#静粛に‼︎ 早稲田大学が早稲田生のみに言ってます あたいは関係無いので 静粛にしませーん これぞ発達障がい者の思考回路なのです 発達障がい者はへりくつが大好きなのです へりくつ好きの人みたら あっこの人そうなんだとご理解くださいませー そんで うざかったら ツッコミをいれてあげてくださいませ #マイノリティが過ごしやすい世の中になる事を切に願います #発達障害 #発達障がい #発達障害グレー #adhd #アスペルガー #自閉症スペクトラム #自閉症 #早稲田大学 #早稲田 https://www.instagram.com/p/Cmu7sP6vk6K/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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10周年目のトモダチコレクション新生活
2013年4月18日に発売日を迎えた「トモダチコレクション新生活」ですが、なんとなんと10周年を迎えました。おめでとうございます。2013年の4月17日夜11時のワクワクを共有したくて、このブログも2023年4月17日夜11時に更新しました。
いつもいっしょで無くさないダウンロード版をおススメしていたのももうできなくなってしまいました……。
ブログをお引越ししてくる前、Seesaaブログと言う場所でトモダチコレクション新生活のあれやこれやを載せていたのですが、その時代からのお付き合いがある方は10年以上このブログを見ていたことになります。
ありがとうございます。10周年おめでとうございます!
↑リクノコ島生まれの100人目の住民かんたも9歳になりました。
トモダチコレクション新生活は2014年6月6日、『Tomodachi Life』という名前で、アメリカ、EU、オーストラリア、韓国‥で発売されました。発売前、「同性婚」に関する要素を任天堂が不具合として修正、これに対し、「修正しないで欲しい」という当事者からの要望に、「社会的主張は盛り込めない」と強気な態度に出た覚えがありますが、この態度に対してユーザー、人権団体から抗議を受け、謝罪に至ったという非常に残念な経緯があります。
当時、私もこの騒動について自分なりにまとめなければならないと、拙いながら騒動について纏めたのですが、ジェンダーやLGBTコミュニティに関する知識が薄く、「同性婚」や「同性愛」と書いて良いのかという惑い(Miiの恋愛に関しては何と言うか、「愛」なの? という意識が若干ありました)や宗教保守に対する忖度を抱いたことを覚えています。そのため「同性結婚」や「同性恋愛」という言葉を使っています。その拙いブログ記事はSeesaaから引っ越し、あまりにも「差別的な表現なのではないか」「ちょっとここ間違いなのではないか」と思う部分は時代時代、静かに修正を行ってきましたが、それでも当時の自分の雰囲気や思いの大筋はそのままで、削除することなく、今でもあります。
当時、好きな作品と時代の移り変わり、自分の抱く「当たり前だと思っていた社会と闘うこと」についてまだ拙かった私がそこに存在しています。
【過去に書いたブログ】
トモコレ海外発売前の同性結婚騒動
https://hakoniwa-h.tumblr.com/post/151286653996/
【参考】
・HUFFPOST - 伊藤大地
「任天堂は同性婚にNO」? ゲームの設定めぐり海外で波紋
https://www.huffingtonpost.jp/2014/05/08/nintendo-tomodachi_n_5292748.html
・CNET Japan – Nick Statt
任天堂が謝罪--「トモダチコレクション 新生活」欧米版で同性愛に対応せず
https://japan.cnet.com/article/35047703/
・CNET – Michelle Starr
How to have same-sex relationships in Tomodachi Life
https://www.cnet.com/tech/gaming/how-to-have-same-sex-relationships-in-tomodachi-life/
今日はこの10年で思ったちょっと真剣な、トモダチコレクション新生活から考えられる、政治に関する話にお付き合いください。
■Miiの活躍
批判から10年近く経ちました。この批判の後、『Miitopia』が発売され、Miiのスキは仲間のMiiなら性別関係なく(というかMiiの性別すらとても曖昧になった)、誰でもスキという新たな面白さを持つソフトとして3DSで生まれ、Switchでリメイクされてパワーアップして帰ってきました。
↑Miitopia
また、Miiは2016年3月17日に配信を開始した『Miitomo』で任天堂のスマホ事業第一作目として華々しい活躍を見せました。現在、残念なことに『Miitomo』は終了してしまいましたが、『Pikmin Bloom』でピクミンたちと街にお花を植えています。Mii自体は頑張っていると思います。
■ゲームと政治
任天堂は「社員一人ひとりが力を発揮できる環境づくりに努めます。」(https://www.nintendo.co.jp/csr/report/employees/topics/index.html?active-topics=topics01)と人権の尊重を掲げ、パートナーシップ制度を2021年3月導入したと報道されました。
この多様性のある職場環境づくりには「女性活躍推進」の項目もあるのですが、任天堂(日��)は女性社員が30%なのは一般企業を思えば多い方かもしれませんが、未だ女性にチャンスが少ない状態は変わりなく、同時に女性社員が少ないことは、女性がパートナーシップ制度を受けるチャンスも少ないということでもあります。今日明日にいきなり5割などはさすがに無理だとは思いますが、徐々に増やして欲しいですね。
また、任天堂含めた日系エレクトロニクス企業は2020年新疆ウイグル自治区での強制労働に関与したのではないかと指摘を受け、「現代奴隷」に関してどう考えているのか報告書の提出を求められています。
【参考】
・国際人権NGOヒューマン・ライツ・ナウ
【報告書】新疆ウイグル自治区に関連する強制労働と日本企業の関与について
https://hrn.or.jp/activity_statement/18457/
・任天堂株式会社 現代奴隷に関するステートメント(PDF)
https://www.nintendo.co.jp/csr/pdf/ModernSlaveryTransparencyStatement_jp.pdf
また、ちょっと気になるニュースがありました。
・CNN 「任天堂米国法人が女性社員を解雇、理由を巡り物議に」
https://www.cnn.co.jp/business/35080561.html
・Gigazine 「ニンテンドー・オブ・アメリカで受けたひどいセクハラや女性差別について元従業員が告白」
https://gigazine.net/news/20220819-nintendo-of-america-sexual-harassment/
■現実が足を引っ張っている状態
さて、私が、そして多分このブログを見てくれている人なら望んでいる『トモダチコレクション新生活』正当な続編なのですが、日本社会のLGBTQ+コミュニティに対する冷酷な対応がMiiたちの生存にも影響を及ぼしているという指摘を今しなければなりません。
Miiの恋愛や結婚を男性対女性の一つだけにしておくのか、もっと自由なものにするのか、そのあたりの政治の問題が開発や発売の足を引っ張っていると思わずにいられないのです。もう「一方の性別しか好きにならないMii」は恐らく作ることができません。「一方の性別しか好きにならないMii」を作ったら、9年前のTomodachi Life発売時に起きた騒動の約束が嘘になってしまいます。
世界規模に広がっているファンコミュニティ(正直、「任天堂法務部」とキャッキャしながらマイノリティを攻撃している一部コミュニティや、国際情勢や戦争に影響しかねない機密情報を晒し合うコミュニティはともかくとしてという思いがありますが)はバカではないからです。そして、トモダチコレクションのみならず、様々なゲームに影響が及びます。「ビジネスのために人権をないがしろにする」と判断されれば、上記の人権ステートメントにも更に厳しい目線が向けられることになるからです。
これらの問題をクリアできなければ、『トモダチコレクション新生活』の続編開発なんて指示しない(というかできない)でしょう。
開発の足を引っ張っているのは、この10年で悪化した日本の政治と、「人権教育のなさ」だと今なら思います。
『トモダチコレクション新生活』の発売を望むあなたに言えることは、まじめに日本の政治について考えることだと思います。できれば、人権やLGBTQ+コミュニティについて、Miiは架空のアバターですが、現実に生きる人をゲームの中に落とし込むことができる不思議な立ち位置は、現実と切っても切り離せない存在であり、現実に影響を及ぼすこともあるからです。
それに自覚的であること、自分の当たり前を見直し、差別をやめることが開発販売への一番の近道だと思います。
男女じゃなければ結婚できないのは当たり前ですか?
現実にはありえずとも、赤ちゃんが同性カップルに導かれてもよかったのでは?
家を手に入れる方法が夫婦に限られているのはなぜでしょう?
見直せることはたくさんあります。
そんなまじめなことを、トモダチコレクション新生活発売後10年で言わなければいけないと思うほどに、「ちょっとこの国まずいぞ」と深刻に私が捉えているという意識を受け取っていただけないか。という小さなお願いです。
私は『トモダチコレクション新生活』の新しい島にSwitchが輸入されて、それでゼルダとか、リングフィットアドベンチャーとか、Miiに遊んで欲しいよ。3DSにWiiU遊んでるMiiも愛しいけど、「Switch輸出して~!」と言いたいです。
たぶん、3DSやWiiの修理にダウンロードコンテンツも、もう少し景気が良かったら続けられることもたくさんあったのではないかなと思います。島に住むMiiのWiiや3DSが壊れたらどうするんだろう。なんて悲しいんだろうと思うと同時に、Miiなら直せそうな気もするとも思う……。
■締め付け
昨年、2月24日ウクライナ侵攻に侵攻したロシアは
――13年に「非伝統的性的関係(同性愛)」について未成年に「宣伝」することを禁じる法律が成立した。17年にはDVを非犯罪化する法改正もあった――
(毎日新聞:「女の子」だから、抗議する プーチン政権下のロシアの女性たち より引用)
とあり、2022 年末、「LGBTを宣伝するゲーム」のリストアップが行われました。これは、上記の法律が成立していたことが所以です。
そのリストの中には『Miitopia』が確実に含まれているし、含まれていなくても報告があれば含まれるようになるだろうと思います。
『Miitopia』がR18発売になったことも大きな話題を呼んだのですが、これは、この“宣伝”の部分に引っかかってしまったためです。
『Tomodachi Life』も含まれているかもしれません。
【参考】
・毎日新聞 – 菅野 蘭
「女の子」だから、抗議する プーチン政権下のロシアの女性たち
https://mainichi.jp/articles/20230413/k00/00m/030/139000c
・AUTOMATON – Daiki Imazato
ロシア下院議員が「LGBTを宣伝するゲーム」をリストアップ。『Fallout』や『Apex Legends』など有名ゲーム多数を危険視
https://automaton-media.com/articles/newsjp/20221115-226706/
・AUTOMATON – Ayuo Kawase
Nintendo Switch『ミートピア』はロシアでは“18禁”だとして話題にのぼる。同性愛描写が影響か
https://automaton-media.com/articles/newsjp/20210219-152683/
他にも、昨年11月、神道政治連盟が、同性愛について「精神の障害」「依存症」と書かれた差別的な冊子を 自民党の国会議員懇談会の会合で 配布したことが問題になりました。ハッキリと申し上げて、日本はLGBTQ+に関しては上記で述べたロシアの状態にとても近いと私は感じています。日本に「同性愛プロパガンダ禁止法」を作られては、Miiに関するゲーム作品の発売に限らず、日本に輸入される他のゲームにも、作品にも制限がかかります。『トモダチコレクション新生活』、『Miitopia』の中古作品の流通停止という事態さえ最悪あり得ると頭の片隅で考えてしまう。そんな未来は嫌で嫌でたまりません。
【参考】
・Yahoo個人 – 松岡宗嗣
「同性愛は依存症」「LGBTの自殺は本人のせい」自民党議連で配布
https://news.yahoo.co.jp/byline/matsuokasoshi/20220629-00303189
・朝日新聞デジタル – 伊藤舞虹
議員ら会合でLGBTQ差別冊子、「加担怖い」 当事者の神職ら抗議(有料記事)
https://www.asahi.com/articles/ASQCG74K2QBPOIPE00S.html
・東京新聞
日本除いた「G6」からLGBTQの人権守る法整備を促す書簡 首相宛てに駐日大使連名 サミット議長国へ厳しい目
https://www.tokyo-np.co.jp/article/238238
・Wikipedia「自民党議員会合LGBT差別冊子配布問題」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%B0%91%E5%85%9A%E8%AD%B0%E5%93%A1%E4%BC%9A%E5%90%88LGBT%E5%B7%AE%E5%88%A5%E5%86%8A%E5%AD%90%E9%85%8D%E5%B8%83%E5%95%8F%E9%A1%8C
・BBC NEWS JAPAN
80秒で解説…米国防総省の機密情報流出、なぜ深刻なのか
https://www.bbc.com/japanese/video-65284025
21歳の空軍州兵を逮捕、米国防総省の機密文書流出
https://www.bbc.com/japanese/65271731
(オンラインゲームチャットグループと言われていますが、SteamやDiscordと思いっきりゲームコミュニティで起きた事件です)
・Wezzy
多様性を目指すゲーム業界と、アンチ・ポリコレゲーマーの衝突/今井晋さんインタビュー
【前編】https://wezz-y.com/archives/63889
【後編】https://wezz-y.com/archives/63890
日本のゲーム業界がどちらに行くのかは、ユーザーの雰囲気にも影響されると思います。
好きなゲームが遊べるなら自分さえよければ良いという態度や姿勢を今まで取れてきたかもしれませんが、それはこの国に(比較的まだ)「お金」があると思われており、他人のことをおもんぱかることのない態度を取れる無神経な人々が多い国だったからだと私は思っています。そしてそれが、「東アジアの奇妙な風習の島国の人だから…」という人種的目こぼしがそこはかとなくあったとも思います。
しかし、今後はその言い訳は通用しませんし、その言い訳を通用させてきた裸の殿様ビジネスの在り方を情けなく思わないといけない時代に入ったと思います。だからこそ、私はせめて、Miiを愛し、このブログを読むあなたに今後の政治含めた未来について、まじめに考えて欲しいと切に願います。
そして、それを踏まえた上で『トモダチコレクション新生活』の続編を開発してほしい。と堂々と願って欲しいと思うのです。
次の選挙は4月23日の統一地方選挙後半です。
今後、Miiがどう描かれて欲しいのか、そのキッカケの一つとして真剣に考えてみませんか。
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生まれてはじめて言葉にする、私の恋愛に対する感覚についての話ーアセクシュアリティのことー
「私って”アセクシュアル”だったんだ。」これまでずっと自分だけのものとして曖昧に受け止めてきた自分の恋愛や性愛に対する感覚や感情が、客観的に分類され、定義付けされうるものであることを、私は29才の今になってはじめて知った。
そのきっかけとなったのは、昨年末から今年の初めにかけての、一連の映画体験と読書体験だった。私は年末、友人から勧められ、自分でも気になっていた『燃ゆる女の肖像』という映画を観に行った。この作品は、端的に言うと、出会ったばかりの二人の女性が、日々共に時間を過ごす中で対話や交流を通して互いに心を通わせ、徐々に惹かれ合ってゆく物語なのだが、私はこの作品を観て「私はやっぱり女性に恋愛感情や性的欲望を抱くわけではないんだな」と、突然はっきりと自覚することになった。
それまで私は、子供の頃から異性への恋愛感情を強く持ったことがなく、むしろ同性である女性の芸能人ばかりに熱烈に惹かれ応援しているようなところがある人間だったので、「もしかしたら私は女性が好きなのかもしれない」と、自分のセクシュアリティに曖昧さを抱きながらずっと生きてきた。けれども、この映画を通してはじめてちゃんと女性同士が恋愛的に惹かれ合い求め合ってゆく姿を目の当たりにしたことで、それが自分が必要としているものでも、自分に起こりうる感覚や感情でもないということを、明確に理解したのだった。
そして同時に、自分の中で「私は同性愛者であるかもしれない」という一つの可能性が消えたことで、それまでフェミニズムやジェンダー関連の本を読む中で時々見かけてきた「アセクシュアル」や「アロマンティック」という言葉が、ふいに頭に浮かんできた。すぐにオンライン書店で「アセクシュアル」という言葉を検索し、唯一出てきた『見えない性的指向 アセクシュアルのすべてーー誰にも性的魅力を感じない私たちについて』(明石書店)(以下、『アセクシュアルのすべて』)という本を取り寄せた。
読み始めてみると、そこに書かれていることの一つ一つがあまりにも「そう、それそれ!」と思うことばかりで、私は正真正銘「アセクシュアル」なのだとわかった。
ほぼ時を同じくして読んだ、大前粟生さんの『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』という小説も、その確信をさらに強くさせた。表題作の「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」の主人公である七森という男の子は「ひとを友達として好きという気持ちはわかる。恋愛対象として好き、というのがわからない。」という思いを抱えながら大学生活を送っているのだが、彼の感覚や思考は、まさにほとんどそのまま、学生時代や今の私そのものだった。その物語の中でも、解説や帯でも、七森がアセクシュアルだなんてことは一言も書かれていない。でも彼の恋愛に対する感覚は、まさしくそれでしかあり得ない、と思った。
アセクシュアルとは「誰にも性的に惹かれない人の性的指向」であり、アロマンティックとは「誰にも恋愛感情を抱かない人を指す恋愛指向」のことを指す。アセクシュアル(誰にも性的に惹かれない)であることとアロマンティック(誰にも恋愛感情を抱かない)であることは別の問題で、アセクシュアルでも他人に恋愛感情を抱いたり、恋愛関係を築きたいと思う人(ロマンティック)もいれば、アセクシュアルでアロマンティックの人も存在する。
ロマンティック指向にも様々な種類があって、異性や同性に恋愛感情を抱く人がいるのはもちろん、めったに恋愛感情を抱かないものの、感情的に親密になった人にだけ恋愛感情を抱くことのある(外見などでの一目惚れはしない)「デミロマンティック」や、アロマンティックとロマンティックの中間の曖昧なロマンティック指向を持つと自認する「グレイロマンティック」など、かなり多様な種類やグラデーションがあるらしい。(『アセクシュアルのすべて』にはとても詳しく丁寧にセクシュアリティやロマンティック指向について書かれているので、気になる方はぜひ読んでみてください。)
ちなみに私は今のところ、自分のことをアセクシュアル(誰にも性的魅力を感じない)・グレイロマンティック(かなり希薄だが、恋愛感情を感じることがある)だと認識している。
大学生の頃に、ゼミでの活動や学びを通して自分の考えや思いを言葉にする術を獲得してから、私はSNSを通して割とあけすけに、自分の好きなものや、自分が見たり読んだり経験したことについてたくさんのことを言葉にしてきたけれど、「恋愛」に関してだけは、ほとんど口を閉ざしてきた。恋愛に関しての友人との会話の中で、自分と同じ感覚を持った人の話は聞いたことがなかったし、今まで読んだり見たりしてきたどんな漫画や小説、ドラマ、映画にも、自分と近しい恋愛や性愛についての感覚を持った人物は登場してこなかった。だから、「恋愛の好きがわからない」という自分の感覚は、誰かに話していいものなのかもわからなかったし、話しても、心配されたり、信じてもらえなかったり、変だと思われるかもしれないと思うと、自然と、自分から進んで恋愛に関することを口にすることはなくなっていった。
でも、「アセクシュアル」という言葉や概念の存在を知った今、私はようやく、「ああ、私がこれまで抱いてきた感覚や感情は、決して私一人だけのものではなく、この世にちゃんと存在している、誰かと共感し合えるものだったんだ。だから、もっと堂々と言葉にしてもいいんだな。」とはじめて思うことが出来た。
思い返せば10代の頃から、私は恋愛感情の「好き」があまりよくわからない、と思いながらずっと生きてきた。小学生の頃や中学生の頃は仲の良い男友達もいて、「好きな男の子」という存在もいちおういた。中学三年の時、一緒に話していてすごく楽しい、一番仲の良いクラスメイトの男友達のことを「好き」なのだと思って自分から告白して付き合ったことが一度だけあったけれど、付き合い出してしばらくして、自分がその子に対して抱いていた「好き」という感情は、世間一般でいう恋愛の「好き」とは違うものなのだと気づくようになった。自分の中で、彼に対しての気持ちが恋愛としての「好き」ではないのだという思いが日増しに大きくなっていく一方で、彼の中では恋愛としての「好き」の感情が大きくなっていくのを感じて、居心地の悪さと申し訳なさでいっぱいだった。
元々人として大好きな友人であり、自分から告白した手前、なかなか別れを切り出せずにずるずると半年ほど付き合っていたものの、もう恋人として付き合っているのは限界だと感じて何とか「別れたい」と告げた時には、彼を傷つけて泣かせてしまい、その時私は「もう誰かに軽々しく好きと言ったり付き合ったりするのはやめよう」と心に誓った。
高校生の頃も、文化祭で知り合って親しくなった、地元が一緒の他校の男の子と、放課後に会って公園のベンチでお互いの共通の趣味や部活の話をしたり、好きな音楽のCDを貸し合ったり、休日にカフェで一緒に勉強したり、二人で遊びに行ったりと、はたから見たらほとんどデートのようなことをしていたこともある。私には、彼と一緒にいて楽しい気持ちや居心地の良さ、好ましさは感じても、それが恋愛の「好き」なのかどうかはやっぱりわからなかった。そして、手を繋ぎたいとか、キスをしたいとか、その先に進みたいとか、そういう感覚や感情についてはもっとわからなかった。
その男の子は私のことを恋愛感情として好きでいてくれて、高校の三年間の間に三回も告白してくれたのだけれど、恋愛の「好き」の気持ちがわからない私は、どうしても彼と「付き合う」ということに踏み切ることが出来ないまま年月が過ぎ、いつしか彼とは疎遠になった。付き合うことはしないのに会い続ける関係性を、女友達から「残酷だ」と言われたこともあった。
