Tumgik
cellophanemaryjane · 1 month
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プリーズ・キル・ミー 1
ずっとずっと欲しい物リストに入れていたこの本やっと買いました。こういう本を買う時というのは自分に気合いを入れたい時であり、自分のやってきたことはまちがってないと信じたい時です。まさに今いろんな理由でそのような状態になっているので、いつまでも欲しい物リストを温めていてもしょうがないんじゃない、ポチるとき来たんじゃないと思いました。
そして早速、今週はやることいろいろあるのですがずーっと読んじゃってます。私は読むの結構早いのです。全部読んでから感想をまとめるのは大変なのでやめにして、読みながら、かつ写真がないのでググりながら書いていきます。
プロローグ:
60年代ファクトリーマニアの私には実家のような、アンディ・ウォーホルやヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ドラグ・クイーンたちによるアンダーグラウンド演劇のエピソード。この本はあくまで音楽としてのパンクの歴史を辿るものなので、ミュージシャンでもなければパンク的な思考でもないイーディ・セジウィックの扱いは悪い!そのかわり、ニコは神話から抜け出てきたような絶世の美女として崇められています。人柄は褒められたものではないけど、とにかくいるだけで空気が変わりみんなが注目し…といった絶賛ぶり。この本のインタビューは80〜90年代に行われたもののようですが、ポール・モリッシーの崇拝ぶり60年代から変わってないじゃん…実際にニコと暮らしたロニー・カトロンは彼女にはうんざり、という感じでしたが、基本的に一緒に暮らしたりしなければ崇拝し続けられるんだなと思いました。性病持ってるし…
そしてほとんどの人からいつも、どんな映画や本でもその人柄を悪く言われているルー・リードはここでも嫉妬深いだの意地悪だのなんだのと見た目と才能以外は散々ですが、贔屓目に見て性格は悪くて気難しくても、ルーの言うことはまちがってないと私は思いました。それとウルトラ・ヴァイオレットが自分はフェミニストじゃないけど、と言いつつヴァレリー・ソラニスの主張にも一理あると言っていたのがなんかちょっと嬉しかった。ウルトラはやっぱりいいな。
エド・サンダースという人のコメントが気に入りました。小金持ちは家に帰ることができるけど、そうじゃない者たちがパンクになるという話。
第一部 I wanna be your dog:
文学的なロックとしてヴェルヴェッツよりも商業的に成功したドアーズのエピソードから始まりますが、ジム・モリソンのひどい言われよう。私はドアーズが特に好きでも嫌いでもないのですが、そこまで言ってやるなよジムはもう反論できないのだから。と思ってしまいました。
その後、舞台はデトロイトに移ります。ストゥージズとMC5の出会い〜結成〜などが書かれているのですが、私はどちらのバンドもあんまり好きじゃないのでちょっとダルかった。それでもイギーの発言にはキラリと光るユーモアがあり、彼を好きだと思う人がいるのもわかる程度にはなりました。イギーの近所に住むチンピラ兄弟アシュトン家の人々はイギーにふりまわされつつ、「んも〜!」とイギーについて行ってしまうような根っからのサポート気質で、とくに兄のロン・アシュトンにはだんだん愛着が湧いてきます。こういう人がいなければ物事は回らないんだな〜。
といっても、ニューヨークのヴェルヴェッツが演奏スタイル、ステージの演出、ダーティで文学的な歌詞などで注目を集めたのに対して、ストゥージズとMC5は派手で暴力的でトチ狂ったパフォーマンスで評価を受けるというよりは、アメリカ中西部の体力の有り余ったロクデナシに暴れる場所を提供しただけのようにも見えて、申し訳ないけどニューヨークとデトロイトはやっぱちょっとちがうねと思ってしまいました。
ひたすら過激なパフォーマンスや政治的なメッセージをぶちまけること、それらから引き出される観客の興奮や高揚というよりは暴動、暴動、また暴動。デトロイトは治安も悪く街全体が行き詰まってる感じ。MC5にはジョン・シンクレアといううさんくさい活動家兼詩人がついていて、バンドと彼らは共に暮らし共同体を目指します。男は武装、女はスカートも着られず家事にあけくれる毎日。こわ!MC5てこんなバンドだったんだ〜それは、私のアンテナに引っかからないわけだわぁ。というかそもそも、MC5を聞いてみた時ボーカルの声が好きじゃないなーと思ったのでスタイルとか抜きに向いてないのですが。どんな伝説のバンド・名曲・名盤と言われようと声が好きじゃないとどうにもならないのです。そののち、MC5はなんでジョン・シンクレアの言うこときいてたんだろ?と目が覚めるのですが、政治的なことはともかく彼らは田舎者という感じで好きになれませんでした。
この2バンドはとにかく暴れまくったエピソードばっかりであまり面白くなかった。イギー・ポップは存在感がありエネルギーの塊で、最高のクソッタレだ!(ロックとかパンクの話になるとこういう「奴はクソだよ。でも最高のクソだ。」みたいなセリフがよく出てくるのですが、ちょっと気恥ずかしくなります。私のボキャブラリーにはない言い回しだなと思います。たとえば私がルー・リードのような人を褒めようと思ったときに、こういう言い方はできないからです。)みたいな証言が続くのですが、ネグリジェに白塗りに割れたガラスの上を転がりまわって流血とかいった、ただただ奇抜なだけだとかドラッグの力を借りた奇行に私は何の価値もないと思います。イギーは一昔前に見かけた時、ライヴかフェスで観客を何十人もステージに上げて踊らせるという演出をしていました。私はこれを見るたびに自分の体力の消耗を最小限に抑えつつ、最大限に盛り上がってるように見せる姑息な手段だと思っていました。人数を増やせばイギーはそれほど派手に動かなくてすむしステージに上がったファンは嬉しいだろうし、まさに一挙両得なのですが、彼のことが好きではない、またフジロックの信者のようなタイプの人間が好きではない私にとっては俗にいうチベスナ顔になってしまうシーンでした。まだやってんのかなあれ。ハライチの澤部がまんまとあれを絶賛してたけど、私はハライチが好きじゃないのでやっぱりなーと思いました。この人好きじゃないなって思う人って、だいたい私の嫌いなものを好きだから、こういうのって99.9%当たるのです。多分みんなそうだと思います。なかには、パンクバンドなら全部好き、お笑い芸人なら全部認める、みたいな人もいますが、そういう人って心が広いっすね。パンクとかお笑いが好きというのは、それこそ多様性というかネガティヴな感情も持って当たり前だという、何かに対して嫌悪を持つことへの肯定、否定することへの肯定であると私は思うのですが、最近はパンクやお笑いでさえもラブアンドピース、エモい尊いといった感じなので、この本に書かれている時代から後退しているような気がします。この本の登場人物たちがさんざん、ヒッピーうざいと言って行動を起こしたのにもかかわらず。
(つづく)
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cellophanemaryjane · 2 months
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まとめて書くほどではない音楽の話
レコードジャケットや雑誌などの写真を見た後に動画を見て、お前が歌うんかいと思ったバンドベスト3は
3位 ダウンライナーズ・セクト
2位 スレイド
1位 ぶっちぎりでQ65
です。セクトとスレイドはへーそうなんだーぐらいの感想ですが、Q65はマジでこの人だけはボーカルじゃないと思ってました。
そしてリアルお前が歌うんかいという気分を味わえるのは、YouTubeでスペンサー・デイヴィス・グループを適当に再生した時です。スペンサー・デイヴィスのグループなのですが。
私はひとりで仕事中は音楽を聴いていることが多いのですが、とても疲れているけど今日中にこれだけはやっておかなくてはならないというような時は最終的にトム・ジョーンズに落ち着きます。私は自分と似た波長のものが基本的には好きですが、自分にはないものも大好きです。たとえばデカ盛りの番組を見るのが好きだけど、私自身はバイキングやビュッフェも向いてない方です。デカ盛りや大食いなどは嫌っている人も多いけど個人的には完食するかどうかということよりお店の人の工夫を凝らした盛り付けに興味があります。麺類は大体、大きいサイズの擂り鉢に入ってるので内心「擂り鉢キター」と思いながら見ています。そして大体しばらく食べていると、中から肉の塊とか出てくるのも。
それでトム・ジョーンズも自分にはないものしか持ってないシンガーという感じでとても好きです。パワフルで活力に溢れているのですが品があるところがいいです。やっぱり私は基本的に自分で言うのも何ですが上品なたちなので、倉たけし(ロバート秋山)みたいなのを見ても面白いなーと思うけど仕事に追われている時には厳しい。元コサキンリスナーとしてもトム・ジョーンズは本当にいい歌手だと思います。
もうひとつ仕事中に聴くのに良いのはグラムロックです。グラムは基本的に派手でズッチャズッチャみたいなリズムのロックンロールやブギーといった感じでバラードがないのでとても良いです。どれもそれなりに満足感があってなんというかナポリタンとかエビフライとかハンバーグみたいな感じ。たまにコンソメに野菜の切れ端が入ってるだけでミネストローネ名乗ってるみたいなバンドもありますが、メインもあるしデザートにバニラアイスと固めのプリンとチョコケーキもあるよ!みたいな感じなので、いろんなバンドのミックスで聴くのがいいです。
上品さが欲しいという時はYouTubeでエド・サリバンショーを見たりもします。ペトゥラ・クラークとかたまらないです。ペトゥラ・クラークの「Down Town」は100年経っても色褪せないであろう素晴らしい曲で、音のひとつひとつがなんてよくできてるのだろうと思いますが、今の東京にこんな気分にしてくれる街はほとんどないのが残念この上ないです。ダスティ・スプリングフィールドの「Son Of A Preacher Man」はエド・サリバンショーのバージョンが一番良いと思います。
話はだいぶ変わるのですが、私は中学生の頃イカ天を毎週見ていました。といっても好きなバンドを見つけたいわけではなくて、ほとんどバラエティとして見ていました。それでなんとなくバンドブームというものはいわゆるビートパンク系ばかりだと思っていたのですが、イカ天のバンドは意外とファンク系が多かったのは萩原健太の趣味だったのでしょうか。萩原健太といえば私の中では、何かの雑誌に「六本木で萩原健太さんを見かけたけど、今まで見たことないぐらいデカいWAVEの袋を持っていた」と書かれていた印象が強すぎてあんまり当時のことが思い出せません。WAVEの袋ってカクカクしたロゴが入ったグレーの袋なのですが、せいぜいアナログサイズのやつしか見たことないのでなんか面白かったです。
そういうわけなのでYouTubeにイカ天がアップされてると疲れてる時は見てしまうのですが、人間椅子の動画に海外のファンの方たちのコメントで「so young and cute!」とか書いてあるとおおキュート…そうかも…?と思うのですが、海外のファンからしたら大好きなバンドのアマチュア時代の動画なんて見られたらとっても嬉しいだろうなぁと思います。あとプロ一歩手前みたいなバンドも多かったとはいえ、そして悪い意味で尖った人も多かっただろうとはいえ、曲がりなりにも素人参加番組なのにナレーションがけっこう辛辣なのも驚きました。これがコンプライアンスが育つってことなのかしら。と思いつつ、こいつらにはこのぐらい言ってやってもいいじゃんとも思います。お色気バンド特集みたいなやつのナレーションはあーこんな感じだったなと思いました。
