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#ニ寧坂
koju-incense · 10 days
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本日4月18日はお香の日です。
お香の日の由来は日本書記によると、推古天皇3年(595年)4月に「沈水、淡路島に漂着」と記され、淡路島にひと抱えもある香木が漂着しました。この沈水(じんすい)というのが一般的に言われるところの沈香という香木です。 島民がその木を焼くと良い香りが辺り一面に広がったので驚き、木片は朝廷に献上されました。そこで聖徳太子が観音像を作ったとされます。 今も淡路島ではその香木をご神体として枯木神社に祭られれています。 沈水香木の伝来した4月と、「香」の字を分解した「一十八日」をあわせて4月18日を「お香の日」として制定しています。
お香の日を記念して「高井十右衛門2024」をつくりました。
商品内容はお香「高井十右衛門」2018、2019、銀座香箱で好評いただいた芹摘姫のお香の三種類アソートしております。
また、錫香立は香十の「十」を象徴としてデザインした錫香立を特別に作りました。 大切なお香と香立を桐箱に納めた限定商品です。
香十銀座本店、ニ寧坂店で発売開始いたしました。
オンラインショップでも発売開始いたしました。
ぜひお立ち寄りください!
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Today, 18 April, is Incense Day.
The origin of Incence Day can be traced back to the 3rd year of the reign of Emperor Suiko (595), when, according to the Japanese Bible, "Jinsui drifted ashore on the island of Awaji" and a large piece of wood was found on the island of Awaji. This agarwood is commonly known as agarwood. When the islanders burnt the wood, they were surprised to find that the fragrance spread throughout the area, and the pieces were presented to the Imperial Court. It is said that Prince Shotoku made a statue of the Kannon (Goddess of Mercy) from it. The fragrant wood is still worshipped as a deity at the Kareki Shrine on Awaji Island. The month of April, when the agarwood was introduced to Japan, and 18 April, which is a decomposition of the Chinese character for 'incense', are combined to form the 'Incense Day'.
To commemorate Incence Day, 'Takai Juemon 2024' was created.
The product contains an assortment of three types of incense: 'Takai Juemon' 2018, 2019 and the Seritsumihime incense that was well received at the GinzaKobako.
In addition, a tin incense stand was specially designed to symbolise the 'ten' of the incense ten. The precious incense and incense stand are packaged in a limited edition paulownia wood box.
It is now on sale at the main Koju Tokyo Ginza shop and the Kyoto Ninenzaka shop.
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higap · 2 years
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お盆休みに近場でぶらり京都に お昼前に着いてまずは丑屋よ平さんですきやき重とおばんざいランチをいただき 清水さんへお参りして、帰り道のスターバックスコーヒー京都ニ寧坂ヤサカ茶屋店で休憩しながらぶらぶら歩きました おやつはChocolat BEL AMER 京都別邸でかき氷桃×ホワイトチョコをいただき お土産は定番の林万昌堂の甘栗を買って帰りました 日帰りで暑い中歩き回ったんでクタクタですww #丑屋よ平 #清水寺 #スターバックスコーヒー京都二寧坂ヤサカ茶屋店 #chocolatbelamer京都別邸 (清水寺【 Kiyomizudera Temple 】) https://www.instagram.com/p/Chc3cauBYOv/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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atison2107 · 2 years
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八坂庚申堂
カラフル
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rucachihuahua · 3 years
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【#京都の紅葉 】 火曜日は 清水寺 さんへ -- @feel_kiyomizudera -- もみじが良い感じに色づいてます🍁 ❶奥の院からの本堂 はもう少しかな ❸三重塔の下は見頃🍁 ❺子安塔からの本堂もまだ青もみじ 今週末にはもっと綺麗になるかな😲 #清水寺夜の特別拝観 は11/30まで #産寧坂 #ニ寧坂 #八坂の塔 は 人少なめ . . . #清水寺 #紅葉狩り #紅葉 #紅葉スポット #東山 #秋旅 #京都ぶらり #京都さんぽ #京都すきな人と繋がりたい #誰かに見せたい風景 #そうだ京都行こう #ダレカニミセタイケシキ #イロドリキョウト #kyotostyle #kyototravel #lyototrip #retrip_kyoto #kyotism #otonatabi_japan #imatabi #discoverkyoto #kyotophoto #kyotophotography #autumnleaves #autumncolors (清水寺) https://www.instagram.com/p/CHsB67ugmyT/?igshid=1zouxs9j4kcr
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walkoverearth · 5 years
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#京都 #ニ寧坂 #着物 #photooftheday #photooftoday #japan #kyoto #street #awesome (二寧坂) https://www.instagram.com/p/BxWZy-cFdFG/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=4y43dyzhi9dn
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oceankingworrior · 5 years
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I’m approaching ninenzaka. I’m stopped by a backstreet and explored the life of the Kyoto. ニ寧坂の方へ足を伸ばしました。路地裏の方に足を運んで見ました。何気ない日常の中に新たな発見もあり散歩してみると色々気付きがあり、東山はそういう意味で最高です。東山はおススメスポットです👍👍👍#ninenzaka #kyoto #kyotojapan #kyototravel #kyotostyle #kyototrip #kyotogram #kyotophoto #kyotolife #visitkyoto #kyoto⛩ #lovekyoto #kyoto🇯🇵 #kyoto🇯🇵 #kyotostreet #kyotophotography #kyotocity #ニ寧坂 #京都行きたい #京都 #京都旅行 #京都観光 #京都巡り #京都東山 #京都旅 #京都大好き #京都散策 #京都好きな人と繋がりたい #京都へ #京都ぶらり旅 #京都散歩 #京都市 #京都の旅 #京都行きたい (at 二寧坂) https://www.instagram.com/p/BuGnb3pHiVk/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=1s2glm8vi387n
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yskutminjp · 7 years
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おはようございます 朝一でスターバックス京都ニ寧坂ヤサカ茶屋店へ行ってきた! オープン1時間前でも警備員がいた! 暖簾はどうしても下ろすのは無理ですねー😵 色々遊び心がある店舗! 詳細はどこかのSNSでアップします! イッテキマス #スターバックス #スタバ #statbucks #スタバラ部 #スタバ部 #スターバックスコーヒー #starbuckscoffee #스타벅스 #สตาร์บัคส์ #星巴克#ستاربكس #隠れサイレンさん #暖簾 #のれん #kyoto #京都 #スターバックス京都ニ寧坂ヤサカ茶屋店 (スターバックス コーヒー 京都二寧坂ヤサカ茶屋店)
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w0326 · 7 years
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. 💭 いつかの京都… 📷 052117 📍二寧坂 . . 💬 やっと大阪に帰って来たっぽい… . . #Kyoto #Yasaka #Ninenzaka #Nineizaka #京都 #ニ寧坂 #二年坂 #FujifilmXT2 #XT2 (Kyoto, Japan)
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shakuhachi-kataha · 4 years
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第六回ミニ講座「聖徳太子と尺八 其の二」
今回の風陽さんの独り言!
 