私の中には、恋愛感情の「好き」という気持ちや、誰かに性的に魅力を感じるという感覚が、ほとんど存在していない。友達に感じる、一緒にいて楽しいとか嬉しいとか、大切だな、好きだな、愛おしいなと思う気持ちと、家族に対しての愛情や素のままの自分をさらけ出すことの出来る居心地の良さや安心感、そして眩しく輝いている同性の芸能人の女の子たちの存在とその魅力に強く惹きつけられる気持ち。私が人に抱く「好き」の感情は大きく分けてその三種類しかなくて、それは30歳を目前にした今でも変わらない。
「恋愛の好きがわからない」、「これまで一度も盲目的に好きになるような恋をしたことがない」、「恋愛や異性にあまり興味がない」という話をすると、過去に何か嫌な経験やトラウマがあると思われたり、同性が好きなのかと思われたり、”まだ”本当に好きな人に出会っていないのではないかと思われることが多い。実際、私は物心ついてから大人になるまで、男性芸能人には一切興味がなく、女性芸能人しか好きになったことがないので、「私はもしかしたら女性が好きなのかもしれない」と思っていたこともあるし、”まだ”みんなのように心から好きだと思う人に出会っていないだけなのかもしれない、と思っていたこともあった。
でも、以前She isで書かせてもらった、眩しい世界で活躍する同性の女の子たちに強く惹かれる気持ちを綴ったエッセイ(https://sheishere.jp/voice/201802-emily/)にも書いた通り、私は強い気持ちでアイドルやモデルや女優として輝く魅力的な女の子たちに尋常ならざる「好き」の気持ちを持ち続けてきたものの、それが恋愛感情や性的な感情であったことは一度もなかったし、どんなに大好きで大切に思う女友達のことも、恋愛や性的に惹かれると言うまなざしで見つめたことは一度たりともなかった。
そして、10代後半から20代を経て、30代を目前に控えた今になっても、物語の中や世間一般の価値観として幾度となく触れてきた、恋愛感情を伴った「好き」という気持ちを、私は誰か特定の人に対して抱くことは出来ていない。20代前半の頃までは”まだ”そういう人に出会えていないだけなのかもしれないという気持ちがうっすらとあったけれど、もうここ数年は「私はきっとそういう感情を抱かない人間なのだ」と思うようになっていた。
それでも、やはり他に同じような感覚を持つ人に出会ったことがなかったので、私はなんだか煮え切らないような、曖昧で漠然とした不安や心許なさのようなものをずっと抱えていた。
ご存知の方もいると思うが、私は去年の夏に、約5年交際し、3年ほど一緒に住んでいた7歳年上の男性のパートナーと結婚した。彼とは以前勤めていた会社で出会い、二人でご飯を食べに行ったり飲みに行ったりしているうちに、付き合うようになった。彼に対して明確な言葉でそう伝えたことはないけれど、私は出会った頃から今まで、彼に対してもやはり、恋愛的な意味で強く「好き」と思ったことはない。彼の存在は、私にとって「恋人」というよりも「家族」がしっくりくるものだ。
はじめて仕事終わりに二人で飲みに行った時から、私は彼と一緒にいると、普段のままの素の自分でいられたし、緊張したり会話が弾まなくなったりして気まずくなることもなかった。彼と出かけるのは楽しかったし、一緒にいるのは安心出来て、とても居心地がよかった。お互い、特別趣味や興味関心が大きく一致しているというわけでもないけれど、お互いの好きなものを押し付けたり否定したりすることなく、干渉しすぎず、尊重し合え、素の自分でいられ、生活面でも無理なく協力し支え合える関係性が心地良いと思っている。
それでも、彼は私と同じアセクシュアルなわけでなく、最も一般的なシスジェンダー(性自認が生物学的な性別と一致している)・ヘテロロマンティック(異性に恋愛感情を抱く)でヘテロセクシュアル(異性に性的魅力を感じる)の男性なので、私のような恋愛・性的志向を持つ人と一緒にいることをどう思っているのか、彼のことを傷つけてしまっていないか、不安に思わないわけではなかった。
さらに、これまでの人生で触れてきた様々な物語やエピソードの影響によって、結婚とはどこか「この人しかいない!」という運命的な強い感覚や感情を伴うべきものであると思っているところのあった私は、彼と結婚することを何を根拠に決意していいのか、ずっと逡巡していた。学生時代の友人や、同世代の会社の同僚たちが次々に結婚し、自分も結婚に向けて進んでいく中で、世の中の人たちは、一体何を決め手に結婚に踏み切っているのか、切実に知りたいと思ったりもした。
でも、自分がアセクシュアルであると明確に理解することが出来た今は、結婚することの根拠を、必ずしも恋愛・性愛的な感情の強さに求めなくてもいいのだと思えて、今のパートナーと結婚することに決めたことを、これでよかったのだと素直に納得することが出来るようになった。
統計によると、アセクシュアルの性的指向を持つ人は、人口の中で1%にも満たないらしい。それを知って、道理でこれまで生きてきて、ほとんど誰にも理解されないし、物語の中にも出てこないし、同じような感覚を持つ人に出会えなかったわけだ、と納得した。
『アセクシュアルのすべて』の中でも詳しく書かれているけれど、アセクシュアルの人は誰かに対して性的に惹かれるという感覚を持��ないため、「ない」ものを他人に証明したり可視化したりすることが難しく、また、本人ですら気づきづらく、明確にそうであると断定することが難しい。だからずっと存在しないものとされ、透明化されてきた。
私自身は正直、アセクシュアルであることを、これまでの人生でそれほど深刻に思い悩んできたわけではない。「自分は普通の人と違うのかな」「恋愛感情が欠落しているのかな」と思ってもやもやすることはあったし、自分と同じ感覚を持つ人たちがドラマや映画、漫画の中にほとんど登場しないことに、少し心許なさや物足りなさを感じたり、世の中のあれこれが恋愛や異性愛を中心に回っていることに違和感を抱くことはあった。でもそれ以上に、学校生活や仕事や友人と過ごす時間、様々な趣味の存在によって、私の日々や心はとても充実していたし、何不自由なく楽しく、満たされてもいた。
それでもやっぱり、アセクシュアルという性的指向が、他者に恋愛的・性的に惹かれない人がいるということが、世の中で当たり前に認められていたら、「自分は普通じゃないのかな」と思い悩まなくてもよかったし、他人から「恋愛しないともったいない」とか、「もっと恋愛した方が魅力的になるのに」などという余計で的外れなアドバイスをもらわなくて済んだかもしれないと思うし、不当に傷つけられることなく、否定することなく、もっとありのままの自分で生きやすくなる人が多くなるはずだ、とも思う。
何もアセクシュアルを、この世界の性的指向の中心やスタンダードとみなしてほしいとか、過度に注目して話題にしてほしいと思っているわけじゃないし、腫れもののように扱ってほしいわけでもない。ただ、いつまでも「ないもの」「見えないもの」として無視し続けないでほしいし、「普通じゃない」とか「おかしい」だなんて思ったり言ったりしてほしくない。とにかく、異性や同性に恋愛的・性的に惹かれる人がいるのと同じく、誰にも惹かれない人がいることが、当たり前に認められてほしいだけなのだ。
ここまで私の個人的な経験や感覚をもとにこの文章を書いてきたけれど、ここではっきり言っておきたいのは、私が語ってきたアセクシュアリティはあくまで”私の”アセクシュアリティでしかない、ということだ。一番のマジョリティであるヘテロセクシュアル(異性愛)だって、誰のどんなところに惹かれるのか、は当然人によって千差万別だ。それと同じで、同じ「アセクシュアル」を自認している人でも、そのディテールは人によってかなり大きく異なるし、様々なグラデーションがある。
例えば、アセクシュアルというと「誰にも性的に惹かれない=性欲がない」と思われがちだけれど、実際には、まったく性欲がない人もいれば、他人に対して性的魅力を感じたり性的欲望が向いたりすることがないだけで、性欲自体はある、という人も多い。
映画や漫画などの物語にしても、恋愛を描いた物語に全く共感出来ず、つまらないとか苦痛だと思うアセクシュアルの人もいれば、ラブストーリーを物語として見たり読んだりするのを積極的に好んで楽しむ人もいる。
アセクシュアルでも、結婚したり共に生きるパートナーが欲しいと思う人や、子供を産み育てたいと思う人だっているし、そうじゃない人もいる。
私自身は、子供の頃から今まで、恋愛ものの漫画や小説を読んだりするのは好きな方だし、性的な描写が強い作品もむしろ楽しんで読んでいるくらいだ。主人公の抱く恋愛感情や関係の機微に共感して胸が苦しくなったり、きゅんとしてたまらない気持ちになったり、興奮したりすることも多々ある。友人の恋愛話を聞くのも、いつだって楽しい。
それでも、物語の中では擬似的に感じたり共感したりすることもあるその感情や感覚を、私が現実の世界で生身の他者に対して抱くことは(ほぼ)ないのだ。
そして、私はアセクシュアルだけれど、異性のパートナーと結婚して家族になることを選んだし、将来的には子供を産んで育てられたらいいなと思っている。結婚や子供を産み育てることに対する願望は、自分の中では子供の頃から、あまり違和感なく存在するものだった。
これらのことについて、「そんなの矛盾しているじゃないか」と思��人もいるかもしれない。それでも私は「そうだからそうなんだ」としか言えないし、それは性別もセクシュアリティも人種も関係なく、みんな一人一人が違う人間なのだから、当たり前にそれぞれ異なる指向や価値観や好みを持っているということに他ならない。
これまで、私は自身のセクシュアリティに曖昧さを抱えながら生きていたので、LGBTQ+に関してもずっと漠然とした当事者意識を持っていた。そして今回アセクシュアルであると自覚したことによって、私は本当に当事者であり、セクシュアルマイノリティだったんだな、と改めて気づくことになった。
自分の曖昧だった感覚や感情が、客観的に言葉や概念で定義し、誰かと共感し合えるものであると知った安堵の気持ちと、「マイノリティ」として括られてしまうことへの怖さや心許なさを同時に感じて、カテゴライズする/されることのメリットとデメリットの両方を、初めて自分のものとして実感出来るようになった気がしている。
アセクシュアルを自認してから、改めてアセクシュアルについて書かれた書物や作品や物語などを探そうと少しずつ試みているものの、それらは驚くほど少なくて、なかなか思うように見つけることは難しい。
これまで29年間、自分自身ですらはっきり認識出来ず、じっくり向き合って言葉にしてあげられていなかった思いや経験が溢れんばかりに自分の中にあったので、この文章は随分と気が遠くなりそうなほどに長くなってしまった。けれどもこれまでずっとほとんど可視化されず、語られてこなかったことだからこそ、これからは出来るだけたくさん、丁寧に言語化していきたいと思うし、それによって少しでも、誰かが一人じゃないと安心したり、気づきや光を感じたり出来たらいいなと思っている。
女友達から「〇〇って本当に女を使わないよね」と言われたことも、年を重ねるにつれ、(恋愛対象や性的対象として見られる可能性が高いと感じていたから)異性とどこか距離を置いてしまいがちになっていたことも、生まれてから一度もモテを意識したことがなかったことも、学生時代、音楽を聴いたり歌ったりすることが好きだったけど恋愛のことばかり歌う歌詞が多くて全然共感出来なかったことも、「女」としてじゃなく「人間」として見てほしいと思っていたことも、どうしてみんな、そんなに簡単に他人に身体を見せたり開いたりすることが出来るのかわからないと感じていたことも、自分がこれまで抱いてきた様々な感情や取ってきた態度や行動が、すべてアセクシュアリティからくるものだったとわかって妙にしっくりきたし、深く納得することが出来た。
フェミニズムの思想を大切に感じるようになったのも、アセクシュアリティとの親和性の高さが理由の一つでもあったのかもしれないと、今となっては思う。
「私ってアセクシュアルってやつみたいなんだよね」と、『アセクシュアルのすべて』を見せながら内心恐る恐るパートナーに打ち明けた時、「自分のことがもっとよくわかるようになってよかったね」と彼が言ってくれたことが、私はとてもうれしかった。だって私自身も、まさしくそう思っていたから。
私自身、アセクシュアルを含むセクシュアリティやジェンダーについてはまだまだ学び始めたばかりで、きっと理解や認識が不十分で不完全な部分も多い。これまで自分自身のことはもちろん、自分とは異なるセクシュアリティや恋愛指向を持った人への理解も、同じように全然足りていなかったと思う。
だからこれからは、自分のためにも他の誰かのためにも、もっとセクシュアリティやジェンダーについて学びを深めていきたいし、丁寧に考え、対話し、言葉にして、”もっとよくわかる”ようにしていきたい。
そのための一歩として、この文章を、私自身とこれを必要とするかもしれない”誰か”へ、捧げたいと思います。
2021.03.14
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2022/01/30 「ドライブ・マイ・カー」を観た
話題にもなっているみたいだし、再上映が行われているので今度のデートで観てみようと約束していた「ドライブ・マイ・カー」を観に行った。
村上春樹原作。西島秀俊主演。カンヌ国際映画祭で脚本賞をはじめ複数の受賞をし、その他の映画賞でも日本映画で初の受賞。アメリカの雑誌や新聞でも高い評価をされているみたいです。
私は村上春樹はぶっちゃけ中学の国語の授業の時に教科書で出てきた「夜中の汽笛について~」の数ページしか読んだことないし、映画もスティーブン・ユンが出ているようだから、とミーハーな理由で「バーニング」を観たくらい。
彼氏は読書家なので村上春樹作品もたくさん読んでいるみたいです。
数ページだけ読んだときのうっすら記憶に残っている所感とネットで得ただけの偏見で「村上春樹ぽい独特な言い回しに、セックスとかがめっちゃ出てきてくる映画なんかなー」と、思っていた。
上映時間は179分。めっっっっっちゃ長いな。私は普段ホラーでスリルでサイコな思考ゼロでも自分の感覚にビクビク反応しやすい映画を観ることの方が多いからなあ、
「ドライブ・マイ・カー」はおそらく車で走って結局人間、人それぞれ人生があるよねーみたいな深イイ系センス映画だろう(思考ゼロ)、起承転結ほぼ一定でツーーーーみたいのは寝るんだが、でもま、カンヌ獲った「パラサイト」は超面白かったし大丈夫かな。
名だたる賞をたくさん獲ってる「ノマドランド」は寝ちゃったけどサ。
映画当日。地元の映画館で11時45分からの回。
席はネットで買えるようになったその日のうちに、最後列ドセンター、眺めも良ければ足も伸ばせる、誰かの視界に入って邪魔になることのない一番最高の席を確保していた。
他のスクリーンよりやや小さめで、席の埋まり具合は6割くらいかな。私たち以外は中年くらいの人たちが多かった。
「ゴーストバスターズ」、主人公ストレンジャーシングスの子だ。バカリズム脚本の映画面白そうー、「ウエストサイドストーリー」絶対観たいなーと予告を眺めてほどなくして、「ドライブ・マイ・カー」が始まった。
※以下カスみたいなあらすじネタバレ一部あり※
物語冒頭、西島隆弘と霧島れいかが裸でベッドに座ったり横たわったりして霧島れいかが淡々と語ってた。
女子高生はヤマガがたまらなく好きだった。
ヤマガの家に人がいない時間に度々空き巣に入った。
ヤマガの部屋からは母親の教育が感じられた。
空き巣に入るたびに彼の無くなっても困らないものを盗み、その代わり自分のしるしを置いて帰る。
タンポンとか。今まで吐いてたパンティーとか。
それを見たヤマガの母親はどう思うんだろうか。
的なこと。
「村上春樹ぽい独特な言い回し」
「セックスとかめっちゃ出てくるんかな」
抱いてた偏見通りの、独特語り口調事後全裸スタートである。
ついでにこれは私が勝手にツボってしまったので完全に私が悪いんだけど、女子高生が好きな男の名前「ヤマガ」が脳内にひっかかり、誰かが「ヤマガ」と言うたびに、私の頭の中の千鳥ノブが「ヤ マ ガ」と言っているのである。
マスクの下で1人ジワっているのである。
でもこれは至って真面目な深イイ映画なのである。
いけない、笑ってはいけない。気を引き締めた。
束の間、霧島れいかの「女子高生はヤマガの家でオナニーしたいけどそれをしない」的なセリフに西島隆弘が「空き巣には入るのに?」とか言った瞬間、彼氏がマスクの下で「ふっw」っと息を漏らした。
村上春樹を読んでいて私よりはるかに映画に村上春樹エッセンスを感じているのと、笑っちゃいけない空間に弱いので相当きつかったらしい。
それに釣られて私もそこから声を殺して度々肩を揺することになる。
とまあ、こんな感じで、笑っちゃったポイントをいちいちあらすじ書きながらあげていくとただでさえ読みづらい私の文章がよりぐちゃぐちゃになってしまうのであらすじを事細かく書くのは控えますが、
霧島れいかが話す変態空き巣女子高生の前世がヤツメウナギ
それを聞いた西島隆弘が翌朝ググって揺らめくヤツメウナギ
舞台の読み合わせのシーンで西島秀俊が岡田将生にもっと感情を抑えてって指摘したときに過るロバートのコント「アスリートCMアカデミー」の秋山の「抜け抜けもっと抜け!」(これも私が悪い)
岡田将生の理性を抑えられない暴力!セックス!キャラ
ヤツメウナギマウント話で涙ぐむ岡田将生
高速でサンルーフ開いて吸ってる煙草を2人してサンルーフから出してる【エモ】シーン
舞台やるやらないの大事な選択って時に死んだ娘と同じ歳の若い女に広島から北海道まで運転してくれやっていうや��おじムーブ
そんなこと指摘してたら映画になんね〜よって話になってきちゃうんだけど、なんかもうイチイチ面白かった。
で、北海道に着いた時に、突然30秒なんだか1分なんだか、とにかく無音の時間があって、多分ちゃんとしてる人の感覚なら「無音に映える雪景色」みたいな綺麗シーンなんだろうけど、もうこちとら「絶対に笑ってはいけないドライブ・マイ・カー」やってるんだから無音空間なんていちばんおもしろい。
トドメでさっきの高速サンルーフ煙草シーンのときに「これ、高速なのにそんなに速度出てないんじゃないか?」とかどうでもいいことを小声で話し合ってた左隣の中年夫婦が周りの空気ガン無視してボソボソ会話してるもんだから彼氏は耐え切れずちょっと声が出ちゃっていた。
やめーやwと肩を叩いた。彼氏の手は汗でぬるんぬるんだった。おもしろ汗ってあるんだな。
誰かの視界に入って邪魔になることがない最後尾のはずが、センターで笑いをこらえる私たち、左隣はぼそぼそ喋って携帯の通知鳴ってる中年夫婦、右隣は飽きて10分に一回携帯いじっちゃってるおじさん。
迷惑極まりない最悪のマッチングでトンデモ5人衆だった。
前列の皆様、格式高い映画で観る人が観たら号泣するという話題作ともあって楽しみにしていたでしょうに、最後列ドセンを肩震わせて笑い息が漏れてる私たちが陣取ってしまってごめんなさい。
お持ちのポップコーンぶつけていただいても結構です。神罰として甘受します。できればお口にお願いします。
映画が終わり、劇場を出てからは笑い死しそうになってる彼氏との感想戦。
私の抱いている偏見に彼氏が村上春樹の作品の傾向を補足説明してくれる形で、お互い最初は3時間もあって飽きて寝ちゃうんじゃないかとか心配だったけど、ファニーという意味で飽きず3時間の上映時間にも長いという気持ちにもならなかったね、と。
そしてすぐにTwitterで
「ドライブ・マイ・カー 面白い」
「ドライブ・マイ・カー 笑う」
「ドライブ・マイ・カー ウケる」
「ドライブ・マイ・カー 爆笑」
などをひたすら調べて同じ意見の人たちを探していた。
感性が近くてよかったけれど、めちゃくちゃ嫌なカップルだ。
「ドライブ・マイ・カー (観た映画館)」で「最後尾のカップル笑っててうざかった」って書き込みはなかったみたいで少し安心した。
酷評意見はほんの一部あるものの、ウケる~みたいな人たちはまったくと言っていいくらい出てこなかった。
Twitterや映画レビューサイト、Rotten Tomatoesで軒並み絶賛されている映画に対する素晴らしさについては、笑ってしまって映画に集中しきれなかったのと、自分の持つ知識がそもそも少ないのと、作品を通して何を伝えたいのかみたいなことがあまりわからなかったので...結局(岡田将生風に)
村上春樹が好きで、博識なフォロワーの方に説明していただき、はじめて少し納得できました。
ていうか自分の知識を持ってして、作品の伝えたいことを考えたりできる人、素直にかっこいいですね。
最初は「もえみがマイノリティ意見を発信することによって、"この映画良いと評価できる私"、に石を投じるか^~」とか冗談半分で抜かしていましたが、そもそもこの作品を観る際に偏見を抱えていること自体がナンセンスで、だから極端にマイノリティな感想になっちゃったってことなんですかねえ。
また、村上春樹をほぼ読んだこと無いのにオモロwみたいになっちゃってるのもよくないと思うので、来週あたりブックオフで作品探して読んでみようと思います。
もし観た人いましたら、ぜひ感想聞かせていただけると嬉しいです。
それでは拙い文章と激浅い感想でしたが、最後まで読んでいただいた皆さま、ありがとうございました(^_-)-☆
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2013/04/15 CINRA.com「"現代"に対する最高に真摯な眼差しと音楽、そして優しさ」環ROY インタビュー
インタビュー・テキスト:金子厚武 撮影:柏井万作
環ROYの新作『ラッキー』は、間違いなくこれまでの彼の作品の中でベストだと言い切れる、素晴らしい作品である。震災・原発事故以降の社会状況を背景としつつも、それを重々しく鳴らすのではなく、あくまで軽やかに、前向きなフィーリングで鳴らしているのがまずいいし、日常生活を視点の軸に置き、それを普遍的な表現にまで昇華させたリリックもお見事。なおかつ、彼が言い続けてきた「日本のヒップホップの枠を押し広げたい」という野心もまったく軽んじられることなく、これまで以上に冒険心に富んだ作品にもなっている。ヒップホップに対する愛情と、それゆえの苛立ちをストレートに表明した『BREAK BOY』からは3年。30歳を過ぎた環ROYは、表現者としての深みを急速に身につけつつある。
さて、以下のインタビューを読んでもらえばわかる通り、ここでは『ラッキー』の具体的な内容についての会話はほとんど交わされていない。環ROYは「聴き手に解釈をゆだねること」の重要性を強く認識していて、それゆえに非常に注意深い。質問に答える際は常に言葉を選び、断定的な言い回しは避け、まるで他人事であるかのように「◯○っていうことだと思いますよ」というような言い方をする。インタビュー相手としては非常に厄介なタイプではあるが、それは自分の言葉に責任を持とうとすることの裏返しでもあり、こういう相手との対話はとても面白い(その分、緊張感もあるんだけど)。このインタビューも、読む人によって様々な解釈をしてもらえれば本望だ。
「日常が途切れる」っていう解釈はあんまりしてなくて、震災も日常の一部だって解釈するためのスケールで見るようにしようと思って。
— アルバム、すっごくよかったです。
環ROY:ホント? ありがとう。そっか……よかった(笑)。よくわかってないですからね、本人は。
— 今回は結構手応えあるんじゃないかなって思ってたんですけど。
環ROY:いつもよくわかってない(笑)。毎回出た後に「よかったです」って言われて、「そう思っていいんだな」みたいな感じです。
— 今回の作品の背景には、もちろん震災以降の社会状況があると思うんですね。ROYさんは仙台市のご出身ですし、音楽活動に対する意識の変化もあったのではないかと思うのですが、いかがですか?
