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#第122代天皇
go-shuin · 3 years
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#明治神宮 

#御祭神 #明治天皇 (めいじてんのう) #昭憲皇太后 (しょうけんこうたいごう)
 #第122代天皇 御由緒 内苑を中心に、#聖徳記念絵画館 を始め
数多くの優れたスポーツ施設を持つ外苑と、
結婚式とパーティー会場の #明治記念館 があります。

所在地 〒151-8557 東京都渋谷区代々木神園町1-1
 カーナビ設定は 東京都渋谷区代々木神園町1-1-2  で設定。

最寄り駅: JR #原宿駅 徒歩1分 地下鉄千代田線「明治神宮前〈 #原宿 〉駅」 徒歩1分 #代々木 #神園町 #渋谷 #日本  #shibuya #tokyo #japan 
#加藤清正 #清正井 #隔雲亭 #菖蒲田 #お釣台 #明治神宮御苑

#御朱印 #神社 #神宮 #お宮参り  #御祈祷 #神社巡礼 #神社巡り  #神社詣り #神社参り  (明治神宮 (Meiji Jingu)) https://www.instagram.com/p/CNLODNklSny/?igshid=14yqn2vgh7wm3
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kayyttea · 3 years
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#明治神宮
 #朔日参り 
#明治神宮華道敬神會

#幸せのお裾分け





御祭神 #明治天皇 (めいじてんのう) #昭憲皇太后 (しょうけんこうたいごう) 第122代天皇 
 御由緒 内苑を中心に、#聖徳記念絵画館 を始め
数多くの優れたスポーツ施設を持つ外苑と、
結婚式とパーティー会場の #明治記念館 があります。

所在地 〒151-8557 東京都渋谷区代々木神園町1-1
 カーナビ設定は 東京都渋谷区代々木神園町1-1-2  で設定。

最寄り駅: JR #原宿駅 徒歩1分 地下鉄千代田線「明治神宮前〈 #原宿 〉駅」 徒歩1分 #代々木 神園町 渋谷 日本  shibuya tokyo japan 
#加藤清正 #清正井 #隔雲亭 #菖蒲田 #お釣台 #明治神宮御苑

