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#純粋芸術
ari0921 · 4 months
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和六年(2024)1月20日(土曜日)
   通巻第8098号
 「チャットGPTの作文で芥川賞とは!」。モラルの問題だと欧州が批判
  日本の若者の肯定的反応とはまったく異なった文学観
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 芥川賞受賞の作家がチャットGPTで作文したことに世界中の作家が否定的な反応を示した。その執筆態度は「道徳的に問題がある」との批判で、とくに英国とフランスなど文学賞の多い国からである。
「日本で最も権威ある文学賞」という触れ込みの芥川賞だが、近年の受賞作は文学性が乏しくセンセーションを目的と批判が多かった。選考委員会の審査員は「ほぼ完璧」で「普遍的に楽しい」と称賛した。受賞作は九段理江の『東京同情塔』。高層刑務所塔と建築家の犯罪者に対する不寛容を中心に展開した小説、じつは筆者も書店に立ち寄ると店先に積み上げてあったので立ち読みした。
 
 実力はあるようで、これまでにも文學界新人賞(2021年)、芸術選奨新人賞(2023年)、野間文芸新人賞(2023年)などを受賞して注目される女流新人。だが、『東京同情塔』には立ち読みの限りでは、文学の風情は感じられなかった。
 記者会見で彼女は「チャットGPTの反応は時々小説内の会話にインスピレーションを与えた」と語り、5%ほどがチャットGPTによると答えた。「今後もAIとの「良好な関係」を維持し、AIと共存しながら「創造性を解き放ちたい」とも述べた。
 サルマン・ラシュディは、10月のフランクフルトブックフェアで記者会見し、「最近、誰かがAIを使ってわたしの文体で300語を生成したが、できあがったのは『純粋なゴミ』だった」とした。ジョン・グリシャム、ジョディ・ピクルトらは「著作権侵害」でチャットGPTとオープンAI社に集団訴訟を起こした。NYタイムズも同社を訴えた。
創作とモラルの問題として、芥川賞騒ぎは世界では別のアングルで物議を醸したことになる。
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pureegrosburst04 · 17 days
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Twitterに居た役立たずのう◯こ「もう少しの我慢だよ」
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香氣04「俺が1人残らず切り捨てている理由は本人が身◯なせいだからって言いたいのか?統合失調症ってつまり身◯と同じだろ 俺の現在の敵はみんな身◯故の悲しい設定、健常な評価に一方的で理不尽な名誉毀損をする薄汚い攻撃本能を隠しながら救うって訳か なるほど、立派だぜ 霧島狩魔だったらこんなもんじゃねえぞ」
御茶ヶ滝「…これってさ……香氣04さんの頭…おかしいんだ」超電波油「もう、精神病とか何の関係もなく ぶっ壊れてる 誰にも犯罪をせずにサイレントテロを盛り上げて……なんか、だめなんだわ。」
ある日、高級ゴールドキング/バラバズー500Fに奴隷として支配されていて、人格排泄の薬を飲まされて媚薬を嗅がされた少女は自分の股から溢れてきた人格ゼリーの透明な男性器を扱き出した、そうするしかなかった 高級ゴールドキング/バラバズー500F「頑張れ🧡 女の子の大事なところを取り戻したまえ(笑)」  しばらくしてびゅるるるるっ🧡 絶頂に達すると同時にゼリーは一つのスライムになって落ちて、少女は自分の体を完全に無くした
スライムを入れられたバーコードハゲのミニロボットの股間辺りには爪楊枝のような折りたたみ式の棒が生えていた 高級ゴールドクイーン/ガッチャ「これを折ると巨根をすり潰された痛みを感じるのじゃぞ❤️(赤き真実)」ぽきっ バーコードハゲミニロボット(14)「☠️あああああああ❗️❗️❗️❗️❗️🏴‍☠️」7萬レッド/No55「あそーれ、ぽきっぽきwww」ミニロボ少女(14)「☠️あ、あああああ‼️‼️🏴‍☠️」
ある日、ミニロボ少女が浴槽に持っていかれるとそこには……おいしい🎵おいしい♫と母の体を溶かしながらチューチュー吸う化け物、絶句してる間にリビングに戻された、無数の蛭のような口があったお風呂場から聴こえてきた声「君のお母さん、おいしかったよ❣️」ミニロボ少女(14)「いやあああああ……」ゴールドバズー「もともと奴隷家族なんだからまあいいじゃん🎶これで風呂に入る時間、王子様が代わってずっと節約出来るぜ🧡 お前の抜け殻で500本のしらないペニスを抜き抜きしてやるからな(笑)」
ぽきっ
“”球磨川禊と防聖孤島と鮙〆香氣と一方通行””よりも狡猾で攻撃的な気質で雰囲気が軽くて陽気で大人びていて勝利に貪欲でも邪悪でもクソイカれサイコパスでも天然のソシオパスでも残酷でも……本当は、友情が温いのも身長で後から追い越すのも発明を作り出す大器晩成型なのも本質と哲学で勝るのも恐怖を乗り越える勇気があるのも脳が神に近いのも現実を突き付ける側なのも真主人公側なのも心が豊かなのも純粋なのも硬派なのも熱血なのも繊細なのも健康なのも細胞が若いままなのも努力するのも芯が強いのも真実の愛を、無償の愛を、家族の絆を絶対悪に捧げるのも根性があるのも家事と芸術でより秀でているのも料理が上手いのも神の祝福を受けているのも誰からも要領の良い思いをするのも一方的に見下して切り捨てる側なのも誰も好きじゃないのも罪を許さないのも正義として扱われるのも淑女を劣化猿そのものだと考えてて正にキモオタネット弁慶よりクリアでおぞましい闇なのも恋する乙女より綺麗な爽快な光を失わないのも…孤独耐性があるのも瞑想が得意なのもホモ野郎と相手を罵るマッチョ格闘技者より頭がオカシイホモ(心の身障)なんだろ⁉️ゲイ(魂の身障)なんだろ⁉️バイ(精神の身障)なんだろ⁉️レズ(産む機械)が役立たずなんだろ⁉️百合(血が途絶える糞尿廃棄物)なんだろ⁉️のもデカい夢があるのも偏見を持たないのもお金についての考え方も打たれ強さも生まれついて持った全パラメーター数値の差でしか上記を覆せない”F(フェア):ヴァストローデ”を死に追い込み実は真面目に優越感を感じているのも本当は、”””霧島04(裏ストボス)”””の方(赤き真実)
身長186cm 体重90キロ 筋肉質 イケメン 完全に勃ったちんこ➡︎3cm たまたまの直径5mm 前立腺➡︎ゴミクズ 性病35種類以上
“”””ラオウ様””””がTSUYOSHI 誰も勝てないアイツなら、”””””真の裏ストボス様”””””は…ワンパンマンの立ち位置(究極の赤き真実)
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tinychatchat · 23 days
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MEMO 24.04.16
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・ComPotte コンピュータを操る数理的思考力と、それを美しく具現化するクラフトマンシップを融合させた陶磁器ブランド「ComPotte」。デザイナー深地宏昌とプログラマー堀川淳一郎により結成されたクリエイティブスタジオ「DIGRAPH」に陶芸作家・横山成美をメンバーに加え2023年から活動を開始しているそうです。 無機質な中に生っぽさもあってマイクラの巨大建築のような感じもしてどれも素敵です。 https://www.compotte.jp/ https://www.instagram.com/compotte.jp/
・AIが生成する画像を「ネコ」にするサイバー攻撃 絵師らを守る技術「Nightshade」 米シカゴ大が開発
ターゲットにする単語を設定しておくことでそれを含むプロンプトを投げられた際に代わりに設定しておいたものに変更して生成させるというツールを米シカゴ大学所属の研究者が発表。
