MKT川湯温泉〜仁伏半島編
川湯温泉駅でお腹を満たし、買い出しもして硫黄山へいざ出発!
私はさっき昼食を食べたばかりだと言うのに硫黄山で食べる予定のゆで卵への意欲が増すばかり。
とりあえず商店で買ったコーンポタージュスナックを食べながら気持よく緑の中を歩いていたんだけどなぜか飲み物を買い忘れての旨味パウダーも相まって喉カラカラ。しかしこれ以上ポリンキーに迷惑はかけられないので「飲み物を買い忘れた」的な発言はしないように心がけました。
私は硫黄山に行ったことがなかったので観光地に寄れる感覚で旅行気分(このトレイル最高)。キノコ狩りで秋も舐め尽くさないといけないので常にキノコセンサーは反応していたのだけれど
ありました。見つけました。よくぞ生えてくれました。その姿は35年間それを見なかった年はないのでは無いか?と言うくらい見間違えるはずのないキノコ。
そう、椎茸!!!!!!
野生の椎茸は人生初発見だったのでポンコツ大興奮。
椎茸連呼。「これは図鑑で調べなくてもたけしだよね!間違いなくたけしだよね!」ポリンキーも椎茸に見えるとのことで
“絶対に食べれるキノコゲット”せっかくキノコ狩りもトレイルに組み込んだ手前、一種類も食せないのは嫌だなと思っていたので椎茸、君は救世主。もうそんな不安これっぽっちもありません。
疲れも吹っ飛び硫黄山へ。レストハウスでお水購入(PayPay使用可)そしてゆで卵♡PayPayが使えたのでここぞとばかりにポリンキーにゆで卵をご馳走させていただき硫黄山を眺めながらゆで卵♡
歩いた身体に染み渡る塩分!!!もうゆで卵で感動してるのか塩で喜んでるのかわかりませんでしたが色んな相乗効果であれ以上のゆで卵はとはもう出会えないと思うほどに美味しかった。
眺めもいいしね。硫黄山はスケール感があって異世界感もあるからサクッと見れて満足旅行気分な山でした。1時間くらい硫黄山の散策コースを通って硫黄山周辺の厳しい環境で力強く生きている植物を鑑賞しながら歩けるので学習遠足みたいで面白いです���
少しいくと川湯温泉に到着してここのセイコーマートで夕食の買い出しができるので荷物がテン場の直前まで軽いのもこのトレイルの魅力ですね。なんなら川湯温泉に泊まっちゃえば優雅な旅行にもできるしトレイルプランも装備によってアレンジできるのでやっぱりこのトレイル歩きやすいです。
ここまできたらあとは温泉に入って小一時間歩いてテントを張ってご飯を食べて寝るだけなのでコンビニでビールを買って乾杯!!(PayPay使用可)
ここでポンコツはビールをプシュッと開けてから気づく。それがノンアルコールビールだということに。自分に愛想が尽きそうになりましたが今度は指差し確認をして無事生ビールゲット。
外で飲むビールは最高。歩きって最高。気持ちのいい緑の鬱蒼とした道路を歩くこと少々。荷物が増えたこともありバックパックを肩にかけずに半降ろし気味に肩が楽なように背負っていたら相当疲労困憊に見えたのか一台の車が横に。シルバーの髪が美しいマダムが助手席から「どこまでいくの?のっていく?」と声をかけてくださいました。
温泉に入ったあとだったら意気揚々と砂湯キャンプ場まで乗せってっていただいたこと間違いなしなのですがもうすぐ日帰り温泉に着くところだったので事情を話して、声をかけていただいた優しい気持ちに感謝を伝して素敵な夫婦を見送りました。
純粋無垢なポリンキーは人の優しさに触れて「なんか泣きそうです」と私の横で瞳をうるうるさせている。温泉に入る前に私はこのご夫婦の気持ちの良さとポリンキーの綺麗な瞳に心洗われました。
そしてこの温泉、なんとPayPay使えます。仲良しおばあちゃん二人組が「あら!どこからきたの!」と優しく迎えてくれます。
この温泉も最高に気持ち良かったな。そしてここで、こういった温泉恒例のイベント
”ビールの自動販売機のビールの賞味期限が切れてる”ということはこういった温泉あるあるで一番古くて1年期限が切れているものに阿寒で当たったことがあります。蜂蜜のような芳醇な味がしたのを覚えています。
ここのビールはどうかな?この日は10月8日
2ヶ月オーバー!しかし過去に1年オーバーを飲み干していたおかげでほぼフレッシュな感覚でいただくことができました。何事も経験しておけば怖いものは減りますね。
温泉上がりで気持ちの良い身体でキャンプ地へ。意外と各所で観光気分を味わっていたので日の入りまで思いのほか時間がないことに気づく&仁伏半島入口から湖畔までが小一時間
(川湯温泉に着く頃には真っ暗だな〜暗い中テント立てるのやだな〜)
