Tumgik
jitterbugs-mhyk · 2 years
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猟犬のゆりかご stray dogs.
 
 その黒い犬は、朝靄のなかにねむっているやさしい思い出をじっと、眺めている。おおきな身体はしなやかで、しるしの星を戴いて、凡庸に立つクリスマスの樅の木のように、朴訥としてどこか盲目な従順、ひとみ燃えるピジョン・ブラッド、星を融かし沈めたくだもの、喉を焼くサングリアの酒精、あらゆる焔に熱はなく、ただ煌々と、しらじらと、夜明けとともに世界の表層が、嘗められてゆくのを感じていた。さあ、朝だ。日が昇り、山肌を温め、空気をかき混ぜ、靄を払って、変わり映えのない日を今日も積み重ねる。羊たちは草を食み、石についたわずかの朝露と、塩分とをちびりちびりと舐めている。彼は眠るためではなく羊をかぞえ、起きだして仕事をはじめた。
 日々の多くは単調だ。どきどきしたり、わくわくしたり、ちょっとした異変や、予想できない天候の変化のたぐいはあっても、まったく思いもよらないことや、出逢ったことのないひと、見たことも聞いたこともない大事件が起きるなどというのは、魔法使いの長い人生においてだって稀なこと。未だ未開の土地も多く、ひとの手の入らない、魔法があったって生きていくのにけして楽とは言い難い南の国は、うつくしく積み上がった石の、白亜の尖塔を天へ向けて聳えさせている雄大なるグランヴェル城を有する中央の国や、華やかなりし芸術の都、花の、音楽の、絵画のそうして演劇の、文化の発展いちじるしい西の国、一年の多くを雪と嵐に鎖されて、自ら持ち得る魔法のみを恃みにし、傲慢で高潔、純粋すぎるがゆえにいっそ邪悪ですらある魔法使いたちに縋らなければ生きてゆくさえむつかしい、しかし凍てつく嵐のはざま、垣間見える土地の峻厳にして繊細なうつくしさは、他の追従をゆるすことはない北の国、それぞれの孤独で互いをぬるく慰め合う、晴れた日の雨のような、いつだって濡れて光っている石畳の東の国、それらのどこより未熟で、純朴、大陸にあってもっとも魔法使いと人間との紐帯たしかな土地である。力を重宝されるのみでなく、単純に、きびしい暮らし向きのなかにあって、それらを区別することに、意味など見出しかねるというのが実際のところだろう。区別して暮らすよりも、助け合うほうがよほど生きやすいのだ。少なくともここ、南の国では。
 開拓と、生活、日々のちいさな積み重ね、森を拓き、山を切り崩し、水を引いてようやく畑に実りをもたらす。まずは明日を、そうしてその次の日を。南の国で未来と云えば、遠いかなたの日々ではなしに、まずは来月、来年の話になる。星を詠み風を視て、やれ今年の収穫はどれだけで、食い扶持はこれだけ、来季に種にするぶんを省いた残りを備蓄と、売って僅かに贅沢にする。暮らし向きはけして裕福であるとは言えなかった。かくいうレノックスも、天候に恵まれず収穫のきびしい年には、そう易くはくたばらない魔法使いであることに胡坐をかいて、いったい何日絶食したものか定かではない。自分はかつて軍人でもあったから、満足に食うこともかなわない強行軍も経験があると請け負って、育ち盛りの子どものいる家に食糧を回してもらった。まったく苦でないというと語弊があるかもしれないが、満足にものを食えずひもじい思いをすることよりも苦しいこと悔しいこと、しんどいことがほかにもあると知っていて、較べてなんということも無い、自分には耐えられると判断したまで。のちに長じた子どもたちはあの厳しい冬、レノックスが食い扶持を分けてくれていなかったらきっと死んでいたと、彼に深く感謝をするのを、けして忘れはしなかった。感謝や、親愛、それらを求めてしたことではなかったけれども。
 羊飼いの職に就いてもう何年になるだろう。そもそもレノックスが南の国へやってきたのは、かつての知己、たったひとり誰より敬愛して、このひとのほかにあるじはないと定めた男、偉大なる中央の国の建国の英雄でありながら歴史の闇の中に消えてしまったファウスト・ラウィーニアの消息を訊ねてのことだった。革命の終局にあって、彼が率い、レノックスも所属していた魔法使いの隊は、手酷い裏切りにあってファウストが火に架けられると、文字通りに旗印をうしない、司令官をうしなって、てんでバラバラに離散してゆくほかになかった。レノックスを含めた数人が、無辜のままに焔のなかで、さいごまで親友を信じていた男の処刑を遠くから見つめていたが、彼らはどれほどファウストを慕っていようとも、彼を助けるために駆け寄ることかなわなかった。
 別段、レノックスは、まさに火に架けられようとするファウストを救うために躍り出て、そのころは影も形もなかったグランヴェル城の裏手、物見高く、興味と、熱狂の渦にのまれて、どれだけ自分が残酷になろうがお構いなしの、詰めかけた民衆を蹴散らしたって良かったし、処刑台のきざはしに足をかけた瞬間に無数の矢で射られたって良かったのだ。
 けれどもできなかった。ほかならぬファウストが望まなかったし、幼馴染の親友と、あたらしい国を夢見て故郷を出てここまで旅をしてきた男が、ずっと人のために尽くしてきた男が、たとえ自分の命を救うためとは雖も部下が人を傷つけるなど許すはずがなかったのだ。それに、今後、彼の部下であった魔法使いたちに類が及ぶのをファウストは懸念していた。すべての罪をひき被り、目立って処刑されることで、部下たちが人に紛れて逃れゆく時間を稼ごうと考えていたのは間違いないし、最後まで彼は、親友がほんとうに彼を火に架けることなどないと、信じていたかったのかもしれない。真に指揮官としてすばらしいひとだった、というのは、彼に心酔し、敬愛を寄せるレノックスのエゴからなる評価ではないだろう。
 しかし無情にも火は点けられ、英雄は自らその片腕を永遠に捥いだ。レノックスは無力だった。焔は、けして燃えやすいとはいえない男の肉のうえを嘗め尽くし、花のように、星のように、うつくしく燃え上がった。ぱちぱちと爆ぜる音の響きは懐かしくさえある。行軍中の、けして快適とは言い難かった野営の火を囲んで談笑し合う仲間たちに、人間と魔法使いの区別などなかったあの夜、あかるいすみれ色のひとみに、若い希望が輝いていたあの夜、ぱちぱちと爆ぜる篝の火に、誰もが横顔に陰を濃く落としていた、あの夜、たしかにこの人に追蹤ていこう、どこまでも、いつまでも、決意した、あの夜! 同じ音を立てて、愛した男が死に瀕していた。
 レノックス・ラムはただ佇むだけの唐変木、しるしの銀の星を戴くこともできない、樅になれない何か、楡か、花楸樹か、ああ、あそこに架けられたのがおれだったなら! そう易々とは燃えなかったろうに。
 
「レノックス、おまえさん、しばらくこの国にとどまってみちゃどうかな? バカンスだとでも思ってさ。どう? なんにもないけど、仕事くらいは斡旋してあげられるよ」
 そういったフィガロの意図はいまだに読めない。穏やかに微笑んでいるようでいて、実際のところは誰のことも愛していない、のみならず、自分自身の行く末にさえ無関心なのではと思われてならないフィガロ・ガルシア、かつて北の国で、今もってなお魔王と恐れられる大魔法使いオズと同門であり、兄弟子として肩を並べたこともあったという男が、なぜ何者でもないもののように振る舞うのか、答えは遠からず死に瀕した、彼の寿命だったかも分からないし、理由などないのかもしれなかった。死を間近にして命を惜しんでいるだとか、ただこれまでには馬鹿々々しくてやる気にもならなかった普通の暮らし、地に足の着いた暮らしというやつの真似事をやってみたくなったのかも分からない。
