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#西長堀アパート
reflections-in-t · 1 year
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. . 西長堀アパート . 竣工:1958年 大阪市西区 . . . #NishinagahoriApartment #西長堀アパート #竣工1958年 #旧日本住宅公団 #都市再生機構 #大阪市西区北堀江 #吉原治良 #具体美術協会 #LeicaC #ライカC #LeicaC112 . . https://www.instagram.com/p/CkxNCCVPy7d/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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kachoushi · 8 months
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各地句会報
花鳥誌 令和5年9月号
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坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和5年6月1日 うづら三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
草取れば天と地しばし離される さとみ 沙羅咲きて山辺の寺の祈りかな 都 神官の白から白へ更衣 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年6月2日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
読み辛き崩し字祖父の夏見舞 宇太郎 滝飛沫祈りて石を積む人へ 栄子 担当医替る緊張なめくぢり 悦子 青葉木菟声を聞きしは一ト夜のみ 史子 黒を着て山法師てふ花の下 すみ子 砂丘拍動遅滞なく卯浪立つ 都
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年6月3日 零の会 坊城俊樹選 特選句
病院の跡へ南風の吹き抜ける 季凜 梅雨の石積むもののふの墓暗く はるか 十薬とは屍を小さく包む花 和子 もののふの山が鳴るなり青葉風 はるか いとけなき蜘蛛も浄土を知りつくし 順子 菩提寺は城を見上ぐや男梅雨 慶月 ナースらの谺を追うて枇杷熟るる 順子 階段をのぼるつま先街出水 小鳥 青梅雨のしづくすべてが弥陀のもの 光子 罠であり結界であり蜘蛛の糸 同
岡田順子選 特選句
墓守のアパート三棟蕗の雨 風頭 眼をうすく瞑る菩薩の単衣とも 俊樹 アトリエへ傾るる大樹枇杷たわわ 眞理子 真夜中の泰山木の花は鳥 いづみ 青梅雨のしづくすべてが弥陀のもの 光子 昼顔は雨の列車にゆらされて きみよ 行き先を告げよ泰山木咲けば 和子 夏菊や南無遍照と一家臣 慶月 梅雨出水過ぎて正気を歩きをり いづみ 青梅雨の真黒き句碑が街映す 小鳥
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年6月3日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
点ほどの人の生涯芝青し 朝子 青芝にまろぶフレンチブルドッグ たかし 海亀の孵化高精細の大画面 勝利 水郷の蛍のなかに嫁ぎゆく 孝子 子供の日クレーンは空へ置き去りに 久美子 特攻の話し聞く夜の蛍かな たかし 日輪は地球の裏に蛍の夜 睦子 青芝を犯す少年のスパイク 同 黴の中遺されしもの錆てゆく 美穂 舞ふものゝ影をも流し梅雨の川 かおり 袋ごと枇杷をもげよと檀太郎 睦子 亡き父のジャズ沁み込みし籐寝椅子 たかし  ハーレムの少年 青芝にいのちの次のスニーカー 修二
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年6月5日 花鳥さざれ会
少年の少女の昔あめんぼう 雪 ふる里の水の匂ひにあめんぼう 同 風みどり故山の空を吹きわたる かづを あめんぼう映れる雲に乗りゐたり 同 水馬水のゑくぼに乗り遊ぶ 泰 俊 名刹に雨を誘ふや水馬 同 売家札とれて漏るる灯蚊喰鳥 清 女 強かに生きて卒寿の髪洗ふ 同 緑陰に栄華の茶室古りしまま 希 落武者の子孫が育て花菖蒲 千代子
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令和5年6月7日 立待俳句会 坊城俊樹選 特選句
紅薔薇や三國廓址の思案橋 世詩明 更衣恋に破れて捨てがたし 同 水芭蕉分水嶺の聖なる地 同 夏帽子振つて道草してゐる子 清女 鳴く顔が見たくて覗く蛙の田 同 読み終へし一書皐月の朝まだき 同 鋏手に赤き手袋バラ真赤 ただし 浦人の少年継げる仏舞 同 欲捨てて今日も元気蜆汁 輝一 紫の色をしまずや花蘇枋 同 一番星遠ち近ち蛙鳴きはじむ 洋子 手折りたる酸葉噛みつつ歌ひつつ 同 自転車を押してつつじの坂上る 誠 飛魚の羽ばたき飛べる船の旅 同 風薫る慶讃法要京の厨子 幸只
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年6月10日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
富士見えて多摩横山に風薫る 白陶 朽ちし色残し泰山木咲ける 秋尚 風薫るポニーテールの娘の声に 幸子 日々育つ杏とエール送り合ふ 恭子 夜も更けてたれが来たかと梅実落つ 幸子 余白には梅雨空映す年尾句碑 三無 記念樹の落ちし実梅も大切に 百合子 観音の指の先より風薫る 幸子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年6月12日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
浴衣着て父似母似の姉妹 清女 香水のひそかな滴人悼む 昭子 髪洗ふ心のしこり解くやうに みす枝 白鷺の孤高に凛と夏の川 清女 梅雨じめりしたる座敷に香を焚き 英美子 知らぬ間に仲直りして冷奴 昭子 夏場所や砂つかぶりに令婦人 清女 明易や只管打坐してより朝餉 同 蟇が啼く月夜の山に谺して 三四郎 白足袋の静かな運び仏舞 ただし 梅雨しとど鐘の音色も湿りたる みす枝 答へたくなきこともあり紫蘇をもむ 昭子 本題に触れず香水帰りゆく 同 水面にゑくぼ次次梅雨に入る みす枝
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年6月12日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
ためらはずどくだみ束ねバルコニー 和魚 釣堀の揺るる空見てゐるひと日 秋尚 何も手に付かぬひと日や五月雨るる 秋尚 どくだみの清潔な白映す句碑 三無 十薬の匂ひの勝る生家門 聰 どくだみの苞白々と闇に浮く 和魚 五月雨にふくらんでゐる山の湖 怜
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年6月13日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
目を染めて麦の秋へとなりにけり 光子 短夜の夢も短き目覚めかな 文子 子の植うる早苗の列の右曲がり 登美子 バースデーソングと夏至の雨響く 実加 羅の受付嬢はちよと年増 みえこ 色街の女を照らす梅雨の月 登美子 五月雨真青な傘を買ひにけり あけみ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年6月13日 萩花鳥会
車椅子頼りの暮し梅雨籠り 祐子 革ジャンに沁みた青春黴生ふる 健雄 玉ねぎの丸々太る五月晴 俊文 亡き夫の捨てられきれぬ黴ごろも ゆかり 雨蛙降り出す庭で鳴き交はす 恒雄 星々に瞬きかへし舞ふ螢 美惠子
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令和5年6月16日 さきたま花鳥句会
大胆に愚痴を透かして青暖簾 月惑 紫陽花や小走りに行く深帽子 八草 まな板も這ふらし夜のなめくじら 裕章 夕まぐれ菖蒲田の白消し忘れ 紀花 屋敷林青葉闇なる母屋かな 孝江 鐘供養梵鐘の文字踊りけり ふゆ子 漣の葉裏に返る新樹光 とし江 花手水薄暑の息をととのへり 康子 風薫るいまだ目覚めぬ眠り猫 みのり 花菖蒲雨に花びら少し垂れ 彩香 短夜や二日続けて妣の夢 静子 耳かきの小さな鈴の音初夏の夜 良江
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令和5年6月17日 伊藤柏翠記念館句会 坊城俊樹選 特選句
登山者が供華に挿し行く地蔵尊 やす香 蟬一つ鳴かぬ光秀忌を修す ただし 桃色の若き日の夢籐寝椅子 みす枝 村百戸梅雨のしとどに濡れそぼつ 同 空き箱に色褪せし��梅雨湿り やす香 西瓜買ふ水の重さの確かなり 同 薫風や見上ぐるだけの勅使門 真喜栄 そよぐには重たき鞠や濃紫陽花 同 花菖蒲咲かせ半農半漁村 千代子 日の暮れて障子明りに女影 世詩明 香水の女に勝てぬ男かな 同 早苗饗や上座に座る村の長 同 春深し遊び心の雲一つ 雪
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年6月18日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
蜻蛉生る山影ふかきむじな池 芙佐子 むじな池梅雨闇の棲むところかな 要 朝まだき甘き匂ひの蛍川 千種 田の隅の捨苗萎れゆく日差し 芙佐子 大方は夏草となる畑かな 秋尚 過疎村に農大生の田植笠 経彦 行き止る道に誘ふ夏の蝶 久 蚯蚓死すむじな池への岐れ道 千種 捩花の螺旋階段傾ぎをり 斉 道をしへ夜は蛍の思ひのまま 炳子 故郷の水田へ草矢打つやうに 要
栗林圭魚選 特選句
