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#この場所・この環境に世界でココしかありません
kennak · 8 months
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今日、出勤したものの、上司と2人でラーメン屋に行く約束が嫌すぎて、冷や汗が止まらず気分が悪くなり即退勤した。人数が少ない部署なので、同僚の人には悪いと思ったけど、あまりにも嫌すぎて、自分がこんなに嫌だと思ってることに驚きつつも休んでしまった。明日はちゃんと行こうと思っている、し、もしも明日ラーメン食べに行こうってなっても行けると思う。今日たまたま体調とかメンタルの調子が良くなかったんだ。 上司は55〜59歳で、自分の部署の一番上の人。5人しかいない部署で、狭い部屋で一緒に仕事をしている。上司と自分は4月に同時に異動してきた。仕事上、頼りになる人だし、自分も特に仕事面で心配なことはない。残業も少なくて、先輩も聞けば教えてくれる理想的な環境。 上司は職場でパワハラセクハラで有名だ。前の部署では2人ほど長期の休みに追い込んで、1人辞めさせている。それでも上司が干されないのは、仕事をこなせるからということと、休む側にも問題があるということからだと思う。まあ、休む側の問題というのも無いとは言えないなって、当時人事担当だった自分は思っていたわけよ。 でも一緒に仕事して3ヶ月で、だいぶしんどさがわかってきた。この人と1年仕事してキッパリ退職した女性の先輩がいるけど、すごい我慢したんだろうなってあらためて思った。 とりあえず、4月から自分ががその都度記録して、記録するたび読み返して憎しみを燃やしたメモを見てくれるかな。 ちなみに自分は25〜30歳の女だ。上司には自分と同い年の息子もいる。この情報も踏まえて読んでくれると、よりキモさをわかってもらえると思う。【4月上旬】・「俺は昔から不良だった」「覚せい剤を手に持ったこともある」「本物のヤクザと知り合いだ」 上記のような内容で自分を強く見せようとしている?事実だとしても別に尊敬できる内容ではない。・一人では飲食店に入れないから一緒に行ってくれと何かにつけて言われる。【4月中旬~5月下旬】・かなりしつこく一緒に自転車に乗ろうと誘ってくる。 体力がないので、日焼けしたくないので、暑い時期はちょっと、と言って断り続けるが、「諦めろ」「腹をくくれ」など。職場の上司と出かけるなんて、よっぽど仲がいいかせめて同性でしょ。・「体力的に難しくて漕げなくなったら背中を押して並走してあげる」触んなクソボケ。・「Aさん(女)もBさん(女)もCさん(女)も俺と出かけた」←めちゃくちゃしつこいから。・「退職したら養ってくれ」キモすぎる。・おいしいラーメン屋や飲食店があるという話があると「今度一緒に行くか」嫌すぎる。【6月後半】・出張に行けないかわりに上司と自分で、昼食を食べに行こうという話になった。断り切れず寿司をおごってもらった。味がしなくて残してしまった。・学校の教師は敵だから、俺たちよりも下だと思ってる、と繰り返し言う。過去に教師に「腐ったミカン」だと言われたらしい。周りの人間をダメにする人間のことを、言い得て妙だと思った。・前の部署時の話になると怒りだしてしまう。病気みたい。人事(自分の古巣だ)はあの時人をくれなかった。予算つけなかった。と責めてくる。(自分が原因で療養している人が複数いることは棚上げなのだろうか?)・前部署の部下Sさん(若手・男性)のことは、折を見て悪く言う。これは上司のお気に入りだったYさん(若手・女性)に対してSさんが言った「心の扉を開けたい」「妻に残業してこいと言われている」などの発言を根に持っているみたい。どう聞いても、Sさんの人柄を鑑みても、冗談で言っているとしか思えない内容だが、こういう隙のある発言をすると、上司は同じ群に自分のメスを誑かそうとするオスがいる!と思って、Sさんを攻撃して、結果Sさんは長期のお休みに入ってしまった。・Aさん(前部署の部下で、上司に詰められてやっぱり休んじゃった・中堅・男性)、Sさんについては100%相手が悪いと思っている。・一方でYさん(上司のオキニ女性)に対しては、良い仕事を回して大変なところだけ他の部員にやらせておいて、美味しいところを手柄にしてあげるというエコ贔屓具合。「Yさんはオレが守ってあげる」と言ったらしい。このYさんはどういう気持ちかわからないけど、上司のことをキモがらない稀有な人材なので、上司の運命の人になってあげてほしいと常々思っている。・上司「前部署時代から朝早く出勤している。俺が雑用をしていると、後から来た下の人が『自分がやります』と言う。自分がやると言うくらいなら俺にやらせないようにしろ。俺より先に気づけ。」←自分本位すぎる。世界が自分中心に回っているのか??頭北極か???マジでいるところにはいるんですこういう人が。・どれだけ自分が仕事をして、どれだけ大変だったか、どれだけ残業したかを繰り返し話す。部分的に、確かに大変だったろうと共感するところもあるが、自分の言動が仕事量を増やしていることに無自覚だったり棚に上げたりするのがはっきりわかるので不快。・健康診断の結果が悪いと、すぐに「俺死ぬから、あとよろしくな」「俺がいなくなってよかったな」と言う。今時「そんなこと言わないでよ~そんなことないよ~」待ちなのか?女子中学生みたいだ。・病院の検査で尿道にカメラを入れられた話してくる。別に聞いてない。話の流れで「偶々~~」といったら「金玉の話してんのかと思った」と言われた。頭金玉か?全身海綿体か??・もうとにかく自分と自転車で一緒に出掛けたいらしい。寿命が短いから生殖本能が活発になってるのかもしれないと思う。【7月】・近所のラーメンに一緒に行こうと誘ってくる。他の部員の人は誘われていない。行きたくない。・飲み会は絶対に飲めと言われる。上司が飲めなくて車を運転するので、飲まない理由が無いだろうという論調。飲み会後の車の中で一番最後に私を残す。位置的な問題もあるだろうけど、個人的にこれがかなり怖い。・「のどが痛い。一回1錠の薬をめんどくさいから2錠飲んでやった」とイキっていた。自傷自慢がとにかくすごい。これ、後から思い返すと、自分が風邪っぽかった飲み会の直後に言い始めたんだ。つまり上司が言いたいのは「風強ぽい部下のコと、飲み会後イイ感じにやることやっちゃって風邪が移っちゃった★」ってことなんじゃないか!?と勘繰ってからマジでキモくてしょうがない。・おしゃべり相手がいないのをあわれに思い、アレクサの購入を促した。・何かと質問に答えると「そういうところ素敵だと思う」と言う。言われても嬉しくない。純粋に気持ち悪いなと思う。口説き文句じゃなくて普通の誉め言葉はないのか?・自分が入院して離婚した時の話で、今後は●さん(自分)に退院するときの荷物取りに来てもらうからな!と言われた。嫌だ…。私はお前の何なんだよ。・元奥さんとの離婚の経緯や自分の恋愛観について二人きりの時にずっと話している。●さんの恋愛観って何?と聞かれる。脳内ピンク色すぎる。どうやったらそんなに恋愛のことを考えていられるのかわからない。再婚するなら俺のありのままを受け入れてくれる人がいいな!とか言っている。やたら再婚の話を振ってくるのでリアクションに困る。・元奥さんと結婚しようと思ったきっかけは、初デートの初ディズニーで駐車場が混んでいて、イライラして「帰ろう」と言った時、元奥さんが「いいよ」と笑って言ってくれたことらしい。そんな人、今後二度と現れない。・部屋に上司と二人になると話しかけられてしまい、仕事が手につかない。・ラーメンを二人で食べに行く約束をさせられた。当日涙が出るほど嫌だった。生理的に嫌すぎる。今ココ。以上です。 ねえ、皆さん。このくらいの人、世の中にはいっぱいいるんでしょうね。 そして勘のいい人は読んでて大体わかったと思うけど、この上司は妻と離婚して一人暮らしのおじさんなんだ。もうとにかく毎日寂しくてしょうがないの。でもね、職場の自分の息子と同い年の女性をその捌け口にするのはやめてくれと。勘弁してくれと。お前なんかと食うラーメンはゴメンだよどんなに美味しくても。寿司すら味しなかったんだから。 そしていろんな誘いをハッキリ断れない自分も、きっと批難されるべきなんでしょう。「ラーメン?2人じゃなくて3人なら行きますよ」 これさえ言えればいいので。でもねえ、色々考えるわけよ。例えば自分がそっけない態度をとったとして、きっと上司はしつこく色んなこと聞いてくるし、5人しかいない部署で同僚に気を使わせてしまうのも悪いと思うし。上司には逃げ道もある。「俺はそんなつもりなかったけど、●さんがそう感じたなら悪かったね」。これだけでいいからね。 あ〜ほんと、明日はちゃんと出勤する。同僚に謝って、仕事して、必要とあらば上司とお昼一緒に食べる。味がしなくてもね。そうやってやり過ごせばいつか終わるんだ。 読んでくれてありがとうございます。
上司とラーメンに行きたくなさすぎる。
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enrichmyheart · 2 months
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筋力低下と少子化の関係
「快」の追求と「不快」への忌避は、筋力低下に繋がります。だからといって、直ちに殺伐混沌とした魑魅魍魎の社会=人間社会となるわけではないことは、社会を観察しているとわかります。
筋力低下は、なるべく面倒を避けて楽な方へと意識をシフトしてゆきます。
人間が生きていくうえで最も面倒くさいのは人間関係で、他人との摩擦はストレスを生み、私たちを疲弊させます。
これを避けようと思えば、生涯���身はある意味、現代社会の最適解のように見えます。特別「人間」という生物に思い入れもなければ、子孫繫栄にも興味はありませんから、自分が残りの人生をいかに安泰に過ごすかが、私たちにとって何より大切な価値観になります。
しかし暗黒時代の私ですら、死に対する恐怖心はあって、だからこそ、ここに生存しています。この恐怖心は生物として当たり前の本能で備わっており、この本能的価値観すら否定するに至るまでには、相当の精神的ダメージがあることがわかります。
逆に言えば、この他者との摩擦、軋轢を乗りこなすサーファーは、別の意味での勝者、成功者と言えます。
成功者ではありますが、ご多分に漏れないのは、この人間関係の成功者も他の人が感じる「人間関係=面倒くさい」から一歩抜きんでて、人間関係は面倒くさくないところまで極めた、非常人と言えるかもしれません。
これはAI時代を生き抜く方法や、時間の長尺ともかかわってくる大切な問題です。
まずは問題点を探ります。
面白くない、不快な時間は体感として長く感じます。
他者との摩擦によるストレスに多くの問題を抱えるほど、体感時間は長く辛くなります。
つまり人間関係の構築が困難になるほど、人生の時間は苦痛の時間となります。
真にこのストレスから解放されるには、無人島での自給自足しかありません。リモートワークが普及しても、人間関係とは完全に無縁にはなれないことからも、このことの証明は強化された、と言えます。
ビジネスは他者との取引によって成立するものであり、金銭の介在も、適材適所の分業も、人間関係の協力なしにはできないものです。
自分で稼いで一人暮らしができるようになっても、やはり社会と一切の関わりなく過ごすことはできません。
他者との関わり方は、実地で学習してゆかないと身につかないものだと、個人的な経験では考えています。しかしこれは、自分の心を一切傷つけることなく実施することは恐らく不可能であり、世の中には本当に色々な人がいます。
他者との関係性を学習するスキルは、AIで代替可能であるか否か。これには「水と油」が関わってくると思います。
AIの得意分野は、とことんロジカルに突き詰めるところでした。
AIの保有知識が嘘偽りのない真実のものであれば、AI知識×AIロジック=最強です。
一方で「正論」が通用しないのが、人間の感情です。感情+権力は、真実をねじ伏せるちからを持っていますが、これは例えば「戦争は勝った方が正義」という論理に繋がったりします。
一方で「人たらし」の基本戦略は、懐柔策です。平和な世界では、これがもっとも効率的な方法となり、人たらし戦略については営業職の分野で少しお話をしました。
ここで、たとえ話に切り替えます。
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毎日、上司のXと仕事をしなければならない苦痛と戦う「わたし」がいます。
Xは、何かにつけて「わたし」に向かって毒を吐いてきますが、上司ですからロジカルに「正論」を言い返すわけにもいかず、常に「わたし」をイライラさせています。そのうち、胃に穴が空いてしまうかもしれません。
しかしこのX、「わたし」にはこんな風な態度をとりますが、同僚のAやB、またはCを相手にすると、途端にコロッと態度を変えます。それがまた余計に鼻持ちならないのですが、一応上司ですから、やはり何も言えません。
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ここでは、なぜXが「わたし」にそういう態度をとるようになったか、については言及しません。こちらから始まったのか、向こうから始まったのか、今となっては分かりません。こういった現象には大体、過去からのボタンの掛け違い・からの蓄積、がパターンとなっていて、それが深ければ深いほど解くのが困難になっています。
「わたし」はある時、「こんな状態はもう、終わりにしよう!」思い立ったとします。
するとどんな戦略になるか。
朝、いきなり「Xさん、おはようございます!」と元気に声をかけます。
いきなりのことに訝るか、悪態が返ってくるか、それは分かりません。これは、一つ目の分岐点です。
「わたし」は(せっかくこっちから爽やかに挨拶してやったのに、なんだこの態度は)と考えて、いつも通りに戻る(惰性)こともできるし、石の上にも三年と思い、雨の日も風の日も兎に角、奥歯を噛みしめて繰り返し繰り返し、爽やかに挨拶し続ける(面倒くさい)こともできます。
一方で、Xの心理状態を想定してみます。
Xは大分、気分やさんで、その日の出来事ひとつで気分にムラが出るとします。
例えば朝の通勤中に、好みの異性に落としたものを拾ってもらい声をかけてもらえば、朝から有頂天で出社してくるし、不愉快な中年に足を踏まれて素知らぬ顔をされて出勤すれば、途端に不愉快な一日がスタートします。基本的に不愉快は蓄積されてしまうので、不愉快なまま出社したときに「わたし」と鉢合わせすると、ここぞとばかりに「わたし」を罵倒します。
キリがないのでこの辺で切り上げますが、他者との関係性のヒントを紐解いてみました。
ここまでのお話をまとめると、この「気分やさん」という人間の感情そのものについて、AIが完全な未来予測をすることは難しい、ということになります。
人間の選択分岐を木の枝のように延ばしてゆくパラレルワールドを、全網羅することがどれだけ難しいか、ということです。
「人間のパーソナリティという複雑性×いつどこで誰に出会うかという社会性」
この複雑性を時間軸に乗せても、その時の「今ココ」の出来事は「たまたま、偶然性」の中にある、と考える所以です。
総括すると人間社会では、生き抜くちからも、稼ぐちからも、「人間関係の摩擦の制圧力が比例する」ということが考えてみた結論になりました。そしてこれをまた、皆様がどう考えるか教えてもらおうと考え、発信に至りました。
タイトに軋轢を避けようとした人たちの結果が「少子化」という仮説。
生き残り戦略、成功戦略が、これからのAI時代という先も見据えたとき、「人間関係構築能力」が最適解という仮説。
辛い人生のほとんどが人間関係の摩擦ストレスによるものと仮定したときに、それへの対処としての方法の提起。
家庭と職場がほとんどの時間を占める中で、どちらも苦痛に満ちているのであれば、それは確かに絶望に繋がります。
そういう意味で、やはり子供の成育環境はとても重要です。逃げ道を塞ぐ手段は最悪ですが、生き延びる方法を教えてあげられない環境も、将来の芽を摘んでしまう可能性があります。筋力は急にはつけられないからです。いきなり谷底に落ちてしまったときに、這い上がる筋力がなければ地獄を味わうことになります。
「無関心」は優しさのときもあるし、悪手になる場合もあります。一概には言えませんが、私の耳から底辺層の悲鳴が消えることはありません。私には、彼らが悪態をつきながら「助けて」と叫んでいるように見えます。私にとって底辺層とは、自らを底辺だと自認できる層ではなく、例えば訴えられるリスクを負ってでもアンチ活動しなければならない、そういう精神状態に陥ってしまっている層です。そこまでしなければならないほどに追い詰められた人生がどのようなものかは、想像するしかありませんが、そういうことをする知能があるのであれば、後天的な環境による影響が想像できます。
底辺層に至る原因が、これらの仮説の中にあった場合は、「わたし」の能力の高低ではなく、不愉快な相手すらも転がす人たらし能力の高低にあったのかもしれない、これはすなわち「ゴマすり能力」です。
「ゴマすり」という言語を不快に思う人は多いと思いますが、人間社会ではこれが最適解ということになります。
「ゴマすり」≠不誠実
「ゴマすり」≒生きやすさ
と考えれば、イメージが変わるかもしれません。自分にゴマをすってくれる相手に、不快な思いをさせようとは思いません。
自分の正義感を貫きたくて、高圧的に指摘をしたくなるときは誰にもありますが、その時はブーメランが返ってくることを想定しないと、自分も傷がつくことになります。
本来はこのやり取りによって「学習」が進みますが、心は複雑なので、歪みやすくなります。
そういう意味で、心の教育は必修科目のように考えますが、とても繊細な問題だけに、触れてはいけないような聖域課題になってしまっており、これが総体の生きづらさの原因にもなっています。
いかがでしょうか。
余計な一言ですが、私のバイアスでひとつ付け加えておきますと、この繊細な心の機微を捕捉した「人たらし能力」に国民差はあるでしょうか、どうでしょうか。
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「ドラゴンクエストビルダーズ2」の感想。
セールになったら買おうかな、でも配信でやるのは先になりそうだ。 そう思っていたんですが、配信の最中に時間が余ったので少し体験版やってみる?の流れから某氏にGame Passを頂いてしまったのでせっかくならやろう!となったのがDQB2でした。
DQB1の頃から「色々作りたいなら2」と言われていたので、どんなものなんだろうと思っていましたがもの凄い進化に驚きました。 とにかく広い!そして人が多い!大物倉庫要らないの!?と驚きの連続。 たっぷり遊べる体験版たっぷり過ぎだろ!となってしまいました。 そりゃ続けてやるよね。
・ 最初の船 まさかあんな事になるなんて…な船長と初めての出会い。 前作から丁寧なチュートリアルでしたが、ここでもしっかり引き継がれていて嬉しかったです。 手袋やハンマーの使い方、茶目っ気のある魔物など。 最後に船が浸水して沈む所で、船長がさりげにシールドで守ってたのはそういう事だったんですね。
・ からっぽ島 前作の島がこんな荒れ果てた大地に?と驚き��した。 そして出会った最高の相棒!シドーって名前を聞けば誰もがあの破壊神の?と思いますが「実はゲーム内でもシドーって名前は出てないんだよね」といったレスにはハッとしました。DQ2はそうでしたよね! このゲームでもシドーという名前は魔物中でも一部の高官しか知らなかったようです。 そして生き残ったルルちゃんと三人の生活が始まります。 このルルちゃんも芯が通ってて良いキャラでしたね。料理は…はい。 特にシドーとルルちゃんの喧嘩するほどなんちゃらな関係は非常に見ていて微笑ましかったです。 しろじいも最初は精霊的な存在か前作のおおきづちの末裔的なヤツかと思ってました。
・ モンゾーラ島 えっ最初から食糧問題が解決!?と驚きを隠せなかった島。 そして前作のように「物を作れない呪い」があるのではなく、ハーゴン教によって物を作ってはいけないと教えられているから作れない、という落とし込みは見事でした。 今思えばハーゴンが作った幻の世界なんだから、ある意味で信じられている、信じ込みやすいというのは当然ではあったんですね。 この島はとにかくマギールさんが良いキャラをしていました。本当に。 あの家にあの本があったり、ラストに名前出てたり…ゲームクリアした人わたしがココで遊んでた時どんな顔してたんだよ…信じらんないよこの人達… しかもたっぷり体験版ってボス倒す前までなんでしょ。信じらんないよこの会社…
・ オッカムル島 罪をおっかむ…何でもないです。 えっもう鉄製品が作れるの!?と驚きを隠せなかった島。 あらくれは前作でも面白キャラクターでしたが、今回も良い味を出していました。 しかしゴルドンが全てもっていった感じしますね。 鉱石の要求量に吃驚しましたが、これもあらくれ達が手伝ってくれている感が強く出てて良かったと思います。 バニーガールとかトロッコとか印象に残っているイベントはいっぱいあるんですけど、ゴルドンが全部…いやゴルドンがさぁ…
・ 監獄島 正直ココは結構急な展開に感じました。 ただハーゴン教の教えやシドーくんの件、モンスターを仲間にするシステムなどで必要だったのは理解しています。 脱獄計画からの脱獄、実はバレてましたぶっ倒して終わり!も何となく味気なさを感じてしまいましたね。 この後に襲撃されるなら逃げ出すだけで追手が来たとかでも良かったのでは。
・ ムーンブルク島 えっ何でムーンブルクが!?と驚きを隠せなかった島。 だってDQ2じゃ完全に滅んでましたからね。まあハーゴンの幻なら滅ぼした張本人なのでそれもそうかという感じです。 でもムーンブルクって雪降ってたっけ…?と思いながらプレイしていました。 ここではゲーム内の謎に迫る話がいっぱい出てきました。 この前フリのためにも監獄島が必要なのは理解しています。 一番驚いたのはやっぱりロンダルキア抜けた後からの展開ですよね。ローレシアのアレも見事でした。 住民の例え幻でも、という決意や生き方も凄く良かったと思います。 システム的な話ですと、やれる事が増えたお陰が前作では壁やトゲぐらいしか防衛設備を使ってませんでしたが、今回はもの凄く防衛戦をしている感じがして良かったです。 DQB自体戦闘はシンプルになりがちですが、こちらでテコ入れしたのは良いですよね。
・ 破壊天体シドー 監獄島でモンスター仲間に出来るようになったけど、全然機会がないなぁ…と思っていたらとんでもない数の魔物が仲間になった! トントン拍子で仲間になっていきますが、今更ココでゴネてる場合か!という力強さを感じざるを得ませんでした。 とにかくメタッツの可愛さよ。 絶対誰かいなくなると思っていました。何なら私を送り届けてくれるまでに全滅するかもと戦々恐々でした。 ありがとうキラーG…死んだあとすぐ喋るじゃん… 滅びを迎える世界で、滅びに疑問を持ち、あるいは生き残りたいために物を作っていましたが、作っていくうちに作るのが楽しくなっていったり、壊すことと作ることは一緒なんだと思い至ったり… この章は作品のテーマを強く説明しているように感じました。
・ ラスト やっと出来たハイタッチ、シドーくんが作ったやくそう、ハーゴンも幻の世界をビルドしていたという諭し、シドーとハーゴンの決別、ラストのシドー戦、全て完璧でした。 正直このままシドーくんも消えてしまうのでは、とずっと思っていましたが信じてよかったDQB2! からっぽ島でルルちゃんが消えゆく人達をずっと励ましていた、という話も凄くらしさがあって良かったですよね。 ずっと三人で戦ってたんだなぁって感じがして好きなエピソードです。 …ここまででチュートリアルってマジ話なんです?
