Tumgik
#板戸漁港
arakawalily · 2 years
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いよいよ大好きな8月になリリーましたね‼️ 今月のリリーカレンダーはこちらです‼️8月は一番早く走り抜けるので、めいっぱい楽しもうと思います‼️今月もよろしくお願いいたします❣️ #夏休み#8月#荒川リリー#lilystudio#板戸漁港 #板戸#伊豆旅行#伊豆旅#lilystudio (Itado, Isehara-shi) https://www.instagram.com/p/CgsYooahpl7/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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myonbl · 1 month
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2024年4月7日(日)
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拙宅から徒歩10分の梅小路公園、週末になればなにがしかのイベントが開かれているが、今日は<循環フェス 2024>の日だ。先日町内の回覧板で知ったのだが、早速リユース価値のある古着を用意して会場へと乗り込んだ。午前10時オープンなのだが、すでに<0円マーケット>には長蛇の列、好きな古着3点まで無料とのことで人気があるのは納得。わたしはと言えば入口左側の古着回収ボックスに大きな紙袋一杯の夫婦の古着を投入してミッション完了。断捨離を要求される身には、次回の開催が待ち遠しいことだ。
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5時15分起床。
日誌書く。
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朝食には、昨日文楽劇場でいただいた<黒門市場200周年>記念の餅を頂く。
珈琲。
洗濯。
ツレアイは奈良での太鼓練習の日、近鉄東寺駅まで送る。
糠床メンテナンス、奥川ファームの大根と人参を漬ける。
コレモ七条店で買物、コンニャク・チクワ・飛竜頭、今夜は関東煮。
大根の下茹で。
出汁を取って関東煮の用意、小ゑん師のグツグツには登場人物が少ない。
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梅小路公園まで古着を持参、オープンすぐだが多くの人が集まっている。何であれ、近くで断捨離の機会があることに感謝。
ランチ、息子たちはサッポロ一番味噌ラーメン。
しばらくしてツレアイから連絡、近鉄東寺駅まで迎えに行く。
遅い時間のランチ、そば+🍶。
軽く午睡。
ツレアイは買物に、私は資料整理。
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早い時間に夕飯準備、今夜は関東煮。
録画番組視聴、サラメシ
(1)瀬戸内のり漁師夫婦▽53年使い続けた弁当箱 最後の日
初回放送日: 2024年4月4日 冬から初春に旬を迎える岡山県の海苔(のり)。栄養豊富な海水と冬の晴天に育まれ、甘みのある上質な味が特徴。代々漁師の家に生まれた妻と結婚を機に漁師になった夫。仲良し夫婦は漁港そばの食堂のお好み焼きがお気に入り▽神奈川県内の消防署で救急隊員として働く門倉正道さんは、中学生から50年以上同じ弁当箱を使い続けてきたが、今年2月に定年退職。最後の出勤日に密着!▽テレワーク中のランチをのぞき見「テレメシ」も。
落語研究会。
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再放送だが、やはり「百年目」は上方でないとねぇ。
片付け、入浴、散髪。
体重は50g増、明日からランチ抜きで頑張るのだ。
パジャマに着替えて日誌書く。
明日から授業開始、このリズムをキープせねば。
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何であれ、歩数を稼げば後はついてくるのだ。
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kuro-tetsu-tanuki · 3 years
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裕くんが三日月亭でバイトする話(タイトル)
定晴ルート入った辺りのお話。
委員会イベやら本編の描写やらとあるルートネタバレやら有。
「なぁ裕。お前、数日ここでバイトしねえか?」 「は?バイト?」
いつものように三日月亭に買い物に来ていた俺は、店長から唐突な申し出を受けた。
「お前ドニーズでバイトしてたって言ってたよな?調理スタッフとしてもやれるだろ?」 「はあ。まぁ、確かにキッチンもやってたのでやれなくはないですが。どうしたんです?随分と突然ですね」
三日月亭は店長が一人で回している。 繁盛している時間は確かに忙しそうではあるが、注文、調理、配膳と見事に捌いている。 港の食堂を稼働させていた時の俺のような状態ではとてもない。 これが経験の差というものか。 いや、それは兎も角人員を雇う必要性をあまり感じないのだがどうしたというのだろうか。
「いや、その・・・ちょっと腰が・・・な」 「腰?店長腰悪くしたんですか?ちょ、大丈夫ですか!?海堂さん呼んできましょうか?あの人ああ見えてマッサージ得意なので」 「あー・・・そういうワケじゃ、いや、元はと言えばお前らがブランコなんか・・・」
なんだかよくわからないが随分と歯切れが悪い。 腰悪くしたことがそんなに言いにくい事なのか? 言葉尻が小さくて上手く聞き取れない。
「・・・あー、海堂の旦那の事は頼む。屈んだりすると結構痛むもんでな。基本はホール、こっちが手一杯になったらキッチンもやってもらうつもりだ。で、どうだ?まかない付きで給料もしっかり出すぜ。時給は・・・こんくらいでどうだ?」 「おお・・・意外と結構な金額出しますね」 「臨時とは言えこっちから頼んでるわけだしな。その分コキ使ってやるが」
海堂さんの事を頼まれつつ、仕事内容も確認する。 まぁ、ドニーズの頃と左程変わらないだろう。お酒の提供が主、くらいの違いか。 時給もこんな離島の居酒屋とは思えない程には良い。田舎の離島で時給四桁は驚きだ。 内容的にも特に問題ない。直ぐにでも始められるだろう。 とはいえ、屋敷に世話になっている身。勝手に決められるものでもない。
「非常に魅力的ではあるんですが、即断即決とは・・・。申し訳ないですが、一度持ち帰らせてください」 「おう。言っとくが夜の居酒屋の方だからな」 「キッチンの話出しといて昼間だったらそれはそれでビックリですよ。わかりました、また明日にでも返事に来ますよ」
話を終え、買い物を済ませて三日月亭を後にする。 バイト、かぁ・・・。
夕食後。皆で食後のお茶をいただいている時に俺は話を切り出した。 夜間の外出になるのでまずは照道さんに相談するべきだし、海堂さんにもマッサージの話をしなければならない。
「成程。裕さんがやりたいと思うなら、私は反対はしませんよ。店長には日ごろからお世話になっていますし」 「ほー。ま、いいんじゃねぇの?懐があったかくなることは悪いことじゃあねえじゃねえか。マッサージの方も受けといてやるよ。店長に借り作っとくのも悪くないしな」
難しい顔をされるかと思ったが、話はあっさりと通った。 海堂さんに至っては難色を示すかと思っていたが、損得を計算したのかこちらもすんなりと了承を得た。 ちょっと拍子抜けしつつ、改めて照道さんに確認する。
「えっと、本当にいいんですか?」 「ええ。ただ、裕さんの事を考えると帰りだけは誰かしらに迎えに行ってもらった方がいいかもしれませんね」
確かに。禍月の時ではなくても、この島は気性が荒い人は少なくない。 まして居酒屋で働くのだ。店長がいるとはいえ何かしらトラブルに巻き込まれる可能性もある。
「じゃあ、俺が迎えに行くぜ。なんなら向こうで普通に飲んでてもいいしな」
お茶を啜っていた勇魚さんがニカッと笑う。 あ、湯呑が空になってる。 急須を取り、勇魚さんの湯呑にお茶を注ぎながら問い返す。
「俺は助かりますけどいいんですか?はい、お茶のおかわり」 「お、さんきゅ。いいんだよ、俺がやりてえんだから。俺なら酔いつぶれることもねえしな。それに、そういうのは旦那の仕事だろ?」
自然な流れで旦那発言が出てきて驚きつつ、その事実に一気に顔が火照る。 うん、そうなんだけど。嬉しいんだけど。そうストレートに言われると恥ずかしいというかなんというか。
「え、と・・・ありがとうございます」 「けっ、惚気は余所でやれってんだ」 「ふふ・・・」
海堂さんのヤジも、照道さんの温かな眼差しもどこか遠くに感じる。 ヤバい。凄い嬉しい。でもやっぱ恥ずかしい。 そんな思いに悶々としていると、冴さんがコトリと湯呑を置いた。
「で、バイトはいいんだけど、その間誰が私達のおつまみを用意してくれるの?」 「はっ、そういやそうだ!オイ裕!お前自分の仕事はどうする気なんだ」
冴さんの一言に、海堂さんが即座に反応する。 ええ・・・酒飲みたちへのおつまみの提供、俺の仕事になってたの・・・?
「それこそ三日月亭に飲みに来ればいいのでは・・・?」 「それも悪くはないけれど、静かに飲みたい時には向かないのよ、あそこ。それに、この髭親父を担いで帰るなんて事、か弱い乙女の私にさせるの?」
確かに三日月亭は漁師の人達がいつもいるから賑やか、というかうるさい。 ゆったり飲むには確かに向かないかもしれない。ましてや冴さんは女性だから漁師たちの視線を集めまくることだろう。 さり気なく、海堂さんを担ぐのを無理ともできないとも言わない辺りが冴さんらしい。
「ふむ。俺が裕につまみのレシピを教えてもらっておけばいいだろう。新しいものは無理だが既存のレシピであれば再現して提供できる」 「それが無難ですかね。すみません、洋一さん。今日の分、一緒に作りましょう。他にもいくつか教えておきますので」 「ああ、問題ない」
結局、洋一さんが俺の代わりにおつまみ提供をしてくれる事になり、事なきを得た。
翌日、午前中に店長へと返事をした後、島を探索。 少々の収穫もありつつ、昼過ぎには切り上げ、陽が落ち始める前には三日月亭へと足を運んでいた。
「説明は大体こんなもんか。不明な点が出てきたら逐一聞いてくれ」 「はい。多分大丈夫だと思います」
注文の仕方、調理場の決まり、会計の方法。 業務の大半はドニーズでの経験がそのまま役立ちそうだ。 むしろ、クーポンだのポイントだのない分こちらの方がシンプルで楽かもしれない。 渡されたエプロンを付けて腰紐を後ろで縛る。うん、準備は万全だ。
「さ、頼むぞルーキー」 「店長が楽できるよう努めさせてもらいますよ」
そんな軽口をたたき合いながら店を開ける。 数分も経たないうちに、入り口がガラリと音を立てた。
「いらっしゃい」 「いらっしゃいませー!」
現れたのは見慣れた凸凹コンビ。 吾郎さんと潮さんだ。
「あれ?裕?お前こんなとこで何してんだ?」 「バイト・・・えっと、店長が腰悪くしたみたいで臨時の手伝いです」 「なに、店長が。平気なのか?」 「動けないって程じゃないらしいので良くなってくと思いますよ。マッサージも頼んでありますし。それまでは短期の手伝いです」 「成程なぁ・・・」
ここで働くようになった経緯を話しつつ、カウンター近くの席へご案内。 おしぼりを渡しつつ、注文用のクリップボードを取り出す。
「ご注文は?まずは生ビールです?生でいいですよね?」 「随分ビールを推すなお前・・・まぁ、それでいいか。潮もいいか?」 「ああ、ビールでいいぞ。後は―」
少々のおつまみの注文を受けつつ、それを店長へと投げる。
「はい、店長。チキン南蛮1、鶏もも塩4、ネギま塩4、ツナサラダ1」 「おう。ほい、お通しだ」
冷蔵庫から出された本日のお通し、マグロの漬けをお盆にのせつつ、冷えたビールジョッキを用意する。 ジョッキを斜めに傾けながらビールサーバーの取っ手を手前へ。 黄金の液体を静かに注ぎながら垂直に傾けていく。 ビールがジョッキ取っ手の高さまで注がれたら奥側に向けてサーバーの取っ手を倒す。 きめ細かな白い泡が注がれ、見事な7:3のビールの完成。 うん、我ながら完璧だ。 前いたドニーズのサーバーは全自動だったから一回やってみたかったんだよなぁ、これ。
「はい、生二丁お待たせしました。こっちはお通しのマグロの漬けです」 「おう。んじゃ、乾杯ー!」 「ああ、乾杯」
吾郎さん達がビールを流し込むと同時に、入り口の引き戸が開く音がした。 そちらを向きつつ、俺は息を吸い込む。
「いらっしゃいませー!」
そんなスタートを切って、およそ2時間後。 既に席の半分は埋まり、三日月亭は盛況だ。 そんな中、またも入り口の引き戸が開き、見知った顔が入って来た。
「いらっしゃいませー!」 「おう、裕!頑張ってるみたいだな!」 「やあ、裕。店を手伝っているそうだな」 「勇魚さん。あれ、勇海さんも。お二人で飲みに来られたんですか?」
現れたのは勇魚さんと勇海さんの二人組。 俺にとっても良く見知ったコンビだ。
「勇魚から裕がここで働き始めたと聞いてな。様子見ついでに飲まないかと誘われてな」 「成程。こっちの席へどうぞ。・・・はい、おしぼりです。勇魚さんは益荒男ですよね。勇海さんも益荒男で大丈夫ですか?」 「ああ、頼むよ」 「はは、裕。様になってるぞ!」 「ありがとうございます。あまりお構いできませんがゆっくりしていってくださいね」
勇魚さんは俺の様子見と俺の迎えを兼ねて、今日はこのままここで飲むつもりなのだろう。 それで、勇海さんを誘ったと。 もう少しここにいたいが注文で呼ばれてしまっては仕方ない。 別の席で注文を取りつつ、すぐさまお酒の用意を準備をしなければ。
「いらっしゃいませー!」 「おッ、マジでいた!よう裕!遊びに来てやったぜ!」 「あれ、嵐の兄さん、照雄さんまで。何でここに?」
勇魚さん達が来てからしばらく経ったころ、店に見知った大柄な人物がやってくる。 道場の昭雄さんと嵐の兄さんだ。
「漁師連中の噂で三日月亭に新しい店員がいるって話を聞いてな」 「話を聞いて裕っぽいと���ったんだが大当たりだな!」 「確認するためだけにわざわざ・・・。ともかく、こっちの席にどうぞ。はい、おしぼりです」
働き始めたの、今日なんだけどな・・・。 田舎の噂の拡散力は恐ろしいな。 そんな事を思いつつ、2人を席に誘導する。 椅子に座って一息ついたのを確認し、おしぼりを渡しクリップボードの準備をする。
「おお。結構様になってるな。手際もいい」 「そりゃ照雄さんと違って裕は飲み込みいいからな」 「・・・おい」
照雄さんが俺を見て感心したように褒めてくれる。 何故か嵐の兄さんが誇らしげに褒めてくれるが、いつものように昭雄さん弄りも混じる。 そんな嵐の兄さんを、照雄さんが何か言いたげに半目で睨む。ああ、いつもの道場の光景だ。
「はは・・・似たようなことの経験があるので。お二人ともビールでいいですか?」 「おう!ついでに、裕が何か適当につまみ作ってくれよ」 「え!?やっていいのかな・・・店長に確認してみますね」
嵐の兄さんの提案により、店長によって「限定:臨時店員のおすすめ一品」が即座にメニューに追加されることとなった。 このおかげで俺の仕事は当社比2倍になったことを追記しておく。 後で申し訳なさそうに謝る嵐の兄さんが印象的でした。 あの銭ゲバ絶対許さねえ。
「おーい、兄ちゃん!注文ー!」 「はーい、只今ー!」
キッチン仕事の比重も上がった状態でホールもしなければならず、一気にてんてこ舞いに。
「おお、あんちゃん中々可愛い面してるなぁ!」 「はは・・・ありがとうございます」
時折本気なのか冗談なのかよくわからないお言葉を頂きつつ、適当に濁しながら仕事を進める。 勇魚さんもこっちを心配してくれているのか、心配そうな目と時折視線があう。 『大丈夫』という気持ちを込めて頷いてみせると『頑張れよ』と勇魚さんの口元が動いた。 なんかいいなァ、こういうの。 こっからも、まだまだ頑張れそうだ。
「そういえば、裕は道場で武術を学んでいるのだったか」 「おう。時たまかなり扱かれて帰って来るぜ。飲み込みが早いのかかなりの速度で上達してる。頑張り屋だよなぁ、ホント」 「ふふ、道場の者とも仲良くやっているようだな。嵐の奴、相当裕が気に入ったのだな」 「・・・おう、そうだな。・・・いい事じゃねえか」 「まるで兄弟みたいじゃないか。・・・どうした勇魚。複雑そうだな」 「勇海、お前さんわかって言ってるだろ」 「はは、どうだろうな。・・・ほら、また裕が口説かれているぞ」 「何っ!?ってオイ!勇海!」 「はははははっ!悪い。お前が何度もちらちらと裕の方を見ているのでな。あれだけ島の者を惹きつけているのだ、心配も当然だろう」 「裕を疑うわけじゃねえ。が、アイツ変なところで無防備だからよ。目を離した隙に手を出されちまうんじゃないかと気が気じゃねえんだよ」
何を話しているのかはここからじゃ聞こえないが、気安い親父たちの会話が交わされているらしい。 勇魚さんも勇海さんもなんだか楽しそうだ。
「成程な、当然だ。ふうむ・・・ならば勇魚よ、『網絡め』をしてみるか?立会人は俺がしてやろう」 「『網絡め』?なんだそりゃ」 「『網絡め』というのはだな―」
あまりにも楽しそうに会話しているので、まさかここであんな話をしているとは夢にも思わなかった。 盛大なイベントのフラグが既にここで立っていたのだが、この時点の俺にはあずかり知らぬ出来事であった。
そんなこんなで時間は過ぎ、あっという間に閉店時刻に。 店内の掃除を終え、食器を洗い、軽く明日の準備をしておく。 店長は本日の売り上げを清算しているが、傍から見ても上機嫌なのがわかる。 俺の目から見ても今日はかなり繁盛していた。 売り上げも中々良いはずだろう。
「いやぁ、やっぱお前を雇って正解だったな!調理に集中しやすいし、お前のおかげで客も増えるし財布も緩くなる!」 「おかげでこっちはクタクタですけどね・・・」 「真面目な話、本当に助かった。手際も良いしフードもいける。島にいる間定期的に雇ってもいいくらいだ。もっと早くお前の有用性に気づくべきだったな」
仕事ぶりを評価してくれているのか、便利な人材として認識されたのか。 両方か。
「俺も俺でやることがあるので定期は流石に・・・」 「ま、ひと夏の短期バイトが関の山か。ともかく、明日もよろしく頼むぜ」 「はい。店長もお大事に。また明日」
金銭管理は店長の管轄だし、もうやれることはない。 店長に挨拶をし、帰路につくことにする。 店を出ると、勇魚さんが出迎えてくれた。
「さ、帰ろうぜ、裕」 「お待たせしました。ありがとうございます、勇魚さん」 「いいって事よ」
三日月亭を離れ、屋敷までの道を二人で歩いていく。 店に居た時はあんなに騒がしかったのに、今はとても静かだ。 そんな静かな道を二人っきりで歩くのって・・・何か、いいな。
「・・・にしてもお前、よく頑張ってたな」 「いや、途中からてんてこ舞いでしたけどね。飲食業はやっぱ大変だなぁ」 「そうか?そう言う割にはよく働いてたと思うぜ?ミスもねえし仕事遅くもなかったし」 「寧ろあれを日がな一人で捌いてる店長が凄いですよ」 「はは!そりゃあ本業だしな。じゃなきゃやってけねえだろうさ」
勇魚さんに褒められるのは単純に嬉しいのだが、内心は複雑だ。 一日目にしてはそれなりにやれたという自覚もあるが、まだまだ仕事効率的にも改善点は多い。 そういう部分も無駄なくこなしている店長は、何だかんだで凄いのだ。
「にしても、この島の人達はやっぱり気さくというか・・・気安い方が多いですね」 「そう、だな・・・」
酒も入るからか、陽気になるのは兎も角、やたらとスキンシップが多かった。 肩を組んでくるとかならまだいいが、引き寄せるように腰を掴んできたり、ちょっとしたセクハラ発言が飛んできたり。 幸か不幸か海堂さんのおかげで耐性がついてしまったため、適当に流すことは出来るのだが。
