河川敷に集まってくる同級生たちを目にした山田は田島に、彼らは何をしに集まってきたのだろうかと訪ねる。「この空き地に何か埋まってるってみんな…」という田島の言葉を聞くや否や、山田は川の堤防を越えて同級生たちを引き倒し、河川敷に侵入していくのを止めようとする。そして終盤のシーンで死んだ田島に関して、「僕は生きてる田島さんより、死んでしまった田島さんの方が好きだ」と述べる彼の言葉は、冒頭の河川敷の死骸についての言葉と共鳴している。
そのような山田と吉川が抱く死への態度における決定的な差異は、③のシーンで死骸となって表れる猫への態度に表れている。このシーン以前に、山田とハルナが一緒に猫の世話をする場面がある。その時の山田は一切翳りのない表情で笑みを浮かべている。一方③の場面で、死骸となった猫を「面白いもの」としてハルナに見せようとする吉���は、死んだものを好奇の対象として見ている。それは④のシーン後、山田から新しい死体が見つかったと電話を受け、そのことをハルナに告げようとするときの身振り(スキップをしながらハルナに近づき、笑顔を浮かべている)にも表れている。
ここで山田と吉川の死者への態度における差異を整理しておこう。河川敷の死骸、猫、死後の田島、そして密かに思いを寄せる青年は、すべて山田にとっては彼岸の存在、つまり相互に干渉しあうことのできない存在である。山田が勇気づけられ、好意を寄せる対象とは、相互的な意志疎通が避けがたく遮断されたものだ。それは山田自身が抱く「言葉」への不信に基づいている。それゆえに、生きた猫も彼が愛をそそぐ対象となる。山田は、これらすべてのものに「救い」を感じているのだ。
一方で吉川は、あらゆる他者を等価に扱おうとする。ここで言う他者とは、生きているものも死者も関係なく、あらゆる自己以外の対象を指す。同時に死者や死という経験は非日常的な対象であり、出来事であり、その死は好奇の対象として眼差されるのみである。そこに情のようなものは介入してこない。それは彼女が過食症として描かれていることでも示唆されている。食事をする彼女は、とくに何を好むでも嫌うでもなく、ただ無表情であらゆる食べ物を大量に口にしては嘔吐することを繰り返す。彼女にとっては死という出来事すらも、食事における過剰摂取とその排出と同じように、ただ単に生の延長に起きる現象として描かれるのだ。
続いて観音崎とルミについて見てみよう。すでに述べた通り、④、⑤の場面において二人は加害者/被害者という死の当事者として描かれる。しかしその成り行きは比較的理解しやすい仕方で、そこに至るまでの二人の関係性と行為によって示唆されている。観音崎はハルナと恋愛関係にあるが、十分に愛されていないと感じる彼はルミと肉体関係を結ぶようになる。一方のルミは複数の男性と肉体関係を結んでおり、観音崎もそのうちの一人に数えられる。ある日妊娠が発覚したとき、誰との子であるか特定できなかったルミは、日を遡って最もその可能性が高いと思われる相手を探る。しかし避妊を行わなかった相手も複数人いたために相手を確定できないルミは、ハルナの代わりとして扱われていたことへの不快感や苛立ちのような感情をも抱く観音崎に対して、中絶のための手術代を要求するに至る。その要求が行われるのが、④の河川敷におけるシーンである。以下ではいくつかのシーンやショットを実際に参照しながら、この二人が共通に抱えている「満たされなさ」がどのように描写されているのかを見ていきたい。
④のシーンにおいて、ルミは観音崎に手術代を要求すると同時に「あんたのことなんか誰も好きじゃないから、誰も愛してないから」と言い放つまで、ハルナや家族にすらも愛されていないのだということをひたすら言葉で責め立てる。言葉を浴びせかけるルミに対して「やめろよ」と繰り返し、弱々しく反応する観音崎の顔には、孤独や寂しみや不安めいた感情が滲み出している。
ここでルミのセリフに伴うショットを実際に見てみよう。「あんたのことなんか誰も好きじゃないから、誰も愛してないから」というフレーズは、読点でショットが分割されている。彼女が「あんたのことなんか誰も好きじゃないから」というとき、画面に映っているのは観音崎の姿だ(fig.1)。続いて「誰も愛してないから」と言うときにはショットが切り替わり、ルミの姿が映し出される(fig.2)。