#御朱印 #神社 #神宮 #御祈祷   #神社詣り #神社参り  #奉拝 #参拝 #御利益 #ご利益 #開運 #金運 #お守り #御守り 
昇殿参拝 正式参拝 肥後藩藩主 加藤家別邸
彦根藩藩主 井伊家下屋敷
南豊島御料地 (明治神宮本殿) https://www.instagram.com/p/COVR8dmJxdj/?igshid=rvdj8a5pghrx
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jaguarmen99 · 3 years
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明治天皇を尊敬しており、戦後も総統代理として蔣経国を明治神宮へ公式参拝させている[121]。 第二次大戦中に、日本軍が拉孟・騰越の戦いで連合軍の大軍[122]を相手に戦い、それぞれ味方の6倍の損害を与えて玉砕したことを讃え、「東洋道徳の範とせよ」と中国軍に訓令を発している[123]。 戦後、台湾へ移ってからは、富田直亮少将を団長とする旧日本軍の将校団(白団)を招き、国府(中華民国国民政府)軍を秘密裏に訓練させた。米国政府はこれを厳しく非難し、国府軍内にも反対の声が挙がったが、蔣介石は白団による教育訓練を断固推進した。 1949年10月、中国人民解放軍が金門島等へ大挙侵攻を図った際は、旧日本軍の根本博中将[124]らが国府軍を作戦指導し、人民解放軍を完膚なきまでに撃破している[125](古寧頭戦役)。
蔣介石 - Wikipedia
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本ホームページの概要
   韓国について世界の人々に問う ホームページ概要紹介
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この内容は『韓国の歴史を直視する』と題して出版されました。 書籍版について詳しくはこちら
このホームページは、韓国の反日の誤りを指摘し、正常な日韓関係の構築を願ったものです。
  問い1 朝鮮の始まりについて  韓国人が「大切に思っている朝鮮民族」とその始まりを記しました。朝鮮半島の人たちの先祖は、漢・匈奴・扶余・挹婁・沃沮・濊・貊・女真・韓・韃靼などの多くの種族です。  韓国大統領は「民族は何よりも幸福をもたらすものである」といっていますが、1950年6月に勃発した北朝鮮軍の韓国侵攻では、同じ民族の北朝鮮によって韓国の民間人12万人もが虐殺されても、「民族は最も幸福をもたらすもの」といえるのでしょうか。 ▶ 問い1目次へ
問い2 統一新羅の成立と滅亡について  韓半島の南半分にあった馬韓・辰韓・弁韓の中の小国が、周囲の小国を次々と武力併合して、高句麗と新羅・百済が建国されたことを記しています。この三国は数百年間にわたり攻撃と侵略を繰り返し、数世紀を経て新羅が半島を統一しました。そして今、この戦う性向は日本に向けられています。 ▶ 問い2目次へ
問い3 高麗の建国と滅亡について  後三国時代を経て、高麗の建国、モンゴルへの従属、二度の日本侵攻、拉致した婦女子や処女の元への何度もの提供などを記しています。  統一新羅は、王が享楽に耽り、反乱が頻発し、衰弱した新羅は異民族の高麗に自ら併合されました。これは日本が朝鮮を併合した状況と酷似していますが、韓国はこの併合を黙って認めています。 ▶ 問い3目次へ
問い4 李氏朝鮮の建国と統治について  1388年に軍事クーデターで権力を握った李成桂が、新国家創設に反対した有力者を殺し、反対派を処分して、高麗王から李成桂へ統治権を譲渡させたことを記しました。この状況は、大韓帝国皇帝が日本の天皇に統治権を譲渡した時と同一ですが、韓国はこれを不法かつ不当と言っていません。 ▶ 問い4目次へ
問い5 李氏朝鮮中期の状況について  統治者たちが現実離れした論争に明け暮れ、政治を顧みなかったことを記しました。やがて朋党が形成され、政治と無関係な嘘の情報戦による権力闘争で、政敵の殺し合いが260年も続き、この争いは李氏朝鮮が消滅するまで尾を引きました。 ▶ 問い5目次へ
問い6 李氏朝鮮末期の状況について  17~19世紀の李氏朝鮮末期の悲惨な実態を記したものです。 農民の餓死が頻発し、貴族や官吏は農民から過酷に搾取し、その結果一部地域の人口は1600~1858年の258年間で減少気味で、道路や橋は放置され、山は禿山で、都市は悪臭が満ちて不潔で狭く、農民は働く意欲に欠け、奴婢は財物として扱われ、人々は身分制に縛られ、統治者は朋党を組んで権力闘争に明け暮れ、誰も国のことなど考えませんでした。  この状況を見たフランス人は著書で「朝鮮は併合されロシア領となるだろう」と記しました。 ▶ 問い6目次へ
問い7 朝鮮の近代化とその阻止  女真族によって建国された清国を野蛮国と看做し、朝鮮だけが唯一の文明国との思想に染まり、日本や西洋を夷狄として排除したことを記しました。  開化派は3回も朝鮮の近代化に取り組みましたが、その度に国王と保守派は彼らを殺害し、あるいは国外へ追いやりました。そして大韓帝国と改称し、1899年に大韓帝国皇帝の絶対的専制政体を宣告した大韓国国制を制定して近代化を封じたのです。 ▶ 問い7目次��
問い8 朝鮮の変化について  日本統治により変化した朝鮮の実態を記しました。 重要な変化は、奴婢(奴隷)を開放し、良賤の身分制を解体し、朝鮮人が平等で自由に活動したことです。この他、餓死や搾取と身分制が無くなり安心して子供を産み育てる環境ができたので年平均人口増加率が過去1660年間に比して約15倍になり、軽蔑され無視され使用が禁止されていたハングル文字を4271校の小学校と1562校の簡易学校で教え、約30万戸の朝鮮人の商店と約4000社の朝鮮人経営の工場が建設されたことなど、25項目の変化を記しました。  これらの変化は、「日本は世界一過酷な植民地支配により朝鮮人を奴隷状態にして賠償に値する収奪行為を行った」結果であると言えるのでしょうか。 ▶ 問い8目次へ
問い9 日本の朝鮮からの撤退後について  日本が撤退時に残してきた有形物と無形なものを記し、注ぎ込んだ資金は現在価値で約122兆円+A+B+C+D円となることを示しました。 しかし、請求権問題を最終的に解決した日韓条約に従って、日本は韓国の国家予算の2.3倍ものお金を支払い、122兆円+A+B+C+D円の請求を韓国にしていません。  さらにODAとして現在の韓国の基礎施設を構築した113項目7,000億円(当時の価格で)以上の支援を行い、サムスンや浦項製鉄などの創業・発展期には要望に応じて日本の企業と銀行が技術と資金を惜しみなく提供しました。 ▶ 問い9目次へ
しかし、韓国は、反日を国是とし、解決済みの問題を掘り起こして、さらなる賠償と謝罪を要求しています。
このホームページは、「恩を仇で返す韓国の行為」の是非を問うものです。
▶ 全体の目次へ
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書籍『韓国の歴史を直視する』  このホームページの内容は『韓国の歴史を直視する』と題して出版されています。書籍でじっくり読まれたい方は、下記のサイト(幻冬舎ルネッサンス新社)より各購入ページにてご購入ください。
著者/徳田 克
ISBN/9784344931442
判型/A5・448ページ
出版年月日/2020.11.25.
価格/1500円+税
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目次はこちら
韓国について世界の人々に問う
――日韓関係を見直す――
 はじめに 
 私たちは、韓国のテレビドラマ『冬のソナタ』や『チャングム』を熱心に見て感動していました。ソウルオリンピックを成功させた韓国は近代化された国家として、道路も広く整備され、ビルも立ち並び、ソウルの中心部の綺麗な繁華街にはあらゆる商品が並び、食べ物も美味しく、産業の発展も素晴らしいものがあります。
 そして秋にはソウルを少し出ると道端に白やピンクや赤色のコスモスの花が綺麗に咲いており、美しく優しい風景が嬉しくなり、韓国に好感を持っていました。
 しかし残念なことにここ数年、韓国の反日活動はますます激しくなっているように思われます。そして韓国は日本を敵国であると思っているかのような感じさえします。韓国は「反日」を国是の如くしており、「親日」は犯罪であるかの如く非難を集中的に浴びせています。
 その背景には、朝鮮を日本が併合した事は不法かつ不当であり、その間に日本がしたことは全て許せず、その痕跡もなくしたい感情があるように見受けられます。
 しかし、いかなる国と国との関係であっても正常に交流することだけが、双方の国民にとって必要な大切なことです。両国民を幸せにする方法はいつまでも相手を攻撃し、謝罪と賠償を繰り返し要求し続けることではないと信じます。
 良くても悪くても、好きでも嫌いでも過去は変更不可能です。過去に囚われて未来を犠牲にすべきではありません。
 韓国が激しい反日の牙をむいてくると、日本人も戸惑い、やむなく自衛のために対応策を考えざるを得なくなります。このような状態は両国の将来にとって決しても好ましくありません。この現状から脱して両国の正常関係を構築するための活動を双方が開始すべきだと思います。
 悪意や敵意は必ず反作用としての悪意や敵意を増幅して生み出します。憎悪や侮蔑はより強い憎悪や侮蔑となって跳ね返ってきます。攻撃はより大きな反撃を受ける危険性があります。
 大切なことは、「隣人を愛せよ」との精神に則り、許し難いことも許し、認め難いことも認め、相互に相手を攻撃や批難することをやめ、相手の存在を認めて評価し尊重してこそ、真の良好な関係が生まれると信じています。
 朝鮮をより良く理解するために、ここでは朝鮮の歴史を学び直し、日頃疑問に思っている事柄を率直に提示したいと思います。
 この「問い」を通じて、今後の両国の人々の考え方や認識の相互理解を深め、違いは違いとして認めた上で、お互いの立場を理解して尊重することから、両国の関係を構築しなおす基礎が生まれてくると思います。
 そして、正常な関係を構築することだけが、両国民が真に幸せになる唯一の方法であると信じています。
 世界の人々に、この思いの是非を問う次第です。
日韓関係を見直す会
Tokuda Masaru
代表 徳田 克
CONTENTS
はじめに
問い1:朝鮮の始まりについて
問い2:統一新羅の成立と消滅について
問い3:高麗の建国と滅亡について
問い4:李氏朝鮮の建国と統治について
問い5:李氏朝鮮中期の状況について
問い6:李氏朝鮮末期の状況について
問い7:朝鮮の近代化とその阻止
問い8:朝鮮の変化について
問い9:日本の朝鮮から撤退後について
おわりに
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myonbl · 4 years
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2020年1月1日(水)
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新しい年を迎え、暦は今日から「俳句の日めくりカレンダー(暦生活)」、壁にはSOU・SOUの干支手ぬぐい(足袋下とおそろい)。本年も、どうぞよろしくお願いいたします。
いつも通りの早寝早起き、年が明けても変わることはない。
朝食に蕎麦をいただいて、日めくりとタペストリーを新しくする。
ツレアイは和服に着替え、西大路七条から202系統に乗って東山へ。ここ数年の恒例は、今熊野観音寺+新熊野神社という熊野詣コース。
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四季折々に自然の美しいいとなみが見られる幽寂なる空間、熊野権現示現の伝説の聖地。東山三十六峰今熊野山のふところにいだかれて、今熊野観音寺は荘厳なるたたずまいを見せております。後白河法皇より山号を賜り、「新那智山」と称します。 今熊野観音寺は、 西国三十三ヶ所観音霊場の第十五番札所 ぼけ封じ・近畿十楽観音霊場の第一番札所 京都泉山七福神のえびす神奉祀 洛陽三十三所観音霊場の第十九番札所 神仏霊場会の122番(京都42番)霊場 として名高く、また古くからの霊験記にも記されている通り「頭の観音さん」として広く人々の信仰をあつめ、毎日多くの善男善女が参拝や巡礼におとずれ、たいへんにぎわっております。真言宗泉涌寺派。
(由緒沿革より)
お参りの後、ぼけ封じの枕カバーをいただく。
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坂を下って、新熊野神社へ。
当社は熊野信仰の盛んな平安時代末期、永暦元年(1160年)、後白河法皇によって創建された神社です。後白河天皇は1155年に即位され、1158年に退位されましたが、退位後も引き続き院政を敷かれ、そのときのお住まいとなったのが、現在三十三間堂の東側にある法住寺です。当時は「法住寺殿」と呼ばれ、その鎮守社として新熊野神社が、鎮守寺として三十三間堂が創建されました。その造営に当たったのが法皇の命を受けた平清盛・重盛父子です。 法皇は一生のうちに34回熊野に参詣されていますが、当時の都人にとって熊野に参詣することは大変なことで、そう何回も行けるわけではありません。そこで、熊野の新宮・別宮として創建されたのが当社で、当社は長らく京の熊野信仰の中心地として栄えました。当社が「新熊野」と書いて「いまくまの」と読むのは、紀州の古い熊野に対する京の新しい熊野、紀州の昔の熊野に対する京の今の熊野という当時の都人の認識が、その由来となっています。 その後350年間、当社は繁栄を極めましたが、応仁の乱以降、度々の戦火に見舞われ、一時は廃絶同様の状態になってしまいました。それを再建されたのが、江戸時代初期、後水尾天皇の中宮東福門院(3代将軍徳川家光の妹)で、現在の本殿は寛文13年(1663年)聖護院宮道寛親王(後水尾上皇の皇子)によって修復されたものです。
(「御由緒」より)
帰路も202系統に乗って西大路七条で下車、自宅に着くまで往復90分。
IM嬢からメールの賀状をいただく、添付されていたのは書き初めの色紙、「子」を上手に表現されている。
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雑煮をいただく、餅は暮れに奥川ファームから届いたもの。
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玄関に、新熊野神社でいただいたネズミの親子を飾る。
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友人5組に、年賀代わりの枕宝布(まくらカバー)をレターパックライトに入れて送付。
年賀状のチェック、返信は明日の仕事に。
夜は長男夫婦が来るので私の車を斜め向かいのコインパーキングに入れようとすると・・・ない! そうか、狭い敷地だがひょっとすると、外国人観光客向けの宿泊施設でも考えているのかな?
しかたなく、御前通り東側の駐車場に入れる。
BSプレミアムでは、今日も映画マラソン。朝からオードリー・ヘップバーン、昼から寅さん。録画を流しながら、宴会準備。
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三男が夜勤入りのため、17時30分にスタート。長男夫婦も一緒に6人で乾杯、料理は昨日届いた大丸のお節+手作り煮しめ。楽しい時間を過ごすことが出来た。
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あまり動いたとは思わないが、それでも10,000歩越は満足のいく数字。あすからは、町内ウォーキングに取り組もう。
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lastscenecom · 5 years
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<飛鳥時代> 1 大 化  645 大化の改新 2 白 雉  663 白村江の戦い 3 朱 鳥  672 壬申の乱 4 大 宝  694 藤原京に遷都 5 慶 雲  701 大宝律令制定 <奈良時代> 6 和 銅  710 平城京に遷都 7 霊 亀  712 古事記が完成 8 養 老  720 日本書紀完成 9 神 亀  723 三世一身の法 10 天 平  729 光明子が皇后に 11 天平感宝 741 国分寺建立の詔 12 天平勝宝 743 墾田永年私財法 13 天平宝字 752 東大寺大仏開眼 14 天平神護 754 唐から鑑真来日 15 神護景雲 ― 「万葉集」成立 16 宝 亀  781 桓武天皇が即位 17 天 応  784 長岡京に遷都 <平安時代> 18 延 暦  794 平安京に遷都 19 大 同  802 坂上田村麻呂東征 20 弘 仁  804 最澄、空海が唐へ 21 天 長  806 最澄、天台宗開く 22 承 和  810 唐招提寺五重塔 23 嘉 祥  816 検非違使を設置 24 仁 寿  823 空海、真言宗開く 25 斉 衡  860 石清水八幡宮創建 26 天 安  866 応天門の変 27 貞 観  869 貞観の大地震 28 元 慶  878 元慶の乱 29 仁 和  888 仁和寺金堂建立 30 寛 平  894 遣唐使を廃止 31 昌 泰  ―  平仮名が現れる 32 延 喜  901 菅原道真が失脚 33 延 長  905 古今和歌集編纂 34 承 平  935 平将門の乱 35 天 慶  939 藤原純友の乱 36 天 暦  947 北野天満宮建立 37 天 徳  949 村上天皇の親政 38 応 和  955 後撰和歌集成立 39 康 保  968 東大寺?興福寺 40 安 和  969 安和の変 41 天 禄  ―  浄土教が流行 42 天 延  974 道綱の母「蜻蛉日記」 43 貞 元  ―  日宋貿易始まる 44 天 元  984 最古医術書「医心方」 45 永 観  985 源信「往生要集」 46 寛 和  ― 「日本往生極楽記」 47 永 延  987 宋の商人が来日 48 永 祚  988��尾張国郡司百姓等解 49 正 暦  990 藤原道隆摂政に 50 長 徳  ―  清少納言「枕草子」 51 長 保  ―  紫式部「源氏物語」 52 寛 弘  ― 「和泉式部日記」 53 長 和  ―  拾遺和歌集成立 54 寛 仁  1016 藤原道長摂政に 55 治 安  1019 刀伊の入寇 56 万 寿  1027 藤原道長が死去 57 長 元  1028 平忠常の乱 58 長 暦  1036 後朱雀天皇即位 59 長 久  1040 長久の荘園整理令 60 寛 徳  1047 浄瑠璃寺が創建 61 永 承  1051 前九年の合戦 62 天 喜  1053 平等院鳳凰堂完成 63 康 平  1063 源頼義鎌倉に八幡宮 64 治 暦  ―  孝標の女「更級日記」 65 延 久  1069 延久の荘園整理令 66 承 保  1075 延暦寺?円城寺 67 承 暦  ―  末法思想の流行 68 永 保  1083 後三年の合戦 69 応 徳  1086 白河上皇の院政 70 寛 治  ―  熊野信仰が盛んに 71 嘉 保  1095 北面の武士設置 72 永 長  1105 平泉に中尊寺建立 73 承 徳  1107 源義親の乱 74 康 和  ―  今昔物語集 75 長 治  ―  源氏物語絵巻 76 嘉 承    77 天 仁    78 天 永    79 永 久    80 元 永    81 保 安    82 天 治    83 大 治    84 天 承    85 長 承    86 保 延    87 永 治    88 康 治    89 天 養    90 久 安    91 仁 平    92 久 寿    93 保 元    94 平 治    95 永 暦  1152 平清盛厳島神社修復 96 応 保  1156 保元の乱 97 長 寛  1159 平治の乱 98 永 万  1160 源頼朝伊豆配流 99 仁 安  1167 平清盛が太政大臣 100 嘉 応  1169 後白河上皇が出家 101 承 安  1171 清盛の娘徳子入内 102 安 元  1175 法然が浄土宗開く 103 治 承  1180 源頼朝伊豆で挙兵 104 養 和  1181 清盛が熱病で死去 105 寿 永  1183 倶利伽羅峠の戦い 106 元 暦  1185 壇ノ浦で平氏滅亡 107 文 治  1189 源義経討たれる 108 建 久  1192 頼朝鎌倉に幕府 <鎌倉時代> 109 正 治  1195 東大寺大仏再建 110 建 仁  1199 頼朝53歳で死す 111 元 久  1202 源頼家が征夷大将軍 112 建 永  1203 北条時政執権就任 113 承 元  1204 頼家が暗殺される 114 建 暦  1205 新古今和歌集完成 115 健 保  1212 鴨長明「方丈記」 116 承 久  1213 源実朝「金槐和歌集」 117 貞 応  1219 実朝暗殺、源氏断絶 118 元 仁  1221 承久の乱 119 嘉 禄  1224 親鸞、浄土真宗開く 120 安 貞  1227 道元、曹洞宗伝える 121 寛 喜  1231 寛喜の大飢饉 122 貞 永  1232 御成敗式目制定 123 天 福  ―  京都で猿楽流行 124 文 暦  1235 小倉百人一首 125 嘉 禎  1235 霧島連峰が大噴火 126 暦 仁  1239 人身売買を禁止 127 延 応  1242 「東関紀行」完成 128 仁 治  1244 越前に永平寺建立 129 寛 元  ―  琵琶法師「平家物語」 130 宝 治  1247 宝治合戦 131 建 長  1253 日蓮、日蓮宗開く 132 康 元  1255 東福寺創建される 133 正 嘉  1259 正嘉の大飢饉 134 正 元  1261 日蓮が伊豆に配流 135 文 応  1268 北条時宗執権就任 136 弘 長  1269 モンゴル使者来着 137 文 永  1274 文永の役 138 建 治  1276 博多湾岸に防塁設置 139 弘 安  1281 弘安の役 140 正 応  1285 霜月騒動 141 永 仁  1293 鎮西探題を設置 142 正 安  1297 永仁の徳政令 143 乾 元    144 嘉 元    145 徳 治    146 延 慶    147 応 長    148 正 和    149 文 保    150 元 応    151 元 享  1321 院政を廃止 152 正 中  1324 正中の変 153 嘉 暦  1324 大徳寺創建される 154 元 徳  1330 兼好法師、徒然草 <南北朝時代> 南 元 弘  1331 楠木正成が挙兵 南 建 武  1332 後醍醐天皇流刑 南 延 元  1333 鎌倉幕府が滅亡 南 興 国  1336 湊川の戦い 南 正 平  1338 足利尊氏が征夷大将軍 南 建 徳  1339 後醍醐天皇が没す 南 文 中  1368 足利義満が3代将軍 南 天 授  ―  太平記 南 弘 和  ―  義経記 南 元 中  1391 明徳の乱 北 正 慶    北 暦 応    北 康 永    北 貞 和    北 観 応    北 文 和    北 延 文    北 康 安    北 貞 治    北 応 安    北 永 和    北 康 暦    北 永 徳    北 至 徳    北 嘉 慶    北 康 応 <室町~戦国時代> 181 明 徳  1392 南北朝が合体 182 応 永  1397 金閣寺造営 183 正 長  1399 応永の乱 184 永 享  1419 応永の外寇 185 嘉 吉  1428 正長の徳政一揆 186 文 安  1438 永享の乱 187 宝 徳  1441 足利義教殺害 188 享 徳  1454 享徳の乱 189 康 正  1456 応仁の乱 190 長 禄  1482 銀閣寺造営 191 寛 正  1488 加賀で一向一揆 192 文 正  1493 明応の政変 193 応 仁  1543 鉄砲伝来 194 文 明  1549 ザビエル布教 195 長 享  1553 川中島の戦い 196 延 徳  1560 桶狭間の戦い 197 明 応  1568 織田信長が入京 198 文 亀  1573 室町幕府滅亡 199 永 正    200 大 永    201 享 禄    202 天 文    203 弘 治    204 永 禄    205 元 亀 <安土桃山時代>    206 天 正  1582 本能寺の変 207 文 禄  1600 関ヶ原の戦い <江戸時代> 208 慶 長  1603 徳川家康江戸幕府開く 209 元 和  1614 大阪冬の陣 210 寛 永  1615 大阪夏の陣 211 正 保  1633 鎖国が始まる 212 慶 安  1635 参勤交代制 213 承 応  1636 長崎に出島完成 214 明 暦  1637 島原・天草一揆 215 万 治  1651 由井正雪の乱 216 寛 文  1685 生類憐れみの令 217 延 宝  1702 赤穂事件 218 天 和  1732 享保の飢饉 219 貞 享  1774 解体新書出版 220 元 禄  1782 天明の飢饉 221 宝 永  1783 浅間山大噴火 222 正 徳  1787 天明の打ち壊し 223 享 保  1825 異国船打払令 224 元 文  1828 シーボルト事件 225 寛 保  1833 天保の飢饉 226 延 享     東海道五十三次完成 227 寛 延  1837 大塩の乱 228 宝 暦  1841 天保の改革 229 明 和  1853 ペリー浦賀来航 230 安 永  1854 日米和親条約 231 天 明  1858 日米修好通商条約 232 寛 永     安政の大獄 233 享 和  1860 桜田門外の変 234 文 化  1864 禁門の変 235 文 政  1866 薩長同盟の密約 236 天 保    237 弘 化    238 嘉 永    239 安 政    240 万 延  1867 坂本龍馬暗殺 241 文 久     大政奉還 242 元 治  1868 鳥羽伏見の戦い 243 慶 応     江戸城無血開城 <近現代> 244 明 治  1904 日露戦争 245 大 正  1914 第1次世界大戦 246 昭 和  1945 太平洋戦争終戦 247 平 成  2011 東日本大震災
248番目の新元号発表 大化から平成まで一覧(日刊スポーツ) - Yahoo!ニュース
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xf-2 · 5 years
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いわゆる慰安婦像などが撤去される。記者会見にて、大村・愛知県知事、津田大介監督が明らかにした。大村知事は、事前に展示物について把握していたことを認めており、確信犯であったとして扱うべき状況だ。 津田大介氏は、記者との質疑応答において、(彼らの言う少女像について)「韓国の大使館前にあるものと同一」である旨を認める発言を行った。私も知らなかったのだが、世界には慰安婦像の金型は4つあるそうで、そのうちの一つが日本にあるらしい。確かに鋳型で作るものだから、量産金型が存在するとは思う。そのうちの一つが日本に在るらしい趣旨のことを口走っていた。かつ、今回、展示された慰安婦像は日本で新造されていたものらしい。
記者との質疑応答において、新作であるか否かが問われた。新作?という表現に「え?なんだ?」と感じたのだが、津田氏も最初は少しわからなかった様子。記者より、台座?か何かのパーツが装着され、完全状態で展示できたのは初めてみたいな話があり、私は「え?慰安婦像って、いくつかのパーツがあるの?」と驚いた。部品構成で考えると、金属製の部分と木製の椅子があることはわかる。どうやら、それ以外に台座かカーペットか何か、下部パーツがあるようだ。その部品が何なのかは、私にはわからなかった。 物凄くどうでもいい情報かも知れないが、会見における質疑応答では、「ほぉ、それはトリビア」という情報も飛び出しており、なかなか興味深かった。
これらのパーツが装備されたことで、「新作になるのか?」みたいな質問趣旨であり、記者が再質問していく中でこれらのディテールが明らかになっていった。このあたりの話も含め、記事には一切、書かれていない。
私が感じたのは、「愛知県が、税を投じて展示を続けた場合」には、日本にある量産金型を用いて、日本中が慰安婦像になる危険性があったという恐怖だ。こういう状況にあったことは、会見を聴いていないとわからない。ネット上でも保守も発信していない情報であり、ある意味では貴重だろう。 メディアが配信した記事を論じるだけでは、この分野は足りない。
個人的なトピックとしては。 柴山文科大臣の公式Twitterにて、公開でお返事を頂いた。実はかつて請願の紹介議員になって頂いたことがあり、本当に昔のことだけれどもお会いしたこともある。流石に覚えていないだろうけれど。 一介の市議に対し、公開でお返事を��いたことは嬉しかった。感謝の思いもTwitterで返信したのだが、時代の変化を感じた。
さて、撤去の記者会見だが、まず大村知事が一時間ほど。これを閉じてのち、津田大介氏の会見となった。私はライブで聴いたのだが、大村知事については後半部分を。津田氏の会見はほぼ全てを聴いた。(途中で連絡があった際を除き全て聞いた。)
大村知事の会見において着眼したのは、大村知事が事実上の確信犯であったことが明らかになった点だ。メモ・速記の類をとれていないため、数字に誤りがあれば訂正をお願いしたいが、「四月半ばには展示の方向性、および展示物についても把握していた模様」だ。津田氏らが率いる実行委員会の独断ではなく、知事も了解のうえで実施にしていることが会見で明らかになった。
また、四月の後半であるが、日付けを明示した上で、文化庁の交付決定通知を得ていることも触れていた。この部分は、名古屋市長��らの撤去要請や国費を投じるかについて言及した官房長官との関連で出てきた話だ。 大村知事は、「交付決定を受けている」ことを述べ、事業の実施後(つまりトリエンナーレが終わったのち)、文化庁に対して国費を頂けるよう手続きを行う趣旨の発言を行っていた。 その際には「交付決定を紙で頂いている、日付けも入っている、額も記載されている」と、文化庁の予算をもらえることの正統性を述べていたように感じた。はっきり言えば、”どうしても国費は欲しい!”という思いが透けて見えた。
その際に交付決定を受けたこと、事業として採択を受けたことを論拠のように述べていたが、大村知事は間違っている。キャリアから考えれば、いささか不勉強ではないかと感じた。大村知事は、かつて県連会長も務めているし、国会議員を五期務めている。副大臣や政務官も務めており、内閣を含め行政庁の動きは知っていて当然だ。
文化庁の上級省庁は、文部科学省である。 行政庁としてのトップは、文部科学大臣である。大村知事ではない。予算案は、行政庁である文化庁が提案し、議会が承認して初めて執行される。県知事と県議会も同様だ。交付決定通知の文書は、そのまま予算執行ではない。 かなり初歩的なことであり、何を言っているのかまったくわからなかった。
文化庁として予算案を提案するか否かの権限は、文部科学大臣である柴山先生の職権である。愛知県知事の職権ではない。また、文化庁の官僚が最終決定ではない。有識者会議などの手続きも必要かと思うが、今回の文化庁の事業助成は満額でスムーズに行くとは思えない。 また、最終的には国会の承認という、議決が必要である。これは立法分野の話であり、提案権は行政職である大臣にあっても、最終決定は国会という議会承認が必要だ。衆参両院で与党を占める自由民主党は、党の部会で厳しく本件を追及している。私は、ゼロでいいと思っているが、確実に減額処置はなされるだろう。なされるべきだ。
大村知事は、中止にする理由を安全上の理由などにすり替えていた。実際、テロ予告に相当するようなFAXがあったそうだが、被害届は出していないともコメントしていた。ガソリンの携行缶に言及した内容だったそうで、テロ予告と受け取ったという回答だった。ただし、ニュアンスとしては具体的に示されていたとは考えられず、刑法犯として罪を構成するか否かはわからない。
(私は爆破予告を具体的に受け、被害届を出し、犯人が逮捕され、司法の場でシロクロつけて、かつ議会で取り上げ、議会だよりを用いて市民に報告した。議会に対しては内容証明郵便をもって主張した。)
知事は、会見において「慰安婦像の展示」についての責任は明言しなかった。また、慰安婦像以外の、昭和天皇の御真影を焼く映像についても、日の丸・星条旗を汚損するかのようなドーム状の構造物についても言及はせず、ノーコメントを貫いた。ロジックとしては、芸術や表現については、中身にコミットすべきではないという論法だった。 だが、予算はどうしても欲しい雰囲気で、自分たちは単なる被害者だと言わんばかりの主張を繰り返した。記者らは、ある意味ではグルみたいな論調の社が多いため、そのまま会見は続いた。
このあたりは私なりの分析だが、文化庁の助成がストップすると「足りない分を、県が支出せねばならない」のだろう。そうなると、この状態では県議会がスムーズに通るか自信がなく、県費の増額を嫌ったのではないか?と感じた。愛知県が8億超、名古屋市が2億超の事業であり、文化庁の7800万円は総額からすれば比率は低い。 だが、増額を議会に諮るのは面倒だ。知事も了解のうえで好き勝手にやらせて、国から助成を受けられなかったため、増額してくれと議会に行っても素直にうんとは言うまい。まぁ、単に面倒くさいというだけではないかな。
他、思うことは、文化庁が協賛から離れた場合のダメージだ。3年ごとに開催している芸術祭だが、今回、離れられると3年後の開催にも打撃がある。また、企業協賛も錚々たるメンバーだが、看板として文化庁が使えなくなると、企業協賛も得られにくくなる。金もだが、看板も大事ということだろう。 ただ、交付決定を「紙でもらってる」だとか「額も記載されていた」と、二元代表制で生きる者からすると上から目線というか上滑りしたロジックで必死に強弁する姿はあさましかった。
ならば、慰安婦像をはじめ、昭和天皇の御真影を焼く映像や国旗を侮辱するような展示物について、知事として会見でしっかり言及し謝罪すべきだったように思う。それは認めず、金はくれ、看板も使っていきたい、紙でもらったもんは、ぶっちゃけくそダサいと思った。
そのため、私のターゲットは、文化庁の助成、この部分を目標とし続けることに変更はない。
津田氏の会見について。 正直、ちょっと見直した部分もある。なかなか男らしい部分もあった。思想は相いれないが、わかっている部分はわかっていると思った。 例えば「中止ではなく休止扱いとし、事態の収束後に、再度展示する」などの方法はなかったのか?という趣旨の質問に対し、実行委員会にはそういう思いもあったことを認めた上で、電凸を始めとした抗議活動を沈静化させるためには、「すぱっと中止」するしかない旨、明言。これはネット対策としては正しい対応で、判断としては正しい。 展示物の作者ら、全員からは(撤去の)了承は得られていないことを述べ、私の責任だと芸術監督としての責任で自分が背負うことを述べた。この点も、私には高評価だった。
公共でやるため、企業協賛らへの電凸などが苦しかったことも言及。実行委員会側の応対人数も増加させたが手がまわらず、美術館などにも電話が波及していったことを、苦しそうに述べていた。この部分は、本心だと思う。
記者からは、韓国とベトナムに関する像の話もあった。ライダイハンの像であると推察する。津田氏は、ここにも正面からコメントしており、実行委員会で検討はしたし、天秤を釣りあわせる意味で自分も考えた趣旨のことを正直に述べ、テーマが日本で展示し撤去されたもの、もしくは許可が下りなかったものを対象にしていることを理由に回答した。 ライダイハンの像を設置について、片一方ではなく設置すればよかったのかなみたいな発言もあり、そうしなかったことの全ての責任は自分にある旨、発言し謝罪していた。 (大村知事がひどすぎて、誉めたくもないのだが、津田氏の会見がよく見えてしまったのだろう。)
文化庁の予算の話に戻る。 これは、不採択扱いに変えるなどし、ゼロ回答にすべきだ。少なくとも減額は間違いないだろう。 そうしていく。私は、そう動く。
津田氏は、大村知事ほどにはここは言及していない。官房長官の発言を圧力とか検閲と感じたか?みたいな質問に対し、かなり気を使った回答をしており、そういう意味では文化庁の助成金を重視している空気はあったが、大村知事ほどこだわってはいないように感じた。知事に比較すれば、男らしさを感じた。
だが、予算については気が気ではないのが実情だろう。 今回の芸術祭は、多額の税金が投じられているのみならず、企業協賛も相当にある。何を作るにも予算は必要だが、”芸術家”には対価が払われるようだ。少なくともハフポストの記事では、その趣旨の回答を津田監督はしている。
これらの実行委員会の、反日展示物みたいな製作者にも「対価は払われる」と見るべきだろう。ようは慰安婦像の作者や、昭和天皇の御真影を焼く映像の作者、日の丸・星条旗を汚損するかのような作品の作者にも、だ。 ここは津田氏の友人らで構成されているようで、会見でも素直に応えていたのだけれど、「総額が削られた」場合には、まずしわ寄せが来るのは津田氏の友人たちだろう。
ようは、文化庁の予算が減額されると、県費を簡単には増額できないので、どこかを削らねばならない、と。反日展示物というべき作品の、作者の取り分が大きく減る。 というか、大村知事は名古屋市長のことをかなり悪しざまに述べていたが、名古屋市は素直に金を出すのだろうか。すでに予算は通っていると思うし議決は得られているとは思うが、9月議会で(名古屋市議会でも)ひと悶着ある可能性はあるし、名古屋市長はかなり面白くない思いもしたと思う。
