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#三陸鉄道が40周年
picworld1 · 1 month
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祝!「三陸鉄道」開業40周年 休暇村陸中宮古では、三陸鉄道の開業40周年を祝し、4月1日(月)から「三陸鉄道開業40周年記念 三鉄グッズ付き宿泊プラン」を販売します
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国鉄の財政悪化とか、震災とか、台風とか色々あったけれど、立ち直って運行を続けている、三陸鉄道ですが、今年で開業40周年となるそうです。 海岸線を走る(リアス式)だから、観光ででかけてもとても良いと思うし、いつもは地元の方の足として活躍し、今後も利用されていくのでしょうね。 好きな鉄道路線の1つです。 祝!「三陸鉄道」開業40周年 休暇村陸中宮古では、三陸鉄道の開業40周年を祝し、4月1日(月)から「三陸鉄道開業40周年記念 三鉄グッズ付き宿泊プラン」を販売します 自然にときめくリゾート 休暇村 岩手県の沿岸部のほぼ中央、三陸復興国立公園に位置するリゾートホテル「休暇村陸中宮古」(所在地:岩手県宮古市崎鍬ケ崎、支配人:嶋田…
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e-camper · 1 month
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mixs-fan · 1 month
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yotchan-blog · 19 days
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2024/4/10 7:59:52現在のニュース
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ari0921 · 4 years
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高山 正之氏の論考をシェアさせていただきます。
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【変見自在】学者の不勉強
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台湾総督府土木課員の八田與市は大正5年、南部の嘉南を視察した。
東京23区の倍はある田園は水利に恵まれずしばしば旱魃に見舞われていた。
八田は東側の山地にダムをつくり灌漑を施せば壮大な穀倉地帯になり得ると総督府に具申した。
総工費5400万円。黒部ダムなら三つはできる巨額だが、大日本帝国は32歳の土木技師の意見を入れてOKを出した。それが台湾の明日に有用なら、と。
八田は10年をかけて烏山頭(うさんとう)ダムと用水路網を完成させた。今、嘉南大?(たいしゅう)と呼ばれる沃野がそれだ。
八田は台湾の対岸、福建省の水利についてもアドバイスをしている。
そこを仕切る陳儀は日本と敵対する蒋介石配下の軍人だが、元日本留学組という誼(よしみ)があった。台湾もよく訪れ、八田の偉業を知って福建に招聘した。
日本は多少のいさかいがあっても支那の民生には指導を惜しまなかった。
八田は陥落したばかりのフィリピンでの灌漑事業も国から託された。
当時、米傀儡政権のケソンは国外に逃げ、ホセ・ラウレルや40年前の対米独立戦争を戦ったアギナルド将軍らが新政府を作り上げつつあった。
日本軍は新政府を手助けした。その一つとして、灌漑整備を八田に頼んできた。
しかし彼が乗船した大洋丸は昭和17年5月8日、五島列島沖で米潜水艦に雷撃され、沈没。八田と一緒にフィリピンの民生に尽くそうとした多くの技術者が帰らぬ人となった。
日本は戦争中の支那でも民生に力を注いだ。
外務省は昭和11年、北京に華北産業科学研究所を設立し、支那の農林畜産の改良に人材を投入した。
世界的な品種となった多収穫小麦「農林10号」やコシヒカリの原種「農林1号」を開発した稲塚権次郎もこの時に派遣された。