「裕、お前気を付けろよ」 「はい?何がですか?」 「この島の連中、何だかんだでお前の事気に入ってる奴多いからな。こっちは心配でよ」 「勇魚さんも俺の事言えないと思いますけど・・・。大丈夫ですよ、俺は勇魚さん一筋ですから」 「お、おう・・・」
勇魚さんは俺の事が心配なのか、どこか不安そうな顔で俺を見る。 モテ具合で言ったら寧ろ勇魚さんの方が凄まじい気がするので俺としてはそっちの方が心配だ。 でも、その気遣いが、寄せられる想いが嬉しい。 その温かな気持ちのまま、勇魚さんの手を握る。 一瞬驚いた顔をした勇魚さんだが、すぐさま力強く握り返される。
「へへっ・・・」 「あははっ」
握った手から、勇魚さんの熱が伝わってくる。 あったかい。手も。胸も。 温かな何かが、胸の奥から止まることなく滾々と湧き出てくるようだ。 なんだろう。今、すごく幸せだ。
「なぁ、裕。帰ったら風呂入って、その後晩酌しようぜ」 「閉店直前まで勇海さんと結構飲んでましたよね?大丈夫なんですか?」 「あんくらいじゃ潰れもしねえさ。な、いいだろ。ちょっとだけ付き合ってくれよ」 「全くもう・・・。わかりましたよ。つまむもの何かあったかなぁ」
という訳でお風呂で汗を流した後、縁側で勇魚さんとちょっとだけ晩酌を。 もう夜も遅いので、おつまみは火を使わない冷奴とぬか漬けと大根おろしを。
「お待たせしました」 「おっ、やっこにぬか漬けに大根おろしか。たまにはこういうのもいいなあ」 「もう夜遅いですからね。火をつかうものは避けました」
火を使っても問題は無いのだが、しっかりと料理を始めたら何処からかその匂いにつられた輩が来る可能性もある。 晩酌のお誘いを受けたのだ。 どうせなら二人きりで楽しみたい。
「お、このぬか漬け。よく漬かってんな。屋敷で出してくれるのとちと違う気がするが・・・」 「千波のお母さんからぬか床を貰いまして。照道さんには、俺個人で消費して欲しいと言われてますので・・・」 「ああ、ぬか床戦争って奴だな!この島にもあんのか」
ぬか漬け、美味しいんだけどその度に沙夜さんと照道さんのあの時の圧を思い出して何とも言えない気分になるんだよなぁ。 こうして勇魚さんにぬか漬けを提供できる点に関しては沙夜さんに感謝なんだけど。 というかぬか床戦争なんて単語、勇魚さんの口から出ることに驚きを感じますよ・・・。 他の地域にもあるのか?・・・いや、深く考えないようにしよう。
「そういえば前にからみ餅食べましたけど、普通の大根おろしも俺は好きですねえ」 「絡み・・・」
大根おろしを食べていると白耀節の時を思い出す。 そういえば勇魚さんと海堂さんでバター醤油か砂糖醬油かで争ってたこともあったなぁ。 と、先ほどまで饒舌に喋っていた勇魚さんが静かになったような気がする。 何があったかと思い勇魚さんを見ると、心なしか顔が赤くなっているような気がする。
「勇魚さん?どうしました?やっぱりお酒回ってきました?」 「いや・・・うん。なんでもねえ、気にすんな!」 「・・・???まぁ、勇魚さんがそう言うなら」
ちょっと腑に落ちない感じではあったが、気にしてもしょうがないだろう。 そこから小一時間程、俺は勇魚さんとの晩酌を楽しんだのであった。
翌日、夕方。 三日月亭にて―
「兄ちゃん!注文いいかー?この臨時店員のおすすめ一品っての2つ!」 「こっちにも3つ頼むぜー」 「はーい、今用意しまーす!ちょ、店長!なんか今日やたら客多くないですか!?」 「おう、ビビるぐらい客が来るな。やっぱりお前の効果か・・・?」
もうすぐ陽が沈む頃だと言うのに既に三日月亭は大盛況である。 昨日の同時刻より明らかに客数が多い。 ちょ、これはキツい・・・。
「ちわーっとぉ、盛況だなオイ」 「裕ー!面白そうだから様子見に来たわよー」 「・・・大変そうだな、裕」
そんな中、海堂さんと冴さん、洋一さんがご来店。 前二人は最早冷やかしじゃないのか。
「面白そうって・・・割と混んでるのであんまり構えませんよ。はい、お通しとビール」 「いいわよォ、勝手にやってるから。私、唐揚げとポテトサラダね」 「エイヒレ頼むわ。後ホッケ」 「はいはい・・・」
本日のお通しである卯の花を出しながらビールジョッキを3つテーブルに置く。 この二人、頼み方が屋敷の時のソレである。 ぶれなさすぎな態度に実家のような安心感すら感じr・・・いや感じないな。 何だ今の感想。我が事ながら意味がわからない。
「裕。この『限定:臨時店員のおすすめ一品』というのは何だ?」 「俺が日替わりでご用意する一品目ですね。まぁ、色々あってメニューに追加になりまして」 「ふむ。では、俺はこの『限定:臨時店員のおすすめ一品』で頼む」 「お出しする前にメニューが何かもお伝え出来ますよ?」 「いや、ここは何が来るかを期待しながら待つとしよう」 「ハードル上げるなァ。唐揚げ1ポテサラ1エイヒレ1ホッケ1おすすめ1ですね。店長、3番オーダー入りまーす」
他の料理は店長に投げ、俺もキッチンに立つ。 本日のおすすめは鯵のなめろう。 処理した鯵を包丁でたたいて細かく刻み、そこにネギと大葉を加えてさらに叩いて刻む。 すりおろしたにんにくとショウガ、醤油、味噌、を加え更に細かく叩く。 馴染んだら下に大葉を敷いて盛り付けて完成。 手は疲れるが、結構簡単に作れるものなのだ。 そうして用意したなめろうを、それぞれのテーブルへと運んでいく。 まだまだピークはこれからだ。気合い入れて頑張ろう。
そう気合を入れ直した直後にまたも入り口の引き戸が音を立てたのであった。 わぁい、きょうはせんきゃくばんらいだー。
「おーい裕の兄ちゃん!今日も来たぜ!」 「いらっしゃいませー!連日飲んでて大丈夫なんですか?明日も朝早いんでしょう?」 「はっは、そんくらいで漁に行けない軟弱な野郎なんざこの打波にはいねえさ」 「むしろ、お前さんの顔見て元気になるってもんだ」 「はァ、そういうもんですか?とは言え、飲み過ぎないように気を付けてくださいね」
「なぁあんちゃん。酌してくれよ」 「はいはい、只今。・・・はい、どうぞ」 「っかー!いいねぇ!酒が美味ぇ!」 「手酌よりかはマシとは言え、野郎の酌で変わるもんです?」 「おうよ!あんちゃんみたいな可愛い奴に酌されると気分もいいしな!あんちゃんなら尺でもいいぜ?」 「お酌なら今しているのでは・・・?」 「・・・がはは、そう���な!」
「おい、兄ちゃんも一杯どうだ?飲めない訳じゃねえんだろ?」 「飲める歳ではありますけど仕事中ですので。皆さんだってお酒飲みながら漁には出ないでしょう?」 「そらそうだ!悪かったな。・・・今度、漁が終わったら一緒に飲もうぜ!」 「はは、考えておきますね」
ただのバイトに来ている筈なのに、何だか何処ぞのスナックのママみたいな気分になってくる。 それも、この島の人達の雰囲気のせいなのだろうか。
「あいつすげぇな。看板娘みてぇな扱いになってんぞ」 「流石裕ね。二日目にして店の常連共を掌握するとは。崇といい、これも旺海の血なのかしら?」 「もぐもぐ」 「さぁな。にしても、嫁があんなモテモテだと勇魚の野郎も大変だねぇ」 「裕の相手があの勇魚だって知った上で尚挑めるのかが見ものね」 「もぐもぐ」 「洋一、もしかしてなめろう気に入ったのか?」 「・・・うまい。巌もどうだ?」 「お、おう」
料理を運んでいる途中、洋一さんがひたすらなめろうを口に運んでいるのが目に入る。 もしかして、気に入ったのかな? そんな風にちょっとほっこりした気持ちになった頃、嵐は唐突に現れた。 嵐の兄さんじゃないよ。嵐の到来って奴。
「おーう裕。頑張っとるようじゃのう」 「あれ、疾海さん?珍しいですね、ここに来るなんて」 「げ、疾海のジジィだと!?帰れ帰れ!ここにはアンタに出すもんなんてねぇ!裕、塩持って来い塩!」
勇海さんのお父さんである疾海さんが来店。 この人がここにやってくる姿はほとんど見たことがないけれど、どうしたんだろう。 というか店長知り合いだったのか。
「なんじゃ店主、つれないのう。こないだはあんなに儂に縋り付いておったというのに」 「バッ・・・うるせェ!人の体好き放題しやがって!おかげで俺は・・・!」 「何言っとる。儂はちょいとお前さんの体を開いただけじゃろが。その後に若い衆に好き放題されて悦んどったのはお前さんの方じゃろ」
あー・・・そういう事ね。店長の腰をやった原因の一端は疾海さんか。 うん、これは聞かなかったことにしておこう。 というか、あけっぴろげに性事情を暴露されるとか店長が不憫でならない。
「のう、裕よ。お主も興味あるじゃろ?店主がどんな風に儂に縋り付いてきたか、その後どんな風に悦んでおったか」 「ちょ、ジジィてめぇ・・・」 「疾海さん、もうその辺で勘弁してあげてくださいよ。店長の腰がやられてるのは事実ですし、そのせいで俺が臨時で雇われてるんですから。益荒男でいいですか?どうぞ、そこの席にかけてください」 「おい、裕!」 「店長も落ち着いて。俺は何も見てませんし聞いてません。閉店までまだまだ遠いんですから今体力使ってもしょうがないでしょう。俺が疾海さんの相手しますから」 「―ッ、スマン。頼んだぞ、裕」
店長は顔を真っ赤にして逃げるようにキッチンへと戻っていった。 うん、あの、何て言うか・・・ご愁傷様です。 憐れみの視線を店長に送りつつお通しと益荒男を準備し、疾海さんの席へと提供する。
「よう店主の手綱を握ったのう、裕。やるもんじゃな」 「もとはと言えば疾海さんが店長をおちょくるからでしょう。あんまりからかわないでくださいよ」
にやにやと笑う疾海さんにため息が出てくる。 全く・・・このエロ爺は本当、悪戯っ子みたいな人だ。 その悪戯が天元突破したセクハラばかりというのもまた酷い。 しかも相手を即落ち、沈溺させるレベルのエロ技術を習得しているからなおさら性質が悪い。
「にしても、裕。お前さんもいい尻をしておるのう。勇魚の竿はもう受けたか?しっかりと耕さんとアレは辛いじゃろうて」
おもむろに尻を揉まれる。いや、揉みしだかれる。 しかも、その指が尻の割れ目に・・・ってオイ!
「―ッ!」
脳が危険信号を最大限に発し、半ば反射的に体が動く。 右手で尻を揉みしだく手を払いのけ、その勢いのまま相手の顔面に左の裏拳を叩き込む! が、振り抜いた拳に手ごたえは無く、空を切ったのを感じる。 俺は即座に一歩下がり、構えを解かずに臨戦態勢を維持。 チッ、屈んで避けたか・・・。
「っとぉ、危ないのう、裕。儂の男前な顔を台無しにするつもりか?」 「うるせえジジイおもてでろ」 「ほう、その構え・・・。成程、お前さん辰巳の孫のとこに師事したんか。道理で覚えのある動きじゃ。じゃが、キレがまだまだ甘いのう」
かなりのスピードで打ち込んだ筈なのに易々と回避されてしまった。 やはりこのジジイ只者ではない。 俺に攻撃をされたにも関わらず、にやにやとした笑いを崩さず、のんびりと酒を呷っている。 クソッ、俺にもっと力があれば・・・!
「おい裕、どうした。何か擦れた音が、ってオイ。マジでどうした!空気が尋常じゃねぇぞ!?」
店内に突如響いた地面を擦る音に、店長が様子を見に来たようだ。 俺の状態に即座に気づいたようで、後ろから店長に羽交い締めにされる。
「店長どいてそいつころせない」 「落ち着け!何があったか想像はつくが店ん中で暴れんな!」 「かかかっ!可愛い奴よな、裕。さて、儂はまだ行くところがあるでの。金はここに置いとくぞ」
俺が店長に止められている間に、エロ爺は笑いながら店を後にした。 飲み食い代よりもかなり多めの金額が置かれているのにも腹が立つ。
「店長!塩!」 「お、おう・・・」
さっきとはまるきり立場が逆である。 店の引き戸を力任せにこじ開け、保存容器から塩を鷲掴む。
「祓い給え、清め給え!!消毒!殺菌!滅菌ッ!!!」
適当な言葉と共に店の前に塩をぶちまける。 お店の前に、白い塩粒が散弾のように飛び散った。
「ふー、ふー、ふーッ!・・・ふぅ」 「・・・落ち着いたか?」 「・・・ええ、何とか」
ひとしきり塩をぶちまけるとようやく気持ちが落ち着いてきた。 店長の気遣うような声色に、何ともやるせない気持ちになりながら返答する。 疲労と倦怠感に包まれながら店の中に戻��と、盛大な歓声で出迎えられる。
「兄さん、アンタやるじゃねぇか!」 「うおッ!?」 「疾海のじいさんにちょっかいかけられたら大体はそのまま食われちまうのに」 「ひょろっちい奴だと思ってたがすげえ身のこなしだったな!惚れ惚れするぜ!」 「あ、ありがとうございます・・・はは・・・」
疾海さんは俺と勇魚さんの事を知っているから、単にからかってきただけだろうとは思っている。 エロいし奔放だし子供みたいだが、意外と筋は通すし。 あくまで「比較的」通す方であって手を出さない訳ではないというのが困りものではあるが。 そんな裏事情をお客の人達が知っている訳もなく、武術で疾海さんを退けたという扱いになっているらしい。 けど、あのジジイが本気になったら俺の付け焼刃な武術じゃ相手にならない気がする。 さっきの物言いを考えると辰馬のおじいさんとやりあってたって事になる。 ・・・うん、無理そう。
「おっし!そんなあんちゃんに俺が一杯奢ってやろう!祝杯だ!」 「いいねえ!俺も奢るぜ兄ちゃん!」 「抜け駆けすんな俺も奢るぞ!」 「ええっ!?いや、困りますって・・・俺、仕事中ですし・・・」 「裕、折角なんだし受けておきなさいな」
どうしようかと途方に暮れていると、いつの間にか冴さんが隣に来ていた。 と、それとなく手の中に器のようなものを握らされた。
「冴さん。あれ、これって・・・」
横目でちらりと見ると『咲』の字が入った器。 これ、咲夜の盃・・・だよな?
「腕も立って酒にも強いと知っとけば、あの連中も少しは大人しくなるでしょ。自衛は大事よ」 「はぁ・・・自衛、ですか」 「後でちゃんと返してね」
これって確か、持ってるだけで酒が強くなるって盃だったっけ。 その効果は一度使って知っているので、有難く使わせてもらうとしよう。 店長もこっちのやりとりを見ていたのか何も言うこと無く調理をしていた。
「おっ、姐さんも一緒に飲むかい!?」 「ええ。折角だから裕にあやからせてもらうわ。さぁ、飛ばしていくわよ野郎共ー!」 「「「「おおーっ!!」」」」 「お、おー・・・」
その後、ガンガン注がれるお酒を消費しつつ、盃を返す、を何度か繰り返すことになった。 途中からは冴さんの独壇場となり、並み居る野郎共を悉く轟沈させて回っていた。 流石っス、姐さん。 ちなみに俺は盃のご利益もあり、その横で飲んでいるだけで終わる事になった。
そんな一波乱がありつつも、夜は更けていったのだった。
そんなこんなで本日の営業終了時刻が近づいてくる。 店内には冴さん、海堂さん、洋一さんの3人。 冴さんはいまだ飲んでおり、その底を見せない。ワクなのかこの人。 海堂さんはテーブルに突っ伏してイビキをかいており、完全に寝てしまっている。 洋一さんはそんな海堂さんを気にしつつ、お茶を啜っている。 あんなにいた野郎共も冴さんに轟沈させられた後、呻きながら帰って行った。 明日の仕事、大丈夫なんだろうか・・・。
後片付けや掃除もほぼ終わり、後は冴さん達の使っているテーブルだけとなった時、入り口が壊れそうな勢いで乱暴に開いた。
「裕ッ!」 「うわっ、びっくりした。・・・勇魚さん、お疲れ様です」
入り口を開けて飛び込んできたのは勇魚さんだった。 いきなりの大声にかなり驚いたが、相手が勇魚さんとわかれば安心に変わる。 だが、勇魚さんはドスドスと近づいてくると俺の両肩をガシリと掴んだ。
「オイ裕!大丈夫だったか!?変な事されてねえだろうな!」
勇魚さんにしては珍しく、かなり切羽詰まった様子だ。 こんなに心配される事、あったっけ・・・? 疑問符が浮かぶがちらりと見えた勇海さんの姿にああ、と納得する。 というか苦しい。掴まれた肩もミシミシ言ってる気がする。
「うわっ!?大丈夫、大丈夫ですって。ちょ、勇魚さん苦しいです」 「お、おう。すまねえ・・・」
宥めると少し落ち着いたのか、手を放してくれる。 勇魚さんに続いて入って来た勇海さんが、申し訳なさそうに口を開いた。
「裕、すまないな。親父殿が無礼を働いたそうだな」 「勇海さんが気にすることではないですよ。反撃もしましたし。まぁ、逃げられたんですけど」 「裕は勇魚のつがいだと言うのに、全く仕方のないことだ。親父殿には私から言い聞かせておく。勘弁してやって欲しい」 「疾海さんには『次やったらその玉潰す』、とお伝えください」 「ははは、必ず伝えておくよ」
俺の返答に納得したのか、勇海さんは愉快そうに笑う。 本当にその時が来た時の為に、俺も更なる修練を積まなければ。 ・・・気は進まないけど、辰馬のおじいさんに鍛えてもらう事も視野に入れなければならないかもしれない。
「裕、今日はもう上がっていいぞ。そいつら連れて帰れ」 「え、いいんですか?」 「掃除も殆ど終わってるしな。色々あったんだ、帰って休んどけ」
俺に気を遣ってくれたのか、はたまたさっさと全員を返したかったのか、店長から退勤の許可が出た。 ここは有難く上がらせてもらおう。色々あって疲れたのは事実だ。
「じゃあ、折角ですので上がらせてもらいます。お疲れ様でした」 「おう。明日も頼むぞ」
店長に挨拶をし、皆で店を出る。 勇海さんはここでお別れとなり、俺、勇魚さん、冴さん、海堂さん、洋一さんの5人で帰る。 寝こけている海堂さんは洋一さんが背負っている。
「裕、ホントに他に何も無かったんだろうな!?」 「ですから、疾海さんにセクハラ受けただけですって。その後は特に何も無かったですし・・・」
で、帰り道。勇魚さんに詰問されております。 心配してくれるのはとても嬉しい。 嬉しいんだけど、過剰な心配のような気もしてちょっと気おくれしてしまう。
「俺に気を遣って嘘ついたりすんじゃねえぞ」 「冴さん達も一緒にいたのに嘘も何もないんですが・・・」 「裕の言ってる事に嘘はないわよ。疾海の爺さんに尻揉まれてたのも事実だけど」 「・・・思い出したら何か腹立ってきました。あのジジイ、次に会ったら確実に潰さなきゃ」
被害者を減らすにはその大本である性欲を無くすしかないかな? やっぱり金的か。ゴールデンクラッシュするしかないか。 あの驚異的な回避力に追いつくためにはどうすればいいか・・・。 搦め手でも奇襲なんでもいい、当てさえすればこちらのものだろう。 そう思いながら突きを繰り出し胡桃的な何かを握り潰す動作を数回。 駄目だな、やっぱりスピードが足りない。
「成程、金的か」 「裕、その、ソイツは・・・」
洋一さんは俺の所作から何をしようとしているかを読み取ったようだ。 その言葉にさっきまで心配一色だった勇魚さんの顔色変わる。 どうしました?なんで微妙に股間を押さえて青ざめてるんです?
「冴さん。こう、男を不能寸前まで追い込むような護身術とかないですかね?」 「あるにはあるけど、そういうの覚えるよりもっと確実な方法があるわよ」 「え?」 「勇魚。アンタもっと裕と一緒にいなさい。で、裕は俺の嫁アピールしときなさい」
嫁。勇魚さんのお嫁さん。 うん、事実そうなんだけどそれを改めて言われるとなんというか。 嬉しいんだけど、ねぇ?この照れくさいような微妙な男心。
「裕。頬がだいぶ紅潮しているようだが大丈夫か?」 「だ、大丈夫です。何というか、改めて人に言われると急に、その・・・」 「ふむ?お前が勇魚のパートナーである事は事実だろう。港の方でも知れ渡っていると聞いている。恥ずべきことではないと思うが?」 「恥ずかしいんじゃなくて嬉しくも照れくさいというか・・・」 「・・・そういうものか。難しいものだな」
洋一さんに指摘され、更に顔が赤くなる。 恥ずかしいわけじゃない。むしろ嬉しい。 でも、同じくらい照れくささが湧き上がってくる。 イカン、今凄い顔が緩みまくってる自覚がある。
「流石にアンタ相手に真正面から裕に手を出す輩はいないでしょう。事実が知れ渡れば虫よけにもなって一石二鳥よ」 「お、おお!そうだな!そっちの方が俺も安心だ!うん、そうしろ裕!」
冴さんの案に我が意を得たりといった顔の勇魚さん。 妙に食いつきがいいなァ。 でも、それって四六時中勇魚さんと一緒にいろって事では?