 
曲を吹(ふく)に初めより終わりまで蓮の茎を折りたるごとく
縁の切れざるように吹べし
息の切目つぎめに心つけて吹べし 
おのづから初めよりの縁のきれざる様に吹べし
ツキイロナヤシなどみな縁のきれまじきためなり
 
*ツキ(小ナヤシ)/イロ(音色か)/ナヤシ(縦ユリ)
 
 
 
蓮の茎を実際折ったことはないですが、調べてみると手でぽきんと折れるものらしい。ようは音の継ぎ目は肝要に、心して吹きなさいということ。
 
 
 
  
さて、今回のテーマも前回に引き続き、
 
 
聖徳太子と尺八 其の二!
「本当に聖徳太子は尺八を吹いたのか?!」
 
 
「尺八史概説」(2005)  山口正義著 を参照に検討したいと思います。
  前回参照させていただいた徳山隆氏も、今回の山口正義氏も尺八演奏家であり研究家でもあるという方です。
まずは聖徳太子が尺八を吹いたという記録の一覧です。
「教訓抄」(1233年成立)
『聖徳太子河内ノ亀瀬ヲ通給ケルニ、馬上ニシテ尺八ヲアソハシケルニ、メテテ山神舞タル由法隆寺ノ檜殿・・・』
教訓抄は1233成立の狛近真(こまちかざね・1177~1242)著の楽書。10巻。前半五巻「歌舞口伝」後半五巻「伶楽口伝」といわれる。興福寺の楽人であった近真が、家芸を継承すべき子をもたなかったこと、鎌倉時代に入って舞楽が衰退したことを嘆き、後世のために残した舞楽の口伝書。
 
 
 
 
 「體源抄」(1512成立)第五巻
『昔聖徳太子生駒山ニシテ尺八モテ蘇莫者ヲアソハストイヘリ。即法隆寺ノ寶物ノ中ニ尺八一管コレアリ、昔ニハ物ト云リ。又山神出テ舞大峯ニ蘇莫者ノタケト云テ今モアリト云』
「體源抄」は豊原統秋著(とよはらすみあき)。豊原統秋は室町時代後期、戦国時代の楽家。歌人、書家、本草家としても活動した。
「教訓抄」と「體源抄」は、場所は異なるものの同じ蘇莫者という曲を吹き、古来法隆寺の尺八が太子の愛用品であるとなっている。
 
 
 
  
 法隆寺古今目録抄(13世紀)
「古今目録抄に云ふ次尺八漢竹也太子此笛自法隆寺天王寺へ御之道椎坂ニシテ蘇莫者樂吹給之時山神御笛二目出御後ニシテ舞ケリ」
(太子が法隆寺から四天王寺に至る途中、推坂(しいさか)でこの笛を吹いたところ山神がそれにあわせて踊ったという伝え)
 
 
 
 
 「天野政徳随筆」(1843年)
『體源抄に、上宮太子尺八を以蘇莫者を吹給ふ事をのす。其管今大和国法隆寺の所蔵、今以猶存ず、去る天保十三年六月、法隆寺の尊像江戸にてをがまれ給ふ時、此太子の管政徳手に取て親敷見たり。今の尺八より細く長し。唯漢竹のほそきを切て孔をうがつ。歌口の処、はすに切りたる許にて、角など用ひず。かざりさらになく、不問して千載以上の物なる事しらる、されば、いにしへの尺八は、洞簫と長短ひとしからざる物か。また洞簫の異制か。猶可考。』
天野政徳(あまの-まさのり1784-1861)江戸時代後期の国学者、歌人。
 
