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bearbench · 1 month
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tumnikkeimatome · 9 days
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Amazonが簡単にご遺骨の永代供養が出来る新サービスを提供開始:明瞭金額でネット上で完結
概要 Amazonが4月24日から、ネット上で簡単にご遺骨の永代供養ができる新しいサービスの提供を開始します。従来は寺院との面倒な手続きが必要でしたが、このサービスではAmazonのサイトから注文するだけで、明確な金額で永代供養を受けられます。 サービスの流れ このサービスの利用手順は以下の通りです。 Amazonで梱包キットを注文する 必要書類(同意書、埋葬/改葬許可証)を用意する 書類とご遺骨を梱包キットに入れて郵送する 1200年の歴史ある大泰寺(和歌山県)で永代供養法要が執り行われる 永代供養納骨証明書がお客様に送付される 料金と特徴 料金 セール価格で50,000円(税込)となっています。従来の方法に比べて明瞭な金額設定となっています。 特徴 お寺との面倒なやり取りが不要 従来は寺院との直接の打ち合わせが必要でしたが、このサービスではネット上で完結す…
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ishitomosposts · 6 months
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keenywong · 9 months
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新京報 :律師文革時舉報母親致其被槍決 10年后案子平反
張紅兵 59歲,北京博聖律師事務所律師。原名張鐵夫,1966年自己改名張紅兵。
  張紅兵准備還要申訴。這幾年他一直在做一件事情,希望母親的墓地能被認定為文物。他同時向社會公開了一段“血淋淋”的歷史
  1970年,張紅兵的母親在家發表了一番言論,讓“根正苗紅”的張紅兵舉報為“反革命”。兩個月后母親被槍決。
  張紅兵說許多年來一直內心痛苦。從2011年9月起他向安徽固鎮縣相關部門申請,希望認定母親的墓地為文物。不過沒成功。他說公開那段經歷,是希望人們討論、批評,也記住那段歷史的殘酷。
  8月2日,安徽蚌埠五河縣,59歲的張紅兵談起自己的官司,他說還會在適當的時機申訴。
  這名昔日的紅衛兵引起公眾關注,是他打了一系列官司。與此同時,他也向公眾撕開了自己“歷史的傷疤”。
  43年前,16歲的張紅兵寫了封檢舉信,與紅衛兵胸章一起,塞進了軍代表的門縫。他檢舉的是自己的母親方忠謀。
  根據當年的歷史材料、后來的法院文件以及當地縣志記載,1970年2月,方忠謀在家中發表了支持劉少奇、批評毛澤東的言論,她被自己的丈夫張月升和長子張紅兵舉報。
  張紅兵的舅舅,今年66歲的方梅開8月5日回憶,父子倆與自己的姐姐起爭執的那個晚上,他和張紅兵的弟弟也在場。他說當時聽到父子倆要去檢舉,很著急,還曾跑出去找人希望勸說。
  方梅開說,以為姐姐也就是判刑“蹲大牢”。但兩個月后,方忠謀被認定為“現行反革命”,並被槍決。
  十年后,1980年7月23日,安徽宿縣地區中院作出了再審判決,認定原判決完全錯誤,“實屬冤殺,應予昭雪”。
  母親的案子平反了,不過張紅兵“永遠不會饒恕自己”。他也在以自己的方式“贖罪”。
  2011年9月,他向安徽固鎮縣有關部門提出,希望將母親方忠謀的墓地(遇難地)認定為文物。未成功。他又將有關部門告上法庭。今年3月底,他迎來二審終審判決,敗訴。
  8月5日,安徽固鎮縣文廣局(文物局隸屬該局)說,他們曾書面回復過張紅兵,經過實地調查和研究后認為,方忠謀墓並不符合國家對於文物認定的相關法規要求。
  在張紅兵打官司的過程中,去年8月,固鎮縣文廣局曾對方忠謀墓地(遇難地)是否為不可移動文物舉行聽証會。在聽証會上,張紅兵以特殊的方式向母親公開懺悔。
  他說自己應該成為反面教材,希望歷史的悲劇不被遺忘。
  怕父親包庇,自己去檢舉
  新京報:事情過去幾十年后,為什麼會有公開那段經歷的想法?
  張紅兵:大約是2009年,我看到網上有人寫鼓吹“文革”的文章。當時意識到,這是歷史潮流的倒退。我個人希望通過我的反思,讓現在的人們了解當時的真實狀況。
  新京報:當年你父親和你會一起檢舉你的母親,和家庭環境有關系嗎?
  張紅兵:我家其實和萬千的普通家庭一樣,是充滿溫情的。我記得父親挨批斗時(編者注:其父張月升曾在固鎮縣任衛生科科長,“文革”之初便被“打倒”),母親站到父親身邊,高喊“要文斗不要武斗”,替父親遮擋拳頭,保護父親。批斗會結束后,母親手挽著父親走在公共場合。我從來沒有見過他們那麼親密。
  新京報:但后來因為她說的話,你父親和你就去舉報?
  張紅兵:放在現在看,會覺得不可思議,但那是個不一樣的年代。我的父親被劃為“革命造反派”后,挨批斗,有人對他拳打腳踢。而我,為了表示自己與走資派父親劃清界限,貼了批斗他的大字報。
  當時,父親和母親並沒有責怪我。貼大字報后,父親反而把我當作大人來看待了。當時的輿論導向和社會思潮就是那樣的。
  新京報:對於母親的事,你一直說自己犯下“弒母”大罪。
  張紅兵:事情發生在1970年2月13日,我們家人在一起辯論文化大革命的事情。母親說,領導人不該搞個人崇拜,“我就是要為劉少奇翻案”。
  我當時非常震驚,她在我心目中的形象完全改變了,不是一個母親了,而是階級敵人。我立即投入對母親的批判斗爭。
  這時候父親就表態說,從現在起我們堅決和你劃清界限,你把你剛才放的毒全部都給我寫出來。母親寫完一張紙,我父親就拿著出了家門,說要去檢舉。
  新京報:父親已經去了,為什麼你又去?
  張紅兵:我擔心父親可能考慮其他因素,比如和母親的感情,比如整個家庭要照顧。為表現自己的革命立場,我寫了封檢舉信,和我的紅衛兵胸章一起,塞進軍代表宿舍的門縫。
  新京報:后來發生了什麼?
  張紅兵:后來我回家,看見軍代表和排長進來,對著我母親就踹了一腳,她一下跪地上。然后大家像捆粽子一樣,把她捆了起來。我現在都記得,母親被捆時,肩關節發出喀喀作響的聲音。
  “無可挽回地格式化了”
  新京報:舉報母親的時候,有沒有想過后果?
  張紅兵:想到了。父親舉報回來后,就問母親:槍斃你不虧吧?你就要埋葬在固鎮了。在我親筆寫的檢舉揭發材料的最后,我寫著:打倒現行反革命分子方忠謀!槍斃方忠謀!
  我知道我和父親這麼做,意味著母親會死亡。
  新京報:目睹母親被抓走,有沒有過后悔?
  張紅兵:當時心裡很亂。不過想得最多的,不是后悔,而是覺得家裡出現了一場階級斗爭,我和父親站穩了立場,我們的政治表現經得起考驗。
  那時候大家都被裹挾在一種氛圍裡,想跑也跑不了。我人性中的善良、美好被徹底地、無可挽回地“格式化”了。
  新京報:你檢舉了自己的母親,當時周圍人怎麼看?
  張紅兵:當時,在與父母關系較好的同事中,有個別叔叔曾私下裡說過我:“你母親在家裡說的話,又沒有在外面說,你和你父親不應該這麼做”。周圍人異樣的眼光是免不了的。但大家都不對這件事公開發表看法。
  后來,固鎮縣教育革命展覽中,還有一塊展板是《大義滅親的中學生張紅兵和反革命母親堅決斗爭的英勇事跡》。
  新京報:急於和母親劃清界限,會有自保的原因嗎?
  張紅兵:從表面上看,我所追求的並非私利,志向純粹高遠,而實質上自保的成分佔了非常重的比重。甚至我也把它算作自己的一種政治表現。政治表現可能給自己帶來不一樣的境遇。
  不過后來我和弟弟依然沒有升高中的機會,不能當兵,不能進工廠,都下放到了農村。
  “夢裡母親從不和我說話”
  新京報:母親這件事情,你覺得對你后來的生活有怎麼樣的影響?
  張紅兵:有些影響最初就發生了,可我並沒意識到是這件事情的緣故。在1976年10月粉碎“四人幫”后,我曾陷入極度的恐懼和不著邊際的胡思亂想之中。
  很長一段時間內,我越來越表現出嚴重的抑郁症狀。比如我與父親、弟弟通過語言交流思想已經困難。我在心裡揣摩著要說的每句話,考慮說出來是否正確。我想把自己完全封閉起來,不與他人接觸,避免可能發生的恐懼。
  新京報:什麼樣的恐懼?
  張紅兵:我聯想到在土改、鎮壓反革命運動中被槍決的外祖父,聯想到母親受其父案件影響。我害怕自己在與人交往時,也會像母親那樣控制不住說出自己的政治觀點……而我何嘗不也是因母親的遭遇受到影響。更可怕��是,這種傷痛還可能因為我,傳遞到女兒甚至孫輩。
  新京報:會夢到你母親嗎?
  張紅兵:有很多次,在夢裡我見過她,還像臨刑前那樣年輕。我跪在地上,緊緊拉著她的手,但又害怕她突然消失。我說:媽媽,不孝兒我給您下跪道歉了!但是她不回答我。在許多夢境裡,她從來不和我說話,我相信,這是她對我的一種懲罰。
  新京報:流過眼淚?
  張紅兵:許多年來,都有情不自禁流淚哽咽、失聲痛哭甚至號啕大哭。我已記不清有多少回了。有時是在白天,有時是在夜晚。
  更多的是我在小姨母、舅父的推動下,懷著沉重的負罪感,為母親寫平反的申訴材料而一人獨處的時候。
  “我應該成為反面教材”
  新京報:別人談到那段歷史,你會不會敏感?
  張紅兵:2001年,我曾經的一位同事,也是律師,在法庭上,我們代理雙方,激烈辯論。休庭后,他在樓梯口攔住我,高聲跟人說我檢舉母親的事情,說固鎮縣志裡都提了,大家都去看。
  我非常憤怒。和他吵了起來,問他為什麼揭發我的隱私。
  新京報:也就是,你以前並不願別人知道?
  張紅兵:從自我保護的角度,我是不願意的。背后指指戳戳的人太多了,不過這也是正常的現象。
  新京報:你反思自己,是從什麼時候開始的?
  張紅兵:其實母親去世后,我就陷入痛苦。這幾十年我從來沒停止過反思。不過第一次形式上的反思應該是1979年。我看到官媒上公開報道張志新的事情。當時我和父親就意識到,我們做錯了。
  經過這幾十年的社會底層生活,我也經歷了磨難。整理家庭的各種遺物、檔案,寫材料。我在心裡罵:張紅兵啊張紅兵,連畜生都不如。
  我想逃,卻無處可逃。
  新京報:后來你和父親會談論母親的事情嗎?
  張紅兵:我們一直在小心翼翼地回避,迫不得已的時候才會提起。在母親去世后的很多年裡,父親表面很平靜。直到他離休后,有一次我們回老家,他和我第一次談起這件事。他說當時我們家出了這個事,他應該負主要責任,因為他是成年人。
  新京報:你公開這段經歷后,周圍人什麼反應?
  張紅兵:我的家人和親戚朋友都不理解,問我你這樣做有什麼用呢。也有人給我發郵件,說我該死了。好多網友罵我,說你還有臉活到現在,還不到母親墓前尋死。
  新京報:你為了讓母親的墓地(遇難地)被認定為文物,打了幾年的官司,是以這樣的一種方式,拒絕遺忘?
  張紅兵:巴金在上世紀80年代初曾提出建立“文革”博物館的設想。他說,不讓歷史重演,不應當只是一句空話。他說最好建立一座博物館,用具體的、實在的東西,用驚心動魄的真實情景,來說明在中國這塊土地上,(當時)究竟發生了什麼事情。
  我希望為將來必定要建立的“文革”博物館,提供一份資料。
  家母方忠謀冤案的歷史資料,符合巴老所說條件。也應該把我對母親的行為,作為展覽內容之一。我是凶手之一,讓人們看不起我、痛罵我吧。每個人都應該看到它。我應該成為他們的一個反面教材。
  □新京報記者 朱柳笛 安徽蚌埠報道
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yusuke1983888 · 2 years
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第15部:【必要な場合】お墓を移動する場合|改葬の手続き、改葬の許可申請
<<第14回:【必要に応じて】お墓を承継するには【お墓の承継手続き・永代供養墓・墓じまい】 ここが大切! - 改葬の前に新しいお墓の手配をする。 - 改葬の事情を菩提寺にきちんと説明する。 - 改葬許可申請書を手配する。 お墓の引っ越しの理由はさまざま お墓や遺骨を新しい場所に移して供養したいと考える方が増えています。お墓や遺骨を新しいお墓に移すことを「改葬(かいそう)」といいます。つまり、お墓を移動させることです。 故郷のお墓が遠くてお参りに行けない、近くにお墓を管理する人がいない、お墓が山の上にあり水や花を持って上がるのが大変、父方・母方のお墓を一つにまとめている(良家墓)、お墓が劣化しているなど、理由はさまざまです。その理由はさまざまだ。一番多いのは、親の実家近くのお墓を子供の実家近くのお墓に移すというケースです。 改葬の方法には、(1)遺骨だけを移す、(2)遺骨と墓石を移す、(3)遺骨と骨壷などの容器を切り離す、などがある。 改葬の手続きと新しい墓の開眼供養・納骨 埋葬の前に、寺院や霊園に埋葬の事情を説明し、理解を求めることが必要です。特に、お墓のあるお寺は「檀家を離れる」ということで、そのような変更を快く思っていない場合があります。事情を説明する際には、これまでお世話になった寺院への感謝の気持ちを伝えるようにしましょう。 改葬の手続きは次の通りです。改葬の申請者は、墓地使用者(お墓の使用権を持つ人)または墓地使用者から委任を受けた人であることが必要です。申請者の印鑑は実印である必要はありません。 ①新しい墓地を確保し、お墓を建て、永代使用料と管理費を支払い、永代使用許可証(受入証明書)を発行してもらう。 ②既存のお墓があるお寺や霊園に改葬の許可を取る。 ③既存のお墓のある市区町村役場で「改葬許可申請書」を入手し、必要事項を記入します。また、既存のお墓の菩提寺や墓地の管理者、新しいお墓の墓地管理者の署名・捺印が必要です。 ④③改葬許可申請書③と改葬先が発行する永代使用権証明書(受入証明書)を既存のお墓のある市町村役場に提出し、改葬証明書を発行してもらう。 ⑤既存のお墓で閉眼法要(御霊抜き法要)を行い、遺骨を搬出する。 ⑥既存のお墓を解体・撤去し、更地に戻す。 ⑦納骨先の墓地管理者に「改葬許可証」と「永代使用許可証(受入証明書)」を④で提出し、納骨の日時を決定する。 ⑧納骨当日は、新しいお墓で開眼式を行い、納骨を行います。 檀家をやめるときに菩提寺に離檀料を払う必要は? 長年お世話になった菩提寺(先祖の供養をしてくれるお寺)からお墓を移す場合、よく起こるトラブルとして、菩提寺から離檀料を請求されることがあります。 しかし、永代使用料や管理料はすでに支払っているので、この費用を支払う必要はありません。 改葬にかかる費用は、既存のお墓から墓石を撤去して整地する費用と、新しいお墓の購入・建立費用のみです。 改葬の手続きの流れ - 新しい墓地を確保する【お墓を新しく建て、使用料・管理料を支払い、永代使用許可証(受入証明書)を発行してもらう】。 - 既存のお墓の菩提寺の承諾を得る【今までの感謝の気持ちを伝えましょう。離檀料は必要ない】。 - 改葬許可申請書の記入 【改葬許可申請書を既存のお墓のある市区町村役場で入手し、記入する。また、既存のお墓の菩提寺や墓地の管理者、新しいお墓の墓地管理者の署名・捺印が必要です。 - 改葬許可申請書を提出し、改葬許可を受ける【改葬先が発行する永代使 Read the full article
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taikutsumccartney · 2 years
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第15部:【必要な場合】お墓を移動する場合|改葬の手続き、改葬の許可申請
<<第14回:【必要に応じて】お墓を承継するには【お墓の承継手続き・永代供養墓・墓じまい】 ここが大切! - 改葬の前に新しいお墓の手配をする。 - 改葬の事情を菩提寺にきちんと説明する。 - 改葬許可申請書を手配する。 お墓の引っ越しの理由はさまざま お墓や遺骨を新しい場所に移して供養したいと考える方が増えています。お墓や遺骨を新しいお墓に移すことを「改葬(かいそう)」といいます。つまり、お墓を移動させることです。 故郷のお墓が遠くてお参りに行けない、近くにお墓を管理する人がいない、お墓が山の上にあり水や花を持って上がるのが大変、父方・母方のお墓を一つにまとめている(良家墓)、お墓が劣化しているなど、理由はさまざまです。その理由はさまざまだ。一番多いのは、親の実家近くのお墓を子供の実家近くのお墓に移すというケースです。 改葬の方法には、(1)遺骨だけを移す、(2)遺骨と墓石を移す、(3)遺骨と骨壷などの容器を切り離す、などがある。 改葬の手続きと新しい墓の開眼供養・納骨 埋葬の前に、寺院や霊園に埋葬の事情を説明し、理解を求めることが必要です。特に、お墓のあるお寺���「檀家を離れる」ということで、そのような変更を快く思っていない場合があります。事情を説明する際には、これまでお世話になった寺院への感謝の気持ちを伝えるようにしましょう。 改葬の手続きは次の通りです。改葬の申請者は、墓地使用者(お墓の使用権を持つ人)または墓地使用者から委任を受けた人であることが必要です。申請者の印鑑は実印である必要はありません。 ①新しい墓地を確保し、お墓を建て、永代使用料と管理費を支払い、永代使用許可証(受入証明書)を発行してもらう。 ②既存のお墓があるお寺や霊園に改葬の許可を取る。 ③既存のお墓のある市区町村役場で「改葬許可申請書」を入手し、必要事項を記入します。また、既存のお墓の菩提寺や墓地の管理者、新しいお墓の墓地管理者の署名・捺印が必要です。 ④③改葬許可申請書③と改葬先が発行する永代使用権証明書(受入証明書)を既存のお墓のある市町村役場に提出し、改葬証明書を発行してもらう。 ⑤既存のお墓で閉眼法要(御霊抜き法要)を行い、遺骨を搬出する。 ⑥既存のお墓を解体・撤去し、更地に戻す。 ⑦納骨先の墓地管理者に「改葬許可証」と「永代使用許可証(受入証明書)」を④で提出し、納骨の日時を決定する。 ⑧納骨当日は、新しいお墓で開眼式を行い、納骨を行います。 檀家をやめるときに菩提寺に離檀料を払う必要は? 長年お世話になった菩提寺(先祖の供養をしてくれるお寺)からお墓を移す場合、よく起こるトラブルとして、菩提寺から離檀料を請求されることがあります。 しかし、永代使用料や管理料はすでに支払っているので、この費用を支払う必要はありません。 改葬にかかる費用は、既存のお墓から墓石を撤去して整地する費用と、新しいお墓の購入・建立費用のみです。 改葬の手続きの流れ - 新しい墓地を確保する【お墓を新しく建て、使用料・管理料を支払い、永代使用許可証(受入証明書)を発行してもらう】。 - 既存のお墓の菩提寺の承諾を得る【今までの感謝の気持ちを伝えましょう。離檀料は必要ない】。 - 改葬許可申請書の記入 【改葬許可申請書を既存のお墓のある市区町村役場で入手し、記入する。また、既存のお墓の菩提寺や墓地の管理者、新しいお墓の墓地管理者の署名・捺印が必要です。 - 改葬許可申請書を提出し、改葬許可を受ける【改葬先が発行する永代使 Read the full article