 なんにせよあの人のことはあれこれと考えるだけ無駄だからよせと、呆れたように、しかしどこか信頼にも似た声音でファウストが語っていたことをありありと思いおこされる。あの革命のさなか、フィガロもファウストの師として、また革命軍のきまぐれな懐刀として従軍していたが、当時のフィガロはまさにきまぐれ、ファウストがあれほどまでに人間と親密で、らしくないのと対照的に、まさに言葉の通りの魔法使いらしい魔法使いだったうえに、彼は革命を見届けることも無くふらり途中で姿を消したのだ。つまりあの短期間でファウストは、師と親友、ふたりから裏切られたことになる。
 はたしてフィガロを頼るのが正しいことであったのか。レノックスにも疑念はあった。しかし数十年、数百年と生きるうち、ファウストの足蹠を追い続けるのも難しくなった。自分が彼になぜこれほどまでに執着しているのか、おそらく明確な言葉では語られるまい。悔恨や、懺悔、つぎの機会が与えられるのであれば今度こそ、死地の果ての果てまでもファウストに追蹤ていくのだと思ったけれど、それらが自分の、身勝手な願いに過ぎないこともまた、分かり切っていた。彼はやさしいひとだから、いつか再会して、過去を詫びて、次の機会を冀ったなら、この愚鈍な、星ひとつ掲げない従者を許してしまうだろう。だからこそ見つか��ないように身を潜めているのかもしれないが、処刑のあと焔が消えて、そこに輝く石が残されていなかったと聞いたとき、レノックスはどうしても、彼を見つけ出さなければならなくなった。
 しかしながら、彼は決して、みずからを迷子の仔羊(stray sheep)とは呼ばない。右も左も定かでなくて、善悪が一元的なものではないとすでに学んだからには、彼もまた戸惑い揺れる寄る辺ない生きものであったに違いないのに! レノックス・ラムは縋らない。これは彼に信仰がないためではなくて、彼の信ずる神が、彼に縋られ、寄りかかられ、頼みにされるのを良しとしない、ただそれだけの理由であった。まったく、驚くほどの敬虔だ、さもなくば盲信だ、自らを擲ち穿つ、おそろしい自己犠牲の。
 腕をふるい、足を払い、身体をして成す暴力は、実際のところ、彼にとってはさしたる労苦でもなかった。激しやすく、ゆえに寡黙で、ことばのさきに振る舞われる暴力は、先祖伝来、あるいは、顔も見たことのない始祖、名前もしらない女たち、かれらから脈々と、粛々と、継がれてきた血や、歌や、儀礼や、そのほかすべての非科学的で超自然的な、迷信じみたアミニズムのなかに、流れていたかもしれなかった。フィガロ・ガルシアはバカンスなどとうそぶいたが、未だ発展の途上にある南の国で、魔法がなくとも家畜たちを抱え上げて斜面を行くことができ、肉体、精神共に健全で屈強、レノックス・ラムでなければ満たせないいくつもの条件が、彼の人生を、南の国で羊飼いとして暮らすことに引き留めた。ファウストを見つけ出し、そのうえで彼が復讐を望むならその手足になって働いて、あらゆる敵をなぎ倒し、あらゆる悪意と脅威の盾になって死のうと考えたことを、一日たりとも忘れたつもりはなかったが、短い一日も繰り返すうちに1年になり、5年になり、羊は仔を産み殖えたが、拓かれた牧草地は子どもや女、ほかの若い羊飼いたちに譲ってしまって、レノックスはますます険しい山肌に羊を追った。
「レノ、おまえは案外羊飼いの王様の素質があったのかもね」
「冗談でしょう。俺は星ひとつ、満足にかざせない」
 ばかだな、しるしの星なんておまえには必要がないだろう、輝きなんぞなくったって、それだけでかい図体が、どれだけ目立つと思ってる? いたずらそうに笑うフィガロの眸は薄曇りの冬の海に落ちた星だ。きっと怒られるけれど、肩をすくめて鼻でわらうようなその言い草に、ファウストの面影をみつけてレノックスも頬をゆるめた。
 導きの星はもうないけれど、いつかふさわしいときが来るまで、俺はずっと立っている。険しい道を歩んできたひとが、ふとひと息ついて脚を休めるそのときに、広げた枝が安らぎになりますように。
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jitterbugs-mhyk · 2 years
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ぶどうの森の聖者 even if.
 しあわせの約束はいつも、クロエ・コリンズではない誰かと、世界のあいだに交わされていた。いつだってクロエは、それらの外側に存在していたが、ただし一度だって、それを不幸に考えたことはなかった。思うに、幸福なひとからすれば、クロエのここまでの、人間にしてもさほど長くなく、魔法使いとしてはもっと長いとは言えない人生のなかに、幸福と呼べるものはあまりなかっただろう。あたりまえに与えられるべきものの多くを、クロエは持っていなかったし、彼にそれを与えられる人間に出会うまで、ずいぶん長い時間が掛かった。いまではラスティカというかけがえのない師を得、名誉ある、賢者の塔の魔法使いに選ばれた。十全に幸福である、というにはまったく足りないかもしれないが、しかし、なにもないということはない。
 5つある国からそれぞれ4人ずつ選定される魔法使いには、クロエと年の近いものもあったし、途方もないほど昔から、気の遠くなるほど長く生きて、毎年に訪れる災厄を退ける役目を負った大魔法使いたちもあった。彼らはしばしば、生きてきた時間や、強いふしぎの力に不釣り合いな、精神の不均一があった。長い歳月のうちに、魔法使いには変革が起こらざるを得ないのかもしれない。人間は老いて死ぬ。人が変われば街も移ろいを見せてゆく。王が立てば国が興き、政が腐れば傾く。時代が変われば価値が変わる。切り立つ山や、ゆるやかな川や、だだっぴろい平原や、命のすべてを拒絶する厳しい吹雪の夜、一朝一夕には変わることのないものも、百年、一千年、生きれば変わることもあるだろう。言葉少なにたたずむ姿からは想像もつかないが、かつては世界の支配を目論み、ひとも、魔法使いもいっさいの区別なく駆逐しつくさんとしたという魔王オズの力をもってすれば、山のひとつ一晩で、砕いて荒野にもできたという。
 想像もできないよ。言って朗らかに笑ってみせたのはカイン・ナイトレイ、中央の国に所属する舎の魔法使いである。以前は騎士団に所属していたという彼は、そのくせどこか破天荒で、よけいに気負ったところがない。中央の国の王子であり、オズの弟子でもあるアーサーとは、主君と臣下の関係にありながらも歪な友情を築いている。クロエの知っているだけでも、シャイロックとムルや、ファウストとレノックス、むかしからの付き合いだという魔法使いたちの友情は、どこか歪なところが多い。魔法使いにとって避けられない変遷、変革、変身……、あくまでも友情を続けてゆくならば、生じた差異や、微妙な齟齬を、まるまま受け容れる必要があるのだろう。それには時間がかかるかもしれないし、たった一晩、魔法使いすら惑わす祭りの一夜に、すべて塗り替えられてしまうかも。一日で生まれ変わることはできないのに、蛹を破り、殻を脱ぎ捨て、繊細な翅を延ばして乾かし、優雅に飛び立ってゆく蝶のようには生きられないのに。