環ROY:簡単に言うと、「これを仕事に選んだ」っていうのを自覚しなきゃって感じですね。「仕事」っていうのはエコノミーな意味じゃなくて、学校のクラスでいう掃除係とか飼育係とか、全員で分担して担う仕事があるじゃないですか? そういう解釈での「ラッパー」、大きく言うと「音楽を作る係」っていう仕事を選んで今ここにいるから、覚悟決めてやらなきゃ!ってのが、取り急ぎのというか、暫定の帰結点みたいなところですね。
— 前作『あっちとこっち』から「日常」っていうのが視点の軸になっていて、それは本作もそうだと思うんですね。ただ、震災によって「日常が途切れることがある」っていうのを実感したことによって、「日常」っていうテーマがより明確化したんじゃないかと思ったのですが。
環ROY:「日常が途切れる」っていう解釈はあんまりしてなくて、震災も日常の一部だって解釈するためのスケールで見るようにしようと思って。100年単位だったら戦争もしてたし、自然災害も数十年おきに起きてたりするでしょ? だから、なるべく今回のことも日常の連続性の中でどう解釈するかっていうスケールまで持って行くように努力してたんです。これからも続いてくんで、そういう視点で回収していく必要があるというか。
— なるほど、今回の作品の中で時間の流れを描いた曲が多いのは、そういう大きな視点が背景としてあったんですね。じゃあ、作品に向かう立脚点は以前より明確だったと言えるんじゃないですか? 『あっちとこっち』のワーキングタイトルは『ゆくえの行方』っていうかなり禅問答的なタイトルだったそうですが、今回の『ラッキー』っていうタイトルは、すごくクリアなタイトルですし。
環ROY:前作を『ゆくえの行方』にしなくてよかったとは思いますけど、今回の『ラッキー』の前にも禅問答的な仮タイトルがあったんです(笑)。だから、今回も前作であった葛藤みたいなのは同じようにあって……もともといた場所、自分を形成してきた場所から離れて行くような感覚は前作も今回もあります。
— その場所っていうのは、つまりは日本のヒップホップということですよね?
環ROY:そうですね。まあ、離れて行ってるのかさえもよくわかんないけど……厳密に言うと、「ヒップホップの音楽的作法」に対してそんなに原理的じゃなくなったっていう意味で、離れていってるのかなって考えですね。
— 『あっちとこっち』っていう作品は、結果的には「あっちもこっちもないじゃん」っていうことを示していた作品だと思うんです。それは音楽ジャンルで言えば、ヒップホップとそれ以外っていうのも実ははっきり分けられなくて、だからこそさっきおっしゃったような「離れて行ってるのかさえもよくわからない」っていうことになるんだと思うし、もっと言えば、震災以降に顕著な「善と悪は二つに分けられない」っていう感覚にも通じていて、今にして思えばすごく的を得たタイトルだったなって。
環ROY:ありがとうございます。確かにそういう感覚はあると思うから、「二つに分けて相対化して考える」っていうのは、今はあんまり有効ではないでしょうね。まあ、途中の「音楽を仕事として受け入れる」っていう話と同じで、それも暫定の帰結点ではあると思うんですけど。
仙台らしさっていうのは自分の中でよくわからなくて、ただ日本とか東京らしいとは思ってるかな。
— 今作のリリックは一面的なものではなく、日常生活、特に恋愛をモチーフとしながら、いろんな解釈のできるリリックになっていますよね。
環ROY:そう努めましたね。いろんなことがどんどんニッチになっている中で、みんなで共有できる大きな物語として「恋愛」はポピュラーな言説だと思し、そういう意味で、普遍的なのかなっていうのはあるかもしれないですね。
— 以前CINRAで□□□の三浦さんと対談していただいたときに、KREVAや山下達郎さんの名前を挙げて、「作詞家として高度になっていかなきゃいけないと思う」っていうことをおっしゃっていて、その実践にもなってると思いました。
環ROY:それが日本で作られるヒップホップのひとつの形かなって解釈ですかね。東の果ての辺境の島国まで来たヒップホップの発展の一例として、よりローカルのポップミュージックなり大衆音楽の含有量が多いっていうか、大衆音楽に回収されていくっていうのか……原理的なヒップホップの作法からは離れたところで発展していく形というか。
環ROY
— 原理的なヒップホップの作法っていうのは、アメリカの作法っていうことですよね?
環ROY:アメリカでヒップホップが生まれて、世界に広まったわけじゃないですか? でも、実は世界各地の環境と時間で形成されていくそれぞれの形がヒップホップだと思っていて、別にニューヨークで生まれたものだけがヒップホップじゃないと思うんです。かなり長い目で見たときには、それ(ニューヨークで生まれたヒップホップ)もひとつの種類というか、複数ある中のひとつの型になっていくと思うんですよ。
— なるほど。
環ROY:ただ、それがないと文化としての型が曖昧になっちゃうというか、宗教でいう巡礼地とか聖地みたいな存在として、みんながアメリカのヒップホップを参照してるのが今だと思うんですね。それも理解した上で、日本という場所柄と、2013年っていう時間と相対させて生まれた表現として、「ここぐらいまでは(ヒップホップの発展として)全然アリでしょう」っていうのが今回のアルバムですかね。「こっちはこっち」っていう、「ローカリズム」って言葉がすごく近い気がしてます。
— 「ローカリズム」っていうのも震災以降で改めて見直されている部分ですよね。
環ROY:たぶんみんなの気持ちはローカライズの方向に向かってて、何でかっていうと、エコノミーの部分で限界値が来てて、「グローバリズムに対する順応性を強化していくことが必ずしも正解じゃないくさいぞ」ってムードがみんなの中に芽生えてきてるんじゃないかなって。そう俺は信じたいですけどね。
— 日本のヒップホップに関しても、去年は一宮出身の田我流が注目を集めて、やっぱり「ローカル」っていうのがキーワードになってると思うんですね。ROYさんは「仙台市出身」っていうご自身のアイデンティティに関してはどう感じていますか?
環ROY:僕自身はニュータウンで生まれ育ってて、そういうのは希薄な方だと思います。この前高校の同級生と会ったときも、「仙台の人って地元愛とか希薄だよね」って話をしてて。だから、地域的な意味では、なるべく日本っていうぐらいの幅で考えるようにしてます。それだと広すぎちゃう時もあるので最低でも東京くらいで。それは一個前の作品からそうなんですけど、仙台らしさっていうのは自分の中でよくわからなくて、ただ日本とか東京らしいとは思ってるかな。
まだ外来の文化を解釈する初期段階だと思うし、しかも短い期間で相当な量が入って来ちゃったから、「腹くだしちゃってます」みたいな地点だと思うんです。
— ROYさんにとっての「日本らしさ」っていうのはどういう部分なのでしょう?
環ROY:ラップは言語を操る表現方法なんで、ネイティブじゃないと難しいものだと僕は考えてて、日本語しかしゃべれない時点で、開き直るというか、あきらめるというか、分をわきまえるというか、そういう解釈で「ローカリズム」っていうのと向き合って��こうと思ってます。まだまだトラッドな文脈にある日本語をいじくり倒せてないと思うし。向き合っていく価値なんていくらでもあると思ってます。
— トラッドな文脈にある日本語というのは?
環ROY:今ここで行われているような一般会話の発音方法に近いというか、ほとんど普通のしゃべり方と同じような聴こえ方の方が、言葉の意味がわかりやすく入ってくるじゃないですか? 例えばそういうスタイルのラップを開拓する余地はまだまだあると思います。音節の数だったり、日本語の言語特性が表意文字であることとか、「そういうのを意識して考えてみる余地まだありますよね」っていう立場、それが俺のローカリズムかな。
— 最近は短歌や俳句にも興味を持っていらっしゃるそうで、それもまさに文化的な意味でのトラッドな日本語ですよね。
環ROY:興味があるというより、確かに存在しているな、って改めて認識している段階ですかね。原理的なヒップホップの流れで見ると、極東の辺境の地の多様性ある空間でのガラパゴス的なヒップホップだけど、民族的にはすごく保守的なことをしてるんじゃないかって思ってますね。まあ、タイミング的なものだとも思いますけど。まだそういう段階っていうか、俺がやってることが新しく見えちゃうだけっていう。
— 途中でも話したような大きな視点で見れば、むしろこの先普通になっていくかもしれないと。
環ROY:この前人と話してたんですけど、大陸から渡ってきた文化を咀嚼して自分のものにするっていうことを数千年やってきてる中で、戦後の100年単位でそういうのが一気に圧縮されて流入してきて、ヒップホップなんてその中のひとつじゃないですか? だから、まだ外来の文化を解釈する初期段階だと思うし、しかも短い期間で相当な量が入って来ちゃったから、「腹くだしちゃってます」みたいな地点だと思うんです。それはヒップホップに限らずポップカルチャーとか、拡大していうと社会システム全体にもいえることだと思うんですけどね。
— なるほど確かに(笑)。
環ROY:だから、今俺がやってることが将来的にはわりとベタなことになってる可能性もあるかもしれないですよね、よく言えば。悪く言えば、そういう風にならないで、今の状態がずっと続いたら、「なんか変わったことをやってるラッパーだね」ってなる可能性もある。
— それは、これから先が決定していくことだと。
環ROY:今話したように、可能性が分岐してるじゃないですか? そういう余地を常に残すようなアウトプットにしたいなっていうのはあるのかもしれないですね。それが未来を感じる表現なのかなって考えてます。
今回は「みんながいいって思えれば何でもいいや」みたいなのがあって、話としては、ジブリみたいのがいいなって。
— そういう余地って、今回のアルバムのトラックメーカーのチョイスにも表れてますよね。特にクラブミュージックはリズムの流行り廃りが早くて、ラベルが貼られてしまうとあるときを境に一気に古くなってしまったりするけど、このアルバムに参加してるのは可能性の余地を残している人たちばかりだなって。
環ROY:確かに普段ヒップホップの文脈にいる人たちではないですね。だけど4小節で進行しつつBPMが60から140の間の音楽っていう意味では、トポロジー(位相幾何学。ギリシャ語のトポスとロゴスの合成に由来する言葉で、直訳すれば「位置の研究・学問」となる)上ではほぼ一緒のものだから、あんまり何も気にしてないですね。「聴いてよければいい」ぐらいの感じ。蟻は蟻同士だとそれぞれの違いがわかるけど、俺らの目線から見ると全部同じ蟻に見えるじゃないですか? なるべくそういう視点でやっていきたいなっていうのは、前回のアルバムが終わってからずっと考えてることですね。
— そういう大局的な視点を持つようになったきっかけってあったんですか?
環ROY:震災後になにをすべきか考えたりした結果かもしれないですね。あと□□□の三浦康嗣に「もっとスケール大きく見て作った方がたのしいよ」って言われて、頑張って考えたら今こうやってしゃべれるようにまとまってきてるみたいな。俺が悩んでると、そういうヒントをくれるんですよ(笑)。
環ROY
— 実際には、今作のトラックメーカーはどう選んだんですか?
環ROY:ホントは最初、三浦康嗣に全部やってもらおうと思って、あっちも「いいよ」って言ったんだけど、まあ当然やらないんで、あの人は。じゃあ、もうこっちでやんなきゃなって、友達で作れる人をフワッと選んだぐらいのノリですよ。結果的には良かったなと思います。
— これまでの作品はいろんなトラックメーカーが参加していましたが、なぜ今回は最初三浦さんに全曲頼もうと思ったんですか?
環ROY:前作はバラエティーに富んでる面白さを考えてたんですけど、さっきも言ったように今回は「みんながいいって思えれば何でもいいや」みたいなのがあって、話としては、ジブリみたいのがいいなって。大概の人が気持ちいいって感じる、その方がキャッチーでしょっていう。彼(三浦)はそういうジブリ的なことをヒップホップっていう文脈をちゃんと通した上で成立させることが上手な人っていう印象が俺にはあるんで、だから彼に頼もうと思って。
— 結果的には全曲三浦さんにはならなかったものの、同じような観点から他の人も選んだわけですね。いくつかトラックを聴かせてもらって、その中から選んだのですか?
環ROY:いや、今回は歌詞が8、9割ぐらい最初にできてたから、人ごとに「◯曲ください」ってお願いして、オケがきたらそのままやるぐらいの感じだったと思うんですけどね。
— その順番も今までの作品とは違いますよね?
環ROY:今まではオケをもらってから歌詞を書いてたんですけど、今回はほぼ全部歌詞が先ですね。でも、その歌詞はあえて先方には見せずに、オケはオケで別個に存在して、歌ったときに初めて接点が生まれるような作り方をしたんです。
— 珍しいスタイルですね。どんな理由があるんですか?
環ROY:音楽としてコンパイルされてたら、どんな歌でも成立するくさいなって。悲しい曲に悲しい歌でも成立するけど、悲しい曲に明るい歌でも成立しちゃうってことです。「『こういうオケだから、こういう歌が乗ります』って結局はイメージでしかないくさいよね」って三浦康嗣に言われ��、「じゃあ、なんでもいいか」って。まあ、なるべくトポロジーっぽくなるように努めてるんだと思うんですよね。
どんなに(原理的なヒップホップから)遠くに行っても、たぶん真ん中には、髪の毛より細いとしても、ヒップホップが軸として存在してると思うんです。
— ROYさんは何かで括ろうとしたり、定義づけされることからは逃れて行こうとするタイプだと思うんですけど、でも、ヒップホップに対するこだわりに関しては相当強いわけじゃないですか? それってアンビバレンツなようにも思えるんですけど、ご自身の中ではどう解釈されてるんですか?
環ROY:定義から常に逃げてるように見えても、「定義から常に逃げる」っていう類型に入れられるし、簡単に言っちゃうと、「結局はヒップホップが好きなんじゃないですかね」ぐらいです。ヒップホップっていう軸があるから、それが楽しかったり、動機になったりするのかなって。「ヒップホップがドライブしてる状態」って言ってるんですけど、どんなに(原理的なヒップホップから)遠くに行っても、原理に接近するタイミングが必要だったり、コミットメントする瞬間がいまは必要ですね。イメージですけど真ん中には、髪の毛より細いとしても、ヒップホップが軸として存在してると思うんです。
— たとえ髪の毛一本の細さでも、それが存在することで多様性も生まれるし、逆に言えばそれがないと「何やってるの?」ってことになってしまうと。
環ROY:うん、体を保てないというか。けど、欲を言えば型もなにもなくて凄く曖昧なままでも、みんながそれぞれ見出してくれて成立している、って状態が理想だとは思ってるんですけどね。
— 単純に、今の日本のヒップホップに関してはどんな印象をお持ちですか?
環ROY:好きなラッパーなんていっぱいいるし、リスナーとして聴きたい人もいっぱいいて、そういう人が増えたらもっと楽しいなぐらいの、一般的な意見になっちゃいますよ(笑)。あとは低年齢化してきてて、それは楽しいというか、いいことだと思いますけどね。自分が20代半ばで考えてたような、「こういうことする人が10代のうちから出てくるようになるといいよね」ってことが起き始めてる感じはするので、低年齢化はいいなあと思いますよ。
— それってツールの発展によって、若い頃から制作や発表がしやすくなったっていうことでしょうか?
環ROY:子細に表現すればそうですけど、ざっくり表現すると「ヒップホップがだいぶ大衆化してる」ってことだと思いますよ。90年代の中盤から後半ぐらいまでは、「大衆文化じゃない新しくて尖ってるもの」みたいな存在の仕方をしてたんですけど、今はテレビからもラップが聴こえるし、ポップカルチャーの中のひとつとしてヒップホップが大衆化してるから、低年齢化もしてるっていう。それによって参入する人が増えたり、コミットする時間が長くなったりするので、文化の発展のための多様性としては、いいことなんじゃないですかね。
「2013年の日本で何をやるのか」っていうのを一生懸命考える。
— あの、サカナクションとかってお好きですか?
環ROY:好きです、好きです。
— 彼らは「マジョリティの中のマイノリティ」っていう言い方をしてて、さっきROYさんがおっしゃったようなことをロックとかクラブミュージックの分野で押し広げているのが彼らであり、ヒップホップの分野だとKREVAだったりするっていうことだと思うんですよね。
環ROY:あ。友達もマイナーマジョリティって言葉を使ってました。ある種そうですよね、そんな気がします。(サカナクションは)よりロックらしいというか、ウェットというか。
— ゆくゆくはROYさんもそういう立場になりたいとお考えですか?
環ROY:そういう規模まで行って、自分なりに何か提案できたらいいとは思いますよ、もちろん。
— 低年齢化っていう話でいうと、そういう若い人を引っ張っていくというか、若い世代が出てきやすい環境作りに貢献するような意識はありますか?
環ROY:それはほとんど思ったことないですね。若い人には大局とか相対で見るのって難しいと思うんで、おっさんだからできることをやってるぐらいのことと、あとは多様性のひとつのサンプルになればいいねっていうぐらい。「後進を意識」とかってわかりやすいラベルを貼れるほどは考えてないけど、自分が取ってる立場とか解釈とか行動が、そういうことにつながればいいなっていう意識はあると思うんですよね。
環ROY
— 今「おっさんだからできること」とおっしゃいましたが、CINRAで初めてインタビューさせていただいた2009年の記事で、ROYさんが「長く活動しないと得られない空気感に憧れる」っていうことを言ってらして、僕は今回の『ラッキー』から、まさに長く続けてきた人の醸し出す空気っていうのをすごく感じたんですよね。
環ROY:なるほど、よかったです。動機を維持するってそういうことだと思うんで。みんな動機を失っていくからいなくなっていくんです。特に、こういうポップカルチャー以降の音楽ジャンルっていうのはそうなりがちだとは思っています。
— ROYさんは動機を維持するように努力をしてるんですか?
環ROY:努力してますよ、たぶん。勉強するっていうか。
— それは社会の流れや身の回りで起きていることに常にアンテナを張り巡らせておくとかっていうことですか?
