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#市町村擬人化
tenzaki0u0 · 6 months
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市町村擬人化 ミニキャラ
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tokyomariegold · 2 years
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2022/8/27〜
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8月27日 カスタムくんに会いに出かけた! 片道2時間の少し複雑な乗り換えを頭にたたき込んだ。あと少しのところで初めての路線乗り換え。そこでお財布を忘れていることに気がつく。え〜〜……!!と、でも、なんとも戻るしかない。そして戻ったらまた同じ道を出発する元気もないし、カスタム君の午後の部にも間に合わない。横浜駅構内にはブルーナカフェが入っていてナインチェかわいいけれど、心はすっかりカスタムくん。
合計3時間程の旅を0円でしてしまった。
戻りながら電車で日記の文字起こしをして、最果タヒの展覧会のオフィシャルブックを読む。もう1年以上私の部屋にある本だけれど、昨日、この本にマンスーンさんが寄稿していることを知り、もう一度読むことにした。
駅のホームでおじさんに話しかけられる。 私に顔を近づけて「一言、二言で終わるから!」と言われ、イヤホンを外すと「あなたは美人です。だからすてきな彼氏がいるんでしょう。そしてその人と結婚して、絶対に幸せになって下さい。」と言って、去って行った。(“絶対に”の位置が「“絶対に”その人と結婚して〜…」だったかも知れない。) 揶揄う相手を間違えている。
ヨドバシカメラで洗濯機をみる。 1人だとただの鑑賞会をして終わってしまうので友人に付き添ってもらった。ドラムより縦型の方が私の生活には合っていそう。コストダウンできた分で何かしようと思った。 友人がフィルムの現像を出していて嬉しかった。自分以外の人が写真を撮っていると嬉しい。
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8月28日 夜にライブイベントに参加する予定があり、1日を、それまで体力を保たせて帰宅後もきちんと過ごせるように時間を過ごしていた。 夜の予定が本当に苦手になってしまう。 もともと、ライブには1人でよく行っていたけれど、チケットを取った時の喜びから、そのライブが近づくにつれて憂鬱になることばかり。ライブの中身より、その時間を耐えた開放感と夜の街にいる喜びに、ライブ=楽しい、という印象をもっていて、ライブって楽しい。
でも、いつもの日曜日をいろいろ終えて、そこからお出かけするのはなんかいい感じ。みんな帰っていく中でわたしはこれから!みたいな。 途中、ディズニー帰りのお姉さんが隣に座り、携帯で新幹線を予約している様子で、これから大阪まで帰るのか〜と眺めていた。
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臨海副都心の街に久しぶりに降り立てて、しかも日暮れ時の涼しい夏の日曜の夜で最高だった。ライブ中も、外の景色とか今の空の暗さとかが気になって、元々終演までいるつもりはなかったけれど、早めに会場を後にした。 フットサルをしている人達、それ以外は、日暮れ時の公園の人達はみんないなくて、ビルの赤いランプが点々と映えていた。
夜の海沿いの首都高を眺めながら、ほとんど千葉なのでは?と思いながら、意外と日曜日もお仕事お疲れ様な人が多い、と思いながら、ライブ会場の粗悪なパイプ椅子から座って鑑賞することを想定されていない高さの舞台を見ることで痛めた身体を引きずりながら、涼しい夜を帰ってきた。
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8月29日 実家へ少しだけ帰ってみる。 母と同じ時に京都にいたらしい。近所の梨園で無人販売を始めたらしく、梨を1袋買った。ちょうどもぎ取ったところで、その場で詰めてくれる。1,000円で5,6個入っていて、1つだけ貰ってあとは実家に置いてきた。
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実家は色々家の補修を済ませていた。 庭の一部にコンクリートを打って通行しやすくしたり、かなり劣化していた木のデッキと縁側をプラスチックの擬木のデッキにして手入れしやすくしたり、施工不良でずり落ちた屋根を葺き替えたりしていた。 また駅まで車で送ってもらう。 昔、塾に行くために下車していた駅は、駅ビルがかなり充実していて、駅横のデパートはショッピングモールみたいになって格が落ちていた。
池袋のビッグカメラで洗濯機を買った! 他店で目星をつけた製品をもう一度紹介してもらい、その内、一つ前の型がかなりお買い得だった製品に決めた。満足のいく行程で購入まで漕ぎつけた、と思っていると、最後にポイントプレゼントキャンペーンの紹介(セールス?)。どこかの国の必殺技くらいにしか思っていなかった“格安SIM”のことが少しわかった。
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帰宅して眼科へ。ペッパー君みたいなお兄さんに検査してもらう。使っているコンタクトのゴロゴロがつらくて、とても毎日装着できないことを伝えると「そうですよね〜、◯◯さん(私の名前)はかなり乱視が強いので違和感はあると思います。」と流れるように答えてくれてペッパー君。「目薬や装着液を使ってもあまり軽減しなくて…」と言うと、「え…?装着液ですか…?」と人間になってしまった。装着液ってハードコンタクトにしか使わないらしい。「(ゴロゴロするのは)慣れれば感じなくなりますかね〜」と言うと「慣れませんよ〜。ずっと違和感は残りますよ。」とペッパー君に戻った。
梨の皮を剥いて、カットして、今までで1番カットされた梨っぽい造形になって嬉しい!包丁を新しくして良かった。
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8月30日 夕食のお誘いメールをもらった。 職場の飲み会が無くなったご時世でとても助かっている身だけれど、少人数の少し心落ち着ける人選の会だと、��きます!と返事をしてしまう。 (食事の席に変わりはないので、少しずつこれから憂鬱度が増していくのだろうな。) でもお誘いメールに“参加してくれると嬉しいです。夕食を取らない派であれば飲み物だけのオーダーでも構いません。ご一緒できるのを楽しみにしています。”とあり、ならば!となったのかも知れない。 基本的に、他人から気を遣われてしまうタイプだと思っていて、(こんなにしたら逆に相手に悪いかな)と不安を抱かせてしまうくらい気を遣ってもらえると嬉しかったりする。(だから、家族や身内の無礼にしょんぼりするし、いつまでも引きずったりする。)
妹と喋れていた頃、その最後の方は彼女とそんな感じの関係でなんか良かった。祖母のお葬式を中抜けして一緒に帰った時、少しお互いの近況を話して、お葬式も大事だけど、テストや課題や明日の大事なことがあるよね、みたいな話をした気がする。
上司の思いつきで明後日は都庁へ行くことになった。昼食問題は自分に正直になって乗り越えよう。
職場で2日連続で病欠した人がいて「また病んでいるんじゃないか」「お前何かしたんじゃないか」みたいな会話が飛び交っていた。 その人がお休みすることで仕事が増えることの迷惑より、ただ何か面白がって言っている愚痴に聞こえて、とっても私は落ち込んだ。
明日で8月が終わる。暑中見舞いは2通お返事が来た。
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8月31日 今日は何もなかった。 そんなことはないはず。だけど、今日は何もなかった。
9月1日 都庁へ行った。1階のエントランスの巨大なピロティが、何かの搬入口みたいな空間なのに人だけが通っていて不気味。 ロビーにはアルソックの警備ロボットがウロウロしていて可愛い。 ずっと閉鎖されていた45階の展望室は、なんと今日から再オープンのよう!警備員のおじさんが「ちょうど今日からなんですよ。」と教えてくれる。 用務まで東京観光案内所で23区と市区町村のパンフレットを眺めて、再来週行く予定の府中市のお散歩マップを手に入れた! 隣は全国都道府県の観光マップが揃っていて楽しい。月替わりショップは今日から山梨県で、オープンしたてなので信玄餅の入荷数を数えていた。
用務が終わり、昼食に行くみなさんを見送って展望室へ。新宿から眺める東京は、何かありそうで、特別何もなくて、意外と住宅街が細々とよく見える。 誰でも弾けるピアノに人がたくさん並んでいて、代わる代わるに上手に演奏していた。みなさん力強いタッチ。
午後から職場へ戻るため、中央線に乗る。 平日の昼間の中央線っていろんな人がいる。ビンテージっぽいTシャツとキャップ、短パンにサンダルを身につけて、手にはフライトの本があり、昨晩の音楽イベントのストーリーを投稿している男の人がいた。
職場に戻ると、昼食をとれない、人前で食べられないことを、また今日も明るみにしてしまい、そのことを話されているな〜小声で遠くで、というのを察知したりした。あと都庁のどこかに傘を忘れたことに気がついた。
帰り道で稲妻を5回見た!