「勇魚さんはそれでいいんですか?対セクハラ魔の為だけに勇魚さんの時間を割いてもらうのは流石にどうかと思うんですが」 「んなこたあねえよ。俺だってお前の事が心配なんだ。これくらいさせてくれよ」 「そう言われると断れない・・・」
申し訳ない旨を伝えると、純粋な好意と気遣いを返される。 実際勇魚さんと一緒に居られるのは嬉しいし、安心感があるのも事実だ。
「裕、あんたはあんたで危機感を持った方がいいわよ」 「危機感、といいますとやっぱりセクハラ親父やセクハラ爺の対処の話ですか?」
冴さんの言葉に、2人の男の顔が思い浮かぶ。 悪戯、セクハラ、煽りにからかい。あの人たちそういうの大好きだからなぁ。 でも、だいぶ耐性はついたし流せるようになってきたと思ってるんだけど。
「違うわよ。いやある意味同じようなモンか」 「客だ、裕」 「客?お店に来るお客さんって事ですか?」
え、海堂さんとか疾海さんじゃないのか。 そう思っていると意外な答えが洋一さんの方から返って来た。 客の人達に何かされたりは・・・ない筈だったけど。
「店にいた男たちはかなりの人数が裕を泥酔させようと画策していたな。冴が悉くを潰し返していたが」 「何っ!?」 「え!?洋一さん、それどういう・・・」
何その事実今初めて知った。どういうことなの。
「今日店に居た男たちは皆一様にお前をターゲットとしていたようだ。やたらお前に酒を勧めていただろう。お前自身は仕事中だと断っていたし、店長もお前に酒がいかないようそれとなくガードしていた。だがお前が疾海を撃退したとなった後、躍起になるようにお前に飲ませようとしていただろう。だから冴が向かったという訳だ」 「疾海の爺さん、なんだかんだでこの島でもかなりの手練れみたいだしね。物理でだめならお酒でって寸法だったみたいね」 「えっと・・・」 「食堂に来てた立波さん、だったかしら。ここまで言えばわかるでしょ?店長も何だかんだでそういう事にならないよう気を配ってたわよ」
あァ、成程そういう事か。ようやく俺も理解した。 どうやら俺は三日月亭でそういう意味での好意を集めてしまったという事らしい。 で、以前店長が言っていた「紳士的でない方法」をしようとしていたが、疾海さんとのやりとりと冴さんのおかげで事なきを得たと、そういう事か。
「えー・・・」 「裕・・・」
勇魚さんが俺を見る。ええ、心配って顔に書いてますね。 そうですね、俺も逆の立場だったら心配しますよ。
「なあ裕。明日の手伝いは休んどけ。店には俺が行くからよ」 「いや、そういうワケにもいかないでしょう。勇魚さん、魚は捌けるでしょうけど料理できましたっけ?」 「何、料理ができない訳じゃねえ・・・なんとかなるだろ」
あっけらかんと笑う勇魚さんだが、俺には不安要素しかない。 確かに料理ができない訳じゃないけど如何せん漢の料理だ。店長の補助とかができるかと言うと怪しい。 この島に来てからの勇魚さんの功績をふと思い返す。 餅つき・・・臼・・・ウッアタマガ。 ・・・ダメだ、食材ごとまな板真っ二つにしそうだし、食器を雑に扱って破壊しそうな予感しかしない。 勇魚さんの事だからセクハラされたりもしそうだ。 ダメダメ、そんなの俺が許容しません。
「様々な観点から見て却下します」 「裕ぅ~・・・」
そんなおねだりみたいな声したって駄目です。 却下です却下。
「裕、ならば俺が行くか?」 「お願いしたいのは山々なんですが洋一さんは明日北の集落に行く予定でしたよね。時間かかるって仰ってたでしょう?」 「ふむ。ならば巌に―」 「いえ、海堂さんには店長のマッサージもお願いしてますしこれ以上は・・・」
洋一さんが申し出てくれるが、洋一さんは洋一さんで抱えてる事がある。 流石にそれを曲げてもらうわけにはいかない。 海堂さんなら色んな意味で文句なしの人材ではあるのだが、既にマッサージもお願いしている。 それに、迂闊に海堂さんに借りを作りたくない。後が怖い。
「洋一も無理、巌も無理とするならどうするつもりなんだ?高瀬か?」 「勇魚さん、三日月亭の厨房を地獄の窯にするつもりですか?」 「失礼ねェ。頼まれてもやらないわよ」
勇魚さんからまさかの選択が投げられるがそれは無理。 冴さんとか藤馬さんに立たせたら三日月亭から死人が出る。三日月亭が営業停止する未来すらありえる。 頼まれてもやらないと冴さんは仰るが、「やれないからやらない」のか「やりたくないからやらない」のかどっちなんだ。
「明日も普通に俺が行きますよ。ついでに今後についても店長に相談します」 「それが一番ね。店長も裕の状況に気づいてるでしょうし」 「巌の話だとマッサージのおかげかだいぶ良くなってきているらしい。そう長引きはしないだろう」 「後は勇魚がガードすればいいのよ」 「おう、そうか。そうだな」
そんなこんなで話も固まり、俺達は屋敷に到着した。 明日は何事もなく終わってくれればいいんだけど・・・。 そんな不安も抱えつつ、夜は過ぎていった。
そしてバイト三日目。 俺は少し早めに三日月亭へと来ていた。
「ああ、だよなぁ。すまんな、そっちの可能性も考えてなかったワケじゃ無いんだが・・・そうなっちまうよなあ」
俺の状況と今後の事を掻い摘んで説明すると、店長は疲れたように天井を仰ぐ。
「何というか・・・すみません。腰の具合はどうです?」
別に俺が何かをしたわけではないけれど、状況の中心にいるのは確かなので申し訳ないとは思う。
「海堂の旦那のおかげでだいぶ良くなった。もう一人でも回せそうだ。何なら今日から手伝わなくてもいいんだぞ?」
店長はそう言うが、完治しているわけでもない。 悪化するわけではないだろうが気になるのも事実。 なので、昨日のうちに勇魚さんと決めていた提案を出すことにする。
「でも全快というわけでもないんでしょう?引き受けたのは自分です。勇魚さんもいますし、せめて今日までは手伝わせてくださいよ」 「心意気はありがてえが・・・。わかった、面倒ごとになりそうだったらすぐさま離れろよ?勇魚の旦那も頼むぜ」 「おう!」 「はい!さ、今日も頑張りましょう!」
昨日話した通り今日は開店から勇魚さんも店に居てくれる。 万が一な状態になれば即座に飛んできてくれるだろう。 それだけで心の余裕も段違いだ。
「裕、無理すんなよ」 「わかってますよ。勇魚さんも、頼みますね」 「おう、任せときな!」
勇魚さんには店内を見渡せる席に座ってもらい、適当に時間を潰してもらう。 俺は店長と一緒に仕込みを始めながら新メニューの話も始める。 途中、勇魚さんにビールとお通しを出すのも忘れずに。
「新しいメニュー、どうすっかねぇ」 「今日の一品、新レシピも兼ねてゴーヤーチャンプルーでいこうかと思うんですよ」 「ほー。確かに苦瓜なら栽培してるとこはそこそこあるしな。行けるだろう」 「スパム缶は無くても豚肉や鶏肉でいけますからね。肉が合わないなら練り物やツナでも大丈夫です。材料さえあれば炒めるだけってのも高ポイント」 「肉に卵にと寅吉んとこには世話になりっぱなしだな。だが、いいねえ。俺も久しぶりにチャンプルーとビールが恋しくなってきやがった」 「後で少し味見してくださいよ。島の人達の好み一番把握してるの店長なんだから。・・・でも、やっぱり新メニュー考えるのは楽しいな」 「・・・ったく、面倒ごとさえ無けりゃあこのまま働いてもらえるってのに。無自覚に野郎共の純情を弄びやがって」 「それ俺のせいじゃないですよね・・・」
調理実習をする学生みたいにわいわい喋りながら厨房に立つ俺達を、勇魚さんはニコニコしながら見ている。 あ、ビールもう空きそう。おかわりいるかな? そんな風に営業準備をしていると時間はあっという間に過ぎ去り、開店時間になる。 開店して数分も経たないうちに、店の引き戸がガラリと開いた。
「いらっしゃいませー!」
「裕、お前まだここで働いてたのか」 「潮さん、こんばんは。今日までですけどね。あくまで臨時なので」 「ふむ、そうか。勇魚の旦那もいるのか」 「おう、潮。裕の付き添いでな」 「・・・ああ、成程な。それは確かに必要だ」
「おっ、今日も兄ちゃんいるのか!」 「いらっしゃいませ!ははは、今日で終わりなんですけどね」 「そうなのか!?寂しくなるなぁ・・・。なら、今日こそ一杯奢らせてくれよ」 「一杯だけならお受けしますよ。それ以上は無しですからね」
「裕の兄ちゃん!今日でいなくなっちまうって本当か!?」 「臨時ですので。店長の具合もよくなりましたし」 「兄ちゃんのおすすめ一品、好きだったんだけどよ・・・」 「はは、ありがとうございます。今日も用意してますから良かったら出しますよ」 「おう、頼むぜ!」
続々とやってくる常連客を捌きつつ、厨房にも立つ。 店長の動きを見てもほぼ問題ない。治ってきてるのも事実のようだ。 時折お客さんからの奢りも一杯限定で頂く。 今日は以前もらった方の咲夜の盃を持ってきているので酔う心配もない。
「おう、裕のあんちゃん!今日も来たぜ!」 「い、いらっしゃいませ・・・」
再びガラリと入り口が空き、大柄な人物がドスドスと入ってくる。 俺を見つけるとがっしと肩を組まれる。 日に焼けた肌が特徴の熊のような人だ。名前は・・・確か井灘さん、だったかな? 初日に俺に可愛いと言い、昨日は酌を頼まれ、冴さんに潰されてた人だ。 スキンシップも多く、昨日の一件を考えると警戒せざるを得ない。 取り合えず席に案内し、おしぼりを渡す。
「ガハハ、今日もあんちゃんの可愛い顔が見れるたぁツイてるな!」 「あ、ありがとうございます。注文はどうしますか?」 「まずはビール。食いモンは・・・そうさな、あんちゃんが適当に見繕ってくれよ」 「俺が、ですか。井灘さんの好みとかわかりませんけど・・・」 「大丈夫だ。俺、食えねえもんはねえからよ。頼むぜ!」 「はあ・・・分かりました」
何か丸投げされた感が凄いが適当に三品程見繕って出せばいいか。 ついでだからゴーヤーチャンプルーも試してもらおうかな。 そんな事を考えながら、俺は井灘さんにビールとお通しを出す。
「む・・・」 「どうした旦那。ん?アイツ、井灘か?」 「知ってるのか、潮」 「ああ。俺達とは違う港の漁師でな。悪い奴では無いんだが、気に入った奴にすぐ手を出すのが玉に瑕でな」 「そうか・・・」 「旦那、気を付けた方がいいぞ。井灘の奴、あの様子じゃ確実に裕に手を出すぞ」 「・���・おう」
こんな会話が勇魚さんと潮さんの間でなされていたとはつゆ知らず。 俺は店長と一緒に厨房で鍋を振っていた。
「はい、井灘さん。お待たせしました」 「おう、来た来た」 「つくね、ネギま、ぼんじりの塩の串盛り。マグロの山かけ。そして今日のおすすめ一品のゴーヤーチャンプルーです」 「いいねえ、流石あんちゃん。で、なんだそのごーやーちゃんぷうるってのは?」 「内地の料理ですよ。苦瓜と肉と豆腐と卵の炒め物、ってとこでしょうか。(厳密には内地の料理とはちょっと違うけど)」 「ほー苦瓜。滅多に食わねえが・・・あ���。うん、美味え!美味えぞあんちゃん!」 「それは良かった」 「お、美味そうだな。兄ちゃん、俺にもそのごーやーちゃんぷうるってのくれよ」 「俺も!」 「はいはい、ただいま」
井灘さんが美味しいと言ってくれたおかげで他の人もゴーヤーチャンプルーを頼み始める。 よしよし、ゴーヤーチャンプルーは当たりメニューになるかもしれない。 そう思いながら厨房に引っ込んでゴーヤーを取り出し始めた。
それからしばらくして井灘さんから再びゴーヤーチャンプルーの注文が入る。 気に入ったのだろうか。
「はい、井灘さん。ゴーヤーチャンプルー、お待たせ」 「おう!いやー美味えな、コレ!気に入ったぜ、ごーやーちゃんぷうる!」 「あはは、ありがとうございます」
自分の料理を美味い美味いと言ってもりもり食べてくれる様はやっぱり嬉しいものだ。 作る側冥利に尽きる。 が、作ってる最中に店長にも「アイツは気を付けとけ」釘を刺されたので手放しに喜ぶわけにもいかない。
「毎日こんな美味いモン食わせてくれるなんざあんちゃんと一緒になる奴は幸せだなあ!」 「はは・・・ありがとう、ございます?」 「あんちゃんは本当に可愛い奴だなあ」
屈託ない笑顔を向けてくれるのは嬉しいんだけど、何だか話の方向が急に怪しくなってきたぞ。
「おい、裕!早く戻ってきてこっち手伝え!」 「ッ、はーい!じゃあ井灘さん、俺仕事に戻るので・・・」
こっちの状況を察知したのか、店長が助けを出してくれる。 俺も即座に反応し、戻ろうと足を動かす。 が、その前に井灘さんの腕が俺の腕を掴む。 あ、これは・・・。
「ちょ、井灘さん?」 「なあ、裕のあんちゃん。良けりゃ、俺と・・・」
急に井灘さんの顔が真面目な顔になり、真っ直ぐに俺を見据えてくる。 なんというか、そう、男の顔だ。 あ、俺こういう顔に見覚えある。 そう、勇魚さんの時とか、立浪さんの時とか・・・。 逃げようと思うも腕をガッチリとホールドされ、逃げられない。 ・・・ヤバイ。そう思った時だった。 俺と井灘さんの間に、ズイと体を割り込ませてきた見覚えのあるシャツ姿。
「なあ、兄さん。悪いがこの手、離してくんねえか?」 「勇魚さん・・・」
低く、優しく、耳をくすぐる声。 この声だけで安堵感に包まれる。 言葉は穏やかだが、どこか有無を言わせない雰囲気に井灘さんの眉間に皺が寄る。
「アンタ・・・確か、内地の客だったか。悪いが俺の邪魔・・・」 「裕も困ってる。頼むぜ」 「おい、アンタ・・・う、腕が動かねえ!?」
井灘さんも結構な巨漢で相当な力を込めているのがわかるが、勇魚さんの手はびくともしない。 勇魚さんの怪力はよく知ってはいるけど、こんなにも圧倒的なんだなあ。
「こいつ、俺の大事な嫁さんなんだ。もし、手出しするってんなら俺が相手になるぜ」
そう言って、勇魚さんは俺の方をグッと抱き寄せる。 抱き寄せられた肩口から、勇魚さんの匂いがする。 ・・・ヤバイ。勇魚さん、カッコいい。 知ってたけど。 知ってるのに、凄いドキドキする。
「っ・・・ガハハ、成程!そいつは悪かったな、旦那!」 「おう、分かってくれて何よりだぜ。さ、裕。店長が呼んでるぜ」 「あ、ありがとうございます勇魚さん。井灘さん、すみませんけどそういう事なので・・・」
勇魚さんの言葉に怒るでもなく、井灘さんは納得したようにあっさりと手を放してくれた。 井灘さんに謝罪しつつ、促されるまま厨房へと戻る。
「おお!あんちゃんも悪かったな!旦那、詫びに一杯奢らせてくれや!」 「おう。ついでに裕のどこが気に入ったのか聞かせてくれよ」
漁師の気質なのかはたまた勇魚さんの人徳なのか。 さっきの空気はどこへやら、そのまま親し気に話始める2人。
「ちょ、勇魚さん!」 「いいぜ!旦那とあんちゃんの話も聞かせてくれよ!」 「井灘さんまで!」 「おい裕!いつまで油売ってんだ、こっち手伝え!」
店長の怒鳴り声で戻らざるを得なかった俺には二人を止める術などなく。 酒の入った声のデカい野郎共が二人、店内に響かない筈がなく・・・。
「でよ、そん時の顔がまたいじらしくってよ。可愛いんだこれが」 「かーっ!羨ましいこったぜ。旦那は果報モンだな!」 「だろ?なんたって俺の嫁さんなんだからな!」
勇魚さんも井灘さんも良い感じに酒が入ってるせいか陽気に喋っている。 可愛いと言ってくれるのは嬉しくない訳ではないけれど、連呼されると流石に男としてちょっと悲しい気分になる。 更に嫁さん嫁さん連呼されまくって複雑な心境の筈なのにどれだけ愛されているかをガンガン聞かされてオーバーヒートしそうだ。
「何故バイト中に羞恥プレイに耐えなければならないのか・・・」 「おい裕、いつまで赤くなってんだ。とっとと料理運んで来い」 「はい・・・いってきます・・・」
人が耐えながらも調理しているというのにこの銭ゲバ親父は無情にもホール仕事を投げて来る。 こんな状況で席に料理を運びに行けば当然。
「いやー、お熱いこったなあ兄ちゃん!」 「もう・・・ご勘弁を・・・」 「っははははは!」
茶化されるのは自然な流れだった。 勇魚さんと井灘さんのやりとりのお陰でスキンシップやらは無くなったが、祝言だの祝い酒だの言われて飲まされまくった。 咲夜の盃が無ければ途中で潰れてたかもしれない。
そんな揶揄いと酒漬けの時間を、俺は閉店間際まで味わうことになったのだった。
そして、もうすぐ閉店となる時間。 勇魚さんと一緒にずっと飲んでいた井灘さんも、ようやく腰を上げた。 会計を済ませ、店の前まで見送りに出る。
「じゃあな、あんちゃん。俺、マジであんちゃんに惚れてたんだぜ」 「はは・・・」 「だが、相手が勇魚の旦那じゃあ流石に分が悪い。幸せにしてもらえよ!」 「ありがとうございます・・・」 「また飲みに来るからよ。また今度、ごーやーちゃんぷうる作ってくれよな!」 「その時に居るかは約束できませんが、機会があれば」
からりとした気持ちの良い気質。 これもある種のプレイボーイなのだろうか。
「じゃあな!裕!勇魚の旦那!」 「おう!またな、井灘!」 「おやすみなさい、井灘さん」
そう言って手を振ってお見送り。 今日の三日月亭の営業も、これにて閉店。 店先の暖簾を下ろし、店内へと戻る。
「裕。そっちはどうだった?」 「こっちも終わりました。後は床掃除したら終わりですよ」 「ホント、この3日間マジ助かった。ありがとうな」 「いえいえ、久しぶりの接客も楽しかったですよ」
最後の客だった井灘さんも先程帰ったばかりだ。 店内の掃除もほぼ終わり、閉店準備もほぼ完了。 三日月亭のバイトももう終わりだ。 店長が近づいてくると、封筒を差し出してきた。
「ほい、バイト代だ。色々世話もかけたからな。イロ付けといたぜ」 「おお・・・」
ちょろっと中身を確認すると、想定していたよりかなり多めの額が入っていた。 店長なりの労いの証なのだろう。
「なあ裕。マジで今後もちょくちょく手伝いに来ねえか?お前がいると客足増えるし酒も料理も注文増えるしな。バイト料もはずむぜ」 「うーん・・・」
店長の申し出は有難いが、俺は俺でまだやらなければならない事がある。 悪くはない、んだけど余り時間を使うわけにもなぁ。 そんな風に悩んでいると、勇魚さんが俺の頭にぽん、と掌をのせる。
「店長、悪いがこれ以上裕をここにはやれねえよ」 「はは、旦那がそう言うんなら無理は言えねえな。裕の人気凄まじかったからな」 「ああ。何かあったらって、心配になっちまうからな」
今回は勇魚さんのお陰で事なきを得たけど、また同じような状況になるのは俺も御免被りたい。 相手に申し訳ないのもあるけど、どうすればいいか分からなくて困ったのも事実だ。
「お店の手伝いはできないですけど、またレシピの考案はしてきますので」 「おう。売れそうなのを頼むぜ。んじゃ、気を付けて帰れよ」 「はい、店長もお大事に。お疲れ様です」 「旦那もありがとうな」 「おう、おやすみ」
ガラガラ、という音と共に三日月亭の扉が閉まる。 店の前に残ったのは、俺と勇魚さんの二人だけ。
「じゃ、帰るか。裕」 「ええ、帰りましょうか。旦那様」 「おっ・・・。へへ、そう言われるのも悪くねえな」 「嫌味のつもりだったんだけどなァ」
そう言って俺と勇魚さんは笑いながら屋敷への帰路につくのであった。
後日―
三日月亭に買い物に来た俺を見るなり、店長が頭を下げてきた。
「裕、頼む・・・助けてくれ・・・」 「ど、どうしたんです店長。随分疲れきってますけど・・・」 「いや、それがな・・・」
あの3日間の後、事あるごとに常連客から俺は居ないのかと聞かれるようになったそうな。 俺がまだ島にいるのも事実なので連れて来るのは不可能だとも言えず。 更に井灘さんがちょくちょく仲間漁師を連れて来るらしく、『姿が見えない料理上手な可愛い店員』の話だけが独り歩きしてるらしい。 最近では聞かれ過ぎて返す言葉すら億劫になってきているそうな。 ぐったりした様子から、相当疲弊しているのがわかる。
「な、裕。頼む後生だ。俺を助けると思って・・・」 「ええ・・・」
それから。 たまーに勇魚さん同伴で三日月亭にバイトに行く日ができました。
更に後日。
勇魚さんと一緒に『網絡め』という儀式をすることになり、勇海さんに見られながら致すというしこたま恥ずかしいプレイで羞恥死しそうな思いをしたことをここに記録しておきます。
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藤井賢二(島根県竹島問題研究顧問)
戦後の日本漁船拿捕
 戦後、多くの日本漁船が周辺諸国によって拿捕され、乗組員が抑留された。その数は、昭和20年から40年の20年間で、中国によるもの187隻(2233人)、南朝鮮・韓国327隻(3911人)、台湾51隻(680人)、ソ連1164隻(9808人)に上った(『海上保安庁三十年���』昭和54年など)。
図①
は韓国に拿捕された漁船の位置を示したものである(昭和29年末まで)。韓国の拿捕は対馬北方から東シナ海北部そして黄海南部にかけての広い海域で行われ、とりわけ済州島周辺に集中している。
 東シナ海から黄海にかけては中国による拿捕も多発したが、西日本の漁業者にとって両国の拿捕・抑留の印象は異なる。どちらも漁船が銃撃を受けることがあり、韓国の拿捕では8人が死亡した(森田芳夫『日韓関係』48年。後の日本政府による補償認定では、昭和30年2月14日に五島沖で韓国艦艇に追突されて沈没した第6あけぼの丸の死者21人も加えられた)。
 一方、中国の場合は拿捕時に16人もの死者が出た(『日韓漁業対策運動史』昭和43年)にもかかわらず、「日中漁業問題には日韓漁業問題のような陰鬱さがない」と関係者は記す(『日本遠洋底曳網漁業協会二拾年史』43年)。
 日韓漁業問題の「陰鬱さ」の理由は三つある。まず、韓国の待遇の劣悪さ、とりわけ貧弱な食料事情と最長3年半を越す抑留期間の長さ。次に、中国による拿捕が昭和30年の日中民間漁業協定で実質的に終結したのに対して、韓国の場合はその10年後の40年に日韓漁業協定が結ばれるまで、漁業者は拿捕の危険性に怯えねばならなかったこと。そして、抑留者を利用した韓国の「��質外交」(日韓会談代表で後に韓国の外相を務めた金東祚が1986年刊『回想三十年 韓日会談』で使用した言葉)に日本が振り回されたことで 
ある。
 この「陰鬱さ」から日韓関係を考えるのが小文の目的である。
 ただし、中国による拿捕・抑留には思わぬ弊害があったことは触れておかねばならない。日本人漁船員に対する思想教育である。
 昭和28年9月18日に博多に帰還した漁船員たちは「中共支給のレーニン帽と工人服に身を包んだまま…略…押し寄せた家族の喜びの呼びかけにも、一切物いわず、ただただ、腕を上下に振り、身を左右にゆすって、中国解放の歌や労働歌を、つぎからつぎから歌いまくるやら、中共礼賛の演説をぶつばかり」という光景があった(アサヒグラフ28年10月7日号)。
 26年に約4カ月間中国に抑留された元漁船員は、中国の待遇はよかったと回想し「思想教育など受けた覚えはないが、それでも最近まで中国を良い国だと思っていた」と私に語った。漁業者たちの「異文化体験」は、戦後日本が置かれた状況を考えるための貴重な資料である。 マッカーサーラインへの便乗
 「韓国人はたたく」。元漁業者への取材中、一人の言葉に周囲もうなずいた。日本人漁船員すべてが受けたのではないにせよ、韓国による拿捕時の暴行の記憶は元漁業者たちに共有されている。
 日本を占領支配していた連合国軍総司令部(GHQ)の文書の一つ「Korean seizures-Petitions」に5件8隻の拿捕事件の報告がある。うち3件で取り調べ時の暴行の証言がある。次は瑞穂丸船長報告の一部である。瑞穂丸は23年5月14日に拿捕され済州島に連行された。
 「私は警備船に呼ばれ、東経一二六度一二分、北緯三二度四八分に同意し捺印を求められたが、其の位置が事実と全く相違しているので、其の訂正を乞ふた処、警備船士官二名は顔面を十回位殴打し、口中よりは血を出し其の上堅木にて全身を乱打意識不明となる。
 余りにも無謀なる処置に唖然としました。此の状態では到底我々の意を解する事は絶対になく、意見を主張すればする程却って激昂し身に危険を感ずる計りと考へまして、不本意ながら右警備船の位置に同意しました。警備隊員は無線機、航海用具、船員私物等悉く持去りました(略)。