環ROY:そんな細かくなくて、ノブレスオブリージュみたいなのって言うと大げさですけど、世界上位5%のお金持ちの場所に自動的に生まれてきて、いまここで、もっと言うと「2013年の日本で何をやるのか」っていうのを一生懸命考えるくらいのもんだと思いますよ、簡単に言うと。ただ、俺の動機はそうだってだけで、こう言うとあれですけど、みんな勝手にやってもらえればよくて(笑)。俺は俺でやるから、それぞれが動機を生成していくみたいなことができれば、それでいいと思うんですけどね。みんながいるから、俺も存在することが出来るわけですしね。
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2020.4.15wed_tottori
朝6:30起床。眠い。
今日は令和建設の現場へ出かける。令和建設というのは最近結成された建設会社で、「パーリー建築」というパーティーしながら建築する手法を編み出した宮原翔太郎くんと鳥取のナイスな大工兄貴、高藤さんが結成した会社である。各現場でバンドを組むように、ミュージシャン兼大工、木こり兼パエリア職人兼大工、DJ兼大工、ラッパー兼大工、そしておれのような本屋兼ファーマー兼大工(の真似事)のような人間を適材適所で現場へ招集し愉快に真面目に建築する。異様な時間と愛を壁に注ぐ左官屋(八田人造石)もバシっとした壁が求められる時にはやってくる。そのような愉快な仲間たちはそれぞれ独自の生活を営みながらこうして現場で会ったり会わなかったりしてお互いの近況を報告すると共に日当を稼いで暮らしている。
今回の現場は1月から施工している家で、大きな機械を使わずほぼ人力で丁寧に解体し、使える材は全て釘をキレイに抜き、瓦も割らずに保存し、土壁の土も仕分け、そして新たに建てるヤギ牧場の小屋へと生まれ変わる(という予定だった。計画は変更され、別のかっこいい小屋に転用された模様)。そのような、個人個人の生き方も建築物も尊重し、且つ使えるものはどんどん転用する柔軟さもある最高の建設会社なのでR。「ガテン」とはそもそも「合点」、ちょうどいいものをちょうどいい場所へ据える機敏を指す言葉であったらしい。
今日現場へ来ているのはミュージシャン兼大工のキョウちゃんと高藤さん。おれは今日と明日、この現場へ入って土間を打つ予定。コンクリを打つ為の下準備として土や石を取り除くのが今日の仕事。ザクザクした土の音、身体を動かして流す汗が気持ち良い。キョウちゃんは最近自宅の庭を開墾し野菜を育て始めたらしい。みんな畑をやり始めた。
おれは以前から借りている畑を「汽水空港ターミナル2」と名付け、誰でも来て遊べて食える公園として解放する計画を進めていたが、今回のコロナ騒ぎでみんな時間に余裕が出来、一方で収入は減っているのでみんなターミナル2の畑仲間に加わり始めている。本当に嬉しい。以前から呼びかけてはいたが、みんなそれぞれ生活に忙しく共に畑をやるまでに至らなかったから。これから関わる人たちみんなが食べても食べても食べきれない程の多種多様な野菜を協働で育て、茶室をつくり、zine図書館をつくり、友人の子どもらが遊べるようにブランコもつくる予定。子どもにとっても大人にとっても遊びになり、学びになり、さらに生きる糧ともなるような、そんな公園としてターミナル2を発展させていこうと思っている。だから最近の生活は午前中はパートナーの明菜、それからその時々の畑仲間と畑へ繰り出し、昼は弁当を持ってピクニックをし、そして午後は店の改装工事をする日々(汽水空港はたまたまコロナ関係なく改装の予定を入れていた)だ。金は徐々に減ってきているから、こうして時々建築現場へも出る。
休憩時間に高藤さんと我が家のそばの廃校跡地利用計画について話す。その廃校を最近畑仲間として加わってくれた友人カップル(一人は陶芸家でもう一人は溶接や木工の作家)のアトリエ兼公共工作スペースとして申請し、広い敷地には令和建設が日々生け捕り(まだ使える材をきれいなままストックすることを高藤さんはこう呼ぶ)する木材や家具、各種パーツ等を保管し販売もできる場所として使わせてもらおうという計画。この中学校のすぐ裏手に汽水空港ターミナル2があるから、もし計画が実現すれば工作スペースでは溶接や木工、陶芸などのモノづくりが出来、畑では土から食べ物をつくるという、ありとあらゆるものをつくる環境が整ってくる。これを是非実現したい。おれの尊敬する建築家、岡啓輔さんは常々「モノをつくる悦び」の素晴らしさを説く。おれはそれに影響を受けてきたし、実際小屋を建て、野菜を育てることでその悦びを知ってもいる。それは芸術家や職人だけに許された行為ではなく、全ての人に開かれている悦びだ。
昼休み、フジロッ久の藤原さんから電話があった。告知も出来ぬままコロナで中止になってしまったイベントのことについて。どうやら今回のことで飛行機代は払い戻しできることになったらしい。安心した。開催する予定だったイベントは「音楽をつくる」というテーマで参加者それぞれに「あなたが音楽にしてみたいと思う人生の記憶、感情、瞬間等を持ってきてください」と呼びかけ、それを藤原さんに即興で音楽にしてもらうという企画だった。家を建てることが全ての人に開かれた行為であるのと同じく、作物をつくることも、衣服をつくることも、料理をすることも開かれている。そこに音楽を奏でることも加えたい。自分自身がリスナーという立場で居続けるのではなく、生活の中でメロディをつくったり、人とセッションすることができたらどんなにいいことかと思うから。だけど果たして音楽というものがどうやってつくられるのか、つくればいいのか分からない。家を解体して建て方が分かったように、実際にその場で音楽家が音楽をつくるのを目の当たりにすることが一番良いヒントになるだろう。そんな意図で依頼した企画だった。今、みんなが自宅待機せざるを得ない世の中の状況を眺める程に、自分自身で芸術をつくりだしそれを楽しむということの重要性を確かめている。また時期を改めて必ずやりたい。
それからwhole crisis catalogという去年から汽水空港周辺で開催している企画についても話し合った。この企画は「CRISIS(困りごと)」を人と人とを結びつけるツールに、生活と政治を結びつけるツールにしようというような企画で、そもそもは3.11があって原発の是非を問うまでもなく答えが明確に出たと個人的には思っていたにもかかわらず、そこで意見が別れケンカになること、twitterのタイムラインにはいつも自分と同じ意見の人しかいないのに選挙になると毎回ガッカリな結果になること(選挙は毎回自分がマイノリティであることを自覚する機会にしかならない)、強い抗議の気持ちを持って何か行動したくても、鳥取という地方で官邸前のデモの様子をネット上で見守ることしかできないこと、自身の生活から政治へ投げかけることのできるボールがどこにも見当たらないこと、心優しい近所のじいちゃんばあちゃんが何故かずっと自民党を支持し続けていること(絶対政策とじいちゃんばあちゃんの願いマッチしてなさそうなんだけど…)、田舎の町で対抗文化やアナキズム精神強めの本屋を運営するということ(理解されないことからスタートするのが前提で、何事も時間がかかるということを学んだ)、意見することがかっこわるいと冷笑されること、政治の話しができないこと、それら全てのことをキッカケとし閃いたのが「じゃあ、あなたが現在困っていることはなんですか?」というシンプルな問いかけだった。困りごとに対して税金をどう分配するのか。それが政治であるというシンプルな立ち位置に戻ろう。そして世代とセンス、立場を超えてまずはお互いの困りごとを把握しよう。そして相互扶助での解決を試み、それでも解決できないことこそ政治へ意見として求めよう。理想やイデオロギーから政治を語るのではなく、あなたの/わたしの困っていることを基点に政治を語ろう。そういう会を日本各地で様々な人が開催したらどうなるだろうかというアイディア。『whole crisis catalog』とは文字通り、「全困りごとカタログ」と訳して欲しい。日本に暮らす全ての人々の困りごとが掲載された時に完成するカタログ。困りごとがこのカタログに掲載される過程で、隣人の困りごとに耳を傾けあう文化が生まれることを願い、それを解決する/できるという自信と実感を得る機会が増すことを願い、想像力だけでは知り得ない様々な病気、状況、立場があるということをお互いに知りあうことを願い、そして掲載された困りごとが政治へ投げかけることのできるボールとなることを願いながら全ての人々とつくるカタログ。壮大で無謀な企画。藤原さんは面白がってくれつつも果てしなさや難しさも感じていて、思うことを率直に意見してくれた。もっと���したかったけど、昼休みが終わってしまった。また一晩中でもこの企画については語りたい。おれは自分の個人的な研究として、この活動がどう人に受け止められるか、広まるとしたらどうアプローチした時か、開催してから起きた出来事などを地道に記録していくつもり。
午後は施主のHさんがやってきて、みんな大好きプレミアムモルツをプレゼントしてくれた。ビール大魔王のキョウちゃんはたまらなく嬉しそうだった。おれも金ないのに田畑や大工作業をする最近は夜のビールが欠かせなくなってきた。ビールも自給したほうがいいんじゃないかとキョウちゃんと作戦を練る。
帰宅したら明菜がコロッケをつくってくれていた。塩で食べてもケチャップで食べてもうまい。つまみ食いで3つも食べてしまいやや満腹。
今日は畑でえんどう豆の支柱にネットをかけたりしていたらしい。畑も順調だ。
現在、汽水空港は改装工事中。工事が終わっても開けていいものかどうかと考え続けている。コロナとは緩やかに共存するしかないとおれは思う。すぐにではないがその時が来たら、みんな近所に引っ越してこないだろうかと期待している。その為にターミナル2を充実させ、田んぼも勉強している。そもそも田舎で本屋をやっているのは、「家を建てる余白もあり、作物をつくる為の土もありながら、都市が生み出すような人間の芸術に触れられる世界」をつくる為にやっている。動物のように巣をつくり、食べ物を採集or育て、そして芸術に触れる。それら全部ができないと、おれは生きるってことが細切れにされてるような気がして窮屈になる。何千回「なんでこんな田舎で本屋やってるの?」と聞かれたか分からない。そういう自分にとってちょうどいい世界が現時点では実在しないから、今つくってるところだ。
-プロフィール-
モリテツヤ(33)
鳥取県
汽水空港店主
https://www.kisuikuko.com/
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庭の嫁入り日記_30.31.32日目
約1ヶ月間の常駐生活を終え、お別れの時がきた。本当に人の暖かさに触れる体験が何度もあり、横浜に帰るのがものすごく寂しくもある。
よく���く考えてみれば、建築の仕事をしていて、これほど長い間特養に寝泊まりする事は稀有な事だろう。福祉という領域に足を踏み入れる事は初めての体験であり、言わば文化の異なる国にホームステイした様な感覚と言える。
職場が福祉施設とその庭になり、ここでは書ききれない程の気づきがあった中、最も印象的だった事は建築と福祉の相互関係だった。
利便や効率を重視する中で生まれたデザインが随所に見られる。コンプライアンスを重視した閉鎖的な建物、管理という利潤に基づいた空間配列、マイノリティに合わせざるを得ない状況を作るだだっ広い居間(広ければ何でもできるでしょと言わんばかりのデイケアスペース)など。
過保護なケアによって生まれたデザインは、ある種福祉業界という強いマーケットの存在を物語っている一方で、「高齢化社会」という時代的セクションにおける福祉のカテゴリーをより強固にしているのではなかろうか。
しかし老人ホームと庭で見た風景では、福祉というカテゴリーやグループ、ユニットと言った単位に集約できるものではなかった。
夢中になって物を作るおじいちゃんや、まだボゴボコな庭の地面を自分の足と杖で一歩一歩確かめるように歩くおばあちゃんなど。昨日話した事を今日も話す人もいれば、1週間ぶりに出くわしたお年寄りがすっかり僕の事を忘れてしまっていた事もある。それぞれが異なる表情をしていて、きっと見えている世界もみんな違う。
そんな異なる住人が絵巻物の様に居合わせる状況にコミット出来るのが建築であると信じてやまない。
まだまだ道半ばである中、チームで一区切りの会を開いた。散々いがみ合いのあった施工者とは心の底から分かり合い、今までとこれからの事を語り合った。
4月の庭びらきまで、まだまだ道半ば。春の芽吹きためにしっかりと根を張り、過酷な冬を越える桜の様でありたい。
そして沢山の愛をくれた皆様、本当にありがとうございました。庭に僕の魂の一部を置いてきました。皆さんにとって、皆さんの分だけ存在する庭であって欲しいと願っております。
庭の嫁入り日記第1章_結
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2020/1/16
一月も折り返して、お正月ムードもあっという間になくなりましたね。
暖冬のせいもあってか、肌感的に今年はダウン要らず?なんでしょうか。。
何かと忙しい?おじさん達が新春揃ってユナイト!今あるデッドカルチャーにそれぞれがそれぞれの意見や考えを持っていることが嬉しかった昨夜。
そんないつの間にかユナイトしていた仲間たちと何か始まりそうな、、最高のミーティングになりました!
そんな一夜の前に、個人的に新年のご挨拶も兼ねてTOKYOクルーズ。
同世代でリスペクトしてやまないGOROくんは角度は違うものの、いつも話が合う最高のフレンズ。たっぷり良い話が出来ました。サンクス!
GOROくんにナヴィゲートしてもらったこちらは、まさに個人的に最高なチルスポット。おじすい最高のラインがみえました。
そんなポストにオンタイムで反応してくれたのは、ローカルラインの愛すべき後輩。SFカラーが琴線に触れたスタジャンは、青春時代からの憧れ!
ミスターモート!ビーンのパジャマにタックイン。ワールドフェイマスな彼に届いたことは素直に嬉しい。
お待ちかねのサラー先輩の新作を先走りで着用!
立て込んで行けずじまいでしたが、、そんな時もあります。そんな中YURIちゃんのシュートで見つけた、イケメンMOCKのジェリーTee。揚がりました!
初来店で偶然起こったミラクル、、?そんな時間を共有出来て本当に嬉しい。
新春早々にサプライズで決まったシルクセッション!予定調和ナシのインプロ具合は、ヘッズならではともいえるサプライズ!
LAのサラー先輩もナイスツッコミ!楽しんでいる様子が伝わったのかな?
当店御用達の彼は、ほぼ毎回参加するセッションラバー。イカす!
ヤングデュードも晴れて成人を迎えました。お父さんと息子ではありませんが、ファミリーです 笑。
新たなファミリーの誕生も嬉しいニュース。ベビーデュード!
オープン間もない頃からサポートしてくれている本国のヘッズとの関係も気がつけば一年。。初心忘れるべからず。
近からずもいつもサポートしてくれているフレンズ。遅れて届けられたギフトも愛を感じざる得ない、、。感謝です!
ローカルヒーローのCARAVAN!いつ見てもカッコよくて優しいデュード。いつも気にかけてくれて、ありがとうございます!
@ruckaruckaranch
"Lilac Rain Unbroken Chain" Tee 《Reprise》
ポートランダーのヘッズ アダムが個人的にも大好きなTシャツをリプライズ!一見デッドTeeらしからぬアートワークはもちろん、今回使用している無漂白のナチュラルボディも素晴らしい。
@rubenowsky
ありがとう!ルーベン。嬉しいことに、親密な関係になった彼からサプライズのギフトが到着しました〜。
見た瞬間にときめいたバンダナ&ステッカーに加えて、自身の限定プリントなど…新年早々、最高にハッピーです。
@nob_aira @further8888
DUDE INN meets ex. Märchen Shop
Silk Screen Printing
それは、僕たちが大好きな先輩からの緊急オファー!
急なセッティングにも関わらず、そこで生まれていたグルーヴは、まさに"楽しむことだ"という共有感。
最高の先輩とわざわざお越し頂いた皆さまに感謝です!
そんな先輩とのスタジオワーク?ともいえるスペシャルアイテムもセッティングしておりますので、ご期待ください。
そんなに持って来なかった、とおっしゃっておられましたが。。
何より久しぶりの先輩との時間が楽しいんです。
静かにセッションはスタートします。
まさに決めうちとインプロ具合が融合した、ナイスなプリントが完成!
NYのパックマンのタイダイに潜む、ジェリー。
小さな版をバイザーに。遊びココロに火がつきます。
初シルクスクリーン!という彼女も満足した様子でした。
んー。プリントもさる事ながら、オーダー具合のレベルの高さも感じますね。
ジャキーン!!
ブラックのダービーにバックプリント!カラーリングが絶妙ですね。
いちいち目を惹く 笑、アートワーク。カッコイイなあ〜。
@yackman89
Dude Inn / Down on the corner
Carhartt Jacket Custom
《Vintage body,One & Only》
TOKYOのYACK先輩とのジョイントワークも引き続き、継続中!と言ってもボディを厳選して渡しているだけですが、、毎回素晴らしいアンサーに感謝しかありません。
カーハートを代表するデトロイトジャケットは、90sあたりが個人的にはベストシーズン!ガバッと着れるシルエットの良さはもちろん、カラーリングも最高なんです。
そんなピースに先輩ならではのプリントミックスは、本国のヘッズからも問い合わせ多数!!
今年は暖冬なんで、風を抜かないチョアコートはレイヤリングしやすくて最高の相棒候補になるのではないでしょうか?
DUDE INN "Wing Foot" Crewneck
"Wing Foot" Sweat Pants
先週ご紹介したフーディセットアップに続いてセッティングしたのがブラックボディのクルーネック。東海岸を思わせるウィングフットですが、あえてデッドのホームでもあるSFカラーにしてみました!
もちろんセパレートして着用も可能ですが、ネイビーとも違う印象のブラックのセットアップは、シックな雰囲気の仕上がりに大満足です。
珍しいワークウェアブランドのVネックプルオーバーには、まるでデフォルトで入っていたかのような完成度。あっという間に売り切れました。
個人的にホワイトボディのスウェットは昔から大好きなアイテム。今となっては染められるというのもポイント 笑。
過去にリリースしたロ��グスリーヴにタイダイ。ワン&オンリー、ナイスプライス、ストアオンリー。
@dudeinn
90s L.L Bean Tailored Jackets《Thinsulate Lined》
L.LBeanの奥深さを感じたのがシンサレートライニングのジャケット!作りの良さや保温性と今時すぎない?無骨な存在感が最高なんです。
いつものワードローブにラフに羽織るのがベター。コーデュロイはウールの温もりある素材感は、肌寒い季節に見た目にも温かい。。
Beanラバーにはお馴染みのシャミーシャツはソリッドカラーが基本。そんでもって美色なチェック柄のこちらは、なんとジャマイカメイドの珍品。持ってて損のない一着です。
三年ブリの来日が来月に迫ったキモックバンドakaヴードゥーデッド。来日するメンバーも最高だし、今から楽しみで仕方ありません!
皆さま、マストゴーでお願いします。
今週もマイノリティなブログに最後までお付き合い ありがとうございました!
お店の方は今の季節にぴったりなセーターをセッティングしております。
引き続き肌寒い時期ではございますが、温かな気持ちで皆さまのご来店をお待ちしております。
それでは、また!
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れいわ新撰組の山本太郎氏が重度障害者を参院選の比例上位に重度身体障害者を擁立した手法について、ツイッターで真っ向から非難したところ、様々な反響がありました。
僕の持論は身体障害者に寄り添ったふりをした最も蔑みの対象の行為だと思っております。
山本氏と重度障害者の木村英子氏(れいわ新鮮組サイトより:編集部)
少し長くなりますが、僕が障害者になった経緯
僕自身、38歳の頃に脳腫瘍を煩い、奇跡的に一命はとりとめたものの、左半身麻痺、言語、聴覚、視覚障害が残り、健常者から一転、障害者になりました。
独立して10年かけて育てた不動産会社の経営からも退き、いまは障害年金、月額8万ちょいと、蓄えを切り崩しながらの晴耕雨読の生活をしております。
余談になりますが、術後の想い。
開頭手術後、目が覚めた時に愕然としたのは、全く動かなくなった下半身…
動かないのに痛みだけは感じる身体…
まるでコンクリートの上で寝てるんじゃないかと錯覚するほど、背中が痛くて眠ることもままならない。
頭は働くが身体は動かない、動かせないもどかしさ、悔しさは筆舌に尽くしがたいものでした。
術後、再発の恐怖と戦いながらの抗がん剤治療は過酷で、24時間点滴に繋がれっぱなし、毎食後30錠のステロイド、連日40度近い熱、食事を取ると襲ってくる激しい嘔吐感、髪の毛は抜け落ち、身体は動かないのに、間接の節々が軋むように痛む。
少しでも身体を動かさないと、このまま寝たきりになるとドクターに言われ、足の指先、手の指先から少しずつ少しずつ動かそうと、リハビリを重ねる毎日。
意識ははっきり頭も働くので、下の世話を第三者に頼む事だけは絶対にしたくない!
この、思いだけは凄く強かったです。
幸い、経済的には少し余裕があったため、個室に入ってたので、トイレは部屋の中にありましたが、ベッドからトイレに移動するまで15分位かかる…尿意を少しでも感じると、まずは上半身を起こす。
転げ落ちるようにベッドを出て、這いつくばってトイレにたどり着く。
そして上半身の力を振り絞りやっと便座に座る。
トイレひとつで、この有り様かと悔し涙が込み上げてくる。
看護師さんから、頼むからナースコールで呼んで下さいと懇願されたが、トイレする所なんて絶対に見せたくない!と拒否するも、患者が転倒したりすると、看護師さんが始末書を書かなきゃいけなくなるとの事情を聞かされ、やっと納得し、それからは看護師さんに支えてもらいながらトイレに行くように態度を改めるが、介護がないとトイレも満足に出来ない自分が許せなかった…
絶対に動けるようになってやると強く思い、リハビリを続け、術後1ヶ月後やっと車椅子に移動できるようになり、立てるようになるまで3ヶ月かかりました。
立てるようになってからは、点滴スタンドを支えに、病院の中を歩く練習。
10mも歩くと、息が切れる。
こんな身体になってしまったのか…
心の中では、このまま生きてるだけって何の役にも立たないじゃないか…
家族に負担をかけてるだけじゃないか…
生きてる意味有るのかな?
毎日、病院の天井を見つめるしか出来ない自分が歯がゆく、死んだ方がマシだったかなと考える日々が続来ました。
ベッドの上で、部下からの日々の報告を受け、指示だけを出してる自分に苛立ちしかなく、何も出来なくなった現実を思い知らされる…
生産性のなくなった自分というのを受け入れる事ができず、なんで助かったんだろう?
あのまま、死んでれば、周りに迷惑をかける事もなかったのに…
でも、自殺するのは絶対に嫌だ!
かといって今後、誰かの介護がないと生きていけないのは嫌だ!
だから、絶対に歩けるようにはならないと!
その思いだけで、毎日、病院内の廊下で歩行訓練を重ね、半年後退院の頃にはなんとか一人で歩けるまで回復することが出来ました。
退院後に待ち受けていた過酷な現実…
しかし、退院後が、より一層苛酷だった。
退院後社会復帰すると、当たり前だが、周りは病気前と同じように結果を求めて来ます。
病気前は寝ずにでも働けた身体だったのが、そんな無理など聞いてくれる身体ではなくなってる。
しかし、社員達も取引先も健常時と同じように期待を持って、頼ってくる。
その期待に応えられなくなった自分に気づかされる…
結果を出して当たり前、出せなければ口先だけ。厳しいようだが、ビジネスの社会では当たり前の話。
やってみたけどダメでした。すいません。なんてアマチュア。
生業として生計を立ててるプロの世界では通用しない。
プロとしての仕事ができなくなった以上、身を退くしかない。そうしないと、皆に迷惑かけてしまい、不幸にしてしまう。身体的にハンデを背負った人間はプロとしては通用しない。
これが現実です。
しかし、それを言葉にすると、障害者を差別してるとか、排除しようとしてるとかの非難を受けるので誰も言葉にはしない。いや、言葉にできません。
障害者に健常者と同じような結果を求めるのは酷な話だが障害者だから大目に見ようは、誰も幸せにならない結果を産みます。
山本太郎氏にホントの優しさはあるのか?
障害者には優しくしてほしい。これはたしかに間違いはありません。
だからこそ、責任の発生しない立場で活躍できる場所を作ってあげることがホントの優しさではないだろうか?
れいわ新選組公式Facebookより:編集部
健常者と同じ土俵に引っ張り出すなら、障害者に健常者と同じ仕事をしろと迫る事になる事を山本氏は解ってないのでは?
いや、解ってて、あえて、引っ張り出し、合理的配慮が必要と言ってるんだから健常者が障害者に合わせろ等と弱者の立場に立ってるような詭弁を展開するつもりなのか?
どちらにしても、障害者の事など、まるで考えてなく、自身の悪目立ちの手段として利用してるだけだ!
生産性の無くなった人間は生きてちゃいけない社会を作りだそうとしてると彼は主張している。彼だけじゃなく、左派の自称人権派の人たちは皆同じような事を言う。
資本主義社会において、生産性は必要不可欠な要素。
生産性が低くなった、なくなった人でも、楽しく明るく暮らして行ける社会とは、障害者でも活躍できる制度や場所を作る事が必要であって、障害者を健常者の中に引っ張り出す事じゃない!
健常者だと、これを言葉にすると障害者差別だと非難の対象になるので、なかなか口に出せないが、障害者だから、敢えてハッキリ言う!
障害者が健常者と同じ立場で働くつもりなら、健常者と同じ結果を求められるぞ!
障害者だから仕方ないよね…なんて言い訳は��来なくなるんだぞ!
そんな場所に重度障害者を立たせる事が、障害者に寄り添うってこと��のか?
僕には酷な事を求めてるとしか思えない。
ポリコレ利用を許さない
仮に今回の選挙で、ふなごさん、木村さんが選挙区で立候補したなら、票を託す人が居たでしょうか?
これは、差別でもなんでもなく、自分の思いを託して代弁してもらおうと思ったでしょうか?
僕自身に置き換えると、健常の時なら『おう!任しとけ!精一杯頑張るから!』と引き受け、また結果を出す自信もありましたが、障害を負ってからは『任しとけ!』なんて、とてもじゃないが言えません。
『任しとけ!』なんて答えて、健常者達と同じ土俵に上がり結果を出せるとは到底思えないし、それこそ命を削りながらやらなければできっこない。
合理的配慮という権利があるんだから、俺のペースに合わせるのが健常者がやらなきゃいけない事なんだ~!なんて、行き過ぎた主張で「障害者だし、強く反対できないな~」このような心理を逆手に取って、己の利益を得ようとする、卑怯なやり方だ。しかし、これを卑怯と批判すると「差別だー!」となるので強く批判ができない。
これが、いわゆる逆差別。
ポリティカルコレクトネスを利用した、逆差別。
こんなやり方を絶対に許してはなりません!
