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ogawa-xd · 4 months
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モノとコト
モノとコトという対比構文が語られはじめたのは20年くらいまえだろうか。もっと前からだったかな。
大まかには、モノからコトへ、モノではなくコトが大切という流れの話しだった。おそらくモノを偏重する姿勢を批判する文脈で語られたのだと思うが、自分もその頃そう感じてそう主張していた。プロダクトデザインからITC関連のデザインへ進展したこととも関係があるかな(ということは、30年はゆうにたっている)。
しかし最近は「モノとコト」という形ではあまり語られなくなった気がする。といっても、べつにコトが大切ということが、再否定されたわけではない。おそらくコトが大切という考え方が飽和して、語る必要がなくなったということなんだろう。つまり話題として鮮度を失った、ともいえるかもしれない。 でも、本当にそうか?
ちがう視点から少しだけこれを蒸し返したい。 あらためて、こういうことではないかと考えた。
やはり大切なのはコトの方ではある。
それは、コトが意味内容であるから、ではないか。シニフィエといってもいい。それに対してモノは、それを指し示すシニフィアンとしてはたらいている。
人の行為や事象、あるいは言葉にならない思いなど、それらが価値や意味と結びついている。少なくともそれらが価値の対象である。価値や意味とは物理的な実体ではなく、心の世界の中にだけ存在するものある。だからそういった価値や意味は、「記憶」がなくなればそのままでは消えていってしまう。
しかし消えないように繋ぎ止めるはたらきをモノがもっている。これはまさに、言葉と意味の関係、指すモノと指されるコトの関係である。
たとえば、何かを「為す」こと自体に意味がある。「生きること」とか。しかし「為したコト」は、正確には記憶の中にしか残らない。しかし、為されたことの証しとして、物理的な破壊、転移、生成が起きる(こともある)。そういった物理的な事象の後には物理的なモノが残る。あるいは、モニュメント、景色、山や川や海、桜や富士山など。「景色」というモノは、旅という行為の結果、文字通りたどり着いた物理的な一つの実体である。
しかし景色であれ工業製品などの人工物であれ、さらに芸術作品であれ、本来それ自体に意味や価値はない。それはただの石ころや岩、布のキャンバスの上の絵の具という物質でしかない。しかし一方それは「行為の結果」残された遺物あるいは形見である。それが科学、技術、豊かな生活の、あるいは偉業を指し示している。
亡くした母の写真や形見など、それ自体に意味や価値があるのではなく、それらが母を思い出させてくれるトリガーとして働く、そのことには価値がある。それは母をシニフィアンしている。
モノとコト、どちらが大切かと突き詰めてもしかたないのだろう。
モノとコトの言語学的な転回を試みたわけだが、この直感はあるいはただの妄想のような気がしないでもない。
これは前に呼んだ松尾芭蕉が「古池や」で達観して完成させた俳句という芸術(長谷川櫂)に通じている。このこともいずれ書きたい。
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ogawa-xd · 4 months
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モノとコト
モノとコトという対比構文が語られはじめたのは20年くらいまえだろうか。もっと前からだったかな。
大まかには、モノからコトへ、モノではなくコトが大切という流れの話しだった。おそらくモノを偏重する姿勢を批判する文脈で語られたのだと思うが、自分もその頃そう感じてそう主張していた。プロダクトデザインからITC関連のデザインへ進展したこととも関係があるかな(ということは、30年はゆうにたっている)。
しかし最近は「モノとコト」という形ではあまり語られなくなった気がする。といっても、べつにコトが大切ということが、再否定されたわけではない。おそらくコトが大切という考え方が飽和して、語る必要がなくなったということなんだろう。つまり話題として鮮度を失った、ともいえるかもしれない。でも、本当にそうか?
ちがう視点から少しだけこれを蒸し返したい。
あらためて、こういうことではないかと考えた。
やはり大切なのはコトの方ではある。
それは、コトが意味内容であるから、ではないか。シニフィエといってもいい。それに対してモノは、それを指し示すシニフィアンとしてはたらいている。
人の行為や事象、あるいは言葉にならない思いなど、それらが価値や意味と結びついている。少なくともそれらが価値の対象である。価値や意味とは物理的な実体ではなく、心の世界の中にだけ存在するものある。だからそういった価値や意味は、「記憶」がなくなればそのままでは消えていってしまう。
しかし消えないように繋ぎ止めるはたらきをモノがもっている。これはまさに、言葉と意味の関係、指すモノと指されるコトの関係である。
たとえば、何かを「為す」こと自体に意味がある。「生きること」とか。しかし「為したコト」は、正確には記憶の中にしか残らない。しかし、為されたことの証しとして、物理的な破壊、転移、生成が起きる(こともある)。そういった物理的な事象の後には物理的なモノが残る。あるいは、モニュメント、景色、山や川や海、桜や富士山など。「景色」というモノは、旅という行為の結果、文字通りたどり着いた物理的な一つの実体である。
しかし景色であれ工業製品などの人工物であれ、さらに芸術作品であれ、本来それ自体に意味や価値はない。それはただの石ころや岩、布のキャンバスの上の絵の具という物質でしかない。しかし一方それは「行為の結果」残された遺物あるいは形見である。それが科学、技術、豊かな生活の、あるいは偉業を指し示している。
亡くした母の写真や形見など、それ自体に意味や価値があるのではなく、それらが母を思い出させてくれるトリガーとして働く、そのことには価値がある。それは母をシニフィアンしている。
モノとコト、どちらが大切かと突き詰めてもしかたないのだろう。
モノとコトの言語学的な転回を試みたわけだが、この直感はあるいはただの妄想のような気がしないでもない。
これは前に呼んだ松尾芭蕉が「古池や」で達観���て完成させた俳句という芸術(長谷川櫂)に通じている。このこともいずれ書きたい。
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ogawa-xd · 9 months
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心惹かれることのために
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なぜデザインという仕事をしているのか。 なぜこのような文章を書いているのか。
じつはそれは自分の中ではかなりはっきりしている。
そのときどきの状況に流されたり、偶然の出会いや出来事があったりした結果として、このデザインという仕事を自分はしてきた。だが、場面場面の決断を後押しする、緩やかだが確かな、一定の力が自分の中には働いていた。「そのこと」はずっと考えてはいたような気がする。そしてかなり後に、シンプルなモチベーションに気づいた。
それは「心惹かれる」という状態のことだ。
わかりにくいかもしれないが、自分がデザインに心惹かれたから、ということでは「ない」。もちろん、デザインに心惹かれたという事実はそれとしてあるが、それは理由ではなく結果だ。 自分は、人が何かに心を惹かれてしまうという、その「事態」に興味がある。そのことに対する好奇心のためにデザインを選んだ、というかデザインを辞めずにここまできた。
音楽にせよ絵画にせよスポーツにせよ、あるいは恋人や友人にせよ、人はなぜか心惹かれ心奪われる。すぐに飽きてしまうこともあれば、一生涯永続きすることもある。
それってどういうことなのか? 結果的にデザインという仕事はそのことを主題化できる数少ない仕事だし、そのことを主題化することを主軸にしてデザインにアプローチすることもできる。自分がしてきたデザインは、おおむねそういうスクリーニングがかかっている。 自分にとってデザインは、心惹かれることに深くコミットしている。
そういうとエンターテイメントに関するデザインと思われるかもしれないが、それもちがう。心惹かれるという「人の行為」に興味があるのであって、心惹かれる具体的な「内容」に興味の中心があるわけではない。むしろ「普通」の中での心惹かれることに、心惹かれる。
こういうめんどうくさいことを、別に考えて決めたわけではない。そういうことを心が望んでいるという声を、自分の意識が聞きわけたということ。
そのために、デザインと哲学の関係を探ったりしている。
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ogawa-xd · 9 months
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よくわかる、それでいい。
お金の知識がないのは現代社会の大人として恥ずかしいと思って勉強してみたけど、超つまらなかった。投資のプロと話す機会があったので相談したら、「やらなくてよろしい」と断定された。
「あなたは放っておいたら家計が破綻するタイプではない。むしろけちだ。あなたは収入が一般的でたいした資産がない。だからお金の勉強をする義務はない」
「あなたの収入でも、勉強して多少なりともリスクをとって、たとえば年間数万円から十万円の運用益を手に入れることはできます。でもそれが真実得になる人とそうでない人がいる。あなたはそのための勉強や手続きが楽しくないんだから、これを労働と考えて時給換算したら割りに合わないと感じるはずだ。あなたはそのぶんの時間、ごろごろ寝て好きな小説やマンガを読んでいたらよろしいのです。あなたにとってそれは十万円よりはるかに価値のあることなんだから」
「自分の得られる幸福が多いほうを取るんです。お金の勉強が楽しい、リスクを取る判断に知的興奮をおぼえる、不労所得を得たら気分がいい、こういう人にとっての資産運用はぜひやるべき、お得なことです。いい気分で十万円入るんだからやるべきだ。あなたはいい気分にならない。それなら運用で十万円得てもぜんぜん得ではない。そのぶんの時間、マンガ読んで寝てなさい。余ったカネは銀行にぶちこんで寝てて良い。銀行が運用しろと言ったらよそでしますと言いなさい」
私はそれを聞いてたいそう安心し、マンガ読んで寝た。
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ogawa-xd · 10 months
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ニコマコス倫理学
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アリストテレス「ニコマコス倫理学」(山本芳久、100分で名著)
アリストテレスは、つかみ所がないので避けていたけれど、この本によれば、あまりに自然であり普通の感覚/常識だ。自分が小さい頃から考えていたこと/考えてきたこと、気づいてきたことの道筋にしっかり沿っている。
それは気づいた自分がアリストテレスなみにエライ、という意味ではなく、単に自分はアリストテレスから連綿と続く思考の枠組みの中に生まれて育ったということなのだろう。もうすでに自分の身体の中に血肉化している。それほど、多くの基本的な物事の考え方の根底にアリストテレスが居る、ということだし、人々もその上に立っている。そのことはほとんどの人に知られず意識もされていないけれど。
倫理とか道徳というと、自分は反射的にとても嫌な感じをもってしまうのだが、それはおそらくカントのせいだ。アリストテレスの取り上げる主題としての「倫理」は、現代的/一般的なイメージとはちがう。よく生きるにはどうすればいいか、よいとはどういうことか、というソクラテスの系譜に連なる視点である。自分流にいえば価値の問題に関するニュートラルでベーシックな基本事実を解いているだけのようだ。
一言でいえば、人が幸福になるためにはどうすればいいか、に関する考察である。
ニコマコス倫理学
史上初の体系的な倫理学。 幸福論的倫理学(cf. 義務論的倫理学:カント) ※幸福論的倫理学→事実を捉えようとしている、 ※義務論的倫理学→「べき」論
目的の連鎖:つねに「なんのため?」と問えるが、「幸福」でその問いの連鎖は終わる。
幸福になれること → 善「すべてみな何らかの善を目指している」
三つの学問分類
知ること(理論的学、知識) ← 自然学、数学、形而上学、(自然科学)
すること(実践的学、行為) ← 倫理学、政治学
作ること(制作的学、制作物) ← 詩学、弁論術、(デザイン?)