凄く良い作品でした。 チュートリアル終了時点で書く物でもない気はしますが。 正直、シナリオが気になりすぎて寄り道を一切していないので、それを含んだお話を出来ないのが残念な所。 DQB1から本当にまっすぐ進化した期待を裏切らない完璧な続編だと思います。 まだまだ話は気になりますし(特に箱舟の件)おまけやシークレット、自分の家もみんなの家も直してあげたいしで暫く配信外で触る日々が続きそうです。
改めてこのゲームを勧めてくれた「」さん、遊ぶ機会を設けてくれた某氏、配信を見てくださった方々やネタバレ禁止タグなしなのにずっと空気を読んでくださった「」さん達、本当にありがとうございました。 最高のゲームを最高の環境で遊べたと思っております。
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alues3117 · 2 years
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#七尾市矢田町 大型住宅❗️#4月より法改正で、住宅ローン控除の対象になり、#ますます中古住宅が買いやすくなりました‼️ #七尾市は中古住宅はけっこうありますが、築年数が古いのがほとんど 築25年以内の程度のよい中古はなかなかありません そんな中、今回 #築25年ですぐすめる大型住宅住宅が登場しました! ◎#おすすめポイント *#一部リフォーム、ハウスクリーニング済なので、そのまま快適にすぐに住めます! *#新築で建てるよりもはるかにお手頃に大きめのマイホームが手に入ります #insta#l4l *#いまの低金利のローンなら、家賃並の月々6万円以内 ※6LDK 68坪 なかなか住めない大型住宅で高品質!まさに豪邸 ※#随所に収納も豊富で、L型対面キッチン、明るいゆとりあるお風呂 #いかがですか!? #この場所・この環境に世界でココしかありません #将来が不透明、不確実、複雑、不安定、曖昧な時代(VUCAの時代) #自分たちが住みたい街に無理せず理想の住宅を手に入れる時(BMWの法則) #まずはご覧いただき、「いいなあ~ほしいなあ~住みたいなあ」と感じたら運命の物件(HISの法則) #70%のヒトが物件を見た時点で買うか、 決めています(バルコニーの法則) #しかも買うヒトほど早い決断です=その日か翌日(即断即決の法則、衝動買いの法則) #まさに決断の時 https://www.instagram.com/p/Ccw3UO6rgrm/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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charlietokyojp · 5 years
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【ゲスト投稿】Cambridge Brain Sciencesのスコアと感想
チャーリー様
初めまして。いつも楽しい記事をありがとうございます。
私は都内に住む30代の専業主婦です。 一ヶ月半程前からCambridge Brain Sciencesをゲーム感覚で繰り返し楽しんでいます。 今までゲームはスマホでパズルゲーム、結構前にテトリスを少ししたくらいです。 ■REASONING ODD ONE OUT:30(上位0.1%) POLYGONS:108(上位0.91%) SPATIAL PLANNING:144(上位0.00%) FEATURE MATCH:247(上位0.11%) ROTATIONS:294(上位0.06%) ■Verbal DOUBLE TROUBLE: 105(上位0.07%) どれもあと少しはスコアを伸ばせそうな気がしますが、ここから大きく変わる事は無さそうです。 SPATIAL PLANNINGは一番得意ですが考えてやっているような、 あまり考えずにやっているような不思議な感覚です。 ODD ONE OUTは初めの頃スコア16程で、それからありとあらゆる実験&失敗をして学び、 一ヶ月かかってようやく30まで来ました。 結晶性知能が流動性知能を支えるとはこういう事かと実感しています。 数ヶ月前にしたiqtest.dkは初回126、2回目で133でしたので流動性知能は特別高い訳ではないようです。 ROTATIONSは、かなりの方向音痴で時々地図を見た上で違う方向に進むようなタイプなので、 最初はかなり下位にいましたがコツを掴んでからは出来るようになりました。 と言っても、難易度が上がるとFEATURE MATCHの差異での判断をする感じで、油断していると前半の空間がある時の方が間違えやすいです。
偽方向音痴なのか、マレなタイプなのかは分かりませんが、 もし繰り返す事で空間認識能力が上がり(目覚め?)方向音痴か少しでも改善されるならせっせとやっていた甲斐があります。 Cambridge Brain Sciencesは小学校の授業等で取り入れたら面白そうですね。 ゲーム感覚で出来ますし、勉強嫌いな子供でも良いスコアが出れば自信に繋がり、 ちょっとその気になって何か勉強してみようかなと思えばしめたもので、周りも本人も気が付かなかった才能が開花しそうな気がします。
超遅咲き(?)の私はいつかwais-Ⅳを受けてみようと思っているのですが、 動作性で少々稼いだとしても絶望的な記憶力、暗算力でどこまででも転がり落ちて行きそうな予感しかしません。 かなり視覚優位、と言うか聴覚での処理が弱すぎるのを自覚しているので、 同じ作動記憶でも、視覚でのCambridge Brain SciencesのSPATIAL PLANNINGは一番得意、 聴覚でのwaisの算数、数唱は恐らく一番苦手となりそうなのでそれも又興味深いです。 昔から記憶力が悪く勉強が苦手で(いかにして勉強をしないで済むかと考えているような子供でした) それなのにCambridge Brain SciencesはMEMORY系以外は割りと良いスコアが出るので、自分に何か問題があるのではないか?しかし日常生活で困る事が無く、これは一体何なんだと気になり過ぎて(笑)、少し前に臨床心理士の方に話を聞いてもらいました。 “自分の特性をよく理解しており、対処の仕方(記憶力に自信がないのでマメにメモを取るようにする等)も分かっているので困る事が無いのであろう” との事でした。 自分の特性を理解していない、又理解はしているが対処の仕方が分からない人が日常生活に困るのであって、 困っていないのであれば問題は無いし、そもそも綺麗にピシッとバランスが取れている人はほとんどいないと聞き、 考えてみたらまぁそうなのだろうという感じですが、とても納得しました。 又、私にはハイリー・センシティブ・パーソンという程ではありませんが、 眩しい光が苦手、聴覚過敏、嗅覚過敏、正しく読み取れているかは別として、人の僅かな表情の変化でビクビク、緊張してしまうところがあります。 臨床心理士の方にも重度には見えないと言われましたし、 正しく読み取れているか分からないというのが POLYGONS、FEATURE MATCHの0.1%をなかなかきれない所に表れているのだろうなと考えています。 POLYGONSは一番苦手で、コツを掴むというより、気付くか気付かないかそれに尽きる気がします。 Cambridge Brain Sciencesは脳トレのような知能テストのようなものですが、 今まで気が付かなかった自分の特性も発見出来てとても面白いので是非沢山の人にプレイしてもらいたいです。 頭を使う事によって今まで眠って(サボって)いた他の能力が引っ張り出される事を期待して、 今後も定期的に続けて行こうと思います。 以上、長くなってしまいましたが私なりの感想、スコアのご報告でした。少しでもお役に立てたら嬉しいです。
最後に、この投稿がチャーリーさんの見立てを根底から覆す事になるようでしたら申し訳ないです(苦笑)
 こんにちは。
 「iqtest.dkは初回126、2回目で133でした」という点と、ODD ONE OUTのスコアから、「流動性知能は特別高い訳ではないようです」ということはないと思います。
十分に高いと考えてイイんじゃないでしょうか。
その水準を「普通」や「やや高い」くらいに設定すると、本当に普通な人達が境界域にまで下がりかねません。
 以前の投稿でROTATIONSと地図を絡めましたが、地図を見るにもある程度慣れが必要なので、ROTATIONSと同じくらい地図を眺めていたら、すぐにでも得意分野になるだろう気がします。
世界共通のようで、女性は地図は苦手、機械は苦手が当たり前という環境で育った人が多く、実際にそういう女性が多いのは、能力的なことよりも習慣的影響(性格形成)が強いと思っています。
その分男性は地図が苦手、機械が苦手だと格好悪いと思い、メンツを保つためにも女性に触らせない人も多く、ますます女性はそれらに触れる機会が減ります。
ナビが搭載されるまでは、車の運転に地図は付きものだったため、運転自体が男性領域であった時代が長かったことから、女性と地図が引き離されていただけのように思います。車に限らず船も飛行機もですね。必然的に機械類も。
「車庫入れが下手」という説も、ぶつけた時にパートナーから怒鳴られたりバカにされたり、呆れられたりすることが怖いから等の不安に加え、(これまでのほとんどの女性は)自分の収入で買った車ではないから(夫や彼、或いはお父さんの大切なものだから)慎重になりすぎるという要素が深く関わっていると思っています。
女性の場合は、能力開発よりもそういった習慣を取り払うことの方が大変だと感じています。性格を変えるに等しい作業ですから。
男性は「あれならオレにもできる」と思ってやってみたら、そうでもない人が多く(ダニング=クルーガー効果)、女性は「なぜか結構できた。ってことは他の人はもっとできるってこと?」と捉える傾向があります。
※結果的にその謙遜や謙虚さによって近くにいる男性達は「顔が潰れた」と受け止めるわけですが。
特に日本人女性は謙虚で一歩下がって男性を立てる振る舞いを理想とされてきたため、自分の能力を発揮しようとしないどころか、平凡な男性よりも更に自分を下に位置づけている人もたくさんいます。
そういう環境で自分が優れていることを意識し出すと、男性を立てて下手に出ている自分がバカバカしくなりストレスになってしまうので、いっそ本当にそうなってしまった方が楽という合理的選択を行っている場合も多々あります。知らず知らずのうちに。
脳を守るための��レーカー的機能でもあります。
山口女史のように女性がハイスペックを名乗ればまだまだリスク(?)が高い時代ですので、自分のキャラクター設定をどうするかは、本人が描く人生のストーリー次第といったところですね。
大人になってキャラを変えるには、引っ越しして転職でもしない限り無理そうな人も沢山います。周りがこれまでのキャラに引きずり戻そうとしますから。
 私も小さい頃、「いかにして勉強をしないで済むかと考えているような子供」そのものでした。
資格試験を受けてみるようになって気付きましたが、参考書1冊中に毎回数カ所の間違いを見つけます。中には長らく修正されていなかったものもあり、初学でこんな間違った説明を読んだらますます解らなくなるだろうと思うことが山のようにあります。
今だからこそソレが間違いだと認識しながらも受け流すことができますが、こう見えても割と素直だった私の小さい頃は、ワカラナイ自分の理解力不足だと処理していました。
人によって勉強しない理由は沢山あり、能力、才能・知能とはあまり関係ありません。それよりも思考の癖や習慣による性格の影響が大きいと思います。
未だに私は本・参考書は間違っている前提で読んでしまい、1文1文を読むのが非常に遅く、何度も確認しながら読んでしまいます。疲れるのでよっぽど用がない限り全く読みません。
インターネットがなかったら全く活躍できなかっただろうと自分で思います。
 知覚が敏感な人は、大凡それは生得(遺伝)的なものなので、反応が良すぎるアンテナはノイズも沢山拾います。それを遮断するためのフィルタリング(前述の「いっそ本当にそうなってしまった方が楽という合理的選択」につながります)を覚え、スペック(仕様)を遙かに下回る状態で自分を稼働させていたりします。
「0.1%をなかなかきれない所に表れている」は恐らく気にしすぎです。残りの99.9%の人が全て誤認というわけではありませんので(笑)。
 Cambridge Brain Sciencesは、認知機能をとても繊細かつ敏感にキャッチしています。上位2%を過ぎた当たりからは、専門職に就いていない限り、通常の生活ではあまり必要としないどころか、前述のノイズに悩まされる原因となる可能性があります。
そこから先はメンタルや思考の癖、習慣、周囲の理解等によって活かせる・活かせないが決まってくるため、知能を含めた認知機能の問題は、より性格側に近づいていき、最後は自分との戦いになります。
この関係は、『なぜ知能と評価は直結しないのか。教養と肩書き。』を読んでいただけたらと思います。
高い知覚性能(ハードウェア)を活かすためには、優秀なソフトウェアが必要であり、ここで言うソフトウェアとは性格や認知(感情を含みます)です。
臨床心理士の方が言われた「そもそも綺麗にピシッとバランスが取れている人はほとんどいない」とはそういうことも含めてでしょう。
IQ 120を超えたあたりから、性格や認知がボトルネックになり、「仕様」を活かしきれないことの方が多いと私は思っています。
車や機械、地図などに対する習慣を取り払えるかもそうですし、謙虚・謙遜の在り方や最適なバランスを見いだし保てるかもそうです。社会との関係性なくして成功はありませんし。
日本人女性の場合は、まずは何か得意なことを見つけ自信を付けることからだと思いますし、それを機に高いレベルの人達に囲まれることで(段階的に環境の平均を上げていき)、「自分」を出しやすくなっていけば(居心地が良く認知がスマートになっていけば)、「本領発揮」の日が近づいていると考えて良いのではないかと思います。
「認知がスマートに」とは、(上手く行けば)自分の高い能力を素直に自覚・認識することで、謙虚な振る舞いに割く時間が減り、代わりに責任感が増すなどの変化が見られます。「これは自分の仕事」「ここからはあなたの仕事」という具合に、責任分界点の線引き(役割分担、合理化)のようなもので、『嫌われる勇気』で言うところの「私の課題ではありません」的なソレです。失敗すれば傲慢になるだけなのは言うまでもなくです。
 というわけで、ココから先は「認知とは」という線上に立たれているように感じました。
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karasuya-hompo · 5 years
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RDR2:71:6章入り口手前
 ヘルキュールの手配した船で無事にアメリカに戻ってきたアーサー一行。  アーサーさんが卸してもらったのは……
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 ちょ、遠くね!?  というヴァンホーンでした……いやマジなんつーかもっと南のほうへ……。  しかも馬屋とかは全部 鍵マークがついていて利用不可。まさかここから歩いてシェイディベルまで……。
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 と思った目の前にいたら、さすがに乗るよな:( •ᾥ•):  ハンガリアンハーフで、まだ乗ったことない毛色だったのでラッキーです。ところで俺のくろたまちゃんはどうしたんだろうか(´・ω・`)  と思いつつ移動中、流れる歌。えーっと……ここってそんなにエポックメイキングなタイミングだっけ?? という違和感が強くてちょっと取り残された気がしてしまいました。  一応、仲間はバラバラ、ホゼアとのチームでついてきてたアビゲイルがどうなったのかとか、チャールズは無事なんだろうかとか、ダッチはあんな調子でマイカは”ダッチの仲間”かもしれないけどダッチギャングの他の仲間のことはどうとも思ってないと明らかになってるし、アーサー的に、これからどうなるか見通しがますます暗く不安が強まるのは間違いないのですが、ここでなんか感動的な歌流すのは変じゃね? このうたがフィットした人は、どんな気分でこの道のりを進んだのかなぁ。  ちなみに自力(+シネマ)での移動は途中までで、ある程度行くとイベントでの帰還になりました。
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 シェイディベルはもぬけの殻ですが、セイディが残した「タキトゥスおじさんへ」という偽物の手紙により、彼等がどこに行ったかが知れます。  そこにピンカートンが見回り的ななにかにやってきたので、ひとりずつさくっとステルスキルし、馬のサドルバッグはちゃっかりあさって、あと、モーガンか……。一応跨るだけ跨っておこうかな。どの毛色のに乗ったことがあるのかとか、マジでうろ覚えなのでね。
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 そして今度はラカイ、ラグラスの沼地の南のへーほうへ。
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 この白黒ハンガリアン、なかなか可愛いからこのまま自分の馬にできないかなぁと思うけど、アメペがまだ親密度2程度で馬屋にいるからなぁ。
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 と思いつつついた、仮の拠点。ピアーソーン!!。゚(゚´ω`゚)゚。 アビゲイルも無事ですが、ジョンが捕まってるとなると心中穏やかではないでしょうな。  セイディが皆をまとめて……というか叱咤してってとこな気もしますけど、シェイディベルを脱出、今までここに隠れていたとのこと。ううむ、1章でひょっこり加わった「夫をコルム一味に殺された未亡人」が、まさかここまで強く関わってくるとは、2章の時点、3章頭とかではまるっきり思えませんでしたな。てかどんな女傑。  で、ここで衣装も自動的に、強盗スタート直前に着ていたものに変更、お気に入りのバッグも装着。  で、ダッチも戻ってきて、……ビルも来たはいいけど、「そこらじゅうで聞いて回ってやっと見つけた」って…… 馬 鹿 な の ……?(≖_≖╬) いや、今更か。馬鹿なんだもんな。こういうことやらかしといて、「俺は馬鹿じゃない」とか、マジでなに言ってんだこのおっさんは……(ಠᾥಠ)  というわけで案の定ピンカートンの連中に襲撃されました。
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 マイカがビルを撃ち殺さないのが不思議だけど、ダッチギャング的にはそういう身内のいざこざは戒める掟があるわけで。もっと後にも出てきますけど、それをダッチの見ているところで破るほどマイカは馬鹿ではないか。腹は出てるしデベソだけど(←  さて、ここで出てるミッションは2つ。一つはセイディとともにジョンを助けに行こうというもので、もう一つはダッチ。こういうときは、ダッチのほうに声をかけるとシナリオが大きく進みがちだし、つーか馬鹿ジョンをほっとくわけにもいかんだろ( ・ὢ・ )マッタク モウ  しかしダッチは、ジョンの救出は後だと言います。ほっといたら絞首刑にされるのに、と訴えても、考えてはいるから待て、と。  そんなこと言われてもなぁ。むかーしのダッチの言うこと、むかーしのもっと状況や環境が味方してた頃ならともかく、今はそんなこと言って待ってられないでしょ。「ジョンは絶対に死なない」というメタ的な視点はさておけば。
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 というわけで先にジョンの救出のため、サンドニの酒場にいるセイディのところに行くことにしました。  くろたま~~~っ、無事だったか~っ。゚(゚´ω`゚)゚。 というわけでブラッシングしてごはんあげてなでなで。あの混乱でいったい誰がご丁寧に馬を全部ここまでされてきたのかとか言っちゃダメなんだろうなやっぱり。  まあ俺のくろたまちゃんはな、俺を慕って、他の仲間の馬がいるところに行けば俺もいるはずだと、自分でここまで来てくれるかもしれないしな。馬を大事にしてるメンバーなら、みんなそんな感じかもしれませんが。  ところでマイカって、銃にはすげー執着してましたけど、あの青毛ミズーリ(らしいですね)はどうなんだろ。愛馬として大事にしてるのか、能力が高いから満足してるだけなのか、ドウグとしか思ってないのか。
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 と、やってきたサンドニ……とうとうか……。  ここまでも咳き込むことが増えてきてたし、そもそも私はこの展開知ってるので驚きはしませんけど、途中で咳き込んで落馬。ついに血を吐きます。
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 親切な通りすがりのおじさんが、大丈夫か、と声をかけ、医者はこっちだぞ、あと少しだからがんばれ、と励ましてくれます。ささやかな親切だけど、ただ通り過ぎていく人もい都会で、優しい人もいるんだな。
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 診察~。そして結核と判明。この当時は不治の病に等しいし、「暖かくて乾燥した場所でゆっくり療養すれば」と言われても。「ああ。じゃあカリフォルニアに~、とか、そんな場所(も暇も金も)ねぇよ!!」みたいに言うアーサーでした。
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 一種の死亡宣告受けたも同然。  そして、ローズで出会った黒人のお医者さんの言ってたこともこの伏線ですよね。「ちょっとした病気には効くけど、持続性のあるものには効かない。でも貴方にはそんな心配ないですよね」。
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 ふらーっと無人の町を行くアーサー。これはイメージ、心象の世界なわけで、実際にはぶつかりそうになって慌てて避けてる人とかいそう。
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 歩きながら、以前に言った言葉、聞いた言葉が頭をよぎります。  そして、現実に引き戻される前に見かけたのは鹿。  鹿って、聖なるなにか、神性の象徴かなにかで、時々洋ドラとか洋画にも出てきますね。ハン���バルにもたびたび出てきたなぁ。  なお、名誉が低いと、出てくるのは黒猫? 聞こえてくる言葉も別のものだとか。さて、自分でここまで進めたから、ネタバレの動画も見るぞ(๑•̀ㅂ•́)و✧  「エリアを出ろ」というならついでにとセイディのいる酒場に向かっていたので―――茫然自失に近いアーサーならふらーっと目の前の道を直進しそうなものですがw、そこはほれ、プレイヤーのメタ視点。  ジョンはサンドニの東に浮かぶ島、シシカ刑務所にいるとのこと。状況を知るためには偵察の必要があるのだけど、島には近づけても内部を調べるのは無理。じゃあどうするのかと言えば、
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 気球でした。気球に乗ってるサムネは見たことあるから、後半のどこかで乗るのは知ってたけど、これか!!