https://www.itmedia.co.jp/aiplus/articles/2404/15/news037.html#utm_term=share_sp こういった取り組み自体は現状必要なものだと思うのでいいとか悪いとかの話ではないという前提で書きますが後の生成AIに大きな影響を与えているLAIONがgoogleが公開したAIを使って女の子の画像を生成しようとすると論文上は生成できるのに実際は犬に置き換えられる、鳥に置き換えられるみたいなことに対抗してデータセットを自分たちで作ろうとgithubで呼びかけたことで発生したことを考えると当然これをどうにか突破しようとする動きも出てくるはずです。 繰り返しますが保護のためにこういった取り組みが出てくることは必然だと思いますし守られるべきものは守られるだと思いますが個人的にはその中でどうにか壁を突破してかわいいイラストが出したいんだという一心で動く大いなる暇人たちの行動力みたいなものに熱くなってしまうというところもあります。ただそういった中でも筋みたいなものはあってそれがお金になるからというような動機ではなくもっと純粋ななにもなくてもただやるみたいな趣味人としての立ち振る舞いはあって欲しいなというところもありますが。その辺りの話はもう少しまとめてからまた今度。
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hitujijp · 5 months
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せっかく引き籠もったのに人を気にするなんて勿体ない
近所にも引き籠もっている人が居るそうだが、気持ちはとても分かる。オレも可能なら引き籠もり隠遁生活に戻りたいと常々考えているからだ。
しかし引き籠もりと一言で片付けてしまうのは、やや乱暴な区分だと思わなくもない。例えそれが単方向的で受動的なものだったとしても、PCやスマートフォンの画面を通し他者の振る舞いを気にしている限り、それを引き籠もりと呼べるのかどうかは疑問だ。
せっかく引き籠もっているのだから、そうでなかった時の生活の古い習慣と別れを告げ、人間を見なくて���構わないのではないか。
むしろ引き籠もった時こそ一人きりで好きなだけ自然界の様々な現象や動植物、岩石、純粋な論理のみで構成される数理、工作や工芸に誰憚る事無く向かい合うのに絶好の機会なのだと思う。
こうして培った引き籠もり時代の習慣こそを、故有って人間達と関わらざるを得なくなった時に忘れる事無く引きずるべきなのだ。
かくしてオレも実際に人と関わる機会は月に数回程度でしかない。大半の時間は引き籠もり時代同様、一人きりで技術の追求や論理の構築に費やしている。やる事は基本的に変わらない。余り他人や社会に惑われない方が良い。
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nrmkh · 2 months
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北海道の実家で暮らしていた頃、祖母が親戚に電話するとき、しばしばこう言っていた。 「夢に出てきたから」 私が大学進学で東京に出た後、祖母との電話で同じ言葉を何度か聞いた。 祖母が亡くなったあと、今度は実家の母から同じ言葉を聞く機会が増えた。 わざわざ夢に出てきたことを口実にしなくても、用はなくともただ電話をかければいいのに、と、その言葉を聞くたびに思い、同時に、ほとんど場合は用もないのに連絡はしにくいし、自分だって近況を確認するためだけに電話もメールもしないな、と自己問答を繰り返していた。 とはいえ、本を読むときに紙面と顔の距離がだんだん遠くなってきた最近では、これを口実に連絡を取る気持ちがよくわかるようになった、のだけど、なんだか気後れするのと勇気がなくてできない小心者のため、わかるようになったどころか、うらやましかったり、憧れたりする。
この時期、ここを離れて別の場所に向かう姿が周りに多くなる。今は大学にも勤めているせいもあるし、年齢的なものもあるし、不意のものもある。向かった先での少なくても確かな幸福と、より少ない不幸を心から願うとともに、なんだか取り残されるような気持ちにもなる。今では、別の場所に向かったひとの中にも、SNSでその消息を知ることができるひとも多いけど、それでも会いたくなったり、声を聞きたくなるのはなぜだろう。それはそれぞれの元気な姿を確かめたいのと同時に、置いていかれたような寂しさのせいなのかもしれない。
北海道の片田舎に生まれ、東京に出てきた後7回引っ越し、フランスで生活した後、三重県に移住し、仕事で日本各地や海外に行くことが多いため、思い入れがある場所がたくさんあるけど、その愛着は場所そのものというよりは、そこに紐付いているひとへの郷愁の方が強いように感じる。だから、そこにいたひとが移動してしまうと、自分の思いだけがその場所に残されてしまうような寂しさを感じるようにも思える。
今年、私が演出で関わる大きな作品のうちの2つ、第七劇場「ヘッダ・ガーブレル」、三重県総合文化センター開館30周年記念・三重音楽発信 オペラ「カルメン」のために原作を調べていると、それぞれのタイトルロールである2人、奔放で自由な生き方をしているように見えるこの2人、ヘッダとカルメンも、似たような寂しさに付きまとわれているように感じる。自分の場所や価値観ははっきりしているのに、所在がないように感じたり、向かうべき場所や行くべき場所がないような寂寥感。実直なものや純粋なものがまぶしくて、憧れているのに目を背けてしまうような。
もしかしたら、ヘッダもカルメンも、別の場所に向かったひとが夢に出てきて懐かしさが湧いてきても、用もなく連絡できないひとなんじゃないか…と思うのは、自分に寄せすぎなのかもしれない。
私も祖母や母のように、もう少し年月が経つと、「夢に出てきたから」と朗らかに連絡できるようになるんだろう���。ただ、なれたとしても、連絡先がわからなかったり、もう物理的に連絡できない場合もあるし、立場も気にしてしまうから、歳を経ると状況はどんどん複雑になっていく一方でもある。
やれやれ。
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現在、2つの公演で出演者を募集しています。
ひとつは、8月末に三重県文化会館で上演される、第七劇場「ヘッダ・ガーブレル」(原作:イプセン) https://dainanagekijo.tumblr.com/post/743038362283327488/heddaaudition
もうひとつは、同じく三重県文化会館で11月に上演される、三重県総合文化センター開館30周年記念・三重音楽発信vol.11 オペラ「カルメン」(作曲:ビゼー) https://www.center-mie.or.jp/bunka/release/detail/20231201.html
昨年10月末に「三人姉妹」ツアー知立公演を終えたのち、同会場で地域の学校招待公演として「赤ずきん」を上演し、11月に三重オペラ協会「サンドリヨン」(マスネ作曲)の演出、12月に名古屋芸大の同僚・浅井さんが運営するダンスハウス黄金4422で開催された村上春樹を題材にしたワークショップ/ショーイング、年明けて1月に名古屋市西文化小劇場にて名古屋芸大・舞台芸術領域2年生の劇場実習発表「白雪姫」、2月に三重県文化会館制作・絵本コンサート「そっとそおっと」と、名古屋芸大・ミュージカルコース卒業公演「ヘンゼルとグレーテル」(ジャスティン・ロバーツ作曲)と、名古屋芸大・オペラ「ヘンゼルとグレーテル」(フンパーディンク作曲)を演出しました。
来週3月上旬には、今年度の演出納めとなる、名古屋芸術大学[音楽の森]家族のための朗読コンサート「おやゆび姫」があります。 https://nua-ap.tumblr.com/post/740564053731229696/onmori23
その後、中旬と下旬に「ヘッダ・ガーブレル」と「カルメン」のオーディションが続き、いつのまにか新年度になっているのでしょう。
今年もすでに2月が終わろうとしています。ついこの前、新年になったと思ったのに。この調子だと、一週間後には今年も終わってるんじゃないだろうかとも思えます。
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korokkeyasan · 4 months
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芸術とか表現とかその辺に思うこと
私は日芸の写真学科に通っています!写真を撮ったり写真史を学んだり写真家を調べたりしてます!