同じ年、支那では西安事件が起きる。米国に助けられた蒋介石はその意に従って日本に上海事変を仕掛け、泥沼戦争に引き込んでいったが、稲塚はその間も黙々と支那の穀物改良に取り組み、成果を上げた。
戦後は支那に拘束されて2年間苦役させられた。恩を仇で返す。蒋介石は文在寅みたいな一面があった。
アジアの民生に尽くしたのは民間人だけではない。大日本帝国陸軍もまた現地民の生活を顧慮した。
南京陥落後、重慶に逃げた蒋介石軍は日本軍の追及を恐れ、花園口で黄河の堤防を決壊させた。
日本軍は現地に入ると進軍を止め、堤防の補修をし、糧食を市民に与えた。
タイからビルマに向かった第55師団は北部タイに道を開き、途中の河川に橋を架けて進軍した。
川幅が200メートルを超えるパーイ川にも本格的な永久橋を架け、先代のプミポン国王は日タイ友好の証として保存させている。
欧米軍ならポンツーン(浮き橋)を使うか地元民を駄馬代わりにするか。「戦地で永久橋」は日本軍が史上初めてだ。
泰緬鉄道も同じだ。やがて来る戦後にビルマとタイを結ぶ鉄道がどれほど両国民の発展に寄与するか。
日本軍は二つの鉄道連隊を軸に1万2000人の部隊を投入。お手伝いに連合軍捕虜を使ってあの戦争のさなかに全長415キロの鉄道を開通させた。
白人は「死の鉄道」とか様々な悪評を捏造し、タイには廃線を命じたが、国王は無視し、今もタイ領内で泰緬鉄道を走らせている。
国王はまた在位60周年の答礼に泰緬鉄道を走ったC-56のレプリカを日本に贈った。
日本軍が何をしたか。これ以上ない証だ。
習近平はコロナを流行らせ、世界経済を失速させて御免でもない。
おまけに黄色いシャイロックのように小国の領土を高利のカタとして奪い、ウイグルの民を圧殺する。
その畜生道を朝日新聞「論座」メンバーの中島岳志東工大教授は「『大日本帝国化』する中国」(「月刊日本」)と言う。
まだ習近平の方が日帝よりましだと。
もうちょっとお勉強した方がいいんじゃないかな。
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shiro-absence · 6 years
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1291年以前[編集] 詳細は「初期スイスの歴史(英語版)」を参照 ローマ帝国の衰退まで[編集] スイスの都市クール(ドイツ語: Chur)など5000年以上前の歴史がある。具体的には紀元前3900年から3500年頃のフィン文化(Pfyn culture)まで遡ぼれる。考古学の研究によれば、アルプス北部の低地諸国に人間が住むようになったのは旧石器時代の後期のことである。新石器時代に入ると住民が増え、青銅器時代になると湖上に高床式の家をたてて人々が暮らしていた痕跡が発見されている。紀元前15世紀ごろ、ケルト人のヘルウェティイ族が住み着いた。当時、今日のスイスに相当する地域を版図としていた政治勢力は、彼らの部族国家と、スイス東部に住んだラエティ人(英語版)と呼ばれる非ケルト系の集団であった。 紀元前3世紀以降、共和政ローマはイタリア半島の北の守りとして、ヘルウェティイ族の勢力圏に勢力を伸ばしていった。当時のローマ人はこの地域をヘルウェティイ人の部族国家名からラテン語でヘルウェティイ族の土地を意味する「ヘルウェティア」と呼んでいた。紀元前58年、ゲルマン人の圧迫をうけたヘルウェティイ族は西方への民族移動を開始したが、移動によって統治構造のバランスが崩れることを恐れたユリウス・カエサルはこれを実力で阻止すべく進軍。ビブラクテの戦い(英語版)でヘルウェティイ族を打ち破ってヘルウェティイ族の国を滅ぼし、この地を占拠した。これ以降、ローマ帝国は同国の治安維持と開発による安定化策(ヘルウェティア)を進めた。当時の統治の中心都市はラテン語でアウェンティクム(ラテン語: Aventicum、今日のアヴァンシェ(英語版))であった[1]。259年になると、当時のゲルマニア地方の動乱状況を経てゲルマン系のいくつもの古い部族が融合して形成された新興勢力であるアラマンニ人がヘルウェティアに侵入し、ローマ帝国の統治基盤を揺るがした。 4世紀に入ってキリスト教の司教区が初めてスイス地域に設立された。このころになると西ローマ帝国の統治能力は低下しており、ゲルマン系集団が流入してスイス地域にブルグント王国を築いた。