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9月2日 聴く・見る・読む、何を受け取っても、どこかで気持ち悪いレーダーが働いてしまう日。何も聴きたくない見たくない読みたくない。なので、自分の頭の中で健やかな都合の良いイメージやストーリーを流していた。
今日も何もなかった。 でも、以前同じ部署だった方にばったり会って「相変わらずかわいいですね〜」と言ってもらった。 「ヘッドホンおしゃれですね。」と言ってもらい、でもただのファッションなんです、ファッションといえば◯◯さん(相手の名前)のメガネっておしゃれですよね、といつも思っていたことを伝えることができた。「眼鏡はね、こだわりがあるんです。」と言っていた。眼鏡市場で買っているとのこと。
掃除をして爪を切って写真を撮って梨を剥いて花の水を換えて鏡を磨いてお香を焚いて洗濯をした。
場所性の本に、写真や芸術作品を作る人は場所のアイデンティティの要素をダイジェスト的に捉える、みたいな文があり、ある作家は、以前住んでいたプレーリーの土地を、グミの匂いの中に見出した、とあって、その作家の作品を観たくなった。
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toshiki-bojo · 20 days
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「虚子への俳話」171
「花鳥」令和5年5月号より転載
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  「驚く俳句」
 驚くとは、「思いがけないことにあって、落ち着きを失う、びっくりする」『大辞林』  とある。兎に角、意外なことに遭遇すると人は驚く。いや動物や昆虫も驚く。生命体の防衛本能なのだろう。
 つまりそれはとても大切な生命維持の本質なのである。故に俳句としてもしばしば「驚く」俳句に出逢う。そして共感する。
  新涼の驚き貌に来りけり 虚子
 明治四十一年八月十四日蕪むし会。第七回。寒菊堂。
 面白い句であるものの、理解に苦しむところがある。「驚き貌」とはなんぞや。一般的には人々が新涼の気配に驚く貌であろうが、この「貌」は「がお」と読ませるらしい。となると、この新涼は新涼という擬人化されたもの自体の驚いた貌であると考えられる。新涼の驚いた貌とはなんぞや。新涼というのは概念である。概念そのものが驚いた貌を思うと、よく天気予報などで高気圧が真っ赤な貌をして怒っているような絵を使う。このようなものでなかろうか。この場合、その貌は涼しげなびっくりしたような貌となって、町を支配する。虚子の句もたまにはこんな戯画チックなものもあってよろしい。
  新涼や豆腐驚く唐辛子 前田普羅
 この句がなんとなく似ている。虚子の句よりわかりやすい。新涼の季節になっていよいよ食欲も増進するころ、冷奴かなにかの豆腐自身が乗せられた唐辛子に驚いている。むろん、それを食べた人間もその辛さに驚くのであろうが。虚子もこの句を『進むべき俳句の道』の中で、同様の解釈をしている。
  秋立つや何に驚く陰陽師 蕪村
 その中で、虚子は類似の句としてとりあげている。しかも、この蕪村の句を普羅の句より一歩進んだ句として陰陽師が豆腐(隠れた食材として陰陽師豆腐という存在を暗示していはしまいか)に驚くほど、市井の人もまた豆腐の辛さに驚いたということを言っている。とにかく「驚く」この三つの句は、どれをとっても驚かされる。中でも虚子のそれは、明治の虚子の神仙体のながれをくむように、虚構と飛躍に充ち満ちた自由闊達の句として『五百句』にも収録されたのには意味がある。
  鎌倉を驚かしたる余寒あり 虚子
   大正三年
 こんなのもあるが、これは普通の解釈にして鎌倉全体を描写したごくまっとうな写実の句に、驚くという主観の味付けをほどこした。大正三年のころには虚子もまた俳句に復活し、その王道回帰をしようとしていたのがよくわかる。
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divedam · 3 years
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京都市(仮)
そのうち清書します。
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shihlun · 2 years
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作為風景的城市(松田政男)
(1970)
真是奇妙的祭典。說是祭典,當然有神輿也有山車,因而醞釀出了其特別的華麗氣氛。由神主帶領的祭禮一行,接連引來了周邊的孩子們,向著這個地方城市狹小的中心部略高處被祭祀的神明的神社邁步前進。注意到某個極小事實的瞬間,拍攝這次祭典的我們無法抑制地捧腹大笑起來。雖然沒有地方城市的這種祭典所應該特有的遊客的身影,但是,這個小小的祭典的隊列,卻在我們失禮的哄笑之外,作為一年一度的盛夏的儀式靜靜地前進著。
我們哄笑的原因,是因為祭典的隊列是模仿諸侯出行的陣仗(大名行列)而形成的。典型的那種由毛槍朝天高舉,腳步一致,喊著「向前、向前(下ニィ、下ニィ)」的人打頭陣,搬文箱、長持的人隨後,著裃服騎馬的武士威嚴地緊跟著,簡單來說,我們聽到「大名行列」這個詞時所喚起的意象,完整地,完全像畫出來一般展現出來。不對,定睛一看,還有一群穿著只能認為是公卿裝束的男人。像前述所說,有在每個路口立定、進行除災儀式的神主,有神輿和山車,有笛子和大鼓,什麼都有。有的是我們從小在現實生活中或者畫像和影像中慢慢熟悉起來的,「祭典」的全部的類型。然後,沒有的是「祭典」所一定會伴有的「狂熱」。
那是北海道的北邊,面對鄂霍次克海的網走市。為何網走神社的祭典中會有大名行列呢?這個單純明快的疑問,與其說是我們哄笑的原因,不如說是我們怎麼也沒法不去注意的地方。不用參考網走市役所發行的《網走小史》,我們也知道這裡有原住民鄂霍次克式陶器人的遺跡與遺物,四百年以前起是江戶時代的阿依努期,是阿依努人居住之地。不用說,在松前藩的經濟支配,幕末由於軍事需要而來的幕府的政治管理的過程中,也有與日本人的來往。但是,日本人大量渡來還是在一八八〇(明治十三)年網走村設置郡役所之後的事情。因為四年後開設了小學與寺院,土地神(鎮守)的神社的創立,也自然應該是那之後的事情。
具體的歷史上從未存在過大名行列的北方城市的祭典裡,突然出現了魔幻的大名行列這件事情,對我們來說,是應該在最初的殖民者的記憶中作為遺制殘存下來的強烈的共同性中尋找嗎?我在這裡,比方說,應該也可以像《網走小史》一樣,用下面的方式,引用阿依努人原住民樸素的祭典原型,將本土的民俗與殖民者的民俗的競逐過程作為考察對象:
「為此處報春的最初的訪問者,是乘著流水而來的海豹。在冰川間的縫隙中進行的獵海豹,足夠滿足了自然的孩子的冒險的心。部落的人們,每到此時期就會乘舟靠近帽子岩,在島上設立祭壇,以幣束裝飾。一族之長對著海的方向祈禱漁業豐盛。⋯⋯帽子岩是將阿依努族的生活與神連結在一起的聖地,因此人們都將這座島稱為『充血(チバシリ)』。」
但是,我們至少在這裡,與這個名為網走的地方小城市的祭典儀式活動毫無關係,只能確定這不過是在各種意義上對中央大城市殘留的傳統祭典的最壞意義上的模仿,並將其傳達出來而已。今天,聖地「充血」不過是一塊僅僅保留了網走名字來源的記憶的奇形怪狀的石頭。而且,正如我之前所述的,網走神社祭並沒有遊客的身影的事實所示,對於這種將邊境的遺制破壞地體無完膚的直接從中央輸入的祭典方式,關心的人寥寥無幾。夏天來到網走的年輕遊客反而都在參觀離網走神社最遠之地的網走刑務所。今天,網走的聖地連名字都變成了網走番外地,其所祭拜的神,也變成了電影演員一般的存在的同時,從空洞的大名行列中讀出了強烈的諷刺的,難道真的只有我嗎?
話說回來,說到敘述的順序,這裡應該簡單提及一下我們在這裡偶然遇見網走模仿的祭典活動的攝影旅行的目的。一九六九年從夏至冬,我與很少的幾個朋友一起,追隨一名少年的足跡做了一部紀錄片。六九年末勉強工作告一段落的這部電影,以「去年秋天在四個城市用同一把手槍發生了四起殺人事件今年春天一名十九歲的少年被捕他被稱為連續射殺魔」為片頭字幕,「一九六八年秋天在四個城市用同一把手槍發生了四起殺人事件,一九六九年春天一名十九歲的少年被捕他被稱為連續射殺魔」為片尾字幕,包含了一小時二十六分的結構。如其所示,是關於「連續射殺魔」永山則夫的電影。網走是永山則夫出生、度過了幼年的地方。
這篇文章並非是要直接介紹我們的電影,但是作為完全追踪了永山則夫廣泛的足跡的結果,經過了北海道、東北、關東、東海、近畿等各大城市,根據我自己四個月的體驗,我不能不談對於出生於網走市郊呼人番外地、長於網走市內的永山則夫五歲時全家搬至的青森縣北津輕郡板柳町的印象。而且不得不說,我在這個地方小鎮感受到的是和網走完全相同的印象。我們當時看到的是明顯磨滅了地方的獨特性,只能稱作是中央的複製的同質化的風景。殖民城市網走,本土城鎮板柳,再誇張一些說,中央都市東京,在我們的眼中都以毫無差別的相同的面貌出現。
然後,不知怎的,好像不止我們,還有別人也有同樣的經驗,在北國陰暗的風土中尋找永山則夫犯罪的原因,卻被大大地欺騙了。說起來,某位電視人曾這樣記述這個兩萬三千人的小鎮:
「永山則夫一被逮捕,報紙和電視就迅速動員學者、作家、評論家們創造他的形象。……這些知識分子中最有說服力的,是同樣出身青森、有同樣遭遇的詩人、地下劇團主宰者T氏的發言。他將永山則夫形容成在東京沙漠徬徨的都會吉普賽人,令其抱有噩夢般的殺意的,據說是養育了他的『北國的荒涼的天空』。……但是,離上野十三個小時的板柳的天空卻明亮得令人訝異。沒有霧霾的明亮的藍天下,岩木山閃耀著銀白色。……」(《紀錄片青春》自由國民社刊行)
這位紀錄片作者,在直率地敘述了「荒涼的北國」的形象的破壞後,舉出了城市的豐饒的各種數據。比他晚三個月,已經過了春天而在夏天拜訪這座城市的我們,已經如前述有著和他相同的見聞。青森出身的詩人「T氏」(即寺山修司)大概可以斥責我們,認為這些感想乃作為一群不負責任的遊客的,即時且隨便的感想。的確,並未體驗到寒冬的津輕的我們,並沒有「荒涼的北國」的意象。但是可以說,我們的遊客之眼,與只能看到「中央=豐饒」、「地方=荒涼」之刻板印象的地方出身的半調子知識分子的眼,恰好形成了對照的兩極。無論是中央還是地方,都市還是邊境,「東京」還是「故鄉」,現在都只有等質化的風景。我們即使是看到了津輕平原的廣漠上連綿的蘋果園,也絕不會想到綠色的森林,而只能看到令我們聯想到我們灰色首都所散佈的污染的農業。不用說,「荒涼的天空」也是稱呼我們霧霾漂浮宙天的名字。
因此,我們在鄂霍次克沿岸的東北的平原,也沒能發現或許孕育了永山則夫的「故鄉」。不如說我們看見的不過是縮小版的「東京」。永山則夫小學時代居住的板柳町一角稱作入福住宅的小型貧民窟,大概也可以指定為東京的任何一處。谷川雁說「不要去東京,創造故鄉吧」之時,那種作為前提的「東京」對立於「故鄉」的圖式,在六十年代的死胡同中,終於不再是有效的事實,我們必須去確認。我們壟斷的高度成長,難道不是表現出日本列島作為一個巨大的都市,每天都在往一個同質化的方向發展嗎?