 十六日西帰浦より済州に回航当時本船に(士官一名下士官兵七名)計八名が懲戒の為乗組んだのであります。八名の三食を本船にて給与せねばならないので配給で限度のある為一食にはトウモロコシを入れたので其れに憤慨して我々に雑穀を入れて出した。馬鹿にしている。船長が命令したのであろうと云って、堅木にて十四、五回までは意識あるも後は意識不明となる」
 瑞穂丸の船長は、報告書の最後を、日本人乗組員が暴行を受けた理由について「外に此れという理由もありません。朝鮮人は日本人に如何に虐待を受けて来たかにあるようであります」と結んだ。35年間の日本の朝鮮統治に対する〝報復〟が東シナ海の海上で行われていた。
 韓国(当時は南朝鮮過渡政府)が拿捕位置の確認を強要したのは、瑞穂丸のマッカーサーライン違反を認めさせようとしたからである。
 マッカーサーラインは昭和20年に総司令部が日本漁船の操業の限界線として設定したもので、韓国とは本来無関係なものであった。25年1月19日に総司令部は「公海における日本の漁労活動は総司令部の命令によってのみ管理される」と日本漁船拿捕停止を韓国に求めた。マッカーサーラインを日韓の国境のように誤解し、連合国(=戦勝国)ではない韓国が連合国のようにふるまうことは日韓関係に悪影響を与えると、総司令部は危惧していた。
 しかし、同6月に始まる朝鮮戦争で国連軍(米軍)がまきかえすと、同12月に韓国は日本漁船拿捕を再開した。日本の漁業者は、米国の「防共の第一線に立つ韓国への甘やかし」が韓国の横暴を招いたと憤った(『日韓漁業対策運動史』)。
李承晩ライン宣言
 昭和27年1月18日に韓国は李承晩ラインを宣言、広大な水域からの日本漁船排除をめざした。彼らが既得権益と考えたマッカーサーラインが、韓国の度重なる米国への要請にもかかわらず、同4月28日の日本の主権回復により消滅確実となったための措置であった。
 李承晩ライン宣言とは、外交交渉で得られなかったものを一方的な宣言によって獲得しようとした極めて非常識なものであった。そして韓国は、宣言の1カ月後の日韓会談(日韓国交正常化交渉)で、李承晩ラインを「既成事実」として日本に突き付けて認めさせようとした。
 日本は資源保護のため一部漁業の禁漁区域と禁漁期間を設けることを提案したが韓国はこれを受け入れず、すべての日本漁船の操業禁止区域設定を求めたのである。
 韓国の強引さの背景には水産業の重要性があった。水産物輸出は朝鮮戦争前には韓国の総輸出総額の7割を占め、外貨獲得の柱として期待されていた(大韓民国公報處『週報』八 1949年)。遠洋漁業振興のため、東シナ海から黄海にかけての好漁場に日本漁船が操業できない区域を作り、その漁業資源を独占することは、韓国の悲願だった。
 すでに1948(昭和23)年の建国前から「遠洋漁業には済州島西南東シナ海のトロール漁場の開拓と南氷洋捕鯨漁業の進出の二つがある」とし、このトロール漁場に「我が戦士を進出させ、日本漁夫の侵略企図を防止せねばならない」と韓国の水産行政担当者は主張していた(同1月11日付東亜日報)。
 このトロール漁業とは底曳網漁業の一種で効率のよい漁業であった反面、資源を枯渇させるため沿岸漁業者との紛争を明治以来おこしてきた。朝鮮総督府は沿岸漁業保護のため、トロール漁業禁止区域
=図②=
を定め、また朝鮮への導入を許さなかった。しかし、韓国政府は建国後すぐにトロール漁船を購入して遠洋漁業振興の姿勢を示した。
 李承晩ライン原案の「漁業管轄水域案」
=図③=
は、日本の批判を弱めるため朝鮮総督府のトロール漁業禁止区域を基礎とした。そして東シナ海北部から済州島南部までの底曳網漁業の好漁場をそれに加えて突出させ、好漁場の独占をめざした。
 朝鮮戦争で国土が荒廃した韓国にとって、資源に恵まれた水産業にかける期待は大きかった。「韓国の水産業は正常に生産活動を行っているおそらく唯一の産業」という総司令部の当時の評価が残されている。
抑留者の辛苦
 拿捕が最も多発したのは昭和28~30年の3年間で、1年に500人前後の日本人が抑留された。この時期、日本の朝鮮統治にもよい面があったと述べた28年の「久保田発言」を理由に韓国は日韓会談を決裂させていた。30年に韓国は対日貿易全面禁止や日本漁船に対する砲撃声明を打ち出すなど日韓関係は最悪の状態に陥った。
 29年からは、韓国は拿捕の法的根拠としていた漁業資源保護法で定めた刑期が終了したにもかかわらず、漁船員を釜山の外国人収容所に抑留する措置をとった。そのため抑留漁船員の数は900人を越えた。
 この時期に拿捕された漁船員の回想・記録の一部を紹介する。
 「韓国警備艇というのは無茶苦茶でしたね。拿捕された時は、本当に情けなくなりましたね。海賊船以上ですわね。だって国を守り正義を尽くさねばならない警備艇がですよ、僕らの船にパッと横付けして、目を覚ませば、僕らの草履はないわ、もう茶碗、食器類、全部ないんですからね。ただ寝具が残っていただけですからね。あれには、僕は往生しました」=金毘羅丸乗組員。30年11月25日に対馬南方で拿捕(『山口県史資料編現代二』平成12年)。
 「刑務所での厳しい生活は、体が覚えている。『六畳の板の間に三十人がいて、夏は暑く、冬は寒くて大変。禁固刑だから一日中部屋にいなければならず、つらかった』。しかも、当時の韓国は食糧が乏しく、食事は粗 末。三十人がおけ一杯の水で、一日を過ごさなければならないのもこたえた。刑を終えても、幾度となく思い浮かべた家族の待つ故郷には帰れず、釜山の外国人収容所に移送。刑務所に比べ、制約は穏やかだったが、衛生状態や食糧事情は悪く、結核になる人もいた。
 見えない行く末が不安を増幅させた。そんな中、心のよりどころとなったのが、家族からの手紙や物資。浜田の缶詰工場で、魚と紙幣を入れて密封した缶詰を送ってもらい、食料などを買って、疲れた心身を癒した。(略)『収容されていた三年余りは、本当に無駄な時間を費やした』」=第三平安丸乗組員。29年12月21日に対馬西方で拿捕(『フォトしまね』一六一平成18年)。
 収容所を管理する韓国人警察官の腐敗についての証言は多い。抑留者の命綱だった差し入れ品も荷抜きや没収されることがあった。
 30年には「月に三度の家族宛の便りが殆ど不着に終っていたが(当時竹島切手を強制的に貼らされた事もある)、不着の原因が年末に至り、(韓国人警察官が)貼付した切手をはがし再び我々に売りつけていた事実が判明」し、これに日本人が抗議したこともあった(『韓国抑留生活実態報告書』33年)。
 「外部との接触を厳重に禁止されている吾々は、彼等にとっては、絶好の鴨であったのである。公務員を通じて、物一つ購入するにも手数料を取られ、差入れ品や慰問小包品を安く買い取られる等、間接に吾々抑留者が警察官や刑務官の生活を支えていた」(『日韓漁業対策運動史』)。   
 31年には「九月五日に抑留漁船員二人が強制送還によって大阪港に帰国した。二人とも結核におかされ、精神に異常をきたしていた。十月二日に抑留漁船員の妻が、悲嘆のあまり自殺した。さらに、罹病し病勢悪化が家族あての音信によって判明したので、外務省を通じて韓国政府に特別送還を申し入れてあった抑留漁船員が、十二月七日に遂に死亡した」(『日韓漁業対策運動史』)。
 当時、韓国は李承晩ラインを、日韓間に公平な境界線を引いて紛争を防止する「平和線」と呼んだが、日本にとりこの名称は皮肉そのものであった。28年に設立されていた日韓漁業対策本部は30年12月に李ライン排撃行動大会を挙行した。翌年6月には抑留船員留守家族が上京して陳情し、国際赤十字社への働きかけも行った。事態打開を求める日本政府への声は切実だった。
韓国の「人質外交」
 韓国の「人質外交」 が最も「成果」を上げたのが「三十二年十二月三十一日の合意」だった。当時、刑罰法令違反による退去強制者や送還される不法入国者の受け取りを韓国が拒否したため大村入国者収容所が「超満員」で、日本は韓国のもう一つの「人質外交」に困っていた。
 32年末の合意によって、不法入国者(1002人)と漁船員(922人)の相互送還が行われ、日本は大村収容所にいた本来は国外退去になるはずの在日韓国人刑罰法令違反者(刑余者)474人を仮放免し、彼らに対して在留特別許可を与えた。また、日本が「久保田発言」を撤回し、さらに日本人が韓国に残した財産に対する請求権を撤回することで、日韓会談を再開することも約束された。
 当時駐日韓国代表部代表だった柳泰夏は「請求権、平和線など、この時我々の要求がほとんど九〇%程度受け入れられた」「(この合意で)韓日会談は始まったと言っても過言ではない」(『現代史の主役たちが語る政治証言』1986年 ただし李承晩ラインを日本は認めてはいない)と回想した。この駐日代表部は昭和24年に戦勝国であるかのように総司令部に対して派遣されたもので、日本が独立しても退去しなかった。
 交渉カードとしての李承晩ラインがこのような破壊力を持つことに、宣言前から韓国が気づいていたかは、わからない。ただ、「政治というものがこうしたブラッフ(はったり)とバーゲン(駆け引き)の連鎖であるとするならば、彼は当代一流の政治家であることはまちがいない」(宍戸寛『評伝 李承晩』中央公論昭和31年2月号)と、当時の日本人が評した李承晩大統領は、日本にとって容易ならざる相手ではあった。
 韓国の「人質外交」の犠牲となった日本人漁船員は帰還後も苦しんだ。35年5月3日付西日本新聞には「抑留されていると、ひどい栄養失調におちいる。主食といえばダイズ、ムギの混合食、ミソ汁といえばなかみがほとんどないナイロン汁―これを長い間食べていたのではどんな丈夫なものでもたまらない」という証言を紹介し、32年末の合意で帰国して2年以上たっても、100人近くが病気と失業にあえいでいるとある。同記事はまた、韓国に漁船を没収された自営の船主が先の見通しが立たずに途方に暮れている様子や、経営の安定している会社に勤めていても、抑留されていた3年間の操業技術の進歩に戸惑い仕事に不安を漏らす船長の声を伝えている。 
日韓漁業交渉の難航
 李承晩政権が1960(昭和35)年に倒れて国交正常化に積極的な朴正熙政権が登場したが、依然として日本漁船拿捕は続き、37年に請求権問題に目途がついた後も漁業交渉は難航した。それは、「日韓会談とは実は日韓漁業会談だ」とある歴史研究者が喝破したほどだ。
 東シナ海・黄海の好漁場を独占しようとする韓国の要求は、「領海三海里、公海自由」が一般的であった1950年代の国際社会で認められるはずはなかった。
 韓国は漁業資源保護のためと主張したが、李承晩ライン宣言は隣接公海での漁業資源保護のための規制は関係国と協議して行うという国際常識を無視した一方的なもので、世界各地で漁船が操業していた日本はとうてい容認できなかった。
 結局、昭和40年の日韓漁業協定で、日本は朝鮮半島近海に距岸12海里までの漁業専管水域を認め、さらにその外側に距岸40海里までの共同規制水域を設けた(「戦後韓国はどうやって竹島を奪ったか」地図B)。日本が12海里漁業専管水域を認めたのはこれが初めてであった。1960年代に世界各国が結んだ漁業条約では漁業専管水域設定が一般的になったことが、この背景にあった。
 平たく言えば、日韓漁業協定で日本は最大で距岸200海里もある李承晩ラインを12海里まで押し込んだのだが、そのためには韓国漁業振興のための日本の漁業協力(援助)が必要だった。韓国の要求の根底にあるのは、日韓間の漁業の絶望的ともいえる格差だったからである。
 日韓漁業協定締結に合わせ、日本は韓国に9000万㌦の民間資金による漁業協力、漁船の輸出禁止の解除、そして水産物輸入を拡大することになった。昭和37年の「金・大平合意」で決定した3億㌦の無償「請求権資金」のうち9・1%が水産業へ投入された。その6割が「漁船導入および建造および改良」に充てられ、1966(昭和41)~75年に建造された3299隻の漁船のうちトン数で49・2%が「請求権資金」によるものであった。
 こうして「小型漁船で沿岸漁業に従事するにすぎなかった」韓国漁業が、「我が国漁業の遠洋漁業への進出は請求権資金による大型漁船導入によりさらに活発に展開され、近海漁業においても先進漁業国の日本と相互牽制」できるようになった(『請求権資金白書』1976年)。
 1950(昭和25)年に李承晩が「マッカーサーラインのあちら側では日本人漁船が海を覆って魚を獲っているのに、こちら側では船一隻見ることができない」(『大統領李承晩博士談話集』1953年)と嘆いた状況は過去のものになった。それどころか昭和50年代後半から、北海道や西日本の沿岸漁業者は韓国漁船の操業に悩まされることになる。
 漁業交渉が難航したもう一つの理由は、韓国の世論が李承晩ラインを国境線と誤解して日韓会談妥結に反対したことだった。「平和線の譲歩は領土の縮小を意味する」という主張に対し、韓国の与党は、そのような主張は「大韓民国を国際的に嘲笑の種にして孤立化させる仕打ちとしか見ることができない」と強くたしなめねばならなかった(「韓日国交正常化問題-韓日会談に関する宣伝資料 補完版一」1964年)。
 昭和27年の李承晩ライン宣言(正式名称・隣接海洋に対する主権に関する宣言)後、韓国は米国はじめ諸外国の抗議を受けて主権の主張を撤回し、「主権」とは「漁業管轄権」のことだと、苦しい言い逃れをした(漁業管轄権も当時は国際的に認められておらず、日韓会談で韓国は日本に論破された)。しかし、日本に対する「元気のよい意見」(日韓会談の兪鎮午・韓国代表の言葉)に押されて公海に主権を宣言するという失態を犯した事実は消えなかった。李承晩政権の対日政策を支えた「元気のよい意見」の後始末に朴正煕政権は苦慮することになったのである。
韓国への「苦い視線」
 漁業者団体は、拿捕による被害額を、昭和39年当時の評価基準で総額約90億円と算定した。内訳は、漁船の被害(未帰還船185隻の船体・付帯設備、帰還船142隻の修理費)24億円、積載物8億円、事件に伴う出費2億円、抑留中の賃金25億円、休業補償25億円、死亡障害補償5億円であった。この直接的被害に、「漁場への迂回、漁場の喪失、精神的負担など」間接的被害を加えると被害総額は約250億円を上回るとされる(『漁業で結ぶ日本と韓国』昭和40年)。
 被害を補償したのは加害者韓国ではなく日本政府だった。約90億円のうち拿捕保険などで処置済みのものを差し引いた被害額を、特別交付金40億円に加え、低利長期融資10億円という形で、被害者に補償したのである(『日韓漁業対策運動史』)。
 40年に結ばれた日韓条約中の請求権および経済協力協定では「両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、(略)完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」とある。そして同協定の合意議事録には、この「問題」には「この協定の署名の日までに大韓民国による日本漁船のだ捕から生じたすべての請求権が含まれており、したがって、それらすべての請求権は、大韓民国政府に対して主張しえない」とされていたからであった。
 一方で、この合意議事録では、この「問題」には「日韓会談において韓国側から提出された『韓国の対日請求要綱』(いわゆる八項目)の範囲に属するすべての請求が含まれており、したがって、同対日請求権に関しては、いかなる主張もなしえない」とされていた。「韓国の対日請求要綱」の中には「被徴用韓人の未収金」や「戦争による被徴用者の被害に対する補償」があった。
 2012(平成24)年以降、韓国の裁判所は戦時中に徴用された韓国人労働者が日本企業に損害賠償などを求めた訴訟で、日本企業に対する元韓国人労働者の訴えを認める判断を盛り込んだ判決を言い渡している。日韓条約を遵守して漁船拿捕による被害の補償を韓国に求めない日本との違いは、あまりに大きい。
 昭和28年、李承晩大統領は渡韓した日本の水産業界代表に対して、「日本は四十年にわたって漁業を占有していたことに韓国人として不満がある」「四十年遅れたので、それを取り戻さねばならない」と日本漁船排除の正当性を強調した(「日韓漁業対策運動史」)。しかし、日本統治期の朝鮮漁業は「漁獲量世界第二位の水産大国」と後に韓国人が誇るほど発展したのであり、李承晩の非難は物事の一面にすぎない。
 そして、戦前を朝鮮で過ごしたある人物が、韓国の対日姿勢「にがり切りながら、歴史や民族のふしぎを考えています」と私への葉書で記したように、李承晩ライン問題によって、日本人の韓国に対する「苦い視線」=否定的評価は確実に増したのだった。
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20220322
雑記(読書録、焼き物)
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するする日々は過ぎる。
春めいた日差しの中で庭に居着いたキジバトの「ほーほーほっほー」というとんまな鳴き声をぼんやり聞いていると戦争も疫病もこないだの地震のことも半透明の膜の向こうの出来事に思えてくる。
そういや鳥の鳴き声といえば家の近所にどうやら二羽フクロウがいる。夜ウォーキングの帰りに年老いた大型犬が咳き込むような声で鳴いていた。
まあ兎にも角にも最近は春のせいかやたら眠い。
ほんで結構長いこと作品をしこしこ作っている。
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これは素焼きの遮光器土偶風サボテン鉢。
面白そうなもんが出来始めた。
妙な予感がある。
だけど最後の神様の短い前髪という気はしている。
いやそんなことより単純に楽しいんだな。 
作ったもの自体この世界に生まれたことに戸惑っている。
だからもうしばらくそっとしておくのだ。
音読。
数冊読み終え入れ替わりで「今日の芸術(岡本太郎)」「職業としての小説家(村上春樹)」と「月と蛇と縄文人(大島直行)」を読み始める。
昔読んだ「ネオンと絵具箱」という大竹伸朗のエッセイ集も本棚の奥から引っ張り出して15年ぶりぐらいに再読。
2006年の秋に東京都現代美術館で開催された回顧展『全景 1955-2006』展と同時期に出版された本で展覧会についての文章もいくつかあり、その当時の記憶はめちゃくちゃ鮮明なのにすでに15年経っている事実にくらくらしてしまう。
著者が偶然出会ったという明治期の画家の萬鉄五郎のいわゆる「仁丹」の絵。
明治になって出現したネオン看板の光を油絵で描いた作品で橋の欄干の向こうに光る「仁丹」という文字が赤くデカデカとゴッホのようにボッテリとした物質感と筆致で描かれている。当時読んだときはネットも繋いでなくて頭の中でイメージしただけだったが改めて調べたら非常にぐっとくる絵だった。
本に染み付いていたはずのタバコ臭さもすっかり消えていて禁煙して7年もたちゃ流石に消えるらしい。7年も経ったのだ。今調べたらお酒はやめてから5年経っていた。
それにしてもヘロインより依存性が高いといわれてるものを我ながらよくやめたなと思う。
寝る前の睡眠導入剤代わりの黙読本として「トレイルズ − 道と歩くことについての哲学(ロバート・ムーア)」を読む。やけに気になった本で古書の価格が中々落ちず長いこと様子見していた。思ってたより分厚くて400ページぐらいあった。読んでいて静かな気持ちになる本が時々あるがそんな本に出会えた時は幸福な気持ちで日々を過ごせる。
道についての考察の中で、蛇行した道がいつしか直線になることについて昆虫学者の「すべてのものは本来最適化に向かう」という言葉が引かれていた。人の生き方とか幸福に関してなんかが判りそうになる。潜在意識に委ねるということか。
この本読んだのもあってか早急に山歩きがしたい。また雪降っちゃったけど。
100問の計算。
1分4秒の新記録。思ったより早く1分切れるかもしれない。
日々の日課は創作のために脳を鍛え直そうとやり始めたのだが今はそれ自体が楽しくなってきた。歩くこと、息を吸う・吐くこと、文字を書くこと、声に出して文章を読むこと、簡単な計算を解くこと。そして孤独や静けさの中に身を置くこと。
これが楽しければ大抵のものは楽しい。
セロトニン的ないわば「効きの悪い」刺激をちゃんと味わえるようになったのが何よりよかった。これまたドーパミン的な強い刺激への志向、嗜癖が行き着くところはより多くの不幸である。
蛇の脱皮のように小さく自分を更新していく。
そういえば先日「月と蛇と縄文人」の音読を終え「俺は現代を生きる野蛮人なんだわ、縄文人。ヒゲ濃いし。」と独言をぶつぶつ発しながらよくわからん納得をしてテレビの夕方のニュースを点けた第一声が「千葉市で今、縄文グルメの開発が進んでいる」というナレーション。漁師にとって厄介者のイボキサゴという巻貝を縄文人は出汁で使っていたと考えられていてそれをヒントに料理を研究しているという。
妙なことだが信念の発露に対する世界の同意のように感じた。
というのも細野晴臣氏のエッセイに、ネイティブ・アメリカンは動植物以外にも日常の現象にすら全て精霊が宿っていると考えており、何か意見を言った時に丁度物音がするとそれは同意があったと捉えるとあった。
シンクロニシティを現象ではなく精霊そのものと捉えるのはなんかおもろい。
そんで別の日に変な夢を見た。
やけにしんどい夢で文化大革命の糾弾大会かと言わんばかりに登場人物たちが「言わしてもらうけどね」と腹に抱えた本音をぶつけてくる。そんな中でてきた母親が普段言うこととは全く違う言葉を投げかけてきた。
散々な思いで目を覚まし台所にコーヒーをたてにいくと母親がかごバックを編みながらTVerでドラマを見ていた。劇中で登場人物たちが何か口論をしていて最初に意味を持って聞こえてきた言葉は夢の中で母親の放った言葉と一字一句全く同じセリフだった。
母親の抱えた本音というより私の抑圧したコンプレックスやトラウマの記憶が他者の口を借りて語られるというような感じ。
起き抜けの脳の誤作動や錯覚かもしれないが夢と現実の境が繋がってしまったみたいで奇妙な浮遊感を味わった。
他にもシンクロ、もとい精霊は頻出しているがあたくしが現代を生きる野蛮人なのだとしても近代人の皮を被って視野の端っこで曖昧に捉えておく、ファジーゾーンのような緩衝空間を残しておいた方がいいというのが今んとこの自分の態度である。しかしアイコンタクトは交わしているといった状態。
世界情勢どうなるんだろう。
以前クリストファー・ノーラン監督の2010年公開の映画「インセプション」に夢の中の光景として出てくる暴動のシーンがその後の2010年代、アラブの春からロンドン、2014年のウクライナ騒乱、香港、BLMまで世界中で頻発した暴動の集合無意識的なヴィジョン、ある種の予知だったのではないか?みたいな日記を書いたのだが、去年だかに公開された同じくクリストファー・ノーラン監督の「TENET(テネット)」の冒頭の舞台がウクライナの首都キエフであり、敵役の設定も話題のオリガルヒだったり、劇中のTENETという謎の組織が第三次世界大戦を阻止するための存在というのも今となっては妙な符合に思える。
もしかすると世界史の重大な分岐点を生きているのかもしれないのだとしても、私には庭で土鳩がのんきにほーほー鳴くような日々の安寧に感謝して朗らかに生きる他はない。
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yaasita · 2 years
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現金3400万円を残して孤独死した身元不明の女性、一体誰なのか(後編) 身元判明、そして分かったこと 2022/2/21 07:00 (JST)© 株式会社全国新聞ネット