 クロエも西の魔法使いらしく、楽しいことや、あっと驚くこと、とびきりうつくしいもの、歌や、音楽や、絵画や、劇や、すこしだけ恐ろしいもの、刺激的なものをこよなく愛していたが、一つだけ、どうしても好きにはなれなかったのは、かわいそうなものだった。自分が恐ろしいのはいい。自分が驚かされるのも。西の魔法使いは刺激に飢えていますからね、と妖艶にほほえんだのはシャイロックで、どこかひっこみ思案で、すぐに顔が熱くなるクロエが、好奇心に目を輝かせ、ふだんの彼からは想像もつかないような無謀な賭けに飛び込もうとしたとき、頭ごなしに反対したり、過保護にしたりせずに好きにさせてくれ、貴方も西の魔法使いですね、と言ってくれたのは記憶に新しい。それぞれの国に先生役、兼取りまとめ役を置くことを提案したのは、クロエと同じく先日に賢者として召喚されたばかりの青年で、なんと、聞くところによれば異世界からのまれびとであるらしい。そんなの絶対おもしろい! 飛び上がって喜んでから、ある日突然見知らぬ世界と見知らぬ人々、彼の世界にはなかったというふしぎの力に囲まれた青年にとっては災難だったかもしれないと反省した。正直に告げたら賢者はきょとんとしていたけれど。
 「だって、それは、仕方がないことじゃないか?」
 魔王と呼ばれ恐れられていたオズの姿を、若い魔法使いたちはしらない。不器用で、おしゃべりが苦手で、リケに言わせればいつもどこかぼうっとしていて、アーサーにはどこか厳しいけれど、オズが語る言葉の多くはアーサーのものだ。彼の力をもってすれば、向こう見ずで正義感が強く、己の力量を知りながら、けして届かぬと知りながらも立ち向かうことをやめられない未熟で若い魔法使いたちが、魔道具を構えるよりも早く、ほとんどの物事を解決できただろう。魔法使いは長く生きるが、永遠に近い時間であっても、命である以上は終わりがある。オズにもまた、いつか、百年先か、それとも明日のことかは定かでないけれど、死は訪れるのだ。そのとき未熟な魔法使いたちに十分な力がなければ、庇護を失えば彼らはすぐにでも狩られるだろう。処刑台で吊られた女、火に架けられた男、そんなものはいくらだっていた。彼らは死んで石になり、魔導機械の燃料になったり、魔法使いに喰われたりする。けれど魔法使いに天敵があるなら、同じ魔法使いというよりは、やはり人間であったと言えるだろう。
 「俺は魔王のオズを知らないし、クロエだって、出会う前のラスティカのことを知らないだろ。会ったことがないひとのことがどうして分かる? 誰かの作り話のなかに彼らはいるかもしれないが、もしも全部本当だったら、オズは山ほども大きい竜で、毛むくじゃらで、山を砕き川の流れを変えて、土を割って底なしの峡谷を作ってる。いくらかは本当のことみたいだけど、まあ、人は勝手だからさ。それっぽいことは全部オズのしわざになってるし、本人が興味ないんだから仕方がない。これから知らない顔のあいつらに会うかもしれない。そしたらそのとき考える! 楽しみにならないか? たぶん、想像よりずっと。」
 「会えると思う?」
 「どうして会えないって思うんだ? 俺は、俺のまだ知らないクロエに会うのも楽しみだよ」
 「がっかりさせるかもしれないよ」
 「ああ……それは、あるよな。俺も部屋に靴下が片方落ちているのを見られてがっかりされたことがあるよ」
 「それは別に違和感ない」
 「ええっ、そうなのか?」
 カインの朗らかさは美徳だろう。誰にだって知られたくない過去や、仄暗い気持ちのひとつやふたつあるけれど、彼ほど明け透けで、衒いのない人格はふたりとない。祝福されて、何一つ不自由のない暮らしが彼の人格を育てたというなら納得するが、同時に、彼にだってかなしみに暮れた夜はあったはず。愛するひとの肩を抱いて、あるいは抱かれて、わずかな酒精に酔って、あるいは酔わずに、朝まですごしたこともあるだろう。いつも朗らかで明るいひとに、ただかなしみのない人生をのみ見出すというのなら愚かすぎる間違いだ。見えているものだけがひとの価値ではないし、ましてやすべてであるなんてとんでもないこと。ひとは見たいように見るし、見られたいように振る舞う。捨て鉢にならずに、どう見られても構わない、誤解も偏見も厭わないひとがあるなら、本当にどうでも良いと考えているか、あるいは、すでに狂っているかだ。魔法使いは一見理知的に見えても大概は狂っているものだが、それは祈りのように、信仰のように、耳に残るメロディのように、思い出しても唾が出てくるデザートのように、心と身体を支配したものだった。かつてひとであったと知りながら喰らうマナ石は、背徳と、後悔と、おそろしい残酷さ、けれども長く生きるからには、噛んで、砕いて、呑み込んで、自らの糧にしなければ。
 「カインは自分で思っているよりウッカリしてるし、みんな割と知っているよ」
 「完璧な騎士は無理にしても、ウッカリかあ」
 「いいじゃない、ボタンなら俺がつけてあげるし」
 「その節はいつもお世話になって」
 「いえいえ、カインより服を破るひと、たくさんいるから」
 「それは分かる」
 くすくすと笑いあって、悩みを吹き飛ばすには小さすぎるけれど、心のなかに居場所を作る。不安や、恐れ、置き場所がないから気持ちがふわふわとして落ち着かないのだ。それなら、棚を作って、椅子を並べて、引き出しにしまうなり座らせてしまうなり、すればいい。勝手に歩き回って、手足を竦ませたり、舌に沈黙の重しを載せたように、だんまりさせたりするまえに。身体はどんどん重くなる。心はどんどん軽くなる。くるっと宙返りひとつ、景気づけに花火をふたつ。これはムルに教わったこと。ずっとほしかったけれど、もう、クロエ・コリンズに、しあわせの約束は必要なかった。
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jitterbugs-mhyk · 2 years
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パーティならチキンを焼いて my favorite things.
 
 満たされたばら色の人生にも、遣る瀬無い夜は訪れる。そういうときは誰にだって、ささやかな楽しみや、希望にあふれた展望が、必要になるのだった。必ずしもすべて、未来の約束じゃあ、ない、胸の奥にそっと灯ったわずかのともしびのように、幾度となく取りだしては大事に眺めた過去の日々のことであったり、はっきりとは思い出せない、夢のなかの景色であったりしたもの。
 なにもかもを忽ちに。打ち上げた花火のように、あるいは激しく打ち鳴らす銅鑼のように、景気よく、気前よく、解決する手段はない。自分たちにはふしぎの力があったけれども、短く唱える呪文、たったひとつ、長い長い魔法使いの人生にあって、幾度となく、あるいは自身の名前より、多く繰り返すことになるであろう言葉は、かならずしも万能ではなかった。こうあってほしい。願ったかたちと、色と、匂いと。思い描いたものをそのままに生み出すのは、魔法であっても容易くはない。そりゃあ、世界でいちばんの魔法使い、かつて魔王と恐れられ、また、その人自身もそう呼ばれることに何の疑問もなければ、快感にすら考えていたらしいオズであるなら、違っていたかもしれないが。少なくとも、排他的で、魔法使いに限らずとも、ひととひととの独特な距離と、稀薄な関係、微妙な均衡のうえに成り立つ東の国で、息を潜めるようにして暮らす歳月の、長くなったネロには難しいことだった。
 かれらは人をたまらなく愛するくせ、ジレンマのハリネズミ、いつだって近寄りすぎれば互いに傷つけあうことを恐れている。本質的に優しく、どうしようもなく寂しいが、おなじだけ気位が高く、自らを偏屈と嘯いてはばからない。もとよりそういったきらいのあったゆえに、東の国の水によく馴染んだとも言えたし、あちこちを転々としつつも店を営み続けた日々が、ネロを東の国の魔法使いにしたとも言える。彼は大いに変わったし、何ひとつ変わらない。繊細なくせに豪胆で、穏やかなようでいて燃えたぎる焔をその身のうちに飼っている。敵と見るや容赦はないが、いちど懐に入れた者にはあまりに情が深すぎた。