となると、総予算が不足する可能性は高いわけで、 文化庁とビヨンド2020が逃げて、企業協賛が逃げ出すと、いよいよ足りない。 活動家みたいな方が混じっていたとして、行政から金を引っ張ることが難しくなる。
ゆえに、文化庁の予算には、かなりピリピリしているのだろうと私は感じました。 リード文としては長くなってしまいましたが、会見の様子や今日あったことを述べていきます。かつ、抗議先や私たちの効果的な動きを述べます。
本稿は、実際の記者会見の様子や私が政治家として実際に動いたことを述べていくものです。先に述べておきますが、メディアの配信記事をベースに論じているネット保守論壇の意見とは、かなり違うと思います。 で、リアルに即したものであろうと思っています。
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(OGP画像)
最後まで撃ち抜け
担当する職員は、かなり疲弊していることは事実だろう。記者会見でも言及していた。 私は、非常にドライであるので、敢えて第一目標に実行委員会事務局を掲示する。
および愛知県の本庁舎に。 ここは休日だろうから、ほぼ窓口は機能していないだろう。だが、第二目標として掲載を続ける。
人数こそ少ないが、県クラスであれば休日対応もしているはずだ。 (してなかったらごめん。)
抗議方法の雰囲気も少し変えていこう。
弱点は、明示された。 確かに展示物の撤去も実施された。
「日本人なら」という声とか、美徳がどうとかいう話はあるだろう。 だが、それはダメだ。
私が政治家として得た経験と、ある意味では現場指揮官として感じる空気。 ここで、しっかりと振り抜いておくことは重要。
冒頭で津田氏のことを誉めすぎたが、もう一回、誉めておく。 彼がネットを含め、今後も指揮をとることがあるとして、(実際あるだろうが)、彼のためにもなる。
こういうことをしたら、どうなるか。 それは痛感したように思う。
で、どこまで続くのか、というのを脳裏に刻み込んでおかせたほうが、彼のためにもなる。 そして、私たちのためにもなる。
日本人が本気で怒っており、中止しても「いったん、展示したこと」には怒りが静まらないと。
こりゃ国内での展示は無理だな、と。 公共でやるのは無理だ、と。 きっちり思い知らせてやったほうがいい。
恨みとは言わないが、私だってヘイト認定を受けて、総攻撃にあったことがある。 少しでも弱みを見せれば、徹底的にやられてきた。
「あぁ、反撃はされるし、きっちり白旗をあげないと駄目だ」と。
そのためには、弱点を徹底的につくよりない。
抗議の論法
愛知県知事の会見について攻めるべきだ。
津田氏への個人攻撃は控えたほうがいい。
好きにしてくれとは思うが、恰好が悪い。 「あぁ、津田が嫌いだから抗議の電話ね」と扱われると、効果が半減する。
ま、ちょっと可哀想だなって思ったことは私も正直に書いておく。
攻撃��象は、公人であるべきだ。
大村知事は、県の行政トップである。 すでに半壊した津田氏を責める必要はあんまり、ない。 事務局への攻撃が継続すれば、どちらにせよ津田氏へのダメージなる。 (現場の責任者として、疲弊していく電話対応のスタッフを目の前にしているそうだ。)
抗議方法案
愛知県知事の記者会見がひどかった。 テロ予告などは許されないが、抗議が殺到した理由について正面から受け止めたものではない。
文化庁など、国費の投入は絶対に反対である。 我が国の方針に明確に反しており、このシビアな状況で慰安婦像を国内で量産させる危険性すらあった。
その件については一切釈明や謝罪がない。 自分たちは完全なる被害者のように振る舞っており、怒りを感じた日本人が納得できるようなものではなかった。
展示物に対しての抗議が殺到したにも関わらず、その点は明言を避けるなど逃げまくっている。その上で、国費だけはくださいみたいな、あさましい会見であった。
撤去したからいいではなく、芸術祭をこれからも継続していくならば、行政トップとして、原因を明示し、責任を明かし、きっちりと謝罪すべきだ。
みたいな内容でお願いします。
あくまで一案です。
あまり難しいことを言う必要はなく、「撤去したとは言え、あの展示物には傷つきました」ぐらいの短い電話でも結構です。
話せる人は、がっつりやってもOKですが、最終的には抗議の数がいくらとかいうカウントになります。
抗議先
担当する職員は、かなり疲弊していることは事実だろう。 敢えて第一目標に実行委員会事務局を掲示する。
および愛知県の本庁舎に。 ここは休日だろうから、ほぼ窓口は機能していないだろう。だが、第二目標として掲載を続ける。
人数こそ少ないが、県クラスであれば休日対応もしているはずだ。 (してなかったらごめん。)
あいちトリエンナーレ実行委員会事務局
(愛知県県民文化局部文化部文化芸術課トリエンナーレ推進室内)
住所:〒461-8525 愛知県名古屋市東区東桜1-13-2 愛知芸術文化センター内
TEL:052-971-6111(代表)
FAX:052-971-6115
(愛知県) 代表電話:052-961-2111 知事室 :052-954-6000 県議会事務局:052-954-6730
知事室(執行部)には、「何を考えているんだ!」という抗議を行って頂きたい。被害者は日本国民であるという観点で言えば、愛知県民以外であっても良いと思う。 また、議会には「是非、議会で知事部局を質して頂きたい」という依頼の形でお願いします。 ※ 議会は予算を審査する立場のため、双方へのアプローチは微妙に異なる。
(名古屋市) 代表電話:052-961-1111 市議会総務課(庶務係)052-972-2083
※ 名古屋市は、愛知県知事から攻撃を受けるような発言を受けているため、「愛知県知事の発言ってないですよね」「でも、名古屋市も予算だしてますし、それは抗議します」ぐらいで大丈夫。 「減額ってできないんですかね?」ぐらいは言ってもいいかも。
県と違い、休日対応の職員数には限りがあると思うので、できるだけソフトに。名古屋市は攻撃しないように。 月曜日でもいいと思う。
企業は、かなりのクラスの会社もあるため、コールセンターは開いてると思う。 月曜日も継続していこう。ここは、効いていることがわかっている。
助成 ・文化庁 ・一般財団法人 地域創造 ・損保ジャパン日本興亜 ・野村財団 ・一般財団法人 東海テレビ国際基金 ・cooperacion espanola(スペイン国際開発協力機関) 政府機関 ・公益社団法人朝日新聞文化財団 ・芸術・文化による社会創造ファンド ・beyondo2020
協賛の一部を紹介、イオン、シチズン、愛知県医師会、麻生グループ、名古屋競馬、VOLVOに愛知県宅建協会、三菱UFJ銀行、TOYOTAまである。
株式会社豊田自動織機、株式会社百五銀行、愛知県農業土木研究会、NDS株式会社、株式会社LIXIL 中部支社、愛知県私学協会、一般社団法人愛知ビルメンテナンス協会、株式会社コングレ、トヨタ紡織株式会社、公益社団法人愛知建築士会、豊田通商株式会社、日本製鉄株式会社 名古屋製鉄所、東海東京証券株式会社、名港海運株式会社、愛知県農業土木測量設計技術研究会、名古屋商工会議所、株式会社クレディセゾン 東海支社、東和不動産株式会社、ホーユー株式会社、株式会社NHKプラネット中部、名古屋ファッション専門学校、阪和興業株式会社、カフェ コンセッション、興和株式會社、トーテックアメニティ株式会社、アイシン精機株式会社、あいおいニッセイ同和損害保険株式会社、愛知県行政書士会、愛知県舗装技術研究会、伊勢湾海運株式会社、第一生命保険株式会社、株式会社デンソー、豊島株式会社、豊田合成株式会社、日本たばこ産業株式会社 東海支社、三井住友海上火災保険株式会社、学校法人愛知医科大学、愛知県美術館友の会、朝日電気工業株式会社、天野エンザイム株式会社、一般財団法人荒井財団、OKB大垣共立銀行(多すぎるの後略、詳細リンク先)
協賛意外にも、協力という項目があり多数の企業が名を連ねる。 また、会場提供にも多数の企業が掲載されている。
あいちトリエンナーレ2019  122 tweets 3 users協賛・協力https://aichitriennale.jp/sponsor/index.htmlあいちトリエンナーレ2019開催にあたり、ご協力をいただいた皆様を紹介します。
これは、ほとんど掃討戦に近い。
そして、それは重要なことだ。
実績に利用される危険性
公共で展示されたことは、事実だ。
今後、「実績」として悪用されていくだろう。
すでにハンギョレ、朝鮮日報、中央日報が紙面化しており、 謎の阿吽の呼吸を見せている。
記事はすでに在り、使われ続けていくだろう。 ここは確実視されている。だからこそ、私たちは続ける必要がある。
今日の記者会見で、確認する旨表明しました。 https://twitter.com/kotsubo48/status/1157018089780740096 …
慰安婦像が税を投じて芸術祭(愛知)で展示されています。ハンギョレ・KBSが既に報じています。   文化庁の助成事業のようですが、調査をお願いします。事業は、あいちトリアンナーレです。https://samurai20.jp/2019/08/oomura/
もうすっかり利用されています。 きっちりと確認をお願いします。 ハンギョレ新聞http://japan.hani.co.kr/arti/politics/34007.html … 朝鮮日報http://www.chosunonline.com/m/svc/article.html?contid=2019080280008 … 中央日報https://s.japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=256111&servcode=400&sectcode=400 …
「少女像がさびしそうに見えます」子供が手を握ってくれた
[現場]日本最大の国際芸術祭、少女像が初展示 数百人の市民訪れ…「実際に少女の姿が見える」
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日本国内に量産金型が存在していることも明らかになっている。 いまもあるかはわからないが、今回の慰安婦像は日本国内での生産だ。
量産できる可能性は残っており、日本中に慰安婦像が展示されまくる危険性は、まだ除去されていない。 むしろ会見において顕在化した。
和田先生の考えは、もっともだと思います。
津田大介氏は「表現の不自由展その後」について確信的に「公立の部門」で開催したと述べた。国の助成事業で、ある主張の展示を利用しようともくろめば「日本が国として認めた」と利用される可能性が。国民は、展示が過去どういう主張に使われてきたのかを考え声を挙げたのではhttps://ameblo.jp/wada-masamune/entry-12501155839.html …
和田政宗:国の助成事業を利用しようもくろめば、「国として認めた」と利用される可能性が
「あいちトリエンナーレ問題」。 津田大介氏は中止した「表現の不自由展・その後」について、確信的に「公立の美術館や行政の文化事業」で開催したと述べた。 国の助成…
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ちなみに、 大村知事や津田氏は、和田先生を直接的に攻撃することはない。
いま彼らが怖いのは、文化庁の助成金のカットだろう。 官房長官が言及したことには、かなりビビっている(特に大村知事)様子で、会見でも気を使った回答をしていた。
和田先生は、菅官房長官の側近であり、参院選では地元に何度も官房長官が入っている。
ここで和田を撃てば、どうなるかは彼らはわかっているはずだ。 だからこそ、ここは「和田押し」で行こう。
政治家というのは、こういうときに弾よけというか、盾にして進めるための存在でもある。 みんな選挙で力を貸しているわけだから、是非とも利用させてもらいましょう、それは悪いことではない。
和田先生に、少々、被弾しても構わない。 むしろ和田を撃てば、「上が動きやすい」ぐらいに思っていいと思う。 (こんなこと書いたら怒られるかもしれないが。)
じゃんけんぽんで、相手が確実にチョキを出しているときに、 手札にぐーがあるなら、全力でグーのカードを切るのは普通のこと。
和田先生の露出をあげ、RTなどで拡散していこう。
どちらにせよ、和田先生は徹底的に言及して行く。 そもそもCBCテレビが選挙期間にやらかしてるわけで、むしろ躊躇う理由がどこにもない。
斬り込むと思うので、タイミングをあわせて援護射撃を。 (このあたりは、特にアクセス数の大きなまとめサイトやTwitterのインフルエンサーなど。)
文化庁の事業を停止するロジック
ここは大村知事の会見を聴いたうえで策定したロジック。
色んな先生がいると思うので、私のは私の案として。
交付決定がされていること自体は事実であり、通常であれば減額が限界だと思う。 理由は、トリエンナーレはこの実行委員会にも各種の団体が入っており、このような展示物だけではないからだ。例の一派だけの分だけ、減額。 これが普通の考え方。
その上で、ゼロにする方法。
虚偽申請みたいな論法とか、信義則みたいな話はやれる。 大村知事が実行委員会が掲げるテーマであるとか、展示物について把握したのは四月の半ば。決定通知はその後であった趣旨のことを会見で述べていた。
ここは会見をしっかり文字起こしして調査して欲しいけれど、時系列の話。
文化庁が決定をし、書面で採択を伝えた際、大村知事は「把握していた」のだ。 文化庁がこれを把握していたか否かだけれども、把握してなかったと思う。ここは調査が必要だけれど。
その意味では、愛知県が「国をあざむいた」という主張は成立する。 助成の申請をする上で、不誠実だという論法で、事業採択したことが誤まっていたというやり方なら「ゼロ回答」に持って行くことはできると思う。
このやり方は、文化庁の官僚の面子も守るロジック。 ある程度は素直に応じるのではないか。
県知事の、そして県行政の、管理能力の欠如。 芸術監督自身が「炎上する可能性」を想定し、知事も了解したうえで進めていた。
結果として文化庁にもダメージを与えている。 把握しつつも報告せず、文化庁の面子まで潰そうとしたわけだ。
この論法ならば、ゼロ回答を求めることは不可能ではない。
まぁ、それでもいくらかは支給されるだろう。 採択の通知を出しておいて、完全にゼロは正直むつかしい。 だが、ゼロを求めていかねば、減額もできない。
彼らは、自分たちが被害者みたいなことを言っているが�� 文化庁こそ被害者みたいなもので、県知事も芸術監督も好き勝手にやって、 危ないかもな?と思いつつ踏み込んで、見事にドボンしたわけだけど、 巻き込まれた文化庁のほうが被害者だ。
だから、文化庁には「大変でしたね、貴方も被害者ですね」「ところで、嘘つきにはお金あげんでいいと思いますよ?」「国民として、あんな展示物について私の税金を使われたくありません」ぐらいは言っていい。
(文化庁) 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話番号(代表) 03-5253-4111 御意見・お問合わせ
休日はつながらない可能性も高いですが、メールだけでも送ってもらえると、強力な援護射撃になります。
ぼそっと書きますが、協賛、消してくれんかな、と。 その場合は、3年後のトリエンナーレにも影響でてくるし、今後の企業協賛に影響でてくるんですよね。
ぶっちゃけ、バタバタで中止したのって、文化庁の顔色だけじゃないだろうなって。
星条旗の件で外務省とか大使館が面倒なことになって、文化庁も身動きできないような状況になりつつあったとか、そういう話もあったんじゃないかなって。 あくまで推論ですけど。
愛知県の衆議院議員(7区)の鈴木淳司議員の投稿。
下記の二点は注目すべき点だと思います。
>①現状について  本日(8月2日)、文化庁は主催者側と会う予定だったが、急遽キャンセルとなった。今後は未定。したがって、事実関係や今後の対応について確認は取れていない。
> ③今後について 申請の時点で、この展示については申請内容に含まれていなかった。そのため、再度第3者委員会を開き、有識者のご意見を聞いた上で、文化庁として判断したい。
文化庁が実行委員会に「会いたい」というか、会う予定だったらしいんですよね。 それをキャンセルになって、そして中止。
ここで会ってしまうと、どういうことを言われるかわからないし、ある意味では恐れをなして「さっさと中止」にしたという経緯ですよね。
で、知事の記者会見。
ならば、文化庁の助成を吹っ飛ばすロジックで可能だと思います。
このあたりは調査が必要でしょうけれど、それは私の仕事ではなくて、 国会議員と官僚の仕事だと思います。
私がすることは、読者に「さて、国民の声を挙げていきましょう」と呼びかけること。 ゼロにする動きを国会議員がとれるように、環境整備を行っていくことだと思ってます。
時代の変化
少し取り留めもないBlogになってしまったので、最後ぐらいは良い話を。
文部科学大臣が公式アカウントで、公開で返信をくれました。 びっくりしました。
言ってみるもんだな、と思ったのは秘密。
今日の記者会見で、確認する旨表明しました。 https://twitter.com/kotsubo48/status/1157018089780740096 …
慰安婦像が税を投じて芸術祭(愛知)で展示されています。ハンギョレ・KBSが既に報じています。   文化庁の助成事業のようですが、調査をお願いします。事業は、あいちトリアンナーレです。https://samurai20.jp/2019/08/oomura/
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時代の変化を感じます。
私も、御礼はTwitterで書きました。
柴山大臣、ありがとうございます。 よろしくお願いいたします。 柴山先生に請願の紹介議員になって頂いたことがあります。かなり昔のことですが、署名提出時にお会いさせて頂きました。 大臣就任の際、本当に嬉しく思いました。 (私はその後、市議になりました。)http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_seigan.nsf/html/seigan/1772538.htm … https://twitter.com/shiba_masa/status/1157157134313775107 …
今日の記者会見で、確認する旨表明しました。 https://twitter.com/kotsubo48/status/1157018089780740096 …
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柴山大臣、ありがとうございます。 よろしくお願いいたします。 柴山先生に請願の紹介議員になって頂いたことがあります。かなり昔のことですが、署名提出時にお会いさせて頂きました。 大臣就任の際、本当に嬉しく思いました。 (私はその後、市議になりました。)http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_seigan.nsf/html/seigan/1772538.htm … https://twitter.com/shiba_masa/status/1157157134313775107 …
今日の記者会見で、確認する旨表明しました。 https://twitter.com/kotsubo48/status/1157018089780740096 …
他にもいくつか紹介議員になって頂いたと記憶しております。 当時(民主党政権下)、これしか戦う術はないと信じ、かなりの数の請願を作りました。http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_seigan.nsf/html/seigan/1770207.htm … 最初は、誰も紹介議員になってくれませんでした。柴山先生には、本当に助けて頂きました。ありがとうございます。
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tweetでも触れていますが、かつて紹介議員になって頂いたことがあります。 当時は自民は野党で、民主党と戦っていた時代のことです。
国会法に基づく請願というものがあり、直筆署名には限定されますが、実際に下記のように公式に扱われる手法があります。 ロビー活動としては、国民が取り得る最強の手法だと思っています。
(陳情と違い、公式に保存されます。ただし、現職国会議員が紹介議員になる必要があり、事務所との調整作業など事前準備がかなり大変。)
請願名「国旗・国歌法の改正を求めることに関する請願」(衆議院)
請願名「尖閣諸島・沖縄への自衛隊配備と日米同盟強化を求めることに関する請願」
色んな請願を書きました。 えっと、上記の請願は、私が作ったものです。
かなり大変な準備なのですが、単年度に限っていえば日本会議を超えた年もあって。思えばネットのロビー活動とか署名運動のはしりだったな、と。
当時はまだ市議でもなくて。 上京費用とかめっちゃ苦労してて、バイトとかして貯めたお金で行ってた。
最初は紹介議員もなかなかつかなくて。 柴山先生は、かなり初期のころに、ぶっちゃけ何の面識もなかったのにあっさりOKくれた事務所だったと思います。
お会いしたのは一度だけだと思う。 たぶん柴山先生は覚えてないでしょう。
気づけば、柴山先生は大臣になっていた。 ニュースを見たとき、嬉しかったけど、それ以上に驚いた。
当時、紹介議員になってくれた先生なんて、あの頃は若手として扱われていて、中堅とは言えないカテゴリで、党内でもペーペー扱いされてた気がする。 私なんて、市議選に敗れて浪人中、ただの政治少年みたいな存在だった。
熱いハートだけが武器で、野党だった自民は総議席数が70とか80ぐらいじゃなかったかな。30とか40事務所を飛び回るって、ほぼ半数と付き合うみたいな話で。 正直、事務負荷も含めしんどかった。あんまり寝てなかった。いまも、か。
ただ、今でもお付き合いがずっと続いている先生もいる。結構な数、いる。 (Blogにはあんまり書いてない。情報源とかでもあるし、実際に動かすときにさくっとやれるよう、人脈を見せてないほうがスムーズだから。)
みんな、よく付き合ってくれたなぁって。最初の出会いは、基本的に全員、飛び込み営業みたいなやり方だった。(野党自民だからできたことだと思う。)
派閥も基本的には関係なくて、風通しもよかったなぁ、とか。 時代の変化みたいなのは、ここにも感じる。
尖閣の請願とか、いま見ると紹介議員のメンバー凄いなぁ、と。参議院も同じく紹介議員がいるわけで、衆議員だけでこのメンバーか。いまは軽々に声もかけれないや。 (かけるけど。)
どれぐらい昔のことかと言えば、第177回国会は、2011年1月24日に召集された通常国会。会期は8月31日までの220日間。 まだ10年はたっていませんが、思えば昔のことになってますね。
当時、ともに請願を書いた仲間は、TPPのやつは三橋さんと連名だったり。 押し紙のやつは、渡辺哲也さんが共闘してくれたり。あとは、NHKのスクランブル化の請願を作ったのも私だったりします。 いまのロジックの基本政策みたいの、色んなのを作りました。
消防団の福利厚生と防災とか、子供手当の問題を指摘したやつ。あと何を作ったっけ。。。
当時のメンバーも、思えば重鎮みたくなってて、 一部は市議になってたり、一緒にやった仲間が秘書になってたり、 議員会館をウロウロしてると、「あの時、署名したんですよ!」って言われたり。
直筆・郵送というのは、当時はハードルも高かった。 数も集まらなくて、苦労もあった。 いまも活動を継続している同志は、いまや中堅もしくは古参。
同志の市議たちが、ネットを駆使しはじめた今、 「そら、強いわ」と言われているのは、実はここで。 ネットを経由してのリアルの付き合いが、多分、日本で一番古い。
今回も、まるで「見てきたような」というぐらい、 謎の的中率を誇っているような気がするし、読者も感じているだろうけれども、 もしかしたら、愛知県の県職員とか名古屋市職員に私の読者がいたり、かつて署名に協力してくれて人間関係あったりで、事実上の内部リークが続いているなら、「当たるほうが当たり前」かもしれません。
見てきたようなというか、目が凄まじい数あるのかも、です。 ほら、大村知事、津田さん、私は貴方の後ろにいるかもしれませんよ。 というのはジョークですけどね。
もしかしたら津田さんやその周囲の人も見るかも知れないから、ジョーク以外も書いておきます。 この部分、文化庁の助成とか公共とか行政の部分は、私の領域です。 イデオロギー的な論争とか、いわゆる言い合いみたいなやつとか、もしくは政治活動とは違うんですよね。だから貴方たちのフィールドに降りていくこともしない。ここで戦う。
三権分立のうち、行政と立法、 ここにはここのルールがあり、その縛られた世界で私たちは生きてる。 この分野では、この分野のルールがあるんだ。
どんなにロジックをすり替えても意味はない。 私は芸術はわからないし、その分野では貴方には叶わないだろう。けれども、この分野の内部手続きであったり、動き方、指揮の仕方では負ける気はまったくしない。 どうこう言っても仕方ないんだ。炎上させたり、メディアが叩いたり、かつてはそれで倒せたかも知れないが、時間をかけて私たちも経験を蓄積してきた。
端的に言っておきますが、どうにもならんよ。 津田さんは、かなり知事に敬意を払っているようですが、このままでは知事も焼け落ちる。 事務局メンバーの疲弊だけでは済まない、ということは述べておきたい。
それが公共を巻き込むといことの重みで、軽々にここに来られても困るというのは、今からまだ思い知ることになるだろう。 私たちにも公人としてのプライドがある。
覚えておいて欲しい。 政治は、怖いよ。そして、少なくとも俺は怖いタイプの政治家だと思う。 ジャーナリストとして、外部から撃つことに慣れ切っていて、どこかで政治家なんて怖くないって思ってたんじゃないかな。
正面から政治そのものと戦ったことはなかったと思う。 安全地帯から撃つのと、真正面から斬り合うことは、違うんだ。痛みを伴う。
今回、こちらの陣営が押してる。 戦局全体を見渡せば、いまの推移は悪くない。
ふと昔のことを思い出した。 苦しい戦いばかりだった、厳しい戦線ばかりだった、 理解なんてされなかった。
淡々と事務方として戦う戦場、孤独と一���、 いまみたいにチヤホヤ(?)されることもなくて、保守=変なやつという括り。 リアルで顔出しでやってる人間なんて極一部で、実名型のネットロビイストだともしかしたら最古参かもしれない。
ネット保守の組織化を訴え、ロビイストとの重要性を説いた。 時代は行動する保守の全盛期で、見た目に綺麗な活動を主としてたら、腰抜け扱いされて味方に撃たれたり。
柴山大臣から返信をもらって、請願のことを思い出した。 時代の変化を感じる。
いま、保守派はある程度の組織化ができてきた。 私にも後輩市議ができており、各地に中核となる政治家が誕生してきた。 統制射撃みたいなこともできるようになり、足並みを揃えた動きもできるようになった。
最初は、一人だった。
あと少しだ。
きっちり、最後まで行こう。
まだ戦術的勝利に過ぎず、戦略的勝利には至っていない。
ここでしっかりと撃っておく。
共に、皆で、一歩を踏み出していこう。
盾には、私たちがなる。続け!
最後まで戦う人は、FBでのイイネ・シェア、Twitterでの拡散をお願いします。
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作者:冯天瑜
有一种说法颇为风行:近代中国所用新名词多半来自日本,若无日本名词,现代国人无法说话作文了。此议似是而非,需要辨析,以明底里
借词必需
汉语是一种开放的语言系统,古来即有采借外来语的传统,早期汉译外来语不少,如葡萄、茉莉之类。由于近代文化是在中西冲突与融会间生成发展的,故作为关键词流行的近代术语,广为采撷西洋概念,不少具有借词身份。
中华文明沿袭数千年不曾中辍,原因之一,是作为形音意三者得兼的汉字词(名)丰富且词义相对稳定。今人阅读两三千年前的先秦两汉古文,借助工具书,领会其意并无大碍。
汉字文化又不断邂逅外来语,与之互动,获得源头活水。如在魏晋隋唐间,吸纳大量源自南亚的佛教概念,组成若干反映佛法的汉字新名,诸如法、空、禅、世界、现在、觉悟等,渐成汉字常用词。
时至近代,汉字文化又与西方文化相交会,知识量迅猛增长,反映新知识的概念井喷般涌现,经由“方言超升,古语重生,外国语内附”等途径,借助汉字将新概念“词化”,生成批量新名,汉字旧名也得以更化新生。对于此一演变态势,语言学家王力述评道:“佛教词汇的输入,在历史上算是一件大事,但是,比起西洋词汇的输入,那就要差千百倍。······从词汇的角度来看,最近五十年来汉语发展的速度超过以前的几千年。”王力此言之后,又过去40年,其间汉语词汇的发展更甚于前50年。有人统计,时下每年新增汉字词达三四百个之多。
由于日本明治维新学习欧美近代文化有成,作为汉字文化圈一员的日本与中国相互借助,利用汉字翻译大量欧美词汇(主要是学科术语),这些新名随日译西书传入清末民初的中国,故近代中国通用的关键词,不少是在中—西—日三边沟通中生成的。
借词以新名形式进入借方语言,增加语言数量,丰富语言表现力,是语言作跨文化旅行的表现。汉字具有强劲的表意性。每一个汉字不仅是一个音符,同时还具有特定的义位,而且汉字往往一字多义,可供翻译时选用。意译词能发挥汉字特有的表意性,昭示其文化内蕴,有时音译+意译,如啤酒、卡片、霓虹灯、绷带等;连音译也往往择取音意兼顾的汉字组合成词,如逻辑、维他命、可口可乐等,以及近年出现的奔驰、黑客、迷你裙、托福之类,在表音的同时,又提供某种意义暗示。严复在音译Utopia时,取“乌托邦”三字,在对音之外,又可从这三个汉字中产生“乌有寄托之乡”的联想,以眑示“空想主义”意蕴。这些音意合璧译词,是充满睿智的汉字文化的绝妙创作。
通过借词以创制新名,是一种普遍的社会语言现象。王国维积极评价新语的借取,“周秦之语言,至翻译佛典之时代而苦其不足;近世之言语,至翻译西籍时而又苦其不足。······处今日而讲学,已有不能不增新语之势;而人既造之,我沿用之,其势无便于此者矣。”
百年过去,“新语之输入”有增无已,而诸如科学、民主、自由、经济、文学、艺术、封建、资本、教育、新闻、物理、化学、心理、社会、革命、共和、政党、阶级、权利、生产力、世界观、社会主义、知识分子等学语的确立,都是在古今演绎、中外对接的语用过程中实现的。这些汉字新名,词形是汉字文化固有的,词意大都受中国和西方双重因素的影响,日本因素也参与其间。故追溯汉字新名的源流,考察作为现代人思维纽结的新概念的生成机制、发展规律,将展开中—西—日文化多边互动的复杂图景,彰显近代思想文化的网络状历程。
语文互动
古代日本从中国进口包括大量汉字词在内的汉字文化系统,此为确论,无须赘述。一种流行说是,文化传播方向上,近代中日间发生逆转,仅就词语而论,日本便从输入国变成输出国,中国则由文化供应源转为文化受纳处。
此说有粗疏之弊,略做历史分期,应当作如是说:近代早期(中国的明清之际及清中叶,日本的幕末明初),文化传播方向的主流,仍是中国通往日本;至近代后期,日本因明治维新成功,研习西学的水平反超中国,其表现之一是清末民初中国从日本引入大量译介西学概念的新名词。张之洞称“日本名词”,林琴南称“东人之新名词”,刘半农称“东洋派之新名词”,20世纪50年代语言学者称其为“日语借词”。
近代中国使用的反映新知识的新名固然不少来自日本,但称多半为“日语借词”,则过甚其词。笔者以下将陈述此种夸张之误,绝非要给“词汇民族主义”张目,不是为了证明“老子先前比你阔”,以获得阿Q式的“精神胜利”,而是从近代汉字文化史实况引出的结论。
甲午中日战争的惨败,促成国人“大梦初醒”,决意向强敌学习,自1896年开始派遣青年学子赴日,研习经日本人消化过的西学。此后十余年,渐成留学东洋高潮。经中日两国人士的努力,尤其是数以万计的中国留日学生的转输,汉字新语从日本大量涌入中国。康有为1897年撰《日本书目志》,收录大量日制学名,如经济学、伦理学、人类学、美学等,一时朝野注目。
清民之际从日本入华的汉字新名,有如下几类:(1)音译词(瓦斯、俱乐部等)。
(2)日本训读词(入口、手续等)。
(3)日本国字(腺、膣等)。
(4)日文译语(基于、对于等)。
(5)将中国古典词原义放大、缩小或转义,以对译西洋概念。(如“现象”本为汉译佛语,意为佛、菩萨现出化身,日本哲学家西周为其注入新义,成为与“本质”对应的哲学术语。)
(6)运用汉字造词法创制新词,以对译西洋术语。
上述几类词语有些确乎源自日本,如(1)至(4)类,但数量更大、更为重要的(5)(6)两类,多不能以“日源词”一言以蔽之,因为其中若干新名另有来历——
(1)源出中华古典
清民之际被认作是从日本入华的大批汉字词,如自由、社会、科学、卫生、小说、机器、参观、代表、单位、发明、反对、范畴、现象、革命、共和、讲师、教授、博士、悲观、标本等,究其原本,多来自中国古典词库,是晋唐宋明以降从中国传至日本,近代经日本改造后作为西学译名“逆输入”中国的,称其为“侨词来归”比较恰当。因为它们本为中国旧词,在中土语用已然千百年,后侨寓日本,领受外来文化洗礼,近代作为“侨词”回归中国汉语系统。
(2)来自在华编译、出版的汉文西书
还有一批反映近代学科概念的汉字新名,如植物学、物理学、地球、热带、温带、冷带、寒流、暖流、细胞、大气、真理、公理、定理、比例、权利、立法、选举等,曾被误以为是“日源词”,实则非也。它们是在明清之际和清末这两个时段,由西方传教士与中国士人合作,以“西译中述”(西方人口译,中国人笔述)方式在中国创制的,先后于江户中后期和明治前中期传至日本,其载籍为在中国刊印的早期汉文西书(明清之际成书)与晚期汉文西书(清中末叶成书)。
(3)晚清“开眼看世界”中国人的创制
清道咸年间国门初开,一些先进的士人渴求新知,借助汉译西书、西报,撰写一批介绍西事、西学的书籍,著名者有林则徐主持编译的《四洲志》、魏源编纂的《海国图志》、徐继畬编纂的《瀛环志略》等。这些书籍在介绍外域情事、学术时,译创了一批史地类、政法类、科技类汉字新名。这批书籍在本国遭受冷遇,而传至幕末明初日本,洛阳纸贵,多次翻印,幕末维新志士吉田松阴称“魏源之书大行我国”。这些书译制的汉字新名随之播传于日本,日人广泛使用之余,还引为译制汉字新名的范本。如《海国图志》的报纸译名“新闻纸”,美国元首译名“大统领”,皆被日本人采用,通行至今。
总之,上述几类汉字词,有的并非“新语翩至”,而是“旧词复兴”,或曰“古典词革新”;有的不是“日词入华”,而是“侨词来归”;还有不少新名产地在华不在日,日本只是中转站。因而,把它们一概视作“日语借词”,不符历史实际。从语源学角度论之,必须恢复上列三类词语的“中国首创”“翻新古典”及“回归侨词”身份,并论析翻新始末,输出与逆输入过程,考查中—西—日三边互动间的因革及传递转换情形。
互为师生
我们不应轻忽幕末明治日本发展汉字文化的重大贡献。近代日本创制一批汉字新名;大量选取汉语古典词翻译西洋术语;普及词缀化用法,如前缀(如老~、小~、第~、非~)与后缀(如~者、~力、~性、~化),又借鉴西式语法,丰富了汉字语用,对白话文运动及汉语的现代化进程起到推动作用。这一劳绩必须肯认,却又不能因此对汉字新名的语源张冠李戴,一概让与日本。
笔者以为,近代日本对汉字文化发展的促进,主要并不在于提供了多少新词,而在于终结汉字新名的散漫无序、自生自灭状态,界定了中国自创、或由日本制作的新名的古典义、现代义、世界义,并使之贯通,汇入学科体系,并通过学校教育、社会教育,为汉字文化构筑现代性知识系统提供语文基础。这项极有意义的工作,既非中国、也非日本单独完成,而是16世纪末以来的三百余年间,中—西—日三边互动的结果,中国人与日本人在此间互为师生,交相更替创作者与学习者身份,而欧美传教士在中国士人协助下的译创之功也至关紧要。
自严复等兼通中西语文的译者出现以后,中国逐渐减少借助日译西书,而直接译述西学,根据英、法、德、俄诸文本译创汉字新名。日本的“二传手”功能下降,但明治时代日本新语的效用并未中止,其某些优势继续张扬,如严复“一名之立,旬月踌躇”,苦心孤诣译创的“计学”“群学”“母财”“脑学”固然准确、典雅,却不及日译汉字新语“经济学”“社会学”“资本”“心理学”明快易懂,故在近现代中国流行的,少有严译词而多为日译词。
直至当代,日本词汇传入中华还在进行中。时下流行的新词,如“达人、人气、人脉、完败、完胜、物流、研修、职场、熟女”等皆为日制词。
日本译词虽有便捷易用的优点,但不应忽略,这些日本汉字词多半源自汉语古典,或用汉语构词法创制,皆与中国文化保有深刻的渊源关系。新近一例颇能说明问题。2019年5月1日,日本天皇更替,新年号“令和”。官方解释此名是从日本最早的和歌集《万叶集》卷五《梅花歌卅二首并序》“初春令月,气淑风和”句中择字组成,并宣称这是第一个典出日本古籍的年号。这显然有文化“脱中”用意,但经考索却适得其反。公元8世纪成书的《万叶集》“初春令月,气淑风和”句,脱胎于东汉科学家兼辞赋家张衡公元2世纪初作品《归田赋》的“仲春令月,时和气清”,而张衡又参酌了先秦典籍《仪礼·士冠礼》“令月吉日”句式。日本使用的汉字词汇,多源出中国古典,这是不必也不可回避的历史实际,日本近代翻译西学时创制汉字新语,深植中华文化土壤,这是不可忘却,更不能斩断的历史脉络。
综论之,中日之间的语文交际,呈一种互为师生的关系,今人不必作偏执一端的估量。中日两国协力共创的语文成果,是丰厚的文化财富,至今仍在中日双方发挥作用,并且构成当下及今后语文建设的坚实基础。
(作者为武汉大学中国传统文化研究中心教授)
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原文链接:冯天瑜:多半来自日本的近代中国新名词又是从哪里来的? - 新闻评论
本文标签:中国, 中日, 文化, 日本, 汉字, 汉语, 词汇, 语文, 语言
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2007/1/27                          再生核研究所 代表                            齋藤 尚徳
2007/1/27
                         再生核研究所 代表
                           齋藤 尚徳
                         