学問のタイプ:
理論的学 → 常にそうであるところのもの(を目指す)
実践的学、制作的学 → たいていはそうであるところのもの(を目指す)
→ ゆえに、倫理学は若者には向かない。それでも、学ぶ価値はある。
「倫理学」の語源
エトス(習慣)
エートス(性格、人柄)
エーティコス(性格にかかわる、人格に関わる)
タ・エーティカ(性格/人柄に関わることども)
善(アガトン)の意味
道徳的善 人助け、ルール遵守
有用的善 役立つ
快楽的善 快楽、楽しい
→ 価値
これらは時に相反するが、どれを重視するのかその人の判断である。
悪人といえども、自分のどれかの「善」を選んでいることにちがいはない。
最高善=幸福
3つの生活類型の中の幸福
快楽的生活 → ×安定的、持続的幸福につながらない
政治的生活 → ○社会で役割を果たす幸福、現実態としての自己実現
観想的生活 → ◎真理を認識する幸福、可能態としての自己実現
「人は生まれつき知ることを欲する」理性:人だけが持つ
枢要徳:4つの徳(アレテー:卓越性、力量)
幸福は徳によって実現される。
賢慮(判断する力、判断力)
勇気(困難に立ち向かう力)
節制(欲望をコントロールする力)
正義(他者を重んじ、ルールを守る力)
→ すべては「力」
徳は生まれつきのものではない。変わりうるから。
力(能力/可能性)自体は生まれつき備わっているが、その「在り方」を現実化していくことが必要。その在り方が「幸福」である。
徳を身につける
思考の徳:教示(知的能力・可能性)に負っており経験と時間が必要
性格の徳:習慣(エトス/人柄)によって性格(エートス)は形成される
徳は学んだ上で実際に作らなければならない/作ることによって学ぶ like a 「勇気ある行動を取ることによって、勇気ある人になる」 ※徳と技術の類似持性
有徳な人と悪徳の人
「節制」について
理性被支配
節制のある人(葛藤がない)
抑制のある人(葛藤がある)
欲望の支配
抑制のない人(葛藤がある)
放埒の人(葛藤がない)
喜びの感じ方:千差万別
喜びの感じ方は、味覚のように人それぞれに内容はちがう。しかし優れた料理人は「舌」が肥えており、微細なそれぞれの味のちがいがわかる。
中庸
「まぁまぁ/ほどほど」ではない。
×[臆病 ←(中庸)→ 勇気] ○[臆病 ←(中庸:勇気)→ 向こう見ず]
友愛(ピリアー)
すべての徳を備えていても、愛する友がなければ空しい。
〈友愛の成立要件〉
好意(相手の善を願う)cf.「嫉妬とは他者の善を悲しむこと」
相互性(相手からも好意が返ってくる〉
気づかれている(相手もそれを気づいている)
〈友愛の種類〉
人柄の善さに基づく → 似ている善き人同士で相互に相手を全体として��する/持続的
有用性に基づく → 自分のため、状況によって変わる/持続しない
快楽に基づく → 自分のため、情動、恋愛/持続しない
前に「友人」という関係がもっとも貴いと考えたが、このことのような気がする。
友愛については鳩山由紀夫が一時取り上げていたけど、読んでいてああきっとアリストテレスの「友愛」のことなんだろうな、と思う。
アリストテレス:Aristoteles
BC.384〜322 ソクラテスの弟子であるプラトンの弟子。 リュケイオン(設立した学舎)(cf. アカデメイア:プラトン) 大王アレクサンダーの家庭教師
山本芳久:
「魅力的なものと出会うという出来事は、『出会い続けることのできるものとの出会い』である」 たとえ一度の出会いであったとしても、その出会いは以後の人生で何度も反芻され追想される。つまり再び、何度も出会う。
220426
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ogawa-xd · 10 months
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AIについて
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AIについて、いろいろと驚いたり恐れたりしているが、今の自分の感じや考えを、いちおう書いておく。あとで答え合わせをするために。(「あと」→たぶん50年後?)
この急峻に立ち上がってきたAIの波は、本物であると思う。実体としての大きな波であって、けっして幻影ではない。 かつて、マルチメディアとかハイパーメディアとか、○○革命とか、○○2.0とか、「これこそ」レベルのたくさん「ブーム」があったが、ある意味で、ほとんどが幻影だった。でも、このAIの流れは、それとはちがうと思う。 AIがこんなことになるとは、自分は想像していなかった。これは本当に驚きだ。
「恐れ」は、あることはある。
AIが多くの職を奪う、ということはありうる、といより、かならずそうなると思う。でも、人は生きていかなければならないし生きていくだろう。AIが人に代わって仕事をしてくれること自体は悪いことではない。どこかに安定するバランスをみつけて、収束していくと思う。
小説や映画で描かれるAIディストピアの起こる可能性は、限りなく低いと自分は思う。
そういう中で、自分が恐れるのは、AI(など)によって人の大切なものが傷ついたり、毀損される可能性について、である。具体的には、何かをしようというモチベーションとか、何かを知ろうとする好奇心、あるいは何かを達成する生きがい、などである。 AIにつながるセンサーの解像度の向上や、集合知の掬い出し方の精度の向上、総合的な判断の正確さなど、これらはまだ部分的かもしれないが、人の能力を完全に凌駕している。
人にとって、「人にしかできない」という認識はかなり重要なポイントだと思う。そういう意味で、今まで人は動物界で、つまり世界では連戦連勝負け知らずのチャンピオンであった。 AIもじつはその戦いのために作られたものでもあるのだけれど、いつのまにか人間の指示をまたず「勝手に」判断して、やってくれる存在になりつつある。しかも想像をはるかに越えて上手に。人がこれに過剰に依存してしまうだろうことは想像にかたくない。そして起こるのは思考停止。これがもっとも恐れるべき事態ではないか。
こういった状況のなかで、人はモチベーションや好奇心を失わずにいられるのだろうか。思考を停止せずにいられるだろうか。 つまりこれはAIの問題というより、それに対する人間側の問題であると思う。
しかしとはいえ、最終的には、人はこれにもうまく折り合いをつけてやっていくのだろうと思う。 その「折り合い」を大胆にいえば、人自身の変革、によってである。人自身の在り様を変えることによって、対応していくだろう。 言葉(意思疎通の道具)の発明によって「認知革命」が起きたように、AI(思考し判断する道具)の発明によって、「○○革命」が起きる、そんな気がする。
この○○には、何が入るのかはわからないが。
少し捕捉する。
すべては「未来予測」なので、ことの信憑性にかんしてはどこまでも話半分ではある。 ただ、これは危惧されるから手を打っておいた方がいいかな、と個人的に感じるポイントについては、発信し共有することは意味かあると思う。そんなスタンスで書いている。 そのうえで、AIの技術進化の方向性については、いろいろあって自分ではまったく整理がついていない。この技術が、すべてを解決する万能薬なのか麻薬なのか、超覚醒剤、猛毒物質なのか、わからない。 ただ、技術そのものよりも、この技術を受けとる側の「人」への〈効果〉の方が、よりクリティカルだと感じている。
