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#精神保健福祉士勉強中
kayajoe · 1 year
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【精神保健福祉士養成課程を卒業】 1年7カ月の課程を修了しました。 レポート課題がとにかく重厚だった…。 早くに取り組んでも、結局締め切り当日に仕上がりました。 博士論文と実験と並行してたので、問答無用で地獄です。 鼻血を出しながら寝落ちしてたこともありました(笑) 残りは国家試験のみ!! ★★Dear International Citizens★★ I graduated from the Mental Health Worker Training Program. As of October 31, I completed the one year and seven month course. The report assignment was just massive.... Even though I worked on it early, I ended up finishing it on the day it was due. I was concurrently working on my doctoral dissertation and experiments, so it was hell without question. I even fell asleep with a nosebleed, lol. The only thing left to do is the national exam!!! In Japan, there is a professional qualification for welfare, called Mental Health Worker, which is specialized in the field of psychiatry. It is established as a national qualification and requires a very high level of expertise. Once I obtain my doctorate, I will retire from nursing. However, I will continue to pursue medical research and explore how nurses, licensed psychologists, and mental health workers can play an active role in medical research. -- #精神保健福祉士 #精神保健福祉士勉強中 #精神保健福祉士目指してます #精神保健福祉士目指してる方と繋がりたい #卒業証書 #卒業証書授与 #graduation #diploma https://www.instagram.com/p/CkdjcKWP-VM/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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manganjiiji · 3 months
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ドゥーイット・トゥーランドット
体力の回復に多大な時間がかかる。1回4時間の勤務で、往復2時間。乗り換えでまあまあ歩くのと立ち仕事なのとで、完全に寝たきりだった体が悲鳴を上げる道理はよくわかる。12月、用事のない日はひたすら寝ていて、ほとんど無事な日がなかった。1月に慣らし勤務のような感じで週2程度入れてもらったのがちょうどよく、ありがたかった。たまたまだが。今では8時間勤務の肉体労働のあとに、6時間以上ヒールで立ち仕事をしていたなんて完全に狂っていたと思う。そりゃ再起不能になります。今はさらに加齢したし、体重も重くなったので、体は愈々弱っている。もう立ち仕事(本屋)をやめなよ、と友人も言ってくれたことがあるのだが、だめだ、どうしても、本屋しか続かない。しかも本屋の中でも下っ端の下っ端で、とにかく高校生でも余裕そうな単純労働しかしていない。でもそれくらいのプレッシャーじゃないとすぐ病気が悪化するため、なにか根本的にどうにもならないものを感じている(そんな人間いる?!という感じだが、いるのである)。正社員に憧れた時代もあったが、結局はバイトリーダー的な階級でさえも仕事を回せなくて潰れた。無能なのだ。というより、体力が追いつかない。今考えれば、バイトリーダー的な立場の時は、どちらもバイトを掛け持ちしており、どちらも13時間以上働いていた時だった。もしかしたら、掛け持ちしなければ「ちょっと腕のいいバイト」くらいにはなれるのだろうか。もうこの歳でなってもおまえ…という感じだが、私は人間の年齢と性別をかなりどうでもいいと考えているので、まあ、心配なのは加齢による体力低下をどこまで抑えられるかということだ。ずっと本屋で働くということはできないが、この数年は本屋で働く。その間やはり通信制の大学に通って、精神保健福祉士と社会福祉士の受験資格を得たいと思う。あまり人生の時間がなくなってきた。先月誕生日を迎えたことで、もう自分に残された時間が少ないことを思う。この手足が、すでにかなり制約が多いが、それでも何とか動くのはあと20年もないと思う。そのあいだにこの世界に対してできることをやっておかなければ。現代思想や哲学を独学しながら福祉の勉強も、となるとどこまでできるのか自信がないが(わずかでもいいから英語の勉強も続けたい、やらないと忘れていくので)福祉職に転じるにしろ、福祉社会学を学ぶにしろ、早い方がいい。体力の無さが本当にネックになってくる。加えて小説も書きたい。ここでキャパオーバーになる。時間と体力をもう少し、どうにか融通したい。やりたいことが多すぎる。歌のレッスンもやめたくないし、楽器も吹きたい。そんな。そんな何もかもをできるわけがないのに、欲望は果てしない。でもやはり、将来を考えた場合、福祉の国家資格は早く取りたい、というか、その勉強をして早く知識を深めたい。まあ、現代思想は実学のあとにゆっくりやってもいいしな。ただ、小説はそうもいかない。これも急ぎたい。早く書かなければどんどん書かなくなって書けなくなる。今せっかく書き始められているので、このまま、頭を小説のモードにしたままスイッチを切りたくない。人間にできることなんて結局一つなのに、私はこの人よりだいぶ自由度の低い体をひきずって、いつまで夢を見るのだろう。どれか一つを選べと言われて、捨てられるのか。本屋を、学問を、福祉を、小説を。歌と楽器は気晴らし程度にできる気がする。でも小説だけは捨てられない。学問も結局は根幹で福祉と結びついている。本屋はやめられるとしても、いつまでも私は本屋のバイトの上の方だったり、正社員に準じる立場だったり、正社員を夢見るんだろうなあと思う。夢が叶わないからいつまでも夢を見ている。あっでも、諦められたというか、もうしなくてもいいかなと思えるものに、塾の講師がある。勉強を教えるのはもう本当に終わりでいいかなと思う。本屋も終わりにするはずだったが、結局終われていない。だって本屋って本当に楽しいんだもんな…出勤は遊園地に行くのと同じことだし、ふつうに考えて遊園地より楽しい。歌もまあ、なくても困らない程度には行動に現れなくなってきた(体力が落ちているせいもあるので、歌と楽器で体力を取り戻していきたいという気持ちもある)。最後に残るのはやはり福祉(ケア)と小説だろうか。こればかりは体が勝手に動きやめられない。小説に関してはかなりもう、意地!という感慨がある。まだまだいい小説が、自分はもっといい小説が書けるはずだと思っているし、書いても書いてもまだ足りなくて、満足するということがない。福祉職に関しては、これで現場に立って実際に意味のある支援をしたいというのと(今まで私費を投じて精神疾患者の友人たちを世話することを自然にしていたのだが、それは仕事にするべきだと思った)、世の現実をもっと知り、実際に世界を変えたいという欲望が強い。そのために小説ももっと書けるようになっている必要がある。まあ、「能力の高い書店員」になることはなかなか難しいでしょう。この夢はここで破れた、ということにしてもいい。社会人としての土台となる体力がないのだから、難しいですね。本屋は人員削減の急先鋒だし。は〜〜、20kg痩せて筋肉がついたら何もかも解決しないかな。筋肉をつけよう。
2024.2.8
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syupii · 2 years
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イクイク病になった私が半生を振り返る
 番外編。
思えば私は昔からメンヘラな人に好かれる人生だった。
 私は場面緘黙症のような症状のため人前で全然話せない子だった。幼稚園の頃から人をいじめる男子に追いかけ回されたり、小学生時代は変質者に男性器を見せられたり、中学時代はDV被害者の男子に求婚されて断ったら痴漢されたり、また自転車に乗ってる別の変質者に痴漢されたり。デブスでも痴漢されることってあるのかと驚いた。小学生時代は女子からも男子からもいじめられて人間不信になりストレスからの過食で太った。小6の時は教室に入れなくなり別室登校してた。
 中学生時代は自己紹介に失敗して教室に入れなくなった。不登校と別室登校してて特別支援学級に一時的にお世話になってた時は、メンヘラな後輩女子に抱きつかれたり、メンヘラな先輩女子から奢らされた挙句にそのDV男子との痴話喧嘩に付き合わされたり、いつしか人付き合いと恋愛が苦手になった。
 ガールズトークの恋バナはもっと苦手。おまえらどんだけ恋愛脳なんだ。芸能ニュースといい、それしか無いのか。後、人の悪口が多すぎ。現状を嘆くだけじゃなく自分も努力したほうがいいよ。学生の本分は勉強だろと憤りを覚えた。
 私が発達障害のためいろいろアレすぎて男子から避けられる。女子は表向きは優しくしてくれる。いつの間にか恋愛対象が二次元美少女になっててレズになってた。ジャニーズやイケメン俳優には全く興味が無かった。グラビアアイドルやAV女優が大好きだった。男性恐怖症になって一時期はミサンドリー化してた。高校は女子校に通ってたくらい。女子校はマジで出会いが無い。強いていうなら文化祭くらい。先生はおじさんだし既婚者ばかり。独身と思われる雰囲気イケメンの先生が人気だった。残念ながらアニメにありがちなイケメン女子はいなかった。ボーイッシュな子や可愛い子はいたけど正直ぶっちゃけ共学の子のほうが圧倒的に可愛い。私と同じように男性恐怖症の子もいた。
 大学生時代は、福祉系の大学だったからみんな優しい人ばかりだった。
性格が悪いぼっち男子にマウントを取られ、他の人が迷惑してるのに自分の非を認めなかったので、ついブチギレてしまった。私はコミュ障ぼっちだがしょうもない人とはつるみたくない。それなら一生一人のほうが遥かにマシだ。
 リア充のイケメン男子に優しくされて惚れそうになった。男に免疫が無さすぎてちょっと優しくされると惚れそうになっちゃう。その男子は性格の良いギャルとリア充カップルになってた。末永くお幸せに。
 授業でメガネ男子に褒められて惚れかけた。社交辞令なのに。私は男性のメガネフェチだからイケメンでもチー牛顔でも全然イケる。むしろイケメンや美女だと余計に緊張してしまう。その人を見る度に子宮がキュンキュンしてた。授業中、いつも一番前の席に座ってたからバレないか心配だった。その人には可愛い彼女ができたため諦めたらその症状が無くなった。
 大学4年の頃、LINEのノートでメンヘラってたらなぜか真面目なコミュ強女子に誘われてリア充グループに仲間入りできた。その日から半ぼっち半ソロ充の不思議な生活が始まった。場面緘黙症のような症状が大幅に緩和されて普通にしゃべれるようになってきた。勉強仲間ができて人生で1番楽しかった。そのグループの男子に優しくされて惚れかけた。胸のトキメキが止められず好き避けしてしまった。自分が自分じゃなくなるみたいで怖い… その男子は「シュピーちゃんは純粋だから」なんて言ってたけど、「私はあなたのことを見て勝手に感じちゃう変態なんです!!」と心の中で思っていた。私は好きになった人がタイプ。容姿はそんなに気にしない。ただ、その人は人が良すぎてセルフネグレクト気味なのが気になるかな。唇が荒れてて髭がボーボーだった。人が良すぎるのも考えものね。その人は他の女子(美人)が狙ってた。私は身を引くことにした。この2人が付き合ったのか気になる。私は勉強に打ち込んで精神保健福祉士の国家試験に合格した。社会福祉士は落としてしまったがニート期間中に勉強して再チャレンジして合格できた。この頃にはレズ寄りのバイになってジャニーズやイケメン俳優が素直にカッコいいと感じられるようになった。この頃は2010年くらいからAKB48グループのオタクになって女性アイドルにどハマりしてた。
 就職後の話は恋愛と関係ないので割愛。今の職場(休職中)では同期で年下の知的障害の男性に惚れられている。いつも隣に座ってきて私に一方的に話しかけてくる。私を姫扱いし、独り言で私の名前をよく叫び、YouTubeの動画やネットで拾った画像をよく私に見せてくる。私が泣いていた時にそばで励ましてくれた優しい人だ。この人はどうしても恋愛対象に見られない。年下だから私には可愛い弟のように感じられるのだ。好きになってくれたのは嬉しいけどあなたにはもっとふさわしい人がいる。若くて可愛い女の子はいっぱいいる。私はフることができなかった。適応障害になったため別れを告げずに職場を去る予定だ。好きになってくれて、ありがとう。
 現在。まさか私が44歳のメタボの自称冴えないオッサンの男性に惚れるとは思わなかった。ポリアモリー派で結婚しない主義の人だから諦めた。セックスの達人ってすごいね。私はモノガミーもポリアモリーもいけそう。まあ、相手によるかな。今は恋の病を治すことに専念している。
(2021/11/18時点)
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wearethekuuchann · 4 years
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『おいしい話には気を付けろ!!!!!!!!』・・・体験からのメッセージ
 このタイトルの言葉は、私が経験した事、習った事、本当の意味で次の世代に伝えるべき事、世の中の事について皆様の心に訴えていきたいと思います。
 これは、私が『ガチョーン!!!!!!!!!』と、騙され、一瞬にして血の気が引いて、『絶望感』に浸った時の教訓ですので、今回は申し訳ございませんが精神障害者向けの文章ではございません。一般市民用に向けた文章にしたいと思われます。何故かと申しますと、私がまだ精神科にかかる前の話であり、(勿論ですが『ブチ』と3回切れた経験の後ですが)当時学生相談室(カウンセリング)に通室時代で、大学院を目指してた1987~1988年の自粛ムードで最低ブームの事ですので、精神障害者の方々にとってこの文章を書く事をお許しください。
