20240407
「東京の街に出てきました。相変わらずワケの、わからないこと言ってます。」というのはくるりの東京という曲の歌詞だが、20代前半に北海道から東京に戻ってきたよりも一層色濃く、この歌詞が身体に馴染んで俺はいつまでも相変わらずワケのわからないこと言っていますなんだろうなと思う。
東京での暮らしが始まって1週間が経った。歳を重ねれば重ねるほど、時間が過ぎる速度は加速していくものだが、この1週間はこれまでの北海道での一ヶ月よりも一年よりも長く感じた。その理由は二つあって、一つは家の問題と一つは仕事の問題だった。
つまらない方から書く。仕事の問題だ。俺は北海道の職場ではそれなりにブイブイ言わせて活躍することができていたが、東京の仕事を知って感じたことは無力さだった。大学で人気者だった新卒の男の子たちが一般的に感じる無力さ同様、俺は東京の仕事量や周りのスキルにきちんと圧倒され、あーばばばと宣うこととなった。
具体的に言えば、Excelでピポットテーブルを使いこなすことなぞしたこともなかったが、周りのみんなはそれを呼吸するがの如くできる。他部署や他社との電話での"お話"をすることなんて今まで俺には無く、急にやらざるを得ない状況になった時に無意味なエヘヘへ〜という不気味な笑みを電話相手に聞かせてしまい気色の悪い結果となるが、周りの人はそんなことを普通にやってのけてしまう。そんな環境であることを期待していたにも関わらず、今の周りにとって普通のことを普通にできないという事実に直面してきちんと落ち込んでいるし、まあ新卒みたいなもんだからいずれできるようになるっしょという気持ちでなんとか乗り切ろうときちんと四苦八苦している。
業務量も北海道の頃の体感比4倍で、午後になるともう頭がピヨピヨしてしまう。労働時間もこれまでは19時まで残業したら俺は今日頑張った!と思っていたが、今は朝6時に起き19時半まで働くことがデフォルト。19時半からが残業だよなあと錯覚してしまうような環境がまだ1週間も働いていないのに当たり前と化している。
「なんで東京で働きたいの?」と質問されたらどう答えよう。理由は死ぬほどある。前の日記に書いたように、若かりし頃に得た東京の暮らしへの憧憬だとか、父親が高卒ででかい会社の偉い人になったからその視点や世界を味わってみたいだとか、目標や乗り越えなくてはいけない壁のようなものがないと退屈してしまう俺の性質だとか、社会人として北海道時代の俺への評価は果たして適切だったのか知りたいというような自身の社会性への期待だとか、シンプルに金が欲しいという浅ましい気持ちだとか。
それらさまざまな理由をもって東京に来たはずだったが、現実はそう甘くはない。今はなんとか、持ち前の「全員殺すぞ」という気持ちと、「なるようにしかならない」という適当な気持ちで4月1日からの1週間を乗り越えることができたが、今後どうなっていくのかは正直わからないという気持ちもあるし、まあ俺はなんだかんだで上手いことやっていくでしょうという根拠のない自信も微かにある。アサハラ鬱病編が人生に無いことを祈りつつも自分自身に健闘を祈る。
二つ目が家の問題だ。北海道では綺麗な1LDK、浴室乾燥機付、エアコン付、札幌中心まで徒歩5分で家賃7万円程度という、こと"家"という観点では何不自由ない暮らしをしていた。東京に引っ越すとなった時に、選択肢としては自身で賃貸を借りる、社宅に住むという2択があった。今でこそ思考停止していたなと反省することではあるが、奥さんと2人で住めるような家で、俺が住みたいエリアに住む家を借りて住むとなると家賃は最低でも12万円ほど必要だった。それに比べて、社宅は家賃1万円。年間コストで言えば120万円社宅に住む方がお得だった。その120万円という暴力にあえなく屈し脳死で社宅を選んだが、これがとんでもない物件だった。
駅徒歩15分、は最悪許せる。6畳間の和室が二つあることも最悪許せる。エアコンやガス台がないことも最悪許せる。部屋の壁と床に隙間があり、そこから冷気が流れ込んでくることや、小さな蜘蛛たちがどう頑張ってもそこかしこで跳梁跋扈してることも全然許せる。なぜなら俺は元無職だから。汚い家にはそれなりに慣れているつもりだから。が、しかし社宅のそれは俺の想像を悠々と超えており、初めて家に対して生理的に無理という気持ちを抱いた。
問題は水回りにあった。まず風呂がバランス釜。バランス釜って言葉みんな聞いたことある?少なくとも俺はこの家に住むまでなかったよ。加えて風呂の床は汚い雑巾みたいな色をした石でできており、シャワーの水圧は猫のおしっこよりも弱い。キッチンは一切水を流してなくとも時折ゴポッという音を立てて、ゲロを煮詰めたような香りが定期的に部屋に供給される。洗濯機置き場という概念が部屋に存在せず、今も洗濯機はキッチンの片隅で深い寝息を立てている。形として家のていをなして入るものの、昭和末期の団地の暮らしに時間軸を移行された感触がして、住めるような努力の手段も考えたが、とても住めたものではないというのが率直な感想だった。
可哀想なのは妻だった。俺の目的で東京の正社員を辞め北海道で暮らし始め、結婚して生活が安定してきたと思ったらまた俺の目的で東京に連れ戻され、住んだ家はゴミ廃墟、在宅勤務の妻にとって家というものがどんなに重要かは計り知れないが、結果的に相当量のストレスを与えることになった。
今日4月7日はそんな現状を打破すべく、2人でヘロヘロになりながら不動産屋を駆け巡り、ようやく良さそうな家を見つけたものの、いつも通り俺のキモさのせいで妻との話し合いがうまくいかずに喧嘩になって引越しの話は宙空に霧散した。
自分の嫌なことの話、お金の話など、すったもんだの言い合いの末、妻は俺に対して「決めて欲しい」と言った。俺は「引越しをしよう」と言った。その後に俺は自分だけが責任を取るのは嫌だと思いその浅ましい気持ちを忌避するために「その上で最終決定をして欲しい」と妻に言った。それまでの流れから、最終的には2人で引越しを決めるという大円団を想定していたが、妻は少し逡巡したのちに「この家で頑張って暮らしていこう」という結論を俺に伝えた。
新しい生活には不安はつきものだ。俺は自身の自己肯定感と全能感でそんなものはお釣りがくるもんだと鷹を括っていたが、何事もそんなにうまくはいかないらしい。ひとまず明日の朝までに俺はこのゴミみたいな家で、これから暮らす覚悟をしないといけない。今日の日記は本当につまらないな。
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今年の前半は暇さえあれば劇場へ行っていたのに今全然行けていない!デヴィッド・フィンチャーの”The Killer”はおろか、スコ爺の新作もまだ観れていない。”The Killer”は配信になる前に観に行きたいけど…!そうこうしているうちに『インファナル・アフェア』もパトリシア・ハイスミスの映画も終わってしまう!12月はアキ・カウリスマキの新作『枯れ葉』が公開されるし、年が明けたらビクトル・エリセの最新作が…!意識的な無関心の時期がきてるけど、タイミング合わせて劇場に行きたいな。今こういう時代だからこそカウリスマキの”人間愛”に触れたい。
↑右は試写に行った友人から送られてきた画像。カウリスマキの映画に救われている人は沢山いるのだから、まだまだ引退せずにいてほしい…!