そういう視点が、あまり強調・指摘されていない気がするので、しておこう、ということ。
またこの話題は、前に書いたこととも軌を一にしている。 ■第三言語革命:
230715
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ogawa-xd · 10 months
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デザインと工学
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1. 「デザイン」と「設計」
“design”という言葉には、「設計」と「デザイン」という意味がある。なので両方にまたがる話しをしようとすると、いちいち「いわゆる」とか、「設計とも訳される」とか断りをいれないと誤解が生じて面倒なことになる。
一つの言葉が複数の意味を持つことは、めずらしいことではない。けれどこの二つは、意味の境界をぼかし、両方の意味を互いにほのめかすような使い方が、わざと、あえて、されているような気がする。なんかこの二つのちがい触れるのは、腫れ物にさわるっぽい感じさえする。
自分は「デザイン」をもっとよく知りたいので、なんとかこのちがいを、自分の感覚に忠実に言い留めてみたい。
この行為の意味のちがいは、デザインと工学という領域のちがいに根ざしていると思う。デザイン領域で使われる”design”は「デザイン」の意味であり、工学領域で使われる”design”は「設計」の意味になる、と。大きくはそういうことで、だからデザインと工学の関係をはっきりさせれば、いいのではないか。
ちなみに昔、英語話者のデザイナーにこの話題を振ったことがある。聞いたところでは、日本と同じように、”design”は「設計」の意味も「デザイン」の意味もあるとのことだった。「設計」という言葉がないぶん、日本よりさらに混乱しやすそうではある。
(以降、〈デザイン〉と〈設計〉をこの意味でストレートに使う。)
2. アイデア
ここでは、もう一つ〈アイデア〉という概念を交えながら、この二つの領域のちがいを考えて見たい。
結論をあらかじめ言えば、〈アイデア〉こそ〈デザイン〉という行為を特徴付けるものであると自分は考える。もしも〈デザイン〉という行為が尊重されているのだとすれば、それは〈アイデア〉ゆえではないかと思う。
ファッション、グラフィック、プロダクト、UI/UX、その他どのデザインサブカテゴリーであれ、〈デザイン〉の仕事のほとんどは〈アイデア〉を出すことであると思う。
製品の色や形や手触りやスタイルを考えることも、サービスの内容や使い方・操作方法、イベントの計画やプログラム、組織の在り様や行動指針などなど、何についても〈アイデア〉が求められている。
そしてすべての〈デザイン〉は、出した〈アイデア〉を具体化するたプロセスであると言えると思う。
〈デザイン〉とは、〈アイデア〉を出してそれを具現化していくこと
それでは、〈アイデア〉とはど��ように規定されるものか。
〈アイデア〉とは、有効性と新規性の2つを備えた「考え」のこと
自分は〈アイデア〉を成立させる必須の要件は、その二つであると思う。
どのように有効性か、どんな新規性かということは、〈デザイン〉の内容として具体的に問われなければならないが、この二つの要素のどちらかでも欠けているか足りなければ、〈アイデア〉としては成立しないか不十分である。
少なくとも職能として〈デザイン〉を実践していくなかでは、そのような意味での〈アイデア〉がつねに求められていると思うし、自分もそれに応えようとしている。
■有効性
効果があること、効力があること。 その考えが、状況を何かしらよい方向に変えることができること。 もちろんここでの「よい方向」の内容は、よく吟味される必要があるし、いろいろな提案があり得る。〈アイデア〉は、「よいこと」の具体的な内容を目指して検討される。色にせよ形にせよ使用性にせよ。
■新規性
その効果ある考えが、さらに新しいものであること、独自性が認められることが必要だ。 新規性といっても、必ずしもすべてにおいてまったく「新しい」必要なない。ある部分/ある視点において何かしら新しい点を持っていなければならない。だからむしろ〈デザイン〉は、新しく見える「視点」あるいは「観点」を探しているといってもいい。
有効性については、あまり異論は起きないだろうと思う。有効でない考えは誰も求めてはいない。 新規性については、違和感を感じる人もいるかも知れない。新しくなくとも有効であれば、それで十分ではないか? それもわかる。ある意味たしかにそれで十分である。
しかし、〈アイデア〉に関するこの「新規性」こそが、〈工学〉と〈デザイン〉を分けているものだと自分は思う。これを外すととたんに〈工学〉と〈デザイン〉の境目も、そして〈デザイン〉の意義も見失う。
工学について〈アイデア〉が不要だということではもちろんない。既存の方法では解けないような問題を解こうというときには、工学でも〈アイデア〉つまり有効かつ新しい考え方、は必要になる。ただ工学として外せないのは、有効性にかんする確実性である。たとえ新しくなくとも確実に有効であれば、工学ではそちらの考えが採用されてよい。新しさは「必須」ではない。むしろ「枯れた」技術は尊重される、それは確実だから。また確実であることのために、数学や論理性が工学のベースに置かれている。
〈デザイン〉は有効性に関しては、工学に比べればもかなり甘い。〈デザイン〉にとっては、多少有効性がふわふわしていても、新しいことを外すことはできないのである。
工学の確実な有効性をあくまで尊重するというスタンスはとても尊く、それによって人類は海も空め越え月にまで行った。
この〈アイデア〉というポイントを〈工学〉と〈デザイン〉のちがいであると積極的に規定することによって、〈デザイン〉の意義を見直したいと自分は考えている。
そういう考え方を〈効果思考〉(※)と名付けている。
3. デザインと設計、ふたたび
デザインと設計という言葉にもどる。
デザインは「新しくかつ有効な考え」を導くことであり、設計は「確実な有効性ある考え」を導く。それがそれぞれの行為の本質ではないか。
「確実な有効性」を問えるために、解くべき問題は厳密に規定されていなければならない。何をして問題解決であるといえなければ、それを確実に解くことはできない。
〈デザイン〉では、新しさを堅持する性質によって、結果として今までにない有効性の在り方を提示することになる。 設計は問題解決であり、デザインは問題の提示である、そういう言い方もできる。
ここでとりあえず終えるが、たとえば以下のような、まだまだ気になることはある。それはいずれまとめたい。
経緯: どうしてこういう事態に至ったのか? 歴史的ないきさつ。
〈アイデア〉の出し方: 〈アイデア〉をいかにして出すか? デザイナーは、いかにして〈アイデア〉を出すことを鍛えてきたのか? それに方法はあるのか?
