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#石井秀仁
vogue-man · 3 months
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shakeitshuuji · 7 years
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11/14
良い石井の日ですからね。
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vanhsdrawings · 2 years
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triangle - 07.2015
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nyantria · 2 months
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アメリカが主導した昭和天皇の戦争犯罪の証拠隠滅
昭和天皇と731部隊
http://blog.livedoor.jp/nobug51/archives/1103925.html
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
ところが、731部隊幹部は事実を隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
 731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。
 また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
 (ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。
昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。
新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。
 それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。(『死の工場』ハリス著:柏書房)
・天皇裕仁は、明らかに、2度にわたって石井の実演を目にしている。
1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折、もう1度は恒例の天皇訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲��干すよう天皇に恭しく差し出したとされているのは、天皇が視察したそうした折のことだった。・・・天皇はその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・
 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。
このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。
 (1939年に発生したノモンハン事件では、出動部隊の給水支援を行うことになり、石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功賞が贈られた。)
・『731部隊-天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。
・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。
(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派��軍の指揮下にあった。
日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
http://blog.livedoor.jp/nobug51/archives/1103925.html
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kennak · 5 months
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東京都は、本日付けで産業廃棄物処理業者1者に対して、廃棄物の処理及び清掃に関する法律(以下「廃棄物処理法」という。)に基づき、下記のとおり許可取消しの行政処分を行いましたのでお知らせします。 記 次の産業廃棄物処理業者の株主のうち1名は、懲役刑(執行猶予付)が確定していました。 このことは、廃棄物処理法で規定する許可の欠格要件に該当するため、許可を取り消しました。(廃棄物処理法第14条第5項第2号ニ該当) 名称 ニッポー工業株式会社(にっぽーこうぎょう) 代表者氏名 今関秀仁 住所 東京都練馬区下石神井三丁目3番3号 許可の種類 産業廃棄物収集運搬業の許可(許可番号:第13-00-105006号) 処分内容 産業廃棄物収集運搬業の許可の取消し 問い合わせ先 環境局資源循環推進部産業廃棄物対策課 電話 03-5388-3446
産業廃棄物処理業者に対する行政処分|東京都
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bsamngodangbralba · 5 months
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小町数人説をめぐって
陽明文庫に中世の小町の絵がある。絹本着色、縦六一・六センチ、横四一・七センチの絵を表装してあるのだが、軸心近くの裏面に「小野小町像 貞治六秊六月廿五日」と、まさしくその頃この筆跡にて記されたものが付加されている。表装そのものもそんなに新しいものでないが、表装するにあたって、この絵に本来ついていた紙をここに付加したものであろうことは、その字がまさしく貞治頃〈一三六二〜一三六七〉この事跡であることが疑いもないからであろう。