皆さんも、思ってるはずだけど口にはし辛いだろう。
しかし、僕は当事者なので臆せずハッキリ言わせて貰います!
ポリコレを利用し言論を封殺するやり方をするな!
そんな事をするから、行き過ぎた主張になり煙たがられ、穿った見方をされる原因になり、ホントに困ってる人達がもっと困るんだ!
これは、障害者にかぎらず、同和、在日、マイノリティ差別、女性差別、全てに相通ずる。
そんな、逆差別が横行する社会には絶対にさせたくない。
人権屋達の行き過ぎた主張で、ホントに困ってる人達も偏見の目でみられるような事が、あってはならないから、山本氏のような奴らに屈してはならない!
僕のような一般人の声は小さいが、黙ってはられない!いや、黙っちゃいけない!黙る事は奴らの思う壺だ!だから、声をあげ続ける!
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新型コロナウイルスが熊本の音楽シーンに与えている影響は?【K_Yota (Doit Science)、QUE?ST (BLUE PRINT)】
世界中で猛威を振るう新型コロナウイルスは、熊本の音楽シーンにどのような影響を与えているのか? 熊本で音楽に携わる人たちに5つの質問に答えてもらいました。影響を可視化することで、少しでも支援の輪が広がればと願っています。STAY HOME & SUPPORT OUR LOCAL!
1.名前と肩書をお願いします。
K_Yota
Doit Science(ドイ・サイエンス)というバンドを長くやっています。また、Art Blakeyというライブイベントの主催を始め様々な企画に関わっています。
普段は個人事業主/サラリーマンの中間みたいな感じで働いています。
2.どこで、何をしながら、どんなことを考えていましたか?
仕事で九州中を一人車で走りながら、これまで関わりのあったライブハウスやクラブ、そして僕らのホームであるナバロの危機をただただ憂い戸惑っていました。
特にナバロに関しては、オーナーやスタッフの気質や考え方からドネーションやクラウドファンディングなど今主流の支援方法が馴染むとは考えにくく、どういうやり方がナバロらしいのか、そして文化や思想を多分に含んだ音楽というものに特化した箱としてどうあるのが「正しい」のか、そういうことをナバロの店長ジュン君も交えて何度も議論しては悩み続けました。
このような非常事態なのだから悩んでいる場合ではない、というのは尤もな考えですし僕もそう思うのですが、おそらく長期戦になってしまうのであれば尚更「どうあるべきか」というのに拘ってしまうところも大きいです。
先日ようやくリリースされた第一弾のナバロコンピでようやく道筋が見えてきたように思え少しホッとしてしていますが、引き続き更にサポートしていきたいと考えています。
3.新型コロナウイルスは生活にどのような影響を与えましたか?
3月以降予定していたライブや企画がなくなり、スタジオで練習することも出来なくなりました。
仕事に関しては今のところ影響は少ないですが、無期延期やキャンセルになる案件も出てきていて、これから影響が大きくなりそうです。
4.色々なことが制限されているなかで、日々心がけていることはありますか?
SNSを中心に様々な意見が飛び交っていますが、出来るだけフェアに捉えるよう心掛けています。
その中で勿論自分自身の中にも様々な感情が浮かびますが、それも出来る限りフェアに捉え直して、さらにその基準となるべきフェアの概念が本当にフェアなのかどうか、も考え続けなければいけないと思っています。
5.メッセージをお願いします。
今の状況の中でようやく実感として理解出来たのは、おかしいと思ったら声を上げなければいけない、ということ。
当初の政治の酷い政策が少しずつ是正されてきたのは、一人一人が堪らず声を上げ始めたからだと思っています。
また、仕事関係で会う人たちと今のコロナ禍について話してみて分かったのが、彼らはライブハウスやクラブは元より個人経営の飲食店などが危機的状況にあるのことを殆ど知らないし思い付きもしないということ。
おそらく一般社会においてはそんな人たちが大多数を占めているのでしょう。僕らのようなマイノリティの存在など気付かれもしないし、考慮され補償されるべき対象として思い付きもされない。
僕らは機会があるごとにもっと彼らと話をし今の苦境を伝えていかなければいけないのでしょう。正直中々難しいところもありますが、勇気を持って実行していきたいです。
1.名前と肩書をお願いします。
QUE?ST(けすと)
所属 BLUE PRINT
MC/TRACK MAKER
2.どこで、何をしながら、どんなことを考えていましたか?
最近?ってことすかね?
家や近所でダラダラしながら今後の展望を考えているフリしてました笑。
サブスクで音源配信や通信アプリ活用等、普段面倒でやらない事にチャレンジしてみましたね笑
3.新型コロナウイルスは生活にどのような影響を与えましたか?
普段、教育関係の仕事に携わっています。
全国的な学校の休みに伴い3月半ばより、職場での授業が休講になりました。
4月に一時的に再開をしましたが、緊急事態宣言が全国に発令されたことにより再度授業が休講になり現在も継続している為、仕事はまだ休みの最中です。
音楽的な面で考えれば、出演予定のイベントが中止になり、レギュラーイベントも出来ない状況が続き、いつもお世話になっている県内外の箱も休業をしているのでイベントが出来ない、クラブに行けない事が何より大きく変わりました。
漫画の休刊やアニメ、TVの延期等もfxxxですね。
4.色々なことが制限されているなかで、日々心がけていることはありますか?
何かとネガティブな話題ばかりですが、幸い仕事以外のペースは何も崩れてないと思います。
アプリ、SNSで仲間、友人、自分の生徒達の生存確認は出来るしオンラインの遊び方のスキルを上げようかなと笑。
レギュラーイベント(NEXT GAME)のメンツとZOOMでどうでもいい話をしたりするだけで和んだりするんでそういう事は続けたいし、配信ライブ等に前よりチャレンジしようって気になりました。
あっ主催のZONOが先日パパになりました笑
加えて音楽の制作ペース等には何の影響もないのでこのまま作り続けようと思います。
ダラダラ作ってたBLUE PRINTの音源も仕上げないといけないですね笑。
無駄にポジティブ過ぎて身の丈超えたりする事やるのも違うと思うんで、自分自身がやれる事をやって周りに還元出来たらいいかなって思ってます。
出来なくなった事を嘆くよりは今やれる事をやるしかないと思います。
カッコいい音楽作れたらそれでオッケーです。
あと携帯古過ぎてアプリだったり今何かと便利なアプリが落とせないのでさっさとウチの相方(S-LOW)に携帯変えさせようと思います笑。
あと嫁ちゃんへの感謝を忘れない笑
5.メッセージをお願いします。
自分達の音源がサブスク配信後にNEW音源への期待だったりの嬉しい言葉を沢山もらって上がってます。
その期待を裏切らない音楽つくるのでそれまでは。。。。。
以下を楽しんで待ってて下さいね。
お世話になっている現場NAVAROのコンピレーションアルバムがbandcampとstoresでリリースされてます。
収益はナバロの維持費等に使われるので是非一聴してみて下さい。
色んなスタイラーがナバロにはいるんで様々な音楽に興味をもつきっかけにもして欲しいです。
https://navarokumamoto.bandcamp.com/
https://navaro.stores.jp/
自身のビートアルバムも2タイトルbandcampより出してます。
https://qstjpn.bandcamp.com/music
自分のグループBLUE PRINTのサブスクもチェックよろしくです笑
https://linkco.re/ZT46RtBZ
SOUL NEWS PAPERS
LPM #25
https://youtu.be/Z00bad5DZTE
気負い過ぎず乗り切りましょう。
生きぬくことが大事。...
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[東北の旅] その一
午後八時十五分。土曜の夜だというのに、仙台空港はひっそりしていた。磨かれた白いタイルは汚れ1つなく、天井いっぱいに広がる蛍光灯の光を映し出している。そうか、この空港は震災後に建て直されたばかりなのだ。濁流に囲まれ孤立した仙台空港の写真の残像が、ぱっと頭に浮かぶ。心持ち背中の寂しげなサラリーマンが、案内板を探す私を無表情で追い越して行った。
東北は、今どうなっているのだろう。メディアで目にする現状ではなく、そこに生身の私が出向いたときに、一人の人間としてどのような感情を抱くのか。そんなことを機内の狭いシートに座りながら取り留めもなく考えていたが、正直に言うと全く想像できなかった。少なくとも今降り立ったばかりのこの空港は、明るく寂しい。駅へと繋がるドアが開くと、冷たい空気がぎゅっと身を包んだ。油断していたな、と思いながら急いでショールを引っ張り出す。切符を買い、改札に入り、こぢんまりとしたJRの車両にスーツケースをよいしょと載せて、一息つく。乗客は案の定まばらだ。皆疲れた顔をして、窓から広がる暗闇や車内広告をあてもなく見つめている。電車が滑らかに動き出す。所要時間およそ三十分。バックパックから日記を取り出したが、全て書き終わらないうちに仙台駅に着いてしまった。
何ともなく改札を抜けた途端、身を包む雑踏のざわめきに立ちすくんだ。見覚えのあるいくつもの銘菓の看板、声を張り上げる販売員、華やかに着飾って歩く女子大生、足しげく行き来する観光客、酔うにはまだ早いとでも言いたげな表情で意気揚々と歩くスーツ姿の人々。迷いそうなほどの大きな駅と、道路をまたぐ幾つもの歩道橋。
ネオンの煌めく街中を、ipod上にスクリーンショットした頼りない地図を片手に歩き、なんとかホテルまで辿り着いた。落ち着いた照明と、控えめに聞こえてくるジャズ。丁寧で心地よい重みのあるコンシェルジェの対応に、なぜか家に帰ったかのような安堵感を覚える。意識してはいなかったが、あまり人気のない仙台空港に一人降り立ったとき、実は幾分不安だったのだと今更気付く。当たり前だと思っている物事が当たり前に機能しているという事実が、これほど人を安心させるものなのか。15年ぶりに訪れる仙台の賑やかさに、少しほっとした。
東北にやってきたのは、ある2つのボランティアに参加するためである。どちらも私の関心のある分野にぴったり合うもので、参加する前から良い経験になるであろうことが期待できた。しかし、東北に行くと決めたのは出発のたった1週間前のことだった。諸事情あって、沖縄に帰省する直前の1週間の予定がチャラになったため、本土でextraの1週間ができたという状況。本当を言えば、チャラになったも何も、元から大した予定を立ててはいなかった。自分が何を経験してから帰沖したいのかわからないまま、ずるずるとここまで来てしまったという様。
沖縄に長期帰省するということは、その後そう簡単に本州へは渡れないということを意味する。夏休みも近いこの時期になると、航空運賃は全くもって馬鹿にならない。沖縄に帰る前の期間内で、できる限り本土���経験しておくべきことをし尽くしてこよう。そういうつもりで旅に出た。大学が終了しアメリカで1週間余り過ごした後、ソウル、釜山、東京、千葉、京都、そして大阪で3週間を満喫した。常に誰かが隣にいる旅だったが、ラストの一週間は、もっぱら一人で旅をする予定である。
なぜ東北行きを決めたのか。
具体的なプランを前もって練っていたわけではない。1週間どこにでも行ける、一体何をしよう。日本地図を頭に描いて考えたとき、目に飛び込んできたのが東北だったというのは、当然といえば当然だったかもしれない。東北に足を運ぶということは、まだ見ぬ富士山を訪れるよりも、遥かに優先順位が高い気がした。
震災が起こったのは、高校を卒業して2週間と経たない、ごく普通の金曜日だった。学校が終わらないはずの時間に帰宅指示を受けて飛んで帰ってきた妹は、開口一番に「内地が地震と津波で大変なことになっている」と私に告げた。異様な切迫感に不安を感じながら、テレビのスイッチを入れたのを覚えている。信じられないような映像と流れ続けるテロップを脇目に、どうか生きていてと願いながら、すぐさま友人に安否確認のメールを書いた。泣いてしまいそうな自分が腹立たしく、何1つ助けになることもできずこの上なく平和な日常の中にいる自分が許し難かった。丸3日間、普段は全くテレビを見ない我が家で、家族みんな魂が抜けたように繰り返される悲惨な映像をただただ見つめていた。涙を流さずにはいられない時もあった。お腹が空かなかった。うろうろと部屋を歩き回った。本土に親戚がいるわけでもなく、ほんの少しの揺れもない沖縄にいる私ですらそうだったのだ。被災地は言うまでもなく、日本中の人々は、一体どのような思いであの日々を過ごしたことだろう。
とにかく何かしたい。あれほどにも助けを必要とする人々がいるのに、ここで何もない平和な日常を過ごすことなどできない。そんな思いを持った人々は数えきれないほどいたのだろう。自分に何ができるかと考えたとき、沖縄から現地に行くのは現実的に考えて厳しかった。どこに募金をしようかと色々調べながら、ここだと自分で決めた団体に、貯金から引き出したお金でささやかな送金をした。
ボランティアがだんだんと現地に足を運び始める時期になると、ボランティア迷惑論がメディアを賑わせた。大学生になったばかりの同級生たちは、フェイスブック上に東北ボランティアでの近況報告を書き連ねた。実際に行動を起こしている彼らの姿は少し眩しくもあったが、自己満足的ボランティアを伺わせる何人かの言動に寒気を覚えた。ボランティアをしたいと思っている私自身も、実は所詮そのような自己満足からしか動こうとしないのだろうか、と。なぜ東北に行きたいのか、何をしたいと思っているのかを、正々堂々と人に語ることはできなかった。自分でもはっきりとしない思いを抱えたまま、東北に赴くことなんてできるはずがない。しかしそれを言い訳にして何の行動も起こさないというのも、果たして正しいことなのか。結局、その小さな募金以外に何を実行するでもなく、悶々と結論を先送りする日々を送っていた。
そうして、東北でのボランティアに関することは未解決のまま、私の心の中でくすぶりつづけてた。渡米してからは、そのわだかまりは大きくなっていくばかりだった。タクシードライバーだろうと誰だろうと、日本から来たと告げるだけで、震災で大事な人を失ってはいないかと気遣う。大学の友人たちは、ことあるごとにフクシマはどうなっているんだ、と聞いてくる。トーキョーに遊びに行きたいが水は飲んでもいいのか。君の持ってきたその小豆は本当に食べても良いのか。日本人はこれから原発をどうするつもりなのか。
自分の中での東北への関心が今までとは別の側面から高まっていく一方で、抑え難い沖縄への興味も沸いてきた。興味というより、知らなければならないという義務感とも言えよう。アメリカで勉強する中で気付かされたのは、自分が沖縄人という、マイノリティとしてのアイデンティティを持つ者であるという事実だった。アメリカにおける沖縄の認知度は予想していたより遥かに高く、他大学の日本人学生ともよく基地問題などで議論になった。自分の無知に気付けたのはもちろん良いことだが、それ以上に沖縄の抱える問題について知りたい、知らなければならないという純粋な強い動機が内側から沸き上がってきたことは、自分でも少し意外な出来事だった。
「福島と沖縄って、共通した何かを持っているよね。」Wesleyan大学で核廃絶キャンペーン団体を運営している友人と、夕食に作ったカレーを食べながらそんな話になった。彼は福島や沖縄、旧同和地区などで見られる地方と政府の力関係や搾取をめぐる問題などにも興味があるという。日本における沖縄人というアイデンティティや本土の人間との関係性を意識し始めていた私にとって、その考えは上手く言葉で説明できないながらも納得するものだった。沖縄と福島は、基地を原発を日本政府から押し付けられていると言える。しかし基地から原発から多大な経済利益を得ているのも確か。ハンディと言われもするその2つの特殊な土地に生まれたという事実が(福島は勿論今まではそうではなかったのだが)その土地の人々にどのような影響をもたらしていくのか。明らかに温度の差がある他都道府県の人々に対し、彼らはどのようにしてこの問題に取り組んで行くべきなのか。「福島や沖縄の若い世代に、とてもpossibilityを感じる」という言い方を彼はしていたけれど、私は少しでもその具体的な可能性を探りたくてたまらないと思っている。沖縄の人間として東北の支援に関わることが、何か新しい気付きをもたらさないだろうか、という淡い希望のようなものが沸いてきたのもそんな時だった。
それほどの興味があり、帰沖前に申し分ない一週間が与えられたにも関わらず、ボランティア決定にはなかなか踏み切れなかった。原因は、大抵の問題がそうであるように、自分自身の中にある。
私をためらわせていたのは、第一に「ボランティア=自己満足、偽善」なのではないかという、自分の意志の出どころを疑う心だった。純粋に何かできることをしたいという気持ちに加え、実際に自分の目で見ないことには、日本人としてこれから東北を語ることもできないだろうという思いもあった。しかしこのような社会経験もない大学生が、果たして役に立つ何かを提供できるだろうか。ただ文字通り東北を「見て」きて、手助けのまねごとのようなことをして満足するのではないか。私はもう人様に迷惑をかけかねないほど未熟でないと言い切れるだろうか。そんな否定的な予感ばかりが頭をよぎった。
第二には、自分の用意不足があげられた。たったの一週間前に申し込みを受け入れてくれるものだろうか。心構えも事前勉強もあったもんじゃない。いきなり駆けつけるような気軽さだと受け取られてしまったらどうしよう。何を準備してきたかと聞かれたならば、返す言葉に詰まってしまうだろう。そう思った。
第三に、自己満足のようにみえるボランティアたちの仲間入りをしたくない、という思いがあった。ボランティアが大学の単位として加算されるから参加するという話や、「東北を見てきたぜ」的態度でボランティアをステータス化する者の話、またパッケージツアーのように組まれた商業臭さが漂うボランティアの広告などを、それなりに目にしてきた。準備もできていない大学生である私がボランティアに参加することで、自分もそのような一連の偏ったボランティアに加担してしまうのではないかという、そんな恐れ。
でも、それらはとんだ思い違いだったことがわかった。そのときの私は、自分の傲慢さにまだ気付いていなかったのである。正直に打ち明けると、こう見えて第三の理由が最も私を躊躇させる原因だった(第一と第二の理由が勘違いだったことについては、回を改めて説明する)。しかし、ある人にふとしたことでその悩みを打ち明けたとき、実は自分が大事なものを見ていないということに気付かされたのだった。「そこに足を運ぶだけで既に1つの支援なんだよ。美味しいものを食べてくるだけだって、地元にお金が落ちる。行って、自分の目で見てくることに意味があるんだから。」と彼女は言う。行くという行動自体に意味が在る。よく耳にして頭ではわかっているつもりではあったが、そうやって言われたときには、すっと自分の中で納得するものがあった。そうだ、例えそれが1ミリほどの小さな変化の可能性にすぎないのだとしても、私が現地に行かずに今までと同じようにこの場所に座りつづけていたら、何一つ起こらないのだ、と。人が何を言おうとどう判断しようともその事実は変わらないのだ、と。偽善的(と私が受け取ってしまうような)ボランティアの仲間���なりたくないということは、自分の行いが他人から偽善的だと思われたくない、という見栄でしかなかった。結局、自分が他人からどうジャッジされるのかを気にしていただけだった。
動機か結果か。カントやヘーゲルの言葉がふと頭をよぎる。しかし、例え偽善と見られようとも、本当は偽善だったのだと後で判明するとしても、自分がそうではないと信じていながら実際に行動を起こすのならば、動機も結果をも恐れて何もせずにじっと動かないでいるより遥かにいいのではないかと思えた。人の目を気にするがために、飛行機一本で行ける東北にさえ出向けないなんて、情けない。よし、またとない機会なのだから、この際行って見てこよう。私にできるかぎりのことをしてみよう。そこから振り返って悩んで、動き始めていけばいい。
やっとのことで決心がつくと、すぐに航空券を予約し、何時間もパソコンに張り付いて、片っ端から復興庁のサイトにあるボランティア団体のリストをチェックした。宿の手配。交通手段の確保。担当の方々への連絡。とんとん拍子で準備が進んだ。
以前家族旅行で東北を訪れたのは、わずか5歳のときだった。今回仙台に到着した翌朝、小さな電車を乗り継いで向かった先は、石巻市の万石浦。旅も終盤になったころ偶然判明したのだが、そこは保育園生だった私のわずかな記憶に残っている、バウティスタ号という船を見た思い出の場所だった。何も知らないままこの地でボランティアすることを選んだというのも、何かの御縁があったからだろうかと思うと面白い。
そういう訳で、2013年6月1日、仙台市にて私の6日間にわたる宮城県での旅が始まった。ホテルから見える仙台の夜は、何年も前からそのままだったかのように、明るく輝き続けていた。
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「株式会社」の3つの致命的欠陥
こんにちは。
ダイヤモンドメディア株式会社の武井浩三です。
いきなりですがここ数年、「株式会社」というモノ自体を研究していました。色々文献を読んだり法律を紐解いたり、でも一番は思考実験で、頭のなかで色んなパターンを試すのが、僕の好きな方法です。
自然の摂理に反しない、それが僕の理想の企業。
すべての人が理想の企業で理想の仕事ができる。それが僕の理想の社会。
最近は「フリーランス」や「ノマド」のような働き方が増えているので、世の論調の中には「会社という組織自体が不必要になるのではないか?」という意見も見受けられます。全部プロジェクト制にしちゃえばいいじゃん!的に。
でもボク個人の今のところの意見としては、会社というものはやっぱり意味があると思います。それは共同体と言うものが、「共有資産の永続的保有」と「そこから生み出される富の公平な分配」という側面で、個人の能力を超えるからです。
そもそも社会の近代化は、1800年頃の「私有財産権の確立」から始まりました。そして「資本市場」が生まれて「科学的合理性向上による経済の成長」があって、「輸送・通信技術の発展」により「民主化」が進んできている(今はまだ通信と民主化の過渡期)。
つまり個人の財産を国や他人が侵害できない、というものが経済発展の一番の土台にあるのです。そして会社のような法人は人格を持つ共同体であり、資産を保有することが出来ます。法人に物理的な寿命はありません。だから個人よりも優れている。
と、まあ、「前提として法人が必要」という説明に結構な文量を割いちゃいましたが、その上でこれから「株式会社の致命的な欠陥」を説明したいと思います。
「株式会社」は歴史上最も優れた組織形態
株式会社の欠陥を説明するのに、最も優れたって、どういうことやねん?って感じですが(笑)、今現在存在する共同体の形としては、機能的に株式会社は最も優れていると思います。
社団法人、NPO、合同会社、LLPなど、法的に登記できる法人格は沢山あります。それ以外にも例えば、マンション管理組合のように、組合というものも自由に組成することが出来ます。組合は法人ではありませんが、任意の共同体です。そして合同会社やLLPよりも、機能的に株式会社が優れているのは、会社が3つの分業で成り立っているからです。
「労働」「経営」「所有」
この3つの分業によりダイナミズムが生まれ、一緒くたの時にはできなかったようなことが出来るようになります。例えば外部からお金を調達する、とか。
分業はダイナミズムを生みます。分業により経済が生まれて貨幣が生まれた訳で、分業は間違いなく良いことです。でもその分業が昨今の企業の凋落や不祥事を生み出してしまっている。このパラドックス。これを3つの観点から説明します。
あ、説明と言っても武井の持論なので、合っているかどうかは分かりませんし、厳密であることが重要だとも思っていません。僕は学者ではないので。なのでお取り扱いは個人の責任でお願い致します(適当でスミマセン)。
1. 情報の透明性が担保されていない
株式会社を規定する法律を「会社法」と言いますが、草案は明治時代に生まれて、2006年から今のような1円でも設立できるような形になりました。不動産の借家法とかもそうですけど、戦後間もない頃に、だいたいの法律の元となるモノが作られています。
でもその頃って、インターネット、無いよね・・・
会社法にはアナログで出来る範囲のことしか、法律で規定されていません。会社内部の情報をデータ化して共有するということを法律で担保していません。
ホラクラシーに最も必要なのは情報の透明性です。情報によって個と個が繋がって一体化します。「労働」と「経営」と「所有」を一体化させるためには情報の透明性が絶対的に必要不可欠。昔はよく「経営者は孤独」とか言われてましたが、私の知人のホラクラ系経営者達は「経営者は孤独」の意味がわからないと、みんな口を揃えて言います。
そういうことなんです。では次。
2. 意思決定の方法が多数決
会社法に規定されている意思決定は、全て多数決です。取締役会、株主総会、すべての最終意思決定は多数決で決まることになっています。
多数決とは、ビフォアーインターネット時代の意思決定の方法です。しょうがないから多数決で「えいや!」って決めていた。決めざるをえなかった。
セブンイレブンの前社長、鈴木さんの解任の時なんか、取締役会での多数決が「7票対8票」の1票差で解任が決まったらしいです。2万店舗もあって、従業員さんや関係各社、取引先なんかを含めると、おそらく数十万人。顧客を含めたら数千万人というステークホルダーがいる一流企業の、超重要な決定を多数決で決めちゃう。これどうなの?