ゼミみたいな感じでクラスってやつがあって、そこで作品を見せあ���て意見を交換するんですけど、ここでいつも思うこと…あります!!
私はあまり写真とか芸術とかわからないままノリで受かったから入ったのでかなりみんなよりモチベが低い!だからあんまり写真を見てすごー!とかこんな意味が込められてるんだろうなー!とかなりません!
2年生のときに、自閉症の妹がやりたいことや思っていることを写真、映像で表現するという展示に行かされたんだけど、本当に吐きそうになるくらい傲慢だなと思った!まだモヤモヤするー  妹に今の気持ちを聞き出したりとか無理やり散歩させたりとかそんなのばっかりで、自分が表現の領域を広げるために自閉症の妹を使って無理やり芸術にひっかけようとする感じが本当に本当に気持ち悪くて、こんなの暴力だろ!!と思った  これを意見交換の時に言ったら(一人にね!みんなの前とかじゃなくね!ペアのね!)あーね、みたいな感じで嫌だったーー この障害をアートに、みたいなやつ全然オーケーだしわかるけど、本人以外が強制するの違うだろ!!💢私はまだ怒ってるからな!!💢
はいっ🙏 そんな私がどんな写真を撮っているのかってね
なんか私だけ永遠に写真とかリンクとかの下にテキスト置けなくなってるので最後に載っけておきますので
今一旦作り手の傲慢さにキレました
次、受け取り手ね
関ジャムって言う音楽番組が好きでよく見るんですけど、そこでよく評論家とか作曲家とかが今話題の曲の考察をするんですよ これがね!これなんだよねーー 
あいみょんが出演した回 作詞家兼プロデューサーがあいみょんの曲を考察するとあいみょんは全部「へー、そんなのあるんですねー そんな見方が」ってな感じで やっぱ作る側ってそんなにメッセージとか考えないよなって思った
映画はさ、いろんな大人や会社が関わってるから世間の目を気にしたり上の大人の思想とかで無理やりメッセージ性をねじ込むものが多いと思ってるんだけど(この前までのディズニーとかね)音楽とか小説ってほとんどが作ってる作家やアーティストが主体で、周りの大人はあくまで補佐だからあまり雑念がなくて純粋にアーティストの中が見えるなって思う!
夢で見たものを小説にしたり、いきなり降ってきたメロディーをアルバムにしたり そう言う感覚とか偶然でできたものに対して意味を見出そうとしたり後付けのメッセージ性を推したりするのめちゃくちゃ失礼だと思う
これを写真学科の仲良しの教授に言ったら、言ってることはわかるけど作品を世に出すと言うことは世の中の講評ありきだから、と言われておっとなーーーーって思った私はまだまだガキですわい
私が撮る写真ってこだわりとか個性とかないから全部いける!撮れる!これを悪とするやついるけど私がなりたいのは個性派でもなんでもないので気にしません フライヤーとか映像も特に個性がないけど、求められるものに合わせて作品を作れるのはかなりいいことだと思ってます!カメレオン!!🐢🥸
お笑いのコンプラとか映画のポリコレとか写真のヌード規制とかどうにかなりませんか!!もう文化を大衆から一つ遠ざけることは不可能なんですかね!!無理ですよね!すみません!
これからno寄席二つ見て中国語再履の勉強して寝ます!では!!
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shredderwastesnow · 4 months
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2023年、会社を辞めてからのあれこれ
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7月末に会社を辞めて、5ヶ月が経過した。 8月末からハワイに1ヶ月留学し、9月に帰国。10月からは大学の通信で学芸員課程の勉強を始め、現在に至る。 4単位分の課題とテストは終わり、2単位分は課題を出してテスト日程を調整中。今はさらなる2単位分の課題をやっている。来年の6月までに20単位を取って、7月に実習(3単位分)をクリアできれば、9月には晴れて課程修了となる。その先の転職活動がどうなるのか全く予想がつかないが、とりあえず今は単位取得の心配をする時間……と思うことにする。
勉強と並行して、昨年4月の引っ越しから手つかずになっていた段ボールの開梱も進めた。40個近くあった段ボール(私が一人暮らししていたアパートと実家の一軒家からの引っ越し荷物)を6個まで減らし、もう使わないものは断捨離した。本は古本屋に70冊ほど売り、CDも中古CD屋に30枚ほど売った。 本棚や収納の中にとりあえず入れたものは後で確認して捨てるか残すか判断しなければならないが、その作業ができるスペースを確保するためにも段ボールを減らす必要があったので、年内にここまで進められたことは大きい。
今は課題も進めつつ、服の断捨離をしている。箪笥やクロゼットの中の服をすべてベッドに並べ、迷った時はその場で着てみて、残すかどうか判断する。古くなった服や、買ったものの結局あまり着なかった服をまとめて捨てた。会社員時代によく着ていた紺のブラウスは、襟の部分がすり切れかけていたので、一緒に処分した。このブラウスを着て、その上に黄色いカーディガンを合わせた格好でよく出社していたな、と記憶が蘇った。 手持ちの服を把握できたことで、今後どのような格好をしたいのか、そのためには何を買い足すと良いのかも具体的に考えられるようになった。12月に入ってからは、ブラウスや靴下を新たに買った。裾の縫い目がほどけてしまった夏のズボンと葬儀用のワンピースもお直しに出した。
そして、会社員時代の遅れを取り戻す気持ちで、色々なことをインプットしている。 呪術廻戦や少女革命ウテナなどのアニメを観る。気になっていた音楽をまとめて購入して聴く。読書会でジェンダー・セクシュアリティを考えるヒントになるような本を読み、人と感想を言い合う。(半分は課題のためだが)美術館に行く。舞台や映画を観る。パレスチナに関する展示を見たり、デモに行ったりする。
身辺が整ってきて、今後どう生きるか考える時間も持てるようになった。
会社員時代には、「作家かライターに転職したい」と強く思っていた。 でも時間ができた今は、私は純粋な作家には向いていない気がしてきた。何時間もパソコンや原稿用紙に向かうことを毎日繰り返しても、書けない時は書けない。収入も不安定だ。執筆も人生も計画が立てづらく(私が書きたいのはエンタメでなく純文学寄りの作品なので)、書いたものが誰かの人生��照らすまでには長いタイムラグがあり、場合によっては努力して書いても的外れな批判に晒され、それでも自分なりの良い作品の基準を持ち続けなければならない人生を思うと、それに飛び込むだけの覚悟が今の自分にはないことに気付く。 会社員だったら、とりあえず出社して手を動かせば、日によって出来にばらつきはあっても一応誰かの役には立ったことになり、その労働に対する報酬が月1回支払われる。会社員時代は日々のストレスで「もっと違う生き方がしたい」という気持ちが強まっていたが、私は決して会社員生活自体が嫌いではなかったのだと思う。業務内容や環境に納得できれば、会社員をやっている時間にも楽しみを見出せる気がする。 退社前の私は、文芸を生業にすることの大変さを真剣に想像できていなかった。そして、自分が優位に立っていることを事あるごとにアピールせずにはいられない父がいたことで、分かりやすく成功したいというエゴに囚われてもいた。「作家やライターになることで、自分は本当に幸せになれるのか?」と冷静に考えることができていなかった。 もちろん書くことは続けたいが、権威のある文学賞からデビューして、年間1冊は作品を出して……というような生活を私が目指す必要はないと感じている。自分のペースで、肩の力を抜いて、地道に書いていきたい。
手つかずになっていたタスクが少しずつ片付いてゆき、徐々に心がクリアになっている感覚がある。 来年の秋に学芸員課程を終えた私は、どんな未来を思い描いているのか。 残された時間は、まだ9ヶ月ある。慌てて答えを出そうとせず、散らかった身辺の整理と今後に向けたインプットを粛々と進めながら、冷静に心の声に耳を澄ませたい。
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morserbremen2023 · 8 months
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Morser 来日直前インタビューその3
Q 俺はドイツのバンドって基本的にメタルの要素とハードコアの要素が混ざってるというか、メタリックハードコアと呼ばれてるバンドが多いように思うし、また、そのプロダクションですごく才能があると思うんだけど?