  
  
   
「歌舞音楽略史」(1928年)
『尺八は、今大和法隆寺に蔵する所、當時の物なるべし。曲尺を以てはかれば、一尺四寸五分あり。 これ則唐ノ小尺の一尺八寸なり、唐小尺の一尺、曲尺の八寸五厘強にあたる。近きころまで、普化僧専ら用ゐし、一節切の尺八といふ器は曲尺にて一尺八寸なるは、後世の製造なればなり』
小中村   清矩著(こなかむら きよのり、1822-1895)国学者・日本史学者。
 
 
 
 
ここで尺八の長さ問題。
天野政徳随筆にある「和州法隆寺蔵 上宮太子管 漢竹也」とある尺八の図は、一尺二寸五分で、小中村 清矩著「歌舞音楽略史」によると一尺四寸五分。長さが明らかに違う。
 
 
 
 
そしてさらに山口氏は、
「 ただ呂才が初めて尺八を考案したのが「旧唐書」 の<呂才伝>による629年だとし、且つその後日本に伝来したとすれば、聖徳太子は622年没なので、合わない。聖徳太子が尺八を吹いたという故事は疑わなければならない。」と結んでいる。
 
 
 
 
え!?
聖徳太子が亡くなった後に尺八が考案されたって事?
今までの史料は何だったの!!!
 
  
と、いうことになるが、
 
 
もう一人忘れてはならない重要人物
音楽評論、音楽史の権威者、田辺尚雄著「日本の音楽」の一部を抜粋すると、
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まず右側の抜粋では、
「従来それを試みた人は呂才であると称されて居たが、実はそれよりも尚ほ少し以前ではないかと考へられる」
とあります。これは何に基づいてそう推察されているのか書いてありませんが、唐は618年 - 907年、呂才は600年生まれ665年没。
尺八は629年に呂才が考案したと伝えられていますが、「尚ほ少し以前」というのはどれくらい前のことなのでしょうか。
呂才考案以前は籥か籥長笛か洞簫の縦笛が存在していた。(第三回ミニ講座を参照してください)
 
 
左側の抜粋からは、「法隆寺にあったけど今は博物館の中にある。これを見ると、唐の尺八と洞簫の中間の性質を持っている。隋の頃のものとして首肯できるが、中国の尺八とは断定出来ない。寧ろ洞簫とよんでおいたほうが良いが,近代の洞簫とは頗る異なり、頗る雅楽尺八に近い」そうだ。
 
 
なんと、法隆寺にあった尺八そのものが、尺八では無いとのこと。
 
 
 
 
まとめは上野堅実著「尺八の歴史」(2002)より参照
「尺八は629年に呂才という人物が考案したと伝えられている。中国においても唐楽が整備されるのは、唐が建国されてからしばらく後のことであったといえる。また蘇莫者という舞も、唐代中期に成立した舞楽のようで我国への伝来は聖徳太子の時代より後のことになる。ただし唐代以前から中国では竹製の縦笛が存在しており、舞楽などに使われていた。したがってそれが6世紀末までに我国に伝わっていた可能性が無いとは断言できない。4世紀半ばからは、朝鮮半島の任郡(みなま)府などを通じて大陸文化が盛んに我国へ伝えられ、五世紀に入ると東晋(とうしん)や宋に遣いを出すなど、中国大陸からの直接的な交流も増すので、何らかの形で古くから大陸の音楽文化がの流入があったと見るべきであろう。」
 
 
 
 
と、いうことで、
 
聖徳太子、やっぱり尺八は吹いてないかも。
 
 
でした。
 
 
 
なんともロマンが無い結果に💦
 
 
 
 
ただし、
ひたすら「尺八」にこだわっているので、聖徳太子が吹いたのは、籥でも洞簫でも尺八でも縦笛は縦笛でどれでもいいじゃないかという話です、実は。
 
 
 
いや��や、この辺はっきりしといてもらわないと。
洞簫と尺八は構造が違うんですから!
 
 
 
 
この際キチンと、
「聖徳太子って尺八吹いたの?」なんて聞くんじゃなかったって聞いてくれた人に後悔されるくらいに、くどくどと説明してあげましょう!
 
 
 
 
ミニ講座の終わりに「蘇莫者」を演奏させていただきました。
雅楽風に吹奏するのハマりそうです♪
と、いうことで、
二回に分けてたっぷり「聖徳太子と尺八」でした〜
 
 
 
