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#人間失格を執筆した町
acore-omiya · 1 year
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ari0921 · 9 months
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和五年(2023)8月2日(水曜日)
    通巻第7845号
ウクライナはクリスマスをカソリックの12月25日にする
ゼレンスキー大統領はユダヤ教からカソリックへ改宗した。
************************
 ウクライナのゼレンスキー大統領はクリスマスをカソリックの12月25日にすると発表した。これはウクライナの歴史を揺るがす「大事件」である。
 ゼレンスキー自身はユダヤ教からカソリックへ改宗した。
7月28日だった。クリスマスをロシア正教会が採用するユリウス暦(旧暦)の1月7日から、カトリック教会と同じ西暦の12月25日に変更する法案にゼレンスキーは署名した。ロシア正教会との決別を宣言したことになる。
ウクライナ議会のHPにかかげられた法案説明では、「アイデンティティを求める絶え間ない闘争が成功を収めたことは、ウクライナ人全員が独自の伝統や祝日を持って自分の人生を送りたいという願望に貢献している」との文言がある。
 この法律の目的は「1月7日にクリスマスを堂々と祝うというロシアの伝統を放棄する」ことだ書かれている。
 ウクライナ正教会は東方正教会系がアルメニア、グルジアを経由して十世紀にウクライナに拡がった。ロシアより早くキリスト教を受け入れたのだ。
 いわば先輩格であるにもかかわらず、ウクライナ正教会はソ連時代の宗教弾圧の残滓を引き継いで、ロシア正教会の管轄下にあった。
ところが、2014年のクリミア併合以降、独立機運が高まり、2018年にロシア正教会管轄から独立した。一部は地区の独自性からロシア正教会傘下にとどまっていたが、ロシアによるウクライナ侵略以後は、関係断絶を宣言していた。ロシアのミサイル攻撃は、こうした改宗教会が標的となった。
最初の攻撃は2022年3月12日、ドネツク州のウクライナ正教会(モスクワ総主教庁系)修道院の近くで爆発、これは生神女就寝スビャトヒルスク大修道院で、モスクワ管理から離脱したばかりだった。
 2023年7月23日、ユネスコの世界遺産となったオデーサ大聖堂がミサイル攻撃で損壊した。ウクライナはロシアの攻撃と批判しているが、ロシアでも戦意をたかめるための自作自演説が根強い。真相はわからない。
 戦争が始める三年ほど前に筆者はオデッサに四日ほど滞在した。
 絵に描いたようにきれいな町でオペラ座前の広場にはエカテリーナ女帝の像が聳えていた(その後撤去)。観光名所の「ポチャムキンの階段」付近は世界からの観光客に溢れ、付近に日本料亭があったことも拙著に書いた。
 クルーズ船で黒海沿岸をみた。豪華別荘がたちならび、じつに壮観、豪華ヨットも舫割れていた。旧市内の中心部だけが寂れた感じをうけた。ガイドに聴くとユダヤ人街で多くが海外へでていったからだと解説された。
 攻撃された大聖堂を含む世界遺産の「歴史地区」には豪壮華麗な建物が林立し、美術館も、劇場も、そしてチェーホフ文学館もあって、とてもすべてを回りきれない。
 ▼宗教戦争の断面を見落としていないか
 ロシアは戦争中に教会の攻撃は極力控えてきた。例外はロシア正教会がウクライナ正教会に宗旨替えした教会だけだったのだから。その後、協会の宗旨替えは活発化した。
 ウクライナの宗教分布は東方正教会(ロシア正教)72%、東方典礼カトリック教会(ロシア正教の礼式でカトリックを受容)が14.1%、プロテスタント2.4%、カトリック1.7%、イスラム教0.6%、ユダヤ教0.2%、その他9%となった。ロシアの侵略以後、この分布地図はさらに激変し、各宗派のシェア拡大争いとなった。カソリックへの改宗が目立ち、現在の推定で12%程度がカソリック教徒ではないかといわれる。
 
 バチカンはウクライナを全面的に支援していることは明らか、このバチカン系カソリックの最も強い国がポーランドである。
 欧州の信仰の度合いには温度差があるとは言え、おおむねカソリックである。プロテスタント系が強いのはドイツくらいだろう。
また米国はプロテスタントの国の筈だが、諸派に分裂しているため少数派のカソリック信者の大統領はJKF以後、多い。バイデンもカソリックであり、ゼレンスキーのカソリックへの改宗も、そうした打算にもとづくのではないか。
 それにしてもクリスマスの日取りの変更は大きな反発を呼んでいる筈で、ウクライナ社会も分裂を深くしたように観測される。
ユリウス暦とは共和政ローマのユリウス・カエサルによって紀元前45年から採用され、1年は365.25日とする太陽暦である。太陽年は365.24日でその差は11分15秒。しかし十六世紀にローマ教皇グレゴリウス13世が、太陽年との誤差を修正したグレゴリオ暦を制定した。
 ▼ユリウスの由来がシーザーだったとはブルータスも驚いただろう
わかりやすく言えばカソリック系はグレゴリオ暦、東方正教会系はいまもユリウス暦を導入している。
 科学的合理性から言えば、グレゴリオが理に適っているが、伝統への固執はナショナルアイデンティティに属し、文化的心理的感性を尊ぶ側に立てば、異教徒の掟は受け入れがたいということになる。
 日本のカレンダーは縄文遺跡から天文台に似た構造物が発見されているように古くから存在したが、詳細は不明のままである。
 記録が残っている最古の暦は「日本書紀」欽明天皇14年(553)、百済から「暦博士」を招き、「暦本」を入手しようとした記事がある。
大化の改新(645)以後の律令制では、中務省陰陽寮が暦見の作成にあたった。古代の暦は「太陰太陽暦」で、月が地球をまわる周期(29.5日)に添って、30日と29日の長さの月で調節した。
天平七年(735)に吉備真備が唐から持ち帰った大行歴(だいえんれき)が、およそ三十年もの準備期間を経て、天平宝字元年(764)、藤原仲麻呂が実施した。その直後に仲麻呂は叛乱に失敗して斬となるが、暦は百年近く用いられた。
したがって万葉集も源氏物語も、この古代の暦から季節感を鑑賞する必要がある。
爾後は、貞観4年(862年)に宣明暦が導入され、それから和暦、貞亨暦を経て明治新政府は明治六年にユリウス暦、その後、明治31年からグレゴリオ暦に適応させて欧米と暦もあわせた。
したがって東方正教会系のユリウス暦に、かなりのウクライナ人には違和感があったことは事実だろう。
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kisanebacci · 1 year
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いよいよ、ついについに、 四月二十一日金曜日午後府立洛南病院との 第三回目の団体交渉が設定できました 素晴らしいです。 団体交渉のために出した、【「心神喪失者医療観察法病棟」新設を巡っての公開質問及び意見書公開質問状】をアップしておこうと想います よーーし、ヤルゾーーーー 京都府立洛南病院 吉岡隆一院長殿並びに内谷看護部長殿 「心神喪失者医療観察法病棟」新設を巡っての 公開質問及び意見書
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いよいよ、ついについに、
四月二十一日金曜日午後府立洛南病院との
第三回目の団体交渉が設定できました
素晴らしいです。
団体交渉のために出した、【「心神喪失者医療観察法病棟」新設を巡っての公開質問及び意見書公開質問状】をアップしておこうと想います
よーーし、ヤルゾーーーー
京都府立洛南病院 吉岡隆一院長殿並びに内谷看護部長殿 「心神喪失者医療観察法病棟」新設を巡っての 公開質問及び意見書
 私たちは、1976年設立の精神病患者会前進友の会と申します。また、患者会が設立母体運営主体となって1988年に認可を受けたやすらぎの里作業所とも為っております。40年以上拠点としていました山科区の日ノ岡から、昨年の10月伏見区の石田大山に引っ越して参った���コロです。貴院とは、距離にして、4キロ弱、車なら10分ほどの距離に居ります。コレもナニかの御縁でしょうか。地元であり身近であると、言えましょう。ジックリとおつきあいくださいませ。身近な患者会作業所として、貴院の医療内容の充実に微力ながら協力を惜しまない決意と覚悟でございます。さて、身近であると云うコトは、貴院において此のたび観察法病棟を拵えて運用を始めるということに、不安に想っているなかまが多いと云うコトであります。町内会の皆様方が『迷惑施設』ができるので不安だと云うとても差別���な不安とは、全く意を異にする精神病者の精神病患者のセーカツから来る不安と云うものです。ただでさえ我々精神病患者は『セーシン病』の『キチガイ病』の『キタナイ』は『キケン』やは『キツいキチガイ』やは『異常者』やは『生活保護』やは、だのと、世間様から散々に言われ続けワルう見られ続けてるのです。しかも、なんとかかんとかフツーにセーカツしていても、この町内から、アパートから、学校から、会社から、出て行けと、表裏なく言われ続けているのです。そこにさらに、上乗せで、『観察病棟帰り』の『触法精神障害者』となったら、『ハクが付き過ぎて』、『スティグマに為りすぎて』、外で暮らせなくなるのではないか、出歩けんようになるんじゃなかろうか、と、ますます、ワシ等キチガイは、暮らしにくくなる、のでは、と不安でいっぱいです。
 さてと、吉岡さんや、不思議なもんやなぁぁぁーー一緒に友の会の夏レクにも行ってたやん、写真もあるんよ、今度持っていこう。懐かしいよ。京都滋賀精神医療人権センターで、一緒に活動してたこともアッタもんな。最後に京大で会ったのは2005年ごろ、「懲りない精神医療 電パチはあかん!!」を売りに行ったときじゃなかったっけ、確か、15か16冊その場で買ってくれたような記憶がある。あれからずいぶん過ぎた。えばっちは、相も変わらず患者会にいるよ。吉岡さんは、ずいぶん変わったのかなぁぁぁーーエロウ為って変わってシモウたんかなぁぁぁ、『立場』ってモンがアルようになってしもうたんかなぁぁぁーーーそれとも本当に『観察法病棟バンザイ』の考えになっちゃったのか、、、、アンタもタイヘンかもシレンが、延々と患者会でレクやって食事会の食卓をなかま達と囲んでセーカツをみんなで、みんなで続けてきた、高齢のなかま達を看送ってきた、週一で精神病院に面会し続けてきた、なかまの入院をなかま達で説得して連れて行った、ソンな患者会を開き続け、クリスマス餅つき大会をやり続け、セーカツからくる「保安処分やらイローーンなモン」に終始反対してきたこっちの身にも為ってくれや。しかも、クスリ飲みながらやで、殺生なハナシやないかい、、、、、、、
山下院長とは第二回2021/2/17も第一回2020/10/21も、団体交渉は、内谷看護部長さん含めて、実のあるハナシが出来たんよ。吉岡さん、その二回の話し合いのうえで、少なくとも、次の点が問題点だと了解できたはずナンよ、だから、次は、吉岡さんと実のある実質的な話し合いをしたいのんや。やりたいんや。ハナシ合いやろうや。ヤルで、コレは、、、事務長なんか連れてくるナや、患者と看護士と精神医とでハナシ合おうや、実のあるハナシをしたいんよ。たまたまこれもご縁や、一緒に活動した仲やないか、『立場』は違ってしまった、でも話し合いはチャンとできるんじゃないかな。いや、せぇなアカンでコレは、、二月の何時かの水曜1400時から1700時まで、で、時間とってくれないか、よろしくお願いしたい。是非とも、や。下記は二回の団交の話し合いの問題点のまとめや、以下十点の吉岡さんの存念を聞くところから出発したい。また、以下二点の吉岡さん個人への質問がアリマス。話し合いを進めるにあたって、以下の十二点の回答を書面化していただいておくと、ハナシ良いかもしれませんね、、、
❶「心神喪失者医療観察法」が法案として国会に提出されていた時点では、吉岡院長は法案に賛成していましたか、それとも反対していましたか。 ❷吉岡院長は「精神医療」「日精診」誌上において積極的に『司法と精神医療の相互相乗り入れ制度』を提起しているかのように見受けられますが、其の意図するところはナンなのでしょうか。
①ガイドラインの18か月ですらを大幅に超える長期入院に為ってしまっているのは何故なのか ②自殺者が余りに多いことをドウとらえているのか ③内省療法をドウ認識しているのか実施するのか心理拷問ではないのか ④m-ECT、クロザピン、看護士の暴力CVPPPをドウとらえているのか ⑤高度に機能分化し過ぎた医療が医師看護士看護婦にどのような影響を与えてしまうのか ⑥ハードが出来てしまえば造るに苦労した世代の医療とは別に次世代若手からは其のハードに規定されてしまう医療に為らないか ⑦洛南病院として過去現在の刑事事件に巻き込まれてしまった患者さん達への対応に問題はなかったか ⑧刑事事件に巻き込まれてしまった患者さんへのそもそもの事実認定について司法を信じての治療開始で良いのか ⑨稼働したとして、外部のものが定期的に入れるのか、外部からの監視の眼が必要なのではないのか、、ソコに地域の精神病患者会も入れないか ⑩そして、長らく宇治の地で作業所所長をやってきはった棚谷さんが前回最後にハッキリと文書で持って指摘した三点の疑問点については、洛南病院には答えて頂くほかないと、強く想ってる。ソッチに残ってるはずやで、探し出しといてや。
しかも、当方の質問状31点の質問にも全て答えて頂いているわけでもないしね、とにかく、話し合うか。愉しみにシテルよ。最初の質問点も一応再掲しておきます。 ①一度、前進友の会と、会って話しが出来ませんか ②観察法病棟を運用するツモリですか ③ソレは何故ですか ④予定されている年間予算はお幾らですか ⑤『観察法病棟帰り』と云うスティグマを生みませんか ⑥この法15年の実績の中で『自殺者』は何人に為っているのでしょうか ⑦『自殺者』が多い原因は何だと考えていますか ⑧『多剤大量投薬』を実施しますか ⑨『内省療法』を実施しますか ⑩『認知行動療法』を実施しますか ⑪『鉄格子』『保護室』『四肢拘束』『看護士の暴力』を実施しますか ⑫『m-ECT電気ショック電パチ』を実施しますか ⑬この法15年の実績の中で最長入院年数はどのくらいですか ⑭長くなる原因は何だと考えていますか ⑮本人の希望する或いは信頼する医療福祉環境から断絶することをドウ考えていますか ⑯現代書館刊、浅野詠子著『ルポ刑期なき収容 医療観察法体制という社会防衛体制』を読みましたか ⑰アットワークス社刊、江端一起編著『キーサン革命宣言 精神病者のセーカツとカクメイ』を読みましたか ⑱『再犯予測』は出来得るとのお考えですか ⑲司法制度ですか精神医療制度ですか ⑳そのように考えるのは何故ですか ㉑副院長が当会の夏レクに参加していた事実はありますか ㉒副院長が京都滋賀精神医療人権センターの活動に参加していた事実はありますか ㉓何年間活動していましたか ㉔その間『処遇困難者専門病棟』構想に反対していた事実はありますか ㉕当会会員江端一起の記録やカルテは残っていますか ㉖本人の希望により廃棄処分とすることは可能ですか ㉗観察法病棟を運用前に見学することは出来ますか ㉘観察法病棟を運用中に見学することは出来ますか ㉙『保安処分』をドウ考えますか ㉚この法による患者の『自殺』は『治療』の『成果』と考えているのではありませんか、ドウなんダ ㉛府立洛南病院が果たしてきた役割と歴史を、現在の幹部諸君はドウ考えているのか    以上         2022年1月14日  精神病患者会前進友の会  執筆責任 江端一起 
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itokawa-noe · 1 year
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書店と朗読会をめぐる旅をしてきた話(三日目)
「書店と朗読会をめぐる旅をしてきた話(一日目)」からの続きです。この記事で旅の記録はおしまいです。
 今回は、
・犬と街灯(庄内)
・toi books(本町)
 を訪ねた際のことと、旅の総括的なことを書きました。
 おまけの番外編として、
・つまずく本屋 ホォル
 のこともちょこっとだけ書いています。
―――
【犬と街灯】
 最終日は、リトルプレスで賑わう「犬と街灯」へ。
 楽しいことがすきなひとが楽しいことをやっていたら楽しいことをやりたいひとが集まってきた、そんな空気がガラス張りの店内から外の通りにまで漂っており、もしも私がこのお店を知らなかったとしても、前を通りかかったら足を止めずにいられないだろうと思った。
「個人書店って、店主さんの人柄が出ますねえ……」と、ここ最近の個人/独立系書店通いのなかで感じていたことを何の気なしにつぶやいていたのだが、お店を営んでいらっしゃる方に向かってくちにするには不躾なせりふであることに気づき、ひぇーとなった。谷脇さんはなんだか実感のこもった調子で「あー、出ます、出ますねえ」とにこやかに頷いてくれて、ほっとした。
 自分も参加させてもらったアンソロジー『貝楼諸島より/へ』の原画が大集合しているのを見られたのも幸せだった。
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(ご存じない方のために説明すると、こちらの絵はすべて店主の谷脇さんが描かれたものなのです。『貝楼諸島より/へ』の装画と装丁を手がけられたのも、というかそもそもこのアンソロジーの発起人からして、ぜんぶ谷脇さんなんですよ。いやはやびっくりだね)
 やはり原画はよい。筆づかいや、ぬりかさねられた絵の具の厚みをじかに味わうことができて、陶然となった。写真撮影の許可をいただいたものの寄りで撮ることはなんとなくためらわれ、斜めから雰囲気だけ撮ってきた。
 『貝楼諸島より』と『貝楼諸島へ』の通販はこちらからどうぞ。
 糸川の短編が掲載されているのは、緑色の表紙の『より』のほう。鳥が出てくるお話なので、この本の表紙に鳥がいることを、ちょっと嬉しいな〜と思っている。
 とつぜんの告白なのだが、私には、児童文学を書いて本にしたい、その装画を谷脇さんにお願いしたい、という野望がある。ジャンル的に文フリなどでの頒布には不向きだろうから、この野望を叶えるには商業出版で単著を出すしかない。がんばれ。(装画をお願いする方を決めるのは作家ではなく編集者だろうとか、そういうことはいったん脇に置いておく)
 〈購入したもの〉
 前々から「これは買えるうちに買っておくべきなのだろうな(ものすごく評判がいいので)」と思いつつなんとなく手を出せずにいた本と、その場で目が合った本、あと友人へのお土産用の推し本を買った。
●谷じゃこ『鯖のいる情景』:こだわりぬかれたかわいすぎる装丁と鯖への偏愛にひとめ惚れした。一冊まるまる鯖の短歌と川柳なんだよ。購入後に数えてみたら76首あったよ。(数え間違えている可能性もあり)それだけでも恐れ入ってしまうが、奥付に「2022年9月25日発行(気持ち的には3月8日発行)」とあったのをみつけたときは降参!大好き!と心のなかで叫んだ。さばのひ!偏愛バンザイ!