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 セイディは行かないんだって(´・ω・`) まあ小さい気球だし、あんまり乗ると重くて遅くなりそうだけどさ。
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 こういう変なものは、こんな目的のためじゃなくて、変人の趣味に付き合う形で乗りたかったなぁ……(´・ω・`)
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 アーサーさん高所恐怖症じゃなくて良かったなw
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 ふわ~んと島に近づき、「なにしてるんですか、そんなことしちゃいけませんよ危ない!」というアルトゥーロはシカト。ただの観光みたいなものだと言ってあるのでね。  でもここから、シマノ中にいるジョンを探し……畑仕事中か。  ―――ところで、グアーマにいた時間って髭の伸び方からして一週間やそこらはたってると思うんだけど、さすがに「捕まえて即処刑」ではなかったってことか。まああのリンジーも、捕まえてからゲーム内日数でだいぶ経過してるしな。とはいえダッチギャングは今かなり注目されてるんだから、ジョンが普通の囚人と同じ扱いってのも変な話しですけどね。 独房監禁で拷問されてるとか、もっとハードなあれやそれはなかったのだろうか。……まあいいけどさ、ジョンが普通に畑仕事とかさせられてそこそこつつがなくムショ暮らししてたなら。
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 見つかって銃撃されたので、慌てて引き返してアンスバーグのあたりに来ました。  そしたら今度は、セイディが何者かに追われつつ銃撃してて……ピンカートンかと思ったら、コルム一味……。あーもうあーもう、こんなときくらい自分の恨みちょっと棚上げするとかできんのかあの女は!! 見つかってどうこうじゃないだろこれ。ジョンを助けたいとか言ってて結局それは「自分のことがないならって条件つきの片手間」でしかないってわけ? で、俺が必死にその尻拭いして実行役になって……。  最近ダッチも冷たいし、なんかヤな奴になっちゃってるし、マイカみたいな野郎重用するくらい物事見えなくなってるし、トラブルの尻拭いしまくっててもなにか俺がミスしてるみたいに言われるし、……くろたまちゃんと一緒に出て行って、どこか静かなところでメアリーと療養生活送りたい……。゚(゚´ω`゚)゚。  まあでも結核がうつるってことは分かってるわけだから、……って、なのにギャングにとどまって普通に交流してるってのも自他共どうかって気もしますけど、メアリーにうつすこととか、メアリーに自分の看病っていう重荷背負わせることとか、もしそうなったらやっぱりごめんイヤだわグッバイってならないかなって不安とかもないとは言えない……。  でもさぁ、面倒見てやらなきゃ、一人前に育ててやらなきゃっていう可愛い弟分はふたりともいなくなっちゃったし、ジョンはなんのかんの手数かけさせられてるけどそういう自分の責任背負えない子供でもないし、ビルあたりにはいい加減失望してるだろうし、ハビアとかチャールズの面倒見るって意識はないだろうし、とすると女たちってことかもしれないけど、それだけじゃとどまる理由にならない気が。  何故見限らんのだろうか。
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 なんて思いつつも、アーサーさんはプレイヤーよりも素でお人好しなのでね、どう見ても。セイディの「愛ゆえ」の暴走も許しちゃうんでしょう。  そして自分は、グアーマでの時間もあって、最小体重に。ガリガリにはならないけど、これはもうだいぶ筋力とかも落ちてきた感じ。
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 通りすがりの変な人をブッチャーズクリークに届けました。突然掴みかかって来られたり……悪魔憑き、みたいなあれかな。ここに変な小屋あるのは知ってるんだ~。そういや見に行ってないけど、まあいいか。
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 そしてアンスバーグのイーディス、Mrs.タウンズのところへ。  客引きしてますな。サンドニからこっちにまた落ちてきたのか。このへん、日記ちゃんと読んでないと、アーサーがなんで突然ダウンズ夫人に謝りだすのか、分かりづらいですね。病気になって、避け得ない死を覚悟したことで、これまでもたびたび考えてきた「俺は悪人だ。いいことしたいとは思うのに」みたいなゆらぎに、決着がついたんでしょう。  息子はどうした、と尋ねると、鉱山でいびられつつ働かされてると教えられるので、助けに行きます。  母親に比べると息子のほうがまだしも柔軟で、「この金持って、母親とどっかに逃げろ」と言うのにも逆らいません。
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 新しい新聞も購読。  レニー19際、ホゼアは推定55際とのこと。そういや、彼等の遺体は安置所から盗んできて埋葬した、とか言ってましたね。……そんなことできるのに、なんで大きな金のかかった仕事ではことごとく失敗するんだ。  犠牲者出しつつ大金手に入れたかと思えば船でばらまき、沈没して失い、残った文も使い果たし、ここまで運が悪いと、いっそご都合主義( ・ὢ・ )  単行での事故については、息子のアーチーくんが働いてる鉱山がろくな場所じゃないってことと、文明の発展に伴う鉱山開発のマイナス面の表れですな。
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 このへんのギャング団的なものであるマーフリー・ブルードについての記事……食人とか、マジであいつらキ印山男系か。  そして、そんな暗いニュースの中での唯一の慰めは、メイソンだ!! メイソンの写真展が大成功したんだって!! コヨーテ、狼、馬、ワニ、鷲。俺が見かけたやつだな~。「危機一髪の状況をなんでもくぐり抜けた」って、俺のおかげだよなっ。  よかった……ちゃんと認められてほんと良かったなっ。゚(゚´ω`゚)゚。メイソン ゲンキデナー
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 そして次はココの「?」。以前に立ち寄ったおうちの傍ですな。なにもなかったし、入れもしなかったんだけど。
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 行ってみると、お墓の前に女性が一人。新墓っぽいです。  聞けば、シカゴだっけか。第日問を離れて自然の中での生活を夢見、カルという名の夫と二人でやってきたけど、自然はそんなに甘くなかった、と。まあ野山駆けまわったこともない生粋の都会人が、いきなり山の中来たってな。なにが食えるのかも、食い物の手に入れ方も分かるまい。現代でもあるあるですな。田舎暮らしとか、良い面だけ魅せられて憧れたって、そんなに楽しくも豊かでもないし、そのためには相応のスキルや経験が必要なんよ。
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 そんなご藤にを助けることにしました。狩りの基本を教えてあげようと、まずは皮剥の仕方。獲物自体は、アーサーがぱすっと仕留めます。
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 「持って足のほうからズルッと!」って、そんなわけねぇだろ!! てツッコミ入れたいんてすけど、ほんとにウサギの皮ってそれだけで剥げるの……?  えっと……ええっと、こ、こう……かしら? くらいの覚束なさで、なんとか皮剥に成功。これはまだ続くヤツですね。
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 ウサギ一匹いれば数日は食べられるだろう、とのことで、おうちまでお見送り。  ついでに旦那のこと聞くと、クマに襲われたそうです。……う、うん、そりゃ俺でもヒギョエエェェェってなるシチュだ:( •ᾥ•):  ちなみに、馬はもうくろたまちゃんだけに乗ることにしました。結核で、療養生活送るつもりないというか送れないというかで、どころか過酷な生活は変わらない=命縮めるだけなのも目に見えてるわけですよ。もう長くないって思ったら、少しでもくろたまちゃんと一緒にいたくて……(´・ω・`)  アメリカンペイント捕まえてきて間もないけどさ……たしかに、ふらふらと気ままに放浪する気分でもない、というか、それやってると物語に対する没入感がどんどん薄れて、ひたすらメタになりそうで。「主人公が進まなければなにも起こらない」を、死病に対しても実行するわけです。ここから先に進みさえしなければ、これ以上は誰も死なないし何事も起こらないしアーサーも死なないっていう。  けどそういうメタやるなら、やっぱり4章のラスト前が限界です。そこならまだ、結核の決定的な発作(?)が出てないので、「そうやってのんびりしてるから進行しない」とも思えるし。  そーいや、結核って潜伏期間がまちまちで、人によっては感染はしても発症はしないこともある病気もはず。免疫力の低下が引き金になることがあるので―――コルム一味に捕まって拷問されて、へろへろになって逃げ出して数週間寝込んだこと。あれが引き金だったんじゃないかって気がします。あそこで明らかに弱ってしまったから、発症したんじゃないか、と、これはあのイベント終わったときからずーっと思ってました。  アーサーが初めて咳き込むのはブロンテの屋敷の前だったような記憶ですし。
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 それからまたタウンズ夫人がらみ。アンスバーグのアーチーくんから、母親が知らない男と町のはずれに行った、と。やっぱり素直に頼る気にはなれないアーチーくんですが、母親の無事には変えられないし、彼のほうがまだしも、アーサーの改心を素直に受け止める余裕がある感じ?  そしてイーディスを助けだしたのですが……「私を助けようなんてしないで。そんなことより他の人を救って。自分自身を救って」と言われました。  アーサーとしては、あんたを助けて許してもらいたくてやってるわけじゃない、と言います。嫌われていていいしそれで当然だけど、自分のせいでより不幸になった人がいて、少しでもその境遇から出させてやることはできるのに、黙って見ていたくはない、と。  押し問答の末、俺を許さなくていいから、とにかくこの金を手にして二人でどこかへ行ってやり直すんだ、と90$。死んだ旦那を生き返らせることはできないからって、自尊心のためとかで、やり直すチャンス、息子の未来まで台無しにしてどうすると。  ところで、ダウンズ夫についても、日記で「自分も飢えていたのに、貧しいもののために懇願していた」と、彼の善意を認める記述をしてます。……いやまあでも借金あるのにそれは偽善めいたものがないかなと思うなぁ我が輩。  ただ、レオポルドの金貸しは、「俺に返せるとは思わなかっただろうに」と、ウィンストンでしたっけ。ウィリンとんでしたっけ。白クーガーの猟師が言ってたとおり、返せない相手と分かってて貸してる節があるので……。それでも、借りるほうも借りるほうだと言えますけど。  でも仮にアーチーくんが病気になっててその診療費が必要だとなったら、返せるかどうか考えずとにかく借りようとしても無理はないだろうし。で、借りてみたら思ってたよりも高利で返せなくなり? あまりにもひどい高利だとすると、自分の時間フルに使って稼いだって返せない可能性はあって、だったらもう一家全員飢え死にするか夜逃げするか踏み倒すかなわけで。  そのへんどうなんですかね。
 というあたりで、実はまだ6章が始まってないことに気付きました。  そうか、ダッチのほうのミッションで次の拠点に移動してからか。  そのため、ジョンの救出もこのままでは発生しないようなので、いよいよ次は6章突入です。
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eccjrtamuracho · 11 years
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まつもと式こどもディベート道場in香川のお知らせ
朝晩はすっかり冷え込むようになってきた今日この頃。 ハロウィンパーティーが終わり、ほっと一息・・・つく間もなく、 やる事盛りだくさんな毎日です さて。 今日は11月に行う一大イベントのお知らせです。 Facebookの教室ページではもうお知らせ済みで、 既にぼちぼちと皆さまからの反響を頂いております、 まつもと式こどもディベートin香川です。
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日時:11/23(金・祝) 10:00~16:30 場所:善照寺(香川県丸亀市柞原町596)  Google Mapでご確認されるかたは  ココをクリック! 対象:小学校4年生~中学3年生 (小3生や高校生でご希望の方は、別途ご相談ください。) ※保護者の方の参加は ご遠慮頂いております。 参加費:以下参照。 時期を同じくして、香川を皮切りに兵庫や東京でも開かれます。 さて、今回のこどもディベート道場、これまで関西圏や東京では行われてきていますが、 香川は勿論、地方では初めて?になるかと思います。 この全国版のチラシだけでは恐らく詳細が分からない方も多くいらっしゃるでしょう。 というわけで、私がどういう想いでこの道場を香川に呼んだのか、 そんなことを色々綴った別チラシを作っております。 で!! その特製チラシを見て申込みの方は、今回は、四国初上陸ということで、 香川での道場のみ、参加費3000円(通常は3500円のところ)で開催する事にしました 一人でも多くの方に体験してほしいという思いでの特別価格です。 (ただし、兄弟割引に関しては、全国価格と同じです。 ご兄弟二人参加なら5,000円、三人参加なら6,000円となります。) また、これから共にディベートを広めていくという意味で、指導者見学をして頂く事も可能なのですが、こちらも通常3,500円のところを、3,000円でご参加頂け入るようにしました!! そのチラシ、ほしい!と言う方、またこどもディベートについて、もっと詳しく知りたい!という方、 香川での道場に関してのお申込み、お問い合わせは、ECCジュニア田村町教室のHPのお問い合わせフォームからお気軽にどうぞ! さて、その特製チラシには私の熱い想いが色々と込められた長文が記載されております。(笑) 今回は、その内容をこのブログでも紹介させて頂こうと思いました。 お時間ある方、どうぞ続きを読んでみてくださいね か~な~り、長いのでご覚悟を!笑 ●100%の正解を求める教育 先日、小学生レッスン前のちょっとした時間で、ある生徒がなぞなぞを出しました。とても面白そうだったので、皆で考えてみよう!と声をかけました。小学生のどんな発想が出るかワクワクする間もなく、子どもたちの口から出た言葉は、ものの3秒後に「答え教えて~。」でした。「いやいや、ちょっと考えてみようで!」と言って、講師である私も「こうじゃない?」と考えられる答えを出していきます。その間、出題者の生徒も、皆が「分からん」と言う度に「答え言おうか?」と繰り返します。私が3,4個、答えている間、生徒たちから出てくる案はゼロ。私の答えに、多少乗っかってくる程度でした。最終的に、これだ!という答えに自分でたどり着いたとき、私は年甲斐もなく大喜びだったのですが、生徒たちは、「あ~、そっか。」で終わり。なんともそっけないものでした。 自分の答えに自信がないとき、例え頭の中で「こうかな?」と思っても、それを決して口に出さない子が結構います。日本の教育現場で行われているテストは殆どが減点方式。100%の解答があり、そこから間違いを減点していきます。テストの点が90点なら、子どもたちは出来なかった10点の部分ばかりを、周囲の大人から指摘されがちです。“間違えるのはよくない”と小さい頃から叩き込まれ、“これが答え、そしてその解き方”と教え込まれる。だからこそ“絶対の答え”がないと不安になる、小学校の低学年生でも、そんな子が多くいます。 ●答えのない問題を考える力はありますか?  なぞなぞの様子を見ながら、私は心の中で「この子たちは自分の頭であれこれと思索を巡らし、紆余曲折を経て問題解決へ向かっていく」、そうした考える楽しさを知らないのだなと、ふと思いました。と同時に、この子たちがこのまま考える喜びを知らず、考える力を身につけないまま社会に出たら、一体どうなってしまうのだろうと危機感を覚え、ぞっとしました。  当然のことながら、社会に出れば答えのない問題の方が多いのです。仕事にしたって、自分で一からプランを立てなければならないこともあるでしょう。用意された答えなどなく、周囲とあれこれやり合いながら自分たちで答えを作り出していく作業なんて、いくらでもあります。或いは賛否両論ある社会問題について、自分の考えを表明することもあるでしょう。何を聞いても「さぁ。」「分からん。」「別に。」では当然やっていけないのですが、さて子どもたちとのやり取りをしていると、こうした答えが実に多いことが分かります。 ●考える方法は自然には生まれないのです。  答えを与えられることに慣れている子どもたちは、自分の好みで見聞きした情報や知識を、ある種の“答え”として鵜呑みにしがちです。あるクラスで、一つの論題について賛成か反対かに分かれ、その理由を述べると言うゲームをしたことがあります。一人の生徒は、自分が見聞きしたことを「こんなことが言われていて・・・」と、まぎれもない事実のように語った後、そこで話がストップしました。その“事実”と思われることを賛成なら賛成、反対なら反対の論拠として持ちこませる間もなく、自分で何が言いたいのかが分からなくなってしまったのです。ある情報に触れた時、そこに何の疑問を持つこともなく、そうなのだ!と取り入れてしまう。それに対して、何故?もない。真実かどうかの精査もないまま、あたかも自分の意見として刷り込まれた情報を、自分の言葉で論拠として語られなければならなくなったとき、当然のことながら、その“情報”と主張したい意見が論理的に全く繋がらないわけです。  こういう子たちが頭が“悪い”と言われているかと言うとそんなことはなく、むしろ学校の成績はすこぶる良いという場合が多いです。では何が問題か。それは、考え方を教わっていないことと、考える訓練が足りない、ということです。周囲の大人に「考えて」と言われ、分からないと答えると「よく考えて」と言われる。それでだめなら「もっとよく考えて」、しまいには「真剣に考えて」などと言われる。でも、子どもたちは言われれば言われるほど訳が分からなくなるだけです。何もない所から勝手に考える力は生まれません。最初の足掛かりとして教わらなければならない“方法”があり、それを用いてまずは考える型に慣れる。そこから型がやぶれ、様々な考えができるようになるものです。型はあるから破ることが出来る、即ち自由な発想、考えが浮かぶのであり、最初に教わるべき型、方法がなければ、それはただの“型なし”です。今の子どもたちは型なしのまま「考えてみろ」と言われている。訳が分からないから“型に見えるような情報”を取り入れてはみるものの、それをどう使えば良いかも分からない、「何か言ってみろ」と言われ、切羽詰まって出た言葉は頭から否定される。で、何もせずに黙っていれば、いずれ“答え”と言われるものを教えてくれる、という状況でしょう。これでは、当然ながら考える力は育たないわけです。 ●脳と心を鍛えるディベート  さて、私が教えている英語という言語は、言語自体が非常に論理的な仕組みになっているし、話を論理的に展開したい時に、とても使いやすい言語と言えます。主語と動詞を最初に明言し、因果関係をはっきりさせる作りになっているのです。(論理的思考が出来るようになると、英語力が伸びると言われています。)そんな英語を教えることを生業としながら、先に書いたような生徒たちを日々目の当たりにしてきました。その度に、このままではいけないのではないかという思いを強くしていきました。この子たち、英語が使えるようになったとしても、人間として社会に出たとき、或いは世界中の多様な人の中でうまくやっていかなければならなくなったとき、間違いなく太刀打ちできないな、と。子どもたちのために私に出来ることは何だろうと悶々としている時に出会ったのがまつもと式ディベートでした。  ディベートとは、広義においては、ある論題に対して異なる立場に分かれて議論すること、です。異なる立場に立つという点で、ディスカッション、即ち単なる議論、意見交換とは異なります。もちろんアーギュメント、口論でもなく、ソフィスティック、詭弁とも違います。特に教育ディベートと呼ばれるものに関しては、議論において守るべきルールが設定されています。更に、参加者の意思とは関係なく、自分の役割が与えられます。そして、第三者によって勝敗を決定する、いわばスポーツ、ゲームなのです。そんなディベートによって、以下のような力がつくと言われています。 • 問題意識を持つようになる。 • 自分の意見を持つようになる。 • 情報を選択し、整理する能力が身に付く。 • 論理的にものを考えるようになる。 • 相手(他人)の立場に立って考えることができるようになる。 • 幅の広いものの考え方、見方をするようになる。 • 他者の発言を注意深く聞くようになる。 • 話す能力が向上する。 • 相手の発言にすばやく対応する能力が身に付く。 • 主体的な行動力が身に付く。 • 協調性を養うことができる。 (出典:Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88 ) ●「知性と感情」の両方を使い対戦するサッカーディベート  そんなディベートの中でも、私が出会ったのがまつもと式ディベート。これはかつてアメリカ大使館で同時通訳を務め、後にNHKのテレビ上級英語講座で講師も務めたこともあり、現在、国際ディベート学会会長でもある松本道弘先生が考案した、別名「サッカーディベート」とも呼ばれるものです。(松本先生に関することはコチラのサイトをご覧ください。 http://www.english-kodokan.com/kodokan-02.html )このディベートの特徴は、論理と論理をぶつけ合い、相手をやりこめるだけのディベートではないと言う点です。人間には感情というものがあります。時にはやっかいなものですが、感情が動くからこそ人は納得します。まつもと式ディベートでは、論を立てて闘わせることに加え、情理で人に訴えかけるという役があるのです。人は論理だけでは、動きません。松本先生曰く、「説得しても人は動かない。納得すると人は動く。」と。これは、自身の経験に照らし合わせても、大きくうなずけることです。一方、感情だけで自分の意見を押し通そうとする人、皆さんの周りにもいらっしゃるかもしれません。しかし、そういう方の意見というのは、感情が先走るあまり、聞いていても何を言いたいのかが良く分からないことがあります。また感情をぶつけるのみでは、問題が解決されないことも、経験則で分かるかと思います。では、「論理」と「情理」を両方とも使いこなせるようになると、どうなるでしょうか。私は、実際にこのまつもと式ディベートを何度も体験する中で、全く違う出自、環境、国、宗教の下で育ってきた全く違う価値観の人間とコミュニケーションをとる上でも、このスキルは間違いなく役に立つ!そして、子どもたちが考える力をつけ、考えたことを言葉で外に出せるようになる、その訓練としてぴったりだと確信したわけです。松本先生は大人の英語学習者に対しても「英語よりもまずディベートを学んだ方が近道」と提唱されています。ディベートの試合では、読み・書き・傾聴・発言・強調生・思いやりの全てを駆使して戦います。まさしくこれはスポーツなのです。これを続けていくことが、こども達のさまざまな能力を高めていくのです。 ●まつもと式こどもディベート道場  そんなまつもと式ディベートを子どもに教え、実際に体験させるのが、今回企画した「まつもと式こどもディベート道場」です。子どもたちは、相手の意見をよく聞き、「論理」と「感情」を理解し、「あたま」と「こころ」で対話のボールをすばやく返す訓練をします。実はこのまつもと式こどもディベート道場、MBS放送土曜朝の情報番組「知っとこ」で、6月に放送された「ここまできた!こどものお稽古最前線」という特集の中で紹介されました。もしかすると番組を見た方もいらっしゃるかもしれません。ゲームを終えた子どもたちの感想がとても印象的です。「ディベートおもしろかった!」、「質問に答えるところがおもしろかった。」、「学校では意見を言っても却下されることがあるけど、ここでは何でも言えるから楽しい。」といったものです。そう、子どもたちは正しく方法を教えてもらえば、自分で考え、意見を言うことができる、その発想を大きく拡げることができるのです!こんな体験をどんどん積んでほしい!しかし、これまでは東京や関西圏でしか道場が開催されたことはありませんでした。さすがに、子どもたちを向こうに連れていくのは厳しい、ならば講師の方を香川にお招きすればいい!!そう思い立ち、11月、よう��くここ香川での開催が可能となりました!! ●強く「まつもと式ディベート道場」をお勧めするわけ  学校の勉強、資格試験の勉強、それも勿論大切です。(学校の勉強や企業の就職面接にも当然、ディベートは役立ちます。でも、そのためだけにディベート道場をお勧めするのではありません。)私は、自分の生徒たちがそれだけで終わってほしくはありません。物事を論理的に考えることができ、もちろん人の心も大切にする、そんなコミュニケーションのとれる大人になってほしい!ましてや英語を勉強している子どもたちです。日本国内は勿論、世界中どこへ行っても通用する大人になってほしい!そう切に思っています。そのために私に出来ることは何か?その模索の結果がこのまつもと式こどもディベート道場です。  いずれは香川でも定期的に開いていきたいと考えていますが、まずはこの道場のこと、その理念を皆さんに知ってもらいたいと思っています。今回、連休初日、しかもほぼ一日という長い時間にはなりますが、是非とも多くの方に参加して頂けることを願ってやみません!!  ご不明な点、ご質問などありましたら、お気軽にお尋ねください! ---------------------------------- というわけで、まぁなかなか、読むのも大変な内容でございます。 すみませんm(__)m でも!本当に!! 私にとってはそれだけ強い気持ちで企画していることです 教室生や近隣のECCジュニアの先生方にも協力を頂いておりますが、 ジュニア生以外の参加も、勿論大歓迎!! 多くの子どもたちの参加を待っています さてさて。 今週一週間、田村町教室はレッスンお休みです。 生徒の皆さま、教室に来ないように気をつけてくださいね~
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izmsao · 4 years
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夢の話
睡眠は人間(自分)にとって必要な物であるとちゃんと認識してココ最近は自ら睡眠は取ろうと試みてはいるものの、身体はそうそう動いてはくれない。
「身体は睡眠を欲しがっているのに、意識が落ちてくれない」が、主に私の睡眠障害で、一旦意識さえ落ちてくれたらそこから普通の人と変わらず、むしろ時には寝すぎなくらい眠れる。要は「眠れるまでが長い」タイプ。
別にこのご時世「睡眠障害」なんて珍しい事ではないし、薬に頼って身体が楽になるのであれば大いに使うべきだと思う。昔は睡眠時間を削りに削って自分のやりたいことを最優先させたものの、近年の自分の身体は年齢にしてはガタ的なものを感じるのは気の所為ではない、と思う。多分。そして原因は少なくとも睡眠を蔑ろにしてきた結果なのでは?と自分で結論づけた故の今の「睡眠優先」の生活。睡眠を蔑ろにしていた時よりもずっと物事の判断は正常というか、なんというか、世の中の言う「正常」に近いというか(私自身あまり「世の言う「正常論」」を好んではいないが)穏やかな日々になっている気がする。
前フリが長い
で、何が言いたいかと言うと冒頭の「夢の話」
私は前略記述の通���「意識が落ちない、眠りにつけないタイプ」なだけであって、睡眠自体に問題はない。一旦眠ってしまえば夜中にトイレで起きることもなく、悪夢だからと途中で目が覚める事もほとんどない。ただ、途中覚醒は無いものの、睡眠時間はまちまちで一般と変わらないものの、眠りが浅いのか毎日常にほぼ夢をみている。内容は覚えてることもあるし、覚えていなくてただ「夢をみていた」という事実だけを覚えていることもある。ほとんどが後者で、よっぽど強烈な夢でない限りは「今日も夢みたなぁ」くらいの認識で、別になんてことはない。
ただ、今日は違った
暑かった。ただ暑くて暑くて、気持ちが悪かった。
元々少しでも寝る環境がブレてしまうと途端に睡眠の浅さは断トツに変わってしまう。最近で言えば夏が近く、家はエアコンで冷えた状態。少しでもエアコンを遮断して自分の部屋の扉を閉めて寝ると、途端に暑くて目が覚める時もあった。暑いだけならいつもの(時々)起こること。だけど今日は違った、暑くて意識が起きてきた瞬間、同時に気持ちの悪さも込み上げてきた。
体調が悪いだとか、どこかの身体の器官がおかしいじゃない。そういう気持ち悪さじゃなくて、なんだかこう、分からない。この気持ち悪さを正確に伝えられる言葉を私は知らない。でも、気持ち悪い、不快感。微睡み状態のままでなるのは初めてで、起きてる時には絶対感じる事のない異常な気持ち悪さ。でも私は一旦意識が落ちてしまうと眠りは浅くても覚醒することがあまりない。厳密に言えば「自分で目を醒めさせる行為」が得意ではない。だから微睡み状態のまま、暑さと初めて感じた気持ちの悪さをどうにか逃がそうともがいていた。微睡み状態だと私の体感、1番夢を見る。その時も夢を見ながら身体は熱を気持ち悪さをとにかく解消しようともがいていた。
その時見た夢は「忘れてしまう」夢だった
「何か」への感触を、自分は体験して覚えているはずの感触なのに、どうしても、どうしても思い出せない。知っている感覚、触ったことがある。絶対に知っている。言葉として理解し引き出せるはず、なのに思い出せない。それを周りにいた友人に縋って「自分は知ってるはずなのに思い出せない、教えて」と懇願する、そんな夢だった。その、思い出せない事とその感触がずっと身体を這って離れず、そのズレが私の感じた「気持ち悪さ」だった。気持ち悪かった。本当に気持ちが悪かった。結局無理矢理身体を起こして、身体を冷やして、夢から醒めて現実世界でゆっくり意識を整えたが、その「何か」の感触を忘れてしまった。落ち着いたからか身体に這っていた感触はほぼ抜けきってしまった。そして結局思い出せないまま。
夢の中で懇願した友人は「お前は知ってるだろ」なんて笑っていうものだから。そんな事は分かっている、でも答えを教えて欲しかった、と言いたいが所詮は夢で、結局自分自身が分かっていない脳内処理の夢が答えを教えてくれるわけはなかった、と今冷静になって思う。
寝苦しいを通り越した気持ち悪さだったし、あの体験はきっと起きてる時には得られない感覚。時間を見れば2時間程しか眠れていなかった。しかしその起きる直前から急に湧いてきた気持ち悪さでもがく間、2時間よりもっともっと長い気がした。自分にとっては軽い地獄だった。
元々記憶力がないのは自覚している。周囲も知っている人は知っている。でも今回こんな経験(?)をして、落ち着いた今、改めて「忘れてしまうこと。思い出せないこと」の怖さが少し蘇ってしまった。あまりにも強烈すぎて、まるで認知症ってこんな感じなのかと思ってしまった。自分の中では他にない、何かがあったのかなというか…何かが起こったのか起こる前なのかは分からないけれど、そんな気がしないこともない。ま、大体いつもこう考える時には何もないが1番で、大体何もないんですけれども笑
こうして文字を残さない限り、絶対に私はこれも忘れてしまうと思ったから一応書き起こししてみたけれども、お察しの通り文章はままならない。身体は落ち着いても頭はまたあの「感触」が這いずるんじゃないかと不安はあると言えば少しある。
でも睡眠は大事で、質を求めることが難しいなら量を増やすしかない。という脳筋戦法でこれからもう一度寝ようと思う。一昨日から今日にかけていつ自分が眠ったのか思い出せないし、昨日に至っては結局寝ることは出来ず、起き続けた充電切れからの2時間程度睡眠。身体がもたない😇
長々と語ってきておいて、ここで今日(昨日)の日常をば……
昨日免許更新に行ってきた時の空をぱしゃり
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夏が間近に感じられる空が陽射しが嬉しかったです。
1時間講習を受けたんですけど、その時のビデオが前回見た時よりずっと面白くなってて、居眠りしようかと思ってたんですが居眠りなくてもめちゃくちゃ楽しめました。あと法的改���もあるのでしっかり知識としていれておかなくてはなぁ、と改めて。
普段、車で生活してる訳じゃないんですけども(車持ってない)、仕事の時ちょくちょく社用車を乗り回す事が多いので……いくら自己責任でも、仕事場には迷惑かけたくないものです
そして体調も良くなってきて、晩御飯を久しぶりに家族と焼肉行きました。肉!肉!
