Tumgik
#蓑山大明神
bsamngodangbralba · 5 months
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小町数人説をめぐって
陽明文庫に中世の小町の絵がある。絹本着色、縦六一・六センチ、横四一・七センチの絵を表装してあるのだが、軸心近くの裏面に「小野小町像 貞治六秊六月廿五日」と、まさしくその頃この筆跡にて記されたものが付加されている。表装そのものもそんなに新しいものでないが、表装するにあたって、この絵に本来ついていた紙をここに付加したものであろうことは、その字がまさしく貞治頃〈一三六二〜一三六七〉この事跡であることが疑いもないからであろう。
ところで、この絵は「小野小町像」となっているが、まさしく「玉造小町子壮衰書」によっている。「容貌ハ憔悴シテ、身体ハ疲痩」、「頭ハ霜フリタル蓬ノ如ク、膚ハ凍リタル梨ニモ似タリ」、「骨ハ辣チテ筋ハ抗クナリ、面ハ黒クシテ歯ハ黄バミタリ」、「裸形ニシテ衣ナク、徒跣ニㇱテ履ナシ」、「左臂ニハ破レタル筐ヲ懸ケ、右手ニハ壊レタル笠ヲ提ツ」、「頸ニハーツノ囊ヲ係ケ、背ニハーツノ袋ヲ負ヘリ」、「肩ノ破レタル衣ハ胸ニ懸カリ、頸ノ壌レタル蓑ハ腰に纏ヘリ」とある「壮衰書」の序文をのものである。ここでもまた小野小町と玉造小町を同人物とする中世の理解が確認されるのである。
先にあげた「無名抄」の文〔五〇頁参照〕の続きに「玉造の小町と小野小町と同人かあらぬ者から、人々おぼつかなきことに申して争ひはべりし時...」とあって別人説もあったことは確かだが、その多くは前述の「玉造小町子壮衰書」の弘法大師著作説を土台にしての疑問であり、中世の大勢は、あくまで両者を同じものと見、「玉造小町子壮衰書」を小野小町の事蹟を語るものと見ていたことは疑いもないのである。
近世に入っても、この傾向は変わらなかった。貞徳の「徒然草慰草」などその顕著な例だが、中期以後の随筆の類を見ても、たとえば天野信景の「塩尻」〈『随筆大成』等〉、志賀忍〈天保十一年、七九歳没〉の「理斉随筆」などは、小野小町と玉造小町を同一人と考えている。
ところが、小町という名は、実は普通名詞であって、〇〇小町と呼ばれる女性はまことに数多くいたのだ、玉造小町と小野小町もとうぜん別人だという、いわば画期的な説が新井白雅の「牛馬問」「〈温知義書〉」に提示され、人々を驚かせたのである。
古代には一国より一人づつ采󠄃女を内裏へ献ぜしこと也。既に仁明帝の前後には、小町とて召されたるもの六十余人ありしとなり。この采󠄃女を后町のうちにをらしめたまふ。故にみなみな小町と呼ばれたるなり。その人々の宮仕へをやめて古郷に帰り身まかりたる墓を、おほか「た小町塚とよびしとなん。さてこそ、国々に小町塚といふもの多し。美濃・尾張の間にさへ二三所あり。
しかるを、なべての小町を一人と思ふよりまぎれたる説多し。たとへば実方朝臣、陸奥へ下向の時、髑髏の目穴より薄の生ひ出て、「秋風の吹くにつけてもあなめ〱」の歌の小町は小野正澄が娘の小野小町なり。文屋康秀が三河掾となりて下りし時、「身をうき草の根をたえて」さそふ水あらば」とよみしは高雄国分が娘の小町なり。「おもひつつぬればや人の見えつらむ」の歌、又業平の「舞の袖」などいひしは出羽郡司小町良実が娘なり。高野大師のあひたまふ、壮なる時憍慢最も甚だし、衰ふる日愁歎猶深しと答へしは常陸の国玉造義景が娘の小町なり。かく一人ならず。故に時代其外異なる事あるのみ。中にも良実が娘の小町は美人にて和歌にもすぐれたれば、独り名高く、すべて一人のやうに伝へ来たるのみ。
まず、小町を采󠄃女をし、采󠄃女のすべてに「町」をつけてよんだといっているが、平安時代の文献にあらわれる采󠄃女は、たとえば「近江の采󠄃女」〈拾遺集〉「明日香の采󠄃女」〈大和物語〉などのごとく、国名を冠して呼ぶのが普通である上に、文献にあらわれる「町」のつく女性は前述のように后町にいる更衣であって采󠄃女ではない。小町采󠄃女説自体が出羽都司良実の娘という伝承をもとにして出来たものであり、出羽国から采󠄃女をさしだすことはなかった〈「続日本紀」「類聚三代格」〉という事実を持ち出すまでもなく、この日雅の説には従えないのである。地方に数多い小町塚の合理的説明としても弱いものである。
ところで、この白雅の説、後半になると、その多数の小町が四人にしぼられて来る。架空の人物である小野正澄とか高雄国分とか玉造義景などの名をどこから持ち出して来たのか不明だが、既に伝説化説話化している小町像のすべてを事実と認定する立場からの合理的整理であって、まったく意味をなさぬものとしか言いようはないのである。
伝承る整理しながら、また新しい伝承を生んでいる感じの「牛馬問」の説であるが、その合理的整理法に人気があったのか。それに賛同して引用している随筆が実ははなはだ多いのである。神沢貞幹の「翁草」〈『随筆大成』第三期所収〉、城戸千楯の「紙魚室雑記」〈『随筆大成』第一期所収〉、石川宣続の「卯花園漫録」〈『新燕石十種』第三所収〉、山本信有の「孝経楼漫筆」〈『随筆大成』第三期所収」、滝沢馬琴・屋代弘賢らの「兎園小説」〈『百家説林』所収〉など、いずれもこれに全面的な賛同を示しているのである。
小町に限らず、伝説的人物は、その伝説化の過程において、事蹟が膨脹し、それを全体的に把握するとなると、そこに新しい矛盾が出てくることが多い。これを予盾なく合理的に統一しようとすると、いわば原生動物の体のように多方面に膨脹したものを分割するほかはなくなる。
たとえば柿本人麿の場合にしても、「万葉集」の記述を信するかぎり人麿は持統朝から文武朝にかけて活躍した歌人であるとするほかはない。だが一方、「万葉集」が引用する「柿本人麿歌集」にはそれよりもかなり後の歌もある。「人麿歌集」に後代の歌が入っているというのは今日の学者の常識だが、人間歌集なのだからすべてが人麿の歌だという立場に立てば、「万葉集」の人麿にして、既に最低二人いたことになる。次に「古今集」の仮名序を見ると、、「おほきみつの位(正三位)柿本人麿」を「ならの御時」の歌人としている。現在では、これを「奈良時代」と解し、しかも人麿が活躍した飛鳥時代は奈良時代に接していたからこのように書いたと説明している。だが、そこに都があった「時代」と解するのはどうか。平安時代において「御時」とは天皇の治世、すなわと御宇のことであり、「ならの御時」は平城の帝の御時の意にほかならないからである。事実、この仮名序に対応する真名序(漢文の序)には「平城天子」とはっきり書かれている。「古今集」より五十年ほど後に出来た「大和物語」にも人麿が平城天皇に仕えていたとある。平城天皇は平安時代第二の天皇だから「万葉集」の人麿とは違う。これ第三の人麿ということになる。ところ、で、「古今集」から百年ほど後の第三の勅撰歌集「拾遺集」を見ると、人麿が渡唐してよんだという歌が二首見える。これ、第四の人麿である。
人麿を一人ではなく四人とすると、その間の矛盾はなくなる。しかし矛盾がなくなったところでどうなるというのだ。私が問題にしたいのはそんなことではない。実在の人麿が、その死後、奈良時代・平安時代にどのように伝説化されていったか、別のことはで言えば、後の人々の心の中に人麿がどのように生き続けて来たか、私はそれを問題にしたいのである。
小町の場合も同じである。江戸時代の学者のように小町を四人にしたり、現代の民俗学系の国文学者のように、小町と称する女が無数にいたとか、小町を名のる遊行婦女・あるき巫女・歌比丘尼のたぐいが諸国をめぐり歩いていたと言い切ることによって事足れりとし、文献に残った小町の文学と伝承について深く考えようともしないのは学問の堕落、ある意味では頽廃という評語が適切でさえある。仮に彼らの言うようなことがあったとしても、せいぜい中世の後期のことであり、「小野小町の歴史」ほ既に平安時代中期以前から始まり、中世、近世と続いていたのである。小町が、その死後も、後代の人々の心の中にどのように生き続け、どのように変容していったか、あるいはまた、時を経て変容しながらその底に変えずに生き続けてゆく、いわゆる小町的なもの、それはいったい何かということの追跡にこそ、私は意味を認めたいのである。世に虚と言い実と言う。しかし、このように見れば、人々の心の中に生き続けていたものはすべてが実だと言うほかはないのである。
以下の章において次第に明らかにしてゆくことであるが、小野小町の説明化は、彼女の死後間もない頃から既に始まっていたのである。そして十世紀の末頃には、我々が知っている小町説話、たとえば(1)雨乞説話(2)好色説話(3)男性を拒否する驕慢説話(4)衰老説話 等、そのおおむねが既に出来るがっていたはずである。だから、そのような流れの中に「玉造小町子壮衰書」を置くならば、「小町老いて後、おとろへさらぼりたりなど云ふめるは、玉造小町の事なるを混じていへるなり」〈本居内遠「小野小町の考」〉というような見方が必ずしもあたらぬことを知るのである。小町衰老落魄の説話が「壮衰書」の影響で出来上がったというよりも、既に世に行なわれていた小町落魄説話の仏教的結実として壮衰書を考えるべきではないか。「玉造」の由来を明らかに出来ぬことは残念であるが、ともかくも「小町」と表題にあるだけで人々が説明を求めないような人物の伝でなければならないこと、しかもそれが「花ノ時ヲ待チテハ玉筆ヲ秉リテ紅桜紫藤ノ和歌ヲ詠ズル」美女の伝でなければならないことなどを併せ考えれば、平安末期から中世にかけての人々の大勢的理解がそうであったように、これをも小野小町のこととするのが、最も素直な、そんなして最も妥当な理解だと思うのだが、いかがであろうか。
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niyuuhdf · 6 days
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行屋虚彦 生育歴 +α
生育歴:
誕生してしばらくは、まだ少し自律して動けたナナちゃんが赤子イキヤの世話を、冷泉・山雪などと一緒にしていた。冷泉さんはまだ稼ぎの少ない生活だったが、雇えるときには信頼するお手伝いさんを呼んでもいたようだ。(冷泉さんの実家にたまに来ていた親戚?少なくとも美遊さんが信頼する人間) 冷泉さんはイキヤの新聞記事など含めた、優しい記憶だけのアルバムを作り続けていた。
イキヤ、発達が早い。 一才と2日目で立った。そのあとすぐ歩いた。 二歳の誕生日には普通に意味のある単語文を喋る。(作者とも行屋家の遺伝とも共通���)
2歳の頃に、絵本を読む。※実際は絵本を見ながら絵に描かれている内容を推測してペラペラと突っかかることなく流暢に話し続けていた。その内容がしっかりと筋が通っていていかにも絵本らしい語彙や表現にも満ちていたため、周囲の大人は「2歳でもう本が読める子」と勘違いするほどだった。 (実際はむしろ識字に困難がある)
2歳の頃には自主的にあれこれ動き回り、庭の草むしりなどもしていた。(命に圧されて殺されないよう、相手を殺していた) そのうち、弱った生き物を拾ってきて世話をし、死ぬ寸前に殺して標本にしたりなどを始める。 近所の年上の子どもに、泥水や砂をかけられたり目の特徴や機械的な動作について野次られる。が、本人は「なるほど、そう見えるのか」と納得しただけだった。 攻撃はすぐ回避アクションを体得したため、怪我を負ったことは少ない。
「イキヤは昔から…少なくとも2歳の頃にはすでに、人に触れられるのを極端に嫌った 嫌うというより…強い生理的嫌悪感のような 触れようとしてきた人間を蹴り飛ばして暴力沙汰になったことが何度かある 例えば敵意も害意もまるでなく優しく頭を撫でようとしてきた大人を、あの痩せた小柄で蹴って何メートルも吹っ飛ばして大怪我を負わせたことも 本人はあとで悔やんでたよ 相手に敵意や害意がないことが、目では見えてたはずなのに、体が先に動いちまったと
※3歳ごろから母の世話をもうしていたのではないかと思われる。 ※たまに帰ってくる父・疾彦の羽織の裾がたなびく様子を「かっこいい」と思い、「大きくなったらあれを譲ってもらって俺も着る」と思っていた。 ※新屋敷佐がイキヤを児童相談所案件ではないかと見ていたのもこの頃? ※同時期から、面前DVに遭っている。複数のアトリエに出入りしていた際、山雪のアトリエではないアトリエで、大人たちのセックスの遊びに付き合わされ、見ているようにと強要された。
5歳、アイロン事件。 ここから極寒の世界が始まる。あったかいものや湯気などが、感覚過敏とよくない生活習慣とともに受けつけなくなっていく。 「あったまると、溶けて崩れてカタチを保てず、終わる」 感覚過敏と神経が、ずっと極寒の中にいたらほんのり麻痺したり、暑さで汗をかかないから肌がかぶれたり痛くなったり痒くなったりについてすこし安全になる、という側面も、あたたかさの拒絶と極寒を助長した。 ※火傷を負わせた犯人は、直後に行方不明、のちに遺体で発見された。謎の謝罪文のような遺書を残していた。トキさんの仕業?
6歳、たまに現れてる時期に、図画工作とかの授業で必ず先生がイキヤの作品を褒めて、イキヤは居場所なくしてして クラスメイトや学校中の子から 「いくら自分ががんばって絵を描いても、どうせ選ばれるのは行屋に決まってる、いつもそう、もういいよ」って それで、周りの子どもの絵を描くモチベーションを自分が下げて奪っていると感じ、早々に学校の授業で描くのはやめて、師匠のアトリエで描き始めた。
それでもたまに顔を出さなければいけなかった小学校で、上階からバケツに入れられた鉛筆やコンパスや雑巾や定規などの入った水をかけられる。そのとき、咄嗟に頭を手で庇ったときに手に鉛筆が貫通するが、イキヤは帰宅してから描く絵のことで頭がいっぱいで(なんとなく手に違和感がある)としか感じず放置。 絵を描くときに不便を感じて初めて鉛筆が突き刺さっていることに気づいた。 クラスメイトからは、痛覚のない機械かロボットのようだとさらに不気味がられた。
6歳、ピアス事件。 冷泉さんの中のばけものを鎮静化させるため、冷泉さんの中の被害と加害の意識を同じにしよう、八つ当たりをさせようと、ピアスをあけるようにねだる。冷泉さんが拒絶し、諭そうとすると、イキヤは冷泉さんの過去の被害をその場で克明に見透かして言い当て、すべて言葉にした。動揺してフラッシュバックを起こして朦朧とした判断力のない状態で、ピアッサーに手を招かれて、挟まさせられて、イキヤがその上から冷泉さんの手を握ってバチン!と開けた。両耳を開けた以降の記憶は、冷泉さんの側にはしっかりとはない。 「バケモノにされたひと。暴れもせず、泣き叫ぶことも、喚き散らすこともなく、ひとを傷つけないように生きるバケモノの姿を、そのままただ見ていられなかった」 冷泉さんはイキヤに黒曜石のピアスをあげた 「二度と他人に同じ真似を強いることのないように 情動に飲まれそうになったらこのピアスに触れて思い出せ」と
6歳、ヌードモデルの仕事が、給料がいいので引き受ける。イキヤのヌードをほとんど性的な娯楽にしていた画家がおり、いかにも創作活動と芸術を装って隠れ蓑にして性的に搾取してくる視線にイキヤが自分で気付けたとき、イキヤは相手を蹴り飛ばして「筆持っといててめえにプライドねえのか」と叫び大暴れ。少し騒ぎになった。が、内輪でのことだからと、身内ネタで誰にもお咎めなしで終わった。
6歳、頭痛に悩まされ、市販の鎮痛剤を濫用・多量摂取しはじめた。飲んで効く間だけ、頭痛も全身の痛みも苦痛も和らぎ、他人ともそつなく接することができるようになると気付いてから、いつも市販薬を常備し、持ち歩くようになった。連日連用するとすぐに薬に耐性ができてしまう体で、用法容量を守っていては効かないときには過剰摂取していた。15歳時点でもまだそれは続いている。
6歳、それまでに描いた絵と師匠のアトリエで描いた絵すべてトータルで新聞記事に載る。その頃はまだ世間で物珍しかった「共感覚」という言葉を強調して載せられたことで、世間から注目の目が集まる。 それから逃げようと、ここからイキヤはモノトーンの絵しか描かなくなる。(それだとそういう画風として、何を描いてもいろいろ誤魔化せたから)
8歳、名廊直人に「見たままを描いてごらん」と言われ、そこから自分の色覚に完全に従順を通り越して隷属した絵を描き始める。 その絵を師匠のアトリエに置いていたらアトリエに来た人間(かなりの名士で富裕層の資産家)が「相応の額を払うからこの絵を買いたい」と言う。イキヤはなにげなくいつものハイペースで描いた絵の中のひとつだったその絵を、売る。 買った人間が、豪奢な自宅(大勢の富裕層が出入りする)の応接間にその絵をしっかりと飾ったこと、応接間に通された来客が話題の一端としてその絵について尋ね、しっかりと答える(イキヤの創作活動の一助になり支援するような感覚もおそらくあった)ことで、その人間の人脈にイキヤの絵は評判となり、 8歳のイキヤのもとに「自分の家にもあのような絵がぜひ欲しい」という、かなり裕福な大人たちからの依頼が来るようになる。 8歳のイキヤはせいいっぱい依頼に応え、「あのような絵」と称された最初に売れた絵から大きく枠を外れない絵を描いて売った。 依頼された絵以外はどんなようにでも好きに描いていたが、やがてそれもあまり人目に触れないようにし出した。(酷いことだから、だけではない。)
8歳、大人から飲まされた酒で急性アルコール中毒で倒れて死にかけた。以来、酒を飲んだことがない。 酒を飲まされる時、脱がされ引き倒され、「肛門で飲むか自分でちゃんと飲むか?」を脅され、選択させられたことで脳に異常が出る。が、本人は脅された部分の記憶を忘れ去っており、大したトラウマにもならず、さらに後日罵倒された言葉で、「自分が酒に弱かったせいで急性アルコール中毒で倒れた」とだけぼんやり記憶していた。急性アルコール中毒に死の危険があることなど、無意識に関連情報について調べたり、考えることを避けてやめていた。
依頼された絵を描くうちに「個展をやってみないか」と言われ、依頼された絵に近いものを選んで個展をした。 イキヤの中で「売れる絵を描けば当然売れる」ということが、思春期あたりで漠然と腑に落ちなくなってきてイライラしだし、粗暴になる。 (この辺りから公式デフォルトイキヤになっていく) 自慰行為では消えたくなる。
13歳の時、同じ公募展で入選した篝要の絵(ドローイング作品)を見て、展示会場の近くにいるカガリの色と気配を追い、初対面のカガリにイキヤから声をかける。「お前の描く絵は凄いものだ。絶対に描くのをやめるな」 その二言で身を翻してイキヤは走り去った。その褪せた黒い細身のパーカー姿の背中が遠ざかっていく、それがユーレイだったカガリが、イキヤを自分の「本体」として捉えた原風景となった。 これ以後、カガリはイキヤに接近し、たびたび脈絡もなくイキヤの首を絞め、それを許さないイキヤに容赦なく蹴り弾かれる。カガリの中でその度にイキヤは「殺しても殺しても絶対に死なない、壊しても壊しても壊しても大丈夫な最強の本体」になっていく。
15歳の時、名廊直人が40歳で自殺して死亡。 自分の視覚に静謐に従い続けた直人の命が早々に途切れたことで、イキヤの中で何かふっきれた。このままではいけないと。 これまでで一番大きな個展を開き、作風も画風も画材もテーマも纏まりも一貫性もないこれまで好きに描いた絵すべてを晒す。
その後、「行屋虚彦」の絵の確立していたブランド性はやや落ちた。しかし評価をあげる人間もいたため相変わらず売れる。
16歳の時、母・ナナが2階からの転落で首の骨を折り、死去。 不眠症だったイキヤがほんの5分ほどうっすら眠っていた隙の出来事だった。2階の手すり、落下した母の長い髪の毛の先が指に触れるところまでイキヤは駆けつけていたが、遅かった。 落下時に掴んだひと束の髪の毛は頭皮から抜けて2階のイキヤの手の中に残った。 そして母の亡骸を抱きしめて、母を一人にしないように(自分が置いていかれたくなかった)と死後の世界についていこうとした結果、発見されたときには目も耳も聞こえなくなっていた。それは視覚が強いイキヤにとっては冥界に近いなにかだった。
17歳、母の死後、守るものを亡くしたイキヤはとにかく自分にできる仕事ならなんでもやり始める。 あまりの手数の多さ、しかしオールマイティと呼ぶには偏っているさまが「外見的シーラカンス」モチーフの由来。 画家としては生粋の画家というよりやや「便利屋」的なふうにもなっていく。 もともと注文が多ければ多いほど不自由で楽しく絵が描けるイキヤ。
18歳、神経と感覚を研ぎ澄まして集中し絵を描き続けたことで、身体が緊張状態から戻ってこれなくなる。(生来そんな状態が続いてもいた) 胴体内(胸部から腹部全体、下腹部まで)を内側から誰かの手で優しく撫でられるような、性的快感に似た刺激に悶え苦しむ日々が始まる。本人が拒絶する意に反した性的快楽、に似た苦痛の継続。それで身体が死に至ることがないことも、イキヤ本人にもずっとよく感じられるような苦痛の継続。※トキさんはこれをさらに激しい激痛や快楽にすり替えて、自分であらゆる薬を試して、薬を見つけて生き延びた。
18歳、ある日絵を描いていて突然、眼球を無数の夥しい針で刺されるような痛みが目にくる。 逆まつげではないかとイキヤは睫毛を毟った。 眼科、脳神経外科、その他あらゆる検査でなにも身体には異常なし。原因不明となる。 目を閉じていると和らぐことから、ここからイキヤはほとんどの時間を目を閉じて視覚なしで生きる。 絵を描ける時間とタイミングが極端に制限され、作品数も激減を余儀なくされ、生きていくのにギリギリの収入しか得られなくなる。 途端に貧困と、目の見えない生活苦に陥る。
19歳、発狂。 ナナと同じ茫然自失の状態になる、もしくは幼児退行し健忘の激しい無邪気なさまになる。 目が見えないことと腑をくすぐられる病により、発狂。絵の中に描いて潜ませることで語れていた心を語るすべを奪われたことが決定打となる。 イキヤが潜在意識で絵の中に潜ませ続けたのは一貫してたった一言、「助けて」だった。
19���、発狂状態で、行屋灯彦の家に囲われて生きることになる。 病の苦しみを知る灯彦と、その娘・冥(昏と同音だが別人。空海の詩からとった漢字)が、イキヤの身体を安らげようとしてイキヤをレイプするのが日常になる。 冥はイキヤの子を身籠り、イキヤの娘・行屋瞳(いきや・まな)が産まれる。 現状を知った冷泉、山雪らは灯彦と話し合うが、何度も決裂。 が、話し合いの途中で灯彦が若くして死亡。 最終的にイキヤは精神病院に入院しての生活に入る。
享年20歳。精神病院の病室で、殺害、変死?(閉鎖病棟なので普通は簡単に出入りできない)された状態で発見される。トキさんの仕業?