5世紀にローマ帝国がスイスから撤退していくとアレマン人が再びスイスに流入した。ここでアレマン人・ブルグント人・ラエティ人(英語版)・ランゴバルド人の4民族がスイスで共存するようになり、ドイツ語・フランス語・ロマンシュ語・イタリア語がスイスで用いられる基礎を作った。 ヴェルダン条約の爪あと[編集] 6世紀に入るとスイスはフランク王国の統治下におかれた。不安定なメロヴィング朝は戦闘民族アレマン人の自治を認めた。8世紀、アレマン公が今でいうバーデン=ヴュルテンベルク州・アルザス地域圏・スイス北部をふくむ地域を支配下とし、複雑な住民構成に合わせ『アレマン法典』を編纂・通用させた。841年のヴェルダン条約により、スイスの���部はロタール1世の中フランク王国、スイスの東部はルートヴィヒ2世ドイツ人王の東フランク王国となった。870年、メルセン条約で中フランクからイタリア王国ができた。そこでマジャール人が917年にバーゼル、927年にザンクト・ガレンを破壊した。イスラム教徒が940年から980年にかけてヴァリスにまで攻めてきた。外寇が度重なった時期に、スイスの諸地域が自立化した。それらはイタリア政策の目標となった。 11世紀までにはスイス全域が神聖ローマ帝国の支配下に入った。12世紀には古ブルグント王国の領域の支配者は神聖ローマ帝国によって封ぜられたシュヴァーベン公からツェーリンゲン家へと引き継がれていた。ツェーリンゲン家はスイスを自らの勢力基盤として整備し、フリブールやベルンといった都市を築いた。1218年にツェーリンゲン家の血統が絶えたことでそのスイス支配は終わったが、その後を縁戚のキーブルグ家が継ぎ、さらにキーブルグ家の後を縁戚のハプスブルク家が継いだ。「ハプスブルク」という家名は、同家の祖がスイスのアールガウ地方に築いた城が「鷹の城」(ドイツ語: Habicht burg - ハービヒツブルク、後にSchloss Habsburg)と呼ばれていたことに由来している。ハプスブルク家はスイスでじわじわと力をつけていった。 13世紀になってザンクト・ゴットハルト峠が開通すると、ヨーロッパの南北を結ぶ交通の要衝、交易ルートとしてスイスの地理的重要性が高まった。特にその通路にあたるウーリ州は交易を利用して経済力をつけた。ツェーリンゲン家が絶え、家領の帰属が神聖ローマ帝国に移ったとき、ウーリは抵当権を自ら買い戻すことで自治権を獲得した。やがてウーリに隣接するシュヴィーツ州・ウンターヴァルデン州も自治権を手にした。ハプスブルク家出身で初めて神聖ローマ皇帝となったルドルフ1世の死後に行われた選挙で、ルドルフの子アルブレヒト1世は神聖ローマ皇帝に選ばれなかった。失意のアルブレヒトは自分の根拠地であるスイスの経営に専念したが、スイス人たちはこのアルブレヒトによって自分たちの権利が失われるのではないかと危惧した。1291年、ウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンの3つの州の代表者たちは集まって対ハプスブルク家自治独立を維持するための永久盟約を結んだ[2]。これがスイス連邦の原型である「原初同盟」(盟約者団)の結成である。このシュヴィーツ州という地名こそが「スイス」の語源となっていくのである。有名なウィリアム・テル(ヴィルヘルム・テル)の伝説はこの時代を舞台としている。 原初同盟の成立(1291年-1523年)[編集] 詳細は「原初同盟(ドイツ語版、英語版)」を参照 伝説では原初同盟(誓約同盟)の結成は「リュトリの野」で行われたとされている。神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の死後、ハプスブルク家のアルブレヒトの息子フリードリヒ(ドイツ王フリードリヒ3世)がバイエルン公ルートヴィヒ(ドイツ王ルートヴィヒ4世)と帝位をめぐって争ったが、アルブレヒトを敵視していた原初同盟はバイエルン公を支持した。これに怒ったフリードリヒはハプスブルク家の精鋭を揃えてスイス領内に侵攻したが、1315年のモルガルテンの戦い、1386年のゼンパッハの戦い(英語版)でスイス農民軍に打ち破られた。こうしてスイスからハプスブルク家の影響力が排除された。 このハプスブルク家との死闘のさなかの1353年に最初の3州に加えてグラールス州・ツーク州の両州とルツェルン・チューリッヒ・ベルンの各都市が原初同盟と個々に同盟を結ぶという形で同盟に加わった。