 私が大学3年生の時1987年12月に行われた英語劇祭(大会)で、特別(大道具ーー私の担当ーー)賞が取れて、次の日学校内で各部署課に、受賞報告に行きその年度最後のミーティングを開き、部長兼主幹の座を後輩に譲り引き継いだ後の事です。やっと上役の肩の荷が降りて気分が少し楽になり、学校の単位とアルバイトと大学院受験勉強のみだ、と思ってました。今までその年の後期、授業に出席出来たのは、演習(研究指導・ゼミナール)と英語5の出席必修だけでした。標準として1年に6回(70%)(前期3回・後期3回)だけでしか休めませんでした。又公欠も認められませんでした。私が履修した英語5の先生は、悲惨な先生で1年間いじめられて鍛えられました。この先生は、前期1回、後期1回しか欠席できませんでした。教室では、学生が国会か都道府県か市区町村かわからないが、議員みたいに立て看板毎回毎回必須の先生でした。部活が忙しい時の確か9月ぐらいに先生ともう一人の先生が、食堂の隣の喫茶コーナーにおられたので、直接先生に「先生、部活が忙しいので授業にあまり出られないのですが。⁉」と言いに行くと、先生は『部長を呼んで来い。!!!!!!!」と言われ、私がそのまま立っていると、『お前が部長か???❕」と言われ、「単位(今年のこの科目)は諦めろ!!!」と言われ、粘って立っていると、もう一人の先生が「この部活動って去年優勝したそうですよ!!!!!!!」助言が入り、先生は「何、お前達が優勝した?????」そして「よし1回だけ休ませてやる!!!!!!!それ以外はダメ❕」という事で、その場を去った。私も大道具作りに忙しく授業に出たのは、火曜日の3時限目は仕方なく出席、木曜日の4時限目は時々欠席(1年間に6回まで)、学生相談室(カウンセリング)は、大体覚えている時、ぐらいでアルバイトしてる暇もなかった。私の一日の時間割は、夕方5時から朝の5時まで大道具作り、5時から11時ぐらいまで毛布1枚持参して部室で就寝、11時に目が覚めたら学食で朝昼兼用の食事、12時半から授業等以外は、あるホームセンターまで買い出しに公共交通機関で一人で行く。バスも乗り換えないとホームセンターに着けないし、途中で降車しないと金が下せない。時には紙屋や布屋までに行くのに都心部まで買い出しに行った。お風呂だの歯みがきだの更衣だのしている暇は無い。ひたすら大道具作りに必死だった。フェスティバル(大会)まで間に合わせる事で必死だった。一通り出来上がったのは、約1週間前だった。それまでは、一人の先輩だけ時々手伝って下さったが、出来上がってから、色々な先輩方が修正を手伝って下さった。完全に出来上がったのは、公演前の前日であった。その日は一睡もする余裕がなかった。それでも他人は、私を健常者扱いされた。唯一幸運な事だったのは、天気が殆ど晴れていて尚且つ、1987年は秋から冬にかけて暖冬だった事だけだ。運搬費は全て私持ちで先輩方が運転してくれた。全然段取りもさっぱり解らず、行動が静止したり頭も働かなかったので、事実上先輩達に、おんぶにだっこになってしまった。ある県の僻地の山の上から、都心部の会場まで運ぶ事については、全く想像できなかった。先輩に「ここの扉の鍵締めといてな~。」と言われ、そこだけ施錠し、会場に向かった。3往復するはずのトラックが、2往復目で中々着かなかった。土曜日の夜に劇場搬入の予定だったが、一部しか搬入出来ず、公演出来るかどうか崖っぷちの窮地に追い詰められた。主催者の大道具担当の方が、「やっぱり心配してた通りになった。どうなるのかなあ。」定刻になったので、私達のメンバーは外に追い出された。ひたすらトラックを待っていた。それまでに全員分のほか弁買い出しに行き、30分ぐらい待って、自腹切って買って(去年のフェスティバルの時は先輩方が自腹を切ったので)トラックを待っていた。やっと着いたと思ったら、『ガチョーン!!!!!!!』「バカヤロー」と、大声と名指しで度が過ぎる程怒られた。何故怒られたかというと、『ガチョーン!!!!!!!』大道具作りした場所の、電気の消灯も場所の鍵も施錠も忘れていたのだ。私が悪いとしか言いようがないのだ。『ガチョーン!!!!!!!』としか言いようがないのであった。寺の合宿所に行き、度が過ぎる程コテンパに夜中まで怒られた。次の日、6時頃目が覚めて、後片付けして、寺に宿泊代金を納めて会場に急いだ。会場に着いて、委員会はもう扉を開けてくれないかなと思ったら、9時5分ぐらいに裏の扉を開けてくれたので、大道具を何とか搬入出来た。本番公演までギリギリ設置出来たので、公演そのものは、成立したのだが、出演者とっては、『ガチョーン!!!!!!!!』大変申し訳ない事をしてしまった。大道具入りは、彼らにとってぶっつけ本番をさせてしまった。当部長としては『ガチョーン!!!!!!!!』ごめんなさい。!!!!!!!!公演終わり、搬出し、ロビーに行くと、休部してた部員が来てくれた。合同夏合宿のメンバーの女子から花束をくれた。ただ私は、「有難う。❕だけど今、滅茶苦茶忙しいので、後で頂くよ。今ちょっとごめんね。」と言って、ロビーを後にして、慌ててトラックに乗り込み、大道具を積んで僻地の山の上学校まで戻った。そして出来る限り解体作業をした。解体出来ない壁は、部室近くの廊下に置かさせてもらい、後日、管財課に頼んで、倉庫に保管させてもらうように考えた。そして1日飲まず食わずで、トラックに乗り込み、閉会式の会場に向かった。『ガチョーン!!!!!!!!』トラックの中で思い出した。会計担当から預かったお金入り財布(何万円何千円単位)の入った手提げバッグを舞台の下手に置き忘れたままだ、と気付き先輩に言わずに会場に着いた。着いたら着いたで、また別の事で『ガチョーン!!!!!!!!』先程述べた合同夏合宿のメンバーの部長から「あの子泣いてるよ!!!!!!!!貴方が逃げて別の女の人から花束をもらい会場から逃げたのではないか???」と、言われ私は、「後で行ってちゃんと話す」と、部長同士約束した。これは、『ダブルガチョーン!!!!!!!!』を私は、食らった。でもまず自分の手提げバッグを探しに、舞台の下手に公演の邪魔にならない様にして公演と公演の間を狙って、下手に行った。私の手提げバッグは、下手の床に放ってあった。私は、それを拾い上手に行き、そして財布があるかどうか確かめた。序に中身も確かめた。結果1円も盗られていなかった。先ずは『ホッ!!!!!!!』。確認出来たらあの子のところまで探して行った。そしてあの子に「今朝はごめんね。!!!!!!!貴女の部長様から聞いたよ。あれから学校に帰って大道具を潰して片付けていたの!!!!!!!別に貴女の気持ちを踏み躙った訳ではないよ。ごめんね。誤解しないで欲しい。」と、言うと「こちらこそごめんね。」と言われたので、「では私は、自分の学校の仲間の戻るよ。本当にごめんね。」と言って、学校の仲間の席に行き着席した。密かに『ホッ!!!!!!!」と、してたらある先輩が、「今年は寂しいな~賞も何も来ないのか~」「おい❕お前の時代だけだぞ~賞も何もないのは~」と、別の先輩は言った。閉会式が、始まる。その前に客席で、連盟長に堂々と睨まれた。無視して客席に行き着席してた。入賞(優勝、準優勝、3位、特別賞、大衆賞、最優秀男優(女優)賞)の受賞の対象で、去年からノミネート制だったが、今年は、特別賞と大衆賞は、ノミネートせずに発表された。その特別賞のうち、審査員の一人の方が、「この賞の理由は壁が良かった学校にこれらの特別賞の一つを与えます。」と英語で言われ、私達の作品名と学校名が英語で告げられた。受賞つまり入賞したのであった。どの学校も入賞したら大きく喜んでいたのだが、私の学校はタイミング的には、絶句状態であった。私も『マジか???疲れた❕』と思い、審査員もびっくりしたが、すぐ演出担当が「やったー!』と叫び、やっと自分も「やった!やった!やったー!」と言えて、「行こ!行こ!行こう!!!!!!!」誘い叫んで、舞台の上で5人ぐらいいて、私が「やった!やった!やったー!」と舞台の上で叫んでいると、舞台下手の委員長と副委員長3人の4人に睨み付けられ、この委員長が「持って行けー!!!!!!!!」と怒鳴っていたのだ。こんな委員長はいらない、と、無視して上手の審査員は、拍手してた。私は、特別賞の小さなトロフィーを受け取り、他のメンバーは、賞状や、副賞を受け取った。嬉しかったけど、疲れの方が大きかった。先輩から「おめでとう❕。お前の賞や~」たり、他校の部長様や部員様からも「おめでとう❕」「おめでとうございます。❕」と言われたりしたけれど、私は、あまりにも疲れてたので、頭は何とか下げたが、「有難う。」の声が出なかった。外に出て打ち上げコンパの企画を、前部長がしてくれたので、彼が「おい、お前明日の夜の定時にどこそこな。報告会しておけよ。」と言われ、私は、「明日の昼の定時に部室集合!!!!!!!!」と言った。次の日昼の定時に部室集合して、大道具作りしたホールを皆で掃除したり、預り金から1年生優先で領収書と現金を引き換えたりしてました。前部長もおられたと思います。「報告会は、お前らでやってこい。夜の定時にどこそこな。」と言って去られ、̰私達のグループは、学長室から学部長室から学生課、教務課、入試課、管財課、図書館、等ありとあらゆる学内組織に報告の挨拶に行き周りました。最後は、部室の中で本年度の終了の言葉を述べて、新部長の指名任命をして、私の部長兼(学内)主幹の任務を終えました。正直『ホッ!!!!!!!!』としていたら、夜の打ち上げコンパに行き帰る時に、『ガチョーン!!!!!!!!』先輩からまたお叱りを、受けました。せっかく終わったと思ったら、説教された。理由は、『席の配置が悪い』と怒られました。この先輩は、一生付きまとうだろう。と思えました。私がこの学校を卒業が1989年3月ですが、30年経った2019年でもK市Y区M駅の3番出口の車の中から、見張ってました。コンビニ横から府道(旧国道1号線)に曲がるとすぐM駅なので、そこに車が止まっていて、運転手と私の目が合ってしまってお互い「あっ❕」とあの先輩に私だ、っと完全に分かってしまいました。「ガチョーン!!!!!!!!」こんな人はほっといて、1987年12月下旬やっと、部長兼主幹職を終え、後期試験やレポート提出に取り組んでいて、又アルバイトも探していく予定ですし、色々忙しい年末でした。K市の実家に帰ったのが、年末30日でした。アルバイトも学校の掲示板を見て、ある会社が時給1000円交通費1日500円までと書いてあったので、試験やレポートが終われば応募しました。それと並行に大学院受験勉強も開始しました。研究指導(ゼミナール)の先生が、何十冊も本を借りて頂き、最低限この本とこの英語本は、読みなさいよ。と、指導を受け、勉学の世界にのめり込みました。又アルバイトの面接も入って来ましたので、行きました。応募理由を聞かれ、はっきりと時給1000円という事が書いてあった、と告げると、はっきり告げられました。うちの仕事は、最初研修から始まって研修中の時給300円です。と、『ガチョーン!!!!!!!!』の気分でした。最後まで話を聞いてました。能力給制で、仕事内容は、主に結婚式のビデオ撮影でした。式と披露宴に分かれて報酬が違い、式は1本20分ぐらいで600円ぐらい、披露宴はランク制で、A、B、C、と基本分かれていて、Cランクから始まるけれど、基本二つのカメラを操作するのが、補助付きだとか不十分判定だとCランク、十分出来て一人で操作出来たらBランク、三つのカメラを一人で出来たらAランク、とのことです。披露宴は、標準2時間20分であり、Aが1本3000円、Bが1本2500円、Cが1本2000円です。結婚式に行った事があるか?と質問されると、無い。と、ゲーム機の経験は?と聞かれると、無い。と、アルバイトニュースは買っているか?と聞かれると、無い。と答えると、「3拍子揃っているね。」と言われ、お互いに『ガチョーン!!!!!!!!』の気分なのに、1か月後アルバイト採用をしてもらえました。私のスケジュールが土、日、祝日が 開いていたからです。その時の面接上司に、言われましたよ。『❕おいしい話には、気を付けろ❕』と、『❕これは、社会の常識だぞ❕』『❕これは、君が生きていくために忠告しとくよ❕』「嫌だったらもういいよ!!!!!!!!」と言われたけれど、私が「よろしくお願いします。」と言いました。1988年2月に仕事を始めて9ヵ月、11月には中断してしまいました。もうカウンセリングの世界を超えてしまっているとカウンセラーが判断し、学生課を通じて親を呼び出し、強制的に実家に返されました。
 ここからは精神障害者には面白くない話です。私が言うのも変だけど、O都構想に幻想を持ってませんか???❕おいしい話には気を付けろ❕と、忠告します。経済とは、ご存知の通り経世済民の事です。働ける人が税金を納めなくしてどうやって社会サービス(社会保障)を受け取るつもりでしょうか???O市という政令指定都市を潰して、二重行政解消してO府(法律上)にしてOが良くなるとでも思われるのでしょうか。???余計に低税低福祉になるだけで、社会サービスは悪くなる一方です。社会保障として皆さんに返ってきません。やり手策では良くなるどころか悪くなる一方です。何故なら失業者も増えます。路上生活者が増えるだけではありませんか。格差は拡大され、貧民窟が増える一方だけです。本当にOを良くしたいのなら、地道に生活するしかありません。O府一本化したら、払った税金は府民全体にいきわたらないといけないので、社会保障や社会サービスは悪くなるだけで、府民に返って来ません。❕おいしい話には気を付けろ❕❕社会の常識です。❕❕O市民のために忠告しておきます❕当然多くの公務員が失業します。路上生活者が増えます。元々から、元O市長が公務員が嫌いだったではないですか!!!!!!!!。弁護士と政治家は噓つきでないとやっていけない職業です。彼らは、最初から独裁政権を狙っています。税金だけ取って後返さないのが、彼らの狙いです。O市民の事はO市民で守っていかなければならないのです。彼らに取られては、ならないのです。❕❕おいしい話には気を付けろ❕❕これが私からのメッセージなのです。
                          久郷克己、拝、
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《お世話になりました》 コロナ禍の中、大人しくしてました2021年😅 あまりニュースになる事が少なかったなぁ🥲 その中で自分三大ニュース ①精神保健福祉士の国家試験合格、3年連続で福祉士の国家資格を取得する。 3年以上国家試験の勉強してたんですね、流石に燃え尽き感ありでした。 ②愛鳥との別れと出会い 悲しい別れがあり お迎えあり そして誕生あり。 ③新たなステージへ 年内で精神障害者支援のグループホームを退職し、1月からは放課後等デイサービスで、児童支援員として働くことになりました。今は書籍や動画で勉強中です。 2022年はより楽しい日々を送ることでしょう。 皆さんも素晴らしい2022年を迎えましょう🤗 https://www.instagram.com/p/CYJRfFcpiVG/?utm_medium=tumblr
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temsit-blog · 3 years
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こころの時代~宗教・人生~「地域がつなぐ“こころとこころ”精神科医・高木俊介」
https://vimeo.com/541201456
♬~ 精神科医の高木俊介さん。 高木さんは 医師や看護師 精神保健福祉士などと チームを作り 重い症状を抱える精神障害者が 地域で 生活できるよう支援を続けています。 どうも おはようございます。 高木さんが この活動を始めたのは 2004年。 患者の多くは 「統合失調症」という 幻覚や妄想が特徴的な 精神疾患を抱えています。 差別や偏見のため 自宅ではなく病院での 長期入院を強いられるケースも多い中 高木さんは 自宅での生活を優先し 地域との接点を保つことが 重要だと考えています。 (読経) 今回 高木さんに話を聞くのは 僧侶の 釈徹宗さん。 宗教学者としても 幅広く活動しています。 地域のつながりを大切にしながら 統合失調症への支援を続ける 高木俊介さん。 その半生に迫ります。 ♬~ ここは 高木さんが 在宅訪問医療の 拠点としている 京都のクリニックです。 本日は おつきあい どうぞ よろしくお願いいたします。 こちらこそ よろしくお願いします。 このお部屋っていうのは どういうふうに 普段 使われてるところなんでしょうか? このお部屋はですね 普段のスタッフの会議とか それから改まって 当事者さんや その ご家族が来られた時に ゆっくり話をするための お部屋ですね。 その他にも 勉強会に使ったり スタッフ以外の よその人たちを呼んで ここで勉強会を行ったりしてます。 高木さんの 現在の活動について 少し お話を伺いたいんですが。 重度の精神障害を持った人に 訪問診療っていうのを行ってます。 その訪問診療も ただ往診行って 診察するっていうんじゃなくて 福祉と医療を総合して いろんな 多職種の人がいるチームで 訪問して 生活の現場で その障害に なっているものを 取り除いていったり 外に出られない人と一緒に出たり それから 病気が急に悪くなった時の 応対をするということで 24時間 365日の体制で やるんですけれども これは アメリカで始まった方法で アメリカが 大きな精神病院を 解体していく中で 地域に戻って 支えがなくなってる人を どうするかということで始まった 「ACT」っていう やり方なんですね。 地域に積極に出ていく 「Treatment」支えですよね 支援。 そういう やり方を取り入れた 活動をやってます。 ACTとは 患者が 地域で生活できるよう 医療と福祉の両面から 支援する仕組みです。 高木さんは 一人の患者に対し 医師 看護師の他 生活に必要な能力を回復させる 作業療法士や 社会への自立をサポートする 精神保健福祉士らと チームを作って ケアに当たっています。 スタッフが それぞれの専門性を生かすことで 多彩な支援ができるように しているのです。 治療や支援の方針は 高木さんが指示するのではなく それぞれが 話し合って決めます。 20人ほどのスタッフで 京都市内を中心に およそ150人をケアしています。 いろんなスタッフでやる。 医者なら医者の見方 医者は その病気っていうのは 薬で何とかなるもんだと どうしても 思っちゃってるから 薬だけになる。 でも例えば ケースワーカーは この人は こういう経済的なことの不安で 困ってるなということが 見れるわけですよね。 そうしたら 医者が薬を出さなくても その経済的な不安なところを 手当てしてあげるだけで 幻覚や妄想の世界にまで 行っちゃわなくてすむ。 あるいは 幻覚や妄想があっても とりあえず 現実生活が安心できる。 そしたら 一緒に やっていけるじゃないですか。 そういうことを考えてます。 在宅訪問医療を受けている人のほとんどは 統合失調症を抱えています。 何を言うてんの? あっ もう何をするのよ。 ふざけやがって。 統合失調症とは 幻覚や妄想が特徴的な精神疾患で 100人に1人は 発症すると言われています。 周りの人には 理解しづらい症状に苦しみ 誰のことも 信用できなくなるといいます。 統合失調症の人は 現在 80万��いると言われ 地域で生活するための 理解や支援を受けられないことで 病院での長期入院を 余儀なくされる人もいます。 統合失調症というような病気 どのようなものなんでしょうか? まず分かりやすいもので言えば 幻覚。 つまり 目の前にいない人の声が聞こえる。 それから妄想ですね。 自分は 何かに いじめられている。 何か自分を襲ってくるものがあると。 自分の家の部屋の中にいても そういう感覚が起こってくる。 特徴的なのは 何か分からない世の中の 全てから 自分が排斥されてる。 