超絶品お気に入りの近くのちょっと良い焼肉屋さんです☺️
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本当に美味しかった……
普段、アナログ絵とかの写真はめちゃくちゃ下手くそなんですけど、料理の写真の撮り方だけ何故か異常に上手いんですよね…笑
美味しそうに撮れたと思います(自画自賛)
そして味も最高でした✨ 量はそこまで食べなかったんですが、 最近のコロナ自粛からの久しぶりに外食で、良い気分転換になりました。また機会があったら定期的にゆっくり食べに行きたいです
それでは早めにおやすみなさい
(2020/07/02 02:23:55)
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sasakiatsushi · 7 years
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小説家蓮實重彦、一、二、三、四、
人間に機械を操縦する権利があるように、機械にもみずから作動する権利がある。 ーー『オペラ・オペラシオネル』ーー
一、
 二朗は三度、射精する。そしてそれはあらかじめ決められていたことだ。  一度目の精の放出は、ハリウッドの恋愛喜劇映画を観た帰りの二朗が、小説の始まりをそのまま引くなら「傾きかけた西日を受けてばふりばふりとまわっている重そうな回転扉を小走りにすり抜け、劇場街の雑踏に背を向けて公園に通じる日陰の歩道を足早に遠ざかって行くのは和服姿の女は、どう見たって伯爵夫人にちがいない」と気づいたそばから当の伯爵夫人にまるで待ち構えていたかのように振り返られ、折角こんな場所で会ったのだしホ���ルにでも寄って一緒に珈琲を呑もうなどと誘いかけられて、向かう道すがら突然「ねえよく聞いて。向こうからふたり組の男が歩いてきます。二朗さんがこんな女といるところをあの連中に見られたくないから、黙っていう通りにして下さい」と、なかば命令口調で指示されて演じる羽目になる、謎の二人組に顔を視認されまいがための贋の抱擁の最中に起こる。
 小鼻のふくらみや耳たぶにさしてくる赤みから女の息遣いの乱れを確かめると、兄貴のお下がりの三つ揃いを着たまま何やらみなぎる気配をみせ始めた自分の下半身が誇らしくてならず、それに呼応するかのように背筋から下腹にかけて疼くものが走りぬけてゆく。ああ、来るぞと思ういとまもなく、腰すら動かさずに心地よく射精してしまう自分にはさすがに驚かされたが、その余韻を確かめながら、二朗は誰にいうとなくこれでよしとつぶやく。
 なにが「これでよし」なのか。ここは明らかに笑うべきところだが、それはまあいいとして、二度目の射精は、首尾よく二人組を躱したものの、ホテルに入るとすぐに新聞売り場の脇の電話ボックスに二朗を連れ込んだ伯爵夫人から先ほどの抱擁の際の「にわかには受け入れがたい演技」を叱責され、突然口調もまるで「年増の二流芸者」のようなあけすけさに一変したばかりか「青くせえ魔羅」だの「熟れたまんこ」だの卑猥過ぎる単語を矢継ぎ早に発する彼女に、事もあろうに「金玉」を潰されかけて呆気なく失神し、気がつくと同じ電話ボックスで伯爵夫人は先ほどの変貌が夢幻だったかのように普段の様子に戻っているのだが、しかしそのまま彼女のひどくポルノグラフィックな身の上話が始まって、けっして短くはないその語りが一段落ついてから、そろそろ「お茶室」に移動しようかと告げられた後、以前からあちこちで囁かれていた噂通りの、いや噂をはるかに凌駕する正真正銘の「高等娼婦」であったらしい伯爵夫人の淫蕩な過去に妙に大人ぶった理解を示してみせた二朗が、今度は演技と異なった慎ましくも本物の抱擁を交わしつつ、「ああ、こうして伯爵夫人と和解することができたのだ」と安堵した矢先に勃発する。「あらまあといいながら気配を察して相手は指先を股間にあてがうと、それを機に、亀頭の先端から大量の液体が下着にほとばしる」。  そして三度目は、伯爵夫人と入れ替わりに舞台に登場した「男装の麗人」、二朗への颯爽たる詰問ぶりゆえ警察官ではないにもかかわらず「ボブカットの女刑事」とも呼ばれ、更に「和製ルイーズ・ブルックス」とも呼ばれることになる女に案内されたホテルの奥に位置する「バーをしつらえたサロンのような小さな空間」ーー書棚がしつらえられ、絵が飾られ、蓄音機が置かれて、シャンデリアも下がっているのだが、しかしその向こうの「ガラス越しには、殺風景な三つのシャワーのついた浴場が白いタイル張りで拡がっており、いっさい窓はない」ことから戦時下の「捕虜の拷問部屋」を思わせもするーーで、この「更衣室」は「変装を好まれたり変装を余儀なくされたりする方々のお役に立つことを主眼として」いるのだと女は言って幾つかの興味深い、俄には信じ難い内容も含む変装にかかわる逸話を披露し、その流れで「金玉潰しのお龍」という「諜報機関の一員」で「かつて満州で、敵味方の見境もなく金玉を潰しまくった懲らしめの達人」の存在が口にされて、ひょっとしてこの「お龍」とは伯爵夫人そのひとなのではないかと訝しみつつ、突如思い立った二朗は目の前の和製ルイーズ・ブルックスをものにして俺は童貞を捨てると宣言するのだが事はそうは進まず、どういうつもりか女は彼に伯爵夫人のあられもない写真を見せたり、伯爵夫人の声だというが二朗の耳には自分の母親のものとしか思われない「ぷへーという低いうめき」が録音されたレコードを聞かせたりして、そして唐突に(といってもこの小説では何もかもが唐突なのだが)「こう見えても、このわたくし、魔羅切りのお仙と呼ばれ、多少は名の知られた女でござんす」と口調を一変させてーーここはもはや明らかに爆笑すべきところだが、それもまあいいとしてーー血塗れの剃刀使いの腕を自慢するのだが、その直後におよそ現実離れした、ほとんど夢幻か映画の中としか思えないアクション場面を契機に両者の力関係が逆転し、言葉責めを思わせる丁寧口調で命じられるがまま和製ルイーズ・ブルックスは身に纏った衣服を一枚一枚脱いでいって最後に残ったズロースに二朗が女から取り上げた剃刀を滑り込ませたところでなぜだか彼は気を失い、目覚めると女は全裸でまだそこに居り、これもまたなぜだか、としか言いようがないが、そもそも脱衣を強いた寸前の記憶が二朗にはなく、なのに女は「あなたさまの若くて美しいおちんちんは、私をいつになく昂らせてくださいました。たしかに、私の中でおはてにはなりませんでしたが、久方ぶりに思いきりのぼりつめさせていただきました」などと言い出して、いまだ勃起し切っている二朗の「魔羅」について「しっかりと責任は取らせていただきます」と告げて背中に乳房が押しつけられるやいなや「間髪を入れず二朗は射精する」。  帝大法科への受験を控えた二朗少年のヰタ・セクスアリスとして読めなくもない『伯爵夫人』は、ポルノグラフィと呼ばれてなんら差し支えないあからさまに助平な挿話とはしたない語彙に満ち満ちているのだが、にもかかわらず、結局のところ最後まで二朗は童貞を捨て去ることはないし、物語上の現在時制においては、いま見たように三度、何かの事故のようにザーメンを虚空にぶっ放すのみである。しかも、これら三度ーーそれもごくわずかな時間のあいだの三度ーーに及ぶ射精は、どうも「金玉潰しのお龍」が駆使するという「南佛でシャネル9番の開発にかかわっていたさる露西亜人の兄弟が、ちょっとした手違いから製造してしまった特殊な媚薬めいた溶液で、ココ・シャネルの厳しい禁止命令にもかかわらず、しかるべき筋にはいまなお流通しているもの」の効果であるらしいのだから、しかるに二朗は、一度として自分の意志や欲望の力によって己の「魔羅」に仕事をさせるわけではないし、彼の勃起や射精は、若く健康な男性の肉体に怪しげな薬物が齎した化学的/生理的な反応に過ぎないことになるわけだ。実際、物語上の時間としては過去に属する他の幾つかの場面では、百戦錬磨の女中頭の小春に技術を尽くして弄られようと、従妹の蓬子に「メロンの汁で手を湿らせてから」初々しくも甲斐甲斐しく握られようと、二朗は精を漏らすことはないし、ほとんど催すことさえないかのようなのだ。  つまりここにあるのは、その見てくれに反して、二朗の性的冒険の物語ではない。彼の三度に及ぶ射精は、詰まるところケミカルな作用でしかない。それでも三度も思い切り大量に放出したあと、二朗を待っているのは、今度は正反対のケミカルな効用、すなわち「インカの土人たちが秘伝として伝える特殊なエキスを配合したサボン」で陰茎を入念に洗うことによって、七十二時間にもわたって勃起を抑止されるという仕打ちである。三度目に出してすぐさま彼は「裸のルイーズ・ブルックス」にその特殊なサボンを塗りたくられ、すると三度も逝ったというのにまだいきりたったままだった「若くて元気なおちんちん」は呆気なく元気を喪い、更には「念には念を入れてとスポイト状のものを尿道にすばやく挿入してから、ちょっと浸みますがと断わって紫色の液体を注入」までされてしまう。サボンの効果は絶大で、二朗の「魔羅」はこの後、小説の終わりまで、一度として射精もしなければ勃起することさえない。物語上の現在は二朗がケミカルな不能に陥って間もなく終了することになるが、それ以後も彼のおちんちんはまだまだずっと使いものにならないだろう。七十二時間、つまり三日後まで。そしてこのことも、ほとんどあらかじめ決められていたことなのだ。  『伯爵夫人』は小説家蓮實重彦の三作目の作品に当たる。一作目の『陥没地帯』は一九七九年に、二作目の『オペラ・オペラシオネル』は一九九四年に、それぞれ発表されている。第一作から最新作までのあいだにはじつに三十七年もの時間が経過しているわけだが、作者は自分にとって「小説」とは「あるとき、向こうからやってくるもの」だと言明しており、その発言を信じる限りにおいて三編の発表のタイミングや間隔は計画的なものではないし如何なる意味でも時期を心得たものではない。最初に『陥没地帯』が書かれた時点では『オペラ・オペラシオネル』の十五年後の到来は想像さえされておらず、更にそれから二十二年も経って『伯爵夫人』がやってくることだって一切予想されてはいなかったことになるだろう。偶然とも僥倖とも、なんなら奇跡とも呼んでしかるべき小説の到来は、因果律も目的意識も欠いた突発的な出来事としてそれぞれ独立してお���、少なくとも「作者」の権能や意識の範疇にはない。第一、あの『「ボヴァリー夫人」論』が遂に上梓され、かねてよりもうひとつのライフワークとして予告されてきた映画作家ジョン・フォードにかんする大部の書物の一刻も早い完成が待たれている状態で、どうして『伯爵夫人』などという破廉恥極まる小説がわざわざ書かれなくてはならなかったのか、これは端的に言って不可解な仕業であり、何かの間違いかはたまた意地悪か、いっそ不条理とさえ言いたくもなってくる。仮に作者の内に何ごとか隠された動機があったにせよ、それは最後まで隠されたままになる可能性が高い。  だがそれでも、どうしてだか書かれてしまった「三」番目の小説である『伯爵夫人』が、「二」番目の『オペラ・オペラシオネル』から「二」十「二」年ぶりだなどと言われると、それを読む者は読み始める前から或る種の身構えを取らされることになる。なぜならば、ここにごく無造作に記された「二」や「三」、或いはそこからごく自然に導き出される「一」或いは「四」といった何の変哲もない数にかかわる、暗合とも数秘学とも、なんなら単に数遊びとでも呼んでしかるべき事どもこそ、小説家蓮實重彦の作品を貫く原理、少なくともそのひとつであったということがにわかに想起され、だとすればこの『伯爵夫人』もまた、その「原理」をほとんどあからさまな仕方で潜在させているのだろうと予感されるからだ。その予感は、すでに『陥没地帯』と『オペラ・オペラシオネル』を読んでしまっている者ならば、実のところ避け難いものとしてあるのだが、こうして『伯爵夫人』を読み終えてしまった者は、いま、読み始める前から或る独特な姿勢に身構えていた自分が、やはり決して間違ってはいなかったことを知っている。二朗が射精するとしたら、三度でなければならない。二朗が不能に陥るとしたら、三日間でなければならないのだ。では、それは一体、どういうことなのか?  どういうことなのかを多少とも詳らかにするためには、まずは小説家蓮實重彦の先行する二作品をあらためて読み直してみる必要がある。数遊びは最初の一手からやってみせなければわかられないし、だいいち面白くない。遊びが遊びである以上、そこに意味などないことは百も承知であれば尚更、ともかくも一から順番に数え上げていかなくてはならない。そう、先回りして断わっておくが、ここで云われる「原理」とは、まるっきり無意味なものであるばかりか、おそらく正しくさえない。だが、意味もなければ正しくもない「原理」を敢然と擁護し、意味とも正しさとも無縁のその価値と存在理由を繰り返し強力に証明してきた者こそ、他ならぬ蓮實重彦そのひとではなかったか?