 磨きぬかれたカトラリー、整理整頓されたスパイスラック、年代順に並べられたワインのボトル、ひとつひとつを丁寧に、確実に。積み重ねる仕事は地道で堅実、つまらないといえばつまらないが、魔法使いらしくない勤勉さは、思えば初めからネロのものだった。掃き清められた床、皺だらけでも染みはない寝具たち、行き場のないガラクタが散乱してはいても埃ひとつなく、空気は入れ替えられていつでも新鮮だったし、窓にガラスは嵌まっておらずとも、雨漏りのする屋根はない。無責任で、自堕落、怠け者のふるまいをしてはいても、彼はきちんとしたひとだった。もっとも、照れくさいのか隠したがったが。
 いつだって誰よりも早く起きて、オーブンに火を入れる。薪ひとつ、打ち合わせる火打ちのひとつにさえ、ネロは魔法を使わない。それはポリシーというよりも、ルールというよりも、信仰にも似た、祈りのようなルーティーンのなかにある。菜園の朝採りの野菜は瑞々しく、そのまま齧ってもゆたかな水と太陽の味がする。弱くないくせに深酒をきらい、ひそやかな談笑と、駆け引きのカードの卓にはつかないネロが、とっておきのバーに顔を出すことは滅多にない。いつだったか、一度か、二度か、酔いつぶれた男たち、いつだって酩酊しているようなくだけた魂のムルにカードでこてんぱんにされ、酔うほどに冴えるシャイロックのダーツ、上機嫌に賭け金を吊り上げてゆくレイズを、ブラッドリーは何度口にしただろう、浴びるほどに呑んでなおも眠ることかなわないミスラの憂鬱、それら綯い交ぜの男たちが、夜中の菜園でトマトやグリーンフラワーをちょいと拝借したときの、ネロの怒りの形相はいまだに語り種になっている。怒りに我を忘れたネロは、あろうことか序列第二位のミスラまでまとめて首根っこを引っ掴んで中庭の噴水にぶん投げてのけた。怒りの過ぎ去ったあとから勿論真っ青になっていたが、彼の大切なものを蔑ろにした人間たちを、東の魔法使いたちがそれこそ射殺すような視線で侮蔑したのでますます小さくなっていた。彼らは陰険で、執念深く、そうして何より、自らのように他人を遇することのできる人格を持ち合わせている。引っ込み思案ではあるが普段は礼儀正しく朗らかなヒースクリフや、横暴なようでいて真摯、育ちのよい振る舞いをするではなくとも主人を立てる忠義のシノ、呪い屋などと名乗りながら、不幸そのものを被せるのでなく、ひとの幸運を少しばかりくじいてみせるファウストさえも、まごうかたなき東の男、彼らのあいだの、触れ合わないながらもけして離れることのない紐帯は、かたく結ばれたノットのようだ。知っていれば容易くほどけるのに、力任せには外せない。
 あいかわらず甘い男だな、と揶揄されて、かつてであれば傷つくか、さもなければ猛烈に腹を立てていただろう。思うに自分は若すぎたし、感傷的にすぎた。そんなに良いものでもなかったのに、いつだって、初恋の甘酸っぱさをひきずっている処女のような、散った花の香りを惜しんではらはらと涙をこぼす生娘の心ばえを持ち合わせていた。そんなに良いものであるはずもなかったのに! あの頃慕った男は破天荒、傍若無人は十八番、焦がれるままに背を追って、まともな教育ひとつない、宝石の目利き、あらゆる鍵のこじ開けかた、それから、うつくしく高潔な暴力、彼から学んだことのすべて。師と慕うにはあまりにも、絶対のカリスマでありすぎたし、かといって、率いる盗賊団の下っ端とだって気安く肩を組み、売り捌けば相当の値がつくであろう年代もののワインを惜しまずに振る舞った。ブラッドリーはそういう男だと、痛いほどによく、分かっていた。彼が均等に分け与えないのはマナ石くらいのもので、魔法使いたちにとっては、宝石よりも、贅の限りを尽くしたご馳走や、黄金に輝くシャンパンの泡、誰にも邪魔をされずに午すぎまで惰眠を餮ることのできるベッド、それらのすべてより、いくらも価値のあったもの。けれど、さほどの不満はなかった。マナ石をボスが喰うのなら、彼の庇護下にあるものたちは、結果として強さを手に入れたのと同義であったし、ブラッドリーは北の魔法使いらしからぬ、義に篤い男であり、同じだけ誰より北の魔法使いらしい、傲慢で、不遜で、気まぐれを持ち合わせていたものだ。
 すれ違う紳士淑女の懐��らちょいと財布をくすねるやりかたは、残念ながらろくでもない子どもの時分に覚えた。北の国では良くあることで、家のなかには、兄だか、姉だか、父だか、母だか分からない年長者たちが溢れていたが、少なくともネロは、自分がろくでもない家の、よくない子どもであることに十分に自覚的だった。意識して、悪を悪と知りながら為すことは、なんの免罪符にもならないが、成し遂げるための知恵と、技術と、度胸があること、他人から盗みとる他にはなにひとつ持たない子どもにもゆるされる財産だった。ひとりきり、自分だけを守り、慈しみ、愛してやる、それすらも厳しいのが北の国のならいであって、山ほど部下をかかえたり、誰からみても足手まといになりかねない男を相棒と呼んで憚らなかったブラッドリーが奇特なのだ。ちびで、やせぎすで、いつだって腹を空かせている子どもたち、北の国では路地裏に、彼らの明日は転がっていない。夜はあまりに深く、暗く、長いもの、朝を迎える前に仲良く骸になれるなら、孤独もいくらか浮かばれる。死は必ずしも幸福の対極にない。
 北の大盗賊ブラッドリー・ベイン。彼は間違いなく悪党であり、与えるものでも、施すものでもありえなかった。彼は多くを持ち合わせたが、しかし、価値あるものは適切に、渡るべき手へ流れていった。きっとネロ・ターナーも、そのうちのひとつであっただろう。うつくしい宝石のような、この世にふたつとない宝剣のような価値が己にあると自惚れたことはなかったが、ほんとうに素晴らしいものは、いつだってブラッドリーのもとにとどまりはしない。彼が望んでそうしたものかもしれないし、ブラッドリー・ベインという男の、避けえざる、けして覆ることのない運命のうえに、定められたものかもしれなかった。彼自身から語られないまま、断絶された数百年、いまだに牢に繋がれて、似合いもしない献身と奉仕の日々、忌々しいと吐き捨てながら、楽しんでいるようにさえ思えるのは、願望ばかりでないだろう。彼に美徳があるとは認めがたいが、日々の困難をさえ笑いとばせる豪胆さは、同じく北の国に生まれ育っても、ネロにはついぞ、備わらなかった。
 とくべつでない特別な日に、任務や、修行や、仕事やらで、へとへとになった子どもたちに、なにを食わせてやろうと考えるのが好きだった。市場で仕入れてきたばかりの新鮮な食材、昨夜のうちに絞めておいた鳥、近ごろ使っていない気がするスパイス。まともに飯を食いもせず酒の肴を摘まむばかりの大人たちには、炒ったナッツでも出して黙らせておきたい。夜を裂いてゆく一条の光は銃弾、なんで分からないかな、ネロは一度だって魔法でチキンを揚げたことはなかったし、ましてや子���もたちは、焼いたチキンをご所望なので。
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jitterbugs-mhyk · 2 years
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愛はアイアン・メイデン Who were Virgin.