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行旅死亡人の女性。遺品のアルバムから 📷 現金3400万円を残して亡くなった高齢女性。警察も探偵も身元を明らかにできなかった「行旅死亡人」だが、遺品の印鑑に刻まれた「沖宗」という珍しい姓を手がかりに、私たちはついに女性の身元を特定した。(共同通信=武田惇志、伊藤亜衣)(前編はこちら)https://nordot.app/861908753767972864?c=39546741839462401▽全国に100人程度しかいない珍しい姓インターネット上の情報では、「沖宗」姓は全国に100人程度しかいないという。沖宗家のルーツをブログで追究する広島県府中市の自営業、沖宗生郎さん(72)にメールで調査への協力を依頼すると、「私の親戚かもしれない人ですしね」と快諾してくれた。まず、電話帳で調べた各地の沖宗さんに取材しつつ、生郎さんが持つ江戸時代からの系図とつなぎ合わせることで、沖宗一族の家系図を作成することにした。その中に、よど号ハイジャック事件(1970年)の際に搭乗していた元客室乗務員の沖宗(旧姓)陽子さん(73)も含まれていた。彼女が保有していた詳細な系図を提供してくれたこともあり、ほぼ全国の沖宗姓の分布を網羅。その結果、系図が判明しないのは広島市内に点在する沖宗姓に絞られた。そこで昨年6月中旬の休日、広島市へ赴き、接触できていない沖宗姓を尋ね歩いた。2日間で計約10軒の沖宗さん宅を訪れ、「周囲で行方が分からない女性はいませんか」と聞いたり、女性の写真を見せたりして回った。しかし「聞いたことありませんね」と言われるばかりで、ほとんど手応えが得られなかった。元広島市議の沖宗正明さん 📷 唯一、気になる話をしたのが元広島市議(自民)の沖宗正明さん(70)だ。玄関先で取材に応対してくれた。事情を説明すると「今春、亡くなった母には妹がいたそうですが、どこにいるのか…。母は何も話したがらず、気になっていました」と明かし、「市役所で戸籍を確認してみます」と言ってくれた。▽興奮した口調で「私の叔母でした」「千津子は私の叔母でした」。週明け、普段の仕事をしていると正明さんから携帯に電話があり、興奮した口ぶりでそう告げられた。戸籍上、千津子さんは正明さんの母である照子(故人)さんの妹で、4人姉妹の次女に当たっていた。姉妹は広島市南区の宇品地区の出身で、病院のカルテにあった「23歳まで広島におり、3人姉妹がいた」との生前の本人証言とも合致する。唯一違ったのは、生年が1933年となっていたこと。45年9月生まれとなっていた年金手帳の記載より12年も古かったことだ。33年と45年9月の間には、第二次世界大戦がある。「なんらかの理由で、生年月日を45年8月6日の原爆の日の後にずらそうとしたのだろうか?」との疑問も浮かんだ。正明さんによると、経緯は分からないが照子さんは被爆者健康手帳を持っていたという。それにしても実年齢と干支(えと)が1回りも違っていたとは衝撃的だった。戸籍謄本と年金関連の書類。生年月日が12年も違っている 📷 相続財産管理人の太田弁護士を通じ、判明した事情を兵庫県警へ連絡したところ、事態は動きだした。警察はDNA鑑定を実施。そして4カ月後、ついに遺体が「沖宗千津子」さん本人と判明した。婚姻歴がなく、自宅の契約名義だった「田中」姓には改姓していなかったことも分かった。正明さんもその後、少しずつ叔母の記憶を思い出していった。「確かに、子どものころ会った覚えがあります。けれど、彼女が30歳前後に広島を離れて関西へ出て以降、疎遠になったままでした。こんな形で再会するとは…人生とは何かを考えさせられる出来事です」残念ながら、千津子さんの姉妹のうち2歳年上の長女の照子さんと、10歳年下の末妹の2人は亡くなっていた。存命の三女も認知症で、詳しい話を聞くことはできない。めいの一人は「母は3姉妹だと聞いていた」と驚いていた。このエピソードも、千津子さんが何らかの事情で身を隠して生きていかざるをえなかった事情を私たちに想起させるものだった。▽「卒業後ぱたっと音信が…」千津子さんが生まれた広島市南区の宇品地区も訪れた。すでに姉妹の生家はなく、新たな住宅が建っており、当時を知る人は見つからなかった。一方、姉妹の母の生まれ故郷で、千津子さんが国民学校と中学時代を過ごした広島県呉市川尻町の小用(こよう)地区には、確かな痕跡が残されていた。広島県呉市川尻町の小用地区の風景 📷 瀬戸内海に面した港町、小用地区は漁業と海運の町として知られており、姉妹の父も船乗りをしていた。父母がどのように出会い、結婚したのかは定かではない。地区は山に沿って小さな民家が所狭しと立ち並んでいるが、一帯は空き家が多い。一歩入ると、車が通れないほど細い道が迷路のように続いていた。沖宗家を知る人を訪ね歩いて1時間。出会ったのが中土井ヒサヱさん(87)で、千津子さんより1学年下だが、同じ中学校に通っていたという。千津子さんの写真を見せると、「これや、千津子さんやな。千津子さんはどこ行っとったんかね。ええような人じゃった」と目を細めた。「千津子さんの親戚が住んどるけん」。教えてもらった住宅に行くと、親族の女性が現れ、千津子さんの実家を案内してくれた。坂の途中に建つ木造の平屋は葉に覆われ、長年空き家となっていた。千津子さんが住んでいた平屋 📷 太平洋戦争末期、広島市で国民学校生徒の疎開が始まったころ、11歳前後だった千津子さんは宇品地区から小用に疎開。終戦後に隣町の安登中学校を卒業している。中学時代の千津子さん(前列右から3番目) 📷 中土井さんの紹介で、国民学校と中学時代の同級生だった川岡シマヱさん(88)とも会うことができた。隣町に続く長い坂道を通って毎日、一緒に登校していたという親友だった。「千津ちゃんは、たいへんおとなしい人なんじゃわ。学校行きよる時、うちが家から出てくるのを遠慮がちに待ちよってねえ」。中学時代の千津子さんとの写真を見ながら「千津ちゃんは髪が癖毛じゃった。歌が上手やった」と懐かしんだ。千津子さんは原爆投下時、疎開で小用にいたことになり、川岡さんも小用からキノコ雲を目撃したという。「中学を卒業して、広島市に戻ったのを最後にぱたっと音信がなくなって。どうしとんじゃろうと、村でも話題になっとったが…」川岡シマヱさん 📷 ▽姉妹でたばこ工場に勤めていたおいの正明さんによると、母の照子さんは日本専売公社の社員だったが、一時期、姉妹で広島市南区の広島工場に通っていた記憶があるという。後身の日本たばこ産業(JT)が運営する「たばこと塩の博物館」(東京都墨田区)に問い合わせると、1956年度の広島工場の名簿が残されており、「巻上課」に「沖宗千津子」の名前があった。元社員数人に問い合わせても彼女を知る人はいなかったものの、唯一、広島市の丹羽和光さん(81)が覚えていた。丹羽さんは59年に専売公社に入社。丹羽さんによると、当時巻上課には約200人の社員がおり、一番人数の多い部署だった。そのうち男性は5分の1程度の女性職場で、千津子さんは機械の操作員だった。名簿に残された氏名=「たばこと塩の博物館」蔵(一部修正しています) 📷 丹羽さんが千津子さんのことを覚えているのはなぜかと問うと「小柄できれいな人だったから」とはにかんだ。67年に新しい機械を導入したころには千津子さんは退職していたと記憶しているらしい。千津子さんは生前、「23歳の時に広島を出た」と話している。実年齢に合わせると当時は35歳だったことになり、1968年ごろだ。高度成長期の真っただ中。大阪は、70年開催の万博へ向かって活気にあふれていた。私たちは再び、原点の尼崎市にあった千津子さんの自宅に戻った。広島からここに移り住んだ彼女はどんな生活をしていたのだろうか。94年に製缶工場で起きた労災事故からさらなる手掛かりを見つけられないかと考えた。製缶工場は99年に看板を畳み、跡地には住宅が建っていた。周辺を訪ね歩いて出会った経営者の親族女性は、あの事故のことを覚えていた。千津子さんが普段より早く昼休みから工場に戻り、業務を再開した直後に事故が起きたという。沖宗千津子さんの年表 📷 60歳を過ぎてから右手指を全て失う事故は、彼女にどのような影を落としただろうか。女性によると、事故後は工場ともめることもなく退職したということだった。「(千津子さんには)旦那さんがいたはず。周囲とあまりコミュニケーションを取らず、誰に対しても心を開いてなさそうだった」と打ち明けてくれた。▽遺骨は届けられ、遺産も解決したが…警察庁によると2019年、全国で行方不明者は約8万7千人。行旅死亡人は年間600~700件ほどが官報に公告される。高齢者の孤独死に関する公的な全国統計はないが、ニッセイ基礎研究所が2011年に発表した推計では年間約2万7千人に上っている。何らかの事情で地縁や血縁から離れた末、人知れず亡くなる人々は万単位で存在するが、千津子さんもその一人だった。遺品には子どもの写真が2枚含まれていた。1枚は姉照子さんの次男、もう1枚は妹の長女と判明した。長い間、連絡を絶っていた姉妹の子どもの写真を大事に持っていたのはなぜなのか。故郷を離れて世間の目から隠れるように暮らしながらも、ずっと家族のことは忘れていなかったのだろう。無縁仏として尼崎市の斎場に納められていた千津子さんの遺骨は、昨年末、おいの正明さんの元に届き、菩提寺に納められた。自称・田中千津子さんが沖宗千津子さんと判明したことで、その相続人も確定し、遺産の件も無事、落着した。千津子さんが育った町を歩き、友人や知人を取材していると、ほとんどが無縁仏となる「行旅死亡人」にもそれぞれの人生があり、生の痕跡が確実にどこかに残されているものだ、ということを強く思った。しかし、それでも彼女がどんな後半生を送ったのか
は分からないまま。尼崎市のアパートを契約した「田中〇〇」という男性がどこの誰かも分かっていない。千津子さんの部屋には「田中〇●(〇〇と漢字が一字異なる)」宛ての大型家電量販店やガス会社からのはがきが残されていた。「田中〇●」の名前で購読していた新聞は2011年に契約を打ち切っていた。沖宗千津子さん(右)と一緒にいた男性 📷 千津子さんはなぜ広島を出たのか。12歳も年齢を偽っていた理由は何だったか。アパートで亡くなるまで身を隠すように暮らしていた日々について、何か新たな手掛かりは見つかるだろうか。「故郷を50年以上も離れ、叔母はどんな人生を送ったのだろう。幸せだったんでしょうか?」。正明さんの言葉が重く切なく響いた。情報提供やご意見は共同通信大阪社会部にお寄せ下さい。メールアドレス:[email protected]/ツイッター:@kyodonewsosaka
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mika-i · 2 years
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【海の家 魚蔵】 四国本島からしまなみ海道の橋を渡って一つ目の島、大島。 瀬戸内海に浮かぶ島のうちの一つです。 大島の友浦漁港の近くにある魚蔵。 味もボリュームもサービスも眺望も雰囲気も人柄もワンちゃんも、全部満点でした💯 キラキラ光る瀬戸内海を眺めながらのお食事は幸せでした✨ 看板犬のワンちゃん達、車を駐車している最中から車に駆け寄って来て、ドアの前で待っててくれて、降りてからもずっと付きまとい行為をしてくれました💓 めちゃくちゃ可愛かったぁ~! #愛媛 #今治 #大島 #瀨戸内海 #しまなみ海道 #友浦漁港 #海の家魚蔵 #タビジョ #女子旅 #旅 #旅行 #観光 #国内旅行 #japanesegirl #trip #travel #tourist #travelgram #InstagramJapan #lovers_japan #photo_jpn #pics_japan #photos #viewpoint #beautiful_spot #photography #instadiary #delicious #gourmet (海の家魚蔵) https://www.instagram.com/p/CYDi0HyFoIJ/?utm_medium=tumblr
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kikyo-turkey · 3 years
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Naruto Strait 鳴門海峡 夏景色 ・ It is the cross point of the Pacific Ocean and the Seto Inland Sea, the sea separating Honshu from Shikoku and Kyushu, that make the big sounds by the kind tide. It's the meaning of name, Naruto. I recommend to go there by smaller boat and the captain used to be a fisher man because he know the tide and how to ride it. It was so much fun!! ・ ・ 太平洋と瀬戸内海がぶつかる時の音の大きさから、鳴門。 と、名がついた。らしい。 オススメは漁港にある手書きの看板に電話して乗るスタイル。 地元の漁師の操船。船は小さめ。 水面スレスレ。 燃える。そして、萌える。 ・ ・ #鳴門海峡 #strait #kingtide #whirlpool #渦潮 #大潮 #島旅 #islandtrip #boatlife #setoinlandsea #瀬戸内海 (at 鳴門海峡大橋) https://www.instagram.com/p/CRd1ul6jSwA/?utm_medium=tumblr
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keredomo · 3 years
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おすしだいすきクラブ
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何を隠そう、おすしだいすきクラブ会員である。
私自身はそうではないが女友達にはバリキャリ(死語である)も多く、アラサーのバリキャリともなれば都内に好きで通っている寿司屋の一つや二つあるもので、女友達に鮨を食いたいと言えば美女たちは突然狙撃手のような顔になり、黙ってついてこいと左手で合図する。そして気がついたら全然知らなかった超いい店でうまい鮨を食い終わって万札を出している。狙撃手は美女に戻り大将とにこやかに話している。「私、この店の馴染みです」という空気である。おそろしい。
おすしだいすきクラブには階級がある。
太古の昔から政治家や知識人はおすしだいすきクラブ会員として特に銀座で精力的に活動してきた。 おすしだいすきクラブが階級社会を裏支えしていると言っても過言ではない。 きよ田。一柳。次郎。わたなべ。鈴木。会員としての自覚から若い頃に銀座で勉強したが、いらんことを知ってしまったと痛恨の極みである。本当にいらんことを知った。知らない方がよかった。 これは「美味しいものを知ると普通のものが食べられなくなる」とかいう類の話ではない。ザギンでシースーの世界は実におぞましいという話だ。
まあいい。おかげさまで近年金銭の概念を身体からデトックスすることに成功したので、クラブ活動の場所が高級店である必要はない。鮨屋の鮨とその他の寿司はまったく別の食べ物であるものの、スシはスシである。 そこそこうまい立ち食い寿司で15分くらい食べてスッと去るのが好きである。 回転ずしも好きである。寿司が回る。よいではないか。テンションあがる。回ってきた寿司は総じてびっくりするほど不味いが、それもまあよい。
おすしだいすきクラブの会員は鮨を世の至上のものとする傾向にある。
何年か前、母が東京に来るというので、池波正太郎の通っていた銀座の新富寿しに母をつれていって、好き放題飲み食いした。とても楽しい。江戸好みのしょっぱいお鮨。冷とぬるとお燗。
私は確か25歳くらいで、母よ、世間で言うところの「銀座で鮨」とはこのようなことである。特に昭和のそれはこの風景である。というのを見せてあげたかったのだけど、別に母はそんなのどうでもよくて、特にそういうのに憧れたこともなくて、単に娘と楽しい夜を過ごせたのが嬉しかったんだと思う。池波正太郎を読んだかどうかも知らない(実家の書棚に北杜夫はいっぱいあった)。
昨晩、身内についての話になって、「私は母親にちゃんとコミットしていなくて、祖母からの三世代で彼女だけが割を食っているんです」と懺悔したら、「でも東京に見えた時にいろいろとお連れしたりしてるんでしょう、それで十分だと思いますよ」と罪を許された。
私の差し出すものはいつも相手の望みからズレている。 よくわからないので、「世によいとされる高級なものを与えれば相手は喜ぶだろう」と思うことに決めた。それがいかに相手を蔑ろにしていることか、少し考えたらわかろうものをわからず、高級を押し付けて自己満足にふけっている。 東京でよいとされる高級フレンチにも高級イタリアンにも料亭にも鮨にも、そもそも東京にいない母は憧れを抱いておらず、母は母の世界で暮らしている。実家のある世界。母は私の世界で暮らしてはいない。
抑圧されて、祖母にも私にもいいように使われて、祖母や私や父の世話をすることを人生として生きてきて、不自由を嘆いて、それでもニコニコおどけていた。日中、言い返したいのをぐっとこらえてニコニコおどけてみせて、夜になると私のちょっとした皮肉で持ち崩して大泣きしながら「私の人生は何なの?」と叫ぶ母。祖母にきつく縛られるのみならず娘の幼稚な暴力にまで晒されて、「親の愛」を笠に着た老人と子供に問答無用で搾取されてかわいそうな母。
母は人が好きである。 人に何かしてあげるのが好きな心根のやさしい女である。 何でも上手にできる優秀な母のできる精一杯は、すべて私と父と祖母に全否定されて、母は自分のやりたいことがわからなくなってしまった。 母は逃げたがる私を逃がしてくれた。
去年、地元に帰った時に母に新しい眼鏡を買ってあげて、そのお礼にショッピングモールの回転ずしに連れて行ってもらった。 回ってくるにもかかわらず、お寿司は普通にちゃんと美味しかった。さすが港町である。おさかな天国。 一本穴子はふかふかで甘いタレとなじみ、今朝長崎の漁港から到着した旬のネタがずらりと黒板に手書きされている。次から次に注文した。 母が「お母さんはまぐろ三昧を食べる」と言うので「マグロ好きなの?」と聞くと「別に……」と返ってきて、何だこの女と思った。 母は自分の好きなものが何であるかもわからない。わからない方がいいからだ。 母はそのかわり、嫌いであることに敏感だ。母はわりと何もかもが嫌いで気に入らない人である。 母は私のことだけが大好きだ。私のことだけは否定しない。 食べ終えると、回転ずしなのにお会計がすごいことになっていた。
今まで食べたお寿司のなかであの回転ずしが一番おいしかった。
このあいだの冬に母が東京に来たときは、女友達連中にお願いして宴席を組んでもらい、いっしょにワイワイご飯を食べてもらった。みんな忙しいのに駆けつけてくれて本当にありがたい。持つべきものは女友達である。 夜遅くまでみんなで飲みまくった。母がとても楽しそうでよかった。 たぶん母にとっては「銀座で鮨」よりこっちのほうが嬉しい。
おすしだいすきクラブ会員である娘と非会員の母との折衷案として、実家に帰省したらまたあの回転ずしに行くのがよかろうと思う。
(2020/01/09 13:43)
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yagaikatsudo · 4 years
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北上川カヌー単独行② 盛岡~花巻
1997年9月23日~26日 4日間 3日・4日目
■3日目
7時起床。寒い、快晴、息が白い。 昨日までの寂しい風景が一変して輝いている。 作業服を着た土建屋のオジチャンが出勤前に釣りをしている。寒いですね、と言うと、今朝は10℃切ったからなぁ、と言った。 ラーメンを食い、テントを撤収、カヌーに荷物を詰め込む。困ったことに昨日、雨が降ったのに一昨日より水量が減っていて、カヌーをエントリーする場所の斜度がきつく、滑って川に落ちそうになる。すったもんだの末、ようやく川に漕ぎだすと、一部始終を橋の上から見ていたオバチャンが笑いながら「頑張れや~~」と見送ってくれた。今日は4名から「気ぃ~付けて~」「ご苦労さんやの~」と声援を送られたが、みな、ジイサン、バアサンだった。北上の川沿いに住むうら若き女性たちよ、今度赤いカヌーを見かけたら黄色い声で声援をよろしく。ビールなんか差し入れてくれたら更に嬉しい。 川の流れは穏やかだった。僕はなるべく漕がずに周りの木や田んぼ、泥岩の崖を眺めながら下った。 上半身を後ろにそらせば秋晴れの空が目に沁みる。カルガモの群れが突然現れたカヌーに驚いて、フガフガ鳴きながら飛んでゆく。
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↑泥岩の崖
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川幅広くなり大河の様相を呈してくる。時速5キロぐらいだろうか、クルクルと回るカヌーの上で、僕はユラユラと流されてゆく。ひたすらいい気分だ。
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後ろ向きに流されてゆくとゴツンと何かにぶつかったので焦った。水面ギリギリにある隠れ岩だ。パドルでバランス取り問題なし、再び流されてゆく。 東北新幹線の鉄橋の下をくぐり、右手に花巻空港に向け着陸態勢に入ったJASの機体を眺めながら行くと大正橋。 橋脚の向こうにしぶきを上げる瀬が見える。右を行けばたいしたことなさそうだが、久々の轟音に血が騒ぎ左を攻めた。しかし恐ろしいことにそこは50cmぐらいの落ち込みで、沈はしなかったが船底を思い切りこすってしまった。おまけに顔面に冷たいしぶきがドヒャッとかかった。
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次の井戸向橋で上陸、船底は補強に貼ってあったガムテープが裂け、本体の布も少し擦り切れていた。セメダインとガムテープで応急措置をし、乾くまで昼メシ(菓子パン)とする。
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再び出発。 川の両岸はジャングルのように鬱蒼としたり、突然、ヨーロッパの田園風景のようになったりと、様々な表情を見せてくれる。スメタナのモルダウなど口ずさみながらユックリ流されてゆく。 平和だ、そしてシアワセだ。思わず僕は天を仰いだ。
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そんな風景の中をしばらく行くと、川面から飛び出た岩の上で何かが光った。何だろうと思ってカヌーを近づけると、それは60cmはあるスッポンだった。スッポンは岩の上で気分よく昼寝をしていたのだ。光って見えたのはその立派な甲羅だった。野生のスッポンを見るのは初めてなので僕は独りで静かに興奮した。当のスッポンは昼寝を邪魔され、うざったそうな顔で僕に一瞥してスルスルチャポンと水の中に消えていった。 僕は急に腹が減った。スッポンを見てスッポン鍋を思い出してしまったのである。こう書くと、何て卑しい、あさましいと思うPTAのようなつまらない方もいらっしゃるだろうが、僕の育ちはそんなモンだから仕方がない。
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↑大河の雰囲気