二、
 小説家蓮實重彦の第一作『陥没地帯』は、あくまでもそのつもりで読んでみるならば、ということでしかないが、戦後フランスの新しい作家たち、誰よりもまずはクロード・シモンと、だいぶ薄まりはするがアラン・ロブ=グリエ、部分的にはモーリス・ブランショやルイ=ルネ・デ・フォレ、そしてジャン=ポール・サルトルの微かな影さえ感じられなくもない、つまりはいかにも仏文学者であり文芸批評家でもある人物が書きそうな小説だと言っていいかもしれない。日本語の小説であれば、これはもう疑いもなく、その五年ほど前に出版されていた金井美恵子の『岸辺のない海』へ/からの反響を聴き取るべきだろう。西風の吹きすさぶ砂丘地帯から程近い、こじんまりとした、さほど人気のない観光地でもあるのだろう土地を舞台に、ロマンの破片、ドラマの残骸、事件の痕跡のようなものたちが、ゆっくりと旋回しながらどことも知れぬ場所へと落ちてゆくのを眺めているような、そんな小説。ともあれ、冒頭の一文はこうだ。
 遠目には雑草さながらの群生植物の茂みが、いくつも折りかさなるようにしていっせいに茎を傾け、この痩せこけた砂地の斜面にしがみついて、吹きつのる西風を避けている。
 誰とも知れぬ語り手は、まずはじめにふと視界に現れた「群生植物」について、「その種類を識別することは何ともむつかしい」のみならず、「この土地の人びとがそれをどんな名前で呼んでいるのかは皆目見当もつかないだろう」と宣言する。結局、この「群生植物」は最後まで名前を明かされないのだが、そればかりか、物語の舞台となる土地も具体的な名称で呼ばれることはなく、登場人物たちも皆が皆、およそ名前というものを欠いている。この徹底した命名の拒否は、そのことによって否応無しに物語の抽象性を際立たせることになるだろう。  もっとも語り手は、すぐさま次のように述べる。
 何か人に知られたくない企みでもあって、それを隠そうとするかのように肝心な名前を記憶から遠ざけ、その意図的な空白のまわりに物語を築こうとでもいうのだろうか。しかし、物語はとうの昔に始まっているのだし、事件もまた事件で特定の一日を選んで不意撃ちをくらわせにやってきたのではないのだから、いかにも退屈そうに日々くり返されているこの砂丘でのできごとを語るのに、比喩だの象徴だのはあまりに饒舌な贅沢品というべきだろう。いま必要とされているのは、誰もが知っているごくありふれた草木の名前でもさりげなく口にしておくことに尽きている。
 だから実のところ命名は誰にでも許されているのだし、そこで口にされる名はありきたりのもので構わない。実際、わざわざ記すまでもないほどにありふれた名前を、ひとびとは日々、何のこだわりもなくごく普通に発話しているに違いない。そしてそれは特に「群生植物」に限らない話であるのだが、しかし実際には「誰もが知っているごくありふれた」名前さえ一度として記されることはない。凡庸な名前の、凡庸であるがゆえの禁止。ところが、ここで起きている事態はそれだけではない。かなり後の頁には、そこでは弟と呼ばれている誰かの「ここからでは雑草とちっともかわらない群生植物にも、ちゃんと名前があったんだ。土地の人たちがみんなそう呼んでいたごくありきたりな名前があった。でもそれがどうしても思い出せない」という台詞が記されており、もっと後、最後の場面に至ると、弟の前で幾度となくその名前を口にしていた筈の姉と呼ばれる誰かもまた、その「群生植物」の名を自分は忘れてしまったと告白するのだ。つまりここでは、名づけることのたやすさとその恣意性、それゆえのナンセンスとともに、たとえナンセンスだったとしても、かつて何ものかによって命名され、自分自身も確かに知っていた/覚えていた名前が理由もなく記憶から抜け落ちてゆくことのおそろしさとかなしみが同時に語られている。ありとあらゆる「名」の風化と、その忘却。覚えているまでもない名前を永久に思い出せなくなること。そんな二重の無名状態に宙吊りにされたまま、この物語は一切の固有名詞を欠落させたまま展開、いや旋回してゆく。そしてこのことにはまた別種の機能もあると思われるのだが、いま少し迂回しよう。  右の引用中の「物語はとうの昔に始まっているのだし、事件もまた事件で特定の一日を選んで不意撃ちをくらわせにやってきたのではないのだから」という如何にも印象的なフレーズは、語句や語順を微妙に違えながら、この小説のなかで何度となく繰り返されてゆく。これに限らず、幾つかの文章や描写や叙述が反復的に登場することによって、この小説は音楽的ともいうべき緩やかなリズムを獲得しているのだが、それはもう一方で、反復/繰り返しという運動が不可避的に孕み持つ単調さへと繋がり、無為、退屈、倦怠といった感覚を読む者に喚び起こしもするだろう。ともあれ、たとえば今日という一日に、ここで起こることのすべては、どうやら「昨日のそれの反復だし、明日もまた同じように繰り返されるものだろう。だから、始まりといっても、それはあくまでとりあえずのものにすぎない」という達観とも諦念とも呼べるだろう空気が、そもそもの始まりから『陥没地帯』の世界を覆っている。  とはいえ、それは単純な繰り返しとはやはり異なっている。精確な反復とは違い、微細な差異が導入されているからではなく、今日が昨日の反復であり、明日が今日の反復であるという前後関係が、ここでは明らかに混乱を来しているからだ。この小説においては、物語られるほとんどの事件、多くの出来事が、時間的な順序も因果律も曖昧なまましどけなく錯綜し、あたかも何匹ものウロボロスの蛇が互いの尻尾を丸呑みしようとしているかのような、どうにも不気味な、だが優雅にも見える有様を呈してゆく。どちらが先にあってどちらがその反復なのかも確定し難い、起点も終点も穿つことの出来ない、方向性を欠いた反復。あたかもこの小説のありとある反復は「とうの昔に始まって」おり、そして/しかし、いつの間にか「とうの昔」に回帰してでもいくかのようなのだ。反復と循環、しかも両者は歪に、だがどこか整然と絡み合っている。しかも、それでいてこの小説のなかで幾度か、まさに不意撃ちのように書きつけられる「いま」の二語が示しているように、昨日、今日、明日ではなく、今日、今日、今日、いま、いま、いま、とでも言いたげな、現在形の強調が反復=循環と共存してもいる。それはまるで、毎日毎日朝から晩まで同じ演目を倦むことなく繰り返してきたテーマパークが、そのプログラムをいつのまにか失調させていき、遂にはタイマーも自壊させて、いま起きていることがいつ起こるべきことだったのかわからなくなり、かつて起こったことと、これから起こるだろうことの区別もつかなくなって、いまとなってはただ、いまがまだかろうじていまであること、いまだけはいつまでもいまであり続けるだろうことだけを頼りに、ただやみくもに、まだなんとか覚えていると自分では思っている、名も無きものたちによるひと続きの出し物を、不完全かつ不安定に延々と繰り返し上演し続けているかのようなのだ。  二重の、徹底された無名状態と、壊れた/壊れてゆく反復=循環性。『陥没地帯』の舞台となる世界ーーいや、むしろ端的に陥没地帯と呼ぶべきだろうーーは、このふたつの特性に支えられている。陥没地帯の物語を何らかの仕方で丸ごと形式的に整理しようとする者は、あらかじめこの二種の特性によって先回りされ行く手を塞がれるしかない。「名」の廃棄が形式化の作業を露骨な姿態で誘引しており、その先では程よくこんがらがった毛糸玉が、ほら解いてみなさいちゃんと解けるように編んであるからとでも言いたげに薄笑いを浮かべて待ち受けているだけのことだ。そんな見え見えの罠に敢えて嵌まってみせるのも一興かもしれないが、とりあえず物語=世界の構造そのものを相手取ろうとする無邪気にマクロな視点はいったん脇に置き、もっと単純素朴なる細部へと目を向けてみると、そこではこれまた見え見えの様子ではあるものの、相似という要素に目が留まることになるだろう。  たとえば「向かい合った二つの食堂兼ホテルは、外観も、内部の装飾も、料理のメニューも驚くほど似かよって」いる。しかし「ためらうことなくその一つを選んで扉を押しさえすれば、そこで約束の相手と間違いなく落ち合うことができる。目には見えない識別票のようなものが、散歩者たちをあらかじめ二つのグループに分断しており、その二つは決して融合することがない」。つまり「驚くほど似かよって」いるのにもかかわらず、二軒はひとびとの間に必ずしも混同を惹き起こしてはいないということだ。しかし似かよっているのは二つの食堂兼ホテルだけではない。他にも「まったく同じ様式に従って設計されている」せいで「どちらが市役所なのか駅なのはすぐにはわからない」だの、やはり「同じ時期に同じ建築様式に従って設計された」ので「旅行者の誰もが郵便局と取り違えて切手を買いに行ったりする学校」だのといった相似の表象が、これみよがしに登場する。建物だけではない。たとえば物語において謎めいた(この物語に謎めいていない者などただのひとりも存在していないが)役割を演じることになる「大伯父」と「その義理の弟」と呼ばれる「二人の老人」も、しつこいほどに「そっくり」「生き写し」「見分けがつかない」などと書かれる。  ところが、この二人にかんしては、やがて次のようにも語られる。
 あの二人が同一人物と見まがうほどに似かよっているのは、永年同じ職場で同じ仕事をしてきたことからくる擬態によってではなく、ただ、話の筋がいきなり思わぬ方向に展開されてしまったとき、いつでも身がわりを演じうるようにと、日頃からその下準備をしておくためなのです。だから、それはまったく装われた類似にすぎず、そのことさえ心得ておけば、いささかも驚くべきことがらではありません。
 先の建築物にしたって、後になると「二軒並んだ食堂兼ホテルは、いま、人を惑わすほどには似かよってはおらず、さりとてまったくきわだった違いを示しているわけでもない」だとか「学校とも郵便局とも判別しがたく、ことによったらそのどちらでもないかもしれぬたてもの」などといった書かれぶりなのだから、ここでの相似とは要するに、なんともあやふやなものでしかない。にしても、二つのものが似かよっている、という描写が、この物語のあちこちにちりばめられていることは事実であり、ならばそこにはどんな機能が託されているのかと問うてみたくなるのも無理からぬことだと思われる。  が、ここで読む者ははたと思い至る。相似する二つのものという要素は、どうしたって「似ていること」をめぐる思考へとこちらを誘っていこうとするのだが、それ自体がまたもや罠なのではないか。そうではなくて、ここで重要なのは、むしろただ単に「二」という数字なのではあるまいか。だってこれらの相似は難なく区別されているのだし、相似の度合いも可変的であったり、そうでなくても結局のところ「装われた類似にすぎず、そのことさえ心得ておけば、いささかも驚くべきことがらでは」ないというのだから。騙されてはならない。問題とすべきなのは相似の表象に伴って書きつけられる「二」という数の方なのだ。そう思って頁に目を向け直してみると、そこには確かに「二」という文字が意味ありげに幾つも転がっている。「二」つ並んだ食堂兼ホテルには「二」階があるしーーしかもこの「二階」は物語の重要な「事件の現場」となるーー、市役所前から砂丘地帯までを走る路面電車は「二」輛連結であり、一時間に「二」本しかない。とりわけ路面電車にかかわる二つの「二」は、ほぼ省略されることなく常にしつこく記されており、そこには奇妙な執着のようなものさえ感じられる。陥没地帯は、どうしてかはともかく、ひたすら「二」を召喚したいがゆえに、ただそれだけのために、相似という意匠を身に纏ってみせているのではないか。  「二」であることには複数の様態がある(「複数」というのは二つ以上ということだ)。まず、順序の「二」。二番目の二、一の次で三の前であるところの「二」がある。次に、反復の「二」。二度目の二、ある出来事が(あるいはほとんど同じ出来事が)もう一度繰り返される、という「二」がある。そして、ペアの「二」。二対の二、対立的(敵味方/ライバル)か相補的(バディ)か、その両方かはともかく、二つで一組を成す、という「二」がある。それからダブルの「二」、二重の二があるが、これ自体が二つに分かれる。一つの存在が内包/表出する二、二面性とか二重人格とかドッペルゲンガーの「二」と、二つの存在が一つであるかに誤認/錯覚される二、双児や他人の空似や成り澄ましなどといった、つまり相似の「二」。オーダー、リピート、ペア、ダブル、これらの「二」どもが、この小説にはあまねくふんだんに取り込まれている。オーダーとリピートが分かち難く絡み合って一緒くたになってしまっているさまこそ、前に見た「反復=循環性」ということだった。それは「一」と「二」の区別がつかなくなること、すなわち「一」が「二」でもあり「二」が「一」でもあり得るという事態だ。しかしそれだって、まず「二」度目とされる何ごとかが召喚されたからこそ起こり得る現象だと言える。  また、この物語には「大伯父とその義理の弟」以外にも幾組ものペアやダブルが、これまたこれみよがしに配されている。あの「二人の老人」は二人一役のために互いを似せていたというのだが、他にも「船長」や「女将」や「姉」や「弟」、或いは「男」や「女」といった普通名詞で呼ばれる登場人物たちが、その時々の「いま」において複雑極まる一人二役/二人一役を演じさせられている。この人物とあの人物が、実は時を隔てた同一人物なのではないか、いやそうではなく両者はやはりまったくの別の存在なのか、つまり真に存在しているのは「一」なのか「二」なのか、という設問が、決して真実を確定され得ないまま、切りもなく無数に生じてくるように書かれてあり、しかしそれもやはりまず「二」つのものが召喚されたからこそ起こり得た現象であり、もちろんこのこと自体が「反復=循環性」によって強化されてもいるわけだ。  こう考えてみると、もうひとつの特性である「無名状態」にも、抽象化とはまた別の実践的な理由があるのではないかと思えてくる。ひどく似ているとされる二者は、しかしそれぞれ別個の名前が与えられていれば、当然のことながら区別がついてしまい、相似の「二」が成立しなくなってしまうからだ。だから「二軒並んだ食堂兼ホテル」が名前で呼ばれることはあってはならないし、「女将」や「船長」の名が明かされてはならない。無名もまた「二」のために要請されているのだ。  陥没地帯は夥しい「二」という数によって統べられていると言っても過言ではない。それは文章=文字の表面に穿たれた数字=記号としての「二」から、物語内に盛んに導入された二番二度二対二重などのさまざまな「二」性にまで及んでいる。二、二、二、この小説に顕在/潜在する「二」を数え上げていったらほとんど果てしがないほどだ。とすれば、すぐに浮かぶ疑問は当然、それはどういうことなのか、ということになるだろう。なぜ「二」なのか。どうしてこの小説は、こうもひたぶるに「二」であろうとしているのか。  ここでひとつの仮説を提出しよう。なぜ陥没地帯は「二」を欲望するのか。その答えは『陥没地帯』が小説家蓮實重彦の一作目であるからだ。自らが「一」であることを嫌悪、いや憎悪し、どうにかして「一」に抗い「一」であることから逃れようとするためにこそ、この小説は無数の「二」を身に纏おうと、「二」を擬態しようと、つまり「二」になろうとしているのだ。  すぐさまこう問われるに違いない。それでは答えになっていない。どうして「一」から逃れなくてはならないのか。「一」が「一」を憎悪する理由は何だというのか。その理由の説明が求められているのだ。そんなことはわたしにはわからない。ただ、それは『陥没地帯』が「一」番目の小説だから、としか言いようがない。生まれつき、ただ理由もなく運命的に「一」であるしかない自らの存在のありようがあまりにも堪え難いがゆえに、陥没地帯は「二」を志向しているのだ。そうとしか言えない。  しかしそれは逆にいえば、どれだけ策を尽くして「二」を擬態したとしても、所詮は「一」は「一」でしかあり得ない、ということでもある。「二」になろう「二」であろうと手を替え品を替えて必死で演技する、そしてそんな演技にさえ敢えなく失敗する「一」の物語、それが『陥没地帯』なのだ。そしてこのことも、この小説自体に書いてある。
 つまり、錯綜したパズルを思わせる線路をひもに譬えれば、そ��両端を指ではさんでぴーんと引っぱってみる。すると、贋の結ぼれがするするとほぐれ、一本の線に還元されてしまう。鋭角も鈍角も、それから曲線も弧も螺旋形も、そっくり素直な直線になってしまうのです。だから、橋なんていっちゃあいけない。それは人目をあざむく手品の種にすぎません。
 そう、複雑に縒り合わされた結ぼれは、だが結局のところ贋ものでしかなく、ほんとうはただの「一本の線」に過ぎない。ここで「二」に見えているすべての正体は「一」でしかない。あの「向かい合った二つの食堂兼ホテル」が「驚くほど似かよって」いるのに「ためらうことなくその一つを選んで扉を押しさえすれば」決して間違えることがなかったのは、実はどちらを選んでも同じことだったからに他ならない。このこともまた繰り返しこの物語では描かれる。河を挟んだ片方の側からもう片側に行くためには、どうしても小さな架橋を使わなくてはならない筈なのに、橋を渡った覚えなどないのに、いつのまにか河の向こう側に抜けていることがある。そもそもこの河自体、いつも褐色に淀んでいて、水面を見るだけではどちらからどちらに向かって流れているのか、どちらが上流でどちらが下流なのかさえ判然としないのだが、そんなまたもやあからさまな方向感覚の惑乱ぶりに対して、ではどうすればいいのかといえば、ただ迷うことなど一切考えずに歩いていけばいいだけのことだ。「彼が執拗に強調しているのは、橋の必然性を信頼してはならぬということである」。二つの領域を繋ぐ橋など要らない、そんなものはないと思い込みさえすればもう橋はない。二つのものがあると思うからどちらかを選ばなくてはならなくなる。一番目と二番目、一度目と二度目、一つともう一つをちゃんと別にしなくてはならなくなる。そんな面倒は金輪際やめて、ここにはたった一つのものしかないと思えばいいのだ。実際そうなのだから。  それがいつであり、そこがどこであり、そして誰と誰の話なのかも最早述べることは出来ないが、物語の後半に、こんな場面がある。
 よろしゅうございますね、むこう側の部屋でございますよ。(略)女は、そうささやくように念をおす。こちら側ではなく、むこう側の部屋。だが、向かい合った二つの扉のいったいどちらの把手に手をかければよいのか。事態はしかし、すべてを心得たといった按配で、躊躇も逡巡もなく円滑に展開されねばならない。それには、風に追われる砂の流れの要領でさからわずに大気に身をゆだねること。むこう側の扉の奥で待ちうけている女と向かいあうにあたって必要とされるのも、そんなこだわりのない姿勢だろう。
 躊躇も逡巡もすることはない。なぜなら「こちら側」と「むこう側」という「二つの扉」自体が下手な偽装工作でしかなく、そこにはもともと「一」つの空間しかありはしないのだから。そしてそれは、はじめから誰もが知っていたことだ。だってこれは正真正銘の「一」番目なのだから。こうして「一」であり「一」であるしかない『陥没地帯』の、「一」からの逃亡としての「二」への変身、「二」への離脱の試みは失敗に終わる。いや、むしろ失敗することがわかっていたからこそ、どうにかして「一」は「二」のふりをしようとしたのだ。不可能と知りつつ「一」に全力で抗おうとした自らの闘いを、せめても読む者の記憶へと刻みつけるために。
三、
 小説家蓮實重彦の第二作『オペラ・オペラシオネル』は、直截的にはジャン=リュック・ゴダールの『新ドイツ零年』及び、その前日譚である『アルファヴィル』との関連性を指摘できるだろう。小説が発表されたのは一九九四年の春だが、『新ドイツ零年』は一九九一年秋のヴェネツィア国際映画祭に出品後、一九九三年末に日本公開されている。同じくゴダール監督による一九六五年発表の『アルファヴィル』は、六〇年代にフランスでシリーズ化されて人気を博した「レミー・コーションもの」で主役を演じた俳優エディ・コンスタンティーヌを役柄ごと「引用」した一種のパスティーシュだが、独裁国家の恐怖と愛と自由の価値を謳った軽快でロマンチックなSF映画でもある。『新ドイツ零年』は、レミー・コーション=エディ・コンスタンチーヌを四半世紀ぶりに主演として迎えた続編であり、ベルリンの壁崩壊の翌年にあたる一九九〇年に、老いたる往年の大物スパイがドイツを孤独に彷徨する。  『オペラ・オペラシオネル』の名もなき主人公もまた、レミー・コーションと同じく、若かりし頃は派手な活躍ぶりでその筋では国際的に名を成したものの、ずいぶんと年を取った最近では知力にも体力にも精神力にもかつてのような自信がなくなり、そろそろほんとうに、思えばやや遅過ぎたのかもしれない引退の時期がやってきたのだと自ら考えつつある秘密諜報員であり、そんな彼は現在、長年勤めた組織へのおそらくは最後の奉公として引き受けた任務に赴こうとしている。「とはいえ、この年まで、非合法的な権力の奪取による対外政策の変化といった計算外の事件に出会っても意気沮喪することなく組織につくし、新政権の転覆を目論む不穏な動きをいたるところで阻止しながらそのつど難局を切り抜け、これといった致命的な失敗も犯さずにやってこられたのだし、分相応の役割を担って組織にもそれなりに貢献してきたのだという自負の念も捨てきれずにいるのだから、いまは、最後のものとなるかもしれないこの任務をぬかりなくやりとげることに専念すべきなのだろう」。つまりこれはスパイ小説であり、アクション小説でさえある。  前章で提示しておいた無根拠な仮説を思い出そう。『陥没地帯』は「一」作目であるがゆえに「一」から逃れようとして「二」を志向していた。これを踏まえるならば、「二」作目に当たる『オペラ・オペラシオネル』は、まずは「二」から逃走するべく「三」を擬態することになる筈だが、実際、この小説は「三」章立てであり、作中に登場するオペラ「オペラ・オペラシオネル」も「三」幕構成であり、しかも「三」時間の上演時間を要するのだという。これらだけではない。第一章で主人公は、豪雨が齎した交通機関の麻痺によって他の旅客ともども旅行会社が用意した巨大なホールで足止めを食っているのだが、どういうわけかこの空間に定期的にやってきている謎の横揺れを訝しみつつ、ふと気づくと、「いま、くたびれはてた鼓膜の奥にまぎれこんでくるのは、さっきから何やら低くつぶやいている聞きとりにくい女の声ばかりである」。
 いまここにはいない誰かをしきりになじっているようにも聞こえるそのつぶやきには、どうやら操縦と聞きとれそうな単語がしばしばくりかえされており、それとほぼ同じぐらいの頻度で、やれ回避だのやれ抹殺だのといった音のつらなりとして聞きわけられる単語もまぎれこんでいる。だが、誰が何を操縦し、どんな事態を回避し、いかなる人物を抹殺するのかということまでははっきりしないので、かろうじて識別できたと思えるたった三つの単語から、聞きとりにくい声がおさまるはずの構文はいうまでもなく、そのおよその文意を推測することなどとてもできはしない。
 むろんここで重要なのは、間違っても「誰が何を操縦し、どんな事態を回避し、いかなる人物を抹殺するのか」ということではない。この意味ありげな描写にごくさりげなく埋め込まれた「たった三つの単語」の「三」という数である。まだある。主人公が実際に任務を果たすのは「ここから鉄道でたっぷり三時間はかかる地方都市」だし、このあと先ほどの女の突然の接触ーー「かたわらの椅子に身を埋めていた女の腕が生きもののようなしなやかさで左の肘にからみつき、しっかりとかかえこむように組みあわされてしまう」ーーが呼び水となって主人公は「最後の戦争が起こったばかりだったから、こんな仕事に誘いこまれるより遥か以前」に「この国の転覆を目論む敵側の間諜がわがもの顔で闊歩しているという繁華街の地下鉄のホームでこれに似た体験をしていたこと」をふと思い出すのだが、そのときちょうどいまのようにいきなり腕をからませてきた女と同じ地下鉄のホームで再会したのは「それから三日後」のことなのだ。  「三」への擬態以前に、この小説の「二」に対する嫌悪、憎悪は、第三章で登場する女スパイが、いままさにオペラ「オペラ・オペラシオネル」を上演中の市立劇場の客席で、隣に座った主人公に「あなたを抹殺する目的で開幕直前に桟敷に滑りこもうとしていた女をぬかりなく始末しておいた」と告げたあとに続く台詞にも、さりげなく示されている。
 もちろん、と女は言葉をつぎ、刺客をひとり始末したからといって、いま、この劇場の客席には、三人目、四人目、ことによったら五人目となるかもしれない刺客たちが、この地方都市の正装した聴衆にまぎれて、首都に帰らせてはならないあなたの動向をじっとうかがっている。