ところで、この絵は「小野小町像」となっているが、まさしく「玉造小町子壮衰書」によっている。「容貌ハ憔悴シテ、身体ハ疲痩」、「頭ハ霜フリタル蓬ノ如ク、膚ハ凍リタル梨ニモ似タリ」、「骨ハ辣チテ筋ハ抗クナリ、面ハ黒クシテ歯ハ黄バミタリ」、「裸形ニシテ衣ナク、徒跣ニㇱテ履ナシ」、「左臂ニハ破レタル筐ヲ懸ケ、右手ニハ壊レタル笠ヲ提ツ」、「頸ニハーツノ囊ヲ係ケ、背ニハーツノ袋ヲ負ヘリ」、「肩ノ破レタル衣ハ胸ニ懸カリ、頸ノ壌レタル蓑ハ腰に纏ヘリ」とある「壮衰書」の序文をのものである。ここでもまた小野小町と玉造小町を同人物とする中世の理解が確認されるのである。
先にあげた「無名抄」の文〔五〇頁参照〕の続きに「玉造の小町と小野小町と同人かあらぬ者から、人々おぼつかなきことに申して争ひはべりし時...」とあって別人説もあったことは確かだが、その多くは前述の「玉造小町子壮衰書」の弘法大師著作説を土台にしての疑問であり、中世の大勢は、あくまで両者を同じものと見、「玉造小町子壮衰書」を小野小町の事蹟を語るものと見ていたことは疑いもないのである。
近世に入っても、この傾向は変わらなかった。貞徳の「徒然草慰草」などその顕著な例だが、中期以後の随筆の類を見ても、たとえば天野信景の「塩尻」〈『随筆大成』等〉、志賀忍〈天保十一年、七九歳没〉の「理斉随筆」などは、小野小町と玉造小町を同一人と考えている。
ところが、小町という名は、実は普通名詞であって、〇〇小町と呼ばれる女性はまことに数多くいたのだ、玉造小町と小野小町もとうぜん別人だという、いわば画期的な説が新井白雅の「牛馬問」「〈温知義書〉」に提示され、人々を���かせたのである。
古代には一国より一人づつ采󠄃女を内裏へ献ぜしこと也。既に仁明帝の前後には、小町とて召されたるもの六十余人ありしとなり。この采󠄃女を后町のうちにをらしめたまふ。故にみなみな小町と呼ばれたるなり。その人々の宮仕へをやめて古郷に帰り身まかりたる墓を、おほか「た小町塚とよびしとなん。さてこそ、国々に小町塚といふもの多し。美濃・尾張の間にさへ二三所あり。
しかるを、なべての小町を一人と思ふよりまぎれたる説多し。たとへば実方朝臣、陸奥へ下向の時、髑髏の目穴より薄の生ひ出て、「秋風の吹くにつけてもあなめ〱」の歌の小町は小野正澄が娘の小野小町なり。文屋康秀が三河掾となりて下りし時、「身をうき草の根をたえて」さそふ水あらば」とよみしは高雄国分が娘の小町なり。「おもひつつぬればや人の見えつらむ」の歌、又業平の「舞の袖」などいひしは出羽郡司小町良実が娘なり。高野大師のあひたまふ、壮なる時憍慢最も甚だし、衰ふる日愁歎猶深しと答へしは常陸の国玉造義景が娘の小町なり。かく一人ならず。故に時代其外異なる事あるのみ。中にも良実が娘の小町は美人にて和歌にもすぐれたれば、独り名高く、すべて一人のやうに伝へ来たるのみ。
まず、小町を采󠄃女をし、采󠄃女のすべてに「町」をつけてよんだといっているが、平安時代の文献にあらわれる采󠄃女は、たとえば「近江の采󠄃女」〈拾遺集〉「明日香の采󠄃女」〈大和物語〉などのごとく、国名を冠して呼ぶのが普通である上に、文献にあらわれる「町」のつく女性は前述のように后町にいる更衣であって采󠄃女ではない。小町采󠄃女説自体が出羽都司良実の娘という伝承をもとにして出来たものであり、出羽国から采󠄃女をさしだすことはなかった〈「続日本紀」「類聚三代格」〉という事実を持ち出すまでもなく、この日雅の説には従えないのである。地方に数多い小町塚の合理的説明としても弱いものである。
ところで、この白雅の説、後半になると、その多数の小町が四人にしぼられて来る。架空の人物である小野正澄とか高雄国分とか玉造義景などの名をどこから持ち出して来たのか不明だが、既に伝説化説話化している小町像のすべてを事実と認定する立場からの合理的整理であって、まったく意味をなさぬものとしか言いようはないのである。
伝承る整理しながら、また新しい伝承を生んでいる感じの「牛馬問」の説であるが、その合理的整理法に人気があったのか。それに賛同して引用している随筆が実ははなはだ多いのである。神沢貞幹の「翁草」〈『随筆大成』第三期所収〉、城戸千楯の「紙魚室雑記」〈『随筆大成』第一期所収〉、石川宣続の「卯花園漫録」〈『新燕石十種』第三所収〉、山本信有の「孝経楼漫筆」〈『随筆大成』第三期所収」、滝沢馬琴・屋代弘賢らの「兎園小説」〈『百家説林』所収〉など、いずれもこれに全面的な賛同を示しているのである。
小町に限らず、伝説的人物は、その伝説化の過程において、事蹟が膨脹し、それを全体的に把握するとなると、そこに新しい矛盾が出てくることが多い。これを予盾なく合理的に統一しようとすると、いわば原生動物の体のように多方面に膨脹したものを分割するほかはなくなる。
たとえば柿本人麿の場合にしても、「万葉集」の記述を信するかぎり人麿は持統朝から文武朝にかけて活躍した歌人であるとするほかはない。だが一方、「万葉集」が引用する「柿本人麿歌集」にはそれよりもかなり後の歌もある。「人麿歌集」に後代の歌が入っているというのは今日の学者の常識だが、人間歌集なのだからすべてが人麿の歌だという立場に立てば、「万葉集」の人麿にして、既に最低二人いたことになる。次に「古今集」の仮名序を見ると、、「おほきみつの位(正三位)柿本人麿」を「ならの御時」の歌人としている。現在では、これを「奈良時代」と解し、しかも人麿が活躍した飛鳥時代は奈良時代に接していたからこのように書いたと説明している。だが、そこに都があった「時代」と解するのはどうか。平安時代において「御時」とは天皇の治世、すなわと御宇のことであり、「ならの御時」は平城の帝の御時の意にほかならないからである。事実、この仮名序に対応する真名序(漢文の序)には「平城天子」とはっきり書かれている。「古今集」より五十年ほど後に出来た「大和物語」にも人��が平城天皇に仕えていたとある。平城天皇は平安時代第二の天皇だから「万葉集」の人麿とは違う。これ第三の人麿ということになる。ところ、で、「古今集」から百年ほど後の第三の勅撰歌集「拾遺集」を見ると、人麿が渡唐してよんだという歌が二首見える。これ、第四の人麿である。