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yusuke1983777 · 2 years
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第15部:【必要な場合】お墓を移動する場合|改葬の手続き、改葬の許可申請
<<第14回:【必要に応じて】お墓を承継するには【お墓の承継手続き・永代供養墓・墓じまい】 ここが大切! - 改葬の前に新しいお墓の手配をする。 - 改葬の事情を菩提寺にきちんと説明する。 - 改葬許可申請書を手配する。 お墓の引っ越しの理由はさまざま お墓や遺骨を新しい場所に移して供養したいと考える方が増えています。お墓や遺骨を新しいお墓に移すことを「改葬(かいそう)」といいます。つまり、お墓を移動させることです。 故郷のお墓が遠くてお参りに行けない、近くにお墓を管理する人がいない、お墓が山の上にあり水や花を持って上がるのが大変、父方・母方のお墓を一つにまとめている(良家墓)、お墓が劣化しているなど、理由はさまざまです。その理由はさまざまだ。一番多いのは、親の実家近くのお墓を子供の実家近くのお墓に移すというケースです。 改葬の方法には、(1)遺骨だけを移す、(2)遺骨と墓石を移す、(3)遺骨と骨壷などの容器を切り離す、などがある。 改葬の手続きと新しい墓の開眼供養・納骨 埋葬の前に、寺院や霊園に埋葬の事情を説明し、理解を求めることが必要です。特に、お墓のあるお寺は「檀家を離れる」ということで、そのような変更を快く思っていない場合があります。事情を説明する際には、これまでお世話になった寺院への感謝の気持ちを伝えるようにしましょう。 改葬の手続きは次の通りです。改葬の申請者は、墓地使用者(お墓の使用権を持つ人)または墓地使用者から委任を受けた人であることが必要です。申請者の印鑑は実印である必要はありません。 ①新しい墓地を確保し、お墓を建て、永代使用料と管理費を支払い、永代使用許可証(受入証明書)を発行してもらう。 ②既存のお墓があるお寺や霊園に改葬の許可を取る。 ③既存のお墓のある市区町村役場で「改葬許可申請書」を入手し、必要事項を記入します。また、既存のお墓の菩提寺や墓地の管理者、新しいお墓の墓地管理者の署名・捺印が必要です。 ④③改葬許可申請書③と改葬先が発行する永代使用権証明書(受入証明書)を既存のお墓のある市町村役場に提出し、改葬証明書を発行してもらう。 ⑤既存のお墓で閉眼法要(御霊抜き法要)を行い、遺骨を搬出する。 ⑥既存のお墓を解体・撤去し、更地に戻す。 ⑦納骨先の墓地管理者に「改葬許可証」と「永代使用許可証(受入証明書)」を④で提出し、納骨の日時を決定する。 ⑧納骨当日は、新しいお墓で開眼式を行い、納骨を行います。 檀家をやめるときに菩提寺に離檀料を払う必要は? 長年お世話になった菩提寺(先祖の供養をしてくれるお寺)からお墓を移す場合、よく起こるトラブルとして、菩提寺から離檀料を請求されることがあります。 しかし、永代使用料や管理料はすでに支払っているので、この費用を支払う必要はありません。 改葬にかかる費用は、既存のお墓から墓石を撤去して整地する費用と、新しいお墓の購入・建立費用のみです。 改葬の手続きの流れ - 新しい墓地を確保する【お墓を新しく建て、使用料・管理料を支払い、永代使用許可証(受入証明書)を発行してもらう】。 - 既存のお墓の菩提寺の承諾を得る【今までの感謝の気持ちを伝えましょう。離檀料は必要ない】。 - 改葬許可申請書の記入 【改葬許可申請書を既存のお墓のある市区町村役場で入手し、記入する。また、既存のお墓の菩提寺や墓地の管理者、新しいお墓の墓地管理者の署名・捺印が必要です。 - 改葬許可申請書を提出し、改葬許可を受ける【改葬先が発行する永代使 Read the full article
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urusura · 2 years
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ari0921 · 3 years
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日本解放第二期工作要綱
中国共産党
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中央学院大学の西内雅教授(故人)が昭和47年にアジア諸国を歴訪した際、偶然、入手した秘密文書。
 内容は中国共産党が革命工作員に指示した陰謀で、当時から現在に至る迄、中国の対日謀略は秘密文書の通りに続いているとみられる。
 同年8月、国民新聞社は特集記事を掲載し、更に小冊子を発行したが、重要と思われるのでここに再録する。
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日本解放第二期工作要綱
中国共産党
 中央学院大学の西内雅教授(故人)が昭和47年にアジア諸国を歴訪した際、偶然、入手した秘密文書。
 内容は中国共産党が革命工作員に指示した陰謀で、当時から現在に至る迄、中国の対日謀略は秘密文書の通りに続いているとみられる。
 同年8月、国民新聞社は特集記事を掲載し、更に小冊子を発行したが、重要と思われるのでここに再録する。
A.基本戦略・任務・手段
A-1.基本戦略
 我が党は日本解放の当面の基本戦略は、日本が現在保有している国力の全てを、我が党の支配下に置き、我が党の世界解放戦に奉仕せしめることにある。
A-2.解放工作組の任務
 日本の平和解放は、下の3段階を経て達成する。
 イ.我が国との国交正常化(第一期工作の目標)
 口.民主連合政府の形成(第二期工作の目標)
 ハ.日本人民民主共和国の樹立 ・・天皇を戦犯の首魁として処刑(第三期工作の目標)
 田中内閣の成立以降の日本解放第二期工作組の任務は、上の第口項、即ち「民主連合政府の形成」の準備工作を完成することにある。
A-3.任務達成の手段
 本工作組の任務は、工作員が個別に対象者に接触して、所定の言動を、その対象者に行わしめることによって達成される。即ち、工作者は最終行動者ではなく、隠れた使喉者、見えざる指揮者であらねばならない。以下に示す要領は、全て対象者になさしめる言動の原則を示すものである。
本工作の成否は、終始、秘密を保持しうるかどうかに懸かっている。よって、工作員全員の日本入国身分の偽装、並びに工作上の秘密保持方法については、別途に細則を以て指示する。
B.工作主点の行動要領
第1.群衆掌握の心理戦
 駐日大使館開設と同時になされなければならないのは、全日本人に中国への好感、親近感を抱かせるという、群衆掌握の心理戦である。好感、親近感を抱かせる目的は、我が党、我が国への警戒心を無意識の内に捨て去らせることにある。
 これは日本解放工作成功の絶好の温床となると共に、一部の日本人反動極右分子が発する
 「中共を警戒せよ!日本支配の謀略をやっている」
 との呼び掛けを一笑に付し、反動極右はますます孤立するという、二重の効果を生むものである。
 この為に、以下の各項を速やかに、且つ継続的に実施する。
1-1.展覧会・演劇・スポーツ
 中国の書画、美術品、民芸品等の展覧会、舞劇団、民族舞踊団、民謡団、雑技団、京劇団の公演、各種スポーツ選手団の派遣を行う。
 第一歩は、日本人大衆が中国大陸に対し、今なお持っている「輝かしい伝統文化を持っている国」「日本文化の来源」「文を重んじ、平和を愛する民族の国」というイメージを掻き立て、更に高まらせることである。
 我が国の社会主義改造の誇るべき成果についての宣伝は、初期においては少ない方がよく、全然触れなくても構わない。
 スポーツ選手団の派遣は、ピンポンの如く、試合に勝ちうるものに限定してはならず、技術的に劣っている分野の選手団をも数多く派遣し、日本選手に学ぶという率直な態度を示して、好感を勝ち取るべきである。
1-2.教育面での奉仕
A.中国語学習センターの開設。
 全国都道府県の主要都市の全てに中国語学習センターを開設し、教師を無報酬で派遣する。
 教師は、1名派遣の場合は女性教師、複数の場合は男、女半々とし、全て20歳代の工作員を派遣する。受講者資格は、もとより無制限とし、学費は無料又は極めて小額とする。
B.大学への中国人中国語教師派遣の申し入れ。
 中国語学習センターを開設し、日本人青年層に中国語学習熱が高まったところで、私立、公立の大学には個別に、国立大学については日本政府文部省へ中国人中国語教師の派遣を申し入れる。
 申し入れを婉曲に拒否した場合は、「我が国の純然たる好意、奉仕の精神に対する非礼」を責めれば、日本のマスコミも大衆も、学生も許さないであろう。
 しかし、第1回で全勝を求める必要は無く全国大学の過半数が受け入れればそれで良い。後は自然に受け入れ校は増加していくものである。
C.委員会開設。
 「中日文化交流協会」を拡充し、中日民間人の組織する「日中文化教育体育交流委員会」を開設して実施せしめ、我が大使館は、これを正式に支援する方式をとる。
 尚、本綱の全ての項目は、初期においては、純然たる奉仕に終始し、いささかも政治工作、思想工作、宣伝工作、組織工作を行ってはならない。
第2.マスコミ工作
大衆の中から自然発生的に沸き上がってきた声を世論と読んだのは、遠い昔のことである。次の時代には、新聞、雑誌が世論を作った。今日では、新聞、雑誌を含め所謂「マスコミ」は、世論造成の不可欠の道具に過ぎない。マスコミを支配する集団の意思が世論を作り上げるのである。
 偉大なる毛主席は
 「およそ政権を転覆しようとするものは、必ずまず世論を作り上げ、先ずイデオロギー面の活動を行う」
 と教えている。
 田中内閣成立までの日本解放(第一期)工作組は、事実でこの教えの正しさを証明した。日本の保守反動政府を幾重にも包囲して、我が国との国交正常化への道へと追い込んだのは日本のマスコミではない。日本のマスコミを支配下に置いた我が党の鉄の意志とたゆまざる不断の工作とが、これを生んだのである。
 日本の保守反動の元凶たちに、彼等自身を埋葬する墓穴を、彼等自らの手で掘らせたのは、第一期工作組員である。田中内閣成立以降の工作組の組員もまた、この輝かしい成果を継承して、更にこれを拡大して、日本解放の勝利を勝ち取らねばならない。
2-1.新聞・雑誌
A.接触線の拡大。
 新聞については、第一期工作組が設定した「三大紙」に重点を置く接触線を堅持強化すると共に、残余の中央紙及び地方紙と接触線を拡大する。
 雑誌、特に週刊誌については、過去の工作は極めて不十分であったことを反省し、十分な人員、経費を投入して掌握下に置かねばならない。接触対象の選定は「10人の記者よりは、1人の編集責任者を獲得せよ」との原則を守り、編集を主対象とする。
B.「民主連合政府」について。
 「民主連合政府」樹立を大衆が許容する温床を作り上げること、このための世論造成、これが本工作を担当する者の任務である。
 「民主連合政府」反対の論調を挙げさせてはならぬ。しかし、いかなる方式かを問わず、マスコミ自体に「民主連合政府」樹立の主張をなさしめてはならない。これは、敵の警戒心を呼び覚ます自殺行為に等しい。
 「民主連合政府」に関連ある事項を全く報道せず、大衆はこの問題について無知、無関心であることが最も望ましい状態である。
 本工作組の工作の進展につれて、日本の反動極右分子が何等の根拠も掴み得ないまま焦慮に耐え得ず、「中共の支配する日本左派勢力は、日本赤化の第一歩として、連合政府樹立の陰謀を進めている」と絶叫するであろう。
 これは否定すべきであるか? もとより否定しなければならない。しかし、否定は真正面から大々的に行ってはならず、計画的な慎重な間接的な否定でなければならない。
 「極右の悪質なデマで、取り上げるにも値しない」という形の否定が望ましい。
C.強調せしむべき論調の方向
① 大衆の親中感情を全機能を挙げて更に高め、蒋介石一派との関係は完全に断つ方向へ向かわせる。
② 朝鮮民主主義人民共和国並びにベトナム民主共和国との国交樹立を、社説はもとより全紙面で取り上げて、強力な世論の圧力を形成し、政府にその実行を迫る。
③ 政府の内外政策には常に攻撃を加えて反対し、在野諸党の反政府活動を一貫して支持する。特に在野党の反政府共闘には無条件で賛意を表明し、その成果を高く評価して鼓舞すべきである。  大衆が異なる政党の共闘を怪しまず、これに馴染むことは、在野諸党の連合政府樹立を許容する最大の温床となることを銘記し、共闘賛美を強力になさしめるべきである。
④ 人間の尊重、自由、民主、平和、独立の強調
ここに言う「人間の尊重」とは、個の尊重、全の否定を言う。
「自由」とは、旧道徳からの解放、本能の開放を言う。
「民主」とは、国家権力の排除を言う。
「平和」とは、反戦、不戦、思想の定着促進を言う。
「独立」とは、米帝との提携の排除、社帝ソ連への接近阻止をいう。
2-2.テレビとラジオ
A.これらは、資本主義国においては「娯楽」であって、政府の人民に対する意志伝達の媒介体ではない。この点に特に留意し、「娯楽」として利用することを主点とすべきである。
 具体的な方向を示せば、「性の解放」を高らかに謳い上げる劇又は映画、本能を剌激する音楽、歌謡等は望ましい反面、スポーツに名を借りた「根性もの」と称される劇、映画、動画、または歴史劇、映画、歌謡並びに「ふるさとの歌祭り」等の郷土愛、民族一体感を呼び醒ますものは好ましくない。
 前者をより多く、後者をより少なく取り上げさせるよう誘導せねばならない。
B.テレビのニュース速報、実況報道の利用価値は極めて高い。画��は真実を伝えるものではなく、作るものである。目的意識を持って画面を構成せねばならない。
C.時事解説・教養番組等については、新聞について述べた諸点がそのまま適用されるが、これは極めて徐々に、少しずつ注意深くなされねばならない。
2-3.出版(単行本)
A.我が国への好感、親近感を抱かせるものを、第一に取り上げさせる。風物写真集、随筆、家庭の主婦が興味を抱く料理、育児所の紹介など、受け入れられ易いものを多面に亘って出版せしめる。
B.社会主義、毛沢東思想などに関する理論的著作も好ましい。しかし、我が国の社会主義建設の成果、現況については、極右分子の誹謗を困難ならしめるよう配慮させねばならない。
C.マスコミの主流から締め出された反動極右の反中国の言動は、単行本に出路を求めているが、これは手段を尽くして粉砕せねばならない。
 特に、社会主義建設の途上で生じる、止むを得ない若干の歪み、欠点について、真実を伝えると称してなされる暴露報道を絶対に放置してはならない。これらについては、誹謗、デマで両国関係を破壊するものであるとして、日本政府に厳重に抗議すると共に、出版社主、編集責任者、著者を告訴して根絶を期すべきである。
D.一般娯楽面の出版については「デンマークの進歩を見習え」として、出版界における「性の解放」を大々的に主張せしむべきで、春画、春本の氾濫は望ましい。
E.単行本の出版についての今一つの利用法は「中間層文筆業者」の獲得である。「中間層」とは思想的に純正左派、または右派に属しない、中間の動揺分子を言い、「文筆業者」とは、凡そ文筆を以て世論作りにいささかでも影響を与え得る者全てを言う。
 彼等に対しては或いは原稿料を与え、或いは出版の支援をなして接近し、まず「政治的・思想的立場の明快さを欠く」中間的著作をなさしめ、徐々に我が陣営へと誘導する。
2-4.本工作にマスコミ部を設けて、諸工作を統轄する
第3.政党工作
3-1.連合政府は手段
 日本の内閣総理は、衆参両院の本会議で首班指名選挙を行って選出される。両院で議員総数の過半を掌握すれば、人民の意志とは関係なく、任意の者を総理となし得るのである。
 1972年7月の現況で言えば、自民党の両院議員中、衆議院では約60名、参議院では10余名を獲得して、在野党と同一行動を取らせるならば、野党連合政府は容易に実現する。
 しかし、この方式を取るならば、社会党、公明党の発言権を益するに留まり、且つ最大の単独多数党は依然として自民党であり、この2点は純正左派による「日本人民共和国」成立へと進む阻因となることは明らかである。
 自民党のみではなく、社会党、公明党、民主社会党もまた、無産階級の政党ではなく、最終的には打倒されるべき階級の敵の政党であることを忘れてはならない。
 本工作組に与える「民主連合政府の樹立」という任務は、日本解放の第二期における工作目標に過ぎず、その実現は第三期の「日本人民民主共和国」樹立の為の手段に過ぎない。
 共和国樹立へ直結した、一貫的計画の元に行われる連合政府工作でなければ、行う意義は全くない。
3-2.議員を個別に掌握
 下記により国会議員を個別に掌握して、秘密裏に本工作員の支配下に置く。
A.第一期工作組がすでに獲得したものを除き、残余の議員全員に対し接触線を最少4線設定する。
B.上の他、各党の役職者及び党内派閥の首長、有力者については、その秘書、家族、強い影響力を持つ者の3者に、個別に接触線を最少2線設定する。
C.上の接触線設定後、各線を経て知り得る全情報を整理して、「議員身上調査書」の拡充を期し、公私生活の全貌を細大漏さず了解する。
D.右により各党毎の議員を「掌握すべき者」と「打倒排除すべき者」に区別し、「掌握すべき者」については「連合政府の樹立にのみ利用しうる者」「連合政府樹立より共和国成立に至る過渡期においても利用し得る者」とに区別する。 ここに言う「打倒・排除」とは、その議員の党内における勢力を削ぎ、発言権を低下せしめ、孤立に向かわせることを言う。
E.「掌握」又は「打倒」は調査によって明らかとなったその議員の弱点を利用する。
 金銭、権力、名声等、欲するものを与え、又は約束し、必要があれば中傷、離間、脅迫、秘している私事の暴露等、いかなる手段を使用してもよい。