 西の国のラスティカといえばさまざまに。もっとも、彼に限らず西の国の魔法使いという生きものは、突拍子もない快楽主義、華やかなものが好きで、楽しいものが好きで、賑やかなのが好きで、輝くものは命さえ、畏れとともに、耽るばかりの享楽に身を焦がす酔狂者として知られたものだったが。貴公子然とした佇まい、背は高すぎず、あまい微笑み、とろける声音は歌うよう。どんよりと重たい冬の空、晴れていてもどこか霞んだ蒼が、貴公子の瞳におさまると、それこそがラスティカの微笑みだ。彼を愛するひとはたくさんあったに違いないが、彼の愛は、誰のものでもなかった。すくなくともいまの時代には。
 ラスティカのもっとも厄介なのは、その運命が、どうしようもなく彼から遠ざけ、最後には必ず結びつけるという花嫁を、宛てどもなく数百年にもわたって、求め探していることだ。必ず得られる物事というのは、けして手に入らぬものと同義である。いつかどこかには存在するのだろう、あるいはすでに。けれどもそれは、ラスティカ、うつくしいチェンバロ弾きの男、彼の預かり知るところでなしに、ただ運命のきまぐれ、風の吹くまま、どれほどの渇望が彼のうちに、興亡をもたらしたことだろう! それは、興り、啓き、拡がり、増え、満ち、やがては潰えて、天を衝くほどに立ち、枝葉を茂らせたままに虚ろに、繁栄の、もっとも強く、輝ける時代の姿を留めて朽ちている。
 もはやチェンバロ弾きは過去のもの、足踏み式のオルガンや、跳ねて踊るスタカートのピアノ・フォルテ、それらに取って代わられつつある、どれほどすばらしい音色であっても。嘆かわしきことに、夢はまだ、あまくやさしく、まやかしと化してなお、続いているのだ。たとえそれが永遠に繰り返すコーダのしらべであるとしても。
 西の魔法使いは退屈がきらいだ。なんてことない日々に小さな幸福を見いだすよりも、大きな驚き、突拍子もなくとも、それまでに見たこともないような、新しいものが好きだ。音楽は初めこそ驚きをもたらすが、しかし、人口に膾炙し、社会に瀰漫し、作曲者や、演奏者の名は知らずとも、誰しもに口ずさめるような、普遍性を獲得した歌やメロディには、手垢にまみれ、すり減った、使い古された道具のようすがある。使うたびに手になじむ道具はすばらしいものだが、同時に、そのひとの手癖に染まって、ほかの誰にも使いこなせなくなっていくのもまた事実なのだった。ラスティカは長い旅のなかで、そこかしこの屋敷、そこかしこのサロンに招かれ、そのうつくしい立ち姿や、容姿を誉めそやされ、チェンバロを弾きあるいは歌をうたって、対価を得てきた。よく言えば気軽で気楽な根無草、悪しざまに罵るならまつろわぬもの。しかし、西の国に限らずとも、ラスティカに限らずとも、魔法使いとは、本来かくあるべきである。
 魔法は心でつむぐ。心をもっとも安らがせるのがマナエリア、胸に抱く楽園は、長く生きるうちに、もはや記憶の中にのみ残る景色になってしまうこともめずらしくない。原風景とも呼ぶべき場所に、心は安らぎ眠っている。もはや擦り切れてゆくばかりの温かい思い出を、思い起こさせるのはアミュレットだ。それは、故郷の風景そのものだったり、しずかな夜の底を閉じ込めたキャンドルだったり、さまざまのチェスの駒だったり、魔法使いにそれぞれだ。ラスティカ・フェルチの場合は繊細なつくりのティーセット、いつか最愛の花嫁と囲んだテーブルを、彼が思い出しているかは定かではない。もしかしたら、かつてあった人生最高の日、花嫁との結婚の誓約のそのあとに、ガーデンパーティーなど、催したのかもしれなかった。魔法使いは約束をしないものだ! 結婚の誓約など、永遠の誓いなど、約束の最たるもの。けれどラスティカはしたのだという。守られない約束はすべきではない、当たり前のことだ。けれども彼ら魔法使いには、違約したときのペナルティが、より厳重に課せられる。記憶を失うくらいならかわいいもので、正気を、最悪の場合なら魔力を失うさえ、ありえる。
 一時的にしろ、永続的にしろ、魔力を失った魔法使いの末路は悲惨だ。西は、北のようには弱肉強食の世界でなくて、魔法使い同士が鎬を削りあい、力を誇示しあうような国ではないけれども、音に聞く大天才、西にとどまらず世界に轟く名を持った学者にして、国いちばんの酔狂者ムル・ハートが考案し、ムルの時代にはあまりに早すぎたイデアたちが時を経てようやく人々に理解されはじめた魔法科学なるもの、これは魔法使いの成れの果て、マナ石を動力とする。恐ろしいことだ! 魔法使いならざる人々が、魔法使いのしかばねのうえに、不思議の力を行なっている。マナ石の安定した供給のために、魔法使いを捕らえ、家畜のように飼おうとする貴族が、いつ現れるともしれない。
 魔法使いは生まれつき。人とはちがう生き物だ。けれども彼らは血族に増えるのではなかった。両親が魔法使いであったからといって、子どもが必ず魔法使いに生まれるとは限らない。だからこそ、望まざる魔法使いの息子を恐れ、嘆き、吹き荒ぶ雪嵐の山に、王子を捨てる王妃などもあるくらいだ。捨てられた王子のほうは幸運なのか不運なのか、かつて世界征服すら目論んだという世界一の魔法使い、オズの庇護下ですくすくとすこやかに育ったようだが。魔王と呼ばれ恐れられる男の懐に、幼い王子がどうやって這入りこんだものか、定かではない。胆力があるといえばあるし、オズさえ籠絡する覇気のようなものを備えていたというのなら、彼よりほかに中央の国、そしていまや集った賢者の魔法使いたちを、統べるべきひとはないだろう。
 ラスティカの愛はけして軽率であるべきではない。魔法使いは約束をしない。けれどもラスティカはしばしば誓いに似た言葉をあまく吐きだす。けしてひとりにはしない。かならず守ってみせるよ。彼が、無意識のうちに破滅を望んでいるからかもしれなかったし、同じだけ、都度に本気でいるからかもしれなかった。やさしく耳触りのよい言葉は甘美、ラスティカの悪癖の最たるものは、我が花嫁と信じたひとを、老若男女を問わずに鳥籠にとらまえて庇護しよう、あるいは支配しようとすることであるが、彼はそのときどきにほんとうに、鳥籠のなかのうつくしい鳥を、囀りを、尾羽のかざりを、嘴の流線を、愛しているのだった。もはや、この独りよがりの愛を、正気と呼ぶべきでないことは明らかであったが、朗らかで穏やかなラスティカは、そのほかに関しては、ふわふわと浮世離れしている以外には、理知的な紳士であるのだった。伝え聞くところによれば彼は貴族の生まれに育ち、花鳥風月を愛でて日々を徒然に暮らすのに、魔法使いほどうってつけのものはなく、ラスティカは幸運にもそれができた。
 ラスティカ・フェルチを師として、父として、友人として、ときに手のかかる弟やちいさな子どもたちのように、呆れながら、困らせられながら、それでも旅を続けてきたクロエ・コリンズの苦労を慮り、ねぎらう言葉は幾つもあっただろう。しかし、それらのすべて、スラム街の隅で生まれ、一生を這い上がれずに暮らすしかない人生にくらぶれば。もし魔法使いでなかったなら。そんな仮定に意味はないけれど、魔法使いであっても、あの泡の街では、這い上がっていくのはむつかしい。さむさに凍え、空腹に震え、心が荒めば、それだけ魔法は弱くなる。あたたかいスープ、いつでも火の入れられた暖炉、満たされて微睡む安楽椅子のゆらぎ、誰かのささやくようなおやすみの挨拶。それだけのものが、誰にとっても当たり前のものじゃないってこと、想像もつかないでしょう。おやすみを言って眠った翌朝に目が覚めないなんてざらにある。下をみて自分はまだ恵まれているのだと考えるのは悍しく、恥ずべきことだが、しかしクロエにはよく動く手があり、色を見分ける目があり、糸や、ビーズや、ボタンやカボション、宵闇にひかるネイル、それらを触れて繊細に仕分ける指先があった。手は魔法のように動いた。使い古しの裁ち鋏でも、クロエにかかればどんな布も、溶けかけのバターのようにすんなり切れたし、ステッチは踊るよう、きらめくビーズの星々は、デビュタントのご令嬢の目に映るはじめての社交界の華々しさ。体になじみ吸いつくようだ、と評してくれたのは、意外にも洒落者の東の呪い屋だったかしら。