蜻蛉生る山影ふかきむじな池 芙佐子 六月の谷戸のすみずみ水の音 三無 蚯蚓死すむじな池への岐れ道 千種 虎尾草より風生まれをり流れをり 久 どんよりと新樹映して濁り池 要 源五郎さ走る田水光らせて 久子 桑の実や落ちては甘く土を染め 三無 万緑の中の水音澄みてをり ます江
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年6月21日 福井花鳥会 坊城俊樹選 特選句
故里の百年の家花石榴 啓子 巣作りの青鷺歌ふ高らかに 千加江 母に詫び言はねばならぬ梅雨の入り 昭子 幹太くなりたる樹々の夏の午後 雪子 衣替へして胸に白すがすがし 同 梅雨の灯に猫の遺影と娘の遺影 清女 寝返りを打ちても一人梅雨の月 同 枇杷啜るこつんころりと種二つ 希子 女子高生混じる一人に黒日傘 数幸 観世音御ンみそなはす蛇の衣 雪 観音に六百年の山清水 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年6月22日 鯖江花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
あめんぼうてふ名に滑る他は無し 雪 九十二の更衣とはこんなもの 同 白鷺のいよいよ白き青田かな 同 蛇の衣こんな綺麗に脱がずとも 同 落椿描ける女人曼荼羅図 同 殉国の遺影と父の日を終へり 一涓 青春に戻りて妻と茱萸を捥ぐ 同 門川の闇を動かす蛍舞ふ みす枝 母の日の花は枯れても捨てきれず やすえ 一番星あちこち蛙鳴きはじむ 洋子 草矢打つ程の親しき仲でなし 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年6月25日 花鳥月例会 坊城俊樹選 特選句
紫陽花や伐らねば夜の重くなる 要 打水はインド料理の香をのせて はるか 炎帝の満を持したる神の池 要 炎天へ柏手打てば蹌踉ひし 順子 靖国は蒼くなりけりサングラス 緋路 雨蛙虫呑みてすぐ元の顔 裕章 サングラス胸にひつかけ登場す 光子 魂となる裸電球祭待つ はるか
岡田順子選 特選句
押し寄せる蓮のひとつに蓮の花 俊樹 紫陽花や伐らねば夜の重くなる 要 凡人てふ自由たふとし半夏生草 昌文 蓮原の沖に宮城あるといふ 光子 内堀の夏草刈られ街宣車 要 混ざり合ふ手水と汗の掌 緋路 祭の準備指揮をとる大鳥居 みもざ 水馬ふたつの天のあはひゆく 裕章
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年5月22日 鯖江花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
蛍狩り娘の掌のがれて星となる 世詩明 更衣恋の火種を残しけり 同 少年を仰いでをりぬ青蛙 昭子 うまいとも言つてくれぬが菜飯炊く 同 子よりまづ泳ぎ出したり鯉幟 一涓 夏暖簾廊下に作る風の道 紀代美 喉鳴らし母乳呑む児や若葉風 みす枝 目に見えぬものを脱ぎたり更衣 洋子 青鷺が抜き足差し足田を進む やすえ 一院のかつて尼寺白牡丹 雪 蝸牛角を突いてゐる女 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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log2 · 1 year
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『丸紅アークログ マンスリートピックス』230329
株式会社三栄建築設計をはじめ住宅事業者との業務提携をさらに拡大 ~「Arch-LOG」を活用し住宅事業のDX化や脱炭素など業界全体の課題解決を目指す~
<今月のハイライト> ■株式会社三栄建築設計と業務提携を締結  当社は今月新たに、株式会社三栄建築設計(本社:東京都新宿区、代表取締役社長:小池 学、以下:三栄建築設計)と業務提携を締結しました。独自のデザインと技術で住まい手に最適な家を提供する三栄建築設計は、分譲住宅、注文住宅から、新築アパートや賃貸物件まで、住宅に関する“すべて”を自社で生産しています。また同社は、国内の山林の保水力を維持・回復するために、建築する住宅の木材を、可能な限り国産材に変更しました。国産木材を使用した家を建てることは、国産材の需要拡大と活用促進はもとより、脱炭素社会を目指す取り組みであると言えます。  今回の業務提携は、「Arch-LOG」を活用することにより、住宅建設時の設計業務の効率化やデータによる案件情報の管理を可能にするだけでなく、施主様との打ち合わせ時にもデバイス上で建材の選定や変更、情報の共有が可能な点などにご賛同いただき、実現したものです。今後当社は、同社と「Arch-LOG」を活用した新たなシステムの構築なども視野に入れながら、業務のDX化による生産性向上に貢献いたします。
 当社では今後も、建設・建築・不動産業界の全ての関係者が利用できる業務のDX化ツールとして、また、CO2の削減に貢献するデジタルツールとして、「Arch-LOG」の導入拡大に向けて注力してまいります。
【株式会社三栄建築設計のコメント】  当社は、「同じ家は、つくらない。」の理念のもとデザインされた、個性的かつ美しい家や街並みを目指し、ほかの分譲住宅ではかなわない、メルディアの家だからこそできる、“オンリーワンの邸宅”を手掛けている住宅会社です。今回の業務提携は、DXによる業務の効率化を図ることで設計などクリエイティブな業務により多くの時間を割り振ることが出来るようになるため、当社の強みであるデザイン設計にさらに磨きをかけ、他社との差別化を図ることを目的としています。
<今月のトピックス> ■「岡庭建設株式会社」、「笠原木材株式会社」の2社と業務提携を締結  当社は新たに、岡庭建設株式会社(本社:東京都西東京市、代表取締役:岡庭 伸行)と笠原木材株式会社(本社:岐阜県高山市、代表取締役:山田 貴敏)と業務提携契約を締結しました。  今回の業務提携は、当社の「Arch-LOG」活用により、住宅建設時の設計業務を効率化できるだけでなく、施主様との打ち合わせ時にもデバイス上で建材の選定や変更、情報の共有が可能な点などにもご賛同いただき、実現しました。
 岡庭建設株式会社は、長期優良住宅・低炭素住宅・東京ゼロエミ住宅*の認定や認証に準じた住宅を提供。国土交通省による省エネルギー技術者講習の資料作成ワーキンググループに全国工務店の代表として参加するなど、地域の良好な住環境と木造建築物の整備に貢献する社会活動を行っています。
  笠原木材株式会社は、住まい手の健康や自然環境を大事にし、より永く健康な暮らしができるように自然素材にこだわった家づくりを手がけています。基本構造材には高山市産材を使用し、内装材には県産材もしくは国産材を使うことで、地域経済の活性化に貢献するとともに地球環境に最大限配慮した家づくりに努めています。
 今後も当社は、両社とともに「Arch-LOG」を活用することで脱炭素社会を目指し、業界のDX化による生産性向上と顧客満足度向上に貢献いたします。 *東京ゼロエミ住宅は、東京都独自に定めた、高い断熱性能を持った断熱材や窓の使用、高い省エネ性能を有する家電製品などを取り入れた住宅です。東京ゼロエミ住宅は、冷暖房の効率が良くなるなどによって、高い省エネ性に加えて、快適な室温が維持されます。さらに、部屋間の温度差が小さくなり、ヒートショックの予防にもつながります。「ゼロエミ」は「ゼロエミッション(ZERO EMISSION)」の略。
■AUTODESK様主催の大林組様公開「Smart BIM Standard®」ご紹介セミナーで「Arch-LOG」を紹介。  3月16日に開催されたAUTODESK様主催の大林組様公開「Smart BIM Standard®(以下:SBS)」ご紹介セミナーの第二部で、弊社担当が登壇し「Arch-LOG」の紹介を行いました。  今年の1月16日に一般公開された大林組のBIMモデリングツール「SBS」のWebサイトにおいて、ファミリ*やテンプレート、マニュアルなどの「ダウンロードページ」に「Arch-LOG」のシステムが採用されました。今回のセミナーでは、「ダウンロードページ」の使い方と「Arch-LOG」のサービス概要について紹介いたしました。 *ファミリ…構造材、壁、屋根、窓、ドアから、製図に使用する記号など、BIMソフト「Revit」のプロジェクトに追加する全ての要素の総称です。
■「Arch-LOG」に、「白川製紙株式会社」「株式会社堀田木工所」「CTSH LIGHT.」をはじめとする約1,262点*の建材が新たに登録されました。*2023年2月20日~3月27日の登録数  今回新たに、建材・電器・食品・衣料など、様々な分野で獲得した実績とノウハウを駆使して、お客様のニーズに応える薄葉紙・特殊紙を製造する専門メーカー「白川製紙株式会社」、アルダー材を主材とした木のぬくもりを大切にした木製家具の製造販売を手がける「株式会社堀田木工所」、マシニングセンタと職人の手によって作り出されるハイクオリティな製品を取りそろえている日本ジオニック株式会社の照明・雑貨ブランド「CTSH LIGHT.」など、さまざまな建材メーカーの製品が加わりました。
プレスリリース「丸紅アークログ マンスリートピックス3月」230329
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tezzo-text · 4 years
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200613 森の人々
2009年は芸大の一年生キャンパスがある茨城県取手に1年間住んでいた。常磐線下り電車で千葉に入って松戸や柏を過ぎ、茨城との県境である利根川を渡ってすぐにあるのが取手駅である。私はその駅西口の坂を登ってすぐのアパートで生まれて初めて一人暮らしをした(当時20歳)。大学のキャンパスは駅から5kmぐらい離れたこれも川辺にあり、私は雨の日はスクール・バスで、それ以外の日は自転車で主に通学していた。
大学までの行き方は日によって気分で変えていて、基本的にはバスと同じ経路が一番近い。でも私が好きだったのは、利根川沿いを走る道だった。私のアパートは大利根橋を走る国道6号線沿いにあり、家から出て橋のたもとまで行って川辺に出、そこから東へ左折すればあとは大学のあたりまで川沿いの遊歩道の一本道である。