 敵国の無血占領が、この一事に懸っていることを思い、いかなる困難、醜悪なる手段も厭うてはならず、神聖なる任務の遂行として、やり抜かねばならない。
3-3.招待旅行
 上の接触線設置工作と並行して議員及び秘書を対象とする、我が国への招待旅行を下の如く行う。
A.各党別の旅行団。団体の人数は固定せず、実情に応じて定める。
 但し、団体構成の基準を、「党内派閥」「序列」「年齢」「地域別」「その他」そのいずれかにおくかは慎重に検討を加え、工作員の主導の元に、我が方に有利になる方法を採らしむるよう、工作せねばならない。
B.党派を超えた議員旅行団。議員の職業、当選回数、選挙区、選挙基盤団体、出身校を子細に考慮し、多種多様の旅行団を組織せしめる。
C.駐日大使館開設後1年以内に、全議員を最低1回、我が国へ旅行せしめねばならない。
 自民党議員中の反動極右分子で招待旅行への参加を拒む者に対しては、費用自弁の個人旅行、議員旅行団以外の各種団体旅行への参加等、形式の如何を問わず、我が国へ一度旅行せしめるよう工作せねばならない。
D.旅行で入国した議員、秘書の内、必要なる者に対して、国内で「C・H・工作」を秘密裏に行う。
3-4.対自民党工作
A.基本方針
 自民党を解体し、多数の小党に分裂せしめる。
 自民党より、衆議院では60名前後、参議院では10余名を脱党せしめて、連合政府を樹立するというが如き、小策を取ってはならないことは先に述べた所であるが、右派、左派の二党に分裂せしめることも好ましくない。
 これは、一握りの反動右翼分子が民族派戦線結成の拠点として、右派自民党を利用する可能性が強いからである。
 従って、多数の小党に分裂する如く工作を進めねばならず、又表面的には思想、政策の不一致を口実としつつも、実質的には権力欲、利害による分裂であることが望ましく、少なくとも大衆の目にはそう見られるよう工作すべきである。
B.手段
 自民党内派閥の対立を激化せしめる。
① 自民党総裁選挙時における派閥の権力闘争は常に見られる現象で通常は総選挙を経て若干緩和され、一つの党として受けて曲りなりにも保持していく。
 今回はそれを許してならない。田中派と福田派の対立の継続と激化、田中派と大平派、三木派、三派の離間、中間五派の不満感の扇動等を主点として、第一期工作組は工作を展開中である。総選挙後、若干の変動があっても、派閥の対立を激化せしむるという工作の原則は変わらない。
② 派閥対立を激化せしめる最も有効な方法は、党内の非主流派となって政治活動資金の調達に困難を生じている各派に個別に十分な政治資金を与えることである。
 政治献金は合法であり、これを拒む政治家はいない。問題は方法のみであり、工作員からAへ、AからBへ、BからCへ、CからDへ、Dから議員又は団体という如く間接的に行うのは言う迄もない。
③ 先に述べた議員個人の掌握は、それ自体が連合政府樹立の有効な手段となるが、派閥対立激化についても活用するのはもとよりである。
3-5.対社会・公明・民杜各党工作
A.基本方針
① 各党内の派閥闘争を激化せしめ、工作による操縦を容易ならしめる。派閥というに足る派閥なき場合は、派閥を形成せしめる工作を行う。但し、党を分裂せしめる必要はなく、分裂工作は行わない。
② 日本共産党を含めた野党共闘を促進する。
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kurihara-yumeko · 3 years
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【小説】氷解 -another- (上)
 誰かを傷つけた後は、自分も傷を負う。
 殴った後にその手が痛むように、それは代償として、必ず負うことになる。一方的に相手を痛めつけるなんて芸当はできない。そんな勝手は許されないのだ。傷つけた分は、傷つかなくてはいけない。たとえその痛みが、平等ではないにしても。
 傷つけるとわかっていて手を下した時は、なおさら性質の悪い傷が残る。その音が聞こえてきそうなほどに心が軋んだのを感じたり、予想通り、耐え切れなくなった涙が溢れ落ちていくのを見たりするのは、そんな風に誰かを傷つけるのは、堪える。
 いつだってそうだ。特に、怒りに任せて部下を怒鳴りつけてしまった後は。
「やっぱり、ここにいたのか」
 窓辺に腰かけ、眼下に広がる灰色の街を見下ろしていると、そんな声と共に、缶コーヒーが現れた。手に取ったそれは温かく、俺は咥えていた煙草を口元から離す。
「貝塚……」
 目線を上げて顔を見やると、その男は自分の煙草に火を点けるところだった。
「お疲れさん。さっきはすげぇカミナリ落としてたなぁ。聞こえてたぞ、こっちのブースにまで」
 貝塚はそう言って、わざとらしく笑って見せる。俺は思わず、大きな溜め息をついた。
「……一週間前に、会議の資料を作るように頼んだんだよ。今日の、重要な会議に使うやつを。それが昨日になっても出来上がってこなくて、ギリギリになってやっと持って来たと思ったら、印刷はめちゃくちゃで、おまけに、数字は一年前のデータだった」
「高倉さんかぁ。可愛いし愛想もいいんだけど、仕事がいまいちなんだよねぇ」
「資料を全部作り直すには時間がなかった。そのまま使うしかないと断念したが、数字が間違ってるんじゃ、先方だってこちらを信用できないだろう。だから耐え切れず、高倉を責めちまった。『重要な会議だって言ってあったのに、どうしてこんな』ってな」
 重要な会議の資料なんて、部下に任せず自分ひとりで作成すればよかった。もっとこまめに資料作りの進捗を確認しておけばよかった。前日のうちに残業させてでも���料を完成させて、修正する時間を今日に残しておくべきだった。
 そんな後悔が、喫煙室に紫煙となって立ち込める。
「……そしたら、あいつ、なんて返事をしたと思う?」
 貝塚は煙草を咥えたままで返事をしなかった。俺は続けて言う。
「『だって、私にとっては重要なことじゃないですし』、だとよ」
「……それで、高倉さんのことを思いっきり怒鳴りつけちゃったってことか」
 そう言う貝塚の口元は笑っていたが、その目は少しも俺のことを馬鹿にしてなどいなかった。
「あんな怒鳴られたら、高倉さん、泣いちゃったんじゃない?」
「……泣いてたよ」
 俺は力なくそう答える。
 さっき見た光景が、まぶたの裏から焼き付いて離れない。高倉はまるで子供のように、大粒の涙を零して泣いていた。私は悪くない、とでも言うように、俺のことを睨んでいた。ぽろぽろ、ぽろぽろと泣きながら、本当は文句を言いたいのであろう唇から、絞り出すように「すみませんでした」とだけ言って、それでも眼光は鋭かった。俺を非難する目だった。
「可愛い女の子を泣かせちゃったら、そりゃあ、後味悪いよねぇ」
 貝塚の苦笑に、同情の色を感じ取る。
 所属する部署も役職も異なるが同い年の貝塚は、社内で気兼ねなく話せる同僚のひとりだ。ライターを貸してやったのがきっかけで、喫煙室で言葉を交わす仲になった。
「まぁ、そんなに落ち込まないで。縞本だけが悪い訳じゃないだろ」
「……そうだな」
 どうやら、俺を励ましに来たつもりらしい。それをありがたいと感じる反面、隣の部署のやつに気を遣わせるほど部下を怒鳴りつけるなんて、と、また後悔が生まれる。放って置くとどこまでも、俺の内側から後悔ばかりが滲み出てくるような気がする。
「高倉さんの方には、井荻さんが行ってくれたから、大丈夫だと思うよ」
 缶コーヒーのプルタブを開け、一口飲もうとしたところだった。俺は思わず、動きを止めていた。
「井荻が……?」
「ちょうど定時だったから。更衣室で高倉さんと一緒になるだろうと思って、残業しないでもう帰るように伝えたんだ。あのふたり、大学時代の先輩と後輩なんだろう?」
「ああ…………」
 井荻。
 井荻沙織。
 俺は、あの澄んだ瞳に見つめられると、なんて呼べばいいのかわからない、複雑な感情を抱かずにはいられない。
 だが貝塚からその話を聞いて、多少、安堵できた。あいつが高倉の面倒を見てくれるなら、安心だ。
「そういえば高倉さん、春までに辞めちゃうんだって?」
 コーヒーを飲んでひと息ついていると、貝塚が思い出したようにそう言った。
「そうらしい。俺も次長からそう聞いた」
「高倉さん、辞めるってことを直接次長に伝えたのか。直属の上司は縞本なのに、それを飛び越して」
「『もうあんな人の下で働きたくないです』だとさ」
「ははは、そりゃあ確かに、縞本に直接は言えないよなぁ」
 貝塚は煙を吐き出しながら、朗らかに笑った。それから妙に意地の悪い笑みを浮かべると、声を落としてささやくように言う。
「高倉さんが辞めるんだったら、うちの課の井荻さん、そっちに異動させちゃおうか?」
「余計なことしなくていいぞ」
 コーヒーをあおる。缶コーヒーは、飲めないほど不味くもなければ、また飲みたいと思わせるような美味さもない。
「ああ、そうか。縞本も、春で異動なんだっけ」
「九州にな」
「大出世じゃないか」
「正直、あまり嬉しくはないな」
「寂しくなるね」
「……そうだな」
 貝塚が灰皿に煙草をこすりつけ、口から最後の紫煙を吐いた。俺はすっかり短くなった煙草を灰皿の中へと落とす。
 吹きつける風に、ガラスが小さく揺れる音がした。窓の外は曇天で、今にも雪がちらつきそうな、重たい雲で埋め尽くされている。風が強いのだろう、雲の流れが速い。
 すっかり暗くなった街を行く人々は、皆黒っぽい装いに見えた。春の訪れなど、微塵も感じさせない景色。
 だが、春は必ずやって来る。そしてその時、俺はもうここにはいない。
「コーヒー、ありがとな」
 礼を言うと、貝塚は目を伏せたまま片手を挙げて俺に応えた。もう一本吸ってから仕事に戻るつもりらしい、次の煙草を咥えていた。俺は喫煙室を出て、三階の営業部フロアに戻るため、階段に向かって歩き出す。
「――正直、もうあんな人の下で働くことに耐えられないっていうか」
 廊下を歩いていたら、そんな声が聞こえた。ちょうど、女子更衣室の前だった。
「縞本さんって、正直、人の心がわからないんだと思うんですよね。……あ、」
 更衣室の扉が開くと同時に、声の主は口をつぐむ。見れば、高倉志保だった。制服から着替え、今から帰社するところのようだ。まだ泣いていたのか、その目は赤く、潤んでいる。
 高倉は俺の顔を見て咄嗟に、もうひとりいた女子社員の後ろへと隠れた。そのもうひとりは、井荻沙織だった。
 ふたりは、今日俺が叱責したことについて、話をしていたのだろう。俺は思わず、足を止めていた。高倉は井荻の陰で動かないまま、こちらを見ようとしない。何か言葉を発しようともしない。
 俺は彼女にとって、顔も見たくない相手なのかもしれない。口にした言葉が俺を非難する内容であっても、それを即座に謝罪する気にもならないのかもしれない。上司の陰口を叩くのは良くないことかもしれないが、それは恐らく、高倉の本心であるに違いない。
 こんな人間の下で働きたくないと、そう言って泣く彼女を否定するのは、間違っている。退職を決め、次長にそう告げた彼女の感情は、本物だ。それをあれこれ言うのは間違いだ。少なくとも俺に、そんな権限はない。
 だがこの苛立ちは、どこへ向かわせればいいのだろうか。
 俺は小さく息を吸い、波立つ自分の感情を抑制する。
「井荻、」
「あ、はい」
 呼ばれた井荻は一瞬、きょとんとした表情をしたが、すぐに返事をした。
「今日、行くのか?」
「はい。行きます」
 どこに、と言わなくても、井荻はそう返事をした。ちゃんと通じたようだ。
「あっそ」
 高倉のいる前で、それ以上の長話をする気にはなれなかった。俺は再び歩き始める。階段を登り、定時を過ぎたがまだ半数近い社員が残っている営業部フロアへと足を踏み入れる。
 俺の机の上には、まだやらなければいけない仕事が積んであった。目の前の書類に集中しろ。自分にそう言い聞かせる。とりあえずは、今日の会議の大失態の後処理だ。どうやって先方の信頼を回復するか。まずは、それから考えよう。
「……人の心がわからない、か」
 仕事に取りかかろうと思っているにも関わらず、先程の高倉の言葉をつい反芻してしまう。誰かからそう言われたのは、これが初めてという訳ではなかった。思い出す。土下座して、額を畳にこすりつけて頭を下げていても、罵声を浴びせられ続けたあの日のこと。
 ――あなたは自分のことが、図々しいとは思わないんですか。私たちの心なんて、あなたにはわからないんでしょうね。
 そんな風に言ったあの人の言葉を、今でもときどき、夢に見る。その言葉は後悔となって、感情を掻き乱し、俺のことを痛めつける。
 俺は誰の心もわからない。わかりようがない。たとえばそれは、上司に叱責された部下の、責任を逃れたいという甘い言い訳であり、あるいは、息子の自殺を止めることができないでいた、ふがいない親である自分たちへの怒りであり、もしくは、素直に感情を口にすることができなかった、恋人に対しての猜疑心だ。
 俺はそういった誰かの感情を、わからないままでいる。わからないから他者を傷つけ、そうして、俺自身も傷を負ってきた。傷つけたのと同じ数だけ、痛みを感じた。
 そしてそんな俺の心も、誰にも理解などされない。
 だが、わかってなんてくれなくていい。共感も同情も、必要とは感じない。ありふれた安易な言葉で癒されたいと思うほど、俺はまだ堕ちてはいない。
「……わからなくって、結構だ」
 そう、独り言をつぶやいたら、やっと仕事に取りかかる気になった。
 今の俺にはすべきことがあり、それは誰かの傷を癒すことではない。
 たとえそれが、自分自身の傷なのだとしても。
    人間が自殺するきっかけなんて、ほんの些細なことにすぎないということを、俺は知っているはずだった。
 ある年の、気が滅入るような雨と湿度の高い日々が終わらないでいた七月の初め、前職の会社で働いていた俺は、この春に入社した新入社員のひとりが自殺をしたという報告を部長から受けた。自殺した井荻公介は、俺が初めて受け持った部下のひとりだった。
 その報告を受けた時、「一体、どうして」という疑問が湧き、そして同時に、その疑問を掻き消すかのように、「人が死ぬ理由は、大層なものとは限らないよな」と思う自分がいた。
 井荻公介が自殺した理由を、俺は知らなかった。だが、彼が時折、暗い顔をして机に座っているのを見たことはあった。かと言って、死を覚悟して思い詰めているという風にも見えなかった。俺と話をする時はいつだって朗らかであったし、冗談を言って周囲を笑わせることだってあった。時間の空いた時や飲み会の席では世間話をすることもあったが、プライベートなことを深く聞いたことはなく、たとえばまだ独身だった彼に恋人がいるのかとか、両親や家族と上手くやっているのか、そういったことは知らなかった。
 だから部長から、「縞本、最近、井荻くんに何か異変とかなかったか?」と尋ねられた時、正直に、「少し沈んだ様子の時もありましたが、深刻そうな様子ではありませんでした」と答えた。
 その時、部長が妙に神妙な顔つきになり、「そうか……」と、独り言のようにつぶやいて深く頷いていたことに、俺は違和感を覚えたが、部長の様子が何を危惧しているのかはわからなかった。後になってから思い返してみると、恐らく部長は、この時すでに、この先に起こり得るであろう未来を予想していたに違いなかった。
 井荻公介が自ら命を絶ったということはショックではあったが、それはどこか、俺の手が及ばない、遠くの出来事であるようにも感じられた。実際、その後の俺にできたことは、彼が受け持っていた仕事を整理し、他の部下たちに割り振ることだけだった。
 仕事を片付けているうちは、彼がすでにこの世にいないという事実は実感できなかった。それは葬儀に参列している時だけは別であったが、結局、社内の自分の机に座っている間は、井荻公介は病欠で長期休養しているのと変わらない気持ちでいた。彼が突然の不在となって混乱したのは最初の一週間程度で、それを過ぎてしまえばいつも通り、机に積まれていく書類を右から左へと処理していくだけだった。
 その状況が一変したのは、彼の両親が、彼の遺書を手に会社を訪ねて来た時で、そしてその時初めて、井荻公介が「上司からパワーハラスメントを受けていることが苦痛でたまらない」ということを理由に、自らの手で命を絶つと、そう書き残していたことを知った。
 俺を含め、井荻公介と同じ課に所属する社員たちは、常務と役員が待つ会議室にひとりずつ呼び出され、面談を受けた。二週間にも及んだ聞き取り調査の結果、井荻公介に嫌がらせをしていたのは課長であったということが判明し、これには多くの社員がそう証言したことによって、ほぼ確定だと判断された。
 確かに、入社直後から、課長と井荻公介は折り合いが悪かった。それは恐らく、ふたりの性格が真っ向から正反対であったということと、自身の学歴を鼻にかけている節があった課長より、さらに有名な大学を井荻公介が卒業していたということが、そもそもの原因であるように思われた���
 俺は何度か、課長が井荻公介を指導しているところに居合わせ、時に過剰なのではないかと思うほど叱責をされている時、間に入ってそれを止めたことがあった。仲裁に入ると、課長はそれ以上彼を叱ることはしなかったが、「そもそも、井荻がこんな体たらくなのは、直属の上司であるお前がしっかりしないからだ」と、怒りの矛先を俺へと向けた。
「井荻には、俺からよく言って聞かせますので」と頭を下げても、俺に対する課長の文句はすぐには止まなかった。十五分以上にわたる説教から解放され、自分の席へと戻った時、隣の席の井荻は少しほっとしたような顔をしていた。課長にはわからないように、声を出さないまま「ありがとうございます」と井荻の口元が動いた時、俺は小さく苦笑して、「別に、気にすんなよ」と声をかけたものだ。
 そうやって気にかけてはいたが、結局のところ、井荻公介は俺の目が届かないところで課長から嫌味を言われ、嫌がらせをされ、日々少しずつその心に傷を負っていっていたのだった。
 同じ課の社員たちは、自らの上司を糾弾することを恐れ、「これは同じ課の人から聞いた話なんですが……」など��いう前置きを挟み、あたかもそれが、直接自分が見たり聞いたりしたのではないとしながらも、課長がどんな回りくどい手を使って優秀な新入社員をいたぶっていたのかを話した。それは、まるでクラスの悪ガキが考えつきそうないかにも幼稚なものから、思わず耳を疑いたくなるようなものまであったが、結局のところ、課長からパワーハラスメントが行われていたことには違いないと、役員たちには判断された。