当時はもちろんCDを好きなだけ買うなんてできませんからレンタルを利用していました。なぜか地元の図書館にみうらじゅんのバンド大島渚のCDがあったりました。図書館は今でも意外なCD・DVDが置いてあったりするので見逃せません。私はイカ天のレーベルから出たマサ子さんのアルバムを借りてよく聴いていました。それから30年以上経って私のローファイ好きはマサ子さんに始まったんだなあとつくづく感じ入りました。
話はまた変わって、最近バンドTシャツ界ではラモーンズの人気が落ちているそうですが、そんなかまいたちの山内のような目線でバンドTシャツを見るような奴はこの世からラモーンズTシャツ以外の服がなくなったら全裸でいろよこのやろう。下も履くなよ理由はないけど。
それから、不思議なことにイギリス人になんとなく似てる日本人が時々います。関根勤はロニー・レインみたいだし窪田正孝はスティーヴ・マリオットに似てるし、西岡徳馬はブライアン・フェリーに似てると思います。あとスパークスの髭の人に似てる脇役俳優の人がいた気がする。それでエリック・バードンに似てる人が時々います。(芸能人とかではなくて)でもエリック・バードンに似てるというのは私としては褒め言葉じゃないんです。
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cellophanemaryjane · 2 months
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なんか嫌い
映画ファンの方々がよくあげる「邦画の悪いところ」みたいなのには私もうなずいてしまうのですが、あんまり言われてるのを見かけたことがない「日本の映画・ドラマの悪いところ」と個人的に思っているものがあります。それは料理の場面です。
夫の浮気かなんかが発覚して怒っている人物が怒っているオーラを出しながらひたすらじゃがいもの皮なんか剥いて、黙々と大量のコロッケなんか揚げて、それを見守っていた家族がおそるおそる一緒に食べ始めるとか、死んだ人の思い出話をしながらしみったれたうどんかなんか食べて泣き笑いとか、落ち込んでる時こそ黙って包丁でねぎかなんか刻んで、白米と味噌汁と胡麻和えと…みたいないつものありふれた食事をきちんと用意して両手を合わせていただきます、とか、私はこういう場面を見るともうやめて〜と思います。
大体こういうのは向田邦子が悪い。そして是枝裕和とか坂元なんとか(脚本の人)が悪い。あと大人向けほっこり漫画も悪い。とにかく安い頭のクリエイターが悪い。
なんでこんなに食うことにこだわるんだ。それなら外食したってテイクアウトしたっていいはずなのに、「きちんと手間隙かけて普遍的な食べ物を作ります。あと悲しい時こそきちんと食べます。」みたいなの私は嫌いです。食い物なんかどうでもいいと、本当には思ったことがない人間が頭の中だけで考えた「自称人間味あふれる素敵キャラクター仕草」だからです。怒ってる時に大量に野菜の皮を剥くような人間はべつに素敵ではない。生きる気力、普段通りの生活をしようと却って力んでいる人物を食ってる場面でばっかり表現するクリエイターは才能ない。あと質素だけど手間がかかる和食はべつにおいしくない。和食おいしくない。和食おいしくない!(ウエストランド風に)
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cellophanemaryjane · 3 months
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夢を売る女
しつこく書きますが、私はトルーマン・カポーティが大好きなのです。
とはいっても「遠い声 遠い部屋」はあまり好きではありません。私が特に大好きな作品は「夜の樹」に収録されている何本かと、「ティファニーで朝食を」そしてエッセイの何本かです。
その中でも「夢を売る女」は、最初から最後まですべてが詩みたいだし痛々しくてとても美しい。気軽な気持ちでは読めないぐらい胸がギュッとします。あんまり気に入ったので原書まで買ってしまいました。
ここ10年ぐらいネットではすっかり「こじらせ女子」という言葉が定着してしまいましたが、なんでこの短編にスポットが当たらないんだと思う反面、こじらせなんて言ってる奴に見つかってほしくないとも思います。あの手の人たちはツイッター漫画でも見て刺さった〜とか言ってればよろしい。
パリス・レビューの作家のインタビューを集めた本でカポーティのページを読んだ時、彼自身が気に入ってる作品のひとつに「あまり省みられることのない作品だけど」と言いながら「夢を売る女」を挙げていたのを見つけたときは本当に嬉しかったです。しかし本人も実感してるくらい省みられない作品だったのかというのは、やっぱりちょっと残念です。
カポーティの伝記の中である人が「彼の作品はすべて、世の中には風変わりだけど認められるべき人間がいる、というテーマのバリエーションだ」と言っていました。つまるところ、カポーティ本人が「ちょっと変わってても繊細で天才なんだから大目に見てよね」という姿勢がある。それが人によっては、たとえばゴア・ヴィダルやノーマン・メイラーなどにとっては、甘っちょろい作家だと思われてしまっているのでしょう。
確かに、他のアメリカの作家とくらべるとカポーティの作品には甘さがあります。シビアなようでいて、大体は感受性が豊かであるがゆえという結果を招きます。でも私はその甘さが好きなのです。甘くて何が悪い。
この短編で最も有名なセリフは「この街で魅力的な男性はみんな結婚してるかゲイのどっちか」というものだと思いますが、それ以外のパンチラインも素晴らしいです。むしろそれより他の場面の方がグッと来るモノローグが多いと思います。特にシルヴィアが角砂糖を口に入れて古いオルゴールを回す場面は、このセリフ以上に心を動かされます。
主人公シルヴィアは、故郷からニューヨークへ上京して親戚の女の子エステル、彼女の婚約者と同居しています。エステルは無神経で鈍感で何も疑わずに生きている、ある意味では幸福なタイプです。婚約者としょうもないあだ名で呼び合ってることにシルヴィアがうんざりするくだりなどは、ちょっと意地の悪さを自覚している人なら間違いなく共感できるものです。こういうしょうもないカップルにうんざり、素敵な人は既婚者かゲイ、なんて書ける作家が当時彼の他にいただろうか、と思います。
都会では単調な仕事をこなし、夜道をビクビクしながら急いで帰り、帰ったら資格の勉強中の彼がいるから静かにしてね〜とバカップルの片割れに言われ、という毎日。シルヴィアは街の食堂で男たちが話していた「夢を買ってくれる」という謎の人物に興味を持ち訪ねることにします。そして初めて夢を売りに行くシルヴィア。
その途中で出会った道化のオライリー、というのはアル中ホームレスのような感じの人物なのですが、シルヴィアは子供の頃大好きだった道化師とそっくりなオライリーにはすぐ心を開くようになります。夢を買ってくれる男はミスター・レヴァーコーム、またの名をマスター・ミザリー。オライリーは彼のことをよく知っており、シルヴィアにいろいろ教えてくれます。
夢を売るということにのめり込んで行くシルヴィアですが、うら若い女性がホームレスのような年老いた男性と平気で一緒に食堂に行ったり連んでいるというのはやっぱりちょっと変わっている。とはいえ体調を崩したシルヴィアがお見舞いに来てくれたオライリーと過ごす場面は感動的で、カポーティが真に望んだ友情や信頼関係というものが伺えます。
私は道化のオライリーをキース・ムーンのイメージで読んでいますが、よく考えたらオライリーは自他共に認める老いぼれなのでちょっと若すぎる。もう少し長生きしたキース・ムーンがオライリーみたいだったらいいなと思っています。
最後、シルヴィアはどうなったのか明確には書かれません。だけど私は、シルヴィアがあの後も不器用ながらしたたかにどっこい生きていったと思っています。彼女のためにそう思いたい、私もなんとかそうしてるから。
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cellophanemaryjane · 7 months
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あの人は今そしてこれからも
2010年前後に、私は欧米の女の子達がやっていたブログを見に行くのが好きでした。ハンドメイドや料理も好きでしたが、ファッション・ライフスタイル系のブログが好きでいくつもブックマークしていました。
ブログは10年代前半にほとんど消えてしまったのですが、あの人たちどうしているんだろうと思ったらブログはそのまま放置かインスタアカウントはあったけど放置というパターンがほとんどで、しかも大体みんな2015、16年くらいから止まっているのです。
ファッションブログをやって自分のコーディネートを載せる人、ブロガーと提携していたっぽい極小ブランド(これもほとんど消えました)の服を紹介する人、自分でブランドを始める人、そして多かったのが自分でモデルになってヴィンテージを販売する人、といろいろいました。ああいう人たちはゆるゆるとやっていて何故か魅力のあった人もいましたが、何もかもをブログに載せ、生活の全てがブログ中心でビジネス化している人もいました。完全に起業家になったというかガチ勢だったA Beautiful Mess以外はほとんどみんないなくなってしまいましたし名前も忘れてしまいました。その頃彼女達はおそらく20代で、その後の生活の変化を鑑みて2015〜16年くらいまでが限度だったんだろうなぁと思いました。あとはハジけたファッションが見どころだった人が落ち着いちゃったり、しょっちゅう登場していた彼氏と別れたら記事ざっくり削除しちゃったり。
と考えると、今YouTubeで顔を出したり出さなかったりしつつ自分の生活を公表している女の子たちも、ガチ勢以外はせいぜい学生時代か家庭を持つまでが寿命なんだろうと思います。あるいは視聴者が好きだった部分が変化していってしまう。すでにそういうYouTuberが何人かいます。本人達が歳を取り生活サイクルが変わり、ブログやvlogにうつつを抜かしてる場合ではなくなる。2010年前後のブログやタンブラー、フリッカーなどで素人ながら魅力的な世界観を見せていた人たちはちょっとずついなくなって、別の人たちに取って代わっていってしまう。一部の人たちはガチビジネスにうまくスライドしていくのでしょうが、ほとんどが気軽な気持ちで自分もやってみた、あるいは小銭稼ぎといった感じでこの文化は世代交代していくんだろうなぁとしみじみしてしまいます。
しかしライフスタイル系YouTuberを見ていると今はさらに胡散臭い業者が増えているので、時々これはまったく作り物の女の子の生活なのではないかと思ってしまう時があります。
あの頃は良かったというとなぜかボコボコにされる実にくだらない世の中になってしまいましたが、かつてブログやフリッカーという手段を手に入れた都会以外の女の子達のクリエイティヴィティがファッション雑誌よりずっとエキサイティングだったことは確かです。今は金稼ぎ第一になってしまってなにもかも面白くない。だいたい私だってこの思いをぶつけたいという気持ちでブログを始めたのに、どこのブログが使いやすいか調べようと思ったらここはアフィが仕込めるとか、アクセス数を稼ぎやすいとか、そんな理由しかでてこない。私は単純に見やすくてダサくなくて、ひっそりやれるところがいいんだよ!だからnoteもはてなも嫌なんだよ!あんなところでやったら変なやつに見つかっちゃうじゃんか。おかしな話ですが本当にこっそりやりたいんです。