こうしてできたのが「八州同盟(ドイツ語版、フランス語版、イタリア語版、アレマン語版)」である。アッペンツェル戦争(1401年 - 1429年)中の1411年に、アッペンツェル(ドイツ語版、英語版)(1403年 - 1597年)は原初同盟と防衛条約を締結した[3][4]。 1440年代、トッゲンブルク伯領をめぐりチューリッヒがシュヴィーツら諸州と争い、分が悪くなってハプスブルク家に接近し同家の帝位を回復した(古チューリッヒ戦争(英語版))。このころハプスブルク家に近い司教領同盟(1367年成立)など幾多の勢力が、互いに結んで貴族間のフェーデに参加した。1470年代にブルゴーニュ戦争でスイス領内へ侵攻したブルゴーニュ公国のシャルル突進公の軍勢を破ったことと、スイス人傭兵がヨーロッパ全域の戦場で活躍するようになったことで、スイスの国際的な地位は向上した。 1488年にシュヴァーベン同盟(ドイツ語版、英語版)が結成され、1499年に皇帝マクシミリアン1世がスイスを勢力下に収めようと侵入したがスイス軍の前に敗れ(シュヴァーベン戦争(ドイツ語版、英語版))、この勝利によってスイスは神聖ローマ帝国からの事実上の独立を勝ち取り、シュヴァーベン地方ではドイツ農民戦争(1524年 - 1525年)へと向かうことになった。 1501年、バーゼル司教領(英語版)(1032年 - 1803年)が原初同盟に参加し、カントン・バーゼル(アレマン語版、英語版)(1501年 - 1833年)となる。1506年には教皇ユリウス2世が近衛兵として初めてスイス人傭兵を採用している[5]。この頃、スイスはイタリア戦争などの周辺地域の紛争に干渉したが(ノヴァーラの戦い(フランス語版、ドイツ語版、英語版))、1515年のマリニャーノの戦い(英語版)でフランソワ1世率いるフランス軍に大敗を喫した。同年、ミュルーズが十都市同盟から盟約者団へ移ってきた。 宗教改革の嵐(1523年-1648年)[編集] 詳細は「スイスの宗教改革」を参照 宗教改革者フルドリッヒ・ツヴィングリはもともと1518年にチューリッヒの大聖堂の説教師として招聘された。1523年に始まるツヴィングリの宗教改革運動はチューリッヒ市の政治体制と不可分の政教一致運動でもあった。ツヴィングリの始めた改革運動は他の州にも拡大したが、森林五州とよばれる5つの州は従来のカトリック信仰の保持を表明した。プロテスタント諸州とカトリック諸州は争いを避けようと交渉を繰り返したが、自らの力を頼みとするチューリッヒがプロテスタント陣営の中でも独走気味となった。1529年の第一次カッペル戦争はぎりぎりのところで交戦が回避されたが、ついに1531年の第二次カッペル戦争(ドイツ語版、英語版)でチューリッヒ軍がカトリック連合軍と激突し、ツヴィングリ自身も戦死した。1531年に和平協定であるカッペル協定が結ばれ、スイスにおいてカトリックとプロテスタントは互いを攻撃することなく共存していく体制を作ることで合意した。ここでは各邦が宗教問題に対応すると決められ、アウクスブルクの和議の先取りとなった。また、この決定により、西南ドイツ都市と締結していた同盟は破棄され、ツヴィングリの死(西南ドイツ都市はルター派の影響下となる)とともにスイスが神聖ローマ帝国から分離していく原因の一つとなった。このころ、ジャン・カルヴァンが指導していたジュネーヴが盟約者団の一員として加わった。1560年、森林五州はサヴォイア公国と同盟した(ボロメオ同盟)。 1602年、サヴォイアがジュネーヴを奇襲したが失敗。1604年、森林五州はヴァリスをカトリック側へ連れ戻した。 三十年戦争(1618年-1648年)の前菜に、ユグノーと和解したリシュリューがサヴォイアを攻撃した。また、多くのスイス傭兵の血が流れた。三十年戦争で勇名を馳せたスウェーデン王グスタフ2世アドルフの軍には、多くのスイス人傭兵が参加していた。プロテスタント陣営に優勢をもたらしたグスタフ・アドルフは、スイス人の多勢を占めるゲルマン人とスウェーデン人の祖先を同一視させる政策(古ゴート主義)をとった。この王の死後、フランスでもスイス人の傭兵を得るために同様の政策をとり、スイスの独立を後押しした。 三十年戦争の最中、スイスは「武装中立」という立場を初めて公式に宣言した。そして、中立を維持するための国境防衛軍として連邦軍が創設された。 