無需說,從資本主義經濟法則的側面,將永山則夫作為地方年輕人口向城市集中的典型事例說明,也不過是將其拉入客觀主義的大網。如此,他是在響應寺山修司「離家出走的建議」,捨棄了「故鄉」而到了「東京」來嗎?恐怕要揚棄谷川雁與寺山修司兩方的高談闊論,才有真正的答案。即,無數的永山則夫,無疑是想要前往「東京」,創造自己的「故鄉」的。正是在「東京」,才有他們所尋找的原初的東西。要說為什麼,對於他們來說的「故鄉」,不過是「東京」的模擬而已。他們對於「東京」所注入的狂熱的凝視,只能說是在不可見的領域中雕刻他們的真正的「故鄉」了。去往「東京」之旅,即是去往他們的原初世界的旅行。他們一刻不停地在進行著,與在偏僻地方和離島中找出現在的我們的過去的祖型的民俗學者方向完全相反(vector)的旅行。
從這件事來說,「離家出走的建議」的提倡者寺山修司,對於永山則夫的流浪,初看上去似乎以同情者的身份浮現,但當他結論出「人被歷史拋棄時,就會援用地理」這一巧妙的宣言時,就不自覺陷入了寺山自己排斥的「歷史性的思考」了。寺山修司著作中對於永山則夫的結論,不過是道學家式地指責其缺乏「思想的力量」、「想像力」,以及「戲劇性的想像力」而已。寺山修司從未將自己的想像靠近這一現實,即永山則夫(們)其實正是僅通過「地理」上的流浪,這群下層社會的無名大眾才能創造出他(們)「歷史」上的定在。雖然寺山說「為了判別一個行為是英雄性還是犯罪行為,過多的『狀況論』將我們緊緊束縛」,但在與「狀況論」甚至「情況論」無關之處,即便是針對將「行動的力量」而非「思想的力量」作為動力而生存的人們,以提昇道德的口吻高談「想像力的復權」,恐怕也不會有任何成果。
「歷史」還是「地理」的二選一思考方式,正是深深刻在提出者內部的歷史性思考方式,這種思考方式的所有者將其直接轉移至地理上的思考。即,在他的腦中,以他的「想像力」放上一張日本列島的空白地圖,在上面填上永山則夫流浪的足跡,最後所得到的也就是這麼多。此一永山則夫之旅,只要在某種「原初世界之旅」的前提上,便設想能透過連接他曾經過的外部世界的地點,便會浮現出其內部世界的地圖,並設想大概會出現奇形怪狀的景象吧。           在這裡,還是先交代永山則夫流浪的記錄和分期。這也同時是我們的旅程——
網走市郊外—網走市內—板柳—(離家出走)弘前—青森—函館—板柳—(離家出走)山形—福島—板柳—(為了集團應聘上京)
東京·澀谷—(辭職、秘密出航)橫濱—名古屋—香港—橫濱—小山—(就業)宇都宮—(以下各地流轉)大阪—守口—東京·羽田—川崎—橫須賀—川崎—東京·淀橋及東中野—池袋—巢鴨—小田原—熱海—名古屋—大阪—神戶—(秘密航行)橫濱—東京·練馬—西荻窪及東中野—板柳—東京—長野
橫須賀—東京·池袋—(以下各地流轉)芝—京都—橫濱—東京·池袋—函館—小樽—札幌—函館—名古屋—橫濱—東京·新宿及中野—橫濱—東京·原宿
第一次流浪的分期十五年,第二次的分期三年半,第三次的分期為半年,有各自的長度。可以視作成長、生活、犯罪三個不同的階段,各自的分期在空間擴大的同時,表現出時間上的反比關係,應該是很容易注意到的。日本列島對於永山則夫,不正是作為某種非歐幾里��空間(non-Euclidean space),奇怪地歪曲、溶解、流動嗎?然後,即使這樣還,或者說正因如此才,應該點出的是沿著永山則夫的軌跡而再現了四個月間橫貫列島之旅的我們的眼睛,看見的是已經敘述過的,所有的地方或邊境的街道上映出的,作為同質化了的風景出現的景象。
追尋已經失去的原初的「故鄉」之旅,常常以無論去何處發現的都是相似的風景而告終。種村季弘在最近的文章中,以模仿本雅明的口吻敘述了「將陌生的城市認作出生的城市,將出生的城市認作陌生的城市的反向透視法(逆遠近法)」(《都市》創刊號),而我們的日本列島所有的,恐怕無疑是「陌生的城市」與「出生的城市」之間生長出的,無可救藥的時間和空間的扭曲所呈現在眼前的風景的同質化而已。這種風景如今無法代換成自然、風土之類的詞語,因為這種風景,是天然與人工突兀地對撞、裁剪下的產物。就如同以前在《薔薇與無名者》(芳賀書店刊行)中斷言的那樣,永山則夫沒有終點的「原初之旅」,必然是「為了將風景割裂而射發了子彈」。
我們在永山則夫的紀錄片的攝影過程裡,首要任務是反覆深化我們的視角,藉此嘗試捕捉作為風景的日本列島,除此之外一無所知。即使是同樣的旅程路線,我們所經歷的時間與空間仍不同於與永山則夫的軌跡。如果在兩者的時空中提煉出某種元素,那就真的變成風景了,就像繪畫一樣的,澡堂中的巨大筆劃一樣的,毫無掩飾欺騙(何のケレン味もない)的風景本身了。我們似乎在摸索與本雅明評價二十世紀初無名攝影家阿傑(Atget)所致力捕捉的「捕捉巴黎無人的街道的風景」,與下面的格言所述恰相反的循環:
「都說他以拍攝犯罪現場的方式拍攝風景,也的確如此。犯罪現場並沒有人通過。攝影是為了創造間接證據。照片經由阿傑,開始變成了歷史過程的證物。」(《複製技術時代的藝術》紀伊國屋書店刊)
我們與阿傑相反,是以拍攝風景的方式拍攝犯罪現場。雖然本雅明認為「對於群眾,城市有時是風景,有時是房間」,我們的攝影機之眼所看到的,只有「作為風景的城市」,而從未能到達「作為房間的城市」。這恐怕處於一種我們被周圍敵對的狀態,但與喜歡言必稱「狀況」或「情況」的知識分子的語彙不同,這說不定是可以從外側的物質性去感受到,一個除了風景以外、本身一無所有的下層大眾的唯一方法。無需贅言。只需強調我們所嘗試的,是透過風景去直接面對他的,或我們自己的,那個「不可見的故鄉」。
因此,我們在旅程的終點,在永山則夫數次返回的「東京」——可以視為來自邊境、不斷流浪的下層大眾之「故鄉」原型的這個混亂的巨大都市中摸索。然而,在我們的首都,是否曾經有過從那個地方城市的「祭典」所缺失的原初的狂熱呢?無需說,是不可能的。十月末秋季的某一天,通過新宿街頭的那次稱作「新宿祭」的空蕩蕩的遊行,我們恐怕永遠也無法忘記吧。在那幾天前,由某個宗教團體的鼓號隊帶領通過的祭典隊列,竟然成為了某種電視綜藝節目的絲毫不差的仿寫物。竟然將自己生出的媒體的「影子」模仿了個徹底,這個悲慘的本體!與此對應地,這裡化作了一個人影也沒有,只有機動隊的制服與自警團的私服非常顯眼的,彷彿戒嚴令下的死亡的街道。或許,那甚至不是風景,而是風景的葬送。「噓,安靜點!葬禮的隊列要從你身邊過去了。將你的雙膝跪地拜倒吧,唱起送葬的歌謠吧!」(Lautréamont)
然而,追尋更加原初的東西而帶著初生的能量加速度,嘗試在「東京」中實現「故鄉」的下層大眾,大概並不知道該去向何處吧。厭倦了模仿的祭典,慢慢看清了「東京」的背叛,他們像列斐伏爾評價巴黎公社那般,在「『祭典/節慶』之風格即公社的風格」之意義上,為了追尋一種真正祭典的狂熱,於焉開啟了沒有終點的「旅程」。這次,為了寫這篇稿子,讀了一些城市規劃與建築專家的都市論,其中唯一不停激發我思考的,是水木薰針對羽仁五郎的激進批判,說起來,水木薰是如此評價這種「旅程」的原初型態的:
「……他們輕易地擺脫了來自家庭與地方的權力束縛,獲得自由。然而,這種自由卻是透明危殆、難以依賴的。他們在巨型都市(megalopolis)中開始了浮游的生活,那甚至能不能稱之為生活呢?與這樣的社會底部的流動相比,希臘有拱廊(agora)的城市,而文藝復興時有據說是基於市民之自由與平等建造的的城邦國家,與此相比,他們有多麼不加思索或無能為力,只要考慮其流亡之劇的各種苦痛就十分清楚了。日大鬥爭,在某種意義上來說,可以視作是捨棄了故鄉的貧窮的年輕人,對大都市東京的反抗吧。失去了目的地的地方中小城市的中小工商業者的孩子們,如果不是不停地叛亂,甚至無法生存下去。」(《革命與烏托邦》芳賀書店刊行)
「捨棄了故鄉的貧窮的年輕人」,是在「對大都市東京的反抗」中,實現他們真正的故鄉的。水木薰的都市論的優越之處在於,不在歷史或當代的標準上為城市定位,而是從生成、爛熟、死滅的具體的運動過程中找到其位置。這是比吉本隆明提出的暗示性問題「城市何以為城市」更進一步,是「城市何以不再是城市」的一種反問。啊,城市的死滅!拒絕無名大眾所不停上演的「流亡之劇」在地方和中央、農村和城市、邊境和首都等等近似的兩分法中彷彿達成了的虛假的上升的錯覺,反而能夠直視,追溯人群的「原初」旅程,其實僅是意味著從下層到下層,從底部到底部,從貧民窟到貧民窟的移動,這不正是唯有能夠提出此種論斷,看清這一事實的透徹視點之人,才首先能從口中吐出的詞語嗎?