 
。。。
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matsuzoh2001 · 5 years
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eicha-tumb · 7 years
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詳しくはない土地で、交流も楽しむ。道中、お声がけ下さいましてありがとうございました😊 #京都ニ寧坂ヤサカ茶屋店 #京都 #景観 #街並み #建築 #和室 #和風 #創活 #ミクスチュア #スタバ #猫 #しかし可愛いですね #引力 #mixture #kyoto #sightseeing #tourism #newopen #applewatch
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koju-incense · 4 years
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伽羅で迎えるお正月 清々しい一年のはじまりは、至高の香木といわれる伽羅(きゃら)のお香で迎えてはいかがでしょうか。 また、お客様の訪問される30分〜1時間程前にお香を焚いてお迎えされる「お迎え香」をなさるのもオススメです。 #香十 #お香 #伽羅 #香木 #伽羅のお香 #きゃら #お正月 #お迎え香 #香初め #良い香り #日本文化 #伽羅静玄 #香 #銀座 #東京 #荻窪 #浦和 #京都 #ニ寧坂 #japan #japaneseincense #tokyo #kyoto #ginza (香十 本店) https://www.instagram.com/p/B6ZyaTiArBo/?igshid=2b6w0857bfvg
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roadbikejp · 4 years
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@rideryuta.16さんの投稿 #キャノンデール #自転車のある生活 #ヒルクライム #サイクルスポーツ #サイクル日和 #自転車
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Night Ride. 久しぶりにニ寧坂来た。 やっぱり夜のニ寧坂はいいですね。 人もおらんし写真もゆっくり撮れる…! オススメです。 #cannondale#cannondalecaadx#cannondalefans#caadx#ridecannondale#fulcrumwheels#fulcrum#ride#cycling#cyclinglife#cyclingphotos#cyclocrossbike#roadbike#kyoto#ninenzaka#キャノンデール#フルクラム#シクロクロスバイク#ロードバイク#ライド#サイクリング#自転車#自転車のある風景#自転車のある生活#自転車のある暮らし#京都#ニ寧坂
rideryuta.16(@ridery…
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hiro-photograph · 6 years
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人力車とニ寧坂、京のスタバとなんとかの塔。 * * 📸:#fujifilmxpro2 Lens:#xf14mm #xf35mmf14 location:京都 * * * * * * #秋の関西写真旅行記 #今日もX日和 #hirophotograph #myfujilove #daily_photo_jpn #フジノンレンズ #indy_photolife #fujifilmokinawa #lifewithx #xシリーズ #ファインダー越しの私の世界 #fujilove #fujifilm_street #fujilovers #fujifeed #fujifilmjapan #photo_jpn #富士フイルム沖縄 #RECO_ig #xpro2 #ストリートスナップ #streetphotography #fujixfam #lr_moments #京都 #kyotojapan #京都旅行 #京都カメラ部 (Kyoto, Japan) https://www.instagram.com/p/BpSxffDlf4P/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=6942gl40ye86
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clipfiling · 6 years
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■日本メディア検閲史 <新聞法、出版法について> | 前坂俊之オフィシャルウェブサイト http://www.maesaka-toshiyuki.com/massmedia/3838.html  
静岡県立大学国際関係学部教授 前坂 俊之
 
われわれは今、「言論の自由」を、ごく当たり前のことと思っている。 「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」(憲法21条1項)、「検閲は、これをしてはならない」(同2項)という日本国憲法の条文を、わざわざ引き合いに出すまでもなく、当然と受け止めている。
しかし、1945(昭和20)年8月の敗戦まではそうではなかった。それ以後の連合軍による占領期間中も、言論の自由は制限されていた。 明治以来、メディアに対する検閲制度は昭和の敗戦まで約80年間続いた。
現行憲法でわざわざ検閲禁止の規定が盛り込まれているのは、この検閲の歴史の反省が込められている点を忘れてはならない。
検閲は表現の自由への公権力の規制の形式的、方法的問題であり、たんに文章や表現をチェック、削除する狭い範囲で考察するのではなく、広く言論統制、情報操作の一側面としてとらえることが必要である。 この「メディアと検閲」の章では、そうした観点から、主に日本でのメディア検閲の歴史的な関係について触れたい。
 
■1 言論の自由と検閲制度・ミルトンらで言論の自由の確立へ
秦の始皇帝(紀元前259-210年)の「焚書坑儒」を引き合いに出すまでもなく、歴史のなかであらゆる政治権力は、自らと対立する都合の悪い言論、思想を抑圧、弾圧の対象としてきた。
ギリシャ、ローマ時代はいうにおよばず、中世キリスト教の異端審問など、言論の抑圧が続いた。一五世紀の活版印刷の発明がエポックとなって、大量印刷や伝達が可能となり、マスメディアが生まれ、これを抑圧する手段としての検閲も一層、組織化、制度化され、近代検閲が生まれた。 大量に、スピーディに、安く印刷できる革命的な活版印刷の発明は、異端の広がりに厳重に目を光らせていたローマ教皇庁に衝撃を与えた。
グーテンベルクが活版印刷を発明したドイツ・マインツで、大僧正ベルトルドが1486年に出版物を取り締まるため検問所を設けたが、これがいわゆる「検閲制度」のはじまりである。 活版印刷の発明は中世ヨーロッパの宗教社会の内部から宗教対立を激化させる要因となり、宗教改革を生み、ついには市民社会の誕生の契機となったのである。 1501年には、ローマ教皇アレキサンダー六世が出版の許可主義をとった。さらに1542年には、ローマ教皇パウロ三世がカトリックに反対する出版物に対して、異端審問所の許可をとっていないものについては発行、流布を禁止した。 言論、出版の自由の歴史はこうした検閲制度との不断の戦いの歴史であり、その上に勝ちとられたものであった。
イギリスでは1586年に星室庁(当時の最高司法機関)が印刷条例をつくり、検閲を実施したが、これは後に長期議会に引き継がれて、1643年に検閲条例が定められた。 封建主義、絶対主義社会の象徴としての検閲に対して、言論、出版の自由の要求が生まれてくるが、その先駆者がミルトン(1608-74年)である。
ミルトンは『アレオパジテイカ』(許可なくして印刷する自由のためにイギリス議会に訴えるパンフレット)で「……真理と虚偽とを組打ちさせよ。自由な公開の勝負で真理が負けたためしを誰が知るか」、「他のすべての自由以上に、知り、発表し、良心に従って自由に論議する自由を我にあたえよ」と書き、言論の自由を強く訴えた。(内川芳美「新聞の自由の歴史」 稲葉三千男・新井直之 編著『新版新聞学』日本評論社、1988年、40頁)。 ミルトンは検閲条例をきびしく批判し、思想は抑圧されず自由に公開、競争される「思想の自由市場理論」と、そうすれば人間の正邪を判断できる理性によって、真理が必ず勝ち残るという「真理の自働調整作用」を唱えた。 こうしたミルトンらによって、イギリスで特許検閲法が廃止されたのは名誉革命後の1695年のことであり、新聞、出版の自由が制度的に確立されていった。
 