アンシャン・レジーム(1648年-1798年)[編集] 1648年のウェストファリア条約でスイスは法的にも神聖ローマ帝国から独立した。 1653年、ルツェルン・ベルン・ソロトゥルン・バーゼルに属する共同支配地の農民たちが通貨の切り下げに反発して蜂起した。反乱軍はルツェルンとベルンを囲んだが、やがて和解した。1656年と1712年のヴィルメルゲンの戦い(英語版)で、再び農民が放棄した。英仏でユグノーが台頭する陰でスペイン・ハプスブルク家は凋落していた。1531年のカッペル協定を打破したいベルンとチューリッヒが、そこで1656年の戦いを利用し軍事的決着を試み失敗した。フォンテーヌブローの勅令が出てプロテスタントの都市邦が一気に経済力を増した。カトリックで工業化したのはゾロトゥルンだけだった。1712年スペイン継承戦争の間隙を縫い、ベルンとチューリッヒがヴィルメルゲンに凄絶な電撃戦を展開した。森林五州を破ってバーデンの共同統治枠から追放し、地理的にオーストリアから切り離した。チューリッヒはスイス東部全域でプロテスタント住民に対する教会裁判権を獲得した。ベルンも行政に関わるようになった。森林五州は講和条約にもかかわらず勝手に五州の同盟を更新し、フランスとも連邦名義で秘密協定を結んだ。このとき森林五州は更新の条件として失われた地方代官区の権限回復を頑なに要求した。これが災いして、スイス連邦全体がフランスと結んでいた本当の同盟がルイ14世の死後に期限切れとなってから約半世紀も更新できなくなった。1781年、ジュネーヴでブルジョワらの間接民主制が成るも、翌年にフランス・サヴォイア・ベルンの連合軍が包囲・陥落した。 ナポレオン時代(1798年-1848年)[編集] フランス革命が起こると、その影響はスイスへも波及した。フランスの革命軍はオーストリア帝国との戦いを通じてスイスを脅かした。1798年3月にベルンが落とされ、やがて総裁政府がヘルヴェティア共和国を設立した。啓蒙思想の革命家が従来の地方自治制を廃して中央集権政府の確立を目指し、言葉の壁と人材の不足から不徹底におわった。1800年1月から分権派によるクーデターが続き、財政を困窮させながら共和国は崩れた。 1803年、第1統領のナポレオン・ボナパルトが調停者となり、スイス各州の指導者がパリに集まって協定を結び、スイスは地方自治の体制に戻った(ナポレオン調停法)[6]。このとき、それまで共同支配地とされて格下の扱いだったアールガウ州、トゥールガウ州、グラウビュンデン州、ザンクト・ガレン州、ヴォー州、ティチーノ州が同格のカントンとして同盟の一員に加えられた(新カントン)。 1815年、ナポレオン戦争後のヨーロッパについて協議したウィーン会議で、スイスの独立が改めて確認されると共に、永世中立国として国際的に認められた。このとき、ヴァレー州・ヌーシャテル州・ジュネーヴ州がフランスからスイス連邦に返還された。フランスの逆襲に備え、スイスはサルデーニャ王国の上サヴォイア地方の中立を保護する役を与えられた。失地として、ミュルーズがアルザスに編入された。グラウビュンデンのアルプス南側にある3つの代官区も、285年におよぶ自治権を奪われイタリア王国に組み込まれた。この年に画定された国境線は今でも維持されている。同年、新旧カントンの妥協により同盟規約が成った。カントン間の軋轢は狭い国土に非関税障壁を蔓延らせた。このころにスルザーなどが創業した。 フランスの7月革命をきっかけに、およそ半数のカントンでブルジョワの改憲運動が起こった。ここから同盟規約が綻びだした。1841年、アールガウの急進派政府が一度に8つの修道院を廃止した。これは同盟規約の第12条に真っ向から違反した。盟約者団会議は4つの女子修道院を救済したが、しかしカトリックが劣勢であることに変わりなかった。1844年にイエズス会を招いたルツェルンには周囲のカントンから義勇軍が殺到した。義勇軍はルツェルン市民の決意を挫くことができなかった。するとスイス全土が無政府状態に陥った。カトリック派のカントンは1845年12月に保護同盟を結成した。 スイス連邦の成立(1848年-1914年)[編集] 1847年、カトリック諸州とプロテスタント諸州の緊張状態が紛争に発展した。自由主義の気運の高まりと進展に危機感を抱いたカトリック諸州が同盟規約を保護する同盟を結び(1845年)、盟約者団が同盟の解散を命じたため、争いになったのである。紛争は1ヶ月続き、100名あまりの犠牲者が出た(「分離同盟戦争」)。