私の高校も多摩川のほとりにあり、たまに河原に出て遊んだりしたものだ。高校の裏の河原にはちょろっとグラウンドがあり、その先はすぐ礫がちの河川敷である。あるいは二子玉川とか、そんなような私の見慣れた河原と、利根川の河原は違っていた。堤を降りるとグラウンドがあるのは同じだが、その先に大規模な茂みというか森があって、それに阻まれて川面に接することはできないのだ。
森の帯は駅側から大学まで行く途上で分厚くなったり狭くなったりするが、ちょうど中間地点の浄水場あたりから、芝生の広々した空間はなくなって、河川敷のほとんどが森に覆われてしまう。その森の中に果樹園や小道や小さな堀のようなものが散在している。さらに進んでいくとより分厚い森の地帯に入り、その中を小貝川の合流地点までまっすぐ約2kmほどの道が通っている。川面側の右手は目線の高さまであるススキの茂みと低木で水面はもちろん望めない。
私が大好きだったのは、その進行方向左手に続く景色だった。そこはもう芸大の敷地の裏手になっているところだが、一番高いところに校舎の屋根が見え、森はそこからおそらく数十mの高低差がある斜面を覆っている。傾斜がおさまったところからは下生えと灌木が続き、その中に洪水で傾いた木々が点々と、ときに密集して生えている。こちら側はススキに覆い隠されていないので、道からその林の奥の方まで見えるのだが、50~60mは奥行きがありそうだった。それがとても美しい林で、木々の低い枝と下草の草叢の間の空間がゆったりと広がっていて、それがどこか人工的に整えられた優雅な屋外広間にも見える。人のいない天然の庭園が長々と伸びているようだった。
この森の中には人が住んでいると大学では言われていて、実際に大学のごみ捨て場から拾われた石膏像や画材で飾り付けられた、森の中の何者かの家の映像を私も見たことがある。そんな噂を聞いていたからか、私がこの風景を見て思い出したのは戸川純の『森の人々』という曲である。
https://music.apple.com/jp/album/%E6%A3%AE%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%80%85-2016-remaster/1184272336?i=1184272635&l=en
森に迷い込んだ自分たちを誰かが眺めている、顔を見合わせクスクスと笑っている、でも藪の向こうにチラリと目が見えるだけでそれが誰なのか、悪意があるのか、もてなしているのかわからない…そんな感じ。どうも林の奥の方が広くなっているようで、実際よく目を凝らすと林の奥の方に何かが干してあったり、菜園のようなものが作られていたり、テーブルを出して趣旨のわからないパーティをしている人々がいるのが見えたような気がしたが、それは本当に見えたのか、それらがあるように思っていたのかはわからない。
そこから大学の門まで行くには、その中にわずかに通じている獣道を通って、舗装されているんだかいないんだか分からない斜面を巻く道までたどり着き、民家のある崖上まで登るのだが、その道の脇は茂みになっていて林の奥は見えず、なにか巧妙に林の奥の空間が隠されているような意図さえ感じた。
確実に奥に何かがあるようだがよく見えない、そして壁で囲われていたり、入ってはいけないことになっていたり、藪が繁っていたり湿地になっていたりして歩けず、奥まで行くことができない、でも誰かがいて、私の知らない何か楽しい集まりをしている…というような感じ…。これは私が昔から庭というものに惹かれる感覚の根本にあるものだ。だから皇居にも興味があるし、住宅街を散歩していて入り組んだ庭が垣根の隙間から見えた時や、古いマンションの一階に居住者しか入れない庭があって、アプローチや自転車置き場を構成する複雑に折れ曲がった壁の端に、庭へ通じる小さなドアがあって鍵がかかっているのを見るにつけ、なんとも言えない苦しいような、羨ましいような、緊張するような気持ちになる。「ゆかしい(行かしい)」とはまさにこういう気持ちのことだと思う。だから私はフランス庭園やイギリス庭園より、神秘的で不気味なイタリア庭園に惹かれる。
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森の人々のことは実際の景色だけではなく絵を見たときにも思い出す。
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Félix Vallotton - La Mare   1909
この池の絵は、今は誰も写っていないが、人々はどこかよそに物を集めに行っているところで、もう少ししたらここに戻ってくるような気がする。
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Thomas Wilmer Dewing - Summer   1890
この絵では、森の人々が我々には分からないテーマで集まって楽しんでいる貴重なシーンで、滅多に見れないところに運よく遭遇した、という感じがする。
とくにオチはないのだが、このように森の人々のことが気になりつづけている私であった。
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追記(200616) 利根川ともう一つ、私が心打たれた河原の風景を思い出した。それはデュッセルドルフのライン川の川辺である。2013年秋、私は大学院見学の旅の合間にアムステルダムからドイツへ電車で出掛け、デュッセの駅から長大な橋を渡ったところにあるユースホステル(DJH)に泊まった。荷物を置いて川辺に出てみると川が増水していて、おそらく普段はピクニックに最適と思われる毛足の長い芝生がタプタプと水に漬かっていた。ひとまず河原を散歩してみようと思い下流へ進んでいくと、小さなすばらしい農園のようなものが集まっていると思われるところに通りかかった。なぜ確証を得ないかというと、農園と思しき区画の中は木がものすごく繁茂しフェンスで囲われているので、外から中に何があるのか見えなかったからである(写真参照)。ここは確かに市民の活動範囲内であり、森の人々が隠棲しているようなところではない。しかしナラやポプラの木のヨーロッパらしい木々の雰囲気や、中を覗けない様子などにほだされ、何かエキゾチックな森の風景として私の頭に残っている。 今調べたら上流側に少し歩いた工業地帯の脇に、Ölgangsinsel という保護区になっている湿地帯もあるようで、そちらの風景も素晴らしそうだ。そっちも行けばよかった。ろくに調べもせず、私はその後市内へ歩いていってデパートでハムやパンを眺めていた(だけで買いはしない)のだった…。
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さらに追記(200617) もう一つ思い出したことがある。これは2013年の記事だが、何かのきっかけでローマの郊外の湿地に住むこの家族について読んで、その時も森の人々のことを思い出した。 https://www.theguardian.com/artanddesign/2013/feb/15/the-garden-alessandro-imbriaco-photographs この Alessandro Imbriaco という写真家はこの作品の前に、イタリアの主に東ヨーロッパ・アフリカ系の移民たちが都市部郊外を問わずいろんな場所に(不法に)住み着いている様子を取材しているが、彼のサイトでは記事で紹介されている前プロジェクトの一部がpdfで見られる。 http://www.alessandroimbriaco.com/A_place_to_stay_files/a%20place%20to%20stay%20bassa.pdf 重要なのは、移民にこのような居住形態を強いる経済的な問題についてジャーナリスティックに紹介していくことは望ましいとはいえ、Imbriaco も私も、むしろ隠遁・穴居する伝統的なヨーロッパの隠者のイメージを彼らに重ね合わせて鑑賞している、ということである。記事にある通り写真集『The Garden』では光の美しさ、娘の経験の豊かさなどが意図的に強調されている。それは新古典主義時代の貴族の地所の「お雇い隠者」にも通ずる理想化趣味(?)の名残りともいえそうだ。
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take-all-a · 6 years
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UR / 旧公団 西長堀アパート(大阪市西区)
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judachigeiju · 6 years
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まつもと・かずや『戦後世相史と口語俳句』読書メモ
「鹿火屋」の市川一男「これからの俳句は翻訳しても世界に通用するような俳句でなくてはならない。そのためには口語の俳句が作られるべきだ」(昭和二十二年一月十九日、小田原市の俳句大会)
指一本とられて職人らしくなったか 藤井以身
昭和二十三年、「鹿火屋」は昼間種・富沢正一・西村秀治・大竹竜・藤井以身・椎橋清翠・水谷六子・宮坂竹雄・高橋木槿・堀込のぼるなどの口語俳句で埋まろうとしていた。
市川一男らは「鹿火屋」を離れ昭和二十三年七月に「口語俳句」を創刊。内田南草・浦賀広巳・松本和也・湖光子・水谷六子ら。
水谷六子の予言「口語俳句は今は俳句ではないかもしれないが、そう遠くない将来には、俳句は口語俳句になるだろう」
学校菜の花に埋もれたった二人の先生です 藤井以身
青麦にまだうたがわれている戦死 間宮春生
卵の値がさがって夜ごとにうるむ星 小南健治
地ばたに大きく描いた船この船で父さん帰る 滝沢清
吉岡禅寺洞、口語俳句の別名としての「自然律」。
市川一男「自由律の人達は、自分の芸術を表すために、便宜上、口語調を必要に応じて採った」というのが自由律と口語俳句の違い。また自由律には短律があるが、口語俳句は十七音より長くなると予想している。
青虫がごま食ってる妹一家爆死のあと 市川一男
空は空の悲しみを持ち三月雪降る 湖光子
だまってだまってこの石をあちらへのける行為 まつもと・かずや
ぐったり疲れた肉体がそこに横たはる朝の浴槽は透明すぎる 黒田忠次郎