●谷脇栗太『ペテロと犬たち』:推し本。中身も外側もたまらなくよい。
●暴力と破滅の運び手『ブラームスの乳首』:運び手さんはやばい。なんとなくそうなのだろうなと思ってはいたけど、それ以上にやばい方だった。そりゃ人気なわけだ。最高。
ーーー
【toi books】
 最後に訪ねたのはtoi books。
 敷地面積だけみれば決して広くはないが、棚が宇宙だった。宇宙のひろがりを感じる棚だった。何周もぐるぐるした。もろもろの事情がゆるすならば何時間でも眺めていたかった。
 客が自分ひとりしかいない時間が長くつづくと店内に変な緊張感が漂ってしまうことがある。toi booksさんではそれが一切起こらず、店主さんの気配の消しかたに感動した。おかげで目の前の本棚以外のことは頭から消え、心ゆくまで回遊できた。
 その道のプロなのかと思うぐらい見事に気配を消されていた店主さんだったが、会計時にはお声かけくださり、それも嬉しかった。赤染晶子さんの『じゃむパンの日』について、この本を迎えられることが嬉しくてならないというような会話をし、温かな余韻とともに帰路についた。
〈購入したもの〉
●赤染晶子『じゃむパンの日』:言わずと知れた。また会えて、このような形で手にとることができて、幸せだ。
●いしいしんじ『書こうとしない「かく」教室』:他のお店で目が合ってもたぶんすぐには手がのびなかった。toi booksで出会ったという文脈が、この本を選ばせた。
●福永信『星座から見た地球』:いわゆるジャケ買いというやつ。表紙と帯とタイトルとぱらぱらめくってみた本文の白黒のバランスなんかに、ぴんとくるものを感じた。ままごとの『わが星』っぽいのを想像しているのだけれど、どうだろうな。そうだと嬉しい。そうでなくても嬉しい。
●町屋良平『ほんのこども』:いつか読まねばと思いつつ、向き合うのが怖くて、目が合うたびに逸しつづけてきた本。ついにわが家の敷居をまたがせてしまった。怖い。
ーーー
 以上で「書店と朗読会をめぐる旅をしてきた話」はおしまいです。
 最後に、今回の書店めぐりを通じて感じたことなどを少しだけ書いておきます。
ーーー
 どのお店も「誰のために」と「なんのために」が明確で(あるように私には感じられた)そこがとても格好良かった。
 誰のために。なんのために。
 お話を書く際にも、それから読む際にも、忘れずにいたい問いだ。
 つい最近、とある作品を読んだ際に、それが誰かにとって大切な物語なのだと想像することを怠った結果、ひどい過ちを犯してしまった。そんなことを思いだしたりもした。
 そんなこんなで、たくさん本を買った。
 お財布はすっからかんだ。旅行中はほとんど飲食店に入らず食費を節約していたのだが、焼け石に水だった。
(コンビニのおにぎりをホテルの冷蔵庫に入れておくとひとばんでカチンコチンになるのだという知見を得た)
(知見を得たのに翌日もまったく同じ失敗を繰り返し、二日続けて予定していた時間にホテルを出ることに失敗した)
 今回の旅のために確保していたお金は使い切り、ほかのことに使うはずだったお金まで飛んでゆき、もともと天井を突き破っていた積読の山がさらに高くなり、そのぶんだけ罪悪感が募った。でも悔いはない。お金を貯めて積読の山を低くしてから、またこういう旅がしたい。
 大阪から戻ったあと、久々に実家に帰った。
 駅前の風景に違和感をおぼえ、その正体について考え、長いあいだ駅前でがんばっていた書店がドラッグストアになっていることに気がついた。
 自覚していた以上に、私は本屋さんがすきみたいだ。
 本屋さんを、とりわけ街の本屋さんや個人の営む本屋さんを、じぶんにできる形で応援してゆきたい。
ーーー
 おまけの番外編
【つまずく本屋 ホォル】
 大阪から帰ったあと、川越市の霞ヶ関にある「つまずく本屋 ホォル」に行ってきた。ほしおさなえさんや伊東なむあひさんのツイートで存在を知り、長らく気になっていたお店だ。
 店主の深澤さんがとてもお話のしやすい方で、最近発売されたアンソロジーのこと(『なまものの方舟』には私も乗りたかったのだけれど、乗組員を志願してよいのかわからずまごまごしているうちに船が出港してしまったのです、など)や共通の推し作家のことなどを、わりと長めにおしゃべりさせていただいてしまった。一月に開催される「星々の集い」でまたおめにかかれるとのことで、今から楽しみだ。
 ホォルさんの棚、迷路みたいですごく楽しかった。新しい本と古い本がわけへだてなく並んでいるところや、おなじ本がいろんな棚にいるところが、のびやかで風変わりで、すきだった。深澤さんは「意図してそうしているところと、結果的にそうなってしまっているところがあるんですよね」と仰っていたけれど、そのありようこみで、とても好もしく感じた。
〈購入したもの〉
●小津夜景『花と夜盗』:小津夜景さんの存在を知ることができたのは、今年特によかったことのひとつだ。教えてくださった方にとても感謝している。
●せんだいメディアテーク『ナラティブの修復』:いま一番関心のあるテーマについての本なので買うしかなかった。
●野村日魚子『百年後 嵐のように恋がしたいとあなたは言い 実際嵐になった すべてがこわれわたしたちはそれを見た』:訪問のきっかけをくださった伊藤なむあひさんへのリスペクトをこめて、伊藤さんの推し作家さんの本をお迎えした。(というのもあるけれど、単純に野村日魚子さんの歌集がほしかった)
●橋本輝幸『鹿が店を発見する』:橋本さんのお店レポが好きなので。一冊にまとまって嬉しい。
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nanaintheblue · 4 years
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さらば、女の子の時代
おそらく今までで一番長い小説かも。一応連作短編集になっていて、山形の田舎から高島あすかという女の子が私立大学に入学して4年に上がるまでの日々を書いています。 こちらのタイトルめちゃ気に入っています!なんていつもならこんなバシっと決められないのに、なぜか決まりました。 言ってしまえばかなり自分の大学時代の思い出を反映しているので、見知った友達には羞恥で読ませられませんでした。今となっては時間が経ち過ぎて、あまり読んでいてそこに自意識は働かないけれど。多分、わたしの友達や同じ大学の人が読んだところで「へー」と低い温度で思うだけでしょう。 とはいえ嬉しいことがありました。同郷の友達のふみりんが「読ませて」というので、え〜と思いつつ読ませました。ふみりんには自分の書いた小説など一度も読ませたことがなかった。これは性描写もがっつりあるし、自意識と悪意と打算に満ちているので、朗らかで明るいふみりんに見せるのは気が引けました。 そしたら電話がかかってきました。ふみりんはボロボロ泣いていました。「どうした」とギョッとして訊くと、「自分の学生時代を思い出して、なんだか涙が止まらんかった」の言われました。 誰が読んでも自分の大学時代を思い起こせるようなものをーーと思って書いたので、とても嬉しかった。 こういう小説を書いて、書き切って、わたしは学生生活を終えました。そのことをとても嬉しく思います。 けれど、その頃(2018年)恋愛がごたついており、というかそれは生涯通してそうなのだが、原稿執筆中に思いっきり失恋したこともあって原稿は結局ロストになりました。書き切ったけど、書き切っただけという感じ。印刷して郵便局に出す気力などなかったし、ラストに自信がありませんでした。 もしもの話は大嫌いですが、時々考えることがあります。 あの時、小説すばるに出していたら今年と同じように2次通過できていたんだろうな、ということです。なぜなら展開を変えていないから。 そしたらあの暗黒の時代も、もっと変わっていたかもしれない。光がほんの少しだけ差して、そこに向かってもがいて、もっと早く筆を握り直しせたかもしれない。 22歳から24歳にかけて、かなり最悪な感じで人生を進めていました。原稿も、筆がなまらない程度にちんまりと書いていただけ。ニートにいつ転落するかもわからない、原稿を書いていないのだから小説家にはなれない、常に色恋沙汰には問題があり、エロ系の原稿をしこしこ書いて副業に勤しむくらいしかよすががない。ライター自体は楽しかったけどこういうことじゃない気がするなあ、と思いながらも、でも小説の原稿を書こう、というのができなかった。 なんでだろう? 鬱気味だったせいだろうか? まあ、小説家になりたいすべての人に言いたいです。いいから書け、そんで人に見せろ。のたうちまわりたいほど強烈に恥をかけ。傷くらい自分で治してみろ。 以上です。わたしは……これが最小限だった、と思いつつも、やはり回り道をしてしまいました。歯痒い思いをしながら今も原稿を書いています。そしてこれからも、傷を見せびらかしてぎゃあぎゃあ言いながら、書きます。 けど、この小説がある意味思春期の墓標かもな。もう、感性だけで小説を書くことはできなくなりました。 追記 以下ネタバレです。そもそもは「誰もが自分の青春を思い起こさせられるような学生時代の連作短編集を」と思って小説すばる用に書きましたが、デートレイプを題材に入れたいと思いついて、一回生から鬱展開になりました。本当ならキラキラ青春連作にするつもりだったんだけど。 今まさに大学にいる女性からしたら、なんてみだらで節操のない、だらしない学生だろう、と眉を潜めるかもしれない。大学1、2年生とかは特に潔癖な人が多いから。少なくとも当時のわたしはそうでした。関係ないけど19歳のわたしが、25歳の未来の自分がこんなあからさまな作品を書いたりましてや知り合いも見るような場所においたりすると知ったら、卒倒すると思う。そしてその反応は、そのまま、予想に過ぎないけど母の反応と全く同じです。 処女喪失を重ねたためセンセーショナルな青春の出だしではありますが、女性なら大小差はあれど経験があることだと思います。 そしてそのような経験をした同性に対して「あなたにも隙があったんだよ」「男の人ってそういうものだから仕方ないんじゃない?」と思ったこと、あるいは言われたことが、あるんじゃないでしょうか。 わたしは、あすかのように大学一年の、若いというより幼い時に同性から、とくに先に様々な経験をしたであろう先輩から近しいことを言われたことがありますし、逆の立場であれば同じことを言ってしまっていたかもしれない。  わたしはエネルギーと自己愛に溢れていたので、蹂躙されたと感じた時は正面からメンチ切ったけれど(小説ほどのことではありません、念のため)、大抵の人は、男性不信を引きずったままビッチになったり逆に誰にも体を明け渡せなくなってしまうんじゃないのかな、と思ってこんな展開になりました。 主人公はあんまり自分の軸とか頑固さがなくてその場の空気や感情に流されて、結果だらしのない学生生活を送るけれど、こんなのビッチのうちには入らず、自傷でしかない。 それでも外野からしたら「自分を持っていないばかな若い女が、性別と年齢に対するちやほやを承認欲求の充実に履き違えている」と蔑まれて、本人もまた自己肯定感を失う、この負のループ。 あすかは特異な経験から夜職に手をつけるけれど、これって本当に特異な経験なんでしょうか。 ひらきなおって国分町でウサミミをつけて働いていたときに、とても、清々しい気持ちになったことをいまでも覚えています。自分が最も軽蔑していたくだらない人種に成り下がった、と唾棄しながらも、若くて可愛い、身体に裂け目のついた記号であることをお金とちやほや���直接変換することが楽しくって、らくちんで、刺激的で、たまらなかった。 それまでそこそこ真面目な学生だったこともあって、勤務していることを明かしたら後輩(特に同性)に眉を潜められた。陰口をたたかれていることもうっすら知っていました。気持ちはわかるよ、と思いながら知らん顔していました。むしろもっと突き飛ばしたい意地悪な気持ちが込み上げてきて、吹聴していた節すらある。今よりずっと自信がなく、露悪的で、卑屈で、まあ、一貫して性格が悪かったので。 未分不相応な額をもらって肩だの脚だの尻だの放り出すような格好でちゃらちゃら働いていたことに対して今でも何の後悔もありませんが、それはわたしが物書きだからというわけではないと思う。 これは脅しではなく単なる事実なのですが、わたしたちが女性という性別であることを、これから先何度も何度もいやってくらい突きつけられます。女のくせに、女なんだから、女っていいよね、そう言う台詞を嘲笑やため息や蔑みとともに受け取ることは社会に出てからの方がたくさん、あります。 もちろん男の人もです。男なんだから、って、とんでもない時代錯誤なセクハラ を同性からも異性からも投げかけられること、あると思う。 突きつけられたことなんてない、あんたが勝手に選んだ卑しい道では唾を吐きつけられたのかもしれないけどわたしの身にはそんなことなかった、男の人はみんな優しくて誠実だった、という人は、幸せだとは思うけれど、そっちの方がよほど、自分に対して何かを潔癖なまでに硬く守る必要があったんだな、と憐んでしまう。 なんかうまくまとめられなかった。大きすぎる題材だったかなあー。男の人ことを悪様にするつもりも露悪のつもりもないけれど、でも、わたしが思春期の最後に歯を食いしばって書き上げた小説です。長い長い物語を最後まで読んでいただいてありがとう。いつか小説誌面でお会いしましょう。
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cookingarden · 4 years
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ジェニファー・グラウスマン監督、サム・カルマン監督『美術館を手玉にとった男』 原題:Art and Craft 制作:アメリカ, 2014年. これは新しいタイプの映画だ。主人公マーク・ランディスのセラピーがリアルタイムで記録されている。その意味でドキュメンタリー映画だが、映像表現や音楽が実にカッコいい。 それだけではない。この映画自体が主人公の「手玉にとられて」いるように見える。そして終いには、精神疾患を抱えるのは主人公ではなくわたしたち自身ではないかと思えてくる。『美術館を手玉にとった男』は、観る者を逆説の境地に誘う新しいタイプのドキュメンタリー・・・ではないかと思う^^; なお、本作の登場人物はいずれも実在する。本来であれば名前に敬称が必要だが、映画の登場人物として省略した。          CONTENTS ・寄贈された名画は贋作だった ・ランディスが行った贋作の技法 ・ランディス、お前は何がしたいのだ? ・精神疾患を持つランディス ・ランディスに転機をもたらした贋作の展示会 ・ランディスは統合失調症なのか? ・母との統合を果たしたランディス ・ランディスの統合とわたしたちの不統合