 ラスティカと出会うまで、クロエは何者でもなかった。けれどいまやどうだろう、クロエはラスティカの愛し子、血はつながっていないけれど、強い絆がふたりを結びつけている。師にして父、友人にしてライバル、おやすみの口づけ、ときには夜の遅くまで、花嫁以外のあらゆるすべて、彼のシャツを縫い、銀のカフスボタンを磨き、とっておきのタフタはナイトガウンに、寝ぼけまなこのやさしいひとにはミルクたっぷりのカフェ・ラテを淹れてあげる。知らない場所にあちこち行って、クロエひとりではとても尻込みしてしまうような、すばらしく華美で豪奢なお屋敷にも、招かれて演奏をした。灰鼠色のジャケットに、ほとんどまぎれるようにして縫いとった銀糸の刺繍は蔦と星の模様で、魔法ではないラスティカのチェンバロが鳴るたびに浮かびあがって光る魔法が施してあった。緻密な模様を入れるのは一苦労だったが、寝不足の目にもよい出来栄えにみえたし、なにより、ラスティカのための一刺しひとさしを思い起こせば悪くない。
 クロエがラスティカを誇らしく思うのと同じくらい、ラスティカもそう思ってくれているらしいことは、気恥ずかしくはあるけれど、無上のよろこびであった。賢者の魔法使いとして選ばれて、ふたり気ままな旅暮らしの日々は終わりを告げたが、ラスティカだけでは教えきれないあたらしい魔法をクロエが覚えて使いこなせるようになったとき。同じくらいの年ごろの魔法使いと友だちになったとき。彼らのための式典の装いを一式作り、気難しいひとに褒められたとき。クロエ。ラスティカではないひとが、親しげに彼の名を呼び、肩を叩き、笑いあっているとき。心底によろこんでいるラスティカの微笑みはあまく、こぼれる声はとろけるようで、やさしい口づけや、丁寧な愛撫の手よりもよほど、こそばゆいものだった。クロエの服はラスティカのためだけのものでなくなった。いまでもいちばんたくさん縫っているのはラスティカの衣装だと言いたいけれど、正直に言えば違っていること、もう分かっている。
��「ごめんね、いつでも一等、すてきなラスティカでいてほしいと思っているけれど。」
一度謝ったら彼はやはり朗らかに笑って、曰く、
 「普段着から夜着までぜんぶ、クロエの服を着ているのは僕だけだろう?」
 などと言いだすので驚いた。花嫁以外のあらゆるすべて、担っても、彼のうしなわれた花嫁でない自分は、いつか彼のものでなくなるのだろうと思っていた。もちろん、ラスティカだって、もし奇跡が起きて再会したら、花嫁さんに返してあげなければならない。クロエの抱くどんな親しさも、どんな愛しさも、熱情も、キスも、ラスティカを、花婿以外の何者にもしない。それは、彼を、彼たらしめ、彼をさいごには破滅させる約束だ。一生にふたつとない! もう交わされてしまった。クロエにはどうしようもない。
 夜中に喉がかわいてそっと覗いたキッチンからは灯りが漏れていた。ずいぶん遅い刻限だ、夜は深く、闇は子どもと大人のあわいに踊るクロエ・コリンズの頬にのぼるわずかな上気をやさしく冷やした。思ったとおりにキッチンの影は、東の国の魔法使い、料理人のネロだった。彼はすこしおどろいた顔をしたけれど、さっと手早く冷たい飲み物を作ってくれた。手際のよさはバーカウンターに佇むシャイロックにも似ていて好ましく、突然のおとないに気を悪くしたふうでもないのが心地よかった。お宅の酒場のマスターさんほど洒落たもんじゃねえけどとネロは言い添えたが、きん、と冷えたきれいな水に、レモンを一滴、二滴垂らしただけのそっけなさが、かえって彼らしい心遣いでうれしかった。シャイロックも頼めばノン・アルコールで飲み物くらい作ってくれるだろうけれど、このくらいの時間でも、不眠の傷にくるしむミスラや、愛する月を眺めるのに忙しいムル、どうも含むところの多くありそうなフィガロ、ほかにも夜が似合いの魔法使いの大人たちの誰か、あるいはみんなが、彼の店を模したカウンターを賑やかしているのに違いない。レモン、グレープフルーツ、パイン。シェイクして静かに注ぐグラスは脚付きの繊細なものがいい。歌うような魔法にかけられて、夢見ることはやめられない、酔ったふりをして隣のひとの袖をひいた夜はいったいいつだったろう。もう、きっと、思い出せないのだ。
 「仕立て屋くん、きちんと襟を閉じたほうがいい。きみの友だちはそんなことできみを軽蔑したりはしないだろうけど」
 クロエはラスティカのかわいい子、花嫁以外のあらゆるすべて。
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jitterbugs-mhyk · 2 years
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魔女の紳士教育 gentle my fair.
 チレッタと云う女。奔放な女だったと云うひともいる。稀代の悪女と罵るひともいる。憎むべき悪魔にして女神と畏れ敬うひともいる。たださみしがりの、少女の夢と暴力を、そのまま固めて女のかたちに整形したような、善い魔女であり、とんでもなく悪い魔女であったと。ひとつだけ確かなことは、彼女は磔刑にかけられることも、火刑に処せられることも、斬首台に載せられることもなしに死んだ。死んだのだ、北の大魔女チレッタ! 花散らし星咲かす、あの空の厄災がうつくしい月なら、チレッタこそが地にある厄災。
 ゆっくりと、歌うように、節をつけて唱えられるそれが、単純に子守り唄でなしに、彼女のとっておきの魔法であること、いまでは確かに知っている。南の大魔女、かつては北にも生きたことのあるという女、伝え聞くだに嵐のようで、子どもたちの記憶に残る印象とは、ずいぶん違っていたものだ。母についてを訊ねられたとき、ルチルは語るべき言葉を持たないし、ミチルにはなおさらだろう。彼女は弟を産み落として石になった。出産が、ありとあらゆる生きものにとって、母と子、両方にとってたいへん困難を伴うものであることは、チレッタの承けた破滅の予言とまるで関連がない。彼女の息子がいずれ南の国の魔法使いを滅ぼす。けして外れない北の双子の予言は重く、はじめに去ったのは、ほかならぬチレッタであった。胎の子を産み落とすことに最後まで反対したのは、ルチルとミチル、チレッタの息子たちが、師と慕う南の魔法使いフィガロ、ふだんは医師として、ふしぎの力に限らずとも大いにひとの助けとなった男で、兄弟を見守りながら、真にミチルが脅威たりえるのなら対処を提案したのは、ひとりきりで羊を追いながら、切りたった険しい山脈の、わずかに拓かれた土地を覆う気持ちばかりの青草から、見渡すかぎりの原から、青々と葉を朝露にひからせる低木のしげみから、南の国の端から端までも寡黙に、辛抱強く、歩いてまわったレノックスだった。深くは語られない彼の、いつか帰るべき家は、ただ思い出の、やわらかく鈍くひかる記憶のなかにだけ。フィガロも、レノックスも、はじめから南にあったひとではない。彼らといまでは撰ばれた魔法使いとして南の国を代表しているのだから皮肉なもの。
 母をむかしから知る男たちは多くあり、彼らはしばしば、チレッタの奔放さや、悪びれたそぶりもない、無垢ゆえに、無邪気ゆえに、なにより残酷でうつくしいさまに、くらくらと酩酊させられてきたものだった。男はみぃんな���マを愛したわ! 目を瞠るような宝石のたぐいや、精緻のきわみをこれでもかと具現したレース、刺繍、幾重にも重ねられたフリル、足捌きのすべてと、あるいは不埒者の靴音さえも覆い隠すドレープをたっぷりとったドレス。チレッタはうつくしかった、うるわしかった、はなやかだった! 彼女が生きられるはずもなかった、善き魔女たちがそうするようには。