 なぜ、女は「二人目」を省いたのか。どうしてか彼女は「二」と言いたくない、いや、「二」と言えないのだ。何らかの不思議な力が彼女から「二」という数の発話を無意味に奪っている。実際『陥没地帯』にはあれほど頻出していた「二」が、一見したところ『オペラ・オペラシオネル』では目に見えて減っている。代わりに振り撒かれているのは「三」だ。三、三、三。  だが、これも前作と同様に、ここでの「二」への抵抗と「三」への擬態は、そもそもの逃れ難い本性であるところの「二」によってすぐさま逆襲されることになる。たとえばそれは、やはり『陥没地帯』に引き続いて披露される、相似をめぐる認識において示される。どうやら記憶のあちこちがショートしかかっているらしい主人公は、第一章の巨大ホールで突然左肘に腕を絡ませてきた女が「それが誰なのかにわかには思い出せない旧知の女性に似ているような気もする」と思ってしまうのだがーー同様の叙述はこの先何度も繰り返されるーー、しかしそのとき彼は「経験豊かな仲間たち」からよく聞かされていた言葉をふと思い出す。
 もちろん、それがどれほどとらえがたいものであれ類似の印象を与えるというかぎりにおいて、二人が同一人物であろうはずもない。似ていることは異なる存在であることの証左にほかならぬという原則を見失わずにおき、みだりな混同に陥ることだけは避けねばならない。
 この「似ていることは異なる存在であることの証左にほかならぬという原則」は、もちろん『陥没地帯』の数々の相似にかんして暗に言われていたことであり、それは「一」に思えるが実は「二」、つまり「一ではなく二」ということだった。しかし、いまここで離反すべき対象は「二」なのだから、前作では「一」からの逃走の方策として導入されていた相似という装置は、こちらの世界では「二」から発される悪しき強力な磁場へと反転してしまうのだ。なるほどこの小説には、前作『陥没地帯』よりも更にあっけらかんとした、そう、まるでやたらと謎めかした、であるがゆえに適当な筋立てのご都合主義的なスパイ映画のような仕方で、相似の表象が次々と登場してくる。女という女は「旧知の女性に似ているような」気がするし、巨大ホールの女の亡くなったパイロットの夫は、第二章で主人公が泊まるホテルの部屋にノックの音とともに忍び込んでくる女、やはり亡くなっている夫は、売れない音楽家だったという自称娼婦の忌まわしくもエロチックな回想の中に奇妙に曖昧なすがたで再登場するし、その音楽家が妻に書き送ってくる手紙には、第一章の主人公の境遇に酷似する体験が綴られている。数え出したら枚挙にいとまのないこうした相似の仄めかしと手がかりは、本来はまったく異なる存在である筈の誰かと誰かを無理繰り繋いであたかもペア=ダブルであるかのように見せかけるためのブリッジ、橋の機能を有している。どれだけ「三」という数字をあたり一面に撒布しようとも、思いつくまま幾らでも橋を架けられる「二」の繁茂には到底対抗出来そうにない。  では、どうすればいいのか。「二」から逃れるために「三」が有効ではないのなら、いっそ「一」へと戻ってしまえばいい。ともかく「二」でありさえしなければいいのだし、ベクトルが一方向でなくともよいことはすでに確認済みなのだから。  というわけで、第三章の女スパイは、こんなことを言う。
 ただ、誤解のないようにいいそえておくが、これから舞台で演じられようとしている物語を、ことによったらあなたや私の身に起こっていたのかもしれないできごとをそっくり再現したものだなどと勘違いしてはならない。この市立劇場であなたが立ち会おうとしているのは、上演を目的として書かれた粗筋を旧知の顔触れがいかにもそれらしくなぞってみせたりするものではないし、それぞれの登場人物にしても、見るものの解釈しだいでどんな輪郭にもおさまりかねぬといった融通無碍なものでもなく、いま、この瞬間に鮮やかな現実となろうとしている生のできごとにほかならない。もはや、くりかえしもおきかえもきかない一回かぎりのものなのだから、これはよくあることだと高を括ったりしていると、彼らにとってよくある些細なできごとのひとつとして、あなたの世代の同僚の多くが人知れず消されていったように、あなた自身もあっさり抹殺されてしまうだろう。
 そもそも三章立ての小説『オペラ・オペラシオネル』が、作中にたびたびその題名が記され、第三章で遂に上演されることになる三幕もののオペラ「オペラ・オペラシオネル」と一種のダブルの関係に置かれているらしいことは、誰の目にも歴然としている。しかしここでいみじくも女スパイが言っているのは、如何なる意味でもここに「二」を読み取ってはならない、これは「一」なのだ、ということだ。たとえ巧妙に「二」のふりをしているように見えたとしても、これは確かに「くりかえしもおきかえもきかない一回かぎりのもの」なのだと彼女は無根拠に断言する。それはつまり「二ではなく一」ということだ。そんなにも「二」を増殖させようとするのなら、その化けの皮を剥がして、それらの実体がことごとく「一」でしかないという事実を露わにしてやろうではないか(言うまでもなく、これは『陥没地帯』で起こっていたことだ)。いや、たとえほんとうはやはりそうではなかったのだとしても、ともかくも「二ではなく一」と信じることが何よりも重要なのだ。  「二」を「一」に変容せしめようとする力動は、また別のかたちでも確認することが出来る。この物語において主人公は何度か、それぞれ別の、だが互いに似かよってもいるのだろう女たちと「ベッドがひとつしかない部屋」で対峙する、もしくはそこへと誘われる。最後の場面で女スパイも言う。私たちが「ベッドがひとつしかない部屋で向かい合ったりすればどんなことになるか、あなたには十分すぎるほどわかっているはずだ」。「二」人の男女と「一」つのベッド。だが主人公は、一つきりのベッドをそのような用途に使うことは一度としてない。そしてそれは何度か話題にされる如何にも女性の扱いに長けたヴェテランの間諜らしい(らしからぬ?)禁欲というよりも、まるで「一」に対する斥力でも働いているかのようだ。  こうして『オペラ・オペラシオネル』は後半、あたかも「一」と「二」の闘争の様相を帯びることになる。第三章の先ほどの続きの場面で、女スパイは主人公に「私たちふたりは驚くほど似ているといってよい」と言ってから、こう続ける。「しかし、類似とは、よく似たもの同士が決定的に異なる存在だという事実の否定しがたい証言としてしか意味をもたないものなのだ」。これだけならば「一ではなく二」でしかない。だがまだその先がある。「しかも、決定的に異なるものたちが、たがいの類似に脅えながらもこうして身近に相手の存在を確かめあっているという状況そのものが、これまでに起こったどんなできごととも違っているのである」。こうして「二」は再び「一」へと逆流する。まるで自らに念を押すように彼女は言う。いま起こっていることは「かつて一度としてありはしなかった」のだと。このあとの一文は、この小説の複雑な闘いの構図を、複雑なまま見事に表している。
 だから、あたりに刻まれている時間は、そのふたりがともに死ぬことを選ぶか、ともに生きることを選ぶしかない一瞬へと向けてまっしぐらに流れ始めているのだと女が言うとき、そらんじるほど熟読していたはずの楽譜の中に、たしかにそんな台詞が書き込まれていたはずだと思いあたりはするのだが、疲労のあまりものごとへの執着が薄れ始めている頭脳は、それが何幕のことだったのかと思い出そうとする気力をすっかり失っている。
 かくのごとく「二」は手強い。当たり前だ。これはもともと「二」なのだから。しかしそれでも、彼女は繰り返す。「どこかしら似たところのある私たちふたりの出会いは、この別れが成就して以後、二度とくりかえされてはならない。そうすることがあなたと私とに許された誇らしい権利なのであり、それが無視されてこの筋書きにわずかな狂いでもまぎれこめば、とても脱出に成功することなどありはしまい」。『オペラ・オペラシオネル』のクライマックス場面における、この「一」対「二」の激しい争いは、読む者を興奮させる。「実際、あなたと私とがともに亡命の権利を認められ、頻繁に発着するジェット機の騒音などには耳もかさずに、空港の別のゲートをめざしてふりかえりもせずに遠ざかってゆくとき、ふたり一組で行動するという権利が初めて確立することになり、それにはおきかえもくりかえしもききはしないだろう」。「二」人組による、置換も反復も欠いた、ただ「一」度きりの逃避行。ここには明らかに、あの『アルファヴィル』のラストシーンが重ね合わされている。レミー・コーションはアンナ・カリーナが演じるナターシャ・フォン・ブラウンを連れて、遂に発狂した都市アルファヴィルを脱出する。彼らは「二人」になり、そのことによってこれから幸福になるのだ。『ドイツ零年』の終わり近くで、老いたるレミー・コーションの声が言う。「国家の夢は1つであること。個人の夢は2人でいること」。それはつまり「ふたり一組で行動するという権利」のことだ。  かくのごとく「二」は手強い。当たり前だ。これはもともと「二」なのだから。しかも、もはや夢幻なのか現実なのかも判然としない最後の最後で、主人公と女スパイが乗り込むのは「これまでハンドルさえ握ったためしのないサイドカー」だというのだから(これが「ベッドがひとつしかない部屋」と対になっていることは疑いない)、結局のところ「二」は、やはり勝利してしまったのではあるまいか。「二」が「二」であり「二」であるしかないという残酷な運命に対して、結局のところ「三」も「一」も歯が立たなかったのではないのか。小説家蓮實重彦の一作目『陥没地帯』が「一の物語」であったように、小説家蓮實重彦の第二作は「二の物語」としての自らをまっとうする。そして考えてみれば、いや考えてみるまでもなく、このことは最初からわかりきっていたことだ。だってこの小説の題名は『オペラ・オペラシオネル』、そこには「オペラ」という単語が続けざまに「二」度、あからさまに書き込まれているのだから。
四、
 さて、遂にようやく「一、」の末尾に戻ってきた。では、小説家蓮實重彦の第三作『伯爵夫人』はどうなのか。この小説は「三」なのだから、仮説に従えば「四」もしくは「二」を志向せねばならない。もちろん、ここで誰もが第一に思い当たるのは、主人公の名前である「二朗」だろう。たびたび話題に上るように、二朗には亡くなった兄がいる。すなわち彼は二男である。おそらくだから「二」朗と名づけられているのだが、しかし死んだ兄が「一朗」という名前だったという記述はどこにもない、というか一朗はまた別に居る。だが��れはもっと後の話だ。ともあれ生まれついての「二」である二���は、この小説の「三」としての運命から、あらかじめ逃れ出ようとしているかに見える。そう思ってみると、彼の親しい友人である濱尾も「二」男のようだし、従妹の蓬子も「二」女なのだ。まるで二朗は自らの周りに「二」の結界を張って「三」の侵入を防ごうとしているようにも思えてくる。  だが、当然の成り行きとして「三」は容赦なく襲いかかる。何より第一に、この作品の題名そのものであり、二朗にははっきりとした関係や事情もよくわからぬまま同じ屋敷に寝起きしている、小説の最初から最後まで名前で呼ばれることのない伯爵夫人の、その呼称の所以である、とうに亡くなっているという、しかしそもそも実在したかどうかも定かではない「伯爵」が、爵位の第三位ーー侯爵の下で子爵の上ーーであるという事実が、彼女がどうやら「三」の化身であるらしいことを予感させる。『オペラ・オペラシオネル』の「二」と同じく、『伯爵夫人』も題名に「三」をあらかじめ埋め込まれているわけだ。確かに「三」はこの小説のあちこちにさりげなく記されている。たとえば濱尾は、伯爵夫人の怪しげな素性にかかわる噂話として「れっきとした伯爵とその奥方を少なくとも三組は見かけた例のお茶会」でのエピソードを語る。また、やはり濱尾が二朗と蓬子に自慢げにしてみせる「昨日まで友軍だと気を許していた勇猛果敢な騎馬の連中がふと姿を消したかと思うと、三日後には凶暴な馬賊の群れとなって奇声を上げてわが装甲車舞台に襲いかかり、機関銃を乱射しながら何頭もの馬につないだ太い綱でこれを三つか四つひっくり返したかと思うと、あとには味方の特殊工作員の死骸が三つも転がっていた」という「どこかで聞いた話」もーー「四」も入っているとはいえーーごく短い記述の間に「三」が何食わぬ顔で幾つも紛れ込んでいる。  しかし、何と言っても決定的に重要なのは、すでに触れておいた、二朗と伯爵夫人が最初の、贋の抱擁に至る場面だ。謎の「ふたり組の男」に「二朗さんがこんな女といるところをあの連中に見られたくないから、黙っていう通りにして下さい」と言って伯爵夫人が舞台に選ぶのは「あの三つ目の街路樹の瓦斯燈の灯りも届かぬ影になった幹」なのだが、演出の指示の最後に、彼女はこう付け加える。
 連中が遠ざかっても、油断してからだを離してはならない。誰かが必ずあの二人の跡をつけてきますから、その三人目が通りすぎ、草履の先であなたの足首をとんとんとたたくまで抱擁をやめてはなりません、よござんすね。
 そう、贋の抱擁の観客は「二」人ではなかった。「三」人だったのだ。しかし二朗は本番では演技に夢中でーー射精という事故はあったもののーー場面が無事に済んでも「あの連中とは、いったいどの連中だというのか」などと訝るばかり、ことに「三人目」については、その実在さえ確認出来ないまま終わる。つまり追っ手(?)が全部で「三」人居たというのは、あくまでも伯爵夫人の言葉を信じる限りにおいてのことなのだ。  まだある。一度目の射精の後、これも先に述べておいたが伯爵夫人は二朗に自らの性的遍歴を語り出す。自分はあなたの「お祖父さま」ーー二朗の母方の祖父ーーの「めかけばら」だなどと噂されているらしいが、それは根も葉もない言いがかりであって、何を隠そう、お祖父さまこそ「信州の山奥に住む甲斐性もない百姓の娘で、さる理由から母と東京に移り住むことになったわたくし」の処女を奪ったばかりか、のちに「高等娼婦」として活躍出来るだけの性技の訓練を施した張本人なのだと、彼女は告白する。まだ処女喪失から二週間ほどしか経っていないというのに、お祖父さまに「そろそろ使い勝手もよくなったろう」と呼ばれて参上すると、そこには「三」人の男ーーいずれも真っ裸で、見あげるように背の高い黒ん坊、ターバンを捲いた浅黒い肌の中年男、それにずんぐりと腹のでた小柄な初老の東洋人ーーがやってきて、したい放題をされてしまう。とりわけ「三」人目の男による見かけによらない濃厚な変態プレイは、破廉恥な描写には事欠かないこの小説の中でも屈指のポルノ場面と言ってよい。  まだまだある。二朗の「三」度目の射精の前、和製ルイーズ・ブルックスに案内された「更衣室」には、「野獣派風の筆遣いで描かれたあまり感心できない裸婦像が三つ」と「殺風景な三つのシャワーのついた浴場」がある。伯爵夫人が物語る、先の戦時中の、ハルピンにおける「高麗上等兵」のエピソードも「三」に満ちている。軍の都合によって無念の自決を強いられた高麗の上官「森戸少尉」の仇である性豪の「大佐」に、山田風太郎の忍法帖さながらの淫技で立ち向かい、森戸少尉の復讐として大佐の「金玉」を潰すという計画を、のちの伯爵夫人と高麗は練るのだが、それはいつも大佐が「高等娼婦」の彼女を思うさまいたぶるホテルの「三階の部屋」の「三つ先の部屋」でぼやを起こし、大佐の隙を突いて「金玉」を粉砕せしめたらすぐさま火事のどさくさに紛れて現場から立ち去るというものであり、いざ決行直後、彼女は「雑踏を避け、高麗に抱えられて裏道に入り、騎馬の群れに囲まれて停車していた三台のサイドカー」に乗せられて無事に逃亡する。  このように「三」は幾らも数え上げられるのだが、かといって「二」や「四」も皆無というわけではないーー特に「二」は後で述べるように伯爵夫人の一時期と切っても切り離せない関係にあるーーのだから、伯爵夫人が「三」の化身であるという予感を完全に証明し得るものとは言えないかもしれない。では、次の挿話はどうか?  三度目の射精の直後に例の「サボン」を投与されてしまった二朗は、今度は「黒い丸眼鏡をかけた冴えない小男」の先導で、さながら迷宮のようなホテル内を経巡って、伯爵夫人の待つ「お茶室」ーー彼女はあとで、その空間を「どこでもない場所」と呼ぶーーに辿り着く。そこで伯爵夫人はふと「二朗さん、さっきホテルに入ったとき、気がつかれましたか」と問いかける。「何ですか」「百二十度のことですよ」。今しがた和製ルイーズ・ブルックスと自らの「魔羅」の隆隆たる百二十度のそそり立ちについて語り合ったばかりなので、二朗は思わずたじろぐが、伯爵夫人は平然と「わたくしは回転扉の角度のお話をしているの。あそこにいったいいくつ扉があったのか、お気づきになりましたか」と訊ねる。もちろんそれは、小説の始まりに記されていた「傾きかけた西日を受けてばふりばふりとまわっている重そうな回転扉」のことだ。
 四つあるのが普通じゃなかろうかという言葉に、二朗さん、まだまだお若いのね。あそこの回転扉に扉の板は三つしかありません。その違いに気づかないと、とてもホテルをお楽しみになることなどできませんことよと、伯爵夫人は艶然と微笑む。四つの扉があると、客の男女が滑りこむ空間は必然的に九十度と手狭なものとなり、扉もせわしげにぐるぐるとまわるばかり。ところが、北普魯西の依怙地な家具職人が前世紀末に発明したという三つ扉の回転扉の場合は、スーツケースを持った少女が大きな丸い帽子箱をかかえて入っても扉に触れぬだけの余裕があり、一度に一・三倍ほどの空気をとりこむかたちになるので、ぐるぐるではなく、ばふりばふりとのどかなまわり方をしてくれる。
 「もっとも、最近になって、世の殿方の間では、百二十度の回転扉を通った方が、九十度のものをすり抜けるより男性としての機能が高まるといった迷信めいたものがささやかれていますが、愚かとしかいいようがありません。だって、百二十度でそそりたっていようが、九十度で佇立していようが、あんなもの、いったん女がからだの芯で受け入れてしまえば、どれもこれも同じですもの」と,いつの間にか伯爵夫人の語りは、またもや「魔羅」の話題に変わってしまっていて、これも笑うべきところなのかもしれないが、それはいいとして、ここで「四ではなく三」が主張されていることは明白だろう。とすると「ぐるぐるではなく、ばふりばふり」が好ましいとされているのも、「ぐるぐる」も「ばふりばふり」も言葉を「二」つ重ねている点では同じだが、「ぐる」は「二」文字で「ばふり」は「三」文字であるということがおそらくは重要なのだ。  そして更に決定的なのは、伯爵夫人がその後に二朗にする告白だ。あの贋の抱擁における二朗の演技に彼女は憤ってみせたのだが、実はそれは本意ではなかった。「あなたの手は、ことのほか念入りにわたくしのからだに触れておられました。どこで、あんなに繊細にして大胆な技術を習得されたのか、これはこの道の達人だわと思わず感嘆せずにはいられませんでした」と彼女は言う。だが二朗は正真正銘の童貞であって、あの時はただ先ほど観たばかりの「聖林製の活動写真」を真似て演じてみたに過ぎない。だが伯爵夫人はこう続けるのだ。「あのとき、わたくしは、まるで自分が真っ裸にされてしまったような気持ちになり、これではいけないとむなしく攻勢にでてしまった」。そして「そんな気分にさせたのは、これまで二人しかおりません」。すなわち二朗こそ「どうやら三人目らしい」と、伯爵夫人は宣告する。二朗は気づいていないが、この時、彼は「二」から「三」への変容を強いられているのだ。  ところで伯爵夫人には、かつて「蝶々夫人」と呼ばれていた一時代があった。それは他でもない、彼女がやがて「高等娼婦」と称されるに至る売春行為を初めて行ったロンドンでのことだ。「二朗さんだけに「蝶々夫人」の冒険譚を話してさしあげます」と言って彼女が語り出すのは、先の戦争が始まってまもない頃の、キャサリンと呼ばれていた赤毛の女との思い出だ。キャサリンに誘われて、まだ伯爵夫人とも蝶々夫人とも呼ばれてはいなかった若い女は「聖ジェームズ公園近くの小さな隠れ家のようなホテル」に赴く。「お待ちしておりましたというボーイに狭くて薄暗い廊下をぐるぐると回りながら案内されてたどりついた二階のお部屋はびっくりするほど広くて明るく、高いアルコーヴつきのベッドが二つ並んでおかれている」。こうなれば当然のごとく、そこに「目に見えて動作が鈍いふたりの将校をつれたキャサリンが入ってきて、わたくしのことを「蝶々夫人」と紹介する」。阿吽の呼吸で自分に求められていることを了解して彼女が裸になると、キャサリンも服を脱ぎ、そして「二」人の女と「二」人の男のプレイが開始される。彼女はこうして「高等娼婦」への道を歩み始めるのだが、全体の趨勢からすると例外的と言ってよい、この挿話における「二」の集中は、おそらくはなにゆえかキャサリンが彼女を「蝶々夫人」と呼んでみせたことに発している。「蝶」を「二」度。だからむしろこのまま進んでいたら彼女は「二」の化身になっていたかもしれない。だが、そうはならなかった。のちの「伯爵」との出会いによって「蝶々夫人」は「伯爵夫人」に変身してしまったからだ。ともあれ伯爵夫人が事によると「二」でもあり得たという事実は頭に留めておく必要があるだろう。そういえば彼女は幾度か「年増の二流芸者」とも呼ばれるし、得意技である「金玉潰し」もーーなにしろ睾丸は通常「二」つあるのだからーー失われた「二」の時代の片鱗を残しているというべきかもしれない。  「二」から「三」への転位。このことに較べれば、回想のはじめに伯爵夫人が言及する、この小説に何度もさも意味ありげに登場するオランダ製のココアの缶詰、その表面に描かれた絵柄ーー「誰もが知っているように、その尼僧が手にしている盆の上のココア缶にも同じ角張った白いコルネット姿の尼僧が描かれているので、その図柄はひとまわりずつ小さくなりながらどこまでも切れ目なく続くかと思われがちです」ーーのことなど、その「尼僧」のモデルが他でもない赤毛のキャサリンなのだという理由こそあれ、読む者をいたずらに幻惑する無意味なブラフ程度のものでしかない。ただし「それは無に向けての無限連鎖ではない。なぜなら、あの尼僧が見すえているものは、無限に連鎖するどころか、画面の外に向ける視線によって、その動きをきっぱりと断ち切っているからです」という伯爵夫人の確信に満ちた台詞は、あの『陥没地帯』が世界そのもののあり方として体現していた「反復=循環性」へのアンビヴァレントな認識と通底していると思われる。  「このあたくしの正体を本気で探ろうとなさったりすると、かろうじて保たれているあぶなっかしいこの世界の均衡がどこかでぐらりと崩れかねませんから、いまはひとまずひかえておかれるのがよろしかろう」。これは伯爵夫人の台詞ではない。このような物言いのヴァリエーションは、この小説に何度もさも意味ありげに登場するのだが、伯爵夫人という存在がその場に漂わせる「婉曲な禁止の気配」だとして、こんな途方もない言葉を勝手に脳内再生しているのは二朗であって、しかも彼はこの先で本人を前に朗々と同じ内容を語ってみせる。一度目の射精の後、まもなく二度目の射精の現場となる電話ボックスにおける長い会話の中で二朗は言う。「あなたがさっき「あたいの熟れたまんこ」と呼ばれたものは、それをまさぐることを触覚的にも視覚的にも自分に禁じており、想像の領域においてさえ想い描くことを自粛しているわたくしにとって、とうてい世界の一部���おさまったりするものではない。あからさまに露呈されてはいなくとも、あるいは露呈されていないからこそ、かろうじて保たれているこのあぶなっかしい世界の均衡を崩すまいと息づいている貴重な中心なのです」。これに続けて「あたくしの正体を本気で探ろうとなさったりすると、かろうじて維持されているこの世界の均衡がどこかでぐらりと崩れかねないから、わたくしが誰なのかを詮索するのはひかえておかれるのがよろしかろうという婉曲な禁止の気配を、あなたの存在そのものが、あたりに行きわたらせていはしなかったでしょうか」と、小説家蓮實重彦の前二作と同様に、先ほどの台詞が微細な差異混じりにリピートされる。こんな二朗のほとんど意味不明なまでに大仰な言いがかりに対して、しかし伯爵夫人はこう応じてみせるのだ。
 でもね、二朗さん、この世界の均衡なんて、ほんのちょっとしたことで崩れてしまうものなのです。あるいは、崩れていながらも均衡が保たれているような錯覚をあたりに行きわたらせてしまうのが、この世界なのかもしれません。そんな世界に戦争が起きたって、何の不思議もありませんよね。