僕がセブンの正社員だったらキレますね。もっと話し合え!と。
でも法律が、会社にこうさせちゃってるんですよね。これは会社の問題ではなく法律の問題。社会構造の問題なんです。
多数決とはマジョリティを取って意思決定します。マイノリティを切り捨てます。でも「リーダーシップ」って、常にマイノリティなんです。だってそうでしょ?誰もがわかっている事だったら、リーダー自体必要ないですから。
つまり、組織内で多数決を繰り返すと、組織からリーダーシップが失われていきます。そして官僚化が進みます。権力の奪い合いが始まります。派閥が生まれます。株の議決権争いのことをプロキシーファイトって言いますけど、今はその方法でしか既得権益に立ち向かえないからしょうがなくやっている。やらざるを得ない。これは明らかに法整備の歪から生まれていますね。
多数決の究極は政治システムですよね。
武井個人は、政治家の知り合いもボチボチおりますし、ほとんどの方が人格的にも能力的にも素晴らしいと、本気で感じているのですが、僕はやっぱり政治のシステムが好きになれません。多数決だから。
ホラクラシーには「意思決定機関」というものが存在しません。無くても意思決定できる人、すべき人が勝手に意思決定して進んでいくから。それでいて全体の調和が取れる。ヒエラルキーの場合、部分を変えると全体調和のために一度トップまで戻らないといけないんですね。稟議みたいな感じで。
ちょっと話が膨らみすぎてしまったので戻しましょう。では最後に3つ目。
3. 株式会社は刑事責任を取れない
これも法律的な問題です。
株式会社は人格を持っています。民事責任は取れます。でも刑事責任を取れないのです。だから会社はモラルハザードを起こしてしまうんです。言い換えると、倫理や道徳に反することをした方が会社は儲かってしまう、ということ。
過去に三菱自動車がリコールすべき問題を隠し続けて、それが原因で若い母親が亡くなってしまったという悲劇がありました。
もちろん三菱自動車は金銭的賠償をたんまりしたと思います。でもそれは民事の話。
刑事の面で、どんな処罰があったと思います?
例えばトラックの運転手が居眠りとかで事故を起こしてしまい、人が亡くなってしまった場合は「業務上過失致死」として、かなり重い刑事責任を問われますよね?
この三菱自動車のケースでは、問題を隠し続けた役員達に対して、「罰金20万円」が課されました。20万円ですよ。詳細は異なるかもしれませんが、人が亡くなっているのに、こんな程度の罰金刑なんです。
会社としてはこっちのほうが儲かっちゃうんですよね。
なんだったら、この責任をだれか一個人の役職者とかに押し付けて、トカゲの尻尾切りのように首を切ってしまえば問題解決ですよ。
いやいやいや。
責任は個人ではなく、法人に帰すべきですよ。法人として起こした事件ですから。でもそれは会社が悪いんじゃなくて、法律の不備なんですよね。だから根が深い。
最後に
ヒートアップしちゃってすみません。でも、こういう構造的な問題に目を向けて、構造自体をリデザインしないことには、世の中良くならないんですよ。だから僕は声を大にして言いたい。
そして法律の問題とも言いましたけど、そもそも法律で全てをカバー出来るとも思っていないし、すべきだとも思っていません。
法律には「自然法」と「実定法」がありますが、制定されている���律で全てを網羅できるはずもないから「自然法」があり「倫理」や「道徳」があります。組織や個人が、無理せずに自然とこの「自然法」に則って営んでいける社会システムが求められているのが、今の変革の世だと思います。
我々は今の資本主義を否定していません。しかし進化する時だと切実に感じています。そして我々がフロンティア精神を持って、新しい法人組織を描いていこうと思っています。だから失敗もあるけどw
次回のブログでは、ダイヤモンドメディアのこの自然法に基づいた経営システム、組織デザインの最新の取り組みをご紹介しようと思います。
今回はこれでオシマイ!
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「安倍政権による強権的な国会運営と説明責任の放棄に対する声明」発表記者会見の模様
先日(2017年6月26日)に行いました「安倍政権による強権的な国会運営と説明責任の放棄に対する声明」発表記者会見のやりとりの模様を以下に掲載します。
※出席者のチェックを経た上での掲載となっております。
日時:2017年6月26日(月)15時30分~16時30分
会場:参議院議員会館B101会議室
出席者:山口二郎(法政大学・政治学)、石川健治(東京大学・憲法学)、西谷修(立教大学・哲学)
山口二郎(法政大学・政治学)
それでは、時間になりましたので、記者発表を始めたいと思います。本日は、お忙しいなかを集まっていただきまして有難うございます。私はこの会の共同代表をしております、法政大学、政治学の山口です。通常国会が閉幕しましたが、いろんな意味で、議会政治、民主政治を破壊するような出来事が次々と起こりまして、わたくしたち立憲デモクラシーの会としても、何等かの見解を出さなければならないという共通了解を持ちました。メンバーのなかでメールを通していろんな議論をしまして、今、お配りしたような声明をまとめました。今日は、その発表であります。それでは、この声明を読み上げたいと思います。
「安倍政権による強権的な国会運営と説明責任の放棄対する声明」
山口
では、今日出席のメンバー、まず西谷さんからコメントをお願いしたいと思います。
西谷修(立教大学・哲学)
ちょっと今日はメンバーが少ないんですけれども、この声明そのものは、いろんな人たちの意見を加味して、ここには名簿がありませんが、呼びかけ人60数人が加わるかたちで作成しております。ということで、とても私などではその皆さんを代表するには心もとないんですが、私のつけ加えるべきことを少し述べさせていただきます。
実は、共謀罪の法律そのものについては、これが民主政治にとっていかに危険な法律であるかということとか、すでに三回も廃案になったうえで、また出てきたとか、国際社会からも危惧が示されているといったこと等については、もう批判は十分出ています。それが最後に強行採決されたということについても各所から抗議声明が出ています。それにさらに重ねて、われわれが今日、国会が閉じたこの時期に声明を出そうとしたのには、二つ意図があります。一つは、やはりこの事態を立憲デモクラシーの会として座視してすますことはできないだろうということ。われわれの会は、立憲主義、つまり憲法を立て、それに準拠して作られた法体系のもとに社会が運営されるという考え方ですね、それと、それを民意によって、政治のなかに実現していく、これが、デモクラシーですけども、そういうものを軸にして考えようというこの会が、今回の声明のなかにもあったような、「国会崩壊」とも言うべき事態を、やはり座視することはできないということです。もはや国会が議論の場としての体をなさず、政府は説明責任を負おうとしない、そんな状態の中で共謀罪を通してしまう。そして、次々と浮上する疑惑の追及も切り捨てるようにして国会を閉め、かつ国民の耳目をつぎに移そうとして改憲アジェンダをまで設定してくる。そういうことが、この日本の社会で実際に起こっているわけです。そのこと自体が、実はとんでもないことだということを、はっきりわれわれは打ち出して、そのことに関して警鐘を鳴らしていかないといけない、そう考えたからです。
それともう一つは、とりわけこういう会を設けて、例えば、立憲デモクラシーの会がここで意見を公表するということは、メディアの皆さん方を通して、この危機感を社会化していく、こういう見方を社会化していきたいという試みなわけです。だから、メディアの皆さん方がいなければ、われわれのこのような働きかけ、呼びかけというのは一切意味がないわけです。にもかかわらず、そのメディアの方がたに、私たちは多くの語りたいことがある。
メディアというのは媒介です。たとえば、われわれと社会一般との媒介ということです���れども、その媒介を担う人たちに、むしろ語りかけたい。というのは、最近の一番のトピックと言いますか、それは市川海老蔵さんのご夫人が亡くなって、海老蔵さんが会見をしたことではなくて、前文部次官の前川喜平さんが、あらゆる障害を押して、公務員の鏡とも言うべき責任感と勇気をもって、この間の文科省が関わった事態について会見を行われたわけです。その前川さんの会見のなかで、前川さんがとくに強調されたのは、現代の日本の社会の「メディアと権力」との関係ということでした。メディアはいま権力の言うことをそのまま伝えたり、あるいは今の権力のふるまいを論評なしに伝えている。そして権力がいろんなかたちでメディアに圧力をかけ、メディアをコントロールしている。そういうなかで、発言していくということの困難さと危険のようなものを前川さんは強調しておられた。
私なども常々思っていることですが、この間に何か起こったかというと、声明の3節目あたりでふれていますが、まず自衛隊の日報をめぐる問題が起きます。それを稲田防衛大臣がきちっと把握していなかったとか。そして、軍事を預かる政治家としての資質、あるいは大臣としての資質が問題になる。これは大問題なんですけれども、ともかく官邸は「問題ない」として逃げ切り答弁でごまかし、稲田大臣は責任もとらずにそのまま職にとどまるわけですね。そこに森友学園問題が出てくる。それによって、今の政権が行っている政治の実態の一端が露見してくる。お仲間優遇の権力私物化、それも安倍晋三記念小学院というわけですが、知らぬ存ぜぬ、書類はなし、でそのこと自体が問題になってくると、今度は、わざわざ今やらなくてもいい、そしてとてつもない悪法と言われる共謀罪というのを国会に出してくるわけです。もっと大きな土石流を作って状況を押し流すというやり方です。そうすると、世間の目がそちらに移ります。そしてその共謀罪のまったく不誠実な審議を通そうとしているときに、加計問題が出てきて、さらに混乱してくる。
すると政権は横合いからさらに大きな決壊を引き起こしてきます。それが新手の改憲の具体的テーマと日程です。そしてその大きな決壊が、いままでの土石流を飲み込むようにして、これもはっきり言っていいと思いますが、国会で言ったことでも何でもなく、わざわざ読売新聞を通して発表したそれが、今の日本の政治のアジェンダになってしまうのです。そうすると、2020年のオリンピックまでに憲法改正をやるということは既成事実であるかのように扱われ始めます。こういうふうにして、毒に対してさらに大きな毒を、あるいは事故に対してさらに大きな事故をかぶせ、大きな濁流を作ってしまう。これが「戦後レジームからの脱却」というか、「戦後レジーム撤去」という例の路線の貫徹ですよね。こういうことが起こっているのに、そんなふうには報道されない。一つ一つ微視的に、「ここにがけ崩れ何トン、今度はこちらに」とか、そんなことだけしか報道されないわけです。
だから、メディアは一体何をしているのかというふうに、われわれは思わざるを得ない。そういうことを、今の政権はなんと言うかというと、「岩盤規制の突破」と言うわけです。つまり「戦後レジーム」というのは彼らにとって、壊せない岩盤だったんですね。それを次から次へと大きなドリルの歯を持ってきて、次々に崩しながら突破する。これがアベノミクスの新兵器、これで経済を活性化するんだというかたちでやるわけです。そして、国会に関しても、何時間審議したから「これはもう決めていいんだ」「これが決められる政治」とか言って「決断力」を売りにする。こういうのをまさに「ポスト・トゥルース」の時代というんですけれども。
民主主義社会で、メディアの最大の役割は何かというと、権力の振舞いを見えるようにすることです。ただ伝えるのではなく、批判的に事実を評価しながら語り下ろしてみんなに見せる、それがメディアの役割のはずです。選挙で議席は決まります。議席が決まって、委託を受けたとされる権力ができる。そうしたらその権力のやることは常に監視しなきゃいけない。そして、ひどいことをしたら規制もしなきゃいけない。その規制のためには、警察があり、司法があります。ところが、この警察・司法も今の政権下ではどうなっているか。皆さんご存知ですよね。とりわけ一番ひどいのは、官邸に近い記者が、とんでもない犯罪を犯しても、警察の上層部を使って不起訴にしているわけです。このことは、大メディアは報道したがりませんね。誰でも知っている大問題なのに。でも、それが素通りされてしまうというのが日本の今のメディア状況です。
だから、こういう事態の下で、メディアの役割というものをしっかり考えてほしい。今メディアが動かなかったら、日本の状況は変わらないでしょう。国会を吹っ飛ばして、国会を空洞化して、次から次へとさきほど言ったような「岩盤突破」が行われていく。それが何事でもないかのように扱われて、おそらく10年後に「あのとき、私たちがこうしていれば」とは言ってほしくない。10年後に反省してもらっても遅いんです。ということで、こういう機会を作ることで、メディアの方がたにも考えていただきたい。そして、なかなか表に出にくい、あるいは大きな声になりにくい声の媒介を、メディアの方がたにお願いしたい、そういう��いもあって、小さい形ですけれどもあえて会見を設定したということです。
石川健治(東京大学・憲法学)
現状における国会運営についてさまざまな見方が可能だと思いますけれども、立憲デモクラシーの会として発信しなければならない問題というのは、例えば共謀罪なら共謀罪、その他個別の論点についての賛否を越えて、立憲デモクラシーがすでに破壊されているという事態に、警鐘を発することなのではないかと。これが少なくとも最低限の要請だろうと、わたくしは受け止めてここにおります。
立憲主義というものの定義はなかなか難しいのですけれども、例えば、戦前の標準解答は何だったのかというと、自由主義と、民主主義と、そして責任主義の三点から構成される考え方、という定義でした。人によって力点は違いますけれども、一番大事なことはこのうち責任主義だったんですね。立憲主義が自由主義であるということは自明のことなんですが、しかしこの立憲主義と民主主義というものを、どう向き合わせるかというのはなかなか難問で、大正政変以降、日本の憲法学はこの問題に取り組むことになったわけですが、そのなかで出した答えは、責任主義というものを梃子にして、自由主義と民主主義をつなぐ、言い換えれば、立憲主義とデモクラシーをつなぐと、こういう発想だったわけです。立憲デモクラシーは、つまるところ、責任政治なのです。
この「責任」政治という場合の責任は、まず何よりも、国会を媒介とする「政治(的)責任」です。それに加えて、先ほど西谷さんがメディアの話をしていましたけれども、メディアが発達するなかで、メディアを媒介とする「社会的責任」というものも発生すると観念されていました。これは直接には、当時の日本の憲法学者が参照した、ドイツの議論がそう言っていたわけなんです。国会という媒介(メディア)を通じて現れる政治責任とは別に、当時は新聞紙でしたけれども、新聞紙をはじめとするメディアを通じて発生する社会的責任というのがあるんだ。そして、政府は、国民に対して、政治的責任だけでなく、社会的責任を負っている。そういうことを言っていました。それらを視野に入れたうえで、広い意味で責任主義ということを戦前日本の憲法学者は語っていて、これが立憲主義の、現在でも最低限の要請なんだろうと思います。
この責任主義の第一歩というのは、問責方法としての「質問」と、それに対する「説明」責任です。この責任主義のいわばアルファは、この質問とそれに対する説明なんですね。これに対して、オメガとなるのは、最終的には問責方法としての不信任決議と、それに対して連帯しての総辞職という対応になるわけですが、そういう広いスペクトラムのなかで責任というものが発生していると。その責任主義を梃子にして初めて、立憲主義とデモクラシーを結びつけるというのが、戦前の標準回答だったと、こういうことなんです。
この物差しを今あてはめてみると、何が起こっているかというと、まさに責任主義の消失ということなのではないかと思うわけなんですね。責任の、とりわけ政治責任の第一歩は説明責任であるわけですけれども、質問に対して説明をしない。そもそも、「国会を開いているとろくなことがないので、早めに閉じてしまおう」と。これはまさに、説明責任の放棄であるわけですが、この説明責任の放棄ということは責任主義の放棄であり、結局、立憲主義の放棄につながっている。この問題はやはり、ここで強調していく必要があると思うんですね。
ですから、それぞれの法案に対する個別の立場はあるでしょうけれども、こうやって、本来国会で説明しなければならないのを、読売新聞へのインタビュー記事で済ませるとか、あるいは十分な審議が尽くされていないにも関わらず、説明しないまま先へ進めてしまう、という顕著な現象が現れているわけで、これは説明責任の否定であり放棄であって、結局これは責任主義の放棄であり、立憲主義の放棄につながっている。こういうつながりでぜひ捉えていただきたいというのが、第一にここで申し上げたいことです。
そうなると、立憲主義の危機そのものであるということがご理解いただけると思いますが、先ほどのいわば戦前の説明をここで当てはめますと、現在は国会が閉じてしまいましたので、改めて臨時国会が始まれば政治責任の世界になりますが、政治責任の世界から社会的責任の世界へと、アリーナが移行しつつあるという状況なんだと思います。そこで、先ほどの西谷さんのご発言が生きるんだと思いますが、ここからはやはりメディアが勝負というところになるんじゃないかと思うんですね。
十分に社会的責任を、とりわけ説明責任をメディアに向けて果たしているかどうかということを、ぜひ質問していただきたい。国会における質問に対する説明という政治的責任のアリーナから、これからはメディアを通じた社会的責任のアリーナに移っていこうとしているのではないかということで、とりわけその点は皆様方にお願いをしておきたいというのがございます。これが二点目に申し上げたいことであります。そういう社会的責任のアリーナであり、国会とは違うもう一つの媒体として、これからはぜひ、メディアの皆様に期待するところが大きいと。そして、そこも突き破られてしまうということになりますと、まさに立憲主義の土俵際ということになってしまいますので、ぜひその点は、そういう社会的責任のアリーナとして報道していただきたいということを、お願い申し上げておきたいと思います。
三つ目ですけれども、「民意」というもののあり方について、一言申し上げておきたいと思います。国会というのは、確かに民意の媒体、しかも公式の媒体ではあるわけですが、しかしそれが正しい意味で民意なのか。あるいは、正しい意味で国民代表になっているのかという、その論じ方については熟考を要するのではないかと思います。この点は、あえて戦前でもそうだったという話をさせていただきますが、1934年に宮澤俊義という憲法学者が出した論文のなかで、国民代表の概念を扱ったものがあります。
当時、宮澤先生の師匠の美濃部達吉は、帝国議会を代表機関であるというふうに言いまして、帝国議会を通じて民意が現れる、言いかえれば、帝国議会の外にいる群衆というのは民意ではないのだ、という議論をしていたんですね。帝国議会は何のためにあるのかというと、民意をつくるためにあるんだと。代表機関であると。こういうふうに説明をしていたわけです。
しかし、これに対して弟子の宮澤先生は批判をいたしまして、それは現実には民意でもなんでもないものを民意であると呼ぶことによって、支配者に奉仕をする議論になっているということを言って、師匠の美濃部達吉を批判したわけです。
この際に参照していたのは、カール・マンハイムという社会学者の議論なんですね。『イデオロギーとユートピア』という本の名前をどこかで聞いたことがあるのではないかと思いますが、それを宮澤先生はよく読んでおられまして、現に帝国議会が国民代表だと言ってしまうと、これは支配者の利益になる。ごく限られた少数の支配者の支配に過ぎないものを覆い隠す、イデオロギーになってしまうだろうということを述べたわけですね。しかし、これがイデオロギーにしか過ぎないのだということを明らかにし、それをこれから目指すべき理想に転化をすれば、それは被支配者、民衆の利益になるんだということをおっしゃった。
これは現在でも有効な議論だと思うんです。現に国会が民意そのものだということはあり得ない。近似的に民意だということはありますが、民意そのものであるということはあり得ないわけで、それを現に民意そのものだと言ってしまえば、現に権力を握っている人間の利益になる。しかし、これから目指すべき民意というのが、まだこの先にあるのだということになれば、「民意」は民衆の利益になる、被支配者の利益になるという議論をなさっていたわけです。
どうも最近気になりますのは、「国会で与党が多数をとっているのは民意なんだから」という論調です。確かに、美濃部ふうに、公式の民意であると言ってもいいんですけれども、ことさらに「民意なんだから、民意なんだから」ということによって、誰の利益になっているのか。端的に言うと、現に権力を握っている官邸の利益になっているということなんですね。ここは、とりわけ民意のもう一つの媒体としてのメディアの皆さんには、よくよく考えていただきたいと思います。
現にそこに民意があると言ってしまえば、それは官邸の利益になるイデオロギーです。ただでさえ強い官邸を、これ以上強くすることはないでしょう。そうではなくて、「民意」をここから目指すべき理想に転化するような、そんな議論の仕方。国会とは違う、もう一つの民意の媒体を握っておられる皆さん方であるだけに、それを追求していただきたい。「民意」はこれから接近すべき理想だというイメージで、この先にある「民意」を、ぜひ報道していただきたい。民意が現にこうだからと決めつけると、結局は官邸の利益になる、そういう議論をしていることになるのだということを、この宮澤先生の着想からぜひ汲み取っていただきたいというふうに申し上げて、さしあたりわたくしの話は終わらせていただきたいと思います。
山口二郎(法政大学・政治学)
わたくしからも一言。今、思っていることは、近代的国家から家産制国家への逆行であると、私はあちこちで書いています。家産制というのは、家の財産と書きます。要するに、法の支配が確立する前、家産制の国家というのは、要するに国家において公と私の区別がない。国は権力者の私物である。権力も、権力者の私物である。だから、私的な利益のために使うのは当たり前。これが家産制国家なんですね。もう一つ、家産制国家における官僚、家産官僚というのは身分的な従属関係。だから為政者、権力者が黒を白と言ったら、官僚も黒を白と言わなきゃいけない。これが家産制です。マックス・ウェーバー等、いろんな学者が説明していますけれども、近代国家というのは権力を持つ人の個人的な意図とか恣意とか利害というものと公の権力の運用、公の財産の処分の仕方などをはっきり区別する。それから役人、官僚は、法に従って仕事をする。身分的な従属関係ではない。法に従う限りにおいて上司の命令を受ける。こういう概念で近代国家というのを説明したわけですけれども、安倍政権はいわば家産制国家に逆行を起こしている。森友、加計問題というのは、要するに財産や権限を私的な目的のために、えこひいきのために使う。さらに役人は為政者の指示ないし忖度によって、公文書を廃棄し、あったことをなかったことにする。こういう現象ですね。そのなかで前川さんたちがやったことは、自分たちは近代官僚であって法に従って仕事をしている。為政者に身分的に服従する存在ではないということを言いたかったわけだろうと思います。だからこれはもう本当に、深刻な病理であるということです。