いるような星がふるような待ちぼうけ 平松星童
雪の日の運命の文字が電光ニュースとなって明滅する 筒井茎吉
ぼろタクシーよ俺は乗るどころじゃない十二月 橋本夢道
父はつねに大きな涙ためている まつもと・かずや
処女でないときいたあの人の座った布団 藤井以身
雲が夕日もゆるとき画かきになるといった少年 藤井以身
なめくじとけながらみているちぶさのみごとさ 藤井以身
市川一男「口語がものを考え、学び、思想、意志、感情を伝えあう社会生活の言葉であるなら、新しい俳句も口語でなければならないのは明らかだ」『新日本俳句』昭和二十五年十二月創刊号
孤独の目が二本の足で寄ってくる 浦賀広巳
三十にしておとこの純潔が尊いといわれそんな涙がおちてもくる 藤井以身
月夜の肋骨をすりぬけてカッパへらへら笑いつづける 帯谷瑛之介
子等を育てて忘れていた映画館の椅子のかたさ 池上倭文子
靴には砂ばかり靴をぬいでひもじくなる 田中波月
追いつめられた群像で肩に冬日をひからすのか 漆畑吐志男
落ちていた画鋲仰向けに妖婦の部屋 藤井以身
春の夢哀しく鶴の葬列見てしまった 藤井以身
東京都内でひぐらしもなき留守たのんで出る 藤井以身
鮎の艶事皿からつるりと落ちる 藤井以身
夜の灯がつき男をまたぎ女が出てゆく木造アパート まつもと・かずや
気持のいい時計の正確さがビルの前に立たせるのです 早川八重子
少年の日の飛ぶ夢は額に飛行郵便の切手をはる 市川忠男
あなたの特にいやなものは予備隊ですかかやの実ですか 藤島範孝
月の青さが街の電信柱をぐんと高くした 浦賀広巳
群像の一人にこはれた埴輪がある 吉岡禅寺洞
南風狂った時計が見おろしてる 芦田みさ子
人は無言で坐ると果実に似る 加藤太郎
かゆいところをかいて自分にすなお 高田声三
自衛隊志願の教え子とながめる鰯雲 加来光洋
ストリップ館出てタクシーを呼ぶけんめいに 田中陽
加藤太郎「文語文のホットなリズムに対して口語文のクールなリズムは、微妙で困難な要素を含んでいるだけに、今後、未開拓な面白さを期待できると考えている。」(『口語俳句協会年刊句集』昭和四十三年)
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oga9z · 4 years
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南砂三,四,五丁目アパート(2020/08/10)
南砂二丁目団地から北砂五丁目団地へと移動する道中の都営アパートもついでに回っておきました。これらはただの寄り道ですが、北砂五丁目団地の記事を書く前にその道中の軽い紹介も挟みたいと思います。
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雑なGoogleマップの切り抜き画像ですが大体のルートはこのような感じです。左端の青ピンが南砂二丁目団地を示していて、その左の表の通りの順番で回りました。
一番右上のピンは次の記事の題材にする北砂五丁目団地を示しています。
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南砂二丁目団地の明治通りを挟んだすぐ向かい側に南砂三丁目アパートがあります。
そのまま南砂町駅前の方まで低層の棟が何軒も建ち並んでいますが、特に見どころはないので(時間の都合もありましたが)そちらには行かずに明治通り沿いに建つ唯一の高層棟だけに注目します。中には入っていないので外観だけの紹介になります。
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高層棟だけはレンガ造りのような外見になっています。
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入り口には何のために作ったのかはよく分かりませんが、荷物置き場のような台がありました。都営住宅のこういったところにはありがちな公衆電話も置いていないのでいまいち用途が分かりません。
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先程とは反対側で明治通り側の入り口です。左手の通路は主にビン・カン・ペットボトルなどの集積所を兼ねています。
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少し左を向きます。写真には微妙に写っていませんがスロープがあるのでしっかりバリアフリー化されています。
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ゴミ集積場です。各階ごとにゴミを捨てる場所を指定しているのでしょうか。
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そのまま明治通りを北に歩いているとこのような幟旗がありました。路地に入るとすぐに仙氣稲荷神社という小さな神社がありました。
中学生時代に旧字マニアだったこともあり、江東”區”史蹟 仙”氣”とまできたのに”稲荷神社”が旧字になっていないのには流石にツッコミをいれずにはいられません。個人的には見栄えがいいのでぜひ”稻荷神社”としてもらいたいところです。
ただこれはごく一部の人間だけが気にしてしまうことであるのは間違いなく、読みやすさ・親しみやすさの観点からいうと中途半端に新字体にする理由も頷けます。きっと”氣”という字に何かメッセージが込められているのでしょう。
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話が大幅にずれてしまいました。神社のすぐ正面には南砂町三丁目第二アパートが建っています。しかし、これもどこにでもあるような5階建ての都営アパートなので特に探索もせず外観の写真だけを撮っておしまいです。
道なりに歩いて葛西橋通りの方へと向かいます。
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そこから葛西橋通りへ出ると南砂四丁目アパートが小さな公園の隣に2棟建っています。1号棟はこの左隣に建っています。
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公園のベンチから見上げます。
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中に入り最上階に昇ってみます。
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予想外にツインコリダーでした。昇っておいてよかった。
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窓から外を見ます。ニトリの看板がある方角は南砂二丁目団地の方角で8号棟が見えます。ここまでで紹介した2つのアパート群も見えています。
アパートから出て葛西橋通りを東に進みます。
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すぐ近くには南砂四丁目住宅という全く別の建物もあります。
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丸八通りとの交差点で左に曲がると南砂五丁目アパートが見えてきます。
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陸橋の下に降りると、木場公園から東へと細長く伸びている仙台堀川公園に入れます。実は先ほど紹介した南砂四丁目アパートの真裏にもこの公園はありました。
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看板の説明によると役割を果たし終えた砂町運河跡の辺りをそのまま親水公園として整備したそうです。真夏ですが水があまりにも苔むしすぎているので水遊びには向かなそうです。そもそも柵の中に入れる場所もありません。
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露骨という言葉が字面的にも意味的にもぴったりな耐震補強がなされているアパートの下には不気味な絵が描かれた塀がありました。
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遊歩道を進むと旧大石家住宅という史跡がありました。開放がされていて管理人に話しかければ中に入れます。
この辺りから仙台堀川公園は東ではなくほぼ直角に折れ曲がり北へ伸び始めます。予定では東砂二丁目団地というこの公園の北端に近い団地にも行く予定でしたが時間の都合上断念しました。
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旧大石家住宅の裏の道を通って丸八通りの方へ戻ります。ここは南砂五丁目アパートです。
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広場です。運河跡を挟んだこのすぐ南に南砂六丁目アパートもありますが今回は寄っていません。
次回はそのまま丸八通りを北に進んだ方にある北砂五丁目団地とその更に北の大島五丁目第二アパート、大島駅のすぐ前にある大島六丁目団地について書きたいと思います。
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gallery-f · 4 years
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生家の記憶
7/7/2020
(Description) I was born and raised in a traditional Japanese house. As an adult, I live in a new house, but the only dreams I see at night are dreams of a house I grew up as a child.
The spiritual mentor said. "Sometimes see family photos. Love can be charged."