A いやーわかんねーな。そうかな? 環境次第じゃないの?
Q おいおいマジかw 80年代以降、ほとんどのドイツのバンドがメタルに影響を受けていると記憶しています。純粋なDischarge/Disorderタイプのものよりも。SODOMやKREATORみたいなパイオニアもいるし、ドイツのバンドはこれら2つの要素をうまく組み合わせていると思うのよ? Heaven Shall Burnとかもビッグネームじゃん。でMörserも同じように感じるんだけど。
A いや、それは偏見じゃないの?そんなことないと思うけどな。
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Q いや偏見じゃなくて文化ってその地域や歴史の影響を受けると思ってる。
例えばアメリカはヨーロッパのような歴史の蓄積が薄いからクラシックではなくカントリーミュージック/R&Bが共通の好みとしてベースになる、ストーナー/ブギー的な音も好まれやすい。一方でヨーロッパはクラシックや教会音楽に慣れた民族という印象を持ってるよ。宗教の布教や王政の元に芸術が磨かれてきたからね。例えばイングウェイはアメリカからは出てこないでしょ。音楽だけじゃなくて食の好みや美意識などにも違いって出るじゃない。同じように旋律の好みもお国柄が出ると思う。AGEなんかABYSSとか聞くとドイツらしいメロディっていうのがわかったりするし、同じようにこれイタリアっぽいなとか、そういうのも感じるね。
A うーん。じゃあ日本だとどんなことがあるの?
Q日本について言われるのは表拍、ダウンビートでリズムを取るというよね。西洋では裏拍、アップビートでリズムを取って。だから海外のアーティストで誰だかが日本人に手拍子させたら表拍で入れるもんでやりづらくてキレたとか聞いたことある。
これは多分日本の祭り事などで使われる音楽や、日本人の重心位置なども関係していると思う。
A 重心?
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Q 西洋人の体重の中心は足の球にあり、ほとんどのアジア人はかかとにある。だから西洋人はアジア人のようにスクワットできない
A うわ、マジだ。俺は一応アジアンスクワット出来るけどすげー苦しい。
あとAGEでいえば俺はボーカルのHaukeとバンドやってるよ。先月新作を出した。
Q Misanthropeね。
A 彼はハノーファーの先のwolfsburgという街からブレーメンにやってきて、テレビの仕事してる。彼がスーツを着て政治の話でゲストと討論してるのを見るのは面白いよ。
Q 俺は文化人類学的な考察が好きで、こうした差異を知ったり考えたりするのが好きなんだよね。優劣じゃないんだ。これは違いなんだ。そして違いを把握することはとても面白いんだ。
まぁいいや。君たちの新しいアルバムについて話そう。コロナの災厄の最中に、新しいアルバムThank You For Leavingが録音されたことになるよね。
A そう、前のアルバムから5,6年かかったね。でも俺たちはアルバム録るぞと頑張って曲つくりに励む感じではないんだよね。マイペースに曲を作り、貯まったらアルバムにする。そんな感じ。俺たちは毎週月曜日に集まってリハーサルをする。それを25年続けてるんだよ。
Q パーマネントにリハーサルルームを借りてるんだよね。日本ではバンド練習は時間貸しで、沢山のバンドがそのスタジオルームを工面しあうんだ。じゃあ曲はコンスタントにできあがる?
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A うん、基本的にこっちのスタジオは長期契約で、月払いで家賃を払ってる。だから楽器はその部屋の中に置きっぱなしだしいつでも練習はできる。
基本的にはスヴェンがアイディアを持ってきて色々試しながら作っていく。(注、2人のギター共にスヴェンという名前なのでややこしい)
S 結成したから、私たちはたくさんの曲を作ってきました。たくさんのアイディアがリハーサルルームで交わされます。最初のレコードTwo hours to doomの時からこのやり方は変わってないです。でも今は同時に集まることも難しいのでDAWソフトウェアを活用しています。今は1stアルバムのように曲つくりするのが難しくなってる。曲を作成するプロセスは時間とともに変わりました。リフは家で書かれ、リハーサルルームで実装されます。オケを作って共有してます。もちろん、ある種の即興性が失われますが、より練られた曲作りに置き換えられます。 Thank you for leavingは曲作りの面で最高のやりかたでした。なかなか会えなかったり、度重なる構成の変更でも、高い攻撃性を持った曲でいるようにできましたから。
Q 前のアルバムと比べて抑圧的、陰鬱な印象があるんだよね。
A そういう側面はあるかも、コロナで不安な時に作った曲もあるし、またコロナで近親者が亡くなったりもしたしね。タイトル曲に関して言えば、ボーカルの1人であるデニーのお父さんが認知症になってしまったことを扱ってる。 でも基本的にはマイペースに録音していってるよ。
 レコーディングは studio-rというところで、ブレーメンのアンダーグラウンドシーンではお馴染みのところ。
S Mörserの実際の音楽的影響を挙げることはできません。私たちは長い間をかけて独自のスタイルを作り上げてきたと思います。もちろん、私が聞いていたバンドは常にあります。例えばCarcassとかね。(Heartworkはおそらく90年代の最高のメタルアルバム)、しかし、自分のスタイルを失うことなく、想定される影響に抗うことを試みなければなりません。
A 俺はBOLT THROWERが大好きでBOLT THROWERのカバーバンドもやってるんだけど、おそらくエクストリームミュージックしか聞かないのは俺だけじゃないかな。他のメンバーは色んなスタイルの音楽を聴いてるはずだ。もちろんCARCASSも大好きだし、あ、そういえば先日Convergeを見てきたんだけど、うーん、もういいかなぁ。最近の聞いた?
Q いや
A 殺気立ったパートは大好きなんだけど、なんでイヤーアーみたいな歌い上げパート入るんだろw あれが邪魔! 殺傷力でぶっちぎってくれよ!音で殺してくれ!