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wangwill66 · 9 days
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春夏秋冬
H:南宋無門慧開禪師的一首詩「好時節」: 「春有百花秋有月,夏有涼風冬有雪,若無閒事掛心頭,便是人間好時節。」 春夏秋冬四季,在我們平常人心中是無感的,除了農人的「春耕、夏耘、秋收、冬藏,四者不失時,故五穀不絕,而百姓有餘食也。」我們只知道寒冷冬天過後,春天覺得暖和,百花也開了。夏天來熱呼乎,秋天有點涼,落葉也多了。冬天來了又冷。���他無言。詩人作家寫四季,詩情畫意隨筆來,美美的意境詠嘆,無聊就念念解心煩。20240420W6
網路資料
正月期間,今天就介紹南宋無門慧開禪師的一首詩,它告訴我們甚麼是「好時節」: 「春有百花秋有月,夏有涼風冬有雪,若無閒事掛心頭,便是人間好時節。」 春花秋月,夏風冬雪,一年四季都可以是好時節,但最讓你能夠感到好時節的,不是外在的春夏秋冬,而是「若無閒事在心頭」,也就是說,心中沒有掛慮,沒有恐懼,那麼任何時候都是好時節。2021年3月1日
荀子王制:
聖主1之制也:草木榮華滋碩之時,則斧斤不入山林,不夭其生,不絕其長也。黿鼉魚鱉鰍鱣孕別之時,罔罟毒藥不入澤,不夭其生,不絕其長也。春耕、夏耘、秋收、冬藏,四者不失時,故五穀不絕,而百姓有餘食也。汙池淵沼川澤,謹其時禁,故魚鱉優多,而百姓有餘用也。斬伐養長不失其時,故山林不童,而百姓有餘材也。
作者:朱自清
1933年7月
姊妹計劃: 數據項
 參閱維基百科中的:春季 閲文言維基大典文
盼望着,盼望着,東風來了,春天的腳步近了。
一切都像剛睡醒的樣子,欣欣然張開了眼。山朗潤起來了,水長起來了,太陽的臉紅起來了。
小草偷偷地從土裏鑽出來,嫩嫩的,綠綠的。園子裏,田野裏,瞧去,一大片一大片滿是的。坐着,躺着,打兩個滾,踢幾腳球,賽幾䠀跑,捉幾回迷藏。風輕悄悄的,草軟綿綿的。
桃樹、杏樹、梨樹,你不讓我,我不讓你,都開滿了花趕䠀兒。紅的像火,粉的像霞,白的像雪。花裏帶着甜味;閉了眼,樹上髣髴已經滿是桃兒、杏兒、梨兒!花下成千成百的蜜蜂嗡嗡地鬧着,大小的蝴蝶飛來飛去。野花遍地是:雜樣兒,有名字的,沒名字的,散在草叢裏,像眼睛,像星星,還眨呀眨的。
「吹面不寒楊柳風」,不錯的,像母親的手撫摸着你。風裏帶來些新翻的泥土的氣息,混着青草味,還有各種花的香,都在微微潤溼的空氣裏醞釀。鳥兒將窠巢安在繁花嫩葉當中,高興起來了,呼朋引伴地賣弄清脆的喉嚨,唱出宛轉的曲子,與輕風流水應和着。牛背上牧童的短笛,這時候也成天在嘹亮地響。
雨是最尋常的,一下就是三兩天。可別惱。看,像牛毛,像花針,像細絲,密密地斜織着,人家屋頂上全籠着一層薄煙。樹葉子卻綠得發亮,小草也青得逼你的眼。傍晚時候,上燈了,一點點黃暈的光,烘托出一片安靜而和平的夜。鄉下去,小路上,石橋邊,撐起傘慢慢走着的人;還有地裏工作的農夫,披着蓑戴着笠的。他們的草屋,稀稀疏疏的在雨裏靜默着。
天上風箏漸漸多了,地上孩子也多了。城裏鄉下,家家戶戶,老老小小,他們也趕䠀兒似的,一個個都出來了。舒活舒活筋骨,抖擻抖擻精神,各做各的一份兒事去。「一年之計在於春」,剛起頭兒,有的是工夫,有的是希望。
春天像剛落地的娃娃,從頭到腳都是新的,它生長着。
春天像小姑娘,花枝招展的,笑着,走着。
春天像健壯的青年,有鐵一般的胳膊和腰腳,他領着我們上前去。
說夢
作者:朱自清
1925年10月
姊妹计划: 数据项
  偽《列子》里有一段夢話,說得甚好:
  “周之尹氏大治產,其下趣役者,侵晨昏而不息。有老役夫筋力竭矣,而使之彌勤。晝則呻呼而即事,夜則昏憊而熟寐。精神荒散,昔昔夢為國君:居人民之上,總一國之事;游燕宮觀,恣意所欲,其樂無比。覺則复役人。……尹氏心營世事,慮鐘家業,心形俱疲,夜亦昏憊而寐。昔昔夢為人仆:趨走作役,無不為也;   數罵杖撻,無不至也。眠中啽囈呻呼,徹旦息焉。……”
  此文原意是要說出“苦逸之复,數之常也;若欲覺夢兼之,豈可得邪?”這其間大有玄味,我是領略不著的;我只是斷章取義地賞識這件故事的自身,所以才老遠地引了來。我只覺得夢不是一件坏東西。即真如這件故事所說,也還是很有意思的。因為人生有限,我們若能夜夜有這樣清楚的夢,則過了一日,足抵兩日,過了五十歲,足抵一百歲;如此便宜的事,真是落得的。至于夢中的“苦樂”,則照我素人的見解,畢竟是“夢中的”苦樂,不必斤斤計較的。若必欲斤斤計較,我要大膽地說一句:他和那些在牆上貼紅紙條儿,寫著“夜夢不祥,書破大吉”的,同樣地不懂得夢!
  但庄子說道,“至人無夢。”偽《列子》里也說道,“古之真人,其覺自忘,其寢不夢。”——張湛注曰,“真人無往不忘,乃當不眠,何夢之有?”可知我們這几位先哲不甚以做夢為然,至少也總以為夢是不大高明的東西。但孔子就与他們不同,他深以“不复夢見周公”為憾;他自然是愛做夢的,至少也是不反對做夢的。——殆所謂時乎做夢則做夢者歟?我覺得“至人”,“真人”,畢竟沒有我們的份儿,我們大可不必妄想;只看“乃當不眠”一個條件,你我能做到么?唉,你若主張或實行“八小時睡眠”,就別想做“至人”,“真人”了!但是,也不用擔心,還有為我們掮木梢的:我們知道,愚人也無夢!他們是一枕黑甜,哼呵到曉,一些儿夢的影子也找不著的!我們徼幸還會做几個夢,雖因此失了“至人”,“真人”的資格,卻也因此而得免于愚人,未嘗不是運气。至于“至人”,“真人”之無夢和愚人之無夢,究竟有何分別?卻是一個難題。我想偷懶,還是摭拾上文說過的話來答吧:“真人……乃當不眠,……”而愚人是“一枕黑甜,哼呵到曉”的!再加一句,此即孔子所謂“上智与下愚不移”也。說到孔子,孔子不反對做夢,難道也做不了“至人”,“真人”?我說,“唯唯,否否!”孔子是“圣人”,自有他的特殊的地位,用不著再來爭“至人”,“真人”的名號了。但得知道,做夢而能夢周公,才能成其所以為圣人;我們也還是夠不上格儿的。
  我們終于只能做第二流人物。但這中間也還有個高低。高的如我的朋友P君:他夢見花,夢見詩,夢見綺麗的衣裳,……真可算得有夢皆甜了。低的如我:我在江南時,本忝在愚人之列,照例是漆黑一團地睡到天光;不過得聲明,哼呵是沒有的。北來以后,不知怎樣,陡然聰明起來,夜夜有夢,而且不一其夢。但我究竟是新升格的,夢盡管做,卻做不著一個清清楚楚的夢!成夜地亂夢顛倒,醒來不知所云,恍然若失。最難堪的是每早將醒未醒之際,殘夢依人,膩膩不去;忽然雙眼一睜,如墜深谷,万象寂然——只有一角日光在牆上痴痴地等著!我此時決不起來,必凝神細想,欲追回夢中滋味于万一;但照例是想不出,只惘惘然茫茫然似乎怀念著些什么而已。雖然如此,有一點是知道的:夢中的天地是自由的,任你徜徉,任你翱翔;一睜眼卻就給密密的麻繩綁上了,就大大地不同了!我現在确乎有些精神恍惚,這里所寫的就夠教你知道。但我不因此詛咒夢;我只怪我做夢的藝術不佳,做不著清楚的夢。若做著清楚的夢,若夜夜做著清楚的夢,我想精神恍惚也無妨的。照現在這樣一大串儿糊里糊涂的夢,直是要將這個“我”化成漆黑一團,卻有些儿不便。是的,我得學些本事,今夜做他几個好好的夢。我是徹頭徹尾贊美夢的,因為我是素人,而且將永遠是素人。
  (原載1925年10月《清華周刊》第24卷第8號)
揚州的夏日
  揚州從隋煬帝以來,是詩人文士所稱道的地方;稱道的多了,稱道得久了,一般人便也隨聲附和起來。直到現在,你若向人提起揚州這個名字,他會點頭或搖頭說:“好地方!好地方!”特別是沒去過揚州而念過些唐詩的人,在他心里,揚州真像蜃樓海市一般美麗;他若念過《揚州畫舫錄》一類書,那更了不得了。但在一個久住揚州像我的人,他卻沒有那么多美麗的幻想,他的憎惡也許掩住了他的愛好;他也許离開了三四年并不去想它。若是想呢,——你說他想什么?女人;不錯,這似乎也有名,但怕不是現在的女人吧?——他也只會想著揚州的夏日,雖然与女人仍然不無關系的。
  北方和南方一個大不同,在我看,就是北方無水而南方有。誠然,北方今年大雨,永定河,大清河甚至決了堤防,但這并不能算是有水;北平的三海和頤和園雖然有點儿水,但太平衍了,一覽而盡,船又那么笨頭笨腦的。有水的仍然是南方。揚州的夏日,好處大半便在水上——有人稱為“瘦西湖”,這個名字真是太“瘦”了,假西湖之名以行,“雅得這樣俗”,老實說,我是不喜歡的。下船的地方便是護城河,曼衍開去,曲曲折折,直到平山堂,——這是你們熟悉的名字——有七八里河道,還有許多杈杈椏椏的支流。這條河其實也沒有頂大的好處,只是曲折而有些幽靜,和別處不同。
  沿河最著名的風景是小金山,法海寺,五亭橋;最遠的便是平山堂了。金山你們是知道的,小金山卻在水中央。在那里望水最好,看月自然也不錯——可是我還不曾有過那樣福气。“下河”的人十之九是到這儿的,人不免太多些。法海寺有一個塔,和北海的一樣,据說是乾隆皇帝下江南,鹽商們連夜督促匠人造成的。法海寺著名的自然是這個塔;但還有一樁,你們猜不著,是紅燒豬頭。夏天吃紅燒豬頭,在理論上也許不甚相宜;可是在實際上,揮汗吃著,倒也不坏的。五亭橋如名字所示,是五個亭子的橋。橋是拱形,中一亭最高,兩邊四亭,參差相稱;最宜遠看,或看影子,也好。橋洞頗多,乘小船穿來穿去,另有風味。平山堂在蜀岡上。登堂可見江南諸山淡淡的輪廓;“山色有無中”一句話,我看是恰到好處,并不算錯。這里游人較少,閒坐在堂上,可以永日。沿路光景,也以閒寂胜。從天宁門或北門下船。蜿蜒的城牆,在水里倒映著蒼黝的影子,小船悠然地撐過去,岸上的喧扰像沒有似的。
  船有三种:大船專供宴游之用,可以挾妓或打牌。小時候常跟了父親去,在船里听著謀得利洋行的唱片。現在這樣乘船的大概少了吧?其次是“小划子”,真像一瓣西瓜,由一個男人或女人用竹篙撐著。乘的人多了,便可雇兩只,前后用小凳子跨著:這也可算得“方舟”了。后來又有一种“洋划”,比大船小,比“小划子”大,上支布篷,可以遮日遮雨。“洋划”漸漸地多,大船漸漸地少,然而“小划子”總是有人要的。這不獨因為价錢最賤,也因為它的伶俐。一個人坐在船中,讓一個人站在船尾上用竹篙一下一下地撐著,簡直是一首唐詩,或一幅山水畫。而有些好事的少年,愿意自己撐船,也非“小划子”不行。“小划子”雖然便宜,卻也有些分別。譬如說,你們也可想到的,女人撐船總要貴些;姑娘撐的自然更要貴囉。這些撐船的女子,便是有人說過的“瘦西湖上的船娘”。船娘們的故事大概不少,但我不很知道。据說以亂頭粗服,風趣天然為胜;中年而有風趣,也仍然算好。可是起初原是逢場作戲,或尚不傷廉惠;以后居然有了价格,便覺意味索然了。
  北門外一帶,叫做下街,“茶館”最多,往往一面臨河。船行過時,茶客与乘客可以隨便招呼說話。船上人若高興時,也可以向茶館中要一壺茶,或一兩种“小籠點心”,在河中喝著,吃著,談著。回來時再將茶壺和所謂小籠,連价款一并交給茶館中人。撐船的都与茶館相熟,他們不怕你白吃。揚州的小籠點心實在不錯:我离開揚州,也走過七八處大大小小的地方,還沒有吃過那樣好的點心;這其實是值得惦記的。茶館的地方大致總好,名字也頗有好的。如香影廊,綠楊村,紅葉山庄,都是到現在還記得的。綠楊村的幌子,挂在綠楊樹上,隨風飄展,使人想起“綠楊城郭是揚州”的名句。里面還有小池,叢竹,茅亭,景物最幽。這一帶的茶館布置都歷落有致,迥非上海,北平方方正正的茶樓可比。
  “下河”總是下午。傍晚回來,在暮靄朦朧中上了岸,將大褂折好搭在腕上,一手微微搖著扇子;這樣進了北門或天宁門走回家中。這時候可以念“又得浮生半日閒”那一句詩了。
  (原載1929年12月11日《白華旬刊》第4期)
夏日田間即景(近沙士頓)
作者:徐志摩 1922年寫於1922年2月,原載於1922年3月14日《時事新報·學燈》,並未錄入徐志摩在世時出版的4本詩集中。
版本信息
姊妹计划: 数据项
柳林青青,
南風薰薰,
幻成奇峰瑤島,
一天的黃雲白雲,
那邊麥浪中間,
有農婦笑語殷殷。
笑語殷殷——
問後園豌豆肥否,
問楊梅可有鳥來偷;
好幾天不下雨了,
玫瑰花還未曾紅透;
梅夫人今天進城去,
且看她有新聞無有。
笑語殷殷——
「我們家的如今好了,
已經照常上工去,
不再整天的無聊,
不再逞���使氣,
回家來有說有笑,
疼他兒女——愛他妻;
呀!真巧!你看那邊,
蓬著頭,走來的,笑嘻嘻,
可不是他,(哈哈!)滿身是泥!」
南風熏熏,
草木青青,
滿地和暖的陽光,
滿天的白雲黃雲,
那邊麥浪中間,
有農夫農婦,笑語殷殷。
想飛
作者:徐志摩 1925年收錄於散文集《自剖》
姊妹计划: 数据项
假如這時候窗子外有雪──街上,城牆上,屋脊上,都是雪,胡同口一家屋簷下偎著一個戴黑帽兒的巡警,半攏著睡眼,看棉團似的雪花在半空中跳著玩……假如這夜是一個深極了的啊,不是壁上掛鐘的時針指示給我們看的深夜,這深就比是一個山洞的深,一個往下鑽螺旋形的山洞的深…… 假如我能有這樣一個深夜,它那無底的陰森捻起我遍體的毫管;再能有窗子外不住往下篩的雪,篩淡了遠近間揚動的市謠;篩泯了在泥道上掙扎的車輪;篩滅了 腦殼中不妥協的潛流……
我要那深,我要那靜。那在樹蔭濃密處躲著的夜鷹,輕易不敢在天光還在照亮時出來睜眼。思想,它也得等。
青天裡有一點子黑的。正衝著太陽耀眼,望不真,你把手遮著眼、對著那兩株樹縫裡瞧,黑的,有排子來大,不,有桃子來大──嘿,又移著往西了!
我們吃了中飯出來到海邊去。(這是英國康槐爾極南的一角,三面是大西洋)。勖麗麗的叫聲從我們的腳底下勻勻的往上顫,齊著腰,到了肩高,過了頭頂,高入了雲,高出了雲。
啊!你能不能把一種急震的樂音想像成一陣光明的細雨,從藍天裡衝著這平鋪著青綠的地面不住的下?不,那雨點都是跳舞的小腳,安琪兒的。雲雀們也吃過了飯,離開了它們卑微的地巢飛往高處做工去。上帝給它們的工作,替上帝做的工作。瞧著,這兒一隻,那邊又起了兩!一起就衝著天頂飛,小翅膀活動的多快活,圓圓的,不躊躇的飛,──它們就認識青天。一起就開口唱,小嗓子活動的多快活,一顆顆小精圓珠子直往外唾,亮亮的唾,脆脆的唾,──它們讚美的是青天。瞧著,這飛得多高,有豆子大,有芝麻大,黑刺刺的一屑,直頂著無底的天頂細細的搖,──這全看不見了,影子都沒了!但這光明的細雨還是不住的下著……
飛。「其翼若垂天之雲……背負蒼天,而莫之夭閼者;」那不容易見著。我們鎮上東關廂外有一座黃泥山,山頂上有一座七層的塔,塔尖頂著天。塔院裡常常打鐘,鐘聲響動時,那在太陽西曬的時候多,一枝艷艷的大紅花貼在西山的鬢邊回照著塔山上的雲彩,──鐘聲響動時,繞著塔頂尖,摩著塔頂天,穿著塔頂雲,有一隻兩隻,有時三隻四隻有時五隻六隻蜷著爪往地面瞧的「餓老鷹」,撐開了它們灰蒼蒼的大翅膀沒掛戀似的在盤旋,在半空中浮著,在晚風中泅著,彷彿是按著塔院鐘的波蕩來練習圓舞似的。那是我做孩子時的「大鵬」?
有時好天抬頭不見一瓣雲的時候聽著貌憂憂的叫聲,我們就知道那是寶塔上的餓老鷹尋食吃來了,這一想像半天裡禿頂圓睛的英雄,我們背上的小翅膀骨上就彷彿豁出了一銼銼鐵刷似的羽毛,搖起來呼呼聲的,只一擺就衝出了書房門,鑽入了玳瑁鑲邊的白雲裡玩兒去,誰耐煩站在先生書桌前晃著身子背早上上的多難背的書!
啊!飛!不是那在樹枝上矮矮的跳著麻雀兒的飛;不是那湊天黑從堂匾後背衝出來趕蚊子吃的蝙蝠的飛;也不是那軟尾巴軟嗓於做集在堂簷上的燕子的飛。要飛就得滿天飛,風攔不住雲擋不住的飛,一翅膀就跳過一座山頭,影子下來遮得陰二+畝稻田的飛,要天晚飛倦了就來繞著那塔頂尖順著風向打圓圈做夢……聽說餓老鷹會抓小雞!
飛。人們原來都是會飛的。天使們有翅膀,會飛,我們初來時也有翅膀,會飛。我們最初來就是飛了來的,有的做完了事還是飛了去,他們是可羨慕的。但大多數人是忘了飛的,有的翅膀上掉毛不長再也飛不起來,有的翅膀叫膠水給膠住了,融拉不開,有的羽毛叫人給修短了像鴿子似的只會在地上跳,有的拿背上一對翅膀上當鋪去典錢使過了期再也贖不回……真的,我們一過了做孩子的日子就掉了飛的本領。
但沒了翅膀或是翅膀壞了不能用是一件可怕的事。因為你再也飛不回去,你蹲在地上呆望著飛不上去的天,看旁人有福氣的一程一程的在青雲裡逍遙,那多可憐。而且翅膀又不比是你腳上的鞋,穿爛了可以再問媽要一雙去,翅膀可不成,折了一根毛就是一根,沒法給補的。還有,單顧著你翅膀也還不定規到時候能飛,你這身子要是不謹慎養太肥了,翅膀力量小也再也拖不起,也是一樣難不是?
一對小翅膀馱不起一個胖肚子,那情形多可笑!到時候你聽人家高聲的招呼說,朋友,回去罷,趁這天還有紫色的光,你聽他們的翅膀在半空中沙沙的搖響,朵朵的春雲跳過來擁著他們的肩背,望著最光明的來處翩翩的,冉冉的,輕煙似的化出了你的視域,像雲雀似的只留下一瀉光明的驟雨──「 Thou art unseen,ut yet I hear the shrill delight.」──那你,獨自在泥塗裡淹著,夠多難受,夠多懊惱,夠多寒傖!趁早留神你的翅膀,朋友。
是人沒有不想飛的。老是在這地面上爬著夠多厭煩,不說別的。飛出這圈子,飛出這圈子!到雲端裡去,到雲端裡去!那個心裡不成天千百遍的這麼想?飛上天空去浮著,看地球這彈丸在太空裡滾著,從陸地看到海、從海再看回陸地。凌空去看一個明白──這本是做人的趣味,做人的權威,做人的交代。這皮囊要是太重挪不動,就擲了它,可能的話,飛出這圈子,飛出這圈子!
人類初發明用石器的時候,已經想長翅膀,想飛,原人洞壁上畫的四不像,它的背上掮著翅膀;拿著弓箭趕野獸的,他那肩背上也給安了翅膀。小愛神是有一對粉嫩的肉翅的。挨開拉斯(Icarus)是人類飛行史裡第一個英雄,第一次犧牲。安琪兒(那是理想化的人)第一個標記是幫助他們飛行的翅膀。那也有沿革──你看西洋書上的表現。最初像一對小精緻的令旗,蝴蝶似的粘在安琪兒們的背上,像真的,不靈動的。漸漸的翅膀長大了,地位安準了,毛羽豐滿了。畫圖上的天使們長上了真的可能的翅膀。人類初次實現了翅膀的觀念,徹悟了飛行的意義。挨開拉斯閃不死的靈魂,回來投生又投生。
人類最大的使命,是製造翅膀;最大的成功是飛!理想的極度,想像的止境,從人到神!詩是翅膀上出世的;哲理是在空中盤旋的。飛:超脫一切,籠蓋一切,掃蕩一切,吞吐一切。你上那邊山峰頂上試去,要是度不到這邊山峰上,你就得這萬丈的深淵裡去找你的葬身地!
[這人形的鳥會有一天試他第一次的飛行給這世界驚駭,使所有的著作讚美,給他所從來的棲息處永久的光榮]啊!達文西!