人麿を一人ではなく四人とすると、その間の矛盾はなくなる。しかし矛盾がなくなったところでどうなるというのだ。私が問題にしたいのはそんなことではない。実在の人麿が、その死後、奈良時代・平安時代にどのように伝説化されていったか、別のことはで言えば、後の人々の心の中に人麿がどのように生き続けて来たか、私はそれを問題にしたいのである。
小町の場合も同じである。江戸時代の学者のように小町を四人にしたり、現代の民俗学系の国文学者のように、小町と称する女が無数にいたとか、小町を名のる遊行婦女・あるき巫女・歌比丘尼のたぐいが諸国をめぐり歩いていたと言い切ることによって事足れりとし、文献に残った小町の文学と伝承について深く考えようともしないのは学問の堕落、ある意味では頽廃という評語が適切でさえある。仮に彼らの言うようなことがあったとしても、せいぜい中世の後期のことであり、「小野小町の歴史」ほ既に平安時代中期以前から始まり、中世、近世と続いていたのである。小町が、その死後も、後代の人々の心の中にどのように生き続け、どのように変容していったか、あるいはまた、時を経て変容しながらその底に変えずに生き続けてゆく、いわゆる小町的なもの、それはいったい何かということの追跡にこそ、私は意味を認めたいのである。世に虚と言い実と言う。しかし、このように見れば、人々の心の中に生き続けていたものはすべてが実だと言うほかはないのである。
以下の章において次第に明らかにしてゆくことであるが、小野小町の説明化は、彼女の死後間もない頃から既に始まっていたのである。そして十世紀の末頃には、我々が知っている小町説話、たとえば(1)雨乞説話(2)好色説話(3)男性を拒否する驕慢説話(4)衰老説話 等、そのおおむねが既に出来るがっていたはずである。だから、そのような流れの中に「玉造小町子壮衰書」を置くならば、「小町老いて後、おとろへさらぼりたりなど云ふめるは、玉造小町の事なるを混じていへるなり」〈本居内遠「小野小町の考」〉というような見方が必ずしもあたらぬことを知るのである。小町衰老落魄の説話が「壮衰書」の影響で出来上がったというよりも、既に世に行なわれていた小町落魄説話の仏教的結実として壮衰書を考えるべきではないか。「玉造」の由来を明らかに出来ぬことは残念であるが、ともかくも「小町」と表題にあるだけで人々が説明を求めないような人物の伝でなければならないこと、しかもそれが「花ノ時ヲ待チテハ玉筆ヲ秉リテ紅桜紫藤ノ和歌ヲ詠ズル」美女の伝でなければならないことなどを併せ考えれば、平安末期から中世にかけての人々の大勢的理解がそうであったように、これをも小野小町のこととするのが、最も素直な、そんなして最も妥当な理解だと思うのだが、いかがであろうか。
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yomengjixie · 1 day
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貨櫃裝卸,吊掛作業,機械搬運,機械安裝,機械運輸
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本公司為祐盟機械股份有限公司,本公司以提供堆高機服務為主,目前主要的服務範圍以中部地區為主,主要包括:
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本公司主要提供對高機的服務,如貨櫃裝卸,機械定位,廠房搬遷,貨物上下車,貨車運輸等業務,另外包括:
台中貨櫃裝卸,台中裝卸貨櫃,台中工廠遷移,台中設備搬運,台中重機械運輸,東區貨櫃裝卸,東區裝卸貨櫃,東區工廠遷移,東區設備搬運,東區重機械運輸,西區貨櫃裝卸,西區裝卸貨櫃,西區工廠遷移,西區設備搬運,西區重機械運輸,南區貨櫃裝卸,南區裝卸貨櫃,南區工廠遷移,南區設備搬運,南區重機械運輸,北區貨櫃裝卸,北區裝卸貨櫃,北區工廠遷移,北區設備搬運,北區重機械運輸,西屯貨櫃裝卸,西屯裝卸貨櫃,西屯工廠遷移,西屯設備搬運,西屯重機械運輸,南屯貨櫃裝卸,南屯裝卸貨櫃,南屯工廠遷移,南屯設備搬運,南屯重機械運輸,北屯貨櫃裝卸,北屯裝卸貨櫃,北屯工廠遷移,北屯設備搬運,北屯重機械運輸,豐原貨櫃裝卸,豐原裝卸貨櫃,豐原工廠遷移,豐原設備搬運,豐原重機械運輸,大里貨櫃裝卸,大里裝卸貨櫃,大里工廠遷移,大里設備搬運,大里重機械運輸,太平貨櫃裝卸,太平裝卸貨櫃,太平工廠遷移,太平設備搬運,太平重機械運輸,東勢貨櫃裝卸,東勢裝卸貨櫃,東勢工廠遷移,東勢設備搬運,東勢重機械運輸,沙鹿貨櫃裝卸,沙鹿裝卸貨櫃,沙鹿工廠遷移,沙鹿設備搬運,沙鹿重機械運輸,梧棲貨櫃裝卸,梧棲裝卸貨櫃,梧棲工廠遷移,梧棲設備搬運,梧棲重機械運輸,清水貨櫃裝卸,清水裝卸貨櫃,清水工廠遷移,清水設備搬運,清水重機械運輸,大甲貨櫃裝卸,大甲裝卸貨櫃,大甲工廠遷移,大甲設備搬運,大甲重機械運輸,霧峰貨櫃裝卸,霧峰裝卸貨櫃,霧峰工廠遷移,霧峰設備搬運,霧峰重機械運輸,烏日貨櫃裝卸,烏日裝卸貨櫃,烏日工廠遷移,烏日設備搬運,烏日重機械運輸,后里貨櫃裝卸,后里裝卸貨櫃,后里工廠遷移,后里設備搬運,后里重機械運輸,石岡貨櫃裝卸,石岡裝卸貨櫃,石岡工廠遷移,石岡設備搬運,石岡重機械運輸,新社貨櫃裝卸,新社裝卸貨櫃,新社工廠遷移,新社設備搬運,新社重機械運輸,潭子貨櫃裝卸,潭子裝卸貨櫃,潭子工廠遷移,潭子設備搬運,潭子重機械運輸,大雅貨櫃裝卸,大雅裝卸貨櫃,大雅工廠遷移,大雅設備搬運,大雅重機械運輸,神岡貨櫃裝卸,神岡裝卸貨櫃,神岡工廠遷移,神岡設備搬運,神岡重機械運輸,大肚貨櫃裝卸,大肚裝卸貨櫃,大肚工廠遷移,大肚設備搬運,大肚重機械運輸,龍井貨櫃裝卸,龍井裝卸貨櫃,龍井工廠遷移,龍井設備搬運,龍井重機械運輸,大安貨櫃裝卸,大安裝卸貨櫃,大安工廠遷移,大安設備搬運,大安重機械運輸,和平貨櫃裝卸,和平裝卸貨櫃,和平工廠遷移,和平設備搬運,和平重機械運輸,外埔貨櫃裝卸,外埔裝卸貨櫃,外埔工廠遷移,外埔設備搬運,外埔重機械運輸