世間の何か大きな組織があって そこが 自分を狙ってるとかですね 何かこう 世の中 組織 世界っていうものに対して 何かこう すごくこう 不信感があるんですね。 だから世の中 社会から籠もってしまう。 それ以外で言えばですね 思考のまとまりが悪くなるし 我々が 物事を順序立って 考えていったり 冷静に 周りのことを認識するって いうことが すごく しにくくなります。 そのためもあって 感情的に すごく不安定になりますね。 そういうことも含めて 統合失調症というんですけれども これ 決して 珍しい病気ではなくて 今 現在 100人に1人はいるだろうと 言われてます。 おおよそ1%くらい。 1%ぐらいの人が。 今 お話伺ってると 人間社会という 大変複雑なゲームの中に 放り込まれてる 我々としましては 一度や二度 精神の変調を起こしたり あるいは バランスを崩したりっていうのを 恐らく ほとんどの方が 経験するような事態じゃないかと。 例えば 山で遭難したりしたら みんな 幻覚 見るわけですよ。 それから 何も刺激のない部屋に ず~っと 2日3日 監禁されたら 幻覚 妄想 起こります。 そういう誰もが経験して 誰もが ちょっと おかしくなる。 誰もが ちょっと世の中から 引き籠もりたく なってしまうことに対して 我々以上に より過敏なところがある方 じゃないかなと思いますね。 そうなってくると その方の人生全般を 見なきゃいけない部分もあるでしょうし その症状だけを 何かでグッと抑えると うまくいくっていうもんでも なさそうな気がするんですけど。 ないですよね。 例えば その人が ほんとに何か言いたいこと ほんとに苦しいことがあって 病状が出る。 で 周りが あっ これは大変だと思う。 何とかしなきゃと思う。 それを 薬で その病状の部分だけ抑えちゃうと じゃあ 周りは これでよかった。 薬をのんでさえいれば それで いいんだと思うと 今度は その背後にある問題や その人の人生の 全部の生きづらさとか そういうことを ほったらかしにしちゃう。 そういうことに対して 目が向かなくなるから その人にとっては 余計に苦しいですよね。 あっ また再発しちゃったと。 やっぱり これは再発して どんどん 悪くなる病気なんだっていうふうに 本人も 周りも思っちゃう。 統合失調症の経過というのは 非常に バラエティーに富んでて 本当に 予測もつかないし 一人一人 違うんですよね。 中には 幻覚や妄想が全く消えてしまって 外から見たら 全く病気じゃない 治ってるなと 思えるような時もあります。 そういうふうなのが 続く人もあれば また不安定になるという人があって ほんとに 非常に それぞれなんですけども どんなに悪い人でも すごく落ち着いて 穏やかな時が来るわけですよ。 そういう時っていうのは どういう時なのかなと思うと 何者からも脅かされずに 安心してるところなんですね。 もし 自分が ちょっとでも頑張って 自分が 「これをしたい」っていうことを 言った時に すっと受け入れてくれる人が 周りにいる そういう安心感を得てる時 それで穏やかでいる時っていうのが 統合失調症の人が 楽にいられる よくなってる時じゃないかと思いますね。 完全に 症状がなくなってるわけじゃなくても 症状があっても 安心して暮らせる。 そうですよね。 それが いわば 目指すべき方向 ということでしょうか。 安心して暮らせるし ほんとに 自分のしたいことが言える自由ですよね。 1957年 高木さんは 広島県 因島に生まれました。 医師だった父が 開業することになり 一家は 岡山に移ります。 母は 病院を懸命に支え 高木家は 地元の名士と うたわれるようになりました。 うちが 病院 内科と小児科の開業医だったんですね。 家は 家と病院が一緒で 1階が全部病院で 2階に家族が住んでて 高度成長に乗って どんどん 町も大きくなって 病院も大きくして ちょうど開業医が ほんとに いくらでも お金が 入ってくるっていう時だったですね。 だから 大当てして おやじは そのお金を 湯水のように使って まず 写真が趣味で そこら辺じゅう 写真機だらけで 車は 車も趣味だから 外車が 5台ぐらい並んでるわけですよ。 診察は 患者さんと看護婦さんだけが 何か話してて 親父は 庭で 大きな池つくって 錦鯉 飼ってて その錦鯉に バンバンって 餌やっているという 田中角栄ですよね。 おふくろはですね 東京の人なんですね。 東京から岡山に来て 知り合いいなくて 棟梁の娘で 気位は すごく高かったですよね。 どうも その岡山という土地が 水に合わなかって 自分は 都落ちしてきたんだと。 しかも 結婚したはいいけど ものすごい
道楽者の夫でしょう。 でも その開業だから 夫婦でその 妻としては その 経営 守らなきゃいけないわけですよ。 岡山に住んでるっていうことを すごく何か悔やんでるところがあって おふくろは それを嘆いてるのしか 聞かないじゃないですか。 自分の人生が うまく 自分の不本意だったことを 全部 僕に ぶつけてきてたようなとこがあって 僕は そっから 逃げたかったですね すごく。 もう ず~っと おふくろから 逃げることばっかり考えてた。 だから おふくろや おやじとも 口をきかないっていうのが ほぼ何年も続いて 今になってみればね 感謝するしかないですけどね。 自分を取り巻く環境から逃れたかった 高木さんは 岡山を離れ 1977年 京都大学 医学部に進学します。 大学に入ってからも そういう医学が やりたくて入ったんじゃないんで 文化人類学の教室に入り浸って アフリカに行ったり それから 友人に 水俣病の告発する会 いうのを やってる人がいて それに誘われて 水俣に行って ちょっと その支援に のめりこんでたり。 授業とか 大学の授業なんて ほとんど出たことないですよね。 医学部に進学したあと 精神科医を 目指すことになるんですが この辺りは 個人的な思いというのは おありだったんじゃないですか? 京大の精神科と東大の精神科だけが 当時も学生運動の時のやり方を守ってて 教授を追い出して 自分たちで 自主運営を供出してたんです。 もう そういう学生運動も かなり下火に なってる頃じゃないかと思うんですが。 そうですね 下火でした。 でも 京大は ちょっと特殊で まだ昼休みになると ヘルメットとマスクで ゲバ棒 持って 軍事訓練 やってましたけどね。 そういう連中とも 何だか知り合えるわけですよね。 その彼らが 医学部で そういう活動をしてて 勉強して 精神医学をやることは 精神障害者に対する抑圧になるから 精神科に行って遊べと言われたんですよ。 すごい理屈ですね。 本気で言ってるんです 向こうも。 京大の精神科っていうところ 入ってみると ものすごく牧歌的なところで 広~い敷地があって 庭があって 真ん中に噴水があって 病棟は 開放化されてるから で 古~い患者さんたちが多いんですよ。 そういう患者さんと 散歩しながら のんびり遊んでて あっ これは精神科って いいところ じゃないかって思ったんですね。 高木さんが 医師になって すぐの1984年。 精神医療を問う 衝撃的な事件が起きます。 宇都宮市の 900床ある大きな精神病院で 看護職員の暴行によって 2人の患者が死亡した いわゆる「宇都宮病院事件」です。 病院内での日常的な暴力や 患者を強制的に働かせていた事実なども 明らかになり 国際的にも 大きな批判を浴びました。 日本では まだ 病院に 完全に収容主義で その病院は 完全に密室で その中では 医者や スタッフからの 患者さんへの暴力っていうのが もう日常茶飯事だった。 それまでも 小さな事件は いっぱい あったけど 表沙汰にならなかったですね。 で まあ そういうことが 他の病院でも 同じようなんだよっていうことが どんどん明らかになって 日本は 精神医療 このままでいいのかって いうのが 宇都宮病院事件で分かって それはね ちょっと やっぱり ショックでした。 戦後の高度経済成長期 労働需要が高まった都心に 人が集中します。 同じ頃 精神障害者の 病院への隔離 収容が 国策として進められ 病床数は 増加の一途をたどりました。 1950年代に 戦後の復興から 高度成長が始まって その高度成長が始まる中で 障害者を どんどん隔離していくようになった。 これは 産業構造が変わって 地方にいた労働力を 都会に集めなきゃいけない。 そのために 地方で 家族や コミュニティーが障害者を見てたら そういう人口移動が できないんで 国策としてやったんですよ。 精神障害者は 特に そのころは 精神病だから 施設ではなくて 病院が必要だということで 日本中に ばく大な数の 精神病院つくったんです。 いっぺんに 10年~20年で それまで 1万 2万という ベッドしかなかった精神病院が 35万ベッド できるんですね。 病院全体の病床数の 4つに1つです。 宇都宮病院事件で 衝撃を受けた 高木さんは 京大病院を出て 大阪の病院に勤務します。 そのころは 精神病院を いかに開放化するか。 その閉鎖的な精神病院で 患者さんは 一歩も外に出れない。 そういう病院から 患者さんが 自由に外に出てもいい 病院にしようという動きが 全国に ようやく広まった頃なんですね。 精神障害者の人権を守ろうということを 考えて 活動している病院というのがありまして そこの病院に就職したんです。 そこで ちょっと精神医療改革について やっぱり 自分 ちょっと やろうと。 これ やらなきゃ駄目じゃんかと。 ご自身も志を持って 勤務に着任された。 行ったんですね はい。 で びっくりしました。 着任して すぐに 鍵の束 持たされるわけじゃないですか。 各病室の鍵ですか? 病棟の鍵の束。 で この鍵を 絶対になくしたらいかん というようなことから 教えられるわけですね。 で 開放的な病院のはずなんだけど そういう鍵のかかってるところは まだ たくさんあって で その鍵を 自分は開けて 病棟に まずは新人ですということで 紹介されに行くんだけど まあ その病院でも 閉鎖病棟っていうのは ものすごく何というか 狭くて においもするし 「えっ これが病院?」 というような感じですよね。 その病棟の中に入れば 狭いところに ベッドが ずらっと並べられてたり そのベッドと ベッドの間は ほんとに 野戦病院みたいなもんですよね。 カーテンも何もない ベッドがある部屋は まだましで 多くの部屋は 畳部屋ですよね。 大きな畳部屋で 10人以上の人が 雑魚寝してる。 当時 あとで知ったんですけども 「超過入院」っていって 病床の120%ぐらいの患者さんを 入れているのが 当たり前だったんです。 もう定員を超える人を 入れている。 そうです はい。 畳部屋の中では そこも 私物を置く場所ないから 押し入れのとこに それぞれの人の固まるようにして 自分の乏しい私物を 置いてるわけじゃないですか。 どこに 誰が布団敷くかも 決まってないから しょっちゅう 場所の取り合いとかで ケンカが起こっちゃうわけです。 私物を取った 取られた 触ったって。 廊下で寝てるような人もいるんですよね。 そういうところで 当然 すごい もう 密なんてもんじゃないですよね。 ものすごいところに 閉じ込められてて 自由に 出入りはできない。 しかも たばこ一本もらうにも 看護師さんに 頭下げなきゃいけない。 そういう状態だと 精神疾患を 持ってない人でも 大変なストレスで 異様な行動に走ってしまいそうな 気もしますけども。     なると思います。 大変だったのは そんな中で 勤め始めて すぐの頃の当直で ケンカがあって 頭が割れちゃった人がいて 救急車を呼ぼうかというような 今だったら すぐ そうするような 看護の人も平気で 「けが人が出ましたから 先生 縫って下さい」って言ったんですね。 医学部の学生だったからといっても 今でも縫えるわけじゃない。 そこで 本人の処置をするけど これ 家族に言わないわけに いかないじゃないですか。 ところが 次の日の朝に その加害者 被害者の家族が 両方とも飛んでくるわけですよ。 ああ 来た。 どうしようと思ってたら こっちが何か言う前に 家族の方が 「先生 お願いですから 病院を追い出さないで下さい」と。 「このことは 絶対に責任も問いませんし 公にもしませんから この病院に置いて下さい」って。 どっちの加害者の方も被害者の方も それ言うんですよね。 もう何が起ころうが 捨てられた人たちなんだなと思った。 しょっちゅう暴力沙汰が起こったりしてて ちょっと聞いたら 「なんだ や���ぱり精神障害者って 怖いんじゃない」って 思われる方が いるかもしれないけど 僕が辞める前ぐらいに 病院が きれいに改装したんですね。 それで 超過入院というのもなくなって どこも ちゃんと プライバシーが ちゃんと保たれたベッドの部屋になって そういう病棟に 5~6年目でしたかね なったんですよ。 もう見事に 暴力沙汰が減ったんです なくなりました。 患者さんが そうやって荒れている。 ほんとに 荒れた状況というのは 実は 環境のせいだったんだなって…。 患者を取り巻く過酷な環境を 目の当たりにした 高木さん。 疑問を持ちながらも 患者に対して 次第に 強い態度をとるようになったと言います。 そのころは 往診に行って 患者さんを連れてくるわけですけど 入院のための往診というのは たくさんしました。 入院して治療することは いいことだと思ってたから。 で そういう時でも 自分で 自分で まずは患者さんの家に入って そこで 最終的に 連れていく時は 自分で手を引っ張ると。 そうやって 自分は いいことをするために そうやって 力を使ってると思うから いい気になっちゃうんですね。 だんだんと。 いい気になるとは どういうことですか? 自分は いいことしていると。 自分は
これは暴力じゃなくて 必要な力だと思ってるから。 必要なことなんだと。 こうやって 治療に乗せたら それで 薬のんでくれたら 患者さん よくなって 家族からも それから地域の その頑張ってた 保健師さんたちからも お礼 言われちゃうじゃないですか。 ああ 大変な往診だったけど してよかったなと。 中には 患者さん自身も あの時 先生に 無理やり 連れてきてもらわなかったら 自分は 大変なことになってましたって。 どれだけ嫌がってても 無理やりでも 入院させるのが 家族のためでもあり 本人のためでもある。 そうそうそう。 そういう信念で 自ら先頭に立って やっておられたということ。 そうですよね。 でも 自分が辞める時に 自分が連れてきて 急性期の病棟で治療して 収まったから 慢性期の病棟に行ってもらった人って いうのが たくさんいたんです。 そういう人は みんな 例えば 薬は 絶対のまないとか 看護者とも 誰とも話さない。 うずくまって じ~っとしてたり…。 そういう人を 自分が いっぱい作っちゃってたなというのを 気付いたんですよね。 じゃあ 僕が やってたことって 何だったんだろうなってね。 誰かが誰かに 何かをしないと いけないっていうことは それが 病院の中でもあるんだと思って やってたけども そういう力っていうのは 本来 英語で言えば forceであって 人を動かす力 人間同士の中で お互いに使う力なんですね。 ところが それを病院の中で 十分な 説明もなく それをする時っていうのは 同じ力でも violenceになる。 この violenceは 一方が 一方的に振るう力。 日本語では 同じ「力」になっちゃうんだよね。 病院という「力」を利用して 個人に バイオレンスしてたんだなと。 1993年 日本の精神医療に 大きな転機が訪れます。 「精神分裂病」という病名は 差別的として 精神障害者の家族会の全国組織が 学会へ 病名の変更を要請します。 当時 精神医療の在り方に 疑問を抱いていた高木さんも この運動に 参加しました。 私が 精神科医になった頃には 統合失調症というのは 精神分裂病 というふうに言われてたんですね。 この用語に じゃあ問題ありというふうに お感じになられたんですね? そうですね。 もともと その感じた きっかけは 統合失調症の人たちの 家族会の活動でしたね。 精神障害者家族連合会っていうのが 当時ありまして 1992年ぐらいに いろんな精神障害に対する 差別をなくそうという運動の中で 精神分裂病という名前を変えてほしい という要望書を 家族会が出したんです。 精神が分裂してる。 「あなたは 精神分裂病ですよ」って言ったら 「俺の精神は 分裂してるのか?」でしょう。 「あの人 精神分裂病だよ」と言ったら 「あっ 分裂してるんじゃ ちょっと 話はできないよね」って。 そうですね。 何かもう コミュニケーション不可能のような 印象を持ちますが。 精神分裂病などという 病名を付けられたことによって 本人も家族も 病気の苦しみと 病名の苦しみの 二重の苦しみを負ってるんだと。 自分たちは こういう病気を持ってます。 自分たちは こういう家族を持ってます ということを 誰にも言えないっていう。 で それが出た時って 「インフォームド コンセント」っていうのが 日本で言われだした頃だったので インフォームド コンセントを やっていけば 当然 どの医療でも 患者中心っていうこと。 患者自身が 自分の病気について 自分で知っていく。 自分は こういう病気である ということを知って 医学を利用していかなきゃ いけないですよね。 これからは そういう時代になると。 で 医学の病名も 我々が いろんなところで聞く 一つの情報になるはずだと。 大事な情報になるはずなんですね。 