那時,他就不再會將城市視作風景,而是將激進地貫徹城市作為房間的屬性了。
我在這裡突然想起了雷吉斯·德布雷(Régis Debray)將城市稱作「可居煉獄」的苦澀發言。不用說,德布雷是在將討論範疇小心謹慎的限定在「與苦惱於人口集中的亞洲歐洲大城市相比的⋯⋯加勒比海諸城市」,即使知道這一點,不妨讓我們再仔細看看吧。
「住在城市裡的人們,即便是同志,與游擊戰士比較起來也在不知不覺中慢慢變成了市民階級。他們對於自己的行為,即餐飲、睡眠、移動等生存所要求的物質的艱苦為何物,已經不能理解了。游擊戰士是靠自己,用自己的手,自然地製造物質的,而他們已經不具備維持生命的手段了。城市人僅僅作為一名消費者存在。……對於每個人來說,人生都是不平等的,被給予的事物。人生作為完成的商品,在商店裡排成一排……雖然常說,我們泡在社會生活的浴缸裡,但是泡太久澡對於身體也是不好的。要理解這個不溫不火的孵化器,在多大程度上令人類發育不全,令人市民階級化,僅有一種方法,那就是跳出這個孵化器。」(《革命中的革命》晶文社刊行)
雷吉斯·德布雷在這個意義上,將「城市」作為對立面,將游擊戰士的真正的故鄉認定為「山地」。能嘲笑這種關於第三世界的斷言肯定命題式都市論的教條性和形而上性,是一件幸運的事情。我們生活在高度壟斷集中的核心,身處於日本列島整體化作一個巨大城市的變化轉型期裡。毋寧說,對我們而言,可以回歸的「山地」是不存在的。但是,我們在將城市佔領、解體,作為我們共同空間的革命長期戰爭中,如欲作為一名游擊戰士而生活下去,則必須在這個「可居煉獄」的正中間,立起我們所認定的「山地」。身在日本這個懷有對第三世界掠奪與殺戮原罪的、反革命的「祖國」,我們別無他法,只能竭力將此一煉獄實現為靈魂的淨化場。
正如各種「未來」學者與其亞流所奉上的漫不經心讚辭那般,據說我們正在進入的本世紀最後二十年,可預測的長期投資額累積達到五百兆元。在考慮戰後二十年國民生產總值上升至世界第三位的日本資本主義,在這個列島上投下的資本總額已經不能以三十兆而是以五十兆元來計算的事情時,接下來二十年的十倍投資,將無疑進一步促進日本列島巨大的城市化。然而我們不能將這份壟斷的奢昂攻勢視為日本帝國主義起飛的暗號,而要將其當作耳邊的喪鐘來聽。我們已經跟上了在風景的同質化中,從一個城市流浪到另一個城市的無名大眾的足跡。他們決沒有「主張真理是屬於自己的。他們從未『說出』自己代表了真理。因為他們『就是』真理本身。」(弗朗茲·法農)我們恐怕初次見證了我們下層無產者形成階級的轉型期。他們以流浪的存在形態佔領都市,作為資本主義的掘墓人,開始慢慢浮出水面。
「不可見的故鄉」在對真實的祭典的不斷試錯中將徐徐浮現。「必要的是在暗中突然出現的偶然的縫隙。只要有『縫隙』,人類就可以開始一些行動。人類是在自己的慾望相互碰撞、混沌的雜亂(chaos)裡生存著。」水木薰此處道破的條件,不可避免地將要到來。
必要的不是對下層大眾進行什麼「戲劇性想像力的復權」的說教。我們自身必須開始,邁向一趟為實現我們自身真理而戰鬥的,超越風景的旅程。
松田政男,風景としての都市
『風景の死滅』1972年1月20日
參考翻譯:1、2
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23kunomamorigami · 6 years
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立川
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tenzaki0u0 · 6 months
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市町村擬人化まとめ
巻→かしかり→栄→中之島→西区
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2ttf · 12 years
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takehiroiikawa · 5 years
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DECORATOR CRAB Arrangement, Adjustment, Movement
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A-Lab Exhibition Vol.16 飯川雄大個展
デコレータークラブ 配置・調整・周遊
DECORATOR CRAB Arrangement, Adjustment, Movement
2018年12月15日(土)-2019年2月3日(日)
開館時間=(平日)11:00-19:00、(土���日・祝)=10:00-18:00
休館日=火曜日(ただし年末年始12/29-1/3は休館)
入場料=無料 
主催=尼崎市 
共催=園田学園女子大学
協力=ベイ・コミュニケーションズ
助成=公益財団法人 神戸文化支援基金
会場=あまらぶアートラボ A-Lab
A-Lab: 兵庫県尼崎市西長洲町2丁目33-1(1Fは市立西長洲保育所です)
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飯川雄大は、時間の相対性や知覚のゆらぎに着目し、映像、写真、立体などを用いた作 品を制作してきました。これまで、24 時間にわたり街の風景を定点撮影した作品や、サッカーのゴールキーパーがボールから遠く離れた時にどういう動きや表情を見せるかに注目した作品など、他愛のない風景や周縁にあるものを注意深く観察することによって、日常から見過ごされているものを掬い上げ、中心をずらした世界を差し出します。
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本展のタイトルである「デコレータークラブ」とは、周りにある海藻や小石などを身につけて擬態する蟹のことで、飯川はこの蟹を「衝動とその伝達」にまつわるモチーフとし て様々なプロジェクトを行ってきました。デコレータークラブを見つけた時の様子を語る 5人のインタビューで構成した映像作品《衝動とその周辺にあるもの》では、衝動の本質とは何か、そして眼差しの共有の難しさを提示しながら、その別の可能性を探っています。
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私たちは普段どのように、場所や空間を認識しているでしょうか。今回の「デコレーター クラブ 配置・調整・周遊」では、元公民館のA-Lab の構造を使って、事物の全容を断片から想像していくプロセス自体の作品化を試みます。飯川によって巧妙に仕掛けられた「衝動と伝達」を知るための装置を通じて、この世界が周縁の集積によってできていることに触れる時、私たちの視線は新たな広がりを得るのかもしれません。
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(photo: Mugyuda Hyogo)
【アーティストプロフィール】
飯川雄大(いいかわ たけひろ)
1981年兵庫県生まれ。成安造形大学芸術学部情報デザイン学科ビデオクラス卒業。主な展覧会に「ゲンビどこでも企画公募2017」(広島市現代美術館・2017)、「KAAT EXHIBITION 2017 −かたり(語り/騙り)の空間−」(KAAT 神奈川芸術劇場・2017)、「ひとりはみんなのために」(アンテルーム京都・2016)、「遭遇するとき−Happening Upon−」(滋賀県立近代美術館・2013)、台北国際芸術村(滞在制作・台湾・2018)など。
www.takehiroiikawa.com
関連イベント
本展覧会期中に、キュレーターやアートプロジェクトのディレクター、建築家など第一線で活 躍されているゲストの方々を迎え、飯川雄大とのトークイベントを行います。トークは全3 回を 予定しております。3 回連続で参加いただきますと本展覧会をより深く、より面白く感じることが できるのではないかと思います。ぜひ、足をお運びくださいますようお願いいたします。
★トークにご来場いただいた方には限定オリジナル缶バッチ(57mm)のプレゼントあります。
アーティスト・トーク(全3回)
※各回定員先着30 名、申し込み不要です。直接会場(A-Lab)へお越しください。
※トーク開催中は、会場の都合により一部作品を通常通り見ることができなくなります。あらかじめご了承ください。
第1回目「配置・調整・周遊」 (終了しました)
日時: 2018年12月23日 14:00~15:30  
ゲスト: 槻橋 修(神戸大学准教授、ティーハウス建築設計事務所)
            林 寿美(アートプロジェクトKOBE 2019:TRANS ディレクター)
本展覧会のサブタイトルになっている「配置・調整・周遊」をテーマに、出展作品について語り合います。 それぞれの専門性から空間や鑑賞についての新しい解釈が生まれそうです。三者の異なる視点が交わるとき、 どのような視界がひらけるのでしょうか。
第2回目「デコレータークラブ」
日時:2019年1月26日(土)14:00~15:30
ゲスト: 椿 玲子(森美術館 キュレーター)
椿氏は、これまでいくつかの展覧会で飯川の作品を取り上げる機会があり、長年、飯川の活動を見守ってきました。2019 年2 月9 日から森美術館で開催される『六本木クロッシング2019 展:つないでみる』でも《デコレータークラブ》の展示に関わっておられます。飯川の作家としての歴史を深く知る椿さんに、飯川作品の魅力や変遷についてお伺いします。
第3回目「小川さん! これからどうしていきましょう!!」
日時: 2019年2月2日(土)14:00~15:30
ゲスト: 小川 希(アートセンターオンゴーイング ディレクター)
東京のオルタナティブアートスペースArt Center Ongoing ディレクター の小川希さんをお招きします。飯川は2013 年にこのスペースで滞在制作を行い、デコレータークラブを発表しました。滞在中、小川さんと作品の話を重ねたことが今の飯川の制作につながっており、当時から現在に至る過程をアップデートしていきます。デコレータークラブはこれからどうなっていくのか、原点から知る小川さんへの公開相談会です。
【ゲストプロフィール】