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22centuryworks · 2 months
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『罪と悪』齊藤勇起監督・仁也さん(全力応援)舞台挨拶付き上映@フォーラム仙台_20240225
齊藤勇起監督「罪と悪」という作品がこの3連休舞台挨拶付き日誌の最終章である。2月2日に封切られ、その週末に一度、齊藤監督、主演・高良健吾氏、守屋茜さんはフォーラム仙台さんに来られている。フォーラム仙台さんのチケット完売史上最速記録を更新したと伝えられた(高良氏のファンが詰め掛けたらしい)。それから今日までロングラン上映となり、再び舞台挨拶が行われた。監督は「また仙台に来られたコトはじぶんの財産になります」とまで仰っていた。たしかに短期間に二度来たのは赤井英和一家以来なのだ(追記鈴木竜也監督もいた)。
4人の少年が出てきて、4−1=3、3+1=4、4−2=2、2−1=1というような〝罪と悪〟なるテーマの上で少年たちの実数が浮上しては消え、消えては浮上する。それがのどかな田舎風景と溶け合い、この世界の「悪」の起源の不確かさ、「正」の根拠の不確かさを浮き彫りにしていく。齊藤監督のデビュー作にして、完全オリジナル作であり、このような作品を世に送り出すコトの苦難の道のりについて、全力応援仁也さんが語っていた。映画を世に放つコトは、人生ひいては人間についていっしょにかたりあいましょう、と呼び掛けているに等しい。完全オリジナル作なら尚更、勇気を奮い起して今日を迎えているに違いない。
ロバート・レッドフォード監督作のようなとても繊細な作品であり、終始面白く感じた。かれらはどこから来て、どこへ消えていくのか。その確度のなさが、全然泥臭くないイケメンふう俳優3人(高良健吾、大東駿介、石田卓也)によって表現されている。よくみるとこのポスターは「月」という字を象っているようだ。同世代の二人(齊藤監督は1983年、仁也さんは1985年生まれ)の話も伺えてよかった。本作は監督曰く齊藤版「ミスティック・リバー」であり「ミシシッピー・バーニング」、橋村支配人曰く「スタンド・バイ・ミー」らしい。本来5日はかかる終盤の祭りのシーンを1日で撮り終えたという奇跡と同様に、今作は月影現象が刻印されたフィルムとして記憶されるかも知れない。
この映画にも佐藤浩市氏が出てきて、最高だった。 
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別れる理由
ドラマ「お別れホスピタル」はとても良い作品だった。気づくのが遅く第二話から知り、第四話で瞬く間に終ってしまった。感触も淡泊と言っていいドラマだったが、主演・松山ケンイチが前田哲監督「ロストケア」の先に見たモノがあった。「グリーフケアの時代に」にも繋がるが、そのケアがなされなかったばかりに、破綻した「社会生活」=言語生活が放置され、このドラマにも度々描かれた暴発が起ってしまう。ではこのケアとは何なのか? それは主演・岸井ゆきのさんのコトバ「人生の最後にも出会いが待っている、それはすごいコトなんだ」に尽きるだろう。その木漏れ日を映したドラマである。
金田諦應住職はキッチンカーふうの移動式カフェでその放置され破綻した言語生活のケアにあたっている「アーティスト」だった。被災者や大切なヒトを亡くした遺族の方が涙を流すのを待っている。そこに出会いがあるからだ。「お別れホスピタル」は平山秀幸監督「ツユクサ」のような良質な映画の味わいがあった。
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K_Matsuyama2023
「罪と悪」の前に、エリザベス宮地監督「WILL」をチネ・ラヴィータさんでみた。普段から肉を食べるヒトにしか判らない「性欲ギンギン」の世界を2時間20分という長尺でみた。猟師たちの顔には性欲みたいなモノがベットリと塗られていた。私は普段肉を食べないので、結構長く感じたし、東出昌大氏が奥崎謙三にみえてきた(「ゆきゆきて、神軍」のファンはみてほしい)。私も東出昌大氏のように、異性に対する性欲を抑えられない時期があったので共感した。だが今は、かれと同じように合理的解釈に落とし込む形でそれを忘れて生きているし、この先もきっとそうに違いない。つまり、それをいかに合理的解釈に落とし込むか、なのだ。アフロさんが相変わらず最高だった。
東出氏は奥崎謙三のように芝居については相当の自信を持っている。周囲の猟師たちも、狩猟などは性欲の合理的解釈の一形態にすぎないコトを知っていて、かれに役者としてその形を完成させてほしいと希っていた。
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今週の入手本(20240212〜0218)
『地衣類、ミニマルな抵抗』(ヴァンサン・ゾンカ著/宮林寛訳/まえがき、カバー写真:大村嘉人/序文:エマヌエーレ・コッチャ/みすず書房)。地衣類を扱った書籍というだけで心がワクワクしてきませんか?私はします。
『読書アンケート 2023 識者が選んだ、この一年の本』(みすず書房編/みすず書房)。執筆者(目次記載順)加藤茂孝、白木賢太郎、土田昇、野田正彰、花崎皋平、徳永恂、上村忠男、齊藤誠、渡辺政隆、永田洋、服部文祥、加藤尚武、小澤実、藤井省三、堀川惠子、川那部浩哉、鎌田浩毅、榎本空、栩木伸明、豊下楢彦、小沢節子、酒井忠康、山田稔、佐藤文隆、宮下志朗、原武史、細川周平、山口二郎、沼野充義、奥山淳志、白石直人、大野克嗣、𠮷田徹、根本彰、竹内洋、青山直篤、山内一也、油井大三郎、重田園江、大島幹雄、柿沼敏江、頭木弘樹、根井雅弘、佐藤文香、坂内徳明、岡崎宏樹、倉田徹、斎藤真理子、朽木祥、宇野邦一、松本潤一郎、宮地尚子、酒井哲哉、飯田隆、永江朗、新城郁夫、草光俊雄、武藤康史、岡田秀則、江口重幸、松家仁之、斎藤修、石川美子、大井玄、妙木浩之、水島治郎、新田啓子、ブレイディみかこ、山崎雅人、䕃山宏、澤田直、阿部公彦、最相葉月、阿部日奈子、西平直、福嶋聡、キャロル・グラック、犬塚元、小谷賢、斎藤成也、三原芳秋、生井英考、和田忠彦、瀬名秀明、小野寺拓也、宮﨑裕助、郷原佳以、今村真央、川端康雄、三島憲一、板橋拓己、松本俊彦、神庭重信、増田耕一、巽孝之、石原千秋、上野千鶴子、長谷正人、早川尚男、田崎晴明、李静和、野崎歓、野家啓一、姜信子、勝俣誠、成田龍一、富士川義之、市村弘正、栗原彬、松沢弘陽、伊佐眞一、梅津順一、廣瀬浩司、蔵屋美香、十川幸司、千田善、鈴木布美子、國分功一郎、堀潤之、近藤和彦、鎌田慧、佐藤良明、小松美彦、丘沢静也、斎藤環、三中信宏、亀山郁夫、増田聡、鈴木了二、小沼通二、轡田收、野谷文昭、川本隆史、伊藤憲二、ノーマ・フィールド、吉岡忍、早川由真、小谷真理、鵜飼哲