但是飛?自從挨開拉斯以來,人類的工作是製造翅膀,還是束縛翅膀?這翅膀,承上了文明的重量,還能飛嗎?都是飛了來的,還都能飛了回去嗎?鉗住了,烙住了,壓住了,──這人形的鳥會有試他第一次飛行的一天嗎?……
同時天上那一點子黑的已經迫近在我的頭頂,形成了一架鳥形的機器,忽的機沿一側,一球光直往下注,硼的一聲炸響,──炸碎了我在飛行中的幻想,青天裡平添了幾堆破碎的浮雲。
(一九二五年十月六月)
故都的秋(郁達夫)
  秋天,無論在什么地方的秋天,總是好的;可是啊,北國的秋,卻特別地來得清,來得靜,來得悲涼。我的不遠千里,要從杭州赶上青島,更要從青島赶上北平來的理由,也不過想飽嘗一嘗這“秋”,這故都的秋味。
  江南,秋當然也是有的;但草木雕得慢,空气來得潤,天的顏色顯得淡,并且又時常多雨而少風;一個人夾在蘇州上海杭州,或廈門香港廣州的市民中間,渾渾沌沌地過去,只能感到一點點清涼,秋的味,秋的色,秋的意境与姿態,總看不飽,嘗不透,賞玩不到十足。秋并不是名花,也并不是美酒,那一种半開,半醉的狀態,在領略秋的過程上,是不合适的。
  不逢北國之秋,已將近十余年了。在南方每年到了秋天,總要想起陶然亭的蘆花,釣魚台的柳影,西山的虫唱,玉泉的夜月,潭柘寺的鐘聲。在北平即使不出門去罷,就是在皇城人海之中,租人家一椽破屋來住著,早晨起來,泡一碗濃茶、向院子一坐,你也能看得到很高很高的碧綠的天色,听得到青天下馴鴿的飛聲。從槐樹葉底,朝東細數著一絲一絲漏下來的日光,或在破壁腰中,靜對著象喇叭似的牽牛花(朝榮)的藍朵,自然而然地也能夠感覺到十分的秋意。說到了牽牛花,我以為以藍色或白色者為佳,紫黑色次之,淡紅色最下。最好,還要在牽牛花底,教長著几根疏疏落落的尖細且長的秋草,使作陪襯。
  北國的槐樹,也是一种能使人聯想起秋來的點綴。象花而又不是花的那一种落蕊,早晨起來,會舖得滿地。腳踏上去,聲音也沒有,气味也沒有,只能感出一點點极微細极柔軟的触覺。掃街的在樹影下一陣掃后,灰土上留下來的一條條掃帚的絲紋,看起來既覺得細膩,又覺得清閒,潛意識下并且還覺得有點儿落寞,古人所說的梧桐一葉而天下知秋的遙想,大約也就在這些深沈的地方。
  秋蟬的衰弱的殘聲,更是北國的特產;因為北平處處全長著樹,屋子又低,所以無論在什么地方,都听得見它們的啼唱。在南方是非要上郊外或山上去才听得到的。這秋蟬的嘶叫,在北平可和蟋蟀耗子一樣,簡直象是家家戶戶都養在家里的家虫。
  還有秋雨哩,北方的秋雨,也似乎比南方的下得奇,下得有味,下得更象樣。
  在灰沈沈的天底下,忽而來一陣涼風,便息列索落地下起雨來了。一層雨過,云漸漸地卷向了西去,天又青了,太陽又露出臉來了;著著很厚的青布單衣或夾襖曲都市閒人,咬著煙管,在雨后的斜橋影里,上橋頭樹底下去一立,遇見熟人,便會用了緩慢悠閒的聲調,微歎著互答著的說:
  “唉,天可真涼了─—”(這了字念得很高,拖得很長。)
  “可不是么?一層秋雨一層涼了!”
  北方人念陣字,總老象是層字,平平仄仄起來,這念錯的歧韻,倒來得正好。
  北方的果樹,到秋來,也是一种奇景。第一是棗子樹;屋角,牆頭,茅房邊上,灶房門口,它都會一株株地長大起來。象橄欖又象鴿蛋似的這棗子顆儿,在小橢圓形的細葉中間,顯出淡綠微黃的顏色的時候,正是秋的全盛時期;等棗樹葉落,棗子紅完,西北風就要起來了,北方便是塵沙灰土的世界,只有這棗子、柿子、葡萄,成熟到八九分的七八月之交,是北國的清秋的佳日,是一年之中最好也沒有的GoldenDays。
  有些批評家說,中國的文人學士,尤其是詩人,都帶著很濃厚的頹廢色彩,所以中國的詩文里,頌贊秋的文字特別的多。但外國的詩人,又何嘗不然?我雖則外國詩文念得不多,也不想開出賬來,做一篇秋的詩歌散文鈔,但你若去一翻英德法意等詩人的集子,或各國的詩文的An-thology來,總能夠看到許多關于秋的歌頌与悲啼。各著名的大詩人的長篇田園詩或四季詩里,也總以關于秋的部分。寫得最出色而最有味。足見有感覺的動物,有情趣的人類,對于秋,總是一樣的能特別引起深沈,幽遠,嚴厲,蕭索的感触來的。不單是詩人,就是被關閉在牢獄里的囚犯,到了秋天,我想也一定會感到一种不能自己的深情;秋之于人,何嘗有國別,更何嘗有人种階級的區別呢?不過在中國,文字里有一個“秋士”的成語,讀本里又有著很普遍的歐陽子的《秋聲》与蘇東坡的《赤壁賦》等,就覺得中國的文人,与秋的關系特別深了。可是這秋的深味,尤其是中國的秋的深味,非要在北方,才感受得到底。
  南國之秋,當然是也有它的特异的地方的,比如廿四橋的明月,錢塘江的秋潮,普陀山的涼霧,荔枝灣的殘荷等等,可是色彩不濃,回味不永。比起北國的秋來,正象是黃酒之与白干,稀飯之与饃饃,鱸魚之与大蟹,黃犬之与駱駝。
  秋天,這北國的秋天,若留得住的話,我愿把壽命的三分之二折去,換得一個三分之一的零頭。
  一九三四年八月,在北平
  
冬天(朱自清)
  說起冬天,忽然想到豆腐。是一“小洋鍋”(鋁鍋)白煮豆腐,熱騰騰的。水滾著,像好些魚眼睛,一小塊一小塊豆腐養在里面,嫩而滑,仿佛反穿的白狐大衣。鍋在“洋爐子”(煤油不打气爐)上,和爐子都熏得烏黑烏黑,越顯出豆腐的白。這是晚上,屋子老了,雖點著“洋燈”,也還是陰暗。圍著桌子坐的是父親跟我們哥儿三個。“洋爐子”太高了,父親得常常站起來,微微地仰著臉,覷著眼睛,從氤氳的熱气里伸進筷子,夾起豆腐,一一地放在我們的醬油碟里。我們有時也自己動手,但爐子實在太高了,總還是坐享其成的多。這并不是吃飯,只是玩儿。父親說晚上冷,吃了大家暖和些。我們都喜歡這种白水豆腐;一上桌就眼巴巴望著那鍋,等著那熱气,等著熱气里從父親筷子上掉下來的豆腐。
  又是冬天,記得是陰歷十一月十六晚上,跟S君P君在西湖里坐小划子。S君剛到杭州教書,事先來信說:“我們要游西湖,不管它是冬天。”那晚月色真好,現在想起來還像照在身上。本來前一晚是“月當頭”;也許十一月的月亮真有些特別吧。那時九點多了,湖上似乎只有我們一只划子。有點風,月光照著軟軟的水波;當間那一溜儿反光,像新砑的銀子。湖上的山只剩了淡淡的影子。山下偶爾有一兩星燈火。S君口占兩句詩道:“數星燈火認漁村,淡墨輕描遠黛痕。”我們都不大說話,只有均勻的槳聲。我漸漸地快睡著了。P君“喂”了一下,才抬起眼皮,看見他在微笑。船夫問要不要上淨寺去;是阿彌陀佛生日,那邊蠻熱鬧的。到了寺里,殿上燈燭輝煌,滿是佛婆念佛的聲音,好像醒了一場夢。這已是十多年前的事了,S君還常常通著信,P君听說轉變了好几次,前年是在一個特稅局里收特稅了,以后便沒有消息。
  在台州過了一個冬天,一家四口子。台州是個山城,可以說在一個大谷里。只有一條二里長的大街。別的路上白天簡直不大見人;晚上一片漆黑。偶爾人家窗戶里透出一點燈光,還有走路的拿著的火把;但那是少极了。我們住在山腳下。有的是山上松林里的風聲,跟天上一只兩只的鳥影。夏末到那里,春初便走,卻好像老在過著冬天似的;可是即便真冬天也并不冷。我們住在樓上,書房臨著大路;路上有人說話,可以清清楚楚地听見。但因為走路的人太少了,間或有點說話的聲音,听起來還只當遠風送來的,想不到就在窗外。我們是外路人,除上學校去之外,常只在家里坐著。妻也慣了那寂寞,只和我們爺儿們守著。外邊雖老是冬天,家里卻老是春天。有一回我上街去,回來的時候,樓下廚房的大方窗開著,并排地挨著她們母子三個;三張臉都帶著天真微笑地向著我。似乎台州空空的,只有我們四人;天地空空的,也只有我們四人。那時是民國十年,妻剛從家里出來,滿自在。現在她死了快四年了,我卻還老記著她那微笑的影子。
  無論怎么冷,大風大雪,想到這些,我心上總是溫暖的。
  (原載1933年12月1日《中學生》第40號)
白馬湖之冬
夏丏尊
在我過去四十餘年的生涯中,冬的情味嘗得最深刻的,要算十年前初移居白馬湖的時候了。十年以來,白馬湖已成了一個小村落。當我移居的時候,還是一片荒野,春暉中學的新建築巍然矗立於湖的那一面,湖的這一面的山腳下是小小的幾間新平屋,住著我和劉君心如兩家。此外兩、三里內沒有人煙。一家人於陰曆十一月下旬從熱鬧的杭州移居於這荒涼的山野,宛如投身於極帶中。
那裡的風差不多日日有的,呼呼作響,好像虎吼。屋宇雖係新建,構造卻極粗率,風從門窗隙縫中來,分外尖削。把門縫窗隙厚厚地用紙糊了,椽縫中卻仍有透入。風颳得厲害的時候,天未夜就把大門關上,全家吃畢夜飯即睡入被窩裡,靜聽寒風的怒號,湖水的洴湃。靠山的小後軒,算是我的書齋,在全屋子中是風最少的一間,我常把頭上的羅宋帽拉得低低地在油燈下工作至深夜,松濤如吼,霜月當窗,饑鼠吱吱在承塵上奔竄。我於這種時候,深感到蕭瑟的詩趣,常獨自撥劃著爐火,不肯就睡,把自己擬諸山水畫中的人物,作種種幽邈的遐想。
現在白馬湖到處都是樹木了,當時尚一株樹都未種,月亮與太陽卻是整個兒的,從山上起直要照到山下為止。在太陽好的時候,祇要不颳風,那真和暖得不像冬天。一家人都坐在庭間曝日,甚至於喫午飯也在屋外,像夏天的晚飯一樣。日光曬到那裡,就把椅凳移到那裡。忽然寒風來了,祇好逃難似地各自帶了椅凳逃入室中,急急把門關上。在平常的日子,風來大概在下午快要傍晚的時候,半夜即息。至於大風寒,那是整日夜狂吼,要二、三日才止的。最嚴寒的幾天,泥地看去慘白如水門汀,山色凍得發紫而黯,湖波泛著深藍色。
下雪原是我所不憎厭的。下雪的日子,室內分外明亮,晚上差不多不用燃燈。遠山積雪,足供半個月的觀看,舉頭即可從窗中望見。可是究竟是南方,每冬下雪不過一、二次,我在那裡所日常領略的冬的情味,幾乎都從風來。白馬湖的所以多風,可以說是有著地理上的原因的,那裡環湖原都是山,而北首卻有一個半里闊的空隙,好似故意張了袋口歡迎風來的樣子。白馬湖的山水,和普通的風景地相差不遠;唯有風卻與別的地方不同。風的多和大,凡是到過那裡的人都知道的。風在冬季的感覺中,自古占著重要的因素,而白馬湖的風尤其特別。
現在,一家僦居上海多日了,偶然於夜深人靜聽到風聲的時候,大家就要提起白馬湖來,說「白馬湖不知今夜又颳得怎樣厲害哩!」
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kachoushi · 27 days
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星辰選集
花鳥誌 令和6年4月号
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令和6年1月号の掲載句より再選
坊城俊樹選
この星辰選集は、私が各月の掲載句の中で、雑詠選・撰集選・さいかち集の成績などに関係なく、改めて俳句としての価値が優れていると判断したものを再度選句したものです。 言わば、その号における珠玉の俳句ということになります。
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秋日傘上る高さに水平線 中里 三句 秋声や置いてけ堀の風の中 伊藤 ひとみ 華麗なる家族からつぽ蔦灯る 斉藤 いづみ 空席のまま木の実時雨のベンチ 横田 美佐子 雲と雲重なるところ秋の声 渡辺 彰子 これよりは鏡の間なり秋の声 緒方 愛 華やかに滅びゆく香や秋薔薇 栗原 和子
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流星のかの世に消えてゆきにけり 続木 一雄 曼珠沙華もの思ふ翳ありにけり 飯川 三無 あてどなくさ迷ふ蟻や秋の暮 秋吉 斉 蓮の実やあの世この世と飛ばしをり 田上 喜和 恐ろしき事をさらりと秋扇 村上 雪 梢に絡まれ蓑虫の空へ鳴く 田中 惠介 いにしへの子らも吹かれし秋の風 後藤 軽象
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月光の鏡の中で逢ふ二人 平山 きみよ 秋の蟬さらにはるけき声重ね 田丸 千種 眼裏に映る我が家や暮の秋 菊井 美奈子 柏翠忌ベレーのバッジべらんめえ 坂井 令子 留学生TENPURA抓む月見船 蒼井 音呼 姫娑羅の肌秋霖に艶めける 本間 白陶 捨案山子闇夜に踊るかも知れず 鈴木 月惑 騒がしき鶏舎の真昼曼珠沙華 津野 おさむ
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とんぼうの空中停止して暫し 高山 八草 コスモスの声わきあがる虚空かな 鮫島 成子 つくづくと美男葛の真くれなゐ 安原 さえこ 両の手を月にとどけと肩車 大和田 博道 神田川そつくり秋の水となる 藤森 荘吉 宇宙目差し目的不明のクラゲかな 粟倉 健二 秋出水思考停止となる刹那 小川 笙力
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kennak · 1 month
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猫ノ沢事件(ねこのさわじけん)とは、1916年(大正5年)に秋田県河辺郡船岡村船岡字猫ノ沢(現大仙市協和船岡沢内)で発生した事件である。この事件により全国一の密造酒摘発地であった秋田県での密造酒の習慣を大きく変えるきっかけになった事件であった。「猫ノ沢」の地名は資料によっては「猫の沢」と記述される場合も多いが、この記事では前者で統一する。 概要[編集] 沢内白山神社神社の前が猫ノ沢事件の現場となる 1916年(大正5年)6月24日、秋田税務署間税課長ら一行8名は、未明豪雨の中を濁酒検挙のため、河辺郡船岡村船岡字猫ノ沢部落に向っていた。早朝から同部落を調べ、隣接の庄内部落に向かう途中、猫ノ沢部落に向かう夫婦連れに出会う。署員は「どこから来たか」と尋ねたところ、男は「貴様らの如��者に用事はない」と暴言を吐き、突如Kに組み付いて押し倒したので、他の署員が取り押さえて不心得を諭した。ところが、その夫婦は猫ノ沢集落に帰って、「いま税務署属らに不当の暴行をうけ殺されるところだった」と伝えた。部落民は日頃から濁酒検挙で税務署属に悪感情を抱いていたところから憤慨し、その暴行への復讐、および再び濁酒検挙にこないよう打ちこらしてやるべきだと相談がまとまり、税務署属の帰路を襲うべく盤木を鳴らして部落民を小学校前に集め待機した。一方税務属一行は、猫ノ沢部落白山神社付近の沢合いや堰端、田圃など捜索すべく進んでいた。これを知った部落民は盤木を乱打して襲撃を促し、蓑笠を着用し、鎌、鉈その他の凶器をたずさえ、降雨の中を白山神社前に向い税務署属一行と出会うや喚声をあげて襲いかかり、無抵抗の税務署属らを突く、刺す、殴るの乱暴を働き、凄惨な修羅場と化した。税務署属一行は鎌で背部から肺に達する瀕死の重症を負わされた者、鎌で頭部を乱打され骨膜に達する重傷を負った者など5人が重軽傷を負った。この事件は首謀者、実行行為のあった者、あるいは声援して騒いだ一部の部落民が、騒擾、公務執行妨害罪、傷害罪で起訴され、10名を懲役(各6年2名、5年3名、1年5名)、15名を罰金(各30円3名、20円12名)に処する有罪判決が、2名に無罪の判決が言い渡され確定した[1]。 背景[編集] 明治維新以降、酒類に対して一般的に課税することとなったのは、1871年(明治4年)の「清濁酒醤油醸造株鑑札収与税則」[2](明治4年太政官布告第389号、清酒濁酒醤油鑑札収与並ニ収税方法規則)を定めた時からである。この課税制度はもっぱら販売用の酒類を対象として規定されており、自家用のため製造する酒類については「細民農桑ノ辛苦ヲ醫スルカ爲」[3]のものとして課税の対象外としていた。しかしその後、財政規模の拡大とともに酒税負担を漸次増加せしめることとし、また、自家用酒を製造している者には資産家が多く、「細民」はかえって課税された酒類を購入するという齟齬も発生していた。そこで、1880年(明治13年)制定の酒造税則(明治13年太政官布告第40号)は、酒税の増税に伴い、自家用酒製造数量を1石(180L)以下に制限した(同附則)。1882年(明治15年)には、製造数量の制限のほか免許鑑札制度を導入し、免許鑑札料80銭を徴収するとともに、自家用酒として製造した酒類の販売を禁止した。さらに、1894年(明治27年)から翌1895年(明治28年)に行われた日清戦争の歳入不足を補うために、1899年(明治32年)には自家用酒税法を廃止し、同時に自家用酒の製造を全面的に禁止した。しかし、1899年(明治32年)の酒類の製造数量はかえって減少傾向さえ示した。濁酒製造免許者は77%増となったが、その免許を受けるには年間50石(9000L)以上生産することを条件としていた。そのため、部落内の共同出資により団体を結成しその代表者の名義で免許を受け合法的に製造することが考えられていた。しかし、その濁酒を基にしてさらに大量の濁酒を密造する者が続出したため、結局かえって密造を助長する結果となった[4]。 その後、1909年(明治42年)頃から密造取り締まりが厳密に実施され全般的には密造が減少傾向にあったものの、秋田県と岩手県は1916年(大正5年)まで密造激甚地として残っていた[5]。密造禁止の趣旨が徹底せず「自家用酒の製造は本来の悪事ではない」「小さな密造犯を処分するのは法律の目的ではない」「税務官吏の取り締まりは自分の成績を上げるためで、罰金のうち何割かは賞与としてもらうのではないか」という話が流布し、これらが税務官吏に対する怨恨になり、一方犯罪者に対する同情となり、相互庇い合うという傾向すら見られた[4]。 1900年(明治33年)7月3日の秋田魁新報では「酒は蕎麦と同様自家で作るべきものとの慣習は村落民に一つの観念を作り容易に抜けず、自家用酒制限されるや、彼等の不平高まり、税吏をみること疫病神のごとし、時に税吏に対し蛮行を振う愚民もあり、しかも村民一般の感情がかかる蛮行者をみること義民のごとく、犯罪者に対し同情をあたえつつあり、実に笑止千万なり」と報じている。密造酒の摘発には新聞記者も同行して記事を書いているほか、摘発記事などもかなり大きく報じている。税吏に濁酒を押収された家は「ヤマイ神につかれた」としてむしろ同情の眼で見られた。摘発は現品を押さえ、しかも醸造人が明らかでなければ罰金は科せられなかった。そこで、農民たちは知恵をしぼった。期限まで罰金を納められない場合には入獄しなければいけなかったが、この場合は年寄りや女房が夫に代わって労役につくことが多かった[6]。 国は毎年6億円の歳出を必要としていたが、そのうち1億円は酒税によるものであった。当時、秋田県は密造酒による検挙人数はいつも全国一であった。「取締当局としては一罰百戒の見地から厳重な取締による大量検挙以外効果はない」とされ、1916年(大正5年)6月22日に仙台市で開催された東北六県税務署会議に出席して帰庁した千葉税務署長は、23日に濁酒取締について署員をあつめ協議したが、この時に一罰百戒の見本とされたのが猫ノ沢であった。当時の猫ノ沢は「本村より約9km隔たった山間の僻地で戸数約10戸、人の気質は荒く交通不便のため司直の手が延びないことを幸いに、山林の盗伐や賭博など村風も極めて悪かった。濁酒密造も盛んで前年に引き続き、部落で共同して、麹室という大箱4つを設置し、毎月持回り製麹していた」[7]と思われていた。また事件発生直後に猫ノ沢に行った千葉税務署長は部落民にその惨事を問うに「そんな事がありましたか」と言われたり「税務署の人と喧嘩し村の若者も一人殺された」と、とぼけられた[6]。濁酒の常用はまた県民病である脳卒中とも結びついていて、1916年(大正5年)の間に脳出血及び脳軟化症で死亡した者1885人(『県統計書』)で病死者数のうち第一位を占めていることからみてもいかに有害なものかがわかるとされていた[8]。 裁判と事件の影響[編集] 猫ノ沢事件の公判は秋田地方裁判所で行われ、1916年(大正5年)10月19日に判決が言い渡された。判決では無防備の税吏に対して農民多数が共謀して凶器を振るい、暴虐の限りを尽くしたのは全国にその例を見ないとして騒乱罪が適用された。また、公務執行妨害罪と傷害罪も併合されたため、2名に懲役6年、3名に懲役5年、5名に懲役1年、3名に罰金30円、12名に罰金20円という厳しい内容となった(2名に無罪)。しかし、あまりにも厳しい判決の上に「事実誤認が多くあって、判決には納得できない」として、有罪判決を受けた25名のうち15名は弁護人を通じて宮城控訴院に控訴した。翌1917年(大正6年)6月22日に出されたのは控訴を退ける棄却判決であった。さらに、この判決に承服しなかった者は大審院に上告した。上告手続きと弁護にあたったのは、名を広く知られた法学博士の花井卓蔵と鶴田忞であった。花井ら弁護人は擬律錯誤や理由不備の不法があるとして、実例を上げながら駁論した。しかし、大審院は同年11月3日、上告を退ける棄却判決を言い渡し確定した[6][9]。 この事件以前は、税務署の取り締まりが非常に冷酷で税務官吏が横暴であるために事件を誘発したのではないかと非難する論調もあり、秋田県において密造者に対する同情心もあったが、事件後は公判の過程で実情が知らされるにつれ民心も一変し、密造に対して矯正する気分が広がった。