差別をなくすとかと同時に これは 研究者 学者 医者としても その名前を使って インフォームド コンセントが できるように ならなきゃ おかしいだろって。 2002年 「精神分裂病」という名称は 「統合失調症」に 変更されることになりました。 さまざまな誤解や偏見をなくしたいという 家族たちの思いが 実を結んだのです。 僕たち人間っていうのは みんな 常に常に 感覚に入ってくるものを 何らかの その場に そぐった形で 統合してるんですね。 統合っていうのは 世界を まとめ上げていくことなんですね。 今 ここが こういう場所で 今 前にいるのが釈さんだということも ほんとは 僕の刺激に入ってるものが 声も目も バラバラじゃないですか。 それを 今ここで 釈さんという 人間として まとめ上げているのは 僕たちの 精神の働きですよね。 そういう統合を 常に常に していってるわけ。 ところが その統合って 例えば 僕たちは 酔っ払った時に ふにゃっとなりますよね。 何か いろんな原因で 実は崩れるんですね。 はい。 統合失調症っていう病気は 何かの原因で その統合が いきなり崩れちゃうことがある。 そうすると 世界に裂け目が出来ちゃって 今 目の前にあるもの ここにあるものが何なんだと。 こういうふうに 釈さんだったら 釈さんとして まとまってる以外の いろんなものが入ってきて どう まとめ上げていいか分からない。 自分の経験の中に ないものになってしまうんですね。 それを 何とか 言葉で まとめ上げようとすると 妄想になったり 「何か とても不気味なことが起こってる 大変なことが 世界で起こってる」に なったりするんですね。 そういう統合が 何らかの原因で 崩れてしまったもの。 そこに見える世界が 統合失調症の人が見てきた 世界じゃないかなと…。 ただ 統合失調症っていうのは ず~っと そうじゃないから やっぱり戻るんですね 元に。 元に戻って また あっ 現実 こう 釈さんじゃないかって分かるわけです。 そういう 一貫して ず~っと あるわけじゃなくて 「失調」っていう言葉だから 失調する時と しない時がある。 崩れる時と 崩れない時があるんですね。 そういう 一貫して この人が ず~っと そんな状態。 精神分裂の状態なんではないよ という意味が 「失調」にはある。 私たちも 常に 物事を統合しようとしてる。 でも 時々 その統合が 意識せずに外れることがある。 そういう意味では 僕たちも 統合失調症の人も ず~っと 薄~く 連続してるはずですね。 統合失調症の人の見てる 世界っていうのは 全く 僕たちと別だ 僕たちから隔絶してるわけじゃなくて どっかで連続してて 言ってしまえば みんな 浅く統合失調してると うん。 明確に こう 線引きができるもんじゃ なさそうな気はいたします。 そういうことも 統合失調症という名前と共に 広まってくれたらいいなと 思いますね。 2004年 高木さんは 統合失調症の在宅訪問医療を始めます。 統合失調症の人を 病院に入院させるのではなく 自宅での生活を続けながら 地域が支えていく仕組みを 作りたいと考えたのです。 ♬~ おはようございま~す。 (一同)おはようございます。 高木さんは より多彩な支援ができるよう 医師や看護師だけでなく 社会への自立をサポートする 精神保健福祉士などを集めました。 それぞれが 専門性を生かしながら 24時間365日 支援ができます。 高木さんは 患者と 信頼関係を築くことを大切にしています。 出会った当時 高木さんの問いかけに 全く反応をしなかった男性に対して 高木さんは ある行動に出ます。 妄想などからくる 緊張で こわばった体を ほぐしてもらう男性。 その隣で 目線を合わせて話しかけます。 男性の心は 少しずつ解きほぐされ その後 高木さんと一緒に 食事や外出を楽しめるまでになりました。 では どうも失礼します。 一人一人に合った 寄り添い方をすることで 患者が 心を開くきっかけを 探しているのです。 統合失調症の方にとって こう 望ましい環境っていうのは どういうものを 考えられるもんなんでしょう? やっぱり その人が住み慣れて その人が ちゃんと自分で コントロールできる そういう環境。 その中で 病気と対決するのが いいんだっていうことを 言ってるんですよね。 世界も そうだけど 日本の精神医療は 特に 全然やらずにきたんですね。 で そういう 暮らし慣れたところで 自分が顔見知りの 自分の歴史やら 自分の いろんなことを知ってる なじんだ人たちが 周りにいる中で 自分が安心できる生き方っていうのを 見つけていく。 幻覚や妄想があったとしても それと つきあいながら 現実も現実として ちゃんと見ていけるような生活を 探していくっていうことだと思いますね。 どうも おはようございます。 高木さんたちが 在宅訪問医療を始めた当初に出会った 育子さん。 中学生の頃のいじめが きっかけで 精神的に不安定になり 高校に進学して すぐ 病気が明らかになりました。 (泣き声) 支援を受けるまでの育子さんは 絶えず襲ってくる 妄想や幻覚に苦しみ 何度も 自ら命を絶とうとするなど 入退院を繰り返していました。 おはようございます。 は~い。 しかし
高木さんたちが 在宅ケアを続ける中で 少しずつ変わっていったといいます。 ♬「約束を守れたなら」 ♬「願いを叶えてあげる」 育子さんっていう方なんですけれども 中学生の頃に 発病されたんですね。 それまでの 発病前の写真を見ても もう とっても はつらつとして 笑顔がよくて スポーツマン。 中学生の発病っていうのは 早い方になるんですね。 ちょっと早いですね。 まあ 最初… 発病の 初めの頃かな… で 中学生ぐらいの発病っていうのは 思春期で 自分とは何かっていうことに すごく悩んでる。 誰でも。 そういう時代じゃないですか。 そこに そういう悩みは 誰でも持ってるところに 統合失調症の人の 統合が 一度 崩れるっていう 衝撃的な感覚を持たれたんですね。 それによって ものすごく こう 興奮したり 感情不安定になったり 興奮したり もう訳が分からないから 暴れるしかなくてって症状が激しくて 何回も 入院を繰り返されてる方なんですが 入院を繰り返しても なかなか ほんとに合う薬もなくて 合う環境もなくて 入院すると 症状が激しいから まあ え~… 隔離されちゃうわけですね。 でも 入院になると ず~っと個室に閉じ込められてる。 で あるいは 大量の薬で ボーッと なってしまってる。 お父さん お母さんも そういう娘の姿に見かねて… で もう 病院で まだ保護室… 病院からの隔離室の中から 出れないような状況でも もう 自分たちも耐えられない ということで 退院させるんですね。 病院は とても退院なんて無理だろう ということで 言ってたんだけども おうちに戻られて で もう お父さんお母さんが それぞれ寝ずに うん 交代で 付きっきりで 見ておられたんです。 付きっきりで見てても まあ 本人が興奮したりすると暴れて 壁には 穴は開くわ 夜中でも飛び出すし それから 何か その辺にあるもの 危ないものでも すぐに 口に入れてしまうっていう 病状があって。 育子さんの書いた詩があるっていうふうに 伺ってるんですけども ご紹介頂けますでしょうか。 はい。 この育子さんの詩は 彼女が発病して… 発病の初期ですから 最初は 非常に また よくなる… 一度 よくなったり また再発したりですけど 再発して すぐの頃かな 再発して すぐの頃に よくなった時に書いた詩なんですね。 恐らく 彼女が 病気が発病した時に見た世界 統合が崩れてしまった時に見た世界の 孤独感 そういう世界を 自分しか持ってない孤独感。 そして今でも こういう世界を ほんとは 抱えてるんだと思うんです。 ただ それを 僕たちに通じる言葉で 今は言えない。 何とか言葉にしたのが この詩だと思います。 で ちょうど その時に 私が ACT 始めるということで。 我々 私も含めて おうちに行くんですけど それは大変で ���ずは ちゃんと 話をしてくれるなんてないですよね。 というか 言ってることが 何を言ってるのか さっぱり分からない。 で 突然 こう ピュッと どっかに飛び出しちゃうから。 でも まあ あの… お父さん お母さんも含めて もう一緒に とにかく 見きろうということで うちの いろんなスタッフが 交代交代で行って とにかく 何があっても じっと そばにいると。 で 「大丈夫よ」と安心させてあげる。 そういうことを繰り返してて ようやく 少しずつ言葉が 何か月も繰り返して 言葉が よくなったのか こちらが 彼女の言葉を 少しでも 分かりやすくなったのかな。 そういうことですか。 うん 小さな言葉も 小さなことが 少しずつ 分かるようになって。 それが出てくるまで 皆さんが こう じっと そばに居続けたっていう この期間が 恐らく 相当大事。 相当だったと思います。 ご家族は その間 大変だったと思いますけどね そこから だんだんと いろんなことが できて もちろん 病気も 相当 悪い時もあったり 薬にも かなり頼らなきゃいけない時も あったりしたんだけども だいぶ よくなってから 今度は また 2年後3年後かな 「何がしたい?」っていう時に 「成人式」 ポロッと出たんですよね。 成人式 じゃあ二十歳の時に 出られなかった?            してない。 病院の中ですよ。 病院の中だったんですね。 で 彼女に着物を着せて 化粧もして 何人かのスタッフと一緒に 成人式だけど 4月にやりましたけどね。 成人式で 桜の下でね パチッとこう… そしたら もう ほんとに満面の笑顔で。 そうですか。 このように 具体的な事例を お伺いすると ACTの活動っていうのが うまく こう… 我々も こう イメージすることが できてきました。 例えば 病院にいると しなくてもいい苦労が 自宅 あるいは在宅で暮らしてると さまざま 襲ってくるんじゃないか そんな気もするんですけども。 病院にいると 確かに苦労はないと思いますよね。 3食 ベッド付きで。 でも その分 管理されてる者に従えばいい そんな生活に どんどん慣れてきたら 病院の中にいてすら その中で起こることに 対処できなくなってくるじゃないですか。 人間というのは やっぱり 生活する場の中で いろんな苦労が 襲いかかってきて それを じゃあ どうしようかということで 乗り越えなきゃいけないもの ほったらかしとかなきゃ しょうがないもの 誰かに 助けを求めなきゃ いけないものって そりゃ いろいろ あるわけで じゃ それを それぞれ どうしていくか っていうことで成長していく。 「成長」っていうことが おかしければ それが 人生の生きがいみたいな 何か 生きてるっていう感じに つながっていくわけでしょう。 苦労が なかったら 生きてる感じもないですよね。 暮らしていれば 当然 引き受けなければいけない苦労を 病院は奪ってしまってる。 奪ってしまってると思いますね。 で もちろん その苦労は 統合失調症のような病気を 持ってる人にとっては 大きすぎる苦労だったかもしれない。 病院で守ってあげることが よいかもしれない。 でも 生活の場の方に 「じゃ それだけの苦労でも 一緒に苦労しましょうよ」いう人がいたら いいわけですよ。 一緒に苦労する 一緒に乗り越え方 考えよう あるいは そこは ちょっと こっちが取ってあげるから みたいな。 何でもいいんだけど そういう人たちが 一緒にいるっていうことが 大事なんじゃないかと思いますね。 そう考えますと 家族だけが 全て負担するっていうのも かなり 困難なことになりますね。 そりゃそうだと思いますね。 よく 病院の人が言うのは 退院させたいけど 退院させようとしても 家族が受け入れないよっていうことが よく言われますよね。 で 例えば ACTの活動 大変 すばらしいと思うけども もう 入院してくれた方が 楽なんだっていう ご家族も 恐らく おられるんじゃないですか? たくさん いますね。 それだけの苦労をしてきたし 恐らく 今の日本の精神医療の体制が ご家族には そういう苦労を強いてきたと 思うんですけども あの… だから ご家族も 実は SOSを持ってるんだと。 その ご家族に対する支えが 必要なんだっていうことを していかなきゃいけないけども 病院に… 病院は そこまでのね 生活の… 家族は 病院の外側にいるから 病院は そこまでのことができないし。 そのために いわば 地域が関わるっていう そういう面が 必要となってくるわけですね。 ACTが ご家族の支援を 同時にしてもいいし ご家族を支援するような… 支援できる人や 組織を 私たちが 家族のもとに 引っ張ってきてもいいし。 お話を聞いてると 何かこう 病気を 何とか治さなきゃいけないって いうような 何か 結果を出そうというよりは むしろ そのままで暮らしていけば いいじゃないかという そういう方向に聞ける… お伺いするんですが 私 認知症の方の介護に 関わってるんですが 最初に 認知症って 自分でも知識もありませんし 経験もないんで ものすごい怖いものだって 思ってたんですよね。 山の斜面に お寺 建ってるでしょ? はい。 釈さんは 2003年 寺の裏にある古民家を利用して 認知症の人のための グループホームをつくりました。 昔ながらの 木造の日本家屋での共同生活は 地元の人が遊びに来たり 中学生が ボランティアに来たりするなど 一つの大きな家のようです。 釈さんが目指すのは 認知症の人も 地域の中で 共に暮らせるような施設です。 とにかく まあ 「認知症だけにはなりたくない」 そのぐらいの気分だったんですけども ず~っと関わってるうちに ある日 ふと 「あれ 認知症 あんまり怖くなくなってる」 っていう自分に気が付いて ちょっと びっくりしたんですよね。 認知症を ひたすら見ないようにしたり 隔離したり あるいは 恐れるのではなくて 認知症になったら 認知症者としての暮らしがある。 あるいは 統合失調者は 統合失調者としての暮らしがある。 そういう こう ものの見方といいますか 取り組みの在り方っていうのは ACTにはあるんじゃないかと 思うんですが…。             そうです。 だから 「これは 病気の症状だから それを取ってしまおう」というのとは 違うし また
取ってしまおうとして 取れるもんじゃないんですね。 今 いろんな薬が出てて 「この薬で 脳の この活動を抑えれば 病気の活動を抑えれば 治りますよ」と いうふうに 製薬会社は言うけども それで治ってる人は 僕は いないと思うんですね。 治ってる人は いろんな偶然 いろんな いいことが いろんな うまくいくことがあって 薬も含めて その偶然の いろんな出会いの中で たまたま よく いってる。 で 僕たちが関わってる重度の人 つまり 今まで よくなりたいと思ってきたけども そうじゃなくて この病気と つきあっていかんといかん この障害を抱えて 生きていかんといかんというふうに 腹くくった そういうふうにせざるをえない そういう方に対しては 僕たちが その人が 少しでも楽になる 少しでも 現実を うまく受け止めて 現実の中で やっていくための 僕らの関わりも含めて たくさんの偶然を こう寄せ集める。 地域での生活 家での生活 いろんなことがある。 先ほど おっしゃった かえって苦しいこともある。 そんな生活の中で 偶然の力を集めていく。 その偶然の力が どっかで 彼 彼女を楽にする。 それを 僕らは 引き寄せることを 仕事にしてる感じですね。 さまざまな出会いや 人との関わり合いから生まれる 偶然の力。 高木さんは この偶然の力を 母の看取りで実感したと言います。 実は 私の母も認知症で 最期まで 家で看取ったんですね。 その時の話を ちょっと させて下さい。 気位の高い母でしたから 介護者に対しても ものすごく 被害的になったり 攻撃的になったりして 大変だったんですけど 経験や知識もあるケアマネージャーさんと 一緒にやってて そういう ケアマネージャーさんに いろいろ組織してもらって で 24時間体制にしたんですね。 そうしていくと だんだんと こう ケアを受け入れてくる中で 気位の高い人でしたから かえって いろいろ ズバズバ 物 言ったりするのが 好かれちゃって。 例えば ヘルパーさんたちが 自分の自宅に うちの親を連れていって パーティーやったり…。 そうなんですか。 そういうことを してくれるようになったんですね。 でも それから がんになって まあ 最期を看取るいう時に まあ だんだんと 胃がんで食事が入らなくて 水分だけで 見ていってるわけですけども 最期まで すごく機嫌がよくて ニコニコして ヘルパーさんたちや 訪問看護の人たちに かわいがられる存在。 で いよいよ最期だなっていう 時がきて まあ 呼吸が 下顎呼吸になって ちょっと乱れてきたと。 これは もう 息子さんを 呼ばなきゃいけないというふうに 皆 思ったらしいんですね。 僕としては すごく もう覚悟はしてたし みんなが これだけ よくやってくれるんだから いつ 亡くなっても そりゃいいよねと。 別に 死に目にあわなきゃいけない というような考え方 なかったから のんびりしてたんですよ。 だけど ケアする方は 気が気じゃないわけ。 「息子さんが帰ってくるまで 死ねないわよね」みたいな。 よくある話ですけど。 それで みんなで 「頑張れ お母さん 頑張れ もうすぐ来るから」つって。 「もうすぐ 息子さん来るよ」つって。 で こっちは のんびり行って まあ そろそろ もう駄目なのかなって 思って パッて開けたら 「ようやく来た~」っちゅうことになって。 で 僕が 母の前に行くんですけども まあ 母は こっち見たような 見てないような 僕は よく分かんない。 だけど そこで ことっと 息が切れたんですね。 僕には よく分かんないんだけど でも 周りから見たら やっぱり 「息子さんの顔を見て 安心して逝かれました」つって 「すごく穏やかに にっこりしました」。 来るのを待ってた! 「待ってましたよ お母さんは」って 言うんですよ。 どう見たって そうじゃなくて。 たまたま? 偶然 今 僕が…。 でも それ ほんとに偶然なのか どうなのかって考えるんですよね。 もしかしたら 周りの 緊張して 「これは もう あなたは 息子さんに 会わなきゃいけない 会うべきだ 息子さんが間に合うように来てる」って。 「頑張って 息子さんも 今 走ってるよ」 みたいな そういう 何か場の力がですね 彼女の… 母の命を 生かしてきたんじゃないかと そこまで。 ところが 僕が パッと入っていった途端に 周りの人たちの方が安心しちゃって その 命を支えてた力みたいなものが ふっと緩んだんでしょうね。 で 母も一緒に緩んで ふっと 逝ったと。 じゃあ その場に集った全員で その臨終の場を演出したっていう。 そうでしょうね。 それには もう 死んだ時刻まで関わってるっていう すごい偶然だと思います。 偶然の力が そういう必然の物語を 呼び込んだんだと思うんですね。 ♬~(ピアノ) 高木さんたちが支援し続ける 育子さんです。 ♬~(ピアノ) 終わり?          (育子)うん。 終わりか そうか。 ヘルパーの支援を受けながら 1人暮らしを始めています。 これまで面倒を見てきた 父は3年前 そして 母は 5か月前に 病気で入院しました。 重い症状を抱える育子さんが 1人でも この家で暮らしていけるよう 福祉分野の専門家も 支援に加わりました。 今 福祉制度を利用することで ヘルパーが2人 24時間交代制で 育子さんの暮らしを支えています。 わ~… やややや~! 高木さんたちが出会った 17年前には 親しい人以外には 心を閉ざしていた育子さん。 地域とのつながりを持ちながら 歩み始めています。 偶然でしか うまく いかないんだけど 偶然を待ってるだけではいけない。 で 偶然は起きるんですよね。 うまくいった時には 必ず 偶然 いい結果をもたらす偶然。 いい結果をもたらす偶然というのは 僕は 奇跡と言っていいと思うんだけど それは起きるけども それが起こった時に それを ちゃんと次に また同じことを 少しでも同じことをできる そういう見極めが できる力がないといけない。 ♬~ ♬~