再生核研究所声明について:
  再生核研究所声明1: 良い社会を作るには
再生核研究所声明2: 中国古代の教育
再生核研究所声明3: 最低生活の保障を求める
再生核研究所声明4: 競争社会から個性を活かす社会に
再生核研究所声明5: 靖国神社問題に対する提案
再生核研究所声明6: 憲法問題に対する提案
再生核研究所声明7: 参議院選挙に当たって
再生核研究所声明8: 日本国の防衛の在り方について
再生核研究所声明9: 天才教育の必要性を訴える
再生核研究所声明10: 絶対的な世界の平和の為に
再生核研究所声明11: 国の構成について
再生核研究所声明12: 人生、世界の存在していることの意味について 
再生核研究所声明13: 第1原理 ― 最も大事なこと
再生核研究所声明14: 日本の政局についての提言
再生核研究所声明15: 空虚な日本の社会
再生核研究所声明16: 裁判員制度の修正を求める
再生核研究所声明17: 教育界の改革を求める
再生核研究所声明18: 拉致問題の解決に向けての提案
再生核研究所声明19: 超越への道、悟りへの道
再生核研究所声明20: 大学入試センター試験の見直しを提案する
再生核研究所声明21: 人口問題についての考察
再生核研究所声明22: 小沢氏の続投による政権交代を求める
再生核研究所声明23: 秘書の逮捕、起訴事件における検察庁の対応と公正の原則
再生核研究所声明24: 政権交代によって閉塞感を打破し、日本国を再生させよう
再生核研究所声明25: 日本の対米、対中国姿勢の在りようについて       
再生核研究所声明26: 衆議院の解散に当たって
再生核研究所声明27: 政権交代を祝す、配慮と期待
再生核研究所声明28: 鳩山首相と鳩山首相の実母に、情状酌量を求める
再生核研究所声明29: 普天間基地問題 ― いまだ 夜明け前
再生核研究所声明30: 検察庁の暴走と民主主義の危機 - 広い視点
再生核研究所声明31: 法の精神と - 罪と罰
再生核研究所声明32: 夜明け ― ノアの方舟
再生核研究所声明33: 民主主義と衆愚政治
再生核研究所声明34: 日本のビジネス―日本料理店の海外展開
再生核研究所声明35: 社会と個人の在りよう―細胞の役割
再生核研究所声明36: 恋の原理と心得 
再生核研究所声明37:金正日を世界史の英雄に朝鮮問題に関心を寄せる世界の人々に
再生核研究所声明38:ロッキード事件のもみ消しについて
再生核研究所声明39:普天間基地問題の総括 ― 戦略なき対応と文化力
再生核研究所声明40:政権交代とその後の政局
再生核研究所声明41:世界史、大義、評価、神、最後の審判
再生核研究所声明42:大失業時代
再生核研究所声明43:政権交代は半ば、完全なる交代を求める―中途半端は良くない
再生核研究所声明44:梅の木学問と檜学問-日本の研究者育成についての危惧
再生核研究所声明45:第2次世界大戦と第3次世界混乱
再生核研究所声明46:日本国の1つの国家像、あるべき姿について
再生核研究所声明47:肯定死
再生核研究所声明48:与謝野氏の大臣就任を是とし、高く評価する
再生核研究所声明49:アジアの愚か者、アジアの野蛮性
再生核研究所声明50:日本における 民主主義の脆さ、危うさ
再生核研究所声明51:ツイッターにおける 意義と心得
再生核研究所声明52:選挙における心得、留意事項
再生核研究所声明53:世界の軍隊を地球防衛軍に 
再生核研究所声明54:リビア軍事介入について 
再��核研究所声明55:皇族方の東京避難を求める
再生核研究所声明56:アースデイの理念
再生核研究所声明57:人生とは何か、人生如何に生きるべきか
再生核研究所声明58:日本の政局、民主党最後の決断、自民党の低落
再生核研究所声明59:鳩山政権の総括と反省
再生核研究所声明60:非凡な才能を持つ少年・少女育成研究会
再生核研究所声明61:ビンラディン氏殺害 
          ― アメリカの名誉と大義を傷つけたオバマ大統領
再生核研究所声明62:福島原子力発電所事故とその対応、対策、取り組みについて
再生核研究所声明63:解脱;神、自由、不死への道 - 安らかに終末を迎える心得
再生核研究所声明64:期待される日本軍の在り様 情報分析力の向上と災害救助の重視を
再生核研究所声明65:公務員の給与の段階的な引き下げと管理手当てなどの大幅引き下げを
再生核研究所声明66:言論の自由を篤く保障し、実りある議論のできる社会に
再生核研究所声明67:脱原発デモ ― 非現実的な貧しい二律背反の発想と飛躍した議論
再生核研究所声明68:生物の本質 ― 生きること、死ぬること
再生核研究所声明69: 単細胞人間 ― 単細胞的思考
再生核研究所声明70: 本末転倒、あべこべ ― 初心忘れるべからず
再生核研究所声明71: 菅 暗黒政権 を総括する
再生核研究所声明72:慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則
再生核研究所声明73:日本国首相の役割
再生核研究所声明74:人生・生命の肯定について
再生核研究所声明75:政治・経済の在りようについて
再生核研究所声明76:教育における心得 ― 教育原理
再生核研究所声明77:人生における心得
再生核研究所声明78:無責任な 原発反対と増税反対 ― 実状が分からないで意見を表明していないか?
再生核研究所声明79:福島原発事故 とは 何か
再生核研究所声明80:挑戦とは何か
再生核研究所声明81:最高裁判所裁判官全員の罷免を提案する
再生核研究所声明82:皇室の在りようについての 一考察
再生核研究所声明83:再生核研究所声明とは 何か
再生核研究所声明84:国会審議における心得 - 討論、議論、批判における心得
再生核研究所声明85:食欲から人間を考える ― 飽きること
再生核研究所声明86:未だ おめでたい人類 - 先史時代
再生核研究所声明87:小沢氏の裁判問題 ― 司法界とマスコミ界に断罪を
再生核研究所声明88:大学教員の退職後の在り様についての一考察
再生核研究所声明89:失業問題の根本的な解決法と 心の豊かさを求める原理
再生核研究所声明90:日本の大学受験体制についての一考察
再生核研究所声明91:創造性についての一考察
再生核研究所声明92:日本の政局を憂える ― 国論の分裂を避けよ
再生核研究所声明93:国家とは何か,首相について -統治機構としての国家について
再生核研究所声明94:日本国よ こんなことで良いのか ― あまりにもおかしな 日本国 ― 中国に大義あり、日本国の侵略は歴然
再生核研究所声明95:究極離散化法 (ADMmath: Aveiro Discretization Method mathematics)について
再生核研究所声明96:小沢氏に期待する、日本の針路と戦略、行動
再生核研究所声明97:虚妄、空想、日中戦争の分析と顛末
再生核研究所声明98:矛盾、日中は戦争状態にある ― 
日本はそんことをしていて良いのか、 原因を取り除け
再生核研究所声明99:死の肯定、在りよう、儀式、将来への提案
再生核研究所声明100:2つの多変数複素解析学について
再生核研究所声明101:慰安婦問題 ― おかしな韓国の認識、日本の認識
再生核研究所声明102:成果主義の弊害について
再生核研究所声明103:日・中戦争の経過と状況の分析 ― 賢明な終戦と和平 
再生核研究所声明104:人事採用、昇任について
再生核研究所声明105:人間の愚かさ、弱点について
再生核研究所声明106:無限精度 解析センター の設立を求める
再生核研究所声明107:悲しい政権交代の挫折と まともな国家を目指して; 総選挙を控えて、政局を評価する。― 小沢氏の復権、偏狭的な愛国主義と軍国主義の処断、司法界の断罪、憲法の精神への回帰を
再生核研究所声明108:敗戦国日本よ、 情けないぞ ― 自主独立を求め、米・中との友好関係を 日本国憲法の精神で進めよ。 アメリカは、日本の自治を尊重して、政治介入を控えよ。
再生核研究所声明109:中国の出軍は、道理であり、日本の出軍は憲法違反である - 公正と法とは何か、おかしな日本のNHKと世相
再生核研究所声明110:東京オリンピック開催どころではない、日本の国情 ― 大震災、放射能、原発事故対策、生活・教育・研究基盤などの内実に力を注げ
再生核研究所声明111:日本国憲法によって、日本国および日本軍を守れ、― 世界に誇る 憲法の改悪を許すな
再生核研究所声明112:公理系からの脱却、論理的思考、逆思考によって、視野を高め、広めよ ― 平成暗黒時代を このまま終わらせて 良いものか
再生核研究所声明113:美しい人たちの活かされない努力、無駄な努力 
― ソーシャルメディア利用、デモ; 戦略が無ければ、夢中で訴えても 空しい努力に
再生核研究所声明114:ああ 人類最後のとき — 世界史を回想、評価する
再生核研究所声明115:枯れ木も山の賑わい ― 現状と存在に理由あり
再生核研究所声明116:宇宙空間、星間交流から人間を考える
再生核研究所声明117:時,状況が問題; タイミングの重要性 、死の問題、恋の問題
再生核研究所声明118: 馬鹿馬鹿しい人生、命失う者は 幸いである、 と言える面もある 
再生核研究所声明119: 冷酷な神々、自然  ―  見捨てられた 人類
再生核研究所声明120:終末の在りようについての 総合的な検討を、遅れている面での 文化を進めよう ― 個人の自由意志の尊重に基づく  肯定死の保証 と 方法の確立を
再生核研究所声明121:2013年、参議院選挙にあたって ― 闇に向う、日本の愚かさ、民主主義の挫折、衆愚への道、情けない日本国。
再生核研究所声明122:神の存在と究極の信仰 - 人間よ 想い煩うことはない。 神は存在して、一切の存在と非存在を しっかりと支えられておられる、 人は必要なときに必要なだけ、 念じるだけで良い。
再生核研究所声明123:日本国の自立を求めて ー なぜ自立を求めるか -それは、 日本の固有の美しい文化を維持、発展させるためである
再生核研究所声明124:恋の機微 - 恋の極意
再生核研究所声明125:お金の問題 ― 貨幣について ― 本質論
再生核研究所声明126:お金の問題 ― 貨幣について ― 如何に使うか、支出について
再生核研究所声明127:お金の問題 ― 貨幣について ― 収入について
再生核研究所声明128:数学の危機、 末期数学について
再生核研究所声明129:美しい社会はどうしたら出来るか ― 世の中なぜ上手く行かないか
再生核研究所声明130:復讐心も、競争心も、嫉妬心も空しい: 忠臣蔵の断罪を求める。― 世界中のテロリストをなだめる方法(宗教間と民族間)
再生核研究所声明131:シリア軍事介入についてー日本の対応姿勢
再生核研究所声明132:神を如何に感じるか - 神を如何に観るか 
再生核研究所声明133:2020年 東京オリンピックとパラリンピックの開催について - オリンピックを成功させ、平和憲法の精神の下で、日本は進化を
再生核研究所声明134:私の命よりも 大事な 私 ― 人間の崇高さ、素晴らしきかな 人間
再生核研究所声明135:線形作用素方程式における第一基本定理
再生核研究所声明136:線形作用素方程式における第二基本定理
再生核研究所声明137:世界の危機と 権力者の選出
再生核研究所声明138:大中国、中国の印象 ― 母なる大国、中国に
再生核研究所声明139:正義とは 戦争における; 短期的には 勝者が決めるが、世界史が評価の大勢を定める
再生核研究所声明140:数学の神秘性: 一考察 (誰かこの考察、議論を進めて欲しい。)
再生核研究所声明141:結局、人間とは、人生とは 何だろうか、どの様なものか
再生核研究所声明142:An Aveiro Dream in Mathematics
再生核研究所声明143:グローバリゼーションの危険性
再生核研究所声明144:人類滅亡の概念 - 進化とは 滅亡への過程である
再生核研究所声明145:生きること、人間として在ることの 究極の意義 についての考察
再生核研究所声明146:愛の本質、愛の原理 
再生核研究所声明147:創造性についての 第二考察
再生核研究所声明148:100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
再生核研究所声明149:生きること、生命の本質、活動して止まないもの
再生核研究所声明150:大宇宙論、宇宙など小さい、小さい、the universe について
再生核研究所声明151:再生核研究所の志向と協力、参加へのお願い
再生核研究所声明152:研究活動に現れた注目すべき現象、研究の現場
再生核研究所声明153:日本国の危機 と 祖国救済の戦略
再生核研究所声明154:新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方
再生核研究所声明155:生きる意味は 文学者にも分からない??
再生核研究所声明156:尖閣諸島、簡単な算数と 愚かで卑劣な日本国
再生核研究所声明157:知りたい 神の意志、ゼロで割る、どうして 無限遠点と原点が一致しているのか?
再生核研究所声明158:生命と人生
再生核研究所声明159:恋する男女は強い - 何故か?―幸せの基礎
再生核研究所声明160:人生の晩年における楽しみ - 終末、もっと爽やかに考えたい
再生核研究所声明161:ゼロ除算から学ぶ、数学の精神 と ���理の追究
再生核研究所声明162:アヴェイロ ― エデンの花園
再生核研究所声明163:ゼロで割る(零除算)- 堪らなく楽しい数学、探そう零除算 ― 愛好サークルの提案
再生核研究所声明164:男と女の関係の捉え方 ― 新しい視点
再生核研究所声明165:世論について
再生核研究所声明166:ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
再生核研究所声明167:大学などで アカデミックなポストを得る心得
再生核研究所声明168:霧の中 ― 環境の中の人間、盲目、偏見
再生核研究所声明169:サッカー観戦の印象 と 日本チーム強化の戦略
再生核研究所声明170:NHK連続テレビ小説「花子とアン」― 蓮子様の気持ち
再生核研究所声明171:掛け算の意味と割り算の意味 ― ゼロ除算100/0=0は自明である?
再生核研究所声明172:人間の愚かさについて
再生核研究所声明173:愛が無ければ観えない
再生核研究所声明174:狼の輸入によって、生態系の維持を図れ
再生核研究所声明175:人間の擁く 大きな虚像
再生核研究所声明176:ゼロ除算について、数学教育の変更を提案する
再生核研究所声明177:国際紛争を少なくするための 単純明快な原則 を提案する
再生核研究所声明178:アラブとイスラエルの紛争、対立の終焉を願って
再生核研究所声明179: Division by zero is clear as z/0=0 and it is fundamental in mathematics
再生核研究所声明180:人類の愚かさ ― 7つの視点
再生核研究所声明181:人類の素晴らしさ ― 7つの視点
再生核研究所声明182:世界、縄張り、単細胞、宇宙
再生核研究所声明183:野生動物と人間
再生核研究所声明184:ライブということ
再生核研究所声明185:The importance of the division by zero z/0=0
再生核研究所声明186:ニュースの価値について
再生核研究所声明187:工科系における数学教育について
再生核研究所声明188:ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
再生核研究所声明189:ゼロ除算の研究の勧め
再生核研究所声明190:再生核研究所からの贈り物 ― ゼロ除算100/0=0, 0/0=0
再生核研究所声明191:公理系、基本と人間
再生核研究所声明192:無限遠点から観る、人生、世界
再生核研究所声明193:夜明け、新世界、再生核研究所 年頭声明
再生核研究所声明194:大きなイプシロン(無限小)、創造性の不思議
再生核研究所声明195:ゼロ除算に於ける高橋の一意性定理について
再生核研究所声明196:ゼロ除算に於ける山根の解釈100= 0x0について
再生核研究所声明197:真智への愛とは何か
再生核研究所声明198:計算機と人間の違い、そしてそれらの愚かさについて
再生核研究所声明199:世界の数学界のおかしな間違い、世界の初等教育から学術書まで間違っていると言える ― ゼロ除算100/0=0,0/0=0
再生核研究所声明200:ゼロ除算と複素解析の現状 ―佐藤超関数論との関係が鍵か?
再生核研究所声明201:ドラマ、言論、文芸、世相、関心を 近未来志向にしよう
再生核研究所声明202:ゼロ除算100/0=0,0/0=0誕生1周年記念声明 ― ゼロ除算の現状と期待
再生核研究所声明203:人間とは何か、人生とは何か
再生核研究所声明204:世界史を進化させる 世界に誇れる、平和憲法の擁護を 提案する
再生核研究所声明205:宿命論
再生核研究所声明206:女性の生態、主婦の生態
再生核研究所声明207:男性の生態、亭主の生態
再生核研究所声明208:NHK 朝ドラ マッサン ― 許されない約束違反、公共放送としての問題
再生核研究所声明209:政治的な配慮 ― 悪の素 ―社会の進歩とは
再生核研究所声明210:大学入試ミスにおける対応について
再生核研究所声明211:ドラマとは何か ― 人の心を弄ぶドラマ 
再生核研究所声明212:What are reproducing kernels?
再生核研究所声明213: An interpretation of the identity 0.999999...... =1
再生核研究所声明214: Surprising mathematical feelings of a 7 years old girl
再生核研究所声明215:ゼロ除算の教え
再生核研究所声明216:死について、死からの解放について
再生核研究所声明217:ご自愛を ― 健康第一
再生核研究所声明218:興味、関心、感動;人間とは
再生核研究所声明219:報道における理系関係の充実を
再生核研究所声明220:戦争に関する心理について
― 絶えず平和のための努力を
再生核研究所声明221:ある数学者の仏教解説
再生核研究所声明222:日本の代表的な数学として  ゼロ除算の研究の推進を求める
再生核研究所声明223:人生の目的は、自然を愛でて楽しみ、ともに喜び合うこと ― 二十一世紀の壮大なロマン
再生核研究所声明224:郵便ポストの適正配置を求める提案 ― ゴミの無責任な投棄を止めよう
再生核研究所声明225:偉大な数ゼロ ―ゼロの教え
再生核研究所声明226:真実のともし火を消してはならない ― 中丸薫著 を読んで
再生核研究所声明227:日本の仏教の在り様についての疑問、キリスト教との奇妙な違い
再生核研究所声明228:選挙制度の在り様についての具体的で簡単な提案 ― 選挙期間の延長を
再生核研究所声明229:吉田松陰から学ぶ ― 志の重要性と松陰の最期、モミの実の喩え
再生核研究所声明230:終戦70周年を迎えての反省
― 逆に戦勝国の責任も問う
再生核研究所声明231:本を書く人の気持ち、読む人の気持ち ― 本とは何か
再生核研究所声明232:無限大とは何か、無限遠点とは何か。― 驚嘆すべきゼロ除算の結果
再生核研究所声明233:西行花伝 ― 辻邦生、新潮社を読んで
再生核研究所声明234:西行花伝 ― 辻邦生、新潮社を読んで – 雅について
再生核研究所声明235:西行花伝 ― 辻邦生、新潮社を読んで – 出家について
再生核研究所声明236:ゼロ除算の自明さ、実現と無限遠点の空虚さ
再生核研究所声明237: A reality of the division by zero z/0=0 by geometrical optics
再生核研究所声明238:西行花伝 ― 辻邦生、新潮社を読んで – 西行の恋と愛
再生核研究所声明239:自由な立場の人の意見、発想の尊重を
再生核研究所声明240:燕の神秘性 ― 燕の巣立ちを祝して
再生核研究所声明241:不幸な日本の政治状況 ―文化力の弱体さを露呈
再生核研究所声明242:参議院の良識と自立性によって安保法案をほうむれ
再生核研究所声明243:日本国の在るべき姿について –現在の世相についての心情
再生核研究所声明244:不完全な人類、恥ずかしい世界史 ― 心得
再生核研究所声明245:天才動物から学ぶ ― 新しい政治体制、指導者たち
再生核研究所声明246:An interpretation of the division by zero 1/0=0 by the gradients of lines
再生核研究所声明247:The gradient of y-axis is zero and tan (pi/2) =0 by the division by zero 1/0=0
再生核研究所声明248:日本の政治状況を変革するための提案
再生核研究所声明249:数とは何か ― ゼロ除算z/0=0を含む
再生核研究所声明250:What are numbers? - the Yamada field containing the division by zero z/0=0
再生核研究所声明251: 円と曲率 ―ゼロ除算z/0=0から導かれる道脇裕氏の解釈
再生核研究所声明252:Circles and curvature - an interpretation by Mr. Hiroshi Michiwaki of the division by zero $r/0=0$
再生核研究所声明253:私も探そう ―ゼロ除算z/0=0 の現象
再生核研究所声明254:愛が無ければ観えない ― について、 更に
再生核研究所声明255:神は、平均値として関数値を認識する
再生核研究所声明256:武器を収め、環境の保全、民生の向上、文化の発展に力を注げ
再生核研究所声明257:無限大とは何か、 無限遠点とは何か ー 新しい視点
再生核研究所声明258:A new viewpoint of the division by zero z/0=0from area and the point at infinity
再生核研究所声明259:数学の生態、旬の数学 ―ゼロ除算の勧め
再生核研究所声明260:受験勉強、嫌な予感がした ― 受験勉強が過熱化した場合の弊害
再生核研究所声明261:全面的な批判は慎もう ー 批判は具体的に、建設的に
再生核研究所声明262:宇宙回帰説 ― ゼロ除算の拓いた世界観
再生核研究所声明263:テロや武闘の終焉を願って
再生核研究所声明264:永遠とは何か ― 永遠から
再生核研究所声明265:全ての願いが叶えられたとき ー 自由な境地 ― その時人間は
再生核研究所声明266:地球上に繁茂する 愚かな人類
再生核研究所声明267:未知の世界に遭遇したとき、分からないとき ― そのときどうするか
再生核研究所声明268:新しい天気地図、行政地図の作成を提案する
再生核研究所声明269:テレビ、新聞の報道内容について
再生核研究所声明270:アジアの進化を願って
再生核研究所声明271:永遠は、無限は確かに見えるが、不思議な現象
再生核研究所声明272:ゼロ除算の研究の推進を
再生核研究所声明273:つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か
再生核研究所声明274:間をとることの重要性、余裕を持とう
再生核研究所声明275:The division by zero z/0=0 and special relative theory of Einstein
再生核研究所声明276:捏造、事実の歪曲の禁止、悪化する情報の是正を
再生核研究所声明277:アインシュタインの数学不信 ― 数学の欠陥
再生核研究所声明278:面白いゼロ除算の混乱と話題
再生核研究所声明279:ゼロ除算の意義
再生核研究所声明280:ゼロ除算の公認、認知を求める
再生核研究所声明281: The importance of the division by zero z/0=0
再生核研究所声明282:The Division by Zero z/0=0 on the Second Birthday
再生核研究所声明283:受験勉強が過熱化した場合の危惧について
再生核研究所声明284:世は矛盾の中に存在する、 混沌と言える
再生核研究所声明285: 数学者の性格、素性について
再生核研究所声明286:細分化、専門家、単細胞、孤立化から総合化、統一へ
再生核研究所声明287:神秘的なゼロ除算の歴史―数学界で見捨てられていたゼロ除算
再生核研究所声明288:戦友達 ― 共生、共感、共鳴
再生核研究所声明289:終末の心得
再生核研究所声明290:神の隠し事、神の意地悪、人類の知能の程
再生核研究所声明291:心の微妙さ
再生核研究所声明292:ユークリッド幾何学、非ユークリッド幾何学、平行線公理、そしてゼロ除算
再生核研究所声明293:Parallel lines on the Euclidean plane from the viewpoint of division by zero 1/0=0
再生核研究所声明294:素数分布についての前出裕亮君の予想について
再生核研究所声明295:無限の先にあるもの、永遠の先にあるもの ―盲点
再生核研究所声明296:ゼロ除算の混乱
再生核研究所声明297:豊かなゼロ、空の世界、隠れた未知の世界
再生核研究所声明298:根無し草
再生核研究所声明299:いろいろ ちぐはぐな社会
再生核研究所声明300:New challenges on the division by zero z/0
再生核研究所声明301:人間の愚かさ―人間の賢さ
再生核研究所声明302:燕の神秘性 ― 動植物の営みの神秘性
再生核研究所声明303:参議院選挙を控えての政治状況について
再生核研究所声明304:いじらしい人間
再生核研究所声明305:出産の報に接して
再生核研究所声明306:平行線公理、非ユークリッド幾何学、そしてゼロ除算
再生核研究所声明307:見かけ、表装と内実、実質
再生核研究所声明308:ゼロ除算とは何か、始めてのゼロ除算、ゼロで割ること
再生核研究所声明309:真無限と破壊 ― ゼロ除算
再生核研究所声明310:ゼロ除算の自明さについて
再生核研究所声明311:ゼロ0とは何だろうか
再生核研究所声明312:ゼロ除算による 平成の数学改革を提案する
再生核研究所声明313:  良い数学教育の推進を
再生核研究所声明314: 世界観を大きく変えた、ニュートンとダーウィンについて
再生核研究所声明315: 世界観を大きく変えた、ユークリッドと幾何学
再生核研究所声明316:ゼロ除算における誤解
再生核研究所声明317:尖閣、竹島、北朝鮮のロケット問題についての提言
再生核研究所声明318: 映像の危険性 ― テレビの弊害
再生核研究所声明319:NHK朝ドラ、小橋常子さん、花山伊佐次さんに続け
再生核研究所声明320:NHK朝ドラ とと姉ちゃん、赤羽根社長の筋違い対応
再生核研究所声明321: 北朝鮮問題への対応
再生核研究所声明322: 北朝鮮問題への対応 ― 追加
再生核研究所声明323: 蓮舫氏の国籍問題と政局、世相について
再生核研究所声明324: 日本国民の初歩的な誤解―真相を知らされていない
再生核研究所声明325: ゼロ除算の状況について ー 研究・教育活動への参加を求めて
再生核研究所声明326:The division by zero z/0=0 - its impact to human beings through education and research
再生核研究所声明327: 数学教育についての提案
再生核研究所声明328: NHK大河ドラマ、真田幸村の大阪城入場から考える人間 ― 自由について
再生核研究所声明329:大学入試の在り様について ― 現実と負担の視点から
再生核研究所声明330:原始人間から人間を考える
再生核研究所声明331:提案 ― ゼロ除算の研究は、学部卒論や修士論文の題材に適切
再生核研究所声明332:再生核の著書: Theory of Reproducing Kernels and Applications, Developments in Mathematics 44 © Springer 2016 について ー 内容
再生核研究所声明333:男と女の関係について
再生核研究所声明334:数理科学に興味を懷く方、発見に興味を持つ方 ― お願い
再生核研究所声明335: ゼロ除算における状況
再生核研究所声明336:オスプレイ事故についての反響について
再生核研究所声明337:人間、人生について
再生核研究所声明338:ロシアとの付き合いについて
再生核研究所声明339:インドの偉大な文化遺産、ゼロ及び算術の発見と仏教
再生核研究所声明340:絶対絶命、必死 ― 悟りへの道
再生核研究所声明341:日本史の誇り
再生核研究所声明342: 日本の外交についての考察
再生核研究所声明343: オイラーとアインシュタイン
再生核研究所声明344:理解できない韓国の慰安婦像建立の意思
再生核研究所声明345:弱い日本の国家戦略
再生核研究所声明346:愛について、愛の深まり 
再生核研究所声明347:真実を語って処刑された者
再生核研究所声明348:個々の人間を離れて ―広い視野で―トランプ政権の出現に際して
再生核研究所声明349:衰退する日本の大学 ― 国を憂えて
再生核研究所声明350:日本国の在りようについての考察 ― トランプ大統領就任の機会に
 再生核研究所声明351: トランプ壁についての提言 ― トランプ大統領の公約
再生核研究所声明352: On the third birthday of the division by zero z/0=0
再生核研究所声明353:  ゼロ除算 記念日
再生核研究所声明354:  What are $n = 2,1,0$ regular polygons inscribed in a disc? - relations of $0$ and $\infty$ \\
再生核研究所声明355:おかしな日本の外交戦略 ―賢明な外交戦略
再生核研究所声明356:アメリカの偉大さ ― トランプ大統領と司法
再生核研究所声明357:Brahmagupta の名誉回復と賞賛を求める。
再生核研究所声明358:政治の話しを、対話を勧める
再生核研究所声明359:ゼロ除算とは何か ― 本質、意義
再生核研究所声明360:NHK 大河ドラマと朝ドラの驚嘆
再生核研究所声明361:馬鹿は死ななきゃ治らない  ― 馬鹿の意味を考える
再生核研究所声明362:Discovery of the division by zero as
0/0=1/0=z/0=0
再生核研究所声明363: アジアの敗北と衰退 - 回避を
再生核研究所声明364: 憲法改正についての考察
再生核研究所声明365:目も眩むほど素晴らしい研究課題 ― ゼロ除算
再生核研究所声明366:微分方程式論の不備 ― 不完全性
再生核研究所声明367:数学の真実を求める方、数学の研究と教育に責任を感じる方へ
再生核研究所声明368:ゼロ除算の意義、本質
再生核研究所声明369:笑点 ― 素晴らしい落語 
再生核研究所声明370:細胞のような存在、個人 ― 生態系、環境
再生核研究所声明371:ゼロ除算の講演― 国際会議 
再生核研究所声明372:Facebook に現れた人間模様 再生核研究所声明373:高木貞治 「解析概論」の改変構想 
再生核研究所声明373:高木貞治 「解析概論」の改変構想 
再生核研究所声明374:微分方程式論における不完全性と問題
再生核研究所声明375:ブラックホール、ゼロ除算、宇宙論
再生核研究所声明376:現代初等数学における間違いと欠落 ― ゼロ除算の観点から
再生核研究所声明377:ゼロの意味について
再生核研究所声明378:マインドコントロール下にあるゼロ除算 ― 強い思い込み
再生核研究所声明379:北朝鮮問題、北朝鮮のロケット
再生核研究所声明380:What is the zero?
再生核研究所声明381:NHK大河ドラマ 政次の最後と大義、本懐
再生核研究所声明382: ニュートンを越える天才たちに-育成する立場の人に
再生核研究所声明383:人間の精神の高まりについての視点
再生核研究所声明384:2017年 総選挙について
再生核研究所声明385:地の果て、無限の彼方、平面の究極の果てを観るー 永遠とは何か、無限の先の不思議さ
再生核研究所声明386: ゼロ除算の反響と存念、想い出、物語
再生核研究所声明387:ゼロ除算についての全体的な印象
再生核研究所声明388:Information and ideas on zero and division by zero
再生核研究所声明389:2017年 総選挙後 - 小池氏、前原氏は間違いであるとは言えない。
再生核研究所声明390: 人間は 何をしているのだろう。
再生核研究所声明391:いろいろな数学者、数学者の心
再生核研究所声明392:数学者の世界外からみた数学  ― 数学界の在り様について
再生核研究所声明393: ゼロ除算の認知と真相の解明、究明を求める
再生核研究所声明394:ゼロで割れるか ― ゼロで割ったらユークリッド以来の新世界が現れた
再生核研究所声明395:ゼロ除算物語 - 記録、回想
再生核研究所声明396:人間の終末の心 - 人生も人間も大した存在ではない
再生核研究所声明397:未来に生きる - 生物の本能
再生核研究所声明398:数学の本質論と社会への影響の観点から - ゼロ除算算法の出現の視点から
再生核研究所声明399:数学芸術 分野の創造の提案 - 数学の社会性と楽しみの観点から
再生核研究所声明400:数学の研究における喜びと嫌な思い
再生核研究所声明401: 数学の全体、姿、生命力
再生核研究所声明402:研究進めるべきか否か - 数学の発展
再生核研究所声明403: 私より私らしい私の出現 - アンドロイド
再生核研究所声明404:ゼロ除算の現状 ― 総合的な印象
再生核研究所声明405: ゼロ除算が拓いた幾何学の現象 ― 堪らなく楽しい新奇な現象 - デカルトの円定理から
再生核研究所声明406: アジア不戦条約の提案を ― 批准を ― 丸丸お得な考え、方法
再生核研究所声明407: 大阪大学の入試ミス対応についての
一考察
再生核研究所声明408: 数学を越えて ― 価値あるものとは
Announcement 409: Various Publication Projects on the Division by Zer
Announcement410 : What is mathematics? -- beyond logic; for great challengers on the division by zero
再生核研究所声明 411:ゼロ除算発見4周年を迎えて
Announcement 412: The 4th birthday of the division by zero z/0=0
再生核研究所声明413: 考え方によっては、どちらでも有り得る
再生核研究所声明414: 第1回ゼロ除算研究集会基調講演要旨
再生核研究所声明415: 数学の進化は単調か、進化と衰退
再生核研究所声明416: ゼロ除算をやってどういう意味が有りますか。何か意味が有りますか。何になるのですか - 回答
再生核研究所声明417: ゼロ除算って何ですか - 中学生、高校生向き 回答
再生核研究所声明 418: 割り算とは何ですか? ゼロ除算って何ですか - 小学生、中学生向き 回答
再生核研究所声明 419:『天才を育てた女房~世界が認めた数学者と妻の愛~』 - 読売テレビ・日本テレビ系 読売テレビ開局60年記念ドラマ(2018年2月23日(金)) から
再生核研究所声明 420: ゼロ除算は正しいですか,合っていますか、信用できますか - 回答
再生核研究所声明 421: 東京大学の在りようについての危惧
再生核研究所声明 422: 数学界の歴史的な恥と恥の上塗り ー ゼロ除算の見落とし と 固定観念
再生核研究所声明 423: 余裕を持つことの重要性
再生核研究所声明 424: レオナルド・ダ・ヴィンチとゼロ除算
再生核研究所声明 425: 生命のリズム、生きること 
再生核研究所声明 426: 政治状況についての印象
再生核研究所声明 427: 神の数式、神の意志 そしてゼロ除算
再生核研究所声明 428: 心の存在するところ ― 人間とは何か?
再生核研究所声明 429: 日本のサッカー試合における鳥かご作戦について ― 西野監督の精神は 世に高く評価されるべきである。
再生核研究所声明 430: 古典的なリーマン球面に代わるHorn Torusの出現について
再生核研究所声明 431: y軸の勾配はゼロである - おかしな数学、おかしな数学界、おかしな雑誌界、おかしなマスコミ界? 
再生核研究所声明432:無限に広がった平面を捉える4つの考え方
Announcement 433:\\ Puha's Horn Torus Model for the Riemann Sphere From the Viewpoint of Division by Zero}
再生核研究所声明 434 : ゼロ除算の誤解と注意点
再生核研究所声明 435 : 国際スポーツ大会における問題点 - 国際化と文化、グローバリゼーションの問題
再生核研究所声明 436 : 数学教育の原理 ― 省察と改善
再生核研究所声明 437 : ゼロ除算とは何か - 全く新しい数学、新世界である
再生核研究所声明 438: ゼロ除算1/0=0/0=z/0=\tan(\pi/2)=0 の誤解について
再生核研究所声明 439: 人間として生きることとは - ある一面から
再生核研究所声明 440: 東京医大入試問題についての印象について
特に女性の扱いについて
再生核研究所声明 441: 小・中・高校の数学教育の視点からのゼロ除算について
再生核研究所声明 442: ゼロ除算研究の大義と研究協力へのお願い
再生核研究所声明 443: アリストテレス以来、二千年を越える封印、タブーの解消 - ゼロ除算
再生核研究所声明 444: 小・中・高校生に影響を与える初歩数学の出現 - ゼロ除算
再生核研究所声明 445: 平和を希求して ― How to
再生核研究所声明 446: 生物・動物の本性についての考察 ― 食すること
再生核研究所声明 447: 人工知能の進化と人間について
Announcement  448:Division by Zero Funny History and New World
再生核研究所声明 449:この世とあの世 - 人工知能の進化によって
再生核研究所声明 450: 水前寺清子様に呼応して - 雄たけび
再生核研究所声明 451: みんなの数学、大衆の数学 ― 和算の風土を取り戻そう
再生核研究所声明 452: 世界を変えた書物展 - 上野の森美術館
再生核研究所声明 453: The International Conference on Applied Physics and Mathematics, Tokyo, Japan, October 22-23
Announcement 454: The International Conference on Applied Physics and Mathematics, Tokyo, Japan, October 22-23
再生核研究所声明 455:ゼロ除算は幾らの価値がありますか、人間をどう救うのですか 回答
再生核研究所声明 456:ゼロ除算算法発見の瞬間
再生核研究所声明 457: 人類は何をなせしか - 広い視点
再生核研究所声明 458: 神の存在と信仰- 悟りへの心得
再生核研究所声明 459: 数学者の反省、数学教育の反省
Announcement 460: Change the Poor Idea to the Definite Results For the Division by Zero -- For the Leading Mathematicians
Announcement 461: An essence of division by zero and a new axiom
再生核研究所声明 462:ゼロで割れるか、ゼロで割る 任意の解析関数や数は ゼロで割ることが できる。
再生核研究所声明 463: ゼロ除算を理解すると 世��中に対して どのようなメリットがあるでしょうか。 ― 回答
再生核研究所声明 464: 多数決で決定する、投票で決定する危うさ
再生核研究所声明 465: 年頭にあたって - 1年の計
再生核研究所声明 466: 不完全な 現代初等数学、数学の基礎
再生核研究所声明 467: 数学の素晴らしさ ー 数学は絶対的な世界である
再生核研究所声明 468:ゼロと無限の意味と関係
再生核研究所声明 469:なぜ二つの負数を掛け算すると正数になるのですか?(回答)
再生核研究所声明 470:ゼロ除算 1/0=0/0=z/0=\tan(\pi/2)=0 発見5周年を迎えて
Announcement 471: The 5th birthday of the division by zero z/0=0
再生核研究所声明 472:万物流転、世の無常、心
再生核研究所声明 473:峠、峠を越えて
再生核研究所声明 474:人類の進化
再生核研究所声明 475:数学を志した理由 - 関係問題を省察する
再生核研究所声明 476:能力が足りない、無いは欠点にあらず、性格、特徴で活かせる。もちろん、恥ではない。
再生核研究所声明 477:ケンブリッジ大学とミュンヘン工科大学のIsabelle 計算機システムはゼロ除算x/0=0 を導いた
Announcement 478: Who did derive first the division by zero 1/0 and the division by
zero calculus tan(pi/2)=0, log 0=0 as the outputs of a computer?
再生核研究所声明 479:遅れをとったゼロ除算 - 活かされない敗戦経験とイギリスの畏れるべき戦略
再生核研究所声明 480:日本の数学の後進性
再生核研究所声明481:改元に当たって、日本からの贈り物、ゼロ除算算法 ― 新数学
再生核研究所声明482:研究について ー 国を豊かにし、文化を高め、世界を拡大させるために
再生核研究所声明483:ゼロ除算を発見した精神から見えた不思議な世界
再生核研究所声明484:ゼロ除算を発見した精神から見えた不思議な世界 - ゼロ除算の教え
再生核研究所声明 485:算数、数学の教育は 大丈夫でしょうか
再生核研究所声明 486:学校の授業を受けながら,「数学なんて勉強して,いったい何の役に立つのだろう」と思った人もいるのではないでしょうか。
再生核研究所声明 487:キャパシティ、   容量、器、限界
再生核研究所声明 488:恋から学ぶ、人間、人生、世界
再生核研究所声明 489:勉強から、考える、そして心の教育に
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moment-japan · 6 years
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千百余年の願い込め 真言密教の歩み追想(京都・醍醐寺展特集)
日本経済新聞
京都・山科盆地にある真言密教の一大拠点、醍醐寺には膨大な数の仏像、仏画や聖教(しょうぎょう=経典)が守り伝えられている。それら密教美術の至宝を紹介する特別展「京都・醍醐寺―真言密教の宇宙」が東京と福岡で開催される。開山から1100年あまり、人々が御影に祈った安寧への思いは、時を超えて今も拝む者を包み込む。
国宝「薬師如来坐像」(部分)平安時代 10世紀 醍醐寺蔵=画像提供 奈良国立博物館(佐々木 香輔撮影)
「密蔵深玄にして翰墨(かんぼく)に載せ難し。更に図画を仮(か)りて悟らざるに開示す」。唐から日本に密教を伝えた空海の言葉だ。唐での留学を終えて帰国した際、朝廷に提出した報告文「請来目録」に記してある。
「密教の教えは奥深く、言葉で表すことはむずかしいので図画を使って教える、という意味です。この言葉に従って真言密教はビジュアルを重視してきました」。寺宝管理に長年携わる同寺の公室室長、長瀬福男さんはこう語る。
寺宝122件紹介
桜の名所としても知られる醍醐寺は貞観16年(874年)、空海直系の弟子、聖宝(しょうぼう)が「醍醐味の水がわき出る」とされた笠取山に開いた。笠取山頂に広がる上醍醐と山裾に広がる下醍醐に分かれた広大な寺域には国宝6棟、重文10棟をはじめとする堂宇が立ち、約15万点もの寺宝が伝わる。
仏像や仏画、修法(すほう=儀式)の次第を記した文書、経典といった国宝は約7万6千、重要文化財は400を超す。今回の特別展は2会場合わせて39の国宝、58の重文を含む122件を紹介する。
「醍醐寺は真言密教の一大拠点。伝わった密教美術は圧倒的な質と量を誇ります。今回の展覧会では密教美術の濃厚な世界と、それらが生まれた背景を見てほしい」。サントリー美術館の佐々木康之学芸員(日本彫刻史)はこう解説する。
展覧会場でまず目をひくのが国宝「薬師如来坐像(ざぞう)」。台座を含めると高さ3メートルを超す威容を誇る。10世紀初め、醍醐天皇の発願で造営された上醍醐・薬師堂の本尊だ。堂々とした体つきにふくよかな顔、大きな鼻と分厚い唇。「大振りで男性的。平安初期の仏像ではなく、奈良時代と造形の方向性が同じです」と佐々木さんは指摘する。
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重要文化財「如意輪観音坐像」(10世紀)は頭を傾け、右手の指を頬に添えて思惟(しゆい)する体勢。膝を立てて座り上体を傾けた何とも優美な姿は、日本の如意輪観音像の代表作と呼ばれる。聖宝の弟子で座主となり、密教の重要経典「大日経」の注釈書「大日経疏(しょ)」を研究した観賢(かんげん)の思想が右手の表現などに反映されているという。
日本風の始まり
唐の影響を強く受けた平安時代前期の仏像、国風文化をまとった平安後期の仏像はそれぞれ人気が高い。それに対し平安中期、10世紀の仏像は従来あまり注目されなかった。だが「近年、再評価が進んでいます」と佐々木さん。「日本の古典に範を求めた像あり、日本の僧による経典の解釈にのっとって造られた像あり。日本独自の文化が生まれつつある様子が造形からうかがえ興味深い」
一例が重要文化財「五大明王像」(10世紀)。観賢が建てた上醍醐・中院の本尊だったとみられる像だ。5体そろう五大明王像では東寺講堂に伝わるものに次いで古く、東寺の像を規範に造られたとみられるが「儀軌(儀式の規定)にのっとって改変されています」と佐々木さんは指摘する。
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異彩を放つのがアンバランスにも見える大胆なポーズだ。佐々木さんは「金剛夜叉明王像をはじめ四明王のアクロバティックともいえる表現は当時、実験的だったはずです」と強調する。重々しく緻密な造形が多い平安前期と、手足が細長く伸びやかな表現の平安後期とをつなぐポジションに位置付けられるという。
密教では現世利益の実現を重んじ、加持祈祷(かじきとう)など修法を実践する。本尊として仏画や仏像は欠かせず、鎮護国家や厄災の調伏、雨乞いなど目的別に様々な仏画・仏像が制作された。複数の顔と腕を持つ「多面多臂(ひ)」、憤怒の形相、青や赤の鮮烈な色彩。魔や怨敵を退散させ煩悩を焼き尽くすために、力強い独特の表現が採られた。
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効験高める研究
国宝「五大尊像」は12~13世紀の作。両目を見開き下唇をかむ形相が力強い筆遣いで描かれる。平安時代の画僧、円心の作品を手本にした「円心様」とされる。醍醐寺には円心の真筆や円心様の図像が複数あり、後白河法皇が同寺に行幸した際に進上した記録も残る。
「修法の効験を高めるにはどんな図像を本尊にすればよいか、宗派や流派を超えて情報を集め研究が重ねられました。祈祷を頼むスポンサーから『これでお願いする』との要望もあったはずで、円心様の仏画は人気があって重用されたのかも」。九州国立博物館の森實久美子主任研究員(仏教絵画史)は推察する。
仏像や仏画の形を墨だけで描いた白描図像はこうした研究の成果。仏像や仏画の設計図となった。森實さんは「醍醐寺に伝わる膨大な数の白描図像から、寺の権勢と宗派を超えた広い人脈がうかがえます」と指摘する。
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重要文化財「不動明王図像」(信海筆、弘安5年=1282年)は同寺の白描図像を代表する一つだ。墨の濃淡や線の太さを巧みに使い分け、荒海にそそりたつ岩に立つ不動明王を描く。あちこちに修正した跡が残り、試行錯誤した様子が見て取れる。描かれたのは2度目の蒙古襲来の翌年。元軍撃退や和平を祈願したとの説がある。
2016年、中国の上海と西安で、醍醐寺の寺宝を紹介する展覧会が開催された。長瀬さんは寺側の思いを「空海が唐で教わった密教が今も日本で守られていますよ、と中国の人々に伝えたかった」と説明する。心配もあった。「あちらが本家。きちんと評価してもらえるだろうか」。だが全くの杞憂だった。延べ80万人以上が来場し、展覧会は大成功を収めた。今回の特別展は中国展開催を記念して開かれる。
空海の「メモ」
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寺側が特に思いを込めて出展するのが国宝「大日経開題」。密教を修学していた若き空海が「大日経疏」から大事なポイントを抜き書きしたメモと考えられている。さまざまな質や寸法の紙を貼り継いであり、楷書と行書、草書が混在する。「字の間隔も書体もばらばら、気取りが全く見えません。日本の真言密教はここから始まったのです」と長瀬さんは語る。
中世以降、醍醐寺は足利将軍や豊臣秀吉ら時の権力者の帰依を受けた。華麗な文化の中心となった当時のきらびやかな品々も展示会場を彩る。
寺宝を保管する収蔵・展示施設「霊宝館」には多くの参詣者に加え国内外の研究者や僧が絶え間なく訪れ、調査や研究に取り組む。千年を超える時を超えて伝えられた品々は、現代の文化を豊かに彩り、祈りを込めて次代へと受け継がれる。
(竹内義治)
「京都・醍醐寺―真言密教の宇宙」開催概要
【東京展】  会場:サントリー美術館  会期:9月19日(水)~11月11日(日) 火曜日休館
主催:総本山醍醐寺、サントリー美術館、日本経済新聞社、テレビ東京、BSジャパン
【福岡展】  会場:九州国立博物館  会期:2019年1月29日(火)~3月24日(日) 月曜日休館
主催:総本山醍醐寺、九州国立博物館・福岡県、TVQ九州放送、西日本新聞社、日本経済新聞社、BSジャパン
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go-shuin · 3 years
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⛩ #明治神宮 ⛩ 