 いったいこの二人は何の話をしているのか。ここであたかも了解事項のごとく語られている「世界の均衡」というひどく観念的な言葉と、あくまでも具体的現実的な出来事としてある筈の「戦争」に、どのような関係が隠されているというのか。そもそも「戦争」は、前二作においても物語の背景に隠然と見え隠れしていた。『陥没地帯』においては、如何にもこの作品らしく「なぜもっと戦争がながびいてくれなかったのか」とか「明日にも終るといわれていた戦争が日々混沌として終りそびれていた」とか「戦争が始まったことさえまだ知らずにいたあの少年」とか「戦争の真の終りは、どこまでも引きのばされていくほかはないだろう」などと、要するに戦争がいつ始まっていつ終わったのか、そもそもほんとうに終わったのかどうかさえあやふやに思えてくるような証言がちりばめられていたし、『オペラ・オペラシオネル』の老スパイは「最後の戦争が起こったばかりだったから、こんな仕事に誘いこまれるより遥か以前」の思い出に耽りつつも、知らず知らずの内にいままさに勃発の危機にあった新たな戦争の回避と隠蔽に加担させられていた。そして『伯爵夫人』は、すでに見てきたようにひとつ前の大戦時の挿話が複数語られるのみならず、二朗の冒険(?)は「十二月七日」の夕方から夜にかけて起こっており、一夜明けた次の日の夕刊の一面には「帝國・米英に宣戦を布告す」という見出しが躍っている。つまりこれは大戦前夜の物語であるわけだが、ということは「世界の均衡」が崩れてしまったから、或いはすでに「崩れていながらも均衡が保たれているような錯覚」に陥っていただけだという事実に気づいてしまったから、その必然的な帰結として「戦争」が始まったとでも言うのだろうか?  伯爵夫人は、二朗を迎え入れた「お茶室」を「どこでもない場所」と呼ぶ。「何が起ころうと、あたかも何ごとも起こりはしなかったかのように事態が推移してしまうのがこの場所なのです。(中略)だから、わたくしは、いま、あなたとここで会ってなどいないし、あなたもまた、わたくしとここで会ってなどいない。だって、わたくしたちがいまここにいることを証明するものなんて、何ひとつ存在しておりませんからね。明日のあなたにとって、今日ここでわたくしがお話ししたことなど何の意味も持ちえないというかのように、すべてががらがらと潰えさってしまうという、いわば存在することのない場所がここなのです」。だからあなたがわたくしを本気で犯したとしても「そんなことなど起こりはしなかったかのようにすべてが雲散霧消してしまうような場所がここだといってもかまいません。さあ、どうされますか」と伯爵夫人は二朗を試すように問うのだが、このとき彼はすでに「サボン」の効用で七十二時間=三日間の不能状態にある。  そしてこの後、彼女はこの物語において何度となく繰り返されてきた秘密の告白の中でも、最も驚くべき告白を始める。そもそも先に触れておいた、二朗こそ自分にとっての「三人目らしい」という宣告の後、伯爵夫人は「お祖父さま」にかんする或る重要な情報を話していた。自分も含め「数えきれないほどの女性を冷静に組みしいて」きた「お祖父さま」は、にもかかわらず「あなたのお母さまとよもぎさんのお母さまという二人のお嬢さましかお残しにならなかった」。事実、隠し子などどこにもいはしない。なぜなら「それは、あの方が、ふたりのお嬢様をもうけられて以後、女のからだの中ではーーたとえ奥様であろうとーー絶対におはてにならなかったから。間違っても射精などなさらず、女を狂喜させることだけに生涯をかけてこられた。妊娠をさけるための器具も存在し始めておりましたが、そんなものはおれは装着せぬとおっしゃり、洩らすことの快感と生殖そのものをご自分に禁じておられた」。ならばなぜ、そのような奇妙な禁欲を自ら決意し守り抜こうとしたのか。二朗の死んだ兄は「「近代」への絶望がそうさせたのだろう」と言っていたというのだが、それ以上の説明がなされることはない。  だが実は、そうはならなかった、というのが伯爵夫人の最後の告白の中身なのだ。「ところが、その晩、そのどこでもない場所で、たったひとつだけ本当のできごとが起こった。ここで、わたくしが、お祖父さまの子供を妊ってしまったのです」。どういうわけか「お祖父さま」は伯爵夫人の膣に大量に放出してしまう。それが不測の事態であったことは間違いないだろう。だがやがて妊娠は確定する。当然ながら彼女は堕胎を考えるのだが、「ところが、お祖父さまのところからお使いのものが来て,かりに男の子が生まれたら一郎と名付け、ひそかに育て上げ、成年に達したら正式に籍に入れようという話を聞かされました」。こうして伯爵夫人は「一郎」を産んだのだった。しかもそれは二朗が誕生する三日前のことだったと彼女は言う。やはり隠し子はいたのだ。一郎はその後、伯爵夫人の母親の子として育てられ、いまは二朗と同じく来年の帝大入学を目指している。「しかし、その子とは何年に一度しか会ってはならず、わたくしのことを母親とも思っていない。ですから、ほぼ同じ時期に生まれたあなたのことを、わたくしはまるで自分の子供のようにいたわしく思い、その成長を陰ながら見守っておりました」。この「女」から「母」への突然の変身に、むろん二朗は衝撃と困惑を隠すことが出来ない。それに伯爵夫人のこのような告白を信じるにたる理由などどこにもありはしない。むしろ全面的に疑ってかかる方がまともというものだろう。二朗は自分こそが「一郎」なのではないかと思いつく。そういえば何度も自分は祖父にそっくりだと言われてきた。容貌のみならず「おちんちん」まで。それについ今しがた、伯爵夫人はここが「どこでもない場所」であり、それゆえ「明日のあなたにとって、今日ここでわたくしがお話ししたことなど何の意味も持ちえないというかのように、すべてががらがらと潰えさってしまう」と言ってのけたばかりではないか。その舌の根も乾かぬうちにこんな話をされて、いったい何を信じろというのか。  ことの真偽はともかくとして、ここで考えておくべきことが幾つかある。まず「一郎」が伯爵夫人と「お祖父さま」の間の秘密の息子の名前だというのなら、二朗の死んだ兄の名前は何だったのか、ということだ。そもそもこの兄については、曰くありげに何度も話題にされるものの、小説の最初から最後まで一度として名前で呼ばれることはなく、そればかりか死んだ理由さえ明らかにされることはない。幾つかの記述から、亡くなったのはさほど遠い昔ではなかったらしいことは知れるのだが、それだけなのだ。まさかこちらの名前も「一郎」だったわけはない。一郎が生まれた時には二朗の兄は生きていたのだから……書かれていないのだから何もかもが憶測でしかあり得ないが、結局のところ、兄は二朗を「二」朗にするために、ただそれだけのために物語に召喚されたのだとしか考えられない。そして別に「一郎」が存在している以上は、兄には何か別の名前があったのだろう。いや、いっそ彼は「無名」なのだと考えるべきかもしれない。実在するのかどうかも定かではない「お祖父さま」と伯爵夫人の息子には名前があり、確かにかつては実在していた筈の二朗の兄には名前が無い。「どこでもない場所」での伯爵夫人の最後の告白を聞くまで、読む者は二朗の兄こそ「一郎」という名前だったのだろうと漫然と決め込んでいる。だからそこに少なからぬ驚きが生じるのだが、つまりそれは「二」の前に置かれている「一」がずらされるということだ。その結果、二朗の「二」はにわかに曖昧な数へと変貌してしまう。それどころか彼には自分が「二」ではなく「一」なのかもしれぬという疑いさえ生じているのだから、このとき「一」と「二」の関係性は急激に解け出し、文字通り「どこでもない場所」に溶け去ってしまうかのようだ。  もうひとつ、このことにかかわって、なぜ「お祖父さま」は「一郎」の誕生を許したのかという問題がある。彼にはすでに「二」人の娘がいる。その後に奇妙な禁欲を自らに強いたのは、すなわち「三」人目を拒んだということだろう。「二」に踏み留まって「三」には行かないことが、二朗の兄言うところの「「近代」への絶望」のなせる業なのだ。つまり「三」の禁止こそ「世界の均衡」を保つ行為なのであって、このことは「お祖父さま」の爵位が子爵=爵位の第四位だったことにも暗に示されている。ということは、彼はひとつの賭けに出たのだと考えられないか。確かに次は自分にとって「三」人目の子供になってしまう。それだけは避けられない。しかし、もしも伯爵夫人との間に生まれてくるのが男だったなら、それは「一」人目の息子ということになる。だから彼はおそらく祈るような気持ちで「一郎」という名前をあらかじめ命名したのだ。逆に、もしも生まれてきたのが女だったなら、その娘が果たしてどうなっていたか、考えるのもおそろしい気がしてくる。  「三」の禁止。仮説によるならば、それは『伯爵夫人』の原理的なプログラムの筈だった。「一郎」をめぐる思弁は、そのことを多少とも裏づけてくれる。だがそれでも、紛れもない「三」の化身である伯爵夫人の振る舞いは、この世界を「三」に変容せしめようとすることを止めはしない。彼女は二朗を「三」人目」だと言い、たとえ「一郎」という命名によって何とか抗おうとしていたとしても、彼女が「お祖父さま」の「三」人目の子を孕み、この世に産み落としたことには変わりはない。「一」郎の誕生を「二」朗が生まれる「三」日前にしたのも彼女の仕業だろう。やはり「三」の優位は揺るぎそうにない。だから二朗が射精するのは「三」度でなければならないし、二朗が不能に陥るのは「三」日間でなければならない。考えてみれば、いや考えてみるまでもなく、このことは最初からわかりきっていたことだ。なぜならこれは小説家蓮實重彦の第三作、すなわち「三の物語」なのだから。  そして、かろうじて保たれていた「世界の均衡」が崩れ去った、或いはすでにとっくに崩れてしまっていた事実が晒け出されたのが、「ばふりばふりとまわっている重そうな回転扉」から「どこでもない場所」へと至るめくるめく経験と、その過程で次から次へと物語られる性的な逸話を二朗に齎した自らの奸計の結果であったとでも言うように、伯爵夫人は物語の末尾近くに不意に姿を消してしまう。どうやら開戦の情報を知って急遽大陸に発ったらしい彼女からの言づてには、「さる事情からしばらく本土には住みづらくなりそうだから」としか急な出奔の理由は記されていない。かくして「三」は勝利してしまったのか。本当にそうか。実をいえばここには、もうひとつだけ別の可能性が覗いている。すなわち「四」。ここまでの話に、ほぼ全く「四」は出てきていない。しかし「三」であることから逃れるために、いまや「二」の方向が有効でないのなら、あとは「四」に向かうしかない。では「四」はいったいどこにあるのか。  伯爵夫人が「伯爵」と出会ったのは、バーデンバーデンでのことだ。「あと数週間で戦争も終わろうとしていた時期に、味方の不始末から下半身に深い傷を追った」せいで性的機能を喪失してしまったという、絶体絶命の危機にあっても決して平静を失わないことから部下たちから「素顔の伯爵」と呼ばれていたドイツ軍将校と、のちの伯爵夫人は恋に落ち、彼が若くして亡くなるまでヨーロッパ各地で生活を共にしたのだった。バーデンバーデンは、他の土地の名称と同じく、この小説の中では漢字で表記される。巴丁巴丁。巴は「三」、丁は「四」のことだ。すなわち「三四三四」。ここに「四」へのベクトルが隠されている。だが、もっと明白な、もっと重大な「四」が、意外にも二朗の身近に存在する。  二朗が真に執着しているのが、伯爵夫人でも和製ルイーズ・ブルックスでもなく、従妹の蓬子であるということは、ほぼ間違いない。このことは、ポルノグラフィックな描写やセンセーショナルな叙述に囚われず、この小説を虚心で読んでみれば、誰の目にも明ら���だ。この場合の執着とは、まず第一に性的なものであり、と同時に、愛と呼んでも差し支えのないものだ。確かに二朗は蓬子に触れられてもしごかれてもぴくりともしないし、小春などから何度も従妹に手をつけただろうと問われても事実そのものとしてそんなことはないと否定して内心においてもそう思っているのだが、にもかかわらず、彼が求めているのは本当は蓬子なのだ。それは読めばわかる。そして小説が始まってまもなく、蓬子が伯爵夫人についてこともなげに言う「あの方はお祖父ちゃまの妾腹に決まっているじゃないの」という台詞が呼び水となって、二朗は「一色海岸の別荘」の納戸で蓬子に陰部を見せてもらったことを思い出すのだが、二人の幼い性的遊戯の終わりを告げたのは「離れた茶の間の柱時計がのんびりと四時」を打つ音だった。この「四」時は、二朗のヰタ・セクスアリスの抑圧された最初の記憶として、彼の性的ファンタズムを底支えしている。それに蓬子は「ルイーズ・ブルックスまがいの短い髪型」をしているのだ。二朗は気づいていないが、あの「和製ルイーズ・ブルックス」は、結局のところ蓬子の身代わりに過ぎない。そして何よりも決定的なのは、蓬子という名前だ。なぜなら蓬=よもぎは「四方木」とも書くのだから。そう、彼女こそ「四」の化身だったのだ。  小説の終わりがけ、ようやく帰宅した二朗は、蓬子からの封書を受け取る。彼女は伯爵夫人の紹介によって、物語の最初から「帝大を出て横浜正金銀行に勤め始めた七歳も年上の生真面目な男の許嫁」の立場にあるのだが、未だ貞節は守っており、それどころか性的には甚だ未熟な天真爛漫なおぼこ娘ぶりを随所で発揮していた。だが手紙には、緊急に招集された婚約者と小田原のホテルで落ち合って、一夜を共にしたとある。婚約者は誠実にも、自分が戦死する可能性がある以上、よもぎさんを未婚の母にするわけにはいかないから、情交には及べないーーだがアナル・セックスはしようとする、ここは明らかに笑うところだーーと言うのだが、蓬子は「わたくしが今晩あなたとまぐわって妊娠し、あなたにもしものことがあれば、生まれてくる子の父親は二朗兄さまということにいたしましょう」と驚くべきことを提案し、それでようやっと二人は結ばれたのだという。それに続く文面には、赤裸々に処女喪失の場面が綴られており、その中には「細めに開いた唐紙の隙間から二つの男の顔が、暗がりからじっとこちらの狂態を窺っている」だの「あのひとは三度も精を洩らした」だのといった気になる記述もありはするのだが、ともあれ二朗はどうしてか蓬子のとんでもない頼みを受け入れることにする。彼は小春を相手に現実には起こっていない蓬子とのふしだらな性事を語ってみせさえするだろう。それは「二」として生まれた自分が「三」からの誘惑を振り切って「四」へと離脱するための、遂に歴然とその生々しい姿を現した「世界の均衡」の崩壊そのものである「戦争」に対抗し得るための、おそらく唯一の方法であり、と同時に、あるとき突然向こうからやってきた、偶然とも僥倖とも、なんなら奇跡とも呼んでしかるべき、因果律も目的意識も欠いた突発的な出来事としての「小説」の、意味もなければ正しくもない「原理」、そのとりあえずの作動の終幕でもある。
(初出:新潮2016年8月号)
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. 一昨日3/21は春分🌼 そして天秤座満月🌝のムーンサイクルセラピーにご参加下さった皆様ありがとうございました♡ . 当日は23:00〜スタート。ヒーリングに集中した後、フッと目を開けると0:15だったのでした^_^ . そして... この日、ヒーリング中にみていたのは、 . 自分自身という存在にしっかりとした根がはることで、逆に自由に何処へでもいける。 . 違いのある人や場所の中に入っても気負うことなく、怖れることなく、そして戦うことなくゆったりとどこででも自分で居られる=コミュニケーションを純粋に楽しめる🌷 という世界観。 . 参加下さった皆さんはそれぞれヒーリングの最中に、ハートの奥で温めていた種を芽吹かせていたり、〝何処〟に、どんな自分に根を下ろすか選んでいたり。 . 近しいエネルギーの方と数人で手を取り合って次のステージを選んでジャンプする方、傷んだ根を癒す方と様々✨ . 中でも1番多かったのは、ステージ移動した先で根を伸ばしていただ方達かな^_^ . 地上の植物的に考えると「根」は一度下ろしてしまうと、何か外的な要因がない限り、その場から動けない・動かないものですが、人間のエネルギーフィールドに対してのココで書いている「根」は、縛り付けるものではなく、むしろ自分という存在を確立し安定させる要素のあるものです。 . 自分の身体・性格・生活環境や時代、両親。「いつもどんな時にもわたしは居るべき場所に居る」としっかり感じられる、ありとあらゆる自分のストーリーに対しての肯定感💕 . 春分の、このステキなはじまりにこの時間を皆さんとご一緒出来たこと。とっても嬉しかったです^_^ . . 今回はいつものレポートはお休み。かわりに皆さまへ、ヒーリング中の様子を短いものですがワンポイントメッセージでお届けの予定です。今夜から順次お届けして参りますので、もう少しお待ち下さいね💫 . ●ムーンサイクルセラピーに合わせて行うオンラインセッションをご希望の方は3/27からご希望のお日にちで調整させていただきますのでお知らせ下さい✨ . . 今日の写真1枚目はスピネル。 2枚目は先日お花屋さんでみかけた美しい根🌳 . わたしの方は昨日から東京・馬喰町でのPop up shop 「レクラン」がスタートして本日は2日目です✨ . 今日も13時〜20時で皆様のお越しをおまちしています^_^ 石達に逢いに、そしてお喋りしにお気軽にお立ち寄りくださいね💎 . 【Pop up shop】 L'écrin(レクラン) 3月22日(金)~ 25日(月) 13:00-20:00 馬喰町駅より徒歩3分、浅草橋駅より徒歩8分 . 開催場所: L'ATELIER EXQUIS @latelier.exquis 東神田1-13-17 · Chiyoda-ku, Tokyo, Japan . イベントページ↓ https://www.facebook.com/events/412888139255059/ . . . #春分の日 #満月 #天秤座満月 #ムーンサイクルセラピー #遠隔ヒーリング #エネルギーヒーリング . . #tyetcrystals #crystals #crystallife #crystalhealing #clairvoyance #クリスタルヒーリング #クリスタル #ヒーリング #クリスタルリーディング #サイキックリーディング #オンライン #新月 #満月 #多肉植物 #スピネル #チューリップ #鉱物 #天然石 #宝石 #石好き #日々の暮らし https://www.instagram.com/p/BvVMfffAa06/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=ezjr3ay2fb4l
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carguytimes · 5 years
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45mmも低くなった新型カローラ/レビンが世界初登場。日本向けは2019年内に発売へ【広州国際モーターショー2018】
以前お伝えしたように、中国の広州国際モーターショーで新型カローラ シリーズのセダン(中国名:カローラおよびレビン)がワールドプレミアされました。ボディサイズは、カローラ/レビン(中国向け)が全長4640×全幅1780×全高1435mmで、ホイールベースは2700mm。先代よりも10mm長く、5mmワイドで、45mmも低くなっています。 新型は、基本性能を大幅に向上させた「GA-C」プラットフォームをベースに、国・地域のユーザー特性(仕向地)に応じて、アクティブさを強調したスポーティモデル(北米、中国レビン、日本など)と、堂々とした上級感を表現したプレステージモデル(中国カローラ、欧州など)の2タイプが設定されるそう。 新型カローラセダンは、2019年春に米国・欧州で販売が開始された後、2019年央以降に発売される中国など、世界150以上の国・地域で順次発売。なお、日本では、スポーティモデルのカローラをベースに、日本のユーザーや道路環境に合わせて最適化した専用仕様のセダン、そしてワゴンを2019年内に発売する予定としています。 12代目の新型カローラは、トヨタが進めるクルマづくりの構造改革である「Toyota New Global Architecture」(TNGA)の取り組みをもとに、2018年夏に発売したハッチバックや、2019年初旬に欧州などで発売するワゴンも含めて、グローバルでプラットフォームを統一。トヨタでは、これらにより、効率的な開発を進めることにより商品力の大幅な向上を実現したと分析しています。 また、今回から欧州などで展開するハッチバックやワゴンのシリーズ名を「カローラ」に統一し、カローラブランドのさらなる強化も図られています。 外観のテーマは、「骨格で魅せる逞しさとアクティブさを併せ持つデザイン」を意味する「シューティング・ロバスト」を掲げたコンセプトとし、「TNGA」プラットフォームの採用により、先述したように、現行型より全高を低く、トレッドを広げることで、踏ん張り感のある低重心でスポーティなシルエットを得ています。 内装は、「シンプルでありながら感性に響くデザイン」を意味する「センシュアス・ミニマリズム」がコンセプト。薄型インパネによる心地よい開放感のある空間と、センタークラスターなど集約された機能部品とのコントラストにより、上質なデザインが追求されています。 また、初代コネクティッドカーを謳う新型カローラ。中国では、車載通信システムであるDCM(Data Communication Module)の標準搭載により「トヨタコネクティッド」(中国名「豊田智行互聯」)を全グレードに設定。 米国では「Apple CarPlay」や「Amazon Alexa」との連携をはじめとする様々なコネクティッド、マルチメディア機能、欧州では事故や急病時にオペレータに接続し、車両位置情報に基づき緊急車両を手配するサービスなどを提供するとしています。 (塚田勝弘) 【関連記事】 やはりカローラといえばセダン!? 新型カローラ/レビンを世界初披露へ【広州国際モーターショー2018】 https://clicccar.com/2018/11/10/651120/ あわせて読みたい * トヨタ・ハイラックスが日本一映える場所はココ!? トヨタ主催のキャンプイベントが開催 * 【新車】トヨタ・ハイラックスに黒のアクセントカラーとホワイトレターが採用された18インチタイヤが際立つ特別仕様車が登場 * トヨタ自動車が北米仕様の新型「カローラ」発表会をライブストリーミング! * 【新車】トヨタ・ハイラックスにオーバーフェンダー付きの特別仕様車が登場 * トヨタ「モリゾウ社長」が自身のFM番組で著名ラリー・ショップを訪問! http://dlvr.it/QrRlv4
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shibaracu · 4 years
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●柳田國男の世界
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●柳田國男の世界 この人の本はあまり読んだことがない。 何故か少し恐怖があった。 何ともコトバにしようがないほどの感じである。 民俗学的には良いものを出しているようだ。 でも批判もタダ有るようだ。 下の方の論文などは一度読む価値があるように思える。 折口という人と比較されたり並べていろんな話もあるようだ。 どれが良いのかハッキリしない。 人それぞれの取り方もある。 私は読んでも味方も敵にも成れない。 もともと、柳田が資料に頼らない歴史を民俗学としたから、 そういう学問になっている このコメントが引っかかる。     ◆柳田國男 - Wikipedia http://bit.ly/yTENHp 柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31日 - 1962年(昭和37年)8月8日)は日本の民俗学者。 現在の兵庫県神崎郡福崎町生まれで、晩年に名誉町民第1号となった。正三位勲一等。 日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行し、初期は山の生活に着目し、著書『遠野物語』で「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べた。 日本における民俗学の開拓者であった。   ◆柳田國男の世界 | 福崎町 http://www.town.fukusaki.hyogo.jp/category/3-2-0-0-0.html
   故郷 七十年 [2016年5月17日]    國男 年表 [2014年2月3日]    國男ゆかりの地 [2014年2月3日]    福崎の人々 [2014年2月3日]    柳田國男の世界 [2014年2月3日]    福崎という土地 [2014年2月3日]    其の一 [2014年2月3日]    其の二 [2014年2月3日]    其の三 [2014年2月3日]    其の四 [2016年5月17日]    其の五 [2016年5月17日]    其の六 [2016年5月17日]    其の七 [2016年5月17日]    其の八 [2016年5月17日]    其の九 [2016年5月17日]
森鴎外と出会い、松浦萩坪に師事し、自然主義の文学青年と交流。「文学界」に新体詩を発表、斬新な詩作で仲間を刺激した。 が、「なぜに農民は貧なりや」という言葉に示されるように、社会構造に対する鋭い疑問から、文学への傾倒を絶ち、農政学を志した。