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今年は南方熊楠、串田孫一を知れたことで充分に幸せ。南方熊楠って全然知らなかったけど、知れば知るほど面白い人物だ。彼の研究、民俗学に特化せず言語学(ラテン語を独学?どうしたらできるの?)、精神学や人文学など多岐に渡りすぎていて、生きているうちに彼の脳内を理解しきれるのか不安になってくる。大学へ行かずに独学でオイはいく!っていう地の地でいく姿勢に密かなアナーキー精神を感じて惹かれてしまう。(ちょっと厨二病っぽいところが面白い)ここで彼の型破りな名言を紹介。
「肩書きがなくては己れが何なのかもわからんような阿呆共の仲間になることはない」
学歴や肩書きはない。組織にも所属せず師もなく独学で生涯在野で生きてきた熊楠さん。偉大な功績を残しながら、当時はかなり風変わりな人物だった模様。
「学問は活物(いきもの)で書籍は糟粕(酒のしぼりカス)だ」
蔵書家でありながら、不要と判断した本はキチンと返却していたらしい。
「権威に媚び明らかな間違いを不問にしてまで阿諛追従(あゆついしょう。相手に気に入られようと媚びへつらうこと)する者など日本には居ない」
ロンドン滞在中、ある大学の事務総長に腹を立て一言ピシャリ。
どうでしょう、魅力しかない人物だと思いませんか。来年は和歌山県にある熊楠の研究の場であり長く暮らした母屋を訪れたい。
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今は串田孫一にはまっている。人と自然のつながりが明瞭なわかりやすい表現、飾らない言葉たちで綴られている。ある部分でめざしたい文章、文体。この静寂な世界…静かな朝に読むのが至高。今は『雲の憩う丘』を読んでいる。27の随想、少しずつ味わいたい。
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そのほか先ほどの南方熊楠を始め『ノモレ』『パパラギ』など、今年は民俗に関する本を読んできた。文化人類学にはずっと興味と憧れをもっていて、大学では映画学と同じくらい学んでみたいと思っていた。もっと広い世界がみたいという漠然とした思い、日本とは違う世界の人たちの暮らしを体感したいという気持ちはいまだにずっと心にある。文明社会から遠く離れた人々の暮らしは至ってシンプル。こういった人類の衣食住に触れると決まって、モノに溢れ返った自分たちの生活が馬鹿らしく思えてくる。10年後はもっと情報化社会が進んでいるだろうし、自分の手を使って生み出したり足で稼ぐ機会がどんどんなくなっていきそう。そうなれば人間はどんどんダメになるだろうし、そこに自分は存在していられるかとても不安。人との連帯だけで何とか乗り切っていきたいけれど。指先だけで答えが分かる世の中でも、熊楠の「知の妖怪」精神で生き抜きたい。などと思う。
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今はもっと世界の、日本の往年の作家たちを知りたいという気持ちが強い。情報過多な現代に惑わされないよう、一度立ち止まって自分を見つめ直す時間を大切にしたい。
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↑今年のWBC。Jimmy Fallonみたいな人が映っていて、まさか⁈と思って調べたらやっぱりジミーだったみたい!(右側にいる頭抱えた水色シャツの人。)
今年は縁あって野球をたくさん観ている。WBCで人並みに大谷フィーバーがきたし、周りに野球ファンが増えたこともあり、初めてちゃんとプロ野球を見始めた。今は日本シリーズという、日本一を決める試合を一生懸命みている。ほんとはカードを持っている山本由伸選手がいるオリックスを応援したいのだけど、今は阪神タイガースを全力応援している。(ルールは勉強中!)
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私の家族は元々野球ファン。父は世間でいうまぁまぁなレベルの虎党だ。小さい頃ユニフォームとメガホンを持ちオリーブ色のパルサーに乗って、甲子園によく連れていってもらった。私が覚えているのはタイガースファンに対する恐怖心。地鳴りみたいな大歓声、メガホンをバンバン叩いて騒いで叫んで…圧がもうね、すごいやん、おーん。て感じ。甲子園は高校時代に行事で出て以来、一回も行っていない。今年は突然父の体調が悪くなり、実家に頻繁に帰るようになった。今まで滅多に戻らなかったので、兄と「これからはできるだけ家族と過ごそう」と決めた。はからずも家族と向き合う年となり、全員が少し照れながらできるだけ毎週末を大切に過ごしている。嬉しさと少し変な感じ。高校から各々が別々の暮らしを送っていた。家訓かわからないけど、早いうちから家を出て自活するのが当たり前だと思っていた。だけど今は顔を見せることが一番の親孝行なのかも、と思ったりする。
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エニウェイ今は阪神タイガースが優勝できるように応援している。(いっぱい勝ってる気がするけど一体何回勝てばいいんだ)今日は山本由伸さんが出てるので複雑な心境だった。してやられたり…。毎日勝つのは難しい。勝ち負けの世界で戦う人たちはみんな輝いてるなぁ。
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今日は朝から実家へ直行。しばしダラダラした後リニューアルオープンした神戸のタワレコに行った。前は店舗数が少なかったのでひと店舗が占める割合が大きかったのだけど、今回は店舗数が増えたためタワレコもリニューアルとはいえかなり縮小されていた。取り寄せていたアナ・フランゴ・エレトリコの新作とRachael&Vilrayのアルバムを購入。
↑アナ・フランゴ・エレトリコの新作情報。
↑細野(晴臣)さんがラジオでおすすめしていたRachael&Vilray。毎夜聴いてます。
家に帰り、バーベキューの準備。今日は庭でバーベキューみたいなことをしながら野球をみて過ごした。すいちゃん(義姉)の手伝い2割おしゃべり8割。野球は負けたけどいい一日だったー。
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以上、雑多な日記でした。みなさん良い週末を〜。
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「絵柄が古い」という指摘は、結論から言うと全無視してください。
自戒を込めて言いますが、これは編集者として未熟な時ほど口にしてしまう言葉です。
もちろん具体的な指摘は別です。
例えば「この目の描き方は、80年代に活躍された〇〇先生を代表とするものですね。この描き方の利点は華やかさが出る部分にありますが、逆に視線の向きが解りづらいという欠点があり、微妙な感情の違いを表現するあなたの作風の場合、不利な描き方のようにも感じます。最近は、この描き方の利点は残しつつ、欠点を補うように進化させた目の描き方が流行っていて…」
などと具体的な話をされ、「つまり絵が古いって言われた!」って仰ってるならば、その話は聞く価値があると思います。
でも、おそらく違いますよね?
もし具体的な指摘を受けていたなら「ここをブラッシュアップしてみよう」とか試行錯誤する方向に気持ちが上がったていたと思うのです。
今あなたは「これからも漫画を描きたいのに自信がなくなってきた…」という漠然として不安を抱いてしまっています。
それってつまり、「絵柄が古い」という「否定」を編集者からされてしまって、それをどうしたらいいのか、途方に暮れている状況から来ているんだと思うんです。
「絵柄が古い」という指摘は、一体なにを示しているのか?
古いって言葉は非常に漠然とした表現ですが、何年代の絵柄だと指摘されたんでしょうか?
大抵の場合は、何の具体的な知識も持たず漠然とした素人の思い込みを言っただけだと思いますが、たとえば「90年代に大人気だった〇〇っぽい」と思ったから、あなたに「絵柄が古い」と言ったと仮定しましょうか。
さて、ではそもそも論として、
90年代っぽい絵は描いてはいけないのでしょうか?
漫画のことだと難しい問いに感じるかもしれないので、
別のことに置き換えて考えてみましょうか。
あなたの友達に「古着ファッションが好きで、特に90年代に流行ったDCブランドをミックスコーデするのが今自分の中で流行ってるんだよね」っていう子がいたとして、
「その服、古いよ」とか「その趣味、古いよ」って言いますか?
あなたの友達に「オードリー・ヘプバーンに憧れてて、シンプルなんだけどエレガントなスタイルの服を着たいんだよね」って言う子がいたとして、「オードリー・ヘプバーンって昔の人だよ」「そんなスタイルに憧れるの、古いよ」って言いますか?
言いませんよね?
だって、その人の好みですから。
クラシカルなものが好きだって良いじゃないですか。
音楽でもそうです。
70年代から活躍する吉田拓郎に影響を受けたというあいみょんの曲に対して、70年代の音楽に影響を受けてるなんて古いからダメだよって言うべきだと思いますか?