ユグノーによるスイス支配体制の確立は「1848年革命」へと発展し、ウィーン体制が事実上崩壊した。そしてフランスがスイスに対する影響力をつけていった。 内戦の結果、1848年に連邦制度が採択された。各州の代表からなる連邦議会が防衛、通商、憲法に関する事項を扱い、それ以外は全て各カントンに委ねられた。このとき出来たスイス連邦の基本的な枠組みは、現代まで維持されている。 従来フリードリヒ・ヴィルヘルム4世がプロイセン国王とヌーシャテル侯をかねていたが、1848年の革命でヌーシャテルが奇襲により共和国となった。1856年、ヌーシャテルで王党派の反革命運動がおこり指導者が断罪された。プロイセン王国は彼らを見殺しにできず派兵した。ナポレオン3世の仲裁で、ヌーシャテルは共和制を維持するかわりに王党派を逃がした。この年、クレディ・スイスが創業した。1860年サヴォワがイタリア統一の駆け引きによりフランスへ移譲された。これをスイスは阻止できなかった。1862年、スイス・ユニオン銀行(現UBS)が創業した。1864年、赤十字を創設した。1865年、ラテン通貨同盟と万国電信連合に参加した。普仏戦争においては中立維持のため全軍を総動員したが、その経費を削るため大部分の動員を解かなくてはならなくなった。このときフランス軍がドイツ軍に押されて国境を侵犯し、この疲弊した部隊8万7千人をスイスが保護した。 ドイツもスイスをめぐる外交で巻き返しを見せた。1874年、スイスを万国郵便連合に加盟させたのである。1882年ドイツは三国同盟を編み上げ、スイスを地理的に包摂する構えをとった。三国同盟のドイツとイタリアに挟まれて、スイスは鉄道政策をめぐる緊張状態におかれた。ゴッタルド鉄道トンネルの敷設をバスラー銀行(現UBS)などが支援した。 2つの世界大戦(1914年-1945年)[編集] 「戦時国際法#スイスの自衛努力」および「スイス軍#歴史」も参照 第一次世界大戦と第二次世界大戦では中立ゆえにすべての陣営がスイスを舞台に国際諜報・外交・通商を行った。スイスは政治難民たちの避難地ともなった。1917年に��まったダダイスムの動きは戦争に対する文化的反応ともいうべきもので、スイスに逃れてきた芸術家たちによって推進された。レーニンもチューリヒに逃れていたが、そこから直接ペトログラードに向かってロシア革命を指導した。1919年、カトリック保守派が二人の大臣を出した。そして1873年以来絶えていた教皇庁との外交関係も回復した。1920年、国民投票で非ドイツ語圏が賛成に回り、スイスは国際連盟の一員となった(1938年脱退)。 化学工業が生産力を持て余した戦間期、ナチスはスイス国内で反ユダヤ主義の扇動を行った。その立役者となったヴィルヘルム・グストロフはユダヤ人の若者に射殺され、故郷のドイツで国葬されている。1932年、ファシストを糾弾する左翼とスイス軍の部隊がジュネーヴで衝突している。あらゆる政策をめぐり国民投票が連続し、どれも否決されていった。1935年、スイス・フランを切り下げた。1938年、絶対中立を認められた。しかしナチス・ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発した事で、スイスでも緊張が高まり43万人の民兵が兵役に動員され、アンリ・ギザン将軍のもとで非常体制がとられた(軍最高司令官による統治体制は非常時のみ行われる)。1940年5月11日、ドイツがベルギーに侵攻すると、スイスでは国民総動員の態勢がとられ、史上初めて15,000人の女性兵士も動員された。スイスは中立を標榜していたため、難民の受け入れはしていなかったが、それでも26,000人のユダヤ難民を受け入れている(ただし、同時に相当数のユダヤ人の入国を拒否した事や、密入国を許可した警察担当者が戦後になって有罪となった事実もある)。連合軍はスイス側のドイツ寄りの中立を牽制するためか、チューリヒやバーゼルなどの国境の都市に空襲(表向きは誤爆としている)を行っており、1944年4月1日に行われた米軍によるルートヴィヒスハーフェン・アム・ラインへの空爆ではスイス領シャフハウゼンへの誤爆を引き起こし40名の死者を出している(第二次世界大戦におけるスイスへの空襲(英語版))。また、しばしば両陣営の航空機による領空侵犯が行われており、空軍が出動して強制着陸を行わせるなどした他、戦闘も発生している。 