 南の国でひとの妻となり、母となり、純朴なひとびとに囲まれて、毎日を歌い暮らしても、彼女の本質はやはり北の国にあったし、いまだ開拓しつくされたとは言えない荒地や、灌漑を待つ干潟や、荷車の一台だって通れやしない細すぎる山道や、どこまでも見渡すかぎりに広がって、ふつりと途切れる地平線までなにひとつ視界を妨げるもののない原、ひとの手の、足の及ばない地は、雪に降りこめられ、吐息ひとつにも難儀する、北の大雪原にも、あるいは等しいものだった。吹き荒ぶ雪原のさなかに眠れば死ぬけれど、だだっぴろい草原のさなかに死はない、それだけ。
 晩年のチレッタを、訪ねてくるふるい友人は、ひとも、魔法使いも、ときには魔獣も、あったけれども、彼らの悉く口を揃えて、彼女の変貌ぶりに驚いて、数分ののちには彼女の本質を見出して安堵したものだった。コットンの質素なドレスを着て、エプロンにはどうしても取れない真っ赤な果実の染み、歌いながら鍋を混ぜて、ただありふれた幸せのうえにしどけなく寝そべった稀代の魔女は、シュガーひとさじも残さず消えた。
 ねえ、ルチル。ねえ、ミスラ。
 あなた紳士でなくっちゃいやよ。
 あんた悪党になんなきゃだめよ。
 誠実で。嘘つきで。親切で。気まぐれで。
 やさしくて。つめたくて。
 とっておきの紳士でいてちょうだい。
 国いちばんの悪党におなりなさいな。
 ねえ、あなた、わたしの最愛の息子よ。
 そう、あんた、わたしの最高の息子ね。
 言って笑うチレッタの、紅を差したくちびるは完璧な弓張月。誰よりしたたかで、誰より無防備で、少女らしく、老獪な女の手管をすべて、知っていた。そんな母はこの世を去り、いまではルチルも、世界がやさしいばかりで形作られていないと痛いほど分かっている。耳当たりのやわらかい、丁寧な物言いなら、必ずしも好意を伴うものでないとも。ひとはほほえんで嘘をつくし、魔法使いでない彼らには、果たされない、不誠実な約束がたくさんある。けれども、そうしてなお、ルチルは、やさしさを撰びとって、生きていたいと思うのだ。
 男はみぃんなママを愛したわ! だけど愛された男はあなたをおいて他にはないの。母という生きものは、しばしば息子の、いちばんはじめの恋人だ。ルチル、南の国の魔法使い、いまや息子たちを守るのは偉大なる母の愛ではない。運命だ、束縛だ、約束だ、支配だ! 髑髏をたずさえた、背の高い男が肩をすくめる。チレッタ、母さま、あなたの紳士教育は、ルチルをすてきな大人にするでしょう。石になった母を食べる権利は、誰にも譲りたくない。
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jitterbugs-mhyk · 2 years
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さよならさんかくまたきてしかく hello,good-bye,see you later.
 かれ、すなわち、東の国の偏屈、人を呪い世を疎む、庵の隠者、善いたましいの子どもたちには祝福を、悪いはらわたの大人たちには呪詛をもたらすファウスト先生、ずいぶん長く生きてはいるが、しかし人間ぎらいのほかに、魔法使いらしい陰湿さを備えない男に、やさしさというものを付与(enchanted)したのは、実際のところ、寄る辺のないさみしさの、無限の夜の底で、微睡むことさえできずにいる過去の亡霊、墓石の下の憤ろしさの、風に散らされた手向けの花の、無数のかそけき輝きなのだった。つよいものがなべて! 支配者、君臨者として立つのではない。風もない夜にたなびく旗印のすべて、誇り高く高潔に、掲げられたのではない。
 灯火はいつでも明るいというわけにはいかないが、けれど、さみしさは胸の底に積み重なっていつでも取り出して眺めることができる。火を灯しつづけるには、燃やすべき油が必要だが、心のなかの、感情のはしりは、時がすぎて、忘れたころにいま一度燃えあがるものだ。いつも、いつまでも、あの日を忘れない。あの火を、あの碑を、あの悲を、思い出すまでもなく、毎晩のようにゆめにみる。ただみているだけだ。伸ばした手は届かず、喉はひりついて声にもならず、影を縫い止められたよう、一歩も進めはしない。なべて過ぎ去った日のことだ。そうして、魔法使いたる我々は長くを生きるが、旗を振った手で松明を掲げ、城砦のぐるりをめぐった足で刑場の土を踏み鳴らした人々は、血を継ぎはしても意思を継がず、記憶は潰えて、まことしやかに語られる伝承だけが、あるじなき影のように揺蕩っている。
 ここまでにしよう、疲労困憊でへとへと、といった体の若い魔法使いの姿を見咎めてかファウストが言って、本当はとうに限界を超えていたであろうシノ、シャーウッドの森の番人、森のこども、みなしごのかれは家名を持たないが、文字どおりに生まれて育ち、このさきもかれの、ゆりかごであり、家であり、墓でありつづけるであろう森の矜恃のためにけしてつかない膝を、わずかにゆるめた。かれは力ある魔法使いで、自信にあふれ、強靭で豪胆なところがあるが、ゆえに危うい。いつだってシノはシノ自身ではないもののために、膝をつくことができないのだ。それも間もなく終わりを告げることだろう、ヒースクリフ・ブランシェット、かれのあるじ、かれのかけがえのない友人は、ひどく優しく臆病で、ためらいにそのうつくしい横顔、まなざしを、揺らしていたけれど、近ごろはわずかに、かれ本来のするどさ、知性のひらめき、芯のつよさを、のぞかせるようになった。これを言えばヒースクリフは謙遜して、すべて先生に教わったことです、と微笑むだろうが、かれ自身にもまだ気づかれていない、誰に教えられるともなく、ヒースクリフ自身をして獲得した強さが、確かにその片鱗を覗かせはじめていた。
 先生役なんてまるきり不似合いだよ、とファウストは嘯くが、けして、不釣り合いだよとは口にしない。ひとを教え、ひとを鍛え、ひとの前にたち、かれらを導き、また導かれながら生きた日々は、もう夢の中にしかない古い記憶であるけれど、しかし夢は毎晩に、あらゆるひとに訪れる。ひとりの暮らしは静かで、満たされていて、ゆえにあまりに、幸福だった。魔法はファウストを生かしたけれど、けして救いはしなかった。戦乱は遠くさり、いまは平穏の時代だけれど、魔法使いに産まれたことを、恥じいるように、愛されて育った少年が、両親を不幸にしたと睫毛を伏せるさまに、心が揺れる。しかし、シノが英雄たりえるように、ヒースクリフは間違いなく、善い魔法使いとして、しなやかでつよく、なるのに違いない。これからのかれらの日々に、孤独に癒しを求めるような、厭世の日は、来るべきでないのだから。
 ねぎらいの言葉をかけ、少年たちが律儀に礼を述べるのをみる。ファウストの、指導者としての姿に歓びを抱くのはかつての部下のレノックスで、義理などかなぐり捨ててしまえと思いはすれども無下にあしらうにも躊躇われてこそばゆい。過去は過去で、それは必ずしも未来と地続きでないのだけれど、泥濘む土を、靴の汚れも気にせずに踏み、下生えの草を払い、鬱蒼としげる枝を落として歩き、ファウストを探し続けたという男には、辿り着けない場所などないのかもしれなかった。たとえ途方もない夢の、いつか願い、焚き火を囲んで語り合った青い理想であったとしても。そういうところがかれの美点で、どうしようもなく、愚鈍な部分でもあろう。口下手で言葉少なく、愛想がないうえにただでさえ身体の大きなかれには、たたずむだけで威圧の気配がある。背を預けるにこれほどに頼もしい男もないが、鍛え抜かれた屈強な戦士たち、歴戦の騎士たちのなかにも見劣りしないレノックスが、しかし魔法使いであることは、四百年の歳月を経てなお変わらぬ姿が如実に示した。例外はあれど、魔法使いはその力のもっとも高まったときに時をとめる。驚くほどにかれが変わらずにいられたのは、かれの魔法や、身体の強さのゆえだけでないと、再会してとみに思う。隠遁し、世を疎み、ひとを恨み、顔を隠すと同時に世界をたそがれに塗りつぶす色眼鏡をかけて暮らしてきたファウストなどを、かれは慕うべきでない。もはやレノックスのそれは、子どもが親の後を追う刷り込みのようだった。