さて、漫画の話に戻ります。
当たり前ですが、漫画も一緒です。
作家であるあなたが可愛いと思うもの、美しいと思うもの、素敵だと思うもの。
それは作家であるあなたの個性です。
だとするならば、
「絵柄が古い」という言葉は、作家さんの好きな絵の方向性・趣向性を否定する言葉です。
作家としての大切な個性に対して、美意識・価値観に対して「古い」というのは、それは…私は「悪口」だと思います。
あなたはアドバイスと称して、自分の美意識を傷つけるような悪口を言われて、傷ついているんです。
私も編集者で、編集長の任に就きながらも恥ずかしながらいまだに未熟で思慮が足りない人間なので自戒と��省を込めてこれを書いていますが、編集者は悪口を言った自覚などなく、あまりに未熟で、知識も浅く、自分の言葉がどういう意味を持つか、作家さんにどういう影響を与えてしまうかの考えも足りず、良かれと思って言ってしまったんだと思います。
あいみょんに対して「ギャルっぽい恰好した方がモテるよ?」というアドバイスを真顔でしてくる大人の図を想像してください。
ギャルは確かに最高オブ最高ですが、でも、その人のなりたい方向でないなら、それはバカバカしいアドバイスですよね。
「流行りの絵柄を練習して…」とありますが、もしあなたの個性に合わない絵柄を練習しているとするならば、それは似合わない服を着せられて、似合わないメイクを練習させられているようなものです。
自分の個性が全部「ダメな部分」に感じてしまって、辛くなってしまってるのでは?
それは想像するだけでも胸が苦しくなる状況です。
今すぐ「バカなことを言われた!」と怒るか、笑い飛ばすかしてください。
傷つけられていたんだ!と自覚して欲しいです。
その上で、編集者の未熟さの被害に二度と会わないために、ぜひおすすめしたいのが、「自分の目指す方向性」「テイスト」の「言語化」です。
あなたは新人なので、魅力がまだ開花しきってない状況ではあると思います。
上手くなる必要はまだまだある。垢抜ける要素が多々ある。
なので周りから色々アドバイスをもらう必要はあるわけですが、
「私の絵、どう思いますか?」と漠然とした問いかけをすると、相手が未熟なほど、その人の「好み」から出る視野の狭い意見を聞く羽目になります。
でも例えば「耽美な雰囲気を目指したいと思ってて…」とか、もっと具体的に自分が影響を受けたテイストを語るなど、具体的に目指したい絵のイメージを編集者と共有することが出来れば、おのずとあなたに必要なアドバイスだけをもらえるようになります。
漠然とした状況から抜け出し、一歩一歩目指す方向に上手くなっている時、やるべきことが見えている時、人はおのずとワクワクしちゃものなんじゃないでしょうか?
そうすればきっと、「自信を保つ方法」なんて考えずに済むと思います。
絵を描く時のワクワクする気持ちが取り戻せるといいのですが…。
心が折れる前に、この質問箱が届けばいいと祈っています。
畑中さん、いつも回答拝見しています。 制作に悩んだときは過去の回答を参考に、漫画を描く力を頂いています。 | Peing -質問箱-
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日記にしなかった15
今にも熟れそうなほど、紫陽花が色濃く咲いている
iPhone8から13にした。長年連れ添ってきたホームボタンが無くなり、顔認証に慣れない。写真を撮ってみると解像度が高くて、くっきりなんでも写ってしまう。便利になる分、窮屈だと感じる。
確かにシンプルで無骨なものをカッコ良く感じたり、憧れたりするけれど、こういう茶目っ気を散りばめてウキウキ生活してたいよー
日記を書いている途中で、携帯の通知タブにラインが入る。無意識のまま日記に、なんの繋がりもなく「さようなら」と打ち込んでいて、本心かもなと思いつつその5文字を消す
外に出るとひやっとして、涼しい。残暑すらなくて、夏が終わってしまうと予感する。彼とこの夏を過ごしたかったと過ってしまう。
どんな感情を湾曲させずに飾らずに素直に表現していたい。醜い感情だとしても。
何者でもない自分を受け入れていく
「でも一緒にいて楽しいから」って理由で一緒にいたけれど、きっと私は誰といたって楽しいわ。って気づいてしまう
“上手く言葉にできない”を言葉にしようとすることは、やめたくない
いつ、この記憶を手離せるのだろう
雪の中の通学路を歩いて帰ってきた時に「ココア飲む?」と温かいココアを母が出してくれることが多かった。自分も仕事をして帰ってきたのに、寒かっただろう娘を思ってのことだろう。大学生になっても、社会人になった冬もそうだった。何歳になってもわたしは母の可愛い子どもだ。
飲んで帰ってきた夜に「下着で寝ないでちゃんとパジャマ着るんだよ」と連絡してくれる人はもういない。
酔ったわたしとわたしの二人暮らしなので、ポッキーが3本だけそのまま冷蔵庫に入ってたり、洗い物してくれてるのにグラスが割れていたり、玄関の土間部分から一歩上がった床で並べられた靴があったり、朝起きて便座の蓋が壊れてたりする
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読書感想文37
リアルワールド/桐野夏生
※ネタバレを含みます
これはあくまで主観ですが、『OUT』といい『東京島』といいこの人の作品は極上の人物設定と序盤のキレは素晴らしいのに中盤以降が「えっなんでそうなる……?」と失速するイメージがあります。今作はというと……はい、こちらもそうでした。
読むにあたっては刊行が2006年であることを頭に入れる必要があるかと思います。日本最初のスマホは2008年のiPhoneですしTwitterも同様のタイミングです。つまりこの作中での"携帯電話"はまだメールと電話以外の機能はシンプルな、純粋な通信道具のひとつなのです。そして2ちゃんねる(現在は5ちゃんねる)以外のめぼしいSNSも存在しておりません。時代を鑑みてお読みください。
内容自体は割としょうもない(くだらないとかそういうニュアンスではなく複雑でも難解でもない、というニュアンスです)というかわかりやすいというか、母親殺しを犯した男子高校生の逃走劇とそれに伴い破綻していく女子の青春と友情が描かれています。主要登場人物は高3女子4人+高3男子の計5人で、各々が自分しか知らない&そして友人には見せたくない/見せられない姿と、友人達の前で見せる偽りの姿を持っています。友達の友達とは微妙にうまくやれなかったり、未成年で生活力がない故に日々の暮らしを守るために身内の汚点に目を瞑ったり……高校生だった時の記憶を思い返して、心の傷がチクリと痛む方もいるのではないでしょうか。とはいえ自分が高3の頃は本当に何も考えていなくて悩みすらないくらい頭が空っぽだったので、皆複雑に考えすぎでは?と思う部分もありましたが……。
現在は18歳=成人ですが、高3というと賭博の類はNGですし肉体的にはほぼ大人と同じであってもまだ子供、という印象です。自身の過去を振り返った時、当時の自分は社会に出ておらず学校という狭い世界でしか生きていない為に視野が狭かったな、と感じます。今だったら一笑に付すような出来事でも眠れないくらい苦しんだり……経験不足による選択肢の少なさよ。あと、まぁ、お金の無さ故に親等自分よりお金を持っている人、自分を養ってくれる人に屈せざるを得ない悔しさや不快感も抱えていたかと思います。自分の場合は家庭環境がアレだったのもありますが、学生で親の援助なしに一人で生きていくのはかなり難しいので、皆家庭に不満があれども嫌々ながら従っていますよね。あと、社会に出たことがないからこその無謀さや謎の自信があった気もします。数年後には社会の波にぼっこぼこに打ちのめされるわけですが、学生のうちはその身分によって甘やかされますからね……社会を知らないが故の無垢さと無知さは学生のうちにしか抱えていられないですからね!