もう一つ。やはり、議論に対するニヒリズムというのがここまでひどくなると、これはもう議会政治の否定である。つまり、国会の質問というのは、何の意味があるのかと言ったらやっぱり意味があるんです。国会で法律を所管する担当官庁の責任者が、さまざまな答弁をするということは、その法の運用について非常に大きな影響を残すわけですから、とりわけ委員会審議って大事ですよね。ところが中間報告という手法で、参議院の委員会審議を途中で打ち切り、採決もせず、本会議で可決をするというのは、国会自身が国会における議論の意味を否定したということです。これは国会の自殺としか言いようがない現象だと思います。ということで、ちょっと何とも形容のしがたい議会政治、立憲主義の崩壊現象を目の当たりにして、大変な危機感を持っているということであります。
山口:石川さん、53条にもとづく臨時国会の開会の要求について、政府は応えなくてもいいのかという憲法上の論点について、まず解説をお願いできますか。
石川:これは2015年の秋にも起こったことですので、釈迦に説法の話になってしまうかもしれませんけれども、一応お話させていただきます。
まず内閣が、臨時会の召集決定権を持っているということ。これは、53条に書いてあるわけです。ただ、前段は「決定することができる」というかたちで書いてありますので、臨時会を開くこともできるし、開かないこともできるということなのです。けれども後段に、今、山口さんがご指摘のように、「いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない」、という義務づけの規定になっているということです。義務づけがあるということ、ここが非常に大事なわけですね。
これが何を意味しているかというと、もし国会の召集決定権を内閣に完全に委ねてしまうと、結局、国会の活動能力が内閣によって左右されることになってしまいますので、そこで、国会が自ら立ちあがれるようにしておこうということです。いわゆる他律型ではなく自律型を加味した国会をつくろうということです。さらに加えて、要件が4分の1ということ、これがポイントなんですね。
法律で4分の1の要件を書くことって、非常に珍しいんです。例えば、会社法関係だと大抵3分の1なんです。わたくしの親しい友人で、あえて名前は伏せておきますが、いわゆる4大事務所の1つにお勤めの大弁護士がおられまして。その方のお嬢さんがパパに「臨時会というのは、それぞれの議院の総議員の何分の1の要求で、内閣が召集しないといけなくなるんでしたっけ」ときいたら、パパは自信を持って「3分の1」と答えてしまって権威を失ったと。それから、娘は二度と憲法や法律のことをきいてくれなくなったと、大弁護士は言っていましたけれども。
ことほど左様に3分の1が多くて、4分の1は珍しい。4分の1というのはどういうことかというと、マイノリティにイニシアティヴがあるということなんです。少数派の会派であっても、国会の召集を要求できるんだ、というのがポイントなんですね。普通の要件よりもハードルを下げてある。しかも、衆参どちらかの少数派の会派の要求がありさえすれば、充分なのであって、それで内閣は国会の召集を決定することを義務づけられる。これが憲法の意図であるわけですね。
ですから、この義務づけは、非常に重大な意味を持っている。それにもかかわらず、安倍内閣は、あの安保法制の2015年に、義務づけられているにも関わらず、とうとう召集しなかったというかたちで、憲法を破った実績を持っている内閣であるということですね。ですから、お二方がおっしゃっていますように、立憲主義や議会主義の崩壊のプロセスは、確実に着実に進んでいて、今日さらに進行しているという様がよくわかると思うんです。それだけに今回は、何が何でも要求をして、要求に従って臨時会を開いてもらわなければいけないと、こういう理屈になるというわけです。
【質疑応答】
質問1:今日の声明は国会に関するものですが、国会の外では安倍さんやその周りの人たちが憲法改正に向かってアクセルをふかしているという状況だと思います。他方でこの件については、それほど物事を考え詰めて発言されているとも思えない面があり、関係者のなかからも「今、想定されている改憲には緊急性もなければ、大きな必要性もない」という声が聴こえてきて、何を考えているのかがわからないところがあります。他方で首相は読売新聞の最初のインタビューで、自衛隊について「合憲化」という言葉を使っており、それはつまり「違憲」の存在だと考えているという節があります。そのあたり、議論の仕方が乱暴だと思われるのですが、石川先生はそのあたりをどのようにお考えでしょうか。
石川:まず迂遠なようですけど、先程の補足でもありお答えの前提にもなる話を二、三させていただいた上で、ご質問にお答えしたいと思います。
まず、第1は、これは先ほど申し上げたことの繰り返しですけれども、さまざまな見解が対立するなかで、すべての立場にとって共通の前提条件が損なわれようとしている、ということを、ここでも強調したい。
例えば加計問題は、ともすれば、岩盤規制や特区制度の是非に関する話に、論点をずらされてしまっているわけですが、是か非かどちらの立場に立つにしても、これでいいはずがないというところの仕組みが壊されているし、前川さんもその部分を訴えようとして出てきているんだと思います。
彼も、もちろん私的な利害をお持ちですから、ご自身の個人的利害や古巣の文部省の省益も関係があるのでしょうけれども、しかし、そのご自身や文科省の利害を越えたところで問題を出しておられるように、思われます。われわれも岩盤規制がいいんだとか、あるいは特区制度がけしからんのだということを、ここで言っているわけではなくて、それらに対する賛否を越えたところで、問題が起こっていると考えていただく必要がある、ということです。
ですから、ご質問についても、個別問題の賛否の論点に矮小化しないように議論をしていきたい、ということを、まず申し上げておきたいと思います。そうでないと、論点がずらされてしまいます。
それから、第2の問題として、改憲提案の性急さにも現れているように、決定にかかる時間的コストの問題を、関係者が真面目に考えていないということの問題性を、指摘しておく必要があると思います。
多数決でいいのであれば、これは頭数を数えれば、時間をかけずにたちどころに問題は決するわけですよ。ですから、審議時間を問題にするというのは、別のところに本来のねらいがあったはずです。それは結局、コンセンサスとか合意であるわけで、多数派と少数派が歩み寄って合意を目指すというデモクラシーが、本来、日本のデモクラシーだったわけですね。
そして、合意を目指すためには、時間的コストがかかる。だからこそ、審議時間が問題になっていったというのが、本来だったと思うんです。けれども、現在、その審議時間に関する問題意識が完全に形骸化、形式化していて、ただ単に時間をかければいいという話になっている。最初から歩み寄るつもりがない。だからもう、共謀罪についても、待ちきれずに多数決ということになるわけで、あえて時間的コストをかけることの意義に対する思いというのが薄い国会になったな、という印象があります。ここにもやはり、これまでの議会制の変質というのを、見てとれるのではないかということを申し上げておきたいと思います。
そして、第3に、ご質問の前半に緊急性の有無に言及されたことに関連して、今後の憲法改正論議のなかで、緊急事態条項の話が蒸し返しになる可能性がないとは言えませんので、これについても一言申し上げておきたいのです。かねてわれわれが緊急事態条項を批判してきたのは、「緊急事態が起こらない」ということを主張しようとしていたからではなくて、客観的に言って緊急事態というのは起こりうるけれども、問題はそれを誰が判断するかであり、ここで緊急事態を主観的に判断する資格を内閣総理大臣に与えることの是非でした。
今回の国会で一つ明らかになったのは、やはりこういうかたちで緊急事態の判断を主観化するということについて、危機感を持たなければいけないな、という問題です。本日の声明のなかでも問題にしていますけれども、委員会採決を省略して、中間報告をさせて一気に本会議で可決という、この手続きを採るためには緊急事態があることが前提なわけですね。いまそこに危機があるという判断を、官邸が主観的にしたからこそ、政権与党が牛耳る議院が委員長に中間報告だけさせて委員会への付託を打ち切ったわけですが、果たしてこの共謀罪の制定の、どこに緊急性があったのか。少なくとも、今日の明日にも何か起こるという状況には、まったくないことが明らかで、緊急性があったとすれば、加計問題を抱える官邸が緊急事態だったという、自己都合だけですね。
こういうことになるのであれば、なおさら憲法に緊急事態条項をつくって、緊急性の判断を委ねるわけにいかない、ということになりはしないか。これぞまさしく、「立憲デモクラシーの会」的な危惧を抱かされる、そういう事態を目の当たりにしました。そのことも考慮に入れて、ご質問の9条をめぐる憲法改正について、お答えしたいと思います。この論点は、今日の声明の本題とは違いますし、すでに前回の記者会見で取り上げたばかりですので、あまり重複感がないように話したいですから。
で、その折に、「なぜ今、憲法改正をしなければいけないのか、それは必要不可欠なのか」、ということを厳しく衝いてゆけば、改憲の本当の動機は、ほかのところにあることが、あぶり出されてくる、という話をいたしましたね。実際、「いま本当に必要なのか」というふうに執拗に問い詰めれば、本当に今すぐやらなければいけないというわけでもない、ということが明らかになるはずなんですよね。現状と何も変わらないと、安倍さんご自身がおっしゃっているわけですから。すぐにでも改憲しなければいけないという緊急性はないと、自白しておられるわけです。
先程は、共謀罪に関する委員会審議の省略に関連して、本当は緊急事態がないにもかかわらず、緊急性があるかのようなふりをして、加計問題に幕を引くという隠された動機を実現しようとしている、という主観性の問題に言及いたしましたが、それは、まさに同じ構造の問題が今回の9条の改正提案にもあることを、申し上げたかったからです。
そこで、ご質問の1番の中心である、改憲による自衛隊の合憲化という主張について、です。政府解釈による限り、すでに自衛隊に正統性を付与できているはずで、9条を改正する必要は存在しないはずなのに、変ですよね。語るに落ちているという感じがないことはない。「ほんとうは、政府解釈は間違っていると、自分も思っている」というやましさがあるのではないでしょうか。
しかし、安倍さんは、建前上はこれまでの政府見解に則って、自衛隊は当然に合憲だということを言ってきたし、その解釈を拡大して、あれだけの反対を押し切って安保法制を実現した。その手前、憲法学者に責任を転嫁するわけです。改憲をしなくてはならなくなったのは、自分ではなく、憲法学者が悪いんだと。依然として自衛隊から正統性を剥奪し続ける、憲法学者の違憲説を封じ込める必要があるから、9条の加憲を求めている、ということですね。
本音の部分では、自衛隊を合憲化し、強引に安保法制まで実現した政府の9条解釈について、誰よりも安倍さんご本人にやましいところがあるので、その責任を憲法学者に転嫁をして、自己を防衛する心理が働いているのではないか。そう受け止めるのが一番的確なのではないかというふうにわたくしは考えています。
けれども、その結果として、現在9条から発生している、正統性の剥奪によるコントロールのメカニズムを取り去ってしまうことになり、自衛隊を憲法上無統制状態におく、最も危険な提案になってしまっている。そういう説明を、前回の記者会見ではさせていただきましたが、ここで詳細を繰り返すのは控えます。以上で、さしあたりのご説明に代えさせていただきます。
西谷:一言いいですか。私は憲法学者ではないので、立ち入った議論には踏み込みませんが、ごく普通にこの憲法を受け止めて多少考えている立場から言いますと、安倍首相が今回、自衛隊の違憲性を払拭すると言ったのは、「では、今、違憲だというのなら安保法制どうなるんですか」という質疑がすぐ来ないとおかしい。それだから異論のない読売新聞で発表したということでしょうが、まともな記者会見とか、ほかの議論の場所なら、そういう突っ込みがまず来ないとおかしいでしょう。アメリカやフランスならすぐにそうなります。これも、メディアの姿勢の問題です。
自衛隊の違憲性を云々するのであれば、集団的自衛権の行使が可能だとした、あの閣議決定は何なのか、という話にすぐに戻らなくちゃいけない。南スーダンの派遣もそうです。
もちろん、今の憲法が、国際状況の現実に照らして法理としてすべて対応できるようになっているかと言ったら、そんなことはないでしょう。けれども憲法は、現実をすべて律するべく項目を尽くしている必要もない。だから、多くの人たちが、憲法の手直しについていろんな意見を出しています。けれども、だから「変える」ということだけを先行させてそのような多様な意見を一気に巻き込もうとするというのは、憲法を扱ううえでは乱暴すぎるでしょう。
自分たちがこの数年間、秘密保護法以来やってきた違憲状態とも言いうるプロセスに一切蓋をして、むしろそれをこの改憲に利用してくるというのは、あまりに無体です。改憲を語るより、まずこの政権の政治姿勢そのものが問われないといけない。それを吹き飛ばすような報道もおかしいということです。
質問2:山口先生におうかがいしたいんですが、6月24日に神戸で安倍首相の講演があり、秋の臨時国会での衆参の憲法審査会で「とにかく改憲を出す」という発言をしたのですが、これに関してはどういうふうにお考えでしょうか。
山口:5月3日の読売新聞インタビューで、今度は『正論』主催の講演会での発言ということで、専ら身内、仲間に対して改憲のメッセージを出していて、一つの政治的流れをつくるという手法は共通しているわけですよね。そこまで憲法という重要な問題についていろんなことを考えているんだったら、まさに国会を召集して、国会議員に対して、国民に対して、おのれの理念、所信を述べるべきではないか。ますます国会を開かない理由がなくなったというのが、私の最初の感想でした。
それから中身について、皆さんが自民党の案を作るということであれば、外部から批判をするというのは筋違いなのかもしれませんけれども、それにしてもやはり、この間何年もかけて自民党の憲法改正案を議論してきた作業と、これから秋の臨時国会まで3か月でなにか正案をまとめようという話と一体どう整合をつけるのか、まったくわからない。本当に真面目な改憲論議ではないと言わざるを得ない。ついでに言うと、獣医学部を全国展開するというのもちょっと呆れましたよね。如何に自分がやましいことをしていたかということを自白したようなものですね、あれは。
質問3:5月3日の憲法改正発言でもそうでしたが、最近の政府の姿勢で目立つのが、自民党総裁としての立場と総理大臣の立場の使い分けのようなことが見られるのですが、そういうことについて憲法学上あるいは政治学上の見解はどうなのでしょうか。
石川:まず、その自民党総裁という立場と内閣総理大臣の立場を仕分けしにくいのが議院内閣制である、ということを申し上げておく必要があると思うんですね。例えば、9時5時のサラリーマンであれば、5時から後はプライベートだと言えるわけですけれど、議院内閣制の場合には、公私を論理的には切り分けられるけれども、実際上はきわめて切り分けが困難である。しかも、同じ内閣の構成員であっても、国務大臣に比べて内閣総理大臣のほうが、より困難だということです。さらに、総理総裁を兼ねている場合は、一層困難であるということが、まずあるわけです。
観念上はもちろん、憲法の名宛人は国家であって、99条の憲法尊重擁護義務が課せられているのは、国家公務員としての立場においてでありますので、内閣総理大臣としての立場では憲法尊重擁護義務を課されていても、自民党総裁としてはフリーであるというのが、まさに日本国憲法のよさではあるわけです。けれども、議院内閣制のもとでの内閣総理大臣というのは、その切り分けが非常に難しいということです。これが、象徴としての天皇ということになりますと、もう論理的に不可能だということになりますが、内閣総理大臣の場合も非常に難しい。
ですから、自民党総裁としてなら改憲提案をしてよいというのは、極めて技巧的な説明で、観念的には成立可能な説明であるけれども、そんなに簡単に容認できる話ではないんですよね。あくまで観念上の技巧的な説明に過ぎないというふうに申し上げておきたいと思います。
山口:政治学のほうからひとこと言うと、議会において、与党、野党あるいは政府と野党との論戦というのがあるわけですけれども、もちろん行政府の長たる内閣総理大臣に対して野党が質問、追及して議論するという関係性が主ですけれども、当然、政党内閣、政党政治ですから、多数党の党首に対して少数党の党首が質問、追及して、その間で論戦するという多数党対少数党という関係性もあるわけですよね。「国会のなかでは、総理大臣対国会という関係性でしか議論しない」と勝手に土俵を狭めるというのは、これは議会政治の意味をはき違えているというか、議会政治をとても狭く設定している勝手な議論だというふうに思います。
質問4:強権的な国会運営に関わることですが、憲法について最近首相の近辺では、憲法審査会は一応多数決で決められるわけで、憲法改正案を多数決で決めてしまおうという議論が出てきています。これについてどう思われるか。もう一つは、その先にある国民投票ですが、これまでのいくつかの世論調査のなかでは6割程度が9条改正に反対であり、否決されるリスクもあります。「自衛隊を明記する」という改正案であれば自衛隊が否定されることになり、日本の安全性にリスクを伴うこともあるのではないかと思われますが、そのあたりのことはどのようにお考えでしょうか。
山口:まず憲法審査会の話で、まあ憲法改正というのはやっぱり、国会の3分の2に加えて、国民投票という非常に高いハードルがあって、かなり大きなコンセンサスが存在しているところで憲法改正をするという前提があると思います。多数決で何か物事を決めるということは、あまり好ましくないと個人的には思いますが、とにかくその多数決でも決めてしまうということを与党がするのであれば、それも含めて与党が進める憲法改正の本質を国民に知らしめるということに、たぶんなっていくんだろうと思います。
国民投票の話なんですが、一つ危惧するのは、安倍さんが言った9条3項について反対をするとすれば、「では自衛隊は違憲と言いたいのか」のような、ちょっと論理をすり替えたキャンペーンを、安倍さんや自民党が仕掛けてくるという可能性は確かに私も危惧しているところなんですね。だから、まずは9条3項という提案自体の非論理性、破たん。さっき西谷さんが言った、じゃあ安保法制、集団的自衛権のあの閣議決定はなんだったのかというような形で、安倍首相の9条3項そのものの杜撰さについて、まず入り口のところでしっかり議論をするということが、まずは私の考える憲法擁護側の課題かなと思いますが。
石川:今回の安倍さんが投げて来られたボールに対して、各方面なかなか苦慮しているという話をうかがうんですけれども、これは前回のこの会の記者会見で申しましたように、やはり「現状から見て、何を加え、何を失おうとしているのか」ということを考えてみるのが大事だということですね。
繰り返しになってしまいますけれども、結局現在、9条が根拠になって発生しているある種の軍事力コントロールのメカニズムが、とりさられてしまうという帰結をもたらすということ。これが現状から失うものであるということは、はっきりしているわけで、その部分の検討なしに突っ走ろうとしていること自体が問題だということを、まずは言っていく必要があるんじゃないかと思います。何となく「現状を追認するだけならいいじゃないか」という議論ではないのだというところを、まずは最初に訴えていくというのが第一段階ではないかと思います。
ですから、今回の安倍さんの投げたボールそれ自体が、厄介なクセ球でもなんでもないことは明らかだと思うのですが、その後の展開が難しいだろうなと思います。たしかに、このままの改憲提案が突っ走って、しかも国民投票で否決されて、自衛隊の立場がなくなるという可能性も、ご指摘の通りにあります。しかし、そういう展開よりも、「9条3項をつけ加えることによって、現に戦後70年機能してきた軍事力コントロールのシステムが、憲法上消えてしまう」とここで強調したのに対して、「なるほど、それはいけない」と、9条に代わる軍事力統制のオルタナティブを出そうという展開になってきた場合にどうするか、ということをわたくしは心配しています。
例えば、実際に2012年の自民党改憲案には、不十分ながら、シビリアン・コントロールによる軍事力統制の考え方が打ち出されています。それを安倍提案につけ加えればいいじゃないかと言ってきた場合に、それでは足りないと打ち返せるだけのものを、こちらで用意しておかなければいけない。わたくしや、あるいは前回の記者会見でお隣に座ってお話をされていた青井さんは、やはり9条方式以上にうまくいっている軍事力コントロールの方式というのは、世界中に存在しないのだ、ということを言っているのですが。
それを議論しようとすると、9条と自衛隊の論理的整合性の問題に、これもしばしば論点をずらされてしまいますので、なかなかややこしいのですけれども、それとは別に、現に日本が戦後70年持ってきた軍事統制のメカニズムというものをどうするか、という論点があって、既存のメカニズムに替わる代案があるのかどうかという問題だ、と考えていただければいいのです。そして、現状は非常にうまくいっているわけですね。なんでうまくいっているのかということを解明しないで、より性能の悪いことがはっきりしているものに取り換えようとしている���というのが、たとえば自民党改憲草案に対するわれわれの批判です。
そうでありますだけに、なぜこれだけうまくいっているのかという説得的な説明を、われわれができるかどうか。他方で、向こうが、よりまともなシビリアン・コントロールの代案を出してこられるかどうか。そういう戦いになってきたときが、厄介なのではないかと思います。9条論の強みというのは、現にうまくいっているという、この現状ですよね。現状における盤石のパフォーマンス、これが頼りになっています。世界的にこれだけうまく軍事力がコントロールされている国はない、と言ってもいいぐらいではないかと思いますけれども、現にうまくいっているという事実が頼りです。
しかし、自衛隊それ自体に対する国民の高い支持を前提として、コントロール方式の勝負になってきたとき、そこでどうやって闘うのかというのは、山口さんもおっしゃったように、そこは厄介な戦場に入っていくことになるのではないか。それにもかかわらず、そこに入る前に、コントロールをすべて取っ払ってしまうという最悪の選択だけは、やはり避けなくてはなりません。その最悪の選択に、うかうかとみんなで一緒に飛び込もうとしているわけですから、それが危険だということは、やはり言わなくてはいけないのではないか、というのが、前回の記者会見だということだったと思います。
山口:では、予定した時間を過ぎましたので、今日の記者会見はこのあたりで終わりにいたします。どうもありがとうございました。
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覚書(’今僕がいる未来’)
以前完全に ある物事をやらさていた時、「良くなりそうなのかどうか」を聞かれたことがありぎくっとした。体裁も気にしていたけれど、でも分かっていた。「面白くなりそうか」、過程こそが語ってくる、それを無視してよいものはできないだろうもの。
ものを作るとどうしようもなく寂しい。 自分の頼りなさが顕になって露になって。 もののなにに憧れればいいの?と思ったりもして。それの、これの、何に?どこに、自分がいる?いなくてもいい?いないものを誰になすりつけるのか?