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槻橋 修 (つきはし おさむ)
1968年富山県生まれ。
2002 年 ティーハウス 建築設計事務所設立。2003 年から2009 年9 月まで、東北工業大学工学部建築学科講師。 2009 年10 月より神戸大学准教授。
2009 年、 日本建築学会賞(教育)共同受賞。主な作品に、 新潟県十日町市・清津川プレスセンター「きよっつ」(2009 年)、「三宮BOS」アートワー ク(2011 年)、東日本大震災復興支援「失われ た街」模型復元プロジェクト(2011 年) などがある。
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林寿美(はやし すみ)
1967年神戸市生まれ。
国際基督教大学教養学部卒業後、1989 年より 川村記念美術館(現・DIC 川村記念美術館)に勤務。同館で企画した展 覧会に「なぜ、これがアートなの?」、「眠り/夢/覚醒」、「ロバート・ ライマン」、「ゲルハルト・リヒター」、「マーク・ロスコ」など。2010 年「第14 回アジアン・アート・ビエンナーレ・バングラデシュ」日 本コミッショナー。
2012 年に同館を退職後、「ヨコハマトリエンナー レ2014」のキュレーターを務めたほか、「Robert Frank: Books and Films, 1947-2017 in Kobe」(デザイン・クリエイティブセンター神戸)、 「トラベラー まだ見ぬ地を踏むために」(国立国際美術館)の企画をは じめ、内外のアート・プロジェクトに携わる。現在は来年神戸で行われるアート・プロジェクトTRANS- を準備中。
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椿 玲子( つばき れいこ)
京都大学大学院人間・環境学研究科創造行為論修士、パリ第1 大学哲学科現代美術批評修士修了。
2002 年より 森美術館所属。サスキア・オルドウォーバース(2008)、ホー・ツーニェン(2012)、ヤコブ・キルケゴール(2013)の小企画の他、「医学と芸術展」(2010)、「シンプルなかたち展」(2015)、「宇宙と芸術展」(2016)、「レアンドロ・エルリッヒ展」 (2017)、「MAMリサーチ006:ダイヤモンズ・アー・フォーエバー、アートスケープ、そして私は誰かと踊る」などを企画・担当した。現在、「六本木クロッシング2019展:つないでみる」を企画中。
美術館外でも「隠喩としての宇宙」(京都、2012)、「Duality of Existence: Post Fukushima」(NY、2014)など を企画したほか、執筆・講演活動も行う。
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小川 希(おがわ のぞむ)
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over-sleep · 6 years
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出身を県名ではなく市町村名で答える人の心理(※都道府県擬人化)
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出身を県名ではなく市町村名で答える人の心理(※都道府県擬人化) ( 一二三@四十七大戦3巻発売中さんのツイート )
(;´∀`) 兵庫県民ですが、確かに県名より、もよりの市で紹介しますね(汗 各所のウリというか、わかりやすい地域性が広域で多様だからかな・・・
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【石川県謡曲古跡めぐり能登編】7箇所目 番外編その2  2021/3/23
須受八幡宮の能舞台
《石川県珠洲市正院町》
 能登地方で唯一と思われる能舞台を持つ須受八幡宮は、珠洲市正院町の町中に鎮座しています。由緒によれば陽成天皇の御世、元慶7年(883)4月、海辺鎮護の為、山城国男山・石清水八幡宮より勧請の社として、須受八幡宮と称しました。
 当神社には鎌倉時代後期(1200)頃より猿楽が興り、中世末期には金春流の神事能が奉納されていました。加賀藩時代には前田利家公の格別の配慮により、鳳至郡諸橋村前波の人、諸橋権之進を遣わされ、宝生流神事能となりました。この神事能には毎年金沢より能太夫および警護人12名が派遣されたため、これを迎送のため表敬の意味の、道中行列を擬した「奴振り」を創設し、この行列は今でも続いて行われています。祭礼は9月15日との事です。
 この、能登で唯一の野外能舞台は、鎌倉時代より連綿と神事能が行われてきたと云われています。舞台には寛文12年(1672)と、文政2年(1819)に再建の記録があり、明治後期に現在地に移ったとの事です。神事能は明治初年より次第に衰退し、明治30年に完全に無くなりました。
 平成11年にここで演能がありました。一年だけの神事能復活。
#能楽 #能 #Noh #申楽 #猿楽 #狂言 #風姿花伝 #世阿弥 #芸術論 #幽玄 #歌舞劇 #演劇 #能面 #マスク #文化 #旅行 #トラベル #名所旧跡 #神社 #寺院 #像 #碑 #巡礼 #古跡 #謡曲 #福井 #能登 #伝統 #Travel #GoTo #ruins #wreckage #能舞台 #加賀藩 #前田家 #加賀百万石 #stage #Shrine #temple #torii #a-Noh-stage #能舞台
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xf-2 · 6 years
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議場にて「朝鮮学校」について言及し答弁を求めることがどれほどの覚悟を要するか、想像できるだろうか。言うは易しだが、”様々な圧力”がある中、公式の場で発言することがどれほどのことか理解できるだろうか。 自らの意思で選挙を戦い、皆様のお力添えを頂いてバッチをつけているわけだが、それに相応しい覚悟を持っている者は多くはない。また、能力も併せ持っている人材となると、さらに人数は限られてくる。
東京都において【朝鮮学校への補助金がカット】された。これは議会において一般質問が行われたからなのだが、その時にタイトルは『朝鮮学校への補助金全額削除を』というもの。これは、東京都議会の議事録に未だ公開されている。その際に質問に立った都議会議員が、吉田康一郎氏である。
6月3日告示の中野区長選に出馬の意向を示している。
吉田康一郎、その能力は凄まじく、行政側としても充分に通用するものだ。私のように、質問側で斬り込むことのみに長けた者は(つまり突破力や攻撃力、専門色)、議員が似合っている。だ���、答弁する側の行政となると、また異なる能力(総合力や防御力)が求められてくる。保守系において、この能力を有する者は少ない。 実際に、朝鮮学校の予算が凍結された際の議事録を紹介する。
その伝説の質問は、平成22年第4回定例会 一般質問にて行われた。 警視庁とは、東京都を管轄する警察組織だ。そのため、東京都議会では答弁者には警視総監が立つわけだが、「朝鮮総連及び朝鮮学校に関する警視庁の認識」を引き出している。警視総監の答弁とは、警視庁の意向となる。対北朝鮮政策にも強い影響を与えたと推察され、いまだ有名な議事録だ。
朝鮮学校の補助金削除は、その後、知事が何人変わっても今も続いている。 ここが実は重要です。後の知事まで縛る事ができた立論だったということです。 当時、朝鮮学校の補助金の削除は議論はされていたが、実際の削除は初めてであり、首都東京都の実施は、全国の自治体に影響を与えました。北朝鮮の度重なる暴挙もあり、ついには国が通達を出すにまで至りました。今回、紹介するのは、その議事録になります。
質問においては【公安調査庁が提出した答弁書が閣議決定されましたが、その答弁書によると、朝鮮総連と朝鮮学校の関係について、密接な関係にあり、学校の教育内容や財政、人事に影響を及ぼしていると認識しているとされており、もとより朝鮮総連は北朝鮮政府がみずからの出先機関として取り扱っています。
そこで、こうした閣議決定などを踏まえ、治安責任を有する警視庁の北朝鮮、朝鮮総連、朝鮮人学校に対する認識を伺います。】という、斬り込み方。
議会慣れした方からすると、上手いな!と感嘆するだろう。ここは、吉田氏の個人の考えではなく、あくまで閣議決定された資料を踏まえた形とし、ここまでのことを述べつつも半身ずらして被弾を避ける。あわせて行政には、国が決めた内容を踏まえて、と回答を迫るわけだ。ここで回答を求めた行政とは、警視総監である。
ネットが今ほど台頭する前のこと。ここまでのバトルが、確かにあったんだよ。古参の保守は、この名をよく覚えているだろう。吉田康一郎が、中野区長選に出馬予定。
楽観はできない。相手は現職ゆえ相当な苦戦が予想される。だが、仮に奇跡を手に入れることができたならば、東京都全体に、そして日本全体に激震が走るだろう。僅か一議席を与えれば、朝鮮学校の予算を全額削除した男だ。彼が政界に戻ってくれば、どれほどの衝撃を与えるだろうか。仮に区長になれば、その職権においては「外国人の生活保護」を撤廃したり、パチンコに地方税をかけたりと、やれることは無限にある。
政治家は、たらればの話はすべきではないと前置きはするが、我々に奇跡を与えて頂けたならば、私は吉田区長に「要望活動」を行うだろう。そして、吉田氏は、それを受けてくれると信じる。
余談になる。私と吉田康一郎をつないだ国会議員は、実は西村眞悟先生だ。 当時のエピソード、私が市議になる前の、古い古い話もしていこう。思えば、あれは九年ほど前になる。
追伸) ちなみに、先ほどまで吉田さんと一緒にいた。
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(OGP画像)
朝鮮学校への補助金全額削除を伝説の一般質問、朝鮮学校の予算を全額カットしてしまった、最強の名を欲しいままにしたと議会議員の議事録をご覧いただきたい。
平成22年第4回定例会 一般質問、である。
冒頭では、閣議決定資料を用いて行政を追い込んでいき、答弁を固めてのち自論展開や要望を出していく。 オーソドックスな手法だが、このレベルでやれる議員は限られている。