肉体は元気でしたいことも欲しいものも山ほどあっても、資本力の無さや生活力の低さからから何もできないそういうわけで、人生の中でほんの一瞬でしかない十代後半は皆様もそれなりに屈折していたりしたのではないでしょうか。
全8章から構成されており、章によって視点が変わります。1章の主人公であり実質物語の主人公でもあるトシこと十四子の隣人、トシがこっそりミミズと呼んでいる隣家の少年が母親を殺害したことから一見仲良しのように見えた4人の女子高生達の日常は狂い始め、破滅へ向かっていきます。この4人、友達の友達とは別に対して仲良しではないあの感じが楽しめる距離感です!
結論から言うと仲良しグループ4人のうち2人は死にます。ミミズの母親殺しも重大な出来事ではあったのですが、この作品で筆者が突き付けてくるのはミミズの人としての汚い本性や殺意の強さ等ではなく、人の抱える多面性とその複雑さなのかな……と感じました。私の受け取り方が余りにも陳腐で恐縮ですが、そういう部分もあるのかなくらいにお受け取りください。性同一性障害に悩み病死した母親の影を抱えながら生きているユウザンなんかは特にわかりやすく描かれています。……今気づいたんですが内容と直接関係ない部分で語りすぎましたので、ここから真面目に書いていきます。
4人の少女達はミミズに自信の抱える闇やこうであってほしいと思う希望等を勝手に投影していきます。自分と同じ「母親殺しの罪を背負う者」として勝手に共感し善意を押し付ける者もいれば、努力を放棄した唾棄すべき存在だと認識する者もあり。しかし当の本人は矮小で情けなく、自分本位の我儘なクソガキでしかなくて……善意を押し付けた者は、結果的にミミズの好みではなかったことから無視され、最終的には憧れていた友人に自殺された上に遺書も書いてもらえませんでした(地味にきついな……)。
正直自分にはそこまでハマらなかったな、というのが事実です。というのも4人のうちの1人が興味本位からミミズの逃避行に同行し、これまた結果的に命を落とすのですが彼女の思考が良く理解できなかったからです。そりゃ他人のことを100%理解できる筈なんてないんですが、「何故そんなばかなことを」を思わせられっ放しだったので……いや、この軽薄さこそが彼女のキャラなので正解なのか、ううん?
正直今だったらX(旧Twitter)があるので作中の事件なんて1日で全国へ拡散、からの下手したら逮捕でしょうし、何より携帯電話の持つ機能と価値がインフレ起こしてますからね(おいそれと他人に貸したりできません)。うーん、興味のある方はどうぞ。
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連鎖反応 行列 バカ女🤣
あの、、
愛情込めて、バカ女言うとりますけん、あしからずw🤣
では、バカ女が下品なら、“流行”でもいいかw🤣
YMOのアルバム、
増殖 Multiplies
いいアルバムだよなw🤣✨👍
あらゆる病は、フリーラジカルが起因していると言っていいのかもしれない。
つまりは、“ネバコイ汚れ”、“増殖”、その反応に、浄化が追いつかない。。
連鎖反応
ってやつだよね…
一方、ポジティブな意味合いの連鎖反応もある。
ニューロン。
思考するにあたり、情報伝達をし、広がってゆく。
ネガティブでは不対電子、つまりバランスを欠いた存在が、どんどん増殖する。
これはつまり、右にふらふら、左にふらふらして、手をつなぐ事で、バランスを取る…
まさに、
迷える子羊
じゃない?🤣✨
カルト宗教が広がってゆく背景には、バランスを欠いた人間たちの、“同化意識”が作用し、宗教はどんどん信者を増やす…
200年前大正時代であれば、職業がない、だからお金も無い、そんな庶民が、憧れの軍人さんの入信する大本教に、我も我もと入信したのがうなづける。
憧れのYouTuber、イーロン某、金をちらつかせ、豪華な住まい、豪華な暮らし、見え隠れするフリーメイソン、生長の家、憧れの芸能人、見え隠れする創価学会、バランスを欠いた庶民は、スポイルされ、小学生までYouTuberになりたいと、白痴の低年齢化も進んだw🤣✨👍
私達は、ほとんどがバランスを欠いた存在だ。
良い側面は?
現状を打破しようとしたTwitterやらの人々、ライトワーカーたち、こういう存在もいる。
そんな存在は、魂で繋がってゆくゆえに、低次元の存在は手を伸ばせない、なぜなら、あまりにもフリーメイソンたちは低次元の存在だからだ。
だから、「集団」に立ち向かう事は、意味がない。
なぜなら、集団とは欠落した存在の集合体だから。
どこかにいる、[ジェネレーター]を叩けば、集団は結束を、徐々に解いてゆく。
日本をおかしくしたジェネレーターは、大本教だ。
これは、時代背景も手伝い、皆は仕事が欲しかった、お金が欲しかった。
YouTubeと、バナー広告のメカニズム。
YouTubeの収益化のメカニズム、
4,000回再生をして、初めて収益化プログラムに入れるw🤣
皆様、冷静になろうw🤣🤣🤣
一体普通の人間が、どうやったらいきなり4,000回も再生出来る?🤣🤣🤣
組織票しかないわw🤣🤣🤣🤣✨😎
組織票を集めるには?
宗教団体の組織票ほど強力なもんは、無いのよw
だって信者にやらせりゃいいんだもんw
バナークリック。
本屋に、バナークリックで億儲けた体験談の本を置く。
ベストセラーになれば、皆信じる。
冷静になろう、我々庶民はそんなにも阿呆だらけだろうか?🤣俺は違うと思うw
あなたの価格、計算します
、こんなサイトが大ブームになり、創業者は、「バナークリックで億稼ぎました」と、言う。
私も今もバナープログラム参加してるから、わかる話w
関係ないコンテンツなど、普通クリックなどしないし、見向きもしないよw🤣
じゃあ、20年以上前からあるバナークリックで成功した人の話は?
自動クリックのボッドによって不正クリック申請して、企業からお金をむしり取ってるだけだよw
それやりゃ、何万回とかクリック出来るから、そりゃ金持ちなるわなw🤣
伝助賭博と、同じ手口だよw🤣🤣🤣
しかもさ、
YouTubeもバナープログラムも、両方Googleのコンテンツやんかw🤣✨
そういう事よw
その派生した形が、不正選挙だよね🙂✨
まとめると、低次元の宇宙人意識たちは、実にワンパターンなやり方、存在の特性、連鎖反応と増殖を利用して、不正に富を築いてきた。
だからね、戦う事の無意味性を、僕は何度も言っているのです。
ジェネレーターを、叩け!
そゆことw
つまり、
単純に個々人の意識改革が、世界全てを変えるのは、幻想でも理想でもなく、単純に物事の摂理なんです。
あなたらしく、生きる。
やりたい事ありゃ、バランスを崩さず、やる。
お金欲しけりゃ、紙に書いて延々願う。
それ以上、何も要らないw🤣
シンプルだよねw
そして世界をめちゃくちゃにした犯罪者たちは、
自らの重みで、消滅するよw🤣✨✌️✨
イカサマは、
結果こうなるよなw🤣
※内容とは関係ないw🤣単純に中川いさみさんの絵が好きw🙂✨👍
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_230802
東京から自宅へ戻る電車の車内から。自店の開店までに間に合うように帰ろうとしたけど、しっかり寝坊しました。
常々、社会に適合していくのが難しいなーと思うのだけど、この前ホロスコープを見てもらって、やっぱりこのできなさは運命的なものだったのかと諦めがついたというか。
いわゆる一般的な「受け仕事」が好きではないのよね。やらされることがもうアウト。だから働くなら、上司がいる組織的な環境ではないフリーランス。合わせようとする考えも強いけど、違くない?と思うと表情や態度にも出るから、輪を乱す。
ある意味のムードメーカー的な素質もあるらしく(自分色に染める的な?これは全く自覚なかった。でもたしかに思い当たる)、チームを分裂させたりもしかねないらしいのだ(部活じゃんか)。
ホロスコープを見てもらったら、自分が日々の内省で少しずつ明らかになってきた「自分」といろんな点が繋がってしまって、後押しをされたような気持ちになった。やっぱりそうか、それならやってみようか。そんな感じ。
.