従来は税務官吏の臨検を蛇蝎視していた地方も、税務署官を地方の旅舎に宿泊させ、地方有力者が税務官吏の地方巡回を遺憾とし、密造矯正を口にすることを栄誉とする傾向さえ発生した[10][11]。 この事件が起きた後の猫ノ沢では、多数の検挙者を出したのは郷村の不面目として小学校に子どもまで全員が集められた。そして警察署長、税務署属、船岡村長、小学校長から、濁酒がいかに弊害が多いものであるかという講話を聞き、一致して密造皆無を誓ったと新聞報道された[6]。 住民の証言[編集] 摘発隊は午前5時ころから、一戸ごとに立会人をつけて猫ノ沢を調査した。ところが、猫ノ沢では摘発隊が来るという情報を前日すでに掴んでいたのか、現品をきれいに処分していた。また、猫ノ沢のある人が羽後境駅から朝の一番の汽車に乗ろうと家を出ると、電灯を灯した人と出会った。船岡の村役場で休んでいるので酒役人だと考え、走って猫ノ沢に戻ってそのことを伝え、さらに庄内部落にも知らせたとする証言もある。一行はひとまず猫ノ沢を引き上げ300mほど奥にある庄内に向かった[6]。 猫ノ沢部落では1916年(大正5年)当時酒役人が来ると、酒役人はすぐ濁酒を置いている場所に行き、1軒や2軒で濁酒を見つけると後の家は捜索せず直ぐに帰った。人々は密告を疑った。こうした事情で部落では濁酒造りは事件発生時既にかなりなくなっており、金を出して清酒や焼酎を飲むように変わりかけていた[6]。 事件の日、朝4時から税務署の署員らは村人の前日までの田植えで疲れた寝込みを襲い無断で家に入り流し場や戸棚、屋敷に土足のまま上がり家を調べた。酒役人らは挨拶もしないで家を次々に調べたという。9人の酒役人らは猫ノ沢で一件の濁酒も発見できず、続いて庄内の捜索しようと川縁のあぜ道を急いだ[6]。 被告Cの妻の証言は以下の通りである。被告Hの妻と、被告BはBが嫁をもらう以前から仲が良いということが部落では噂になっていた。Hの妻は酒役人が家を探して帰った後に、庄内の方に鎌を持って田を見に行った。その後すぐに、Bが鎌を持って庄内の方にでかけた。Bの妻はそれを見てBがHの妻の後を追ってでかけた考えた。そこでBの妻は後を追い、ヤブの中に体を潜めてBを見ていた。酒役人は雨が降る時にヤブに隠れているBの妻を怪しみ酒を隠しに来たのだろうと問うと、Bの妻は田に水を掛けに行く所だと答える。酒役人はその田に案内しろと詰め寄った。そこに庄内の田を見終わったBが帰ってきた。Bは妻に何をすると9人の酒役人に飛びかかって行くが、返り討ちにあう。草刈りに家を出てそれを見ていたGは、Bが殺されると助けを求めて猫ノ沢を叫んで歩いた。Bは顔や手足が血だらけでひどい姿であった。Bは仕返しを口にするが、周囲の者になだめられて気持ちを落ち着かせ、朝食を取った。そして、大曲営林署の下刈り仕事に行こうと刈払鎌を持って家を出た。猫ノ沢部落の男が鎌を持って白山神社の方に行くと、酒役人が白山神社の周囲を捜索して猫ノ沢の方に向かってきた。それを見たBは腹の虫が収まらず「殺してやる」と酒役人に突進して行った。「またBが殺される」と一緒に走って行った。盤木はIの家に泊まっていた大工が騒ぎを聞いて偶然打ったものだという。証言からは、この時下刈りに一緒に行った者は5,6人で、事件は偶然に発生したとする。取り調べは事件の3日後から始まった。証言では、度胸が無い男と周囲から嫌われている男が目をつけられ、警察から「事件の一切を打ち明けると許してやるから」と言われ次々に村の人々が収監されたとされる。中には病気で歩くのも大変だったEも収監され懲役5年の判決を受けているという。実際には5-6人ほどの人たちしか襲撃に参加していないのにもかかわらず、25人もの人が服役した[6]。 その後、村人は取り調べの様子を話さなかった。そのため野添憲治は、当時かなり厳しい取り調べが行われ、一審の裁判記録が事実と違っていたからこそ、控訴や上告に繋がったのではないかとし、さらに偶然数人で一行を襲った事件なのに、どうして25名が騒擾罪などの重い罪で服役しなければならなかったのか、そこには事実誤認があったのだとしている。残された家族は、男手が無いため田畑を売ったりと生活にかなり苦労した。被告Aと被告Bは出所後、集落の総代や村議会員に推され一応の名誉回復をした[6]。 一番の被害者である税務署員は1917年(大正6年)5月11日に仙台の第二審公判の様子を見ていて、それを日記に残している。Bはほとんど事実を否認あるいは曲弁して、自分一人が税務官らを暴行��たと供述した。裁判長から9人の税務官をよくただ一人で追い散らしたのかと問われるが、Bの答弁ははなはだ曖昧であった[4]。 脚注[編集] [脚注の使い方] ^ 『秋田県史 第六巻 大正昭和編』、1977年、p.157 ^ 「租税史料叢書」第四巻 酒税関係史料集Ⅰ~明治時代~ ^ 明治財政史 第5-6巻 221頁 ^ a b c 税務職員の殉難小史 ^ 仙台税務監督局『東北六県酒類密造矯正沿革誌』、1920年 ^ a b c d e f g h i 野添憲治『猫ノ沢事件 -その虚像と実像-』、たいまつ社、1977年、p.65-135 ^ 秋田県警察史編纂委員会『秋田県警察史. 上巻』、1969年 ^ 秋田県警察史編纂委員会『秋田県警察史. 上巻』、1969年 ^ 判決摘要 - 仙台税務監督局『東北六県酒類密造矯正沿革誌』、1920年 ^ 仙台税務監督局『東北六県酒類密造矯正沿革誌』、仙台税務監督局、1920年 ^ 事件の反響 - 仙台税務監督局『東北六県酒類密造矯正沿革誌』、1920年
猫ノ沢事件 - Wikipedia
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toron58-blog · 5 years
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【香川県シリーズ】 #屋島 の #蓑山大明神 日本三大タヌキの一匹 #太三郎狸 そういうと #NARUTO に出てきそうな感じです🍥(どうでもいい話だけど、武術の先輩がリー君に性格と生き様がそっくりなん)化かすのは日本一🦝安産家庭円満に御利益があります。あの弘法大師でさえ騙したという😲 #もののけ姫 に加戦してそう。 #タヌキ #屋島寺 #香川 #香川県 #四国八十八ヶ所 #Japan #狸 #石像 #art #Japangram #japantrip #japan_photo #日本 #Japantaste #Japan_lover #四国 #瀬戸内海 #屋島 #神社 #寺 #temple https://www.instagram.com/p/BtVF6s0Antk/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=eex2o4cd4kj6
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para405 · 5 years
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白笹稲荷神社さんに呼ばれている! との事で! 秋ちゃんに連れられて行って来ました。 白笹稲荷神社→出雲大社相模分所→スプレッドイーグル→秦野福寿弁財天→蓑毛大日堂→山くじらコーヒー→緑水庵 マイナスイオンたっぷり浴びて来ました。 放射線治療もあと8回です。 モチベーションを保つ為の周りの支えに感謝です。 ありがとうございます😊感謝、感謝です。 #白笹稲荷神社#出雲大社相模分所#秦野福寿弁財天#蓑毛大日堂 #スプレッドイーグル#オムレツ #山くじらコーヒー#珈琲の香りに癒される#滝の音 #緑水庵#水車小屋#ハンモック#明日イベントあるって#アロマの香り #マイナスイオンに包まれて https://www.instagram.com/p/B0GEOFSHhFK/?igshid=y8t9en9n6v4f
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diveyear · 4 years
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还原大先生——说说鲁迅的本来面目
共识沙龙的朋友们,大家晚上好!群主和群委们好!我要特别问候君主和群委们,因为看到他们很辛苦;还有制作音频的朋友们,辛苦了!很荣幸与大家在这里交流。不过我想说明一下,我很保守,而且胆小,本来就不大善于讲,又加上不大愿意讲,所以请朋友们对我的讲座别抱多大希望。因为只有不抱希望,最后才不至于太失望。
20年前,南京大学一个青年跑到各大学去听课,在南京听过高华的课,听过董健先生的课,到上海听了姜义华先生的课,又听了王晓明、许纪霖的课,到北京听了钱理群的课,好像还听了张维迎的课。然后跑到吉林大学,到中文系听了我的课,回去后写了一篇文章,其中有一节拿我与钱理群做了比较,他说:钱先生讲课开拳就打,一开始就充满激情;而李新宇则是走上讲台先叹气,似乎一切都无从说起。他说得很对。到如今20年过去了,我的状态没有变好,反而更糟。因为能说的话似乎越来越少,寻找语言的难度越来越大。当代中国的学者与世界上那些现代国家的学者不同,人家只要能发现问题、解决问题就够了;而我们却要花很长的精力去寻找语言,寻找表达方式,研究庖丁之术。有人说带着镣铐跳舞更见水平,我承认。但如果把一个高个子舞者关进一个矮笼子,那舞姿会是什么样呢?奇迹或许会有的,但他的艺术才华更可能表现在跪着舞或者坐着舞。很多朋友像我一样,是不愿跪着舞的,但天长日久,却也习惯了坐着舞,或者躺着舞。我是很喜欢坐着的,而且是双手合十的那种姿态。大家想,双手合十盘腿坐在笼子里,那舞姿能好看吗?这是我首先要请大家谅解的。
还有一个问题是,我没有这样对着手机讲过课,看不到听众,没有表情和目光的鼓励,大概很难找到感觉。所以,如果讲得像面无表情的新闻联播播音员,或者像乡村大喇叭里的村支书,也请大家原谅!同时我还担心,讲着讲着也许会忘了60秒内要动一下手指,又担心老是盯着手指头,也许就忘了要讲什么。没办法,试试吧!今天我要讲的题目是:《说说鲁迅的本来面目》,但就在刚才,我忽然觉得这个题目不是太好。虽然“本来面目”是中性的,不含褒贬,但在这里,却似乎是我有点不怀好意,要揭穿什么,其实我没有那个意思。所以,我想改一改,给它加上一个正标题“还原大先生”;原来的题目改为副标题,也就是《还原大先生——说说鲁迅的本来面目》。
说到鲁迅的本来面目,需要澄清的问题很多。原因大家都清楚,因为鲁迅曾经被捧上神坛,脸上被贴过金,被刷过漆,也被抹过污泥。我们这个时代还有一个现象很有意思:那就是贴金者以为是在贴金,看的人却可能觉得是在泼粪。这是不是另一种“低级红”和“高级黑”?全面清理鲁迅形象,不是一次讲座能够完成的,所以今天只是从头说起,略谈几点。
我想讲的第一点,是鲁迅的家庭出身。
朋友们大概都会承认,一个人走什么样的道路,成为什么样的人,与出身和教养是有关的。尽管人们常说“英雄不问来路”,或者是“英雄不问出处”。但在事实上,英雄、俊杰,都有出处。流氓、恶棍,也有出处。什么样的环境造就什么样的人。而这个环境首先就是家庭。
鲁迅出身于怎样的家庭呢?过去的教科书,因为要打造一个无产阶级文化旗手的伟大形象,又因为狭隘的阶级论观点,所以对鲁迅的出身往往是遮遮掩掩,轻描淡写。即使说到他出身于士大夫家庭,强调的也是“败落”:比如常年跑当铺,上不起交学费的学校,去南京求学时只带了8块大洋,等等,然后是强调他因家境败落而接触了底层社会,与劳动人民建立了联系,于是才对社会有了深刻认识。
按照过去那种思路,似乎鲁迅不穷就无法成就他的伟大。因此,人们对周家未败落之前,也就是鲁迅13岁之前的情况,进行的是淡化和模糊处理。那么,鲁迅到底出身于怎样的家庭?按照1949年前后,划分阶级成分的标准,鲁迅家应该属于官僚地主阶级。官僚地主阶级是最反动的一个阶级,是应该被消灭的。然而,伟大的无产阶级文化旗手,却偏偏来自这个阶级。
需要说明的是,官僚地主家庭有两种不同情况:
一种是有权有势的土豪。中国历史上那些新兴的王朝在初建时都会带来一批这样的新贵。他们因为参与打江山,胜利后自然要参与分红,于是就拥有了权力,占有了土地,成了官僚地主。不过,这种家庭,往往是有权、有钱、没文化,所以最容易无法无天,无恶不作。加上朝代更替,所以这样的家族一般都不能长久。
另一种官僚地主家庭却不是这样。同样是有权、有势、有地位,但他们的权势和地位不是来自打天下,而是来自“学而优则仕”。也就是说,那些能够温饱的家庭,有能力供孩子读书,于是他们中秀才,中举人,中进士,甚至中状元,攀宫折桂,一路进入上层。做官之后,经济情况自然更好,就更有条件让儿孙读书,几代下来,就成了官僚地主,同时又是书香世家。鲁迅就出生在这样的书香世家。
从他的六世祖中举人到鲁迅这一代,已经是第八代。鲁迅出生时,他家里有秀才举人一大帮,有的还中了进士,点了翰林,也就是抵达了国家文化宝塔的最高峰 。鲁迅的祖父周福清就是翰林。鲁迅形容人喜欢用“阔”这个词。他不说人家怎么富裕,也不说人家官多么大,地位多么高。他就喜欢说这人很“阔”,是“阔人”。其实,他家就很阔,而且不是一般的阔。根据他祖父周福清的记述,周家从明朝万历年间就很富。最富的时候,曾经拥有土地一万多亩,光是当铺就开了十多家,还有许多店铺和珠宝行。
鲁迅出生时,周家已经没有那么阔。但我们仅从他家的住宅看,就不是一般人家能够比的。去过绍兴的朋友肯定记得新台门和老台门,也就是鲁迅故居和鲁迅祖居,那是两所大宅院。其实还有一个过桥台门,现在没有了,也是鲁迅家的。鲁迅出生在新台门,那是一种五进院落。宅院的所谓一“进”,简单的说就是一道门加上一个院子。现在的人们大多住在共有的楼房,没有自己的宅院,所以没有“进”这个概念,但实物仍然能够看到:乡间的农家院,进门后四面是房屋,中间是院子,那就是一进。皇家的宅院,现在能看到的就是北京的故宫,是九进。曲阜的孔家也是九进。除了这两家,没有哪一家敢把宅院修成九进。有个说法大家都知道,“深宅大院”,“深”,说的就是进数多。纵向的进数多,横向的宽度也就大。五进的院子是什么样子呢?北京的一些王府就是五进的院落。大家读过《红楼梦》,荣国府也是五进院落。鲁迅家的院子跟荣国府一样的,是五进院落。
我喜欢看名人故居,走到一个地方,喜欢看那里的名人故居和墓地。中国近代以来的名人,尤其是文化名人,从严复、康有为、梁启超、章太炎、蔡元培、王国维等,一直到陈独秀、胡适、鲁迅,甚至包括徐志摩的,都去过了。经过比较,我的结论是:论家庭的阔气程度,还是鲁迅第一。除了他之外,没有哪一家有五进院落和一个那么大的后花园。新台门在1919年卖给朱家之后就被拆掉了,现在看不到了,现在的鲁迅故居只是当年的一小部分,不仅小,而且看不出原来的格局。但根据一百年前周家卖房的时候画的那个图纸,我们可以看到,他家坐北朝南,临街是大门,大门里面是仪门,仪门里面是大厅,大厅后面是大堂,大堂后面是后堂,后堂后面是后楼,后楼后面是杂屋……再往后就是鲁迅笔下的百草园。那是他们家的后花园,占地2000多平米。
周家有1万多亩土地的鼎盛时期鲁迅没赶上,到鲁迅出生时,因为经历了太平军之乱,周家已经衰弱了。太平军到过鲁迅家,杀过人,烧过房屋,也拿他家当过指挥部。这一折腾,家就败了。不过,瘦死的骆驼比马大,周家最穷的时候也没有跌落到劳苦大众的行列。我们不妨来看看他家最贫困时的情况:
鲁迅和周作人到南京和东京求学的时候,家里只有祖母、母亲和周建人三口,却仍然有男女佣人好几个。鲁迅的祖父周福清那时候在杭州坐牢。他坐的那个牢哇!坐牢,还带着一个小妾,带着一个男仆和一个女仆,租了一套楼上楼下的房子住着。大家知道,佣人要付工资,租房要交房租,那么一群人都要吃饭,那时候周家没有一个挣钱的。,在这种情况下鲁迅从日本回家结婚,家中竟然把太平军时期毁掉了的房子重修了起来。
鲁迅从来不夸富,1949年之后的回忆材料,都在拼命说周家穷。不过,我曾根据鲁迅签字画押的一张分单算过一笔账,1911年,也就是辛亥革命爆发的那年,在鲁迅名下的土地是105亩还多一点。江南,是寸土寸金的地方,绍兴的人均土地只有几分,鲁迅有100多亩土地,如果到1949年,改划成什么成分?
鲁迅一辈子没有受过穷,他是地地道道的阔公子,尤其是童年,简直是王子。他自己说过,他的童年像王子。在家里被佣人保姆簇拥着,走在街上被邻里另眼相看,即使到外婆家,也得高接远送。朋友们可能记得《社戏》里面鲁迅和那群孩子一起,划着船,去看戏,偷豆子,那种情景是写实的。那是周家少爷来了,村里的孩子不用去上学,不用去放牛,被安排来陪周家少爷玩。考察鲁迅的家庭出身,可以发现过去对鲁迅的一些解释很勉强。
鲁迅对劳苦大众和弱小者的同情,并不源于他自己的经济地位。一般人也许会“屁股决定脑袋”,也就是什么阶级说什么话。但伟大的头脑能够超越阶级地位。对于不同阶级、不同民族、不同性别,都有大悲悯,才是真正的伟大。同时,鲁迅又是真正的贵族,有贵族精神,所以才能看到阿Q们的可笑、可憎与可怜。
我想讲的第二点,是周家的家庭文化。
周家的文化怎么说呢?简单地为其命名的话,是一种复合文化。周家的男性家长都是读书人。那个时代,以科举为目标的读书人,应该都是儒家信徒,而且多有理学色彩。不过周家的男人理学气不重,女人就更加复杂。鲁迅儿时面对的三代女人,也就是他的曾祖母,他的祖母和他的母亲,都信佛。但是她们又都算不上佛教徒。因为不是虔诚的佛教徒,所以一点儿排他性也没有,能够接纳民间文化当中各种复杂的成分,包括各种神灵和鬼怪。读过《朝花夕拾》的朋友们一定记得,鲁迅的祖母和他的保姆阿长讲的那些故事,美女蛇,等等。
在这里,我只讲几件朋友们不一定关注的事儿。
第一件,从某种意义上说,鲁迅是个和尚。他一岁多就做了和尚,终生未脱僧籍。原因是他出生的那一天,正是某位菩萨生日。出生时又是蓑衣包,大概就是把脐带、胎盘披在身上那样出生了。按传统的说法,这样的孩子是被鬼神锁着的,很难养活。有什么办法呢?办法就是让鬼神找不到他,或者是不屑于理睬他。比如,明明是个男孩子,偏给他取个女孩名,甚至给他扎上耳朵眼儿,这都是过去解决这种问题的办法。再就是给他取个贱名,比如叫猪叫狗。在我的家乡,有的孩子甚至叫狗剩——狗吃剩下的,狗都不吃了,神鬼自然不屑于去理他。
进一步的办法,就是让他出家当和尚。周家为鲁迅做的安排,就是让他当和尚。长房长孙当然不能真出家,可是形式是必需的。找一个庙,拜一个师傅,把名字写进和尚名单,就算是出家了。所以,鲁迅就有了一个法名“长庚”,有了一个师傅——龙师傅。鲁迅临死的时候还写过一篇很动情的文章,题目就是《我的第一个师父》。
由此可以看到,鲁迅家很迷信,周家很迷信。
周家那样的大家族,规矩多、禁忌多、仪式多,一年到头说不清有多少祭祀活动。这种文化,今天的年轻人已经很少有人懂了,尤其是城市人,甚至真的是连“年”也不会过。鲁迅却什么都懂,什么都会。因为他是长房长孙,因为在他十几岁就失去了父亲,爷爷又在狱中,过年过节,上坟祭祖,许多场合都需要他来主持,怎么摆供、怎么烧香、怎么跪拜、怎么祝祷,这一切鲁迅都是内行。而且,鲁迅是读书人,所以过年的时候不但要与全家人一起祭拜天地,祭拜祖宗,自己还要祭书神。就像做生意的人必须敬财神一样,读书人当然要敬书神。我和周海婴、还有全国四十多位专家教授编的那套《鲁迅大全集》,就收了鲁迅在大年夜祭书神时写的祭文。我说这些,想说明的意思是,鲁迅是真正在中国传统文化当中泡透了的。同时想说明,他所受的教育,他所受的文化熏陶,不是唯物的。
在这样的家庭里,是不以鬼神为怪的,所以,周家就常常出现一些怪事儿。比如,周作人出生时就出了一件怪事儿,一个老和尚进了周家,长驱直入到了少奶奶房前,转眼不见了,然后,周作人就出生了。晚年的周作人曾经在文章中纠正那些传说,说是他的那个叔叔看花了眼,然后以讹传讹。但值得注意的是,这些话是周作人在经历了种种破除迷信的运动之后写的,年轻时却从来没说过他叔叔眼花,而是多次写诗说自己就是那个老和尚。二是周作人在回忆录当中所说的,他和他的妹妹一起生天花,本来妹妹已经好了,而他奄奄一息,全家人都无能为力。但是,静静的房间里突然大叫一声,全家人都知道那不是周作人的妹妹在叫,也不是周作人在叫。人们闻声跑来,却发现事情完全变了,奄奄一息的周作人好了,而已经好了的妹妹死掉了。
还有一件事,是鲁迅的父亲临死的时候,朦胧中看到一个女人来到他的床头,在他喝水的碗里倒了一点什么。他以为是妻子鲁瑞,就没睁眼,也没出声。可是那女人刚转身出去,鲁瑞就进来了,往他的碗里倒藕汁。鲁迅的父亲觉得奇怪:你不是刚刚才倒过吗?鲁瑞说她没来过。那么刚才进来的女人是谁?最后阿长讲道,那是鲁迅的父亲曾经订婚的一个姑娘,但是他们没等结婚,那姑娘就���世了,所以才另聘的鲁瑞。那姑娘现在来,就是他们情缘未了,找他来了。于是,家里人也就知道,少爷的病好不了了。老和尚的身影也罢,天花鬼的叫声也罢,鲁迅的父亲是被早已死去的未婚妻领走了也罢,是否可信并不重要。我觉得重要的是,它是一种文化,是周家人相信的一种文化,周家人曾侵润其中的一种文化。鲁迅是在这种文化当中长大的。过去的教科书和主流著作,都在努力把鲁迅打造成共产主义者的同时,总是在努力把他打造成唯物主义者。大家想,这种家庭文化,能培养出唯物主义者吗?