Q あーわかるw でももうあの高みは無理なんじゃないのかな。年齢的にも探求を続けるにしても。
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A 俺のConvergeベストソングはColor Me Blood Redだ
Q 俺はThe Saddest Day! あの時期の無敵感やばいよね
A まぁ自分たちに戻すと、ずっと友達で毎週集まって新しいものを作っていく作業が楽しいだけなんだよね。もうこれを30年近く続けてる。で、楽しいショーをやってパーティするんだ。
あ、そういえば先週ドイツの東の方でライブやって来たんだけど、なんか感じ悪くてなー。
ドイツの東の方はさ、旧共産圏だろ、いまだに格差があるんだよ。人々の感じもちょっと素直じゃないというかちょっと変なテンションがある。演奏は悪くなかったと思うんだけど妬みというか喧嘩吹っ掛けたい感じがあった。日本に来る前の最後のショーだったので気分よく終えたかったんだけど。
Q まだそんな影響が残ってるんだね。じゃあ最後に直前メッセージを。
A 親愛なる日本の皆さん、Mörserで日本に行くことが出来て本当にうれしいです。サポートしてくれる皆さんも、今までに知り合った素敵な人たちにも感謝します。日本のアンダーグラウンドミュージシャンは年をとっても相互に深く連携しているのがすごい印象的なんです。
私たちはエクストリームミュージックが好きで、それが縁で会うことができます。ぜひ楽しみましょう。日本の行くために特別なカバー曲も用意しました。みんなで楽しみましょう!新たな友情が出来ることを願って。じゃあ間もなく会いましょう!
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sekitoh · 10 months
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7/2 13:05
「社会はつねに、生産の効果という点から見た、自然に対する人間の規則的・実利主 義的な力の統制によって発展しながらも、そのなかに、生産を支えている労働の概念とはいちじるしく背反するような、あえて言えば純粋消費的・暴力的な反社会性の契機をふくんでいるのではあるまいか。そしてそれこそ、あらゆる芸術衝動をふくめたエロティシズムの原理であり、消費の価値がふかく人間の実存と相渉るところではなかろうか」
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1.フォーグラー(1779),2.シューバルト(1787),3.クネヒト(1792),4.ガレアッツィ(1796) という作曲家の人の感じ方です。下の人たちの世代より約1世紀上の時代に生きた人々です。 ハ長調・・1.壮麗な,2.純粋無垢,単純,素朴,3.明晰,純粋,4.壮大,軍事的,厳粛,壮麗 ト長調・・1.素朴,単純,牧歌的,2.田園的,牧歌的,静寂,柔和,愛情,3.陽気,田園的,4.無邪気,単純,無関心 ニ長調・・1.活気を与える,英雄的,2.勝利,歓喜,雄叫び,行進曲,3.華麗,騒々しい,4.陽気,騒々しい,祝祭 イ長調・・1.鋭い,明るい,輝くような,火のような,刺すような,2.愛情,満足,希望,陽気さ,笑う喜び,3.陽気,明るい,火のような,野性的,4.調和的,陽気,愛情的,刺すような,甲高い,若々しい ロ長調・・2.強い,野性的情熱,けばけばしい色彩,絶望,4.荒々しい,刺すような,絶望の叫び ヘ長調・・1.死んだ,静かな,2.不満,静かな,3.優しい,静かな,4.壮麗な,甲高い 変ロ長調・・1.薄明,2.陽気な愛,よりよき世界への希望,3.愛らしい,優しい,4.優しい,柔和,甘美,愛情,魅力,高貴 変ホ長調・・1.夜,夢,2.愛情,帰依,聖三位一体,3.壮麗,厳粛,4.英雄的,壮麗な,荘重な,厳粛な 変イ長調・・1.冥界の王国,2.荘重なもの,死,判断,永遠,3.黒い,夜,暗い,薄暗い,4.深い,恐怖,夜,恐れ 変ニ長調・・2.堕落した,一般的ではない感情 変ト長調・・2.荒々しい闘争の後の勝利の心 という風になっていました。 大切なことは、何調をどういう風に感じるかは、時代によって、またその人の感じ方によって人さまざまである、ということだと思います。 何をどう感じるかは、その人のそれまでの生きた「経験」によって、どういう場でどんなことを経験してきたかによって、響きをどう感じるのかは違ってきます。
それぞれの「調?」が象徴する意味 -何かの本で、ハ短調の曲は、~の気- 芸術学 | 教えて!goo
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animejihad · 2 years
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MATT WALSH = #3 ENEMY OF ANIME
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Gringo Daily Wire のライターである Matt Walsh は、アニメのアートフォームについてめちゃくちゃなコメントをしています。 Anime News Networkによると、ライブストリームで、彼はアニメは悪魔的で、奇妙で、不気味だと言いました. 彼はまったく説明をしませんでした。 彼はまた、後でTwitterのウェブサイトで彼のばかげた見方を倍増させました。
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私はデイリーワイヤーの多くに同意しますが、これはあまりにも遠くにそれを取っています。ウォルシュ氏のコメントは偏狭で、知らされていない。 多くの若い保守派はアニメ愛好家であり、彼の身長の人にそれを悪として叩かせることは、運動にとって損害を与えています。アニメは純粋で美しい芸術形態であり、サタンや彼のアコライトとは何の関係もありません。悲しいことに、私はウォルシュ氏に#3 Enemy of Animeという称号をブランド化し、キラがデスノートに彼の名前を書くことを願うしかありません。
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pupupupumpkin · 2 years
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【岐阜県美濃市松森595 マツモリビル Live Spot DiAngelo予定】 2022年11/17(木) 19:30頃~ 中村真 ソロピアノ ¥3,000/ドリンク+簡易フードサービス付 — お問合せは 〈E-mail〉[email protected] 〈TEL〉090-4115-4235 〈店主 facebook〉https://www.facebook.com/daichi.furuta.5/
こちらでの純粋なソロピアノはコロナ渦中、静かな夜の配信ライブ以来です。この時勢でも真さんの弛まぬ活動、開拓、ミュージシャンシップに魅了されている方は全国に沢山。岐阜の小さなライブスポットにも晩秋の灯を!