そう考えてみるとこれまでのそれは、技術的なことと責任感への疑念が念頭にあったようにも思っていた気もするけれど...「 自分の思うようにしたかったようなこと」って何?その価値って?と、空気の入らなくなったひとりよがりなアイディアを持って思う。ミシンで胃まで針が及んだ気がするし。
いろいろやってみますねと言ったのだからこそ、自分が何を選ぶかの過程こそがその分のしんじつだね。種明かし 気づいたら「消費」してしまってた、また、それを繰り返してしまってたかもしれない��もちろん、こういう途中で後悔の旅に出るのはもったいないかもしれない。繰り返してしまうってことを覚えていくばかりだねえ。
どんなことでも、つまらないまま、あとは足し算のまま、利益率あるいはやりくりが目的になって、 ただの組み合わせ を抜け出せぬままに過程をふんでも、完成しないのだよね、鍵が開かなくて。完成とされる形に至れないものね。
完成してから書けばいいと思ったけれどキャプションにするには物自体にとってノリみたいに抱えなくちゃいけないなんてかわいそうだから、私が悪いだけなのだから。私のこれからのために個別に覚書するならそのほうがいいなと思い至った
無意識のうちの個人的ないわゆる内輪を、他者やいわゆる世間にもすすんで押し付けたくはないから、そういう内在する、主観もまま漂っているものの傲慢さに気づきたいと日めくりで願うけれど、それを必死で抱えても伝わる形でもなくて、ただただ、まだまだ、怖いね どんどん「許されない気がする何か」が増え続けてしまうことだけは明らかに違うので、現状維持だけでもしたくいるが 八方美人だとして、身の程知らずかもしれないとして、野望に生かされる方法を、もっと自分のものにしないと、寂しいままだなぁ。胃は痛めつづけてもきっと耐性みたいには良くならないけれど。
ものや形を作れてもこうして寂しいのは、分からないまま作っても、絆創膏を重ねて貼るだけのような、そういう「作業」をしてしまったからかな。それとも、本当に良いと思っても「本当に外」でつくりあげることが出来てしまったら、マイノリティ的孤独を改めて味わうとでもいうのかな。押し付けて容器にいれるだけの作り方をしてしまうと、本当にへこむ。覚えて慣れたものを溜め込むことも割り切れば結果的には必要かもしれない、でも心が死ぬことをずっと遠ざけすぎてきた
好きで買った生地だったけどとか 形にすることばかりに焦ってしまってそうしようみたいにこうしなくちゃいけないようなものが見えてしまったりとか
トライアンドエラーなのは分かるけど マニュアルなくてもできることも少し増えたけど 形をひとつ生み出したとしてそんなに虚しいこと、どうしたらいいっていうんだと 責任の話自分への期待の話みたいに
平気なようにふるまうのもつまらないし 素直にしても居場所がないし
ものをつくる人のうち勉強机の隣でそれはねえって同じものに気づいてくれる人っているのかな ここの地点でふいにそういうものを、空を掴むような、ことが出来る自分だったらもっと早く気づいてた 気づいて繰り返して笑えてた そそて今からここからも
途方にくれるとしたらそれは休憩地点なだけですけど、ものに憧れられないというのは、孤独で寂しいことですねってね。
やだなー幼児退行するのは別に楽しさや寂しさだけでなくて、自分を抱えられない不安自体なんだってことだよな。順調に歳取ってる変化な気さえする
意思は使い捨てか?
こんな事言い、そして、ハイブリッドレインボウを聴いている 一度ゆでたまごの気持ちになって、殻をつるっと全部はがしてみても、実は別にいいかもしんない
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「多様性を認められる人」は「優しい人」なのか?
私はよく「優しい人」だと言われる。
「優しさ」なんて、某ゲームの「物攻0」くらいの価値しかない、
というリツイートを見たときは大いに笑い、膝を打ったものだが、
実際、世の中で言う「優しさ」なんてその程度の評価だと思う。
だが、今回は敢えて、その「優しさ」について語らせて貰う。
* * * * * 補足のコーナー * * * * *
因みに「物攻0」とは、初期装備に付く程度の特殊効果の1つであり、
物理攻撃力がほんの少し上がる。最序盤では「無いよりあった方が」だろうか。
しかし、例えば「物攻0」の後に「物攻5」の効果が乗ったとき、
後者の効果量が激減するため、5~8日ほど冒険を続けると邪魔者扱いとなる。
また「物攻」の名の通り、魔法攻撃のみのキャラには一切関係がない。
にも関わらず、初期装備の魔石にも容赦なく「物攻0」が付くことがある。
活力(最大HP)・体力(最大SP)などは、恩恵が大きいため歓迎されがちであり、
逆に、回避(回避力)などは、最序盤で回避特化のキャラなど作れないので、
「役には立たない」「でも邪魔もならない」と評されることすらある。
そういう意味で「物攻」は本当に絶妙な立ち位置である。
「物攻」じゃなくて「攻撃」だったかもしれないが、まあどっちでもええわ。
* * * * * * * * * * * * * *
思い返してみると、
小中学生の頃は「弱者の気持ちになって考えること」が比較的得意だったのか、道徳の授業なんかで褒められた記憶は多いし、
大学生の頃は「ああいう態度を取られてよく怒らずに居られますね」と、心の広さみたいなものを後輩に感心された。
確かに、10代の頃は「私は優しい」と思っていた。
と言うより「周囲にそう思われるよう行動していた」と言うのが正しいだろう。
こう言っちゃ何だが、大した欲求の無い子は、周囲に「望まれそうな形」に振る舞うものだ。
特に14歳くらいまでは、所謂「優等生」として育って来たタイプだと思う。
しかし、高校生くらいの私は、表面的には全く優しくなかったと思う。
「他人の気持ちを想像できないヤツ」が大嫌いだったのだ。
その「他人」には、当然「私自身」も含まれている。
第三者を無自覚に傷付けている人に対して、
「普通に考えればわかるだろう」と憤った例も、勿論ある。
この頃は、私は私を「普通」だと思っていたのだ。
他人の気持ちを理解できないヤツは「考えることをサボっている」と思っていたし、
皆が皆、他人のことを考える能力があると、心の底から信じていた。
しかし「なんで私のことを理解してくれないんだ」と思った回数も多いだろう。
私は、その相手のことを「理解している」つもりだったし、
「相手の思慮が足りないこと」を「不平等」だと思っていたのだ。
そのせいで、恋人に辛く当たった(?)経験だってある。
それでも、恋人には「優しい」と言われていたような記憶がある。
そういった経験からだろうか。
この頃から私は「優しいと言われるけど、本当は優しくない」と、
そう自分のことを思い、自嘲していたのだ。
そして、いつ頃からかは忘れたが、
「私のことを優しいと思ってくれる、その心が優しいのだろう」と、
相手の側に転嫁(?)して考えるようになった記憶がある。
私のことを「魅力的」だと言ってくれる人にだってそうだ。
「趣味が合う相手を好意的に解釈する心」や、
「相手の魅力的な部分を見付けて、それを褒めてくれる優しい心」など、
私自身が「魅力」を持っているのではなく、その人々が作ってくれているのだと思った。
そして20代くらいになった頃には、
完全に「他人に何かを期待するのは止めよう」と思っていた。
相手がどんなに嫌な人であろうと、それを「正そう」とするのは間違いである。
その「正しさ」は自分の中の「価値観」であって、その人にとって「良い方向」である保証はない。
「他人がこうしてくれるだろう」と期待するから、裏切られたと感じるのだ。
皆が皆、好き勝手に生きるべきであるし、それを無理矢理止めることもないのだ。
さて、この考え方は「優等生」であることを止めた「自分への言い訳」でもある。
学校での成績は、14歳頃までは高い位置でキープしていたが、
それ以降は、授業態度が悪く、通知表も平均以下となった。
それでも、授業は「なんとなく理解できる」レベルではあったのだが、
高校3年生の頃に、割と本格的に心が折れたような記憶がある。
英語とか漢文とか数学Cとか何やねん! 「普通」に過ごしてるだけじゃわからんぞ。
こうして私は「成績の良い優しい人」から「ただの優しい人」になった。
この��は「ひのきの棒を持った僧侶」と「ひのきの棒」の差にほぼ等しい。
自分の欲求が薄く、仕方無く「優等生」してたヤツが、
「優等生」をやめたとき、やることなど「時間潰し」しかない。
つまり「好き勝手に生きて良い理由」が必要だったのだ。
「自分は優等生ではないから、恐らく浮気なんかもする」と言っておけば、
「それ以上」を求めて傷付くのは、私に過度な期待をしていたからだ。そうだろう?
……とまあ、実際にはそこまで極端ではないものの、
私は「他人に嫌われること」を、ほぼ恐れなくなった。
「他人の評価が気にならない」とは、だいぶ違う。
嫌われることは仕方ないし、無理矢理合わせるメリットも薄いのであれば、
お互い触れ合わずに生きましょう、とそういう考え方である。
実際、私は「他人にどう思われているか」は、現在もかなり気にしている。
もし、私のことを気に入らないという人が居るのなら、さっさとフォロー解除して頂きたい。
少なくともTwitterでは、お互いの為にならんと思うので。
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さて、話がだいぶ飛び散らかってしまった。
私が「優しさ」について、わざわざ文章を書こうと思った理由の1つに、
Twitterによく居る「周囲から顰蹙を買う人」の存在がある。
君らもフォロワーの中に、すぐに喧嘩したり、攻撃的な言葉を使ったりする人が居るだろう。
或いはリツイートで、馬鹿な行動や、無学な発言をして、晒し上げられている人を見ることも。
例を挙げるのが少し難しいのだが、
野生の熊を射殺するなんて可哀想!
その地域に住むのであれば、熊に襲われるリスクくらい承知しておくべきだし、
撃つにしても、絶対に麻酔銃のみでなくては!
といった「優しい発言」を見ることもあるはずだ。
これは、普通の炎上問題のときとは、少し違うのだ。
炎上問題の多くは、
「自分が気に入らないヤツ」が「吊るし上げられそうなこと」をしたときに、
これ幸いと攻撃して「自分が利益を得る」行動なのだ。
対して先程の例では、まあ「その市町村を攻撃したい」という人も居るだろうが、
多くの人は善意、言い換えると「他人の気持ちになって考えた結果」だろう。熊だけど。
つまり「優しさ」を持っていないと、発信することのない言葉なのである。
あ、実際に麻酔銃を使えない理由は、知らなきゃググってね。すぐ見付かるから。
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ここで発想を転換してみる。
「優しくない人」とは、どの程度居るものなのか。
あいつはあんな攻撃的な発言をして、周囲から顰蹙を買っているのに、
どうにも友人との話が多い。フォロワー数も自分より遥かに多いみたいだ。
なんであんな「ヒドいヤツ」が人気なんだ?
そう思った経験はないだろうか。
しかし、彼らを注意深く観察していると、思うことがある。
「身内には優しい」のだ。
その「身内」に本人が含まれることもあるだろうし、本人以外居ないこともある。
もっと言えば、自分に対しては辛く当たって「他人」ばかりに優しい人も居るだろう。
そう、彼らは「ヒドいヤツ」であると同時に「優しいヤツ」なのである。
身内に優しくないヤツなんて居るの?
身内に優しいなんて当然のことじゃん?
そう。そうなのである。
誰もが「身内には優しい」のだ。
だから恐らく、日常生活で「優しい」と言われる人は、
「身内」の範囲がとても広く、その「優しさ」を享受する人が多いタイプ。
「身内」以外にも「優しく」接することができ、争いを生まないタイプ。
そのどちらかになるのでは、と思うのだ。
熊には絶対麻酔銃! と鼻息を荒くして言う人が居たとしたら、
「熊」は身内と感じたが「被害者」などは身内ではなかった。ただそれだけの事なのだ。
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そろそろ、もう1つのキーワード、
「多様性」についても述べることにしよう。
「多様性」と聞いて何を思い出すかは人それぞれだろうが、
「民族」や「性別」を最初に思い浮かべる人が、過半数を占めているんじゃなかろうか?
民族に関しては、ちっと日本人には馴染みが薄い問題だと思うので、
より想像し易い、性別の方で話を進めていくことにしよう。
ではここで、
「私は性的マイノリティである」と言ったとする。
どう思うだろうか?
「ふーん、で?」って思った方が大半なのでは、と予想する。
この御時世、性的マイノリティなんてそう珍しくもないはずだ。
珍しくないマイノリティ、ってなんか日本語ブレてる気はするけど。
第1関門を突破した諸君らはおめでとう。
君らも「性の多様性を認められる人」の一員だ。
では次。
「私はあなたのことを恋愛対象として好きだ。
姿は知らないが、キスもしたいしセックスもしたい、
もし相性が良さそうなら、結婚もして子育てだってしたい」
そう言ったとしよう。
まあ、ここでどんな反応をするかは、人それぞれだろうと思う。
単純に「気持ち悪い」と思った人も居るだろう。
「少し考えさせてくれ、もっとお互いを知る時間が欲しい」って人も居るだろうし、
「願ったり叶ったり! 早速週末にセックスしましょう!」って人も……居るかぁ??
これくらいじゃ引かない? じゃあ次。
近所に住んでいる、あなたと同性で、車椅子生活をしている80歳の御老人。
そういう人が、会社や学校から帰宅する途中のあなたに、同じ発言をする。
ついでに借金たっぷりで、数日間風呂に入っていない、もオマケに付けよう。
ちょっと意地悪な例だろうか。
いやいや、ここで、
「私は性の多様性なんて認められる人じゃなかった……」
と落ち込んでしまうには、少しばかり早い。
あなたは「私が性的マイノリティであること」は認めたはずだ。
私が同性愛者なのか、バイセクシャルなのか、無性愛者なのかは知らんが、
とりあえず「そういう人たちが世界には存在する」ことは認めている。
あなたは、その御老人を「受け入れられない」と思っただけで、
彼の性的指向に関しては、まあいいんじゃない、と思えるのではないだろうか。
「自分が被害者にならなければ」という前提付きで、だが。
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急激に重たい話題をしてしまった気がする。
アイドルの話でもして、気を紛らわせることにしようか。
さて、皆さん御承知の通り、
私は某、アイドルが200人弱登場するゲームに沼っているのだが、
Twitterでは、時折こういったツイートを目にする。
Iちゃんなんてどうでも良い、Aちゃんをイベントに出して欲しい。
こういった発言は、とかく炎上しがちである。
そもそも炎上してなきゃ、そういう発言が目に入らんわな。
その発言を見たときの、正直な感想を、幾つか考えてみたいと思う。
* * * * * * * * * * * * * *
①
私もIちゃんには興味無いし、Aちゃんがイベント出てくれた方が嬉しい。
でも、Iちゃんを好きな人も居るんだし、そういった発言は我慢するべきでは?
Aちゃんのファンの人が、みんなそういうヤツだ、って思われても困るもん!
②
私はSちゃんのファンだから、直接被害は被ってないけど……
こういった発言は苦手だなあ。Iちゃんファンの人が可哀想。
③
そういった、誰かを不快にするかもしれない発言を、わざわざRTすんな!
俺は平和的にTwitterをしたいから、そういったRTするヤツはブロックするぞ!
④
攻撃的な発言をする人も、ファンの1人には違いないんだし、
そういう人も居るって受け入れるしかないのかなあ。
でも、そのせいでジャンルそのものを嫌いになる人も居るだろうし……
できれば止めて欲しいなあ。
* * * * * * * * * * * * * *
どうだろう。
雑な例だったが、誰が最も「優しい」と感じただろうか。
答えは「全員」だ。みんな優しい。
それぞれ「身内」の範囲が違うだけで、みんな優しいのだ。
「優しさ」に優劣はない。対象が違うだけなのだ、と私は思う。
「優しさの範囲」が広ければ強い、というものでもない。
その例になるかは分からないが「多様性」についても考えてみよう。
さて、この場合の「多様性」とは何だろうか?
多様性を「認める」ことと「受け入れる」ことが違うのは、既に述べた通りだ。
たからまずは、その「多様性」の範囲だけに絞って考えていきたい。
まず、最低限認めなければいけないのは「アイドル200人弱の存在」である。
これがそのまま、そのコンテンツ内の「多様性」となるだろう。
その中の誰か1人の存在が、他のキャラクターを潰している、ということはない。
200人弱で1つのコンテンツとして成立している限り、認められて良いはずだ。
その中に、嫌いなキャラが1人や2人居て、
「受け入れる」ことが出来なかったとしても「認める」ことはできるはずだ。
「自分が被害者にならない」のだから。そうだろう?
ここで問題となるのは、
「多様性を認めない人」を「認める」か、という部分である。
同じジャンルのファンなんだから、
「受け入れる」ことはできなくても、そういう価値観は「認める」べきか?
しかし、彼の存在を認めてしまうと困ったことが起きる。
彼のせいで、最低限の「多様性」が損なわれてしまうのだ。
かなり想像し辛い例を使ってしまった。言い方を変えよう。
「同性愛者は殺せ」と言っている人を「認める」か、という話である。
同性愛者を守ろうと思うなら、彼を殺さなければならない。
それはどちらが優先されるべきか。
どちらか1つと言われれば、多くの人は、彼を殺すことを選ぶだろう。
「多様性」を守る為であれば、そうするのが必然である。
彼を許せば、全ての人間が殺されることになってしまうのだから。
また血生臭い話になってしまったが、ともかく、
「他の多様性を脅かすモノ」は、あまり認められない傾向にある。
この考え方は「法律」に似ている。
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「法律」と言うと、日本国憲法だとか、六法全書だとかを想像するかもしれん。
けれど、法律というものは、恐ろしくシンプルである。
他人の自由を制限するな、こんだけである。
それをガッチガチに保護したり、最低限見守ったり、という違いはある。
けれど基本は「殺すな」「奪うな」そういった事の延長線上に位置している。
では何故、他人の自由を制限してはいけないのか。
国や集団が成り立たないからである。
本来は「殺す自由」だってあって良いはずなのだ。
だが、他人の自由と競合するので、ルールでダメだよ、ということになっている。
そんだけ。
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そろそろまとめに入っていこう。
「多様性を認められる人」とは何か。
「他人の自由を制限しない人」である。
そこに「自分が受け入れられるかどうか」は関係ない。
「多様性を脅かす人」が存在するなら、正義の下に殴ることもある。
そういう人を認めてしまうと「集団が成り立たないから」だ。
勿論、彼らを殴らず、共存の道を図ろうとすることもある。
お互い死ななくて良い道もあるかも知れないのだ。どっちが正解とも言えない。
「多様性を認めて欲しい人」とは誰か。
「熊に襲われて殺されそうな人たち」である。
人それぞれに価値観があるのは仕方ない。熊だって腹が減っている。
しかし「自分たちの自由」が、今まさに脅かされようとしている。
だから、誰かに守って欲しいのだ。
熊よりも自分たちに同情して欲しいのだ。
そして、やっとタイトルに戻る。
「多様性を認められる人」は「優しい」のか。
そんな事はない。
多様性を認めただけでは「身内」にはならないのだ。
もし、この文章の中盤くらいで、
「元かにょさんなら良いけど、80歳はちょっと」
と思った人が居たとする。
それは、あなたにとって、私が「身内」だったのであり、
その近所に住んでる、80歳の不潔な老人は「身内」じゃなかったのだ。
では、最後に。
皆が求めているものは、本当に「認められること」だろうか?
自分がある人に対して、恋愛感情を抱いているとする。
その人はとても優しく、いつも親身になって相談に乗ってくれる。
同性だが、その人は性的マイノリティに関しても理解がある。
私が性的マイノリティだと打ち明けても、嫌いになったりはしないだろう。
だが、だがしかし、
「受け入れられるかどうか」は話が別である。
セックスをしたい、と言おうものなら、
そういう目で見てたんだ、と引かれるかもしれない。
今までは気にせず、目の前で着替えなんかもしていたが、
性的な目で見られているのでは、と控えるようになるかもしれない。
その人は優しい人だ。
優しい人だから、共通の友人である「同性愛者が嫌いな人」に、
私を近付けることを、躊躇うようになるかもしれない。
私も、その人ほどじゃないが、優しい方だと思う。
だから、その人を困らせたくなく、告白を躊躇うのだ。
生命の危機にある人が、まずは生きたい、と、
それが「多様性を認める」という行為に紐付くのである。
「こういう人たちも居るんだ」と社会に浸透すれば、
告白の際のギャップが、大きく減ることになるだろう。
性的マイノリティだと告白する前から、
自分からセックスを求めることを、想像するかもしれない。
目の前で着替えなんかをしていたときも、
性的な興味を引きたくて、���分から行っていた可能性だってある。
だが、今から社会に浸透していったところで、
「目の前の好きな人」の心が動くとは限らないのだ。
彼らが本当に求めているものは「法律」なんかではない。
「物攻0」や「ひのきの棒」を、心から欲しているのである。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「身内以外にも優しいタイプ」については深掘りし忘れたけど、
どっちかと言うと「多様性を認める人」な側のつもりで書いてたよ。当時は。
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