決めたことがあって、ひとつは「ちゃんとフリーランスとして独立をすること」。もうひとつは「愛を伝えていくこと」。それと「東京で働いて暮らすこと」。
この目標がくっきり目の前にある感じがする。今働いている場所は、その自分にとっていいブルペン的な環境ではあって、今はそれを謳歌する。今ある環境を存分に生かして、会社のためじゃなくて私のために働く。
フリーランスになる上での繋がり、愛を伝えていく(デザイン)スキルを上げ、手法を広げていくこと。あとシンプルに人にも愛を伝えていくことは私にとって大きなターニングポイントとなりそう。これは間違いないだろうな〜
.
東京に戻る思いは、この港町にきて早々には感じていて、ローカルに興味があったりそこに根ざしてデザインを生業としたい気持ちに嘘はなかったと思う。でも、自分のルーツ、原風景にローカル(東京以外)がないことは変え難い事実だった。自分の中に突き動かすなにかを感じることができないのだ。どこか他人事。
いま住む場所は人も含めとても好きで、個人間での繋がりを深めたいなと思う。この町を活性化させたい!元気づけたい!なんてさらさら思えず、ひとりひとりのお店やアクションを応援するためには何ができるだろうと思う。
.
これから自分はどんな自分になりたいのか、計画、目標を設定してもいいのかもね。
そう、ちょっと図星的に気づいてしまったのが理想主義で無計画なアーティスト気質なものに憧れていて、私もそうだと思っていた。
けど、本当はすごく計画性があって現実主義で成果主義、目標や課題を達成していくことで自信をつけていくのが根の私なのだ。
その実直な性格から夢想家的な方へ向かっていくことを望んでいるから、INFPなんだろうなとどこか納得もするし、そういう人に性別関係なく惹かれる。
自分の解像度を上げていくことをこれからもしたいし、上げるだけじゃなくてそれを実際にやってみないことにはなかなかこの生きづらさからは脱却できないのかもね。
さ、今日もいい天気。はりきってこー!
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堀部安嗣さん講演 (2023.02.22 於・前橋工科大学 演題『私のパッシブデザイン』
…
積極的に受け身であること
理系・文系 ふしぎな分け方
他の言い方は無いのかな、
→時間の流れかた、概念が、理系と文系では違う
横で一定・理系 時間とともに成長していく、という概念
ぐるぐるぐるぐる循環・文系
理系の人が作り上げるもの・コンピュータ、エアコン、車etc.
文系 1000年前以上の、弘法大師の書
200年以上まえのモーツァルトの音楽
ドストエフスキーの文学
いつの時代でも良いものは良い
1日の循環
建築の世界 理系的・文系的のバランスのとれた世界 いろんなタイプの人がいる方がよい
警鐘を鳴らす、ブレーキをかける建築家
堀部さんは、文系的だと自覚
建築は、果たして進歩しているか、進化しているか。
防水技術、免震技術 進歩
それらが人の幸せに役に立っているか
…
映画 ファースト・マン
静謐な映画
ニール・アームストロング船長の自伝的な映画
人類の栄光の光の裏にある闇、影
地球上では、自然ゆたかな所での家族との暮らし 東西冷戦 生存確率の低いロケットに乗り、たどり着いたのは空気もない死の星
地球は緑豊かで美しい土地だったのに、なぜ危険をおかしてまで
瀬戸内海の美しい自然
いまでも200年前の風景の残る
東京のほうが進んでるよね、との劣等意識を持つことが多い。もったいないこと。
讃岐市のプロジェクト
やりたいこと、ただひとつ。
この土地を、国立公園にふさわしい土地に戻してゆく 建築もいらない、けど、建築の役割はあるし、できること、人々に安心を与えることは建築に出来る
東京の風景 東京の方が豊かだと、地方の人は錯覚してしまっている ふしぎなこと
富山 宝物があるのに
兵庫 20年前は森だったところ
中央へ、宇宙へ
侵略 キリがない
宮沢賢治の詩 僕は家族にほめられた、僕は世界に誉められた、その先にどこへ行けば?
コロナ禍 ステイホームの自粛のとき、自分の足元を見つめざるを得ない→自分の地域の良い点に気づいた 足元への評価
roots
根源
根のあるもの
足元にすでに持っているもの
どんなものを土台にして、私たちは思考しているのか
…
原風景
横浜の鶴見
色んな人が行きかうカオス
鶴見線 鉄ちゃんのあいだでは有名
中学のとき、ヨーロッパ 写真を撮った
国道駅のアーチとのかさなり
自作でも 意識したわけではない、原風景が滲み出る →設計という行為
曹洞宗大本山 近所に
お寺のもつ悠久の時間の流れ、不気味さ、幼少期触れて生きてきたことは幸運だった
大きなお寺は風景が変わらない
50年前の樹 祖父と一緒にみた
再訪するもき、私はここで生まれてきたのだ、と実感 そこでの、子どもと老人のことを祖父と私にかさねる
記憶 確かな記憶のない限り、未来を見出せない お墓 ショッピングセンターが立ったり、バイパスが通ったりすることはない
静岡県浜松市 趣のある素晴らしい日本家屋・庭に住んでいた。今、その場所は道路の下に眠っている 往時の記憶が甦らない、すべて破壊されている 道路による記憶の破壊
…
見たこともない、感じたこともないものは
つくれるのだろうか?
設計 それ以外はできない
見て感じたもの、記憶を頼りに、今へ状況へ再現する
いきなり_
幸せについて
同伴者と吹雪のなか、つらい登山のイメージ
つらい、眠い、衣服はびちょびちょに
そのなかで、暖かな山小屋を発見する
幸せに とても小さな建築で、いろいろなことが出来る。食べる、眠るetc.
人種のちがいも関係ない、歳の差も関係ない
信じている宗教も関係ない inclusiveな
外部環境が室内に入り込んで来たような建築でも、庇の出が陽を遮ったり、風通しがよかったり、床の肌触りがよい、など。自然環境を、変換している。 ホモ・サピエンスの
日本の庭のおもしろさ 私たちにはあたりまえ、だが、フランスの建築学生と京都のこうとういんに行ったとき、おもしろい、おもしろい、と。音がおもしろい。アプローチの石のヴァリエーション 靴を脱ぐ所スノコ、畳、めまぐるしく床の材料が変化してゆく。こんな小さなところで、これほどの変化していくのは面白い。
新緑の美しく見える秘訣 背後の常緑樹
新緑の淡さを引き立てる、背景としての濃い緑
全部が新緑、全部が常緑、というのがふつう
アメリカとか
コンビネーションのあるのは珍しい
…
人間の感情はどうして生まれたのか
生存のために必要となる、咄嗟の行動や判断のために進化の過程で作られた
森でクマに出会う。恐怖の感情を抱く、その後の行動の選択肢を広げていく 恐怖という感情を引き金にして
仲良しの友達、幸せ、喜びの感情
こいつと付き合っていると、自分は生存できるぞ、との。
生存のための引き金、スイッチ
雪の夜の暖かな山小屋
生存の喜び
反対に、もう生きていたくない、とか、生存のことを考えていない人は、感情の起伏がなくなってくる 感情の、生存における大切さ
ヒュッゲ デンマークの概念
これを日常生活でしているからこそ、世界でいちばん幸せな国とされる
日本 先進国のなかでは幸せ指数が低い
ヒュッゲの反対をやってきた
150年前・200年くらい前は、日本もそうしていた。
今の日本の住の風景
居住性の進歩 けれども、それらがある程度達成できたとき、この姿が、幸せな住まいの環境なのか、と。
使い捨てられるもので風景が構成されている。幸せ感の乏しいのは、使い捨ての時代だからでは?