fig.1
fig.2
「誰も愛してないから」というセリフとルミのクロースアップとの対応は、このシーン以前に挿入される彼女へのインタビューのやり取りが思い出されることで、その強度を増している。聞き手は「あなたにとって、愛って何ですか?」とルミへ問いかける。それが聞き手のルミに対する最後の質問となるのだが、彼女は「あい…」と言った後に少し間を置き、静かに詞のない歌を口ずさんでそのシーンは終えられる。彼女は、愛とは何か明確に答えを出さないままだ。このシーンを思い出すとき、「誰も愛してないから」という台詞は観音崎に向けられていると同時に、画面に映し出されるルミにもまた反省的に差し向けられている。
観音崎とルミはともに愛の満たされなさを抱えており、それを埋め合わせるためにセックスやドラッグに走る。二人によるセックスシーンと④におけるシーンには、ショットとシークエンスを通じてある行為と、それから死につながる明白なつながりが示唆されている。まず一つ目に、観音崎は首を絞めてルミを気絶に至らしめるのだが、それ以前の(最初の)セックスシーンにおけるプレイにおいてその行為は既出しており、目的の異なるイメージが「首絞め」という行為によって接続されている(fig.3,4)。そしてもう一つ、首絞めから気絶に至る④のシーンを示唆するように、最初のセックスシーン直後から河川敷の死骸のショットへと切り替えられているのだ(fig.5)。
fig.3 セックス中、観音崎がルミの首を絞める場面
fig.4 河川敷において、観音崎がルミの首を絞める場面
fig.5 fig.3のセックスシーン後に切り替わる河川敷の骸骨
これら三つのショットを並べてみると、それぞれのショットのアングルやフレーミングの類似から、オーガズムと死が「首絞め」という行為を通じて連関させられていることが見て取れる。その連関構造(セックスと死のイメージの連結)自体は、ある種紋切型とも言える。
しかし重要なのは、④のシーンにおいてルミは「死んだ」のではないということだ。彼女は一旦気を失ったあと、観音崎と一連の様子を見ていた山田が彼女を埋めるための準備をしにいったん河川敷を離れた際、意識を取り戻して帰宅する。そして自分の部屋にたどり着くや否や姉が自分の日記を勝手に読んでいるのを発見したルミは、姉と口論になり、その流れで逆上した姉がルミを瀕死にいたらしめる⑤のシーンへとつながっていく。
しかし、ルミはここでも死ぬことはない。時間を隔てて命を落とすことになるのは、彼女が宿していた子の方である。fig.3からfig.5のショットに至るシークエンスは、ルミ自身の死を意味してはいなかったということだ。その死骸は誰で、どのようにして、なぜ死んだのかということが全く示されない。それは物語が始まる前から、そこにあったものとしてあるのだ。その匿名性は、たしかにルミの子と重なるところがある。誰との子であるかも判然とせず、名前どころか姿形も与えられないまま死に至ったその子に。
その後、ハルナと安藤輪子演じる友人のよっちゃんが、病院にいるルミの部屋に見舞いに行く場面がある。ルミは病院のベッドに上体を起こして座っており、毛先をいじりながら鼻歌を歌っている。ド���付近でその様子を見つめる二人は、見舞いの花を渡すこともなく、無言で部屋を後にする。それがルミの登場する最後のシーンとなる。
このルミの状況設定は、すでに述べたルミのインタビューシーンと同じ場であるだけではない。思い出したいのは、そのシーンがルミが歌を口ずさむところで終わっているということだ。つまりルミのインタビューに関しては、単に彼女の注釈的な映像に終止しておらず、物語内における彼女の最後のシーンへとそのまま接続されているのだ。見舞いに来た二人がルミと言葉を交わさず、その病室にほとんど足を踏み入れなかったのは、二つの境界(死/物語の内と外)を前にした態度の表れのように見える。