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次第に雲が多くなり川の上を行く風も冷たさを増してきた。 少し力を入れて漕ぐ。大きく右へカーブしたところへ差し掛かると、そこには地層が幾つも重なった泥岩が連続していて、不思議な眺めだった。これを過ぎると花巻大橋、更にその向こうにはJR釜石線の鉄橋も見える。あの2つを越えれば今日の目的地、花巻ももう少しだ。怪しくなってきた空を眺めながら僕は漕ぎ続けた。
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花巻大橋を越え、釜石線の鉄橋が近づいてくるとゴーゴーと激しい瀬の音が聞こえてきた。カヌーの両脇に腕を立てて自分の体を持ち上げ、少しでも先が見えるようにする。 ”う~~、すごい瀬だ。2級と3級の中間ぐらいだなぁ、やだなぁ~。そう言えば何年か前、あそこで地元の漁師が死んだって本に書いてあったなぁ”と狼狽しつつも素早くコースを選ばなくてはいけない。 ゴ~~~という音が段々と大きくなり僕をビビらせる。エライコッチャ、エライコッチャと焦りながらカヌーを瀬に対し真正面に向け、下っ腹に力を入れ〝行くぜ”と呟き選んだコースに突っ込む。 その刹那、滅多に通りそうにない2両編成の釜石線が頭上を走って行く。チラッと見上げると小学生らしき男の子が、僕を見てアッというような顔をした。僕も目が合い、アッというような顔をしたが、目の前には荒れ狂うような瀬がオイデオイデしている。 次の瞬間、体が大きく跳ね上がったかと思うとすぐに叩きつけられ、顔面に冷たい水がぶち当たる。「ウヒョ~~~~~!!!」僕は我武者羅にパドルを漕いでバランスを取った。気が付くと無事に瀬を脱出していた。 それは一瞬だったが、日頃緊張感のない生活をしている僕にとってなかなかのスリルだった。 空はいつしか曇天となり、僕は宮沢賢治が名付けた花巻のイギリス海岸の端っこへ上陸した。盛岡から約45キロだ。 イギリス海岸とは渇水した時のここの河原の風景が、イギリスのそれと似た泥岩の奇観を呈していることに由来するそうだ。ただ、この日は水かさはあったため、その姿を見ることはできなかった。
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コスモスの咲く芝の上にテントを張っていると、観光客らしきカップルが写真を撮りながら冷たい視線を僕に投げかける。キキーッとタクシーが停まり、出てきた運ちゃんが、熟年フルムーン夫婦にガイドしながらこちらをチラチラと見ている。イギリス海岸はもっと向こうのはずなのに、何でみんなここへ来るんだろうと不思議に思っていると、近くの看板に「ここがイギリス海岸」と書いてあった。 端っこだと思っていたのはこちらの勘違いで、僕は宮沢賢治ゆかりのイギリス海岸のど真ん中にテントを張っていたのだ。 しかし、その芝と言い、コスモスと言い、眼下を流れる北上川と言い、そのロケーションは野宿者憧れの、と言った感じなので僕は死んだふりをしてテントを張った。見方を変えれば観光客ご一行も、「おお、さすがイギリス海岸、カヌーにテント、実にブリティッシュ、絵になりますなぁ」等と言いながら、パシャパシャ写真を撮れば良いのである。 まぁ、でも、そこに佇むのは、ど~見ても薄汚い三十路ジャパニーズの僕なので、実にブリティッシュ、とはいかないか。。。 街に出る。 見知らぬ街をウロウロするのは好きだ。何となくその土地の雰囲気が路地裏から伝わってくる。30分も歩けば、そこが自分の肌に合うところかどうか何となく分かってしまう。不思議なものでアチコチ旅してきたせいか、そんな風になってしまった。 そして花巻は良いところだった。何となく懐かしい気持ちにさせてくれるからだ。 公衆電話で明日の天気予報を聞く。70%雨。土地の人に尋ねても雨。 僕はあっさりこのカヌー旅の打ち止めを宣言した(誰も聞いてないが)。 もうすっかり「雨ニモ負ケテ、風ニモ負ケテ・・・ソンナ人ニワタシハナッテル」という気分だ。 ついでに明日は温泉!ということも、これまた別に誰も聞いていないけど宣言してしまった。花巻には幾つもの秘湯があるのだ。やっぱり旅の終わりは温泉に限る。 こうなったら後は酔っぱらうだけである。北上の流れを見ながら、戻りガツオのタタキとツブ貝の刺身を肴に、一番搾りをグビグビ飲む。ウマイ!シアワセ。 川の近くで生まれ育ったせいか、川を見ていると落ち着く、ビールがあると更に落ち着く、カネが無くても腹が減ってても落ち着く。 日が暮れてテントに入り、ヘッドランプの光を頼りに本を読み、ウイスキーを舐める。シアワセ。 いつの間にか眠ってしまったが、途中、雨音で目が覚める。ポタポタというテントに当たる雨音が気持ちいい。そして雨音は僕を再び眠らせた。
■4日目
雨の中、テントとカヌーを撤収。昨日頼んでおいた宅急便のトラックが取りに来てくれる。 電話で「イギリス海岸にいる服部です」と言うと、応対してくれた女の子が真面目に「では、明日午前中にイギリス海岸に伺います」と言ったのが可笑しかった。それに宅急便の運ちゃんも何故か、「どうぞ」と言って三色パンをくれたのも可笑しかった。 温泉は数ある秘湯の中から、案内所のオバサンが勧めてくれた大沢温泉にした。花巻駅からバスで1時間、山合いの渓流、豊沢川に面した一軒宿の露天風呂だ。 建物は宿のオヤジも知らないと言うほど古く、休憩室には、ここへ遊びに来た少年時代の宮沢賢治の写真もあった。湯治客が多いため障子で仕切られた和室がたくさんあり、その間の細い廊下を縫うように行くと渓流を臨む混浴の露天風呂。ここでも圧倒的にジイサン、バアサンだが、雨中の風呂は最高である。 この宿は素泊まり2,000円、夕食1,500円から、布団300円、毛布100円、ストーブ700円、枕10円など、細かく料金表に書いてあった。 花巻駅に戻り、〆として立ち食いそば屋で450円のじゃじゃ麺を食う。みそダレが美味い。 高校生の集団と一緒に鈍行列車に乗り東京を目指す。 またいつか、続きを下りたい。 終                           
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kachoushi · 4 years
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各地句会報
花鳥誌 令和2年9月号
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坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
令和2年6月4日 うづら三日の月句会
坊城俊樹選 特選句
走り梅雨水たまりにも空があり 英子 網戸より闇を通して隣家の灯 都   厨口丸の一筆夏暖簾 都   さヾれ会(六月五日) 路地の子に路地の遊びや蚊食鳥 雪   蜘蛛の巣の裏側のぞきゐる女 同   万緑に仕上げられたる故山かな かづを 老鴬に誘ひ込まれて故山かな 同   点眼しなほ万緑の溢れをり 希   もどる道忘れ戸惑ふ蟻二匹 笑   夏のれん家紋もしかと杜若 雪子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年6月6日 零の会(投句のみ)
坊城俊樹選 特選句
色街に飼はれ緋鯉の水暗く 美紀 下闇を流るゝ水は星と遭ふ 順子 噴水を昂りながら離れけり 伊豫 水音を石柱に聴く夏館 眞理子 父の恋滲んでをりしサングラス 順子 元帥のポーズ決まりてサングラス 佑天 夏蝶のやはき香りとすれ違ふ 三郎 万緑や石の狐の舌真赤 和子 蛞蝓が引く銀の道辿る子ら 緑   霍乱やあなたのあとを追はうにも 公世 モンスーンにバナナ追熟してをりぬ 光子 梅雨寒やエプロンの紐床に垂れ 和子 抱かれてパナマ帽へと手を伸ばす 久   島の夜は客もボーイも裸足にて 光子 サングラス語彙の乏しき親しさよ ゆう子 眉上げしグレタ・ガルボのサングラス 公世 行列に並ぶサングラスの不満 久  
岡田順子選 特選句
サングラス浜の女になりきつて 秋尚 そうだねと答へてくれる水母かな 小鳥 水上を死してもワルツ水馬 伊豫 男独り仏を彫りて短夜を 炳子 中止かも知れぬ祭の飾りかな 淸流 噴水の風にながれてゆく港 伊豫 掌の水母は沫となりゆけり 伊豫 緑蔭に謎の石組み団子虫 要   サングラスを旅荷の上に眠りけり 光子 尺蠖は雲の高さを測りつつ ゆう子 行列に並ぶサングラスの不満 久   胎の子に夏の沖てふ水遙か 俊樹
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年6月8日 武生花鳥俳句会
坊城俊樹選 特選句
馬鈴薯の花の果てなる夕日かな 上嶋昭子 新茶に酔ひ眠れぬ一夜過ごしけり さよ子 日焼顔八の字眉を太く描く 世詩明 久に来し女が覗く麻暖簾 昭子 この闇を待ちこがれてか初蛍 英美子 水鉄砲母はこのごろ無愛想 上嶋昭子 蒐集の香水全部置いて嫁く 上嶋昭子 田植終へ一村水の都なる みす枝 早苗みな南に伏せる風荒し 清女
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年6月9日 萩花鳥句会
かたつむり昨日も今日も同じ葉に 小勇 田植すむ水田きらきら水鏡 祐子 手を添へて田植手解き父の顔 美恵子 見えざる手過疎に残りし植田かな 吉之 バスカード遠出叶はぬ木下闇 健雄 安らぎと安堵を呉るる植田かな 陽子 夏木立過ぎ去りし日々いとほしむ ゆかり 手鞠花天日続きてしぼみゆき 明子 五月晴校庭に子の声あふれ 克弘
(順不同) ………………………………………………………………
令和2年6月11日 さくら花鳥会
岡田順子選 特選句
夏の日や馴染の店の解体す 光子 籐椅子の色艶増して定位置に 寿子 青梅雨に身を翻しゆく男の子 登美子 麦青む坂井平野に一両車 令子 待合や堤防はみな葉桜に 同   昼休我等一斉草取女 紀子 紫陽花の色いつかみた淡い夢 裕子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年6月12日 鳥取花鳥会
岡田順子選 特選句
海神へ茅花流しは波を繰り 都   投網打ち子らに教へて夏座敷 すみ子 若き日のミシンを踏んで縁の夏 立子 牛蛙点さぬ街へ真言を 都   漸うやつと��中割れつつ羽化の蟬 宇太郎 目が合へば半夏の仏微笑まれ 悦子 アマリリス元気をくれて聞き上手 史子 緑蔭に車座になる仕事師ら 史子 遺跡田に古代米てふ田植ゑかな 益恵 朝まだき森の静寂や白き蟬 宇太郎
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年6月13日 枡形句会
栗林圭魚選 特選句
張り替への網戸広ごる緑かな 亜栄子 玉葱を切る音小気味良く響き 秋尚 菩提樹の仄かな花の香をくぐる 同   根のするり抜け丈高き草引けり ゆう子 庭の闇深まり網戸よりの風 秋 尚 こぼれ落つ南天の花友の逝く 多美女 レールより外れし網戸雨止まず 白陶 小さき傷膿む予感して梅雨に入る 恭子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年6月16日 鯖江花鳥俳句会
坊城俊樹選 特選句
迷ひたるとしか思へぬ初蛍 雪   魚板の目魚板の鱗梅雨に入る 同   里いもも大字小字梅雨に入る 一涓 新緑の香を纏ひ来し太公望 信子 ぼうたんの匂ひもとろも崩れけり 同   金魚掬ひ息を合せて息止めて みす枝 何もせぬ事に疲れて梅雨籠 中山昭子 静謚の山河を籠めし梅雨の霧 同   あれぐらゐ事とゆるせる冷奴 上嶋昭子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年6月16日 伊藤柏翠俳句記念館俳句会
占師燕巣立ちし軒を借り 雪   花楝今宵は月の師の句碑に 同   消灯し一人窓辺に蛍待つ 文子 初蛍草に生れて水に消ゆ ただし 万緑の故山を包みゐる山気 かづを 火取虫左手払ひ文を書く 清女 梅雨最中相合傘を楽しめり みす枝 毬なさぬ四葩あまたや渕の上 一仁
(順不同) ………………………………………………………………
令和2年6月17日 福井花鳥句会
坊城俊樹選 特選句
すたれゆくものの一つに団扇かな 世詩明 三国向く継体帝像風薫る 千代子 眦を上げし少年雲の峰 和子 女童の手首ふくよかさくらんぼ よしのり 野放図の庭蜘蛛の囲の無尽蔵 同   大いなる魚板の鱗梅雨に入る 雪   天地の焦げんばかりの麦の秋 同   知りし悔知らざりし悔髪洗ふ 同  
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年6月21日 風月句会
坊城俊樹選 特選句
代を掻くまでは白詰草のもの 淸流 青蔦や電波塔とも火の見とも 炳子 万緑の底濁したりむじな池 千種 合歓ひらく淡き浮雲からめつつ 千種 通し鴨谷戸の天地思ふまま 芙佐子
栗林圭魚選 特選句
頼りなき影揺れ止まぬ植田かな 秋尚 里山を見渡すやうに立葵 貴薫 万緑の底濁したりむじな池 千種 一匹の川蟹子等の宝物 久子 植田風ふはりと谷戸を包み込み 三無 堰溢る水の勢ひの青田かな 炳子 梅雨晴れや女が二人むじな池 佑天 合歓の花目覚めて空の眠さうに 斉   静寂なる谷戸田の隅に余り苗 幸風 広き森定まりてゐる蟻の道 貴薫
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年6月 なかみち句会(投句のみ)
栗林圭魚選 特選句
街道に昼を小暗く楝咲く 怜   くつきりと轍ぽとりと柿の花 あき子 紅熟のゆすら輝く狭庭かな エイ子 服濡らし目高掬ひて子らの缶 有有 闘病や寄り添ひ歩く夏木立 美貴 水槽に寄れば忙しく目高散る 有有 赤い靴細いジーパン跳ねる夏 和魚
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年6月 九州花鳥会(投句のみ)
坊城俊樹選 特選句
下闇や崩るるままに石仏 ひとみ 会へぬ日の刻の長さよ梅雨に入る 久美子 瞑りても耳朶へ涼しき鳥語かな 寿美香 貸しボート乗る人もなく寄り添うて 順子 匂ひたる女の齢白日傘 孝子 天界の風ながれきて枇杷熟るる 佐和 啼きながら何処へ真夜の時鳥 由紀子 霊のせて飛べよ折鶴明易し 成子 短夜の空白むまで子守唄 順子 万緑や孵らざるもの影をもつ 寿美香 夏草や百済見据ゑし狼煙山 寿美香 入り口はこちら闇夜に茅の輪立つ 愛   トロ箱にポピー育てて漁師妻 初子 短夜の点滴終のとき刻む 朝子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年6月 札幌花鳥会
坊城俊樹選 特選句
潮風のそよぐ故山の夏の浜 独舟 麦秋を裁ちて一直線の道 美江 麦秋の村を最後の一輌車 同   雨蛙水の匂ひの米どころ 同   人数に勝る牛馬や大夏野 岬月 天空も風も緑をなす十勝 同  
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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nishiogidrunker · 4 years
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「戎」天才説
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改めまして、ニシオギDrunkerシンブンは、ニシオギの再開発に反対するためのものです。想定されているのは、駅東を南北に走るバス通り杉並区道・補助132号線(青梅街道から神明通り)の拡幅に伴う、商店街の消滅と駅南口の再開発。 その南口、補助132号線と神明通りと線路の間の三角地帯は元・闇市の風情を残した飲み屋街です。 こうしたレトロな飲み屋は今や、都内(全国か)あちこちで消えつつありますが、ニシオギでは連日活気があり、お客さんも多いし、テナントが途切れることもない。若い世代が冒険的に開店したり、タイやウズベキスタン、ギリシャ、バングラデシュなどの外国料理の店もある。 しかし、なんといってもこのエリアの代表、ニシオギを代表する飲食店と言っていいのが、焼き鳥の戎。 駅前で再開発反対活動していると「戎がなくなるなんて許せん!」というお声を必ずいただきます。
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戎は、線路沿いの細い道をほぼ占領したように何店舗も構えており、焼き場のあるカウンター、テーブル席、無人で客席だけあって、注文はお兄さんが通りを渡って取りにきて、またビールや焼き鳥を持ってやってくる、という状態 のA館と呼ばれている店などがあります。 そんな路地フードコート酒場状態の南口の他に、北口の駅前には普通のカウンターとテーブル席の店があります。中央線にはこういう地元だけチェーン店が多いのです。
そんなニシオギが誇る名店・戎は、いろいろ天才ではないか、と。
1:酔いつぶれは禁止 開店は平日でも13時から!閉店は23~24時とやや早め。昼からセンベロではありますが、客をあんまり飲み過ぎにさせない。大人数用の席が少ないのも秘訣かも。南口も北口も、比較的静かに飲める。
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瓶ビールと焼き鳥と小鉢を取って、本を読みながら夕食代わり、というお一人さまも多いのです。
2:毎日のお食事として嬉しい 焼き鳥・焼きとんが安くて種類豊富で、もちろんおいしいのは当然。
さらにちょっと手のこんだ肉料理からパリパリキャベツまで、一人で食べやすいサイズ、2~300円台の小鉢・小皿がどんどん開発される。豊富なメニューがしょっちゅう替わるのは、新作が出るから、だけでなく、旬のものを使っているからです。市場や産地直送、地元の八百屋と仕入れ先もクロスしていて、仕入れたものを見て工夫して作る。
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一例ですが、秋の山形風芋煮、冬の酒粕入り豚汁、お正月(この年末年始31日まで北口が開いて、1日からは南口だけ開けていた)には、おせち三点盛も。
3:南口と北口でメニューが違う そんな品数豊富なニシオギ限定チェーン(昔恵比寿ガーデンプレイスに入った、が、すぐ辞めた)の戎北口・南口ですが、なぜか微妙にメニューが違う。基本的なメニューは同じで、日中駅ナカを通ってお惣菜のバットを運んだりもしているのですが。
お酒も、北口の生ビールはサッポロとヱビスの黒がある���に、南口はサントリーモルツで黒はない(サーバーが複数置けないのでは?)。期間限定のサワーとかもときどき、南口だけで出たりしてるみたい。 ちなみにお酒メニューはあまり変動がなく、銘柄確定。日本酒は同じ蔵元の「戎」の醸造酒・辛口・純米の3種が基本、定番のメガハイボール、生レモンや生グレープフルーツサワー、焼酎各種など。
最近、南口の方が日替わりの小鉢の種類が多いように思うが、戎ハシゴをしているわけではないので、確証はないのです。 あと、焼き鳥盛り合わせが北口にはあって南口にはない、南口には刺し身盛り合わせがあって北口にはない(いつもこうではないかも)など。
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そして刺し身と言えば、最高価格メニュー(680円)の天然生マグロ刺し身。なぜか北口は青森・大間産、南口は対岸の北海道・戸井産なのです…と、今���ェックしたら千葉・勝浦になった!油断できん。
4:焼き鳥屋だが魚に強い 戎で最も有名なメニューはなんといってもイワシコロッケ。と、言っても遅い時間だと売り切れ必至。イワシコロッケと聞くと、ツミレのコロッケだと思うじゃないですか。
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そこにこれが出てきてびっくりさせるのです。イワシで、コロッケのイモを包んで揚げた、手羽先餃子的な発想のオリジナル逸品。そしてでかい(ハーフあり)。 魚は気仙沼など漁港指定の産地直送のほか、昨年移転したあともしばらくは「築地」と書いていたのが嬉しい(場外かもしれませんが)。
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当然旬でメニューは変わりますが、イワシクジラ、生牡蠣、などのラインナップの他、あら煮、骨せんべいなど「ちゃんと店で捌いている」から出せる料理も。いつもあるわけではなく、最近の観察だと市場が休みの日曜は骨せんべいないような。しかもこれは良心の100円メニュー!
5:野菜の小鉢の一工夫がすごい
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同じくある日の100円メニュー。大根の皮キムチ。地球やお財布に優しくしたい人は今すぐ真似したいですね。右はマグロとごぼうの生姜煮。
ニシオギのお店がこぞって仕入れている某八百屋さんにたくさん入っていた野菜が戎で登場することもよくあります。季節モノや新野菜もどんどん取り入れ、ウド、セリ、とろまる、そうめんカボチャ、ロマネスコ、いちじく、干し柿など使ったおしゃれな和え物も。 あと、ふと気づいたのですが、戎には一年中枝豆がある、わけではない。「とりあえずビールと枝豆」を冬でもやってるというのは、冷凍枝豆なんですね。その代わり、戎では夏のだだちゃ豆や春の空豆などがありますよ。
6:なぜかスペイン好き
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と、メニューに書いてあり、ワインは赤白ともスペイン、カヴァもあり(ボトルのみ)。マオンチーズや、オリーブ(100円メニュー!)も。 でも、焼き物はデンマークソーセージ。
7:古くてもきれい 南口飲み屋街そのものが建物はボロい。だから再開発という話が出てくるし、現実に使いにくいことはいっぱいあると思う。
ただ、古いから汚く、新しければなんでもきれいか、というと、今どきは考えなしの再開発で新しいけど安い素材と使いにくい設計であっという間にかえって汚い、ということも。豊洲新市場とかね。
飲み屋街は法隆寺ではないので、柱一本、トタン一枚も換えてはならない、という再開発反対ではなく。とはいえ、法隆寺だって日光だって瓦を葺き替え板を張り直して長持ちさせているのだから、全部ぶっ壊してペラペラの新しいでかいのを建てる、ではなく、丁寧な改築・改修、計画的な建て替えこそ求められるところ。なんでも使い捨てが定着した社会では、その方が難しいですけどね。 でも、もともとがしっかりした昔の素材は、磨けばきれいであり続けます。 戎のカウンターは、脂やお酒が飛び交うのに、ベタベタしてない。ついでに北口のガラス戸もいつもピカピカ。備長炭で煙が絶えない店なのに、ですよ。 8:これがニシオギ的天才 こうして、今あるものを大切にして、丁寧な毎日の営業を行う姿勢。それは建物だけではなく、食材も人(お客さんに対しても、働く人も)に対しても。
たとえば、水餃子が名物なのですが(最近はイベリコ豚)、餃子系がまったくメニューにない日がありました。「作る人がお休みだから」とのこと! こうやって、できることをする、ムリしない、あるものでやる。その辺がニシオギのお店らしい。
地元の「ちぎら医院」の院長が「西荻式ダイエット」という本があるのですが、これはニシオギの店で飲み食いしながら痩せましょう、という地元愛溢れる異色のダイエット法。お酒は飲んでもいい、肉も食べていい、飲み食いのタイミングと種類を考えましょう、として上げられたメニューにはもちろん戎の料理もたくさん。て、いうか戎で飲み食いしてたら、けっこう健康になるかも?