御祭神 #明治天皇 (めいじてんのう) #昭憲皇太后 (しょうけんこうたいごう)
 #第122代天皇 御由緒 内苑を中心に、#聖徳記念絵画館 を始め
数多くの優れたスポーツ施設を持つ外苑と、
結婚式とパーティー会場の #明治記念館 があります。

所���地 〒151-8557 東京都渋谷区代々木神園町1-1
 カーナビ設定は 東京都渋谷区代々木神園町1-1-2  で設定。

最寄り駅: JR #原宿駅 徒歩1分 地下鉄千代田線「明治神宮前〈 #原宿 〉駅」 徒歩1分 #代々木 #神園町 #渋谷 #日本  #shibuya #tokyo #japan 
#加藤清正 #清正井 #隔雲亭 #菖蒲田 #お釣台 #明治神宮御苑

#御朱印 #神社 #神宮 #神社参拝 #御祈祷 #神社巡礼 #神社巡り  #神社詣り #御朱印帳 (明治神宮 (Meiji Jingu)) https://www.instagram.com/p/CNVLErTFbbE/?igshid=1j7lznsvtmmce
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kayyttea · 3 years
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#明治神宮 
#朔日参り 
このご時世ということで
 一般の方の陪観は
ご遠慮いただくということでした。

5月1日 舞楽 中止
5月2日 能狂言 邦楽邦舞 × 5月3日 三曲 薩摩琵琶 × 

#御祭神 #明治天皇 (めいじてんのう) #昭憲皇太后 (しょうけんこうたいごう) 第122代天皇 
 御由緒 内苑を中心に、#聖徳記念絵画館 を始め
数多くの優れたスポーツ施設を持つ外苑と、
結婚式とパーティー会場の #明治記念館 があります。

所在地 〒151-8557 東京都渋谷区代々木神園町1-1
 カーナビ設定は 東京都渋谷区代々木神園町1-1-2  で設定。

最寄り駅: JR #原宿駅 徒歩1分 地下鉄千代田線「明治神宮前〈 #原宿 〉駅」 徒歩1分 #代々木 #神園町 #渋谷 #日本  #shibuya tokyo japan 
#加藤清正 #清正井 #隔雲亭 #菖蒲田 #お釣台 明治神宮御苑