岐阜・美濃市の演奏後 11/19(土) には大阪ムラマツリサイタルホールでのソロピアノコンサート《露玉もゆらvol.7 〜なな色の音〜》が予定されています。ブリュートナーとスタインウェイの2種類のピアノを弾き分け、響きの違いから得られるイマジネーションを演奏、即興性にフィードバック。要チェックです。
【中村真 ピアニスト】 2000年代より綾戸智恵コンサートツアー、韓国のトップジャズサックス奏者チョン・ソンジョのレコーディング参加等の数多くのキャリアを経て、2002年以降ソロピアノアルバム三作を発表。後進の育成と新しい芸術の在り方を追求しワークショップ「中津江ミュージックキャンプ」「AIR SPLASH TOYAMA」主催。現在「にはたづみプロジェクト」事業として志を等しく持つ他分野のアーティストと共に活動を継続している。岐阜県/美濃市Live Spot DiAngeloでは2010年代にピアノトリオでのライブを行い、空間と一体化したエモーショナルな演奏を残している。
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ryotarox · 2 years
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ファイナル・ガール - Wikipedia
ファイナル・ガール (The Final Girl) は、ホラー映画に登場する人物類型である。1960年代後半以降のアメリカで大量に作られたホラー映画が、一様に「純粋な若い女性が男の殺戮者と対決するが最後には生き残る」という構造をもっていることが映画研究の分野で注目され、この類型的な女性像が映画研究者キャロル・クローバーによって「ファイナル・ガール」と命名された[1]。 英語圏の映画研究・映画批評においては、とくにフェミニスト映画理論の分野で重要な概念とみなされている[1]。
中世史からホラー映画研究へ カリフォルニア大学バークレー校の映画研究者キャロル・J・クローバー(英語版)は、もともとスウェーデンのウプサラ大学で訓練を受け、ハーバード大学で教壇に立っていた中世史家である[1]。 クローバーは中世文学の分野で多数のすぐれた論文・著作を発表したのち(これらの業績は後にアメリカ科学芸術アカデミーから顕彰を受けている)、映画研究に転向した[1]。スウェーデンの映画研究所で勤務したあとバークレー校へ赴任し、ここで現代アメリカ映画を幅広く調査するうち、とくにホラー映画に注目するようになった。 中世史家としてのクローバーは、中世文学の最大の特徴が「定型的な物語の流用」「作者の不在性」「読み手・聞き手に主導される語り」などにあると考えていた[1]。 クローバーは同様の構造が現代アメリカ映画、とくにホラー映画にあると考え、テクストと社会構造を関連づける自身の手法を用いてホラー映画の詳細な分析を開始した[1]。この研究においてクローバーが抽出してみせた概念が、「ファイナル・ガール」である。
キャロル・クローバーは、「ファイナル・ガール」の概念を1987年の論文「彼女の身体・彼自身」で最初に発表し[3]、これは後に『男と女とチェーンソー:現代ホラー映画におけるジェンダー』と題する1992年の著作に収められた。
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tar0log · 2 years
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読書感想文の書き方
夏休みの定番の苦行で、毎年ぎりぎりまで着手せず、8月最終週に入ってから母親に怒られつつ嫌々書いていた。本当に嫌いだったのだが、なぜか頻繁に表彰され、担任の先生が俺の感想文を市の文芸賞にも応募してそっちでも賞をもらったりした。
確か小学校では400字詰め×3枚だったと思うが、これを埋めるのが最初は辛かった。読みたくもない本の感想なんて、修辞も知らない小学生の脳味噌では、どう引き伸ばしても200字で終わってしまう。
だが、読書感想文コンクールの入賞作をどういうわけか何かの雑誌か文集で読む機会があって、そういう「上手いとされる感想文」をいくつか読んだ結果、読書感想文というものはバカ正直に本の感想だけを書くのではなく、本とは関係のない自分の体験を書いて原稿用紙のマス目を埋めればいいのだ、と気づいた。
まず冒頭に、本の感想を書く。200字でよい。
次に、1. の感想と関係をこじつけることができそうな、自分の体験について書く。本の主人公が辛い体験をしているなら、自分が辛いと思った体験を書く。主人公が旅をしているなら、自分の旅行や外出の体験を書く。これは自分の体験なので、600字くらいは余裕でいける。
次に、2. の体験をした自分と本の主人公を比べてみて、似ている点を書く。「主人公はどこそこの場面で悲しい思いをしていたが、自分も 2. で書いた体験でこういう悲しい思いをした、○○なところが同じだったと思う」、みたいな。
次に、自分と主人公を比べて、何が違っているかを書く。どう書いてもいいが、賞を取りたいならあえてここでは自分を「下げ」、自分の足りないところに気づいたふりをするとよい。「自分はあのときにこう思ってしまったけど、主人公はこうだった、偉いと思う」、みたいな。3. と 4. で合わせて400字はいける。
もし 3. + 4. で400字に足りないようなら、主人公だけでなくサブキャラについても同じように、自分と比べて似ている点・違っている点を書けばよい。
これでもう1200字埋まった。最後にまとめとして、「これから自分が生活する上で、○○の場面の主人公のように、××のようにしていきたい」とか、大人が喜びそうなことを書いて締めれば完璧だ。
重要なことは、100%本心でなくてもいいという点だ。マス目が埋まればいい。純粋な自分の本心を文章の形にまとめる訓練も人間には必要だが、それは夏休みにやらなくてもいい。夏休みはプールで泳いだりカブトムシを捕ったり星を見たりして過ごすのが正しい。
俺はこれで何度も賞状をもらった。上のようなパターン、つまり「文章の設計図」に従って書くことを覚えてから、1200字という字数があまり苦にならなくなった。
好きでもない本を読まされて、上のパターンに従って、全部が本心でもない文章を書いて、字数が埋まったからまあいいや、と提出したものがなぜか先生に受けて表彰されたりして、「なんか世の中、くだらねぇな」と子供心にも思っていたが、世に出回る文章には必ず論理構成や型があり、読書感想文はその型を身に付けさせる教育なのだと思えばよい。
絵の世界にも、いわゆる自己表現や芸術としての絵画と、物体の寸法や形状を説明するための図面やイラストレーションがあるように、文章にも文芸とテクニカルライティングがある。読書感想文は一見文芸のようだが、実はテクニカルライティングの訓練なのだと自分は思っている。
だから、「嘘は書きたくないけど、自分が思ったことだけじゃ1200字なんて全然埋まらないよー」とか、あまり深刻に悩まなくて大丈夫。この世に存在する文章の大半は、誰かを喜ばせるために書かれた、心にもない言葉でできている。そういう文章を書いてお金をいただくことが穢れた行為ということでもない。たいていの大人はそうやって生きています。
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jitterbugs-mhyk · 2 years
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猟犬のゆりかご stray dogs.