 思い出はただうつくしい。顛末はけして幸福なものではなかったし、のみならず、吊るされ、架けられ、火あぶりにされた日の夢は、いまだにファウストを苦しめるが、それでもなお、穏やかに語り合った日々はすばらしかったし、ひとを率い、誰からも愛されて、どこまでもひたすらに昇っていく親友が信じているのがなんだかおかしかった、すべてを片づけたらきっと生まれ故郷にもどり、嫁をもらい子を成して、ふつうの一生を終えることができると。そんな親友の肖像はいま、あの荘厳なグランヴェル城の王の間に、初代国王として飾られている。かれに寄り添った魔法使いの親友の処刑の事実は闇に葬られ、ただ伝承のなかに、革命に尽力した善き魔法使いとして刻まれているというのだから皮肉なものだ。人違いだ、繰り返してファウストは言うが、伝承を紐解けば紐解くほど、そのひとはファウスト自身とかけ離れた人格であるように、思われてならない。いくらかいまより青かったのは認めよう。初代国王が、故郷の小さな村での穏やかな暮らしを夢見ていたのと同じくらい、ファウストにもふわふわと浮世離れした理想があった。なにもかもが叶うとは思わなかったが、少なくとも、自分ではないものに名を奪われて、姿も、何もかも、失うとは。
 もうなにものにもなれないぼくらに、子どもたちはなるべきではない。ヒースクリフ、シノ、東の国の若い魔法使いたち、かれらはしばしば若すぎて、衝突は日常茶飯事、国に帰り、家に戻れば主従の間柄というふたりは、それ以上の紐帯を結びつつあった。すなわち、友情である。互いが互いに誇りに思えるような、大人からみたら微笑ましくさえあるささいなすれ違いや、意見の相違をこえて、かれらはかけがえのない友になるだろう。その友情にヒビが入らないことを、お節介にも祈るが、かれらの間には言葉があり、世話焼きで面倒見のよい年長者がおり、故郷にあれば邸宅と森番の小屋とに隔てられるかれらの寝床は、なんとこの魔法舎にあれば隣のドアなのだ。距離がすべての感情を担保してくれるとは言うまいが、くたびれた肩を叩きあって着く帰路の、分岐は極力、すくないにかぎる。
 「おつかれさん」
 「まだいたのか」
 「ひでー言い草」
 「いやすまない」
 言って肩をすくめる青年は、おなじく東の国の魔法使いとして招集されたネロだった。若い魔法使いたちの訓練につきあって、かれもまたくたびれているだろうが、そこは年長者らしく微笑むくらいの余裕はあるらしい。詳しく尋ねたことはないが、どうやらファウストよりも年長なのは間違いない。魔法は心で使うもの。かれは自分をたいしたことのない魔法使いだと揶揄するが、長く生きるということは、日々に心を乱しすぎずに、自分を律するということだ。力に振り回され、心に振り回され、若くして石になる魔法使いなどいくらでもいる。その意味では、魔法舎での暮らし、むかしの因縁や、あたらしく結ばれる絆やらは、かれらにとって、甘い蜜の猛毒でもあった。人と過ごすなら衝突は避けられない。一年分の会話を一日でこなすなら、ここで一年暮らすだけで、四百年の孤独を、ほとんど塗りかえることになるだろう。
 他意なくつむいだままの言葉は、むきだしのナイフのようにやさしい他人のはらわたに突き立って透明な血を流させる。革命に血はつきものだ、だれも傷つけられないままに世界が塗り変わるはずがないと、はじめに力を持ち出したのは誰だろう。振り上げた拳は、抜き去った剣は、いつだって行き場をなくしている。孤独はファウスト・ラウィーニアというひとと、自分を出逢わせてくれはしたが、愛は鏡、愛は欺瞞、愛は孤独、素顔を知れば知るほど、ファウストというひとが分からなくなった。かれは偏屈で人間ぎらい、猫が好き。棲家は東の国の嵐の谷、いつしかかれの棲みつくところ、誰が呼んだか呪いの谷。呪いの魔法を生業とする男が暮らすのだからしごく当然の呼び名だ。不名誉であるとすれば谷にたゆたう精霊たちだろうが、どうもかれらに自分は相当気にいられている。
 口では不平を述べながらさほど傷ついたふうでもないネロは、好物の薄く伸ばして焼いたガレットに、アイスクリームを載せてやろうか、といたずらに笑う。からかっているのかと思ったけれどどうやら真剣だったらしい。流れに流れていまは東、ファウストがそうだったように、料理人、ネロ・ターナーもかつてはほかの国に根を下ろしていたという。東の国はかならずしも、ぼくたち魔法使いにとって暮らしやすい土地ではない。人々の多くは魔法使いを恐れ、街に敷かれた法典は厳密、弾圧は時代遅れだと憤慨してくれたのは中央の国の王子だったか。あの裔はどうにも清廉潔白な、あまりに真摯でありすぎ、ただしさのゆえに折れかねんと、思ったままに四百年の月日がすぎた。どうやらかの王家はいまだ健在であるらしい。何代を数えたものか定かでないが、正統に血を継ぎながら四百年の平穏は、かつてみた夢の続きなのかもしれなかった。そこにファウストはいなかったが、いまではすっかり東の国の水が身体に合っている。
 「大丈夫だよ、僕は大人だし」
 「褒められるのは子どもたちだけか? 先生」
 「僕に甘えようとするな」
 「そういう意味じゃなかったんだけど……。あんただって立派に先生をしてるだろ、褒められて、労われたっていいんじゃないか?」
 ネロがとくべつにファウストにやさしいのでなくて、かれは元来やさしい人格なのだ、と、いまほど言い聞かせる夜はないだろう。恨み深くて根にもつ陰険な人格だなんてネロは言うけれど、かれは寂しいのがきらいだ。ずっとひとりで生きてきたから気楽だけれど、あの魔法使いには生きづらい東の国の首都に店を構えて数年、姿のかわらないさまに魔法使いであることを疑われるまえに逃げるように場所を変える、そんな生き方は呪いの依頼のほかにおとないのない谷の暮らしとどれほど違うというのだろう。したしい友人のひとりも持てず、伴侶なんてもってのほか、家族もなくて、それでも、ひとのなかにまぎれていたい。あるいは水と油、まるで別物であることを目の当たりにして、大勢のなかで孤独を知っていたのが、ネロ・ターナーという男だったのだろう。料理人としての腕はたしかで、粗野な口をきくくせに繊細な飾り切りなど瞬く間にこさえてしまう。器用なものだな、ナイフをつかう手元をみて単純に感心してみせるとわずかに言葉につまっていたように思うのは、あるいは照れていたのだろうか。
 「……僕を、甘やかそうと、するな」
 「はは、素直じゃない! あんたを好きなやつは苦労するな」
 そんなやつはいないよ、喉まで出かかった言葉を呑み込んだのは寸でのところ、色のない、温度のない、深い意味のない軽口を、どうして聞き流せないのか、もう分かっている。苦労ばかり抱え込むのが好きなやつなのだ、このあたらしい友だち、魔法で作れば呪文ひとつの夕餉を、ひとつひとつ下拵えからていねいにやりたがるネロ・ターナーという男。褒められたいなんてゆめゆめ思ったことがない、ましてや甘やかされたいなんて、それだのにネロにかかっては、さしもの��ァウスト先生もかたなしである。抱きしめあうでもなくて、囁く愛の言葉もなくて、もちろん、魔法も。キスをするとしたら額にひとつでほかにはいらない。もうなにものにもなれないぼくらは、長く生きた大人であるはずなのに、ファウストの魔道具は手に馴染んだ鏡、玻璃のおもてに張られた白銀、覗きこめば寄る辺のない、子どもの顔が映っている。ネロの手元でひるがえるカトラリーの銀にもきっと同じものが。ぼくたちはただひと匙の孤独を分け合って、やすらいで眠ることができるだろう。いまはまだ、お節介な隣人のふりをして。
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