寄贈された名画は贋作だった 「全米各地の美術館に贋作が寄贈されている」ーーこの事実を最初に知ったのは、シンシナティ美術館で主任レジストラーを務めていたマシュー・レイニンガーだった。彼はオクラホマシティ美術館に努めていた2008年、有名絵画を寄贈したいというマーク・ランディスと出会う。しかし、彼が持ち込んだポール・シャニックの絵は、ある大学が所蔵していることに気づく。調べると、ランディスが持ち込む作品はどれも、全米各地の美術館などに現存するものだった。 レイニンガーは、ランディスの贋作を受け入れた施設は、30年間で全米20州の46美術館にもおよぶという。映画には、「これは犯罪行為だ。入院するか刑務所に入る必要がある。」とランディスを責める博物館関係者も登場する。しかし、彼は金目当てに贋作を行ってはいない。それでは、贋作を寄贈することの何が問題なのだろうか。 美術品を購入する際、美術館は作品を精査する。だが、寄贈となると名品でもあまり調べようとしない。多くの美術館はそこを突かれたようだ。贋作を買わされてはいないので、ランディスの行為は詐欺罪には当たらない。これは映画に登場するFBIの捜査官がそう述べている。 しかし、贋作を展示すれば、美術館全体が贋作を展示していると思われかねない。これは美術館にとって迷惑な話だろう。 ランディスが行った贋作の技法 それにしても、彼は一体どのようにして、30年間にわたって100作もの贋作を作り上げたのだろうか。映像が伝えるその方法は、それほど特殊なものとは思えない。彼は町のホームセンターで手に入る、ごく普通の色鉛筆や絵具を使っている。画材の古さを表現するために、作品をコーヒーで汚したりもする。 しかし当然ながら、ごくありふれた道具でプロを欺くには優れた技量が必要だ。ランディスは用紙の下に元絵を敷き「めくる」「描く」を繰り返す。かつて銀行で目にした、印鑑の残影照合と同じ手法だ。ランディスはこれを「記憶術」と呼んでいる。 デジタルプリントも使われる。プリントを下絵に絵具を重ね、見る見るうちに本物のように仕上がっていく様子は圧巻だ。見た目にはリアルだが、それでも鑑定されれば簡単に見破られるだろう。ランディスが寄贈した作品の真贋を疑わなかった美術館も無防備だったと思わせる。 ランディスは、両親との生活が贋作の原点になったと述べている。海軍将校だった父と美人の母に連れられ、訪問先のホテルの部屋で留守番することが多かった8歳のころ、退屈しのぎに美術館から持ち帰ったカタログを模写するようになった。これが贋作のはじまりだったという。後に美術館を欺くほどになる彼の技量は、幼少から数十年におよぶ修行から生み出されたものだ。 ランディス、お前は何がしたいのだ? ランディスの贋作を見た多くの関係者が、作品の出来を高く評価している。贋作を見破ったレイニンガーも、本物に見える出来栄えだと述べている。だが、金目当ての贋作ではない。「いったい、この男は何がしたいのだ?」レイニンガーは捜査にのめり込む。しかし、調査に没頭するあまり彼は、仕事中は控えてくれという美術館の忠告を聞き入れず、とうとうレジストラーの仕事をクビになる。 レイニンガーは、「自分は執着しすぎる傾向がある」と告白している。かつて、強迫性障害や注意欠陥・多動性障害と診断されたことがあるという。そして、自宅で主夫を過ごすなか子どもに「ランディスが憎いの?」と聞かれ、「いや、そうではない」と答えている。最初は彼に腹が立ったが、調べが進むうちに憎む感情はなくなったようだ。 彼の懸命の捜査は4年間におよんでいる。ランディスは何度も名前を変え、各地の美術館を渡り歩いていたことが明らかになる。移動の手段は、かつて母が乗っていた赤のキャデラックだ。レイニンガーが集めた情報はやがてFBIの耳に入り、フィナンシャル・タイムズの記事で取り上げられたことでランディスの行為は全米に知れ渡ることになる。 精神疾患を持つランディス 追う側のこうした姿と並行して、映画はランディスが地元ミシシッピ州ローレルにあるメンタル・ヘルスケア(Pine Belt Mental Healthcare Resources)に通う姿を映し出す。ケースワーカーが尋ねる。 「気分はどう?」 「自殺願望は?」 「他害衝動は?」 「幻聴や幻覚は?」 小さな声で「ない」と答えるランディス。彼は精神疾患を抱えている。17歳のとき「妄想型統合失調症と精神障害」「パーソナリティ障害」と診断され、現在は統合失調症治療薬ジプラシドンの処方を受けている。 ランディスの行動の原点に母の存在がある。ランディスは「父にとって自分は残念な存在だった」という一方で、母には強い情愛を示している。母を回顧して彼は次のように語っている。
亡くなった父を忍ぶことをして、母を喜ばせたかった。母は自分が贋作を寄贈しに各地を歩いていることを知っていた。それでも母は、自分のことを少しは誇りに思っていた。というか気にしなかった。
ランディスの心にはいつも母の存在があった。彼は母の美しい肖像画を描いている。彼の精神疾患が診断された17歳の時、同じ17歳当時の母の写真を模写したものだ。母が亡くなったのは2年前と述べていることから、贋作を寄贈して歩いたほとんどの期間を、母とともに過ごしていたことになる。 ランディスに転機をもたらした贋作の展示会 ランディスの贋作が発覚したあと、彼に興味を持つ者が現れる。シンシナティ大学でレイニンガーの同僚だったアーロン・コーワンである。彼は「ランディスの行為自体がアートのようだ。動機が気になった」という。そして彼は、ランディスの贋作を一堂に集めた展覧会を企画する。過去の贋作作家との違いを示すのが彼のねらいだ。計画を聞いたレイニンガーは「面白いじゃないか」と述べている。ランディス自身も電話で展示会への感謝を示している。 だが、コーワンはランディスの行為を良しとしているわけではない。発覚したあとも贋作の寄贈を続けるランディスに「悪意がないのはわかっているが、ともかくやめてほしい」と諭している。関係者にとって、贋作の寄贈は歓迎できるものではない。 緊張のうちに展示会場を訪れたランディスは、人々から口々に「贋作じゃなくて、自分の作品を作ってほしい」と声を掛けられる。それに対しランディスは母の肖像画を指し「作っているよ」と答えてる。 展示会場ではじめて、ランディスはレイニンガーと面会する。5年振りの再会だ。互いが手を差し伸べ握手をする。ランディスは、
私は長い間、君と話せなかった。ほんの数分も。とにかく、会えて嬉しい。ほんとうに申し訳ない。できることがあったら、言って欲しい。
と話しかける。帰り際にもランディスはレイニンガーに感謝の言葉を述べ、二人は、硬い握手をして別れている。 このあと映画はランディスの独白を捉えながら、エンディングを迎える。最後の場面で彼はおよそ次のように語っている。
(贋作の寄贈は)やめた方がいいんだと思う。思い付いたことがある。紛失や盗難にあった芸術作品を持ち主に返すというアイデアだ。私にできることは、小さな絵を描くことだ。なくなった1ページを、もとの本に戻せたら素敵だろ。
このときカメラは、ホテルの部屋で神父の服装に着替えるランディスの姿を捉えている。鞄を下げ、赤のキャデラックに乗り込むランディス。「アイデア」を実行に移す姿を示唆して映画は終わる。 ランディスは統合失調症なのか? エンドロールをながめながら統合失調症とは何かが気になった。映画のランディスは確かに風変わりで病弱な印象の人物だが、とりわけ重い精神疾患があるとは思えなかったからだ。統合失調症について厚生労働省の関連ページには次のように書かれている。
統合失調症は、幻覚や妄想という症状が特徴的な精神疾患です。それに伴って、人々と交流しながら家庭や社会で生活を営む機能が障害を受け(生活の障害)、「感覚・思考・行動が病気のために歪んでいる」ことを自分で振り返って考えることが難しくなりやすい(病識の障害)、という特徴を併せもっています。(…)慢性の経過をたどりやすく、その間に幻覚や妄想が強くなる急性期が出現します。 厚生労働省「みんなのメンタルヘルスケア総合サイト」より引用
はたしてランディスは、この記述に当てはまるだろうか。わたしには、どうもそうとは思えない。映画の中で彼は二人のケースワーカーの問診を受けているが、いずれのときも「幻覚や妄想はない」と答えている。また、多少ぎこちなさはあるものの生活に大きな支障があるようにも見えない。普通にクルマを運転し買い物にも行く。電話による会話もできている。そもそも、人との交流ができなければ、全米20州46ヵ所もの美術館を訪れ贋作を寄贈して回ることなどできなかっただったろう。 母との統合を果たしたランディス 彼は17歳のとき精神障害があると診断されている。その頃の様子を知る手がかりが、映画のなかにひとつだけある。ランディスはこのとき、写真をもとに母の肖像画を描いている。その肖像画は、映画のなかで彼が「オリジナル」だと表明する唯一の作品でもある。
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ランディスの心にはいつも母がいた。その原点は、夜遊びを繰り返す両親と過ごした旅先で形成されたものだろう。両親が外交的だったことは映画でも描かれている。留守番の退屈しのぎに行ったカタログの模写は、ホテルに帰った母から対話を引き出す切っ掛けになったはずだ。学童期の子供を部屋に残して遊びに出た親が、留守中に描いた子供の絵に言及しないとは考えにくい。ランディスは母からできるだけ多くの称賛を集めようと模写を繰り返し、腕を上げていったのだろう。 象徴的な言い方をするなら、ランディスにとって模写は、自我を形成する上で不可欠の媒体だった。ランディスにとってその仕組みは強すぎたのだろう。なぜ強すぎたのか、その理由を知る手がかりは描かれていないが、ランディスは8歳から10年近くも装置の虜になった。そして17歳のとき、その集大成のように母の肖像画を描き上げ、母への思いを自身のなかに定着させた。しかしそれは同時に、彼の精神疾患が定義されたときでもあった。ランディスは精神疾患と引き換えに、自分のなかに母を埋め込んだのである。 こうして模写は、心の母からの称賛を自身へと注ぎ込む装置として機能するようになった。17歳以降のランディスは統合失調症を抱えた患者だったが、彼自身にしてみれば模写を媒介に母との統合を果たしながら生きたことになる。母が亡くなった後も贋作の寄贈が続いたのは、心の母が生き続けていたからだろう。その意味でランディスは、統合失調症とは裏腹に心の統合を果たしていた。しかし、その統合は一枚の肖像画に象徴される、極めて閉塞的な世界だった。 言い換えれば、幻想の母による承認のもとで作品を描き精神障害を乗り越えてきたランディスは、母が認めたことがないオリジナルの作品を描くことができないのである。これは、「写真を学んだが撮るものがなかった」という彼自身の言葉によって裏付けられている。ランディスは、母の承認なしに外の世界を美の基準で捉えることができないのだろう。 このように考えていくと、「贋作じゃなくて、自分の作品を作ってほしい」という人々の要望は、簡単にはかなわないことになる。一方で、映画の結末で彼がアイデアとして示した「なくなった1ページを、もとの本に戻す」仕事は、心の装置の仕向け先を贋作から修復へと移行させるすぐれた着想に思えてくる。この点から見ても、ランディスの精神はまともというしかない。 ランディスの統合とわたしたちの不統合 結局のところ、ランディスは絵画を模写することによって自我を形成した。しかし、母を起点としたその自我は極めて社会性の乏しい、彼の心に閉ざされたものとなった。この閉塞を超えて彼を社会につなぎ止めたのが、贋作を美術館に寄贈するという行為だった。彼はこれを「慈善行為」と呼んでいる。 ランディスは美術館であれば贋作となる模写の能力を、今後は修復の世界へと広げることを示唆しているが、この映画もそのひとつと見ることができる。彼は本作を通じて主役を務め、多くの登場人物や観客と繋がる切っ掛けを得た。『美術館を手玉にとった男』を通じてランディスは社会との新たな統合を果たしている。手玉にとられたのは美術館だけではない。「手玉にとる」はタイトルに掛けたものだが、もちろんランディスの意図ではない。ランディスの行為に周囲が参加しているという意味だ。 ランディスが歩んできた人生は、わたしたちにある種の反省をもたらす。いったいわたしたちは、誰からのどのような承認のもとで自己を確立し社会と繋がっているのだろうと。これは大多数の人々にとって難しい問いではない。多くの人は学校に通い、職を得て伴侶をもうける。そこには試験、資格、容姿、家柄、人種、金銭といった様々な種類の承認がある。こうした承認の組み合わせによって作られる生活や人生の多くは、社会的に構成されたものだ。この仕組みと交われない個人の状態が、統合失調症と呼ばれるのだろう。 わたしたちはそうした疾患と無縁であることを良しとしている。そこで経験する承認は、ランディスの世界に比べ複雑で多様なものだ。しかしその分、承認のレベルは低く一貫性に欠けがちだ。わたしたちは褒められる対象を、もっと厳選するべきではないのだろうか。 ランディスの人生を羨むわけではない。しかし、『美術館を手玉にとった男』を観てわたしには、ランディスが行ったような承認への集中なしに、外界や対象を深く知ることは難しいのではないかと思うようになった。ランディスの修行は極端なものだが、そのことが逆にわたしたちが抱える症状を思わせる。わたしたちはランディスと反対に、真に模写すべき対象を見失っているのではないか、と。 ジェニファー・グラウスマン監督とサム・カルマン監督は、マーク・ランディスというひとりの精神病者の特異な才能を通じて、観る者に、修復が必要なのは観ているあなたかもしれないと問い掛けている。やはり『美術館を手玉にとった男』は、新しいタイプのドキュメンタリーなのだろう。
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oniwastagram · 4 years
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📸廬山寺庭園“源氏庭” [ 京都市上京区 ] Rosanji Temple Garden, Kyoto の写真・記事を更新しました。 ーー #紫式部 の邸跡にちなんで作庭された枯山水庭園“源氏庭”。夏はキキョウの名所。 #明智光秀 ゆかりの仏像の特別公開も。 . 🔗おにわさん紹介記事: https://oniwa.garden/rosanji-temple-%e5%bb%ac%e5%b1%b1%e5%af%ba/ ・・・・・・・・ 廬山寺は平安時代に紫式部が過ごした邸宅のあった場所に建つ寺院で、それにちなんで作庭された #枯山水庭園 “源氏庭”は初夏には紫の #キキョウ の花を咲かせる桔梗の名所として知られます🌷先日初めてその姿を拝観! . 寺院としては平安時代の中ごろ、938年頃(天慶年代)に比叡山延暦寺の中興の祖・良源により創建。正式名称は“廬山天台講寺”。当時は現在地より北西の船岡山の南に建立されましたが、応仁の乱で焼失🔥 延暦寺系ということで織田信長に狙われたりもしつつ安土桃山期の天正年間に現在地に移転。 . なお戦国時代には明智光秀により侵略され、その滞在時に光秀が礼拝し戦に持ち運ぶこともあったという仏像が展示された特別展『明智光秀の念持仏と廬山寺展』が2020年開催中です。 . 江戸時代にも1788年の天明の大火🔥で伽藍を焼失するものの、光格天皇によってすぐ近隣の『仙洞御所』の御殿の一部が移築され再興。当時移築されたのが現在も残る本堂と尊牌殿。 本堂にまつられている御本尊“木造阿弥陀如来及両脇侍像”が #国指定重要文化財 。その他にも国宝に指定されている“慈恵大師筆遺告”も所有していますが、こちらはトーハク🏛に寄託。 . この地が紫式部の邸宅だったと論証されたのは1965年(昭和40年)。紫式部の祖父・藤原兼輔(権中納言)の建てた“平安京東郊の中河の地”の邸宅というのが現在廬山寺の境内であったと歴史学者・角田文衞により考証されました。 その後、父 #藤原為時 とともに越前国からこの邸宅に移り住み、その後大人になった紫式部はこの地で『源氏物語』『紫式部日記』を執筆しました🖋 . 枯山水庭園“源氏庭”はそれにちなんで昭和40年に作庭されたもの。平安時代の庭園の曲線的な特徴を、現代の苔と白砂に置き換えたもので、6月末〜夏にかけて見頃を迎えるキキョウは“源氏物語”に出てくることから、また紫式部にちなんで植えられたものだそう。 ちなみに、紫式部ゆかりの庭園として作庭されたものとしては、福井県・越前武生の『紫式部公園』という回遊式庭園もあります。 . また廬山寺の境内には豊臣秀吉によって京都の広域に造営された“御土居”の一部が残り #国指定史跡 にもなっています。 以前御土居の話を書いたのは鷹峯の『しょうざんリゾート京都庭園』。結構遠いんですけど…、そんな風に平安時代・安土桃山・江戸時代から現代までの歴史を感じられる寺院。 ーーーーーーーー #japanesegarden #japanesegardens #jardinjaponais #kyotogarden #zengarden #japanischergarten #jardinjapones #jardimjapones #японскийсад #landscapedesign ‪#庭園 #日本庭園 #京都庭園 #京都 #京都市 #kyoto #御所東 #出町柳 #demachiyanagi #枯山水 #karesansui #おにわさん #oniwasan (廬山寺) https://www.instagram.com/p/CCGxKD0pMxs/?igshid=1ux13pcdm3t67
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38nakao · 4 years
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いっぱい考えるきみが好き!