■2 徳川時代の検閲制度
一方、日本ではどうであったのだろうか。
徳川時代中期から出版業が盛んになってくるが、幕府は1630(寛永7)年にキリシタン関係書の売買、閲読の禁止に乗り出した。 1649(慶安2)年には、大坂の書店・西村伝兵衛が出版した『古状揃』のなかに「家康表裏之侍太閤忘厚恩」という徳川家康を誹語する文句があったことから、幕府はこの書物を没収、絶版の処分にし、伝兵衛は斬首の刑となった。 新開の前身である「読売瓦版」に対しては貞享、元禄年間の禁令をみると、検閲がおこなわれていた事実がみられる。 1722(享保7)年には、出版に関するはじめての成文法といってよい『町触れ』(現在の法律)が出された。 内容は猥褒や異説を唱えるもの、徳川家の事蹟に関する記事について禁止したほか、板本の奥づけに作者と板元名を記すことを定めたものであった。
このように、すでに江戸時代からはじまった出版物取り締まりの基本的な考え方は、明治になっても踏襲された。
 
■3 明治の新聞の誕生と言論恐怖時代の幕開け
ところで、日本での新聞の始まりは幕末の翻訳新聞、外字新聞である。
幕府の洋書調所にいた洋学者たちの翻訳によって新聞づくりがはじまった。当時は新聞、雑誌の区別はなく、この洋書調所から雑誌も翻訳雑誌として生まれた。 当初、このように幕臣による新聞が多かったため、鳥羽伏見の戦い(1868年)、江戸への薩長軍の進軍に対しては佐幕派の新聞が多数発行され、官軍を攻撃する記事や虚偽の報道、風説を流し、幕府の味方をした。 柳河春三「中外新聞」、福地源一郎「江湖新聞」、岸田吟香「もしほ草」など多くの“佐幕派新聞”に対して、明治政府は、はじめて言論弾圧に乗り出した。
1869(明治2)年2月、政府はわが国で最初の新聞紙法である「新聞紙印行条例」を発布した。 発行を許可制にし、編集者の責任を定め、政治評論を禁止するなどの内容であった。
1874(明治7)年1月、江藤新平、板垣退助、後藤象二郎らが『民撰議院設立建白書』を提出したことから、自由民権運動がまたたく間に全国に広がった。 新聞はこれを支持する民権派が多数を占め、そのなかで急進派と漸進派に分かれ、これに反対の立場の官権派が入り乱れて激しい論戦を展開し、“言論の黄金時代”を迎えた。
言論界では急進的民権派が圧倒的多数を占め、反政府運動と化したため、政府は1875(明治8)年6月に「新聞紙印行条例」を大改定した「新聞紙条例」と、新たに「讒謗律」をセットで公布した。 讒謗律は 名誉毀損罪と政治的誹謗罪が一緒になったような法律で、天皇、皇族、官吏に対する誹謗を防ぐというねらいだが、実際は反体制的言論を規制し、弾圧するのが目的であった。 言論界にとってこの両法は正に青天の霹靂であり、一大ショックを与えた。 まず「曙新聞」の末広鉄腸が、これに触れて罰金20円、禁獄3ヵ月に処せられたのをはじめ、各社の記者が続々と処罰され、獄中は新聞記者や編集者であふれかえる事態となった。 宮武外骨の調査によると、5年間でこの両法によって記者、編集者約200人が禁獄されるという“一大言論恐怖時代”を現出した。 しかし、これでも自由民権連動の大きなうねりを止めることはできず、逆に高まる一方であった。
このため、翌76(明治9)年に政府は「国安ヲ妨害スト認メラルル者ハ、内務省二於テ、ソノ発行ヲ禁止又ハ停止スヘシ」という太政官布告を出した。 この規定が「安寧秩序ヲ妨害」したものに対して「発売頒布禁止権」を行使するという出版警察の中核的な行政処分権となり、敗戦までの約七〇年間にわたり言論の自由の生殺与奪となったのである。[奥平康弘、1983、137-138頁]。
さらに、明治政府は帝国憲法の発布(1889年2月)��照準を合わせ、1887(明治20)年に「新聞紙条例」、「出版条例」を改定し、取締法規を整備、強化した。 「新聞紙条例」では内務大臣の発行禁停止権、保証金制度、陸海軍両大臣の記事差止権、その他掲載禁止事項などが定められ、一方、「出版条例」では発行10日前に製本3部を内務省に届け出ることが義務づけられた。
1889(明治22)年2月発布の帝国憲法では、「言論の自由」については「法律ノ範囲内ニ於テ言論、著作、印行、集会、及結社ノ自由ヲ有ス」(第29条)とされ、「新聞紙条例」、「出版条例」、「保安条例」、「集会条例」の4つの言論統制法の範囲内での制限つきの言論の自由しか認められなかった。
労働運動、社会主義運動が高まった1900(明治33)年2月、片山潜、安部磯雄らによって「社会主義研究会」が発足した。政府は集会、結社の取締法の集大成である「治安警察法」を制定して、きびしい取り締まりに当たり、翌年5月に片山、安部、幸徳秋水ら6人で結成された「社会民主党」は、即日解散となった。 1903(明治33)年2月、日本で初の社会主義新聞「平民新聞」(週刊)が幸徳秋水、堺利彦、西川光二郎らによって創刊された。日露戦争に対して非戦論を主張した同紙は官憲によってきびしい弾圧を受けた。同20号の幸徳の「鳴呼増税」が新聞紙条例に違反、発禁が相次ぎ、創刊一周年記念号に『共産党宣言』が翻訳掲載され、再び発禁となり、3人は起訴され、有罪となり1905(明治38)年1月に64号で廃刊に追い込まれた。
 