ぼくは長屋の一角で産まれたんだけどその長屋は借家だったので、 両親ががんばって古い家付きの土地を買ったのを機に引っ越したのね。 古い家を改築し、曲がりなりにも風雨を防いで家らしくなった後 両親は相次いで亡くなった。
ぼくは今の家で寝る。そして夢を見る。家族が出て来る。家が出て来る。 だけど今の家じゃない。前の家。生まれて育った家。長屋の夢。
格子扉をがらりと開けると暗い暗い土間があって ぼくの手が届かない天井近くに番傘が何本も飾ってある。 飾ってあったのか、そこが番傘の定位置だったのかは分からないけど。 父が木材を組み合わせて真っ黒に塗り、前面にカーテンを付けた お手製の下駄箱の上に黒猫が子猫を育てている。
靴を脱いで最初のドアを開ける。 左に食器棚、それから冷蔵庫その向こうにガス台と作業台?そしてシンクと洗面。 また扉があってその向こうに洗濯機。ここは底上げして床を張った台所とは違って 打ちっぱなしのコンクリートの上に木のすのこを置いただけ。 洗濯機の隣はお風呂。五右衛門風呂。
友達のうちがガス風呂だったのに、うちは長らく五右衛門風呂だった。 おじいちゃんが古いものを大切にするひとだったから。 毎日書く日記は万年筆で書いていた。 その万年筆はインクを吸うタイプの太いもの。 力の入れ具合によって字が太くなったり細くなったりする。 おじいちゃんが書く字は好きだった。 西日が入る居間で一日の終わりにおじいちゃんが書く日記。 癖字で何が書いてあるのかは分からなかったけど 万年筆の先から太い線、細い線が生み出されて そこから家族の歴史が編み出される。
あの日記。どこにあるんだろう。今、読みたいのに。
裏庭の真ん中には大きな石が据えてあった。 下駄を脱ぐところにも小さな石があった。 裏庭を挟んでお風呂と相対するところにトイレ。 木の欄干。いつもそこを握ってくるっと回るから 欄干の頭はつるつるしていた。 黒いスベスベした木と細い竹が組み合わされた床は 一部が外れて床下にアクセスできるようになっていた。
いつも開けていたのはおばあちゃんか父だったので ぼくはとうとう開け方をマスター出来なかった。 たしか、欄干の一部が組木になっていて、あるパーツを外して 次のパーツをずらすと欄干の下が外れ、その向こうにある 木と竹を手前にスライドさせて床に穴があくんだった。
昔の職人さんはすごいね。こんな市井の小さな長屋にも そんな細工をほどこしていたんだよ。 もっともおじいちゃんが長らく町長をしていたせいかどうだか 長屋の中でもうちは別格に大きい家だったけど。
長屋だったから、奥行きはみんな一緒だったけど、家の幅は広かった。
皆で囲む食卓には時計があった。 おじいちゃんの勤続何年だったかに職場からもらった記��の柱時計。 食卓の上に乗って、手を伸ばすと時計の扉を開けて 中に入っている金属のネジを取り、文字盤の左に開いている穴に差し込んで右回り 文字盤の右に開いている穴に差し込んで左に回す。 指が痛くなるほど回してから金属の振り子をちょっと動かすと チックタック、チックタック、動き出す。
友達の家にはおしゃれな電池の時計なんだよ。 スイッチポンのガス風呂。 ガス給湯器。
でもうちは朝練炭に火をおこして薬缶の水を湧かす。 湧いたお湯を洗面にためた水に足してそれで顔を洗っていた。
「お金がないからね」 と父。 どうして、お金がないの? 「そんなことはお前は気にするな」
今振り返ってみたらなんとなく分かる。 気前が良すぎる祖父母。もらったものを家族で分けず誰かにあげる。 我が家には未開封の箱が通り過ぎるだけ。 おばあちゃんは民生委員だったからウチよりもっと貧しい家のうちによくサポートしに 行っていた。
ぼくが生まれる前は祖父母は田舎の子弟をたくさん下宿させて下宿代も取らなかった。 田舎の人は最初にコメ渡したら中学高校6年間何もくれなかった。 最初のコメがどんなけ保つと思っていたんやろう、あっという間になくなるわ。 母がこぼしていた。
団地の子のうちはピカピカで、ハイカラで、最先端。 医者の子のうちには見たこともないおもちゃがいっぱいで庭には芝生が植えてあって 英語の絵本を読んでもらった。 アパートに住んでいた子のウチにだってガラスで出来た動物の置物がいっぱいあって それで遊んだ。
ぼくは何で遊んでいただろう。覚えがない。 ぼくは2歳から字を読み始めたと言うから、絵本を読んでいたかもしれない。 ぐりとぐら。 エルマーとりゅう。 不思議な絵本。
食事をする部屋の片隅のふすまを開けると階段がある。 ふすまを開けて階段というのは遊びに来た友達がいつも驚くポイント。 暗く急な黒光りする階段を手を使って四つ足で上る。 上り切った左手に布団箪笥。 布団箪笥の上に三毛猫が子猫を育てている。
ぼくがいつも子猫のしっぽをつまんでぶら下げるものだから 母さん三毛猫はぼくがとんとんとんと階段を上がって来ると 子猫の首を咥えてぼくの手が届かないところに避難する。
布団部屋に立って、左に行けば両親の寝室。 両親の寝室を抜けて立て付けの悪い黒い扉を挟んであるガス管に注意しながら 開けると父の書斎。木で出来た古い大きい重い素敵な机。
あの机。いつかぼくもあそこで勉強とかするんだろうか
とか思っていたけど、あの机、どうして引っ越しするとき捨てちゃったの?
布団部屋から右に行くと父のアトリエ。父は絵描きだった。 この部屋はかなり大きくて天井も高くて、天井には展覧会のポスターが 全面に貼られていた。おじいちゃんと二人でポスターの裏に糊を塗って 天井に貼っていた作業、今でも覚えているよ。
大きな木の机がふたつもあって、なぜかというと父は学区内の子供たちを集めて 絵画教室をしていたから。
時間内に絵を描いて、父が画用紙の裏に批評を書く。 「よくできました」 「せんが、きれいです」 「いろづかいがすばらしい」 そして花丸。
ぼくは小さかったけど、小学生のお兄さんお姉さんがたくさん来るこの時間は わいわいとたのしかった。たまに電車の中で知らないお姉さんに 懐かしそうに話しかけられることがある。だけどぼくはその時4,5歳。 ぼくのほうはお姉さんの顔、覚えていないよ。
ていうか、いまのぼくって5歳のころの面影残ってるんだろうか。 それはそれでフクザツ。
アトリエの横にまた扉があって、それを開けると母の音楽室。 母は音楽の先生だった。
エレクトーンとオルガンが並んでいた。倉庫には古いレコードがいっぱい。 レコードプレイヤーや映写機、木琴、カスタネット、ハーモニカは一段二段三段。 子供用のハープ。大太鼓小太鼓。トライアングルまであったな。 ピアノは1階の客間に置いてあって、ヤマハじゃなくてイバッハ。 リストやワーグナーが愛したと言うドイツ製のピアノ。 (「iBach」「ピアノ」で検索。今買うと300万円ぐらいします)
ぼくは小学生になった頃、このピアノには嫌な思い出しかない。 友達と遊びに行けなくなったから。 学校から帰ると母がピアノの前で待ち構えている。 母が紡ぎ出す和音を当てないと遊びに行かせてもらえない。 どみそ どふぁら しれそ 他多数。
一個当てたら遊びに行かせてあげる。 一個当てたらもう一個。 さらにまた また、また、また。 玄関で待っていた友達は待ちくたびれて行ってしまった。 ○○ちゃんと遊びたい。 「明日遊べる」 母の言葉。 でも明日も母はピアノの前で待ち構えている。
おじいちゃんが毛が無くなった頭をなでながら登場 「(ぼくの愛称)が可哀想だ。あそばしたれ」 母、渋々ぼくを開放。 しかしもう日は暮れて、烏がかぁかぁ。友達はみんな暖かい家にご帰宅。 玄関の前には誰もおらず、ぼくのこころのなかに冷たい風がひゅ〜。
重量 200kg もあるイバッハを置くために客間だけ改築し、床下を補強してある。 長屋なのに! イバッハの向こうには前庭があって、父の鳥小屋がある。 猫もいるのに鳥もいる。 鳥は50羽ぐらいいた。ほとんどジュウシマツとベニスズメ。
ぼくの鳥好きは父の影響だな。ぼくが飼ったのはカエデチョウ。
客間には改築時出窓を作ってここだけハイカラだった。 出窓には水槽があって、父が釣り堀で釣って来た金の鯉やドイツゴイがいた。 ぼくはこの鯉でごった返す水槽を眺めるのがホントに好きだった。 簡単にトランス状態に入れるから(^^;
夕焼けが見える西の掃き出し窓を全開にして、夕日が入る畳の表情が好き。 裏庭にぼくが作った鳥の餌台にキジバトが来てクルック〜。 前庭の木に巣を作ってヒナを育てた。 この家は小鳥のエサのおこぼれはあるは、それとは別に餌はくれるは すげ〜気前がええぞ〜と思っていたかどうかは知らない。
長屋で暮らした思い出が濃過ぎて。 今の家で見る夢に出て来るのは前の家の映像ばかり。 家族がいて、両親がいて、祖父母がいて 猫がいて小鳥がいっぱいいて 光が入って、風が通って、いろんな思い出が渦巻いていて。
仏間に飾ってあったぼくが生まれる前の家族の集合写真 今どこにあるんだろう。
今の家には家族の定位置がない。 前の家にあった家族の思い出が詰まっていたアルバムやら古い写真やら入れていた水屋 あれをどうして捨てちゃったの? アルバムはどこに片付けてあるんだろう。 今、見たいのに。