 今年の2/28は、うるう日前日で、華の金曜日で、わたしの給料日。まだ中身の更新されない無駄に本体だけ重たい財布を携え、久しぶりに渋谷へ。この頃は毎日の楽しみってほど楽しいものもなく、帰りがけのコンビニについ入ってお酒を買ってしまい飲んじゃう、みたいな日課はある(そんなあだ名はつけたくないけど)。この日の行き先は、居酒屋でも割烹でも小料理屋でもなく、向かうは無限大ホール。目当ては又吉直樹大先生。いろんな芸を磨くのに忙しい彼だが、今でも『実験の夜』と称した定期イベントをやっている。気のしれた芸人仲間と、用意したお題に沿いつつ捕らわれすぎずに進む話は、実験というよか一人暮らしの自炊のような、はたまたドリンクバーを淡々と向かい合ってるような、そんな解放感がある。ちょいとしくじったって、ぼかーーーん!とドクロの煙があがるこたない。気楽なイベントだ(座って観てる側からすれば)。
 最近趣味ってほどの趣味がなく、ぼんやりと生きている。入れ込むほど好きなものもないけれど、気になるものはたくさん転がっていて。図書館やYouTubeで簡単に観れちゃう。しかも安酒片手に。ただ、それだけじゃあ薄味過ぎる。でも、そのひとを知り尽したいと前のめりな集中力はない(あれ、わたしってオタクじゃないんだね、ミーハーなんだね)。でも、気になるものをちょろりとつまみ食いするのも、まあ楽しいよね。飲み屋に行く足取りで、お金代わりのチケット持って、何となく。
 『実験の夜』は二回目。又吉氏は、意外と背が高くない。170cm、ないのではないか。うねうねの八の字パーマ、通気性のありそうな素材のゆったりした服を着ていた。少し語尾が伸びる圧のない大阪弁。話すときの姿勢がなんとなく好き。
 今回の企画は、又吉氏をよく知る後輩5人に彼自身が考えたあるランキングの内容を当てるというもの。第一のお題は、「状況飯」というものだった。サウナで思いっきり汗をかいたあと飲むビール、みたいに限られた状況のもとで食べるからこその、うまさ。そんなドラマチックな飯を又吉氏はいくつか考えて、我々が見守るなか後輩たちが5位までを当てる。
 後輩らがサッとフリップに書いて淀みなく声にだしていく。すぐ答えられるあたりが付合いの深さ、それにすごく又吉氏っぽくて、芸人さんて本当にすごいなと思った。発想力と瞬発力がすごい。しかも、DJみたいに雰囲気も読めなきゃならない。それなのに売れてないのかこの人たち(Marumanのオレンジ×黒のスケッチブック、あれ売上の3割くらい吉本興業な気がする)。
「執筆が一段落ついたあとのサッポロ一番」
「神保町で良い買い物したあとのボンディのカレー」
「河童がくれたきゅうり」
「太宰治の『人間失格』のなかにハムとか入ってるサンドイッチ」
※うろ覚えの意訳
 という解答に「ええなあ」とか「うまそやな」とか目を細めるも首を横に振る氏。ほんとの状況飯ランキングは以下の通り。
五位:アカデミー賞受賞後、ロスで打ち上げした良い雰囲気の小料理屋で食べた〆のそば
四位:テスト期間が始まったばかりに、「グラウンド十周したら今日は帰れ」に顧問に言われ、部活終わりの帰り道に友達に二本もらったポテト
三位:幼稚園に入ったばかりの娘が妻とバレンタインのお菓子づくり。「ゆうくんにあげるんじゃないの?」と聞くも、最初にくれた少し焦げたクッキー
二位:誘拐され部屋に閉じ込められ、「もう死ぬかもしれない」と餓えてるときに誘拐犯がつくってくれたペヤング
一位:天気が良かった日のカレーライス
※うろ覚えの意訳
 モウソウクウソウなんでもあり。当たるわけねえじゃん。ただ、ここまで自由に想像できるものなのか。誘拐犯がわざわざ流しに湯切りする手間、一抹の優しさ。それがうまみしかない調味料になる。くそう、叶いっこねえよお。
 わたしは特に四位が好き。校則で本来はダメだろうに買い食いしちゃうこと、しかも友だちに二本、きっと冷めててふんにゃりしたポテト。ノスタルジーはイカ墨じゃなくて、砕いた真珠かなにか入ってる。だから放課後って、なんであんなにキラキラしてるのだ。
 わたしの状況飯、何があるだろう。食のエッセイを書いて(うっすい)本にしたことがあるからには、やらねば。
 正直、舌はほとんど肥えてない。最近はまずいと思うものはほとんどないよ、コンビニのごはんもある程度おいしいんだもの。基本がおいしい��、あとはすごくおいしいみたいな感じ。だからこそ状況飯、そそる。
・冬山に遭難しなんとか山小屋を見つけるも食糧は底をついてしまい、強い風が打つ音、小屋のきしむ音をかき消すように明るく話してみせるが死んだ表情を浮かべるチームメイトを見て心が折れた瞬間、救助隊がドアを叩く音がして安心で涙腺がゆるみ、ぼやけた視界の中で飲む山岳犬の樽の中身
・禁煙をはじめたばかり、取引先と最寄り駅で会う約束をするも中々相手が表れず貧乏ゆすりをしているわたしを見かねて「糖分補給」と手渡された小さい袋に入ってる明治のブラックチョコ
・よく晴れた土曜日、家で用事をひとしきり済ませたあと、そういえば洗濯物を干しっぱなしだったのに気がついて畳んでいるうちに眠ってしまい、ぱちんと家の明かりがついた音に気がつくと、「おはよう」とスイッチに触れてる好きなひとが立っていて、「昼寝してた」と立ち上がったわたしに「お腹空いちゃって」とコンビニの袋から出てきた二本のガリガリ君
 想像というか願望。もったり顔のセントバーナードに見下ろされつつ樽からブランデー飲みたい。スイスの山の上にあるおんぼろ小屋で飲む、みたいなコンセプチュアルなバーかなにか出来ないだろうか。ラクレットチーズとか食べられて。鈴つけてるヤギと一緒に樽下げたセントバーナード。
 おすすめは、三つめ。まず土曜日ってのがミソで、夕方ってのもミソで、分かってくれるよね、この優しさに満ちた世界。自分が食べたいものを相手にも。わたしの理想は「離れているときのふとした瞬間」で、関係性というのは一緒にいるときじゃあなくて、いないときに何をしてるかだと思うのです。これ話しだすと本当に長くなるから、今は話さないけど。
 知りたいひとは、飲みにでも行きましょう。飲まなくてもいいか、メールでもなんでも。宛先は、[email protected]。件名に、あなたの状況飯を書いて。
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xf-2 · 5 years
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最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有力新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉 との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なんら変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を卒業、または卒業見込の者のうち、10万名を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち、粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、モダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、ものものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たちの「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任したフィリピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れたことも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の安蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQの目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ沖の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日。三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日、特攻機が命中し、爆炎を上げ���米護衛空母「セント・ロー」
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将、山本栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、体力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(ただし、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、参謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡くなる前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預かり、俸給を管理していたから、大西が金に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を訪ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査は、知らせを受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の冷水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍整備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から復員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのにはわけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、海軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員となった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を信奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母ということもあり、淑惠さんを支援することは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の同期生(ともに海軍中将)ほかが発起人となり、笹川良一(元衆議院議員、国粋大衆党総裁。A級戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬意
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさないんですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部下に伝わってきたし、終戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿信鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、その隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児玉機関」を率いた児玉誉士夫である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間にわたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨を出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人にすぎない立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てた��と、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて法要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽選で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。ここには長男・多田圭太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメートの夫人たちがおしゃべりによく集まった。門司親徳や日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙せられていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭日大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠は、
「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記念館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を��り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。特攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に加わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変をわずらって九段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細め、しみじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、警察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた。60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代供養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始末をつけて、平成20(2008)年8月16日、老衰のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司��生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
奥さんの淑惠さんも、無邪気な少女がそのまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の部下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタイプでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見ればどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
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cvhafepenguin · 5 years
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ミコとマチ
 リビングで目が醒めた瞬間あわてて手元のスマホで時間を見た。5時31分、やばい、40分には家を出ないとバイトに遅刻する。渾身のスピードで歯を磨いて顔を洗い自室に駆け込みばたばたとスウェットを脱ぎ床に脱ぎっぱなしの縒れたデニムを穿きYシャツを全力で着て一張羅の苔色のカーディガンを羽織ってほとんど空っぽのリュックを背負う。化粧は諦めて大きめの風邪マスクでごまかすことにした。幸い原稿を作成してるうちに座椅子に座ったまま寝落ちしていたので髪は乱れていなかった。平日ならマチが起こしてくれるのに、今日は土曜日だから私の部屋の向かいの彼女の部屋で、マチは一週間分の疲れを取るべく昼までおねんねだ。私は「いってきます」とぼそっと呟いて全力でドアから飛び出しオレンジのチャリに跨がり立ち漕ぎで駆けた。早朝の澄んだ空気を抜ける冷たい風が私の全開のおでこに当たる。三月の霞がかった曖昧な風景を私は右、左、右、とぐっとペダルを踏んで追い越して行く。それにつれ眼がだんだんと冴えて来た。息を切らしぐんぐんと駅までの道を走りながら私は書きかけの原稿の続きのことを考え出していた。どきどきと小さな心臓が高鳴り血が巡り、私の身体に熱が漲ってくるのを感じる。まだ人がまばらな駅前のロータリーを抜け、高架を潜り、なんとか出勤時間ぎりぎりに店に着いた。ドアを開くとコーヒーの温かくて甘い香りがふわっと鼻を突く。これを嗅ぐと私の頭はたちまちだらしがなくてうだつの上がらないワナビー女から「「鯤」のウエイトレスモード」にかちっと切り替わる。「おはようございますっ」私は店に入るなり弾丸のように一直線にバックヤードに突っ込みエプロンを着る。「おー、毎度のことながら作家さんは朝に弱いねえ」店長の蓮さんが茶化す。「朝まだなんだろ?これ食っちまえ」蓮さんは厨房からカウンター越しに私にロールパンを投げ渡した。「いただきます」私は風邪マスクをぐいとずらし、拳大のそれを口に詰め込んだ。それから蓮さんに渡された水をぐっと飲み干す。「鯤」は駅前の喫茶店なので、平日は開店するなりモーニングをしにくるサラリーマンなんかがぞくぞくと来て大童なのだが、今日みたいな休日は最初の30分なんかはかなり暇だ。コーヒーにつけて出すゆで卵もいつもならあらかじめいくつか小皿に分けて置くのだけど、今日はカウンターのバスケットにまだこんもりと盛ってある。その光景はまるで平和の象徴のような安心感を私に与える。しばらく待っても客が1人も来ないので、私はトイレで簡単な化粧を済ませ、カウンターにかけて蓮さんが淹れてくれたアメリカンをゆっくりと飲んだ。「原稿はどんな感じ?」「うん、方向性はだいぶ定まってきたからあとはそれを形にしていくだけかな」「なるほど、ついに俺の息子がミコが手がけたゲームをやる日がくるんだなあ、あっ今のうちサイン貰っとこうかな、店に飾るわ」「蓮さんってば気が早すぎ」蓮さんはことあるごとに茶化すけど、芯のところでは私のことをそのつど気にかけてくれているのが私にはありありとわかった。嬉しいことだ。
 そうしていると、程なくして客がちらほらと入り出した。休日の朝は老人ばっかりだ。常連のみんなはお話し好きで、四方山話や身の上話を滔々と聞かせてくださる。いつものように私は給仕や食器洗いをこなしながらそれにふんふんと頷いた。でも頭の中は原稿の続きのことでいっぱいだった。先週、駆け出しライターの私に初めてクライアントからSNSのダイレクトメッセージで、ソシャゲのシナリオの執筆依頼が来たのだ。それは聞いたことないような小さな会社で、その依頼されたゲームも予算的にみてメインストリームに敵うポテンシャルがあるとはとうてい思えなかったが、なにせ執筆の依頼が来ることなんて初めてだったので、私は半端ない緊張ととめどなく沸いてくる意気込みでここ一週間ギンギンだった。原稿のことを考えると下腹のあたりがヒュンとする。これは誰もが知っているRPGのシナリオを手がけるという私の夢への第一歩だし、なにより、就職せずに創作活動に専心することにした私の決意が報われた心持ちだった。それはどう考えてもぜんぜん早計なのだけれど。とにかく、私は今とても浮かれていた。
 正午前あたりから客足が徐々に増しなかなか忙しなり、あっという間に15時になった。退勤まであと1時間だ。
「いらっしゃい。おっ荘くん」だしぬけに蓮さんの朗らかな声が厨房から客席に向け広がる。荘くんが来ると、蓮さんは私を茶化す意味でわざと私に呼びかけるような声音で叫ぶのだった。これもいつものことだ。
 私はお気に入りの窓際の2人がけのテーブルにギターケースをすとん立てかけて座る荘くんのところへ注文をとりにいった。心臓の音が高鳴るのが荘くんにばれている気がした。
「いらっしゃい、今日はスタジオ?いよいよ来週だね。」
「そうだな、あっ、チケット忘れんうちに今渡しとく」
荘くんにひょいと渡された黄色いチケットにでかでかと、
「jurar 初ワンマン!」と書いてあった。その楠んだチケットのデザインは全体的に少し古くさい気がした。
「ついにだね」
「うん、絶対に成功させるよ、やっとここまでこれたんだ。そろそろ俺たちもプロへの切符を勝ち取りたいな」
「うん、私応援してるから」荘くんの襟足から煙草とシャンプーの混じったえも言われぬ匂いがかすかに漂う。それは、ほんとうのほんとうに良い匂いだ。
「サンキュな、ミコちゃんも頑張ってるもんな、俺も負けてらんないよ。あっ、そうそう、そういえば…明後日柴さんにアクアマターのライブ来ないかって誘われたんだけど、ミコちゃんあのバンド好きだったよね、もし暇だったら一緒に来る?蕗川ビンテージだよ。柴さんももう一人くらいだったらチケット用意できるから連れて来ていいって」
「いいの?行きたい!」
「よっしゃ、じゃあまたラインするわ」
「まじか…」私は心中でひとりごちた。まさかのまさか、こんな地味な女が荘くんにデートに誘われたのだ。注文伝票をレジに持って行き蓮さんのほうをちらと見てみた。すると蓮さんははにかみながらしゅっと素早く腰のところでガッツポーズを出した。私は心中でもう一度、「ま、じ、か…」と丁寧にひとりごちてみた。
 荘くんはブレンドを急いで飲み干して会計をし、「じゃあ」と去って行った。そうこうしているうちにやがて退勤時間となり、出勤してきた蓮さんの奥さんに引き継ぎをして、私はタイムカードを切った。「お疲れさまです」挨拶をして表口から店を出ると、スプリングコートのポケットに両手を突っ込んで含み笑いしているマチが立っていた。目が合った私たちはそのまま見つめ合った。一瞬、時間が止まったようだった。ピィ、ピィ、���けたたましい鳥の声が、狭い路地裏にこだました。
「オハヨ」マチは宣誓のように右手をしゅっと突き出してそう言った。
 マチの手は真っ白で、春のひかりをぼんやりと帯びていた。ぼんやりとその手を見ていると、なんだか眠くなった。
「マチ、何してたの?」
「さんぽ」
「起きたばっかり?」
「寝すぎちった」
 私は自転車を押してマチととぼとぼと散歩した。外は朝は肌寒かったけれど、今は歩いていると少し汗ばむほどの気温まで上がっていた。電線と雑居ビルたちに乱雑に切り取られた街の高い空を���鳴き交わしつつひっきりなしに飛び交う春の鳥たち、私たちはゆっくりと歩きながらそんな風景を見るともなく見ていた。
 私たちはそれぞれあたたかい缶コーヒーを自販機で買い、駅から少し離れたところにあるたこ(多幸)公園へたどり着いた。私とマチは予定のない天気のいい日にはよくここで何となく過ごす。
「そういえばさ」
「ん?」
「さっき店に荘くんが来てね」
「なになに?」ブランコに座っているマチは両足をばたばたとせわしなく蹴っている。
「「明後日アクアマターのライブに誘われたんだけど一緒にこないか」って」
「デートか!」
「そういうこと」
「やったー!」マチはブランコからたんっと飛び降りて両腕を上にぐんと伸ばして叫んだ。
「いや、誘われたの私だし」
「わがことのようにうれしいっ」
「よーし今日はなべだー」マチは私に背を向けて起き上がった猫のように盛大なのびをした。
「なべ、若干季節外れじゃない?」
「めでたい日は鍋パって相場がきまってるのよっ。ミコの恋愛成就を祝って今日は私のおごりで鍋だー」
「マチってば気が早すぎ」
私たちはスーパーでたくさん鍋の具材と酒とつまみを買って、大きなレジ袋を2人で片側ずつ持って帰った。2人でわいわい作った鍋は多すぎて全然食べきれなかった。飲みまくって酔いつぶれた私たちはリビングでそのまま気を失い、翌朝私は風邪を引いていた。私がなにも纏わず床で寝ていたのに対して、マチが抜け目無く毛布を被ってソファーを独占していたのが恨めしかった。
 荘くんは待ち合わせの駅前のマクドナルドへ15分遅刻してきた。10分でも20分でもなく15分遅れるというのがなんだか荘くんらしいなと私は妙に感心した。「蕗川ビンテージ」は私の家の隣町の、駅のロータリーから伸びる商店街の丁度真ん中のあたりにある。私はこの街に来たことがなかったのでライブハウスまで荘くんが先導してくれた。風は強く、空は重く曇っている。商店街や幾本かの路線でごちゃごちゃしたこの街は、私とマチが住んでいるところに比べてなんだか窮屈な感じだった。前を歩くやや猫背の荘くんに付いて駅からしばらく歩くとやがて「蕗川ビンテージ」に辿り着いた。荘くんが「あそこ」と指を指してくれなかったら私はそれがそうだと気付かなかっただろう。「蕗川ビンテージ」はどう見てもただの寂れた雑居ビルだった。よく見ると、ぽっかりと空いたビルの地下へと続く入り口の前に「アクアマター」のワンマンの掲示があった。その入り口の前に、いかにもバンドマンといった出で立ちの5人の男女が談笑していた。若いのか、それとも私たちよりずっと歳上なのか、いまいち判然としない風貌の人たちだった。その5人はやって来た荘くんを認めると手を振り、荘くんはそれに応えて私をほったらかしてポケットに手を突っ込んだまま5人に駆け寄った。荘くんが1人の男の横腹を肘で小突く、するとその男は笑いながら荘くんにヘッドロックを決め、ほかの人たちもげらげらと盛り上がった。どうやら荘くんととても親しい人たちらしい。少し話すと荘くんは突っ立っている私のほうに戻って来た。それから私の手を引いて、地下への階段を降りて行く。荘くんが近い、かつてないほどに近い荘くんのうなじから、シャンプーと煙草が良い塩梅に混じった私の好きな匂いが漂ってくる。匂いはたしかに近いけれど、暗すぎて当の荘くんの姿がよく見えない。なにかがずれている気がした。私たちは、どこか歪な気がした。私たちが、というか私だけが明らかに場違いだった。「マチは今どうしているだろう、そろそろ帰ってる頃かな、晩ご飯は私がいないから今日は外食なんだろうな」好きな男に手を引かれているというのに私の頭に浮かんで来るのはマチのことだった。やれやれ。