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kayajoe · 1 year
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第10章開幕
3月7日に第25回精神保健福祉士国家試験に無事合格。 今、社会福祉士養成課程に乗り込むべく、各種準備も強行中。
とにかく戦いは終わることはない。 ってか、さらに激しさを増している。
コロナもGW明けに5類へ変更となる見込み。 ようやく世の中が元通りになろうとしている。
これでもう、おいらの出番は終わりになるはずだ。
第8章で看護師は事実上引退宣言をしたけれど、これでもう完全引退が実現するぜ。
この9年間、実にいろいろあったけど、その大半はロクでもないものばかりだった。
低レベルな仲間意識、ロクに勉強しないくせに偉いと思い込む輩の村社会など、もう気持ち悪くて仕方ない。
このままではダメな生物になってしまうという危機感が募り、早いうちに看護師を引退しようと思っていた。
そしてついに、引退するタイミングが訪れた。
予定より少し早いけど、これでもう新章を開幕しても良いだろう。
ってことで、第10章のタイトルは
「看護を消したナマコ」
副題 ~いにしえの野望の伝承~
とします。
これからの黒幕一派の動向にご注意ください。
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manganjiiji · 1 year
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さようならかく語りき
頭の中で小説を書こうとして、ぱっと、3単語くらいで終わる、ゆっくりした一文がいいな、と思った。すでに、諒解がある。くらいの一文。ほうっておくと私の書き出す(ディスクに書き出すみたいなニュアンス)文は、途切れがなく、加速し、長くなりがちなので、志賀直哉とか川端康成とか、短くて、ゆっくりはっきりした音楽を持つ文章を定期的に取り込まないとリズムの点でだめだ、と思い至る。数年ぶりに、というと大袈裟でおそらく1年は経っていないだろうが掌の小説(川端康成)を読んだ。アンナの話(題は忘れた)と、離婚の子のはじめのところ。離婚の子は気が良くなる小説なので続きを読もうと思う。私は志賀直哉の描く夫婦関係がわりあいに好きなことが多いが、川端康成は子どもが出てくると面白いなと感じている。面白いというか、まるで無いような大人の善性が引きずり出されるような。
午前中の耳鼻科を諦め、午後の脳神経外科(片道一時間半)へ。バスの待ち時間で浦和の蔦屋書店に入って、ひらりささんの『それでも女をやっていく』を無事購入。さすがにありました。よかった。差しだったけど(もうちょっと前は面陳だったのかも、2箇所展開してたけど在庫1になって1箇所展開の差しにしたっぽい。検索機の結果から推測)。売上好調なんじゃないかなと思う。すごく読みやすいというか、するする頭の中に入ってくる上に、中身がぎっしりとしているので、とても食べでがある本だ。東大のなかでの女子学生としての傷になった体験、とても普遍的だと思った。かれらも男子校生活が長かったんでしょうね、と思いました。私は田舎の公立の共学の進学校で、そういう振る舞いをする男子はいなかったから新鮮だった。小中高大とずっと共学で、なんというか、わりに進歩的で紳士的な男子としか接してこなかったのかも、と思った。私が常に性別とほとんど無関係でいられる位置にいることを曲芸レベルで維持していたからかもしれないが。まだまだ読書は序盤だが、こういったことなら、私にもなんらか書けることがあるかもしれないなあと思った。ただ、テーマはなんなのか、家族か、病気か、性別か。ただの自分語りではエッセイになり得ないので絞った方がいいと思うのだが、全てが密接に関係しており、切り離して語ることはむずかしい。ひらりささんのような鋭く重い筆力もないし、とは思うが、飽きなければnoteか何かで淡々と書いていこうかなと思う。思っているだけなので実行するかはわからない。それより小説を書く場合だと思う。5月の締切は早いんですよ(スパコミ併せの締切は早いんですよ!)。いかづち(フィガファウ)、進められるとは思うのだが、時間と体力の取り方だなあ。今日友人とチャットしていて、にわかに英語の勉強も再開したくなってしまったし…ホテル籠もりのときの手引き車(なんていうの?スーツケースの小さい版)をあけて、久しぶりに、取り組んでいたテキストを見て「そうかここにあったのか」と忘れていたような心地になった(一応どこかで覚えていたとは思う)。国際政治史の有斐閣ストゥディアと、英語のテキスト幾つか。あとは、『詩の教室』の読書も途中であった。
他人依存というか、誰かと話をしないと寂しくて死んでしまうヤマイについて、徐々に脱却をはかろうと考え、もうつけなくなっていた体調記録用のダイアリーを、他人依存減退用の記録ノートにすることにした。今日も色んな人にLINEを送ってしまったし、また誰も来ないもくりを開いていたし、最終的に何人かとお喋りしてから夜を終えることができたが、誰とも喋れずに終わってしまっていたらと考えるとやや恐怖である。基本的に私はテンションが高く話したいことが多く、体調さえ良ければ永遠に話している。ちょっとおかしいくらいだ。相手から返信がなくても5時間後くらいに別の話題で同じ相手にLINEしている。Twitterにしておけよ、とも思うが、考えどころ。Twitterにしておこうかなあ。ここ何日かはあまりTwitterに書くべきでもない話題で身を騒がせており(加えて体調が危険だった)、これを万人に発信するのもなあ、と思って、鍵の友人にリプライするための鍵垢に自分用メモとして投稿しておくことが多かった。その辺の感情がまとまったら個人的なことでもだいたいこの日記に書く、という流れ。今回は家庭でのストレスが限界を迎えたのか、気圧や気温の変化+花粉症による体力の限界か、欠勤を2回もしてしまい、とうとうこの家にいることは仕事までままならなくなる、との結論を出した。友人の言葉に背を押され、受診している精神科の相談員(精神保健福祉士)の方に相談し、安価なシェルターがあれば紹介するので折り返し連絡するということと、別の相談用ダイヤルを教えてもらった。そこは平日のみのダイヤルなので今日電話すべきだったのだが、病院に行って帰ってで時間がなかった。次の金曜までまた保留かもしれない。そう思いながら、かなり安い物件を見つけたので、勢いで内見予約の申し込みをしてしまった(連絡待ち)。シェルターが見つからなければ、母親にできる限りの事情(父親と私との事情、この文字列を入力するだけでかなり身体的に負荷がある)を話して、障害年金が降りるまでの家賃と初期費用の無心をするのもいいだろうと思えた。とにかく今はどんな手をつかってでもこの生家を離れることが先決だ。このままでは仕事を辞めざるを得なくなるほどに欠勤を重ねてしまう。すでに欠勤したぶんの信頼を取り戻すのに倍の時間がかかることを思うと心が暗くなる。ただ、できる限りの手は打っているし、これからも打ち続ける、ということは伝えられる範囲で上長に伝え、あとは気にせず勤務するしかない。とにかく60%の力でその日を退勤まで過ごすことをもっと意識的に努力しなければ続かない。低気圧のせいもあるとはいえ、2週間のドクターストップを2月頭に食らってから、職場でパニックになりがちだ。結果や成果を焦る気持ちになっている。できるだけ成果は出さずに、最低限正確にこなせるように、という方向性を忘れてはいけない。いつもそれで続かなくなって息切れして倒れて退職するのだから。怒られても気にしすぎてはいけない。職場でよい人間関係を得ようとして無駄に頑張らないように気をつける。コミュニケーションはまだまだ最低限でいい。業務だけやって、とにかく給与をもらう。まあ、いくらそう思っても、私はどうせ働き始めると楽しくてはしゃいで全力疾走してしまうので、楽しく思うことは楽しくやればいいと思う。相変わらずどういうハンドリングなら自分がうまくやって行けるのか、わからない。職場で心を殺しすぎても結局ストレスになってしまうし、自然体でいると何もかも「やりすぎ」の感じになって疲労してしまうし、あちらを立てればこちらが立たず。自分に体力や精神力がもう少しあれば解決する問題なのかもしれないが、無いものは無い。仕事なんかみんないくつになってもやらかす時はやらかしているし、とにかく失敗しても人が死ぬわけじゃない、という気持ちだけは忘れずにやっていきたい。
家を出て、父親と生活が切り離されさえすれば、かなり心労も減るだろう。まずはそれを目指す。仕事のことは、とにかくゆっくり考えればいいと思う。わからないことは聞け。最初の1年はとにかく聞きまくっても怒られはしないだろう、というか怒られても聞くしかない時はある。であれば、木偶の坊でもいいから毎日そこに存在して、自分に余裕ができて自然と成長する時が来るまで待つという戦法でいいのではないか。
2023.3.13
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okkinaneko · 4 years
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僕は先生になれなかった
私は、二年前の29歳のときに大きな転機を迎えました。
そのときに「自分で人生を選択する」感覚をはじめて得られたのですが、
言い換えれば29歳までは、
自分ではない誰かの人生を歩んでいたのでしょう。
幼少期から「良い子であること」が行動の価値基準で、
おとなや周囲からの評価こそが原動力でした。
しかし、高校生のときにうまくいかない時期があり、
感情の落ち込みをコントロールできず、
周りの目が気になって相談できるわけもなく、
ただただエスケープするほかありませんでした。
そんな中で、自分を拾い上げてくれる人もいて、
この経験が"人とのつながり"を考えるきっかけとなり、
その後のキャリアに大きく影響しました。
自分のような悩みをもつ高校生をサポートするために、
広い視野をもった高校教員になりたいとおもいました。
そこで、学問の垣根を越えた横断的な学びのある大学に進学し、
そして民間企業に就職してから、教育に携わろうという将来像を描きました。
大学時代になると、
それまでの心理的な葛藤からは少し距離を置くことができました。
ある意味、心理面で盲目的な学生生活を謳歌していたとおもいます。
大学入学後は、周囲の影響もあり、
サラリーマンとして民間企業で勝負してみたいという思いも湧いてきました。
対人援助職に就きたい思いとの間で、
どっちつかずのまま選択を先送りしていました。
結果として、どちらの志も満たすような選択をしました。
具体的には、苦手としていたチームワークや折衝事を学ぶために、
荒療治的に営業職に飛び込み、
人間的な成長を促す環境に身をおくことにしました。
そして、29歳になったとき、大きな決断をすることになります。
29歳のときに、それまでのキャリアを捨てて、
ずっと心の中にしまっていた高校教員になる夢を目指すことにしました。
この選択は、他のだれでもない自分の思いを、
初めて大切にすることができた瞬間でした。
また同時に、幼少期から積み上げてきた、
「良い子になって、良い成績を取って、良い大学にいって、良い会社で働く」
という、自分にとって当たり前だった価値基準を捨てる瞬間でもありました。
ある意味、道を外してしまったのです。
成功も失敗も、自分で受け止めなければなりません。
こんな感覚になったのは恥ずかしながら、29歳にして初めてでした。
いかに家庭環境や、学歴や肩書きに守られてきたのか、
ということに気付かされました。
会社を辞めたことをきっかけに、
母校の大学で心理学を学び、
「エリクソンの漸成発達理論」と「ユング心理学」に感銘を受け、
それまで抑圧してきた自分のトラウマと向き合うことになりました。
また、自分がこれまで抱えていた生きづらさを、
発達特性の観点から見ると、
発達障害者の生きづらさと類似点もあり、
とても親近感を覚えました。
"生きづらさ"とはいったい何なのだろうと考えるうちに、
自分の中の「支援」という言葉の狭義さに気づき、
発達障害、愛着障害、貧困、躁うつ、ひきこもり、…など、
「支援」をより広義的な視点で捉えて、
当事者理解の裾野を広げていきました。
ボランティアで、
貧困世帯(母子家庭)の中学生向けの学習支援や、
定時制高校のキャリア教育にも携わりました。
生きづらさを抱える子どもたちと関わる中で、
彼らのサポートにはライフステージのつながりを理解しているほうがよい、
と思うようになりました。
つまり、高校生を支援するには、
幼児期~学童期~青年期 の発達段階を具体的にイメージできるくらいに、
中学生や小学生への支援も経験していたほうがいいと思うに至って、
小学校の特別支援学級で仕事をする運びになりました。
いざ、障害をもつ子どもたちと対峙してみると、
自分の支援者としての未熟さを実感し、とても悩みました。
自分のキャリアには自信はあるけれども、
それは子どもたちにはひとつも通用しません。
自分という生身の人間にはいったいどんな魅力があるのだろうと、
自分自身のことへの無知さにも気付き、
何も武器や鎧をつけずに仕事をしている感覚を覚えました。
子どもたちの世界では、
支援者の能力をバックアップするものは学歴でもキャリアでもなく、
「信頼してもいい人なのか」「関係性を築いてもいいと思えるのか」
といったパーソナリティーにあると気付かせてくれました。
土日の休みは、「支援」を捉えなおすべく、
教育・医療・福祉の勉強会に参加し、当事者の理解に努めました。
また、中学生や高校生への支援のボランティアも継続して行い、
小学生~中学生~高校生(6歳から18歳まで)の支援を
同じ時期に行っていたおかげで、
ライフステージのつながりを意識しながら支援することができました。
ここで、ひとつ疑問が沸き起こってきました。
「子どもたちの5年後、10年後はどうなっているのだろう?」と。
成人期の福祉施設を見学したときに、
カギのかかった閉鎖的な空間で
行動制限を受けている利用者さんを見て、
心にズシッとくるものがありました。
私はこんな考えがよぎりました。
「学校での支援のうまくいかなさ、
 例えば、自傷・他害行為への対応のうまくいかなさは、
 今日明日にすぐ改善することでもないから、
 中長期的な視点で見守っている。
 だけど…
 もしかしたら、
 こういった先送りにしている行動問題が、
 ゆくゆくは卒業後の受け入れ先である福祉職員に
 引き継がれていっているのではないか」と。
そして、当事者の視点に立って「支援教育」と「福祉」を考えてみると、
"生きづらさ"に寄り添うという点では、
支援教育と福祉には大きな違いはなく、対等なものではないか、
と思うようになりました。
ただひとつだけ、
教育はより集団的で、福祉はより個別的に、
支援をしているという感覚がありました。
実際に、教員として仕事をする上で、
本来ならば個別的に対応したいところを、
時間的・マンパワー的な余裕がなく、
横並び的に指導している自分にジレンマを感じることもありました。