ニシオギの人は、ムリは嫌い。流行や使い捨てを称揚して、どんどん新しいものに換えろ換えろと騒がれるのも嫌い。とにかくマイペースが大事。 そんな街だからこそ、この戎という文化がずっと育ってきたのだと思います(あくまで戎は代表として書きましたが、いい店は他にもいろいろありますよ!)。
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hiro-photograph · 4 years
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FUJIFILM X−Pro2とXF35mm F1.4 Rで撮る石垣・竹富島スナップ_後編
  少し時間が空きすぎましたが、一泊二日で敢行した石垣・竹富島トリップで撮影したスナップ写真の後編を紹介したいと思います。
前編はこちらから。
後編では、滞在時間わずか2時間弱の中撮影した竹富島スナップを紹介します。
使用したカメラはFUJIFILM X-Pro2とレンズはXF35mmF1.4 Rの単焦点レンズのみです。
写真はJpegで撮影してLightroomで現像しています。
旅のスナップ写真は35㎜が具合が良い!
ではでは早速。
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タイラヒロ
竹富島での滞在時は天気に恵まれました!!
FUJIFILM X-Pro2とXF35mmF1.4 Rで竹富島をスナップ
石垣島から約15分の船で竹富島へ!
一緒に来た友人らは漁港で大物を狙う
港から眺める石垣島
とにかく青い蒼い碧い
牛とか普通に水飲んでる景色@竹富島
瓦屋根が雰囲気醸すね
こちらは西桟橋
竹富島は自転車レンタル必須だと思う
島の風景
コンドイビーチ is 最高
This is KONDOI!!!!
ため息がでるような海、好き
いつまでも眺めていたい景色が竹富島にはあった
反対!反対!
いっせんまちやー(駄菓子屋さん)
牛とかいるとシャッターきりたくなる
ブーゲンビリアと竹富島
島の原風景感あり
9月末だけど空は真夏でした
最後は虹に見送られて竹富島トリップ終了
石垣島からフェリーに乗り、約20分で竹富島に。
たったの20分で石垣島とはまた別の雰囲気があり、民家はほとんどが瓦屋根の戸建て、舗装されていない道がほとんどで「島の暮らし」がそのまんま残っている竹富島。
「島の暮らし」がそのまま残る竹富島でのスナップは新鮮な気持ちで撮る事ができました。
特に印象的だったのが下の写真。
  この看板がいつ作られてホテル建設がどうなったのかはわからないんだけど、コンドイビーチ周辺にホテルを建設するのはわたしも反対です。
なぜ反対するかはコンドイビーチに足を運べばわかると思います。
穏やかな天気が続く3月から4月にかけて、また竹富島に足を運びたいなと思っています。
旅のお供にXF35mmF1.4 Rをおススメしたい
竹富島スナップとはあまり関係のない事ですが、旅のお供にぜひ『XF35mmF1.4 R』をおススメしたいです。
今年の2月に足を運んだ東京渋谷、横浜、鎌倉でのスナップも重宝したし、5月に訪れた福岡でも風景、食べ物、スナップ、いろいろなシチュエーションで活躍してくれました。
Xマウントレンズで普段使いで一番のおススメは?と聞かれたら、間違いなく『XF35mmF1.4 R』を挙げます。
そんな『XF35mmF1.4 R』ですが、絶賛キャッシュバック対象レンズなので気になる方はぜひチェックしてみて下さいー!!
そして以下は『XF35mmF1.4 R』関連のブログ記事です。気になるやつだけチェックしてみてください。
 はいさいびー��い。タイラヒロ(@tairahirog)です。3月1日の夜に沖縄から飛行機にて横浜に到着し、2日はCP+2019に参加して来ました。CP+かなり良かったです。わたしの場合は製品云々と言うより、実際にFujifilmのカメラを使用しているXユーザーの皆さんのトー... 横浜滞在1日目と2日目!夜朝夕の街スナップ全て見せます!X-Pro2とXF35㎜と14㎜の... - タイラヒログ
 横浜滞在最終日も雨でした。3月5日、月曜日の早朝6時半。JR関内から渋谷に向かう電車に乗り、まさかの満員電車を体験し身も心も疲弊しきった状態でしたが、渋谷の雰囲気にテンションが上がって『さあ撮るぞ!』と傘を片手に雨の渋谷に繰り出しました。撮影... 雨、渋谷スナップ。換算50mm1本勝負。FUJIFILM X−Pro2とXF35mmF1.4 R - タイラヒログ
 はいさいです。タイラヒロ(@tairahirog)です。去った5月25日(土)に開催された『たけさんぽ福岡』に参加してきました。初の福岡、初のたけさんぽ。シンプルに言って最高の二文字でした。今回の記事ではFUJIFILM X−Pro2で撮影した『たけさんぽ福岡』写真を貼っ... #たけさんぽ福岡 念願の【たけさんぽ】はリピート必至の素晴らしフォトウォークイ... - タイラヒログ
どうもタイラヒロ(@tairahirog)です。前回に引き続き今回は『XF35mmF1.4 R』を尊びたいと思いますwこの『XF35mmF1.4 R』は、フジノンレンズの標準単焦点レンズとして発売から現在に至るまで、かなり人気のある単焦点レンズです。このレンズも訳あって現在手元にあり... 【作例多数】XF35mmF1.4 Rの作例!今は無き単焦点レンズを尊ぶの巻_その2 - タイラヒログ
 横浜滞在3日目の天気はあいにくの雨。この日は所用の為、関内から電車に乗って鎌倉まで行ってきました。途中Twitterでフォローさせて頂いているあきらんさん(@akilans )のツイートをきっかけに、この日はモノクロスナップ縛りで行くことに。というわけで今回紹... 横浜滞在3日目は朝から雨。鎌倉・横浜元町をモノクロ街スナップ。 - タイラヒログ
はいさいびーさい。タイラヒロ(@tairahirog)です。タイトルからもおわかりのように、人生で初めて同じレンズを新品で購入しました。2度目の新品購入に至ったレンズはフジユーザー必携の【XF35mmF1.4 R】です。というわけで今回は、素晴らしいレンズラインナップを誇... 気づいた時にはもう手元に。2度目の新品購入!!【XF35mmF1.4 R】開封と室内実写と... - タイラヒログ
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まとめ
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タイラヒロ
XF35mmF1.4 Rの1年間使用レビューとか書きたいです。
あと90㎜の半年間使用レビューも。
月末にはX-Pro3も手元にあるだろうし。
楽しみしかない。
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riepiart · 5 years
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海バカすぎる夫、 漁師ではありません!笑 本業は本業で別なんだけれど、 なんと言っても海が好きすぎて、タコ、ウニ、魚を獲りに海に入りたくて、3-10月は、頭の中海のことばかり(笑) 私は、もう呆れるほどです(笑) シーズン中は、天気予報で、具体的に海の状態がわかるサイトを常日頃チェック、 海の状態が良ければ合間を縫ってでも、5時起きしてでも、レッツゴー。 わたしも全部は付き合いきれる訳ではなく、それでも、今日は海行きたいなと思った日など、付き合ってあげるわ、と海へ。 海に行ったら行ったで、なんと、見えない沖の方まで行っちゃってトータル2-3時間海に潜りっぱなし(笑) ほかのイタリア人と比べてもそういないレベルの海バカ度。しかも本人は本気。 友達の間でも、フィリッポはね〜(笑)とみんな知ってて、あきれられている?または、彼のタコを食べたいとリクエストも殺到(笑) シーズン中は、例えば、私なんかやっぱり素敵スポット、女子的には行きたいですよね、でもそんな所へお出掛けしよう、なんてアイデアは、彼には一切ないので、私的には、まず言いくるめて海以外の場所へのお出かけ案を通すのが一苦労、まあ、大概諦めた方がよいわ、困ったことだと思っていました。 しかし、今までの写真を整理してみて、気づいたんです。 海にいる時の彼の写真に表れる、海との関わりのホンモノ感。 たしかに、普段海にいる訳なさそうな、いかにも室内にでもいそうな人が、海をバックにしたらカッコ良さそうだから撮ってもらいたいという作為で、見せかけの不自然さで撮られたようなものとは違う。 本当に、実際に、ちゃんと海にいる人、それが出ている。 撮られるためのなんのポーズもぜず、 その自然な姿をキャッチしたもの、 それが私が何の技術を駆使しなくても、簡単に撮れているなぁと。 つまり 被写体がホンモノだと、 写真をフォトグラフィーというジャンルとしてやっていない人でも、例えば軽くスマホで友達かなんかが撮っても、海にふさわしい、いかにも 本当に海にいる人感、ホンモノ感は滲み出る。 逆に、普段海にいないよねーたいして関わってないよねーという人が、例えばプロのカメラマンにお願いしてプロ仕様高級機種のカメラで撮ってもらったとしても、その不自然さ、は隠しきれなくて、たとえプロのカメラマンに撮られた写真だとしても、被写体の服に着られた感は出てしまう。 ということは、私にとって、実は絶好の被写体が、自分の身近に、まさにいた、という発見だったのです。 写真には、あらゆるものが写り、見え、読み取ることができる。 写真にあらわれる、ホンモノ感と薄っぺらい感 写真て本当に奥が深くて面白いなぁ、と見直しています。 そういえば、ロンドンのコンペティションでファイナリストにも選ばれ、ロンドンでの展示もしていただけた、八戸の海の写真、 真冬の極寒、誰もが外には出ていたくないような天候、本当に誰もいない町で、荒波の海に一人、アグレッシブに釣りをする人が写り込んだ情景写真でした。 それこそ、真冬の海へも立ち向かう海の男、その存在感、醸し出す雰囲気は、被写体が小さくなっても、風景にオーラを放っている、そして海の景色とのコラボレーション。(そんなシチュエーションを撮りに行った私の行動力も今思えばすごい、イメージした写真を何としても撮りたい、という写真への意識の高さ、取り戻したい気もしています) なんだか、海に、そして海の男に縁があるんだな、と気づきました。そういえば、私の祖父は八戸の漁師さんだった。 海バカすぎてあきれながら、まったくしょうがないなーと一緒について行ってあげていたつもりの、プーリアの数えきれないほどの海、 実は観光地としてはそれほど有名ではない、地元に人気の穴場や、マニアックな海でも、普通に関わるようになった。 泳がないような人がイタリアの海をちょっと遠くから見ました、ではない、深く入り込んだ関わりに、自分もなれていること、そこにいる人の視点になれて、そういう景色が、いつのまにか撮れている環境を持っていることにきづきました。 南イタリアでも、いやプーリアだけでも、とにかく被写体の可能性が膨大でセレクトしきれない、頭がパンクしそうで、一旦は、一年ほどカメラを置いて撮らないでいたのですが、 得意としたい方向性がわかり、それ以外に、いかにもプーリアの素敵な見どころを観光写真としてでも切り取ること、 そして、イタリア生活の中から、自分の住んでいる街から、アートに切り取れるものを探す、という、大きく分けて大体3つの方向性かな。 ホンモノ感の海の男、この海大好き夫以外にも、他の素敵な被写体さん方に今後会えるチャンスはあるので、また違うタイプの、それこそプロで年季の入ったベテランおじさまとか、被写体として面白そう。イタリアの港、海辺、 住んでいる街のそれこそプロフェッショナルな職人さんとか、 来年からもっと深めていきたいです。 本物を探し、被写体自体にホンモノ感でているものに当たって、ごく自然なシーン、つくりものではない本当のシチュエーションが撮れれば、 高級機種でプロのカメラマンが、あらゆる技術を駆使して作為的に作り込んで、不自然さが隠しきれないのより、(もちろん群を抜いて一流の映画製作に関わるカメラマンだったら、どんなものも本物に仕上げられると思いますが) ある意味、良い写真ができそうです。 いずれにしても、 写真には、 見抜く眼力、洞察力、 あらゆる角度でとらえる視点、 写真の作品として直接結びつかなくても、 とにかく鍛えられことが多くて、面白いです。 逆にきりがなくなっちゃうので、 本当に撮りたいものへ、絞っていかないと。 海を背景に様になっている海の男な夫を持ち上げてばかりでしたが、いやいや、 たとえば、彼の仕事柄スーツとはずっと無縁、もし彼がスーツなんか着た日には服に着られている感満載なのが見え見え!です(笑)想像できる違和感(笑)逆にジーパンは普段履きなれているのでそれが板についている。 さらには、日本で、温泉旅館に家族で行ったときの、イタリア人夫が、和の景色、和の伝統的なお部屋で、浴衣を着てその気になっている姿の写真なんかは、服に着られている、を通り越して、 家族も友達も笑える、コメディになっていました(笑) そして、 最後のカフェの写真は、 海の見える絶景、雰囲気も素敵な 私の最もお気に入りのカフェ❣️ まだ沢山整理しきれないほどの写真があって、 FBやインスタグラムなどでその都度放出中、 おそらく、もっと整理した状態での フォトin Italiaのページを新たに作るのも考え中です♪
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xf-2 · 6 years
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 ご家族の高齢化もあり(ということは被害者も高齢化していくということで)、ここしばらく、救出運動の中で「もう待てない」という言葉が何度も語られてきました。
 しかし、今回の米朝首脳会談を基礎にして拉致問題の今後の対応を進めるなら「いつまでかかるか分からないが、まだ待て」ということになります。ストックホルム合意の二の舞です。日朝でやるといっても米国が体制を保証し、米韓合同軍事演習も中止して、場合によっては在韓米軍も撤退させるというのでは北朝鮮の最大の脅威はなくなったわけで、真面目に交渉に応じるはずはないからです。
 日本がカネを出さないといっても、トランプ大統領が「非核化のカネは日本と韓国が出す」と言ったのは安倍総理も何らかの言質を与えたからでしょう。「そのうちうまいこといくからさあ、今は我慢して出しといてよ」と言われても、米国頼みでやってきたのですから断ることはできないでしょう。やり方はどうするのか知りませんが、国民が止めなければ結局その方向に向かうはずです。
 トランプ大統領が米韓合同軍事演習を「挑発的な戦争ゲーム」とし、「カネがかかるからやめる」と言ったのは米国の中でも驚きをもって受け入れられているようです。予測不能な大統領ですからこれからも何をするか分かりません。本当に「もう待てない」なら、今回の米国頼み戦略(?)は失敗だったという認識の上に新たな戦略を立てるべきです。そうしなければミッドウェーの後の帝国海軍のような結果になるのではないでしょうか。
北朝鮮船・船体の一部・遺体の着岸漂流一覧(平成30年6月1日現在確認分) 《平成28年(2016)以前》------------------------------------------------- ※確認出来たものを逐次入れていますが、あくまで氷山の一角です。実際には遥かに多くの事件が起きています 昭和62年(1987) 1月20日 福井沖 漁業資源監視船「ズ・ダン9082号」(約50トン・鉄鋼船)が男女11人を乗せて亡命。(620201読売東京) 平成2年(1990) 10月28日 福井県美浜町久々子海岸 ベニヤ板製の工作子船と思われる船(長さ8.3m幅2.5m 船底からビニール袋に密封された乱数表2枚と換字表1枚、日本製とみられる白紙の手帳)(021030読売東京) 11月2日・11日 美浜町沖合や海岸 遺体2体(20代~40代) 平成10年(1998) 12月2日 島根県隠岐郡西ノ島町 遺体1体(男性) 12月16日 島根県浜田市 遺体1体(女性) 12月16日 島根県隠岐郡五箇村(現隠岐の島町) 遺体1体(北朝鮮軍兵士)(110127読売大阪夕刊) 12月21日 石川県河北郡七塚町(現かほく市)遠塚海岸 遺体1体(女性兵士・労働党候補党員証を身に着けていた)。 12月25日 福井県大飯郡高浜町和田海岸 丸太組みのいかだとロープでつながれた男性遺体3体(軍服姿、腐乱し一部白骨化、死後1~3カ月 30~50代、身長1m60~70センチ 胴体と足に直径約20センチの球形ブイ数個が付いていた)。(101225読売大阪夕刊) 平成11年(1999) 1月14日 福井県三方郡三方町(現三方上中郡若狭町) 遺体1体(北朝鮮軍上佐とみられる。「私たちの船は朝鮮人民軍26局4地区副業船、船籍は元山市」「昨年11月に兵士ら15人が乗船して出港したが機関故障で冠水、漂流した」と書かれたメモや航行に関する書類)(110127読売大阪夕刊) 1月22日 鳥取県鳥取市浜坂鳥取砂丘 遺体1体(北朝鮮軍兵士)(110127読売大阪夕刊) 平成13年(2001) 12月16日 遺体1体(男性・30~60歳 一部白骨化 紺のランニングシ��ツと緑色のパンツ 死後2~3カ月 数百m離れた場所に男性の北朝鮮公民証)(131231読売東京) 12月 新潟県佐渡市鷲崎海岸 木造船(ハングルで洪原と記載)・遺体1体(赤十字の照会で「1955年生まれで昨年10月8日漁に出たまま行方不明になった」とのこと)(140129読売新潟北版) 平成14年(2002) 1月4日 石川県能美郡根上町(現能美市)山口町グリーンビーチ 木造船(長さ約6m)(140108読売石川版) 1月5日 石川県羽咋市一ノ宮海岸 木造船(長さ約6m 前方にハングルと数字)(140108読売石川版) 1月9日 石川県河北郡宇ノ気町(現かほく市)大崎海岸 木造船(長さ約3m、幅約1.5m 後方にハングルと数字)(140110読売石川版) 1月11日 石川県羽咋市大川町釜屋海岸5日の木造船漂着地の南500m 鉄製船(長さ約5.9m幅約1.5m船首に文字らしきもの) 3月19日 石川県輪島市小池町海岸 木造船(長さ6.5m幅2.5m 後部に発動機。船首部分内側にハングルが書かれたプレート)(140320読売石川版) 4月11日 北海道爾志郡熊石町(現二海郡八雲町)見日海岸 木造船(長さ約6m70センチ幅約1m50センチ 船尾にスクリューがあったがさびて動かずエンジンも付いていなかった)(140411読売札幌版夕刊) 12月28日 石川県河北郡内灘町宮様海岸 遺体1体(身長約1m62、20~50歳、死後1~6カ月、金日成バッジ) 平成15年(2003) 1月10日 新潟県岩船郡粟島浦村釜谷の消波ブロック 遺体1体(頭部白骨化、身長約1m70、黒の長袖シャツと黒の靴下)・木造船(長さ約9m幅約2m船首部分に漁網) 3月5日 新潟県柏崎市海岸 遺体1体(男性・20~40歳 下半身のみ 165㎝  茶色作業ズボン、青色ももひき、黒色半ズボン、北朝鮮紙幣死後半年前後) 平成16年(2004) 12月2日 新潟県佐渡市 遺体1体(男性 40~60歳 152.5㎝ B型カーキ色軍服様長袖、カーキ色軍服様長袖シャツ、グレーハイネックセーター、青色長袖シャツ、茶色ベルト) 平成18年(2006) 1月4日 京都府舞鶴海上保安部管内 木造船(180131読売大阪朝刊) 1月 鳥取県内に4隻の木造船が漂着(180126読売大阪朝刊) 1月24日 鳥取県西伯郡大山町 木造船(180126読売大阪朝刊) 1月25日 鳥取県鳥取市伏野海岸 木造船(長さ5.65m幅1.4m)(180126読売大阪朝刊) 1月30日 京都府京丹後市久美浜町箱石海岸 木造船(180131読売大阪朝刊) 平成19年(2007) 6月 青森県西津軽郡深浦町 木造船・生存者4人 (191227読売東京夕刊記事)11月中旬以降北朝鮮からの木造船16隻が漂着、新潟と石川の海岸が大部分。 平成20年(2008) 1月10日 福井県福井市西二ツ屋町海岸 木造船(長さ約6m幅約1.5m 船尾に船外機、船首にハングルが彫られていた)(200112読売大阪朝刊) 3月26日 秋田県男鹿市北浦入道崎海岸 木造船(長さ約5.8m幅約1.4m 側面や船尾にハングル)(200326読売秋田版) 平成23年(2011) 9月 輪島市沖合で木造船に乗った脱北者9人を救助(後に韓国に移送) 9月26日福井県三方郡美浜町関電美浜原発敷地内の岩場 木造船の一部(230927読売大阪朝刊) 平成24年(2012) 1月6日 島根県隠岐郡隠岐の島町那久岬沖 木造船・生存者3人(9日に北に引き渡し)・遺体1体(241224読売島根版) 1月19日 島根県隠岐郡隠岐の島町 木造船(241224読売島根版) 2月22日 島根県隠岐郡隠岐の島町 木造船(241224読売島根版) 2月27日 島根県隠岐郡海士町 木造船(241224読売島根版) 4月4日 島根県隠岐郡隠岐の島町 木造船(241224読売島根版) 11月28日 新潟県佐渡市大小海岸 木造船(長さ約12.8m幅約3.4m エンジン 船首にハングル 捕った魚を保管するスペース)・遺体5体(成人男性 雨具とみられるビニール製のズボンを履き、船内に長靴 死後2~3カ月 一部白骨化 長時間海水に漬かっていた形跡があり、船が一度沈没した可能性 1体は推定年齢30~40歳代前後、身長約170cm、長袖灰色シャツ、紫色ハイネックセーター、赤色半袖Tシャツ、 下衣は紺色ナイロン製ズボン、灰色ズボン、水色スウェットズボン、 黒色ボクサーパンツ、黒色靴下ほか紳士用黒色デジタル腕時計着用)(241129読売新潟版他) 12月1日 新潟県佐渡市赤泊杉野浦の海上 木造船(長さ約10m 船内からイカ釣り用の針)・遺体1体(年齢40~50歳前後の男性 死後1~2カ月 胃の中に食べ物なし 遺体は屍蝋化 身長約167cm、 着衣は緑色ニット帽、紺色フード付長袖ジャンパー、黒色長袖作業着、紺色ベスト、 胸に鷲マーク入り紺色長袖トレーナー、紺色ランニングシャツ、 下衣は灰色防寒ズボン、ホック式ベルト、紺色ビニール製ズボン、こげ茶色股引、 緑色ブリーフパンツ、両足に白色と小豆色の格子柄靴下、 ゴム製長靴(サイズ25.0cm、上部中央ハングル)着用) 12月1日 新潟県佐渡市北鵜島の海岸 木造船の一部(右舷部分とみられる長さ約4メートルの木片 船首付近にハングルと数字) 上記の者は、平成24年12月1日午後0時13分頃、佐渡市において、 転覆した木造船内にて遺体で発見され死後1~2カ月経過していると推定されます。 