それはそれとしてインスタは良くないですね。フリッカーが一番良かったけどピンタレストの方がまだましです。ピンタレストを嫌う人がいる理由もわかりますが、あそこで2010年代の画像がまだ擦られてるのを見かけると、あの頃のガールズカルチャーやインディー精神にはやっぱり普遍的な魅力があるんだなーと思います。女の子が好きなものは一生変わらないの。
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cellophanemaryjane · 7 months
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ブコウスキーの本を読んでると
チャールズ・ブコウスキーの本は好きなのですが、彼の本を読んでなぜか自分もアウトロー気取りの文章を書く気持ち悪い男は嫌いです。
翻訳の青野聰があとがきで「じゃあな、チャールズ。とうぶんあんたの顔は見たくないよ。」とか書いてるの馬鹿じゃないかと思います。お前はブコウスキーじゃないんだぞ。しかしこいつはあとがきはキショいけど翻訳はクセがないしタイトルも直訳なのでそこはいいし、中川五郎はあとがきと本文は感じいいけどタイトルは変なの付けるし痛し痒しといった感じです。
ブコウスキーの本を読んでいつも思うのは、なんかいいかげんおんなじようなことの繰り返しだな…とこっちが思い始めたところでちょっと違ったことが起きる、ということです。文章や語り口が面白いので読めちゃうけどここまで長々似たようなこと書いてんな、と思ってると、やっと違ったことが起きる。短編集でもそんな感じです。
特に「町でいちばんの美女」を読むとわかりやすいのですが、ブコウスキーが女性や競馬、作家としての生活などについて書いているのをずっと読んでいると、だんだん案外この人はそこまで絡みづらい人ではないのではないか、けっこう素直で良いところもあるのではないかと思えてくるのです。そう思ってると突然ぞっとするような横顔を見せてくる。「町でいちばんの美女」は分厚い本ですが、最後の方にかなり不愉快で残酷な話が収録されています。そこでタイトル作品で最初に入っている「町でいちばんの美女」の作者だったというのが蘇ってくる。ブコウスキーの本を全部読んだわけではないのですが、「町でいちばんの美女」ほどの鋭い短編を残念ながら(?)他には書いていません。他の作品には他の作品の良さが十二分にあるのですが、切れ味があるとは言い難い。むしろ切れ味がないのが面白い作品の方が多いです。
それからいつも思うのは、彼はよく女性に自分はブサイクだと言い、女性から「あら、そんなことないわよ」とか「でもいい顔だわ」とか言われている場面を書くのです。これは本人が自分の顔はハンサムではないけど味があると思っているんだろうなぁというのが伝わってきて、そういうちょっとくだらない見栄のようなものを感じるのが面白い。たしかにブコウスキーの顔は整ってはいないけど、決して不快とか生理的に無理とかいう顔ではないのです。でも自分で言っちゃうんだ〜気にしてるんだな、と思います。そういう器の小さいところが面白い。だってあんな本書いてるくせに今さら顔のことなんてどうでもいいじゃんか、とこっちは思うのですが、本人は顔のことが気になるらしいというのが人間臭くて面白いです。
私はブコウスキーの小説でたまに書かれることのある、ある人が自分のことを少しも好きではなく失礼な態度や冷たい態度を取ってくるのに、なぜか自分はその人のことを好きではないけど別に嫌いでもない、という気持ちにすごく共感してしまいます。近いかなと思うのは、海外に行ってお店に入った時、店員の顔に「わ、なんか平たい顔の奴来た」と書いてあるのがこっちにありありとわかるのに、向こうは気づかれたことに気づいてないんだろうなぁと思う感じ。気づかせようとしてる奴もいそうだけど。ファッキンジャップぐらいわかるよバカヤロウ。こういう時少なくとも私個人としては、「しゃべったこともない外国人にこういう目を向けるようになってしまったその人自身が環境の犠牲者なのだ」と思うことにして、つまり憐れむことにしてスルーします。相手が日本人でも同じことです。「この人は人付き合いに付加価値しか求めてないから人によって態度を変えることができるんだ、で、この人はそれを平然とやってる自分に嫌気がさしたりしないんだ」と思うことにしています。もちろん自分が軽んじられることには猛烈に腹が立ちますが、プライドの置き所をまちがってはいけない。
ブコウスキーの本は受け付けない人には受け付けないものなので私はあんまりおおっぴらに好きと言いません。でもずっと売ってるからけっこうみんな好きなんだと思います���しかしこういった本やパンクといったジャンルを好む人は、なぜか自分に甘くだらしなくSNSで安っぽいアウトローキャラを演じ、見た目も酒でブヨブヨになった汚らしい初老が多く、私のように上品が服を着て歩いてるような人間は肩身が狭いのです。ブコウスキーを読んでるお前はブコウスキーじゃないんだぞともう一回言いたい。
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cellophanemaryjane · 9 months
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伊勢丹のパール兄弟
私が小学5年くらいの頃のことでした。私は新宿の伊勢丹の2階で家族の買い物が終わるのを待っていました。自分も含めてなにしろ女の買い物は長いですから、私は待っている間その辺をぶらぶらしていました。そして名前は覚えていませんが、とあるパンク風というか普段着よりはバンドの衣装のような服を売っている店のディスプレイをながめていました。こういうものに惹かれるところが今となんにも変わってなくてしみじみ三つ子の魂百までという感じなのですが、そのお店はいくつもテレビが飾られていて、モノクロのパール兄弟のMVが何回も何回も流れていたのです。丸の中に「パール兄弟」と書いてあるロゴを使ったビデオが一種類だとしたらそれはどうやら「鉄カブトの女」という曲のMVらしいのですが、そのお店では音は流れていませんでした。(あるいはほとんど聞こえなかった)私はそのビデオを繰り返し繰り返し、なにかこれは家のテレビで見られるようなものではないな、という気持ちで見ていました。
あのお店の人がパール兄弟のファンだったのかその頃パール兄弟が推されていたのかなんなのかよくわかりませんでしたが、そのMVはアヴァンギャルド風だったけど、その少しあとに深夜番組などで見かけるようになったパール兄弟はもうちょっとほのぼのした寂しげなポップスという感じでした。音楽的にはあんまり惹かれなかったけど、尖ったファッションのブティック、ブラウン管のテレビのディスプレイ、手塚眞か塚本晋也か誰かが撮ったらしいビデオ、それらがまさにサブカル女子への一歩を踏み出さんとしていた私に扉を開いて手招きしていたような、そんなできごとでした。
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cellophanemaryjane · 11 months
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ケイト・ザンブレノ「ヒロインズ」-3
どこの国にも女の子はいるのだから、ガールズカルチャーというものがあるはずです。しかしそれらはケイト・ザンブレノからするとあくまで正統ではないという扱いを受けているらしい。
女の子の作り出すものは、個人的で過剰で一時の気の迷いに左右されがちであるということ。特にザンブレノが身を置く文学界においては。しかし私はやはりここにも異を唱えたくなります。少なくとも日本では、少々うんざりするほどに「女の子文化」が讃えられてきたように見えるからです。もちろん讃えているのはほとんどがあくまで自分達は選ぶ立場にあると思い込んでいる男性たちですが、作り手の女の子たちが「女の子である」ということを武器にしていないとは思えません。
たとえば文化と呼べるレベルに達しているものではない、ネットの炎上の一つに過ぎない「古塔つみ」の件に関しても、彼は明らかに「こんな女の子がいたらいいな」という男性によって作られたキャラクターです。女の子だからここまで注目された。そして本当は女の子じゃなかったから。(とドラマチックに書いてみる)彼が他人の写真を加工する様なことはせず真っ当な画家であったとしても、花卉農家の中年のおっさんではあのポジションは得られなかったでしょう。「2020年代に暮らす女の子が80年代への憧憬と再構築を込めた作品を異常なスピードで生み出す」という、いかにも髭やメガネで不細工をごまかしてるタイプのおじさんが好みそうな設定で作られた存在だったからこそ、騙された人が多かった。でも本当には彼の絵は描いたとは言えない代物だったし、��術もセンスもない「それらしさ」だけが詰め込まれたものだった。だからひとたび炎上してしまえば、こんな作品は好きじゃないし良くないと思った人たちによってあっという間に解体されてしまったのです。(まだ諦めてないみたいだけど)
日本のカルチャー界にはしぶとく「奔放で美しく若い女の子の表現」に甘いおじさんたちがたくさんいて、それを半分自覚している女の子たちもたくさんいます。しかしもちろん、こうして祭り上げられた女の子たちはほとんどが破滅とまではいかないまでもひっそりと消えていってしまいます。村上隆のお気に入りだったエビチリの女の子は今も細々作家活動をしてるみたいですが、見つけたのが本当にたまたまだったのとその活動規模には少々驚きました。(しかも名前ど忘れしてしまった)
若い一時の小銭稼ぎであろうと一生の仕事であろうと、女の子たちが自分で選んだ生き方を「消費された」「正統なものに見られない」と嘆くのはなんか違う気がする。しかし女性は一方では正統な評価がされないと感じ、また一方では若い女性という下駄をはかされる。改めてどうやって生きていったら良いのやらと思います。
一部の女性の世界では、ずっと「女の子はソフィア・コッポラの作品のようであるべき」という価値観が持たれ続けています。女の子が好むのはかつては「ベティ・ブルー」やその後は「アメリ」など、そして「ヴァージン・スーサイズ」であるべき、という価値観。これらは決しておじさんから押し付けられたものではなく、少なくともファッション雑誌の中では分析好きの女性ライターたちが「これはあたし達の物、あたし達の感性!」と宣言したことだったのです。
その後、私より下の世代の女の子たちはタヴィ・ジェヴィンソンに衝撃を受けペトラ・コリンズに夢中になったことでしょう。(その世代であるシェイナ・クリーのYouTubeはとても興味深く私も見ています。彼女は好ましい人物ですがちょっとスピリチュアルな発言が気になります。それから、私も含めておそらくはほとんどの人が彼女の作品よりも彼女自身の魅力の方に興味があるのだということも)この2人は確かにかつてはクリエイティヴであり刺激的でした。ざっくり分ければザンブレノもこのジャンルにいる作家だと思います。きわめて個人的な、あくまで自分達のためだけのセクシーさを表現するというような。彼女たちのインスピレーション源はたいていはソフィア・コッポラに代表されるちょっと生臭いガールズカルチャーです。最近はようやく落ち着いてきたように見えますが、いっときは「ガーリー=ソフィア・コッポラを好きであるべき」という押しつけ、オシャレ同調圧力が酷かった。