など。
230711
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ogawa-xd · 10 months
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〈効果思考〉
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1. 思考のかたち
デザイン行為を考えるうえで、基本となる考えの枠組み/思考方法をしめしたい。職業的なデザイナーなら、ふつうに、ごく自然に、そのような仕方で考えているのかもしれない。だが、この考え方そのものに直接に言及しているのは聞いたことがない。ということで、その思考方法には名前がついてない(か、単に自分は名前を知らない)。 このプラグマティックな思考方法に、自分は「〈効果思考〉」という名前を付けたいと思う。
名前とはいいものである。適切な名付けができると、それだけで「思考」そのものがシャンとして立ちあがる。 オリジナルのコンピュータプログラムを書いたことのある人は、こういう経験があるかもしれない。適切な変数名や関数名を付けることができると、プログラムの骨格が堅固なものに感じられ、そのとたんにコーディングがスムーズに進むようになる、そういうことだ。適切な名前が付けられないと、思考が右往左往して、とんでもない思考ミスを犯してしまったりする。
自分でも、〈効果思考〉と呼んでみて、はじめはしっくりこなかった。なにかよそよそしい、行き過ぎた効率主義のような匂いを感じた。しかしプラグマティズムを復習っていて、その名前でいいんだという確信が持てたし、お蔭様で今はもう「慣れ」た。慣れも大切だ。
プラグマティズムの創始者パースはこういう意味のことを述べている。
「あるものの概念とは、その概念が及ぼす効果のことである。よってあるものが何であるのかを考えようとするなら、そのものがどのような効果を及ぼしているのかを吟味しなければならない。」(「プラグマティックな格率」、「プラグマティズム入門」伊藤邦武) 「プラグマ」とは、ギリシャ語で行為や実践などの意味である。
思考方法に「デザインの」と限定詞をつけたが、じつはつけなくてもいいという気もしている。それだと「プラグマティズム」そのものの説明になるだけで。
〈効果思考〉ということだから、当然「効果」が主役になっている。〈効果〉については、より深く考えるべきだと思う。
2. 知るとつくる
人の為す「行為」を、分類することはできるのだろうか。たとえば、こういうのはどうか。
移動系:人自ら空間を移動すること「行く」「来る」「旅する」 運搬系:何かを空間上を移動させること「運ぶ」「持って行く」「置く」
学術や学問、あるいは単純に好奇心をもっていろいろと知っていく行為を「知る系」と分類したい。これを「情報系」「知識系」と呼びたい向きもあるかもしれないが、ここはあくまで「動詞+系」で表したい。
知る系:知らなかった新しい知識を得ること「知る」「学ぶ」「教わる」「見る」「聞く」
それではデザインという行為はどうだろう。つくる系といっていいと思う。
つくる系:何かを作りだすこと「つくる」「書く」「こわす」
作られる対象物は人工物/道具である。 さらに抽象化していえば、いまここにないものを出現させること。
ここでは、知る系と対比させながら、つくる系であるデザインを考えてみる。
理系文系
理系文系という分けかたは大学受験的だが、かつてこれらは完全に分離していて、学生は二者択一しなければならなかった。今は文理融合など、以前ほどは乖離的ではないのはいいことだ。完全に分けられなるはずも、分けていいはずもない。
でも理系文系とはそもそもどういうことなんだろう。
理系は、合理的、論理的な思考を要するに科目、数学や物理化学。文系は、歴史や地理、文学などすでに現実にある事象が何であったかを考える科目、といったあたりが一般的だろうか。 理系は、人の気持ちや心によって左右されるものは扱わない、よっておもに自然科学へ向かう。それに対して文系あるいは人文系は、揺れ動く「人の心」に焦点を合わせるているようにみえる。
もっと抽象化すると。
理系は、すべては収まるべき場所、型を持っていて、その「型」の中に収まるとする。「型」とはつまり、なかの個物の振る舞いや性質を分ける「法則」のことともいえる。理系はその「法則」とは何か、をさぐる。
文系的には、すべては個別的である。すべてが結局は何かの種・類という容れ物に収まるとしても、個物は個物であるがゆえ個性的で一回性を持っていおり、そこを注視している。
あるいは、理系は、種類にまとめるために「同一性」に注目し、文系は、種類のなかの個物を見るために一つ一つの「差異性」に注目するともいえるだろうか。
また、知る/問うことの内容には、「事実」を問うことと「解釈」を問うことの2つがあると思うが、おおまかには理系は事実を、文系は解釈を問うている、ともいえる。
アプローチはことなるが、どちらも「世界を知る」ための行為であることにちがいない。
哲学
ところで「哲学」は、一般には文系に入れられるが、とくに現代では理系的な思考部分の重要性が大きくなってきている。 古代ギリシャ哲学ではどちらかというと理系的なはじまりをし、やがて文系的な展開をし、科学革命から現代では、ふたたび理系的な要素が入ってきた。 哲学はすべての前提事項の当否をいったん保留して、ひたすらに「本当はどういうことか?」と問うような知的態度である。とするなら、「哲学は文系」であるというのはナンセンスな予断だろう。
哲学は、理系文系のどちらの分野とも捉えられないところに在って、その両者の立場を調停・統合し、最終的な世界図を描こうとしている。
知ること、つくること
理系、文系あるいは哲学にしても、大きくは「知る系」である。あるいは学問・学術のほとんどは知ることに最重要な力点が置かれている。人のモチベーションにそっていえば、「わかること」ともいえるだろうか。
「知る」ことに対して、何かを「つくる」ことは、また別の柱として屹立している。まったくちがう成立要素がそこにはある。
つくることにとって、よく知ることはとても重要ではあるが、「知る」ことで「つくる」ことのすべてをカバーすることはできない。
自分がデザインにかかわってきたせいか、とくに強くそう感じる。
たとえばここに、水を流すための溝があって、泥に埋まってしまっているとする。 なんとか泥を掻き出す必要がある。ほんの少しの泥なら何も考えずに手ですくってやればいい。今にも水があふれそうな緊急事態なら、そこらの棒でも板きれでも使って掻き出した方がいい。もし時間があるなら、最適な道具を考えるのもいいかもしれない。いずれにしても、つくるためには状況を踏まえて、適当な完成度で手を打たなければならない。
行為の本質的基準
真摯に知ろうとすると、最善解、最適解を目指すことになる。つまり知ることの本質的な基準とは、もっと「正確」に、もっと「正しく」という基準である。もしも「正しさ」を目指さなければ、知ることは空しい所業になってしまう。「適当に知る」とか「いい加減でもいいから知る」というのは、基本的には矛盾した言い方である。
それでは、つくるという行為の本質的基準とは、どういうものが考えられるだろう。もちろん正しい知識にもとづいて、正しくつくることは求められるとは思う。
つくることの基準は、つくられたものと、つくったという事実がもたらす「効果」にあるのではないか。それがどのような効果をもたらすのか、それによって「つくる」が測られる。
〈効果〉は、「正しさ」のように、一直線に並べてその程度の大小を比較できるような基準ではない。「あれ」と「これ」とを比較して自動的、客観的に優劣は決められないのだから、「あれはこういう効果」があるが、「これはこういう効果」がある、と理解したうえでどちらの効果を選ぶかという判断をするしかない。つくるはそういう効果を中心にした性質をもった行為なのだと思う。
3. 〈効果思考〉とは
〈効果思考〉とは、
ある事象が何であるのかを、その効果によって規定し評価すること。
「デザイン」が、どう定義されるものであるにせよ、デザインした結果、うまくデザインできたのかどうかを評価する必要がある。じつは、その評価はとてもむずかしく漠としている。人によっても異なる。
たとえば、道具として役に立つ、仕事がはかどった、美しい、壊れにくい、所有感を満足させてくれる、などなどいくらでも詳細化できるわけだが、それらを「効果」という一律な枠組みにいったん収めて、比べようということである。 その上で、自分は「どの効果」を採用するのか、と問う。 こういう思考方法は、当たり前といえば当たり前なんだとは思う。
もちろんこれは自分が発明した思考方法ではない。というか、自分たちは、そんなふうに考えて道を決めてきたのではないか、とあらためて気づいた、あるいは再発見した、ということである。
〈効果思考〉は、デザインの内容の評価にかぎらず、ひろく応用できる。
たとえば「デザイン」とは何か(これはデザイン結果の評価とはちがう)、「アイデア」とは何か、といったことを考えるとき、いろいろに答えうる。どの規定しかたがたった一つの「正解」である、ということはできない。 ちょっとおおげさにきこえるかもしれないが、形而上学的な問いかけ、愛、平和、しあわせ、とは何か、 真や善や美は何か、といったビッグ・イシューはどれも、とても一つの正解を示し得ない。これらは「事実」としての「正しさ」に向かう態度では納得のいく地点へ到達できない。そうではなく「解釈」としての「効果」を問うべきだと思う。それによって唯一の答えが出るわけではないが、議論としては一段深まると自分は思う。
「しあわせとは、Aである」「しあわせとは、Bである」「しあわせとは、Cである」のどれが「正解」か、と問う代わりに、「Aと考えたときの効果」「Bと考えたときの効果」「Cと考えたときの効果」の、どれを自分は採用したいか、採用するべきか、と問うてみたい。