と言うことで暗くなってからの行動は危ないということにして私たちの野営は半島に決定。「ここを今日のキャンプ地にします」のポンコツの言葉にポリンキーは最初不安そうでしたが、根拠のない自信に満ち溢れたポンコツの顔をみて安心したようで「なんかワクワクしてきました!」と。(素直さとは人生の宝だとポリンキーをみてしみじみと感じました)
とにかく寒かったのでテントを立てて(暗かったし砂の上に設営に不慣れなポンコツテント完成度40%でだるんだるんの仕上がりに。)
もうお腹がぺこぺこだったし寒かったので腰を落ち着かせて鍋焼きうどんを食べようと火にかけところ
みなさんご存知ですか?鍋焼きうどんってつゆを入れる前に火にかけるとアルミに穴が開くことを。なんとなく空焚きは良くないと言うことは頭にあったので火の上に置いてから大急ぎでつゆを入れたのですが、あっという間に穴が空いてしまいました。
注いでも魔法のように消えていったつゆ。
瞬間「?」と何が起こっているかわかりませんでしたが状況を飲み込みポリンキーに報告
ポン「私のうどんのつゆなくなった」
ポリ「大丈夫ですか!」
ポン「持ってきた調味料と屈斜路湖の水があるから大丈夫」
ここで落ち込んでなどいられないのです。大好きなおうどん。出汁命の鍋焼きうどん。楽しみにしていた鍋焼きうどんサヨウナラ。
今考えると、とても薄っぺらい味付けのうどんではありましたがなんとか形になりました。
セイコーマートにあって嬉しかったマトンも焼いて大満足の夕食になりました。そして本日のメインディッシュの秋の味覚採れたてキノコの登場です。暗い中ポリンキーのヘッドライトを頼りにキノコ図鑑を調べて3種類ピックアッーープ
オシロイシメジとサンゴハリタケ(と思われるキノコ)と100%椎茸をいただきました。ストローで飲むタ��プのカップ日本酒と最&高な相性でした。
ポリンキーはね、椎茸以外は本当は食べたくなかったと思うんのだけれど優しい子なので一口づつ食べてくれました。なんて優し子だ。砂湯の砂でジャリジャリしてたのに。
1日目は24kmを歩いてアスファルトの洗礼を受けて脚の疲労がたまっていましたので夜はぐっすりと眠りました。寒いかな〜と思っていましたが友人から借りたシュラフのおかげで温かく快適な夜でした。
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2023.09 八ヶ岳縦走 横岳・硫黄岳
赤岳より
赤岳(0925)→赤岳頂上山荘(0930-0935)→赤岳天望荘(0955)→横岳(1050-1055)→硫黄岳山荘(1115-1145)→硫黄岳(1200)
赤岳の下りは非常に強い傾斜があり危ない。中には四つん這いになって上り下りする人がいるほど。
山荘を通過して横岳へ。赤岳~横岳の間で地蔵の頭・二十三夜峰・日ノ岳・鉾岳・石尊峰・三叉峰といった峰々を通過する。看板は出ていないのでどれがどこだか分からないが。
登山始めて間もない頃に硫黄~横~赤岳を縦走したが、こんなに険しかったっけ。細いキレ落ちた道だったり荒々しい岩稜帯だったり。
急なアップダウン、高度感もある
けわしい道が続く
赤岳から1時間半で横岳に到着。
横岳から先も引き続き険しい。雪山登山の偵察を兼ねていたのだが、さすが上級者ルート、冬は手を出さないほうがいいな。
硫黄岳に近くなると道は広く穏やかに
硫黄岳山荘が見えてきた。
ここらへんは山荘のすぐ近くのなだらかな山肌がキレイなんだよな
硫黄岳山荘は自分が初めて小屋泊したとこ。前は屋根は青色だったけど、新しくなってる。
硫黄岳山荘で昼食にちまきセットを注文(1000円)。ちまきの中に大きな角煮が入っているのと、味噌汁の野菜が豊富でとても良い。相変わらず居心地の良い小屋。
硫黄岳周辺の道はかなり広く道迷いしやすいためケルンが設置されている。
青年小屋から約4時間、赤岳から約2時間半で硫黄岳到着。山頂がとても広く視界が悪いと迷子に。
有名な爆裂火口はガスのため全体は見えなかった。
雪山の偵察登山を兼ねて赤岳~硫黄岳まで縦走したが、雪山においては特に赤岳~横岳の縦走がかなり難しくこの区間はもともと上級者ルート(積雪期)と記載されていたが全くその通りだった。無雪期に通過する分には問題ない。
箕冠山・根石岳・東天狗岳に続く
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カルタゴ滅亡をトレースする現代日本
◆カルタゴはなぜ滅んだのか?!