 2人分のチケットを荘くんが受付の初老の男に手渡す、そして荘くんはまたその男としばらく談笑し始めた。「ちょっとお手洗い行ってくるね」と私はその間に用を足した。戻ってくると受付の前に荘くんを中心に人だかりが出来ていた。荘くんの周りにおそらく10人以上はいたが、その中の誰1人として私の知っている顔はなかったし、荘くんを含め、そこに誰1人として私のことを気にする人はいなかった。私はまるで透明人間にでもなったかのような心持ちだった。あそこで人の輪に囲まれ楽しそうに話しているあの人はいったい誰なんだろう。いつも「鯤」に来て親しく話してくれるあの人。私がいつか「アクアマター」が好きだとこぼしたことを覚えてくれていて、デートに誘ってくれたあの人。でも冷静に考えると当たり前のことだったのだ。界隈で突出した人気を誇る若手バンドのフロントマンの荘くんと、街の隅でこそこそと暮らしている私みたいな誰も知らない地味な女なんて、そもそもステージが違うのだ。私は知らないライブハウスの柔らかくて厚い防音材の壁にもたれながら、誰にも知られず夜空でひっそりと翳りゆく月のように、緩やかに卑屈になっていった。誰かここから連れ出してくれないかな、これがまさしく「壁の花」ってやつね。卑屈の次にやってくる自嘲。思えば幾度も覚えたことのある感覚だ。いままでに縁のあった男はみんな、折々こんな風に私のことをないがしろにした。
 ほどなくしてライブが始まった。ライブは、よかった。横にいた荘くんは頻繁に何処かへ消えた。たぶん、知り合いの誰かと話しに行っているのだろう。そう、ここでは私以外のみんなが知り合いなのだ。ライブの終盤、ストロボが瞬くクライマックスの轟音の中荘くんは強く私の手を握ってきた。私はそれを知らんぷりした。スモークの甘ったるい匂いがやけに鼻についた。ライブ自体は、本当によかった。
 外に出ると小雨が降っていた。荘くんはライブの終わりからずっと私の手を握ったままで、駅の方へ私を引いて歩いていく。私はなにも考えずにそれに従う。疲れて、頭がぼーっとしていた。商店街の出入り口のアーチの辺りで、荘くんは「じゃあいまからウチで飲もっか」と切り出した。私はまっぴらごめんだと思い「えーと今日はもう帰ろうかな、明日も朝早いし…」と丁重にお断りした。
「別にいいじゃん、ご近所さんなんだしバイトは朝、俺の部屋から出勤すれば」荘くんはしつこかった。
「いやーやっぱ何だか悪いしルームメイトもいるんで今日は家に帰ります。今日はほんとにありがとう」
 私は返答に窮して言い訳にならない言い訳を口走っていた。そのとき私ははっと息をのんだ。荘くんは怒っていた。彼の表情こそ変わらないが、私なんかにプライドを傷つけられたこの男が激怒しているのがわかった。
 それから突如荘くんは声を荒げ
「んだよ、俺とヤりたいんじゃなかったのか?」
 と今まで私が聞いたことのない荒荒しい声音で言い放った。そのとき私は頭が真っ白になった。私はこの人が何を言ってるのかわからなかった。信じられなかった。この人も自分が何を言っているのかきっとわからないに違いない。そうであってほしい、と私は願った。
 私はいつの間にか私の肘を強く掴んでいた彼の手をばっと振り切り、夢中で駅まで走った。後ろであの人がこっちに向かってなにか喚いている気がした。私はそれから逃げるために全力で走る。とつぜん視界がぐにゃあと歪んだ。音のない雨は、いつのまにか本降りになっていた。頬を伝って落ちる生温いものが春の雨なのかそれとも涙なのか、わからなかった。
 マチは私に何も訊ねなかった。あの夜ずぶ濡れで帰ったきた私の
様子を見て何となく察したのだろう。お風呂から上がってきた私に何も言わずに中華粥を作ってくれた。荘くんはあの日以来鯤に来ることはなくなった。蓮さんは
「まあ今回は縁がなかったってだけさ。月並みな言葉だが男なんて星の数ほどいるんだぜ」と慰めてくれた。
 でもそれを言うならば女だってそうだ。それこそ私は荘くんにとって星の数ほどいる「都合のいい女候補A」にすぎなかったんだ。私はまた卑屈になっていた。このことをマチに話すと「処置無しね」の表情をされた。マチの「処置なしね」の表情。白いつるつるの眉間に少し皺が走りいたましげに私の顎辺りに視線を落とすこの仕草が私は密かに好きだ。ソシャゲの依頼はなんとか納期に間に合ったが、私は次の賞に挑む気力が沸かなかった。スランプに陥ってしまったのだ。なんだかどうしても力が入らなくて、私は湯葉のようにふやけてしまっていた。このままなんの意思も目的も持たず、たゆたうクラゲのように何処かへ攫われてしまいたかった。あの失恋で、まるで私とこの世界とを繋いで私を立たせているピンと張った一本の糸が、ぷつりと切れてしまったようだ。私は休みの日のほとんどを寝て過ごすようになった。
 私が一ヶ月以上もそんな状態だったので、放任主義のマチもさすがに見かねたらしく、「ミコ、餃子をやろう」と私に切り出した。パジャマの私はソファでクッションを抱いて寝転びながら「うぇえい」と曖昧に返事した、ミコが「マチはかわいいなあ」と言って後ろから抱きつこうとしてきたが私はそれをひょいと躱し、勢い余ったマチはフローリングでおでこを打ち「ぎゃっ」と叫んだ。そのとき私に被さったミコの身体はとてもひんやりとしていた。
 餃子の買い出しから仕度まで殆どミコがやってくれた。私はソファに寝転んで夕方のニュースを見ながらミコが手際よく餃子を包んで行くのを背中で感じていた。辛い時は甘えられるだけ相手に甘えるのが私たちの生活の掟なのだ。私とマチは、いまままでずっとそうやってきた。
「いざ!」待ちくたびれて私がうつらうつらし出した時にマチは意気込んで餃子を焼き出した。しゅわあと蒸気が立つ音とともに、むわっとした空気がリビングに立ち込めた。私は薄目でせかせかと餃子を焼くマチの背中を見ていた。「このまま帰りたくないな」そんな素朴な気持ちが不意に、去来する。私たちには他にいるべき場所があって、いつまでもこの生活が続くわけないのはお互い、何処かで理解していた。けれど私たちはそれに気付かないフリをしている。
 マチの背中って小さいんだなあ。そんなことを考えると何だか目頭が熱くなってきたので、私は寝返りをうち、狸寝入りを決め込んだ。クッションに顔を埋めてきゅっと眼を瞑っていると、まるで幽霊になって、空中を漂いながらミコのことを見守っているような、ふわふわと暖かくて寂しい気持ちになった。
「ほらほら引きこもりさん、餃子が仕上がって来たわよ。テーブルにお皿とビール出しといて」
「あいさー」
テーブルの皿に綺麗に連なって円になっているマチの餃子はつやつやでぱつぱつだった。マチは餃子の達人だ。マチよりおいしい餃子を作る女を私は知らない。
「じゃあ、餃子にかんぱーい」
「かんぱーい」
最初の一皿を私たちはあっという間に平らげた。
「じゃあ第2波いきまーす」
「いえーい」
マチは餃子をじゃんじゃん焼いた。私がもう食べられないよと喘いでも取り合わず焼きまくった。マチは何かに取り憑かれたようにワインを呷りつつ、一心不乱に餃子を焼き続けた。「餃子の鬼や…」私がそう呟くとマチはこっちを振り向いてにいっ、と歯を出して笑った。
 餃子パーティも無事に終わり、私たちはソファで映画を見ながらワインをちびちびと飲んでいた。
「ミコ、この映画つまらないね」
 マチがずっと見たいと言っていたから私がバイト終わりに借りてきてあげた映画だった。
「たしかに、脚本は悪くないけど演出が単調だね」
 マチは冷蔵庫から新しい缶チューハイを持って来てぐびと勢い良く飲んだ。それから酒の勢いを借りたようにこう言った。
「ミコ、屋上に行こうか」
 私は缶ビール、マチは缶チューハイを片手に最上階の廊下のフェンスを跨いだ。マチは私の手を引いて真っ暗で何も見えない中、屋上へと続く鉄骨階段を上がっていく。あれだけ餃子を焼いたにも関わらずマチの手は冷たかった。たん、たん、と微妙にずれたふたつのゆっくり階段を踏む冷たい音が闇の中密やかに響く。酒気を帯びたマチのにおいがする。なんだか懐かしいにおいだ。毎日のように嗅いでいるはずなのに。私はマチをぎゅっと抱きしめたかった。
屋上は無風だった。しんとしていて、まるで世界が止まったみたいだった。私たちの住むマンションは台地のてっぺんに建っているので、屋上からは街が良く見渡せる。酒の缶を持った私たちは並んで囲いの柵に凭れて、街の灯をぼんやりと眺めていた。不意にささやかな音で聞き覚えのあるイントロが流れ出した。最初はか細い月明かりのような調子のその曲は、やがて雲の隙間から抜け出して鮮烈な満月となる。
「Tomorrow never knows」
 私はこの曲を聴いた時にいつもこんな印象を受ける。いつかマチはこの曲のことを夜の森の奥で誰にも知られずに燃える焚き火みたいと言っていた。思えば、性格がまるで違う私たちを繋ぐきっかけとなったのはこの曲だった。
 
 あれは私がまだ大学一年生のときの冬だった。私はサークルの先輩に合コンに来てくれと頼まれて不承不承承知した。相手は同じ大学の違うサークルの連中だった。明らかに人数合わせで参加した合コンだ、面白いはずもなく、私はうんざりした。いつ「じゃあ私はこの辺で…」と切り出そうかずっと迷っていたが、二次会のカラオケにも流れで行くことになってしまった。そしてそのカラオケに遅れてやって来たのがマチだった。先輩の説明によると、マチは男側の知り合いだそうだ、それで先輩とも面識があったので呼ぶ運びとなったのらしい。部屋に入って来たマチを見て私は「きれいな女の子だなー」とうっとりとした。マチは空いていた私の横にすとんと座った。思わず頬が緩むようないいにおいがした。スキニーを穿いた華奢な脚のラインが綺麗で、横に座っていると、私の若干むくんだそれと比べずにはいられなかった。マチは終止にこにこしていた。男たちは明らかにみんなこの場で一番綺麗なマチを狙っていた。私は半ばいやいや参加したとはいえ、やはりみじめな気持ちだった。下を向いて鬱々としていると私にマイクが回って来た。あまり歌は得意ではないのだが…と思いつつ私は渡されたマイクを掴み、ええいままよとミスチルの「Tomorrow never knows」を歌った。歌っている時にマチがじっとこっちを見ていたのを不審に感じたが私は気付かないふりをして歌いきった。合コンはつつがなく終わった。解散してターミナル駅のコンコースを歩く私たちの集団は1人ずつ空中分解していき、やがて私とこの初対面で良く知らないマチという女の子だけが残った。私たちは無言で微妙な距離を保ちながら並んでしばらく歩いた。
「私って合コンとか苦手なんだ~」やにはにマチが間延びした調子で呟いた。それからふわあと大きなあくびをした。私はその様子を見てなんて美しいひとなんだろうとうっとりした。合コンのさなか、表面上は取繕っていたが、明らかに退屈そうにしていたのも見て取れたので、私はマチに好感を抱き始めていた。
「なんか私同世代の男の子って苦手だな、何話したら良いかよくわからないし」
「私もああいう場は少し、苦手」
「ねえ、お腹空かない?」
「ちょっぴり」
「ラーメンでも食べにいこっか」
「うん、いいよ。この辺?」
「うん、北口からちょっと歩いたところにおいしいラーメン屋があるんだ。塩ラーメンなんだけど、大丈夫?」
「大丈夫、塩ラーメン好きだから」
「それではお嬢さま、エスコートいたします。」
 とマチは腰を落として片足を後ろに引く紳士の挨拶のポーズをした。
「で、では、よろしく」
 私もコートの腰のところを両手でつまんで膝を曲げ淑女の挨拶でぎこちなく応じる。
 私たちは改札の前で踵を返し、ラーメン屋へと向かった。
「ミスチル、好きなんだね」
「うん、親の影響なんだけど」
「私も好きなんだ。だから、君がさっき歌ってたとき嬉しかった。周りに音楽の趣味が合う人がいなくってさ、ミスチルとか今の若い人もうあんまり聴かないもんね」
「うん、カラオケとか行くとみんな今時の曲ばっかり歌うもんね。特に合コンなんかだと顕著」
「男も女もなんだかんだ言っても最終的に画一性を自分に強いたほうが楽なのだということなのかも知れんね。ところで君、名前は?」
「私はフジサワミコ。あなたは?」
「私も名前二文字なんだ。湊マチ」
「みなとまち」
「マチでいいよ」
「わかった、私のこともミコって呼んでよ」
「そうだ、ハタチになったら一緒に飲みにいこうよ。ライン交換しよ」
 
 それがきっかけで私たちはことあるごとに2人でつるむようになった。私がこっぴどく振られた時も、マチの就活が難航を極めていたときも、いつも酒なんかを飲みながら互いに慰め合った。ルームシェアをしようと言い出したのはマチのほうからだった。それは私が就職を諦め夢を追うことにするとマチに打ち明けた次の日だった。
「私はミコがどんなでもそばにいてあげるよ」
 マチはことあるごとにこんなことを言うのだった。
「どんなのでもって、もし私がアメーバみたいな真核生物でも?」
「アメーバでも好きだよ」
「私も、マチがアメーバでも好き」
 赤ら顔の私たちは屋上で「Tomorrow never knows」を歌った。
「はーてしなーいやみのむーこうへーおっおー てをのばそー」
呂律の回らない舌で私たちは叫びながら柵の向こうへ両手をぴんと伸ばした。伸ばした指の先に、滲んでぼやけた街の灯りたちが、きらきらと輝いていた。
 
 私はそのプロポーズを受けることにした。相手は麗さんという人で、マチの紹介で知り合った10歳上��高校の生物の教師だった。マチはあの失恋以来落胆している私を励ますために、荘くんとは真逆のタイプの男を紹介してくれたのだった。交際は、以前の私ではとても考えられないくらいにうまくいった。私は素敵な男をあてがってくれたマチに心の底から感謝した。彼はとても良く尽くしてくれたし、私も彼のことがとても好きだった。彼と付き合い出してから、彼の家に泊まって部屋に帰らないこともしばしばあった。そして私と対照的にマチはその頃からだんだんと不安定になっていった。なにかといらいらしてたまに私にあたるようになったのだ。私は何故そうなったかマチに聞くこともなかった、何となく察しがつくだけに余計聞く気がしなかった。喧嘩も私が帰らなくなった日のぶんだけ増えていった。
 ある日3日間麗さんの家に泊まってから帰ると、私の部屋のものが全部廊下に放り出されていた。
「なにこれ」私はこっちを振り向きもしないリビングでソファにかけてテレビを見ているマチに問いかけた。
「もう出て行くのかと思って部屋を片付けといてあげたよ」
「ばかじゃないの?ほんとガキだね」
 なんてみっともないんだ。私にいつまでもこだわって、ばかばかしい。
 ずかずかと歩いてリビングに入ると不意にマチが振り向いてこっちをきっと睨みつけたので私は立ち竦んでしまった。
「ミコ、ミコの夢は、努力は何だったの?なんで…そんなに簡単に諦めるの?」
 マチの声は掠れていた
「前にも言ったけど私には才能がないんだしもう筆を折ったんだよ」
「なんでも手に入れることのできるマチには私のことはわからないよ。知ったような口を聞かないで」
 私はいつしか心の何処かで自分の夢と、マチから解放されたいと思い始めていた。
「そういえば言ってなかったんだけど私あの人にプロポーズされたんだ」
マチはまたテレビの方を向いて石像のように固まって何も言わなかった。
「おめでとうとか、ないの?」
マチは依然としてだんまりだった。
 そのとき、私の頭のなかでぐわん、という音がした。誰かに後頭部を殴られたような衝撃だった。それから涙が、とめどなく溢れてきた。私は泣きながら廊下に放り出された荷物を出来る限りまとめた。それから麗さんに電話をしてワゴンを出してもらい部屋の私の家具や持ち物を全て、3往復して麗さんの家に運んだ。それっきり、あの部屋には二度と戻らなかった。それはあまりにもあっけない幕切れだった。麗さんは「人のつながりなんて、そんなもんさ」とやけに達観した口ぶりで私を慰めてくれた。3ヶ月後に披露宴の招待をマチにラインしてみたが既読すら付かなかった。
 
 「もう、終わりにしよう」
 別れを切り出したのは英治のほうからだった。英治はセックスが終わってしばらくして呟くようにそう言った。実のところ私は、英治のほうからそう言ってくれるのをずっと待っていた。いかにも安ラブホテルの調度品といった感じのチープなガラスのテーブルの上の、パフェ皿の底に残って溶けたソフトクリームがピンクの照明を反射しててらてら光るのを、私は裸でシーツも被らずに茫然と眺めている。英治がシャワーを浴びる音が聞こえる。英治が上がったら私もシャワーしなくちゃ。…どうしてこうなっちゃったんだろう…どうして。やにわにテーブルに起きっぱなしのスマホが震え出した。ガラスの上でがちゃがちゃ騒ぎ立てるそれに私はいらっとして。ぱっと手に取った。その画面には「麗さん」と表示があった。
「来月の裕太の体育祭どうする」
 メッセージの内容はこれだけだった。私はスマホの画面を暗転させて枕元にぽんと投げ捨てベッドに潜り込んだ。麗さんと英太にはもう一年以上会っていなかった。毎日仕事漬けで夫と子供を捨てて出て行き、愛人と日中に安ラブホにしけこんでいる私のような女が今更どの面下げて元伴侶と息子に会いに行けばいいんだ。いやだ、このままなにもしていたくない。この地の底のような穴ぐらで、誰にも干渉されずにずっと踞っていたい。
「ミコ、ミコ、ミーティングに遅れちゃうよ。起きて」
そうだ、私は次の作品の企画ミーティングに行かなければならない。何せビッグタイトルのナンバリングだ。集中しなければ。
ミーティングはかなり難航したもののなんとかまとまった。私も英治も、いつものようにメンバーに振る舞った。私たちの関係に気付いている人は、どうやら1人もいないようだった。帰りがけに私と英治は小さな居酒屋に寄った。ここは私たちが関係を持ちだしたころ英治が教えてくれた店だ。
「今度のプロジェクト、うまく行くといいな」英治は燗を呷って少し上機嫌になっていた。昼間のラブホテルでの言葉を取繕うためなのかもしれない。
「なんたってミコには実績があるもんな。大丈夫、ミコならこの先一人でもうまくやっていけるさ」
「聞きたくない…」
「え?」
「「聞きたくない、そんな言葉」」
 私は思わずそんなことを口走りそうになったが、かろうじてそれを飲み込んだ。
「英治はどうなの」
「どうって?」
「この前も辞めたがってたじゃん。この仕事、自分に向いてると思う?」
 そうだ、私が英治の仕事や家庭の愚痴を聞いてあげるようになったのがこの関係の始まりだった。
「うーん…向いていようが向いてまいが、俺にはやるしかないな。やっぱり何度も言ってるけど、自分の夢のために邁進してきたミコと俺はスタンスが違うよね、それに俺…」
「俺?」促しても英治は先を言うのを躊躇うので私はいらいらした。握りしめた水割りを私はぐいっと飲んだ。
「俺…2人目ができたんだ…」
「ふうん、おめでとう、ね」
「そうなんだ、だから、この関係もそろそろ潮時なのかなって。」
 私はカウンターに万札を叩き付けて店をあとにした。なにも英治に腹が立った訳ではない。私は全てがいやになってしまったのだ。夢も、仕事も、家族も。
「違う…私は…私は…」
 私は無意識にそう呟きながら明後日の方向へ駆け出していた。後ろで英治が私を呼びかけながら付いてきていたが私はその声がしなくなるまで走り続けた。走って走って、私は知らないバーに駆け込んだ。それからジャックダニエルのロックを注文した。なにも考えたくなかった。ぼうとそれをちびちびなめていると、やにはにスマホがポケットのなかで震えた。英治がなにか取繕うためのメッセージを送ってきたのかと思い私はうんざりしながら画面を見た。しかしそこに表示されていた名前は「英治」ではなく「マチ」だった。
私は反射的にスマホをカウンターに伏せて置いた。そしてウイスキーを飲み干しておそるおそる画面をタップして内容を確認すると。
「久しぶり、突然ですみません。今度会えませんか。」とあった。
私は胸がざわざわした、けれどもう何も考えないことにした。すぐにマチに「いいですよ」と返信した。
 待ち合わせは2人が分かりやすい場所が良いとのことで「鯤」にした。私は待ち合わせの時間より少し早くに鯤に来た。
「いらっしゃい。おお、ミコ」
 蓮さんは最近白髪が増えたものの相変わらず元気だった。私は鯤には昔のなじみで今でもたまに来るのだ。
「ごぶさたじゃないか。仕事忙しいのか。なんか、顔が疲れてるぞ」
「うん、ちょっと最近いろいろあって、でも大丈夫だよ、ありがとう」
 蓮さんはいつでもぶれずに蓮さんなので話していると私は安心する。蓮さんって私にとってオアシスのような人だ。
「今日ね、マチと会うんだ。ここで待ち合わせしてるの」
「マジで!すごいな、何年振りだ?」
「10年振り…」
「そうか、あれから10年も経つのか…なんかあっというまだな」
「うん、いろいろあったね」
本当にいろいろあった。でも、私とマチの時間はあの時のまま止まっている。私が部屋を飛び出したあの日のまま…マチはいったいどうしていたのだろう。
 私は緊張してテーブルにかけて俯いていた、しばらくしてドアに取り付けたベルがからん、と鳴った。顔を上げると、入り口にスプリングコートを着たマチが立っていた。そのシルエットは背後から射す春の陽射しに象られていた。
「おおお、マチちゃん!久しぶりー!」
「マスター、お久しぶりです。」
「相変わらずべっぴんさんだね。ここに2人がいるとなんだかあの頃に戻ったようだな。ゆっくりしていってな」
「マスターも相変わらずみたいで。ありがとうございます」
マチははにかんだように微笑みながら、私の向かいに掛けた。私は気恥ずかしかった。何を話したらいいのか全くわからない。マチもそうなのだろう。ずっとそわそわして後ろを振り向いたりしていた。私はマチが少しだけふくよかになっていることに気が付いた。
しばらくしてマチが話し始めた。
「最近いろいろあって考えたの…私どうしてもあのときのこと謝っておきたくて…寂しくてミコを傷つけることしかできなかった。ミコがいないとだめなのは自分のほうなのに、そして、そう思えば思うほど心細かった。こんな風にミコを呼び出して謝るのも独りよがりだけど。どうしてもそれだけは伝えたくて、ほんとにごめんね、ミコ」
そう言ったマチの眼から涙がひとすじ流れ落ちた。
 そうか、みんな寂しかったんだ。私とマチだけじゃない。麗も、英治も、それから荘くんだって。ミコの涙を見て私のなかで何かがはらりと落ちていった。それはたぶん、いつの間にか私の心に巣食っていた「あきらめ」のようなものだった。
「いいんだよ、マチ、もういい」
「あ、あり、ありがとう、ミコ、うわーん」
 マチはぐしょぐしょに泣いてバッグから出したハンカチで顔を抑えていた。ほかの客もびっくりして、カウンターに掛けているおばあちゃんも「あれあれ」と茶化してきた。私もつられて泣きそうになったがこらえてマチの手をとって店の外へ出た。
 私は泣き止んできたマチの手を引いてしばらく歩いた。
「見てマチ、ここのスーパーでよく買い物したよね」
「あっこの公園覚えてる?よくブランコ漕ぎながら酒飲んだよね」
 マチは鼻をすすりながら「うん、うん」と相槌をうつ。
春の気持ちのいい暖かい風が、懐かしい気持ちを呼び起こす。マチの手は、あの頃と同じで冷たい。
 私はマチの手を引きながらマチとの部屋を後にしてからのことを吶吶と話した。結婚して間もなく、昔穫ったグランプリの作品を目にしたディレクターに大手ゲーム会社のシナリオライターとして抜擢されたこと…麗さんとの子供が産まれたこと…仕事が多忙なのが原因で離婚したこと…仕事が忙しすぎて疲れていること…同僚の不倫相手との関係が終わったこと…
 マチは私のところどころくすりと笑いながらただ聞いてくれていた。
「ぜんぶミコだね」
「え?」
「恋愛でポカするのも、仕事や夢に疲れて参っちゃうのもぜんぶあの頃と同じミコだ。ミコは私が知らない間もミコをやってたんだね」
「たしかに、全部わたしだ。わたしらしい…わたし」
 そしてマチもずっとマチだ。あの頃と同じ、強い肯定も否定もせずただ私に寄り添ってくれる。そんなマチを見ていると今日の朝までずっと私を苛んでいた罪の意識や漠然とした憎悪が緩やかに解れていった。
「ねえマチ」
「ん?」
「屋上に行かない?」
私たちの住んでいたマンションはまるでタイムスリップしたかのようにあの頃と同じで、どこも全く変わっていなかった。
 いけないことと知りつつ、私はマチの手を引きそうっと忍び足で、屋上への階段を昇る。
 私たちは昔のように並んで囲い柵によりかかり街を見渡した。
「どこもかしこもなーんにも変わっていないね」
「そだね、あ、でも私は少し変わったかも」
「どんなところが?」
「私、結婚するんだ。式は挙げないことにしたんだけど。それでね、今お腹に赤ちゃんがいるの」
「え?」
私は不意をつかれて唖然とした。
「何ヶ月?」
「3ヶ月」
「えーっと…夫さんはどんな人?」
「優しい人だよ、今の職場で知り合ったの」
「おめでとう、マチ」
「ありがとう、ミコ」
私たちは手を繋いだまま顔を見合ってくしゃっと笑った。
「これ、覚えてる?」
 私はスマホのプレーヤーを開いて再生をタップした。
「うわ、懐かしい、私今でも聴いてるよ」
「私も聴いてる」
 あの夜この屋上でマチと一緒に歌った…そしてマチと私を繋ぐきっかけになったこの曲。
「Tomorrow never knows」
 私たちはあの頃を思い出しながら小さな声で一緒に歌った。これまでと、これからの全てが、発酵するパン生地みたいに私のなかでふわり広がって行った。
 心のまま僕は行くのさ、誰も知ることのない明日へ
 そうだ、私とマチは私とマチのままで、あの頃のような万能感はなくともしっかりと歩いて行くんだ。癒えない傷を抱えながら。あらゆる柵に絶えながら。
 私たちの目の前には、霞がかってぼやけたなんでもない街が広がっていた。
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technocat1026 · 5 years
Text
また、山口組と旧後藤組の関与か。
しかも、フリーメイソン森喜郎の少女買春
他に覚醒剤利用してませんかね?