#御朱印 #神社 #神宮 #御祈祷 神社詣り #神社参り  #奉拝 #参拝 #御利益 #ご利益 #開運 #金運 #お守り 御守り  昇殿参拝 正式参拝 肥後藩藩主 加藤家別邸
彦根藩藩主 井伊家下屋敷
南豊島御料地 (明治神宮 (Meiji Jingu)) https://www.instagram.com/p/COVQp3Ap_ce/?igshid=snuadcjy91nz
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塵封百年的彩照
美國國會圖書館近來公布一批非常珍貴的攝影作品,它們是沙俄時期的攝影家及化學家謝爾蓋·普羅庫丁-戈爾斯基在1905年~1916年間所拍攝的彩色照片,至今已經有一百多年的歷史。
自攝影誕生的那天起人們就對彩色攝影有了追求,但在1960年代之前,黑白攝影一直是主流。而商業化的彩色攝影技術其實在1930年代就出現了,1935年,柯達公司推出了革命性的Kodachrome膠卷。可當時的黑白攝影技術已經成熟,無論膠卷顆粒的細膩度,還是對光的敏感度正趨於完美。而且彩色膠卷的沖印極其昂貴繁雜,柯達公司當時的口號是"You press the ,we do the rest",即"你只須按下快門,剩下的全由我們來做",顧客拍完照後,要將膠卷寄給柯達公司沖印,再將底片和照片寄回給顧客。攝影界主流也一直視彩色攝影為旁門邪道,認為黑白攝影才是真正的攝影。這種情況一直到上世紀六十年代,柯達公司的柯達彩膠Kodachrome開始在市場大力推廣,同時Agfa公司開發的小型沖印設備也普及開來,社區內的照相沖洗店就能沖印彩色膠卷,而勿須寄往柯達公司的大型沖印車間。到七十年代彩色攝影的成本愈趨下降,才得以進入千家萬戶而被廣泛接受。
至於中國國內,彩色攝影要到八十年代才開始普及,因為與彩色攝影相關的基礎設施,如彩色膠卷制造,彩色沖印設備,彩色沖印所需的化學藥劑都需要極大的人力、物力、及財力的投入。我記得1983年在南京青島路中學的初中畢業照就是黑白照片。以南京作為省會城市,又處於東部沿海地區,在初中畢業的場合還只能用黑白照片,可見當時彩色攝影在國內還沒有普及開來。
世界上第一張彩色攝影影像,拍的是花格呢打成的花結。
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其實,人們對彩色攝影的追求早就開始了。1861年,蘇格蘭數學家、物理學家James Maxwell,就是那位推出號稱物理學中最優美的方程組 --- 麥克斯韋電磁方程的人,他拿出世界上首張彩色影像。在該年皇家學會一場關於色彩理論的講座上,麥克斯韋爾依據三原色分析及合成的原理,首次演示了彩色攝影。單反相機的發明者托馬斯·薩登(Thomas Sutton)是實際的操作拍攝者。因為他們兩人都以蘇格蘭人為榮,所以就以蘇格蘭傳統服飾,一個用花格呢打成的花結為拍攝對象,分別在鏡頭前加裝紅色、綠色、及藍色濾光片拍攝了三次。然後再以三架投影儀分別加裝紅、綠、藍三色濾光片,將前面拍攝所得的底板上影像合成重疊投影到一塊屏幕上,就得到了彩色影像。因為薩登所用的照相膠板對紅光根本不敏感,對綠光也僅略微敏感,所以拍出的結果遠稱不上完美。如今看到的這張保存下來影像中的紅色部分其實是膠板上的鹵化銀顆粒對紫外線的感光結果。這也是為什麽早期的攝影暗室裏可以點紅色燈泡,而不用擔心沖洗膠卷過程中意外曝光。
另一位在此領域的開拓者是德國科學家阿道夫.米特埃(Adolf Miethe)。米特埃是位感光化學家,他發現單純鹵化銀晶體顆粒無法吸收紅光波段的能量,所以不能對紅光感光。經他研究發現有一類化學物能吸收紅光波段的電磁波,同時又會放出另一波段的輻射,而後一波段的輻射卻能為鹵化銀所吸收並感光。這就是攝影技術裏致敏作用的原理。此舉極大改善了黑白攝影材料的全光譜性能,而該種性能可以運用於彩色攝影。1906年,米特埃還坐進熱空氣球進行了歷史上首次空拍。
謝爾蓋·米哈羅維奇·普羅庫丁-戈爾斯基出生於俄國的一個具有悠久軍事傳統的貴族家庭。後來他舉家遷往聖彼得堡,謝爾蓋就在此進入聖彼得堡的帝國理工學院學習化學,他師從於著名的俄國化學家,發現元素周期律並制定首張元素周期表的門捷列夫。同時他還在帝國藝術學院兼修音樂與繪畫。
1890年,普羅庫丁-戈爾斯基與安娜·拉夫羅娃結婚,他嶽父是當時俄國著名的工業家,並且還是俄國帝國技術學會的會員。普羅庫丁-戈爾斯基因此成為拉夫羅夫家族金屬公司的董事長,並加入了俄國最悠久的攝影協會,即帝國技術學會的攝影技術分部。他在會中發表論文,還舉辦攝影科學的講座。
普羅庫丁-戈爾斯基所采用的攝影方法沿承於麥克斯韋爾,但憑當時所能得到的攝影材料無法拍出好的效果。1901年,普羅庫丁-戈爾斯基在聖彼得堡創立了自己的攝影工作室及實驗室。自此,他終於有了自己的攝影化學實驗室,可以對彩色攝影中遇到的各種化學過程進行研究,探索,及改善。1902年普羅庫丁-戈爾斯基首先在學會裏闡述了運用三色攝影來制作彩色幻燈片的技術。
改善彩色攝影有兩條途徑,第一是加快曝光速度,這樣就能拍攝到快速移動的事物狀態;第二是提高復制相片的可能性,普羅庫丁-戈爾斯基在此兩方面都有所建樹。
該年,他前往柏林,在當時位居德國攝影領域最前沿的感光化學教授阿道夫·米特埃(Adolf Miethe)手下學習色彩致敏和三色攝影技術。1905年,普羅庫丁-戈爾斯基發現了一種化學結構復雜的新型色彩致敏劑,性能明顯優於先前德國化學家Miethe和Traube所用的致敏劑。用他的致敏劑制成的溴化銀感光底板,能對可見光範圍內所有波段的光線都同樣敏感。
這些年中,普羅庫丁-戈爾斯基憑籍攝影領域的成果,發表的論文與幻燈片,在俄、德、法三國的科學家與攝影家圈子裏聲名漸著。1906年的第六屆國際應用化學大會上,他宣讀了"對自然色彩的觀測與研究"及"俄國的應用攝影"兩篇論文,期間還展示了他的作品。同年,普羅庫丁-戈爾斯基當選為帝國技術學會攝影分會的會長,並出任俄國最權威的攝影刊物《業余攝影》的總編輯。
阿道夫·米特埃說設計的彩色相機,根據普羅庫丁-戈爾斯基所留下的底板分析,他很可能使用同款相機。
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米特埃於1903年設計了一款連續曝光型的高級相機,交由Bermpohl生產並推向市場。其中最常見的型號采用了一塊9厘米 x 24厘米的膠板,與普羅庫丁-戈爾斯基留下的底板尺寸符合。它還采用了不常見的藍-綠-紅的曝光次序,這也是普羅庫丁-戈爾斯基保存下來底板的特征。
照相膠板是在一片薄玻璃表面塗上一層感光膠體,當時攝影者偏好用膠板而不是軟式膠片,一方面是塑料軟式膠片尚未成熟,再則就是當三張原色底片要對齊以獲得彩色影像時,玻璃底板具有更好的平面穩定性。
普通相機也可以拍攝三張原色圖像,只是在曝光間需要更換濾色片。但早期的彩色攝影者通常自制或訂購特制的相機以便於操作並節省時間。當時彩色攝影所用的相機分為兩種類型,一類是在相機內設置一個分光器生成三束光,這樣就能在同一視角下同時拍攝並曝光在三塊膠板上。這類相機盡管理論上很完美,但其內部的光學結構異常復雜,特別精致,還易於失調。另一類更結實的相機其實就是在普通相機的機體上加一個裝有膠板及濾光片組合的滑動框架,以便每一組都能及時到位並曝光。整個操作過程可以用彈簧裝置或氣動機構來達成部分或全部自動化。
當三幅濾光影像不是同時拍攝時,任何物體如果在拍攝過程中無法保持靜止,每一幅單色成像就好出現細微的位移,三張單色膠板上的影像無法完全重疊,隨後得到的彩色影像裏,該物體的邊緣未能重疊的部分就會出現彩色條紋。若是移動過程跨越整個場景,就會出現三個色彩明顯的幻像。
攝影時的曝光時間取決於當時的光照條件、膠板的類型、以及相機的構造。至於普羅庫丁-戈爾斯基攝影時的曝光設定,後人從他留下的筆記中發現,當年他為托爾斯泰拍攝肖像時,在陽光充足的情況下還須有曝光六秒鐘。
至於彩色照片的洗印,普羅庫丁-戈爾斯基采用的是Carbro過程,具體步驟為:三張單原色的底板上的影像投影放大至三張有溴化銀塗層的紙上。每張紙再從溶有膠體色素的化學液裏浸一遍。已經曝光的溴化銀經顯影劑催化再與膠體色素結合並定影。將未定影的膠體色素洗去後,就能得到洋紅、青、以及黃的三張單色影像。這三張影像經對齊後再小心地覆蓋到一張相紙上,結果就是一幅彩色照片。這是一項非常細致而又復雜的操作,每一步都需要絕對的精確。每一張照片都使普羅庫丁-戈爾斯基耗費2~3個工作日,所以它們的成本非常昂貴,但其結果極為耐久保存。
普羅庫丁-戈爾斯基於1908年在Yasnaya Polyana為裏奧·托爾斯泰拍攝肖像的石印版。
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普羅庫丁-戈爾斯基生涯中最著名的作品獲許就是為俄國大文豪托爾斯泰拍攝的彩色肖像,這幅畫像後來被翻版到眾多的刊物及明信片上,還被裝幀成畫框。由於該肖像及他於早期拍攝的俄國的風景名勝的聲名所致,俄國皇室分別在1908與1909年兩度邀請他到去展示作品。
1909年在受邀前往沙皇村展示他的攝影作品期間,沙皇非常欣賞他的成果。普羅庫丁-戈爾斯基向沙皇列舉了彩色攝影的各種用途,然後隨口說道:"陛下也許會有興趣想不時地看一下您治下真正的俄國,她的名勝古跡,還有祖國那美麗而又多樣的自然風光。" 沙皇聽了後龍顏大興,表示一定會全力支持這項計劃。可見適當場合下,馬屁是多麽的重要。
早在1905年,普羅庫丁-戈爾斯基就開始設想與規劃利用日漸進步的彩色攝影技術來系統地記錄沙俄帝國。他計劃在十年內,拍攝了一萬多幅照片。這是一個雄心勃勃的計劃,他最終目的是憑籍他的彩色光學投影儀,將這幅員廣大帝國的多元歷史、文化、及正在進行的現代化傳授給俄國學生。
根據沙皇尼古拉二世頒布的禦旨,普羅庫丁-戈爾斯基獲準對沙俄帝國全境進行彩色攝影與記錄。他將沙皇提供的一節普爾曼客車車廂進行改裝與配備成一間特種鐵道暗室。在遇上要走水路的情況,俄國交通部為他配備了一艘蒸汽輪船,包括了全班航運人員,還有一艘適合淺水航行的蒸汽船,以及一艘汽艇。為了要在烏拉爾山及葉卡捷琳娜堡周邊的烏拉爾地區拍攝,沙皇政府專門給他配備了一輛福特越野汽車。
普羅庫丁-戈爾斯基從沙皇的首相府申請到了兩張特別許可證,憑證他可以進入各禁區,還可以要求整個帝國的官僚體制配合他的計劃。從1909年到1915年間,普羅庫丁-戈爾斯基全身投入了這項工作,跋山涉水,奔波於俄國各地。同時他還舉辦了多次幻燈及圖片講座。他的攝影作品生動地展現了一個已經消失的世界 --- 即一次大戰前夕及即將面臨十月革命的沙俄帝國。他的作品主題極為廣泛,從代表舊俄國的中世紀教堂與修道院,到體現一個正在發展中工業國的鐵道與眾多工廠,再到反映俄國民族極其多元化的日常生活。
普羅庫丁-戈爾斯基於每年夏天出行拍攝。每次拍攝完成回來後,他就將攝影材料集合為冊本,展示給交通部長,然後在沙皇村演示他的幻燈片。
十月革命爆發後,因時局所限,他不得已終止該項計劃。新政府專門在新成立的攝影與電影學院內為他設立一個教授職位,但他可能已經看出風頭不對,認為像他自己這樣背景的人,在新政權下決不會有善終。於是在1918年8月離開俄國,輾轉經芬蘭、挪威流亡海外。所以說政治嗅覺靈敏的人,能夠審時度勢,只要秉持"亂邦不入,危邦不居",就一定活得命長。出國後,他繼續從事彩色攝影領域的科學研究,在英語攝影刊物上發表文章,還在德、英、法、及意大利四國申請並獲得了專利。
1922年,普羅庫丁-戈爾斯基在巴黎與他的妻兒團聚,他和他的三個成年子女合作創立了一家攝影工作室,到1930年代,年事已高的普羅庫丁-戈爾斯基將攝影工作室的日常商業經營交給了他的子女,而他自己則專註於為流亡法國的年輕白俄們舉辦講座,並展示他所拍攝的帝俄時期的照片。1944年9月27日,盟軍解放巴黎一個月後,普羅庫丁-戈爾斯基去世。
根據普羅庫丁-戈爾斯基在離開俄國前的私人記錄清單估計,他那時有約3500張底板。在出境及出口他所有的攝影材料時,俄國當局沒收了大概一半的照片,因為他們認為照片內容所涉及的信息對正處於戰時的俄國具有戰略意義。有些底板被羅庫丁-戈爾斯基當作禮物送給別人了,還有一些被他藏起來了。不過矣今為止,除了美國國會圖書館的收藏之外,還沒有發現任何一張底板。
普羅庫丁-戈爾斯基去世時,沙皇及他全家早已在俄國革命中被處決了,曾經的沙皇俄國也處於共產黨統治下。成箱的相冊與易碎的玻璃底板被保存在巴黎一棟公寓樓的地下室內,他的家屬擔心它們遭受潮濕及黴菌損害,但當時正值戰爭剛結束,歐洲大地滿目瘡痍,各國都著力於戰後重建,哪裏顧得上保存這些寶貴的資料。1948年,美國國會圖書館以3500~5000美元的價格從羅庫丁-戈爾斯基的繼承人手中買下了全部收藏。經國會圖書館清點,總共有1902張底板以及相冊中的710張沒有底板的照片。
如果要從這批底板用人工合成彩色照片,需要非常專業的設備,而且極其耗費人力及時間。所以在國會圖書館收藏該批資料後的半世紀內,只合成過一百多張照片,出版成書或供學術研究。直到數碼圖像處理技術成熟後,才使得大批快速合成彩色影像成為可能。自2000年起,國會圖書館開始計劃把所有來自普羅庫丁-戈爾斯基的影像資料轉換為數字掃描文件。該館還雇請攝影家華爾特弗蘭克豪瑟爾(Walter Frankhauser)將單色底板合成為彩色影像。他運用了數字套色法合成了122張圖像,據他反映每一幅圖像他要花費六到七個小時來對齊,清理,矯色。
2004年,國會圖書館又雇用計算機專家布賴塞(Blaise Agüera y Arcas)來開發軟件並自動地將1902張底板的高清晰圖像合成為彩色圖像。他運用了一種算法來補償曝光與所有底板色彩組成之間的差異。隨著國會圖書館將所有底板的高清圖像免費提供給大眾,許多機構或個人根據這些材料自己合成了彩色圖像,而且這些原始素材也成了很多計算機圖像處理實驗室的熱門試驗臺。
數碼合成彩色圖像的步驟,原始素材是1911年,普羅庫丁-戈爾斯基為布哈拉汗國的埃米��� --- 阿裏姆·罕拍攝的肖像。
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從普羅庫丁-戈爾斯基的底板到最後合成彩色數碼圖像的步驟:
1)普羅庫丁-戈爾斯基將一塊3英寸x9英寸的狹長玻璃膠板垂直放置於相機中,他再分別在鏡頭前加裝紅色、綠色、及藍色的濾光鏡對同一場景進行三次連續快速拍攝。
2)從普羅庫丁-戈爾斯基的相機中望去,鏡頭裏顯示的是正在拍攝場景的倒影。
3)在數碼轉化時,原來的三片單色底板水平放置後,從上方用數碼相機在灰度模式下進行掃描。圖像編輯軟件在把整片底板的掃描結果由負色轉化為本色,並將倒影轉為正常朝向影像。
4)整張底板的影像經縮減後成為8位碼的灰度模式。放大後,影像中的每一部分都要從明暗反差,色彩分離程度,膠體的損失程度,以及其它會影響最後合成圖像質量的細節等方面進行檢查。
5)全部三張掃描影像重疊對齊,邊緣未能重疊的單色模糊部分須予以切除。
6)每一組經對齊並切邊的三色底板影像組成了一個有三個層次的電子文件,每一層都要標明該層的顏色,最後的合成圖像就由這一電子文件生成。
7)在灰度模式下,紅(R)、藍(B)、綠(G)三層經對齊重疊後就形成"RGB"合成色彩,此一步驟是最困難的一步。
8)RGB(紅綠藍)色彩合成影像再進行一次切邊,把所有三層共享部分外的區域切除。
9)經切邊後的彩色合成圖像須進行整體調節以獲得適當的反差,恰當的明亮與陰影細節,以及優化的色彩平衡。
10)對合成彩色圖像某些具體的,局部的區域進行微調,以便減輕普羅庫丁-戈爾斯基原本的玻璃底板上曝光過度或不足、沖印、膠體老化帶來的缺陷。
11)合成完的彩色圖像還要經過再潤色修描,以便減輕存放期間的老化與故障帶來的缺陷。
普羅庫丁-戈爾斯基的采風紀錄旅程
中亞地區 --- 1906~1911年間,普羅庫丁-戈爾斯基多次前往中亞地區,在撒馬爾罕、布哈拉、及饑餓草原等地記錄了突厥斯坦和阿富汗斯坦,即如今的哈薩克斯坦和烏茲別克斯坦。
1907年元旦(這是俄國采用的凱撒歷法,換成格利高裏公歷應該是1月14日),在位於天山的薩留克廷礦山頂上觀察全日食。
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布哈拉汗國的埃米爾
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布哈拉汗國的埃米爾阿裏姆罕神情嚴肅地留影。這張照片攝於1911年,他剛繼位不久。隋唐時期,布哈拉屬於西域的"昭武九姓"中的安國,即"安息國",與中原地區來往很頻繁。在普信伊斯蘭教的中亞地區,身為一個自治城邦的統治者,埃米爾如同絕對君主一樣,對他治下的汗國的內部事務有著獨斷專行的權力,盡管自十九世紀中葉起,布哈拉已經淪為受沙俄帝國控制的一個保護國。隨著蘇聯勢力在1920年進占布哈拉,這位埃米爾只得逃亡阿富汗,直至1944年去世。
布哈拉汗國的內政部長
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當時在街頭抽水煙的典型煙鬼
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布哈拉的監獄,1906-1907
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五名囚犯從一個辛旦 - 即中亞傳統的監獄向外張望。這種監獄其實就是地上挖出的坑,其上再蓋以低矮的建築結構。手持俄制步槍及刺刀的看守立於一旁,他的制服與靴子也是俄式的。
撒馬爾罕是世界上歷史最悠久的,有人持續聚居的城市之一。創建於公元前700年,亞歷山大大帝在公元前329年曾攻占過它。唐朝時,它是"昭武九姓"中的康國,當時有大量康國人旅居中原,其中最有名的,莫過於"安史之亂"的罪魁禍首安樂山、史思明兩人,他們都是康國人的後裔。1370年,也就是明朝洪武年間,帖木爾汗國定都於此。1868年,俄軍上校阿波拉莫夫(Abramov)率軍攻陷城堡,撒馬爾罕自此落入沙俄帝國統治。
夕陽之下的夏伊信德陵園,1912年
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撒馬爾罕傍晚的夏伊信德(Shah-i Zindeh,波斯語原義是"在世之王")陵園,遠處的帕米爾群山為它提供了一幅壯觀的背景。這裏埋葬著中世紀中亞地區最偉大的統治者帖木爾的家眷,以及該王朝的軍事行動宗教領袖。
只見賣瓜老王,卻不見吃瓜群眾。中亞地區和新疆一樣,因為日照時間長,晝夜溫差大,是以盛產瓜果。
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一位城裏薩特老人(薩特 Sart,是相對於遊牧人,當地對城鎮定居人的稱呼),1905-1915
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這張攝於撒馬爾罕附近的照片中,一位可能是塔吉可族的老漢手持一只剛捕獲的鳥。撒馬爾罕及其周邊地區以民族多元而聞名,包括烏茲別克人、塔吉克人、波斯人、阿拉伯人,還有最近才到的俄羅斯人。
一群猶太男童們及他們的老師
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撒馬爾罕作為絲綢之路上的一個歷史悠久的商業、文化、和信仰中心,多方交融下,發展出非常多元化的人口族群。在十九世紀中葉起,撒馬爾罕以及整個西突厥斯坦地區並入沙俄帝國,這種族群多元雜居的情況一直保留至今。
遊牧的吉爾吉斯人,1911年
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許多中亞民族,例如吉爾吉斯人、哈薩克人、烏茲別克人在草原上,山谷裏,沙漠中遊牧為生,他們隨著季節逐水草而居。相片中這個穿著鮮艷的傳統民族服裝遷徙在哥羅德納伊亞(Golodnaia 即饑餓)草原上,大概位於如今的烏茲別克斯坦與哈薩克斯坦。
盛裝的烏茲別克婦人
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在這張照片裏,普羅庫丁-戈爾斯基拍攝到了一位烏茲別克婦人的傳統服裝,首飾,及發型,她站在鋪於圓頂帳篷門口,裝飾精美的地毯上。這種可以拆卸攜帶圓頂帳篷是中亞遊牧民族普遍使用的居所。自十九世紀中葉征服突厥斯坦後,俄國政府對遊牧民族施以重重壓力以迫使他們放棄這張生活方式,轉而永久定居在村、鎮和城市裏。
馬林斯基水道 --- 1909年夏天,普羅庫丁-戈爾斯基由西向東沿著馬林斯基水道拍攝記錄,以紀念該水道開始興建200周年。馬林斯基水道又名伏爾加-波羅的海運河,當年彼得大帝為了將伏爾加水系及其支流範圍內的俄國腹地與波羅的海相連接而修建。
聖彼得堡東四十哩,拉多加湖邊,Shlisselburg小鎮附近彼得一世運河上的木排。
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84歲的平赫斯·卡林斯基是位有66年役齡的老兵,他如今是Chernigov泄洪閘的管理員。
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可以看出因為波浪不斷起伏,導致前後三次曝光時,單色底片上水波位置發生錯移,結果最後的合成彩色照片中水面出現色差。
Kirillov鎮附近,沿著Sheksna河畔的鄉村地區農家少女。
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位於俄國歐洲部分北部的白湖附近,一群俄羅斯兒童背對著教堂和鐘樓倚山坡而坐。攝於1909年
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下船上岸處附近的幹草田地,攝於1909年
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在水上討生活,是真正的"靠天吃飯",命運無常。所以這處水邊的祈禱亭寄托著水上人家對自然的敬畏,有些類似於中國東南沿海的媽祖崇拜。
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攝於1909年的一幅初秋景象,一群農民在收割幹草之余短暫休息吃飯。雖然不知拍攝的具體地點,很可能是歐俄部分的中北部車瑞坡維茨(Cherepovets)。
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人工河道當然不能挖了就了事,還須時常維護。圖中這艘挖掘及采石船(斯維爾斯卡婭2號)的任務就是對馬林斯基水道的航道疏浚並拓深。1909年
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為了配合普羅庫丁-戈爾斯基團隊對馬林斯基水道的采風考察紀錄,帝國交通運輸部專門提供了一艘蒸汽船"謝克斯納號"。這是船員們的合影。
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高加索及黑海地區 --- 普羅庫丁-戈爾斯基前往高加索地區完成了對包括黑海沿岸,以及附近Artvin和第比利斯的一系列考察。如今這些地方分別處於土耳其、格魯吉亞、俄國、及阿塞拜疆。
從聖大衛教堂的高地上俯瞰格魯吉亞的首都第比利斯。1904-1912
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這張全景照片展現了坐落在高加索群山環繞谷地裏的第菲利斯城。它如今叫第比利斯,是獨立的格魯吉亞共和國首都。在1910年左右,拍攝這張照片時,此城聚居了來自各國的居民,包括格魯吉亞人、亞美尼亞人,俄羅斯人、波斯人、波蘭人,韃撻人,以及猶太人。
在礦泉旁度假,衣著講究的一家人
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瓶裝的礦泉水正在裝車,看來這行業的歷史蠻悠久的。
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利堪尼宮(Likani)
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這座位於格魯吉亞博爾卓米(Borjomi)的豪宅原本是俄國羅曼諾夫皇室尼古拉斯·米哈羅維奇大公的夏宮,如今是格魯吉亞共和國的總統官邸。
說起這位大公,不由得讓人感嘆人生的不可測。尼古拉斯·米哈羅維奇是末代沙皇尼古拉二世的堂叔,這位大公是羅曼諾夫皇室裏少有的持自由政見的成員,也因此在保守的皇室圈子裏不太受待見。不過他誌趣不在宮廷權鬥,而是專心研究歷史,尤其專精於拿破侖戰爭時期的法俄關系,還撰寫了多本專著。他是法蘭西學術院的院士,也是柏林大學的榮譽博士,還擔任俄羅斯帝國歷史學會和地理學會的會長,是一位典型的學者皇族。他因為政見而被放逐到鄉間的莊園,俄國革命發生後,他得以獲得自由並返回聖彼得堡,只是他對當時的政治風向毫無知覺,無視力量越來越強的布爾什維克,還若無其事地繼續住在聖彼得堡。等到布爾什維克徹底掌權後,想跑都跑不了,所有羅曼諾夫皇室成員必須去秘密警察契卡那裏登記,並限制自由,後來他們都被送往內陸的沃洛格達。期間他在國外的親友全力設法營救,甚至輾轉托到新政權的文學標桿作家高爾基,高爾基前往列寧處為尼古拉斯求命,拿到了一張列寧的手條。等到高爾基趕到聖彼得堡,剛下火車,在站臺上的報攤拿起一份報紙,頭版上寫著:羅曼諾夫皇室成員全部被槍決。在聖彼得於聖保羅城堡外的死刑現場,他與弟弟喬治米哈羅維奇大公及堂兄弟季米特裏與保羅兩位大公一起遇害,重病中的保羅甚至是躺在擔架上被槍決。看來辨別政治氣候風向大概屬於情商的範疇,與智商無關,所謂千金難買早知道。
恰克維(Chakvi),一條栽滿風車棕櫚樹的谷地。
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一般人很難將俄國與亞熱帶風情的棕櫚樹聯想起來。但位於高加索山脈以南,黑海東岸的外高加索地區,北面有雄山擋住冷空氣,西面又受海洋的溫潤,是當時沙俄帝國境內少有的亞熱帶地區。也因此成了俄國上層社會的度假勝地。
一群希臘裔的采茶女工,攝於恰卡瓦(Chakva),1905~1915年
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 經普羅庫丁-戈爾斯基辨認後,發現這些女工都是希臘裔。在當時沙俄帝國的南部,黑海東岸的地區,包括如今的烏克蘭,摩爾多瓦,格魯吉亞分布著相當多的希臘裔少數民族,他們中有的家族歷史可以追溯到拜占庭帝國時期甚至更早的古典希臘時代,因為這裏曾經受拜占庭的東羅馬帝國統治,而且古希臘時代黑海沿岸地區深受希臘文化的影響。
恰克瓦的一座茶莊,來自中國的種茶大師周勞章,攝於1905~1915年
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在巴圖米(Batumi)城北的小鎮恰克瓦的一座茶園與茶場裏,中國工頭站在栽種成功的茶樹與新插的植株之間留影。在如今格魯吉亞的黑海沿岸地區,當地的亞熱帶氣候非常有利於茶樹生長。這位周姓工頭胸前還別著俄國政府頒發的勛章。其實歷史上中國對外的茶葉貿易中,主要是由東南沿海及華南的港口出口到歐美,但還有一部分來自兩湖及四川地區的茶葉則是經由蒙古、河西走廊、新疆等地出口到俄國。茶葉在中俄兩國貿易中占據大宗,沙俄帝國還在漢口開辟租界,其最大的產業就是磚茶��工。而引發辛亥革命的武昌起義,也是因為革命黨人在俄租界制炸彈不慎爆炸,花名冊被搜出而不得不提前爆發。
從小村莊斯維特(Svet)看到的阿特溫(Artvin)全景,1904。巴圖米以南55公裏處的阿特溫小城緊鄰楚拉河,如今這裏屬於土耳其。
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穿著傳統服裝的亞美尼亞婦人
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一百年前阿特溫是在亞美尼亞境內,但如今屬於土耳其的一部分。照片中這位亞美尼亞婦人的穿著就表明了她是基督教徒。公元301年,亞美尼亞於世界上首次將基督教定位國教,該國以文學和建築聞名。