日本と同じような商人国家であったカルタゴが、完膚なきまでに滅ぼされた例を他山の石として日本人は国防を考え直す必要があると切に思うからです。
カルタゴは紀元前250年頃、地中海に覇を唱えていた大国でした。
第2次ポエニ戦争に負けて、戦勝国から武装を解除させられ、戦争を放棄することになったカルタゴは、戦後の復興を貿易一筋で見事に成し遂げ、戦後賠償も全てきれいに払い終えました。しかし、その経済を脅威だと捉えたローマ帝国によって、結局は滅ぼされてしまいました。
滅ぼされる直前、カルタゴの愛国者であるハンニバル将軍は、ローマの考えを悟り、祖国の危機をカルタゴ市民に訴えましたが、平和ぼけした市民は耳を貸そうとしませんでした。
それどころか「ハンニバルは戦争をしようとしている!」と中傷する者さえいました。しかも、最終的にハンニバルはローマに洗脳された者達によってローマに売られ、自殺にまで追い込まれてしまったのです。
平和ぼけした市民は、ローマから無理難題を次々に要求されてからはじめてハンニバルの警告が正しかったことに気が付きましたが、時すでに遅く、徹底抗戦に踏み切るもカルタゴの陥落を防ぐことはできませんでした。この間、たった3年の出来事でした。
ちなみに、生き残ったカルタゴ市民は約5万人でしたが、その全てが奴隷にされてしまいました。城塞は更地になるまで徹底的に破壊され、再びこの地に人が住み、作物が実らぬように大量の塩が撒かれたと言われています。
これはただの負け方ではありません。まさに地上からの抹殺です。
この悲惨なカルタゴ滅亡の理由は2つあると言われています。
1つは、カルタゴ市民が軍事についてほとんど無関心だったことが挙げられます。もともと自国の防衛はおおむね傭兵に頼っていた上に、国内世論も「平和主義的」な論調が強く、有事に備えて軍事力を蓄えておくといったことはままなりませんでした。
2つめは、国内の思想が分裂状態であったことが挙げられます。そもそも挙国一致して事に当たらなければ有事を乗り切ることはなかなか難しいものですが、カルタゴにはそれがなく、戦時中にハンニバルが外地を転戦している間も市民は素知らぬ顔をしていました。そして、ハンニバルを売り渡したのは、ローマに洗脳されたカルタゴの売国奴達でした。
自らの手で愛国者を切り捨てる・・・かくしてカルタゴは「滅ぶべくして」滅んだわけですが、私は今の日本がこのカルタゴに酷似している様に見えて仕方がありません。
今こそ日本の国防を真剣に考えないと本当に危ないと思います。
【対比】日本と似すぎているカルタゴの運命
カルタゴは、フェニキア人が建国した海洋国家で、現在のアフリカ大陸チュニジアに位置しています。
カルタゴは、世界一の造船技術を持ち、スペイン、シチリア島などの海外領土を支配していました。
紀元前3世紀、地中海貿易により富を蓄え、ローマ帝国と並ぶ強国となります。
BC264年、両者の中間にあるシシリー島で紛争がおこります。そして、これを契機にカルタゴとローマは、世界の覇権を賭けて激突します。この戦いは、23年間の中断をはさんで63年間続きます。(第一次ポエニ戦争、第二次ポエニ戦争)
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1867年、島国日本は、長い眠りから覚め、明治維新により近代国家への道を目指します。西洋文明を積極的に取り入れ、富国強兵に邁進します。日清・日露の戦争に勝ち、朝鮮、台湾、南樺太と領土を拡張します。
強国となった日本は、戦艦大和を建造して、世界有数の海軍を持ち、
太平洋をはさみ、超大国アメリカと対峙します。
1941年12月、日本連合艦隊は、ハワイの真珠湾の奇襲に成功します。太平洋戦争が始まります。
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カルタゴの英雄ハンニバルは、象36頭と兵士5万人を率いて、スペインを出発します。象を連れて、アルプス山脈越えに成功、ローマの本拠地イタリア半島を奇襲します。ハンニバルは、イタリアに、なんと15年も踏みとどまり、ローマを一時追い詰めます。