4. 効果とは
「効果」そのものについて、まとめておこう。
基本事項
はじめにあった状況を「状況S1」とする
何かの事象「事象e」が起きるとする
その事象eによって、状況が変化し「状況S2」になること
その「状況の変化」「S1とS2の差」を「効果」と呼ぶ
事象(イベント) :元となるトリガー 事象とは物事の存在や現象のことで、ここではデザインされたものやサービスが世の中に出現し、流布することを指す場合が多い。が、もっと抽象的な哲学的な思考や「形而上学」的なイシューについても問題にしている。
状況:変化するもの 状況は、扱われる事象の内容によってその大きさや広がりが適宜決まる。たとえば何かの製品やサービスであれば、それを使う人の仕事や遊びや生活などである。そして使う人自身の能力の向上やメンタリティの変化、使用者でない人も含めた社会状況なども含まれる。
変化 何か事象が起これば、必ず何らかの変化も伴う、という見方もなくはない。たしかにそもそもなんの変化も起こさないような事象を「事象」と呼べるのか、という話しもある。 だから、ここで問題にしているのは、変化の量と質のこと、である。この「変化」を「効果」と呼び変えている。
効果 変化と効果のあいだにあるのは、「視点」「観点」「関心」など、大きくは「意味(付け)」から変化を見る、ということなのだろう。 効果は関心から発しているので、さまざまなレベルのものが混在しているし、人それぞれでも異なったものとしてある。 人(自分)にとって、その変化はいいことなのか悪いことなのか、と考えればその効果は「価値」の話しになる。 また効果はスタティックに決まっているわけでもない。効果はダイナミックにその都度、生成されるものである。つまり、はじめに気づかなかった効果、効果と認識されていなかったポイントが、のちに重要な効果になることもある。受取手によって、効果が発現する場合もしない場合もある。 それは潜在していたものが顕在化したのではなく、まさにある状況のなかで生成・発現したのである。
5. その他
チューリング・テスト
この思考方法が自分のなかで像を結んだ直接のきっかけは、チューリング・テストだった。このテストはそれ以前から知っていたが、あるとき「ああ、これはチューリング・テストのパターンだ」と気づいた。
チューリング・テストとは、機械が人のような知性を持つのかという問題について、アラン・チューリングが提案した次のような判定方法である。
「人がブラインド状態で対話をしてみて、人か機械かの区別が付かないようであれば、その機械は知性を備えていると言っていい。」
これを敷衍すると、あるものの本質がなんであるのかは、その効果(ここでは対話の内容や質)によって判断していい、ということである。結局のところ、私たちはふだん、そのように判断をくだしているのだと思う。 年代的に無理はないが、チューリングがパースのプラグマティズムを意識していたかどうかは、わからない。
それをいうことによってなにを言おうとするのか
誰かの発言に対して、自分は「それをいうことによって何を言おうとするのか」とよく問うことがある。また「自分は、これをいう(する)ことによって、何を言おうとするのか」とつねに自問している。この問いかけも、じつは「それをいうことによって、どのような効果を期待するのか」という意味であった。
ある内容を主張するとき、多くの場合、
主張内容自体によって主張すること
「(ある内容を)主張すること」によって主張すること
という二つ以上の主張が、まるでコダマのように減衰しながら鳴っている。
デザインとは
〈効果思考〉という、事象の捉え方について明確にしたので、そのうえであらためて「デザインとは何か」に応える必要があるわけだが、それはまた項を改める。
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ogawa-xd · 11 months
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サピエンス全史2
第二部 農業革命
第5章 農耕がもたらした繁栄と悲劇
1万年前、サピエンスは狩猟採集から農耕へと生活スタイルを変えた。農耕と平行して家畜化がはじまったが、それらは要するに自分以外の動植物の生命を操作することだった。サピエンスはそれに夢中になった。今でも。
BC9000小麦の栽培ヤギの家畜化、BC8000エンドウ豆レンズ豆、BC5000オリーブ、BC4000馬、BC3500ブドウなどが栽培ないし家畜化されたが、それらはさまざまな地域で同時多発的に起こった。
農耕は定住を強いた。農耕・定住によってサピエンスは平和と安寧を手に入れた、といったイメージをしやすいが、そうではなくそれはむしろ困難で満足度のかなり低いものだった。
小麦や家畜から見れば、人を家畜化して自己の種の繁栄をはかったとも考えられる。なにしろ現代の世界の小麦の作付面積は日本の6倍もある。農業革命は史上最大の詐欺であった。サピエンスは、個体数の増加という種として最大の目的を達するためにこの詐欺に乗った。
実際、狩猟採集は多くても100人程度の群れであったが、農耕・定住なら1000人の村を作ることも簡単だ。そして、いったん個体数が増加したなら、もう狩猟採集にはもどれない落とし穴の仕組みになっていた。
また農業革命はサピエンスにとって、「贅沢」という名の罠でもあった。実際には必要量と収穫とはならせばせいぜいトントンであったが、「たくさん収穫できれば、楽になり子供も増やして安心して暮らせるだろう」という幻想を抱かせた。サピエンスはこのとき「願望を抱く」という甘美な果実の味をはじめて知ったのかもしれない。
これは「楽を求めて、より大きな苦難にはまる」という、サピエンスのダメパターンで、歴史はこれを繰り返している。
フーコーの「奴隷と主人」の話しを何となく思いだす。
個人的見解。虚構にせよ願望にせよ、ことの真偽よりとにかく集団で何かを信じ、夢見ることがサピエンスの真骨頂だったのだろう。それはもちろん言葉の働きに負っている。
第6章 神話による社会の拡大
狩猟採集の時代の500〜800万人ほどだった人口は、農耕移行後2億5千万にほどに膨れ上がった。広大な大地を家としていた人がほんの小さな小屋に住み、やがてそれを愛するようになった。さまざまな道具も増え、そこに縛り付けられた。
農耕民は暮らす空間が縮小する一方、時間は拡大した。そして「未来」がより重要になり、同時に未来に対する不安も芽生えた。しかしこの不安は手を打てる不安でもあった。その対処が、たとえば社会体制の確立に向かった。
■想像上の秩序
余剰食糧と輸送技術により、村落は町に町は都市に変わった。100万人を超える都市/王国では、人びとは何らかの「合意」を形成する必要がある。そこでは「神話」が「想像上の秩序」として、その役割をになった。
紀元前1776の、ハンムラビ法典は、「バビロニアの社会秩序が神々によって定められた普遍的で永遠の正義の原理に根ざす」と主張する。人は二つの性と三つの階級(上層自由人、一般自由人、奴隷)に分かれ、それぞれの人の価値はみな違う。
紀元後1776の、アメリカ独立宣言は、英植民地であった北アメリカ13州の住民は「もはや英国王の臣民ではない」と宣言した。そして宣言は言う。「我々は以下の事実を自明のものと見なす。すなわち、万人は平等に造られており、奪うことのできない特定の権利を造物主によって与えられており、その権利には、生命、自由、幸福の追求が含まれる。」
しかし、これらはどちらも間違っている。ともに「普遍的で永遠の正義に支配されている」と「想像した」にすぎない。そういった普遍的原理は「神話の中」だけに存在するのであり、客観的正当性はない。
「生物学」という「科学」によれば、人びとは造られたのではく進化した、のであり、「平等に」なるように進化したわけでもない。生物学的には権利などというものはなく、あるのは器官や能力や特徴だけだ。鳥は飛ぶ権利があるから飛ぶのではなく翼があるから飛ぶ。自由も幸福も、人間の想像の中にしかなく、すべては想像上の秩序にすぎない。
こういった秩序/神話は、皆がいっせいに信じなくなった途端に��えてなくなる。
社会秩序が軍隊によって維持されているとするなら、軍隊の秩序は一部の指揮官と兵士が、神、名誉、母国、男らしさ、お金などを心から信じている必要がある。
その他
• 想像上の秩序は物質世界に埋め込まれている。
• 想像上の秩序は私たちの欲望を形作る。
• 想像上の秩序は共同主観的である。
私見。
ハラリは「想像上の秩序を乗り越えるには、それに変わる想像上の秩序を信じなくてはならない」という。
しかし、人には「想像上の秩序」が必要「だった」のかもしれないが、ここまで読み解かれてみるともはや、そういった補助輪を外してもいい頃ではないのか、という気もする。
コンピュータネットワークやAIの進展は、我々のこの秩序が、想像上のものであるという事実を我々につきつけているように思う。
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ogawa-xd · 11 months
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■サピエンス全史
もうかなり熟読しているが、少し時間ができたのでもう一度、ユヴァル・ノア・ハラリ「サピエンス全史」読み返す。至福だなぁ。
第一部 認知革命
第1章 唯一生き延びた人類種
135億年前「物理学」という物語りが始まり、38億年前「生物学」という物語りがはじまった。
7万年前、〈認知革命〉とともに歴史学がはじまった。そして1万2千年前に〈農業革命〉があり、500年前〈科学革命〉が起きた。
サピエンスは、人類のなかで唯一生き延びた種。ネコ科ヒョウ属にはヒョウもライオンもトラもいるが、人類種にはサピエンスしかいない。なぜか?