しかも、この質問は8年ほど前のものであり、ネットからの援護射撃などなく、単騎特攻で答弁をもぎ取ってきているのだ。 そもそも答弁を求めた相手は、警視総監である。この答弁は、警視庁の意向そのものを方針づけるものであり、のちの対北朝鮮政策にも多大な影響を与えたと推察される。
質問1 吉田康一郎君
 次に、朝鮮学校への公金補助問題について伺います。
 公安調査庁は、「内外情勢の回顧と展望(平成二十二年一月)」の中で、「朝鮮人学校の思想教育について」と題し、次のように記述しています。
 朝鮮総聯は、朝鮮人学校での民族教育を「愛族愛国運動」の生命線と位置付けており、学年に応じた授業や課外活動を通して、北朝鮮・朝鮮総聯に貢献し得る人材の育成に取り組んでいる。
 朝鮮人学校では、一律に朝鮮総聯傘下事業体「学友書房」が作成した教科書を用いた朝鮮語での授業を行っている。
 例えば、高級部生徒用教科書「現代朝鮮歴史」では、北朝鮮の発展ぶりや金正日総書記の「先軍政治」の実績を称賛しているほか、朝鮮総聯の活動成果などを詳しく紹介している。
 朝鮮総聯は、このほか、教職員や初級部四年生以上の生徒をそれぞれ朝鮮総聯の傘下団体である在日本朝鮮人教職員同盟や在日本朝鮮青年同盟に所属させ、折に触れ金総書記の「偉大性」を紹介する課外活動を行うなどの思想教育を行っている。
 また、報道によれば、朝鮮学校の教員の人事権は金総書記が握っている、朝鮮学校校長は最重要ポストであり、朝鮮総連内の最重要幹部である中央委員でなければならない、中央委員の人事は、北朝鮮本国の朝鮮労働党の承認のもと、金総書記の決裁が必要とされる、高校の校長は、北朝鮮にとって信じるに足る教育革命家だということです。
 また、朝鮮労働党の対南工作部署である統一戦線部に所属していた元幹部の張真晟氏は、朝鮮学校で使用されている教科書は、日本の朝鮮大学校で作成された草案が北朝鮮に送られ、修正された上で、金総書記が目を通してサインして決裁すると明言しています。
 先般の公安調査庁が提出した答弁書が閣議決定されましたが、その答弁書によると、朝鮮総連と朝鮮学校の関係について、密接な関係にあり、学校の教育内容や財政、人事に影響を及ぼしていると認識しているとされており、もとより朝鮮総連は北朝鮮政府がみずからの出先機関として取り扱っています。
 そこで、こうした閣議決定などを踏まえ、治安責任を有する警視庁の北朝鮮、朝鮮総連、朝鮮人学校に対する認識を伺います。
答弁1
警視総監  北朝鮮、朝鮮総連及び朝鮮学校に関する警視庁の認識についてお答えいたします。
 初めに、北朝鮮についてでありますが、北朝鮮は過去に、ビルマ・ラングーン事件や大韓航空機爆破事件等の重大な国際テロ事件、あるいは拉致容疑事件を引き起し、さらには依然として「よど号」ハイジャック事件の犯人グループがとどまっていることなどから、十分な警戒が必要であるものと認識しております。
 次に、朝鮮総連についてでありますが、朝鮮総連は、北朝鮮を支持する在日朝鮮人等で構成された団体であり、その綱領等から見て、北朝鮮と密接な関係を有する団体であると考えております。
 最後に、朝鮮学校についてでありますが、朝鮮総連と密接な関係があり、教育内容、人事及び財政について、朝鮮総連から影響を受けているものと認識しております。
 警視庁といたしましては、公共の安全と秩序の維持という観点から、こうした北朝鮮及び朝鮮総連の動向について重大な関心を払っており、具体的な刑罰法令に違反する行為があれば、これに対して厳正に対処してまいります。
質問2 吉田康一郎君
 朝鮮学校で行われている教育は、金日成、金正日を極端に神格化し、朝鮮戦争や北朝鮮のテロなどをすべて韓国や米国の責任とするなど、著しい虚偽の偏向教育であり、特に、北朝鮮による拉致問題については、現代史の教科書で、二〇〇二年九月、朝日平壌宣言発表以後、日本当局は拉致問題を極大化し、反共和国、反総連、反朝鮮人騒動を大々的に繰り広げることで、日本社会には極端な民族排他主義的雰囲気が醸成されていったとだけ記し、金正日が拉致を認めて謝罪したことや、朝鮮総連が拉致はでっち上げだと強弁してきたことに謝罪したことを全く取り上げず、家族らの被害者救出への努力を反朝鮮人騒動、民族排他主義だと非難しています。
 このような朝鮮学校の教育が、教育基本法第二条の教育の目標、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと、北朝鮮人権法第二条、国は、北朝鮮当局による国家的犯罪行為である日本国民の拉致の問題を解決するため、最大限の努力をするものとする、に明白に違反しており、公的補助には適さないという議論が与党民主党内を含め多数出ているのは当然です。
 また、朝鮮学校が、実質的に日本の公の支配ではなく、北朝鮮の支配に属していることは明白です。朝鮮学校に対する知事の認識を伺います。
答弁2
知事  朝鮮学校に対する認識でありますけれども、北朝鮮は、いまだに解決の道筋が見えない拉致問題を初め、先日の韓国の延坪島への砲撃など、その行動は常軌を逸しているというか、言語道断であります。それを正当化するような教育も朝鮮学校で行なわれているとすれば、これは本当に看過できない問題でありまして、やはり彼らが過去の歴史のトラウマを抱えているのはわかりますけれども、しかし、この時代になお日本に在住しながら、その子弟に、自分が在住している国に敵意を持つような、そういう教育をもし続けているならば、これは決して好ましい存在とはいえないと思います。
質問3 吉田康一郎君
 東京都は、昨年度、二千三百五十七万円の補助金を都内の朝鮮学校に支出しています。九月七日、知事は、拉致被害者家族会の飯塚繁雄代表が朝鮮学校に教育内容を問わないまま補助金が支出されている問題の見直しを要請したことに対し、家族の心中を察するに余りあることだ、反日教育をやっているのに補助金を出すなんて信じられない、反日教育を今でもやっている学校に日本人の学校並みに手当を出すなど外国じゃ考えられない、都は考え直すと明言されました。
 他方、政府は、高校無償化事業について、北朝鮮に制裁を行っていることなどを理由に、朝鮮学校への適用を先延ばしにしてきましたが、十一月五日、教育内容を問わずに適用を決めるという理解しがたい基準を文部科学大臣名で公表する一方、公金補助の決定前に、拉致問題に関する部分など明らかにおかしい教科書記述の改善を求めるとしました。
 ところが、その手続が始まる直前の十一月二十三日、北朝鮮が韓国への無差別砲撃を行ったことを受け、手続を停止いたしました。この砲撃についても、関係者によれば、朝鮮学校では、砲撃は南から始めた、韓国の民間人に死者が出ているというのはでっち上げだとの教育を行うよう、総連から指示が出ているとのことです。
 このような現状を踏まえ、都の来年度予算の中で朝鮮学校への補助を全額削除すべきだと考えますが、知事の見解を伺います。
答弁3
知事  ですから、この朝鮮学校への補助金についても、平成二十三年度予算については、現在まさに編成段階にありまして、補助金の扱いに関してはしかるべき時期に判断いたしますが、何よりも朝鮮学校への補助金は、都議会の要望を受けてかつて創設された経験がありまして、まず、議会の方でしっかり議論していただきたい。そうした議論を踏まえながら、これからも都として判断をしていきたいと思います。
上手いやり方だなと思ったのは、知事から「議会が決めたんだ、議会で先に話したら?」という答弁をとっている点。こんなことを言われれば、議会だって怒るだろう。
だが、知事がこんなことを言い始めるにあたっては、議員として質問内容で「相手を煽る」とか「答弁せざるを得ない」状況に追い込むしかない。この短い質問で、”オーソドックス”な手段が、超高速で網羅されているわけだ。
私は東京都議ではないので、中で何があったのかは知らない。 だが、以下の報道を紹介しておこう。
報道の紹介 2010/12/24付。
東京都、朝鮮学校への補助金を凍結
 東京都は24日までに、都内の朝鮮学校に対する今年度分の補助金の交付を当面凍結することを決めた。北朝鮮による韓国への砲撃事件後、国が朝鮮学校への高校授業料無償化制度の適用に必要な審査手続きを一��停止したことなどを踏まえた。凍結の解除は知事が判断するという。
(後略)
東京都、朝鮮学校への補助金を凍結 東京都は24日までに、都内の朝鮮学校に対する今年度分の補助金の交付を当面凍結することを決めた。北朝鮮による韓国への砲撃事件後、国が朝鮮学校への高校授業料無償化制度の適用に必要な審査手続きを一時停止し 日本経済新聞 電子版  60 tweets
結末だけを知る者は多いと思うが、その背景にあった議員の戦いを知る者は少ない。 このような議事録が公開されている事実すら、知らぬ者がほとんどだろう。
吉田康一郎のキャリア保守として知る者も多いだろう。
本人のHPより抜粋する。
議会外 ・アジア自由民主連帯協議会 副会長 ・日本沖縄政策研究フォーラム 理事 ・北朝鮮に拉致された日本人を奪還する地方議員の会 ・チベット自由人権日本100人委員会 委員 ・日本ウイグル地方議員連盟 副会長 ・草莽地方議員の会 会員 ・国民の知る権利を守る自由報道協会 理事 放送法・電波法の改正問題にも取り組んでいます。
都議会内では、北朝鮮による日本人拉致問題の完全解決を図る議員連盟 幹事、防災都市づくり推進計画・促進議員連盟、防衛議員連盟に所属。
保守派は、ここだけ見れば納得するのだろう。 だが、吉田氏の「本当の価値」は、ここではない。 実務能力に長けている点だ。
行政の長に求められるのは、まずもって「高い実務能力」であると確信する。 はっきり言うが、「①保守で低レベル」か「②左翼だが数字に強い」で選ばねばならぬなら、首長選挙に限定すれば、(仮に左翼であっても)数字に強い実務者を選んだほうがいい。
その町が崩壊してしまうからだ。
その能力とは凄まじく、行政側としても充分に通用するものだ。私のように、質問側で斬り込むことのみに長けた者は(つまり突破力や攻撃力、専門色)、議員が似合っている。だが、答弁する側の行政となると、また異なる能力(総合力や防御力)が求められてくる。保守系において、この能力を有する者は少ない。
攻撃(質問能力)には長けていても、防御(答弁能力)には欠ける。 保守陣営のジレンマと言ってもいい。単に激しいだけでは駄目なのだ。
都議を二期つとめており、常任委員会(厚生委員会)にて委員長も努めている。 キャリアとしては、経団連事務局(現日本経団連)。無論、新自由主義者のマッカッカな男ではない。だったら友達になってない。