結局のところ、
私が教員になりたかったのは、
子どもたちの"生きづらさ"に
個別的に寄り添うことにあったのだと、確信しました。
こうして、
教員としてではなく、
福祉職として障害者支援に携わり、
当事者の"生きづらさ"に寄り添う道を選びました。
これから一年で、
精神科病院で仕事をしながら、
夜間の専門学校で精神保健福祉士(PSW)を取得します。
成人期にリスクの高まる精神障害を中心に、
ライフステージを問わず、
クライエントの発達段階に沿った、
それぞれの"生きづらさ"に寄り添い、伴走する支援者を目指します。
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kisanebacci · 4 years
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発達障害批判の眼目
発達障害八大腐臭
一点目
差別そのものである
まずもって、この発達障害概念ソノモノが、とてつもなく差別的ダカラである。
既存の障害概念、疾病概念に対して、徹底的に、失礼無礼の限りを尽くし、た、その上に、この障害概念が成立しているのである。特に重たい自閉症のみなさんや、知的障害者のみなさん、そしてそして、特に、我々精神病患者に対しては、よりマシである、より軽く、より才能がある、と云う宣伝を、専門職とも当事者とも、そう、言い回っているのである。許されることではない。しかも、世間様の風潮も、ソウなのである。
しかも、それでいて、愚かしくも、当然、才能の高低や、在る無し、イロイロあるなかで、ナニかしらに『成功』した障害者がエライのだ、と云う風潮をばら撒いている、のである。ドウニカなる障害者が出てくるのは、至極とうぜんであろう。
精神病患者のグループに比べて、発達障害者の団体は、高学歴者が、多いのだそうである。実際調査してみて、ビックリした、と云うような、コトを、福祉系の雑誌に堂々と書くアンポンタンもいる、と云うコトだ。
しかも、書いた本人に当事者性もアル、と云うダカラ、念のいったアホさ加減ということであろう。ソンなに高学歴が、良いのですかいな、と想った
ソンなアホな記事が掲載されていた。これほど、障害者間の能力競争と差別感を野放図に表すコトもなかろうに、、、、しかし、もはや、そんな感覚も麻痺してしまっているのか、、、酷いハナシである
あえて、再度、言うのだが、過去の、そして現在も、今後も、ワラワラとやってくる病名変更を求めての意識的セカンド受診のママさんたちや本人たちに、精神病患者、精神病、精神症状、精神病患者のセーカツぶりに対する忌避感、嫌悪感、差別感は、無かった、皆無である、と、言えるのであろうか、ソコの所を再考にも再考すべきであろう
二点目
障害者の病者の底の底の真実のセーカツに
蓋をし、忘れさせ、見えにくくする装置と化す
他の障害者のモンダイを見えにくくし、目くらましを掛けてシマウ、日が当たらないようになっていくだろう。特におもたい知的障害者、おもたい精神障害者が忘れられていくだろう。また、営々と気づきあげてきた、他の障害者の文化を無しにしていくだろう。
それは、精神障害者だけではない、青い芝の会の、あの綱領の精神をまるきり反故にし、知的障害のみなさんが営々と築いてきた「歴年齢に見合った発達程度があると言う仮説への徹底した反駁」と「発達保障論への反撃」といった文化を反故にし、ありとあらゆる、昔ながらのおもたい障害者のドロドロぐちゃぐちゃの真の底の底の底の生命の底からくるセーカツや苦しさを見えにくくすることに、ヨーロッパ風の綺麗ごとの引用とともに、最大限発揮されるであろう。腐れた外道の所業である。
三点目
発達障害の概念が、範囲が、
無制限に無定見に拡大していき、
ついには、意味不明となる
そもそも、ムチャクチャな意味不明的な、あいまいで広すぎる障害概念ダカラである。ナンデモカンデモ発達障害に為ってしまうのである。ムカシなんでもかんでも、分裂病だったが、今度はナンデモカンデモ発達障害なのである。知的障害、自閉症、精神病、奇人変人、その他モロモロをすべからく、発達障害だ、と言い切ってシマッテいるのである。オソロシイことである。
もっとも、アンポンタンな状況は、精神病は存在しない、アルのは発達障害ダケである、とまで、言いだしているのである。しかもしかも、その診断基準たるや、お粗末トシカ言いようのないモノなのである。
ある医者の発達障害の診断基準を聞いたときに、腰を抜かしたのである。得々と語る、その診断基準は、ドウとでもトレれるシロモノで、なおかつ、ムカシの人格障害概念と、ソックリ同んナジモノなのである。しかも、当の精神医は、そのことに気づいてもイナい様子なのである。ナニを寝ぼけているのか、アンタは今、一人の患者を、発達障害の名のもとに人格障害である、と、診断しテシマッタたことに気づきもシナイのである。しかも、知的障害のセカイのみなさんが、セーカツとしてもウンドーとしても、営々と積み上げてきた、「暦年齢に見合った発達レベルがある」と云う「発達保障論的」な腐った概念に対する批判の数々を、アッサリ否定してしまっていることに、気づくことも出来ないでいるのである。そらおそろしく、寒々としたものが、背筋を走ってしまい、アホらしくて、その医者を批判することすら、アッケにとられてしまい、出来なかった次第である。ナサケナいハナシである。
余りにムチヤクチャな曖昧で範囲拡大増加の概念故に、とうとうムカシながらの人格障害、精神病質、発達保障論の再復活とともに、ドンなニンゲンにでも、貼り付けられる、まことに便利な名札と化してシマッタ。腐った専門家の諸君には、まことにケッコウな重宝な名札を、監察札を手に入れたのである。
心理と精神医と教育者どもは、ウハウハであろう。おっと治安監督官連中もね。
四点目
社会復帰にも、減薬断薬にも、
ついていけない者は、必ず出てくる
オモタい者は、ついていけなくなる
しかも、ついていけないのを本人のせいにする
結果、
社会復帰したいような社会なのかどうかと云う、キチガイの根底的な社会批判を無にする
ゲンジツには、キーサン病者のセーカツゲンジツ側から言わしてもらえば、
どんな音頭であっても、どんなによく見える音頭であっても、
それについていけないものは必ず出てくるカラダ。
漏れるニンゲンは必ず出てくる。
落ちこぼれるニンゲンが出てくる、からである。
キーサンと言おうが、発達障害と言おうが、
ケンビョウ者と言おうが、
必ず、弱い者、重い者、シンドい者、ツライ者、クルシイ者
ナニも出来ない者、が残されるのである。
ゲンジツと歴史が証明するところである。
おもたい者が、取り残され、忘れられ、隅っこに追いやられるのである。
そして、そのより重い者シンドい者を、より、強く苦悩の淵に追いやるのである。
キーサン患者会の積み上げてきた文化とは、真逆の、
障害者発達保障競争文化の行きつく先は、
弱い者、重たい者の、切り捨て、見殺し、自殺推進圧力ですわ。
社会復帰競争、社会参加競争、社会貢献競争、減薬競争、断薬競争、就労就学競争の敗者は、ドウなるのか、と、言っているのである。
ソコニは、そもそも、社会復帰したいような社会なのか、と云う我々キチガイキーサンの根源的な、この世の中の在り様に対する問題提起を、限りなく、矮小化し、無くすることになっていく。
リクツではない、
まず最初の関門、減薬競争のゲンジツをとくと、再考してみればよい
なかなか、ゼロには、ナランのよ、しかもしかも、ゼロに為らなかったことを、
本人のサボリや、努力の足りなさと云う、本人のセキニンに帰すと云う、
社会復帰敗者の原因は、患者本人にある、と云う
無慈悲限りの無い悪辣さなのである。
それは、結局は社会要因、環境要因の
限りない矮小化と無視に繋がっていくのである。
まず、減薬、断薬、社会参加、
そこに、ついてはいけないおもたい高年中年老年の
生活保護の入院生活の��い長い精神病者は、ドウなるんでしょうかね
 五点目
社会復帰競争の末に依存競争に陥る
障害者、患者の社会に対する、根源的問いかけを矮小化しつつ
『パスポートは特性理解』の路線で進めば、
これは、理解者を、できたらサポーターを、できたらサポートチームを
私のまわりにつくってくれれば、私の才能は花開くという
踊りになるからである。
セーカツするタメではなく、
才能を花開くというタメのサポートチームがいるのだ、
私の回りに作って専用のサポートチームを作って
作って作って私だけのサポートチームを作って
というような競争になるからである。
そして、うまくいった、少数だけがもて囃され、テレビに出演し、
講演と公演をして歩き、宣伝されるであろう。
シャカイフッキ路線の中でも最も悪辣極まりのない腐臭のする醜悪で激烈な、
『依存するシャカイフッキ競争』
『シャカイフッキのための依存競争』
『社会貢献競争の勝者と為るための依存競争』
とイッタヨウナモノになるであろう。
依存を深めながら、社会復帰を目指す、だと、、、
依存される専門職は、飯の食いはぐれが無い。
医療系、福祉系、に加えて、教育系の専門職はアハウハアハウハなのである
その上に、母親達にも、依存は続く
ムカシ、社会復帰は即労働は即自立への道と、宣伝された
ソンナことは、できやせなんだ。
だというので、こんどは、
これからは、母親に支配されて、専門職に依存を深めて、
社会復帰という、ことになっていくのである、これが、
発達障害概念の持つエグい側面である。
より重い、シンドイ障害者から、お年寄りから、
所謂「社会福祉資源」「福祉」を引き剥がしてでも、依存させてくれ、
に繋がっていくのである。
自立ではなく、依存に基づく社会復帰路線は、おそらく、とてつもない、
障害者間の、エラく為りりたい競争と健常者化競争を、惹起させ
それは、トコトンまでの依存競争を招き、
その依存度により社会復帰の程度が決ると云うコトに為ろう。
コレまでは依存度が低く就労する方が社会復帰だと、考えられてきたのだが、
ナントこの場合は、依存度が高ければ高いほど、才能が花開き、社会貢献も出来、したがって社会復帰度も高い、と云う、実に実に、
ナンダカ二重逆転化したような空恐ろしいことに為るであろう。
そうかぁぁぁーーー
自立自尊自衛自炊自レク自闘を目指すより
依存を目指すのかぁぁぁぁーー
シンドイことはやらなくてよい理論的支柱ができたわけや
依存したい発達障害者のみなさんも
依存させたい「依存サセ屋」の医療系福祉系教育系従業員も
アハウハアハウハバンバンざい、と云うトコロでんな
その依存競争の果てにあるモノとは、そも、障害当事者にとってナンなのであろうか、ちょっとばかり、考えれば、直ぐに、わかることである。
六点目
精神医療と心理が無定見に拡大し、
しかも無制限に儲かる、ウハウハに
だから、当然、特性理解者サポーター、サポートチームなどとは
結局のところ、精神医療と福祉と教育が発達障害方向へ拡大していくときの
ボロ儲けのタネになるであろう、ということである。
クスリと電気ショックと四肢拘束で儲け、
発達障害のミナサンへのサポートチームでも、
また、ボロ儲けするのである。
依存してくれるので、飯の喰いはぐれがないのである
まことに、ケッコウな、お商売なのである。
精神医療と福祉は、根絶も縮小もしていかない。
拡大していくのである、オソロシイ。
心理職の国家資格化おねだり路線を見よ
申請神聖発達博士片岡聡のリトプごっこを見よ
NHKから金もろうて、議員様相手に、
法整備、制度政策おねだり講演会、開きくさった、
笠セカンドからとうとう、こんな戯けた当事者が
悪辣極まりない障害当事者が羽化を始めましたよ
バカバカしい
当事者からのおねだりもアルので
本当に、ぼろ儲け、していけるであろう。
発達護送船団おねだりボロ儲け路線である。
専門職が、今の十倍いても、発達障害者を十倍に増やせばいいだけだから
しかも、依存してくれるので、本当に、ボロい儲けを生み出すであろう
これで、精神医療を根底的に破壊できる、などと、寝ぼけたコトをいえたものだ、
笠陽一郎大センセイよ。
逆だよ、逆、精神医療と、福祉は、徹底的に、拡大していけるんだよ、
この発達障害をツコウてね、ぼろ儲けしながらね。
ナントイウバカげたことを、アンタは、ヤッテしもうたんだろうね
七点目
障害者、病者の発言、行動に対する
無効化の武器がまた一つ増えるだけである
またもや、またもやの、まことに結構な、発言や行動を無効化できる、素晴らしい、武器となるのであ。たとえば、我々精神病者は、アレがキチガイの戯言やと、アレが躁や、アレが妄想や、アレが鬱や、アレが偏執狂やと、アレが躁鬱の波や、アレが幻聴や、アレが幻覚やと、アレが人格障害や、アレが精神病質��、アレが鬱や、アレが被害妄想や、と散々に言われて、我々の言うこと為すコト、すべからく、価値がない、と、無視され、無効化されてきたのである。ここにきて、今度は、さらに加えて、アレが双極性障害Ⅱ型の薬剤性やくざや、あれが、発達障害者の、こだわりと云う特性やタラ、興味の持ち方の狭さやタラ、アレが人間関係の幼さやタラ、発達障害の成長の無さやタラ、タラタラタラタラと、精神医中心に散々言って無効化するのである。
例えば、さぞや、このところのえばっちの文章に、対しても、言っていることであろう。そう、だから、この七点目を特に重宝しているのは、実は、内海聡や、嶋田和子や笠陽一郎達と言った、発達障害や発達特性を、精神医療改革の最終結論だ、答えだと、言って良いように宣伝して広めてきた当の本人たちが、いざ逆らうようになった病者たちに、患者たちに向かって、陰ひなたなく使っているのである。笠陽一郎のホームページや嶋田和子のブログに内海聡のブログにも、隠そうにも隠せなく、端々に、にじみ出ているのである。ああ、もちろん、くじら会のママさん達の茶飲み話にも、為っていることでしょうね。許せないことだ。さぞや、さぞや、他の医者たちや心理士や治安監督官たちにも、良いお手本に為っているだろう。こうやって、我々のヨウな文句言いのキチガイの言う事や書いているコトや、叫んでいることを無効化するのである。叫ぼうとしている中味を考えようとすることなど、ないのである。精神病の症状と発達特性と、の、せいにすれば、よいのだから。精神医の診察室での、心理士の相談室での、患者への無効化兵器が、一挙に倍どころか、十倍ぐらいに増えるンデスヨ、いゃああーー精神医と云うのは、カウンセラーと云うのは、まことにケッコウな気楽なお商売ですな。我が身らの診察室や相談室を荒らしそうな患者に対して、無効化の手段が一挙に倍にナッタのである。精神病で無効化できなかった発言や行動に対して、今度は、発達特性で無効化するのである。特に診察室で、医者やカウンセラーやPSWや学校の先生に逆らう患者に対する無効化兵器が倍増したのである。
いや、念のいったことに、更に兇悪なことには、発達障害特性は、最初の入門口に才能があると云う方向も宣伝シマクッテいるので、ナント有効化と無効化を、相手を選んで、医者の好きなように有効化と無効化を選択して使えるのである。コレは、恐ろしいことである。精神病では、コウはいかない。医者に逆らう非友好的患者には、精神医は発達特性故の無効化を叩きつけ、友好的患者には発達特性故の有効化して才能あると持ち上げさえ出来るのである。ソレをまた、逆転することも可能なのである。依存先の精神医と心理士と先生の思うがままに、である。
コレを最も悪用してきたのが笠陽一郎と云う精神医なのである、と言ったら、この七点目の罪悪が、ハッキリすると想います。「双極性Ⅱ型の薬剤性やくざ」と云う新造語を造って、揶揄無効化のために、己がホームページで、吐きまくったのですから。他の精神医の先生様方が、笠セカンドや笠陽一郎大先生様をお手本に出来る最大の点でしょうな、コレが。オソロシいことだ。
で、結局は、観察法法廷や、治安監督官たちにとっても、後見人たちにとっても、いやはやまことに、ケッコウな武器でしょうな。発達障害本や発達特性本の、使い方の読み方の、新たなる一ページ、と云うか、元々の一ページでしょうな。
どちらにせよ、病状、症状で無効化できなければ、今度は特性で無効化するのである。一人の人間を無効化するに、症状で、出来得なければ、特性でも、出来る、と云うコトなのである。有り体に言って、患者を病状や症状のせいだからと、沈黙を強制しようとしても、出来得ないときには、『発達特性』で、無効化できる、と云うことである。
八点目
保安処分、治安処分の
超早期的かつ
無制限強化拡大に陥る
ダカラ、結局サイゴは、治安的、保安処分の強化拡大に直結するのである
この音頭で踊っているうちに、精神病では捕らまえられなかったような、
奇人や変人をシャカイの治安を乱す者として、まこと広範囲に、しかも極早期に、
番号をふれるということである。
特に、この発達音頭は、シャカイの治安を乱しそうなものを
幼児のうちから、まさに「早期」のうちからピックアップできるだろう
なおかつ、本人や、母親の方から、我も我もと、争って、番号を振って欲しくて
医者や、心理や、教育の専門家に、押しかける、と云うしだいに為るのである。
まさに、究極的な、まさにまさに、シミンの皆さん待望の
早期介入的な横断的拡大主義的過剰診断的な保安処分が完成できるであろう
ということである。
三歳児健診、五歳児健診、の制度政策提言を見てみたらよいのだ
心神喪失者医療観察法が、フル回転するのである。
後見人も、フル回転しやすいのである。
病院に施設に、放り込みやすいのである。
決めるのは、依存先の、専門職たちナノデある。
ナニを寝ぼけているのか、ソコに依存しようとしているのが、分からないかねー
この発達音頭の踊り子さんタチはねーー
さらに、しかも、この番号を振っていく過程で
才能を花開かせるためのサポートチームと引き替えだと言われた場合、
この踊り手サン達は、それを拒否できるのであろううか?