 そこで、ひとつの問題が持ち上がった。いけ好かないこの課長は、社長の遠い親戚筋に当たる人物だった。そういった後ろ盾があるにも関わらず、いつまでも課長のまま昇進しないのは、それだけこの課長が無能であるということの何よりの証明であったのだが、役員たちはこの課長を庇うことを決断したらしかった。課長が新入社員にパワーハラスメントをして自殺にまで追い込んだという事実は、会社の信頼の大きな損失に繋がり、ただでさえ低迷している直近の売上額がさらに低下するのは避けられない。そう考えた役員たちは、俺に貧乏くじを引かせた。
 井荻公介に対するパワーハラスメントは存在しなかった。だが、直属の上司である俺には、監督不行き届きなところがあった。
 結局、社内では「そういうこと」として処理がされた。
 俺はその責任を負い、退職勧告の処分を受けた。それはつまり、俺が井荻を死に追いやったのだと、そういう解釈になってもおかしくはない結果だった。
 その話を部長から告げられた時、いつも頼れる上司であったはずの部長が、なんとも悲痛な面持ちでうつむいていたことを、まるで昨日のことのように思い出せる。
「役員たちには抗議したんだが……。すまんな、縞本。俺の力不足だ」
「いえ……。井荻のことをもっとちゃんと見てやれなかった、俺にも責任がありますから……」
「すまんな……本当に、すまん」
「部長、もういいですよ」
「すまん…………」
 部長はこのことがよっぽど後ろめたかったのだろう、「知人に会社を経営している人がいて、その人にお前のことを雇ってもらえないか、なんとか頼み込んでやるから」と、次の就職口の世話までしてくれた。俺の処分も、懲戒解雇にならずに勧告で済んだのは、この人の尽力があったからだった。
 途端に、俺の両肩に、井荻公介の死は重くのしかかってきた。不思議な話だが、その重量を知って初めて俺は、井荻の死を実感として受け止めることができたのだった。つまりそれは、取り返しのつかない、拭い去ることのできない現実で、それは過去のものではなく、未来にまで影響を及ぼす絶対的な事実だった。
 井荻公介の両親のもとへ、謝罪のために訪ねた頃、長かった梅雨はようやく明け、代わりに俺は、容赦のない日射しに焼かれ続けていた。
 週末の昼下がりに訪れた井荻家は、外の熱気などまるで嘘のように、空気は重く凍てついていて、それは最愛の息子を突然失った両親の、怒りと悲しみが入り混じって吐き出される冷気だった。
 異様とも思えるほどの存在感を放つ真新しい仏壇が置かれた和室で、俺は井荻公介の遺影と並んで座ったその両親の前、自分が彼の直属の上司であることと、社内にパワーハラスメントの事実はなかったということを伝えた。
 その途端、ふたりは激昂し、俺のことを非難した。
「そんな言葉は嘘だ、公介は上司からのパワーハラスメントを苦に自殺したのだ」、と。
「公介は、私たちの最愛の息子は、あなたのせいで死んだのだ」、と。
「あなたが、殺したのだ」、と。
 そうだ。俺の言葉は、真っ赤な嘘だ。井荻公介を苦しめていたパワーハラスメントは実際にあった。だが苦しめていたのは俺じゃない。課長だ。俺は以前から、あの課長が気に食わなかった。俺だけじゃない。社内で課長を好いている人間なんて、恐らくいない。皆、表立って声や顔に出さないだけで、あの人のことを嫌っている。なのに、誰も口出しできなかった。だから井荻公介は死んだ。俺が、俺たちが殺したのも同然だ。見ていたのに。聞いていたのに。誰も止めなかった。誰も助けなかった。だから、井荻公介は。自らの手で、命を――。
「沙織、そこで何をしているの」
 井荻公介の母親がそう言った声で、俺は思わず、下げ続けていた頭を上げそうになった。目線だけ動かして仰ぎ見る。
 和室の入り口に、ひとりの少女が立っていた。黙ったまま、こちらをじっと見ている。高校の制服を着て、エナメルのスポーツバッグを肩から提げていた。日焼けした額に、汗で前髪が張り付いている。今日は土曜日だから、学校は休みなんじゃないのか。部活動の練習でもあって、その帰りなのだろうか。
「帰ってきたら、ただいまって言いなさいって、いつも言ってるでしょう」
 少女は俺と目が合っても、挨拶の言葉を発しないどころか、会釈のひとつもしなかった。ただ、何かを探ろうとしているような深い瞳で、俺のことを見つめていた。その仕草は、死んだ井荻公介に似ていた。それからやっと、井荻には妹がひとりいるらしいことを思い出し、この少女こそが、その妹なのだとわかった。
「もういい、二階へ行っていなさい」
 父親がそう言うと、少女は返事もしないまま、俺からふっと目線を逸らして、廊下の向こうへと歩いて行った。やがて、階段を登って行く音が聞こえてくる。
「……すみません。今のが、娘の沙織です」
 どこか落胆したような声音で、父親がそう言った。
「以前から、あまりおしゃべりな子ではなかったのですが、公介が亡くなってからは、口数がほとんど……」
 肩を落として言う父親の姿は憔悴しきっていた。ついさっき、「出て行ってくれ。もう二度と、この家の敷居を跨がないでくれ」と、菓子折りの箱を投げつけてきたのが嘘のようだ。
 だがそれは、そのひと時だけだった。父親はそう口にしたことで、息子が死んだのは、今目の前にいるこの男のせいだということを思い出したようだ。ぷつぷつと汗が噴き出していくかのように、俺への非難が始まっていく。
 俺はふたりの前で頭を下げ続けた。何を言われても、会社から言われた通りのことを、言われたように繰り返した。パワーハラスメントはありませんでした。そういった事実は確認できませんでした。
 井荻の両親はそれを否定し続けた。嘘つき、嘘つき。人殺し人殺し人殺し。息子を返して。私たちの息子を返して。
「あなたは自分のことが、図々しいとは思わないんですか。私たちの心なんて、あなたにはわからないんでしょうね」
 母親が吐き捨てるようにそう言って、それから、わっと泣き出した。今日何度目かになる嗚咽を漏らしながら、不明瞭な声で息子の名を呼ぶ。
 呼ばれた息子は遺影の中で、穏やかな笑みを浮かべている。その笑みは、もうこの先、絶えることがない。彼はずっと微笑んだままだ。実際の井荻公介は、もう二度と笑うことも、母親に返事をすることもできないのに。
「もう、お引き取りください」
 父親が、耐えかねたようにそう告げた。
「あなたが来ることは、公介の供養にはなりませんから。もう、結構です」
 窓の向こうから、蝉の鳴き声がする。母親はおいおいと泣き崩れている。俺が持参した菓子折りの箱が、ひしゃげて畳に落ちている。蛍光灯の点いていない、昼間でも薄暗い部屋で、仏壇の蝋燭の火がゆらゆらと揺れる。
 ああ。
 俺はこんな光景を、以前にも見たことがあった。
 真奈が死んだのも、こんな暑い日のことだったっけ。
 あんな風に遺影の中で、ただ静かに笑っていたっけか。
 ※『氷解 -another-』(下) (https://kurihara-yumeko.tumblr.com/post/634221127908098048/) へと続く
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神戸・教員間いじめ事件の衝撃2019年10月、教員による教員「いじめ」が大きく報道された。舞台は神戸市立東須磨小学校。インフォーマルな権力を掌握した教員グループが、他の教員たちを習慣的に辱め、暴力を振るい、奴隷化し、そのことを楽しんでいた。被害教員を恥辱にまみれさせる嗜虐あそびの数々は、奴隷プレイともいうべきしかたで、生きることのすべてをきめ細かく「わがもの」につくりかえようとするものであり、全人的な教育・指導(人格支配)の創意に満ちていた。またそれは、職場を加害教員グループを中心とするお祭り騒ぎで埋め尽くす、政治的な空間占拠の営みでもある。彼らは、ここはオレたちを中心とした祭りで埋め尽くされた世界であるという「���実」をつくりあげ、逆らうことはできないぞと他人を畏怖させ、支配を確かなものにする。被害教員を(それが人間だからこそ)人間以下の存在に変形させるお祭り騒ぎによって、あそびの「感動をわかちあい」、職場を「感動でいっぱいにする」ことは、自分たちの勢いを中心として「指導力」がすみずみに広がる集団形成をもたらし、逆らうと怖いぞという権力の誇示にもなっている。「人間まるごと支配」の祭りと、人間関係の利害・権力政治が一体となり、人格モードが変わった教員たちはおぞましい別世界をつくりあげていた。 〔PHOTO〕iStock もちろんこのような「世界」は、市民社会の基本的なかたちと相容れない。現代の先進諸国は人間の尊厳に高い価値をおく。人は個人として尊重される。奴隷的あるいは家畜的な扱いを受けない。人格支配は許されない。すべての人は人間として平等である。もちろん限定された職務の範囲において職務権限の不平等は必要だが、それは、人間「まるごと」が上位者たちに「なかよくしてもらえるよう」に変わる――生まれ変わる――ことを求める身分関係ではない。これが市民社会の基本的なかたちである。しかし日本の学校は、多かれ少なかれ、子どもだけでなく教員にとっても、「何があたりまえの現実であるか」が市民社会と異なる別社会になっている。それは学校だけではない。「社畜」「ブラック企業」などと言われ、人格支配がまかりとおる日本の職場についても、同じことが言える。 わたしたちが生きる日本は、中間集団全体主義にまみれた社会だ。中間集団全体主義は、人格支配を必須条件とする。市民社会の論理とは相容れない。各人の人間存在が共同体を強いる集団や組織に全的に(頭のてっぺんから爪先まで)埋め込まれざるをえない強制傾向が、ある制度・政策的環境条件のもとで構造的に社会に繁茂し遍在している場合に、その社会を中間集団全体主義社会という(『いじめの構造――なぜ人が怪物になるのか』253ページ)。東須磨小学校の閉鎖空間では、私たちの社会のすみずみにいきわたる中間集団全体主義が、極限的、集中的、典型的にあらわれた。これは、私たちの顔をくっきりと映し出す倍率を高くした鏡である。人間を不幸にする社会のしくみは、「あたりまえ」の生活に埋め込まれている限り、いつまでも続く。「それ」として見えてこないからだ。今回の極限的な事件は、人が人をいためつけ、人が人を恐れて生きなければならない中間集団全体主義の場のしくみを、くっきりと浮き彫りにする。そして、これを社会問題にすべきではないかと問いかける。「殺してやる」「どうなっても知らんぞ」まず報道を用いて、教員たちの群れがつくりあげていた、「別の世界」を紹介する。現校長(前校長のもとで教頭であったが今年2019年になって持ち上がった)は、加害教員たちについて話す。「この4名の教諭は本校の中核教諭です。指導力とともに力を持ち合わせ、私もこの先生から教えてもらうことが多かったです」「自分より力があり、口出しできなかった」(『FNN PRIME』2019.10.08)。このグループが生じた経緯については、次のように報じられている。前の前の校長が一昨年(2017年)4月、後にグループの中心になる加害教員を東須磨小学校に呼んだ。この教員の周囲にイジメ集団が形成された。この教員は、前の校長にも気に入られていた(『週刊新潮』2019年10月31日号)。校内でインフォーマルな権力を掌握し、だれも逆らうことができなくなった加害教員グループは、以前の校長たちのもとで勢力を拡大していった。 東須磨小学校に勤務していた元教員は証言する。前校長は、「あいつは今から切る」「殺してやる」といった発言をしていた。殺すというのは、この(教員の)世界で生きることができなくしてやるという意味なのだが、そういうことはしょっちゅう言っていた。前校長は、「裏切った奴らの方に付くんだったらオレは遠慮なくあんたのことは切るからな」「どうなっても知らんぞ」とことあるごとに言っていた(フジテレビ『バイキング』2019年10月16日放映)。被害者の一人は、昨年2018年の12月に前校長に相談しようとしたが、「それはいじめじゃないよな」「いじめられてないよな」と繰り返し言われ、「仲は良いよね」と念を押された。また、「(加害教諭から)お世話になっとるやんな(世話になってるよな)」とも言われた。前校長は、近隣学校の親睦会に欠席すると伝えてきた教員に「お前、オレの顔に泥を塗ってええんか」と脅した(教頭時代)。酒を飲めない教員に強制的に酒を飲ませた。書類を渡しに来た教員に、「お前、タイミングを考えろよ。俺がイラついているのが分からんのか」と凄んだ。以後その教員は他の教員に「今、〇〇先生に話をしに行ってもよいですか」とメモで事前確認をしなければならなくなった(教頭時代)(『週刊文春』2019年10月31日号)。想像を絶する加害行為の数々加害教員グループの行為については、次のようなことが報道されている。(1)身体を押さえつけ、歓声を上げながら、激辛のカレーやラーメンを強制的に食べさせる。その激辛の汁を目に塗りたくる。焼き肉のタレを大量に飲ませる。(2)新車の上に乗る。車の中で液体をぶちまける。鞄に氷をいれる。髪の毛や服にノリをつけて、パリパリにする。児童へ配布するプリントに落書をきしたり、水で濡らしたりする。はいていたジーンズを破る。パソコンのキーボードを壊す。携帯電話にパスワードを入力して使えなくする。(3)被害教員の尻を棒状のもので叩き、みみず腫れが生じた。足を踏みつける。プロレス技をかける。椅子を蹴る。被害者が『痛い、痛い』としゃがみ込むほど強く、叩いたり、蹴ったりする。熱湯の入ったやかんを顔につける。首をしめて呼吸困難に陥らせる。ビール瓶を口に突っ込んでビールを飲ませる。ビールのから瓶で頭をたたく。被害教員(男性)の乳首を掃除機で吸う(『週刊新潮』2019年10月31日)。(4)「ボケ」「カス」「クズ」「とろい」「犬」「ポンちゃん(ポンコツの意味)」などと言う。「毎日、…〝性病口〟〝くず口〟〝うんこ口〟〝ごみ口〟などと呼」ぶ(『週刊新潮』2019年10月31日号)。(5)飲食を強要する。仕事をしているのに自動車による送迎を強要する。ダイエットを命じ、体重増減のこまかな報告を要求する。(6)被害教員が担任をしているクラスの児童に「反抗しまくって、学級をつぶしたらいい」とけしかける。被害教員を侮辱し痛めつけるさまを児童におもしろおかしく話す。児童に被害教員のことを「犬のような存在」と言う。(7)猥褻メッセージを送るよう、強要する。「そろそろ生理ちゃうんか」などと女性教員の生理周期を話題にして笑いものにする。しゃがんでいるときに見えた女性教員の下着をみなのまえで話題にする。しゃがんでいる女性教員に後ろから接近し、足で尻を持ち上げるようにして接触する。セクハラの被害教員を、頭が揺れるほど叩いたり、運動会でひきずって怪我をさせたりする。(8)男性教員と女性教員に性行為を強要する。さらに性行為を画像にとって報告するよう命令する。 これについては『週刊文春』が詳細に報道している。 …A(加害教員)が、Z先生(被害教員男性)に向かってこう尋ねた。「そういえばお前、体重なんぼまで落ちてん?」…Z先生はAと男性教員Bらから、ダイエットを命じられていた。…体重の増減は、数値の見える体重計の写真をLINEに送ることで、Aらに管理されていたが、その日、Z先生の体重を確認したAは、ニヤつきながらこう言い放ったという。 「おっ、痩せてるやん。ご褒美に約束通り、Y(女性被害教員)と(性行為の意で)ヤろか」 Aから性行為を強要されたY先生とZ先生は、拒否の意思を示した。だが、Aはうら若き女性のY先生にこうたたみかける。 「じゃあこの後、Zのチンコ握るくらいはせぇよな」 さらにAは、後で行為の証拠画像を送って来るようにと念押しまでした。…Aは「ネットで拾った画像を送って来ないように」と、Y先生の手に、黒いペンで目印となるマークを付けたのだ。…解散間近、AはY先生とZ先生に追い打ちをかける。 「お前ら、(さっき言ったことを)今日やらんかったら知らんぞ」 …「(証拠画像は)汚いからオレの携帯には送ってくんなよ。X(被害教員)の携帯に送れ」 …X先生のスマホが、メールの受信を告げる。画面を開くと、Aが命じた行為を実行したと思しき画像が映し出された。男性の陰部を握る女性の手には、Aが付けた黒い印が残っていた。…その後、Aはこの経過を面白おかしく同年配のBに話し、「Zが射精した」と二人で笑いの種にしていたという。(『週刊文春』2019年10月24日号、22~23ページ)(9)被害教員(男性)が交際している女性についての性的なデマによる侮辱、および下着・性的画像・接触の要求。これについては『週刊新潮』と『週刊文春』が報じている。加害教員は、被害教員が「交際している女性についても、〝やりまんと付きあってるもんな〟〝俺、お前の彼女とエッチした〟〝お前の女、すぐ股開くで〟〝軽い女やから〟」などと言った(『週刊新潮』2019年10月31日号)。 C(加害教員)はX(被害教員)に『Y(Xが交際している神戸市内の女性教職員)の下着を持ってこい』とか『下着の写真を撮ってこい』と要求するようになった。Xのスマホを取り上げ、勝手にフォルダをスクロールして彼女の写真を探したこともあった。「オレはYと一発ヤッた」と言い出して、性器の特徴まで妄想して、ニヤニヤと語り始めた。CはXに、Yについての性的写真をしつこく要求した。Cは、自分がつくった粘土細工をXに渡し、それをYの自宅アパートに飾っておくよう命令した。そしてXに、「おい、彼女の下着をはやく見せろよ。そういえば、粘土細工を渡したよな。オレの作品を部屋にちゃんと飾っとるか、今から行って確認させろ」と言って、実際にYの自宅にやってきた。Cは何度もYの自宅前までおしかけた。Cは飲み会の帰りにXの車に乗り込むと、自宅ではなく、Y宅に向かうようXに指示したこともあった。Cは、Yの家に上がり込み、わいせつな行為に及んだとする噂を生じさせた。(『週刊文春』2019年10月31日号)(10)被害教員が出張にいくとき「甘いもんを買ってくるのが礼儀やろ」と強要し、買ってくると「こんなもんで好かれようとするな」といって、目の前でお土産を捨てた(『週刊新潮』2019年10月31日号)。(11)思い通りにならないと感じた児童の体を突き飛ばす。被害児童は骨折した。学校組織はそれを警察に届けず、闇から闇に葬った。市教育委員会は、「突き飛ばしたのではなく、児童をバレーボールのコートの外に出そうとした際に児童の足がもつれて転んだ」と説明した。児童に「あなたのことが嫌い」と言う。急に椅子を引いて児童を転倒させる。被害児童は頭を打った。加害教員について次のように言う保護者もいた。「本当に熱心で、親身になってくれる先生だったんです。問題を抱えた子の家に何回も足を運んだり、イジメやセクハラをしていたなんて信じられません」(『週刊文春』2019年10月31日号)。現校長は一連の虐待行為を教育委員会に報告していなかった。事件が大きく報道された後の記者会見で、ときに泣いたりしながら、誠実そうな表情で、「本当に被害教員には申し訳ないが、そういうことを感じたり気づくことはできなかった。