◆福崎町立柳田國男・松岡家記念館 http://bit.ly/zeFzJs 本館は,『後狩詞記』や『遠野物語』などの多くの著作をあらわし,「日本民俗学の父」と 呼ばれる柳田國男(文化勲章受章,福崎町名誉町民第1号)と,医学・国学・言語学・ 美術などの分野で活躍した松岡家の顕彰を目的に,昭和50年に設立された記念館です 。   ◆1144夜『海上の道』柳田国男|松岡正剛の千夜千冊 https://1000ya.isis.ne.jp/1144.html 2006/05/23 今夜は柳田国男の『海上の道』をもって、いったん「千夜千冊」を擱筆するつもりでとりあげようと思っているのだが、その前に少し書いておきたいことがある。何にも煩わされることなく柳田や折口を読んでいたころがひたすら懐かしいということだ。   ◆成城大学 | 民俗学研究所 柳田國男について http://bit.ly/zD7Dft 「日本民俗学」の創始者で、近代日本を代表する思想家でもあった柳田國男(1875~1962) 成城大学民俗学研究所は、日本民俗学の創始者で近代日本を代表する思想家の一人でもある、柳田國男の寄贈書を納めた「柳田文庫・民俗学研究室」を基盤とし、設立されました。我国における民俗文化の研究センタ—としての役割を担うべく、日本の民俗文化及びこれに関連する研究、調査並びに資料の蒐集を行っています。   ◆柳田國男について  https://www.seijo.ac.jp/research/folklore/kunio-yanagida/intro/ 名もなき庶民(常民)の歴史や文化を明らかにしたいと考え、 「常民文化の探求」と「郷土研究」の必要性を説く 「日本民俗学」の創始者で、近代日本を代表する思想家でもあった柳田國男(1875~1962)は、明治8年7月31日に兵庫県神東郡田原村辻川という農村の医者・国学者であった父松岡操の六男として生まれる。幼少期に体験した飢饉、故郷を離れて見聞きした庶民の暮らしや間引き慣習の悲惨さを思い、「経世済民の学」を志向、東京帝國大学法科大学(現東京大学)で農政学を学ぶ。  「日本民俗学の祖」柳田國男の旧居は、小田急線の「成城学園前」下車3分、駅前の道を北進して2つ目の四つ角を左に折れると、木立の中に洋館があり、現在は、建て直されてご子孫が住まわれている。 柳田國男存命中の大きな書斎を持つ建物は、昭和63年に解体され、柳田家先祖ゆかりの信州飯田にある「飯田市美術博物館」の中に移築され、今は当時の面影はない。   ◆柳田國男館 - 飯田市美術博物館 http://bit.ly/AoL6VZ 「民俗の宝庫」―伊那谷の「生きた学び舎」としての活用をねがうものです。   ◆柳田國男記念公苑 [茨城県利根町公式ホームページ] http://www.town.tone.ibaraki.jp/page/page003532.html 2019/12/04 柳田國男記念公苑は、國男が少年時代を過ごした旧小川家の母屋、土蔵(資料館)で構成されており、著作物や文書等を展示しています。また、会議、講座、宿泊施設として利用できます。   ◆柳田国男 家系図研究にも影響を与えている http://bit.ly/zhfiMj 家系図の分野で有名な丹羽基二氏の大学での恩師にあたるそうです。(「日本人の苗字」にありました。) 神隠しの体験について語っていたりする神秘家としての柳田国男がいる��けですが、遡れば陰陽道の中心地播磨という関連もあるかも知れません。 宮本武蔵とは、赤松 つながりでもあるのですが、養子の宮本伊織の神隠し体験ともなんらかのつながりが あるかも ...   ◆第866回談話会要旨(2012年12月2日=いくつかの「先祖の話」:京都で読む柳田祖霊神学)  2013年5月6日 · http://www.fsjnet.jp/regular_meeting/abstract/866.html 主な登場人物2 ―京大文化史学派の『先祖の話』受容― 京都大学・菊地暁
 今回のシンポジウム「いくつかの『先祖の話』 ―京��で読む柳田祖霊神学―」(日本民俗学会第866回談話会、京都民俗学会第31回年次研究大会シンポジウムを兼ねる)はシンポジウム「京都で読む柳田国男」(2005年、柳田國男の会、国立歴史民俗博物館共同研究「日本における民俗研究の形成と発展に関する基礎研究」、京都大学人文科学研究所共同研究「近代京都研究」共催)の第2ラウンドともいうべき企画である。「京都で読む柳田国男」は、民俗学史をとりまくいくつかの「中心史観」への挑戦だった。柳田中心史観、純粋民俗学中心史観、東京教育大中心史観、そういった一連の偏向をともなう学史叙述は、結果的に、地方や隣接分野における実践の脱落につながった。そこでその偏向を転倒させるため、「京都」という視点の挿入を試みた。すなわち、粗野に対する洗練、野外に対する文献、在野に対する官学といった、「野の学問」の正反対を抱え込む「京都」をあえて前景化させることによって、民俗学という運動の射程と多様性を可視化させようとしたわけである。   ◆ぶく速 柳田国男と折口信夫って どっちのほうが強いの?http://bit.ly/x6R8bG 2011/12/23 ▽英雄の条件  「大人物出でよというのはかつて政界の常套語であったが、これは今いる連中がみな凡庸だという意味の反語であったかもしれぬ」 「丸太棒であれ鸛(コウノトリ)であれ、何か自分たちを統御してくれるものを恋しがっていた者は多いのである。 しかしその適任者が仲間の内に、今まで埋もれていたということはあまり喜ばなかった。英雄はもう少し毛色の変わった馬に乗って、雲の彼方より出現してこなければならなかった」  これは、民俗学の泰斗である柳田国男が1930年に書いた「明治大正史世相篇」の「英雄待望」の章の文章だ。この本には文明時評的なところがあるが、この部分も皮肉で面白い。 柳田とか折口とかの著作って学術書と言えるの?文学とかエッセイ、随筆の類だろ もともと、柳田が資料に頼らない歴史を民俗学としたから、そういう学問になっている   ◆遠野物語の柳田国男、農政の先駆者としての顔: オーライ!ニッポン https://blog.canpan.info/ohrai/archive/82 2019/02/03 遠野市を訪問したことから、遠野物語の柳田国男、民俗学の祖である柳田国男のもう一つの顔、農政の先駆者としての姿を知った。柳田が考える農政とはどのようなものだったのであろうか。 並松信久氏(京都産業大学 大学院 経済学研究科教授)は、論文「柳田国男の農政学の展開」の中で、柳田国男の農業政策の目的は生産量の増加ではなく、それを通して国民総体の幸福を実現することにあり、これは柳田がJ.S.ミル(JohnStuartMill,1806_1873)のイギリス功利主義の影響を受けていることを物語っている。 論文「柳田国男の農政学の展開」(PDF) https://ksu.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=1516&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1&page_id=13&block_id=21
◆水木しげるが漫画化した柳田國男『遠野物語』の“お色気シーン” http://bit.ly/z8x7Oi 作家の嵐山光三郎氏は過去に『水木しげるの遠野物語』(小学館刊)を書評しているが、この原稿で衝撃の事実が明らかになっている。以下、嵐山氏の書評だ。(『週刊ポスト』2010年4月9日号より)
◆柳田國男「ネブタ流し」を読む http://bit.ly/Aqfjb8 柳田國男の「毛坊主考」は、多面的な作品である。表題のとおり、地方の集落で半俗半僧侶生活を送る念仏の徒についての話もあれば、シュクや茶筅などの被差別的な扱いを受けていた人々の生態とその信仰について、また、各地に残る由来のわからなくなった塚や山という異界の周辺にたむろしている者(童子)たちについての話もあった。 この多様性は、「毛坊主考」が「郷土研究」誌上に連載されたものであるということに由来する。 柳田は、地域の口碑や伝承、他の地域の攘却行事を参考にして、ねぶたを“御霊祭”の一種として捉えていこうとしているのだ。   ◆遠野物語 - Wikipedia http://bit.ly/y0ckcQ 『遠野物語』( とおのものがたり)は、柳田國男が1910年(明治43年)に発表した説話集。日本民俗学 の黎明を告げた名著である。   ◆柳田国男 海上の道 - 青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/54331_53583.html +一二. +一三. +一四. +一五. +一六. +一七. +一八. +一九. +二〇. +二一. +二二. +二三. +海神宮考. +緒言. +一 昔話の島嶼型 ... それからこの方の記録だけによって海上の交通史を説くのは間違いのもとであろう。 昭和三十六年六月. 柳田国男. [#改丁] ... 日本の海端に、ココ椰子の実が流れ着くということは、決して千年ばかりの新らしい歴史ではなかったはずであるが、書物で海外の知識を学び取ろうとした者は、かえって ... 寄木 ( よりき ) は流木の浜に漂着したものといい、親はこちらで言うならば長者のことである。 「椰子の実」と柳田國男 =流木のロマン= ■ 日本は四方を海に囲まれ、その海岸線の 総延長は3万6千km(地球の9/10周に相当)にも及び、ロシア連邦、オーストラリアに 次いで世界で3番目に長い。日本は紛れもなく海洋大国なのです。   ◆島崎藤村の「椰子の実」は実にロマンチック… | 八重山毎日新聞社 http://www.y-mainichi.co.jp/news/12500 2008/12/02 島崎藤村の「椰子の実」は実にロマンチックだ。愛知県・渥美半島の伊良湖岬を民俗学者の柳田國男が訪れたとき、散策の途中に恋路ヶ浜で拾ったヤシの実の話を友人の島崎に語ったのがきっかけで生まれた叙情詩だという ▼波に揺られ、長い歳月をかけて南の島からたどりついた1個のヤシの実は文部省唱歌となり、多くの人々に親しまれている。その舞台になった渥美町(合併で田原市)は、石垣島沖から毎年ヤシの実を流して自然のロマンを再現、実際に漂着したケースもある ▼ところがどうだろう。八重山に流れ着くのは嫌なものばかりだ。復帰前は爆発物の「機雷」や米軍機の燃料タンク、廃油ボール、そしていまは海外の漁具類やごみだ ▼かつては海岸線を歩くのが楽しかった。珍しい形をした流木や漁具のガラス玉を拾って持ち帰った。だがいまは漂着ごみ量にぼうぜんとなる。プラスチックの容器をヤドカリが抱えて歩いている光景にも出会った ▼先に開かれた環境省の漂着ごみ地域検討会で、観光客アンケート結果として「ごみ回収で滞在日数は0.9日増える」と報告された ▼漂着ごみは静かに島々に負のイメージを広げており、事態は深刻。回収しても次々とごみは流れ着く。その悪循環を断ち切るのが外交力であり、政府に強く望みたい。(黒島安隆)   ◆童謡集/椰子の実(歌詞付き) https://youtu.be/eG1gB5dluU8 2009/08/02 有名な童謡曲集~MillesVents風~シリーズ 第2弾 とても難しい日本語で書かれた歌詞・・・ それを少しでも聴いて頂いた方に理解出来るようにと工夫して歌ってみました・・・。 伝わったでしょうか? ---歌詞の親切な解釈--- (文語調に不慣れな方の為に、歌詞の概略をしるしておきます) ※歌詞そのものではありません
名前も知らない 遠い島から
流れ着いた 椰子の実がひとつ
ふるさとの岸を離れて
お前はいったい何ヶ月 海をただよって来たんだい
お前が育った椰子の木は きっと生い茂り
枝の下に 影ができるほどなんだろうね
僕もまた 波の音を枕に
一人さすらう 浮寝の旅さ
椰子の実を手に取り 胸に当てれば
さすらいの憂いが また新たにわく
海に沈む夕陽をみていると
遠い異郷の地に流れ着いた今の我が身に
涙があふれて流れ落ちる
思いははるか 果てしない波の彼方
いつの日にか 故郷へ帰ろう
いつの日にか 故郷へ帰ろう ~Pucky訳~   ◆日本近代史の中の日本民俗学-柳田国男小論  http://bit.ly/xwOKIY 戦前の大東亜共栄圏の夢が軍事政治的には潰え去ったけれど、経済的覇権として甦ったのだ。 なぜ私たちは「大日本主義」の時代になると「日本」「日本人」を問いたくなるのだろうか。 外部より内部に目を向けたがるのだろうか。   ◆南方熊楠のキャラメル箱サイト内検索:柳田国男 http://bit.ly/wxM9F9 南方熊楠の手紙:神社合祀反対運動の終結、その他(口語訳1)明治44年12月10日   ◆柳田国男と遠野物語 2019/12/28 https://youtu.be/94ZghOx8jXM   ◆柳田国男.mpg  2010/08/16 https://youtu.be/oWm7zXLOBCI
◆遠野の昔話 『オシラサマ』  2015/04/04 https://youtu.be/h0hVjjrd5Gc 川崎市立日本民家園 佐々木家住宅 語り部 大平悦子氏   ●とおの物語の館 - 遠野市 http://www.city.tono.iwate.jp/index.cfm/48,23855,166,html 2013/04/25 昔話の世界を体感  とおの昔話村が、平成25年4月27日、「とおの物語の館」としてリニューアルオープンしました。  昔話を映像や音声で楽しむことができる「昔話蔵」や、語り部による昔話を聞くことができる劇場「遠野座」などのほか、お食事処やギフトショップも充実。見て、聞いて、食べて遠野をまるごと満喫できます。   ◆遠野の語り部   2008/12/08 https://youtu.be/96rY_9SQEWE 遠野の語り部、カッパの昔話 岩手の方言をお楽しみください   ◆柳田國男「神道は、太古の昔から現在にいたるまで連綿と続く、自然発生的な日本固有の民族的宗教である」 幕末の国学、柳田國男の「国家神道」批判、http://bit.ly/A5bfro   ◆第4回講座-神道研究入門- http://yamaguchi-gokoku.jp/subupage4.html 神道を敵視する立場から神道を研究するわけですから、そうした人たちの神道の研究書に従えば、天皇は人民統治手段として神道を用い、神も支配したという結論に導かれる論理になっており、神道は超国家主義的宗教とされました。
◆補足 「国家神道」がムラを壊した 04 09/10  http://bit.ly/xLHSWv 近代国家としての日本は終始一貫して「国家神道」を、国民の国家への忠誠と献身とを引き出す道具として利用した。 このような国家的計略を「日本に固有のものとはとうてい言えない」と批判したのは官僚出身の民俗学者、柳田国男であった。   ◆民俗学 - Wikipedia http://bit.ly/xOE6LS 民俗学(みんぞくがく、英語:folkloristics)は、学問領域のひとつ。高度な文明を有する諸国家において、自国民の日常生活文化の歴史を、民間伝承をおもな資料として再構成しようとする学問で、民族学や文化人類学の近接領域である。   ◆国家神道批判 [柳田国男の昭和]  http://bit.ly/xbZnG6 国男にとって、神道とは神と人とが交感し、交歓する祭にほかならなかった。その原風景が残るかぎり、たとえ国家が敗れても、くには残ると信じていた。   ◆祭政分離はとうぜん [柳田国男の昭和]  http://bit.ly/xKz8M5 記事はGHQの検閲をへている。 国男の発言は、明治憲法と国家神道を廃絶しながら、政治から切り離された国の祭祀者としての天皇を認めるというマッカーサーの考えを側面から支援するものとなっていた。 だが、それだけでは終わらない。 国男はさらに進んで、政治に利用されることのない神道の再生をひそかに構想していたのである。   ◆【日本近現代史】歪められた日本の歴史 | 日本人の信仰と聖書 ... http://nihonjintoseisho.com/blog001/2019/06/06/history-of-japan-2/ 2019/06/06 「高校生のためのおもしろ歴史教室」というウェブサイトを大変興味深く読ませていただいております。「日本を不思議の国から当たり前の国にいま、周辺国の陰謀によって悪化しつつある国際的評価に正しい主張をしてまいりましょう」日本を美しくする会相談役 鍵山秀三郎(月刊「致知」平成27年10月号「巻頭の言葉」/致知出版社) という文章が紹介されていましたので、一部をご紹介させていただきます。   ◆戦後日本 : 柳田国男らの民俗学による歴史学の破壊 file:///C:/Users/asahi/AppData/Local/Temp/symp_012__39__27_36__39_48.pdf A・N・ メシェリャコフ ロシア国立入文学大学 (日本語訳 ・土田久美子) 二十世紀はユートピアの世紀であった。ソビエト連邦でも、ナチス・ドイツでも、そして日本でもユートピアを建設する試みが見られた。 すなわち���ソ連は共産主義 、ドイツは「新秩序」、日本は「大東亜共栄圏」の建設を試みたのである。 ユートピアの思想を実現させる為 、いずれの三力国でも一社会的・文化的相違はあるにせよ一「全体主義」として特徴づけられるべきシステムが構築された。 いずれの三力国でもユートピアの建設は、国内外に対する広範囲の武力行使によて 実現された。 二十世紀はユートピア建設の世紀であるだけでなく、その破綻の世紀でもあった。 前述のいずれの国家もこの運命を免れることは不可能であった。 ドイツと日本は戦争に敗北し占領下に置かれ 、ソ連は第一に非効率的な経済システムの為に崩壊した。 全体主義が破綻した後 、いずれの三力国でもより民主的・個人主義的な社会を創り出す政策がとられ 、それは「全人類的」価値への参加として理解されたそれと同時に、かつての希望の破綻に伴い 、厳しいアイデンティティの危機が生じた。 危機には解決を要する。 新しいアイデンティティを創造した日本の経験はかなりの独自性で際立っており、あらゆる観点からの研究がなされる必要がある。
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大阪 都島区 野江内代駅より徒歩1分・おおさか東線JR野江駅徒歩6分【髪質改善専門】完全予約制のプライベートサロンleaLEA(レアレア)水からこだわる美容室/外から見えない美容院/【大人女性のマイナス10歳を叶える美容室】
どんどん寒くなってきました。
ファッションもスッカリ冬仕様に。
ファッションも夏違い、
ブラック
ブラウン
ネイビー
今年は、アニマル柄が多いかなと・・・
まぁ僕の好きでない暗い色が多い季節がやってきてしまいました・・・
街を見渡しても暗い・・・
気持ちが萎えてきます。
そんな中、僕は自分を貫きます!!!!
ファッションで気持ちは変わる!
僕は季節に左右されるファッションはあまり好きではないです!
なのでよく個性的と言われます!
個性を主張しやすいのがファッション!
一番の自己表現だと考えています!
この服に合うかなぁ?なんて考えないです!
自分が着たいものを着る!
それの何がいけないかがわからないです。
僕が買い物で唯一悩むとしたら値段です!!
あまり高い服は買いません!!
というより買えません(笑)
値段には拘ります!!
これ以上は出さないと決めて買い物に行くからです☆
そうする事で無駄な服を買わなくて済みます♪
派手な服が安くでないので困っていました・・・
古着屋さんも最近はそこそこお値段するので半ばこの時期は諦めていたのですが・・・
最近梅田で見つけた古着屋さん!
ココが安い!!!
こんな値段設定ありえるん!?
そう思うような驚くような値段です!!
正直初めだけだろうと思っていたのですが、調べてみると・・・
LOWECO 中崎町店 住所:〒530-0015 大阪府大阪市北区中崎西2丁目4-26 TEL:06-6110-5592 営業時間:12:00-20:00
株式会社LOWECOは、「5,000円以内でトータルコーディネートが完成できる」ロープライスでお財布にも地球にも優しい古着屋『LOWECO(ロエコ)』
ブランド名の『LOWECO(ロエコ)』には、「LOWPRICE(ロープライス)」と「ECOLOGY(エコロジー)」の2つの言葉を繋ぎ合わせて、ファッションとエコを身近に感じられる古着屋にしたいという願いが込められております。
昨今のアパレル・ファッション産業が石油業界に次いで2番目に環境汚染を生み出している産業と言われている中で、LOWECOでは世界的に問題となっている不要な衣類を買い付けし、ケアを施して、さらに手に取りやすい価格を追及し、より多くの人々の手に渡り循環させていく事で「サスティナブルな社会(地球環境保全の持続可能な社会)」の実現に貢献できればと考えております。 LOWECOでは、お客様が不要になった衣類を回収して資源に回したり、マイバッグを推奨し、ごみを減らし資源を大切にする地球環境保全活動に積極的に取り組んでおります。
そういう事だったんです!!
最高に嬉しい古着屋さんを見つけました!!!!
あまりだれも買わなさそうな服でコーデ
そんな服どこに売ってるん!?
と聞かれることが多いです。
色々な所に売ってます!!
いつもそう答える!!
実際決まったお店に行かないので柄服があればどんなお店でも入ります!!
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今回のコーデは見たまんまのanimalコーデ!
ワンポイントで取り入れる方が多いですが、僕は全身!!!!
個性が溢れ出てると!
毎日柄服で働いています!!!
気分が上がります!!
大人受けはイマイチ!
子供受けは最高♪
そんな僕の個性的コーデ★
何歳になっても続けていきたいですね☆
個性爆発!!
※限られた貴重な時間をleaLEAに割いていただいてますので、施術中のお客様をなるべく待たせません!!
当店はマンツーマンスタイルでサービスを提供しております。
髪質改善とお客様との時間を最も大切としているため、
よく美容室である電話対応時に待たされたり、飛び込みの方への対応で待ち時間が出るという事は、ないようにしています!
カットの途中でご予約のお客様を待たせて、電話対応はしません
カラーやパーマなど施術中の時に、途中で手を止めて電話対応はしません(薬剤放置時間は状況により)
接客中に飛び込みで来られた方の対応は予約の方が優先ですので待ち時間があります!(状況によりかなりの待ち時間がでます)
重なった予約はお取りしていないので、バタバタ慌ただしくなることはありません。(最大2人・夫婦でしているから)
マンツーマンスタイルなのでコロコロスタッフが変わる事はありません。(お手伝いをすることはあります)
美容室では静かに過ごされたい方のために、
そして、ご家族でゆっくりしていただけるようにも、小さなお子様と一緒にご来店や施術をする時はなるべくほかのご予約は入らないようにしております!
(※ご予約のタイミングでは貸し切りにできない事もあります。どうしても重なってしまう場合はもうしわけありません・・)
ご来店頂いたお客様に安心して過ごして頂くための、お店のルールになります。
完ぺきではないかもしれませんが、日々完ぺきを目指して取り組んでいます!!
尚、当店はマンツーマンスタイルでサービスを提供しております。お客様との時間を最も大切としているため、
ご予約のお電話を取るのが難しい場合がございます。
その場合、留守番電話にメッセージを残していただくと当日中には必ず折り返しご連絡させていただきます!
お急ぎの場合は24時間受付のWEB予約をご利用ください。何卒ご理解ご協力のほど宜しくお願い致します。
【髪質改善専門】完全予約制のプライベートサロンleaLEA(レアレア) hair&relaxation
〒534-0013 大阪府大阪市都島区内代町1-8-28 大阪 都島区 野江内代|美容室 ヘッドスパ 髪質改善 頭皮改善 水からこだわる 外から見えない 大人女性のマイナス10歳を叶える
個性的コーデ!明るい服で気持ちも明るく☆ #気楽にいこうよ #笑顔 #leaLEA #個性的コーデ #髪質改善 #頭皮改善 #完全予約制 #水からこだわる #外か��見えない #ヘッドスパ #ブラシでシャンプー #泡パック #ナノバブル水 #艶髪 #美髪 #ツヤ髪 #軟水 #大人3Dカラー #着付け #フロムアース #フムスエキス #ヒト幹細胞順化培養液 #ヒト羊水幹細胞順化培養液 #Dualvie #CELLASKIN #バイオプロポーザー #ちゅらウルル #GROOM #Lashaddict 大阪 都島区 野江内代駅より徒歩1分・おおさか東線JR野江駅徒歩6分【髪質改善専門】完全予約制のプライベートサロンleaLEA(レアレア)水からこだわる美容室/外から見えない美容院/【大人女性のマイナス10歳を叶える美容室】 どんどん寒くなってきました。 ファッションもスッカリ冬仕様に。 ファッションも夏違い、 ブラック ブラウン ネイビー 今年は、アニマル柄が多いかなと・・・ まぁ僕の好きでない暗い色が多い季節がやってきてしまいました・・・ 街を見渡しても暗い・・・ 気持ちが萎えてきます。 そんな中、僕は自分を貫きます!!!! ファッションで気持ちは変わる! 僕は季節に左右されるファッションはあまり好きではないです!
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