■4 大正の大阪朝日新聞「白虹事件」
大正デモクラシーの高揚は憲政擁護、閥族打破、言論擁護の運動でもあった。その中心的な役割を果たしたのは民衆とともに、新聞であった。大正はじめに政党と結び、憲政擁護で第3次桂内閣を倒した新聞は、今度は民衆と歩調を合わせ、寺内内閣との対決姿勢を強めた。 寺内内閣の非立憲的な態度は、新聞への姿勢でもかわらず弾圧的態度に終始した。
シベリア出兵問題(1918年)、米騒動(同年)に対して発禁を連発、とくに、米騒動に対しては一切の報道を禁止したため、『春秋会』(新聞社の社交クラブ)は「言論の自由への圧迫」として再々にわたり、取り消しを求めたが、寺内内閣は応じなかったため、内閣打倒へ立ち上がった。
1918(大正7)8月25日、寺内内閣糾弾の関西新聞社大会が大阪・中之島で開かれた。 村山龍平・朝日新聞社長を座長に関西の新聞、通信社など計86社約170人が集まって開催され、「大阪朝日新聞」は同日夕刊(26日付)社会面のトップで次のように報じた。
「我大日本帝国は今や恐しい最後の審判の日に近づいているのではなかろうか。 『白虹日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉な兆が黙々として…‥」
この記事の「白虹日を貫けり」が問題化し、日本の言論史上に残る一大筆禍事件「白虹事件」へと発展していった。 「白虹日を貫けり」とは中国の故事で、白い虹が太陽を貫いて見えるときは、国に内乱が起きるしるしであるという意味だが、当局は「日」が天皇をさし、不敬に当たるといいがかりをつけて、記者と編集発行人を新聞紙法違反(安寧秩序素乱)で起訴、2人は禁固2ヵ月の有罪となった。 かねてより、当局は政府へ批判的な「大朝」の弾圧の機会をねらっていたのである。 この事件で鳥居素川、長谷川如是閑、大山郁夫らの編集幹部が総退陣し、村山龍平社長も退陣した。『大阪朝日新聞』は廃刊の危機を迎えたが,当時の原首相は上野理一社長を呼び、編集方針の変更などの釈明を聞いた上で、発行禁止を見合わせた。 この事件をきっかけに、新聞自体の批判精神は低下して、新聞の企業化が一層進んでいった。
 
■5 出版警察の核心・検閲は発売頒布禁止で
戦前の日本の検閲制度、出版警察の核心は 原稿検閲制による発行禁止ではなく、世界にも類例のない 内務大臣による発売頒布禁止であった。
政府は西欧ブルジョア主義の「出版の自由」を認めず、大量印刷物の流通に対して事前検閲をすることは実際上不可能であるため、ときに応じて権力を行使できる発売頒布禁止を導入したのである。[奥平康弘、1983.132頁]。 この発売頒布禁止権は新聞紙法第23条、出版法第19条でそれぞれ定められていたが、司法審査から独立した絶対的なものであった。 さらに、内務大臣が行使するこの権限は中央集権警察組織下で実質は地方の末端警察が握り、より一層、恣意的に運用、処分がおこなわれたのである[奥平、1983、160-161頁]
 