江原さんが言っていたよ。 たまには家族の写真を見なさい。 愛は充電出来るから。って。
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japanshowtv · 4 years
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✅ナニコレ珍百景 動画 2020年4月5日 200405 ナニコレ珍百景 動画 2020年4月5日- 200405 ✅動画高画質 Youtube Pandora Dailymotion Miomio ナニコレ珍百景 動画 2020年4月5日- 200405 赤ちゃんがナマズを食べる?珍風習続々&動物と人の驚きの散歩SP 動画内容: ★日本全国で驚きの光景を発見▼宮崎…お食い初めはナマズ料理▼福岡…犬の大軍団が散歩▼京都…オウムと散歩する77歳▼静岡…海岸に奇跡の球体岩▼千葉…木の枝で犬供養 ▼山梨・甲府…塀の上で車を見送る犬▼大分・別府…毎日犬に会いに来て添い寝する子ネコ▼熊本・錦町…豚足を売る自販機▼浜松…高架下に恐怖の○○人形▼宮崎・延岡…生後100日の赤ちゃんがナマズを食べる風習▼千葉・印西…Y字の木の枝で犬を供養する風習▼福岡・大牟田…犬12匹の散歩軍団▼愛知…自作の珍マシンで返金サービスの店▼静岡・城ケ崎海岸…自然の奇跡!4000年で球体になった石▼埼玉・和光…すべれないすべり台ほか ▼鹿児島市…威勢よく返事するアパート▼宮崎・延岡…イノシシが現れた壁▼福岡・行橋…女性の頭から生える植物【放送12年の名作選★散歩編】大阪…ブタと衝撃の散歩▼岐阜…おんぶされて散歩する犬▼新潟…散歩についてくるネコ▼北海道…ニワトリを散歩に連れ出す娘【珍自販機編】▼広島…カラフル軍手自販機▼福岡…焼き鳥自販機▼兵庫…生カキ自販機▼岐阜…1粒1万円イチゴ自販機▼愛媛…折り紙自販機▼長野…ラブレター自販機 出演: 【MC】名倉潤・堀内健(ネプチュ���ン) 【珍定委員長】原田泰造(ネプチューン) 【進行】森葉子(テレビ朝日アナウンサー) 【珍定ゲスト】羽田美智子、千原ジュニア 【ナレーター】奥田民義、広居バン #dailymotion動画 #miomio動画 #pandora動画 #youtube動画 #ナニコレ珍百景 #千原ジュニア #原田泰造 #名倉潤 #堀内健 #奥田民義 #広居バン #森葉子 #羽田美智子 https://bit.ly/2RcpBqN
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fujisawanissi · 5 years
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[12/3(月)12:56 @会社] くもり。朝方は雨がパラついていた。 昨日は17:00に帰宅して、風呂に入って、酒を飲んでコタツで少し寝た。仕事を辞めた後の1月からは、なんだかこういう生活になりそうな気がして怖い。寝すぎると気持ちが滅入るというか、少し鬱気味になるので、そこは気をつけたいとは思うのだけれども。非定型鬱の人はいくら寝ても寝たりないらしい。 和泉雅人の『迷宮学入門』をパラパラと読み進める。 11/30(金)の出来事について。加納さんに初めて踊った時の記憶を貰いに行った日。 この日は振替えて急遽仕事を休みにした日。 10:30にdbで、横堀さんとアヤカさんと「フリーウェイ」のチラシ作りについての打ち合わせ。アヤカさんからはブラジルのお土産を貰った。ボディ・ソープと入浴剤。ありがたい。 チラシの正面のビジュアルをどうするのかが一番の論点で、候補の写真をとにかく全て印刷して机に並べて見比べることにした。アヤカさんが初めて舞台に立った時の写真か、何かものを食べているときの写真か、という感じ。田中さんが撮ったアヤカさんが満面な笑みでご飯を食べている写真が候補の一つに挙がっている。それにしても、みんなアヤカさんの写真を何気にたくさん持っていて、色んなアヤカさんがいるなぁと感じる。でもみんな、新長田にきてからのものだから、逆に18歳の時までの写真はポッカリとないんだけれども。コーヒーを飲みながら、横堀さん、田中さん、アヤカさん(それとはあなさんも)で写真を選ぶ。「中央フリーウェイ」のサビの部分だけ、みんなで口ずさんでハモる。 dbでの打合せ後に、アヤカさんと丸五市場のteteへカレーを食べに行く。dbからteteへの行きしなに、年末年始の話を少しした。今年は帰省されるんですか、と聞くと帰省しないとの返答。 (前回来たときはカレーを食べれなかった)。「今日のカレー」はハモのカレー。ハモカレー。ミャンマーカレーに白味魚はよく合うと思う。ミャンマーカレーのフルーツっぽさと白身魚の淡い甘さがちょうどよい。お茶の葉サラダも美味しい。アヤカさんが、関西にきてからハモ食べたと言っていた。「大分では食べなかったよ」。確かに、長野でも食べなかった。 チラシのデザインについての話。去年のKEXか何かのチラシで松見さんデザインのチラシを見つけて、チラシ頼むなら松見さんにお願いしたいと思ってたらしい。(わたし見開きのチラシって大嫌いなんだよね。だけど、去年か一昨年かのKEXで、〇〇のチラシのデザインを松見さんがしていたんだけど、それも見開きだったんだけど、でもそのチラシは見開く必然性があったんだよね。それですごくよく覚えている)。 一通り食べ終えて、登美子さんにフリーウェイのフードのことを相談する。500円でお願いできますか?「500円だったら、麺か何かカレーかなぁ」。登美子さんが写真を撮ってくださった。「とも君は何をする人なんですか?」と聞かれた。んーなんでしょうね。僕もよく自分で迷うんですけど。制作者ですかねぇ?うーん、とか言っていると、アヤカさんが「ドラマトゥルク」の説明をして下さった。 teteを出て、消防署の前を通り(ここの前を通るとき、いこんなところに消防署があったんだと、いつも驚いている気がする)、新長田駅へ。 いつも新長田から帰るときとは反対の、西明石へ行く方向の電車に乗る。乗ったのが須磨止まりだったため、一旦そこで降りると、前方に海が開けた。記録のためであろう、アヤカさんがカメラを回し始めた。のどかな風景。電車がくるまで回し続けていた。 駅に着くと、改札前で加納さんがお迎えにきて下さった。何だかお互いに「改まる」という間がなくて、いきなり前回の��影の続きみたいな空気感になった。加納さんが開口一番アヤカさんに「どちら行かれてたんですか?」と訊いていた。 駅の改札を北側(山側)に降りると、いきなり小さな袋小路というか路地裏に入る。途中の八百屋かどこかで「ご自由にお持ちください」と書かれた本棚があって、高崎山の猿について書かれた本があったので拝借した。本棚があるとついつい見てしまう。高崎山の猿が餌が減らされたことに腹を立てストライキを起こし、職員の人が猿の格好をしてお出迎えの話をした。カレー屋や豆腐屋を横目に小路を通り抜けると、川が一本、丘の坂道に沿って流れてきていた。神戸の川のイメージはこんな感じ。横に流れないで、縦に流れる。加納さんによると、この川を起点にして、街が東西に分かれるとのこと。坂道を東に進んでいく。 この坂道を登っていく感じ、六甲に似ているなぁと感じながら、でも「山」がなくて、ひたすらに「丘」の上の住宅街のあいだを登っていくので、少し違和感。登れば登るほどに、目の前が開けていく感じ。 この日は秋晴れの澄んだ青空で、川べりにたつ小学校の校庭を見ると、子供たちが遊んでいて、あ、今日は平日なんだなと思い出した。 加納さんも歩きながら街について沢山説明してくださった。このあたりの住宅も最近、建替えが進んでいて。交差点に立つこのオシャレな家も最近出来たんですよ。ここの家もほら、いま取り壊していて。ここのアパートも多分、これから取り壊されるのかなぁ。あの椅子とか使えそう。 丘の上を少し登る。コンクリ造りの段々をあがって、腰丈ぐらいの門を通り、お宅へお邪魔する。友達の家ではない人のうちにお邪魔するというのは、いつぶりだろう。神河町の京極さんちへ行ったとき以来かもしれない。 玄関からあがって、居間に通される。畳敷きのお部屋。炬燵が一つおいてあって、加納さん、アヤカさんと3人でコタツを囲む(僕も帰宅してから家のコタツを出した)。加納さんはコートを脱ぐと、エプロン姿で、その上から赤いちゃんちゃんこに着替えていた。 おばあちゃんの家みたいな空気感。時間がゆっくりと流れているような。加納さんが引き窓をあけてくれて、窓から秋の、涼しい風が入ってきた。 開いた窓からお庭と秋空を眺めいていると、旦那さんがお茶を入れて下さった。シュークリームをご馳走になる。お皿に載った、銀紙の上に載った、シュークリームを食べるのは、何だかとても久しぶり。アヤカさんもシュークリームを食べるのは久しぶりです、と言っていた。
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nukeplant1 · 5 years