竹富島 色んな不便、不都合、多々
住まいや環境はトータル 幸せ感としてはこちら
…
あるものを活かす
パッシブデザイン
あるものとは?
気候風土、自然エネルギー
歴史、文化
記憶
風景
ハードウェアではなく、ソフトウェア、手に触れられないもの
ブリコラージュ ありあわせのもので作る
→『和』では?
和風とは、有り合わせで作られる、非常にレベルの高い行為から生まれる
家庭料理 素晴らしいブリコラージュ
冷蔵庫の残り物、スーパーで買ってきたものと合わせて
和 足し算 引き算
ほうれん草の胡麻和え
和えている
明太子スパゲッティ
日本の人たちの得意としていた
極東 漂流物を、イノセントにあり合わせて組み合わせて作りあげた
cnt.) ないものをねだる
自分がすごく良いものをもっているのに、何か他を憧れる
→侵略や戦争へ
70数年前、わたしたちも痛い目にあった。資源、植民地
…
モーターボート アクティブ
ヨット パッシブ
これからは燃料も高いし、すべてヨットのような建築に、という訳ではない。
ふたつの要素を足し合わせる、共存させる
どっちか一方では足りない、幸せ感を感じる住まいにはならない
目的
幸せ感 心身が楽になる 健やかに暮らす
手段
アクティブ+パッシブ
ご利益
省エネルギー
光熱費削減
…
温熱デザインへの取り組み
まずはパッシブ 太陽の恵み、土地の持つポテンシャル
アクティブ 性能の良いエアコン それを活かす
建物の性能 断熱性能、気密性能
ねこ は、居心地の良い場所を見つける天才
猫が天才であるわけではない。
ホモ・サピエンスが何故、そう思うか。
ホモ・サピエンスと猫の心地よいと感じる場所が近い 犬の心地よいところとはちょっと違う
猫 生まれたところは、暑いところ。暑さにはつよい
犬 暑いところではハアハア
ホモ・サピエンス 暑さに強い
30℃越えでも走れる
寒さに弱い パフォーマンスができない
吾輩は猫である、で、人を評して、やかんみたい、と。
ホモ・サピエンス アフリカ起源
それからどんどん北上
ほとんどの歴史を暑いところで暮らしてきた
→住まいをあったかくしましょう、というのが、私の建築観
…
私たちは生存できるのか
孫の世代まで、良い環境はあるのか
狩猟採取時代もよりは生存の危機を感じないことが多くなった現代人
コロナ禍でそれを意識
ほんとうに、このさき建築をつくれるのだろうか
生存の危機を感じたこと
→しっかり認識して、どういう建築が出来るのかetc.を自問すべき
あるものを活かす、というのがおおきなヒント
熱容量の大きな家 非常に効果がある
住まわれている人たちの幸せ感がおおきいと感じることが増えた
あるものを活かす 壁からの放射温度が快適
…
安定した家に居ると、外に出たくなる
屋根のかかった屋外に出たくなる
両親の葉山の家
半屋外
→ヒント、韓国の民家
冬の部屋と夏の部屋が分かれている。
冬の部屋 紙、オンドル
夏の部屋 ふきっさらし
潔い構成だなー。
…
鎌倉 扇ケ谷の家
スタディ いろいろ
最後の決め手はパッシブデザイン
南面の窓を大きく
あれもこれもダメ、となると何の一歩も踏み出せない 太陽光発電は、戸建ての屋根に乗せるのは素敵なことと自分は考える
けど、美しい河原の屋根にそれが乗るのは、というのもあった
情緒的なものと機能的なものを合わせる
デザインによってできうる
シンプルに、自宅の庭で野菜を作る、みたいに太陽光発電を考えている
電気、移動に莫大なコスト 自分の家で発電できることは爽やかなのではないかな
デザインの力です達成できる、との信念
…
南面 ソーラー
北側 庭的な グレアの少ない
アメリカ サンタモニカ
街区 太い道路 細い道路
太い 伝統 雑多なものが出ないように
細い サービス機能
(細い道路の方 日本の街の感じと似ている)
…
土地は親から譲り受けたものではなく、孫から借りているもの。ネイティブ・アメリカンの言葉
貰ったものなら汚してもよい
借りたものなら汚してはいけない
自身の所有の土地としても、その意識で
「土地を所有している」といっても、多くは所有していない、太陽、大地の奥、雨、風
原発
覚醒剤をやって人生を破滅した人が覚醒剤の怖さを語ると説得力がある
原子力の怖さ、ヤバさを、説得力を持って語れる 原発から10年、原爆から100年経っていない いま、原発が再稼働しようと。
…
↓私の質問への答え。堀部さんが書いていた、トタン小屋の形の美しさと、著書『建築を気持ちで考える』でのアスプルンドの章について
.
益子さん
住まいは掘立小屋くらいでいい
そこを整えいく
しかし、人の家を設計するとなると、、
自宅と人の家で設計が変わる
アスプルンドの章、気持ちが入っている
大好きな建築家
自分の設計は、形式性 構造の綺麗さ、コスト、施工性などから考えている。
正面性とか歴史性とかからではない
アスプルンドの建築、死者の声がする。彼の死生観が感じられる建築
…
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リノベーション
miyabiの暮らしのコンセプトは「時間」です。名古屋を中心に、リノベーション、リフォーム、不動産業を展開しています。シンプルなものが好きな方、自分だけのお気に入りに囲まれたい方、パリのライフスタイルに憧れる方、いつもの空間をもっと素敵にしたい方、あなたの願いを叶えませんか?憧れをカタチにするお手伝いをいたします。また、「何が欲しいのか、何が好きなのか、はっきりしない」という方も大歓迎です。私たちとの会話から、きっとあなたらしい生き方が見つかるはずです。
名古屋 リノベーション 見学
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食べる喜びと義務
私の大好きな漫画家のひとりである杉浦茂の作品には、食べることに対するこだわりが常に描かれています。もちろん杉浦茂に限らず、水木しげるや藤子不二雄両氏など戦争経験者の描く食への渇望というものは計り知れないものがあり、それをエンターテインメントとして表現することは何よりも後世への大事なメッセージとなりうるものなのですが、杉浦茂の漫画に出てくる「食べること」というのはいつの時代の子供も持っているシンプルで無邪気な憧れが詰まっているのです。大きいケーキや脂っこい洋食など、時には咎められてしまう食べ物というのは今でも流行ったりします。
杉浦茂の漫画の主人公は、今風の安い言い方をすればチート系と呼ばれるようなものであり、彼らは皆かわいらしい顔に明晰な頭脳と勇気と技術を持ち、自分を信じて疑わない人物に描かれています。それは冒険やプロレスを愛する少年のこともあれば発明家の少年のこともあり、町の子供たちからおじさんと呼ばれる忍者の場合もあります。私は創作においてあまりに主人公だけが万能なのは良くないと思っていますが、杉浦茂の漫画の主人公たちの作為のなさは読んでいてたいへん気持ちがいいものです。作為がないというのは最近の創作においてはなかなか難しい。
そんな主人公たちも、食については人一倍こだわりを持っています。彼らは冒険の前に必ず腹ごしらえをし、悪者をやっつけたあとはみんなでテーブルを囲みお菓子を食べます。これらの作品が描かれた時代はお腹いっぱいになること、栄養を摂ることがいかに大切だったかが伺えます。杉浦茂の漫画に出てくる食べ物をざっと書き出すとまずはなによりかによりコロッケとメンチ、それを挟むためのコッペパン、まんじゅうに団子におでんに蕎麦に天丼にカツ丼、ライスカレーや夜鳴き蕎麦も出てきます。はっぴいえんどの鈴木茂が変名に使った「ほしいも小僧」。そしてどの作品にも登場する、お花の形をした謎のお菓子。私はこのお菓子をいつも丸ぼうろのようなカステラよりはやや洋風で、スコーンよりは甘いふっくらしたソフトビスケットでイメージしています。紙袋にがさっと入っていて素手で持ってもくずれず、卵を塗って焼き色がついているとなおイメージ通り。このお菓子は殿様が食べていることもあれば西部劇に出てくることもありますが、杉浦茂に時代考証などというのはあまりに意味のないことです。
杉浦茂の食への思いは実際の食べ物だけではなく、セリフや背景にもたっぷりと出てきます。