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「マレーの虎」山下奉文中将は、マレー半島を南下、シンガポールに侵攻します。インド兵への離反策が成功し、1942年2月15日シンガポールは陥落、イギリス軍は降伏します。
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カルタゴは、地力に勝るローマに対して次第に劣勢になります。ついに、名将スキピオ率いるローマ軍が、カルタゴの本拠地に進軍します。カルタゴは、イタリアで善戦していたハンニバルを帰国させ、本土決戦に賭けます。BC202年、天下分け目の戦い(ザマの戦い)が行われます。カルタゴの完膚なき負け戦でした。
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アメリカは、生産力、技術力で日本に勝っていました。ミッドウェー海戦を境に、戦局は逆転します。ガダルカナル、硫黄島、沖縄。日本は、敗退を続けます。本土空襲が激しくなり、広島と長崎に原爆が投下されます。日本の完膚なき負け戦でした。
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カルタゴは、ローマに無条件降伏します。
全ての海外領土は、放棄され、軍船、象もローマに引き渡されます。軍隊は、自衛のためのものだけが許されました。そして、自衛のためでも戦争する場合、ローマの許可が要ることになったのです。(この許可の項目が、後に大問題となります)
そして、50年賦で1万タラントの賠償金をローマに支払うことが決まります。
ともかく、カルタゴの町は、無事に残りました。100人会は、貴族の世襲制でしたが、戦後まもなく代議員が選挙で選ばれるようになります。
カルタゴは、民主主義の国家に生まれ変わります。
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「忍び難きを忍び、耐え難きを耐え・・・」玉音放送が流れ、日本は無条件降伏します。
日本列島以外の領土は、返還されます。アメリカが決めた平和憲法で戦争が放棄されます。(後に自衛隊が誕生します。)国土は焼け野原、アジア諸国には賠償金の支払いが必要でした。ともかく、本土決戦だけは避けられました。
日本は、天皇主権の国家から、主権在民の民主主義国家に生まれ変わります。
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カルタゴ人(フェニキア人)は、ユダヤ人やアラビア商人と同じセム語族で、最も商才があるといわれている種族です。
軍事国家への野心を棄てたカルタゴ人は、ますます貿易や商売に熱中するようになります。ローマ人は、楽しむために働きましたが、カルタゴ人は働くこと自体が人生の目的でした。奇跡の経済復興が実現します。
戦勝国ローマは、休む間もなく、マケドニアやシリアと戦わなければなりません。軍備費の要らないカルタゴは、次第にローマに匹敵する経済大国に、のしあがります。
BC191年ローマは、シリアを打ち破ります。
無敵の軍事大国ローマにとっての脅威は、経済大国カルタゴに移っていくのです。
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日本人には、勤勉さと物作りの才能がありました。
焼け原から立ち上がった日本人は、ひたすら一生懸命働くことで豊かになろうとしました。エコノミックアニマルと日本人は、陰口を叩かれます。奇跡の経済復興が実現します。
アメリカの核の傘に入り、軍事費もいりません。戦勝国アメリカは、ソ連との冷戦を戦わなくてはなりませんでした。
10%を超す高度経済成長が続きます。日本は、世界第二位の経済大国になります。
ソ連が崩壊し、日米の経済摩擦が激化します。
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BC187年、カルタゴは、50年賦と決められた賠償金を一括払いしたいと申し出ます。いくら叩いても不死鳥のように蘇る、カルタゴ人の経済力に、ローマ人は、羨望と恐怖心を抱きます。ポエニ戦争の悪夢がふと蘇ります。
経済大国カルタゴの最大の悩みは、隣国のヌミディアでした。ヌミディアは、騎馬兵団で有名な、戦争に強い国です。自衛力しか持たないカルタゴを侮り、その領土を侵犯します。