やはり私には、この洋の東西を問わない女の子カルチャーの持つあまりに類型的なイメージが受け付けない部分もあります。女の子は若くはちゃめちゃで、制服か突飛なファッションを身にまとい自分の体や心の傷を大っぴらにすることも厭わない。恋に溺れてボロボロになることもあり、自分を大事にしないこともある。そして女の子は怖いものでもあるというイメージ。全てにおいて過剰で感情的で作品よりも本人が注目される。私はこういうカルチャー界における女の子かくあるべしという風潮にはついていけないところがあります。私は、自分がいろいろな意味で自分を傷つけずにここまで生きてこられたことはラッキーだったのだと思ってはいますが。
だけど女の子が自分に正直に表現をした場合、大抵はこう言う感じのブツが出来上がる。あまりこういうことは書きたくないのですが、経血のついたナプキンを見せびらかしているような作品。そういうものが普遍的な芸術として評価される日は来ないと思います。だってナプキンはこの世の半分の人間にとって作品ではなく現象なのだから。そしてもう半分の人間にとっては、頭の中で理解はできても本当にはわからない。それを他人に見せることに意味がある、隠されているのがおかしい、というような意見はまだ多いですが、それはもう手垢のついた表現です。そしてこういった表現では、結局性的な関心やタブーであるがゆえの覗き見的な興味しか持たれない。
私は経験的に、そして性格的になにがしかの作品についての受け取り手の感性というものをあまり信用していないのです。ぶっちゃけると「わかってる」人間なんて世の中にはほとんどいません。バカが喜ぶようにエモくエモくしないと見向きもされない。(それでもプライドを持ってアイディアを実践していくことが大事だとは思っています)
私は最近たまたま飯野矢住代という人のことを知りましたが、こういう女性のストーリーがいつの時代も求められがちです。同世代の鈴木いずみしかり、ロリータ順子しかり、岡崎京子の漫画しかり。それらを純粋すぎたなどともてはやしながら平穏無事に年をとり落ち着いていくというのが、大抵のつまらない女の「あの頃バカやってました」という生き方です。
私は女の子はもっと、クレバーでクールでいることも可能だと思います。あふれてくる感情の表現が過剰で赤裸々なものばかりなのは納得いかない。タバコ、夜遊び、恋愛にドラッグに自傷行為と奇抜なパフォーマンス。こういったものが普通の女の子にとって手軽にできることではなかったという時代は、少なくとも日本やアメリカではとっくに終わっています。
だから「ヒロインズ」の後半に出てくるザンブレノの経歴や行動には少しがっかりさせられました。またしてもこれか、と。混乱した10代、20代の身の処し方はほとんどみんな同じ。自ら進んでビッチになること。(たとえしぐさであっても)いつまでそれをやってるの?と思います。これをやってる限りは、女の子というものの扱いやイメージはなんにも変わらない。これで女性の文学は下に見られていると言われてもそりゃそうだ、結局は自分の感性が死んでないと証明したいしたり顔の人たちの道具になるだけなんだから。
もちろん私はゼルダやジェインの味方でいたい気持ちのほうが強いです。ゼルダやシルヴィア・プラスへ批判的だったエリザベス・ハードウィックとメアリー・マッカーシーの印象については、概ね著者と同意見です。(私は女も捨てないし、文句ばっかり言わずに男を立てて上手くやっていくのよという態度)だけどザンブレノが思い入れを込めすぎるあまりに、ノートやメモ書きだけを残した小悪魔的なミューズから老いさらばえた狂女という扱いになってしまいがちであった「モダニストの妻たち」みんなを、家父長的な夫に邪魔されなければ作家になれたのにと繰り返し主張するのには賛成できません。ゼルダの本は私も読みました。つまらなくはなかったけど、何回も読みたいとは思いませんでした。あのゼルダが書いた、というのでなければ、あんな美しい立派な装丁で出されるような本ではなかったと思います。
自分も作家であり芸術家だと思いながら、厄介な病気や人格障害のレッテルを貼られていった女性たちにはシンパシーを感じはしますが、彼女たちに本当に才能があったのかどうか。そしてザンブレノは「本当の才能とか、本物の作家とか、それって誰が決めるの?」といったような意見も繰り返し書いています。まずは書かれ、表現することに意味がある。そしてそれを女性の一時の気の迷いや単なるメランコリックな日記と決めつけてはいけない、という感じのこと。
しかし、彼女たちに自分をダブらせ共感し支持していくことだけが女性を救うことになるのでしょうか。感情的な女の子や女性の発言には一様に価値があるのでしょうか。作品の体をなしておらずあるいは面白くないのなら、それはどんなに自分に正直でいようとし、抑圧された環境で作られたものであっても、優れていることにはならないと思います。
作品だけを見るならば、たとえば夫のスコットが思う存分酒を飲み愚痴を吐きながら書いたものと、抑圧され検閲された妻のゼルダが書いたものに、バックグラウンドを足さなければいけないのでしょうか?スコットはゼルダを元ネタ扱いしやりたいように書いて、ゼルダは1日1時間しか書かせてもらえなかったんだよ、なんてことを。それはムシが良すぎるというものです。これは今だから言えることなのかもしれませんが、こういうタイプのフェミニストにありがちな意見である「文学の世界では男性の作品(フィクション、大作、手記)だけが認められ、女性の個人的な日記に端を発したものや感情的な作品は下に見られ、あくまで「男性作家のミューズ」であったことによるゴシップ的な興味以外で読まれることはない、それはおかしい」みたいなこと言われても、そんなんしょうがないじゃんと思ってしまいます。何かを表現したいと渇望する女性たちを病的と決め付けた世間は確かにひどいですが、日記やノートだって文学だし作品だと認めろ、という著者の主張は全面的に賛成できるものではありません。発表する権利があるなら、支離滅裂な女性性のほとばしりなんてものは金を取って人に見せるもんじゃないと言う権利だってあります。(エスパー魔美みたいになってきた)もちろん男性であっても同じです。私は無料漫画サイトの片隅に転がっている、70年代のアングラエログロ漫画やマイナー漫画を覗き見しに行くことが半年に一回ぐらいありますが、やっぱりこういう作品は「こう描くことしかできない」というのは伝わってくるけど、絵は下手だしつまんないしここにエンタメやヒットはおろか芸術性を見出すのもムリです、という気持ちになってサイトを後にします。もちろん、そういった作品からは時代性と漫画産業のあれやこれやが浮かび上がってくるので、無碍にできないとは思います。でもとにかく面白くないし売れるものじゃない。誰かが資料としてぶっこんどくしかない。これが好きって人も少しはいるかもしれないし。
メジャーだろうとマイナーだろうと、バックグラウンドを一切見ずに作品だけで評価される作家がこの世にいるのでしょうか?ザンブレノは、男性の作家はルックスなど気にされず女性はどんなに偉大な人物でもルックスを取り沙汰されることを憤っていますが、スコットはかつてはイケメン作家扱いだったはず。カポーティのデビュー作にはあの写真が大々的に載りました。(そして後年みっともないデブになったと言われた)村上春樹を小馬鹿にする人は、ほとんど全員彼があの顔であんな小説を書いていると嗤っているではないですか。(海外ではそう言われてないかもしれないけど)
女性の作家やアーティストのルックスについて感想を持つのは本当に男性だけ、それも彼女の夫のようではない最低な男性たちだけなのか?といったら、そんなわけがない。その辺の人たちは男だろうと女だろうと評価の一部にどうしたって美醜を含めます。だから素顔はおろか性別すら発表しないような漫画家がいたりするのです。
もちろん、男性には不細工を補う小技がいくつかあります。だけどルックスとライフスタイルを取り沙汰されるのは女性だけではありません。フィクションがフィクションとして読まれ、自分をモデルに書いた作品が資料として読まれる。それは当たり前のことです。それが嫌なら、女の作家はいちいち自分の生活の変化に照らし合わせた作品なんか書かなきゃいいじゃんか、どうせそれしか書けないくせに。
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cellophanemaryjane · 1 year
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世界残酷物語/続・世界残酷物語
終了のお知らせが来てからこっちGYAOが出血大サービスになっているというのに、なかなか見る時間が取れません。しかしグァルティエロ・ヤコペッティの映画が配信されてるとなっては見ないわけにはいかないのです。
なにしろヤコペッティといえば60年代好き・90年代サブカル好き・藤子・F・不二雄好きという向き(私)にとっては欠かせない監督だからです。
彼の作品は今となってはやらせであることが広く知られ、ツッコミを入れたり昔の映画界の道徳心にドン引きしたりしながら見るものになってしまったかもしれませんが、しかしこのワンシーンワンシーンのスタイリッシュなことといったらどうでしょう。趣味は悪いけどセンスは良いのです。
こういった作品を前にして、今は人種差別や動物虐待、フェイクなどといった要素が受け入れられないものになったという実感はあります。それはリテラシーが育ったということではありますが、臭いものに蓋をするということでもあります。見たくないと思ったら、見たくないものを無かったことにしていいわけではありません。そして見たいという感情に蓋をしていいわけでもありません。なぜ人は不愉快なものを見たくないと思うのか、その一方で見たいと思うのか。見たいと見たくないは表裏一体となった感情です。
「隠された真実を露わにする」という行為は今も形を変えて行われていることですが、その方法や内容は偽善的なものになっています。正しく知り理解を示す、それがたいして役に立っていない成熟した世の中ではないから今こうなってるんじゃないか、という気持ちが、私のような下世話な人間にはまだまだあります。要するに、見たがることや知りたがることを他人にジャッジされるのはおかしい。こんなもの見たがるなんて下品でひどい人間だ、と言うのは簡単ですが、私たちは考える必要があるのです。なぜこんな映画が作られるのか、なぜ見る人がいるのか、なぜ見たくない人がいるのか、なぜ私は見たいのか…
とは言ってももちろん、この「世界残酷物語」という映画が差別意識と覗き見根性満載であることは否定しません。私個人は最近よくいる「映画やドラマで人間が殺される場面は全然オッケーだけど動物が死ぬ場面だけは耐えられない」というタイプではないので、動物への残酷な場面は目を背けてしまうという��どではありませんでした。特にサントラのジャケットにもなっている鳥の場面は圧倒されてしまうし、カラーひよこやペットの墓地は毒々しいある種の「カワイイ」に見えてしまうし、フォアグラを作るために餌を流し込まれるガチョウの目は恐ろしい感じがします。ニューヨークの高級レストラン(「コロニー」ってなんかで読んだことある)で虫を食べる普通の美食では満足できなくなった人々、という場面では客の一人が固そうな殻付きの虫をフォークで2つにしようとしてカーン!と飛ばしてしまいます。ここなんか私はいいと思いました。カウンターに並べられた虫の缶詰のショットもとてもいい。