一方で観音崎は、引っ越すことになったハルナの荷物整理を手伝いに行った後、そのまま別れを告げる。その時の彼は一見、単に寂しさを埋め合わせるための、それまでの人間関係の構築の仕方を反省したかのように見える。手伝いを終えた彼は、ハルナに別れの言葉を告げていわば潔く走り去る。しかしここでの観音崎は、ルミとの関係や一連の出来事などまるでなかったかのようだ。ここに観音崎とルミの結末の大きな差異が見られる。そこでは「妊娠」という出来事をめぐる、男女間における責任問題のリアリティが浮き彫りになっている。ルミが背負わなければならない問題(身体的な負担、中絶にかかる費用、そしてなにより不貞を働いたことへの社会的な非難のまなざし)は一般的に、女性へと執拗に指し向けられる問題と共通している。それは単に二人の関係性によって描かれているだけでなく、結末の描かれ方によっても強調されているのだ。ルミは自らの子の死に関わる一連の出来事について、どのように両親に説明するのか、そして姉との関係はこの先どうしていくのか、家族との関係性のこれからについては何も描かれないまま、何も解決しないままだ。他方で観音崎についてはハルナとの別れだけが描かれ、彼には一つのはっきりとした区切りがあるように見える。ルミと観音崎のラストには、ジェンダーをめぐる責任問題のリアリティが残酷なまでに宙づりにされている。
さて、すでに述べたように、愛の満たされなさを抱える観音崎とルミは「愛とは何か」という問いとともに生き続けなければならない点では共通する。しかしそこには男女間における責任問題の偏りが、単に生物学的な構造の差異にとどまらない、ジェンダーにおける差としてそのまま提示されているのだ。
最後に田島カンナ、そして彼女と山田とハルナをめぐる関係について見てみよう。山田は自分がゲイであることを皆に隠しておくために田島と付き合っている、という主旨のことを映画の序盤でハルナに告げる。当然そのことを田島は知らない。山田は「普通の人に話したの若草さんが初めてだよ」と言ったあと、ハルナに死骸の存在を教えるため河川敷へと向かうのだった。
一方田島カンナは、⑥のシーンの後に挿入されるインタビューで山田とのなれそめを語っている。以前からその「ミステリアスな雰囲気」や「きれいな顔」、「おしゃれな服装」が気になっており、初めて渋谷のHMVで話しかけ、その後クリスマスに告白して付き合い始めたというストーリー自体は、陳腐な流れだ。しかしそのあと聞き手は突然、「生きていてよかったって思えることってある?」と彼女に問いかける。田島は「生きていてよかった…」と聞き手の問いを一度繰り返し、寂しげな笑みを浮かべて首をかしげるだけで、インタビューは閉じられる。
このインタビュー映像の流れは、ルミのそれを思い出させる。「愛とは何か」「生きていてよかったと思えることは何か」は、それぞれ二人にとって答えられない問いであり、それゆえに常に模索せざるを得なかった生の核心にある問いである。ルミは「愛の満たされなさ」を複数の肉体関係に、田島は「生きる意味」を山田に求めようとしていた。結局彼女たちの問いは、実際物語の流れにおいても解決されないままに終わるのだが、その決定的な違いはルミが生き続けるのに対し、田島が死ぬことである。この違いは、実はインタビューシーンの終わり方とも重なっている。ルミは鼻歌を歌うことでシーンを終える(そして後に物語内へと接続される)が、田島は言葉を失ったままだ。言葉を失うだけでなく、歌うこともないということは、そのまま彼女の死を示している。どういうことか、再び具体的なシーンを引用して考察しよう。
◆――「言葉と歌」の欠如としての死
まず、田島が「言葉を失う」ことについて考えてみたい。彼女が山田と二人でいるシーンは三ヵ所ある。一つ目はすでに述べたように、同級生たちが河川敷に埋蔵金を捜しにきた様子を目撃する場面。二つ目は水族館に行く場面。三つ目は学校の廊下を歩く場面だ。この三つのシーンのどこにおいても、田島は自分がしたいと思うことを押しつけるように、山田へと話しかける。山田はその問いかけに対してそっけない言葉で反応するばかりだ。唯一山田がデートの感想を短く述べる二つ目の場面においてすら、別れを告げた後そのうしろ姿に手を振る田島に対して、山田は振り返らずに去っていく。一方的に言葉を浴びせかけるようにして話す田島に辟易した山田が、ついにそのストレスを爆発させるのが三つ目の場面である。以下ではこのシーンについて詳しく見ていこう。