MDMAとかね。
押尾学冤罪事件のアレなw
以下引用
プチエンジェル事件は、今から16年前に東京で起きた児童監禁売春強要事件だが、「自殺?」したとされる容疑者の単独犯行とされ、2000名もの政財界の大物が羅列された名簿を警察が押収したにもかかわらず、犯行経過と名簿の具体的内を示す、ほぼすべてが警察によって隠蔽され、マスコミもこれを報じずに、見事にうやむやにされた、戦後最悪の権力による極悪犯罪隠蔽事件である。
 このとき、日本社会が腐敗した「法治国家」である現実が、世界に明らかになったといってよい。権力と金さえあれば、小学生少女を監禁、強姦しても、事件は隠蔽され、罪にも問われないと警視庁=警察権力が示したのである。
 現在、安倍政権によって、法治主義を無視、破壊する権力濫用が続いているが、こうした自民党政権による国家ぐるみのマフィア的犯罪は、すでに、このとき完成していたと考えるべきである。
 名簿を一部の記者が見ていて、そのなかに、自民党の現役政治家や元大臣、元警察官僚などが含まれていたと証言している。
 中には、森喜朗元総理の息子が含まれていたとの週刊誌の報道もあった。
 名簿の捜査は、警察上層部からの命令で停止させられ、その理由は「偽名が多い」というものだったが、捜査現場からのリーク情報では、携帯電話番号まで記載され、番号と公表された氏名が一致していることも多かったといわれる。
 この事件には、関わった少女や、事件を調査していたフリーランス記者などに数名の不審死者が出ているが、これらも、すべてうやむやに処理され、徹底した隠蔽が行われた。
 私は、この事件の真相について、いつか、まとめて報告したいと思っていたが、情報が少なすぎるため果たせず、今回、YouTubeに現場を取材した記者の証言がアップされて、はじめて詳細を知ることができた。
 https://www.youtube.com/watch?v=z7NpsAmX48g
 https://kirari-media.net/posts/454
 事件の経過
① 2003年7月上旬、稲城市に住む小学生少女が、渋谷周辺で女子高生スカウトから「アルバイトしないか」と誘われ、主犯とされる無店舗型少女売春クラブ経営者の吉里弘太郎(29)と接触、マンションの部屋を1時間くらい掃除して1万円を渡され「友達も連れておいで」と誘った。
 このとき、友達を連れてくれば、一人について3万円を渡すと約束していたようだ。
② 誘いに応じて、少女は友人3名を加えて、7月13日、再び吉里の元を訪れた。
 彼女らには二台のタクシーが用意され、7月11日に吉里が契約したばかりの赤坂のウイークリーマンションに連れて行かれた。(インターナショナルプラザ赤坂No.1最上階の11階1101号室)
 すると、吉里は態度を豹変させ、「ここに来たのは、どういう意味か分かってるな?」と、スタンガンを手に四人の少女を恫喝した。
 怯える少女たちに、手錠と目隠しをして、重しのポリタンクにつないで監禁が始まった。少女たちのなかには、逃げだそうとしてスタンガンで負傷させられた者もいた。
 吉里がマンションを短期契約した7月11日、彼は保有していた二代のフェラーリを売り払っていて、7月17日には、警察が以前の少女売春事件で、吉里に逮捕状を執行しようとしていた。つまり、死亡した7月17日以前に、吉里は自分が逮捕されることを知っていた。
③ 7月13日、夜になっても帰宅しない少女たちの家族は、不安にかられて、警察に通報、通常、この種の事件では、少女たちの命が危険に晒されるため、ただちに公益報道されるはずなのだが、この事件では、警察は、なぜか7月16日まで、マスコミにも公表せず、秘密裏に、学校教師と家族だけによる捜索が行われた。
 なぜ、警察が誘拐行方不明事件でありながら、公開捜査を拒否したのかは、まったく理由が分からない。
 また、警察上層部から、「少女売春事件であり、本人のプライバシー保護のため、周辺での聞き込み捜査は行うなとの指令が出た」ことで、稲城警察による聞き込み捜査が中断された。
 警察は、事件発覚前から、これが少女監禁売春強要事件であることを知っていたようだ。
 しかし、事態が進展せず、警察は、これ以上の隠蔽は無理と判断して、16日未明にマスコミに情報公開、やっと報道が始まった。
④ 7月17日、監禁された少女たちは、室内の物音がしなくなったことから、自分で手錠を外して部屋を逃走、裸足で逃げて、インターナショナルプラザ赤坂No.1の隣にあった花屋に駆け込んだ。
 通報を受けて1101号室に警察が立ち入ると、そこには、吉里が、椅子に座ってビニールを被って死んでいた。死後、十数時間を経過していたとされる。
 
⑤ 警察は、吉里の単独犯行で、発覚を恐れて自殺したと「断定」し、捜査を早期に打ち切った。
 死因は、ビニールテント内に置かれた七輪の練炭による一酸化炭素中毒という説明だったが、いくつかのメディアが検証したところでは、七輪は高熱を発し、ビニールテントなど、たちまち溶けてしまい、外気が侵入して死には至らないこと。
 また、吉里の死体には、ビニールが溶けたり、七輪の熱による火傷があるはずなのに、それらが一切なく、普通のきれいな死体であったこと。
 ビニールテントは、外部からテープで目張りされていて、中に入った吉里が外から貼ることは不可能であること、したがって、警察による自殺という結論は、極めて不可解であること、を明らかにした。(『真相報道 バンキシャ!』)
 つまり、吉里弘太郎は、事件を起こしてから、外部の人間によって、自殺を装って殺害された可能性が極めて大きい。吉里が逮捕されて、警察にペラペラと自白されては困る人物の指示によって殺害が行われたと考えられる。
 つまり、17日に吉里が逮捕されることを知っていた、警察関係の情報を得られる立場の人間によってである。
 不可解なことに、警察は、法医学解剖調査など遺体の詳細な調査を行わないまま、慌てて遺体を始末させた。
⑤ 吉里弘太郎は、無店舗型、非合法未成年者デートクラブ「プチエンジェル」を経営。女子高生数人をスカウトとして雇い、渋谷や新宿で「カラオケ5,000円、下着提供10,000円、裸体撮影10,000円」などと書かれたチラシを配ってローティーンの少女を勧誘し、男性客に斡旋、その他わいせつビデオの販売も合わせて多額の利益を得ていた。また本人も過去に買春で逮捕歴があり執行猶予中だった。
 吉里は、この種のデートクラブ経営者としては、破格の成功を収めていて、年収は、数億円以上に達していたとみられている。死後発覚した預金は35億円と報道されている。
 この金額は、一介のデートクラブ経営で得られるような額ではなく、背後に想像を超える大規模な組織があったことを示すものである。
 本人、自ら、小学生少女にしか興奮しないという児童性愛趣味者であり、小学生少女を多数、提供することで莫大な利益を得ていたが、おそらく組織的な活動だっただろう。
 その相場は、小学生なら、一回の性行為で、10~20万円というものだったようだ。当時、流行していた「援助交際」で、女子中学高校生との性行為が、一回1万円程度とされていた相場に比べれば、小学生の相場が、どれほど高額なものか分かるが、これに対し、全国の政治家・財界人・医師など社会的地位の高い者たちが、このクラブに殺到していたことが明らかにされている。
 この事件が、警察によって完全に隠蔽された理由は、顧客たちの社会的地位を守るためであることは明らかである。
 ⑥ 吉里弘太郎のプライバシーを調べると、とんでもない事実がたくさん出てきた。
 
 吉里弘太郎容疑者の父親は元警視庁幹部であり、朝日新聞に転職して幹部社員から西部本社社会部長に転属した。
吉里は東京芸術大学出身でデザイナーをしていたが、大学時代から複数の女性と交際しヒモ生活を送っていた。住所は「横浜市港北区篠原東1-2」や「埼玉県久喜市」だと言われている。
 吉里は、大学在学中の頃あたりから立て続けに肉親が自殺している。父親は1993年に難病指定されている頭頸部ジストニアを発症し、病苦によるものなのか、朝日新聞社西部本社に異動になったためか1996年に自殺している。
 その後、兄が1999年に自殺。母親は悲観して2001年に自殺未遂を起こした。
 吉里は、多摩地区を中心に主婦売春組織を運営していたことから警視庁にマークされていたという。
⑦「プチエンジェル事件」は、なぜか突然、メディアから消えて収束を迎えた。
 吉里弘太郎の単独犯行とされ、捜査も終了させられた。
「プチエンジェル事件」の顧客リストに、日本を代表する、2000名もの政財界、医療界、司法界、政府官僚などの大物が掲載されていたことが暴露されたが、なぜか警察当局は「偽名が多いため、捜査不能」と警察が発表し、警察も報道陣も示し合わせたようにこの事件から手を引いた。
「プチエンジェル事件」の翌日には警察による一斉補導が渋谷で行われ、約1500人もの少年少女が補導された。 
 吉里が借りていた埼玉にあるアパートからは1,000本以上の小学生少女が主役となった猥褻ビデオテープと2000人以上が記された顧客リストが押収されたが、警察は、一切摘発に動こうとしなかった。
 同時にマスコミも警察と示し合わせたように「プチエンジェル事件」について報道をしなくなり、突然のように事件は終幕を迎えた。
 被害に遭った少女たちの証言から、客引きの女子高生やマンションへの誘導役の男、部屋を借りた名義人である”ヤマザキ”という男など、確実に3人以上は共犯、関係者がいることが明らかにされていたが、なぜか、すべて吉里の単独犯行とされて、それ以上の捜査は行われなかった。
 1101号室に出入りしていたふたりの男女が目撃されており、ある捜査官は後に「男の方は警視庁幹部の息子だった」と暴露しており、「プチエンジェル事件」はその警視庁幹部の働きかけもあって捜査打ち切りになったとも言われている。
⑧ マンション「インターナショナルプラザ赤坂No.1」は小沢一郎の資金管理団体「陸山会」が所有する物件だと言われている。
 この事件について小沢一郎は一切触れていない。
⑨ 顧客リストに糸山英太郎も。
「プチエンジェル事件」顧客リストの人物として名前が上がったのが、糸山英太郎だった。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%B8%E5%B1%B1%E8%8B%B1%E5%A4%AA%E9%83%8E
 糸山英太郎は実業家であり個人投資家で、テレビ東京の大株主である他、過去には日本航空の筆頭株主だったこともある日本屈指の富豪で、2007年のフォーブス発表の「日本の富豪ランキング」では7位にランクインし、総資産額は4500億円だった。
「プチエンジェル事件」の筆頭顧客とも言える糸山英太郎は、事件が発覚する4日前の2003年7月12日に所有する自社ビル「ザ・イトヤマタワー」の18階にある自宅で、16歳の少女に15万円を支払って買春をした。
 この少女を斡旋したのは元暴力団組長で、警察の捜査にひっかかり組長ら3人が児童福祉法違反で逮捕されている。
 しかし、買春をした本人である糸山英太郎は「相手が18歳未満だとは知らなかった」と容疑を否認し、罪には問われなかった。
 当時、援助交際による女子中高生の性交渉の相場が一回1万円程度であることを考えれば、糸山が出した一回16万円が何を意味するか分からない者はいないはずだが、これも警察により無罪放免とされた。現在では、小学生相手の売春は重罪で強姦罪が適用され、最低でも5年程度の実刑判決となる。
 この事件は当時の五代目山口組若頭補佐だった後藤組組長の後藤忠政により揉み消されており、糸山は後に慰労金を支払ったといわれる。
⑩ フリージャーナリスト・染谷悟が殺される
 権力により封殺されてしまった「プチエンジェル事件」を暴こうとしたフリージャーナリストの染谷悟は、中国マフィアに殺された。
 「プチエンジェル事件」から約2ヶ月後となる9月12日に、東京都江東区東雲2丁目の東京湾に男性の死体が浮いているのを通りがかりのトラック運転手が発見し通報した。
被害者は「柏原蔵書」の名前で活動していたアングラ情報専門のフリージャーナリスト染谷悟で、背中8箇所を刃物で刺された痕があった他、頭部に2箇所殴られた痕があった。
 発見当時、染谷悟は岸壁から2メートルほどのところに浮いており、服の上から鎖で巻きつけられて縛られ、両手は紐で縛られている状態で、両足も紐の痕が残っていた他、腰には潜水用の重しの入ったベルトが巻かれていた。
「プチエンジェル事件」は中国人身売買に通じていた?