私は60年代のガレージバンドが好きなのでいわゆるカルトGSやナゲッツ系の音楽を好んでおり、欧米のガレージマニアが貪欲に発掘したものを聴いたりもします。しかし日本人としては、彼らの南米やアジアのガレージバンドに対する楽しみ方にはエキゾチズムも多少あるのではないかという気持ちはあります。被害妄想だと言われてしまえばそうかもしれませんが、いなたさや英語ではない言語を珍味のように面白がる部分もあるのではないかと思ってしまう部分もあるのです。(たとえばナゲッツ2の解説でのモップスの部分とか)
そういったことを考えると、この世のすべてに対してゲスな目を持っているヤコペッティに対してあまり憤る気持ちはないのですが(イヴ・クラインは気の毒)アジアやアフリカの奇習には正直言ってあまり興味が持てませんでした。特にシンガポールの、死を待つ患者と死者を送る儀式としての宴会を交互に何度も映す場面はあざとすぎます。あと後半ちょっと飽きちゃった。(特にハワイと闘牛のとこ)
個人的にとても印象に残ったのはハンブルクの酒場の様子です。私はお酒が飲めないし飲み会や居酒屋の雰囲気もとっても嫌いなのですが、この場面に同じものを感じました。どちらかといえば汚らしい人々が夜通しビールを飲み踊り明かし、翌朝の祭りの後の醜悪さと物悲しさのような風景が映し出されます。ここがなんか一番、うわーっと思ってしまいました。私はよっぽどのことがない限り、その国の文化によその価値観で文句を言うのは間違っていると思っていますが、酔っ払いの醜さはやらせでもなんでもないからです。
「続・世界残酷物語」は残りフィルムで急遽作った作品ということでインパクトはいまいちですし、サントラも見劣りします。でもやっぱりところどころにキラリと光る場面があります。イタリア映画にうっすらと感じられるB級感の魅力は作ろうと思って作り出せるものではありません。
続の方は自然界での残酷で美しい自然の営みといったフィルムを使ってしまった後なので、しぜん宗教的なやりすぎ儀式とか、先進国での文化の腐敗といったようなややこじんまりとしたエピソードが多くなりますが、キャンプ趣味ということでいえばこちらの方が楽しめます。私はもしかすると続の方が好きかな。
アメリカのオートマットなんかは私は普通に本で読んでたので、食を愛するイタリア人からすると非人間的に見えるんだなぁと思いました。でもああいうレストランにはああいうレストランのおいしさがあるんですよ。
私が一番気に入ったのはメキシコ警察の銃の訓練、という場面です。サーカスならともかく警察の訓練がそんなわけあるかい。でも、たまらなく惹かれます。スリルや暴力の美しさ。このアンビバレンツというものを噛み締めた時、観客は自分自身を振り返ることになるのです。
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cellophanemaryjane · 1 year
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ケイト・ザンブレノ「ヒロインズ」-2
この本はあるタイプの人々を惹きつける一冊です。しかし訳者のあとがきに書かれているように、ちょっと一方的な物の見方・考え方があるのも事実です。
私も大きな括りでは自分はリベラルなフェミニストだと思っていますが、かといってザンブレノ本人にも他のタイプのフェミニストにも共感しきれない部分があります。私もザンブレノと同じようにファッションが好きですが、しかしファッションを追い続けるのが女性として正しく、戦うための武器になるとは思いません。女性だって簡素なスタイルをすることを選ぶのは何も間違ってない。問題はどんなスタイルであっても人に押し付けることであって、着飾るのが好きでも嫌いでも構わないはずだと私は思います。
例えば、私は常に自分がスーツケースひとつでホテルを転々とするような、いつも自分がよそ者で居続けられるような生活を夢想することがありますが、そのためには服や化粧品をたくさん持つことはできません。スーツケースを何十個も持って他人に運ばせて暮らすのは自由ではない。自由でいるためには、自分でコントロールできて責任を持てるものだけを持つのが本当だと考えているからです。それは「ティファニーで朝食を」のホリーの哲学でもあります。私はホリーが言う「ティファニーにいるような気分になれる場所が見つかったら、家具も買うし猫に名前をつける」というセリフがいつも心のどこかにあります。それから「なにひとつ自分の物ではないけど、やっぱりニューヨークが自分の物のような気がする」というセリフも。(私は特にこの2つの部分が大好きなのですが、古い翻訳は絶版になっており村上春樹の新しい翻訳ではそれが伝えきれない言葉になってしまってるので、これは大きな文化の損失だと思っています。)結局のところホリー・ゴライトリーや「誕生日の子どもたち」のミス・ボビットこそが私の理想の生き方なのであって、それはカポーティの書いたフィクションの中にのみ存在できるような気もしてくるのです。永遠に年を取らず、どこかへ消えてしまう存在でしか理想は実現できないのではないか。
そして私はゼルダ・フィッツジェラルド的な「かわいいおバカさん」スタイルが正しいとは思いません。私もハイブランドの物が欲しいと思わないわけではないしデパートに行くのも大好きですが、数があればいいわけではないし、とある大嫌いな人がハイブラ狂いといった風なのを見てなんか冷めてしまいました。
ザンブレノは自分がフェミニストとして、ファッションが好きであることを認めるのが難しかったということを書いています。私はこんなふうに考えたことなど一度もなかったので驚きでした。私はフェミニズムというものを学んだり本を読んだりしたことがなく、自分が大人になってみて個人主義者であることに気づきましたが、どうも大抵の人はそうじゃないらしい、ということにも気づいたのです。これは結局、フェミニスト達の間にも着飾る派と着飾らない派の断絶があるということです。そして日本の大抵の自称フェミニストは、着飾ることを捨てる潔さなんて持っていない。
「天才バカボン」にフェミニストのパロディで、化粧っ気がなくズボンを履き、バカボンパパの一言一言に「ナンセーンス!」と言い返す女性が出てきたことがありました。バカボンパパはナンセンス、に対抗して「オンセーンス!草津オンセーンス!」といいます。するとあまりのくだらなさに彼女は「ゲラゲラ 私はこのバカを評価する」と笑い、バカボンパパは「ひょうかひょうか(そうかそうかの洒落)」と返します。なんだかんだあって、女性はすっかり女の子らしくなりミニスカートを履いて恋人の帰りを待っているようなタイプに豹変するというオチだったと思います。この頃は単にフェミニズムとファッションというものが、「女の子だってジーンズ穿いてあぐらかいたっていいじゃん」という程度のものだったように思えます。最初はコルセットなんてやってらんねーとかズボン履きたいとか、そういうものだったはずです。
バカボンのエピソードはとりあえず置いておきます。しかし昔から、過激なフェミニストは揶揄されがちだった。過激でない場合はエレガントな姿勢と完璧なファッションを求められがちだった。というイメージがあります。
お正月にEテレでフェミニズム特集みたいなのをやっていましたが、そこに登場した人たちは沖縄の方以外みんな、まぁ高そうな服とアクセサリーをつけヘアメイクもビシッとされていました。お正月の番組だからドレスアップしてるにしても、みんなお金持ちなのね〜そしてゴージャスな物が好きなのね〜、とそっちの方が気になった。ゴージャスなものが好きというのはなによりも、良くも悪くも女そのものです。なんかドレスアップは女の戦闘服なのよ!みたいなノリのオタク女性まだいるけどほんともういいよ。
フェミニストに限らず過剰なドレスアップというのは、好奇の目で見られるようでいてわかりやすい賞賛の対象でもあります。よく年老いた人がど派手な格好をしている写真集などがありますが、毎日きちんと着飾り新しいブランドとヴィンテージを組み合わせて自らを作品のように仕上げる女性に、この手の人は簡単に「ああいう年の取り方をしたい」などと口にします。身なりを整え新しい服に袖を通すのは、確かに楽しいことです。楽しいし、「この服を着ていれば自分はどこへだって臆せず行ける」という自信は生き方そのものにも繋がります。だけど、ほとんどの人間というものは装飾が施されていなければファッションではないと思っている。逆に言えば、じっくり見てみるとバランスがおかしくクオリティの低いものであっても、装飾的であれば印象で素晴らしいと思う。そういう態度はありきたりで退屈だと思います。
数年前、個人的にファッションについてとても印象に残ったことがありました。大晦日に紅白歌合戦に出演した菅田将暉と、その後ナインティナインの番組に出演した田中圭が同じマルタン・マルジェラの丈の長いセーターを着ていたのです。田中圭の方はバラエティ番組だったのであまり取り沙汰されなかったのですが(かわいいセーターだな、と思っていたら岡村が「長ない?!」とツッコミを入れていましたが)、菅田将暉の方は紅白歌合戦といういわば晴れ舞台ともいえる場所にシンプルなセーターで出たというので、ツイッターでちょっとだけ話題になったのです。でも若い女性はそのセーターの良さをわかっており、あのファッションを取り入れたいけどマルジェラの数十万のセーターは買えないからプチプラで似たのを探すとか、素敵な男性のセーター姿は良いとか、そんな感じでした。一方おそらくオタク系の男性は、あんな普通のセーターが数十万するのかとか、イケメンはGUやユニクロみたいな服で紅白に出ても許されていーなーとか、そんな意見が見られたのです。(私がなんでその時ツイッターを見たかというと、まさしく田中圭のセーターが素敵だったので話題になってるのではないかと思ったからです。紅白は見てなかったので菅田将暉の姿はあとで見たのですが)
このように、一見シンプルな服というのは価値が分かりづらい。マルジェラだからというのではなく、テレビに映ることに耐えうるシンプルなセーターなどというのは、実物はもっとすごいものであることが多いのです。だけどほとんどの人はシンプルなセーターよりもたとえプラスチックでもビーズがびっしりついたドレスの方が着飾ることについては上だと思っている。それはファッションというものに対して一元的であまりに退屈だと私は思うのです。
かといってもちろん、一部のフェミニストのように着飾らないを通り越して不潔さを感じさせる、反抗期の中学生男子のような態度だって良くないと思いますし、かわいいものに惹かれる女の子を頭ごなしに否定するのは良くない。いちいち着飾ることやスカートやピンクが嫌だと思うならそれらはおのれで身につけなければよろしい。
反抗と怠惰はちがうのです。おしゃれが大好きでも自分を大事にしない人はいるし、服を着ることが楽しくないと思う人もいます。ファッションを楽しむということと、スタイルを持つということは別であって、なんだかんだ言って清潔が一番大事だから何にも考えたくなければ清潔というスタイルを選べばいいんだよ。ヒロインズの話がどっかいっちゃった。
(つづく)
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cellophanemaryjane · 1 year
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ケイト・ザンブレノ「ヒロインズ」-1
私はこの本の著者と同世代であり、またゼルダ・フィッツジェラルドやジェイン・ボウルズなど興味のある人物も同じ、住みたくない所に住まなくてはならなくなった経験についてもまあ大体同じ、ということで、ことに心身共に参っていたころは降って沸いた救いの一冊のように見えました。