3万年前に近隣のネアンデルタール人が滅んだ具体的な理由は断定できない。しかし殺戮にせよ自然的淘汰にせよ、サピエンスの存在が関与していたことはまちがいがない。
その競争にサピエンスが勝ち残ったのは、「言語」によるものだ。
第2章 虚構が協力を可能にした
7万年ほど前に、サピエンスはその「内部構造」を変化させた。見かけこそ変わらないが、それ以降のサピエンスは認知能力(学習、記憶、意思疎通の能力)で格段に優れていた。
それ以前にアフリカを出たサピエンスはどれも成功しなかったが、それ以降の遠征は成功し、南極をのぞく世界中へくまなく進出した。
この「言葉」によるドラスティックな変革を〈認知革命〉と呼ぶ。聖書の創世記「知恵の木の実」を思わせる「言葉の獲得」だが、それ自体はたまたまサピエンスに起きた偶然の結果だった。
この認知革命が、世界の大変革につながるが、それは言葉のどんな効果によるのか。
• 存在しないものについての情報を伝達する能力
• たとえば伝説や神話、神々、宗教
• 総じて虚構、すなわち架空の事物について語る能力
実際には「虚構」は判断を誤らせる危険なものだ。だが、集団で嘘を信じることは、かぎりない力の元となった。鋭い牙や爪を持ったり、走力や筋力で勝ることより、桁違いに強大だ。
われわれはほとんど意識しないが、国もお金も人権も法律も会社も、みな虚構、擬制である。歴史の大半はどうやって膨大な数の人を納得させ、信じてもらうかという問題を軸に展開してきた。
第3章 狩猟採集民の豊かな暮らし
サピエンス20万年の歴史の19万年分、つまり95パーセントは狩猟採集のという生活形態だった。認知革命は狩猟採集の時代に起きている。
文字ももちろんなく、詳しいことはほとんどわからないが、ある程度たしかなことをあげれば、
• 農耕以前は「石器」の時代というより「木器」の時代
• 彼らは毎月毎週、あるいは毎日すべての持ち物を手で持って移動していたので、運べるのは本当に必要な所持品だけ
• 精神的、宗教的、情緒的生活は、器物や道具といった人工物の助けなしでおこなわれた
• 狩猟採集社会のもっとも大きな特徴は「多様性」
• 「群れ」と成員は一つの例外「犬」をのぞいて、すべて人だった、つまり家畜もない
• 平均的な人は、自集団以外の人を見かけたり声を聞いたりすることなく何ヶ月も過ごした。一生を通じて出会う人はせいぜい数百人程度。
• つまりサピエンスは広大な範囲にまばらに分布していた。
• 「狩猟採集」というが、一般的な「狩りをする人」のイメージよりも「採集」がメインだった
• 狩猟採集には多大な「脳」力と技能が必要で、個人レベルで見れば、その頃のサピエンスが史上もっとも秀でていた
• 一般に背が高く健康的だったが、平均寿命は30〜40歳。それは子供の死亡率が高いせいで、60からときに80歳まで生きる人もいた
• その理由は食物の多様性、感染症の少なさなど
• 感染症は農耕社会以降の家畜は由来のものが多く、そもそも人同士の距離ががまばらで感染・伝播の機会がほとんどない
• とはいえ、きびしく、情け容赦のない、欠乏と苦難の社会ではあった
最後に、狩猟採集時代のサピエンスが、平和主義者だったか好戦的な種族だったのかは興味がつきない。対サピエンス同士、対他の人類間、どちらの相手にも、平和的な好戦的か断定はできない。好戦的な部族もあったかもしれないし平和的な部族もあったのだろう。とにかく多様であった。
第4章 史上最も危険な種
しかし、餌の対象となる他の動物たちにとって、危険極まりない存在であった。
オーストラリアの例
• 4万5千年前のオーストラリアへの進出は、屈指のできごとだった。コロンブスのアメリカ発見、アポロ11号の月面着陸に匹敵する。
• それ以前にオーストラリアへ到達した人類はいなかった。
• それはサピエンスが特定の陸塊で食物連鎖の頂点に立った瞬間だった。
• 大型カンガルー、フクロライオン、大コアラ、大サイズの鳥、ディプロトドン(象サイズのウォンバット)などすべて姿を消した。
南北アメリカの例
• 最後の氷河期は、7万5千年前から1万5千年前にかけて。7万年前と2万年前の二度のピークがあった。
• 1万6千年前、サピエンスはシベリアから凍結したベーリング海を超えてアラスカをとおりはじめてアメリカ大陸へ渡った。
• それ以前にアメリカ大陸へ渡った人類はいなかった。
• アメリカに到達からわずか1000年から2000年の間に大きなげっ歯類、馬、ラクダ、巨大アメリカライオン、サーベルタイガー、象より大きなオオナマケモノなどを駆逐しながら南米南端に達する。
• この騒ぎからただ一つ無傷だったのがガラパゴス諸島。
そして第二部の農業革命に続く。
余談だが、訳者の柴田裕之(しばたやすし)氏は、自分の愛読書の主要なところで顔を出す。
• 「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ
• 「ホモデウス」ユヴァル・ノア・ハラリ
• 「神々の沈黙」ジュリアン・ジェインズ
• 「ユーザーイリュージョン」トール・ノーレットランダージュ
柴田さんが訳しているのなら、読む価値があるかな、などとも思う。
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ogawa-xd · 11 months
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◾知ると作る
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理系文系、それらと哲学について前回書いた。
理系は、世界を「知る」ために分割する、その分割の決まり・法則をさぐる。文系は、分けててもまだ残っている実際に存在する個物に注目する。そのためそれぞれ、同一性、差異性の眼鏡で世界を観る。
哲学は理系文系からは独立し、両者の調停・統合によって最終的な世界図を描く。
これらの真摯な学は、すべて「知る」ことにかかわっている、ともいえる。あるいは世界をどう「わかる」かという視座である。
しかし、知ることはわれわれが為すことの一部でしかない。
「知る」ことに対して、何かを「作る」ことは、また別の柱として屹立している。まったくちがう成立要素がそこにはある。
作ることにとって、よく知ることはとても重要ではあるが、「知る」ことで「作る」ことのすべてをカバーすることはでできないのである。
自分がデザインにかかわってきたせいか、とくに強くそう感じる。
最近気づいたことは、「作る」という、「知る」も含めた総合的な技能は、何かをうまく作り出すためだけにあるのではない、のではないかということ。何かを「作る」ために「知る」「考える」ことが、その行為をしようとする人自身に影響を与え、その人を「変え」、その人の総合的なパフォーマンスをあげる、ということ。
それは「知る」ことにも関係する。
そう結論してみて(考えを「作って」みて)、自分のモヤモヤしていたことがなんだか晴れた。
少し強引だが、自分はそう「表現」してみた、のだ。そういう考えを「作って」みた。それにどれくらいの信憑性があるのかはともかく、言い切ってみて、得られたものが大きい気がする。そうやって次の一歩を踏み出せる。できればまちがいや勘違いはしたくないが、それも前提のうち。人は完全ではない。
もしも、どこまでも「知る」ことにこだわっていたら、何もできなかっただろう。
「作る」も「知る」も、「する」ことの一部である。あるいは「生きる」の一部である。
サピエンスのことを考えてみたい。サピエンスは道具を作りその道具によって生存競争を勝ち抜いてきたのであるが、道具に直接よらない部分も小さくなかったのではないか。道具を工夫して作り出すこと、何世代にわたって改良に改良を重ね、競い合うこと、切磋琢磨、そして作ることのよろこび、それらがサピエンスを「磨いた」と想像するのはむずかしくない。
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ogawa-xd · 11 months
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◾️理系文系、哲学
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▪️理系文系
理系文系という分けかたは大学受験的だ。自分の時代は完全に二者択一な感じだったが、今は文理融合などといって昔ほどは乖離的ではないのは、いいことだと思う。完全に分けられなるはずも、分けていいはずもない。
でも理系文系とはそもそもどういうことなんだろう。
理系は、合理的、論理的な思考を要するに科目。文系は、歴史や地理、文学などすでに現実にある事象が何であったかを考える科目、といったあたりが一般的だろうか。
理系は、人の心によって左右されるものは扱わない、よっておもに自然科学へ向かう。
それに対して文系は、人の心に焦点を合わせるているようにみえる。
もっと抽象化すると
理系は、すべては収まるべき場所、型を持っていて、その「型」の中に収まるとする。「型」とはつまり、なかの個物が支配される「法則」のことともいえる。理系はその「法則」とは何か、をさぐる。
文系的には、すべては個別的である。すべてが結局何かの種・類という容れ物に収まるとしても、個物は個物であるがゆえ個別的である。
あるいは、理系は、種類にまとめるために「同一性」に注目し、文系は、種類のなかの個物を見るために一つ一つの「差異性」に注目するともいえる。
▪️哲学
ところで「哲学」は、一般には文系に入れられるが、とくに現代では理系的な思考部分の重要性が大きくなってきている。
古代ギリシャ哲学ではどちらかというと理系的なはじまりをし、やがて文系的な展開をし、科学革命から現代では、ふたたび理系的な視野が入ってきた。
前に書いたように、哲学はすべての前提事項の当否をいったん保留して、ひたすらに「本当はどういうことか?」と問う、知的態度であるとするなら、「哲学は文系」であるという予断こそナンセンスである。
哲学は、理系文系のどちらの分野とも捉えられないところに在って、その両者の立場を調停・統合するものとして存在すべきなのだろう。
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ogawa-xd · 1 year
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「目的」というドクサ
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理由探し
人は「理由」を求める。
ある事象が起きたとき、人はそのことの理由とは何かと思考する。そのことは自然だ。理由を知ればより適切で根本的な「対処/対応」が可能になる。
何かを「知る」目的は、もちろんその事態に適切に「対処」するためであり、「適切な対処」は自らの生存に有利に働く。つまり自分(たち)が生き延びるために、ある事態を理由も含めて知ることはとても役に立つ。
時間的にいえば理由は過去に属するものだが、それを知るのは未来の事態への対処のためである、というパースペクティブを持っている。
ホモサピエンスは、この戦略を突き詰めていったが、そのときの最大の武器が言葉だった。
理由探しとは「因果関係」を追求すること。
 
問いの非凡さ
林檎は樹から落ちてくるのに、月は落ちてこないということは誰でも知っている。でもそれはなぜか? と問うニュートンのその問いは非凡だ。