一緒に意見書(案)を書いたことがあるが、吉田氏の文章校正能力は凄まじく、頭がいいとか悪いとか、速いとか遅いとか、そういう次元を超越している。これが経団連で10年も鍛えられた男のSPECなのかと驚嘆した。
出身大学は、慶応大学経済学部卒。 のち都議選、元法務大臣のもとで政策秘書として3年間、政策立案に参画。 そして都議として二期の当選。
基礎の力が、段違いなのだ。
西村眞悟との出会い私はかつて、府広報テレビの開設に関する請願を提出しています。
これは国会法に基づくもので、現職国会議員が紹介議員にならねば提出できません。
その紹介議員の一人が、西村眞悟先生でした。
この請願は、ネットを発祥とした大規模請願の「はじまり」であり、私が初めて提出した請願です。171国会、いまより9年前の国会のこと。
クリックして下さい!(請願の要旨 国会HPより。)
当時、まだネットの力は弱く、私と吉田さんが直接に知り合うことは難しかったように思う。
請願の紹介議員になって頂いた御礼を伝え、西村眞悟先生に「私にできることはないか?」と尋ねたところ、まさに行われていた東京都議選に応援に入ってくれ、と言われました。その候補こそが、吉田さんだったのです。
実は、民主党の候補でした。 ゆえに、朝鮮学校の予算が凍結された質問も、民主党の都議として行っています。
私のBlogを読んでいる方には常識でしょうが、当たり前と言えば当たり前なのです。 ネットが誕生して以降の歴史では、「民主党=左翼集団」でありますが、かつては民社党という『労組を支持母体とした、自民より遥かに右』の政党が存在したからです。
西村先生が拉致問題を国会で追及した際も、民社党の議員として、でありました。 (※ 社民党ではありません。)
のち党勢を失った民社党は、野党の離合集散において「民主党に吸収」されます。 ゆえに、吉田氏の経歴として、特に触れるべきは【東京民社協会 副会長 (-H24.11.20)】かと思います。
吉田さんは、民社協会の、まさに秘蔵っ子として大切に育てられた、まさに政治家として戦うために英才教育を施されてきた一人であると思います。
最初の選挙は、自由党から。 保守として政界に飛び込んだのに、左翼の民主党に吸収合併されてしまう。 維新、満を持しての次世代への移籍、 そして、待ち受けていたのは、地獄。
ここまでの人材を、ここまで国家に尽くした者を、 保守派は忘れ去り、在野に置こうというのか。
あの日、眞悟先生は、まだ若かった。 のち何度もお会いしたが、徐々に年を感じさせるようになりました。 私は、まだ市議にもなっておらず、保守系のロビイストとして。
もう、あれから10年になります。 ご縁を頂いた西村先生もご子息が出馬、その名誉を守るべく私が立ち向かったり。 時代は随分と変わりました。
吉田さんの事務所に初めて行ったとき、「応援に行くように言われたんですが」と言ったのですけど、話が通っていなくて、「誰?」からスタート。最終日まで残って、自転車とか乗ってた姿を
私が行橋市議に当選した際、とても喜んでくれましたね。最初は、いぶかしげな眼で見ていたのですが、とても仲良しになっていきます。
赤旗問題を追及する過程で、私が爆破予告を受けた際、そして行橋市議会が謎の決議を下した際、とても怒ってくれましたね。 偶然だと思いますが、行橋市議の関係でいくと、関東圏、特に経団連などの大手とのビジネスが「軒並み、大失敗」になっているという噂がありますが、きっと気のせいでしょう。 何かの呪いがあるのだとすれば、それは向こう10年は継続するように思います。
吉田さんと喧嘩は、したことはありません。 ずっと仲良しです。
ですが、模擬戦ならばしたことはあります。 吉田さんからも殺気を感じましたし、私もとる気で挑みました。 議員とは、相手の思考を読みつつ、いかに後ろに回り込んで撃ち抜くか。 誤解のないように言えば「性格の悪いほうが勝つ」みたいなところもある。
頭脳戦と言うか、知識戦というか。 目の前に三次元の盤面があり、艦隊決戦を挑むかのように。 叩き潰そうと思って全力で撃つんですが、なかなか撃破できません。 後ろをとられて、やられかけたこともある。
仮面ライダーの1号、2号、戦い方が違うように、吉田さんと私も戦闘手法が相当に異なる。 それぞれに得意分野もあるが、戦略的にスナイパーのように動く吉田さんに対し、手数で負荷をかけていく乱打戦みたいな私。 互いの抽斗を全力であけ、撃ち合うと本当に楽しい。
本気で頭脳戦みたいなものを、模擬戦闘でやれる相手も少なくて(恐らく互いに。) 時間を見つけては、「議会ごっこ」みたいな、質問の練習みたいなものをやるのですが、どっと疲れます。
見ていた人は、νガンダムとサザビーが、ファンネルを100発ぐらい出しながら死闘を演じているようだと言っていました。
きっと、私は、吉田康一郎と同じ時間を過ごしてきた。 いま「最強の地方議員」として名を馳せさせて頂いておりますが、私にもかなわぬ存在というものはある。
特に、書類作成能力において、吉田さんにはかなわない。 外国人の扶養控除の意見書、最終的には党内の○×会議を突破し、会計検査院までが動いたあの件だが、あの意見書の校正作業をやったのが吉田康一郎です。
保守色がどうとかいうレベルではなく、(もちろん保守ですけれど)単に実務能力が高い。 それは異常なレベルと言っても、過言ではありません。
本日、吉田さんと会っていたのですが、私は彼の資質を強く再確認しました。
保守系の議員ならば、いまはかなりの人数がいます。 ですが、保守系の政治家で「行政の長」として通用しそうな人材は、実はほとんどおりません。 私も、その適正は欠けています。立法側に、自らの適性を感じています。
吉田さんは、確実に「行政でもやれる」存在です。
ここまで書きましたが、状況は厳しい。
中野区長選に出馬予定とのことだが、現職の区長もいる。 自民区議も出馬ということで、保守派は3つに割れる。 結果として、立憲など左派が優勢という見立てもある。
”政治家ならば、大人になれ”という声が、どこかから聴こえそうですけれど、 友人が一世一代の大勝負に出るとき、動けないやつには、政治なんてできないと思うんだ。
行政トップの力は、絶大だ。 例えば外国人の生活保護だが、最高裁や国の動きを鑑みるに「地方自治体が勝手にあげてる」みたいな解釈になっているようだ。
ならば、行政の長となれば、廃止にすることも可能だろう。 もし区長に当選「したら」、私は要望に伺いたい。 ゲームをしよう、いざ尋常に勝負だ。 (と言っても、双方の意見が合致してしまって、議論がスタートしない可能性もあるけれど。)
パチンコに地方税をかけることも、首長となれば現実味を帯びてくる。 こちらも要望してみたい。
古参保守ならば、知らぬ者はいない。
あの男が、政界に帰ってくる。
朝鮮学校の補助金全額削除を求め、
実際に東京都の予算が凍結された、あの政治家。
ネット上でも、すでに左翼の攻撃が始まっている。
朝日新聞なんて「吉田さんだけ匿名」にして報じようとした。
それだけ驚異的な能力を持っているんだ。
単に保守色が強いというだけではない。
実査に行政を動かす、その力を持った男。
「やる」と決めたら、確実に実行する信念。
見た目は優しそうなのだが、
まさに最強の名に相応しい、保守派の切り札が、吉田康一郎です。
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divedam · 3 years
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擬人化向日市兄妹。
ラフの時とほぼ変わってないです、靴くらいか。
たけのこが有名なので髪型はそんな感じです。ひまわりは市の花、勾玉っぽいのは市章からきてます。
あとは一文橋だったり五辻常夜灯だったり。
服装に関して、兄は作務衣+ブルゾン(お寺と工場)、妹は巫女さん風+ランリュックです。
兄はマイルドヤンキーなイメージです。(やんちゃな人が多かった記憶。)
向日市は西日本で一番小さな市なので、妹は西日本最年少なイメージ。
(全国では3番目に小さい)
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kentarouchikoshi · 3 years
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 行ってみたいなぁ(。・_・。)。oO  北茨城市は,かつて日本美術院の置かれた地です。1898(明治31)年に東京・谷中で設立された同団体は,1906(明治39)年に設立者の岡倉天心によって茨城県大津町五浦(現在の北茨城市大津町五浦)に移され,そこに居を構えた天心自身はもとより彼と活動を共にしていた横山大観・菱田春草・下村観山・木村武山なども移り住みました。人によっては同地を,多くの画家が集いバルビゾン派と称されるようになったフランスのバルビゾン村に擬え,北茨城市を「日本のバルビゾン」などと称したりもします。現在では日本美術院は設立の地である東京都台東区に戻っていますが,今も北茨城市に残る岡倉の住まいや六角堂は「茨城大学五浦美術文化研究所」として残り,またそうした歴史を踏まえ同市には「茨城県天心記念五浦美術館」も設置されています。  その天心記念五浦美術館で,9月26日まで「ひろがる墨-五彩に出会う」という展覧会が開催されています。  西洋画にも白黒で描くグリザイユという技法があり,それを知って興味を持った僕は知人の画家さんに「水墨画もグリザイユなのか」と伺ったことがあります。そうしたところ「私は洋画家なので素人考えになるが・・・」と前置きした上で「『墨に五彩あり』という言葉がある。要は墨の黒の中に様々な色を見る考え方なので,グリザイユとはまた違うと思うよ」と教えてくださいました。この記事でも「『墨に五彩あり』との言葉通り、みずみずしく発色する墨の美しさは、見る者に色彩を感じさせる」とあり,なるほどと思わされます。因みにその直後に「鎌倉時代に禅とともに中国から伝来した水墨画の伝統は、近現代の日本画に引き継がれ、洋画などでも新境地が開拓された」ともあり「やっぱりグリザイユとも関係が(・・?)」と一瞬思いましたが,よく読むと「近現代の日本画に引き継がれ,それを基に更に洋画でも新境地が開拓されていった」ということですから,全く違いますね。因みにグリザイユは古くはジョット・ディ・ボンドーネ(1267頃~1337)も使ったという伝統ある技法です。たまたま類似の技法が洋の東西で発生したと考えるのが妥当でしょう。  この展覧会では茨城県の生んだ偉人である横山大観や小川芋銭による墨絵も展示されていると聞き,僕としては強い興味を抱いてしまいます。これは僕の不勉強のせいですが,美術鑑賞が趣味と言っておきながら僕は同郷の画家の作品について殆ど何も知りません。勿論,作者がどこの出身かということを鑑賞対象を選ぶ基準にすることが妥当とは思いませんが「文化を知り親しむ中では,郷土の文化を知ることも重要な事柄である」というのは間違いの無いことでしょう。また,画家ではない岡倉天心についても自作の書が展示されているとのことで,これも是非観てみたいと感じさせられます。  本来ならば早速車を飛ばして北茨城を目指しているところです。しかしそんな自然な欲求も今は控えなければなりません。まして北茨城市茨城県の最北端に位置する北茨城市まで行ってしまっては,これは蔓延防止という観点からどうなのかという話になるでしょう。コロナ禍というのは何とも憎いものですね。9月にも開催が続いているということですので,今は行動を控えてコロナの鎮静化を待つしかありません。  9月になったら予防対策を徹底した上で天心記念五浦美術館に足を運びたい。そう願うばかりです。