「ほしいも小僧」というのは「ドロンちび丸」に出てくる脇役なのですが、この作品は杉浦茂の代表作のひとつであり、作者自身はもちろん戸川純や岡崎京子もお気に入りの作品のようです。(私が最初に杉浦茂を知ったのは岡崎京子が「ドロンちび丸」を紹介していたからでした)「ドロンちび丸」は漫画としても読みやすく決めゼリフ満載の入門編にぴったりな一冊ですが、特に印象的なのは「まんじゅうならいつだって食べられらぁ」「だれだってそうだよ」というやりとりです。「だれだって」じゃないですよね、まんじゅうなんて。でも言い切っちゃうところがめちゃくちゃ面白い。私はあんまり餡子は好きじゃないのですが、好きなものを食べた時は「〜ならいつだって食べられらぁ」と言ってしまいます。
「猿飛佐助」に出てくる食堂に貼られた「ジャンジャン食べてポカスカ払ってスタコラ出ていくよいお客 店主」は何回読んでも面白いです。私も外食すると長居するタイプではないのでよいお客だなぁと思ったりします。「人の昼めし見たら腹へってきたよ」「三皿つまり九つ食っちゃったぁ」「天丼はいつ食ってもいいなー」「このそば安いね」とかほとんど全てのセリフが大好きです。まんじゅうも天丼もいつ食ってもいいものでは決してないですが、まんじゅうや天丼をいつ食ってもいいと思える健康さに眩しさを感じます。特に好きなのは猿飛たちが旅の途中で泊まった宿の食事が卯の花やお澄ましだと聞くと「ぞっとせんなぁ」と言うところです。私ももう中年ですが、渋い和食の良さがまだいまいちわかりません。お菓子を食べて「あまいうまい」と言ったり、なにか食べて「うまい!おいしい!」と言ったりするのはシンプルながら感激が伝わってきてマネしてしまいます。「よいにおいだプンプン」も使ってしまいます。(猿飛佐助は何度か描かれているので、このセリフはすべて同じ本に出てくるものではありません)
「アップルジャムくん」は最初は洋風のおしゃれな漫画の雰囲気を持って始まったものの、やがてスケールの大きな冒険物になり最後はなぜか貧乏長屋で暮らして終わるのですが、この後半の下町貧乏長屋編がとても面白いのです。面白いけど、主人公ジャムくんと同世代の少年が七味唐辛子の行商にやってくると、今食べているうどんに試しにかけさせた後からっぽのがま口を見せ「これを見よ」と言って追い返したり、近所の子供達のお世話を頼まれて「お金のかからないところへ行こう」と言って公園で粉末レモネード(粉レモン)を売っているおじさんから全員分の味見をさせてもらって「おかわりはいりませんよ」と言ったり、なんというか良く言えばたくましい。世界を股にかけていた漫画の主人公からの落差が面白いです。最終回も個人的には杉浦茂作品屈指の面白さです。
「ミスターロボット」に出てくる学生の下宿の壁に貼られた「勉強するにはパンよろし」というフレーズも好きです。漫画には出てきませんがコッペパンを齧りながら勉強している昔の学生の姿が浮かんできます。(そしてこの学生がそろそろ寝ようという時に言うセリフ「勉強してやったなぁ」が私は大好きです。私も今日はけっこう頑張ったなという時には「仕事してやったなぁ」とつぶやくことにしています。仕事や勉強というものはやらなくてはいけないからやるのであって、仕事や勉強がアイデンティティになるのは良くないし、こういう心持ちでいたいものです)
しかし、時に人は食べること以外に気を取られる場合もあります。私も常に食の好みや食欲が変動し、これはホルモンバランスによるものなので逆らっても無駄だとあきらめていますが、それにしても食べるということに一日中、一年中興味を持ち続けるのはなかなか難しいことです。
朝起きて今日はこれとこれを食べよう_杉浦茂風に言えば「ギョーザにタンメンといくか」という日もあれば、一粒で栄養が摂れる薬でもないかなぁという日もあります。そんな日にいつも思い出すのは「アンパン放射能」という作品に出てくる「怪星ドロップ」に住む人たちのことです。
「アンパン放射能」の主人公は発明少年ドンちゃんとその仲間たち、博士にロボットたぬきなどのキャラクターで、彼らは驚異的な科学力で世界を冒険します。ライスカレーが大好物のロボットたぬきのかわいらしさといったらないのですが、それはさておき彼らは冒険の途中「怪星ドロップ」という星に辿り着くのです。自分たちで自分たちの住む星を「怪星」と名乗るクールさもなかなかですが、そこに住む人たち(瓶をかぶったような宇宙人)の食に対するクールさもたまらないものがあります。彼らは水に薬と栄養を溶かしたものを飲み、口にするのはそれだけです。そしてお腹を空かせたドンちゃんたちに「地球のやつはばかものだね 手間をかけて食べものを食べるなんて」と言い放ちます。しかしこの「ビタミン」はドンちゃんたちにとっては「わぁまずい くさくてにがいや」という代物です。そこへ追い討ちをかけるように「これがまずいの?おまえたちはいよいよばかものだね」と言うのです。杉浦茂の漫画の登場人物というのは、ギャグ漫画というものはまあ大体そうなのですが、非常に辛辣で言いたいことを平気で言い、周りの人たちもそれを根に持ったりせずせいぜい「こいつしんぞうだなぁ」と言う程度なのですが、それにしてもこのセリフはすごい。もしかしたら、食べ��喜びを常に描き続けた杉浦茂にとってこの宇宙人のセリフは、理解し合えない別の生き物というものを最もわかりやすく表現したものだったのかもしれません。藤子・F・不二雄もよく、地球より文明がずっと進んでいたり地球とは全く別の価値観を持ったよその星というモチーフを描いていました。それを「よそにはよその常識や正しさがある」とクールに表現すればするほど、他の部分のユーモアやあたたかさが伝わってくるし、大人になると作者の教養や視野の広さを感じるのですが、それはそれとして怪星ドロップに住む人たちの理屈も実によくわかる。何か食べるということに対してレビューサイトで星いくつとか、この季節はどこそこで獲れたこれを食べるべきとか、熟成肉とか、「いよいよばかものだね」と思わず言いたくもなります。(特にアンジャッシュの渡部に)食べ物というのは贅を尽くし趣向を凝らせばキリのないものですが、しかし今現在の日本ではその辺で買ってきた100円ぐらいのおにぎりやパンでも十分おいしいのです。そんな状況で食べ物にそこまでリソースを費やすのはくだらないような気もする。もちろん、たまの記念日やなんかに珍しくて美味しいものを食べたいというのは私だってそうです。見た目の可愛いお菓子や伸びまくるチーズを写真に収めたいというのもよくわかる。しかし時には、人間には食べるよりも大事なこともあるのではないかと思います。薬と栄養を溶かした水で済まして、他に打ち込まなくてはならないこともあるのではないでしょうか。そういう一方的ではないものの見方を、子供達の読む物で宇宙人の口を借りてサラッと描くことはとても大切だと思います。私も人のことをあれこれ言えるようなりっぱな人間ではないですが、コロナ禍においては「地球のやつはばかものだね」と何度も思ったし今も時々思っています。
グルメ漫画というのはすっかり定番のジャンルになりましたが杉浦茂や藤子不二雄のシンプルすぎる表現を見た後では、グルメ漫画と呼ばれる作品のわざとらしさが気になってしまいます。特に嫌いなのは「んーっ」と言ってこういう目をぎゅっと瞑るやつ(>へ<)と、「焼けた味噌の香ばしさがおいしーっ」「素朴な風味がホカホカのご飯に合うーっ」とかいうようなとても説明くさいセリフ回しです。評論してる場面だというのならまだいいのですが。私はナガノの「ちいかわ」が載った時だけモーニングを買うのですがそこに載っていた「なに食べ」を読んで、なんでみんなこんな漫画に熱中してるんだろうと思いました。「お醤油の染みたもも肉食べちゃおーっと」って普段の飯食う時にこんなこと言うやついねーよ。
ナガノの描く食べ物描写はとっても好きです。私はナガノ氏が好むすごく辛いものとかポテトにシェイクを付けるといったようなしょっぱ甘いものはあまり好きではないのですが、ちいかわやナガノのくまの食べ物描写を見て今まで「しょっぱい」というのはネガティヴなものだと思っていたので、「しょっぱくてサイコー」「しょっぱみがあって…うまッ…」というセリフにはとても驚きました。しょっぱいっていいことだったんだ!と考えを改めさせられたのです。それと「買った方が早インパラ」というのはよくわかる。いくら土井善晴が力抜いていきまひょと言ったところで作りたくない時はあります。食べたくない時もある。杉浦茂やナガノの漫画を読んでおいしそうだなと思う時はあるし、それはそれとして怪星ドロップの住人の言う通りだと思う時もあるのです。
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アニメ紹介#1_「咲-Saki-」
ちょっとアニメブログっぽいことしたり
咲知ってる?