手帳なんてものとは質のチガウものと引き換えですよ、早い者勝ちですよ
と言われた時、発達障害者たちは自主的に群れ集まり
ナニカを売り渡すことになろう
治安監督官様が、最も利用しやすい保安処分方法とは、発達障害を梃子に行われることと為るのである
現実に、このところ、よくわからないような、マスコミをにぎわす事件で、精神病を貼り付けられないようなことに、あっさり、発達障害を貼り付けているのを、いつも、こわごわ、みているのである。
そして、そこに反抗する当事者の意見を封殺ではなく、完全無効化スルのである
本当に驚くべき程、上手いことできた障害概念であると、想うのである。
これを思いつき、応用しているヤツは、天災的な天才であろう。
ちなみに、それは、笠のホームページでも、おこなわれてはいなかったか、、、、そう、あの大泣きした議員に、あっさり、アレは発達臭いと、貼り付けていなかったか、典型的な、保安処分活用とは、笠のホームページで行われていたのである。治安管理官様たちにとって、良い勉強になったと、想うのである
  精神病患者会前進友の会やすらぎの里作業所
あくまでキーサン革命の鬼えばっち 江端一起
えばっちのはてなブログ
https://ebacciblog.hatenablog.com/
えばっちのホームページ 乾坤一擲
http://ebacchihomepage.dousetsu.com/index.html
えばっちのタンブラー
https://kisanebacci.tumblr.com/
前進友の会やすらぎの里のホームページ
http://yuinoumi.web.fc2.com/zenshin-index.html
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hello-diversity · 5 years
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[テキストアーカイブ]触れる、聞く、嗅ぐことから…新しい“ユニバーサル・ミュージアム”を考える
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出演:広瀬浩二郎(国立民族学博物館)、角野史和(一級建築士事務所こと・デザイン)、中元俊介(福祉事業型「専攻科」エコールKOBE)、吉川史浩(Water Ground Mountain)
進行:横堀ふみ(DANCE BOX)
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この日の後半は、角野史和さん、中元俊介さん、吉川史浩さんがまず自己紹介を行って、広瀬さんがこの日、新長田のまち歩きをしてみた感想を話してから、3人による広瀬さんへの質問タイムがはじまりました。 ここでは、広瀬さんのまち歩きの感想から掲載します。
なお、この秋には「下町芸術祭」のプログラムとして、広瀬浩二郎さんによる新長田でのまち歩きが計画されています。
広瀬:まず商店街を歩いてきて、わりと大きな通りで音楽なんかも流れていたので、それなりに元気な商店街なんだという感じがしました。広い道を歩いているときはあまり左右の感覚ってわからないのですけど、それが路地になると迫ってきて、いろんな音も聴こえてくるので、今日は路地を歩かせてもらったのが楽しくて、まちの雰囲気がわかりました。やっぱり路地に入るといろんな匂いがして、生活してるんだなというのが伝わってきます。 僕は不勉強で海がこんなに近いと思ってなくて、なんとなく潮の匂いがしてきて、ふと気づいたらチャポチャポと波の音が聴こえて、ウミネコですか…が鳴いてたりして。個人的に面白かったのは、そこにおじさんがたむろしていて、帰ってきた漁師の方かなと思ったら、どうもそうでもないらしくて、日本語なんだけど最初から最後まで何を話してるのかまったくよくわからなかった。それでも楽しげに話していて、地元の人なんだなという感じで。 後半は市場の方へも行ってみて、すごく細い道を歩いたりして、ベトナム料理店に入りました。まず、その第一印象はうるさい(笑)。みなさんベトナムの方なので内容はわかりませんけど、楽しそうにしゃべっておられて。店のおばさんは日本語が話せる方だったので、注文をして、食べて、「おいしかったです」と言って出てきましたけど、やっぱり独特の雰囲気でほんとにベトナムにいるような感じがして、暑かったうえに、熱いものを食べたので汗だくになりましたけど、食べるということは見えない者にとって、まちを感じるうえでやっぱりすごく大事だなと思います。 僕も最近、「ユニバーサルツーリズム」という言葉を使うことがありますけど、ユニバーサルミュージアムという博物館での実践をまち歩きにもどんどん応用していこうという発想でいます。ところが、研修会や講演なんかに行ってみると、いろんな障がいのある人が旅行すること、イコール、ユニバーサルツーリズム、インクルーシブな社会なんだという言われ方をしていて、たしかにその発想も大事なんだけど、ここのプロジェクトで言ってるような「ぐちゃぐちゃのゴチャゴチャ」というのは、そういうことではなくて。たとえば、視覚障がいの人がまち歩きでは、匂いや触るってことをメインに考えるんだけど、別にそれは見える人にとっても応用可能で、普段の視覚中心のまち歩きじゃなくて、触覚や嗅覚にフォーカスしたまち歩きをしてみましょうと。そうすれば、これは「ぐちゃぐちゃのゴチャゴチャ」のユニバーサルツーリズムになってくるので、せっかく新長田でチャンスをいただけるなら、そういう一歩進んだ企画ができたらいいなと思っています。
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角野:広瀬さんは「無視覚流まち歩き」という言葉も使われてますよね。ユニバーサルツーリズムよりも、そっちのほうがしっくりくる気がしました。
吉川:広瀬さんがユニバーサルツーリズムのようなことをこれまでにされてきた中で、参加者の方がどんな反応をして、どんな感想があったのかを聞いてみたいです。
広瀬:そんなにたくさんやってるわけじゃないですけど、評判もよかったのは、大阪の空堀でのまち歩きです。空堀のNPOに協力依頼をして、最初は、僕ともうひとりの視覚障がい者でお願いにいきましたら、向こうの方々も視覚障がい者を受け入れるのは初めてだということでかなり戸惑いがあって、警戒をされながらもこちらが押しかけていって、とにかく顔を付き合わせるうちに話を進められました。 空掘も昔ながらの商店街で、商店街がとても協力的でしたので、いっしょに巻き込んで、たとえば、かつお節を実際に削る体験をやってみたり…それも当初は、NPOの方から「目が見えないと刃物は危ないからムリだ」と言われましたけど、「とりあえずやりましょう」ってやってみたら、案ずるより産むが易しでやれて、そういう打ち合わせを重ねました。結果、目の見えない人と健常者がざっくり半々くらいで集まって、基本的にはペアで歩く形のまち歩きを行いました。商店街の方々もサービス精神が旺盛だったので、結構いろんなものをただで出してくれたりということもあったし、空堀は地形に起伏があって、坂を感じたりだとか、場所によって日の当たり方が違っていたりもしたので、視覚障がいの人も健常者も視覚以外の感覚で楽しむというところに反応してくれた印象がありました。秋に新長田でまち歩きができるなら、角野さんと何度か安全確認もふくめて下見をして、打ち合わせを重ねることが、まち歩きを成功させるには大事なのかなと思います。
角野:今の話を聞いてると、なんか無料で食べ物を出さなあかん気がしてきました(笑)。
吉川:どの店やったら出してくれるやろうって、ちょっと想像しましたね。
角野:僕にそんな力あるかな(笑)。ハードルが上がりましたね(笑)。見える人と見えない人が半々ということですけど、そこでコミュニケーションとかもあったんでしょうか。
広瀬:視覚障がい者のひとり歩きは危険ですから、見える人と見えない人がペアで歩きました。こちらの7月のキックオフ・ミーティングでも「距離感」というキーワードが出ていたと思いますけど、視覚障がいの人と晴眼者の人では、歩くときの距離感が明らかに違います。今日、僕が新長田を歩いたときには横堀さんの肘を持たせてもらって歩きました。これって、よく言われるのは、たとえば男女のカップルでデートをするときに、一番むずかしいのは手をつなぐところまでに非常に時間がかかるんだけど、視覚障がい者はそこを飛び越えてすぐに近寄れるじゃないか、恵まれてるみたいなことを言われて…僕は自分のうん十年の経験から全然そんなことはないと思うんですけど、距離感ということでいえば、たしかに肘を持たせてもらうって文字通りの触れ合いですよね。そこで親しくなれる部分はある気がしますし、特にまち歩きの場合は、おおげさにいえば、これはノンバーバルコミュニケーションで、肘に触れてることでいろいろ伝わってくるわけです。階段を上がるときには肘が上がるし、ちょっと怖いところを歩いたり警戒するときにはこちらもぎゅっと握ったりすることもあるので、これを触れた点でのひとつの新しいコミュニケーションだと考えると距離感が縮まる気がします。 だから、まち歩きをする前には準備体操のように、触れた点を意識して動くみたいなことをしてから、まちへ出るようにしています。そうすると、私は誘導する人、あなたは誘導される人という意識が少しなくなって、その分、一緒に楽しむという意識が出てくるような気がします。横堀さんは今日歩いてみてどうでした? ずっと連れて歩くというのはうっとおしかったでしょうけど(笑)。
横堀:このままどこかに飛んでいきそうな子どもを引き止めながら歩くような感じがしました。でも、広瀬さんと歩くのはドキドキしましたね。自分の思てることを全部見抜かれてそうで。そのドキドキも全部伝わってるんだろうなと思って。それもすごく楽しかったです。
中元:ちょっと話がズレるかもしれないですけど、触れること自体が踏みこんでいくことなんだろうなと、そして、そういう触れることがコミュニケーションなのかなとお話を聞いてました。僕は、芸術的な感覚で考えるところが多くて、コミュニケーションをとることがアートだと感じているので、その触れて、嗅いで、感じてっていうまち歩きからコミュニケーションが生まれるというのがいいなって。 今日はじめて広瀬さんとお会いしたとき、最初って何をしゃべったらいいかなと思いながら、僕ら沈黙してしまったんですよね。広瀬さんに会って挨拶をした後に。沈黙したときに気を遣うっていうとあれですけど、広瀬さんは沈黙をどういう風に感じてるのか。見えないからこそ感じてることもあるのかなって。
広瀬:僕もおっさんなので、だんだん図々しくなってるんで、あまり考えないようにしてますけど、やっぱり沈黙は苦手で。いちばん僕らが苦手なのは立食パーティーで、それは沈黙とは違いますけど、たとえば、知らない間に角野さんが来て、知らない間に中元さんが去ってるというようなことがよくあるんです。周りがガヤガヤしてるとよくわからなくて、さっきまで中元さんと話してたから、「え、中元さん、なんとかだよね」って言うと、もう中元さ��はいなくて返事が返ってこない。で、角野さんが「あれ、中元さんはもういないよ」って言われたときに、その恥ずかしさというか、その場にいられないような感覚。これはなかなか慣れないものです。立食パーティーでもういっこイヤなのは、僕はわりと大食いで、そんなにお酒は飲みませんけど、飲みっぷりもいいと思われていて、知らないうちに結構注がれてる。もうお腹いっぱいだからいらないや、と思ってたら、いつの間にかまたよそわれて、しょうがないから食べたら、「やっぱり大食いなんだ」と思われて、またよそわれて(笑)。だから、特に視覚障がいの人とコミュニケーションの場合は、声かけが大事で。これ、親しくなるほど忘れられるんですけど(笑)、ごめんなさい、質問からちょっとズレましたけど、たしかに沈黙されると相手が何やってるのかはわからないので、沈黙しても気配は消さないでほしい。ゴホンゴホンってやるとか、資料を読んでるならガサガサ音をさせるとか。 あと、ついでにいうと、吉川さんも中元さんも福祉の仕事をされてるから語弊があったらよくないですけど、「ふれあい」という言葉が障がい福祉の世界では使われていて、僕はその「ふれあい」ってイヤな言葉で、マジョリティの側が「さあ、ふれあいですよ。障がい者の方もどうぞ」って感じを感じなくもない。もともとの、漢字で書く「触れ合い」は相互接触ですから、いい言葉のはずで、さっきから話してる一緒に歩くというのも触れ合いですよね。漢字で書く「触れ合い」を大事にして、ひらがなの「ふれあい」と区別して使ったりしています。 もうひとつ、中元さんから芸術の話が出て、絵画は難しいですが、彫刻作品を触るというのは、おおげさに言うと作者とコミュニケーションしている、作者の制作を追体験してるみたいなことになります。作者の思いや、どんなエネルギーを込めてこれをつくったのかを想像しながら触ると、それがたとえ間違ってたとしても作品とのコミュニケーションであり、作品の向こうにいる作者とコミュニケーションできるので、特に彫刻や立体物の場合は、触るというところがひとつの強みになるんじゃないかなと思っています。
吉川:角野さんもまち歩きでめっちゃ触るじゃないですか。
角野:そうですね。東京駅にあるKITTEという建物は、足もとにすごくなめらかな曲線が使われてるんですね。柱とか、もとはひとつの石だと思うんですけど、それを目で見るだけじゃもったいない、触りたい、「ほんとに石だ!」みたいな…たまらない(笑)。たぶん、鑑賞に触覚を使うのはとても贅沢なことで、僕なんか形を目で見るだけではもったいないという気持ちで触ってるんですね。それはすごくいい体験になるんちゃうかな。
横堀:角野さん、もし新長田のまち歩きのなかで、触るんやったらここやみたいなのってありますか。
角野:新長田は匂いとか、あるいは狭さとか、そんなんを感じてもらえたらと思ってるんですけど…海の匂いもあるし、どちらかといえば、ぱっと思いつくのはそっちですね。食もそうだし。真野地区って隣り町ですけど、そこはゴムの加工が多くて、ゴムの匂いがすごくするんですね。範囲が広くなりすぎるので難しいかもですが、歩いて匂いを感じることでまちの文化がわかるみたいなことは、すごくいいなと思ってます。
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吉川:靴工場の音とかも面白いかもしれないですね。うちのクライミングジムの上が靴工場になっていて、ブイーンとか、ガコガコって音がするけど、想像してもどんな機械が全然わからへん。その音を聞いてたら見に行きたくなりますもんね。
角野:マイク持ったついでに広瀬さんに質問させてください。今日、広瀬さんが紹介してくださった新聞記事の見出しに「野生の勘の取り戻し方」って書いてありましたけど、僕もまち歩きをやってると「この路地におうな~この奥行ったらなんかあるな」とか、そこは研ぎ澄まされていて、まあまあ当たるんですよ。実際の匂いじゃないですよ。僕は目で見る感覚を「何かにおう」と置き換えて、そこに行くわけですけど、広瀬さんもまちを味わうときにそういう感覚ってあるんですか。
広瀬:うーん、それとはちょっと違うかもしれないですけど、食べ物屋さんに入ったとき、なんとなくここはおいしいとか、まずいとかみたいなのを感じます。それは音や匂いだと思うんですけど、逆に、視覚に惑わされずに、こぎたない店でも実はここはおいしそうだなというのはあるのかなと思います。
角野:床のベトベト感とかかな。