 染谷悟は殺される直前に周囲に「中国人マフィアに命を狙われている。殺されるかもしれない」とこぼしていた。
 警視庁東京水上署の捜査本部が染谷悟さんの刺殺体が発見された2日後の14日に発表した内容では、染谷悟さんは「プチエンジェル事件」が明るみになる前から身の回りに起こる不可解な出来事に悩まされており、2002年頃から自宅の窓を割られたり、空き巣に入られたりしていた。
 染谷悟は組織的な児童買春の実態を暴くために動いていたが、2002年9月には当時住んでいた豊島区のアパートで空き巣被害に遭い、取材で使っていたカメラやパソコンなど計77点が盗まれていた。
 染谷悟が殺害されてから2日後に、2ちゃんねるに大手出版社の編集員を名乗る人物が事件の詳細について語った。
 染谷悟は「中国マフィアのしっぽを踏んでしまった」と語っていたという。
 このことを編集員は「(「プチエンジェル事件」を追う内に)中国マフィアと日本やくざの児童売買ネタに当たってしまった」と解釈した。
 「プチエンジェル事件」には中国マフィアと日本のやくざが密接に絡んでおり、児童人身売買も疑われた。
 吉里が小学6年生の女児4人を拉致監禁した理由は中国マフィアに売り飛ばすつもりだったのかもしれない。
 少女らを監禁した翌日にはすでに警察が吉里弘太郎容疑者が犯人だと目星をつけて捜査を開始したため進展が早く、このままだと捕まるのは時間の問題だと踏んだ中国マフィアが吉里弘太郎容疑者を葬った疑いもある。
⑪ 2ちゃん書き込みログ
 赤坂署に配属になったから事件資料を調べようとしたら全て処分されていた」
染谷悟は、プチエンジェル事件発生の2003年7月に「歌舞伎町アンダーグラウンド」という著作を出版したばかりでした。次の題材���して、プチエンジェル事件を独自に取材を進めていた。
 プチエンジェル事件の取材をしていく中で、周囲に「中国人マフィアに命を狙われている」と漏らし始め、プチエンジェル事件から2ヶ月後の2003年9月、染谷は東京湾に浮かんだ。
 プチエンジェル事件は赤坂で発生しているにも関わらず、当初「渋谷で発生した」と報じられた。これは永田町の近くでそういった醜聞が報道されるのをいやがった政治家からの圧力があったからだ、と言われている。
 参議院議員であった鴻池祥肇(当時:防災担当大臣)は、2003年7月18日の衆議院予算委員会にて、「少女4人も、加害者か被害者か分からない」という答弁を行った。鴻池は藤井孝男委員長から発言の真意を問いただされ、発言を撤回した。
⑦ 冒頭に紹介したリンク動画では、記者が、数百名といわれるプチエンジェルクラブに関係した少女たちに不審な死者が出ていると述べている。
 https://www.youtube.com/watch?v=z7NpsAmX48g
 また、関係者の家族全員が、稲城市などから遠方に引っ越してしまったとも言われる。この事件の闇は、とてつもなく深い。
 *****************************************************************************
 以上が、16年前、2003年に起きた、大規模な児童売春事件の概要であるが、問題の核心は、犯人とされた吉里弘太郎が借りていたアパートから発見された、2000名もの顧客名簿に、日本の上流階級、権力者たちが、ずらりと顔を出していたことである。
 警察は「偽名」として捜査を中断したが、これを見た、一部の記者や捜査員は、誰でも知っている日本の顔が、そこにあったと証言している。
 つまり、大臣や行政官僚、医師、弁護士、警察関係者、著名人たちである。名簿は、ひどく早い捜査終了後、ただちに廃棄され、現在では行方不明になっている。おそらく証拠保全義務を無視して焼却処分されたのであろう。
 「日本を代表する権力者・著名人」の性癖が、このように卑しいものであったことに驚愕させられただけでなく、安倍晋三のお友達、山口敬之による詩織さん強姦事件を権力で揉み潰した、安倍官邸の警察官僚、山口格の行為にも通じるものがある。
 というより、戦後、日本の自民党権力は、長い間、自分たちに都合の悪い事実が発覚すると、権力を使って隠蔽し、潰してきたのである。
 つまり、日本の戦後権力は、中国共産党の悪辣な司法への介入と、それほど変わらないことを行ってきた。
 日本は、決して法治国家や民主主義国家とはいえない、深い闇に閉ざされた社会だったことを示している。
 この事件は、たとえ長い年月を経ようと、絶対に闇に葬らせてはならない。
 児童売春の顧客名簿に掲載された権力者たちは、たった今も、国家権力の第一線で政治経済に携わっていて、こんな犯罪者たちに日本を委ねることは許されない。
 あるいは、安倍政権の人脈、安倍首相自身も、もしかしたら名簿に記載されているかもしれない。
 もしも、この名簿が、どこかに保全されていて、それが明るみに出たならば、時効は経過しているが、懲役五年相当の犯罪に関与した者として、すべての信用を失う結果になるだろう。
 今の、自民党や経団連の体制は根底から崩壊することが避けられないのである。
 私は、それを強く期待したい。また名簿を覗き見た一部の捜査員や記者たちも、すでに引退した者なら、積極的に真実を公開してもらいたい。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-700.html
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kisanebacci · 1 year
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いよいよ、ついについに、
四月二十一日金曜日午後府立洛南病院との
第三回目の団体交渉が設定できました
素晴らしいです。
団体交渉のために出した、【「心神喪失者医療観察法病棟」新設を巡っての公開質問及び意見書公開質問状】をアップしておこうと想います
よーーし、ヤルゾーーーー
京都府立洛南病院 吉岡隆一院長殿並びに内谷看護部長殿 「心神喪失者医療観察法病棟」新設を巡っての 公開質問及び意見書
 私たちは、1976年設立の精神病患者会前進友の会と申します。また、患者会が設立母体運営主体となって1988年に認可を受けたやすらぎの里作業所とも為っております。40年以上拠点としていました山科区の日ノ岡から、昨年の10月伏見区の石田大山に引っ越して参ったトコロです。貴院とは、距離にして、4キロ弱、車なら10分ほどの距離に居ります。コレもナニかの御縁でしょうか。地元であり身近であると、言えましょう。ジックリとおつきあいくださいませ。身近な患者会作業所として、貴院の医療内容の充実に微力ながら協力を惜しまない決意と覚悟でございます。さて、身近であると云うコトは、貴院において此のたび観察法病棟を拵えて運用を始めるということに、不安に想っているなかまが多いと云うコトであります。町内会の皆様方が『迷惑施設』ができるので不安だと云うとても差別的な不安とは、全く意を異にする精神病者の精神病患者のセーカツから来る不安と云うものです。ただでさえ我々精神病患者は『セーシン病』の『キチガイ病』の『キタナイ』は『キケン』やは『キツいキチガイ』やは『異常者』やは『生活保護』やは、だのと、世間様から散々に言われ続けワルう見られ続けてるのです。しかも、なんとかかんとかフツーにセーカツしていても、この町内から、アパートから、学校から、会社から、出て行けと、表裏なく言われ続けているのです。そこにさらに、上乗せで、『観察病棟帰り』の『触法精神障害者』となったら、『ハクが付き過ぎて』、『スティグマに為りすぎて』、外で暮らせなくなるのではないか、出歩けんようになるんじゃなかろうか、と、ますます、ワシ等キチガイは、暮らしにくくなる、のでは、と不安でいっぱいです。
 さてと、吉岡さんや、不思議なもんやなぁぁぁーー一緒に友の会の夏レクにも行ってたやん、写真もあるんよ、今度持っていこう。懐かしいよ。京都滋賀精神医療人権センターで、一緒に活動してたこともアッタもんな。最後に京大で会ったのは2005年ごろ、「懲りない精神医療 電パチはあかん!!」を売りに行ったときじゃなかったっけ、確か、15か16冊その場で買ってくれたような記憶がある。あれからずいぶん過ぎた。えばっちは、相も変わらず患者会にいるよ。吉岡さんは、ずいぶん変わったのかなぁぁぁーーエロウ為って変わってシモウたんかなぁぁぁ、『立場』ってモンがアルようになってしもうたんかなぁぁぁーーーそれとも本当に『観察法病棟バンザイ』の考えになっちゃったのか、、、、アンタもタイヘンかもシレンが、延々と患者会でレクやって食事会の食卓をなかま達と囲んでセーカツをみんなで、みんなで続けてきた、高齢のなかま達を看送ってきた、週一で精神病院に面会し続けてきた、なかまの入院をなかま達で説得して連れて行った、ソンな患者会を開き続け、クリスマス餅つき大会をやり続け、セーカツからくる「保安処分やらイローーンなモン」に終始反対してきたこっちの身にも為ってくれや。しかも、クスリ飲みながらやで、殺生なハナシやないかい、、、、、、、
山下院長とは第二回2021/2/17も第一回2020/10/21も、団体交渉は、内谷看護部長さん含めて、実のあるハナシが出来たんよ。吉岡さん、その二回の話し合いのうえで、少なくとも、次の点が問題点だと了解できたはずナンよ、だから、次は、吉岡さんと実のある実質的な話し合いをしたいのんや。やりたいんや。ハナシ合いやろうや。ヤルで、コレは、、、事務長なんか連れてくるナや、患者と看護士と精神医とでハナシ合おうや、実のあるハナシをしたいんよ。たまたまこれもご縁や、一緒に活動した仲やないか、『立場』は違ってしまった、でも話し合いはチャンとできるんじゃないかな。いや、せぇなアカンでコレは、、二月の何時かの水曜1400時から1700時まで、で、時間とってくれないか、よろしくお願いしたい。是非とも、や。下記は二回の団交の話し合いの問題点のまとめや、以下十点の吉岡さんの存念を聞くところから出発したい。また、以下二点の吉岡さん個人への質問がアリマス。話し合いを進めるにあたって、以下の十二点の回答を書面化していただいておくと、ハナシ良いかもしれませんね、、、
❶「心神喪失者医療観察法」が法案として国会に提出されていた時点では、吉岡院長は法案に賛成していましたか、それとも反対していましたか。 ❷吉岡院長は「精神医療」「日精診」誌上において積極的に『司法と精神医療の相互相乗り入れ制度』を提起しているかのように見受けられますが、其の意図するところはナンなのでしょうか。
①ガイドラインの18か月ですらを大幅に超える長期入院に為ってしまっているのは何故なのか ②自殺者が余りに多いことをドウとらえているのか ③内省療法をドウ認識しているのか実施するのか心理拷問ではないのか ④m-ECT、クロザピン、看護士の暴力CVPPPをドウとらえているのか ⑤高度に機能分化し過ぎた医療が医師看護士看護婦にどのような影響を与えてしまうのか ⑥ハードが出来てしまえば造るに苦労した世代の医療とは別に次世代若手からは其のハードに規定されてしまう医療に為らないか ⑦洛南病院として過去現在の刑事事件に巻き込まれてしまった患者さん達への対応に問題はなかったか ⑧刑事事件に巻き込まれてしまった患者さんへのそもそもの事実認定について司法を信じての治療開始で良いのか ⑨稼働したとして、外部のものが定期的に入れるのか、外部からの監視の眼が必要なのではないのか、、ソコに地域の精神病患者会も入れないか ⑩そして、長らく宇治の地で作業所所長をやってきはった棚谷さんが前回最後にハッキリと文書で持って指摘した三点の疑問点については、洛南病院には答えて頂くほかないと、強く想ってる。ソッチに残ってるはずやで、探し出しといてや。
しかも、当方の質問状31点の質問にも全て答えて頂いているわけでもないしね、とにかく、話し合うか。愉しみにシテルよ。最初の質問点も一応再掲しておきます。 ①一度、前進友の会と、会って話しが出来ませんか ②観察法病棟を運用するツモリですか ③ソレは何故ですか ④予定されている年間予算はお幾らですか ⑤『観察法病棟帰り』と云うスティグマを生みませんか ��この法15年の実績の中で『自殺者』は何人に為っているのでしょうか ⑦『自殺者』が多い原因は何だと考えていますか ⑧『多剤大量投薬』を実施しますか ⑨『内省療法』を実施しますか ⑩『認知行動療法』を実施しますか ⑪『鉄格子』『保護室』『四肢拘束』『看護士の暴力』を実施しますか ⑫『m-ECT電気ショック電パチ』を実施しますか ⑬この法15年の実績の中で最長入院年数はどのくらいですか ⑭長くなる原因は何だと考えていますか ⑮本人の希望する或いは信頼する医療福祉環境から断絶することをドウ考えていますか ⑯現代書館刊、浅野詠子著『ルポ刑期なき収容 医療観察法体制という社会防衛体制』を読みましたか ⑰アットワークス社刊、江端一起編著『キーサン革命宣言 精神病者のセーカツとカクメイ』を読みましたか ⑱『再犯予測』は出来得るとのお考えですか ⑲司法制度ですか精神医療制度ですか ⑳そのように考えるのは何故ですか ㉑副院長が当会の夏レクに参加していた事実はありますか ㉒副院長が京都滋賀精神医療人権センターの活動に参加していた事実はありますか ㉓何年間活動していましたか ㉔その間『処遇困難者専門病棟』構想に反対していた事実はありますか ㉕当会会員江端一起の記録やカルテは残っていますか ㉖本人の希望により廃棄処分とすることは可能ですか ㉗観察法病棟を運用前に見学することは出来ますか ㉘観察法病棟を運用中に見学することは出来ますか ㉙『保安処分』をドウ考えますか ㉚この法による患者の『自殺』は『治療』の『成果』と考えているのではありませんか、ドウなんダ ㉛府立洛南病院が果たしてきた役割と歴史を、現在の幹部諸君はドウ考えているのか    以上         2022年1月14日  精神病患者会前進友の会  執筆責任 江端一起 
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nagako · 5 years
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2019.06.25 ダイバーシティに溢れるポエジー
先日、乃木坂から西麻布まで、青山霊園を抜ける道を歩いている時にようやく気づいたのだった、ここが青山霊園なのだと。東京で生まれ育って45年、何度も通ったこの道に霊園があることはもちろん知っていたのだが、なぜかそれが青山霊園と直結せず、青山霊園はもっと青山一丁目方面のどこか別の場所にあって、ここは違うと思い込んでいた。
なぜそう思い込んでいたのか。まったくわからないが、理由はおそらくない。もともと方向音痴で、地図を読むのも苦手なので、勘違いした節はある。が、もっと根本的に、これまでの人生で「ここが青山霊園である」とあえて認識する機会も必要性もなく、同時に「ここが青山霊園ではないか否か」についても懐疑してこなかったため、まるっとスルーしてしまったのだろう。
時に、自分と密接なトピックや関係性のある事物以外には意識が及ばず、世界から欠落させてしまっていることがある。興味のないカルチャー、苦手な学問、海外情勢、自分の生活と地続きであるはずの地域問題などなど、様々なトピックについて思考したいのに、それらが認識の外にある場合、存在そのものに気づかない可能性も否めない。かくして視野は狭窄する。
自分が捉えている世界は、自分の認識を保有するたった1400ccの脳にある。本来の世界は外にある。見えない外を想像し、見える内を疑う視点を保ち続けなければすぐさま思考は停止する。なるべく視野を広く。自分を盲信せず。それでもスルーしてしまう事物は多くあるので、青山霊園のような日常のふとした「気づき」が意識を刺激してくれるのはとてもありがたい。
 以下、最近の日記。
◎6月14日 アジア食材を調達しに新大久保のJB HALAL FOODへ。たまたま棚卸しをやっていて、ゆっくり見れなそうだったので、東新宿のASIA SUPER STOREへ。帰宅するのが遅くなるので冷凍冷蔵を除いた食材を吟味するのだけれど、結局ゲテモノ見ちゃうよね。
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お買い物後、ワタリウムで大好きなジョン・ルーリー展「Walk this way」。眼福。凄まじいポエジー。可視域の向こう側で息づく精霊たちの遊び。固定観念の記号をはしゃぎながら破壊する無垢なる何者かの笑い声。
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ジョン・ルーリー詣。最高すぎて脳からβエンドルフィン出まくる。 ジョン・ルーリーの絵を見るといつも、子供の頃にきっちり子供をやり尽くさないまま規範の型にはめられ、大人にさせられた結果未だに成仏できずにくすぶり続けるわたしのインナーチャイルドが、大はしゃぎする。それでいいんだよって言われてる気がする。もう一度やれる気がする。もう一度くる
その後、GLASSLOFT展の打ち上げに誘っていただいて、会場に着いたらメンバーのみなさま自ら赤エプロン装着!手料理でおもてなしいただいて感激! 
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ちょっと信じられないくらい豪華なクリエイター陣が赤いエプロンしていらっしゃる豪華な打ち上げ現場!ご馳走さまでした!
◎6月15日 食材整理。英語表記さえない子はもう何が何だかわからない
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◎6月16日 原稿が進まないのでトムヤムクン制作へ逃亡
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◎6月17日 毎月第3月曜日16時台は、渋谷のラジオなのに映像部! ゲストの尚玄さんありがとうまたね!
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毎月第3月曜日16時台は #渋谷のラジオなのに映像部  📻 本日は今週末に主演映画『ココロ、オドル』の公開を控えている俳優の尚玄さんをゲストにお招きいたしました! 映画の見どころはもちろん、以前出演された映画や体作りのお話などいろいろ伺いました! 尚玄さん、聞いてくださったみなさん、ありがとうございました😊 楽しすぎて記念写真撮るの忘れました😭 また来月!