鹽峽(Saltinskoe),位於達吉斯坦崎嶇的高加索山中
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達吉斯坦人物,1904-1905年
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達吉斯坦在土耳其語裏是"山地"的意思,境內居住著許多民族。照片中是一位遜尼派穆斯林男子,穿戴著傳統服裝及帽子,腰挎一把入鞘的匕首。
格拉佛夫卡村裏的移民家庭,1907-1915
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高加索山以南,裏海以西的姆幹平原上,俄羅斯裔的移民建立一座小型聚居點格拉佛夫卡(Grafovka),該地緊鄰與波斯的邊境。向沙俄帝國非歐洲部分的疆域,尤其是邊疆地區遷徙俄羅斯裔移民,即俄國版的"移民實邊",向來為俄國政府所鼓勵。這也是西伯利亞、遠東地區、及高加索地區大部分俄羅斯人的來源。
從提維爾裏神父的房間裏看到的諾維阿方修道院(Novi Afon)及黑海海岸全景。
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在卡羅利茨哈裏(Karolitskhali)河邊,攝於1905~1915年間
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普羅庫丁-戈爾斯基在一條山溪旁留影,據認,這條溪流是黑海東岸,發源於高加索山區的卡羅利茨哈裏河(Karolitskhali)。
1812年法俄戰爭時期拿破侖戰役所涉及的地區 --- 1911~1912年,普羅庫丁-戈爾斯基沿著自莫斯科以西的莫紮伊斯克(Mozhaisk)開始,終於馬羅-拉羅斯拉維茨的環形路線進行考察。
德文斯克(Dvinsk)的羅馬天主教堂,1910
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維特別斯克(Vitebsk)城局部及西德文那河(Dvina)。此城是由中歐地區從波羅的海沿岸前往聖彼得堡必經的一個重要據點。
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波洛迪諾(Borodino)的高爾基村附近,科羅齊河(Koloch)陡峭的河岸。
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波洛迪諾是拿破侖進軍莫斯科前的最後一處要地,雙方估計有二十五萬人馬於此進行了一場慘烈的戰役,傷亡至少達七萬多人。照片中的這片田地就是以前的戰場。托爾斯泰在《戰爭與和平》中描述的最激烈的場面就發生在這裏。如今只剩下無垠的田野,頗有"九裏山下古戰場,牧童拾得舊刀槍"的意境。
從聖母升天大教堂的鐘樓頂上俯瞰斯摩棱斯克北半城,1912年
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斯摩棱斯克坐落於第聶伯河畔。這座四面圍著城墻的古城在歷史上遭遇數次摧毀。拿破侖和希特勒侵略俄國時,它都正處於他們的入侵道路上。這張照片顯示了1941年斯摩棱斯克戰役之前的城市景貌,那場戰役後,此城百分之九十三都給徹底摧毀了。那些歷史悠久的名勝就此永遠消失了。
從西南方遠眺聖尼古拉斯大教堂,1911年
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莫斯科以西,莫紮伊斯克(Mozhaisk)那些外表普通的民宅建築之間,一條土路通向了色彩鮮艷,建於1802 - 1814年間的聖尼古拉斯大教堂。
特維爾察(Tvertsa)河右岸隔河遠望基督復活女修道院,攝於1910年,托兒佐克鎮(Torzhok)。托兒佐克是俄羅斯特維爾州的一個鎮,以民間傳統的金線刺繡而聞名。
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烏拉爾山區及烏拉爾工業區 --- 1910年,普羅庫丁-戈爾斯基兩次前赴烏拉爾工業區采風。第一次他從佩爾姆(Perm)出發,先往東南方向,然後西折,止於米尼亞(Minyar)。第二次他從米尼亞朝東北向,一路到車爾丁(Cherdyn)。
薩京斯基工廠的煉鐵高爐,1910年
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工藝鑄造的翻砂工序
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創建於1747年的卡斯裏鐵工廠,它坐落於烏拉爾工業區的中心葉卡捷琳堡(Ekaterinburg)於車裏亞賓斯克(Cheliabinsk)之間鐵礦蘊藏豐富的地區。該廠以精良的鑄鐵產品及手藝高超的鑄造匠人而聞名。在此照片拍攝時,人數達三千多之眾。
科爾切旦斯科耶(Kolchedanskoye)村,1912年
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葉卡捷琳堡東南方的烏拉爾山區,一條土路越過一座石橋,通向科爾切旦(Kolchedan)小鎮。在1673年建立時它還只是個邊防木寨,到1912年拍攝這張照片時,該鎮已經發展成了一個砂巖開采及加工中心,鎮上還有兩座規模不小的石砌教堂,包括了一座帶附屬學校的女修道院。
三代人
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位於烏拉爾山區裏的工業城鎮茲拉圖斯特(Zlatoust)內,卡爾甘諾夫與他的兒子及孫女祖孫三代一起合影。其中兒子與孫女都在茲拉圖斯特兵工廠工作。照片中卡爾甘諾夫還穿著傳統的俄羅斯服裝並留起大胡子,而其兒孫更趨向西方的現代穿著與發式打扮。
架於石砌橋墩上,在佩爾姆(Perm)附近跨越卡馬河(Kama)的西伯利亞鐵路大橋。
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泛西伯利亞大鐵路的建設者們在興建該條從俄國的歐洲部分到太平洋沿岸,長達6000多英裏的線路時,這條河流只是只是他們面臨的自然障礙之一。
佩爾姆市內烏拉爾地區鐵路管理總部,1909年
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佩爾姆市內的夏季交易所,1909
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西姆斯卡亞小站(Simskaya)附近的路邊一景,1910年
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幹草貯存的方法,攝於瓦伊亞卓瓦伊亞小站,1910年
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緊鄰西伯利亞大鐵路的瓦伊亞卓瓦伊亞(Vyazovaya),原木搭建的幹草及糧食倉庫。後方背景是茂密的松樹林。照片中可以看到,因為取暖生火或炊煙升起,導致三色底板上影像錯位,所以出現了紅、綠、藍三色煙霧的幻像。
瓦伊亞卓瓦伊亞(Vyazovaya)小站外的鐵路彎道。
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西姆斯基紮沃德(Simskii Zavod)附近的山丘
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烏拉爾山區及西西伯利亞的水路考察 --- 1912年,普羅庫丁-戈爾斯基在西西伯利亞沿堪姆斯考-托布爾斯基(Kamsko-Tobolskii)水路溯流而上,從Perm城外穿過葉卡捷琳堡周邊,再向東北一直到托布爾斯克(Tobolsk)。
秋明(Tyumen)市內的圖拉河,右岸是三一修道院
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秋明是俄羅斯在西伯利亞的第一個移民城市,該城於1586年,作為沙俄東擴的一個重要軍事據點而建立。也是西伯利亞最古老的城市,也是烏拉爾山以東最重要的工業與經濟中心。因為地處數條商路的交匯點,又有便捷的水路,秋明很快從一個小軍事據點發展成為大型工商城市。市中心的老秋明城區還保留著許多貫穿該市歷史的建築。
北面的耶穌變容大教堂的鐘樓頂上俯瞰托布爾斯克(Tobolsk)。
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自其於1587年建城到1800年代後期,托布爾斯克是西伯利亞最大而且最重要的城市。數世紀以來,托布爾斯克擔任俄國在西伯利亞統治的軍事、行政、及政治中心。這張全景照片的前方是伊爾泰什河(Irtysh),然後自市中心以遠則是寬廣而平坦的西伯利亞大平原。
久拉特庫爾(Zyuratkul)湖畔的漁人。
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寂靜的西姆河畔
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伊塞特河邊的老翁獨釣
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靜靜的薩特卡小河(Satka)。
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托卡熱夫卡村(Torkorevka)旁的臨河峭壁。
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米尼亞爾(Minyar)附近的西姆河谷。
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烏法(Ufa)舊城區全景,前景的奧倫伯格木浮橋上車來人往。由於三色攝影曝光時間相對較長,故而橋上的車看不到影像,只有一塊塊的洋紅色,靛藍色,與黃色的斑點。
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自高爾尼(Gornyi)區長的官邸望去對岸的葉卡捷琳堡水邊美景。
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阿莎-巴拉肖夫斯基(Asha-Balashovskii)小站附近的西姆河邊。攝於阿莎村,1910年
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在楚索瓦亞河(Chusovaya)邊的過夜營地
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照片中是普羅庫丁-戈爾斯基與他的攝影團隊在營地過夜。營地臨近歐亞分水嶺烏拉爾山西側的楚索瓦亞河邊。
伏爾加河上遊地區,從源頭到卡利亞辛(Kalyazin)--- 1910年,普羅庫丁-戈爾斯基乘坐一艘由帝國交通部提供並操作運行的蒸汽船考察了自伏爾加河源頭至卡裏亞辛的河段。第二階段他繼續在卡辛到馬卡熱夫之間的伏爾加河地區進行考察。第三階段(1911年)考察的是伏爾加河上遊,雅羅斯拉夫(Yaroslavl)、弗拉基米爾(Vladimir)、考斯特羅馬(Kostroma)、羅斯托夫維兒勒基(Rostov Velikii)等支流間的流域。
彭諾湖(Peno)附近,西德文納河的源頭。1910年
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從斯維爾特利察(Svetlitsa)看到的修道院
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坐落於塞裏格湖(Seliger)中斯陶羅伯尼亞(Stolobnyi)島上的聖尼爾修道院,它的經歷正好可以說明俄國東正教會的命運。1528年,聖尼爾於此建起了一座小修道院。到1600年代早期,他的信徒們將其建成帝國境內最大,最富有的一座修道院。到1927年,蘇維埃執政後,修道院被迫關閉,而這些場地建築曾被用於各種用途,包括集中營與孤兒院。1990年,全部房產又歸還給了俄國東正教會。
位於戈羅夫(Grove)的耶穌復活大教堂,1910年
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傳說,商人基裏爾伊薩科夫(Kiril Isakov)在從英國運來的一批染料中發現了一小桶黃金。他隨即寫了封信寄往倫敦的公司,對這批意外之財估了價。對方如此回信道:用這批黃金做善事吧。因此在1652年,基裏爾伊薩科夫就建起了這座漂亮的教堂。
弗拉迪卡夫卡茲(Vladikavkaz)城中的大清真寺。
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位於羅斯托夫維裏基(Rostov Velikii)城堡裏的基督復活大教堂,1911
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伏爾加河畔的特維爾城(Tver)
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祖貝措夫鎮(Zubtsov)及其旁繞流而過的伏爾加河。
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伏爾加河緩緩流經托爾卓克鎮(Torzhok)
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從鮑裏斯和格萊布雙聖大教堂看到伏爾加河沿岸的斯塔瑞察(Staritsa)鎮
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奧卡河及蘇茲達爾 --- 1912年,普羅庫丁-戈爾斯基在莫斯科以南的奧卡河上沿流自戴德諾沃(Dednovo)考察到蘇茲達爾(Sudal)。
亞歷山德羅夫市(Aleksandrov)內的三一修道院全景,1911年
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鐵路、弗拉基米爾小城(Vladimir)、克裏亞茲馬河(Kliazma),以及遠處的水草豐美之地,1911年
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卡門卡河(Kamenka)畔的蘇茲達爾(Suzdal)景色。
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莫斯科東南,臨近德丁諾沃(Dedinovo)小鎮,在準備為跨越奧卡河的水壩基礎澆築水泥混凝土的間隙中,工人們與監工一起合影。
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奧卡河上的鋸木廠
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摩爾曼斯克鐵路 --- 1915年,普羅庫丁-戈爾斯基考察紀錄了摩爾曼斯克鐵路系統,從羅德伊諾伊坡勒往北直到克姆(Kem)。
摩爾曼斯克鐵路上,在彼得羅紮沃茲克附近乘坐一輛手搖軌道車,1915-1916年
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在彼得羅紮沃茲克(Petrozavodsk)附近,奧涅加湖邊的這段摩爾曼斯克鐵路上,普羅庫丁-戈爾斯基與一位鐵路官員乘坐一輛手搖軌道車上,動手推搖的是三名奧地利戰俘。
摩爾曼斯克鐵路建設的工程與管理團隊,1916年
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一戰時,被俄軍俘虜的奧匈帝國戰俘的營地,1915年
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在一次大戰初期,普羅庫丁-戈爾斯基拍攝了一群來自奧匈帝國的戰俘。這些人大概是波蘭人、烏克蘭人、以及其它斯拉夫民族成員。這張照片之所以沒有像其它內容涉及政治敏感的相片那樣被沒收,可能是表面���,它的題材內容不那麽明顯。
從陸地上看向索羅維茨基(Solovetskii)修道院,1915年
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位於白海中的一個島上,建於十五世紀早期的索羅維茨基修道院,是數百年來俄國最重要的修道院及文化機構。修道院的部分毀於早期的蘇聯,這裏成了古拉格系統的第一座重要集中營。蘇聯崩潰後它又重歸為東正教會的修道院。
漁村一角,1916
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基瓦齊(Kivach)瀑布邊,1915年
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普羅庫丁-戈爾斯基在基瓦齊瀑布邊的自拍像。移動物在三色攝影中通常會引起"幻影",因此他開始以快速流動的水流進行攝影實驗,結果出奇的好。
其它類型 --- 除了在各地采訪紀錄外,普羅庫丁-戈爾斯基還拍攝了一些其它題材的照片,有人物肖像,工業設施,花草樹木等。
普羅庫丁-戈爾斯基在瑞士參加國際學術會議時,所拍攝的盧加諾湖美景。
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書房裏的婦人肖像,攝於1904-1905年間
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普羅庫丁-戈爾斯基的大部分照片都是在自然背景中取景,但這一幅拍攝於影室內的照片,是他作品集裏難得的例外。
倚門而立的貴婦人。
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裝置在摩爾加布河上的水電站的發電大廳裏,原產於奧匈帝國布達佩斯的大型整流器。1906 – 1911
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棉紡廠的車間
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裝了施密特(Schmidt)鍋爐的復合蒸汽機車頭,後面背景處的車廂就是就是普羅庫丁-戈爾斯基一路采風紀錄旅程中照相工作室與生活場所。
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盛開的紫羅蘭
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瓶中花
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野地裏的罌粟花
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猞貍標本,來自車爾丁(Cherdyn)阿林(A·P·Alin)先生的收藏。這是普羅庫丁-戈爾斯基作品中及罕見的以動物為主題的照片,盡管只是動物標本。
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整篇文章的篇幅確實太長,但有些圖片太美,有些則是內容獨特,還有一些則是深具時代特色,總之三個字:舍不得。所以隨著圖片一張張地挑出,文章也一段段地加長。但這次的素材的確特別,因為在數碼攝影技術日新月異的今天,用物理和化學手段進行彩色攝影已經日趨式微。柯達公司已經宣布物理方式的黑白攝影已經是歷史性的過程了(historic process),也就是柯達將不再生產黑白膠卷並提供相應的化學沖印服務了。以後攝影愛好者想要做實體的黑白攝影,就須自己從頭做起,包括配比藥水,暗房沖洗。彩色的實體攝影看來也將步之後塵,而且不同於黑白攝影,個人愛好者可以在自家設置暗室,彩色攝影需要一整套的相關工業體系配合,一旦淘汰,舊一去不復返了。也許一些面向小眾市場的廠家還會提供這方面的產品及服務,不過那代價與成本就另說了。
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5484tabulae · 5 years
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散策研究会 Cadavre K 「徘徊する観察者 Vacant Lot」
散策研究会 Cadavre Kによる展覧会
「徘徊する観察者 Vacant Lot」
をTABULAEで開催いたします。
※散策研究会 Cadavre Kとは、2011年から開始された、美術家北川裕二によるプロジェクトの名称です
|会場|
TABULAE (墨田区向島 5-48-4)
|会期|
2018/11/24 (土) - 12/16 (日)の金土日
- 金 15:00 - 20:00
- 土、日 14:00 - 20:00
※曜日によって開場時間が異なりますのでご注意ください
オープニングレセプション
11/24(土)18:00 - 20:00
|イベント|
第5回 漂流教室 「まわり道してTABULAEに向かう」
12/8(土)14:00 - 17:00(終了時刻は前後する場合があります)
集合場所 東武スカイツリーライン/東武亀戸線 曳舟駅改札口付近
定員 5名
参加費 無料(要予約 参加申込み締切12月6日)
東武曳舟駅に集合し、3時間ほどかけて墨田区京島、向島エリアを散策しながらTABULAEに向かいます(台風・雷雨・地震・大雪など災害級の天候以外は、雨天でも決行します)。
>漂流教室について
※こちらのイベントは定員に達したためご予約の受付を終了いたしました
アーティストトーク
12/15(土)18:00 - 19:00
ゲスト 沢山遼(美術批評)
定員 15名
参加費 1000円(要予約 参加申込み締切12月14日)
美術批評家の沢山遼氏をゲストに迎え、アーティストトークを行います。ゴードン・マッタ=クラーク展図録に掲載された沢山氏の論考「都市の否定的なものたち ニューヨーク、東京、1972年」を参照しながら、都市、写真、散策と介入といったトピックについて議論します。
沢山遼 1982年生まれ。美術批評。武蔵野美術大学大学院造形研究科修士課程修了。2010年「レイバー・ワーク──カール・アンドレにおける制作の概念」で『美術手帖』第14回芸術評論募集、第一席。主な論文に「ニューマンのパラドクス」田中正之編『ニューヨーク 錯乱する都市の夢と現実(西洋近代の都市と芸術7)』竹林舎、2017年。「ウォーホルと時間」『NACT Review 国立新美術館研究紀要』第4号、2018年。「都市の否定的なものたち ニューヨーク、東京、1972年」『ゴードン・マッタ=クラーク展』(東京国立近代美術館、2018年)など。
※両イベントは予約制となっております。参加をご希望される方は、件名を「漂流教室予約」または「トーク予約」とし、①お名前②ご連絡先③希望日時④人数 をご記入の上、[email protected]までメールをお送りください。
『徘徊する観察者 Vacant Lot』開催にあたって|散策研究会 Cadavre K
散策研究会 Cadavre Kとは、2011年3月11日の東日本大震災に強烈な衝撃を受けたアーティスト北川裕二によって、同じ2011年から開始されたプロジェクトの名称です。今回のTABULAEでの新作展が、散策研究会 Cadavre Kとしては初の個展になります。あれから8年が経ったとはいえ、むろん福島第一原子力発電所は「収束」などまったくしておらず、同じように大地も揺れ続けています。したがって今回展示される作品は、そのどれもが3.11以後に制作されたものであるとしても、 むしろ“3.11下”のそれであるといってよいでしょう。
散策研究会 Cadavre Kは、以来、痙攣するこの世界を継続的に観察・記録しつづけてきました。しかし、その観察対象は福島県や岩手・宮城県などではなく、意外にもいま私たちが立っているこの場所でありました。観察対象への姿勢は当初、何よりもまず、直立二足歩行する私たちの、この足元の地面への関心から始ったのです。そのうえに築かれたあらゆるものは幻想なのではないか。であるとするならば、幻想はいかにして自然との関係を取り結んでいるのか。対立関係にあるものどもの、相反する構造(システム)と構造(システム)が、否が応でも接せざるをえない境界線、エッジが���あるいは「構造(システム)」の回収し得ない外部的なものが、観察対象として注目されました。
ほとんどの散策は、日中のほぼ一日をかけて台地や低地をひたすら歩いて横断していくというものでした。“下町”と呼ばれる沖積低地、“山の手”と呼ばれる洪積台地、あるいは武蔵野平野、奥多摩山間地など。地形学の地形区分に従っていえば、 多摩面(T面)、下末吉面(S面)、武蔵野面(M面)、立川面(Tc面)の特徴と、それらが接する際に発生する崖線等の境界線や河川についての知識が事前に取り入れられもしました。定点観測ならぬ、歩行による動線観察が何度もくりかえされ、各地域・エリアにそれぞれ漂う特有のアトモスフィア、ムードは、散策者の心理状態の変化に影響を及ぼすことが確認されました。そうして、しだいに「東京の自然史」(貝塚爽平)が把握されていったのです。散策研究会としての散策は、これまでに123回を数えます。
また、同時に、踏み固められた地面の上に存在するあらゆるもの、すなわち植生・気象・家屋との関連全般が観察対象となり、写真に記録されていきました。散策またその写真記録は、当初、アートとしてはまったく考えられてはいなかった。むしろ、3.11の衝撃は、自然災害においてのみならず、政治的・文化的にもアートの「創造」的な「表現」による「生産」を不可能にしたように思えたからです。したがって、今回の展示においても、それへの疑いが根底にはあることを記しておきます。
地形・植生・気象・家屋の全般を観察対象にするということは、いかなる些細な事象も見落とすことなく全体を知覚・認識するということ。世界のすべてを対象にするということです。生態学的に言えば、個体のみならず、個体群、群集といった階層を異にするもの全般を、そしてまた、位階秩序の異なるそれらの影響関係をも観察・記録対象にするということでもあります。身の回りの環境や社会、つまりは生活を成り立たせているアレコレは、そのようにアレやコレやソレとして一括りにされて、記憶・記録から排除されてもきました。散策研究会が関心をもったのは、まさにそのような無数のアレやコレでありました。衝撃とは、近代化の名の下に隠蔽・排除されたものどもが、「原発震災」(石橋克彦)によって再び私たちの世界に回帰してきた、そのことにあったというわけです。
写真というメディアは、このような研究にはうってつけの道具でした。なぜなら、カメラの眼は原理的にいって、ヒトの眼と違い、“すべてのものを等価なもの”として扱うことができたからです。眼で見ていたときには見えなかったものが写真には写りこんでいたというのは、カメラのこの等価性、すなわちあらゆるものを平等なものとして、なんでも選ばず記録してしまう、このアナーキーな機能によるところのものではないでしょうか。
本展は、こうしたカメラ・写真の可能性を再び抽出しようとする試みでもあります。そこには、“すべてのものが等価なもの”として記録されている。しかし、そうであるがゆえに、その可能性は、他方で、ブレもピンボケもなく構図もしっかり撮れているにもかかわらず、“誰が、いかなる目的をもって、誰のために撮影したのか、皆目見当のつかない、まったく不明なる写真”という、実に奇妙に倒錯した(不)可能性の窓をも同時に開いてしまうのではないでしょうか。この点に、写真の機能が孕む矛盾が見てとれます。そこに提示されているのは、いわば世界の「無名性」のことにほかなりません。実現しているかどうかはさておき、このような写真の(不)可能性を本展では模索しています。