二人が並んで廊下に続く階段を上ってくるところからそのシーンは始まる。廊下に入るあたりでカメラは二人の背後に回り、そのうしろ姿を追う。途中で田島が徐々に身を翻し、山田と対面して話しかけながら後ろ向きに歩いていく(fig.6)。そして廊下が終わりに差し掛かろうとするところで、二人は足を止める。それとほぼ同時に向かい側左奥から、別のカップルが歩いてくるのが見える(fig.7)。この時点ですでに、レンズの焦点は山田と田島から、歩いてくるカップルの方へと移り始めている。
fig.6
fig.7
そしてカメラは追う対象をカップルへとシフトさせると同時に、カップルの会話のヴォリュームも上がる(fig.8)。この間も田島の語りは続いているのだが、山田がフレームアウトする付近で彼女の声は右側へと滑らかにパンし、同時にカップルの会話の音声がセンターに来る。つまりここで、音声の振り分けはカメラのパンと同期していると言うことができる。そのままカップルが廊下を進んでいく様をカメラは追い続けるが、再び山田がフレームインするとき、同時に田島の声がセンターに戻り、ヴォリュームも徐々に上がっていく(fig.9)。このとき山田はカップルの方を向いている。そのまま廊下の奥へと去っていくカップルと手前の山田をフレームに収めるカメラのレンズは、しばらくすると焦点を山田に移す(fig.10)。
fig.8
fig.9
��� fig.10
そして、この間ずっと山田に対して一方的に、二人でしたいことや行きたいところについて語りかけていた田島の声が、「うるさいなぁ」という山田の声で遮られる。ここまでの一連のシークエンス(階段を上ってきてから、山田が田島の語りを遮るまで)はワンカットで撮られているが、この山田の一言を境にカットが割られ、カメラは山田と田島の顔を映す視点に切り替わる(fig.11)。
fig.11
その後、「山田くん…?」と呆気にとられる田島を振り返った山田は、「どうでもいいことばっか喋って楽しい? してほしいことばっか喋って楽しい? ねえ」(fig.12) と言い放つと、再びカットが割られ、山田を正面から映す視点へと切り替わり「自分のことばっか喋って楽しい?」(fig.13)という捨て台詞を残して山田は去っていく。
このシーン、とくにfig.10までの長回しにおけるカメラと音声の操作によって、田島の語りの持つ「重さ」が強調されている。切れ目なく続く映像と場を占め続ける田島の声は、彼女が浴びせる言葉の連なりと相乗し、時間的な緊張を増幅させている。そして山田が廊下を歩いていき、階段を上って姿を消したとき、それまで歯を見せて笑ったまま固まっていた田島の口が閉じられるのだ(fig.14)。
fig.12
fig.13
fig.14
この一連のシークエンスにおいて、カメラは複雑な運動を行っていることが分かる。さらに詳しく見ていこう。シーン冒頭からfig.8までは、カメラは山田と田島を撮る第三者的な視点を構成している。しかしfig.8からfig.9の間、カメラのパンと音声の振り分けが同期するとき、カメラはいったんその視点を離脱する。つまりカメラは、意識がカップルの方へと向かいつつ、田島の声が右側から聞こえる主体=山田の視点と同一化する。��いうよりも、視点と聴覚的なあり方が同期していることから、カメラは山田の顔自体になっていると言った方が適切であろう。だがその後fig.9のショットに至るとき、カメラは再び第三者的な視点へと戻ってくる。そしてfig.11、カットが割られるとき、第三者的な視点に回帰したように思えた直前の視点は、じつは田島の視点へと変化していたことに気づく(fig.10におけるカメラの位置は、fig.11における田島の視点と一致する)。それは再び視点の転換がおこるfig.13において強調される。
つまりこのシーンの間に、カメラの視点は第三者→山田→田島へと転換していくのだが、そのカメラの運動は田島の身体のあり方ともまた連動している。カットが割られると同時に田島の語りが止まり、ついにfig.14でカメラが再び第三者的な視点に戻った時、その場に立ち尽くす田島は二つの停止状態(身体的な静止/発話の切断)にあるのだ。