那么,周家的这种文化奇怪吗?应该说不奇怪。我们这个时代的人感觉到奇怪,但在那个时代它是某种普遍现象。大家知道,严复是中国近代的启蒙大师,但他一辈子信鬼神。遇到事儿,必去占卜。梁启超也是现代思想家,传播过一系列的科学思想。但是他自己说从十几岁就与鬼神打交道,而且他的妻子李蕙仙死后三年,竟然一直没有离开梁家。三年当中,梁思成生了病,都不是先上医院,而是先去找他妈,而他妈是已经死了的。三年之后,李蕙仙的灵魂才离开梁家。这话听起来很玄,但这不是别人说的,是梁启超自己在写给他女儿的信中说的。他没理由欺骗他的女儿。
还有章太炎到阴间去做判官的事,可能好多朋友都知道。在我们当下的文化当中,这一切都感到很离奇,不可思议,但在当时人们并不觉得奇怪。
接下来的问题是,周家的这种文化,包括梁启超和严复家的那种文化,好还是不好,很难简单回答。但我由此想到一个问题:对儿童来说,是给他一个“一就是一,二就是二,一切都清清楚楚“的世界好呢?还是让他面对一个有点神秘的世界好?这同样不能简单回答,但我想,后者大概更有利于培养孩子的想象力。一切都清清楚楚,一切都有标准答案,人的思考能力肯定是会退化的。
我想讲的第三点是鲁迅的学历。
我想特别指出的是,鲁迅是自然长成的。用今天的话说是绿色的,他们家没给他施过化肥,也没给他施过农药,更没有用过激素或者助长剂。他上学是玩着上的,读书是玩着读的,完全凭兴趣。这甚至导致了一个结果,那就是鲁迅饱读诗书,却有学历而没学位。说到学历和学位,新学的学历和学位,大家都知道,小学、中学、大学、研究生,这是学历。学位呢,有学士、硕士、博士。那么旧学呢?旧学的学位倒是有自己的体系,那就是秀才、举人、进士等,所以容易说清,比如在“五四”新文化运动的主将中,不少人都有旧学的学位,蔡元培是翰林,吴稚晖是举人,陈独秀、蒋梦麟等都是秀才,而鲁迅、胡适、钱玄同等,连最低的学位也没有。
但要说他们的旧学学历,却有点困难。因为旧学没有小学、中学、大学之分,也没有一年级、二年级、三年级这种区别。怎么说呢?只能说我读过《孟子》,你读过《四书》,他读过《九经》,旧学的学历只能这么去说。鲁迅读到哪里呢?用他自己的说法,是”几乎读过十三经”。朋友们大概知道,参加科举考试并不需要读“十三经”。而是只要读过《四书》,再读过《五经》,有这“九经”就够了。而且《四书》《五经》加起来的,虽然俗称“九经”,但这“九经”在“十三经”当中并不是九经,而是七经。因为《大学》和《中庸》都是从《礼记》中抽出来的。
也就是说,鲁迅多读了好多书。需要说明的还有一点,那就是鲁迅所说的“读过”。不是我们现在说“我读过《红楼梦》”“我读过《鲁迅全集》”这个意思,它不是浏览,说“读过”,就是能句读、能理解、能记住。那时候人们说读过《论语》,就是能把《论语》一字不错的背下来,说读过《四书》,就是能把《大学》、《中庸》、《论语》、《孟子》这四部书都背下来。
鲁迅几乎读过十三经,却连秀才也不是。但是读书多少、根底怎么样,是骗不了人的。内行一接触就知道。鲁迅的顶头上司蔡元培、夏曾佑都是进士,翰林。他们都不曾低估过鲁迅,认定他有学问。但考察鲁迅读书的情况,却很有意思,也很怪,从中也许能够得到某种启发。
从一八八七年到一八九二年,这五年,鲁迅先后在三个书房就读,
却没有走出他自家的大门。三位先生都是他本家的爷爷。不过用今天的目光看,那三位先生都不称职。第一位是朋友们大都熟知的蓝爷爷,他培养了鲁迅对花花草草以及各种奇怪事物的兴趣,却没有教鲁迅多少“正业”。后面两个,一个是鸦片鬼,一个是精神病。教书,完全是瞎对付,读错字,写错字,讲解更是信口开河。奇怪的是,鲁迅的父亲和祖父,竟然让鲁迅跟着他们过了五年。书香世家,对孩子的学业能这样不关心吗?应该是不会的。但是周家对孩子的管法真的很特别。鲁迅的祖父对孩子的学习很关心,亲自选课本,可是这本身也有点怪,他不用全国的“通用教材”。那时候一般人家的孩子开蒙先读“三百千”,也就是《三字经》、《百家姓》、《千字文》,然后开始读“四书”,读完“四书”读“五经”。周家的开蒙第一书却是《鉴略》,一种简明历史读本。
从七岁到十二岁,五年,鲁迅读了什么书?除了那本《鉴略》,就是读了《大学》《中庸》和《论语》,《孟子》读了一半,没读完。也就是说,用了五年的时间,鲁迅没有读完“四书”,这是非常奇怪的。因为大家知道,“四书”虽然是四本书,但量很小:《大学》只有一千七百来字;《中庸》只有三千五百来字;《论语》也只有一万三千七百字;《孟子》最长也不过三万五千字。“四书”加起来,总共是五万三千字。五万三千字,读了五年只读了三万六千字!
那时候没有数理化,除了拿出少量的时间,写字,对对子,别的时间都是读书。鲁迅竟然就读了这么一点书,这速度也的确是太慢了。
从七岁开蒙到十二岁,如果读得快,能够到什么程度?我们可以随便举出一些例子:梁启超是十二岁就中了秀才。蔡锷,也就是蔡锷将军,也是十二岁中了秀才。当时不少人,都是十二岁就能中秀才。能中秀才,意味着读完了“四书”,又读完了“五经”,而且学会了做八股文和试帖诗。鲁迅比人家慢了多少呢?我们不妨来看看“四书五经”的具体情况。我是给他算过帐的。前面说过了,“学庸孟论”“四书”加起来是五万三千字。而“诗书易礼”和《左传》,加起来是三十八万五千字。“四书”和“五经”加在一起是四十三万八千字。
梁启超、蔡锷等都是十二岁就把四十三万八千字全都读过了,而且学会了做八股文,学会了做试帖诗。而鲁迅到十二岁的时候,却只读了三万八千字,也就是一个零头,学业只完成了人家的十分之一。是鲁迅太笨吗?显然不是。那么问题出在哪里?就出在家长和老师对他没有要求。鲁迅上学上得太自在了,有大量的课余时间可以在百草园里尽情的玩儿,玩植物、玩昆虫、捉蟋蟀、养老鼠、描图画画、学捉鸟。他当然也读书,不过读的主要是闲书,与功课无关。这又是很奇怪的一件事,家长竟然是不管他。
书香世家,翰林门弟,对孩子的学业怎么会放任不管?鲁迅的祖父整天盼着能在门上挂一块匾,上面写上“祖孙父子兄弟叔侄翰林门第”。他是希望他的儿子、孙子都进翰林的,尤其是对长孙,寄予厚望,当然不会不管。但是,周家的教育真的是自有一套,看鲁迅、周作人、周建人等小的时候,家里就是放飞,给他们更多的自由,不急于套上笼头,更不急于把功名这样的目标过早地压在孩子身上。
说到这里,我想到今天的许多的家长,都那么怕孩子输在起跑线上,想种种办法让孩子不输在起跑线上。看看当年周家,完全没有这样的焦灼感。别人家的孩子早就“入场”跑了好几圈,已经中了秀才,他们家却还在让孩子尽情玩儿,不让他们进入跑道。怎么会这样呢?从另一方面想,敢于这么做,基础显然是一种文化自信,是一种家族的文化自信。因为家长自身的文化层次,因为相信自己的孩子不愚,就敢于让孩子自由发展,而不是像一般人家那样随大流、抢时间、赶速度,你们报什么班,我就给孩子报什么班,把孩子弄得疲惫不堪。鲁迅的童年读书是玩儿着读的。这应该是一个关于教育的特别个案,我觉得很值得研究。孩子主要是玩儿。鲁迅和周作人、周建人都没有苦读的经历,都不曾为学习而受折磨。但结果呢?周氏兄弟个个成才,取得的成就远非那些苦读者能够相比。这其中的奥妙是不是很值得研究?
我想讲的第四点,是鲁迅在教育部的官职。
简单地说,鲁迅是民国时期的高干,按照那时的称谓是高等文官。他很有权力,是当时国家意识形态和宣传教育、新闻出版、图书市场等等这些事业的掌控者。这是教科书和研究鲁迅的著作一般都不讲的,但我们只要回到历史现场,就会看到,从一九一二年到一九二六年的夏天,十四年的时间,鲁迅在中华民国教育部工作。过去的教科书和主流著作说到这一节,都是说鲁迅在教育部做过下层小官吏,这个小官吏是什么呢?社会教育司第一科的科长。现在的人们一看是科长,觉得这官职真的微不足道。其实,那时候的科长和现在的科长不一样。现在的科长当然是最小的官,那时候却不是这样。部下面是司,那时候和现在一样,但那时候司下面就是科,没有处。所以,那时候的科长与县长同级。用今天的话说,就是正处级。同时,鲁迅又不只是科长,他是佥事兼科长。大家知道,兼职都是高兼低,而没有低兼高的,部长可以兼司长、司长可以兼处长,而没听说哪个县长可以去兼省长。同时值得注意的是,鲁迅的科长职务,是由教育总长委任的。他的佥事职务是由大总统袁世凯亲自任命的。按照当时的规定,科长是中等文官,佥事是高等文官。也就是说,鲁迅是那个时候的高干。
根据当时的《中央行政官官等法》,中央行政官员除特任官之外分为九等。第一二是兼任官,三四五是荐任官,六七八九是委任官。科长是委任官,佥事是荐任官。在荐任官当中,鲁迅的情况又有些特别,他一开始是五等,但是在很短的一年多就晋升为四等,又过了不到两年,到一九一六年的二月就晋升为三等。他就抵达了荐任官的最高等——月工资三百大洋。
在九等官制当中位居三等,这个官位还能说是下层小官吏吗?可是我们一直就说他是教育部的一个下层小官吏,好像微不足道。既然谈到了工资,我们就看看他的工资,当时是高还是低。从1916年二月开始,鲁迅每月拿300大洋。300大洋,是高还是低呢?当然不能与总长相比,更不能与总统、总理相比,我们也不去把他和下层工人相比,因为那时候的保姆月薪才两元(鲁迅的日记里,他雇的女工就是两元)。我们把他跟北京大学的那些教授们比一比,应该更有可比性。按照当时的规定,教授工资是280元至180元。教授当中最低的拿180元,最高的拿280元。预科教授工资是240元至140元。胡适回国到北大去做教授,蔡元培给他的是教授的最高工资月薪280元。而当时的钱玄同、周作人、刘半农等,都比鲁迅低得多,李大钊的月薪是180元。
这是鲁迅的工资的情况。由此可以看到,他的地位是不低的,官不算大,但是也不算小,工资至少比胡适等这些北大的最高级的教授还要高一级。更重要的是鲁迅所处的岗位非常重要。那时候没有中宣部、文化部、新闻出版署等等,这些部门的事谁来管呢?主要由教育部来管,教育部又由社会司来管。因为教育部一共就三个司,那两个司一个管大学教育,一个管中小学教育,第三司是社会教育司。
社会教育司有司长一人,没有副司长,下面就是两个科,鲁迅是第一科的科长。因为他分管的事情多,同时他又为司长所倚重,所以他就成为了社会教育司地地道道的二把手。也就是说,他是当时中央管理思想文化和新闻出版事业的二把手,这个地位不重要吗?因为重要,所以才出现了好像是不好理解的一些事儿,为什么那么重要的一些事儿,都是鲁迅干的,比如,中华民国的国徽应该由谁来设计?是鲁迅领着两个人设计的;再比如,中华民国的国歌由谁来选定?还是在鲁迅的领导下选定的。什么样的小说应该被查禁?什么样的戏剧应该被提倡?标准由谁来定?仍然是鲁迅领着人去做决定。所以,《新青年》是不会被查禁的,因为权力就在鲁迅手里。
俄国的盲诗人爱罗先珂来到北京,一些学校就请他演讲。他是无政府主义者,无政府主义,在当时被看作危险思想,所以被人举报了,警察局要来管,怎么办?鲁迅陪着去,鲁迅往那里一坐,就什么问题都没有了,因为他正是管这方面事务的最高官员。
需要说明的是,鲁迅在教育部的工作勤勤恳恳,兢兢业业,很卖力。后来人们总是要让他跟“北洋军阀政府”对立,甚至连周作人在后来的文章当中都说鲁迅去上班不过是去点个卯。事实完全不是这样。鲁迅很卖力,每次考核成绩都很好。所以教育部一次次大裁员,从来也裁不到鲁迅。他不但不会被裁,而且屡次受奖,而且得过袁世凯授予的勋章。顺便说一下,鲁迅对袁世凯、徐世昌等那些总统,都很有感情。袁世凯因为称帝失败,在去世的时候,虽然是国葬,但名声已经不好,所以,政府要求文武官员去祭奠,不少人就以种种理由拒绝,但是鲁迅不但不拒绝,而且很主动。他没有大礼服,从朋友那里借来了大礼服,穿戴整齐,到总统府去,鞠躬上香,祭奠了袁世凯。
说到这里,我忽然想到一个问题,那就是鲁迅的政治选择与国家归属问题。这可以算是我们今天的最后一个话题吧!
我想请大家想一想:鲁迅属于哪一个国家?他应该归属哪个国家?有朋友可能会说,他没有加入过外国籍,当然属于中国。但是我在这里想说的是,从政治学意义上使用国家这个概念,��不得不注意这样一个问题:“中国”存在吗?在历史上,有大秦帝国、大汉帝国、大唐、大宋,直到大清国。在现实中,所谓中国人,有人持中华人民共和国的护照,有人持中华民国的护照。国名,一个是七个字,一个是四个字,谁的护照上是两个字的“中国”?
同时,人的国家归属感,常常不是现实的,而是想象的。大家知道,明遗民生活在大清国却不承认大清,清遗民生活在民国却不承认民国。郑孝胥曾经说过,他与民国乃敌国也。严复逝世于一九二一年,自己拟好的墓碑却是“清侯官严几道先生之寿域”。墓志上写的,不是中华民国北京大学校长,也不是中华民国总统府顾问;而是“清资政大夫”和“清海军协统”。也就是说,严复死后又回到大清帝国去了。他虽然做过民国的官,但最终归属于大清国。
他曾经置身于三个不同的国家。首先是大清国,他曾是大清国的子民,但从他加入光复会开始,他就已经背叛了大清。辛亥革命之后,他属于中华民国,从1912年到1926年十四年的时间,他一直是中华民国的官,直到1926年带着失望离京南下。
他曾经对南方抱有希望,但到广州亲历过国民革命之后就失望了。所以当国民党人北伐成功建立党国之后,他没有到政府做官,而是选择了不合作。甚至因为不合作而被通缉。从这个意义上说,鲁迅晚年有一种悲凉的意味,他失掉了自己的国家,他再也找不到自己的国家。他无国可归,只好在租界度过晚年。他之所以成为左翼,与反抗政府的力量走在一起,成为同路人,与这种处境和心态有关。
换句话说,鲁迅一生经历的这三个国家:一个是帝国,一个是民国,一个是党国。他背叛了爱新觉罗家的帝国,拒绝了国民党的党国,唯一亲近的并且为之服务长达14年的是摇篮里的那个共和国,也就是五色旗下的那个民国,也就是被我们的教科书涂抹的一片昏暗的所谓北洋军阀政府统治时期的那个民国。
今天我们就讲这些吧,时间也差不多了。若有不当之处,请大家批评指正。若有疑问也请提出来,我们继续讨论。谢谢大家!
回答提问:
这位朋友提出了一个很好的问题:鲁迅是权力的敌人还是庸众的敌人?
我想,他既是权力的敌人,又是庸众的敌人,但首先是权力的敌人,然后才是庸众的敌人。因为在强者与弱者、阔人与不阔的人之间,在统治者与被统治者之间,鲁迅总是选择站在后者一边,站在弱者一边,站在被压迫、被欺凌的一边。关于鲁迅的祖父周福清这个人怎么样,我觉得应该说那是一个很有个性的人,也是一个非常聪明人。能够中进士,点翰林,的确不是吃白饭的。不过,他的确做了一件很不光彩的事儿,当然,放在我们这个社会的话,已经很普遍,也就不算多么不光彩了,
自己的儿子,已经中了秀才好多年,却就是考不上举人。正好,同年做主考了,于是就想走走后门,结果事情没办好,败露了,然后被判刑。周福清这个人,有一点是我们值得注意的:那就是他和鲁迅的感情关系,他很爱鲁迅,很关心鲁迅,但是鲁迅对他的感情很复杂,因为祖父的案件使鲁迅心理上受过伤害,所以对父没感情。真的是没感情,但受祖父的影响却很大。鲁迅性格当中好多方面很像他的祖父,包括我刚才说到的那种对权势者的态度。根据周作人等人的回忆,周福清是很喜欢骂人的,但是他可以骂太后,骂皇上,骂他的上司;却从来不骂下层人,这是很有意思的一件事。鲁迅对他祖父的感情,其实也很矛盾,他在好多方面应该说对不起他的祖父,这是我的看法。尤其是在他从绍兴往北京搬家的时候,把他祖父的日记给烧了。他祖父写了一辈子的日记,他给烧了。但在另一方面,现在我们能够看到的周福清的诗集,周福清写的家训,都是鲁迅亲手抄的。图书馆存的也是鲁迅的抄本。从他对鲁迅的教育,对周作人的教育当中,我们可以看到这个人的确很了不起。所以,鲁迅把他的日记烧了,是很遗憾的事,如果不烧的话,那是研究那个年代的官场、那个年代的文人、以及周家文化的很好的材料。
有朋友提出:鲁迅生活那么富贵,如何变得那样不宽容?点我想与他的祖父真的有关,与他的祖母也有关,那的确是他们家人的一种性格,包括鲁迅的父亲也是那样。鲁迅和周作人在外面跟人打了架回家去,父亲首先要问是谁先欺负的谁?周家从来就不会无原则的宽容,先问是谁欺负的谁?如果是自己的孩子欺负了人家,那是绝对不行的。可是如果人家先欺负了自己的孩子,那是可以以牙还牙,以眼还眼的。这也是一种家风。
关于鲁迅的文学地位?好像没必要说,在中国现代文学史上,其他的那些作家,没人可以与他相比。虽然是鲁郭茅巴老曹,但后面五位是没法跟鲁迅相比的。当然,这看上去有点怪,鲁迅总共就写了那么点点东西,《呐喊》、《彷徨》、《故事新编》三个小说集编成一本也不厚,可是他的地位,却没人能比。这里的关键,一是思想的深度,一是艺术的才华。一些人虽然是作家,其实并不适宜当作家,或者不配当作家。
关于鲁迅和他的原配夫人朱安的关系,是很有意思的一个话题。20多年前,第一个提出这个问题,说鲁迅对朱安太无情的,是我的一个学生。用我们今天的目光去看,一个女人被悬置在那里,那样过了一辈子,鲁迅对朱安太无情了。但是,如果回到那个年代去看,可能我们能够理解鲁迅。这个前提就是,鲁迅与朱安的婚姻是地地道道的包办婚姻,新婚第一夜,两人就分开了,真的是没有爱情。那么如果按照现在的观点去看,你不爱人家,跟人家结婚干什么?你结了婚发现没有爱情,你可以离婚呵!这种看法,只能是我们这个年代的看法,放在100多年前,这是不可能的,也是女人无法接受的。重要的还是女人无法接受。因为朱安从嫁到周家的那一天开始,就打定了主意,生是周家的人,死是周家的鬼。而我对此不大理解的倒是鲁迅为什么那么坚决地不喜欢。因为按照正常的情况,考察当时那种包办婚姻,好多人都是在结婚的时候还没见过,但后来也过得很好。一个男人和一个女人在一起,时间长了,慢慢的可能会产生感情,照样会有正常的夫妻生活,朱安当年所抱的希望就是这样,但是鲁迅却让她失望了。到底为什么鲁迅那么不喜欢朱安,这是一个迷,到现在还没有人能够解决。
不过,鲁迅研究界关于鲁迅和朱安关系的一些说法,我认为是不可靠的。因为他们两口子从来没吵过架,朱安总是很好地伺候鲁迅,而鲁迅对朱安也并非漠不关心。在这里,我只讲一个很小的例子,大家看一看:鲁迅很喜欢吃甜食,所以在上班、下班的时候顺便到甜食店买一些甜食,比如什么江米条啊,蜜三刀啊,等等,买一大包捧着回去。回到家,鲁迅总是先捧着到母亲那里,让母亲挑一些留下,然后又捧着到朱安那里,让朱安挑,然后他才把点心拿回自己的房间。就从这样的一种关系看,鲁迅和朱安的这种两口子的关系,是能够和平共处的。
如果我们把鲁迅跟朱安的这种关系放在那个时代去看的话,大家可能很容易发现有三种不同的类型。一种咱们可以拿郭沫若、郁达夫等人作为代表,他们就是借着那种婚姻自主恋爱自由的时代潮流,喜欢谁就去追谁。有了新的爱情,就为这新的爱情去结婚,为了自己的爱情,而对不爱了的妻子不负责任。这是社会最时髦最新潮的一种表现。第二种是另一个极端,那就是以胡适为代表的那种情况。包办婚姻,妻子识不了多少字、小脚,但是照样生活下去,维持着那种旧的婚姻。可是,大家可能知道,那种维持有时候也是很难的。胡适事实上也有过若干次的婚外情,只是维持了那个婚姻。第三种就是鲁迅这样的,他对朱安的确缺少爱情。可是又离不开,他要是把朱安给休了,朱安就没法活下去。那个年代,女孩子嫁出去了,如果她被休掉,是没办法回到娘家去的。如果朱安是一个职业女性,有自己的工作,能够独立生存,那一切都好办。可是朱安能干什么呢?他毕竟是阔小姐,让他去给人当佣人当保姆,一切都不大可能。所以刚开始的时候,鲁迅是想就这样跟朱安过一辈子的。他四十多岁了,写下的文章还是决心就这样过一辈子。因为他不想害另一个人,因为他知道另一个人是无罪的,不应该承担那种悲剧性的后果。但是,人有时候又管不住自己。所以后来遇到许广平,在强大攻势之下,这个中年男人,终于坚持不住了!