隠蔽という意図は一切私の中ではありませんでした」と答える。それに対し、東須磨小学校で勤務していた教員は、「私は、被害者が暴力的なパンチやキックをされているのを、主に職員室内で見た。教頭(現校長)は同じ職員室内で仕事をされているので、余計目にする機会は多かったんじゃないかと思う」と証言する(フジテレビ『バイキング』2019年10月16日放映)。また現校長は、教員の加害行為を問題にする保護者に対し、「先生にも、そして皆さんにも本当にごめんなさいの気持ちでいっぱいです。これから先生たちみんなが仲良くなるように、先生たちは全力で力を合わせて一生懸命がんばります」と答えた(『FNN PRIME』2019年10月8日)。10月16日に開かれた保護者会で学校側は加害教諭4人のコメントを公表した。そのうちリーダー格の40代女性教諭のコメントは次のようなものだった。「自分の行動が間違っていることに気付かず、被害男性が苦しんでいる姿を見ることは、(今まで)かわいがってきただけに本当につらい」。なぜいじめが起こるのかこの事件を、マス・メディアは集中的に報道した。テレビでは、「立派で尊敬すべきはずの先生がこんなことをしている。あきれた。ゆるせない」という感情のストーリーをあおる報道が目立った。ここで起きていることの大筋は、本稿のはじめの部分で述べた。上記報道による紹介を読んだあとで、もう一度、はじめの部分の論述に目を通していただきたい。一言でいえば次のようになる。(1)学校と教育が特別扱いされる現行制度に支えられた構造的な閉鎖空間のなかで、(2)嗜虐的攻撃(いじめ)の筋書を用いた遊びによる悪ふざけのお祭り騒ぎと、(3)利害権力政治が、(4)不可分に結合し渾然一体となることで、(5)大きな市民社会のなかで「何があたりまえであるか」の別領域となった祭政一致の小さな社会が生じた。 以下、今回の事例を検討しながら、この「祭」と「政」の詳細を分析する。加害教員が行った嗜虐的迫害の内容は驚くほど多彩である。一見すると一つ一つがバラバラでまとまりがなく、理解しがたく感じられるかもしれない。しかし、そのほとんどは、以下で説明する全能筋書〈遊びたわむれる神とその玩具〉によって組み立てられていると考えれば、一貫した論理のもとで理解可能になる。戦略的攻撃と嗜虐的攻撃は、結合していることが多いが、それ自体、別のものである。たとえば、ピストルを突きつけて脅した後に口封じのために撃ち殺して金を奪うといった行動は、通常、「金を手に入れるためにピストルで脅し、口封じのために射殺する」といった戦略的攻撃の側面と、「ピストルをつきつけられた被害者がブルブルふるえて失禁するさまを見てゲラゲラ笑う」といった嗜虐的攻撃の側面が結合している。嗜虐的攻撃は、独特の欲望のひな型を満たすことをめざす攻撃である。この欲望のひな型は、全能を享受することに向けられた筋書の一種である。説明しよう(以下引用箇所では嗜虐的攻撃を「いじめ」と表記している)。【他者コントロールの欲望のひな型】他者をコントロールする全能というものについて、掘り下げて考えてみよう。たとえば、コップを壁にたたきつけて粉々に砕いても、そこには他者コントロールの手応えはない。それに対して他者は、自己とは別の意志を有しており、独自の世界を生きている他者である。だからこそ、いじめ加害者は、他者の運命あるいは人間存在そのものを深部から、自己の手のうちで思いどおりにコントロールすることによって、全能のパワーを求める。思い通りにならないはずの他者を、だからこそ、思い通りにするのである。これを、他者コントロールによる全能と呼ぼう。他者コントロールによる全能には、さまざまなタイプがある。いじめによるものは、そのうちのひとつだ(『いじめの構造――なぜ人が怪物になるのか』74~76ページ)。それでは、嗜虐的攻撃(いじめ)の欲望のひな型は、どのようなものか。【嗜虐的攻撃(いじめ)の欲望のひな型】いじめの加害者は、いじめの対象にも、喜びや悲しみがあり、彼(彼女)自身の世界を生きているのだ、ということを承知しているからこそ、その他者の存在をまるごと踏みにじり抹殺しようとする。いじめ加害者は、自己の手によって思いのままに壊されていく被害者の悲痛のなかから、おもいどおりにならないはずの他者を、だからこそ、思いどおりにする全能を生きようとする。このような欲望のひな型を、加害者は前もって有しており、それが殴られて顔をゆがめるといった被害者の悲痛によって、現実化される。これがいじめの全能筋書である(『いじめの構造――なぜ人が怪物になるのか』77~78ページ)。【嗜虐的攻撃(いじめ)の全能筋書のレパートリー】嗜虐的攻撃の全能筋書は、具体的な迫害行為の場面で、さまざまなかたちをとる。これらはすべて、もともとあった他の筋書が、嗜虐的攻撃の全能筋書に転用(流用)されたものである。代表的なものは、次の三形態のレパートリーである。(1)〈破壊神と崩れ落ちる生け贄〉: 加害者が力を加えると、被害者は、その爆発的な勢いによって瞬時に崩れ落ちる。子どもが積み木を一気に崩すときのような筋書の転用(流用)。(2)〈主人と奴婢〉: 命令―使役の筋書の転用(流用)。(3)〈遊びたわむれる神とその玩具〉あるいは〈遊ぶ神〉: 悪ふざけによって、通常の世界の条理を、条理が条理であるからこそ「ありえない」やりかたで変形させることは、世界そのものを自在につくりかえているかのような全能筋書となる。全能は、笑い転げるというしかたで享受される。遊びたわむれる神は笑いながら世界を破壊しつつ創造する。つまり、あらたな接続線を引いて世界の別次元の脈絡をありえないようなやりかたで強引に結びつけ、思いのままに条理そのものを一気に破壊しつつ再創造する。そして、その思いもよらぬ形態変化の愉快なかたちに笑い転げるのである。この論理は抽象的に考えればムズカシそうであるが、具体例を挙げれば、わかりやすい。たとえば通常は口から吸うたばこを肛門にさして、肛門から吸うしぐさをし、これをホタル(尻が光る昆虫)と命名する(学生の体験談より)。こういうものである。こういった楽しい遊びのストーリーが、嗜虐的攻撃の全能筋書として転用(流用)される。この全能筋書〈遊ぶ神〉のレパートリーが、人間の嗜虐的攻撃に最悪の「豊かさ」を付け加える。たとえば児童生徒による嗜虐的迫害(いじめ)事例をみると、よくここまで思いつくものだと感心せざるをえない遊戯的様式を、加害者たちは創造する。たとえば、手に積ませたおがくずにライターで火をつける。靴を舐めさせる。ヒモで首を縛って四つんばいにして犬にする。草を食わせる。便器に顔を突っ込む。性器を理科の実験バサミではさんだり、シャープペンシルを入れたりする。スカートを頭の方で結び視界と自由を奪ったうえで、予期せぬ身体的侵襲を加える虐待遊びを、「茶巾絞り(ちゃきんしぼり)」と命名する。そこには歌や奇妙な命名や振り付けがしばしば付随する。また、ルワンダや旧ユーゴなどでみられたように、民族紛争時の民兵が、ただ殺すのでなく、なぶり殺しを行う(さらに強姦がその「味つけ」に加わる)ときの、創意に満ちた「なぶり」の要素を生み出すのが、全能筋書〈遊ぶ神〉である(『いじめの構造――なぜ人が怪物になるのか』84~97ページ 要約と加筆)。この理論について詳しくは拙著『いじめの構造――なぜ人が怪物になるのか』を参照されたい。学術書としては『いじめの社会理論――その生態学的秩序の生成と解体』がある。 〔PHOTO〕iStock 性的に「おもうがまま」にすること今回の東須磨小学校の事件に特徴的なのは、全能筋書〈遊ぶ神〉が突出している、ということである。加害教員が被害教員を嗜虐的に痛めつける筋書のレパートリーのうち、〈遊ぶ神〉が圧倒的に多い。加害教員たちが行っていたお祭り騒ぎは、広い社会では何の利益ももたらさない純然たる愚行であるが、閉鎖的な世界ではきわめて合理的な権力政治の手段になっている。実際に彼らは世渡りがうまい。自己コントロールも人並み以上である。加害教員は前校長のお気に入りでもあった。前校長が、些細なことに難癖をつけて下位者を痛めつけるありさまを紹介したが、このような前校長にへつらって気に入られるためには、かなりの自己コントロール能力が必要である。加害教員たちは、市民社会から遮断された人間関係の政治において、きわめて合理的にふまっている。それは次のような祭政一致の政治である。 (1)お祭り騒ぎの勢いによって、ここにいるオレたちが勢いの中心なんだゾということを絶えず示し続けることができる。(2)そのお祭り騒ぎが嗜虐的迫害(いじめ)であるから、他の人たちはものすごい恐怖を感じる。このことによって、他人を恐怖で支配することができる。(3)もともと日本の学校は構造的に、その場その場の「みんな」の感動が響き合い「ひとつになること」、「わたしたちの日々のがんばり」、主流のムードに同調して「なかよくすること」が、規範の準拠点になりがちである。規範の準拠点とは、神とか、天皇とか、法とか、人間の尊厳といった、「よい/わるい」を決定する、これ以上根拠をさかのぼることができない畏怖すべき参照点である。このような小社会で、お祭り騒ぎの勢いの中心になることは、自分たちが生み出す「みんなの」勢いが、神のように畏怖すべき規範の準拠点になるということでもある。勢いの中心にある側に逆らうことは、力関係上大きな損失があるとか、気持ちのうえで圧倒されるとかいったことだけでなく、「なかよくする」「みんなで気持ちを一つにする」という最高規範に反しているという罪悪感をもたらす。加害グループがインフォーマルな権力を掌握し、日々お祭り騒ぎを積み重ねることが、「よい/わるい」の基準自体を外部の市民社会とは別のものにする。彼らはこうして、悪ふざけを積み重ねながら祭政一致の別世界をつくりあげる。これは生物学でいう「ニッチ構築」にあたる。(4)「おもしろ」と恐怖が一体となったお祭り騒ぎは、サブリミナルなところから、人格のまとまりをすり抜けて情動を反応させ、パブロフの犬のような反応の連鎖としての人間の集合体をつくる。こうして人間存在の深いところから被害者を、調教された動物のように従属させることができる。このような祭政一致の「おもしろ残酷遊び」は、進行するにつれて性を手段とするようになりやすい。それは、性が人間存在の深み、核心、根底にあると感じられているからである。だからこそ、それを思うがままに破壊してつくりかえることは、他者の人間存在を「わがもの」にする営みが完成形に近づくあかしとみなされる。性が人間存在の深部が賭けられた領域であると感じられるからこそ、嗜虐的虐待がエスカレートするにつれて、性という媒体が入り込んでくる。多くの前近代社会では、勝った側が負けた側を性的に「おもうがまま」にすることは、その力の輝きを示す営為として当然のことであった。預言者モーセが率いるユダヤ人集団はミディアン人集団との戦争に勝ち、男たちを皆殺しにし、女と子どもを捕虜にした。捕虜たちが生きているのを見たモーセは、もっとまじめに殺せと怒った。「子どもたちのうち男の子は皆殺せ。男と性行為をしたことのある女も皆殺せ。処女だけは、おまえたちのために生かしておけ」(『旧約聖書』民数記)内戦や民族紛争のような局面では、それが条理であるがゆえに条理をひっくりかえして〈遊ぶ神〉が、性の使用と結合して暴走し、強姦と殺戮と極限的なブラック・ユーモアが渾然一体となった凄惨きわまる事態をひき起こす。 心理学者のフィリップ・ジンバルドーは、健康な若者を十数人ずつ、看守役と囚人役に分けて地下の模擬監獄で共同生活をさせた。すると、ほんの数日で、看守役は囚人役を嗜虐的に痛めつけるようになり、囚人役は心理的に破綻しはじめた。(注:近年、ジンバルドーが若干のそそのかしをしていたという説が有力になってきた(参考)。しかし、若干のそそのかし程度でここまでエスカレートすることは、人間は状況によってきわめて嗜虐的になりうることを示す。ジンバルドー自身の不正疑惑と実験そのものの価値は別である)このプロセスが進行するにつれて、看守役が、囚人役に性行為のしぐさをするよう命じてあざ笑うといったことが、自然発生的に増えてきた。また、アブグレイブ収容所に収容された人々に米軍関係者が虐待を加えていた事件でも、それが進行するにつれて、遊戯的に性的な恥辱を与える残虐な行為がエスカレートしていった(ジンバルドー『ルシファー・エフェクト』)。被害教員の存在を深部から破壊しつつ…東須磨小学校の加害教員たちも、被害教員の存在を深部から破壊しつつ完全に「わがもの」にする遊戯として、被害教員の性をいじくりまわしている。被害教員が、その性を、存在の根底において「かけがえのない、固有の世界を生きる、わたし」と関わる領域としているからこそ、そのポイントに集中して恥辱を加えるお祭り騒ぎは、他者を人間であるからこそ人間以下の存在に変形して支配する祭りに欠かせない要素になるのである。また、被害教員が交際する女性は、被害教員にとって「ただ肉体目当てにひっかけて遊んでいる」のではなく、「かけがえのない、固有の世界を生きる、わたし」の深部で交わる「特別なあなた」であるからこそ、加害教員は、被害教員が交際している女性に性的に接近し、汚辱を加えて、お祭り騒ぎをしようとするのである。もし交際女性が被害教員と前者の関係にあったとすれば、加害教員は少なくとも女性の側にはそれほど関心をもたなかったであろう。性の領域にかぎらず、被害者が自己が自己であることに関連づけて、何よりも大切にしている(と感じられる)ものを破壊し、汚し、あるいは、何の価値もない存在に変形することは、祭りに必要なイベントとなる。歴史をひもとけば、子どもを神への生け贄にすることが求められ、それに従うことで共同体の一員として生存することが許される、といったことは、祭政一致の社会ではよくみられる。新任教員がはじめて給料をもらって、あるいはみずみずしい人生の門出を祝うようにして購入したとおぼしきピカピカの新車だからこそ、加害教員たちは上に乗ってへこませ、水をこぼし、汚して破壊しようとする。これが激安のオンボロ中古車であれば、わざわざこのようなことをしないだろう。神は「わたしは全能の神である」といってアブラハムのもとにあらわれた。そして、アブラハムの人生を、高齢の妻が子を産むといった、ありえないことでいじくりまわしはじめた。そしてアブラハムに、子のイサクを殺すように命じた。アブラハムは従順に命令に従おうとした。神はその態度をよしとした(『旧約聖書』創世記)。加害教員グループがやっていることは、こういうことである。前述のお土産のエピソードは、きわめて示唆的である。加害教員はお土産を買ってこいと被害教員を圧迫し、そのうえで、被害者が苦労して買ってきたお土産に「こんなもんで好かれようとするな」と悪態をついてゴミ箱に捨てたのであった。この、お土産をごみ箱に捨てる行為の意味は、中井久夫による次の分析がみごとに当てはまっている。 「透明化作戦」の過程で行われるものに「搾取」がある。… …何よりも被害者を打ちのめすのは、そのようにして被害者にとってはいのちがけで調達した金員を、加害者がまるで無価値なもののように短時間で慰みごとに浪費したり、甚だしきは燃やしたり捨てたりすることである。これは加害者が加害者にとっては被害者の献身的行為も無に等しいということを被害者に見せつけるために行う行為である。被害者にとっては、加害者がいかに巨大で、自分がいかにちっぽけでとるに足りないかを身にしみてしたたか味わう瞬間である。(中井久夫『中井久夫集6 1996-1998 いじめの政治学』みすず書房)癌の進行度をあらわすステージ分類のように、人道に反する行為によって人間が根底から破壊される程度を示すステージを考えることができる。たとえば、ナチスドイツのユダヤ人収容所でのありさまは最高レベルの進行度を示していると考えることができる。そこでは、人前で裸でいるとか、人が見ているところで排便排尿するといったことが、あたりまえの状態になっていた。このような事態が認められれば、ステージはかなり進行していると判断できる。 人間の奴隷化・家畜化『週刊文春』によれば、東須磨小学校の加害教員は男女の被害教員に性行為を強要し、「命じた行為を実行したとおぼしき画像」(『週刊文春』2019年10月24日号)を送信させた。実際に性的行為の画像が送信されたという事態は、人間の奴隷化、さらには家畜化という点で、ステージがナチスドイツのユダヤ人収容所と同等の水準に達していることを示している。加害教員たちが行おうとした遊びの筋書は、次のようなものである。二匹の家畜化した被害教員に、家畜のように交尾することを強制する。飼い主になった加害教員は、侮辱の笑いを浴びせながら、その家畜人間の交尾を見世物にして盛り上がる。これである。性行為の画像を要求することは、性的興奮のためにポルノグラフィを手に入れるといったこととは、まったく異なっている。これは、人間を人間でない家畜にみたてて、人間がその汚い家畜に変化させられて交尾するのを、きれいな人間としてあざ笑う、という筋書を成就する遊びである。だから、加害教員は「(証拠画像は)汚いからオレの携帯には送ってくんなよ。X(別の被害教員)の携帯に送れ」と命令する(加害教員は、被害教員を汚物のカテゴリー(穢れが多い。人に非ず。人間以下の動物)に入れ、自分たちを汚物に触れない清浄のカテゴリー(きれいな人間)に入れる)。その結果、実際に性行為の画像が送信され、加害教員グループは、「Z(被害教員)が射精した」と笑い合うのである。もちろん人間の尊厳を最高価値とする市民社会の側としては、報道が正しいとすれば、このような加害教員たちに、(1)刑事裁判による執行猶予なしの重い刑事罰、(2)民事裁判による高額の損害賠償金の支払い、(3)退職金なしの懲戒免職を科さねばならない。この三つのうち、どれか一つでも欠けることは許されない。たとえ初犯であっても執行猶予をつけてはならない。彼らが為したことは、人道に反する罪であるからだ。加害集団の「世渡り」と「世界」のしくみ以下の論述は、東須磨小学校のケースが生じる10年前(2009年)に書かれたものであるが、「生徒たち」を「加害教員グループ」に代えれば、そのまま、加害教員グループの合理的な「世渡り」と、彼らが生み出しながらそのなかに棲む「世界」のしくみを要約したものになっている。すこし長くなるが、「生徒たち」を「加害教員グループ」に書き換えて紹介しよう。お祭り騒ぎで悪ノリするときの存在感は、群れのなかでの有利な身分や勢力を与える。嗜虐的攻撃(いじめ)によるお祭り騒ぎは脅しによって力を顕示し、自己勢力を拡大する合理的な戦略にもなっている。…集団生活で悪ノリする権力ゲームは、他者コントロールの全能追求で利益を最大化できる、あるいは利益のためにこの全能追求に「気合いを入れ」なければならない利害構造に支えられている。