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ilotheoe · 2 months
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共產主義《聖經》節選
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 作者:馬伯庸
  《創世紀》1:1-24
  1:1起初革命導師們創造共產主義。
  1:2思想是空虛混沌。工廠黑暗。導師的幽靈飄蕩在歐洲上空。
  1:3導師說:要有工人,於是就有了工人。
  1:4導師看工人是好的,就把工人和工廠主分開了。
  1:5導師稱工人為無產階級,稱工廠主為資產階級。前者出勞動,後者出資本,這是頭一日。
  1:6導師說,階級之間要有剝削,將兩個階級分開。
  1:7導師就發明了剩餘價值理論,將勞動價值和投資之間用剩餘價值相隔,事就這樣成了。
  1:8導師稱工人為被剝削階級,稱工廠主為剝削階級,這是第二日。
  1:9導師說,天下的工人本是一家,是壓迫讓他們走在一起��資本家為了本階級的利益,要臭味相投。事就這樣成了。
  1:10導師稱工人的聚處為工會,稱資本家的聚處為國家機器。導師看是好的。
  1:11導師說,歷史發展要有規律,可以將人類社會分成四個階段,好定他們的性質。事就這樣成了
  1:12導師稱規則為生產關係。導師看是好的。
  1:13導師說,生產力要決定生產關係,經濟基礎要決定上層建築。
  1:14導師稱之為歷史一般規律,有反動,有進步,這是第三日。
  1:15導師說,世界上一切事物都要一直處於變化狀態,遵循著否定之否定的原則螺旋上升。事就這樣成了。
  1:16導師看是好的,就將之稱為自然辨證法。自然辯證法是人類認識自然和改造自然的一般方法的科學,這是第四日。
  1:17導師說,人類社會要分成奴隸社會、封建社會、資本主義社會和共產主義社會。
  1:18導師看共產主義社會是好的,就賜福給它,說,共產主義是人類發展的最終階段,按需分配,必然要取代資本主義。共產主義要有初級階段。導師稱初級階段為社會主義,這是第五日。
  1:19導師說,我們要照著我們的思想去指導工人,讓他們成為國家的主人翁。
  1:20導師就按照自己的思想去宣傳,又對他們說:要革命,你們失去的只是鎖鏈,得到的卻是整個世界。導師們看工人運動是好的,就賜福給工人運動,稱為共產黨。這是第六日。
  1:21導師們看一切所造的都甚好,萬事齊備,就打算在第六日歇了他們一切的工。但其中一位導師說:「我們要搞星期六義務勞動!」
  1:22於是導師又多加了一天的班,組織學習,寫思想心得。
  1:23到第七日,導師們倡導的革命已經開始,就在第七日歇了他們一切的工,各自躺進廣場中的水晶棺材裡,安息了。給工人們瞻仰。
  1:24導師們賜福給第七日,定為革命紀念日,因為在這一天導師們安息了。
  子民啊,那共產的天堂不是獨為你所造的,你所有的,要給你的鄰居,你的鄰居所有的,也要給你,這樣你們所有的就會加倍,就會有很多倍,這就是共產主義的國。
  共產的天堂,又好像一粒芥菜種,種在地裡,你們都來澆水,長起來後它比所有的的菜都大,甚至天上的飛鳥也可以宿在它的葉下。
  …………………………………………
  在江西,有一位投奔毛主席來、叫作霖彪的衛士頭領,他受那些污了眼睛的人的矇蔽,疑心毛主席不是聖父派到地上來的,毛主席就向他喝道:人啊,你在想什麼呢,你豈見不到我身上的權柄嗎,你難道不知道,葡萄籽般大小的火焰,也可以燒遍西奈的半島嗎,霖彪聽了這話,便跪下來,把毛主席尊為他的領袖。
  自列寧從雲端下來、以神杖擊殺瀘定橋頭的守軍,那事過了七日之後,紅軍到了草原上,草原上有惡鬼和大毀滅的哀聲,行走的人眾斷了糧,那之後又過了七日,天上忽然紛紛落下白饃,惟獨星期日要守聖卡爾的組織生活日,所以沒有饃饃掉下。
  在延安,有受外邦人的誘惑、不尊唯物主義的先知起來與毛主席作對,毛主席走上窯洞,下來時手上拿著兩塊石板,一塊上寫著矛盾論,一塊上寫著實踐論,毛主席說道:我與主卡爾已經訂了約。眾人知道他是為主所喜悅的,就跪下,尊他為黨主席,又稱他陜北的神聖先知。知道他要帶領民眾建立地上的天國。
  …………………………………………
  燃燒著永不停息的火焰的地獄裡有四個魔頭,頭一個叫作伯恩斯坦的,起初是葡陸士的貝林一個車伕的兒子,蒙召後侍奉在聖右父弗雷德里希的右手旁,後來他因不滿聖右父對聖列寧的喜悅,便帶了三分之一的天使反叛,被列寧使熟銅鎚一鎚擊中人中,從共產主義天堂墜下,墜落了七天七夜方才墜到地面,墮落為地獄的魔王。
  第二個叫作考茨基,乃是澤克那地布剌吉的義人,蒙召後成為聖葡陸士天使軍團的首領,拿著聖父賜福的刀劍,去拿那行在地上的魔鬼,然而一日,考茨基在拿鬼時受到了伯恩施坦的引誘,便墮落了,那一刻考茨基白羊毛的頭與發變成了硫磺與鉛,清澈的雙目變成了黑色的火,他的利劍變成了佈滿鐵銹的三叉戟。
  有一位露西亞的勇士托洛茨基,想把共產光輝傳給其他的外邦人,卻不知這已背離了聖父的教導。那刻,他腳下銀子的車輪變成了長著九個腦袋的惡犬,他駕馭著惡犬衝出地獄,殺死了許多人,也有許多受矇蔽拜伏在他腳下。後來,聖約瑟夫在莫洗哥那地與托洛茨基大戰了三百回合,方用神聖的權柄把他叉回了地獄。