1940~44年にかけて、スイスの国境の向こう側は全てドイツとその同盟国であるイタリアに占領されており、この時期のスイスは枢軸国によって生殺与奪の権利を握られていた事情もあった(実際にドイツはフランス降伏後、極秘裏にスイス侵攻作戦(タンネンバウム作戦)を計画していたが、実行されなかった)。このような状況下において、スイス政府としては「中立違反」の非難を受けたとしても、ドイツ側とある程度の妥協をせざるを得ない側面もあった。 太平洋戦争末期の1945年初頭、マニラの戦いにおいて、戦闘に巻き込まれた在比スイス人が多数死亡する事案が発生したことで、政府は日本との断交を検討したが結果的に見送られ、8月14日のポツダム宣言受諾の連合国への通知は、スイス政府を仲介して行われた。 大戦中にスイス銀行が金を中心とするナチスの資産の隠し場所となったことが戦後に明らかとなり、1995年から2000年にかけて詳細な調査が行われた。スイスのこの行為は重大な中立違反であるとして国際的な非難を受けた。ナチスの資産と称するものはほとんどが迫害したユダヤ人から巻き上げたものだったといわれている。スイスは1952年に旧連合国側に対して中立違反の賠償金を支払っているが、1999年にアメリカのホロコースト基金に対し、改めて12億ドルを支払っている。 1945年以降のスイス[編集] ネスレなどが戦後景気を享受し、土地投機が野放しにされた。スイスは原子爆弾(原爆)の製造と所持を検討し、連邦工業研究所のポール・シェラー博士に計画の作成を依頼した。しかし、1958年の国民投票で原爆非保持が決まり、計画は破棄された。国民投票で婦人参政権が否決された1959年以降[7]、政府に任命された連邦議会は4つの政党の代表者によって構成されている。プロテスタント自由民主党、カトリック・キリスト教民主党、左派の社会民主党、右派の人民党である。 1960年5月3日、イギリス・オーストリア・スウェーデン・デンマーク・ノルウェー・ポルトガル・スイスの7か国で欧州自由貿易連合を結成し、外国人労働力を導入した。これがもとで世界中へ瞬く間に投資信託が広まった。1963年5月6日、スイスは欧州議会に参加した。スイスは中立を国是としているが、国際的な承認を得続けるために国際活動には積極的に参加している。1971年の国民投票で女性の参政権を認めた。1979年、ベルン州の一部が独立してジュラ州となった。1984年、連邦閣僚に選ばれた最初の女性が財界との癒着を指弾する世論に降ろされた。1985年、総人口に占める農民の割合が5%になった。1940年では20%もいた。スイスが農民連合であった面影は失われた。1990年、冷戦で連邦検察庁が不審な市民のブラックリストを作成していた事実が公となった。一民間団体がロマを半世紀近く軟禁できる国である。個人情報の漏洩は公然の秘密である。 戦後、何度か国際連合加盟の是非を問う国民投票が行われたが、賛成票が必要数に満たず見送られていた。しかし、2002年の投票で賛成派が可決数を超えたことで加入した。スイスは国民投票によって国際連合への加入を決定した唯一の国である。ただ、依然としてEUには加入していない。1995年、オーストリアのEU加盟によって、リヒテンシュタインを除く全ての国境をEU加盟国に囲まれることになった。2004年10月26日、シェンゲン協定に加盟(2008年12月12日に施行)し、シェンゲン圏に入った。 脚注[編集] [ヘルプ] ^ 現代でもアヴァンシェではローマ時代の遺跡を見ることができる。 ^ 川口マーン惠美 『世界一豊かなスイスとそっくりな国ニッポン』 講談社、2016年、152頁。ISBN 978-4-06-272965-9。 ^ この時点ではAssociate Memberで、1513年のアッペンツェル同盟でfull memberとなる ^ 伝統的にスイスの諸州の表記は連邦への加入順にされている。初めに原初同盟の最初の8つの州と都市があげられ、1481年以降に加入した州が時代順にならぶ。 ^ スイス人傭兵というものが存在しなくなった現在でも、教皇の衛兵は伝統的にスイス人が務めている ^ ナポレオン調停法は、ナポレオンに対し兵員(1万6000人)を提供するという軍事協定でもあった。 ^ ヴォー州ではカントンレベルでその日のうちに参政権が認められた。ヌーシャテルとジュネーヴが直ちに続き、バーゼルがやや遅れて女性の投票権を受け入れた。 