…加害教員グループにとって権力とは、他者コントロールの形態を用いた全能具現の営為であると同時に、利害構造のなかでの戦略的行為でもある。利害構造のなかの戦略的合理性という観点からは次のように言うことができる。お祭り騒ぎ(悪ノリ)は…戦略によって導かれ、このお祭り騒ぎを通じて当の戦略がさらに合理的となるような政治空間ができあがっていく。そしこの政治空間のなかで、お祭り騒ぎはますます戦略的に合理的なものになる。この繰り返しのなかで、巻き込まれた者たちの内的モードは、心理的断片群が瞬時に群れの勢い(空気)に応じて作動する、「群れ人格」のモードへ転換していく。こうして、保身と勢力拡大の手立てを計算しながら、ばかになって悪ノリする者たちが生み出す心理―社会的な政治空間が完成していく。そしてこの政治空間を成立平面として、さらに次の時点の権力とお祭り騒ぎが生み出される。このようなループが回り続けるとき、政治空間は動かしがたい社会的現実になる。そしてこの社会的現実のなかで、嗜虐的攻撃(いじめ)はどんどんエスカレートしていく。(『いじめの構造――なぜ人が怪物になるのか』157~159ページ 「生徒たち」を「加害教員グループ」、「〈祝祭〉」を「お祭り騒ぎ」、「いじめ」を「嗜虐的攻撃(いじめ)」に書き換えた)加害教員グループがどれほど戦略的合理性(世渡り能力)に満ちており、どれほど狭い世界の「中��」として政治的に成功していたかを示すのが、前述の現校長の発言である。「この4名の教諭は本校の中核教諭です。指導力とともに力を持ち合わせ、私もこの先生から教えてもらうことが多かったです」「自分より力があり、口出しできなかった」(『FNN PRIME』2019.10.08)彼らが生きる教育的自治の「世界」に市民社会が介入したとき、彼らは破滅した。彼らの世渡り能力(戦略的合理性)は、教育の世界でうまくやることに特化しすぎており、外の世界が見えなくなってしまっていたのだ。このような教育的自治の世界がいかに有害なものであるかを、加害教員グループはくっきりと示してくれた。 〔PHOTO〕iStock 私たちは、日本のまちがった教育制度のもとで大繁殖する、教育的自治の世界から大きな被害を被っている(これについては、この『講談社現代ビジネス』での一連の論考、あるいは『いじめの構造――なぜ人が怪物になるのか』などで繰り返し論じた)。だが、私たちは学校の集団生活を「あたりまえ」と感じるように習慣づけられてしまっているので、それが目の前にあっても見えてこない。だから学校が市民社会のなかの「別の世界」になること自体が、改善すべき社会問題と感じることはなく、結果、悲惨な事態はいつまでも続く。この、教育的自治の世界で大繁殖する残酷を、東須磨小学校の加害教員グループは、いわば10倍の倍率で拡大してみせてくれた。彼らは、細胞内の特定の構造をくっきりと浮き上がらせる染色液のような存在である。
神戸教員いじめの「残酷な支配構造」加害者が作り上げた「別世界」 - ライブドアニュース
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skf14 · 4 years
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08041926-7
なんで鍵をつけておかなかったんだあのクソ野郎、と舌打ちを溢し、こじ開けられた扉を閉めようとした瞬間、奴の足が隙間に差し込まれ、かけられた手が扉を閉めさせまいと力を込める。怯える母親が俺に抱き付いて、シャツ越しの背中にふにゃ、と柔らかい肉の感触が伝わる。人間の、女の肉だ。くらり、込み上げる吐き気に力が抜けた瞬間、奴が力の限り扉をこじ開けた。俺を突き飛ばすように部屋へ入ってきた奴は母親と俺を交互に見て、怒りをあらわにした表情のまま、俺を見下ろした。何故コイツが怒るのか、分からない。
「何、参加したいの?」
「ふざけるな。」
「出てけ。見世物じゃねえんだよ。」
「もう、一度殺してそれで十分だろ」
「お前に何が分かる。」
「俺は医者だ。お前も医者だろ。そんな当たり前のことすら説明しないと分からなくなったのか。」
「はっ、どのツラ下げて言ってんだ。てめぇでてめぇのガキ殺したの、忘れたか。」
刹那、目の前に真っ白い火花が飛ぶ。ジン、と鈍く刺さるような痛みが頬に走り、歯を食いしばって拳を握りしめる奴の姿が目前にある。ああ、殴られたのか、と、認識が後から鈍足で追いついて、乾いた笑いが込み上げた。
「お前が作り出したモノだろ。」
「......モノ、ねぇ。これ見ても言えるか、その台詞。」
最後まで何も変わらない奴に立つ気力を全て削がれた俺は、床に座り込んだままケツに入れっぱなしだったスマートフォンを操作し、写真を一枚見せた。よく分からない、と眉を潜め写真を見ていた奴の顔から、どんどんと血の気が失せていくのを、まるで映画のクライマックスでも見ているかのような気分で見ていた。要するに、興醒めだ。俺は謎を解く過程が好きなんであって、謎解き後に自己を正当化する泣き言を聞きたいわけじゃない。
「誰だ、これは、」
「お前と、エリの子供だよ。」
「クローンは、受精卵の時点で、あの時処分したはずだ。」
「もう一人いたんだよ。」
「そんな、はずは...本当に俺と、エリの...?いや、そんなはずはない、この顔、エリそのままじゃないか!!」
「お前にはどうしても似せたくなくてなぁ。」
「この子はどこにいる、」
「死んだよ。」
12歳のまま時を止めた子供の顔。画面越しに愛おしさを込めて撫でれば、いつか頭を撫でたときの髪のつるりとした感触が蘇るような気がした。そういえば後ろで怯える母親も、美しい黒髪の持ち主だった。
「アイツの話には、意図的か偶然か、足りないピースがいくつかある。地球が実験場になってから俺はアイツの技術を借りて、自分自身の過去の記憶を全て見た。」
「過去を全て...?」
「ガキの脳味噌で都合良く加工された記憶ほど、目障りなものはないからな。俺はただ事実を知りたかった。」
母親は俺の背中に隠れたまま、精神の疲労からか、うとうとと船を漕ぎ始めている。幼子のような仕草が外見とミスマッチで、脳が違和感に警鐘を鳴らしていた。
「本当に邪教にハマっていたのは、俺の父親だった。生まれて初めて見た景色は、俺を抱き上げた男が、己の顔を切りつけて溢れた血を、恍惚とした顔で俺に塗りたくる姿だ。笑えるだろ?教材ビデオみたく、父親らしい男のイカれた姿を何時間も、何十時間も見続ける母親を、俺はいつも押し入れの隙間から見てた。」
「...彼の話に、父親は出てこなかった。」
「アイツの目的は俺の過去を晒すことじゃなく、母親の話で俺を煽ることだからな。ただ不要な要素を削っただけだ。」
すっかり眠ってしまった母親は柔らかな頬を俺の肩に乗せ、すぅすぅと気持ちよさそうに寝息を立てていた。その艶やかな髪に、そっと頬を擦り寄せて、愚かにも記憶の上塗りを試みる。
「...それに、出さなかったんじゃない。出せなかったんだ。」
「どういうことだ。」
「やけに美味かった母親の手料理が記憶に残ってた。でもそれが何だったのか、ずっと思い出せずにいた。ガキ用の器に山盛り盛られた、味のしつこいオートミールみてえな謎の食い物がさぁ、すげえ好きだったの、俺。3歳頃の記憶を覗いた時、全部の謎が解けたよ。」
「まさか、」
「冷凍庫から取り出された肉の塊をお湯で戻した母親が楽しそうに叩いて柔らかくしてさ、ミキサーでぐちゃぐちゃにして、調味料かけて水入れて鼻歌まじりに煮込んでんの。湯気が立ち込める台所からは喉に張り付くような油の匂いがして、俺はテーブルでその飯を心待ちにしてた。」
口元を押さえて顔を顰める姿にこみ上げた笑いを噛み殺し、ため息を一つ。
「俺が殺すって言うのを分かってて、アイツは選択を迫ったんだ。万が一言わなくても、結局どうこうする権利はアイツにしかないからな。だから俺は、母さんを守るために、一旦ここに連れ込んだ。」
『......ディナーの時間だよ、......!』
「...呼んでるぞ。」
「分かってる。少しだけ、母さんと二人にしてくれ。頼む。」
「......分かった。5分だけ待ってやる。すぐ出て来い。二人でとりあえずお母さんを逃がそう。」
「...あぁ、ありがとう。」
ギィ、バタン。背後からは変わらず安らかな寝息。とりあえず耳を塞いでおいてやるか、と、両手で母親の小さな顔を包むように掴んで、耳を覆う。そして無音に包まれた殺風景な部屋の中、まるで胎内へ帰ったような気持ちになって、余計に吐き気が加速する。目を閉じていれば、死後の世界かと思うほどの、冷たい場所。少し経って、車に跳ね飛ばされた獣の断末魔の如く聞くに耐えない慟哭がドアの向こうから漏れ聞こえ、そして、バタバタと暴れる音、一瞬の静寂ののち、どん、だか、ばん、だかの破裂音が響いた。4コマ漫画のようなオチだ、と、眠る母親をそっと床へ横たえ、部屋を出た。
「...ひでえ有様。」
「手伝うとかないの?」
「ない。自業自得だろ。さっさと片付けろよ。」
「おっかしいなぁ、俺ボスなのに。」
リビングの床に這いつくばって肉のカケラをチマチマ拾い集めていた奴を呆れた顔で見下ろせば、奴は困った顔でゴミ箱ゴミ箱、と呟きながら掻き集めたそれを捨て、片付けていた手を拭いて椅子へと座り直した。
テーブルの上に置かれていたであろう皿はひっくり返され汁やら野菜やらが散乱してひどい有様だ。折角丹精込めて作ったのに、と言いたげな顔で唇を尖らせているが、その台詞は何よりも俺が言いたい。
「何がしたかったの、アンタ。」
「さぁ。むしろ、オッケー出したのお前じゃん。」
「このままいけば、先天性疾患もなく普通に生まれる予定だったからな。」
「それの何が不満だったのさ。お前にしては、裏もない優しい契約に見えたけど、俺。」
「アイツは?」
「俺の部下に回収されて、火葬で処理ってところかな。まごうことなき自殺だし��。」
「そうか。」
「びっくりしたよ。折角食べやすいようにしてたのにまさか俺の料理でパズル始めるとは思わなくて。」
当然の末路だろう。コイツが俺達に出そうとしていた料理は、エリを使って育てていた奴の子供だ。バラバラにして出して、食べたところでネタバラシをしたのか、食べる前にバレたのか。開きっぱなしのベランダから吹き込む風が、縺れたカーテンを揺らしていた。
「で、どうするの。」
「何が。」
「あのクローン。本物だよ。お前の真似で作ったにしては、商売出来るレベルの再現度だと思うけど。」
「そうだな。あれほど的確で、趣味の悪いプレゼントはないだろうよ。」
「だよね。よかった。」
床やら机やらを綺麗に拭き終わった奴は、よし、と満足げに見渡し、そして、俺に向き直った。
「どうするの?」
「人間が、いついかなる時もどうするか考えて行動出来る理性的な生き物だと思ってんのか?」
「少なくともお前はそうでしょ。」
「...そうだな。」
「ねぇ、俺もいていいかな。」
「アンタならどっからでも覗けるだろ。」
「近くにいたいんだ。ダメ?」
「...好きにしろ。」
彼のために用意しておいた部屋で、俺はただ、なぜ他の誰でもない彼に興味を持ったのか、ぼんやりと考えていた。広がる果てのない虚無と、抗えない焦燥感と、全てから解放されたくてこの星に来たのに、虚無と、焦燥感しか感じ取れない、まるで人間らしくない彼と今、行動を共にしている。何故なのか。
「やめ、やめて、いたいわ、どうして、和、」
「どうしてだろうな。俺はその何倍も、何十倍も、何百倍も聞いたよ。どうして、なんで、母さん、って。」
「おれる、おれちゃう、いたい、いたいいたいいたい!!!!!」
「いたかったよ、ずっと。」
様々な人間を見て、本性を試し、大実験を繰り広げたこの星で、俺は一体何を得たのだろうか。むしろ何か、失ったのだろうか。分からない。彼の足が、ボコボコに殴られて横たわる母親の肩を押さえ、彼の細い指がゆっくりと雑巾を絞るように柔らかな腕を捻っていく。ばきょ、と湿った鈍い音がしたのは、骨の耐久度の問題か、それとも、関節の限界か。詳しく見ようとは思わなかった。
「あの夜、俺は殺した恐怖で震えてたわけじゃない。」
「あれ、違ってた?」
「世界に一人になった実感で、震えたんだ。それが恐怖なのか喜びなのか、当時はわからなかった。が、結局あれは、喜びだった。幸せ、だ。分かるか?」
「分かるよ。呪縛からの解放、ってことでしょ。」
「そうだ。一人に、自由になった幸福感だ。」
でも、と、彼の口からぽろぽろ、脳を介さない子供の独り言のように言葉がこぼれ落ちていく。
「それは果たして本当に、幸福と呼べるものだったのだろうかって、俺は血塗れで倒れる母親を見下ろしながら自問自答した。答えは出なかった。殺した瞬間はただただ嬉しかったその静けさが、段々怖くなって、俺は、ただひたすら深く深く、母親を埋めた。裏山の土のむせ返るような生臭い匂いと、湿ってぬかるむ足元と、何かの鳴き声と、真っ暗闇の中で、ひたすら掘った。」
「うん。」
「そして、いつからか、人の真似をするようになった。人がどう感じどう思うのか、思考の上でしか味わえなくなった。母さんと買い物に行く、母さんとどこかへ旅行に行く、母さんと手を繋ぐ、そんな妄想すら、大多数が幸せだと判断する事象だから幸せなんだ、としか、思えなかった。」
「あの子と過ごした日々も?」
「ああ。思い描いた通りに作って、思い描いた通りに育てて、思い描いたように出来た。テレビで見た家族と、本で読んだ親子と、全て足し合わせて最適解を見つけたんだ。当たり前だ。」
「じゃあ、目の前のそれも、何かの真似?」
異形、と呼ぶにふさわしい生き物が虫の息で目の前に転がっていることに、果たして彼は気付いていたのだろうか。丁度彼が話の中で母親を埋めた時、首に食い込んでいた彼の親指が母親の喉仏を抉り出し、くぇ、だかきゅえ、だか上手く形容出来ない声と共に絶命したそれをじっと見下ろした彼は、無垢、と表しても遜色ない純粋な表情で首を傾げ、暫し考えた後、「再現。」と言った。
「最初に可愛がってた犬、確かこんな感じで捻じ曲げられてたんだ。俺の飯の残りを喜んで食べる、汚い野良犬だった。俺が唯一、名前をつけた犬だった。」
「気分はどう?」
「なにも変わらない。ゼロがゼロに戻っただけだ。」
「一人ぼっちなんだね、お前は。」
「...ふっ、ふは、はは、ははは、ふははは!」
急に笑い出す彼の気が狂ったかと目を見開いた刹那、全てを見抜くような、鋭く、そして嫌な目がこちらを刺すように向いた。
「自己紹介でもしてんのか?アンタ。」
「...どうして?」
「いくら技術に長けた星でも、知識を無限に蓄えても、一人じゃ"一人"は学習出来ないよなぁ。そりゃ。」
「何を言ってるのか、よく分からないな。」
「お前が引き連れてた部下、全部人工物だろ。」
「なんで、」
「この部屋もそうだ。使った痕跡がまるでない。わざわざ今日の為に用意したな?」
「......」
血やら体液やらが溢れ出る母だった塊を足で退かした彼は気持ちよさそうな顔で俺を見下ろした。俺は、その目をよく知っていた。いつかの人権を失った人間、いつかの子を失った親、いつかの矜恃を捨て去って畜生と化した若者、それらに向けられていた、そう、"可哀想"の目だった。
「アンタがどんな生き方をしてきたのか俺は知らねえが、この星に来て、アンタはやけに人の心、それも人同士が関わり合う心の動きに執心してた。契約もそうだ。承諾が必要なんてまどろっこしい真似せず、アンタが楽しいか楽しくないかで許可すれば良かったのに、アンタわざわざ人間に委ねたよなぁ?」
「それは、実験がしたかったから。」
「いや、違うね。あのサンドイッチの女だって、英知の結晶なアンタの頭で考えたにしては余りにも不確定要素が多すぎる。俺が気まぐれで外に出たら?俺があの女に興味を持ったら?会社の嘘がバレたら?」
「......」
「楽しむにしちゃあ、人間すぎるんだよ。アンタは。」
今更、この目の前の男がおよそ人間らしくなく、逸脱した倫理観と恐ろしい程良い頭の持ち主だったことを思い出した。今や知識すら契約でなんでも買える世の中で、人の心を掌握し、嬲り、思う方へ転がす悪魔。
「おいおい、この星を壊すだけ壊した奴がなんて顔してんだよ。」
「お前だけには、知られたくなかったのに。」
「なんで?」
「惨めになる。」
「下の下にいるただの人間相手に?」
「初めて出来た、知己だったから。」
「かたっ苦しいな。友達、でいいじゃねえか。」
けろり、と笑った彼の顔にはもう、蔑みも軽蔑の色もない。出会った時の、退屈な日常に中指を立て、おもちゃを探して楽しそうに笑う彼だった。
「来いよ。」
「え?」
手を引かれるまま、部屋を出る。彼に続いて靴下のまま開きっぱなしだったベランダへと出た。そういえばこの家を用意してからバタバタしていて、初めて、外に出て景色を見た。爛々と輝く街の光が、俺と彼の角膜に写って、その光が漠然と命を思わせる。
「綺麗だろ。ただの街灯と、航空障害灯と、車のライト、あと、人間が生きてる光だよ。」
「そうだね、綺麗。」
「それは学習した上での結論か?」
「いや、考える前に出た、言葉だ。」
「皆、一人じゃないって証明のために数十年の命を無駄遣いしてんだ。俺と、アンタは、それをしなくても生きていける。」
「...確かにね。」
「その使い古した皮捨てろよ。今日くらい。」
「え?」
「俺が今まで何人生身の人間作ってきたと思ってんだ?」
「......そうだね、今日くらい。」
いなくならない彼にだけは見せないでおこう、そう決めたはずなのに、首に手をかけ、被っていた頭皮をメリメリと剥がしてから、部屋の中へと投げ入れた。景色は俺を通り抜けても、変わらず目に映って眩しい。
「さて、ボス。明日は何をしよう?」
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38nakao · 4 years
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父の日と(ふ)孝行
2020.06.21(日)雨
 母は相変わらずマクドナルドのおばちゃんである。わたしが7歳かそこらからパートを始めてるから、もう20年はとうに過ぎている。「仕事辞めたい」と言うので「辞めたらいいじゃん」と本心から言うが「辞めたらこの家どうすんのよ」がお決まりの手筋。「弟に集ったら?」とか「なんとかなるかもしれんじゃん」というが、今だに攻略できたことがない(仕送りできるほどわたしも経済的余裕はないし、実家に戻れば家賃分を財布に入れてあげられるがそうしてあげたい気持ちも薄い。申し訳ないとは常々思っている)。