この本についてはずっと前から文を書き保存して、何度も読み返し書き直ししていました。その1年ほどの間に世の中のフェミニズムというものについてのあれこれを目にする機会と考えを改めさせるようなことがいろいろあり、私がこの本に対して持っていた好感が全くなくなってしまい恨みつらみのようになってしまっていて、いくらほとんど誰も読んでないブログだとしてもこれでいいのだろうかと思ったからです。
そもそもこの本を手に取ったのは、ゼルダやジェイン・ボウルズやヴィヴィアン・エリオット、その他の女性作家についての部分を読みたかったからです。その部分については、まぁまぁな本だと思います。索引がついているともっと良かったと思いますが。しかし段々著者自身のエピソードに少々イラッと来るようになってきました。
この本は少し前に書かれたものなので、繰り返し書かれているブログやタンブラーへのユートピア的な印象はちょっとだけ滑稽で牧歌的な感じがします。確かに、2000年代のインターネットは今とは全然違っていました。個人サイトやブログには思う存分自分の世界を作ることができたのです。その頃はリアルとネットの世界ははっきりと違う物でした。
今現在、私個人の意見として言えばネットのポジティヴなイメージなんてものはビジネスの手が加えられた実態のないものに思えます。きれいごとと上辺だけのカッコ良さが横行し、新しい世代として登場する人たちもどこかで見たようなことを言ったり書いたりするばかり。そんな中で改めて私はブログを始めて長々と自分の意見を書いておこうと思ったのは、この本を読んだからでもあります。確かにこの本に書かれているように書くということは大事だし、誰かが読んでくれるかもしれないということも大事なことです。
それはさておき「ヒロインズ」ですが、この本は以前ちょっと書いたように「理解のある彼くん」要素があります。私も常日頃Twitterは地獄の3丁目みたいな所だと思っていますが、やはりスラングには他の言葉を使えなくなるパワーがあります。理解のある彼くんなどという言葉と並べて自著を語られるのはザンブレノ自身には気に入らないことかもしれませんが、スラングというのは汚くて雑な言葉だけが当てはまるわけではありません。少なくない人たちが確実に感じながら言葉にすることができなかった何か、ある感情に名前が付く、という歴史の1ページでもあるのです。その歴史は実にくだらなく時には人を傷つけることもあるのですが。
そして私のあまりパッとしない頭でこの本について語るには、理あ彼だのツイフェミだのという言葉を使う必要があります。「ヒロインズ」という本にについては、結局その言葉が似つかわしい本だからです。私は自分を根性のねじ曲がった人間ではないと思ってるけど、まっすぐにゲスいということはわかってるつもりです。
年をとるとなかなか変化や成長というものは起こらないように思えましたが、初めてこの本を読んだ数年前と今とではだいぶ心境その他の変化がありました。
私自身の心境もそうですが、著者がこの本で主張していることと、ツイフェミと呼ばれる人たちの傍若無人さがダブって見えてしまうようになったのです。
ここ数年フェミニストと腐女子、名誉男性だの反出生主義だのが入り乱れてそれはそれはえげつないことになってしまっています。これは主に日本でのことなのかもしれませんが、そういう現象を目にした後に改めてこの本を読むとちょっと待てよ、と思うのです。
著者のザンブレノにはジョンという夫がおり、彼女が住みたくない街に住まなくてはならなくなったのは夫の仕事の都合です。この本に書かれているジョンの理あ彼ぶりはあくまで妻のケイトから見たものであり、そこには尊敬と愛情は十分あります。あるいはジョンは妻のことをわかっていながら、辺鄙で退屈な場所に住まわせることになってしまった自分に多少の後ろめたさがあったのかもしれません。しかしこの本に登場する女性作家やモダニストの妻たちの厳しい経済状況や周囲の無理解に何度も言及しながら、著者本人には作家としての自負以外あまり逼迫したものを感じないのは他でもないジョンの仕事のおかげであるはずです。
私も、住みたくないところに住むという生活がどんな精神状態を生むのかということをよくわかっているつもりです。だからザンブレノがどんなに苦しい状態であったかを少しは理解できる。しかしザンブレノが恵まれた立場にいることは否定できません。彼女は「毎朝愛とサポートに包まれて目が覚める。自分が恵まれているということはわかってるつもり。」と書いてはいますが、ほとんどは自分個人の状態についての記述です。
恵まれた生活をしながらモダニストの妻たちの社会的な立場にシンパシーを寄せてみても、完全に同調できるとは言えない人たちもいるのではないでしょうか。私はそうです。要するに金の心配をあまりしてない人間が献身的で協力的で、異性として魅力的なパートナーがいながら自分の問題だけを考えているように見える面もあるわけです。そのくせ夫と妻どちらの名前で呼ばれるとか、夫の名前が大文字だとか先に書かれるとか苗字が変わるとか、一緒くたにされることに苦情を述べながらも結局は普通の結婚生活を送っているように見える。そんなこと知らねーよどうなったら満足なんだよと言いたくもなります。
しかもこの夫妻はヴィーガンなので気に入らない土地で招かれたパーティーで食うものがないとか言ってるのも、結局「その手の人たち」でしかないんだよなぁと思います。
誰だってパンのことばかり言いたくないと思いながらパンのために何かしなくちゃいけない。それからやっと他のことを考えられる。ザンブレノの「ヒロインズ」には、そしてネットで見かけるフェミニストには、この点が大きく欠けていると思うことがたびたびあります。実際の生活を操縦することに多くの時間を費やしている時は、そんな人たちの言うことに耳を傾けきれません。そしてネットの世界は、かつてはこの本に書かれていたように誰にも届けることができなかった心の叫びを綴る時代から、それぞれ同じ主張を持つ人たち同士で身勝手な連帯をしている状態になっています。この連帯は一見ネットがなければ叶わなかったあたたかいつながりのようでいて、できるなら自分の主張を押し広げて一発当てていち抜けしたい、弱者に寄り添う態度をとりながら自分はそうなりたくない、私はあなたたちとは違う、と思っているような人たちの声の大きさが目立ちます。人はそんなに立派でいられるわけではないのだから気持ちはわかります。でもせめてもうちょっと、自分を取り繕うということくらいしろよとも思います。
ザンブレノは「ヒロインズ」からもわかる通りきわめて個人的な作風で、自身の経験を綴ることが誰かの共感を呼ぶというタイプの作家です。女の子の時には女の子のことを書き、結婚したら妻としての自分を書き、出産したらそれを書きそろそろ年老いた親のことやその死を書く、というタイプの。ぶっちゃけ女性に一番多いありふれた作家です。多くの女性は結局のところ、自分と全く無関係の壮大なフィクションを作るのがそれほど得意ではない。それが良い面を生む場合もありますが、ほとんどの場合はそうでもありません。
彼女は、ゼルダやジェイン・ボウルズやヴィヴィアン・エリオットとは違う。彼女たちのような、自分で自分を消耗させていくしかなかった、インスピレーションそのもののような人物とは。私は、歴史に名を残すためには個人の幸せを捨てろと言っているのではありません。それでも人間の生活というのは大体どれも同じで退屈なものです。そのありふれたものを作品にしたところで、人が芸術に求めるものにはほとんどなりません。
ザンブレノは本作の最後に「さあ、あなたもやってみて」と呼びかけます。「とにかくあなた自身が、あなたを書かなければいけない。」と。それならば、私は日本の片すみでほとんど誰も読んでないブログを書いている、大学で教鞭を執ることもグッゲンハイムフェローを得ることもできない取るに足らない人間だけど、はっきりと書かせてもらいます。残念ながらこの本の輝きは数年で失せてしまいました。
(つづく)
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cellophanemaryjane · 1 year
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秋吉久美子&藤田敏八3部作
しばらくGYAOで見てちょこちょこメモしてた映画の感想をまとめます。今回はこの3本です。
「バージンブルース」
女の子の映画というより中年男の物語という感じでした。野坂昭如の歌は合ってたけどミッキー吉野のサントラは微妙でした。「細雪」もそうだけどシンセサイザー使ってるとなんか、当時は良かったんでしょうけどと思ってしまいます。
私は津川雅彦より長門裕之派なのであのダメさは悪くなかったです。でもしょうもない話でした。若者に向けて作られたとは思えないストーリーだった。こんな風に流されて彷徨ってしまう悲しみ、どこかでこうなってしまいたいという願望のようなもの、というのを描きたいのかなとは思ったけど。あとバージンがどうのこうのと言う割にそこはあっさりしてたのも拍子抜けしました。後半ちょっと飽きちゃった。ラストで長門裕之の顔に朝日がキラッと当たってスローモーションと旅館の空撮、の辺りは本当に良くなかった。朝日浴びてんじゃねーよと思ってしまいました。
「赤ちょうちん」
なんか思てたんとちがうー!暗いのかコミカルなのか怖いのかエロいのか不条理なのかメロドラマなのか、全部がぜんぶ中途半端だと思いました。もっとATGの鬱路線系かと思ってたのですがけっこう普通の部分もありました。これも幸枝(秋吉久美子)の心情というより高岡健二扮する青年の物語という感じがしました。秋吉久美子はすごくかわいいのに、ベッドを買うところと鶏肉を食べるところの変なメイクでここまで変な顔にできるんだなぁというのがびっくり。長門裕之がボコられる場面でちょっとザマァと思ってしまいました。樹木希林きらいだわぁ。この作品以外でもきらいだわぁ。高岡健二はなんか素直に応援できない顔してるんだよな。でも縞のパジャマ着てるのちょっと面白かったです。横山リエは本当に好きな顔です。新宿の時の向かいの人いい人だったのにな〜。
上村一夫の漫画「同棲時代」を読んだ時も思ったのですが、70年代のこういう作品に出てくる繊細な女性キャラの気持ちがよくわかりません。当時の同棲や若くしての結婚が不安定な物だったというのは伝聞では知ってるけど。四畳半フォークの世界を作品にしようとする女性は少ないというところを考えると一概にはそう言えない、男性作家の考える狂気や情念という感じが微妙に納得いかないです。(「同棲時代」については書きたいことがちょっとあります)
「妹」
これが一番だめだったかな…長門裕之&高岡健二にくらべると林隆三はかっこよすぎるくらいかっこいいのですが、人物像がむちゃくちゃです。女性はみんな魅力的に撮られていて(特に片桐夕子)よかったのですが話がつまんなすぎる。他2本よりちょっとバブルというか80年代っぽいところがあるのは興味深かったけど、それゆえに余計かぐや姫の歌と合ってないと思いました。鎌倉のお店は今でもあんな店ありそう(でも5本指下駄はださい)。
面白いかどうかは別にしてとりあえずスジは通っている「バージンブルース」、面白いかどうかは別にしていろいろなことが起こるので見てはいられる「赤ちょうちん」に対して、「妹」は危うい間柄の吹けば飛ぶよな親のいない兄妹と、調子こいていて妙に結束の固いブルジョワ一家という、魅力を感じないではないテーマを扱っている割にどちらも描ききれてないのでなんだこりゃと思ってしまいます。秋吉久美子の出番が思ったより少ないし、事件のこともはっきりしないし。