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世界一薄いシルクとして海外でも高く評価される「フェアリー・フェザー」の生産事業者も登場「Kawamata Silk Meeting in Kyoto」を開催:時事ドットコム - 時事通信
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reflections-in-t · 1 year
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. . 西長堀アパート . 竣工:1958年 大阪市西区 . . . #NishinagahoriApartment #西長堀アパート #竣工1958年 #旧日本住宅公団 #都市再生機構 #大阪市西区北堀江 #吉原治良 #具体美術協会 #LeicaC #ライカC #LeicaC112 . . https://www.instagram.com/p/CkxMaZoPSAZ/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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jijinetasite-blog · 6 years
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福島と京都の間で:古里の意味を問う「自主避難者」の旅(上)–寺島英弥 京都市伏見を再訪したのは2017年2月26日。まだ冬のさなかの東北と違い、京都は梅が咲き誇る早春の候だった。東日本大震災の被災地を毎年応援している「もっと広がれ支援の輪from伏見」という地元の労働組合、市民らのイベントに3年ぶりに講演で招かれ、「大震災から6年 何も終わらない東北の被災地」との題で現状を報告させてもらった翌日、足を運んだ場所がある。近鉄・桃山御陵駅前の踏切を渡り、にぎやかな大手筋商店街のアーケードをくぐって両替町の小路を曲がると、その店は変わらず穏やかなたたずまいを見せていた。 焦げ茶の柱や板戸、白壁、銀色に光る瓦。京都の下町らしい古い町屋作りの店には「みんなのカフェ」の表札。立て看板のメニューには、手作りのシフォンケーキ、チーズケーキにまじって、東北のにおいのする「ずんだティラミス」や「わっぱ飯ランチ」も。あるじとして切り盛りするのは、福島市から自主避難している西山祐子さん。東京電力福島第1原子力発電所事故の後、同じく京都に移った同胞の家族らを支援する社団法人「みんなの手」の代表だ。伏見にある避難先から近い町屋を自ら借りて改装し、2013年5月に店開き。「みんなの手」の拠点でもある。3年前の講演の打ち上げ会場が偶然「みんなのカフェ」という縁で西山さんに話を聞かせてもらったのが2013年10月。それ以来の再会だった。 福島から京都へ自主避難 西山さんの自宅は福島市瀬上町。阿武隈急行という第3セクターの駅があり、のどかなリンゴ畑に囲まれた住宅地だ。京都に避難するまでの経緯を、筆者のブログ『震災3年目/余震の中で新聞を作る109~同胞をつなぐ、はるか京都の地で』でたどってみよう。 【「2011年3月11日の震災があり、福島第1原発事故による放射性物質の拡散で、原発から60キロ以上離れた福島市内でも3月15日に急激に放射線量が増えて、24.2マイクロシーベルト毎時まで上がった。(政府から)福島市に避難や屋内避難の指示は出なかったけれど、『自主的に避難した方がいい』と友人からメールをもらった」 「共同通信の記事(同16日)も、福島市で同日5時以降、『通常の約500倍に相当する毎時20マイクロシーベルト以上の放射線量を少なくとも5時間、連続して観測した』という県の発表と、『必要のない外出は避けてほしい』という呼び掛けを伝えていました」(注・17年7月12日現在の『福島県放射能測定マップ』で、同市瀬上町は0.1前後に低減)。 「両親や夫に反対されたけれど、避難しようと決め、そのころ2歳の娘を連れて18日に東京に行った。でも、都は自主避難する人の受け入れ、支援をしておらず、親戚を頼って都内でアパートを借り、3カ月滞在した」。夫は仕事のある福島に残り、二重生活となって経済的な負担も生じました。「5月の連休に一度帰ったけれど、放射線量の状況は震災前に戻らず、避難が長期化するかもしれないと感じて、受け入れの情報を懸命に集めた」。 福島県全域から自主避難する人々を独自の震災対策事業として受け入れていたのが、京都府でした。「対応がとても丁寧、迅速で、2、3週間の準備で避難先の下見をさせてくれた」と西山さん。府から提供されたのが、伏見区にある公務員宿舎でした。夫はやむなく引き続き福島に残ることを決め、「なじみのない西日本は心細いが、安心できるなら」という両親、娘さんと4人での京都の暮らしが始まりました。未知の土地ゆえに、福島から避難した人たちがどこにいるか、誰か知り合いが来ていないのか、知りたくなり、府に問い合わせましたが、「個人情報は教えられない」と壁に阻まれて、五里霧中だったといいます。 地元で市民らの支援の会が活動しており、「行ってみたら、たまたま同じ公務員宿舎に避難している人がいた。『声を掛け合って、集まってみないか』という話になり、8月に初めての集いを宿舎で開いた」。20人も集まり、西山さんら有志は「ふれあいの会」を旗揚げしました。京都新聞や全国紙の取材も入ってニュースが広まり、支援したいという申し出も寄せられした。府から必要な家財道具の支給はありましたが、「何かできますか?」と。  「私がいる公務員宿舎とは別の場所で暮らす福島からの避難者とも出会った。府の宿舎以外には公的な支援がないことが分かり、『ずるい』と言われた。同じ避難者として、誰もがつながれることが必要だ、と感じた」といいます。「原発事故で故郷を離れた人、津波のために帰る家をなくした人、福島だけでない他県からの避難者も、とにかくそれぞれが孤立に陥らず、つながろう。支援をしたい、という地元京都の人もつなぐ。そんな場をつくりませんか」と西山さんは呼び掛け、12月に「避難者と支援者を結ぶ京都ネットワーク みんなの手」を立ち上げました。スタッフは、西山さんら福島からの避難者が2人、京都の有志3人。「自分はつなぎ役になろう」と決めて、拠点は公務員宿舎の自室に置いて月1、2回のニュースレターを発行し、避難先リストを持つ京都府に郵送を委託しました。発送便の届け先は435世帯に上ります。希望者にはメーリングリストを使った発信も始め、登録者は現在65人。「支援やイベントの招待など、いろんな情報が電話でも集まるようになり、それらを発信してきた」】 福島県が支援打ち切り それから6年。西山さんをはじめ福島県内から全国各地へ自主避難を続けてきた人々の境遇は、大きな転機を迎えようとしていた。 筆者の京都訪問のほぼ1カ月後、政府は福島第1原発事故の被災自治体に発した全住民の避難指示を、2017年3月末(富岡町は4月1日)に解除。それを以前から見据えたように同県は2015年6月、放射能への不安などから自らの判断、選択で避難した県民の生活を支えてきた住宅無償提供(家賃全額補助)の支援を打ち切る方針を決めていた。その時点で古里を離れて県内外に避難した人は4万3700世帯、10万1900人、うち自主避難者は9000世帯、2万5000人に上る。同県の意向は「除染や災害公営住宅の整備が進み、生活環境が整うと判断」「災害救助法に基づく応急的な支援から新たな生活再建策に軸足を移す。県外の借り上げ住宅から県内への引っ越し費用を補助するなどして帰還を促す」(同月16日の『河北新報』)と報じられたが、政府のスケジュールと軌を一にしていたことは明らかだった。 復興庁も同じ時期、自主避難者らを対象に「子ども・被災者支援法」の基本方針を改定する案の説明会を東京都内で開き、(1)自主避難に関する支援を縮小する(2)古里への帰還支援などに比重を移す――という方針を伝えた。東日本大震災から5年の節目であった2015年度末で政府の「集中復興期間」が終わることを踏まえ、「福島県内の多くの地域で空間放射線量が大幅に低減した」「避難指示区域以外の地域から避難する状況にない」などを根拠に、法律の上でも自主避難者への支援を打ち切る内容だった。「避難者の切り捨てではないか」という反発や疑問が会場の自主避難中の人々から相次ぐ中、政府は同年8月25日、「幕引き」を急ぐかのように閣議決定した。 翌9月15日の『河北新報』には、「住宅無償提供 延長を 自主避難者 増す負担」という見出しの記事が載った。 【「母の願いはただひとつ、子どもを守りたい。そのためにもう少し山形で子育てさせてください。どうか住宅支援の延長をお願いします」。4日、山形市で開かれた「住宅支援の延長を求める会」の発足式。原発事故当時、3歳の娘と福島市から山形市に母子避難したパート従業員の女性(42)が切々と訴えた。長距離通勤、母子避難、二重生活...。自主避難者の環境はさまざまだが、避難生活で家計の負担が増す中、住宅無償提供は大きな支えになる。