カルタゴは、ローマに調停を頼みますが、黒幕のローマはもちろん取り合いません。ついに、カルタゴとヌミディアの間で戦争が起こり、平和の国カルタゴは、敗北します。
ローマの事前許可のない戦争開始は、条約違反でした。
ローマは、カルタゴに対して、突然宣戦布告をします。
驚いたのは、カルタゴです。ローマの許しを得ようと、300人の貴族の子供を人質に差し出します。しかし、8万人の世界最強のローマ兵が、上陸し、カルタゴに進軍します。
カルタゴの使者が、「どうすれば、許していただけるのですか?」とローマの司令官に聞きます。
「全ての武器を差し出せ。」司令官は、答えます。
カルタゴは、20万人分の鎧、投げやり、投げ矢、2000の石弓を司令官に差し出します。
すると、司令官は、最後の要求を使者に言い渡します。
我々は、カルタゴの街を根こそぎ破壊することを決めた。
カルタゴ人には、今の街より10マイル内陸部に
新しい居住地帯を造ることを許可しよう。
使者からローマの意向を聞いた20万人のカルタゴ人は、驚愕して、嘆き悲しみ、最後に激怒します。
「こんなひどい仕打ちがあろうか。街を破壊するだと。
内陸部に引っ込めだと。どうせ死ぬなら戦って死のう!」
カルタゴ人は、丸腰で戦う覚悟を決めます。返事の猶予期間の30日間、密かに戦争準備がすすめられます。
武器職人は、連日徹夜で武器を作ります。
若い女性は、長い髪を元から切って石弓の弦が作られます。
こうして、始まったのが、第三次ポエニ戦争でした。
(戦争というより、ローマによるカルタゴの民族浄化です。)
カルタゴは、ここで奇跡的な粘りを見せます。なんと丸腰で三年間ローマの猛攻を食い止めたのです。
しかし、戦闘と飢えと疫病で、20万人のカルタゴ市民は、10万人に減ります。
そして、ついに、ローマ兵は城壁を破り、街へ進入します。
女、子供までがレンガを投げて抵抗しますが、5万人が虐殺されます。
ビュルサの砦に逃げ込んだ5万人のカルタゴ人は、オリーブの枝を掲げて投降します。
彼らは、一部が処刑され、残りは奴隷として売られます。
カルタゴの街は、十数日燃えつづけ、灰は1メートル積もります。カルタゴの復活を恐れたローマ人は、この地に塩を撒き不毛の土地にします。
700年続いた経済大国カルタゴと世界の富を独占したカルタゴ人は、BC146年こうして滅んだのです。
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あめつちの詞(あめつちのことば)とは、仮名48字からなる誦文(*1)のこと。単にあめつちともいう。今日までの国語学・言語学における研究では、平安時代初期に作られたとされている。
あめつちの詞 - Wikipedia
あめ つち ほし そら やま かは みね たに くも きり むろ こけ ひと いぬ うへ すゑ ゆわ さる おふせよ えのえを なれゐて
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あめつちの詞が出てくるもっとも古い例は、 源順(911年 - 983年)の私家集『源順集』である。その中に、あめつちの詞の仮名を以下のようにはじめと終りに置いて詠んだ「あめつちの歌」があり[1]、和歌の内容を春・夏・秋・冬・思・恋の構成としてそれぞれ8首、��わせて48首が収められている。
おおむね2音節の言葉を連ねており、冒頭から「さる」までは、「天 地 星 空 山 川 峰 谷 雲 霧 室 苔 人 犬 上 末 硫黄[4] 猿」という言葉を並べたものとみられるが、それ以降の「おふせよ えのえを なれゐて」は意味不明な語の羅列になっていて形式的にも破綻している。その理由については不明であり、「おふせよ」以下にどのような言葉を当てはめるかについても諸説あって定かではない
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(*1)ず-もん 【誦文】 名詞※「す」が付いて自動詞(サ行変格活用)になる 経文やまじないの文句を唱えること。「じゅもん」とも。
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