3本とも秋吉久美子がとらえどころのない女の子を演じていて、あまり彼女自身のキャラクターが見えてこないところが不満でした。秋吉久美子&かぐや姫および青春物語という与えられたテーマの中で、どれだけ藤田敏八カラーを出せるかということに対する挑戦だと言われれば、この監督ちょっと好きじゃないやとしか返せません。
こういう女の子を観客は、それぞれ自分のイメージを当てはめる器にするといったような感じ。その通りになってくれる時もあるけど大抵は裏切られる。ていうか心の底では裏切ってほしい。それはわからないではないけど、3本も作られてもな…見たけど。GYAOがなくなったら見ないよ。
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cellophanemaryjane · 1 year
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ブリングリング
GYAOが3月いっぱいで無くなると聞いて超ショックを受けています。他のサイト使いにくいしあの玉石混淆なのがいいのに…アマプラもTverも嫌い〜。
ということでせめてものはなむけに3月までめいっぱいGYAOを満喫しようと思います。
手始めにソフィア・コッポラ監督の作品「ブリングリング」を見ました。私はソフィア・コッポラが死ぬほど合わないのと、この映画はあらすじを見ただけでも「あーはいはい」と思ってスルーしてたのですが、私の仕事にまつわる人たちはなんとなくこういうのを好む感覚の人たちが多いような気がして、ちょっと今後の仕事のことも冷静に見られるように試しに見てみようかなと思ったのです。
そして見た結果、やっぱり「あーはいはい」という以外の感想はあんまり無いのですが、もうこれ10年前の映画なんだなぁ。ソフィア・コッポラを好意的に思える人は、この作品に対して空虚を描いてるとか客観的な姿勢を保ちながら世間に物申すとか映像のセンスがいいみたいに言うようですが、私としてはマリー・アントワネットだのブリングリングだの���「いかにロングヘアの女の子がダラダラしてるところとキラキラゴージャスファッションと刹那的な快楽に身を任せる若者を撮れるか」という目的でしかストーリーを選んでないように見えます。
この映画も、犯罪者である主人公たちを突き放して撮っているとは思えないし、セレブの暮らしを心底バカにしてはいないようにも見える。そういうものに憧れてしまう浅はかな若者たちのこと私はわかるのよ、ブランド物の持つ俗で空虚だけど強烈な一瞬の輝きが私はわかるのよ、と言いつつ「でも私はあんなのとは違うけどね。パリスとかリンジーとも違うし」と言ってるように見える。それくらい私にはソフィア・コッポラの作品が合わないのです。
というかガーリー文化の基本的な受け取られ方である「他人の堕ちていくさまを持て囃しつつほんのちょっとだけ高い所から自分は無傷で見ている」という姿勢が私は好きではないのです。人が堕ちるさまを美しいと思うならお前もやってみろ。できないくせに表面上だけ理解者面するな。といつも思います。
あと10年前の映画だけどちょっとこの感じ古いなぁと思う。ガラケーとかフェイスブックが古いとかそういうことではなくて、例えばニッキー達がベッドでダラダラしてて引き出しから服がだらしなくはみ出てる感じとか、生々しい女の子の生活を作り込む感じが単純に古いと思いました。女の子の部屋というものに対するオブセッションは「ヴァージン・スーサイズ」で撮られてからこっち、タンブラーやフリッカーに死ぬほどこすられて消費されてしまったものです。未だに女の子たちはセレブの写真をびっしり貼った壁だとか化粧品を並べたドレッサーだとか、こういう写真が大好きですが、そして私も嫌いではないのですが、ちょっとこすられ過ぎたと思います。
と言っても、ソフィア・コッポラ本人が死ぬまでこのティーンの女の子の生臭さをオシャレに撮り続けたいというならそれはそれで勝手にすればと思いますが、今現在存命のクリエイターとしては古いと思いました。しかしもうこれ古いんじゃないかなと思っていると、意外とみんなベタベタなものが好きだったりするので大変です。
主人公達の中でひとりだけ男子のマークは、まだ良心を持っているように受け取られるようですが全然魅力のないキャラクターでした。マークが刑務所に運ばれる場面のあまりの魅力のなさに、この人ほんとに女の子しか撮れないんだなと思いました。
あと音楽のセンスいいとか言われてるけど、エンドロールに「Super Rich Kids」というクソベタな曲使ってるのまじでださいから。この曲自体もださい。消費社会の虚しさも犯罪の持つある種の美しさも全部うわっつらで、女の子のロングヘアとビッチな会話だけ監督のフェチのようなものを感じました。お前はいつもそう。(と言えるほど全部見てないけど)
しかしパリスの足大きいな!
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cellophanemaryjane · 1 year
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スライ・ストーン
GYAOで配信されていたスライ・ストーンのドキュメンタリー映画を見ました。
AppleTVのドキュメンタリー「1971」ではストーンズはなんとかなりそうな感じ(その後もいろいろあったけど)、スライは立ち直れないままで終わってしまうので、いろいろよかったなぁと思いました。1971の、テレビに出ていたスライが明らかにラリってる様子はなかなか辛い場面でした。
最初はBSでやってるような周りの人しか出てこないドキュメンタリーかなと思ったのですが、残り10分くらいで意外な展開になって面白かったです。監督とスライマニアの双子があの手この手を試みるのも微笑ましかった。それとときどき映る初期のスライ&ザ・ファミリーストーンのグラフィックがどれもかっこよかったです。
前に「サマー・オブ・ソウル」という69年に開催されたニューヨークのハーレム・カルチュラル・フェスの映画も見たのですが、スライ&ザ・ファミリーストーンの場面はすごかったです。この映画は出演者ほとんど全部すごい迫力なのですが。(といっても私は甘っちょろい人間なので、サマー・オブ・ソウルでいちばんグッときた場面はデヴィッド・ラフィンが「マイ・ガール」を歌って女の子たちがキャーってなってるところでした)
1971とサマー・オブ・ソウルは扱っているテーマが被っているところもあるのでどちらも興味深かったのですが、この「スライ・ストーン」ではそこを超えていくスライのクレバーさに痺れました。思想を押し付けられたくないというか、誰かがどうではなくて何よりも自分は自分であるということや、何を使って音楽を作るかではなくいいものができるかどうかが問題、とか、人として大きすぎる、けど見習いたい。シンシアも素敵でした。
ところで、この映画の監督が久しぶりにスタジオに現れたスライを「別人になっていた!」と言ってるのですが、あいかわらず尖ったファッションに身を包んでいて私には順当に老けただけに見えました。さすがに20年ぶりぐらいに出てきたところをとらえて「順当に年取ってた!」なんて言えないのはわかるけど。そしてこの場面は盛り上がったけど。
とはいえ監督たちの熱意はスライ本人に伝わったようで何よりでした。
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cellophanemaryjane · 1 year
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窓辺のランプ
トルーマン・カポーティは一般的に「冷血」の後はまともに書けなくなったと言われがちですが、エッセイや短編は少し書いています。私は長編や大作だけが素晴らしいとは思わないので、というかむしろ短編こそ才能が必要なものだと思っているので、この言説はまちがってると早口なオタクみたいに言いたくなります。(実際私はカポーティのことになるとまぁまぁキモくなる自信があります)
その「冷血」の後の作品をまとめたのが「カメレオンのための音楽」という一冊ですが、これがなかなかどうしてキラリと光る作品がいくつか収められていて、もっと知られて欲しい。この本の端々に見られるみずみずしさがアーティストというものには何よりも必要かつ、けしてお金で買えないもののひとつだと思うのですが、それゆえに書くことにどれだけ神経を使って身を削っていたのかひしひしと伝わってくる一冊でもあるのです。
ただ野坂昭如の翻訳が若干のクセつよなので、そこが非常に残念ではあります。できれば川本三郎に訳してほしかったです。(今からでも)
ということはあるものの、その中の一編「窓辺のランプ」はエッセイともフィクションともつかない作品で、実はそういう作品は若い時から書いているのでこの作品はもう熟練の域に達しています。ベテランがサラッと書いたような、でもちっとも手癖で書いてるような感じがない面白い話です。なにしろタイトルがいい。
しかしこういう短編小説のネタバレほど無粋なものもないのでもう書くことがありません。(でも猫好きの人はちょっと注意)
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cellophanemaryjane · 1 year
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タイムスリップショッピングダンス
今年もM-1グランプリの季節が来ましたが、今年のファイナリストの結果が一部で物議を醸しているのはちょっとわかるなぁと思います。
トルーマン・カポーティは「イーディ」の中で「ファッションの世界に一歩足を踏み入れたら絶え間ないビートの連続だ」と言っていましたが、最近はお笑いコンテストの世界の方がよっぽど絶え間ないビートの渦に巻き込まれてしまっているように見えます。漫才論争の時も、去年のキングオブコントの時もそれ以外も、とにかく目新しく時代に沿っていてアップデートされているものが素晴らしい、というお笑いマニアの意見が目立ちました。
M-1に2回も出ればもういいよと言われ、若さや発想の奇抜さが評価されがちです。そんなことを言ってる私も、なぜかまだブレイクしたとは言い切れないコンビが急に色褪せて見えることがあり、その一方で好きな曲を聴くのと同じように何回も見てしまうネタがあります。上手くて面白くて華があるけど特別ではないと思うコンビがおり、安定感はないけど輝いていると感じるコンビもいます。一部のお笑いファンは常に斬新さを求めていますが私はむしろベタな漫才の方が好きで、今年のM-1はどうなるのだろうかと思っています。
しかし斬新で才気あふれる若いコンビのネタを見ても、結局松ちゃんが「一人ごっつ」でやっていた「タイムスリップショッピング」にはかなわないとも思ってしまいます。リアルタイムで見ていた時もはまりましたが、今改めて見てみてもノスタルジーという言葉では説明できない圧倒的なものを感じます。そもそもなぜ、昔の物価について話そうと思ったのか、なぜそれをダンスで表現しようと思ったのか、そしてなによりあのダンス。見れば見るほどわけがわからないのに何回見ても面白い。
お笑い芸人の一部の人たちにはなぜか「どこかで見たことがあるようで誰も知らない」という架空の作品を作ることを好むタイプがいます。それは「あるある」のひとつの形になるのかもしれませんが、私もあの架空の曲やタレントや商品というネタが大好きです。でもさすがに松ちゃんは単なる架空の世界のあるあるでは終わらなかった。あれを超えるお笑いがあったら私は躊躇なく手のひらを返すつもりです。