中には貯金を取り崩しながら生活する家庭もあり、切実な問題だ】 福島県は支援打ち切りの方針を決定した後、担当者に各地の自主避難者を戸別訪問させた。だが、「職員が訪ねてくるなり一方的に通告された」「打ち切りありきで被災者と接している」といった当事者の声が、「原発被害者訴訟原告団全国連絡会」「原発事故被害者団体連絡会」などを通して明るみに出た。2016年に入り、多くの避難者を受け入れた山形、米沢両市の議会が撤回を求める請願を採択するなど、住宅無償提供の延長を訴える活動は全国に広がったが、内堀雅雄知事は再考に応ずることなく、「県全体で丁寧に対応する」と語るのみだった。これらの決定の積み重ねは、避難指示解除を境に、自主避難が「原発事故のため強いられた決断」から「自己都合」へと扱いが変えられてしまうことを意味した。当時の今村雅弘復興相が2017年4月4日、「(もはや自主避難に政府の責任はなく)本人の責任、本人の判断」と突き放した「自己責任」発言も、自主避難者を切り捨てる流れを代弁したものと言えた。 とどまるか、帰還か                    「京都府、京都市とも、自主避難者への支援を2年間、延長してくれた」と、西山さんは語る。京都には2016年末現在で福島県などから計95世帯、257人の自主避難者が暮らしていた。冒頭の被災地支援イベントのように、地元では福島県からの自主避難者への市民の受け入れが温かく、支援打ち切りに反対し避難者の窮状を訴える署名集め活動なども行われた。両府市は足並みをそろえて「入居から6年間」の避難者を無償で受け入れ、それを過ぎた後も独自に2019年3月まで有償ながら提供を続けると決めた。全国の多くの自治体では政府の要請を受け、自主避難者の公営住宅への優先入居枠を設けて住み替えを求めたが、京都ではそのまま住み続けることができる、良心的な対応が生まれていた。 「でも、わたしは去年の3月、府から避難先に充ててもらった公務員宿舎を自分の判断で出て、父と母、娘と一戸建ての家を借りている。もう去年から住宅の支援を受けていないのです」と西山さん。なぜですか?と問うと、「そのころは京都でも支援が打ち切りになりそうな空気だった。2017年初めの時点で『支援は終わりです』と京都府からも言われていた。それが、2月になって急に『支援を延長します』に変わった」。その間の市民たちの応援が行政を動かしたとも言えたが、西山さんは、「仲間たちにも『もう支援に甘えず自立しよう』と言ってきたのに」と複雑な気持ちだったという。「京都での行政の支援もあと2年という先が見え、『みんなの手』の活動をこれから1年、1年どう続けていくか、思い悩むところもあります」 避難生活の苦労を共にしてきた家族にも、思いもかけぬ悲しい出来事があった。「京都の暮らしになじめない部分があり、ストレスに苦しんでいた」という83歳の母親が亡くなったのだ。「福島の家が大好きだったんです」。同市瀬上町の自宅では、1歳上の父親が160坪の畑を借りて家庭菜園を作っており、夏になると家のブドウ棚の下にビニールプールを広げて、娘真理子さん(現在8歳で小学3年)を遊ばせたという。その楽しさを真理子さんもよく覚えていて、「早く帰りたい。京都より福島の方がいいと話すんです」。 自宅の周りの地域でも除染作業が行われ、放射線量は低減したが、「安全と言われても、安心はできない。『ホットスポット・ファインダー』で見ると、まだ高い所がある。子どもを住まわせてもいいのかどうか、悩みます。低線量被ばくの危険をぬぐえないのに、『安全』と決めつけないでほしい」と西山さん。サラリーマンの夫は仕事のため福島に残り、二重生活が続いてきた。2年前に東京の企業に再就職し、以前より距離は縮まったが、家族分断の現実は変わっていない。 駆け抜けてきた4年 「みんなの手」の活動も4年になる。「つながってくれている避難者は、京都府に登録している約250人。3年前の600人からずいぶん減りました。でも、住宅探しなど、さまざまな支援情報などのニュースレターを毎月送っている先は、関西の他府県にいる人も合わせて、いまも650世帯ある」。情報の発信だけでなく、京都での交流会も年7回ほど催し、古里の東北らしい芋煮会や紅葉狩り、餅つき大会など、家族で楽しめるレクレーションを企画してきた。避難者の身の振り方を検討する一助として、京都への移住を希望する人を応援する団体「京都移住計画」と共にランチ交流会なども。 「ふるさととつながろうツアー」は2011年12月、避難先の京都と福島に離れた親子らをつなぐ夏休みや年末の「家族再会プロジェクト」として始め、その後福島県の交通費助成も得て、2013年から現在の名称で避難者の参加を募って続けている。「今年(2017年)のお正月には30人が参加しました。次の3月のツアーは40人くらいになりそう」。本拠とする「みんなのカフェ」も、西山さんが避難先の伏見の古い町家を見つけて改装したが、助成金が数百万円不足し、最後は自費で賄った。「スタッフは6人。南相馬市など福島県からの避難者の仲間も働いてくれたけれど、それぞれ古里に帰って、いまは京都の人だけになった」。 西山さんは原発事故前、福島や仙台で英語の講師、通訳のキャリアを積んでいた。それらを捨てての避難生活は、「マイナスからの出発になった。先のゴールは見えず、今日のことしか考えず、自分はただ髪を振り乱して駆け抜けてきた」。避難者の誰もが「帰還するか、京都に残るか」の選択を迫られていた中で、すでに福島に家を造って再出発した人も、古里を思いつつ放射能への不安で京都定住を決めた人もいるという。自身も同じ当事者でありながら、同胞の支援活動に奔走し、「就活に役立てて」とカフェの2階でパソコン教室などを始めたり、避難家庭の子どものための英語教室でも教えたりしている。 「自分を後回しにし、いろんなことをやって疲れてしまったところがある。娘も大きくなってきた。いつまでも避難者の支援でなく、そこから新しい生き方を探したい気持ちもある��。 そんなチャレンジで4月から京都外語大の大学院に通い、再び英語の勉強を始めた。 この数年が最後の活動になるかもしれない「みんなの手」の代表として、いま取り組むのは、京都の地で避難生活の苦楽を共にしてきた仲間たちの証言集づくり。「古里を離れねばならなかった自主避難者の痛みと真実を、みんながばらばらになって、忘れられる前に書き残し、多くの人に伝えたい」。 西山さんは忙しい活動を縫って仲間からの聞き取りを始めていた。京都にとどまり、あるいは古里へ帰還した仲間を訪ねて。(つづく) 寺島英弥 ジャーナリスト。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。河北新報元編集委員。河北新報で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」などの連載に携わり、2011年から東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』(同)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を更新中。 関連記事 「避難指示解除」後の飯舘村(下)被災地の残酷な現実 「避難指示解除」後の飯舘村(上)帰還農家が背負う「開拓者」の苦闘 映画『新地町の漁師たち』が描く「もう1つの福島」 「食用米」復活へ模索続ける「飯舘」「南相馬」の篤農家たち 飯舘村「帰還」の哀しみ(下)託した「願い」 (2018年2月28日フォーサイトより転載) Source: ハフィントンポスト
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makijinki · 6 years
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【LESS IS MORE+,,,,,popup store】 . . . . . . . . at @botanistweb.jp by 西長堀アパート . . . until...November 19th, this Sunday __________________ #popupshop #lessismoreplus @lessismore_plus #new #wear #fashion #ladies #madeinjapan (Nishi-Nagahori Station)
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take-all-a · 6 years
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UR / 旧公団 西長堀アパート(大阪市西区)
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aquaticambience · 7 years
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