続いて「歌うこと」について考えてみよう。すでにルミと田島のインタビューシーンにおける結末の類似性と差異については述べたが、田島が「歌うこともなく」インタビューを終えるのは偶然ではない。なぜなら映画の中盤に田島が歌っているシーンが存在するからだ。それは山田とハルナが校舎裏で世話をしている猫に会いに行った後、グラウンドの脇に移動し、山田が好意を寄せる青年がサッカーをしている様子を眺めながら、二人で会話をする場面においてである。ハルナはその青年をただ遠くから眺めるだけの山田に対して、それ以上距離を縮めたいとは思わないか質問を投げかける。その質問は徐々に生々しいものになっていく(「好きって言いたくならない?」→「抱きしめてもらいたいとかは?」→「キスは?」→「セックスは?」)が、それぞれの質問に対して山田は即座にイエスの感情で答える(「なるよ」→「ある」→「もちろん」→「すごくしたい」)。それから少し間をおいて、ハルナは山田に対しどのようにセックスを行うのかを立て続けに、かつ具体的に問う。それはヘテロセクシャルからゲイに対する「素朴な」質問として描かれている。それらの問いには答えることなく山田は、ハルナに対しても同様、具体的なプレイの趣味等について問いかける。その問いに対して顔をこわばらせるハルナに向かって山田は、「失礼だよ、ゲイだからってすぐセックスの話するの」と言う。「ごめん」と謝るハルナを「いいよ」と許す山田は続けて、あの人のことを見ることが出来る、それだけでいいのだと答える。山田が「いいよ」というあたりから、ピアノ伴奏のついた合唱曲がどこからか聞こえてくる。
その曲はアメリカの19世紀中ごろに活躍した作曲家、スティーブン・フォスター(1826-1864)の『夢路より(原題:Beautiful Dreamer)』(1862)である。歌われているのは日本語訳(津川主一)されたもので、一番の歌詞がまるごと流れる。その歌詞は以下のようなものだ。
夢路より かえりて
星の光 仰げや
さわがしき 真昼の
業(わざ)も今は 終わりぬ
夢見るは 我が君
聴かずや 我が調べを
生活(なりわい)の 憂いは
跡もなく 消えゆけば
夢路より かえりこよ
歌詞と映像の流れを同時に見てみよう。一行目から四行目までは、山田の語りの後ろで歌が流れているため、観者は初めその歌がBGMであると認識する。しかし五行目に差し掛かるときに歌のボリュームが上がり、五行目中は動く青年のスローモーションが映される(fig.15)。その後六行目に入ると、突如音楽室らしき教室で合唱している田島の姿が映される(fig.16)。そのときこの歌はBGMなどではなく、物語の中で実際に流れている音楽なのだということが分かる。
fig.15 五行目(夢見るは 我が君)が流れている途中、青年のスローモーション
fig.16 六行目(聴かずや 我が調べを)が流れている途中、合唱する田島
この歌は途中五行目までは、山田から青年への思いに添えられたもののように思える。しかし六行目に入ったとたん、それは田島から山田に向けられたメッセージへと転換する。ここにおける「我が君」とは、山田が思いを寄せる青年ではなく、田島にとっての山田のことだ。「夢を見ている我が君(夢見るは 我が君)」=山田に、「私の歌が聴こえないのだろうか(聴かずや 我が調べを)」と田島は問いかけている。そして七行目で田島のクロースアップとなり、八行目を歌いながら彼女はゆっくりと窓の外に顔を向ける。そこで山田とハルナが並んで立っている後姿を見つけた田島(fig.17)は、最終行を歌うことなく二人を見つめ、アウトロのピアノ伴奏のカットアウトでこのシーンは閉じられるのだ。この光景を目にした田島は二人が恋仲にあると勘違いし、最終的に上記の⑥のシーンへと至る。かくして田島は、自らの言葉と歌を途中で遮られ、そのことが彼女を死へと導いていくこととなる。
fig.17
◆――田島の死、ギブソンの詩