 朝起きると、お母さんはもういなかった。大抵朝5時に出勤して、昼下がりに戻ってくる。わたしは薄めの敷布団で寝ていたが、宿主がいなくなったので寝心地の良いベッドに移動して更なる惰眠を取ろうとして、気づく。あーあ、ケータイ置いて行ってる。まあ割とよくあることなので、一度置いた気を睡眠欲に戻す。父がどかどかこちらに来て言う。
「お母さん、財布忘れてるってメールしといて」
 あらあら、流石わたしの母。わたしも忘れ物多いだけある。でも幸いには飲食店だから休憩時間はそこのご飯食べられるし、なんとかなるのではと心配してなかったのだが、父が「もし帰りにスーパーに寄って、いろいろ買い物したのに、レジで気づいたってことになりかねない」と言うから、なんだかんだ優しいなあと思った。いや、実際あり得るし。今日は父の日で、結局買えずじまいだし悩むのも面倒になって直接聞いてみたら、ウォーキングシューズをご所望だったので、買いに行くついでにお母さんの職場に寄った。バックヤード付近で待ち伏せるか、正面から行くか、車の中で相談した結果、お客さんがあまりいなかったら真っ向勝負することになった。お母さんは裏でたぶんポテトとかハンバーガーつくったりする係なので、カウンターにはいない。ゆっくり近づいて、「あの、お客じゃないんですが、あのナカオ、ナカオはいますか、あの娘なんですけど……」何故かテンパってたどたどしくなってしまった。若い店員さんは明るく振舞ってくれて、キッチンの方へ向かって行く。しばらくすると、しかめっ面の母さんがわたしの背後から近づいてきて、「何で来たの」と言うからわたしもしかめっ面で財布とケータイを渡すと、パッと顔が変わった。「いっけね」って顔だ。先ほどの不躾さはどこへやら、「ありがとね」と言ってすぐ元の場所に戻って行った。
 地元で一番大きなショッピングモールに行く。運転はプレゼントをもらうはずのお父さん。でも当たり前の光景なので何も言われない。免許証持ってるけど、運転怖い。もう2〜3年してない。お父さんは駐車場にそこそこ車が止まっているのを見て、「何でこんなにひとがいるんだ」とぼやいた。
 お父さんは予算を気にしているのではと思った。あまり知らないチェーンの靴屋さんに入ったものの、本当に欲しいデザインを手にしてるように見えない。何かそわそわしてる気がする。「しょうま(弟)からもお金もらうし、もう2,000~3,000円くらい高くても大丈夫だよ」と今思えば上から過ぎる気休めの言葉をかけた。そうするとさっきと違うデザインを手に取ってたし、プレゼントなのに予算とか言うもんじゃないな。
 家に帰ってインスタントラーメンのとんこつ味を食べる。父の日なのにお父さんがやってくれる。世話焼きたいひとに焼かせるのも親孝行と言い聞かせる。食べ終わってしばらくすると、『ザ・ノンフィクション』が始まりそうだったので、パソコンで観てみた。同じ時間からプロ野球が始まるから。
 遺品整理人の女性と、その上司にスポットが当てられていた。27歳の遺品整理人の女性、小島さんはその孤独死の現場をミニチュアにしていて、その作品はネットで知り、後日Yahooニュースでも何故「孤独死の事故物件をミニチュアにするか」記事になっていて読んだことがある。その記事は会社の昼休憩で読んでいて、親しい先輩が「何読んでんの」と覗き込み「くぉお〜……(絶句、驚愕のときの口癖)」と発した。その時は26とか27だったし。なにかいじってきたけど、あまりに真剣にわたしが読むもんだから触れちゃいけないと判断して、自分の席に戻っていった記憶がある。
「わたしも多分孤独死するかもしれないな」と思っていたし、そういじられても何も言い返さなかった(「しませんよ!」と言い返して欲しかったくらいわかる。一応弁護しておくと、デリカシーはややないが物分かりの良い先輩で、わたしは今の会社で一番話ができると思っている)。この手の内容をつい見てしまうも、純粋なる興味と予習。どうしてこのひとは孤独に死ななくてはならなかったのか。残された遺族は何を考えるのか。どうして「遺品整理人」を職にしようと思ったのか。自分もこのひとたちに世話になるかもしれないから流れを見とかないと。でも出来ればひとりで死にたくないなあ。
 孤独死するひとは、家族と疎遠になっていたりそもそも家族がいないからその運命を辿ってしまうと思っていたけど、実際はもっと複雑だった。子どもがいて、弟や母がいても、家族仲が悪くなくても、孤独死してしまうひともいるのだ。一人暮らしの家で、急に発作に襲われて苦しみに蹲るしかなければ、誰にも連絡が取れないだろう。最期の言葉も残せない。わたしは自分勝手で、孤独死を恐れているくせに父や母、弟には滅多に自分から連絡しないのだ。
 母はわたしが実家に帰るたび、「結婚しときなさい」とか言う。「良い人いないの」と言われても困る。何でもかんでも恋愛に結びつけようとする。2つ下の弟も浮いた話が一切ないので、母は焦っている。何であんたが焦るんだ、と考えて「こんだけ色々世話したのに、誰にも選ばれないわけない」思いがあるんだろう。生産者目線でわたしたちを評価してるんだ。だからわたしたちが結婚しないと「売れ残り」だと思う。「売れ残りしか生産できなかった自分」を認めたくないし、認めれば恥ずかしい、となる。実際、「結婚できないとお母さん恥ずかしいよ」と言った母に「誰が? 誰に?」と返したら「恥ずかしいというか……」とまごついた。わたしの仮説はズレてなかった。こういう他人の負の感情は当てられる。当てるなら宝くじとか得するものに勘が働けばいいんだけどなあ。
 結婚願望はないわけではないが、そのために何か動くつもりもない。ぜっったいにどんなに急かされても焦っても、その苦しみから脱したくて婚活して挙句に結婚するなんて、相手に無礼なことはできない。だったら一人で強く生きてやる。孤独死の運命を受け入れるしかないね。仕方ないもん。とはいえね、やっぱり寂しいよ。わたしが孤独死が怖い理由は、親が悲しむからだ。もしかしたら、わたしの方が先に死ぬかもしれない。確率は0じゃない。そんな日には、両親、特に母親は「自分の育て方を間違ったんじゃないか」と強く自分を責めて傷つけるだろう。立ち直れなくなるかもしれない。そうなったときに父も既に、もしくは後を追うように他界してしまったとして、母の行くあてのない愛情は、生力は、どこへ向かってしまうのか。そんなことを考えると、わたしは迂闊に死ねない。その後のことは考えたくもない。怖い。
 ここまで母の印象を悪くすることしか書いてないが、ふだんは明るくてよく笑う可愛らしいひとだ。わたしや弟が実家に帰ると、冷蔵庫を食べ物でいっぱいにして待っていてくれる。キユーピーのマヨネーズの瓶に、ジャムを詰めたものが所狭しと並ぶ。ぜんぶ母の手製である。元々わたしがいた部屋ももっと大きな瓶だらけで、梅が浸かってたり、あんずが浸かってたり、暗闇で見ると理科の実験室みたいで最初気味が悪かった。ソーダ水で割ると、とても美味しい。その家事に特化した逞しい母は、わたしと弟の2人を大学4年間しっかり通わせてくれた。しかも2人とも私立、しかも高校から。わたしなんて美大通っちゃったし、ちっちゃい頃は塾にピアノに絵画教室などなど習い事結構させてもらったし、もう金しかかからない。そのくせデザイナーに就職しちゃったから、かけた費用に対してリターンが安すぎる。うちは裕福じゃないから、母はわたしが小さい頃からパートタイマーだ。小学校、中学校と放課後元気に遊ぶわたしに比べて、平日の夕方の母は疲れている姿しか思い出せない。それだから、無下に「結婚を諦めろ」とも言えない。「これ以上干渉したら実家には二度と帰らない」なんて言えない。あまりにも時間もお金も費やされすぎた。そこは理解しているから、わたしはどうしたら良いのか分からない。誕生日も父の日母の日も、毎回プレゼントあげているのも感謝の気持ちよりも罪滅ぼしに近い。あと、「結婚もせんくせに親孝行のひとつもない」と言われないように。可愛いラッピングのしたで身を守っているのだ。
 今日の「ザ・ノンフィクション」を観て、ちょっとそんな気持ちが救われた。番組内でも、肝硬変で倒れ誰にも看取られず遺族が異変に思った頃には白骨化した姿で発見された男性が取り上げられていた。確か50代、アルコールに依存していた。何故彼がアルコールに逃げてしまったのか。最愛の人を失ったからである。その彼女は事故か病気で植物状態になり、還らぬひととなった。この世からいなくなった彼の代わり��、部屋に遺された彼の持ち物から、言葉を読み解けるのが遺品整理人だ。意外とひとは残しているものだ。写真や公的書類、私的な手紙。ゴミが残っていれば何を口にしていたかも分かる。これからスマホやPCによるデータになるだけで、あまり本質は変わらないだろう。遺体を発見した弟さんや息子に先立たれたお母さんは、「もっと連絡すれば良かった」「頼りにしてくれて良かった」と悔やんで責めているようだった。遺族の気持ちももちろんだが、将来の自分も部屋の片隅でこの光景を見下ろしてるかもと思うと、辛かった。
 救われたのは、その亡くなられた男性の四十九日に、遺品整理人の小島さんとその上司の増田さんが訪問に行ったこと。職業ではなくて、死に対して人として向き合ってくれる、そんなひとたちが血の外にいる。男性の持ち物を整理して、「死後であっても見つけてくれる家族がいて幸せだったはず」「家族が悔やむことはない」と遺族の方に言っていたこと。月並みかもしれないが、ちゃんと向き合った彼らが到達した真理。増田さんは「孤独死が恥ずかしい、とならない世の中にしたい」と言っていた。そうであって欲しいし、そう思うひとがゼロではないことに安心した。
 その増田さんでさえ、実の父親の最期を見届けることができなかった。わたしにとって誰かの最期は埋葬される前だった。わたしが知っているひとの姿を留めている最後の瞬間。それがひとの最期だった。増田さんは葬儀には出られたが、生前の姿は見られなかったらしい。よくよく考えたらそうだ。わたしは葬儀にいつでも行けるように、両親の生きているうちは関東にいなきゃと思っている。弟は出張族だし精神がまだ弱いから、わたしは長女で第一子だから、いろいろ準備をしなきゃいけない。しばらく泣くのに飽きた後、弟が号泣している横で我に返って、事を淡々とこなすだろう。
 ひとの最期って何なんだろう。父の日だってのに、お父さんのことより孤独死のこと考えて、ちょっと泣いてしまった。受け入れているけど、寂しいもんは寂しい。少しでも寂しいと悲しくなってしまう。Twitterで呟いたら、「遺品整理の本を読んだら、孤独死する人としない人ってほんのわずかな違いだけだった」とリプライをくれた友人がいた。今までなら理解できなかったけど、本当にそう思うよ。  
「人は いつ 死ぬと思う?」 「人に忘れられた時さ」
 ONE PIECEのドクターヒルルクの言葉を思い出した。死を受け入れながら生を感じてもらえるのであれば、もう怖いものはなくなる。
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最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有力新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉 との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なんら変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を卒業、または卒業見込の者のうち、10万名を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち、粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、モダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、ものものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たちの「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任したフィリピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れたことも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の安蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQの目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ沖の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日。三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日、特攻機が命中し、爆炎を上げる米護衛空母「セント・ロー」
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福��繁中将、寺岡謹平中将、山本栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、体力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(ただし、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、参謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡くなる前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預かり、俸給を管理していたから、大西が金に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を訪ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査は、知らせを受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の冷水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍整備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から復員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのにはわけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、海軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員となった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を信奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母ということもあり、淑惠さんを支援することは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の同期生(ともに海軍中将)ほかが発起人となり、笹川良一(元衆議院議員、国粋大衆党総裁。A級戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬意
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさないんですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部下に伝わってきたし、終戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿信鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、その隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児玉機関」を率いた児玉誉士夫である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間にわたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨を出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人にすぎない立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てたいと、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて法要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽選で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。ここには長男・多田圭太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメートの夫人たちがおしゃべりによく集まった。門司親徳や日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙せられていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭日大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠は、
「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記念館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。特攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に加わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変をわずらって九段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細め、しみじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、警察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた。60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代供養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始末をつけて、平成20(2008)年8月16日、老衰のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司は生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