  最後一位原是東方三聖人之一的陳獨秀,他曾拿著沒藥和聖李大釗一起給毛主席施洗,後來陳獨秀受到胡適之和托洛茨基的誘惑,失去了往日的榮光,墮落為身上燃燒著鬼火的地獄之主,他曾與托洛茨基一道在上海作亂,被毛主席用權柄喝退後又在江津傳播壞病,結果被毛主席和聖伍豪合力打回了地獄。
  我轉過身來,要看是誰發聲與我說話。既轉過來,就看見七個金燈臺。燈臺中間,有一位好像主席,身穿中山裝,直垂到腳,胸間束著紅星。他的頭與發皆白,如白羊毛,如雪。眼目如同火焰。腳好像在爐中鍛鍊光明的銅。聲音如同眾水的聲音。他右手拿著寶書。從他口中出來一把兩刃的利劍。面貌如同烈日放光。我一看見,就仆倒在他腳前,像死了一樣。他用右手按著我說,不要懼怕。我是首先的,我是末後的,又是那存活的。我曾死過,現在又活了,直活到永永遠遠。並且拿著死亡和陰間的鑰匙。所以你要把所看見的,和現在的事,並將來必成的事,都寫出來。(《啟示錄》)
  紅軍們行到貴州赤水那地的時候,被河水阻斷,眾人都不能前行,毛主席便叫人抬約櫃出來,用約櫃分開了河水,眾人大大的驚奇,都暗暗稱毛主席是卡爾從天國派到人間的救主,後來,這樣的神蹟,毛主席又行了四次。
  片段五:(《古蘭經》版)
  伊斯共《古紅經》
  第一章開端章(英特耐爾)
  這章是井岡山的,全章共計七節。
  1.奉至仁至慈的毛之名,
  2.一切讚頌全歸毛,眾窮人世界的主,
  3.至仁至慈的主,
  4.報應日的主,
  5.我們只崇拜你,只求你襄助
  6.求你引領我們正路,
  7.你所襄助者的路,不是受譴怒者的路,也不是迷誤者的路。
  聖卡爾在遵義城外的荊棘中向毛主席顯現,並賜毛主席無產光輝杖。聖卡爾曉諭毛主席說,你吩咐紅軍去赤水前安營,我要使蔣介石的心剛硬,他必追趕你們,我便在蔣介石和他全軍身上得榮耀。
  蔣介石便預備他的車輛,帶領中央軍同去,在紅軍安營的地方追上了。
  蔣介石臨近的時候,紅軍舉目看見中央軍趕來,就甚懼怕。他們對毛主席說,難道瑞金沒有墳地,你把我們帶來死在曠野嗎?你為什麼這樣待我們,將我們從瑞金領出來呢?因為服事中央軍比死在曠野還好。
  毛主席對紅軍說,不要懼怕,看聖卡爾今天向你們所要施行的救恩。毛主席向赤水伸杖,聖卡爾便用大東風,使河水一夜退去,水便分開,露出干地。紅軍下河中走干地,來回四次。蔣介石的軍兵便混亂了,車輪脫落,難以行走。
  正義之路被暴虐之惡人所包圍毛主席以慈悲和善意之名引導弱者穿過黑暗之谷的人們有福了因為他照顧同伴巡迴迷途的羔羊
  那些膽敢荼毒我同伴的人們我將懷著巨大的仇恨和無比的憤怒消滅他們當我復仇的時候他們會知道我的名字叫毛擇東
  1那時,有施洗的大釗出來,在猶太的曠野傳道,說,
  2天國近了,你們應當悔改。
  3這人就是先知列寧所說的,他說,在曠野有人聲喊著說,預備主的道,修直他的路。
  4這大釗身穿長袍馬褂,面戴眼鏡,吃的是蝗蟲野蜜。
  5那時,耶路撒冷和猶太全地,並約但河一帶地方的人,都出去到大釗那裡。
  6承認他們的罪,在黃河裡受他的洗。
  7大釗看見許多封建地主階級和資產階級,也來受洗,就對他們說,毒蛇的種類,誰指示你們逃避將來的忿怒呢?
  8你們要結出果子來,與悔改的心相稱。
  9不要自己心裡說,有亞伯拉罕為我們的祖宗。我告訴你們,神能從這些石頭中給炎黃興起子孫來。
  10現在斧子已經放在樹根上,凡不結好果子的樹,就砍下來,丟在火裡。
  11我是用水給你們施洗,叫你們悔改。但那在我以後來的,能力比我更大,我就是給他提鞋,也不配。他要用聖靈與火給你們施洗。
  12他手裡拿著簸箕,要揚凈他的場,把麥子收在倉裡,把糠用不滅的火燒盡了。
  13當下,毛主席從加利利來到約但河,見了大釗,要受他的洗。
  14大釗想要攔住他,說,我當受你的洗,你反倒上我這裡來嗎?
  15毛主席回答說,你暫且許我。因為我們理當這樣盡諸般的義。(或作禮)於是大釗許了他。
  16毛主席受了洗,隨即從水裡上來。天忽然為他開了,他就看見神的靈,彷彿鴿子降下,落在他身上。
  1當光緒帝王的時候,毛主席生在湖南地的韶山。有幾個博士從廣東地來到北京,說,
  2那生下來作大秦之王的在哪裡?我們在東方看見他的紅,特來拜他。
  3葉赫納拉的慈禧聽見了,就心裡不安。全北京地的人,也都不安。
  4他就召齊了祭司長和民間的文士,問他們說,基督當生在何處。
  5他們回答說,在湖南地的韶山。因為有先知記著說,
  6湖南地的韶山阿,你在大秦諸地中,並不是最小的。因為將來有一位君王,要從你那裡出來,牧養我中華的民。
  7當下葉赫納拉的慈禧暗暗地召了博士來,細問那紅是什麼時候出現的。
  8就差他們往韶山去,說,你們去仔細尋訪那小孩子。尋到了,就來報信,我也好去拜他。
  9他們聽見王的話,就去了。在東方所看見的那紅,忽然在他們前頭行,直行到小孩子的地方,就在上頭停住了。
  10他們看見那紅,就大大地歡喜,扭起了秧歌。
  11進了房子,看見小孩子和他母親,就俯伏拜那小孩子,揭開寶盒,拿黃金,麝香,人參為禮物獻給他。
  毛主席又對眾人說:「我是世界的紅太陽,跟從我的,就不在黑暗裡走,必要得到共產的光。」
  赫魯曉夫對他說:「你是為自己做見證,你的見證不真。」
  毛主席說:「我雖然為自己做見證,我的見證是真的。因我知道我從群眾中來,往群眾中去。你們卻是以卡爾的律法判斷人的,我卻不判斷人,就是判斷人,也以那實踐作為唯一標準,我的判斷也是真的。那卡爾在天上告訴我說:「實踐是檢驗真理的唯一標準。」
  赫魯曉夫對他說:「卡爾的律法在哪裡,你怎敢違背卡爾和列寧的律法?」
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vogue-man · 10 months
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shakeitshuuji · 9 months
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Behind the scenes of a photo session for GOATBED in the early spring of 2017.