さて、二つの具体的なシーンを取り上げたが、ここには山田の一貫した態度がより明晰に描かれている。この論考の初めに、山田が「言葉」への不信を抱いていると書いたが、それは少し雑な言い方だったかもしれない。彼はこれら二つのシーンを通じて、言語の根源的な暴力性を批判している。それは同時に彼のセクシャリティとも密接にかかわっている。一つ目のシーンでは、いわゆる「普通の」カップルのあり方に対する憧れが、二つ目のシーンでは思いを寄せる青年と恋仲になりたいと思いつつも、これ以上距離を縮めることが出来ず、それでよいのだと諦念に至るさまが描かれている。いわばロゴス中心主義の批判者としての山田は、一方的に言葉を浴びせる田島や、セックスのあり方に対して素朴に問い続けるハルナによる、その無意識的な言葉の使用そのものに対して異を唱えているように見える。それは彼がUFOを呼ぶことを何度も試みていることからもうかがい知ることができる。彼は外言を重視しておらず、内言あるいは何か超言語的なものに信を置いており、それを大事にしようとしている。そこにこそハルナと田島への感情の差、そして二人の結末の違いもまたあるように思われる。
田島は山田とハルナが恋仲にあると勘違いした故に、最終的に自らの死を招くことになる。この点で、論考の冒頭に書いた山田とハルナの「目撃者」としての立場が揺らぎ、その「加害者」性が浮かび上がってくる。とくに田島の事故現場に居合わせた山田の表情が、驚きや恐怖を含むものから徐々に笑み(ほくそ笑むという言葉がこれほどしっくりくる顔があるだろうか)に変わっていく様子に、それはよく表れていると言えるだろう。しかし一方のハルナに関しては、田島の死に言及するシーンがほとんどない。それどころか自らがその死に関わっており、下手をすると自分が死んでいたのだということについても、とくに触れられないままなのだ。その意味において、彼女は結局死の「当事者」と「目撃者」の間にある存在のままであり、山田が言ったように「普通の」人であり続けるのだ。
物語の流れに話を戻そう。ハルナが引っ越す前夜と思われる場面で、山田はアメリカの小説家であるウィリアム・ギブソン(1948-)の詩集を手渡す。その後、二人は夜の街を散歩することになるのだが、二人が橋の上を歩く様子がスローモーションで映されつつ、二人の会話が流される。しばらくすると夜の街(海上の橋とその上を走る自動車、巨大な工場の一部と明かりのついた建物群、それらの光を反射しながら揺らめく海など)が映し出されながら、山田とハルナが二人でギブソンの詩の一部、「平坦な戦場で僕らが生き延びること」を朗読する音声が流れるシークエンスとなる。詩のなかに、「僕らの愛は知っていた 沈黙の周波数を / 僕らの愛は知っていた 平坦な戦場を」という節がある。僕ら=ハルナと山田は、沈黙することが無や空虚ではないこと、劇的ではないが自由でいられない自らの生を生きねばならないことを知っている。
山田はなぜ最後に、「生きている」ハルナが好きだというのだろうか。その言葉を聞いたハルナは、なぜうつむいて涙を堪えるのか。それはハルナの最後のインタビューシーンの内容と深くかかわっている。聞き手はハルナに、「自分は、生きてるって思う?」と問う。それに対し「どっちかというと、生きてないと思う。…変わらないから。石とか、プラスチックとか、そういうのと同じ、あまり変わらない。」とハルナは答える。その後いくつかのやり取りを終えて、インタビューにおけるハルナの最後の言葉は「生きていきたい」である。山田は、ハルナが「変わらないこと」を自覚しながらも生きていくことへの意思を抱いている、その姿勢に共鳴している。「変わらないこと」と、「生きていくこと」は不可分であり、山田にとってもまた受け入れざるを得ない、自己との向き合いかたの主題となっている。それはハルナの言葉にもあるとおり――石とか、プラスチックとか――、言葉を持たないものに寄り添おうとする態度だ。
「僕らの愛は”知っていた(knew)”」。過去形で刻まれるその単語には、「(すでに)知っていた(だがそれでも…)」という括弧内の含意が漂っている。その意味において、二人は詩のレベルでシンクロしている。だから最後に山田は、もう一度UFOを呼んでみようよと、ハルナに誘いかけるのだ。
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