セレクトされた写真と映像は、昨年から今年にかけて撮影されたものに限られています。撮影箇所は主に武蔵野面(M面)の東端であり、区としては、中野区にあたります。中野区の同じエリア、環境をくりかえし何度も徘徊する。そのようなことはこれまでに一度も試みたことがありませんでした。
そしてこのことは、先程「武蔵野面(M面)の東端」と書きましたが、本展においては、地形的特徴への関心が次第に後方へと退き(薄らいだわけではありません)、かわって植生(主にヒト)と家屋、そして何よりも気象への関心が全体に配されてくるものへと推移してきたことと関連しています。くりかえし同じエリアをおとずれる散策スタイルは、写真の機能をより自覚的に操作しようということに、何らかの影響を与えていると感じています。
本展のコアとなる作品群は四部構成となる予定です。 ①独立した1点ものの「写真作品」 数点 ②数点の写真が組み合わされた「写真作品」 数点 ③液晶ディスプレイもしくはプロジェクターで鑑賞する「スライド作品」 ④液晶ディスプレイもしくはプロジェクターで鑑賞する「映像作品」 ①~④の作品にはシリーズとしてのメインタイトルと、各作品としてのサブタイトルが付されています。各メインタイトルは、①Survey Point (測量点) ②Photogrammetry(写真測量法) ③Voronoi Diagram(ボロノイ図) ④Skid Movie(横滑りの映画)となっています。また、参考資料として、本展の作品に関係する散策ルートを図解したパネルも展示する予定です。
また、本展覧会としてのメインタイトルとなった“Vacant Lot”ですが、これは日本語では空閑地のことです。一時的に未使用になった空き地。英語名にしたのは、“Vacant Lot”という言葉に興味をもったからです。この“Lot”には、くじ、運、運命という意味があるようで、それが一時的に空き地となった区画を指す言葉にも使用されているというのがおもしろかった。“偶々割り当てられたもの”としての空閑地。文字通りに訳せば、“空っぽの運命”です。
これは、今年国立近代美術館で回顧展が開かれたゴードン・マッタ=クラークの仕事を想起させます。カタログに掲載された美術批評家沢山遼氏の論文にマッタ=クラークの発言が引用されていて、瞠目しました。以下、孫引きですが引用させていただきます。
「グリーン通り112番地でやったアナーキテクチャーの展覧会は[…中略…]なんらかの強い形式性によって固定されることのない、固定化した建築的ヴォキャブラリーの外部にあるものについてのものだった。[…中略…]ぼくたちが考えていたのは、隠喩的なヴォイド、空隙、残余的空間、未発展的な場についてだった。[…中略…]たとえばそれは、立ち止まって靴紐を結び直すような、日常的な動作がふと遮られるような場だ。そのような場は、知覚的な重要性を帯びていると思う。なぜならそこで人は動的な空間に触れているんだ。」 (「ゴードン・マッタ=クラーク展」カタログ p.265)
つまり、“Vacant Lot”とは、この解けた靴紐のことなのかもしれません。紐が解けて固定された意味が一時的に宙吊りとなる時。場所。その瞬間はおそらく、九鬼周造のいう偶然性のごとく「現実性へスルリと滑ってくる推移のスピード」を持っているに違いない。“無”が偶然性によってもたらされるということ。環境、生活、世界への認識を深め、未来を洞察するにも、このような人と自然の接するエッジに現象するささやかな出来事に対する認識をさらに深めていく必要がありそうです。今回の展覧会がそのような世界への見方、感じ方、考え方に寄与できれば幸いです。
最後に、Cadavre KのCadavreはフランス語で、日本語では死骸のことです。したがって、Cadavre Kは、死骸キとなります。“キ”とはキタガワの“キ”のことです。3.11以後のプロジェクトにそう名付けたのは、このプロジェクトがそれまでの作品とはまったく異なることもありましたが、同時に、3.11以後、偶々生き残った=生き延びているという感覚を今も持ち続けているからにほかなりません。それは、どこか幽霊的に仮構された作者名といえるでしょう。
散策研究会 Cadavre K
2011年から開始された、美術家北川裕二によるプロジェクト
漂流教室
第一回 霊岸島から埋立地へ (2015/milkyeast) http://ur2.link/N8ZH 第二回 河岸と下町低地(2015/milkyeast) http://urx.red/N901 第三回 山の手の<むらぎも>を巡る(2016/路地と人) https://rojitohito.exblog.jp/22767074/ 第四回 崖線上のカフカ──中野区を歩く(2017/路地と人) https://rojitohito.exblog.jp/23871177/
散策研究会 これまでの主な散策エリア
001 2011_06_11 新宿御苑 002 2011_06_18 等々力渓谷 003 2011_06_25 赤坂見附 004 2011_06_29 丸の内線・四ッ谷駅 005 2011_07_02 下末吉台 006 2011_07_06 迎賓館・明治公園 007 2011_07_09 市ヶ谷・飯田橋 008 2011_07_16 お茶の水・神田川・隅田川 009 2011_07_22 野川 010 2011_08_06 新木場 011 2011_08_11 高尾山 012 2011_08_20 隅田川・スカイツリー 013 2011_08_25 菊名・獅子ケ谷・下末吉台 014 2011_09_02 渋谷川 015 2011_09_08 皇居・日本青年館 016 2011_09_11 新宿・原発やめろデモ 017 2011_09_17 渋谷川・古川 018 2011_09_19 さようなら原発・渋谷川 019 2011_09_24 赤坂 020 2011_10_01 善福寺川 021 2011_10_07 港の見える丘公園 022 2011_10_13 山手 023 2011_10_22 宇田川跡 024 2011_11_03 御岳山・ロックガーデン 025 2011_11_09 巣鴨・田町・谷中 026 2011_11_12 神田川・小日向台 027 2011_11_17 都電荒川線・王子・荒川 028 2011_12_03 愛宕山 029 2011_12_14 上野・根津・谷中 030 2011_12_15 弘明寺 031 2011_12_21 荏原台 032 2011_12_30 立川段丘 033 2012_01_01 狭山丘陵 034 2012_01_05 三殿台遺跡 035 2012_01_12 目黒自然教育園 036 2012_01_19 明治神宮 037 2012_01_26 清瀬 038 2012_02_04 深大寺・府中 039 2012_02_08 江戸前島 040 2012_02_15 江戸前島 041 2012_02_24 浜離宮 042 2012_03_03 吉見百穴 043 2012_03_15 江東区・運河 044 2012_03_17 江東区・運河 045 2012_04_07 神楽坂 046 2012_04_14 渋谷川・明治神宮 047 2012_04_20 町田・自由民権資料館 048 2012_04_28 市ヶ谷・早稲田 049 2012_05_17 町田・自由民権資料館 050 2012_05_26 江東区・戦災センター 051 2012_06_07 全生園・滝山団地 052 2012_06_14 清瀬 053 2012_06_16 京島 054 2012_06_23 玉川上水・首相官邸前 055 2012_06_29 首相官邸前 056 2012_07_12 神田 057 2012_07_13 首相官邸前 058 2012_07_16 代々木・さよなら原発 059 2012_07_02 新富町 060 2012_08_08 六郷土手 061 2012_08_12 日野 062 2012_09_08 本郷台地 063 2012_09_15 東京湾・葛西臨海公園 064 2012_10_06 生田緑地 065 2012_11_10 青梅・横田基地 066 2012_12_01 大山 067 2013_01_12 渋谷・元麻布・六本木 068 2013_01_14 獅子ケ谷 069 2013_04_13 日本橋川 070 2013_04_27 小平・玉川上水 071 2013_05_25 赤坂・六本木 072 2013_06_06 代官山 073 2013_07_07 東京駅地下通路 074 2013_07_13 王子・吉原・スカイツリー 075 2013_07_27 多摩丘陵・百草団地他 076 2013_08_17 中央防波堤埋立地 077 2013_08_24 仙川 078 2013_08_26 谷中墓地 079 2013_10_26 渋谷・地下道 080 2013_11_09 京島 081 2013_12_28 山手 082 2014_04_24 池袋 083 2014_05_17 高田馬場・神田川・淀橋 084 2014_06_27 駒込・田端 085 2014_07_13 平林寺 086 2014_09_06 秩父 087 2015_05_16 湾岸埋立地 088 2015_07_20 白山 089 2015_11_22 深川 090 2015_12_11 武蔵五日市 091 2015_12_12 武蔵五日市・城山 092 2015_12_18 戸山公園 093 2015_12_26 板橋・赤塚 094 2016_01_06 深川・森下 095 2016_02_02 国分寺崖線 096 2016_02_26 立川段丘 097 2016_04_03 日立研究所 098 2016_05_31 水道橋・小石川・白山 099 2016_10_18 神楽坂・近美・湯島 100 2016_12_06 佐伯祐三・熊谷守一美術館 101 2016_12_13 南青山 102 2016_12_20 原宿・渋谷 103 2016_12_23 戸山公園 104 2017_04_04 野方 105 2017_04_07 江古田 106 2017_05_12 上高田 107 2017_06_09 上高田・野方 108 2017_08_15 池尻大橋 109 2017_08_17 池の上・高円寺 110 2017_08_29 桃園川 111 2017_09_15 中野区南台 112 2017_09_20 新宿住吉町 113 2017_09_22 所沢 114 2017_10_10 中野区中野台地 115 2017_10_20 野方 116 2017_10_27 新宿末吉町 117 2017_12_15 沼袋 118 2018_04_24 鷺宮 119 2018_05_29 中野区中心エリア 120 2018_06_12 野方・沼袋 121 2018_06_15 杉並・堀の内 122 2018_07_06 野方・中野区中心エリア 123 2018_09_11 野方
北川裕二
1963 東京に生まれる
主な個展
1990『形のローカリズム』 ギャラリー現(東京) 1991『A PALASITE/READY-MADE SUIT MIX』 ルナミ画廊(東京) 1992『短絡的接合体』 モリス・ギャラリー(東京) 1992『分裂機械としての身体』 ルナミ画廊(東京) 1992『暮らしの変換』 モリス・ギャラリー(東京) 1993『格子/闘争』 MARS GALLERY(東京) 1993『歴史改造パズル』 GALLERY・GEN(埼玉) 1996『What is a hole?/Make a revision of…』 SHIKI FUJIMORI GALLERY(東京) 2005『Random Open Textured』 MARU GALLERY(東京) 2006『Dust passes through the window』 GALLERY OBJECTIVE CORRELATIVE (東京)
主なグループ展
1990『Bゼミ展』 横浜市民ギャラリー(神奈川) 1992『Project for O.T』 ギャラリー・サージ(東京) 1993『In Between』 FLOATING GALLERY(東京) 1993『CONSTRUCTION IN PROCESS』 ARTIST'S MUSIUM(ウッジ、ポーランド) 1994『身体美術感』 ハラ・ミュージアム・アーク(群馬) 1995『The Age of Anxiety』 The Power Plant(トロント、カナダ) 1996『ATOPIC SITE(On Camp/Off Base)』 東京ビッグサイト(東京) 1996~98『Maniacs of Disappearance』 国立美術館(ブエノスアイレス、アルゼンチン)、Austrian Musium of Applied Arts (ウィーン、オーストリア)、その他オランダ、イタリアなど巡回 1999『第34回今日の作家展 APPROACHING REALITY』 横浜市民ギャラリー(神奈川) 2010『City Beats + Live explosions』 BankART1929(神奈川) 2015『無条件修復—UNCONDITIONAL RESTORATION』 milkyeast(東京)
散策研究会──地殻を近くで知覚する
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xf-2 · 5 years
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「KAWATAとNANAのRAPT理論」に、新しく動画をアップしました。
今回は、「生長の家」について深く掘り下げてお話をしています。
過去の記事でも、何度かお話してきたのですが、また別の角度から「生長の家人脈」をご紹介しています。
はじめに、「生長の家」の教祖、「谷口雅春」と「小泉純一郎」の写真を比較しています。
こちらの写真比較は、ツイッターで紹介されたもので、注目を集めています。
ここから、「小泉純一郎」の出生についてご紹介していきます。
以下の画像は、「小泉純一郎」の父親、「小泉純也」です。
<右:小泉純也>
「小泉純一郎」の生まれについては、以下の記事をお読みください。
○小泉純一郎は『日韓ハーフ』
若いころの「小泉純一郎」は、「福田赳夫」の下で秘書をしていました。
<福田赳夫>
———————-(以下こちらから転載)
福田赳夫の秘書を務め、後に総理となる福田から政治家としての薫陶を受けた。
社会人生活の第一歩を浪人でスタートした小泉は、毎朝4時に起床した。
横須賀駅5時半発の電車に乗って、2時間かけて世田谷区にある福田赳夫邸へと通った。
福田のもとには初当選したばかりの塩川正十郎がいた。
当時のことを塩川正十郎は『週刊文春』の阿川佐和子との対談でこう語っている
「そうそう。彼は早起きで、福田さんの家の玄関で靴揃そろえておったね。
下足番だったの」
「で代議士が帰るときモータープールで“何々先生お帰り〜お車ぁ〜”て運転手を呼んでたの(笑)。
だから、僕は彼のホームページに“まさか総理大臣になるとは思わなかった”って書いたんです。大変な苦労をしてますよ。」、
「そのとき、福田さんが“こいつは意地の強いやっちゃ。なかなかしっかりしとる。だから、大物になったら、とんでもない大物になるけど、はぐれたら処置ない奴ぜぇ”と言うたことがあるの」。
福田邸で秘書の仕事は午前中で終わり、午後からは地元横須賀で自身の政治活動を行っていた。
———————-(転載ここまで)
「福田赳夫」は、「生長の家」と深いつながりを持っています。
———————-(以下こちらから転載)
従って十一月二十二日の生長の家秋の記念日には、谷口雅春先生の喜寿を奉祝して、新築なった飛田給練成道場で、「谷口雅春先生喜寿奉祝全国信徒大会」が開催された。
翌十一月二十三日の夜には、各界の代表者が発起人となって「谷口雅春先生の喜寿を寿ぐ祝賀会」(発起人・世話人代表・岸信介)が東京・ホテル・ニューオータニで開かれた。
祝賀会には福田赳夫大蔵大臣、永野重雄日本商工会議所会頭、庭野日敬立正佼成会会長、作家の林房雄氏、山岡荘八氏、画家の林武氏らをはじめ各界の代表三百数十名が参列して、谷口雅春先生の喜寿を祝ひ、生長の家の偉大さを讃えた。
———————-(転載ここまで)
「生長の家」の経典、「生命の実相」を読んで、感銘を受けた人物として紹介されています。
この名簿の中に登場する「鳩山一郎」は、「フリーメイソン」のメンバーでもあります。
○Wikipedia-鳩山一郎
○フリーメイソン秘密の儀式部屋に潜入! 超重要な「二つの石」の意味
(「フリーメイソンロッジ」の壁の写真です。下から4番目に「鳩山一郎」の名前があります。)
こちらは、「小泉純一郎」と「生長の家」との繋がりをしめす、イベントの案内です。
詳細は、こちらのリンクからお読みください。
「小泉純一郎」が関係しているレイプ、殺人事件について。
○小泉純一郎愛人小はん変死事件の真相
「小泉純一郎」は、「竹中平蔵」共に、日本をめちゃくちゃにする政治を行いました。
このことについては、「RAPT BLOG」で詳しく紹介されています。
以下のリンクから、お読みください。
○RAPT BLOG 小泉政権が行ったB層攻略マーケティング。その極秘資料を入手。
○RAPT BLOG 小泉・竹中改革下で起きた幾つもの暗殺・冤罪事件。日本はもう法治国家ではない。
○RAPT BLOG 日本をダメにした「小泉・竹中改革」の成功は、すべてトヨタ元社長「奥田碩」の力あってのお陰です。
「小泉純一郎」と「橋下徹」と「稲川会」の繋がりについては、こちらの記事をお読みください。
○「日本会議=生長の家」と黒い人脈。全ての悪は「生長の家」に通ずる。
ここから、「稲川会」と「ピーチジョン」と「生長の家」との繋がりを、ご紹介していきます。
「ピーチジョン」と「ワコール」の関係について
○苦境のワコールの最大の汚点、ピーチ・ジョン買収の代償…名門ブランド毀損
「ピーチジョン」と「稲川会」と「押尾学」の関係について
○Wikipedia-押尾学事件
○ピーチジョンと押尾の怪しい関係
<塚本幸一>
○Wikipedia-塚本幸一
事件後、釈放された「押尾学」は、参院のドン「村上正邦」の下で書生をしていました。
○あの押尾学が元「参院のドン」村上正邦事務所でお茶酌みしていた!(週刊文春)
<村上正邦>
彼は、「生長の家人脈」の中でも、特に重要な人物です。
くわしくは、以下のリンクからお読みいただけます。
「YouTube」で、対談もご視聴いただけます。
○RAPT×読者対談〈第121弾〉清和源氏と日本会議と蝦夷共和国と緑の星。
○RAPT×読者対談〈第122弾〉現代日本の支配構造は、安土桃山時代と全く同じ。
「村上正邦」の一言によって「森喜朗」が、総理大臣に就任することになりました。
<森喜朗>
「森喜朗」の神の国発言で話題となったスピーチの内容は、以下のようなものでした。
○Wikipedia-神の国発言
・日本は天皇中心の国である。
・森や自然を大切にしなければならない。
・どんな宗教も自由だから尊重する。
これらは、「生長の家」の教理と、ほとんど同じ内容なのです。
そして「森喜朗」は、「日本会議国会議員懇談会」の発起人であり、現在、「東京オリンピック組織委員会」の会長も務めています。
○Wikipedia-日本会議国会議員懇談会
前の動画で、「東京オリンピック」のエンブレムは、「生長の家」と深く関係しているというお話をしました。
「森喜朗」も「生長の家人脈」のひとりなのです。
芸能界も「生長の家」が深くかかわっているということが、判明しました。
この「生長の家」人脈は、どこまでもつながっていきます。
今回ご紹介したことは、ほんの一部です。
彼らは、大きなネットワークを通して、私たち庶民に、多大な影響を及ぼしています。
「生長の家」の正体については、「RAPT BLOG」で、詳しく紹介されています。
以下のリンクからお読みいただけます。
○RAPT BLOG 安倍晋三・稲田朋美をはじめ緑の勢力が「第三次世界大戦」を引き起こそうとしている厳然たる事実。
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10.日本の朝鮮からの撤退後についてのまとめ
問い9:日本の朝鮮から撤退後について>10.日本の朝鮮からの撤退後についてのまとめ
目次は こちら
10.日本の朝鮮からの撤退後についてのまとめ
①  日本は目に見えない多くの影響を朝鮮に残してきました。官僚による税の横領や国王による売官売職をなくし、両班による収奪もなくなり、両班も働くようになり、虐げられていた常民と奴婢が平等な韓国国民の一員となり、誰でも学校へ行けるようになるなど、近代化された国家として多くの人々が生活できるような環境を日本は残してきました。
②  日本が朝鮮から撤退した後に、朝鮮に残してきた目に見える有形物は、16万戸の日本人住宅居、小学校から大学までの6500校以上の各種学校、多くの工場や銀行、朝鮮中に張り巡らされた道路と鉄道、電話などの通信施設、各種病院など、李氏朝鮮時代には無かった多くを残してきました。その総計金額は現在価値に換算して122兆7000億円+A+B+C+Ⅾとなります。
③  その上で、「韓国との基本関係条」と「請求権・経済協力協定」を締結して、3億ドルの無賞支援、2億ドルの有償支援と、3檍ドルの民間支援を合わせて8億ドルの支援をしました。これは当時朝鮮の国家予算の2.3倍の巨額なものでした。
④  さらに、1965年に国交が始まった後、113項目に及ぶ現在価値で約約3兆円のODAと無償支援を行い、韓国の発展を支援しました。
⑤  アメリカに移住した51人の朝鮮人年配者の日本統治時代の実態を、アメリカ人の学者が聞き取った調査によれば、誰も日本から圧迫されず、収奪もされず、日本人と平穏に仲良く一緒に豊かに暮らしていたことが分かりました。この人たちは、現在の韓国政府による反日教育を受けていないので、日本統治時代の事実を示していると思われます。
⑥  天皇・歴代総理大臣と大臣・国会決議などで合計24回も、韓国への謝罪を繰り返してきました。 しかし、日本が朝鮮で行ったことは「今世紀の一時期において、両国の間に不幸な過去が存した」といえるのでしょうか。日本人にとっては血税を投入して不幸であったとしても、朝鮮にとって問い8で記したことは不幸な過去ではなかったといえませんか。  そして、「貴国および貴国民に多大な困難をもたらした」と日本の総理大臣が韓国に謝罪した「多大な困難」とは何だったのでしょうか。 「過去の一時期,朝鮮半島の方々が我が国の行為により耐え難い苦しみと悲しみを体験された」と日本の総理大臣が謝罪していますが、日本の統治時代に朝鮮の人々は自由に活動して豊かになっていました。豊かになることは耐え難い苦しみと悲しみだったのでしょうか。  さらに、「我が国が過去の一時期韓国国民に対し植民地支配により多大の損害と苦痛を与えた」と謝罪していますが、日本は韓国国民に損害を与えるどころか、逆に日本から多額の血税・資金と人材・技術などを惜しみなく投入して、李氏朝鮮の惨状を改善してきました。これは韓国国民にとって「多大な損害と苦痛」だったのでしょうか。  日本政府は事実確認もせずに、なぜ謝罪ばかり重ねたのでしょうか。謝罪すれば、その謝罪内容が事実と認定され、その結果は相手の云う通りの罰を受けることを意味しているのが世界の常識なのです。李子朝鮮では罪を犯していなくとも、拷問で罪を自白すれば処刑されることが、知られていました。
⑦  「日本は朝鮮人女性を強制連行した」との韓国の主張は朝日新聞による14年間の18回にわたる報道によって、構築され世界に広がった虚構です。最初の報道から34年後にその報道が誤りであったと朝日新聞が認めて撤回しましたが、そのときには、すでにこの虚構が事実と思われて世界中に広がり、韓国では従軍慰安婦問題として2020年時点でも反日活動の中心に据えられています。
⑧ 李氏朝鮮末期の状況をみると、売官売爵と無責任な日和見的な国王、誣告と党派争いに明け暮れる高級官僚、末端官僚までの腐敗と横領と不正と収奪の横行、貧しさを自己防衛として怠け者を装う農民と漁民、このような国王から末端まで腐りきって底無しの泥沼に沈んでいる李氏朝鮮があり、この状態を、現在価値で40兆円超もの日本人の血税と資金を投じて、改革に取り組んだ日本の姿がありました。
⑨ しかし2020年現在の韓国は、日本による朝鮮統治は不法かつ不当であり無効であるとして、「韓国との基本関係条と請求権・経済協力協定」は無効であるとの態度で、解決済みのはずの問題を掘り起こし、日本に新たな要求をしてきています。
⑩ もし、「韓国との基本関係条約と請求権・経済協力協定」は無効であるなら、日本は122兆7000億円+A+B+C+Ⅾの資産の返還を韓国に要求できます。そして支払済みの8億ドル(現在価値で1兆80億円)の返還も要求できるのです。
⑪  その上、日本国との平和条約(Treaty Of Peace With Japan)の第4条(a)項の規定により、1945年以降2020年現在までの75年間の次の追加請求が出来ます
(i) 1945年時点の電力に対して、電力使用料金の中の経費を差し引いた余剰金額の75年間の累計金額
(ii) 1945年時点の二倍に拡大された農地からの収穫増の中、農民の経費を差し引いた金額の75年間の累計金額。また、単位面積当たりの増収部分の品種改良などの日本の貢献分に相当する金額
(iii) 1945年時点の鉄道路線の鉄道運賃の中の経費を差し引いた利益の75年間の累計金額
(iv) 日本が残して来た各種工場の製品の販売利益の75年間の累計金額
(v) その他1945年時点の施設による通信費・水産養殖品・絹製品などの日本の指導で発展し利用された75年間の累計利益額
⑫  日本が朝鮮から撤退し、日韓協定が締結された1965年以降、再び韓国企業と日本との関係が深まり、韓国の企業に日本の多額の資金協力と全面的な技術支援が行われ、優れた韓国人経営者と相俟って、韓国企業の多くは世界的な企業へと成長しました。その代表例はサムスンやポスコです
   上に記した事項とその金額について、より多くの情報を集めて精査したうえで、請求できると思います。しかし、現在の日本政府は韓国にまだ請求していません。それは「韓国との基本関係条約と請求権・経済協力協定」は有効であるからです。そして韓国との友好関係の維持増進を考慮しているからであると思われます。
 それにも拘らず、なぜか韓国政府とメディアと一部市民団体と一部の教職員は国是のようにして反日活動を展開し、親日を国賊であるかのように扱っています。そして韓国における日本の痕跡を消し去る運動を展開しています。
 しかし、日本が朝鮮に残した痕跡は、有形物や無形な影響およびODAを含めて、完全に消し去ることは無理です。それは、これまで記してきた朝鮮の多くの劇的な変化と有形のものや無形の影響および113項目のODAの結果やサムスン・ポスコなどへの資金と技術支援をすべて取り去った姿を想像すれば、容易に理解できると思います。反日活動と日本の痕跡を消し去る運動は、韓国にとって「百害あって一利なし」です。
 そして、過去は変更不可能です。未来は人々の意志で創れます。
 ですから今、韓国にとって大切なことは、残っている日本の痕跡を、両国民が協力して朝鮮を近代化して発展させたシンボルとして大切にし、これを土台に両国の関係を改善させることであると思います。これ以外に両国民を幸せにする途はないと信じています。
 世界の人々に、上の信念の是非を問う次第です。
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