 
 その黒い犬は、朝靄のなかにねむっているやさしい思い出をじっと、眺めている。おおきな身体はしなやかで、しるしの星を戴いて、凡庸に立つクリスマスの樅の木のように、朴訥としてどこか盲目な従順、ひとみ燃えるピジョン・ブラッド、星を融かし沈めたくだもの、喉を焼くサングリアの酒精、あらゆる焔に熱はなく、ただ煌々と、しらじらと、夜明けとともに世界の表層が、嘗められてゆくのを感じていた。さあ、朝だ。日が昇り、山肌を温め、空気をかき混ぜ、靄を払って、変わり映えのない日を今日も積み重ねる。羊たちは草を食み、石についたわずかの朝露と、塩分とをちびりちびりと舐めている。彼は眠るためではなく羊をかぞえ、起きだして仕事をはじめた。
 日々の多くは単調だ。どきどきしたり、わくわくしたり、ちょっとした異変や、予想できない天候の変化のたぐいはあっても、まったく思いもよらないことや、出逢ったことのないひと、見たことも聞いたこともない大事件が起きるなどというのは、魔法使いの長い人生においてだって稀なこと。未だ未開の土地も多く、ひとの手の入らない、魔法があったって生きていくのにけして楽とは言い難い南の国は、うつくしく積み上がった石の、白亜の尖塔を天へ向けて聳えさせている雄大なるグランヴェル城を有する中央の国や、華やかなりし芸術の都、花の、音楽の、絵画のそうして演劇の、文化の発展いちじるしい西の国、一年の多くを雪と嵐に鎖されて、自ら持ち得る魔法のみを恃みにし、傲慢で高潔、純粋すぎるがゆえにいっそ邪悪ですらある魔法使いたちに縋らなければ生きてゆくさえむつかしい、しかし凍てつく嵐のはざま、垣間見える土地の峻厳にして繊細なうつくしさは、他の追従をゆるすことはない北の国、それぞれの孤独で互いをぬるく慰め合う、晴れた日の雨のような、いつだって濡れて光っている石畳の東の国、それらのどこより未熟で、純朴、大陸にあってもっとも魔法使いと人間との紐帯たしかな土地である。力を重宝されるのみでなく、単純に、きびしい暮らし向きのなかにあって、それらを区別することに、意味など見出しかねるというのが実際のところだろう。区別して暮らすよりも、助け合うほうがよほど生きやすいのだ。少なくともここ、南の国では。
 開拓と、生活、日々のちいさな積み重ね、森を拓き、山を切り崩し、水を引いてようやく畑に実りをもたらす。まずは明日を、そうしてその次の日を。南の国で未来と云えば、遠いかなたの日々ではなしに、まずは来月、来年の話になる。星を詠み風を視て、やれ今年の収穫はどれだけで、食い扶持はこれだけ、来季に種にするぶんを省いた残りを備蓄と、売って僅かに贅沢にする。暮らし向きはけして裕福であるとは言えなかった。かくいうレノックスも、天候に恵まれず収穫のきびしい年には、そう易くはくたばらない魔法使いであることに胡坐をかいて、いったい何日絶食したものか定かではない。自分はかつて軍人でもあったから、満足に食うこともかなわない強行軍も経験があると請け負って、育ち盛りの子どものいる家に食糧を回してもらった。まったく苦でないというと語弊があるかもしれないが、満足にものを食えずひもじい思いをすることよりも苦しいこと悔しいこと、しんどいことがほかにもあると知っていて、較べてなんということも無い、自分には耐えられると判断したまで。のちに長じた子どもたちはあの厳しい冬、レノックスが食い扶持を分けてくれていなかったらきっと死んでいたと、彼に深く感謝をするのを、けして忘れはしなかった。感謝や、親愛、それらを求めてしたことではなかったけれども。
 羊飼いの職に就いてもう何年になるだろう。そもそもレノックスが南の国へやってきたのは、かつての知己、たったひとり誰より敬愛して、このひとのほかにあるじはないと定めた男、偉大なる中央の国の建国の英雄でありながら歴史の闇の中に消えてしまったファウスト・ラウィーニアの消息を訊ねてのことだった。革命の終局にあって、彼が率い、レノックスも所属していた魔法使いの隊は、手酷い裏切りにあってファウストが火に架けられると、文字通りに旗印をうしない、司令官をうしなって、てんでバラバラに離散してゆくほかになかった。レノックスを含めた数人が、無辜のままに焔のなかで、さいごまで親友を信じていた男の処刑を遠くから見つめていたが、彼らはどれほどファウストを慕っていようとも、彼を助けるために駆け寄ることかなわなかった。
 別段、レノックスは、まさに火に架けられようとするファウストを救うために躍り出て、そのころは影も形もなかったグランヴェル城の裏手、物見高く、興味と、熱狂の渦にのまれて、どれだけ自分が残酷になろうがお構いなしの、詰めかけた民衆を蹴散らしたって良かったし、処刑台のきざはしに足をかけた瞬間に無数の矢で射られたって良かったのだ。
 けれどもできなかった。ほかならぬファウストが望まなかったし、幼馴染の親友と、あたらしい国を夢見て故郷を出てここまで旅をしてきた男が、ずっと人のために尽くしてきた男が、たとえ自分の命を救うためとは雖も部下が人を傷つけるなど許すはずがなかったのだ。それに、今後、彼の部下であった魔法使いたちに類が及ぶのをファウストは懸念していた。すべての罪をひき被り、目立って処刑されることで、部下たちが人に紛れて逃れゆく時間を稼ごうと考えていたのは間違いないし、最後まで彼は、親友がほんとうに彼を火に架けることなどないと、信じていたかったのかもしれない。真に指揮官としてすばらしいひとだった、というのは、彼に心酔し、敬愛を寄せるレノックスのエゴからなる評価ではないだろう。
 しかし無情にも火は点けられ、英雄は自らその片腕を永遠に捥いだ。レノックスは無力だった。焔は、けして燃えやすいとはいえない男の肉のうえを嘗め尽くし、花のように、星のように、うつくしく燃え上がった。ぱちぱちと爆ぜる音の響きは懐かしくさえある。行軍中の、けして快適とは言い難かった野営の火を囲んで談笑し合う仲間たちに、人間と魔法使いの区別などなかったあの夜、あかるいすみれ色のひとみに、若い希望が輝いていたあの夜、ぱちぱちと爆ぜる篝の火に、誰もが横顔に陰を濃く落としていた、あの夜、たしかにこの人に追蹤ていこう、どこまでも、いつまでも、決意した、あの夜! 同じ音を立てて、愛した男が死に瀕していた。
 レノックス・ラムはただ佇むだけの唐変木、しるしの銀の星を戴くこともできない、樅になれない何か、楡か、花楸樹か、ああ、あそこに架けられたのがおれだったなら! そう易々とは燃えなかったろうに。
 
「レノックス、おまえさん、しばらくこの国にとどまってみちゃどうかな? バカンスだとでも思ってさ。どう? なんにもないけど、仕事くらいは斡旋してあげられるよ」
 そういったフィガロの意図はいまだに読めない。穏やかに微笑んでいるようでいて、実際のところは誰のことも愛していない、のみならず、自分自身の行く末にさえ無関心なのではと思われてならないフィガロ・ガルシア、かつて北の国で、今もってなお魔王と恐れられる大魔法使いオズと同門であり、兄弟子として肩を並べたこともあったという男が、なぜ何者でもないもののように振る舞うのか、答えは遠からず死に瀕した、彼の寿命だったかも分からないし、理由などないのかもしれなかった。死を間近にして命を惜しんでいるだとか、ただこれまでには馬鹿々々しくてやる気にもならなかった普通の暮らし、地に足の着いた暮らしというやつの真似事をやってみたくなったのかも分からない。
 なんにせよあの人のことはあれこれと考えるだけ無駄だからよせと、呆れたように、しかしどこか信頼にも似た声音でファウストが語っていたことをありありと思いおこされる。あの革命のさなか、フィガロもファウストの師として、また革命軍のきまぐれな懐刀として従軍していたが、当時のフィガロはまさにきまぐれ、ファウストがあれほどまでに人間と親密で、らしくないのと対照的に、まさに言葉の通りの魔法使いらしい魔法使いだったうえに、彼は革命を見届けることも無くふらり途中で姿を消したのだ。つまりあの短期間でファウストは、師と親友、ふたりから裏切られたことになる。