しかし私はあれですね、いっときピースの又吉が何の話をしてても太宰治の名前を出してくるのをチッと思ってましたが、すぐカポーティと森茉莉の名前を出してきて同じ状態になってますね。気をつけます。と同時に又吉に初めてシンパシーを感じたかもしれません。
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cellophanemaryjane · 1 year
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食べる喜びと義務
私の大好きな漫画家のひとりである杉浦茂の作品には、食べることに対するこだわりが常に描かれています。もちろん杉浦茂に限らず、水木しげるや藤子不二雄両氏など戦争経験者の描く食への渇望というものは計り知れないものがあり、それをエンターテインメントとして表現することは何よりも後世への大事なメッセージとなりうるものなのですが、杉浦茂の漫画に出てくる「食べること」というのはいつの時代の子供も持っているシンプルで無邪気な憧れが詰まっているのです。大きいケーキや脂っこい洋食など、時には咎められてしまう食べ物というのは今でも流行ったりします。
杉浦茂の漫画の主人公は、今風の安い言い方をすればチート系と呼ばれるようなものであり、彼らは皆かわいらしい顔に明晰な頭脳と勇気と技術を持ち、自分を信じて疑わない人物に描かれています。それは冒険やプロレスを愛する少年のこともあれば発明家の少年のこともあり、町の子供たちからおじさんと呼ばれる忍者の場合もあります。私は創作においてあまりに主人公だけが万能なのは良くないと思っていますが、杉浦茂の漫画の主人公たちの作為のなさは読んでいてたいへん気持ちがいいものです。作為がないというのは最近の創作においてはなかなか難しい。
そんな主人公たちも、食については人一倍こだわりを持っています。彼らは冒険の前に必ず腹ごしらえをし、悪者をやっつけたあとはみんなでテーブルを囲みお菓子を食べます。これらの作品が描かれた時代はお腹いっぱいになること、栄養を摂ることがいかに大切だったかが伺えます。杉浦茂の漫画に出てくる食べ物をざっと書き出すとまずはなによりかによりコロッケとメンチ、それを挟むためのコッペパン、まんじゅうに団子におでんに蕎麦に天丼にカツ丼、ライスカレーや夜鳴き蕎麦も出てきます。はっぴいえんどの鈴木茂が変名に使った「ほしいも小僧」。そしてどの作品にも登場する、お花の形をした謎のお菓子。私はこのお菓子をいつも丸ぼうろのようなカステラよりはやや洋風で、スコーンよりは甘いふっくらしたソフトビスケットでイメージしています。紙袋にがさっと入っていて素手で持ってもくずれず、卵を塗って焼き色がついているとなおイメージ通り。このお菓子は殿様が食べていることもあれば西部劇に出てくることもありますが、杉浦茂に時代考証などというのはあまりに意味のないことです。
杉浦茂の食への思いは実際の食べ物だけではなく、セリフや背景にもたっぷりと出てきます。
「ほしいも小僧」というのは「ドロンちび丸」に出てくる脇役なのですが、この作品は杉浦茂の代表作のひとつであり、作者自身はもちろん戸川純や岡崎京子もお気に入りの作品のようです。(私が最初に杉浦茂を知ったのは岡崎京子が「ドロンちび丸」を紹介していたからでした)「ドロンちび丸」は漫画としても読みやすく決めゼリフ満載の入門編にぴったりな一冊ですが、特に印象的なのは「まんじゅうならいつだって食べられらぁ」「だれだってそうだよ」というやりとりです。「だれだって」じゃないですよね、まんじゅうなんて。でも言い切っちゃうところがめちゃくちゃ面白い。私はあんまり餡子は好きじゃないのですが、好きなものを食べた時は「〜ならいつだって食べられらぁ」と言ってしまいます。
「猿飛佐助」に出てくる食堂に貼られた「ジャンジャン食べてポカスカ払ってスタコラ出ていくよいお客 店主」は何回読んでも面白いです。私も外食すると長居するタイプではないのでよいお客だなぁと思ったりします。「人の昼めし見たら腹へってきたよ」「三皿つまり九つ食っちゃったぁ」「天丼はいつ食ってもいいなー」「このそば安いね」とかほとんど全てのセリフが大好きです。まんじゅうも天丼もいつ食ってもいいものでは決してないですが、まんじゅうや天丼をいつ食ってもいいと思える健康さに眩しさを感じます。特に好きなのは猿飛たちが旅の途中で泊まった宿の食事が卯の花やお澄ましだと聞くと「ぞっとせんなぁ」と言うところです。私ももう中年ですが、渋い和食の良さがまだいまいちわかりません。お菓子を食べて「あまいうまい」と言ったり、なにか食べて「うまい!おいしい!」と言ったりするのはシンプルながら感激が伝わってきてマネしてしまいます。「よいにおいだプンプン」も使ってしまいます。(猿飛佐助は何度か描かれているので、このセリフはすべて同じ本に出てくるものではありません)
「アップルジャムくん」は最初は洋風のおしゃれな漫画の雰囲気を持って始まったものの、やがてスケールの大きな冒険物になり最後はなぜか貧乏長屋で暮らして終わるのですが、この後半の下町貧乏長屋編がとても面白いのです。面白いけど、主人公ジャムくんと同世代の少年が七味唐辛子の行商にやってくると、今食べているうどんに試しにかけさせた後からっぽのがま口を見せ「これを見よ」と言って追い返したり、近所の子供達のお世話を頼まれて「お金のかからないところへ行こう」と言って公園で粉末レモネード(粉レモン)を売っているおじさんから全員分の味見をさせてもらって「おかわりはいりませんよ」と言ったり、なんというか良く言えばたくましい。世界を股にかけていた漫画の主人公からの落差が面白いです。最終回も個人的には杉浦茂作品屈指の面白さです。
「ミスターロボット」に出てくる学生の下宿の壁に貼られた「勉強するにはパンよろし」というフレーズも好きです。漫画には出てきませんがコッペパンを齧りながら勉強している昔の学生の姿が浮かんできます。(そしてこの学生がそろそろ寝ようという時に言うセリフ「勉強してやったなぁ」が私は大好きです。私も今日はけっこう頑張ったなという時には「仕事してやったなぁ」とつぶやくことにしています。仕事や勉強というものはやらなくてはいけないからやるのであって、仕事や勉強がアイデンティティになるのは良くないし、こういう心持ちでいたいものです)
しかし、時に人は食べること以外に気を取られる場合もあります。私も常に食の好みや食欲が変動し、これはホルモンバランスによるものなので逆らっても無駄だとあきらめていますが、それにしても食べるということに一日中、一年中興味を持ち続けるのはなかなか難しいことです。
朝起きて今日はこれとこれを食べよう_杉浦茂風に言えば「ギョーザにタンメンといくか」という日もあれば、一粒で栄養が摂れる薬でもないかなぁという日もあります。そんな日にいつも思い出すのは「アンパン放射能」という作品に出てくる「怪星ドロップ」に住む人たちのことです。
「アンパン放射能」の主人公は発明少年ドンちゃんとその仲間たち、博士にロボットたぬきなどのキャラクターで、彼らは驚異的な科学力で世界を冒険します。ライスカレーが大好物のロボットたぬきのかわいらしさといったらないのですが、それはさておき彼らは冒険の途中���怪星ドロップ」という星に辿り着くのです。自分たちで自分たちの住む星を「怪星」と名乗るクールさもなかなかですが、そこに住む人たち(瓶をかぶったような宇宙人)の食に対するクールさもたまらないものがあります。彼らは水に薬と栄養を溶かしたものを飲み、口にするのはそれだけです。そしてお腹を空かせたドンちゃんたちに「地球のやつはばかものだね 手間をかけて食べものを食べるなんて」と言い放ちます。しかしこの「ビタミン」はドンちゃんたちにとっては「わぁまずい くさくてにがいや」という代物です。そこへ追い討ちをかけるように「これがまずいの?おまえたちはいよいよばかものだね」と言うのです。杉浦茂の漫画の登場人物というのは、ギャグ漫画というものはまあ大体そうなのですが、非常に辛辣で言いたいことを平気で言い、周りの人たちもそれを根に持ったりせずせいぜい「こいつしんぞうだなぁ」と言う程度なのですが、それにしてもこのセリフはすごい。もしかしたら、食べる喜びを常に描き続けた杉浦茂にとってこの宇宙人のセリフは、理解し合えない別の生き物というものを最もわかりやすく表現したものだったのかもしれません。藤子・F・不二雄もよく、地球より文明がずっと進んでいたり地球とは全く別の価値観を持ったよその星というモチーフを描いていました。それを「よそにはよその常識や正しさがある」とクールに表現すればするほど、他の部分のユーモアやあたたかさが伝わってくるし、大人になると作者の教養や視野の広さを感じるのですが、それはそれとして怪星ドロップに住む人たちの理屈も実によくわかる。何か食べるということに対してレビューサイトで星いくつとか、この季節はどこそこで獲れたこれを食べるべきとか、熟成肉とか、「いよいよばかものだね」と思わず言いたくもなります。(特にアンジャッシュの渡部に)食べ物というのは贅を尽くし趣向を凝らせばキリのないものですが、しかし今現在の日本ではその辺で買ってきた100円ぐらいのおにぎりやパンでも十分おいしいのです。そんな状況で食べ物にそこまでリソースを費やすのはくだらないような気もする。もちろん、たまの記念日やなんかに珍しくて美味しいものを食べたいというのは私だってそうです。見た目の可愛いお菓子や伸びまくるチーズを写真に収めたいというのもよくわかる。しかし時には、人間には食べるよりも大事なこともあるのではないかと思います。薬と栄養を溶かした水で済まして、他に打ち込まなくてはならないこともあるのではないでしょうか。そういう一方的ではないものの見方を、子供達の読む物で宇宙人の口を借りてサラッと描くことはとても大切だと思います。私も人のことをあれこれ言えるようなりっぱな人間ではないですが、コロナ禍においては「地球のやつはばかものだね」と何度も思ったし今も時々思っています。
グルメ漫画というのはすっかり定番のジャンルになりましたが杉浦茂や藤子不二雄のシンプルすぎる表現を見た後では、グルメ漫画と呼ばれる作品のわざとらしさが気になってしまいます。特に嫌いなのは「んーっ」と言ってこういう目をぎゅっと瞑るやつ(>へ<)と、「焼けた味噌の香ばしさがおいしーっ」「素朴な風味がホカホカのご飯に合うーっ」とかいうようなとても説明くさいセリフ回しです。評論してる場面だというのならまだいいのですが。私はナガノの「ちいかわ」が載った時だけモーニングを買うのですがそこに載っていた「なに食べ」を読んで、なんでみんなこんな漫画に熱中してるんだろうと思いました。「お醤油の染みたもも肉食べちゃおーっと」って普段の飯食う時にこんなこと言うやついねーよ。
ナガノの描く食べ物描写はとっても好きです。私はナガノ氏が好むすごく辛いものとかポテトにシェイクを付けるといったようなしょっぱ甘いものはあまり好きではないのですが、ちいかわやナガノのくまの食べ物描写を見て今まで「しょっぱい」というのはネガティヴなものだと思っていたので、「しょっぱくてサイコー」「しょっぱみがあって…うまッ…」というセリフにはとても驚きました。しょっぱいっていいことだったんだ!と考えを改めさせられたのです。それと「買った方が早インパラ」というのはよくわかる。いくら土井善晴が力抜いていきまひょと言ったところで作りたくない時はあります。食べたくない時もある。杉浦茂やナガノの漫画を読んでおいしそうだなと思う時はあるし、それはそれとして怪星ドロップの住人の言う通りだと思う時もあるのです。
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