広瀬:その「野生の勘」というのをちょっと解説すると、僕の専門の人類学の話になりますけど、レヴィ・ストロースという人類学者がいて、彼が『野生の思考』という本を出しています。人類学では古典的な重要文献ですけど、レヴィ・ストロースによれば未開人と文明人がいて、未開人が劣っていて、文明人が優れてるって、わりと二者択一に考えられてきたのが、実はそうじゃなくて、未開人は野生の思考というのを持ってるんだと。文明人も本来それを持っていたんだけど、文明という名のもとに野生の思考を忘れかけてるんだというんです。この図式は、健常者と障がい者にも当てはまって、たとえば、僕は視覚を使わないで歩いてるけど、時代をさかのぼれば、暗い夜道を星明かりをたよりに歩くなんてことは、誰でもやっていたことで、そういうみんなが持っていた感覚が、いろいろ便利になると失っちゃうところもあって。角野さんがおっしゃるように、自分が持ってた「何かよくわからないけど、たぶんこっちやろ」みたいな感覚、それを幸か不幸か、わりと色濃くのこしているのは障がい者の方なんじゃないかという気がします。だから、当然、障がいをとりのぞく努力もあるけれど、逆に障がいのある人が持つ野生の思考、野生の勘みたいなことを再評価しようと思って、野生の勘という言葉を使っています。
角野:なるほど、ええな。アイマスクをしてまち歩きをしたら、もっと敏感になれるかもしれないですね。
吉川:たしかに、カーナビを使いはじめて道を覚えなくなりましたもんね。逆に、山へ行くときって紙の地図を持って、コンパスで歩いたりするから絶対に忘れないんですよ。「ここちょっと上がったら目的地かも」みたいな感覚的なところが研ぎ澄まされてるかも。
広瀬:さっき言いそびれたんですけど、建物の壁を触るのって楽しいんですよ。なので、角野さんには新長田の壁をぜひ探していただきたいです。僕はいま、京都国立近代美術館のプロジェクトを手伝っていて、展示品には絵画が多いのであまり触れるものはなくて、それなら美術館の建物を触ろうかって、学芸員の方に建物の素材をいろいろ説明してもらって、建物を触りまくってます。やってみると、美術館はおしゃれな建物で、素材にもこだわってるからわりと面白くて、室内の柱でもツルツルになってるけど、手を伸ばして上のほうを触ってみたらザラザラだったりして、やっぱり下の方は人に触られてるんだなというのがわかったり。階段がおしゃれな構造になってるのでそれを触ってみたり、裏側にまわってみたり。そういう建物を触って楽しむこともしたいので、角野さんにはぜひ触り甲斐のある建物を探していただけるとうれしいですね。
角野:建物はありますね。駒ヶ林の路地の入り組んだところに、和洋折衷の角野邸という建物があって、もとは漁業の網元さんの建物なんで、すごくいい材料を使ってるので、なめまわすように触るといいかもしれないですね。
中元:保育園もいいですよね。階段の手すりがすごく気持ちいい。
角野:手すりは触ってしまいますよね。広瀬さん、いい手すりありますか、今までに触った手すりで、これはよかったなみたいな。
広瀬:やっぱり美術館の手すりは、それぞれおしゃれなんです。あと、話が違うかもしれないけど、駅の手すりって、視覚障がい者でも普段からひとり歩きをしてる人であれば、駅の階段みたいな規則正しい階段は別に苦にならない、手すりを持たずに杖でカンカンってやりながら歩けるんですけど、ときどき手すりに点字で「何番線は何」とか案内があるんです。僕がひとり歩きするときにそれを使うんですけど、意外とあの点字がつぶれてたりするんですね。たまにガムが付いてるやつとかあったりして、そういうのを見つけると怒りというか、悲しくなることがありますね。
中元:僕らがガムをとっていけばいいんですね。
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横堀:実は予定時間を過ぎてしまっているので、お帰りにならないといけない方はいつでもどうぞ。あと10分、15分くらい延長しても大丈夫でしょうか。…じゃあ、あと10分くらいをお話の時間ということで。
中元:どうしても聞きたいことがひとつありまして。その前に、広瀬さんは恋愛感情として、女性が好きな男性でよかったですか。
広瀬:はい。
中元:そうなったときに、視覚障がい者の人が美人だという女の人ってどんな人なのかなって。そういう恋心がどこから生まれるんだろうってヤボな質問ですけど。
広瀬:それは非常によく聞かれるんです。大事な質問だと思います。やっぱり、なんだって感じでしょうけど、声ですね。しゃべり方、イントネーション、間のとり方などから、年齢やどういう人なのかとかをいろいろ想像して、一目惚れに当たりハズレがあるように、当然、ひと耳惚れにも当たりハズレがあるんですけど(笑)。第一印象の声というのはすごく大きいと思いますね。
中元:ちなみにどんな声が好みですか。
広瀬:どうでしょうね…もう今はすっかりおばあちゃんになってますけど、昔は松坂慶子とかのしゃべり方が好きだったりしました。
中元:あ、艶っぽい感じか。
角野:なにを分析しとるんや(笑)。
広瀬:だけど結局、振り返ってみて、今まで好きになった女性に共通点があるかといえばそんなにないし、すごくいい声だったかというとそうでもないような気がします。
中元:第六感みたいなところでしょうか。ありがとうございます。
角野:これは、ちょっと難しいんですけど…「映え」ってあるじゃないですか、インスタ映えとかの映え。視覚でみなが楽しんで「映え」って言ってるんですけど、広瀬さんの映えに対抗する作戦ってなにか思ってはることがありますか。
中元:「触り映え」的な?
広瀬:そうですね、まず、自分のしゃべったことと矛盾するかもしれないけど、僕、見える見えないに関係なく、そんなにファッションとか気にしないタイプで、最近では人前でしゃべったりすることもあるので、あまり突拍子もない格好はしないようにして、家族に確認してもらったりとか、多少なりとも見栄えするものを着て。世の中、視覚中心ですから。「いや、おれは触るだから裸でいいだろう」って、そこまで過激にはなれませんので(笑)。 そういう意味で、「触り映え」とおっしゃてくだいましたけど、これは芸術鑑賞にも関わってくるんですけど、触って感じる美とは何か。これを考えはじめると難しくて、答えが出るわけでもないんですけど、来年に(国立民族学博物館で)計画している特別展では、いろんなアーティストに協力してもらって、触って楽しめるもの、触って美しいものってなんだろうってみんなで考えてみたいと思っています。
角野:そっか。言われてみれば、いわゆる「映え」って視覚優先のものに対する活動ですよね。触り映えするものは何なのか。追求していく作業も面白そうですね。
横堀:じゃあ、最後に吉川さん。
吉川:最後、感想みたいになりますけど、意外と自分も触って何かを認識して、確認してることがあるんだなとお話を聞きながら感じました。僕らはロッククライミングをするときに、ロープを出したり、カラビナという連結器具を使ったりするんですけど、その不具合を感じるのは、触っていつもと同じ動きをしないときに「あっ、おかしいな」となって、後から見る。触るほうが先。ロープを結んだ形とかでも、触って感じている。意外と生活のなかで触るという行為によって確認するということを自分もやってたんだと思いました。それに気づけたことは、触るのを楽しみにするみたいな、自分の感覚がちょっと広がった気がしてよかったなと感じました。ありがとうございます。
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この後、広瀬さんの指示のもと、会場全員で身体を動かすことをやってみました。2人で1組になって、正面打ちのように相手が振り下ろす腕を防ぐのですが、その防御姿勢をとるのを目で見て/声を聞いて/触わった点に意識を集中して/の3パターンで体感。触覚にしたがって動くことが、視覚や聴覚に比べても圧倒的に早く反応できることを実感しました。
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lotus19751215 · 5 years
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カフェ勉強します。 轟音の中! . . #陶房かたち #先生ありがとうございます #珈琲 #カフェ #カフェ巡り #ブックカフェ #キッチンカー #移動販売 #移動ブックカフェLOTUS #精神保健福祉士 #PSW #キッチンカーズ #くる食 #キッチンカーズライフアイドゥ #くる職 (アイビーカフェ ネイバー&ワーク) https://www.instagram.com/p/BxMEYQglGni/?igshid=1c33scmdy5zxb
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shikakumania · 5 years
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40代を超えれば姨捨山行?!未来がないOLが選んだ精神保健福祉士 カウンセラーってちょっとカッコいいなって思ったことはありませんか? 私自身、福祉現場の採用担当で勤務していますが、まだまだこの業界にはカウンセラーと呼ばれる社��福祉士や精神保健福祉士が、足りていないと感じています。 理由は、やはり専門の大学過程を通過しなければ、取得要件さえ満たさないこと。取得にはそれなにりの出費があるため、二の足を踏む方が多いのが原因と考えています。 それでも、私と同じ世代の中高年が果敢にチャレンジしたと聞いて、うれしく思ってしまいましたよ。 職場に悲観的なOLは精神保健福祉士になると決意 私は42歳の正社員で働く2人息子の母です。現在、精神科病院が法人となっている障害者施設で働いています。 私が年齢が結構いってからでも、取得を考えた資格は、精神保健福祉士です。39歳の時に国家資格取得のため、大学の通信学部に三年次編入として入学。 実は、私はこれまでずっと一般企業の総務で正社員をしていましたが、このままこの会社にいても給料が上がらないって悲観していました。 しかも、先輩の女性達は、ある程度の年齢になると総務の仕事ではなく、掃除をさせられて、徐々に辞める方向に持って行かれている様をずっと見てきたので、正直このままこの会社にいても先は長くないなと思い、これから必要となると思われる資格を探しました。 実際に、いろいろな統計では、精神障害者の方が増えていることや発達障害の方が多いことを知り、将来的にも役に立つのではないかと思いで取得したのですが、やはり転職にとても役に立ったというのが実情です。 福祉業界は人材不足と言われている中、高齢者施設にはある程度人材は確保できているようです。しかし、障害者分野では離職者が多く常に求人が出ている状態です。 精神保健福祉士を取得したことにより、さらに求人数は多く、給料も免許手当などがつくため、以前の一般企業でもらっていたお給料とは比べ物にならないくらい増えましたね。 同じ時間働いてこんなに給料が違うのかとめっちゃ驚いたと同時に、ニヤニヤがとまりませんでした。精神科で勤務するのは怖いという友人もいましたが、実際はそんな怖いことはありません。 むしろ心優しい方が多いので、イメージが先行しているようです。 精神保健福祉士を取得するため日本福祉大学に入学 私は働きながら、福祉系の4年制大学の通信学部へ入学しました。元々、一般というか福祉には全く無縁の短期大学を卒業していましたが、大学へは3年次編入という形で入学が認められました。 私が、いくものある大学の中から選んだのは、福祉大学の中ではかなり有名な愛知県にある日本福祉大学です。かなり田舎にある大学ですが、通信学部だったので大学に行くことはありませんでした。 しかし、大学の授業の中には、東京や大阪に行かなくてはいけないことが1年に2~3回ほどあり、授業の後は観光をしたりと私は楽しみにしていました。 この大学生活の2年間は、正社員での仕事、家事、育児などもあり正直大変でしたね。 大学の単位を習得するため、テスト前は寝る時間も犠牲しましたし、仕事の昼休みもこっそりと一人で勉強をしていました。 テストを受けるためには事前に学習を終えていなくてはいけないため、こどもが習い事で家にいない時間には勉強をし、家事なども朝早く起きて済ませなくてはいけませんでした。 今思えば、過酷な日々だったのかもしれませんが、その分、時間をうまく使う方法を自然に身に着けることができました。 ちょっとの隙間時間やお風呂でも教科書を手にしていましたし、ネットでの授業視聴は携帯を片手に暇さえあれば見ていました。ただ、年齢的にも覚えることに時間がかかり、若い学生の時とは違うなと実感し、かなり落ち込みましたが、無事に2年で卒業できた時は、かなり嬉しかったです。 精神保健福祉士の資格取得に要した費用は120万円 日本福祉大学の受験料が1万円、入学金が6万円、同窓会入会の金額などもあり、授業料を支払う前に約8万円弱かかりました。さらに、授業では1単位につき5,400円かかり、2年間で64単位を取得しなければいけないので約35万円。 東京や大阪、愛知など好きな場所が基本的に選べるスクーリングに、年に数回泊りで行く必要があるため、その旅費とスクーリング代を含めると約22万円ほどかかりました。その他、4年次には実習があるためその金額が20万円ほどかかり、2年間で85万円ほどの出費。 幸い私は、単位を落とすことがなかったため、この金額でよかったのですが、単位を落とすと翌年また単位の履修が必要などで、新たにお金が追加でかかります。 私は、毎日1時間以上は勉強していましたね。テストが近くなると、5時間ほど休みの日に勉強していましたし、時間が取れる時は平日3時間勉強時間に費やしました。 一番ひどかったのは、1年目の3年次の時に一気に単位をとろうと計画したため、日々大学の勉強に追われていたことです。 4年次は、わずかな単位習得の勉強と国家試験の勉強を行うと同時に実習も24日間あったため、これもまた正直ひどすぎて、途中で投げ出しそうになりましたが、高額なお金を払っているため自分で辞めることのブレーキをかけることができました。 40代からの精神保健福祉士取得はやはり辛かった やはり、国家資格は就職や転職に有利であると感じました。 しかも、同じ時間仕事で拘束されるなら、給料は絶対に多い方がいいですね。ただ、国家資格取得とはそんな甘いものではなく、私のようにある程度年齢がいってから取るとなれば、その分より一層大変です。 働きながら、家事もしながら勉強というのは、正直想像を絶する生活でしたね。 もし、この精神保健福祉士を目指すのであれば、できるだけ若い時にということと、実際に障害者施設で勤務経験が1年以上あればいくつかの要件はありますが、24日間の実習が免除になるため、精神的にも体力的にも金銭的にもかなり楽になります。 資格を取得したけど、実際に障害者施設のイメージが違っていたとな���と、もったいないため、事前に障害者施設に就職してから資格取得を目指すことをおすすめします。 精神保健福祉士を取得すれば、施設だけではなく精神科病院や市町村の職員としての求人もあります。パート勤務であれば、時給が1,400円のところもあり、かなり高額と感じましたね。 すべてはお金のためと言うわけではありませんが、お金は大切です。その分、苦労や大変なこともあります。しかし、この資格をとって損はありません。 ぜひ頑張ってください。 職場に未来がないOLが選んだ精神保健福祉士 今回の体験談はいががでしたでしょうか? 40代に入ると、急に体力だけでなく気力も衰えてしまい、いざ勉強を始めようと思ってもなかなか頭に入ってこない現実にぶち当たります。 もっと若いうちに勉強しておけばよかったなんて、私も同じように思ったものです。 しかし、いくつになっても学ぶ気持ちは大切ですね。そんな熱い思いをを忘れず、果敢にチャレンジしてみてくださいね。
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