 はたしてフィガロを頼るのが正しいことであったのか。レノックスにも疑念はあった。しかし数十年、数百年と生きるうち、ファウストの足蹠を追い続けるのも難しくなった。自分が彼になぜこれほどまでに執着しているのか、おそらく明確な言葉では語られるまい。悔恨や、懺悔、つぎの機会が与えられるのであれば今度こそ、死地の果ての果てまでもファウストに追蹤ていくのだと思ったけれど、それらが自分の、身勝手な願いに過ぎないこともまた、分かり切っていた。彼はやさしいひとだから、いつか再会して、過去を詫びて、次の機会を冀ったなら、この愚鈍な、星ひとつ掲げない従者を許してしまうだろう。だからこそ見つからないように身を潜めているのかもしれないが、処刑のあと焔が消えて、そこに輝く石が残されていなかったと聞いたとき、レノックスはどうしても、彼を見つけ出さなければならな���なった。
 しかしながら、彼は決して、みずからを迷子の仔羊(stray sheep)とは呼ばない。右も左も定かでなくて、善悪が一元的なものではないとすでに学んだからには、彼もまた戸惑い揺れる寄る辺ない生きものであったに違いないのに! レノックス・ラムは縋らない。これは彼に信仰がないためではなくて、彼の信ずる神が、彼に縋られ、寄りかかられ、頼みにされるのを良しとしない、ただそれだけの理由であった。まったく、驚くほどの敬虔だ、さもなくば盲信だ、自らを擲ち穿つ、おそろしい自己犠牲の。
 腕をふるい、足を払い、身体をして成す暴力は、実際のところ、彼にとってはさしたる労苦でもなかった。激しやすく、ゆえに寡黙で、ことばのさきに振る舞われる暴力は、先祖伝来、あるいは、顔も見たことのない始祖、名前もしらない女たち、かれらから脈々と、粛々と、継がれてきた血や、歌や、儀礼や、そのほかすべての非科学的で超自然的な、迷信じみたアミニズムのなかに、流れていたかもしれなかった。フィガロ・ガルシアはバカンスなどとうそぶいたが、未だ発展の途上にある南の国で、魔法がなくとも家畜たちを抱え上げて斜面を行くことができ、肉体、精神共に健全で屈強、レノックス・ラムでなければ満たせないいくつもの条件が、彼の人生を、南の国で羊飼いとして暮らすことに引き留めた。ファウストを見つけ出し、そのうえで彼が復讐を望むならその手足になって働いて、あらゆる敵をなぎ倒し、あらゆる悪意と脅威の盾になって死のうと考えたことを、一日たりとも忘れたつもりはなかったが、短い一日も繰り返すうちに1年になり、5年になり、羊は仔を産み殖えたが、拓かれた牧草地は子どもや女、ほかの若い羊飼いたちに譲ってしまって、レノックスはますます険しい山肌に羊を追った。
「レノ、おまえは案外羊飼いの王様の素質があったのかもね」
「冗談でしょう。俺は星ひとつ、満足にかざせない」
 ばかだな、しるしの星なんておまえには必要がないだろう、輝きなんぞなくったって、それだけでかい図体が、どれだけ目立つと思ってる? いたずらそうに笑うフィガロの眸は薄曇りの冬の海に落ちた星だ。きっと怒られるけれど、肩をすくめて鼻でわらうようなその言い草に、ファウストの面影をみつけてレノックスも頬をゆるめた。
 導きの星はもうないけれど、いつかふさわしいときが来るまで、俺はずっと立っている。険しい道を歩んできたひとが、ふとひと息ついて脚を休めるそのときに、広げた枝が安らぎになりますように。
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ophelia333k · 2 years
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2022年6月19日
 今日も夕方くらいからバイトだけど、その前にもう日記を書いてしまおうと思う。  まず、一昨日くらいに「チェーホフ『かもめ』あるいは『シーシュポスの神話』的浴槽清掃の夢を見たクジラ」という動画をYoutubeに投稿した。眠剤も飲んでいたし、記憶は曖昧だけど、表現しているものは自分が生きる世界の身体感覚(ぎこちなく、自分の意志によって掌握されていない、異物的なかんかく)そのものだし、あるいは『シーシュポスの神話』的な、岩を頂上まで運んではまたそれが落ちていくことの繰り返しのような生について。そして、朗読しているのはチェーホフ『かもめ』の、作中でアルカジーナに「デカダン」だと言われる作中劇の抜粋(本来は、ニーナがこれを演じている)。
 ***    6月に入った頃くらいはかなり鬱っぽかった気がするけど、ここ数日くらいはかなり躁っぽいというのを強く感じる。別に自分は躁鬱病(双極性障害)とかでは全然ないのだけれど、おそらくADHDに由来する衝動性(そして過集中)ゆえの気分や意欲の上がり下がりというのはかなり激しくて、それは感情の高まりみたいなものとも連動している。永久に続いていくようにも思えるようなダウナーな感じやこの世界へのどうでもよさ、ただ純粋なしんどさみたいなものが一定の値を超えると、それが反転して、すべてがどうでもいいがゆえに、すべてのことをしたい、みたいな感じの感情の高まりになって、すべてのことに対して泣きたくなるし、すべてのことに対して笑いたくなる。歌いたいし、書きたいし、そのまま川に飛び込みたいし、壊れることで、すべてのものになりたい    ***    昨日の日記ではサドとマゾッホのことを書いていたけど、昨日よりは鮮明になった頭でもう少しつけ加えると、一般的に、サドとマゾッホは両方とも、何だか猥雑で、加虐的/被虐的な世界観だと思われて同一視されているはずで、それは結果としてはそうかもしれないけれど、サドのそれが徹底して唯物論に向かい、物質的なものの極限まで降りて行った果てのそれであるのに対して、マゾッホのそれには幻想の規律がある。このことは元々、ドゥルーズが『ザッヘル=マゾッホ紹介』」で言っていたことでもあり、最近になってようやく、言っていることの実感が湧くようになってきた。    ドゥルーズは同じく『ザッヘル=マゾッホ紹介』で、   〈マゾッホが表現するのは、かれの全作品の最終目的《人間》であり、父との類似の廃棄であり、「性愛もなく、財産もなく、祖国もなく、口論もせず、労働もせず、十字架に掛けられた《人間》……」である〉
 という文章を書いているけれど、ここには「パパ」と「ママ」という男女の生殖行為(という、ただひとつの「はじまり」)によることのない、文学的想像力による「生まれ直し」とも言えるような、全く新しい人間の誕生のイメージがある気がしていて、それは現実世界に基づいたものではない偽物、見せかけ、そしてシミュラークルの力能(法的なものであり、芸術的なものでもある)。  そして、マゾッホとサドから私たちはこの暴力的な世界の中で存在すること(そして絶対的なもの、「かみさま」)に対するひとつの方法を学ぶことができるはずだし、たとえばサドの『悪徳の栄え』は、世界の過剰さ(性的な加速と、加速的な暴力性)を映し出す鏡としてほんとうに優秀だと思う(そしてかみさま、の廃棄)。    ***    最後に、かぐや姫について。最近はバイトの合間を縫ってアニメ「平家物語」を見てるけど、そうしていたらふとアニメ映画「かぐや姫の物語」のことを思い出して、「天人の音楽」が流れる中で、かぐや姫が天人とともに月へと連れていかれるシーンをYoutubeで見て泣きかけてしまった。  あの場面の、あの音楽が流れてかぐや姫が天人とともに月へと連れていかれる瞬間の、あの絶対的な断絶、どうしようもなさ、それは「悲しみ」とかですらありえなくて、ただ言語化不可能な断絶がある、かぐや姫が「向こう側」へ行ってしまうことのその感傷は、安易に「悲しみ」とかそういう感情に還元不可能で、明るさの中に絶望はあり、救済との区別が曖昧になる。
 老いて死んで汚くなって欲望にまみれている俗世、としての地上に対しての、穢れのない不浄で美しくて、感情すらないからこそ永遠のものとしての「月」について、かぐや姫について、そして天人について、考えないといけないと思う。
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