こんなブログ見るやつならまあ名前くらいは知ってるとは思ってるけど
あらすじをざっくり説明すると
主人公 宮永咲が高校の麻雀部に入って全国大会優勝をめざすお話
また、基本的に登場キャラクターは麻雀において超常的な能力を持っている異能力麻雀バトル漫画
という感じなんだけどもまー面白いんだなこれが
麻雀のルール知らなくても楽しめる
こういうスポーツ・部活モノの弱点として「ある程度その競技への知識が無いと楽しめない」というのがよくある
その点、実際の麻雀はルールが複雑で絵面もそんなに面白くない。加えてプレイヤーの年齢層も基本おっさんなので、麻雀作品といえばシリアスでハードボイルドな静かな展開になりがち...
↑アカギ(上)、哲也(下)かわいさの欠片もない
どっちも名作なので面白いけどもどうしても敷居は高い...
だけど「咲」という作品はむしろその逆で麻雀の読み合いの要素を限りなく削って、その分キャラクターの掘り下げやバトル展開の勢いを重視しているので敷居が低くとても見やすい
実際俺も「咲」を見て面白かったから、麻雀のルールを学び始めた
そのくらいキャッチーで見やすい作品だよ!!
↑「咲」1期登場 池田、かわいいね
キャラクターがかわいい、見ろ
これに尽きる
「咲」が人気なのは間違いなくキャラの魅力にある
先に断っておくとこの作品に男は登場しない(厳密に存在はするが)
なので可愛いキャラを邪魔なく延々と眺めることができる
また咲世界の常識は我々が暮らす社会と大きく外れているため露出狂レベルの服装が平気で存在している
なんなんだコイツら...
上記の単純なエロ要素以外にも、敵も味方も関係なく多くのキャラの背景と、各キャラが大会に挑む覚悟を掘り下げながらストーリーが進展していくためキャラの魅力がどんどんわかってくるのも良い
阿知賀編なんかは阿知賀高校での麻雀部の結成から大会出場までのキャラごとの苦悩を描くため全キャラ好きになった
見ろ
「咲」大筋のストーリーは非常にシンプルで、伏線を張り複雑に物語を展開するような作品ではない
ただその展開の勢いとキャラの深みの出し方がめちゃくちゃ上手なので麻雀かどうかと言うよりイチ部活モノとして見るのがいいと思うよ!!というか面白いから見てくれ!
おわり
そんなわけで「咲-Saki-」の紹介おわり
こんな感じで今まで見てきた作品の紹介もぼちぼちやっていくつもりなんで生暖かい目で見てやってください
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『贅沢は味方』
所用を済ませたあと、駅まで歩いている帰り道、わたしはなんてつまらない人間なんだろう、という気持ちが充満してしまって、悲しくなった。しかも周りは立派な住宅街で、いっそうその気持ちを強くさせる。わたしは現実主義。明日のこととか考えずに思いっきり遊んだりお酒を飲んだりとか、できない。その日暮らしとか、できない。その時の気分で、選べない。なんてつまらない人間なんだ!
くさくさしながらも、最寄りの駅で降り、とりあえず、駅前のチェーン店のコーヒーショップに立ち寄った。深煎りのあまり美味しくないコーヒーたっぷりサイズとクッキーを選び(このときもまだジメジメしている)席に着くと、ふと薄いクリーム色にエンジのピンストライプのシャツに黒ぶちメガネの物静かそうな人が目にとまった。というのもなんとこの人、ただ座っていただのではない。ゴキゲンだったのだ(おそらく)!
彼は音楽を聴きながら携帯を触っていたのだが、彼の絵を描くのであれば、きっと顔のそばに音符のマークを添えられている。もしくは「ルン♪」という音のない擬態語。しかも彼はなんと、チョコレートシェイクを召し上がっていた!しかも、少しづつ、大切そうに。この姿を見て先ほどまでのジメジメした感情は一気に吹き飛び、とたんにわたしも上機嫌になってしまった。機嫌の良い人を見るのは気持ちがいい。見ているだけで気持ちがいい、というのはすてき。セクシーだとおもう。そういう姿に憧れる。人間じゃなくても、動物でも、建物でも、本でも。
さて話は変わるが、家から歩いて10分くらいのところに大好きなコーヒーショップがあり、ここはわたしにとってお風呂のような、毛布のような存在である。あたたかくて安心する。この店で美味しいコーヒをいただきながら、本を読むと心が落ち着く。読書は個人的な行為なため、現実に戻って来れるかときどき心細くなることがあるけれど、このお店ならびにお店の方々に見守られていると思うと安心して読み進められるのだ。小さい子が親の存在を確かめながら一人遊びをする感じ。数少ない、わたしのとても贅沢な時間の過ごし方。
そう、たぶん、わたしは自分に贅沢をすることをあまりよしとしてないのだとともう。だから、冒頭のジメジメタームでは、このお店に向かうことができなかった。ジメジメスパイラルのなかにいたから。そもそもわたしは何がしたいとか食べたいとか、きちんと考えてこなかった。自分を喜ばせる方法をわかっていない気がする。ちょうどいま読んでいる江國さんの「泣く大人」にはこう書いてあった。
幸福な瞬間をたくさん持つと、人は勇敢になると思う。自分の人生に対する信頼、しか勇気にならない。何かに護られて在る、ということ。(p204)
つまり、自分を喜ばせられれば、自分への信頼にもなるし、自分メイドの庇護のもとにいられる。東京事変で椎名林檎さんだって『贅沢は味方』と歌っている。贅沢、自分を喜ばせることをもう少しわかれば、つまらない人間だなんて思うこともなく、ゴキゲンでいられるんじゃないか?べつに贅沢とは極端に高価なものを買ったり、高級なものを食べるということではなく、シンプルに自分のちょっとした意思を尊重することで成し遂げられる気がする。
なんか自己啓発みたいな内容になってしまって、気持ち悪いので今日はここでおしまい。明日はゴキゲンでいられますよーに。
追記
先述の本でもっとしっくりくる言葉があったのだけど、、と探していたら見つかった!
人は、信じたものにしか守られ得ない。(p174)
よかった!
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