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Happybirthday!!!
Shuji Ishii
2023.12.07
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kennak · 1 year
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自民“旧統一教会と接点の国会議員は179人”うち121人氏名公表 | NHK | 旧統一教会
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harvardwang · 8 months
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張秀亞
H:高中曾見張秀亞作家的散文集,讀來清爽,但是有種淡淡的哀愁,後來軍中文康書箱有張秀亞自選集,中午有空也會選看,另代表作牧羊女常被提起。資訊不足的時代,對作者像謎樣人物。後看介紹:「1943年,到四川重慶任《益世報》文藝副刊「語林」主編,同年和天主教南京教區于斌主教之弟于犂伯在重慶真原天主堂結婚。1944年第一個兒子于若瑟出生即夭折。1945年,兒子於金山出生。1946年,回北京輔仁大學任教。1947年,女兒於德蘭出生,同年由新��記者公會選為行憲後首屆中華民國國民大會代表。1948年,來到臺灣。」有名而隱其名。2001年6月29日在美國去世。也算是對作家好奇的結束。20230915W5
張秀亞
翻譯員
張秀亞,臺灣知名女作家,河北滄縣人,聖名則濟利亞,筆名陳藍、張亞藍、心井等,北平輔仁大學西洋語文系學士、歷史研究所碩士。曾任靜宜大學、輔仁大學研究所教授。天主教南京教區主教于斌樞機之弟妹。創作風格新穎清麗,意境深遠,著作有詩、散文、小說、翻譯、藝術史等八十餘種,詩人瘂弦譽其為「美文大家」。 維基百科
出生資訊: 1919 年 9 月 16 日
逝世: 2001 年 6 月 29 日,美國
著作: 杏黃月/台灣當代著名作家代表作大系, 荷塘之憶, 張秀亞人生情感散文, 種花記
學歷: 天主教輔仁大學, Seton Hall University, 河北師範大學
生平
1919年出生於河北省滄縣,父張里鵬 (字雲鵬),母陳芹,排名么女。7歲隨全家遷居天津,入天津天主教貞淑小學,是張秀亞接近文學的開始。[4]9歲開始於報紙之兒童週刊發表作品。12歲考入河北省立第一女子師範學院(今天津藝術學院),同窗有日後的女作家羅蘭、王怡之。15歲在《益世報》的文學周刊分別發表詩作〈夏天的晚上〉、〈秋之夜〉。發表文章時,以「陳藍」的名字寫散文,以「張亞藍」的名字寫小說同書評,用本名「張秀亞」寫些小詩,經常發表園地有《益世報》、《國聞周報》、《大公報》。[5]17歲第一本短篇小說集《大龍河畔》於天津海風社出版,不數年便贏得「北方最年輕女作家」的美譽。[1]19歲考入北平輔仁大學中國文學系,次年轉入西洋語文學系,畢業後考入輔大研究所史學組,後任英文系講師。1943年,到四川重慶任《益世報》文藝副刊「語林」主編,同年和天主教南京教區于斌主教之弟于犂伯在重慶真原天主堂結婚。1944年第一個兒子于若瑟出生即夭折。1945年,兒子於金山出生。1946年,回北京輔仁大學任教。1947年,女兒於德蘭出生,同年由新聞記者公會選為行憲後首屆中華民國國民大會代表。1948年,來到臺灣。來台後不再以陳藍、張亞藍兩個筆名,但以「心井」在中央日報發表文章。[6]1949年,她的長詩〈她呵,我們的好母親〉獲婦聯會新詩首獎。1952年,以本名張秀亞出版在臺灣第一本散文集《三色堇》。[1]1958年任台中靜宜英專(今靜宜大學)教授,講授翻譯課程。1965年,輔仁大學在台復校後,回輔大任研究所教授講授英美文學與寫作。1973年受邀在美國新澤西州西東大學擔任講座。2001年6月29日在美國去世。[3]
創作經歷與著作
張秀亞早期詩、散文、小說三種文類並進,文風夢幻。四〇年代末來台後,人生歷練導致創作題材轉變,散文以婚姻與憶舊為創作主題,如《三色堇》、《牧羊女》、《凡妮的手冊》等。1957出版《湖上》時,張秀亞自言創作風格已有所轉變,五〇年代末期開始寫田園生活,以及種種質樸的人物素描,以平凡生活、瑣碎題材入文。七〇年代,由於經常應邀報章雜誌書寫專欄,抒情味稍轉淡,其散文加重了哲理性沉思、文學藝術評論及讀書心得,《人生小景》等內容夾敘夾議,展現其晚年人生哲學。八〇年代後因病痛及生活不便所苦,創作銳減。[7]張瑞芬將1973年出版的《水仙辭》、1979年出版的《湖水・秋橙》與六〇年代的《北窗下》並列為張氏散文技藝的三個高峰。[8]
而詩歌主題則大多歌詠自然,描寫花草風露、季節遞擅。對於大學時代寫的散文詩,張秀亞亦自評其創作初期風格是「多幻想,缺少著樂觀的情調以及現實主義的色彩」。[9]在小說創作上,短篇小說集〈在大龍河眸〉,在藝術上承襲京派的文學風格,以詩化的寫實技巧,描寫平民百姓的生活與北方風情。來臺後受吳爾芙等女性作家影響,《女兒行》等作品開始具實驗性的嘗試。[6]瘂弦在張秀亞全集總論中提到張秀亞的小說「小説是『靜劇式』的,重視氛圍的『詩的小說』」。[1]
張秀亞自1934年起近七十年的創作生涯中,著作涵蓋論述、詩集、小說、散文、合集、全集、翻譯等,共計八十餘本。《張秀亞全集》於2005年,由國家臺灣文學館出版,共十五冊。
論述
《西洋藝術史綱》(11冊)雷文炳、張秀亞撰,臺中光啟出版社,(11冊)郵購出版社出版,1964年[註 1]
《給年青人》,香港山邊社,1981年11月
詩集
《青苔詩集》,天津出版,1937年
《水上琴聲》,彰化樂天出版社 1956年12月
《我的水墨小品》,臺北道聲出版社 1978年6月
《愛的又一日》,臺北光復書局 1987年4月
小說
《在大龍河畔》,天津天津北方文化流通社(海風叢書),1936年12月
《皈依》,山東保祿印書館,1941年1月