■6 検閲の基準は当局にとって伸縮自在の弾力運用
では、具体的な検閲の基準はどのようなものであったのだろうか。 当局が新聞紙法第23条、出版法第19条での「安寧秩序素乱」、「風俗壊乱」と規定する基準一検閲担当官が参考にしたものは次のようなものであった。
●【安寧秩序素乱出版物の検閲基準】(一般基準) ▽皇室の尊厳を冒涜する事項 ▽君主制を否認する事項 ▽共産主義,無政府主義等の理論、戦略、戦術を宣伝し、その連動実行を煽動し、この種の革命団体を支持する事項 ▽植民地の独立運動を煽動する事項 ▽非合法的に議主義会制度を否認する事項 ──など計13項目であった。
●【風俗壊乱の検閲基準】 ▽春画淫本 ▽性、性欲又は性愛等に関する記述で淫猥、羞恥の情を起こし、社会の風教を害する事項 ▽陰部を露出せる写真、絵画、絵葉書の類 ▽陰部を露出せざるも醜悪、挑発的に表現された裸体写真、絵画、絵葉書の類 ▽男女抱擁、接吻(児童を除く)の写真、絵画、絵葉書の類 ──などであった。(以上、内務省警保局『昭和五年中における出版警察概観』)
この基準に基づく適用については取締当局によって伸縮自在の「弾力性」をもっていた。 大正時代には-時縮小した禁止範囲は、1932(昭和7)年以降、再び急速に拡大し、社会主義、労働運動に関する著作は以前にましてきびしい取り締まりにあった。 安寧秩序素乱の取り締まりの場合は1920年代に一時禁止基準はゆるむが、30年代になると再びきびしくなった。(油井正臣 他『出版警察関係資料解説・総目次』不二出版、1938年、24頁)。
こうした発売頒布禁止制度とともに、内務省は超法規的な記事掲載差し止めをおこなった。 これは重大事件が起こったとき、この記事を掲載すると発売禁止になるぞ、とあらかじめ警告するもの。新聞側は発禁による不測の損失をまぬがれるために歓迎し制度化したが、もともとは新聞紙法上でも認められた処分ではなかった。 この“差し止め処分”は禁止事項の軽重によって、
① 示達/当該記事が掲載されたときは多くの場合、禁止処分に付すもの。 ② 警告/当該記事が掲載されたときの社会情勢と記事の態様いかんにより、禁止処分に付すかもしれないもの。 ③ 懇談/当該記事が掲載されても禁止処分に付さないが、新聞社の徳義に訴えて掲載しないように希望するもの。
以上の3種類があり、「懇談」は少なかったが、「示達」、「警告」は乱発された。これに触れること、発禁などを受けるため、無視できない。 さらに、これ以外にも、便宜的処分として発禁処分にするほどでない場合は該当の部分のみを切除する「削除」処分や注意だけの「注意」処分もあった。削除処分は1933、34(昭和8、9)年に年間200件、注意処分は1932(昭和7)年には約4,300件に達した。
 
■7 15年戦争と幕開けと言論統制の強化
1928(昭和3)年3月15日には日本共産党に対する一斉検挙のいわゆる“三・一五事件”によって、労農党の関係者ら千五百数十人を検挙し弾圧を加えた。 「新聞紙法」、「出版法」による発禁件数は一挙にはね上がっていく。
1931(昭和6)年9月、日本軍による満州事変の勃発で、中国への侵略、十五年戦争の幕が開く。言論統制は一段ときびしくなっていく。 「安寧秩序素乱」による新聞、出版の発禁件数は翌32年には4,945件と1926(昭和元)年の412件の12倍にも激増して、ピークに達した。
満州事変以降のファシズム化の過程でメディア統制の一つの特徴は新聞紙法、出版法を補完、併用する形で、他の諸規定が利用された点である。 たとえば、出版法による発禁処分に該当しない街頭での選挙ポスター、ビラの類にも、治安警察法(1900年)第16条での往来などでの表現の自由を取り締まる規定を適用するように内務省警保局は指示。これはレコードにも拡大適用され、従来は各府県ごとに任されていた取り締まりが1932(昭和8)年10月から、内務省によって統一的におこなわれ、事実上、レコードの発禁処分をおこなった。 翌34(昭和9)年8月の出版法改正によって、レコード類は出版法による発禁、差し押さえの対象となった。レコードの取り締まりの内容は圧倒的に風俗取り締まりが中心で、兵隊漫才が「軍の統制紀律をみだす」などとして取り締まられた。
1937(昭和12)年7月に、日中戦争が起きると、新聞紙法第27条が発動された。 「陸海軍大臣、外務大臣は軍事・外交の記事の禁止、制限をすることができる」という内容で、陸、海軍省令、外務省令で記事掲載が制限された。
 