鲁迅离开北京南下,其实很重要的一个原因就是爱情。他有了与许广平的这种关系,家里却有一个朱安,怎么办,最好的办法就是离开北京。这是一个转型时期很特殊的情况。鲁迅已经无力抗拒与许广平的爱,但他又不能不要朱安。所以一直到他死的那一天,都一直承担着朱安的生活费。
事实上,鲁迅对这两个女人都有着对不起。对朱安,他不能给感情,而只是提供生存保障。对许广平,他有感情,却又不能给名分。他与许广平的关系,一直是同居的关系,没有像别人那样正式结婚。这是鲁迅当时的一种尴尬境地。
关于鲁迅与周作人的这种分裂,好多人都很关心,关心的是兄弟失和的原因。兄弟为什么失和?直到现在,几乎所有的研究���是推测。因为这里面有很神秘的一点,就是鲁迅从来不说,周作人也从来不说。而且,这种失和,就是周作人从此不想见鲁迅了,却对鲁迅没有怨恨,就是不见他了。鲁迅想约他谈一谈,他也不谈。有一次在后院两个动手打过一架,那是因为鲁迅回去拿书,进了后院。那么亲密的两兄弟,从此成为路人,到底是什么原因呢?站在鲁迅一边的人,总喜欢拿周作人的妻子说事。我觉得这样做也不大公道。还有种种说法,尤其是现在网上,常常很不负责任地那样炒作各种说法,比如说鲁迅偷看羽太信子洗澡,或者听房,等等。但是,这些说法都是不能成立的。为什么不能成立呢?因为对于日本女人来说,偷看洗澡根本算不上什么事儿。那个年代的日本,还存在着男女同浴,洗澡被人看,算什么呢!对于鲁迅听房,有人说过,那个窗子外面是没法站人的。所以,这两种说法都可以排除。但是,有一种说法,我觉得值得考虑。当然,我们没法做结论,只是值得考虑。那就是:是鲁迅先熟悉羽太信子的,周作人晚,周作人到日本留学,很快就喜欢上了羽太信子,两人开始恋爱,然后结婚。所以有人做出这样的推测,认为鲁迅在周作人到日本之前,就和羽太信子有这样那样的关系。如果真是那样,鲁迅本来就和羽太信子关系暧昧,那么到了北京之后,生活在一个屋檐下,两人就比较难处了。这里值得注意的,是周作人的儿子周丰一谈到的一个情况。鲁迅研究界对周丰一的说法几乎是群起而攻之,但我觉得或许存在着某种可能。周丰一说,他的舅舅,也就是羽太信子的弟弟,曾经看到鲁迅与羽太信子有亲密接触。如果真是那样,兄弟两个的确不好再在一起生活了。作为弟弟,当他知道哥哥与妻子的关系,当然会非常尴尬,恨却没有足够的理由。与此同时,羽太信子倒是真的对鲁迅充满怨恨。从她的那种怨恨,倒是可以体会到点儿什么。羽太信子竟然不让她的孩子到前院去,要让鲁迅和朱安孤独,以此惩罚鲁迅,报复鲁迅。这样的一些表现,体现着一种被抛弃者的怨恨,让人觉得他们两个好像真的曾经有什么关系。
朋友们提出的问题很多,原谅我不能一一的回答。我只能是看到哪一个,就先回答哪一个。书虫在这里提到一个问题:他看到了一本《鲁迅传》,里面说鲁迅是个悲观主义者,问是否属实。我想,这种说法应该基本是对的。鲁迅的确很悲观,别看他在批判国民性,在揭露社会问题,等等,但对于问题的解决,并不抱多大希望。这一点我们从他的《呐喊》自序就可以看到,关于铁屋子的那种议论,可以看到他的悲观。
有朋友问:鲁迅是否真的爱钱?鲁迅爱钱,这是一个事实。咱们看他的日记,别的事可以不记,哪一个月拿了多少工资,却是都要记的。对稿费等等,他都很在乎,还为此打过官司。我想,这与他从非常阔到后来没钱花,大有关系。我刚才说他即使最穷的时候仍然比别人富,但是这里有一个落差,他原先太阔,一下子跌落下来,心理感受就特别的强烈。没钱了,才知道钱很重要,才特别重视钱。这个问题提得正好,可以跟前面接上。鲁迅在十三岁之前,是地地道道的阔公子,什么都不缺。后来从小康到困顿,只能说困顿。其实,鲁迅说小康是谦词,他本来那么阔,何止是小康?后来的困顿,主要也是一种感觉。阔公子一下子跌落下来,有一个心理承受的问题。
鲁迅的心理上的确受了一些委屈。但是如果用咱们一般人的情况来看,那种委屈又算得了什么?你再穷也没有穷到社会底层。你最穷的时候,还有那么多的地,还是年年秋天去收租。但是,因为他小时候生活太优越,所以家庭突然出现变故,真是一点委屈也受不了。比方说,他在舅舅家,那个妗子说话伤害了他。如果放到咱们一般人身上,那种伤害算什么?她是对邻居们悄悄说的,把他称作“要饭的”。家里出了事,到舅舅家去住,当然像“要饭的”一样。如果真是一个要饭的,你说他是要饭的,他肯定不敏感。可是一个阔公子突然被人看作“要饭的”,这刺激就非常大。如果当年鲁迅年长一些,就应该明白妗子与外甥的关系。舅舅、姥姥跟外甥的关系,是比较亲近的,而妗子,也就是舅母,本来就比较远。你住在舅舅家里,舅母要安排你的生活,给你做饭,大概还要好好招待,等等,这个舅母有点抱怨,不是很正常的嘛?可是因为鲁迅当年太小,十二三岁,听到了就再也忘不掉,记了一辈子。鲁迅真的很敏感啊,对他好或对他不好,他都能记一辈子。
关于鲁迅的人格是否有缺陷?关于这一点,我想这么说——人格上没有缺陷的人不是太多。鲁迅那种以牙还牙以眼还眼,那么计较的做法,如果说他是一种缺陷,也未尝不可。但我们如果明白一点的话,对这些就不会大惊小怪。因为凡是大艺术家,无论是作家还是画家,性格上、心理上没有点问题的不多。
关于鲁迅与胡适等一些知识界人的关系,这是一个挺复杂的问题。我想,您关心的大概主要是鲁迅与胡适的关系。我想说明的是,在“五四”时期,鲁迅与胡适等关系非常好,是后来变得不好了。关于这种不好了,有好几个方面的原因:一是从个人心理上讲,两人后来的疏远有某种必然性。从一九一八年开始,尤其是在一九二二年、二三年、二四年,鲁迅和胡适非常密切。但是,他们的密切存在障碍,所以好不到什么时候。原因是这里有个问题:鲁迅比胡适年龄大,大九岁。“五四”时期,鲁迅写出什么作品,胡适就说好。胡适关心什么问题,鲁迅也马上去关心什么问题。他们二人配合得很好。但是这种配合注定长不了。如果翻过来,胡适比鲁迅大十岁,那就没问题了;可是恰恰是鲁迅比胡适大了近十岁,这就决定了鲁迅不可能长久地追随胡适。
人就是这样啊,包括我们。让一个比你年龄小的,很年轻的,资历很浅的人,排在你前面,做领袖,而你是一个追随者,这种情况长得了吗?一般长不了。而鲁迅的情况恰恰是这样。胡适二十七岁从美国回来就成了新文化运动的领袖,新文学的倡导者。而鲁迅尽管作品写得好,但只能是新文学界的主将之一,不是领袖。这种秩序随着鲁迅影响的增大,必然要重新调整。
关于鲁迅与胡适的分歧,关心这个问题朋友都能够注意到,胡适从来不攻击鲁迅,而鲁迅屡屡攻击胡适。这里有一个很重要的原因是政治原因。这个政治原因还不在于鲁迅与胡适走向了不同的道路,一个左,一个右,而在于他们对当权者的一种不同态度。现在大多数人都比较赞赏胡适,包括我也比较赞赏胡适。因为那是一种比较实际的,比较重视效果的做法。对于一九二八年之后出现在中国的那个党国,那个政权,鲁迅根本不承认,所以不合作,宁愿被通缉也不合作。那么胡适是不是就能接受呢?胡适也不能接受。如果他完成能接受,他就不会要在一九二九年发起一场人权运动。他要反抗,他要向那个新生的国家要人权。只是这里两人在认识上和态度上有所不同。胡适是明明知道民国已经变成了党国,但是有一点希望也要去争取,去努力。一旦跟蒋介石这样的高层统治者能说上话了,他就会很温和地走上去,试图挎着人家的膀子,拍着人家的肩膀,一块往前走,试图把人家拉向民主宪政这条路。鲁迅却不是这种性格。鲁迅更像他的老师章太炎。民国易帜后,章太炎就不承认这个国家了,自称“中华民国遗民”,不与党国合作。鲁迅没有自称民国遗民,但也拒绝与党国合作。当他看到胡适等人那样去跟新政权套近乎的时候,心里真的有一种看不起。由此我们可以看到的,是鲁迅的傲骨,是骨子里的一种贵族气。胡适对他的态度,不还击,原因也在这里。他把胡适等人看作焦大,觉得胡适你怎么这个样子,国家已经变了,民国变成了党国,你还那样不把自己当外人?鲁迅的意思是,我们已经成为奴隶,而一些人却不知道自己的奴隶地位,偏偏要管主子的事,替主子操心。鲁迅是不同情焦大的。焦大被塞一嘴马粪,在鲁迅看来,是活该。
鲁迅的问题就在于,他太清楚自己的地位:我已经是奴隶,这个国家已经没有我说话的地方,我只能在旁边冷嘲热讽,绝对不去找你们提什么建设性的意见,这是鲁迅对党国的态度。
这种态度决定了他的后来。鲁迅的确是与所谓“北洋政府”更接近,今天我们说的那个北洋政府,应该说这称谓本身就是错的,不应该用“北洋政府”、“北洋军阀政府”,因为那个政府是当时中华民国唯一的合法政府。为什么被称为北洋政府、北洋军阀政府呢?那是因为孙文到广州建立了另一个政府,要否定这个政府,是他们把北京的民国政府称为北洋军阀政府。
今天回头看,如果说中国知识分子生活得更舒适,言论更自由,文化发展更健康,还要数那个所谓“北洋军阀政府统治时期”。因为那时候司法是独立的,新闻出版、学术研究、文学创作,方方面面,都是自由的。你只要高兴,想组党就组党,想办报就办报,一切都是自由的。因为那是公民的权利,因为“约法”里头规定着,“中华民国主权属于国民全体”。而这个规定到了1928年之后,就没有了,成为国民党代替公民行使国家主权。为什么由国民党代行主权?有一个理由,就是中国人民素质太低,所以还不能实行民主,所以,由国民党代行主权。要经过一段训政时期,人民有了行使民主的能力了,那时候再还政于民。最后这一点应该很重要,这意味着国民党人当时虽然剥夺了全体国民的主权,但他们并不认为这是永久合法的,所以还有一个还政于民的承诺。胡适之所以对那个政府寄予希望,原因大概也在这里。否则,他的态度就无法解释了。因为在“训政”结束之后就要实行“宪政”,所以还有希望。鲁迅的不同之处,在于他强烈地感觉到“中华民国已经不是中华民国了”这一点,而不相信那个遥远的希望。
关于这些年鲁迅的作品不断地被从中学语文课本里删除,可以说这是必然的。原因即使我不说,大家也知道,因为我们这个时代,简单概括,可以称作维稳的时代。稳定高于一切。鲁迅的作品,一般被认为是不利于稳定的。早在90年代中期,前文化部长王蒙就曾经说,我们的作家当中有一个鲁迅那太好了,可是如果有好多鲁迅,我的天啊,那会引发地震的。正因为这样的认识,鲁迅那些斗争性的文章,那些太尖锐的文章,在教材里基本上没法生存下了。前几天,我给一家出版社编了一个鲁迅作品散文集,编辑就特别说,李老师,能不能选一点柔软的、轻的作品。我说,好,专门选轻的。可是在序言里头,我说了,有一些作家,你从他最重的作品里选,也仍然是轻的;有一些作家,你选他最轻的作品,可能还是很重。中学语文课本里减少鲁迅作品,这是很正常的。过去鲁迅作品选得太多,应该说不正常。我觉得,即使中学语文课本里只留下几篇鲁迅的作品,也不影响鲁迅在中国现代文学史上的地位。他的这种地位已经是没法撼动的。有些人想依靠捧起金庸来,或者捧起张爱玲来,等等,其实都没法取代鲁迅。
好,我就说这些吧!往回翻了一下,看到还有好多问题没有来得及回答。对不起!时间不早了,咱们今天就到这里,后面一些问题咱们可以放在别的时间再来继续讨论。谢谢大家!
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cnbnews · 4 years
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中文之美、从颜色到诗词都让人心醉(图片 :pixabay)
【希望之声2020年3月25日】(编辑:慧明)汉字是神通过有德行的人传给人类的,对于人类未来的发展有着决定性的作用。 汉字不仅可以表音,而且可以表意,且内涵具有传神性,与中国古代文化一脉相承,博大精深。其根本原因就在于记载汉语的工具—汉字是一种非常独特的方块文字。
“仓颉造字,天雨粟,鬼夜哭”的传说,意思是仓颉发明汉字时,天上落下了小米,夜里都能听见鬼在哭泣。由此可见,这件对人类相当重要的事当然也惊动了上苍。所以说汉字的内涵是及其丰富的。中文有多美?从音律到文字,从寓意到内涵,可豪放,可含蓄,读之朗朗上口,意韵无穷。中文之美,美在形体,亦美在风骨。
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中文之美,美在形体,亦美在风骨(图片 :pixabay)
中文的颜色很美
荼白、竹青、绯红、月白、石青、紫檀、霜色、黛绿、胭脂、藕荷、
豆绿、宝蓝、秋香、玄色、牙色、黄栌、靛蓝、明黄、朱砂、石绿。
中文的月份雅称很美
一月:柳月、端月、嘉月;二月:杏月、丽月、花月;
三月:桃月、蚕月、莺月;四月:槐月、孟夏、麦月;
五月:蒲月、榴月、仲夏;六月:荷月、季月、伏月;
七月:巧月、新秋、兰月;八月:桂月、仲秋、竹春;
九月:暮秋、菊月、青女月;十月:阳月、露月、飞阴月;
十一月:冬月、畅月、龙潜月;十二月:腊月、冰月、严月。
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三月杏花桃花开满山(图片 :pixabay)
中文的年龄很美
赤子、孩提、垂髫、总角、幼学、豆蔻、及笄、束发、
破瓜、弱冠、不惑、耳顺、古稀、知天命。
中文的地名很美
未央街、琅琊路、珞珈路、天竺路、长安街、启月路、钟灵路、沁园路、鹿溪路、鹤林路、永清街、胭脂巷、诗书街、莫愁路、百草路、琴台街、枝白路、琉璃街、枫林路、春晓路、百花深处、烟雨南街、五味十字、十月初五街、勒马听风街、万古一人巷。
中文的成语很美
浮光掠影、翩若惊鸿、光风霁月、兰因絮果、静水流深、雪泥鸿爪、明眸皓齿、秉烛夜游、鲜衣怒马、朝花夕拾、长乐未央、怦然心动、一叶知秋、顾盼生辉、清风徐来、阳春白雪、光阴荏苒、白云苍狗。
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浮光掠影(图片 :pixabay)
中文的对联很美
荷花茎藕蓬莲苔;芙蓉芍药蕊芬芳。
风竹绿竹,风翻绿竹竹翻风;雪里白梅,雪映白梅梅映雪。
高高下下树叮叮咚咚泉;重重叠叠山曲曲环环路。
佛脚清泉飘,飘飘飘,飘下两条玉带;源头活水冒,冒冒冒,冒出一串珍珠。
金水河边金线柳,金线柳穿金鱼口;玉栏杆外玉簪花,玉簪花插玉人头。
静泉山上山泉静;清水塘里塘水清。
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荷花茎藕蓬莲苔;芙蓉芍药蕊芬芳(图片 :pixabay)
中文的药名很美
半夏、龙葵、白芷、曲莲、紫苏、合欢、赤芍、连翘、沉香、青蒿、
青黛、玳瑁、菖蒲、忍冬、桔梗、麦冬、厚朴、陈皮、杜仲、青蒿、
降香、紫菀、薄荷、茯苓、荆芥、女贞子、车前草、莬丝子、
六月雪、凤尾草、半边莲、淡竹叶、蔓荆子、西河柳、
中文的音韵很美
云对雨,雪对风,晚照对晴空。来鸿对去雁,宿鸟对鸣虫。
三尺剑,六钧弓,岭北对江东。人间清暑殿,天上广寒宫。
两岸晓烟杨柳绿,一园春雨杏花红。两鬓风霜,途次早行之客。
一蓑烟雨,溪边晚钓之翁。春对夏,秋对冬,暮鼓对晨钟。
观山对玩水,绿竹对苍松。冯妇虎,叶公龙,舞蝶对鸣蛩。
衔泥双紫燕,课蜜几黄蜂。春日园中莺恰恰,秋天塞外雁雍雍。
秦岭云横,迢递八千远路;巫山雨洗,嵯峨十二危峰。
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秦岭云横,迢递八千远路(图片: Panoramio upload bot /wikipedia)
中文的诗词很美
荷笠带斜阳,青山独归远。
空山新雨后,天气晚来秋。
春水碧于天,画船听雨眠。
夜来风雨声,花落知多少。
落花人独立,微雨燕双飞。
沾衣欲湿杏花雨,吹面不寒杨柳风。
竹外桃花三两枝,春江水暖鸭先知。
草铺横野六七里,笛弄晚风三四声。
疏影横斜水清浅,暗香浮动月黄昏。
小楼一夜听春雨,深巷明朝卖杏花。
明月别枝惊鹊,清风半夜鸣蝉。
云中谁寄锦书来,雁字回时,月满西楼。
流水落花春去也,天上人间。
叶上初阳干宿雨、水面清圆。
砌下落梅如雪乱,拂了一身还满。
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空山新雨后,天气晚来秋(图片 :pixabay)
中文的人名很美
江疏影、林风眠、关山月、丰子恺、屠呦呦、宋清如、
王嘉尔、林语堂、木婉清、程灵素、朱自清、龚自珍。
中文里的礼貌用语很美
请人看稿称“阅示” 请人改稿说“斧正”;
求人解答用“请问” 请人指点用“赐教”;
托人办事用“拜托” 赞人见解用“高见”;
看望别人用“拜访” 宾客来至用“光临”;
问道年龄叫“贵庚” 问道姓啥叫“贵姓”;
问道职务叫“称谓” 问道姓名叫“大名”;
对方男孩称“公子” 对方女孩称“令爱”;
自己妻子称“拙荆” 自己丈夫称“外子”;
对方来信叫“惠书” 老人年龄叫“高寿”;
自称礼轻称“薄礼” 不受馈赠说“返璧”;
对方家庭叫“府上” 自己家庭叫“寒舍”;
对方父亲叫“令尊” 对方母亲叫“令堂”。
有一位网友曾说:
如果我没有出生在中国,我将永远不能体会天涯到底是多么遥远的地方,断肠又是怎样的一种相思。我会完全联想不了江南二字除了一个笼统的地名,还在那朦胧烟雨中藏着多少万世流芳的传说,而对于江湖是怎样的人世,滚滚红尘淹没过什么,可能真的一生都无从知晓。对于从小就学习中文的我们,你是否也认为中文真的很美呢?
(本篇文章和图片经希望之声编辑制作,转载请注明希望之声并包含原文标题及链接:)
北京大外宣移师推特 中文大号成招揽目标
武汉肺炎传播全世界 中文媒体难找真消息
武汉肺炎传播全世界 中文媒体难找真消息(图)
钟南山与美国合作研治新冠肺炎 中文网络忽多传钟逆习意遭解职
WHO恐得罪中国? 中文抗疫书不提“服中药可能有害”
安卓翻墙-禁闻浏览器、Windows翻墙:ChromeGo AD:搬瓦工官方翻墙服务Just My Socks,不怕被墙
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wangwill66 · 1 year
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勸世詩歌
H:有時Line傳來短片,製作也不錯,聽看皆宜。若想深入了解,查查來龍去脈,另有天地。不足歌,醉時歌及人生詩境,古已有之,只是缺少組合。心情不好時,唸唸!20230316W4
網路資料:
不足歌
https://youtu.be/C-off75BU2M
朱載育 〔明代〕
終日奔波只為飢,方才一飽便思衣;
衣食兩般皆俱足,又思嬌娥美貌妻;
娶得美妻生下子,恨無田地少根基;
良田置的多廣闊,出門又嫌少馬騎;
槽頭扣了騾和馬,恐無官職被人欺;
七品縣官還嫌小,又想朝中掛紫衣;
一品當朝為宰相,還想山河奪帝基;.
心滿意足為天子,又想長生不老期;
一旦求得長生藥,再跟上帝論高低。
不足不足不知足,人生人生奈若何?
若要世人心滿足,除非南柯一夢兮。
醉時歌
https://youtu.be/GEyXAwS18qE
朝代:唐代
作者:杜甫
原文:
諸公袞袞登臺省,廣文先生官獨冷。甲第紛紛厭粱肉,
廣文先生飯不足。先生有道出羲皇,先生有才過屈宋。
德尊一代常轗軻,名垂萬古知何用。杜陵野客人更嗤,
被褐短窄鬢如絲。日糴太倉五升米,時赴鄭老同襟期。
得錢即相覓,沽酒不復疑。忘形到爾汝,痛飲真吾師。
清夜沈沈動春酌,燈前細雨檐花落。但覺高歌有鬼神,
焉知餓死填溝壑。相如逸才親滌器,子云識字終投閣。
先生早賦歸去來,石田茅屋荒蒼苔。儒術於我何有哉,
孔丘盜跖俱塵埃。不須聞此意慘愴,生前相遇且銜杯。
人生詩境
18歲
春風得意馬蹄疾,一日看盡長安花。
出自於孟郊的《登科后》
朝代:唐代
作者:孟郊
原文:
昔日齷齪不足誇,今朝放蕩思無涯。
春風得意馬蹄疾,一日看盡長安花。
21歲
一日不見兮,思之如狂。
出自於佚名的《凤求凰》
朝代:兩漢
作者:佚名
原文:
有一美人兮,見之不忘。
一日不見兮,思之如狂。
鳳飛翱翔兮,四海求凰。
無奈佳人兮,不在東牆。
將琴代語兮,聊寫衷腸。
何日見許兮,慰我彷徨。
願言配德兮,攜手相將。
不得於飛兮,使我淪亡。
鳳兮鳳兮歸故鄉,遨遊四海求其凰。
時未遇兮無所將,何悟今兮升斯堂!
有豔淑女在閨房,室邇人遐毒我腸。
何緣交頸爲鴛鴦,胡頡頏兮共翱翔!
凰兮凰兮從我棲,得託孳尾永爲妃。
交情通意心和諧,中夜相從知者誰?
雙翼俱起翻高飛,無感我思使餘悲。
24歲
安能摧眉折腰事權貴,使我不得開心顏!
出自唐代李白的《夢遊天姥吟留別 / 夢遊天姥山別東魯諸公》
海客談瀛洲,煙濤微茫信難求。
越人語天姥,雲霞明滅或可睹。
天姥連天向天橫,勢拔五嶽掩赤城。
天台四萬八千丈,對此欲倒東南傾。(四萬 一作:一萬)
我欲因之夢吳越,一夜飛度鏡湖月。(度 通:渡)
湖月照我影,送我至剡溪。
謝公宿處今尚在,淥水蕩漾清猿啼。
腳著謝公屐,身登青雲梯。
半壁見海日,空中聞天雞。
千岩萬轉路不定,迷花倚石忽已暝。
熊咆龍吟殷岩泉,栗深林兮驚層巔。
雲青青兮欲雨,水澹澹兮生煙。
列缺霹靂,丘巒崩摧。
洞天石扉,訇然中開。
青冥浩蕩不見底,日月照耀金銀台。
霓為衣兮風為馬,雲之君兮紛紛而來下。
虎鼓瑟兮鸞回車,仙之人兮列如���。
忽魂悸以魄動,恍驚起而長嗟。
惟覺時之枕席,失向來之煙霞。
世間行樂亦如此,古來萬事東流水。
別君去兮何時還?且放白鹿青崖間,須行即騎訪名山。
安能摧眉折腰事權貴,使我不得開心顏!
28歲
人面不知何處去,桃花依舊笑春風。
出自於崔護的《题都城南庄》
朝代:唐代
作者:崔護
原文:
去年今日此門中,人面桃花相映紅。
人面不知何處去,桃花依舊笑春風。
30歲
不如意事常八九,可與語人無二三。
《別子才司令》方岳
不如意事常八九,可與語人無二三。
自識荊門子才甫,夢馳鐵馬戰城南。
40歲
回首向來蕭瑟處,歸去,也無風雨也無晴。
出自宋代蘇軾的《定風波·莫聽穿林打葉聲》
三月七日,沙湖道中遇雨。雨具先去,同行皆狼狽,余獨不覺,已而遂晴,故作此詞。
莫聽穿林打葉聲,何妨吟嘯且徐行。竹杖芒鞋輕勝馬,誰怕?一蓑煙雨任平生。
料峭春風吹酒醒,微冷,山頭斜照卻相迎。回首向來蕭瑟處,歸去,也無風雨也無晴。
55歲
萬里悲秋常作客,百年多病獨登臺。
出自於杜甫的《登高》
朝代:唐代
作者:杜甫
原文:
風急天高猿嘯哀,渚清沙白鳥飛回。
無邊落木蕭蕭下,不盡長江滾滾來。
萬里悲秋常作客,百年多病獨登臺。
艱難苦恨繁霜鬢,潦倒新停濁酒杯。
70歲
世事一場大夢,人生幾度秋涼?