その後、ヤマト運輸の祐天寺センターへ。農家さんから取り寄せた梅3kgが、なぜか以前住んでいた祐天寺のアパートに届いちゃって、引き取りに。なかみ梅なのに段ボールはみかん。
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snacknagako
Amazonの住所設定がなぜか昔の住所になってしまっていて、南高梅3キロがヤマトの祐天寺センターに漂着して、転送は受け付けられないから取りに来い、さもなくば発送主に1週間後に戻すとのことで、金も払わず商品戻すのはあまりにも農家さんに申し訳ないから引き取りに来て、ダンボールを抱えてよちよち歩きながら「重い、あまりにも重い」と喘ぐ道すがら、小学生に「みかん!みかん!」と指さされ、「おいこらガキ!みかんじゃねえよ!梅だよ!」と怒鳴り散らしたい衝動を堪えたところで馴染みの蕎麦屋の前を通りかかったので、生粉打ちとろろそばをいただきながら、このダンボールを抱えてこれから1時間ラッシュの満員電車に揺られて帰宅する自信がないけれど、赤ちゃんも子供ももっと重いわけだからだっこするお父さんお母さん大変だ、気ままに生きる独り者の私ごときがたかだか3キロで弱音吐くなど片腹痛い、そうだこのダンボールは神が私に与えたもうた赤ちゃんで、この子を立派に育てるのが私の使命だとやにわに天啓を受け、蕎麦屋を出るなりダンボールに梅太郎という名前をつけてよしよしあやしながら抱きしめて歩く私をどなたか見かけたら遠慮なく通報してください
◎6月18日 原稿がどうしてもうまくいかない。煮詰まったときはみじん切りに限る。というわけで、サンダーキャッツさんのレシピでザワークラウト。
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◎6月20日 梅仕事開始。甥っ子に手伝ってもらって2kg塩漬け。梅酒用1kgは冷凍庫へ。
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夜は仕事しながらDOMMUNEで「TOKYO NEW SOURCE」特集を正座で拝見。お世話になっているWATUSIさん、大ファンのいとうせいこうさん、憧れのs-kenさん、そして中2から神と呼んでいる町田康さん。この並びにさらにOTOさんまで。無性に山本政次監督「ロビンソンの庭」を見直したくなった。
そういえば中学生の時、パンク仲間の友達のいとこが町田町蔵時代の人民オリンピックショーのライブ音源を聞かせてくれたことがあった。その中の一曲に腰が砕けて立ち上がれなくなるくらいの衝撃を受けた。音源になっていないから歌詞も曲名もわからないけれど、あまりの衝撃に5、6年くらいシリアスな精神の緊張状態を保っていたところで町田氏の歌詞集が出て、これは絶対あの曲の歌詞だと思しき詩のタイトルが「レタスと仏像」だった時、その言葉のチョイスと抜け感にやられて、ずっとシリアスに緊張していた心がおおいに緩んで思わず号泣してしまった夏の日を思い出して夜中に悶絶。
◎6月22日 gongonこと長嶋五郎画伯の個展エンディングへ。遅れちゃって本人のラップパフォーマンス見れなかったんだけど、友達とおしゃべりして、星野概念さんのトリオのライブを少し拝見。
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その後、青山CAYへ。楽しみにしていた「TOKYO NEW SOURCE」のライブ! みなさま本当に素晴らしかった。SECRET COLORSの4者4様のポエトリー。表現力が豊かで、格好良かったので、サイコーとかイエーとか叫びながら1人で拍手していたら「ナガちゃん?」って。大学の頃の旧友、みずえだった。なんと10数年ぶりの予期せぬ嬉しい再会。久しぶり、いま何してんのって聞いたらおもむろにパケ入りのナンプラー麹をくれる。作ってるらしい。やっぱりちょっと凝り性の人たちはね、みんな行くんだよ、発酵に。
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そのみずえと一緒にライブを見る。s-kenさんの年季の入ったピカピカの高級本枯れ節みたいな貴重なスポークンワーズ。神こと町田康先生のピンと張りつめたテグスのような緊張感の中にも温もりがともる聖なる朗読とお歌。いとうせいこう is the poetのダブポエトリーの、言葉と音の一部に自分が取り込まれたかのような錯覚の快楽。WATUSIさんの指から放たれるベース音が自分の足の裏をビリビリ振動させる。これはほとんど性行為だと思いますとご本人にお伝えしながら、改めてポエトリーってすごいなと感動した次第。
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音楽や朗読、執筆表現のみならず、【個々の多様性を尊重する社会】には、ポエジーが溢れている。
ひと昔前には【人間を一括りとくくりたがる社会】があった。男らしさ・女らしさのジェンダーの型。個人より全体を重んじる社会規範。全体より外れる者を断罪する同調圧力。モテるためのHOW TO。これらは、人間個人の性質を慮る以前に、先に型を示し、そこへ後付け的かつ一様に人間を押し込む型先行の方法論だった。ゆえに個に不寛容で、抑圧的だった。
私などは、それを個殺しと呼び、たかだか型の分際で、個々に異なる命を生きぬく人間より先にしゃしゃり出るな図々しい、人間を馬鹿にするのもいい加減にしろと怒りの長文コラムを認めて対抗したものだが、実際に型にはまらない人間を侮辱したり、いたずらに苦しめたりする状況は人権侵害であり、個人の自己決定権を蔑ろにしているという意味においても、まさしく人間を馬鹿にしているとしか言いようがない。
男らしさ・女らしさの型。良き父・母の型。理想の家族像。模範生。デキる男の処世術。モテる女の仕草。それらは本来、先だって多様な個性を生きてきた人間の行為や選択を参照した結果、後付け的に集約された傾向と対策、あるいは各組織の長が管理しやすい理想のコマ像であり、個々に多様な人間たちを一回りも二回りも都合よく矮小化させた空疎なデータにすぎない。そのたかだかデータに向かって、個々に多様な人間を後付け的に集約せんとする社会で、人間は人間性=個を殺され、たかだかデータの劣化コピーとして扱われる人間喪失デフレスパイラルの沼に総じて落とされた。
前時代の鬱憤や反省を受けて、現在は人権意識を改め、【個々の多様性を尊重する社会】を目指す向きにある。もっとも過渡期ゆえ、未だ【人間を一括りとくくりたがる社会】の残滓に出くわす瞬間もあれば、多様性への理解値が自分も含めて不足しているのではないかと懐疑することもある。なにしろ自分が見ている世界は、自分の1400ccの脳が自分に見せている世界だ。視野を広く持たないと、ここは青山霊園ではないと思い込みながら、青山霊園の中を歩くような頓珍漢な事態を招いてしまう。
さておき。この一様と多様がぶつかり合っては渦を巻く過渡期のカオスに、私はポエジーのうねりのようなエネルギーを感じる。型はたかだかデータであって、良くも悪くも光も闇も有象無象の矛盾もまるっと内包する人間そのものの性質を映していない。むしろ人間ならではの複雑な性質の上っ面のみを都合よく抽出して滅菌し、最低解像度で簡略化した劣化コピーキャットが型に現れる人間像である。そこに人間個人の真なる声はない。型に嵌められる怒り、型になじまない苦しみ、型に嵌らない者への侮辱、その悲しみなど、先に用意された型と対峙した時に、どうしてもこぼれ落ちてしまう各個性にこそ真なる声がある。そしてそれらは個々に多様である。
型の時代は、データ集計の都合上、男女、老若、白黒、犬猫といった二項対立や選択を容易に持ち出し、優劣をつける言説が多かった。多様性の許容を目指す現在はその「どちらかしかない」状況が苦しく、社会にも閉塞感が蔓延する。今はSNSやブログなどを通じて多様な生き方、グレースケールの振り幅、個々に異なる言葉の表現を目視できる。そこにはポエジーが溢れている。
ポエジーは、白黒の型からこぼれ落ちた個が、人間の真なる声で自らの生命を誇る賛歌であり、押し付けられた規範的な言葉では到底語りつくせない人間味を雄弁に語る表現の力だ。うまくまとめなくていい。支離滅裂でいい。超整っていてもいい。誰かにとって都合の良い言葉などほとんど嘘だから吐かなくていい。嘘をついてもいい。醜くていい。美しくていい。なんでもいい。言葉が生命の一部であることを喜び、ゆえに生命が潤う循環によって、人生が素晴らしくなるといい。この世にもっとポエジーが溢れて、人間ひとりひとりが自分の生命と楽しく、丁寧に遊べるようになるといい。
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kadookanobuhiko · 5 years
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たびたび★スリランカ
   先月末、仏教関係のグループと一緒に、スリランカに行ってきた。機中と空港での2度の日付け変更を含む、1週間弱の短い旅行である。私は99年、11年に続いて、3度目だった。
 初めて訪れたのは、最初の本を刊行した直後だった。私にとって、書く仕事は苦行である。何もかも終ったら、旅に出ることだけを夢見て筆を進めていた。
 69年に公開されたニューシネマの傑作『真夜中のカーボーイ』の中で、テキサスの田舎から冬のニューヨークに出てきたジョー(ジョン・ヴォイト)は、病に苦しむ半失業者のラッツォ(ダスティン・ホフマン)と貧しい共同生活を送る破目に。何をやってもうまくいかないふたりは、一旗挙げるべく、長距離バスで温暖なフロリダに向かう。車中、ラッツォの病は悪化していくのだが、太陽が燦々とふりそそぐフロリダの砂浜を、ふたりが駆け抜けるシーンが挿入される。両者の願望をあらわしたカットである。
 取材がうまくいかないとき、また執筆がはなどらないとき、私はいつもこのシーンを思い浮かべる。陽光が降り注ぐ中、砂浜をひた走る自分を・・・。
 初めてひとりで訪れたスリランカは、まさに楽園だった。南部にある海辺の町ヒッカドゥワは、素もぐりするだけで、驚くほどの量と種類の熱帯魚を見ることができた。海に面した宿は、美味い食事付きで1泊3000円ほど。バルコニーで飽きるほど青い海を眺めた。夢にまで見た”フロリダ”である。行ったことはないけれど。
 移動はもっぱら、バスか鉄道だった。高速バスや特急はなく、旅をするにはおそろしく時間がかかった。
 今回は団体旅行。エアコン付きの貸し切りバスで移動したため楽だったが、現在もほとんどの道路は整備されていなかった。大都会のコロンボを離れると信号はなく、2車線道路が延々と続く。交通に関しては、まだまだこれからといったところである。
 とはいえ空港からコロンボまでの約50キロは、高速道路が整備されていて、これには驚いた。中国の援助で建設されたとか。ツアー中に乗車した貸し切りバスも中国製だった。
 以前は日本との関係が深かっただけに、この10年、20年でずいぶん変わったなあと思った。
  *   *   *
 最初の旅では、海辺に長く滞留した。私はまだ30代半ば。砂浜を目にすると走りたくなり、海を見るとバシャバシャと泳ぎたくなる”ヤングマン”だった。漁師のごとく毎日海に出ていたので、日焼けし過ぎて肌が荒れ、帰国後に皮膚科で診療を受けなければならなかった。とんだ大馬鹿野郎である。
 2度目の旅は、大学の先輩ふたりと主に内陸の古都・キャンディに滞在した。ハーブオイルを使ったマッサージ・アーユルヴェーダを体験したいと、美容関係の職に就く先輩(女性)が言うので、森の中のコテージを予約したら、街中からトライシクルで1時間もかかる辺鄙な場所だった。
 先輩と私は、さっそくアーユルヴェーダを体験してみたが、大した効果は得られなかった。だが、人里離れた森の生活は、心身に心地よく、生まれ変わったような気がした。
 キャンディ観光の白眉は、美しい湖と湖畔に建つ仏歯寺である。釈迦の歯がまつられていることからこの名がついたらしい。
 ご本尊は、釣り目で背の高い金ぴかの仏像だった。2度目の旅に対面したとき、寺の関係者とおぼしき人物が、仏像の裏側に手招くではないか。日本から贈られた木彫の仏像を近くで見せたかったようだ。それはいいのだが、布施を要求されたのには苦笑した。見せてくれとは頼んでへんで。あんたが勝手に連れてきたんやがな。
 今回は熱心に経を読み、祈りを捧げる老若男女のスリランカ人の姿が印象的だった。その表情が、なんとも慎み深く、かつまた美しい。この国に限らず、これまでに何百回と宗教施設に訪れているが、こんな神々しい光景を見るのは初めてだった。ひとびとの信仰心が篤いからだろうか。
 キャンディからバスで約1時間余りのダンブラの石窟寺院には、5つの石窟・石仏があった。古いものは紀元前、新しいそれは20世紀に入って建設されたとか。
 最古の寝釈迦は、趣きがあってたたずまいに威厳がある。ところが時代が新しくなるにつれて仏像のつくりが雑に見え、ありがたみがない。
 考えてみれば、日本の新しい寺院建築や仏像も同じで、莫大な予算をかけてつくっても、昔のものにはとうていかなわない。古ければいいというものではないが、新しければいいというものでもない。やはり時間を経ないと落ち着いた色、質感にはならないのだ。
   *   *   *
 私は現在、大阪市内に住んでいる。7年前、家の近くに、キャンディ出身者がシェフを務めるスリランカ料理店がオープンした。気になって入ったら、当地のカレー・ギャミラサが抜群に旨かった。昭和時代の小さなスナックを居抜きのまま使っているのも一興だった。
 カレーと言えばインド。ここは合計すれば3ヶ月くらい旅しているが、スリランカのギャミラサは、インド・カレーとはまったく違う。米飯の上に、数種類のカレーと具が乗せてあり、それらを混ぜて食べるのだ。辛味、甘味、酸味が口の中に次々とあらわれ、心と���らだを刺激する。
 インドやスリランカ、ネパールを旅し、向こうの料理を何百回と食べているが、家の近くで食べたギャミラサがいちばん美味だった。以後、北川景子とたびたびこの店に通っている。
 オープン当初、客はそれほど多くはなかったが、SNSや雑誌のカレー特集で頻繁に紹介され、今では昼時ともなれば行列ができる繁盛店になった。いつだったか、カウンターで隣りの席の客に話しかけたら、千葉から来たと言っていた。
 今回の旅行では、かなりいいホテルに宿泊した。団体ツアーの強みである。朝・夕食のバイキングは、どこも合格点だった。
 私は食べることが生きがいだ。仕事は手を抜いても(嘘です)、食事を適当にやりすごすことはない(本当です)。
 今回、ホテルで色んなカレー、具を混ぜて、自分流にギャミラサを試みたが、味がぼんやりとして、大阪の贔屓店にはかなわなかった。ホテルのように万人向けではなく、野性味があるところがいいと改めて思った。
 今回のツアーでは、宝石店や食材店、紅茶専門店にも立ち寄った。スリランカは、ルビーやサファイヤなどの宝石の採掘で有名で、英国帝国主義が残した紅茶の産地でもある。
 私は家でカレーをよくつくる。立ち寄ったスパイスガーデンで、カレーに必要な食材、香辛料をたんまり買った。気合を入れて物色、購入しているのは私だけだった。
 数ヶ月前、高知県の知り合いから、大量の生姜を送っていただいた。近所におすそ分けし、生姜を使った料理をつくってもつくっても、なかなか減らない。ふと、インドなどで飲まれているミルクティー・チャイに、たっぷりの生姜を入れることを思い出した。
 ミルクティー用の紅茶の葉、おろし生姜、シナモンスティック、カルダモン、クローブ、少量の水を入れてぐつぐつ煮たあと、濃厚な牛乳を入れる。ピリピリするくらい大量の生姜を入れると、本格的なチャイができる。
 毎日嗜んでいたら、大量にあった生姜が、またたくまになくなった。ないと寂しくて仕方がない。チャイ(無し)シンドロームである。
 そんなときにスリランカに行った。帰りのトランクは、カレーとチャイの食材、香辛料でパンパンになった。私の目的は達成された。
  *   *   *
 団体ツアーには、スリランカ人のガイドが行動を共にしてくれた。流暢な日本語で、国の歴史や文化を教えてくれる。
「スリランカの道路には、エクボがたくさんあるんです」
 エクボは、道路のくぼみを指すらしい。比喩が巧みな上級者だった。そのガイドによると、国民は教育・医療費は無料だという。
 巨大な岩山シギリア・ロックの階段を登っていたときのこと。あるスリランカ人の一行が、登り専用の階段を降りようとしていた。
「これだからスリランカ人はダメなんですよ。恥ずかしいですね。教育がなってないんですよ!」
 ガイドが日本語で私たちに訴えた。するとすかさず、我らがツアーの一員が返した。
「そら、教育費はタダやもん!」
 ガイドの厳しい言葉を和ませる、絶妙のツッコミだった。実際に、その場は和んだ。
 私たちのグループは、関西のメンバーが中心で、ガイドの説明にメンバーがいちいちツッコミを入れる。そのやりとりが、聞いていて可笑しかった。なるほど、私はこういう文化の中で育ったのかと改めて思った。
 団体ツアーの参加者は、集合時間にはきわめて正確で、遅れて行ったこともある私は、肩身が狭かった。ツアーに参加すると、自分が帰属する社会の特質がわかって、それはそれで面白かった。
 1、2度目の個人・少人数の旅とは違い、団体ツアーは、スリランカ人民と接する機会は少なかったが、日本社会をじっくりと体験できた。フリー(ライター)は、団体で行動することが稀である。
 常夏の国から帰国し、現在は酷寒の関西にいる。覚悟はしていたが、めちゃくちゃ寒い。日常生活に戻り、私は再び、陽光が降り注ぐ中、砂浜をひた走る自分を思い浮かべている。<19・2・12> 
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lvdbbooks · 6 years
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2018年9月14日
【新入荷・新本】
『MASAHISA FUKASE』(赤々舎、2018年)
監修・本文:トモ・コスガ
序文:サイモン・ベーカー
価格:8,640円(税込み)
深瀬昌久、待望の集大成。 私性と遊戯を追い求めた40年。
1960年代から日本写真の第一線で活躍した写真家・深瀬昌久。だが、1992年の不慮の事故により、その活動は閉ざされた。「鴉」が不朽の名作として語り継がれる一方、そのほか大半の作品については紹介される機会が失われた。
本書は、謎多き写真家 深瀬の40年間に及ぶキャリアを俯瞰し、その写真表現の全貌を初めて浮き彫りにする。
北海道の写真館の家系に生まれ、「私性」と「遊戯」の視座に根差した写真表現を多岐にわたる手法で探求した。その人生の中心には常に写真が腰を据え、内なるリビドーは周囲を巻き込み、己の人生をも破滅へ向かわせた。
初の決定版となる本書は、作品ひとつひとつを時系列順に整理し、深瀬が雑誌に残した撮影後記や手記から、その制作意図や背景を全26章にわたり丹念に描き出す。これまで断片的にしか見えてこなかった深瀬の作品が、軌跡となって立ち現れ、生涯をかけてカメラの先で何を見つめようとしていたのかを本質的に探ろうとする。
巻末に年譜及び、主な雑誌寄稿を付す。 写真表現の豊かさと凄みを湛え、未来に手渡す大冊。
<目次より>
北海道 東京 1952-1954 豚を殺せ カラー・アプローチ 松原団地と新宿 遊戯-A PLAY- 家族・I 組立暗箱を担いで 烏1976 サスケ 鴉1979 烏・夢遊飛行 烏・東京篇 歩く眼・I 歩く眼・II 遊戯-A GAME- 総天然色的街景 烏景 家族・II 父の記憶 私景 ヒビ ベロベロ ブクブク 烏1992 オートマティズム
深瀬昌久
1934年、北海道中川郡美深町に生まれる。日本大学芸術学部写真学科卒業。日本デザインセンターや河出書房新社などの勤務を経て、1968年に独立。代表作「鴉」は世界的に高い評価を得ている。1974年、アメリカ・MoMAで開催された歴史的な日本写真の展覧会「New Japanese Photography」への出展を皮切りに、これまで世界各国の展覧会に出展多数。1992年、不慮の事故で脳障害を負い、20年間の闘病の末、2012年に亡くなる。享年78。2017年、フランスはアルル国際写真祭にて没後初の回顧展「l'incurable égoïste」を開催。2018年4月、京都のKYOTOGRAPHIE にて国内初の回顧展「遊戯」を開催。2018年9月からは、オランダはアムステルダムのFoam Museumにて、美術館では没後初となる回顧展「Private Scenes」を開催予定。深瀬が40年間の作家人生において制作した作品群の全貌を網羅した写真集「Masahisa Fukase」(Editions Xavier Barralより英語版及び仏語版、赤々舎より日本語版)が刊行される。
トモ・コスガ
1983年、東京都生まれ。深瀬昌久アーカイブス 創設者兼ディレクター。2000年頃より深瀬の作品研究を開始。深瀬の没後、遺族からの依頼を受け、2014年に深瀬昌久アーカイブスを創設。作品のアーカイブ活動に限らず、展覧会のキュレーションや出版物の編集や執筆も担う。またアート・プロデューサーとしても各種展覧会の企画やプロデュースを手がけ、そのほか写真表現を中心としたライターとして日本写真の現在を各種媒体に多数寄稿。これまでにキュレーションに携わった展覧会として、深瀬昌久「Private Scenes」(2018年秋開催予定 Foam Museum)、深瀬昌久「l'incurable égoïste」(2017年 アルル国際写真祭)、深瀬昌久「救いようのないエゴイスト」(2015年 Diesel Art Gallery)のほか多数。著書として「Masahisa Fukase」(Editions Xavier Barralより英語版及び仏語版、赤々舎より日本語版)がある。
 http://www.akaaka.com/
http://masahisafukase.com/
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