《幸福的泉源》,山東保祿印書館,1941年10月
《珂蘿佐女神》,重慶紅藍出版社,1944年10月
《尋夢草》,臺灣商務印書館,1953年9月
《七弦琴》,高雄大業書店,1954年1月
《感情的花朵》,臺北文壇社,1956年1月
《女兒行》,臺中光啟出版社,1958年8月
《那飄去的雲》,臺北三民書局,1969年7月
散文
《三色堇》,臺北重光文藝出版社,1952年6月
《牧羊女》,臺北虹橋書店,1953年8月
《凡妮的手冊》,高雄大業書店,1955年3月
《懷念》,高雄大業書店,1955年10月
《湖上》,臺中光啟出版社,1957年3月
《愛琳的日記》,臺北三民書局,1958年5月
《少女的書》,臺北婦女月刊社,1961年8月
《兩個聖誕節》,臺中光啟出版社,1961年10月
《北窗下》,臺中光啟出版社,1962年5月
《張秀亞散文集》,高雄大業書店,1964年
《張秀亞選集》,高雄大業書店,1964年8月
《曼陀羅》,臺中光啟出版社,1965年5月
《我與文學》,臺北三民書局,1966年12月
《心寄何處》,臺中光啟出版社,1969年9月
《書房一角》,臺中光啟出版社,1970年6月
《水仙辭》,臺北三民書局,1973年2月
《天香庭院》,臺北先知出版社,1973年7月
《人生小景》,臺北水芙蓉出版社,1978年6月
《寫作是藝術》,臺北東大圖書公司,1978年8月
《詩人的小木屋》,臺中光啟出版社,1978年9月
《湖水.秋燈》,臺北九歌出版社,1979年7月
《石竹花的沈思》,臺北道聲出版社,1979年8月
《白鴿.紫丁花》,臺北九歌出版社,1981年7月
《海棠樹下小窗前》,香港星島出版社,1984年6月
《月依依》,北京人民日報出版社,1996年10月
《張秀亞人生情感散文》,長沙湖南文藝出版社,1998年9月
《與紫丁香有約》,臺北九歌出版社,2002年3月
合集
《張秀亞自選集》,臺北皇冠出版社,1971年11月
《秀亞自選集》,臺北黎明文化公司,1975年1月
《張秀亞選集》,香港文學研究社,1978年
《張秀亞作品選》,西安陝西人民出版社,1987年6月
《杏黃月》,武漢長江文藝出版社,1993年10月
《荷塘之憶》,西安陝西人民出版社,1998年5月
翻譯
《聖女之歌》(德)韋非爾撰,張秀亞譯,香港新生出版,1952年[註 2]
《心曲笛韻》郝思蘭撰,張秀亞譯,臺中光啟出版社,1959年[註 3]
《恨與愛》莫瑞亞珂撰,張秀亞譯,臺中光啟出版社,1960年[註 4]
《回憶錄》德蘭撰,張秀亞譯,臺中光啟出版社,1962年[註 5]
《改造世界》凱樂撰,張秀亞譯,臺中光啟出版社,1962年[註 6]
《在華五十年》(陶明修女的傳記)巴任撰,張秀亞譯,臺中光啟出版社,1971年[註 7]
《論藝術》凱瑟等撰,張秀亞譯,臺北大地出版社,1972年
《自己的屋子》吳爾芙撰,張秀亞譯,臺北純文學出版社,1973年[註 8]
全集
《張秀亞全集1詩卷》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集2散文卷一》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集3散文卷二》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集4散文卷三》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集5散文卷四》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集6散文卷五》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集7散文卷六》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集8散文卷七》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集9散文卷八》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集10小說卷一》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集11小說卷二》,張秀亞 國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集12翻譯卷一》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集13翻譯卷二》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集14藝術卷》,國家臺灣文學館,2005年3月
《張秀亞全集15資料卷》,國家臺灣文學館,2005年3月 全集
評價及影響
文學評論者對張秀雅的評價,除了她作為女性文學的重要推手外,常以美文與富含鄉土色彩談論其作品,例如詩人瘂弦稱其為「美文大師」,在《張秀雅全集》的總論中提到:「張秀亞在無意識下所反映出的女性心靈世界,在今天看來特別具有前瞻意義,這樣的探索,不但使在一個女性較多的環境中成長的她,找到屬於自己藝術的驅動力,而寫女性、表現女性、創造女性文學,也成為她一生的抱負與職志。」並提及「在臺灣婦女寫作運動中,張秀亞無疑是一位重要的燃燈者。她的寫作活動,一直與婦女文運的脈搏緊密相扣,起著導引與示範的作用。」[1]同時瘂弦認為張秀亞是一位充滿鄉土色彩的藝術家:「為農業時期與工業時期交替的台灣,畫了一幅幅美麗的畫像。那是台灣的黃金時代,如果有人問我們台灣的社會還沒變複雜、混亂之前,台灣人想些什麼,它們的夢是什麼顏色,讀一讀張秀亞的散文就知道了。⋯⋯張秀亞作品體現了那個時代,她的散文,是台灣永遠的田園詩歌。」[3]
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