西江月·世事一場大夢
朝代:宋代
作者:蘇軾
原文:
世事一場大夢,人生幾度秋涼?夜來風葉已鳴廊。看取眉頭鬢上。(秋涼 一作:新涼)
酒賤常愁客少,月明多被雲妨。中秋誰與共孤光。把盞悽然北望。
80歲
古今多少事,都付笑談中。臨江仙
作者:楊慎出自《二十一史彈詞》,收錄為《三國演義》開篇詞
姊妹計劃: 數據項
滾滾長江東逝水,浪花淘盡英雄。
是非成敗轉頭空。青山依舊在,幾度夕陽紅。
白髮漁樵江渚上,慣看秋月春風。
一壺濁酒喜相逢。
古今多少事,都付笑談中。
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kachoushi · 1 year
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各地句会報
花鳥誌 令和5年2月号
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坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和4年11月5日 零の会 坊城俊樹選 特選句
秋風や日覆ひの色褪せしまま 秋尚 のつそりと冷ゆるがままの地蔵かな 軽象 佃煮屋間口小さく秋灯す 三郎 神水を掬へば木の実溢れ出る はるか 残菊やまことに細き路地ぬけて きみよ くつくつともんじや躍らせ小春人 眞理子 欄干に頬杖をつく鯊の竿 はるか 猫じやらしいづれも佃生まれなる 和子 小鳥来て路地の少女の消えてゐる 同 晩秋に釣糸たらす女かな きみよ
岡田順子選 特選句
初冬の海月は川の色をして 小鳥 のつそりと冷ゆるがままの地蔵かな 軽象 大正の風沸く交番神の留守 小鳥 もんじや屋の高き箆音小六月 眞理子 てつぺんへ鳥入れ替る柿の空 千種 産土神の留守の月島一号地 いづみ 朝寒し江戸の醤油の煮詰まれり ゆう子 佃とは小鳥姦し婆もまた 俊樹
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年11月5日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
鷹匠の脈打つ腕畏鳥 美穂 襟元を直す鷹師の指女性 勝利 風の待つ鷹一点を凝視して 孝子 鷹匠の血脈誇り隠れ棲む 美穂 白樺の空ふかぶかと鷹柱 朝子 りんりんと月呼びよせて虫の声 成子 七五三背中をあふれさうに帯 美穂 隼の一閃に散る鳥の群 由紀子 風も日も包みて蓮の枯れにけり 孝子 あまたなる祈り睡らせ枯蓮 かおり 前を行く心変りの時雨傘 久美子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年11月7日 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
石蕗の黄飛ばねばをれぬ蝶一つ 雪 赤とんぼ飛んで昔の空の色 同 この晴を授けて神は旅に出し かづを 幾千里子連れの鴨の渡り来し 匠 在りし日や歴史は遺る左内の忌 千加江 潮風や句碑は礁に柏翠忌 同 霙るるや獄舎の左内穀然とし 千代子 天高く貫ぬく像や左内の忌 笑 街路樹の一夜に痩せて神渡 希
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年11月8日 萩花鳥会
石蕗の花段段段と崖ぷち 祐子 コロナ禍の波乗り上手に冬構 健雄 小春日の暮れて待たるる燗一杯 俊文 風に揺れ森の囁き木の葉散る ゆかり 会釈から世間話に小春の日 陽子 ただふるへ明日を求めぬ木の葉かな 吉之 流星の如く零れし小夜時雨 明子 南窓微睡む父や冬ぬくし 美惠子
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令和4年11月5日 さくら花鳥俳句会 岡田順子選 特選句
袖揺らし拙く歩く七五三 あけみ 傷のない大根抱へ師を訪ひぬ 登美子 面取りの暇なき夕の煮大根 実加 徒歩多き歴史ツアーや椎の秋 紀子 細路地に並ぶ地蔵や朝時雨 実加 葛湯して今夜は静かすぎる母 登美子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年11月10日 うづら三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
凩や気にしても今猫背かも さとみ 句をよんで名を知れるなり石蕗の花 同 手の先に触れ行く物の冬に入る 都 廃船のたゆたふ河や冬めきて 同 前山に人の呼び合ふ小春かな 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年11月10日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
蒼穹へ差し出されあり鵙の贄 都 トタン屋根黒く被ひて山葡萄 史子 迷ひ来し犬は小春の匂ひして 都 神名備へ舞ひ降りて来し渡り蝶 宇太郎 冬籠老いて小さくなるままに 悦子 遠き日の灯台の下大根畑 すみ子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年11月12日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
欠礼の葉書一通冬に入る 恭子 大綿の飛ぶ一角や時ゆるむ 同 朝の日に虻を待ちゐる花八手 三無 初時雨移ろへる景厨より 和代 蒼天に柿の朱色の映り込み 三無 大綿の抱へる影の漂へる 秋尚 想ひ出は些細なはなし花八手 ゆう子 木々の葉の手さわり厚く冬来る 恭子 綿虫のふうはり中子師の化身 三無
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年11月14日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
こつこつと振子の音や冬灯 時江 残菊に風の別れか纏ひつく 同 丁寧に描く絵手紙曼珠沙華 ただし 神なびの落葉時雨や岩を打つ 時江 花八手午後の日早も翳りゆく 昭子 職人はなべて無口や日短 同 落葉踏む音にも山の深さあり みす枝 踏み入りて銀杏落葉に呑まれたる 信子 マネキンの衣裳着膨れしてゐたり 世詩明 初霜の夜なりオリオン瞬きぬ 信子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年11月14日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
山茶花の掃きたるあとに二三片 廸子 ものの影長く濃くなる冬めきて 三無 隼の腹白じろと急降下 怜 街路樹の風音乾き冬めける 秋尚 夕散歩我が影長く冬めきぬ 怜 箒持ち山茶花散るを楽しめり ことこ 青空を切るビルの影冬めける 秋尚 立ち話続く山茶花日和かな 和魚 冬めきて木立の空の広くなり 廸子 蒼天を蹴りて隼矢となりぬ 三無
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年11月16日 福井花鳥会 坊城俊樹選 特選句
字余りの句をつくりたる文化の日 世詩明 桟橋も浚渫船も冬に入る 千代子 神の旅紅く際立つ大鳥居 笑子 茅葺の千古の家に散る紅葉 希子 玉砂利の中に見つけし木の実かな 和子 存問もせずしづむ身に石蕗の花 数幸 せめて欲しうすばかげろふ程の翅 雪 人の世を仏の流転秋の風 同 だんまりを通しきれずに蚯蚓鳴く 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年11月17日 伊藤柏翠記念館句会 坊城俊樹選 特選句
人の世に蓑虫鳴くと誰が云ひし 雪 火取虫飛ばざれば灯も淋しきか 同 寺小春上品上生仏仰ぐ 千代子 ぼてさんは越前蟹を売り歩く 同 銀杏散り大樹の影の細りゆく かづを 千年の古都の時雨にあひにけり 同 潮風に磨きあげられ石蕗の花 眞喜栄 腕白も今日は神の子七五三 みす枝 秋風に揺れてゐるかに弥陀の耳朶 やす香 冬ざれや星をつけたる兵の墓 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年11月18日 さきたま花鳥句会
参道を江戸小紋なる散紅葉 月惑 冬凪や島のなぞへの墓の群 裕章 麦稈のロールどすんと冬を待つ とし江 藤袴やさしく撫づる福禄寿 ふじ穂 あかあかと冬田息づく日の出かな 康子 神無月何事もなく老いの日々 静子 美女と言ふ嘘を重ねて冬鏡 良江
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令和4年11月20日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
照紅葉ここは武蔵野ど真ん中 三無 黄落の熄み変哲もなきベンチ 千種 落葉して三面恐し馬頭尊 慶月 重さなき影を揺らして枯尾花 三無 藁屋根に落葉降り積み主留守 慶月
栗林圭魚選 特選句
冬枯や蚕飼の匂ひふと間近 炳子 冬灯しコルクのもろき薬瓶 久 初時雨お薄いただく森の庵 久子 雲割れてゆく黄落の激しさに 千種 大根の髭剃られあり品評会 久子 山茶花や雨の重さも散り敷きて 亜栄子 黄落の熄み変哲もなきベンチ 千種 白銀の手摺り冷たく磴下る 炳子 乾びたる音の遠のく冬木道 眞理子 ちりちりと咲き揃ひたる冬桜 秋尚
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令和4年11月21日 鯖江花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
秋祭皮張り替へし大太鼓 雪 而して九十一の菊膾 同 七福神旅立たれたる村静か みす枝 百地蔵に散華の如く紅葉舞ふ 同 湯豆腐の正面に座す強面 昭子 掃き終へし箒立て掛け花八手 同 季は今し厳き面となる猟夫 一涓 還り来し神をねぎらふ祝詞かな ただし 百鉢の菊の位を競ひけり 世詩明 一寺置く知恵の文殊の山眠る 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年11月27日 月例会 坊城俊樹選 特選句
皇のげに隙のなき白障子 昌文 身を包むコートの中が愛国者 いづみ 箒目を真直ぐに神を迎へけり 光子 陸士らの祈りの長き神迎 はるか 今にして見えてくるもの綿虫も 千種 大前へ小春は人を歩かせて はるか 孤独なる鴨の水脈とはもつれざる 光子
岡田順子選 特選句
桜もみぢ防大生の整列へ 眞理子 狛犬の阿吽おそらく息白し 俊樹 黄落す絵画の中に居るやうな 政江 参道の冬日の中へ防大生 同 幾そ度落葉の艶を神の池 幸風 すれ違ふ男冬野の匂ひして 千種 大前へ小春は人を歩かせて はるか すめらぎの濠へ映りて柿たわわ 眞理子
栗林圭魚選 特選句
冬蜂のとどまるところ香の濃ゆし 光子 ハーレイの枯葉舞ひ上ぐ九段坂 要 靖国は黄金色に神迎 千種 枯蓮の影縮こまる濠深き 秋尚 日を溜める力残せし枯尾花 同 すれ違ふ男冬野の匂ひして 千種 孤独なる鴨の水脈とはもつれざる 光子 紅葉散る城跡になほ地の熱り 千種
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年11月 九州花鳥会 坊城俊樹選 特選句
蓮根掘る胴長干して昼餉時 光子 蓮根掘り母のがめ煮の待つてをり 美穂 目貼せし仏間に母と長話 愛 黄落やへうたん池を膨らませ 由紀子 手の窪に在はす仏や霜の声 成子 蓮根掘るまぶしき泥の太古まで 睦古賀子 冷たき掌胸に合はせて百度石 かおり づぶづぶと臍まで沈む蓮根掘 千代 抜き足は得意技なり蓮根掘 美穂 蓮根掘るこのまま脚の根付きさう 愛 冬銀河泳ぎ止まざる大魚達 ひとみ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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yukinko22 · 5 years
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怪しいインビテーション・フロム彼方  夏休みに、知らない人に誘われて、知らない人たち5人と、知らない国の知らない場所を旅することになった。twitterで、今まで全く交流がなかった人から突然誘われたのだ。なぜ誘われたのかもわからないし、なぜ、自分がその誘いに応じたのかもわからない。  当時の私は、激務で有名な会社の、最も激務と噂される部署で働いていた。会社の机で眠り、近くのジムでシャワーを浴び、充血した目でエクセルを叩く。正月もゴールデンウィークもなかった。ウイグル旅行の誘いが届いたのは、そんな折だった。  メッセージが目に入るやいなや、発作的に行きたいと返事をしてしまったが、後になって疑念が湧いてきた。メッセージの主は、いったいどんな人なんだろう。私は当時、人と絡まない孤高のスタイルでtwitterをしていたのでDMがきたこと自体初めてだった。  とにかく、行くと言ってしまったのだから、休みをとらなければならない。その時点で夏休みを取得する予定はなかった。取得できるのかもわかっていなかった。 どうしてウイグルなんかに行くんですか  休暇取得を申し出る私に対し、職場のみんなはやさしかった。みんな忙しいのに、「仕事は引き取るから」「ゆっくり休んで」と言ってくれた。しかし、旅行の詳細を聞くと、同僚たちの善良な笑顔はさっと曇った。  彼らは問う。 「どうして、ハワイでもセブ島でもなく、ウイグルなのか」 「どうして、親しい友人や家族と行かないのか」  もっともな疑問だ。私は、どうして、気が合うかわからない人々と、楽しいかわからない場所に行こうとしているのだろう。自分にもわからない。どちらかといえば、こちらが問い返したいくらいだ。 「どうして私は、知らない人とウイグルに行くのでしょう?」  私は、夏休みまでに仕上げなければいけない書類の山を見つめた。 羽田からウルムチへ  早朝の羽田空港国際ターミナルで、私は疲れ果てていた。休暇を目前にひかえる中で押し寄せる仕事の波に飲み込まれ、家に帰れない日々が続いていたからだ。最終日も仕事が終わらず、徹夜で職場から直接空港に向かう羽目になった。  今回の旅行メンバーは、男性3人・女性3人。私以外は、大学時代のサークルを中心としたつながりのようだった。それだけ聞くと、「あいのり」や「テラスハウス」のような、青春の匂いただよう若い男女の旅行なのだが、グループからはそれをかき消す不穏なバイブスが満ち満ちていた。  なかでも完全におかしいのは、グループの中に「尊師」と「レーニン」を称する人物がいることだ。通常、「尊師」というのは、オウム真理教教祖の麻原彰晃(本名・松本智津夫)を意味し、「レーニン」というのは、ロシア社会民主労働党の指導者であり、ソビエト連邦を建国した人物であるウラジミール・イリイチ・レーニンを意味する。  テロ、あるいは革命という形で、国家体制の転覆をめざした宗教的・政治的指導者が、なぜ一同に会しているのだろう。空港前で集合しているだけで、破壊活動防止法(通称・破防法)の適用対象団体となってしまいそうだ。  ともあれ、この時点で、今回の旅行が恋と友情の甘酸っぱい青春旅行になる可能性は限りなくゼロだ。麻原彰晃とウラジミール・レーニンが旅を通じて友情を深め、それがいつしか愛に変わる……。そんな突飛な話は、両者の思想的相違点を考慮すればおよそ考えられないだろう。  私は、国家転覆を試みる宗教家でもなければ、社会主義の革命的指導者でもない。どうしてこの旅に誘われたのだろう。ぷくぷくとふくらむ疑問と不安を乗せて、飛行機は羽田を旅立とうとしていた。 尊師とレーニン  羽田からウルムチへの長い移動中に分かったことがある。尊師は、工学の修士号を持つ知識人であり、特定の宗教とのつながりはないということだ。「尊師」というのは、極めて不謹慎なあだ名にすぎない。  では、旅の同行者にふさわしい安全な人物かというと、そんなことは決してなかった。尊師は、無邪気な下ネタをガンガン投下してくるという反社会的な性質を有していた。  例えば、北京の空港でのことだ。 「マーン・コーヒーだ!見てください!マーン・コーヒーですよ」  尊師は、北京空港内のオシャレなカフェチェーンを指差し、目をキラキラ輝かせて写真を撮りはじめた。そのとき、私は「どこにでもあるチェーン店になぜ興奮しているのだろう」と不思議だったのだが、後になって、それが低レベルすぎる下ネタであることに気がついた。もっと早く気づいてしかるべきだったのだが、工学の修士号を持つ知識人が、そんな知性ひかえめのジョークを言うとは思わなかったのだ。  他の同行者もまた、尊師の被害を受けていた。 尊師 「ちんマ!? ちんマ!?」 同行者「ちんマってなんですか?」 尊師 「ちんマというのは、ちんちんマッサージのことです」 同行者「……」  それ以来、その人は、尊師には何も質問しないと決めたという。  尊師が、大きな身体のうるさいお兄さんである一方、レーニンは、小柄でツインテール姿の、無口でちょっぴりエッチな美少女だった。  ちなみに、ちょっぴりエッチというのは、彼女が尊師の下ネタをときどき拾ってあげていたのを私が面白おかしく書き立てているだけだ。実際には、彼女は、渾身の下ネタをたびたびスルーされ、ときにはうるさいと一喝される尊師を気遣っていたのだと思う。  なので、正確には「レーニンは、小柄でツインテール姿の、無口で心優しい美少女」ということになる。それでいてソ連のコミンテルンを率いる革命的指導者であり思想家だなんて、今すぐアニメの主人公になれそうだ。  それにしても、尊師もレーニンも、私の凡庸な日常生活には絶対にあらわれないタイプのキャラクターだ。二人とも、普段は善良な労働者として社会に潜伏しているらしいので、本当は自分のまわりにもいるのかもしれないが、それを知るすべはない。 「ずいぶん遠いところにきちゃったなあ……」  あまりの非日常感にめまいがした。まだ、目的地にさえついていない。 謎の秘密結社・うどん部   新疆ウイグル自治区は、中国の最西部に位置しており、国境を接して南にはインドがあり、西にはカザフスタン・キルギス・タジキスタン・パキスタンが連なる。古くからシルクロードの要衝として栄え、ウイグル人・カザフ人などの多民族が住む、ムスリムが多い中央アジア文化圏だ。  今回の旅程は、新疆ウイグル自治区の玄関口であるウルムチを経由し、前半は電車でトルファン、カシュガルを巡り、後半は車でパキスタンとの国境であるタシュクルガンまで足を伸ばすというものだ。  羽田からウルムチまでの移動にまる一日かかるため、実質的な旅のスタートは二日めのトルファンからになる。隣の国のはずなのに、移動の体感的にはヨーロッパと同じくらい遠い。  私たちがトルファンに到着して最初に向かったのは、ウイグル料理店だった。 「やはり我々うどん部としては、まずはラグメンの調査からですよね」  旅行の主催者である女性は、ニコニコしながらそう言った。ラグメンとは、中央アジア全域で食べられている麺類で、うどんのような麺に、トマト味のソースがかかった食べ物だ。  なんでも、今回の旅行は「某大うどん部」という、大学のうどん愛好家サークルの卒業生を中心としたメンバーで構成されているらしい。旅の目的のひとつも、ラグメンを食べることで古代中国で生まれたうどんの起源を探ることにあるのだという。 「うどん部……?」  私は思わず考え込んでしまった。特にうどん好きというわけでもない自分が誘われた理由がわからないと感じたこともあるが、一番の理由は、今回のメンバーが「うどん部」という言葉がもつ牧歌的かつ平和的な響きからはおよそかけ離れた集団のように思えたからだ。  先程言及した「尊師」と「レーニン」が名前からして不穏なのはもちろんだが、他のメンバーたちの話題もとにかく不穏だった。 「前進チャンネル」の話 中核派Youtuberが、警視庁公安部のキャンピングカーを紹介したり、不当逮捕された同志の奪還を訴えたりしている番組の話。 北朝鮮脱北ノウハウの話 中国と北朝鮮の国境地帯に住んでいたことがあるうどん部員による、脱北ノウハウの話。北朝鮮脱北者が、国境近辺に住む中国人民を襲い、金品と身分証を奪いとることで中国人として生きようとするが、中国語が話せないことからバレてしまい、強制送還されるという救いのない事件が多発しているらしい。 スターリンに乾杯した話 「ヨシ」という名前のうどん部員が、スターリンの故郷であるジョージアを訪ねたところ、「ヨシ」は同志スターリンの名前だと歓迎され、「ヨシフ・スターリンに乾杯」と密造酒をすすめられた話。  一言でいうと、うどんは関係ない。  うどんは関係ない上に、思想的にかたよっている。うどんを愛する心に右も左もないと思うのだが、一体どういうサークル勧誘をすればこんなことになるのだろう。世界がもし100人のうどん愛好家の村だったら、中核派は0名、教祖も0名、スターリンの故郷を訪ねた人も0名になるのが普通だ。  今回の旅行メンバーはたった6人なのに、公安に���ークされそうな発言をする人しかいない。思想・良心の自由が限りなく認められたコミュニティであるともいえるが、うどんを隠れ蓑とした何らかの過激な団体である可能性も捨てきれない。謎の秘密結社・うどん部だ。 「こうした旅行は、よく企画されるんですか?」  私は、うどん部の背景を探るべく、おそるおそる尋ねた。 「主催者さんは、旧ソ連圏に関する仕事をしているんです。その関係で、旧ソ連の珍しいエリアへの旅行をよく企画しますよ」 「でも、どういうわけか、たまに、その旅行に行った人たちが仕事や学校を辞めてしまうんですよ」 「この前の旅行では、社会主義国家によくある、労働を賛えるモニュメントをめぐっていたら、一緒に旅行していた学生の友人が『労働意欲が湧いてきた。学校はやめるぞ』と言って、突然中退してしまったんです」 「僕も仕事を辞めたしね」  社会主義国家を旅することで、反社会性が養われてしまうとは……。 「旧ソ連圏への旅行は、うどんとは関係あるんですか?」 「うどんとは関係ありません。ただ、うどん部員には、真っ赤な血が流れているんです」  これまでの話をまとめると、「うどん部」とは、うどんの絆で連帯し、ときに資本主義社会から人をドロップアウトさせる赤い集団ということになる。なにがなんだか、全くわからない。  主催者の女性は、旧ソ連圏に関する仕事をしているだけあって、中央アジア文化に詳しかった。彼女は、うどん部員らしい話題として、シルクロードにおける麺の広がりについて話をしてくれた。 「トルクメン人も、カザフ人も、ウズベク人も、友人たちは口を揃えてラグメンはウイグルが一番美味しいというんですよ」  全中央アジアの人民が認めるウイグルラグメンは、たしかにおいしかった。もちもちした手延べ麺の感触と、オイリーなソースに絡まるたっぷり野菜のバランスがよく、濃い味なのにいくらでも食べられてしまう。  特に、ニンニクでパンチを効かせたラグメンは癖になるおいしさで、そのジャンクかつ中毒性が高い味わいから、勝手に「ウイグルの二郎」と命名されていた。  内装も異国情緒が爆発していた。天井から階段までいたるところがタイルやステンドグラスで彩られている。細やかな幾何学模様を見ていると、確かに中央アジア文化圏に来たのだということを実感する。  中央アジアを旅行するたびに思うのだけれど、彼らの、あらゆる場所を「美」で埋め尽くそうとする情熱はすごい。衣服やクッションの細かな刺繍、木彫りのアラベスク、色とりどりのランタン……。よくみると、料理に使うボウルまで鮮やかな矢絣模様がついている。  私は、ステンドグラスが貼られた天井を見つめた。 「遠い場所に場所にきたんだ」  そう思ったが、どういうわけか実感がなかった。足元だけが、なんだかふわふわしている気がした。 砂漠は空中浮遊する尊師の夢をみるか  午後から本格的な観光がスタートした。最初に訪れたのは、交河城址という遺跡だ。紀元前2世紀頃に作られ、14世紀まで実際に街として使われてい要塞都市だ。地平線が見えそうなほど広い。  地面の上にレンガを重ねるのではなく地面を掘って街を作ったところに特徴があるらしいのだが、これだけの土地を彫り抜くなんて、想像もつかない労力だ。中国の圧倒的なマンパワーを感じる。  遺跡が広すぎる一方で観光客があまりいないため、とても静かだ。どこまでも続く風化した街並みを歩き、静謐な空気に触れ、かつては賑わっていたであろう都市の姿を想う……そんな触れ込みの場所なのだけれど、正直言って、そうしたロマンチックな思い出は一切残っていない。  なぜなら、悠久の大地を包む静寂を切り裂くように、尊師がマシンガントークを繰り広げていたからだ。麻原彰晃がおしゃべりだったのかは知らないが、少なくともウイグルの尊師は非常におしゃべりで、一人で優に5、6人分は話していた。観光中、常にニコニコ動画の弾幕が飛んでいるような状況であり、センチメンタルな旅情の入り込む隙はない。  尊師の話は、基本的にどれも「興味深いがどうでも良く、とにかく怪しい」内容で統一されている。 ・中国の深センで売られている「Android搭載のiPhone」の話 ・中国貴州省の山奥に住むラブドール仙人の話 ・中国の内陸部では旅行カバンの代わりに尿素袋が使われているという話 ・中國の伪日本製品に書かれている怪レい日本语が好きだという話……。  