問いの発見とはすなわち視点の発見である。視点の発見(ときに視点の発明)のなかにこそ、創造性/クリエーティビティと天才性が宿っている。創造性は「作り出すこと」よりもむしろ「視ること」に関わっている。
 
理由の連鎖
すべての質量あるものは引き合っている(距離の平方の逆数と重さに見合った力で)。月が落ちてこないのは、月が地球の周りを回っていてその遠心力と引力が釣り合っているから。
ではなぜ、重力子(graviton)が引き合うように働くのか、どうやって引っ張っているのか、そもそも物を隔てる空間とは何か、その理由は今はまだ完全には知られていない。
理由の連鎖は、どこかで「あるものがそういう性質を帯びている」というところで止まらざるを得ない、ということではある。これはある事象の「振る舞い」に着目したときの着地点である。
しかしその後ろで、ではそれはどうしてそうなったのか、何と何がどういう影響を与え合ってそういう性質を獲得したのか、という時間的な経緯という理由探しの問いが始まる。
ビッグバンが醸し出す不思議さはそこから発している。ビッグバンはまるで時間とともに理由をそこで断ち切っているように見える。ビッグバンの真相や「それ以前」については現在も究明中だが、その結果がどうであれ、理由探しは結局留まるところをしらない。
 
目的という理由探し
もう一つ「目的」という視点での理由探しがある。
正確にいうと、自然界には「目的」という理由は存在しない(と自分は信じている/つまり神はいないと、暫定的に)が、人は自分自身の行為を理解の雛形/モデルとして、なんらかの「目的」をそこに持ち込んだ。
人自身の行為(振る舞い)は、自らの欲求なり意志なりなんらかの志向性の中で為される。そこに特徴がある。
これは「人」よりもっと広く、「生命」のレベルで帯びている振る舞いの傾向なのだろう。生命の第一ミッションは「自己の継続」である。そこから「目的」が発生している。
 
自己継続の理由
生命の不思議さは、なぜそういう振る舞いの傾向を帯びたのか、に集約されると思う。
あえてその理由(の一つ?)を述べれば、生命の中の、細胞や個体や種について、自己継続の振る舞いをしないものもたくさんあっただろうし、今も随時そういう個体は生まれているのだろう。しかしそういう継続という振る舞いを止めた個体はそこで終わる。継続を止めなかった個体だけが生き残り、その振る舞いの傾向はじょじょに「濃く」なっていった、そういうことなのだろう。
冒頭に「ホモサピエンスの戦略」と書いたが、それは目的論的な視線で「自然」を捉えようとすることで、それは正しくない。「戦略」というとはじめにそうなろうとする「意志」が存在していていて、それを「目的」に掲げてそうなっていったととれる、が事実はそういうことではない。
 
思考の道具としての「目的」
「目的」というのは、人が科学的な思考を洗練させるはるか以前に獲得した思考方法ないし「思考の道具」であったのだと思う。あるいは理解や説明のための「お話し/モデル」として「目的」という観念を抱いた。そしてその道具はそれなりの効果があり、実質的によく働いたのだろう。
人は自らの振る舞いを内省して「目的」という思考概念を発見した。これをする(目的の)ために、あれをするし、それもする。その底には意思や欲求があった。
 
自分の生の目的
その思考を押し広げて、周囲の動物や植物や自然を理解していった。そしてさらに自分自身という存在にもそれを当てはめた。自分は何のために生きているのか? 自分の生の目的とは何か? そう問うた。
その設問自体は馬鹿げたものかもしれないが、それが自分の生き方(=自己継続の仕方)を洗練させたと思う。たとえばその枝の先に実った果実が哲学であり宗教であり芸術でもあるのだろう。
 
一言でいいとか悪いとかは言えないが、「目的」が憶見、思い込み、ドクサであることはまちがいないと自分は思う。
そのことの「よき効果」と、そのことがドクサであるという事実はともに念頭から外さないように考えていきたいと思う。
220827
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ogawa-xd · 1 year
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■第三言語革命
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自分が聞いたことがないだけかもしれないが、まだ誰もこういうことをいっていないようなので、一つの大きな話しをしてみたい。もちろん自分は専門家ではないが、ぎゃくに誰なら専門家を名乗れるというのだろう? これは自分なりのコンシリエンス/帰納統合の結果である。骨子は5年くらい前に考えた内容だが、ここへ来て「いよいよ感」が高まっている。 このAIで起きている「変化」は、人類の第三の言語革命の一つの章なのではないか、ということ。しかももっともコアな一章だ。「言語」と人の関係が深いことは言うまでもないが、こんなふうに考えている。
言語という技術
はじめに、「言語」というのは、人の手にしたとても大きな「技術」と考えられる。人にとって最大級の発明品といってもいい。それは偶然に手に入れたものだが、それを習得していると爆発的に「いいこと」があった。
言語という技術は、人の全歴史(20万年)の約半分ほどの時間(10万年)、人と随行している。もちろん出来事的には人が言語を作った(創発した?)のだが、時間軸全体のなかでみると、言語が人を作ったといった方がいいのではとも思う。20万年前に生まれたばかりの人と現代の我々は、ハードウェアとしては互換性があるかもしれないが、生きている内容や状況は大きくちがう。その大きな「差」を作ったのは言語である。言語は動物と人を隔てる高い高い壁だ。いっそ、人は言語である、といってしまってもいいくらい。
言語革命
言語という技術そのものが革命だった(言語革命、認知革命:ハラリら)わけだが、そのなかには「話し言葉」と「書き言葉(文字)」という、やはり革命と呼べるような二つの段階があった。それらの変節点の前後で人自体が大きく変わった(オング)。
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20万年前に人=ホモ・サピエンスが興ったときは、言語を持たない時代で、サピエンスはとても賢かったけれど、まだ「賢い動物」というレベルにすぎなかった。
だいたい10万年くらい前に「話し言葉」という形で言語を獲得した。はじめの会話は「うわさ話」のようなもので、仲間同士の親密度を高める効果があった。これは猿の仲間同士でおこなうグルーミングのような効果を持つものだったという(ダンバー)。
この第一の言語革命以前の、無言語の時代/前言語時代は、だいたいは動物と同じような精神活動をしていたのだろう。それは動物的な〈感覚〉の支配する時代だ。動物なりの合理的な〈思考〉も多少はあったのだろうが、〈感覚〉:右脳の支配する、そんな心を我々も持っていた。
その革命後の時代を、名付け・説明するような学説を自分は知らないのだが、ジュリアン・ジェインズという動物心理学者が〈二分心〉の時代という魅力的な時代仮説を打ち出している。
言葉によって〈思考〉は劇的に飛躍したにちがいない。言葉によって今ここにないモノやコトを指し示すことができるようになった(「言語の志向性」)。〈二分心〉の時代を手短にいえば、役割としての右脳と左脳、あるいは〈感覚〉と(合理的な)〈思考〉があることは現代と変わらないが、その関係は右脳/〈感覚〉が優位を占めていて、左脳/〈思考〉は完全に右脳の忠実な僕だった。〈感覚〉の命ずるところを実現する「ために」〈思考〉は使われた。〈思考〉にはまだ自治権が与えられていなかった。
(「右脳/左脳」については実際の部位というより、機能的比喩と捉えてほしい。)
その後、だいたい6000年前に人は文字という技術を獲得した。これによって右脳左脳の役割のバランスが変わった。それが第二の言語革命である。文字によって合理的な〈思考〉���飛躍的に強化され、その結果として生まれたものこそが、われわれ��「この」〈意識〉であるという(ジェインズ)。合理的な〈思考〉がヒトを支配し〈感覚〉はやや後退した。確かに合理的な〈思考〉により、哲学も科学も成立し、そういった土台の上でビルが建ちロケットは月にまで到達する。そしてそういう科学技術の進展の末に、〈思考〉や知識を扱う技術が、20世紀の前半に生まれた。〈意識〉は、哲学や科学のベースにあるものであるが、〈意識〉が実際に「文字」の効果として生まれたのが3000年前であったとジェインズは特定する。
現代のわれわれはこの〈意識〉の時代にいる。そして、いたことになるのかもしれない。
ここからは自分の妄想。
20世紀から21世紀にかけてコンピュータという「技術」が出現した。はじめは計算機としてやがて情報機器として。この情報を扱う技術全体を、第三の言語の革命と自分は捉えたい。言語が扱っているものは、話し言葉にせよ書き言葉にせよ、それは「事実の移し絵」としての「情報」である。情報もまた「言葉」である。
第一言語革命/話し言葉では、とにかくある精度で人に「情報」を伝えることができるようになった。第二の言語革命では、それを記録/蓄積し空間も時間も越えて遠くへ情報を運ぶことができた。でもいったん書かれた言葉は、そのまま固定されている。
第三の言語革命では、情報/言葉を無尽蔵に朽ちることなく蓄え/書き換え、世界中へ瞬時に伝えることができるようになった。また情報を「操作/計算/処理」することができた。これは「情報を操作するための情報(プログラミング)」による効果と考えられる。そして今、情報を操作するための情報を「自律」させようとしている。AIとはそのようなものなのではないか。
声とは、空気の振動
文字とは、紙のしみ/粘土板のへこみ 現代の言葉は、操作変容可能・光速移動可能な電気の印
今起きているこのAIによる変革は、AIやChatGPTというだけで考えるべきではないと思う。もっと大きなコンピュータ技術というか情報にかんする技術(これにはいずれ適切な名前も与えられるだろう)による、第三の言語革命というロケットの、最終段階のロケットエンジンがAIであり、いまそのエンジンに点火されたのだと思う。その大きな推進力の起こす「G」が、今我々が感じている「強い力」である。マイクロチップもインターネットやWebもSNSも、必要な何段目かのロケットエンジンだったのだろう。
一人の人間にとっては約一生分の長い時間かもしれないが、コンピュータという技術が出現してまだ100年も経過していない。それはほんの一瞬のできごとである。
第三言語革命によってどういう世界に突入するのか、今はまだまったくわからない。
動物が人の豊かな「���」を想像できないように、前の時代にいるあいだには、次の時代をリアルに想像することはできないのである。
状態1:無言語の時代、動物の時代/動物的な〈感覚〉の時代  ↓ 技術1:話し言葉(アバウト10万年前)、第一言語革命  ↓ 状態2:〈二分心〉の時代、言葉によって左脳の働きが生まれたが、右脳優位の時代  ↓ 技術2:書き言葉(6000年前)の発明、第二言語革命  ↓ 状態3:〈意識〉の時代、〈意識〉の誕生(3000年前)  ↓ 技術3:コンピュータ・ネットワーク/情報機器(紀元2000年頃)、第三言語革命  ↓ 状態4:???