遺体は火葬に付し、遺骨は当市の真楽寺にて保管)。12月12日 石川県輪島市 木造船(長さ約11m幅約3.5m 船首両横にハングル、漁網や釣り針)内から遺体1体(一部白骨化) (270110読売記事では「輪島市沖合で木造船の漂着や漂流が相次ぎ、漂流した船体の近くで3遺体が見つかる」) 平成25年(2013) 11月15日 新潟県佐渡市沖の海、姫津沖約5.5キロ、木造船(船尾水没 操舵室上部に赤い塗料でハングル、ジャンパーのような衣類) 12月18日 新潟県岩船郡粟島浦村 木造船(長さ約12m・幅約3.5m 船首にハングル 船内からイカ釣り漁の針や「朝鮮平壌」と書かれた箸)・遺体1体(身長約1m75センチ、防寒ジャンパー着用・死後数週間)(251218読売東京朝刊) 12月25日 秋田県男鹿市北浦湯本 木造船(長さ約12m幅約3.5m船内に漁網など)・遺体3体(251225読売秋田版)※300512時点でも現存 12月28日 新潟県長岡市寺泊野積海岸 木造船(長さ8.25m幅2m 船首に数字やハングル)(251229読売新潟南版) 12月29日 新潟県柏崎市西山町石地海岸 木造船(長さ6.6m幅1.7m 船首に数字やハングル)(251230読売新潟南版) 平成26年(2014) 8月 石川県珠洲市沖合で北朝鮮船の乗組員4人救助(後に大連経由で帰国) 平成27年(2015) 1月9日 石川県羽咋郡志賀町安部屋漁港北400m 木造船・生存者1人(服などが入っている透明ビニール袋を所持 61歳 後に帰国) 7月23日 青森県下北郡佐井村矢越漁港 木造船1隻(271209読売) 10月27日 青森県下北郡佐井村福浦漁港 木造船1隻・遺体1体(271209読売) 11月1日 秋田県山本郡三種町沖 木造船(271209読売) 11月2日 秋田県男鹿市 木造船(271209読売) 11月14日 新潟県佐渡市岩首漁港沖 木造船(長さ約13m幅約3m 黒ずんだ船体にハングル リュックサックに金正日バッジ)・遺体1体(上下黒の衣服)荒天のため12月2日に海保が引き揚げ発表 11月 石川県輪島市沖木造船3隻・遺体10体(産経ニュース・ TBS動画ニュースサイト・毎日新聞11月28日) 11月6日 北海道松前町沖 木造船・遺体2体(271107読売東京朝刊) 11月14日 新潟県佐渡市沖 木造船・遺体1体(271209読売) 11月19日 秋田県能代市沖 木造船・遺体2体(271209読売) 11月20日 石川県輪島市沖 木造船3隻・遺体10体(271209読売) 11月22日 福井県越前町沖 木造船・最低でも7人とみられる遺体・遺骨(271209読売) 11月22日 新潟県佐渡市沖 木造船(271209読売) 11月23日 石川県輪島市沖 木造船の一部(271209読売) 12月2日 青森県下北郡佐井村長後牛滝漁港 木造船(船内にハングルの書かれた救命胴衣)・遺体4体(海保の司法解剖結果で死後1~6カ月経過 靴にハングル)(271207・1209読売東京朝刊) 12月2日 兵庫県美方郡新温泉町沖 木造船の一部(271209読売) 12月7日 石川県金沢市沖 木造船(271209読売) 平成28年(2016) 5月20日 青森県下北郡風間浦村易国間桑畑漁港近く 木造船(長さ約6.7m幅約1.5m 左舷船首部分にハングル)(280522読売青森版) 6月5日 青森県むつ市大畑町大畠漁港沖 木造船(全長約9m幅約2.3m 船体に海藻が付着 右舷船首部分にハングル)(280607読売青森版) 10月17日 青森県西津軽郡深浦町沖(十二湖駅近くの岸壁に引航) 木造船(281018読売青森版) 10月18日 青森県下北郡佐井村沖 木造船(長さ12m ズック、手袋、靴下など)(281029読売青森版他) 10月29日 青森県下北郡佐井村牛滝漁港 木造船(長さ6.2m幅2.53m)(281029読売青森版) 10月30日 青森県つがる市七里長浜 木造船(長さ16.2m幅4m 船首に赤色数字 船内にロープや網)(281101読売青森版) 12月5日 京都府舞鶴市 木造船(北朝鮮5000ウォン紙幣2枚、漁具など)・遺体9体(一部白骨化)(TBSあさチャン) 《平成29年(2017)以降》--------------------------------------------------- ※出典については逐次書き加えています。石川関連のほとんどが北國新聞、新潟関連の大半は新潟日報の記事です。 平成29年(2017) 1月1日 新潟県糸魚川市筒石 木造船の一部 1月6日 新潟県上越市柿崎区 木造船 1月6日 福井県三方郡美浜町菅浜弁天崎南1キロ 木造船(船体にハングルのような文字 船内にエンジンの一部とドラム缶)(290106読売大阪朝刊) 1月7日 福井県小浜市犬熊 木造船 2月7日 島根県隠岐郡隠岐の島町神尾 木造船 2月11日 石川県金沢市 木造船 2月15日 京都府京丹後市間人 木造船 2月15日 京都府舞鶴市瀬崎海岸 木造船 3月8日 島根県隠岐郡隠岐の島町油井 木造船 3月14日 石川県輪島市門前町 木造船の一部 3月18日 石川県羽咋郡宝達志水町 木造船(長さ約5m幅約1.5m 船尾の白い板にハングル)(271209読売) 3月22日 石川県羽咋市寺家町 木造船 3月28日 京都府京丹後市 木造船 4月28日 秋田県男鹿市入道崎灯台西300m 木造船(長さ約10m幅約5m)・遺体1体 5月1日 北海道函館市函館港 木造船の一部 5月2日 新潟県佐渡市石名地区 木造船 6月1日 新潟県佐渡市鷲崎地内 木造船 6月26日 兵庫県香住町余部海沖 木造船(「0제16749」と記載 男性遺体1体身長約168センチ) 7月31日 島根県隠岐郡隠岐の島町福浦 木造船の一部 8月9日 島根県隠岐郡西ノ島町三度埼 木造船 9月6日 青森県西津軽郡深浦町大間越 木造船 9月25日 北海道室蘭市東町 木造船の一部 11月7日 新潟県佐渡市羽茂三瀬地区 木造船(長さ13.7m幅3.7m 「888-88879」の数字記載) 11月15日 秋田県西400キロ沖(大和堆北方EEZ外)転覆した木造船 3名救助 11月16日 秋田県西沖(大和堆)木造船 遺体4体 11月16日 秋田県にかほ市 木造船 11月19日 青森県北津軽郡中泊町小泊 木造船(長さ8.7m) 船体にハングル表記 11月20日 青森県西津軽郡深浦町大間越 木造船(長さ12.6m 「913185」の数字記載。スクリューやエンジンが残っていた)周辺で救命胴衣6個発見 11月21日 山形県鶴岡市暮坪海岸 木造船(長さ7m) 船体にハングルや「89829」の数字が記載(庄内ブルーリボンの会資料には全長10mとの記載あり) 11月23日 新潟県佐渡市南片辺 木造船(長さ約10m幅約2m 船体にハングルと数字が記載 エンジン 周辺から漁網やイカ釣り針、防寒具など) 11月23日 秋田県由利本荘市マリーナ 木造船(長さ20m) プレートにハングルで「チョンジン」と記載。生存者8名 内2名が近くの民家に行ってインターフォンを鳴らしたことで上陸が分かる(従って検疫を受けずに上陸した9。証拠品である船はマリーナに係留していたが県警が見失い、後に破片の一部を回収。 11月24日 秋田県男鹿市宮沢 木造船(長さ約14m幅約3.2m 船首付近に「556-60756」と記載)・遺体8体(白骨化)・北朝鮮製たばこ等 11月25日 新潟県佐渡市藻浦崎 木造船の一部(「88737」の記載)・遺体1体 11月26日 新潟県佐渡市石花 遺体1体 11月26日 北海道松前郡松前町小浜 木造船の一部(船首部分長さ4m 黒く塗られ数字のようなもの記載) 11月26ないし27日 青森県西津軽郡深浦町艫作(へなし)椿山展望台西200m 木造船(船首部分に「2093」の数字が記載) 11月27日 石川県羽咋郡志賀町西海 木造船の一部 11月27日 石川県羽咋市 木造船 11月27日 石川県珠洲市三崎町小泊沖 漂流船(長さ12m幅2.5m 船内に「264軍部隊 軍船」と記載された紙片) 11月27日 青森県下北郡佐井村 木造船(長さ12.3m幅3.6m 船首に115489 エンジン付き 後部は一部破損するも櫓はほぼ原型) サイズ24センチ男物革靴(ヒールの高いシークレットブーツ様のもの)と英文の書かれたジャケット(要確認) 11月28日 北海道松前郡松前町松前小島 木造船(長さ約10m 「朝鮮人民軍第854部隊」との記載)・生存者10名 11月28日 山形県鶴岡市鼠ヶ関沖 木造船・遺体3体(うち2体の衣服に金日成バッジ) 12月2日鶴岡市温見漂着、12月4日遺体漂着 11月28日 石川県輪島市舳倉島沖 漂流船2隻 11月30日乗組員21名が北朝鮮僚船に救助される。 11月30日 新潟県佐渡市藻浦崎 遺体1体(地元で聞いた話では遺体はなかったとのこと) 12月1日 青森県西津軽郡深浦町森山海岸 木造船(長さ約10m幅約2.4m) 12月1日 新潟県佐渡市両津湾 木造船 12月1日 山形県鶴岡市鼠ヶ関マリーナ 木造船の一部 12月2日 新潟県佐渡市小木江積海岸 木造船(長さ約9.8m幅約2.3m)・遺体2体 12月2日 秋田県山本郡八峰町八森岩館付近海岸 木造船(ハングルの書かれたバケツ)・遺体1体 12月2日 山形県鶴岡市米子漁港 木造船(長さ10m弱)遺体3体(4日に漂着 庄内ブルーリボンの会) 12月4日 新潟県柏崎市西山町石地付近 木造船の一部 12月4日 新潟県長岡市寺泊大和田 木造船 12月4日 新潟県新潟市西蒲区角田浜沖 木造船 12月4日 秋田県にかほ市海水浴場 木造船の一部(ハングルの書かれたバケツ、缶詰)・遺体1体 12月4日 青森県西津軽郡深浦町北金ヶ沢 木造船(12日に遺体→別記) 12月5日 新潟県佐渡市高千漁港 木造船(幅約3.1m) 12月5日 新潟県新潟市 木造船漂流(ブロックに衝突し大破)・遺体2体 12月5日 山形県鶴岡市マリーンパーク鼠ヶ関 木造船の一部(庄内ブルーリボンの会) 12月6日 青森県西津軽郡深浦町入良川河口付近 木造船(「915430」と記載) 12月7日 秋田県男鹿市五里合漁港北100m砂浜 木造船(「913300」と記載)・遺体2体 12月7日 秋田県山本郡三種町 木造船1隻(ハングル表記のライフジャケット) 12月7日 新潟県佐渡市北狄(きたえびす)地区海岸 木造船・遺体1体 12月7日 新潟県佐渡市和木沖 木造船・遺体1体 12月7日 福井県坂井市三国町サンセットビーチ 木造船の一部 12月7日 山形県鶴岡市マリーンパーク鼠ヶ関 木造船の一部(庄内ブルーリボンの会) 12月8日 新潟県佐渡市水津漁港 木造船の一部(幅約2.8m)・後に男性の遺体1体発見 12月8日 石川県珠洲市長橋町 木造船の一部(後に流出し2月22日珠洲市大谷町海岸に漂着) 12月9日 石川県珠洲市笹波町 遺体1体(一部白骨化し性別不明 死語数か月 セーター、シャツ着用 12月9日 新潟県村上市府屋海岸 木造船 12月9日 新潟県佐渡市岩谷口海岸 遺体1体 12月9日 新潟県佐渡市姫崎沖 遺体1体 12月10日 山形県鶴岡市堅苔沢海岸 遺体1体(上半身のみ) 12月10日 新潟県佐渡市石名沖 木造船(幅約3m) 12月12日 新潟県柏崎市荒浜 木造船・遺体2体遺体は白骨化しており、服や身の回りの物も無かった。船はその後産業廃棄物として処理。白骨化した遺体は火葬後、無縁仏として埋葬。 12月12日 新潟県村上市沖 木造船 12月12日 青森県西津軽郡深浦町十二湖海浜公園 木造船(「912358」と記載) 12月12日 新潟県佐渡市宿根木 木造船の一部 12月12日 青森県西津軽郡深浦町北金ヶ沢千畳敷橋付近海上 遺体3体(12月4日の漂着船が岩にぶつかって破損し中から流れ出たものと思われる) 12月12日~13日 石川県羽咋市 木造船の一部 12月13日 山形県遊佐町吹浦西浜海岸周辺 遺体1体 12月13日 山形県鶴岡市鼠ヶ関マリーナ 木造船の一部 12月13日 秋田県潟上市出戸浜海水浴場付近 木造船・遺体2体 12月13日 秋田県男鹿市北浦入道崎灯台南約2km 木造船(長さ7m幅1.9m) 12月13日 秋田県秋田市浜田 遺体1体 12月13日 新潟県村上市瀬波温泉海岸 木造船(「632-90452」と記載) 12月13日 新潟県胎内市松浜海岸 木造船 12月14日 秋田県秋田市雄物川河口近く 木造船2隻・遺体6体 12月14日 青森県西津軽郡深浦町白神浜 遺体1体 木造船の一部 12月14日 新潟県長岡市寺泊郷本海岸 木造船・人骨5本 12月14日 新潟県佐渡市鵜ノ瀬鼻沖 木造船(全長約13.5m幅約3m) 12月14日~15日 石川県羽咋市志賀町 木造船の一部 12月15日 石川県金沢市金沢港沖 木造船 12月15日 新潟県佐渡市下相川 木造船(長さ約13m幅約3m 岩場で大破したがそれ以前はイカを干すヤグラや集魚灯の一部も残っていた) 12月15日 青森県下北郡佐井村津鼻崎南 木造船(船首に「567-66341」)1週間前の漂流時には船全体の形があったがその後時化で崩壊し海岸に各部分が海岸に漂着) 12月15日 山形県鶴岡市五十川海岸 遺体1体 12月16日 石川県羽咋市千里浜インター付近 木造船の一部 12月16日 青森県深浦町田野沢 木造船(「547-66205」と記載) 12月17日 石川県珠洲市 木造船の一部  12月18日 新潟県佐渡市鷲崎沖 木造船 12月18日 山形県鶴岡市湯野浜海岸 木造船(長さ10m弱) 12月19日 秋田県にかほ市飛字餅田海岸 木造船・遺体2体 12月19日 石川県羽咋郡志賀町 漂流船(海保は発見できず) 12月20日 石川県羽咋郡志賀町 富来漁港(西海漁港) 漂着船 12月21日 新潟県佐渡市関岬 木造船(長さ11.6m幅2.75m 船首にハングル表示) 12月21日 新潟東港沖18キロ 木造船 12月21日 新潟県岩船郡粟島浦村釜谷 木造船の一部(縦1.5m横1.2m) 12月21日 青森県下北郡佐井村沖 木造船(転覆した状態で網にひっかかっていた 船尾に「0-세・98180단천」)・遺体4体(佐井村資料には記載なし)佐井村資料には女性もののようなビニールと思われるバッグ、ライフジャケットなどが写っている。バッグの中身はタバコ、タオル、歯ブラシ、書類らしきものなど) 12月23日 石川県羽咋郡志賀町 木造船(長さ約8.4m幅約2.2m 15日に金沢港沖を漂流していた船と同じ番号が船体に記載) 12月24日 新潟県新潟市 新潟港沖12キロ 木造船(21日のものと同じ可能性あり) 12月24日 山形県鶴岡市油戸漁港付近 木造船の一部・周辺に遺体4体 12月24日 山形県酒田市浜中海水浴場周辺 遺体1体(星型マークがバックルに付いた布製ベルト) 12月25日 新潟県佐渡市羽茂大橋 木造船(長さ約10m、幅約2.2m) 12月29日 鳥取県鳥取市気高町奥沢見海岸 遺体1体(ハングルが書かれたタグのついた黒い長袖ジャージと長袖Tシャツ、ズボン下着用。身長約170センチ、頭部はほぼ白骨化) 12月29日 新潟県新潟市西蒲区越前浜海岸 木造船の一部(長さ3m幅1.6m高さ1.43m 煙突あり) 平成30年(2018) 1月2日 新潟県村上市馬下(まおろし)地先海岸 木造船(長さ10.5m幅3.0m) 1月4日 秋田県山本郡三種町釜谷浜海水浴場 木造船の一部(長さ約8.1m幅約2m 船底及びスクリュー) 1月4日 新潟県佐渡市北田野浦 木造船の一部 1月4日 新潟県柏崎市西山町大崎地先海岸 木造船の一部(船尾部分長さ1.9m幅1.9m) 1月4日 秋田県山本郡三種町釜屋浜海水浴場南側 木造船の一部(船底部分長さ8.1m幅2.0m) 1月4日 石川県羽咋郡志賀町 遺体1体(推定年齢30~50歳・身長約164センチ・黒色系のジャンパーやシャツ、ズボン着用。ハングルが書かれたタバコ、腕時計、電池、紙束などを所持。 1月5日 新潟県佐渡市相川鹿伏 木造船の一部 1月5日 石川県白山市沖 木造船(長さ約13m幅約3.5m 船首にハングル) その後不明 1月6日 秋田県由利本荘市松ヶ崎漁港 木造船の一部(長さ4m幅約2m 白地に赤の数字) 1月7日 京都府京丹後市網野町 木造船(長さ約10m幅約3m ハングルのような文字の書かれた板が付近に漂着) 1月7日 新潟県佐渡市入桑漁港 木造船の一部 1月8日 新潟県新潟市西蒲区間瀬海岸 木造船(長さ約5m幅約1.5m) 1月8日 秋田県男鹿市野石申川海岸若美漁港南1km砂浜 木造船の一部(長さ約7.7m幅約1.9m船底とエンジン) 1月10日 金沢市下安原町安原海岸 遺体1体(年齢不詳顔などの一部が白骨化。黒色のジャンパーと青色のズボンを着用。身元や国籍の分かるものは身に着けていなかった) 木造船(遺体から15mの距離 長さ16m幅高さともに3m 船尾にプロペラ 船体にハングルや数字などの標記見つからず 船内から16日7遺体発見 船首付近に4人、真ん中あたりに3人が折り重なるように倒れていた。セーターやトレーナーを着ており目立った外傷はなかった。 金日成と金正日の並んだバッジ1個) 1月21日 新潟県粟島八幡神社から200mの海岸 木造船の一部(船尾 長さ1.2m幅1.3mのコの字型 赤字でハングル2文字が書かれていた) 1月24日 石川県羽咋郡志賀町西海千ノ浦海岸 木造船(長さ8.15m幅1.9m高さ1m平底型 船体に白く614という番号記載 コールタールのようなもので塗装、傷み激しく長期間漂流したものと推定 近くに「10465료대」と書いた木片あり) 1月24日 山形県鶴岡市湯野浜海岸 木造船(長さ5.45m幅1.5m) 1月28日 石川県羽咋市新保町(志雄パーキングエリアの北約400m)木造船(長さ5.871m、幅1.87m 船体に黒い塗料。目立った損傷なし ハングルと「9-964」の記載) 1月30日 石川県羽咋郡志賀町大津、上野の境界近くの海岸 木造船の一部。不鮮明だが「3682370」と白い文字で船体に記載。 1月31日 山形県鶴岡市マリンパーク鼠ヶ関 木造船の一部 2月2日 石川県金沢港北西約64キロ沖 木造船。船体に文字や数字とみられる表記。 2月2日 秋田県由利本荘市出戸字浜山の海岸(西目漁港北東1キロ) 木造船の一部(長さ4.5m幅約2.7m 船体に赤い字で「556-60269」と記載 2月4日 秋田県由利本荘市親川河口付近 木造船の一部(長さ約5.4m幅約1.9m 赤い数字のような文字が記載) 2月7日 石川県輪島市名舟町海岸 木造船(長さ約5m幅約2m 「760-75200」と船体に記載)  2月9日 石川県かほく市白尾海岸 木造船(船体に番号表記) 2月10日 石川県羽咋郡志賀町 木造船2隻(1隻は海士崎灯台北500m、長さ約12m幅約2m 船首部分に「505-64271」の番号記載があり1日に金沢港沖で発見された漂流船と思われる。もう1隻同灯台北約200m、長さ約5.4m幅1.5m 船尾破損 文字番号等記載なし) 2月11日 石川県加賀市美崎町漁協加賀支所から400m海岸 木造船(長さ約18m幅約5m 船首右舷に「504-66272」と記載)(300212北國) 2月13日 石川県羽咋市一ノ宮町一ノ宮海岸 木造船(長さ約7m幅約1.85m)(300214北國) 2月13日 石川県輪島市門前町池田海岸 木造船(長さ約4.35m幅約1.08m 船体にハングルと番号表記)(300214北國) 2月13日 石川県羽咋郡志賀町西海千ノ浦海士崎灯台近くの海岸 木造船(長さ約5.6m幅約1.4m 船首と船尾にハングルと番号表記)(300214北國) 2月13日 秋田県男鹿市野石字五明光海岸三種町との境から南約1.3キロ 木造船(長さ約10.1m幅約2.1m 船内にエンジンと漁網を巻き上げる機械 船体に「29488」とハングルの記載) 2月15日 石川県羽咋郡志賀町百浦海岸 木造船(長さ9.7m幅約2.19m スクリューとエンジンあり) 2月20日 石川県金沢市金沢港北西20キロ沖 木造船(長さ約6m幅約1.5m 船首に「4233」の記載) 2月21日 石川県輪島市塚田長塚田橋付近の岩場 木造船(長さ5.75m幅1.83m 無動力船)(300222北国) 2月21日 石川県輪島市門前町鹿磯漁港付近砂浜 木造船の一部(平底部長さ3.81m幅1.83m左舷側一部が残る プロペラ軸受け部金属を確認。(300222北国新聞) 2月22日 石川県輪島市深見町海岸 木造船(全長10m幅2.65m 船尾にスクリュー)(300223北國) 2月24日 秋田県能代市浅内字砂山海岸能代ロケット実験場南西約5キロ 遺体(北朝鮮との関連不明、一部白骨化した男性、身長約165センチ、着衣や履き物はなかった)(300225秋田魁) 3月6日 石川県輪島市名舟海岸 木造船の一部(全長4.5m幅2.2m遺留品は見つからず)(300307北國) 3月10日 石川県羽咋郡志賀町大島(おしま)漁港南側約180m海岸 木造船の一部(最大長5.2m 赤い数字「5129-61247」 船首に日本製ゴムタイヤを使った緩衝材)(300311北國) 3月12日 石川県羽咋郡志賀町安部屋海岸 ハングルと数字の書かれた木製標識・人民軍軍帽・究明浮輪(300313北國) 3月13日 石川県金沢市内灘海岸 木造船の一部(船首部分 長さ2.1m コールタールのような塗料・範読できない文字が表記)(300314北國) 4月17日 石川県珠洲市能登町布浦(ぬのうら)海岸 木造船(長さ6.1m、幅1.7m、深さ0.8m 船体にハングルや数字が記載)。 5月16日 北海道爾志郡乙部町 木造船の一部 5月31日 青森県中泊町小泊漁港付近 木造船
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