奥さんの淑惠さんも、無邪気な少女がそのまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の部下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタイプでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見ればどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめて��きたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
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ari0921 · 4 years
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日本解放第二期工作要綱
中国共産党
中央学院大学の西内雅教授(故人)が昭和47年にアジア諸国を歴訪した際、偶然、入手した秘密文書。
 内容は中国共産党が革命工作員に指示した陰謀で、当時から現在に至る迄、中国の対日謀略は秘密文書の通りに続いているとみられる。
 同年8月、国民新聞社は特集記事を掲載し、更に小冊子を発行したが、重要と思われるのでここに再録する。
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日本解放第二期工作要綱
中国共産党
 中央学院大学の西内雅教授(故人)が昭和47年にアジア諸国を歴訪した際、偶然、入手した秘密文書。
 内容は中国共産党が革命工作員に指示した陰謀で、当時から現在に至る迄、中国の対日謀略は秘密文書の通りに続いているとみられる。
 同年8月、国民新聞社は特集記事を掲載し、更に小冊子を発行したが、重要と思われるのでここに再録する。
A.基本戦略・任務・手段
A-1.基本戦略
 我が党は日本解放の当面の基本戦略は、日本が現在保有している国力の全てを、我が党の支配下に置き、我が党の世界解放戦に奉仕せしめることにある。
A-2.解放工作組の任務
 日本の平和解放は、下の3段階を経て達成する。
 イ.我が国との国交正常化(第一期工作の目標)
 口.民主連合政府の形成(第二期工作の目標)
 ハ.日本人民民主共和国の樹立 ・・天皇を戦犯の首魁として処刑(第三期工作の目標)
 田中内閣の成立以降の日本解放第二期工作組の任務は、上の第口項、即ち「民主連合政府の形成」の準備工作を完成することにある。
A-3.任務達成の手段
 本工作組の任務は、工作員が個別に対象者に接触して、所定の言動を、その対象者に行わしめることによって達成される。即ち、工作者は最終行動者ではなく、隠れた使喉者、見えざる指揮者であらねばならない。以下に示す要領は、全て対象者になさしめる言動の原則を示すものである。
本工作の成否は、終始、秘密を保持しうるかどうかに懸かっている。よって、工作員全員の日本入国身分の偽装、並びに工作上の秘密保持方法については、別途に細則を以て指示する。
B.工作主点の行動要領
第1.群衆掌握の心理戦
 駐日大使館開設と同時になされなければならないのは、全日本人に中国への好感、親近感を抱かせるという、群衆掌握の心理戦である。好感、親近感を抱かせる目的は、我が党、我が国への警戒心を無意識の内に捨て去らせることにある。
 これは日本解放工作成功の絶好の温床となると共に、一部の日本人反動極右分子が発する
 「中共を警戒せよ!日本支配の謀略をやっている」
 との呼び掛けを一笑に付し、反動極右はますます孤立するという、二重の効果を生むものである。
 この為に、以下の各項を速やかに、且つ継続的に実施する。
1-1.展覧会・演劇・スポー��
 中国の書画、美術品、民芸品等の展覧会、舞劇団、民族舞踊団、民謡団、雑技団、京劇団の公演、各種スポーツ選手団の派遣を行う。
 第一歩は、日本人大衆が中国大陸に対し、今なお持っている「輝かしい伝統文化を持っている国」「日本文化の来源」「文を重んじ、平和を愛する民族の国」というイメージを掻き立て、更に高まらせることである。
 我が国の社会主義改造の誇るべき成果についての宣伝は、初期においては少ない方がよく、全然触れなくても構わない。
 スポーツ選手団の派遣は、ピンポンの如く、試合に勝ちうるものに限定してはならず、技術的に劣っている分野の選手団をも数多く派遣し、日本選手に学ぶという率直な態度を示して、好感を勝ち取るべきである。
1-2.教育面での奉仕
A.中国語学習センターの開設。
 全国都道府県の主要都市の全てに中国語学習センターを開設し、教師を無報酬で派遣する。
 教師は、1名派遣の場合は女性教師、複数の場合は男、女半々とし、全て20歳代の工作員を派遣する。受講者資格は、もとより無制限とし、学費は無料又は極めて小額とする。
B.大学への中国人中国語教師派遣の申し入れ。
 中国語学習センターを開設し、日本人青年層に中国語学習熱が高まったところで、私立、公立の大学には個別に、国立大学については日本政府文部省へ中国人中国語教師の派遣を申し入れる。
 申し入れを婉曲に拒否した場合は、「我が国の純然たる好意、奉仕の精神に対する非礼」を責めれば、日本のマスコミも大衆も、学生も許さないであろう。
 しかし、第1回で全勝を求める必要は無く全国大学の過半数が受け入れればそれで良い。後は自然に受け入れ校は増加していくものである。
C.委員会開設。
 「中日文化交流協会」を拡充し、中日民間人の組織する「日中文化教育体育交流委員会」を開設して実施せしめ、我が大使館は、これを正式に支援する方式をとる。
 尚、本綱の全ての項目は、初期においては、純然たる奉仕に終始し、いささかも政治工作、思想工作、宣伝工作、組織工作を行ってはならない。
第2.マスコミ工作
大衆の中から自然発生的に沸き上がってきた声を世論と読んだのは、遠い昔のことである。次の時代には、新聞、雑誌が世論を作った。今日では、新聞、雑誌を含め所謂「マスコミ」は、世論造成の不可欠の道具に過ぎない。マスコミを支配する集団の意思が世論を作り上げるのである。
 偉大なる毛主席は
 「およそ政権を転覆しようとするものは、必ずまず世論を作り上げ、先ずイデオロギー面の活動を行う」
 と教えている。
 田中内閣成立までの日本解放(第一期)工作組は、事実でこの教えの正しさを証明した。日本の保守反動政府を幾重にも包囲して、我が国との国交正常化への道へと追い込んだのは日本のマスコミではない。日本のマスコミを支配下に置いた我が党の鉄の意志とたゆまざる不断の工作とが、これを生んだのである。
 日本の保守反動の元凶たちに、彼等自身を埋葬する墓穴を、彼等自らの手で掘らせたのは、第一期工作組員である。田中内閣成立以降の工作組の組員もまた、この輝かしい成果を継承して、更にこれを拡大して、日本解放の勝利を勝ち取らねばならない。
2-1.新聞・雑誌
A.接触線の拡大。
 新聞については、第一期工作組が設定した「三大紙」に重点を置く接触線を堅持強化すると共に、残余の中央紙及び地方紙と接触線を拡大する。
 雑誌、特に週刊誌については、過去の工作は極めて不十分であったことを反省し、十分な人員、経費を投入して掌握下に置かねばならない。接触対象の選定は「10人の記者よりは、1人の編集責任者を獲得せよ」との原則を守り、編集を主対象とする。
B.「民主連合政府」について。
 「民主連合政府」樹立を大衆が許容する温床を作り上げること、このための世論造成、これが本工作を担当する者の任務である。
 「民主連合政府」反対の論調を挙げさせてはならぬ。しかし、いかなる方式かを問わず、マスコミ自体に「民主連合政府」樹立の主張をなさしめてはならない。これは、敵の警戒心を呼び覚ます自殺行為に等しい。
 「民主連合政府」に関連ある事項を全く報道せず、大衆はこの問題について無知、無関心であることが最も望ましい状態である。
 本工作組の工作の進展につれて、日本の反動極右分子が何等の根拠も掴み得ないまま焦慮に耐え得ず、「中共の支配する日本左派勢力は、日本赤化の第一歩として、連合政府樹立の陰謀を進めている」と絶叫するであろう。
 これは否定すべきであるか? もとより否定しなければならない。しかし、否定は真正面から大々的に行ってはならず、計画的な慎重な間接的な否定でなければならない。
 「極右の悪質なデマで、取り上げるにも値しない」という形の否定が望ましい。
C.強調せしむべき論調の方向
① 大衆の親中感情を全機能を挙げて更に高め、蒋介石一派との関係は完全に断つ方向へ向かわせる。
② 朝鮮民主主義人民共和国並びにベトナム民主共和国との国交樹立を、社説はもとより全紙面で取り上げて、強力な世論の圧力を形成し、政府にその実行を迫る。
③ 政府の内外政策には常に攻撃を加えて反対し、在野諸党の反政府活動を一貫して支持する。特に在野党の反政府共闘には無条件で賛意を表明し、その成果を高く評価して鼓舞すべきである。  大衆が異なる政党の共闘を怪しまず、これに馴染むことは、在野諸党の連合政府樹立を許容する最大の温床となることを銘記し、共闘賛美を強力になさしめるべきである。
④ 人間の尊重、自由、民主、平和、独立の強調
ここに言う「人間の尊重」とは、個の尊重、全の否定を言う。
「自由」とは、旧道徳からの解放、本能の開放を言う。
「民主」とは、国家権力の排除を言う。
「平和」とは、反戦、不戦、思想の定着促進を言う。
「独立」とは、米帝との提携の排除、社帝ソ連への接近阻止をいう。
2-2.テレビとラジオ
A.これらは、資本主義国においては「娯楽」であって、政府の人民に対する意志伝達の媒介体ではない。この点に特に留意し、「娯楽」として利用することを主点とすべきである。
 具体的な方向を示せば、「性の解放」を高らかに謳い上げる劇又は映画、本能を剌激する音楽、歌謡等は望ましい反面、スポーツに名を借りた「根性もの」と称される劇、映画、動画、または歴史劇、映画、歌謡並びに「ふるさとの歌祭り」等の郷土愛、民族一体感を呼び醒ますものは好ましくない。
 前者をより多く、後者をより少なく取り上げさせるよう誘導せねばならない。
B.テレビのニュース速報、実況報道の利用価値は極めて高い。画面は真実を伝えるものではなく、作るものである。目的意識を持って画面を構成せねばならない。
C.時事解説・教養番組等については、新聞について述べた諸点がそのまま適用されるが、これは極めて徐々に、少しずつ注意深くなされねばならない。
2-3.出版(単行本)
A.我が国への好感、親近感を抱かせるものを、第一に取り上げさせる。風物写真集、随筆、家庭の主婦が興味を抱く料理、育児所の紹介など、受け入れられ易いものを多面に亘って出版せしめる。
B.社会主義、毛沢東思想などに関する理論的著作も好ましい。しかし、我が国の社会主義建設の成果、現況については、極右分子の誹謗を困難ならしめるよう配慮させねばならない。
C.マスコミの主流から締め出された反動極右の反中国の言動は、単行本に出路を求めているが、これは手段を尽くして粉砕せねばならない。
 特に、社会主義建設の途上で生じる、止むを得ない若干の歪み、欠点について、真実を伝えると称してなされる暴露報道を絶対に放置してはならない。これらについては、誹謗、デマで両国関係を破壊するものであるとして、日本政府に厳重に抗議すると共に、出版社主、編集責任者、著者を告訴して根絶を期すべきである。
D.一般娯楽面の出版については「デンマークの進歩を見習え」として、出版界における「性の解放」を大々的に主張せしむべきで、春画、春本の氾濫は望ましい。
E.単行本の出版についての今一つの利用法は「中間層文筆業者」の獲得である。「中間層」とは思想的に純正左派、または右派に属しない、中間の動揺分子を言い、「文筆業者」とは、凡そ文筆を以て世論作りにいささかでも影響を与え得る者全てを言う。
 彼等に対しては或いは原稿料を与え、或いは出版の支援をなして接近し、まず「政治的・思想的立場の明快さを欠く」中間的著作をなさしめ、徐々に我が陣営へと誘導する。
2-4.本工作にマスコミ部を設けて、諸工作を統轄する
第3.政党工作
3-1.連合政府は手段
 日本の内閣総理は、衆参両院の本会議で首班指名選挙を行って選出される。両院で議員総数の過半を掌握すれば、人民の意志とは関係なく、任意の者を総理となし得るのである。
 1972年7月の現況で言えば、自民党の両院議員中、衆議院では約60名、参議院では10余名を獲得して、在野党と同一行動を取らせるならば、野党連合政府は容易に実現する。
 しかし、この方式を取るならば、社会党、公明党の発言権を���するに留まり、且つ最大の単独多数党は依然として���民党であり、この2点は純正左派による「日本人民共和国」成立へと進む阻因となることは明らかである。
 自民党のみではなく、社会党、公明党、民主社会党もまた、無産階級の政党ではなく、最終的には打倒されるべき階級の敵の政党であることを忘れてはならない。
 本工作組に与える「民主連合政府の樹立」という任務は、日本解放の第二期における工作目標に過ぎず、その実現は第三期の「日本人民民主共和国」樹立の為の手段に過ぎない。
 共和国樹立へ直結した、一貫的計画の元に行われる連合政府工作でなければ、行う意義は全くない。
3-2.議員を個別に掌握
 下記により国会議員を個別に掌握して、秘密裏に本工作員の支配下に置く。
A.第一期工作組がすでに獲得したものを除き、残余の議員全員に対し接触線を最少4線設定する。
B.上の他、各党の役職者及び党内派閥の首長、有力者については、その秘書、家族、強い影響力を持つ者の3者に、個別に接触線を最少2線設定する。
C.上の接触線設定後、各線を経て知り得る全情報を整理して、「議員身上調査書」の拡充を期し、公私生活の全貌を細大漏さず了解する。
D.右により各党毎の議員を「掌握すべき者」と「打倒排除すべき者」に区別し、「��握すべき者」については「連合政府の樹立にのみ利用しうる者」「連合政府樹立より共和国成立に至る過渡期においても利用し得る者」とに区別する。 ここに言う「打倒・排除」とは、その議員の党内における勢力を削ぎ、発言権を低下せしめ、孤立に向かわせることを言う。
E.「掌握」又は「打倒」は調査によって明らかとなったその議員の弱点を利用する。
 金銭、権力、名声等、欲するものを与え、又は約束し、必要があれば中傷、離間、脅迫、秘している私事の暴露等、いかなる手段を使用してもよい。
 敵国の無血占領が、この一事に懸っていることを思い、いかなる困難、醜悪なる手段も厭うてはならず、神聖なる任務の遂行として、やり抜かねばならない。
3-3.招待旅行
 上の接触線設置工作と並行して議員及び秘書を対象とする、我が国への招待旅行を下の如く行う。
A.各党別の旅行団。団体の人数は固定せず、実情に応じて定める。
 但し、団体構成の基準を、「党内派閥」「序列」「年齢」「地域別」「その他」そのいずれかにおくかは慎重に検討を加え、工作員の主導の元に、我が方に有利になる方法を採らしむるよう、工作せねばならない。
B.党派を超えた議員旅行団。議員の職業、当選回数、選挙区、選挙基盤団体、出身校を子細に考慮し、多種多様の旅行団を組織せしめる。
C.駐日大使館開設後1年以内に、全議員を最低1回、我が国へ旅行せしめねばならない。
 自民党議員中の反動極右分子で招待旅行への参加を拒む者に対しては、費用自弁の個人旅行、議員旅行団以外の各種団体旅行への参加等、形式の如何を問わず、我が国へ一度旅行せしめるよう工作せねばならない。
D.旅行で入国した議員、秘書の内、必要なる者に対して、国内で「C・H・工作」を秘密裏に行う。
3-4.対自民党工作
A.基本方針
 自民党を解体し、多数の小党に分裂せしめる。
 自民党より、衆議院では60名前後、参議院では10余名を脱党せしめて、連合政府を樹立するというが如き、小策を取ってはならないことは先に述べた所であるが、右派、左派の二党に分裂せしめることも好ましくない。
 これは、一握りの反動右翼分子が民族派戦線結成の拠点として、右派自民党を利用する可能性が強いからである。
 従って、多数の小党に分裂する如く工作を進めねばならず、又表面的には思想、政策の不一致を口実としつつも、実質的には権力欲、利害による分裂であることが望ましく、少なくとも大衆の目にはそう見られるよう工作すべきである。
B.手段
 自民党内派閥の対立を激化せしめる。
① 自民党総裁選挙時における派閥の権力闘争は常に見られる現象で通常は総選挙を経て若干緩和され、一つの党として受けて曲りなりにも保持していく。
 今回はそれを許してならない。田中派と福田派の対立の継続と激化、田中派と大平派、三木派、三派の離間、中間五派の不満感の扇動等を主点として、第一期工作組は工作を展開中である。総選挙後、若干の変動があっても、派閥の対立を激化せしむるという工作の原則は変わらない。
② 派閥対立を激化せしめる最も有効な方法は、党内の非主流派となって政治活動資金の調達に困難を生じている各派に個別に十分な政治資金を与えることである。
 政治献金は合法であり、これを拒む政治家はいない。問題は方法のみであり、工作員からAへ、AからBへ、BからCへ、CからDへ、Dから議員又は団体という如く間接的に行うのは言う迄もない。
③ 先に述べた議員個人の掌握は、それ自体が連合政府樹立の有効な手段となるが、派閥対立激化についても活用するのはもとよりである。
3-5.対社会・公明・民杜各党工作
A.基本方針
① 各党内の派閥闘争を激化せしめ、工作による操縦を容易ならしめる。派閥というに足る派閥なき場合は、派閥を形成せしめる工作を行う。但し、党を分裂せしめる必要はなく、分裂工作は行わない。
② 日本共産党を含めた野党共闘を促進する。
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