ハラリ:ユヴァル・ノア・ハラリ「サピエンス全史」など ダンバー:ロビン・ダンバー「ことばの起源」 オング:W-J. オング「声の文化と文字の文化」 ジェインズ:ジュリアン・ジェインズ「神々の沈黙」
230327
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ogawa-xd · 1 year
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■未来の顔
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先日、仲間内のオンラインでのおしゃべりの中でAIについて話していたときのこと、誰かの発言を受けて、自分は「AIは鏡みたいなもんだからさ、けっきょく自分が映っているだけなんじゃない」みたいなことを返した。
それまで**「鏡」**ということは1回も考えたことはなく、とっさの返しだったのだけど、言った後、自分でも「ああこれだ」という感触だった。SNSでそのフレーズを使ってみて確信になったのでまとめておこうと考えていた。
そこへ、次のニュースが飛び込んで来た。
OpenAIの共同設立者が「私たちは間違っていた」と語る、AIの危険性からデータをオープンにしない方針へと大転換https://gigazine.net/news/20230317-openai-co-founder-interview-wrong/
この可能性をかなり心配していたのだけど、やはり来た。半分はそりゃそうだろう、とも思う。
AIはいろいろ意味で**「核問題」**に似ていて、しかもそれ以上の深さを持っている。いくら覗き込んでも底がみえないが、ようく目を懲らすとそこには自分が映っていると。
自分を深く視すぎるのは危険だ、ということなのかもしれない。
宮崎駿が前に「自分探し? 自分なんか掘ったって何にもなりませんよ」などと言っていたのを思い出す。慧眼なのか?
またこれはパンドラの匣のようでもある。匣の蓋をほんの少し開けて見えた光景に目がくらんだ、というのがここ数日間の状況だったのだろう。そこには素晴らしい未来が垣間見えた。あれもできるこれもできる。ワクワクする一方、当然危惧する人もいたし、自分もいた。
今回のOpenAIの見解は、このまま蓋を開けるのは危険過ぎる、というものだったわけだ。
集合知を使っているというところで、クローン技術が抑止されつつも世界のどこかで誰かが実験を進めていた事態のようにはいかないのかもしれない。しかしすでに、人は未来の様子をチラとでも垣間見てしまったのだ。そのうえでこれを押しとどめられるのか? そういう意味では、ジュラシックパークにも思い至る。
もう一つ思いだすのは、J.P.ホーガンの**「未来の二つの顔」などのSFだが、今ここにある現状は、ほとんどのSF**を超えているようにも感じる。つまりわれわれの想像(SF)を超える事態、ということなんだろう。
さてさて、どうなるんだろう。 我々はどこへいこうとするのか。 目がはなせない。
to be continue...
230326
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ogawa-xd · 1 year
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■「デザインと哲学」:GPT-4の見解
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ogawa>>>
「デザインと哲学」という話題についての考えを聞かせてください。
GPT-4>>>
デザインと哲学は、一見関連がないように思われるかもしれませんが、実際には密接に関連しています。デザインは物理的な形や機能を持つものを作り出すプロセスですが、哲学は人間の存在や意識、価値観などを探求する学問です。デザインは人間の経験や文化に根ざしており、哲学的な思考がデザインプロセスに影響を与えることがあります。
以下は、デザインと哲学の関係について考える際のいくつかのポイントです。
1. 目的と価値観:
デザインは、目的や価値観に基づいて行われます。デザイナーは、その目的や価値観に基づいて、どのようなデザインが最も適切であるかを判断します。哲学は、人間の価値観や目的に関する議論を提供し、デザイナーの意思決定に影響を与えることがあります。
2. 美学:
美学は、美しいものや芸術に関する哲学的な研究です。デザインは美学と密接に関連しており、デザイナーは美しいデザインを追求します。哲学は、美に対する理解を深めることで、デザインの品質や意義を向上させることができます。
3. 倫理:
デザインは、人間の生活に影響を与えるため、倫理的な側面を持っています。哲学は、人間の行為や選択に関する倫理的な問題を検討します。デザイナーは、哲学的な倫理観を持つことで、より責任あるデザインを行うことができます。
4. 持続可能性:
持続可能性は、地球の資源や環境に対する影響を考慮して、長期的に続けられるデザインや開発を目指す概念です。哲学は、人間の存在や環境に対する責任に関する議論を提供します。デザイナーは、哲学的な視点を取り入れることで、持続可能なデザインを追求することができます。
5. ユーザーエクスペリエンス:
ユーザーエクスペリエンス(UX)は、人々が製品やサービスを使用する際の体験を考慮したデザインのアプローチです。哲学は、人間の経験や認識に関する理解を深めることができます。デザイナーは、哲学的な視点を取り入れて、ユーザーのニーズや感情に対応したデザインを実現することができます。
6. 人間中心のデザイン:
人間中心のデザインは、人々のニーズや能力に焦点を当てたデザイン手法です。哲学は、人間の存在や行動に関する理解を提供します。デザイナーは、哲学的な知識を活用して、より効果的な人間中心のデザインを行うことができます。
7. デザイン思考:
デザイン思考は、問題解決のためのデザイン手法であり、哲学的な考え方に基づいています。デザイン思考は、共感、定義、発散思考、収束思考、プロトタイプ作成、テストのプロセスを含みます。哲学は、デザイン思考のプロセスをサポートし、デザイナーが問題をより深く理解し、創造的な解決策を見つけるのに役立ちます。
デザインと哲学は、相互に影響し合い、互いの価値を高める関係にあります。デザイナーは、哲学的な視点や理論を取り入れることで、より意味のあるデザインを生み出すことができます。また、哲学はデザインを通じて、人間の経験や文化に対する理解を深めることができます。このようにして、デザインと哲学は共に、人間の生活を向上させる役割を果たしています。
230321
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ogawa-xd · 1 year
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■AIショック
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昨日と今日とで見える景色がちがう、というのは歌の文句ではよくある。でも、今まさに実感としてそういう体験をしている人も少なくないのではと思う。自分もそうであるが、もうおなじ視線では、ものを見ることができない。
ほんの先週の話し、ChatGPTはバージョン4となって画像とテキストを受け付けるようになった。落合陽一氏ら研究者やインフルエンサーが、これは「トレンド」ではない、と叫んでいたが、自分もそう思う。先日「大きな波」と表現したばかりだが、よく考えるとそれはあまりよくない表現だった。これは「波」ではない。波というと来ては去るイメージだが、これはむしろ非可逆的な「地殻変動」であって、その前の時代と後の時代を切り分ける分水嶺だ。
研究者の暦本氏は、GUI依頼の変化と表現していた。自分もCUIからGUIの移り変わりを知るものだが、それ以上の変化だと思う。というか、比較の対象にはならない。むしろコンピュータそのものの出現と並ぶビッグイシューだろうと思う。強い確信を持って。
そう思わない、感じない人も多いと思うし、これは自分の大げさな勘違いかもしれない。そのときはご容赦ください。
デザインについていろいろと考えるところがあってこのグループを立ち上げたが、これははじめたときには見えていなかった、あるいは見えてはいたが見誤ったパラメータで、すべての議論をはじめにもどって再点検しなければならない、そんな事態である。
大げさついでに言っておく。
これでデザインはもちろん変わるし、教育も変わる、政治や経済も変わるかもしれない。ついでに世界平和も実現するとうれしいし、イデオロギーの在り方と体制も変わってほしい。また「哲学」もこれ以降で変わるかもしれないと思う。
先週から、たまたま何本かのSF映画を見たが、そこに描かれている未来や、未来のコンピュータ/AIの表現が全部的外れに見えてしかたない。あきらかに昨日とは見え方がちがう。
でも逆に、「デザインと哲学」という見方そのものは、はじめておいてよかったと思う。変わるかもしれない「哲学」もひっくるめて、「ほんとうはどうなっているのか」を見極めたい。 このグループのはじめに書いたように、哲学とは「ほんとうはどうなっているのか」という追求のスタンスである、のだから。
230319
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