気がつくと、夕暮れ時になっていた。  乾いた大地は茜色に染められて、民族音楽の弾き語りが響く。旅行者としてのセンチメンタリズムが刺激され、私はこの地の長い歴史に思いを馳せる。しかし、次の瞬間には、そんなセンチメンタリズムを切り裂くように尊師の怪しい話が炸裂し、安易な旅情に回復不可能な一撃を加える。  たちまち、私の心の中で放映されていた「NHK特集 シルクロード」の映像は乱れ、テーマソングを奏でる喜多郎は、へなへなと地面にへたり込む。   砂漠で果敢にも空中浮遊を試み転落する尊師、唐突に尊師マーチを歌い始める尊師、中国の怪しいガジェット情報に詳しい尊師……。  トルファンでの私の思い出は、尊師色に染め上げられていった。 遊牧民が住む砂漠の街で不慮のノマドワーカーになる  まさかウイグルで徹夜をすることになるとは思わなかった。  観光を終えてホテルに戻った私を待っていたのは、職場から送られてくる容赦ないメールの数々だった。 「夏休み中恐縮ですが、添付の資料につき18時までにご確認お願いします」 「確認が終わるのは何時頃になるでしょうか」 「こちらも限界です、連絡ください」  休暇を申し出たときの「ゆっくり休んでください」はなんだったのか。そもそも、今日、日本は日曜だし明日は月曜で祝日のはずだ。私が旅行にでかけたのは土曜日なので、まだ夏休みは始まってさえいない。どうしてこんな惨状になっているのだろう。  ひとつ断っておきたいのは、私の職場の同僚たちは、基本的に優しく善良な人たちであるということだ。本当に仕事が回らなくなり、やむを得ずメールをしてきたのだろう。  今回の夏休みは「正月がなかったのはあまりにも気の毒だから」と上司が、わざわざチームに根回しをしてくれてようやく取得に至ったものだ。上司のただひとつの誤算は「現場に人が足りていない」という根本的な問題は、根回しでは決して解決しないということだ。  私はその夜、ホテル近くの雑貨店でレッドブルとコーヒーを買い込み、目を真っ赤にしてキーボードを叩き続けた。  空が白み、まばゆい朝日がきらきらと射しこむ時間になっても、私の仕事は終わらなかった。他の人々には私を置いて観光に行ってもらい、一人で仕事を続けた。そんな私を気遣って、尊師が食事を買ってきてくれた。  ようやく仕事が終わったのは、太陽が高くのぼり、熱された大地が蜃気楼で揺れるころだった。 鳥の声しかしない場所  午後、観光に出ていた他のメンバーと合流し、タクシーで訪れたトルファン郊外はのどかな場所だった。乾いた土地に葡萄溝やバラ園が広がっていて、木陰で商売をするスイカ売りやぶどう売りが、こちらにおいでと手招きをする。  ぶどうはいつも無料だった。一房分を買おうとするのだが、安すぎてお金を受け取ってもらえないのだ。口に含むと、雨の降らない土地で育つ果物特有の凝縮された甘みを感じる。  観光名所とされている遺跡にはだれもおらず、車の音も人の声もしない。絶え間なく響く鳥の声を聞き、強い光が地面に落とす影を見ていると、数時間前まで仕事に追われていたのが、遠い昔の記憶のように思えてくる。  静かな場所だった。太陽が眩しくて、あたまがぼんやりした。  ふと見ると、道端でビニール袋に入れられた羊の頭蓋骨が風化していた。その後も、私たちは、農地の側溝や休憩所のトイレ等、そこかしこで羊の頭蓋骨を見つけることとなる。この土地で暮らす人々には、お弁当がわりに羊の頭を持ってくる風習があるのだろうか。  私は、以前、イランのホームステイ先で「イランでは朝ごはんに羊の脳みそのスープを飲む」「日本でいうと、みそ汁的な存在」と言われたことを思い出した。「羊の頭がみそ汁の具として扱わている地域があるなら、お弁当がわりに羊の頭をぶらさげる人々がいても不思議はない」と思う。  私は、強い日差しから逃れ、木陰に座ってこの土地で暮らしてきた人々のことを思った。日本にはまだ神話の神様さえいなかった遠い昔に、砂漠のオアシスで暮らし、羊を飼い、ときには西瓜で喉を潤していたかもしれない人々のこと。彼らの聞いていた鳥の声と、私たちが聞いている鳥の声は同じだろうか。  夏の光にまみれてきらきらする西瓜の皮と、そばに落ちる暗い影を眺めていると無気力が押し寄せてきて、労働の意義も経済成長の意味もわからなくなった。  私はふと、今回の旅行について話したときの、同僚たちの反応を思い出した。 「どうしてウイグルなんかに行くんですか」  彼らの疑問は、要するに「その夏休みの使い方に、確かな価値はあるのか」という点に集約できる。たまの休みなのだから、確実に楽しく、気分良く過ごせる場所に行くべきだ。彼らはそういっていたのだろう。  同僚たちの疑問に対し、そのとき私は答えることができなかった。  職場の同僚たちは「この先、生き延びるにはどうすればいいか」という話をよくしていた。真夜中から始まる飲み会で、明け方の6時や7時まで話す人もいた。生き延びるとはなんだろう。  生産性が自分の人生を覆い尽くし、人間性がわかりやすい価値で塗りつぶされていくのを受け入れること。「使える」人とだけつるみ、評価されること。夏休みはハワイに行くこと。  生き延びるとは、きっとそういうことだった。  忙しいことには慣れていた。仕事に慣れてしばらくたったあるとき、もう必要がないからという理由で、少しずつ集めていたアンティークの食器や学生時代に好きだった小説を捨てた。重要なのは、「役割」を果たすことであり、社会の共通言語で話すことだと考えた。  でも、私は突然、久しぶりの夏休みを、確実に楽しい場所ではなく、楽しいかよくわからない場所で過ごしてみたくなったのだ。知らない人に誘われて、どういうわけか、そういう気持ちになったのだ。  農家のおばさんからもらって持て余していたぶどうを一粒、口に含んだ。日本のものとは全く違う、知らない味がした。 星降る夜行列車に乗って  疲れからか、やたらと物憂げな気持ちになっていたところに、尊師の「バ〜ニラ、バニラ高収入〜!」という歌声が響いてきて、現実にひきもどされた。そろそろ、この街を離れる時間だ。  それにしても、すっかり考え込んでしまった。私は、「うどん部の旅行に参加した人は社会からドロップアウトしがちである」という話を思い出した。  葡萄溝の木陰で、やたらとメランコリックな気持ちになったのも、この旅行の危険な効果だろうか。このままでは、謎の秘密結社・うどん部の陰謀の思う壺だ。  夜行列車で過ごした夜は、楽しかった。  トルファンのぶどうで作った珍しい白酒をたくさん飲んで、加熱する仕掛けが施されたインスタントの火鍋をつついた。  普段は飲まない強いお酒にはしゃぎすぎて寝てしまい、気がつくと真夜中だった。  夜行列車の窓から空を見上げると、満天の星空だった。肌寒い寝台で、毛布をだきしめながら、流れていく星空を見つめた。まばたきも、呼吸もできなかった。体中の神経が粟立ち、スパークした。  私は、冷凍されていた自分の人生が、急激に自分の身体に戻ってくるのを感じた。  もしかして、私は、生き延びることから遠ざかっているのだろうか。  このときの私はまだ、自分がその数カ月後、仕事を辞める運命にあることを知らなった。 (カシュガル編につづく) 補足とおしらせ  ウイグル旅行記は、長くなってしまったので数回に分けて書きます。今後の予定はこんな感じです。 ・ カシュガルで公安警察から"重点旅客"として熱烈歓迎されてしまった話 ・ ウイグルの果てでゾロアスター教の遺跡を探し、廃墟の温泉に入った話 ・ 突如の軍事パレード開始により限界帰国チャレンジを強いられた話 旅の写真は、twitter(@eli_elilema)にもあげているので、よかったら見てみてください。 ※ 尊師はとても良い人でした。
https://note.mu/elielilema/n/nb8baf42077cd
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hi-majine · 5 years
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道灌《どうかん》
「ご隠居《いんきよ》さん、こんちわ」 「おや、八つあんかい。さあ、こっちへおいで。なにかい、きょうは、やすみかい?」 「へえ、朝っから、へんてこれんな天気になりやしたからね、やすんじめえやした」 「ああそうかい。それじゃあ、ゆっくりあそんでおいで。お茶でもいれよう。さいわい、よそからあまいものをもらったから……」 「おやおや、あめえもんかい」 「はてね、おまえ、あまいものは、いけないのかい?」 「ええ、あめえもんとくると、まるっきり意気地《いくじ》がねえんでね、金つばなんぞは、十八も食おうもんなら、げんなりしちまうんで……」 「あきれたねえ、この人は……だれだって、そんなに食べれば、げんなりするよ。失礼ながら、きょうのお菓子は上等なものだよ。というわけが、到来物《とうらいもの》だ」 「ああ、葬式《とむれえ》の菓子かい?」 「そうじゃあないよ。もらいものだ」 「そうだろうねえ。もらいものでもなくっちゃあ、上等の菓子なんかあるめえからねえ」 「よけいなことをいいなさんなよ」 「でもね、ご隠居、ひさしくこねえあいだに、でえぶ、うちの模様がかわりましたねえ」 「すこしばかり手いれをしたよ」 「りっぱになったねえ。前とは、みちがえるようだ。まるでご殿《てん》のようですね」 「いや、これは、おそれいったな。まるで、ご殿のようだとは……」 「まったくさ、すっかりりっぱになっちまった。こうなってみると、ご隠居、おまえさんがいるのがむだだ」 「それがよけいなわる口というのだよ」 「なんですい、ここにあるさかさ屏風《びようぶ》は?」 「さかさ屏風ってやつがあるかい、さかさ屏風ってえのは、人が死んだときに立てるんじゃないか。よくごらん、これは、衝立《ついたて》というものだ」 「ははあ、月のはじめだね」 「なにが?」 「いえ、ついたちだって……」 「なにをいってるんだ。衝立だよ」 「いろんな絵がはってありますねえ」 「ああ」 「ここに、戦《いくさ》をしているところの絵がありますね」 「それは三方《みかた》が原《はら��の戦いだ」 「だれとだれのいくさです?」 「武田信玄と徳川家康とがいくさをした」 「へえー、で、どうなりました?」 「武田|方《がた》は、五万有余の大軍で押しよせたが、徳川勢は、三千の小勢でいさましくたたかった」 「へーえ、てえしたもんですねえ」 「なにしろ、徳川方では、酒井、榊原《さかきばら》、井伊、本多なんていう名代《なだい》の四天王がはたらいたからなあ」 「へーえ、その四人が強かったんですか……で、武田方には、その四天王てえやつは、いなかったんですか?」 「いたとも……土屋、内藤、馬場、山県《やまがた》……まあ、こんなぐあいに、むかしの大将には、みな四天王というものがあったな」 「だれにでも?」 「ああ……源頼朝《みなもとのよりとも》の四天王が、佐々木、梶原《かじわら》、千葉、三浦、義経の四天王が、亀井、片岡、伊勢、駿河」 「神戸、大阪、京、名古屋……」 「なんだい、それは?」 「東海道線の四天王で……」 「ふざけちゃいけないよ」 「しじみ、はまぐり、ばか、はしら……」 「なんだい?」 「貝類の四天王さ……それに、日比谷、浅草、芝、上野とくりゃあ、公園の四天王だ」 「そんなのがあるかい」 「競馬、パチンコ、囲碁、マージャンとくりゃあ、道楽の四天王……」 「もうおよしよ。ばかばかしい」 「こっちの絵には、また、ばかにいい女がいますが、こりゃあ、なんですい?」 「それは、小野の小町だ」 「ああ、この女ですか、小野の小町てえなあ、てえそういい女だったそうですねえ」 「いい男をみれば、業平《なりひら》というし、いい女をみれば、小町のようだという。絶世の美女だったな」 「雨の日にぬれてあるいたんですかねえ」 「なにが?」 「いいえ、びしょだって……」 「びしょではない。美女、美しい女だ。わるい女は醜女《しゆうじよ》、こわい女は鬼女《きじよ》」 「ひげのはえたのをどじょう」 「まぜっかえすなよ」 「だがねえ、ご隠居さん、そんないい女なら、くどいた男も多かったでしょうねえ」 「まあな」 「どうです、小町君、これから銀座へ散歩にでかけませんかなんて……」 「そんなばかな……」 「きっと経師屋《きようじや》の半公だよ、そんなきざなことをするのは……」 「なにをいってるんだい……多くの公家《くげ》のなかで、深草の少将という人が、とくに思いをかけた」 「へーえ、どうしましたい?」 「小町のいうには、男心と秋の空、変りやすいというから、わたしのもとへ百夜《ももよ》通ってくだされば、ご返事をしようといった」 「ももよてなあ、なんです?」 「百の夜と書いて、百夜《ももよ》というな」 「ははあ、すると、五十夜と書いて、みかん夜か」 「なにをいってるんだ」 「どうしましたい?」 「恋に上下の差別はない。深草の少将ともあるべき身が、風のふく晩も、雨のふる夜も、やすむことなく、せっせと通った」 「で、どうしました?」 「九十九夜目の晩に、大雪のために凍《こご》えて、ついに思いをとげなかった」 「やれやれ、しょうしょうふかくなひとだ」 「しゃれるなよ」 「だがね、ご隠居さん、おれんとこのじいさんなんぞはね、一晩のうちに十三度通って相果《あいは》てたよ」 「女のところへか?」 「なーに、便所へさ」 「ばかだね、どうも……」 「小町は色恋、じいさんは下肥《しもごえ》……こいに上下のへだてはねえや」 「つまらないことをいうなよ」 「もし、ご隠居さん、こっちの絵はなんです?」 「どれだい?」 「ちょろちょろ流れの川のあるところへ、椎《しい》たけがあおりをくらったような帽子をかぶって、虎の皮のももひきはいて突っ立ってるやつがいてさ、こっちに、あらい髪の女が、お盆の上に、なんか黄色いものをのっけて、おじぎをしてるじゃあありませんか」 「なんという絵の見かたをするんだよ……椎たけがあおりをくらった帽子ってのがあるもんか。それは騎射笠というもんだ。虎の皮のももひきではない。それは、むかばき」 「へーえ」 「女の髪は、下《さ》げ髪といって、あらい髪じゃあない。お盆の上の黄色いのは、山吹《やまぶき》の花だ」 「で、だれなんです?」 「そのかたは、われわれ江戸っ子の先祖ともいうべき太田|持資《もちすけ》、のちに入道をして道灌《どうかん》という人だ」 「なんの絵です、これは?」 「治《ち》にいて乱《らん》をわすれず、足ならしのために、田端の里へ狩りくらにおでかけになった」 「狩りくらって、なんです?」 「鷹野だ」 「たかのって、なんです?」 「野馳《のが》けだよ」 「ああ、うすあかるくなるやつだ」 「それは、夜あけだよ……つまり、山のなかへ鳥やけものをとりにいったんだ」 「なるほど」 「すると、にわかの村雨《むらさめ》だ」 「へーえ、そうですかねえ。どうもてえしたもんだ」 「べつに、たいしたもんじゃあないさ。たかが村雨だもの……」 「そうですねえ、そういやあ、そうだ。���つにてえしたもんじゃあねえや。たかがむらさめですものねえ。あははは、たかがむらさめだ。むらさめなんてくだらねえや。むらさめ、むらさめ……ええ、むらさめ? むらさめって、なんです?」 「なーんだ。おまえ、わかんないで笑ってるやつがあるか。村雨というのは雨だ」 「なーんだ、雨かい、雨なら雨だといってくれりゃあ、わかるじゃあねえか。むらさめだなんて、英語をつかうからわからねえや」 「英語じゃあないよ。にわか雨のことをこういうんだ。ところが、道灌公、雨具の用意がないから、おこまりになった。かたわらをみると、そこに、一軒のあばら家があった」 「そんなところへ油屋《あぶらや》なんぞをだしたって商売になりますまいがね……」 「油屋ではない。あばら家、つまり、こわれかかったそまつな家だ」 「へーえ、じゃあ、丈夫で、きれいな家は、背骨家か」 「そんなのがあるもんか。雨具を借用したいとおとずれると、なかから、二八《にはち》あまりのしずの女《め》がでてきた」 「家が古いもんだから、巣をつくってやがったんだねえ、そいつあ……」 「なにが?」 「すずめがでてきたんでしょう?」 「すずめじゃない。しずの女、つまり、いやしい女さ」 「ははあ、焼きいもをかじりながら……」 「そのいやしいんじゃあないよ。まあ、身なりのいやしい女だ」 「すると、ご隠居さんとこのおばあさんなんぞ、かなりのしずの女だね」 「口のわるいやつだな……顔を赤らめて、乙女が、盆の上へ山吹の枝を手折《たお》って、『おはずかしゅうございます』といって、道灌公にさしだした絵だ」 「なるほど、いなか娘で気がきかねえんだね。殿さまが、雨具を貸してくれってへえってきたんでしょ? それを山吹なんかだして、これで雨をはらって帰れなんて知恵しかでねえんじゃあはずかしいや。それよりも、蓮《はす》の葉か、いもの葉でもかぶらしてやったらいいじゃあねえか」 「おまえにわからないのももっともだよ。道灌公は、文武両道に通じていたおかただが、この乙女のだしたなぞがとけない。ぼうぜんとしておられると、ご家来の豊島|刑部《ぎようぶ》という人が、父親が歌人なので、道灌公よりもさきに、このなぞがとけた。そこで、ご前《ぜん》へすすみでて、『おそれながら申しあげます。兼明《かねあきら》親王の古歌に、七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき、というのがございますが、山吹というものは、花の咲いて、実のならぬもの、実と蓑《みの》とをかけて、お貸ししたいが、蓑《みの》がございませんということわりの意味でございましょう』と申し上げた。すると、道灌公は、小膝を打たれ、『ああ、余は、まだ歌道に暗いのう』とおっしゃって、そのまま、ご帰城になった」 「へーえ、そうかねえ。まあ、早えはなしが、道灌公が、そのいなか娘にへこまされたってわけだ」 「そうだよ」 「だけど、なんです? そのかどうに暗いてえのは?」 「歌の道に暗い。つまり、乙女のだした歌のなぞがわからなかったことだ」 「へーえ、そうですか。それから、いちばんあとのごきじょうてえなあ、なんです?」 「お城へ帰った」 「うしろへけえった? ははあ、坂道かなんかで、うしろへひっくりけえったんだな。あぶねえな、どうも……」 「うしろへ帰ったじゃあない。自分のお城へお帰りになったんだ」 「その人、城なんか持ってたんですか?」 「ああ、持っていたとも……千代田のお城、あれが道灌公のお城だ」 「あっしゃあ、うちのおやじに聞いたんですが、徳川さまのお城だったそうじゃありませんか」 「道灌公のお城だったが、のちに、徳川さまのお城になったんだ」 「ああ、そうか。道灌公から徳川さまへはなしをもちかけたんだな。『これ、どうかんならねえか』『いえやすなら買おう』かなんか……」 「おかしなしゃれをいうなよ」 「それから、どうなりました?」 「いっしょうけんめいに歌を勉強なすって、日本一の歌人になったなあ」 「へーえ、日本一の火事たあ、すげえことになったもんだ。むかしのことで、ろくなポンプがねえから、よく燃えたでしょうねえ」 「火事じゃない。歌《うた》びとだ」 「ああ、かきまわすとくせえやつ」 「それは、ぬかみそだよ。歌《うた》びと、つまり、歌をよむ人だ」 「ああそうですか……なんでしたっけねえ、その雨具のねえっていうことわりの歌は?」 「べつに雨具がないとことわる歌ではないが……七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき」 「そうそう、それだ。それじゃあ、どうでしょう、月末になって、今月は、勘定がはらえねえっていうことわりの歌はありませんか?」 「そんな歌があるもんか」 「すみませんがねえ、ご隠居、その七重八重の歌をね、仮名《かな》で書いてくださいな」 「どうするんだい?」 「雨のふったときにね、よく友だちがくるんですよ。ところが、傘でも下駄でも貸してやると、それっきり持ってきたためしがありませんからね、こんどっから、傘なんか借りにきやがったら、その歌でことわっちまおうとおもうんで……」 「そうかい、書けといえば、書いてあげるが、おまえの友だちに、歌なんかわかるかい?」 「わかんねえったってかまいません。とにかく、それをみせてことわっちまいますから……」 「では書こう……さあ、書いたよ」 「なるほど……えーと……ななへやへ……なんだかくせえような感じだなあ」 「七|重《え》八|重《え》じゃあないか」 「ああ、そうか……はなはさけとも……」 「だめだな、そんな読みかたをしちゃあ、にごりをつけるところはちゃんとつけて……七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき……わかったかい?」 「わかりました。ありがとうございます。それじゃあ、あっしは、これで帰ります」 「まあ、いいじゃないか。ゆっくりしておいでよ」 「いいえ、雲行きがあやしくなってきましたから、いそいで帰ります。さようなら……あれ、あれ、もうぽつぽつやってきたぜ。はやく帰って、傘借りにきたやつにこの歌をつかわなくっちゃあ……さあ、いそいで、いそいで……おっと、てえへんだ。うちへへえったとたんに大村雨ときた。いそいで帰ってきてよかったよ。へたあすりゃあ、こっちが道灌になるところだった。いやあ、すごくふってきたもんだ。あっ、通る、通る、いろんな道灌が通るな。みんなおもてを馳《か》けだしてやがらあ。だれも傘を持ってねえところをみると、天気予報がはずれたな。あれっ、まっ白な脛《すね》をだして色っぽい年増《としま》の道灌だ。きれいな道灌じゃねえか。あっ、犬の道灌がいやがる。あっちの豆腐屋道灌なんて、あんまり駆けると豆腐がこわれるじゃあねえかなあ。やあ、やあ、子どもの道灌、巡査の道灌……いろんな道灌がいるもんだなあ……これだけ道灌がいるんだから、うちにもこねえかなあ、せっかく書いてもらったのに、むだになっちゃうじゃあねえか」 「ごめんよ」 「おうっ、きたな、道灌、待ってたぞ」 「すまねえ。借りものがあるんだ」 「わかってるよ。おめえの借りにきたものは先刻ご承知だ。雨具を借りにきたんだろ?」 「いや、今朝《けさ》、うちをでかけるときにね、朝焼けしてあぶねえとおもったから、雨具は持ってでたんだが、急に用事ができちまって、帰りがおそくなっちまったから、ちょうちんを貸してくれ」 「ちょうちんを貸せ? おかしな道灌がとびこんできやがったなあ、この場ちがい道灌め!」 「なにいってんだな、はやくちょうちんを貸してくれよ」 「そんなことをいわねえで、雨具を貸してくれといえ」 「だから、雨具は持ってるんだよ」 「持っててもいいから、おれのたのみだ。雨具を貸せといえよ。そうすりゃあ、ちょうちんを貸してやるから……」 「なんだかわけがわかんねえが、じゃあ雨具を貸してくれ」 「よう、待ってました……おはずかしゅうございます」 「おう、よせよ。気でも触《ふ》れたんじゃあねえか。そんな女みてえなまねをして……」 「だまってろい、こっちは、しずの女なんだ……さあ、これを読め」 「なんだい、こりゃあ、ななへやへ……」 「なんてえ読みかたをしてるんだ。しろうとはしょうがねえな……いいか、よく聞いてろよ。七重八重花は咲けども山伏の味噌|一樽《ひとたる》に鍋《なべ》と釜《かま》しき……どうだ、わかったか?」 「なんだ、こりゃあ、おめえのかんげえた勝手道具の都都逸《どどいつ》か?」 「どどいつ? おめえ、これを知らねえところをみると、よっぽど歌道に暗《くれ》えな」 「ああ、角が暗えから、ちょうちんを借りにきた」
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inuinuinuinuini · 5 years
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日本の妖怪
太三郎狸(たさぶろうだぬき)
四国東部(香川・徳島)に伝承される化け狸。
四国八十八ケ所84番屋島(香川県高松市)の御使いにして守護者たる神聖なる偉大な狸。
別名は蓑山大明神。
屋島寺内には蓑山大明神を祀る摂末社があり、その横には威厳も高い大きな太三郎狸夫妻の彫像がある。 
その昔、ある狸が矢傷で死にかけていたところを平重盛に助けられ、恩義から平家の守護を誓った。その子孫が太三郎狸といわれる。
他所の化け狸のような、自身の幻術で人間に対して迷惑なイタズラを行うような伝承はあまり聞かず、むしろ探す方が難しい。
通い婚や一夫多妻制などが横行していた中世封建の時代に、類をみない一夫一婦の愛妻家として知られる。
後に日清戦争・日露戦争では、太三郎狸は多くの子分たちと共に満州へ出征して活躍したといい、大量のアズキの粒を兵士に変えて敵陣に向かわせ、日本軍に勝利をもたらしたともいう。
また、アニメーション映画「平成狸合戦ぽんぽこ」のモチーフにもなっている。
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学校課題「日本妖怪カブリモノ製作」ラフ案とその試作品です。
頭の上の小豆は、葉っぱの代わりに小豆を使って変身させたという伝説に基づいて乗せました。ヒゲは、三郎のイメージがヒゲだったのでヒゲをつけました。後ろにはカサをつけていて、手前には前掛けをかけています。
悪い妖怪ではないので、優しい親しみやすいイメージを持たせられるようにデザインしました。
【引用元】
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