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bebekkouame · 6 years
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創作/北海道市町村擬人化(函館市)
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shakuhachi-kataha · 3 years
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文学と尺八📖『和泉名所図会』
和泉とは、今の大阪府南西部の名称で、この辺りのガイドブックが『和泉名所図会』です。1769年に刊行されたので、時代は少し下がってしまいますが、一路山禅海寺(いちろさんぜんかいじ)のことが詳しく記されています。
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(国立国会図書館アーカイブより)
一路山禅海寺(いちろさんぜんかいじ)石津の上方(かみがた)市村にあり。禅宗。京師大徳寺の末派也。
開基一路居士 原、洛西仁和寺一代の御門主たり。世を遁れてこゝに幽棲し、詩吟を吟じ清貧を楽しむ。
 月は見ん月には見えじながらへて 浮世をめぐる影もはずかし
 世をしのぶ いおりの軒の朽ちぬれば いきても苔の下にこそすめ
 
一休 同時の人也、ある時一休和尚一路に問曰
萬法有道如何是一路 答曰萬事可休如何是一休
一路居士 つねに半升鐺内に菜蕗を煮て范冉釜魚を楽めり。其、狂か(狂歌)に曰
 手とり鍋おのれは口が差し出たぞ 雑水たくと人に語るな 
此鍋 細川の重器となつく今にあり、又ある時詩を賦(ふ)して曰く
 節後黄花吹不飛 籬根臥雨似薔薇
 萬年峰頂新長老 咲花禅牀対布衣
畚掛松(ふごかけまつ) 
当寺にあり。一路居士、此処に閑居して、人の従来(いきき)を絶し、一つの畚を此松枝(まつがえ)より下(おろ)し、志ある人に食物を受けて、露命をつなぎ給ひける。或ル時、里のわ童ども、馬糞、牛の鞋(くつ)など入れて置けれは、居士それを見て、最早、我カ糧尽たりとて、是より、断食して終ひける也。真(まこと)に大隠(だいいん)にして、観念の窓には空門を守り、看経(かんきん・読経)の台(うてな)には明月を照し、履(くつ)は階前(かいぜん・庭先)の草を帯(おぶ)、衣は戸外の塵なし。晋(しん)の恵遠法師(えおんほうし)、三十余年山を出ず。俗塵に交ることを禁しけるも、同日の論也。
以上の事が書かれています。
読み解いていきますと、
一路居士の隠棲の場は、現在の堺市の石津町に存在したものと推定されるそうです。
開基は一路居士。「仁和寺の御門主なり」とありますが、仁和寺とは京都市右京区御室にある真言宗御室派の総本山の寺院。代々、法親王をもって世代としていた門跡寺(皇族・公家が住職を務める特定の寺院)とのことで、一路が門主であったというのは適切ではなく、「仁和寺の僧」としたほうが妥当とのこと。
月は見ん月には見えじながらへて 浮世をめぐる影もはずかし
<片羽訳>
隠者の身、月にさえも見られないように浮世を巡り生きているが、もはや月に写し出される自分の影さえも恥ずかしく思う。
(そこまでして自分の存在を消したいとは!)
世をしのぶ いおりの軒の朽ちぬれば いきても苔の下にこそすめ
<片羽訳>
身を隠している庵の軒が朽ちてしまったなら、苔の下にでも住みましょうか。
(もう微生物なみ。笑)
お次ぎは一休禅師との問答。
一休 同時の人也、ある時一休和尚一路に問曰
萬法有道如何是一路
(萬法道あり、これ一路)
答曰萬事可休如何是一休
(萬事休すべし、これ一休)
一休が問う
「人生に万と路があるのに、何故この道を行く?」
一路が答える
「万事休すべしだよ、一休」
「一」と「萬」、そして一路と一休の名前の「路」「休」をそれぞれ掛け、禅問答のようです。一休禅師は一路居士の噂を聞いて彼のもとに訪れた時に一路居士にこれを言ったそうですが、一路の方が一枚上手だったということですね。しかしながらこの狂歌は江戸時代にできた創作らしいとのこと。後述する1500年代に書かれた安楽菴策伝(あんらくあん さくでん)著の『醒睡笑(せいすいしょう)』にはこの部分はありません。
一路居士 つねに半升(1) 鐺内(2) に菜蕗(3) を煮て范冉釜魚を楽めり(4)。其、狂歌に曰
【半升(はんしょう)】五合
【鐺内(とうない)】鍋 
【菜蕗(さいしょ)】野菜
【范冉(はんせん)釜魚(ふぎょ)を…】「後漢書‐独行伝・范冉」釜中(ふちゅう)魚(うお)を生ず(かまを久しく使わなかったので中にぼうふらがわく意から) きわめて貧しいことのたとえ。)
一路居士は常に五合の鍋で、野菜を煮て貧しいこと楽しんでいた、とのことです。
その狂歌(江戸時代に盛んに行われた趣味的文芸)には…
手とり鍋おのれは口が差し出たぞ 雑水たくと人に語るな 
〈片羽訳〉
手取り鍋よ、お前は湯気など立てて「雑炊、炊いたよ」などと人に言うなよ
鍋を擬人化して、鍋にまで生きている気配を示すなと命令しています。笑
此鍋 細川の重器となつく今にあり、又ある時詩を賦(ふ)して曰く
この鍋が、細川家の重器となっているのか詳細はわかりません。
節後黄花吹不飛
(節後の黄花ふけども飛ばず)    
籬根臥雨似薔薇
(りこん雨にふしてしょうびに似たり)
萬年峰頂新長���
(萬年ほうちょうの新長老)  
咲花禅牀対布衣
(笑って禅しょうを下ってふたいに対す) 
こちらの歌は一路が書いたということになっています。
<片羽訳>
節日(句)の後の黄花は、風が吹いても飛ばない
雨で垣根に臥している薔薇のよう
長年お偉いさんだった新米の老僧は
今はあばら家で笑って坐禅してるよ
 
畚掛松(ふごかけまつ) 
当寺にあり。一路居士、此処に閑居して、人の従来(いきき)を絶し、一つの畚を此松枝(まつがえ)より下(おろ)し、志ある人に食物を受けて、露命をつなぎ給ひける。或ル時、里のわ童ども、馬糞、牛の鞋(くつ)など入れて置けれは、居士それを見て、最早、我カ糧尽たりとて、是より、断食して終ひける也。真(まこと)に大隠(だいいん)にして、観念の窓には空門を守り、看経(かんきん・読経)の台(うてな)には明月を照し、履(くつ)は階前(かいぜん・庭先)の草を帯(おぶ)、衣は戸外の塵なし。晋(しん)の恵遠法師(えおんほうし)、三十余年山を出ず。俗塵に交ることを禁しけるも、同日の論也。
畚(ふご)とは「もっこ」とも言います。縄、竹、蔓(つる)などを網状に編んだ運搬用具。「畚掛け松」という松が、この一路山禅海寺にあるとのこと。
一路居士はここに閑居して暮らし、人との交流を断絶し、一つの畚を松に引っ掛けて、通りすがりの人々から食べ物を施してもらい生きていた。ある時、村の悪童が悪戯でその畚の中に馬の沓を入れておいたら、一路居士はもう、我が糧は尽きたと断食して、死んでしまった。
後半の語句を解説すると、
真に大隠にして
「大隠にして市に隠る」
《王康琚「反招隠詩」から》真の隠者は、人里離れた山中などに隠れ住まず、かえって俗人にまじって町中で超然と暮らしているということ。大隠は朝市 (ちょうし) に隠る。
観念の窓には空門を守り、看経(かんきん・読経)の台(うてな)には明月を照し、履(くつ)は階前(かいぜん・庭先)の草を帯(おぶ)、衣は戸外の塵なし
観念とは、物事に対して抱く考えや意識。窓は眼ということで、一路は仏教を守り、月の明かりで読経し、履物は庭先の草が付くのみ、来ている服に戸外の塵すら付いていない。
晋(しん)の恵遠法師(えおんほうし)、三十余年山を出ず。俗塵に交ることを禁しけるも、同日の論也。
俗塵に交わらず三十年山を出なかったという晋の慧遠法師と同じである。
慧遠(えおん、334 - 416年)とは、中国の東晋、廬山に住んだ高僧。
���名な絵があるので、また��回投稿します!次から次へと色んな隠者がでてきますね〜笑
『和泉名所図会』の一路山禅海寺は、情報量、多かったな〜💦
そして
次の頁に、『ふごかけ松』の絵があります。
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乳岡(ちのおか)の一路居士は
塀の外に 艸畚をおろし ゆきし人に
食衣乞て 遂に禅法の
要(よう)を渾て(まとめて)
五門に 精錬す
五門とは仏語。中国の禅宗の五つの宗派。臨済宗・潙仰宗・曹洞宗・雲門宗・法眼宗。
一路居士が生きていた時代の200年後に描かれたものなので、当時の状況とはかなり差異はあるとは思いますが、分かりやすいですね。
一路居士、断食して死んだなんて簡単に書かれていますが、ガイドブックに載るほどに有名だった人です。
よほどの高徳な人々だったと想像できます。
そして、まるで糧が尽きるのを待っていたかのようです。そう、死ぬきっかけ。
究極に欲のない生き方をした人であります。
昨今、私達大多数の人々はSNS漬けでございます。なぜ人に自分の存在をアピールするのか?それにかられるのか?共有?一体何を?
コマーシャリズムにただ悪用されているだけではないでしょうか?
色々考えさせられます。
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