■8 検閲から総合的な言論統制へ
日中戦争による本格的な臨戦体制から、マスメディア統制も従来の検閲という消極的な抑圧統制から、国民を積極的に戦争体制に協力、同調させていく方向へ転換、情報操作、プロパガンダ機能を重視した稔合的な組織、体制づくりがおこなわれた。
1938(昭和12)年4月、国家総力戦を目指した準戦時体制の国家総動員法が公布されると、メディア統制も事業面から休止、合併、解散の命令(同16条)という生殺与奪の権限が政府に握られることになった。 記事掲載の禁止、制限という言論面だけでなく、企業体としての生存にかかわる心臓部を押さえられ、その後におこなわれる新聞の統廃合、一県一紙への道を開く結果となる。
さらに、積極的なプロパガンダ体制づくりとしておこなわれたのは、内閣情報局と国策通信会社「同盟通信社」 の組織、設立である。 1936(昭和11)年1月に「電通」、「連合」の両通信社を強引に合併させて「同盟通信社」を誕生させた。内閣情報委員会が万難を排して、合併、同盟発足のために協力した。 政府は世論指導の中心に、この同盟を置き、毎年莫大な交付金を与えて、朝日、毎日、読売などの大手中央紙を巧妙に牽制しながら、言論統制を推進したのである。
情報宣伝システムはさらに太平洋戦争へ向けて整備され、言論統制の最終的な決め手となったのが、用紙統制であった。 戦時体制が進行するなかで、不要不急品の制限という目的で用紙割り当てがおこなわれ、新聞、出版にとっての死活にかかわる用紙の統制が、一つ加えられた。 政府へ批判的なこ怠納やメディアは用紙割り当てをてこに締め出され、弱小紙の整理統合が強引に進められた。 内閣情報局によって立案された統制団体である「日本出版文化協会」が1940(昭和15)年、「日本新聞連盟」が1941(昭和16)年に相次いで設立される。 一県一紙を目指した新聞の整理統合は1943(昭和18)年10月に完了するが、新聞は統合前に2422紙あったのが55紙に、出版社は3664社が203社にされていた(塚本三夫「戦時下の言論統制」 城戸又一・新井直之・稲葉三千男 編『講座現代ジャーナリズム歴史』時事通信社、1974年、147頁)。
 
■9 平洋戦争下の言論統制
1941(昭和16)年12月についに日本は太平洋戦争に突入した。 太平洋戦争中にはそれ以前の日中戦争下などとは比べものにならないほど厳重な思想、情報、言論統制がおこなわれた。
【治安、警察関係】 刑法、治安警察法、警察犯処罰令、治安維持法、言論・出版・結社等臨時取締法、思想犯保護観察法 【軍事、国防関係】 戒厳令、要塞地帯法、陸軍刑法、海軍刑法、軍機保護法、国家総動員法、軍用資源秘密保護法、国防保安法、戦時刑事特別法 【新聞、出版関係】 新聞紙法、新聞紙等掲載制限令、出版法、不穏文書臨時取締法、新聞紙事業令、出版事業令 【郵便、放送、映画、広告関係】 臨時郵便取締法、電信法、無線電信法、大正十二年通信省令第八十九条、映画法、映画法���行規則、広告取締法
このほかにも、新聞にかぎると、さらに内務省差止事項、陸・海軍、外務省による禁止事項、宮内省の申し入れ、情報局懇談事項、大本営発表、指導原稿でがんじがらめにされた上に検閲が2重3重におこなわれ、情報局、内務省、陸海軍報道部、航空本部、警視庁検閲課でチェックされた。
検閲の総本山の内務省警保局検閲課には1942(昭和17)年5月当時、85人の担当者が目を光らせていた。 このなかに新聞検閲係があったが、43年中の新聞の事前検閲ほゲラ刷、またほ原稿によるもの約9万件(一日平均250件)。 このうち不許可処分は1万2000件(全体の13%)にのぼった。また、電話によるものは約5万件(一日平均140件)で、合計14万件に達した(松浦総三『戦時下の言論統制』白川書院、1975年、108頁)。
 
■10 コミュニケーションの自己崩壊
こうしたきびしい検閲で、開戦直前の日米交渉での野村・ハル会談は「朝日新聞」の特派員が60数行の特電を送稿したのに対して、最終的にたった2行半に削られてしまった。 交渉内容が書けないのは仕方ないにしても「2人はまず握手を交し」が対米親近感を表現する、「会談一時間」が交渉緊迫感をかもし出す、「交渉はなお続行されるだろう」が前途推測不可でズタズタに削られた結果であった。
太平洋戦争がはじまったころの検閲の実態について、朝日・毎日・読売とわたり歩いた名文記者として知られた高木健夫は次のように述懐している。
「新聞社に報道差止め、禁止の通達が毎日何通もあり、整理部では机の前にハリガネをはって、これらの通達をつるすことにしていた。この紙がすぐいっぱいになり、何が禁止なのか覚えているだけでも大変で頭が混乱してきた。禁止、禁止で何も書けない状態であった」
こうした徹底した検閲の一方で、太平洋戦争の報道のシンボルと化したのが、大本営発表である。 嘘と誇大発表の代名詞となった <大本営発表> だが、戦争の最初の半年間は戦果や被害はほぼ正確であった。 それ以後は戦果が誇張され、最後の8ヵ月は嘘の勝利が誇示された。戦争の全期間を通じて、戦艦、巡洋艦は10・3倍、空母6・5倍、飛行機約7倍、輸送船は約8倍もその数を水増しして発表された。
事実の徹底した秘匿、検閲というコミュニケーションの切断が逆に虚報を生み、増幅して、送り手と受け手の相互関係を成立不可能にしていく。 戦前のファシズム体制を支えたメディア統制の総合的極限的システムはこのコミュニケーションの断絶によって、自己崩壊していったのである。
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(出典)→日本メディア検閲史 <新聞法、出版法について> | 前坂俊之オフィシャルウェブサイト http://www.maesaka-toshiyuki.com/massmedia/3838.html
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