参考文献[編集] Geschichite der Schweiz und der Schweizer, 3 Bde., Basel, 1982/1983, 2. Auflage 1986. Handbuch der Schweizer Geschichte, 2 Bde., Zürich 1972/1977. 森田安一著 『物語 スイスの歴史』 中公新書 2000年 ISBN 4-12-101546-0 柳澤伸一「スイス誓約同盟とシュヴァーベン同盟」、『西南女学院大学紀要』第10巻、西南女学院大学、2006年2月28日、 31-39頁、 NAID 110004866386。
https://ja.wikipedia.org/wiki/スイスの歴史
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朝日新聞英語版の慰安婦に関する記事には印象操作がある――。この印象操作中止を求めるべく、集めた署名は1万6千筆あまり。この署名をケントさんと山岡さんが7月6日、朝日新聞に提出し、印象操作中止の申し入れと記者会見を行います。それに合わせ、『月刊Hanada2018年5月号』掲載のお2人の対談を公開いたします。朝日の慰安婦報道の海外への影響、英語表現の解説、朝日新聞訴訟の結果、そして「なぜか日本人に冷たい」朝日新聞の実態に迫ります。
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■読者をバカにする朝日新聞
ケント これまで朝日新聞は、ごまかしにごまかしを重ね、印象操作を行ってきました。朝日は読者をバカにしているんじゃないですか。
山岡 おっしゃるとおりです。読者に幅広い見方を提供しようというつもりがない。朝日新聞だけ読んでいる読者は、「朝日新聞の世界」の住人になってしまうのではないでしょうか。 「朝日新聞の慰安婦に関する報道で誤った事実が世界に広まり名誉を傷つけられた」などとして、在米日本人を含む62人が朝日新聞を訴えていた訴訟についてもそうです。「二審も本社勝訴判決」と8段の大きな記事で報じ、朝日新聞社広報部のツイッターアカウントは、判決を受けて「弊社勝訴で確定しました」などと勝ち誇っていましたが、彼らも自分たちの思っている世界だけで自己完結しているように思います。
ケント たしかに、2月8日に東京高裁が判決を言い渡した裁判自体は原告が敗訴しました。しかし判決文をつぶさに読んでみれば、朝日新聞が「弊社勝訴」と勝ち誇れるような内容ではありません。
山岡 まず、慰安婦報道によって生じた在米日本人に対する地元住民からの偏見や、いじめに遭った子供たちがいる、困っているお母さん方がいるという部分については、裁判所は事実として認定し、朝日新聞は一切反論していない。つまり、事実だと受け止めていると言っていい。しかし判決では、朝日新聞の慰安婦報道は70年前の軍や政府を批判するものだから、現在の在米日本人の名誉が損なわれたとは言えない、としています。
また、仮に原告である在米日本人たちに対する嫌がらせなどをした人が、朝日新聞の記事によって日本人に対する否定的な評価を持ったとしても、それ以外に様々な情報に接し、自身の考え方に照らして行動を決めるものだから、朝日の記事と原告が被った被害の相当因果関係を認めることはできない、としています。
ケント おかしな判決ですね。
山岡 朝日の記事、なかでも90年代の慰安婦キャンペーン記事が燃え上がって海外に広まり、2014年に朝日新聞が吉田清治記事を取り消したあとも余波が広がり続けていることはたしかであるにもかかわらず、「法的に因果関係を認めるまでにはいかない」と。しかし一審では「なんらの影響も与えていないということはできない」、控訴審では「主要な役割を果たしていると認めるには十分ではない」とし、影響そのものを全否定しているわけではありません。
■朝日には「製造者責任」はないのか
ケント 分野は違いますが、たとえばアメリカの製造物責任にか���るPL法で言えば、自分たちの作った製品が様々な人の手を介して第三者に渡り、最終的に使用者が何らかの被害を受けたとなれば、製造者は責任を持たなければなりません。しかも、責任はなかったと主張する場合には、製造者の側がそれを立証しなければならない。日本の場合とは全く逆ですね。消費者の側が因果関係を立証しなければならないとなれば、専門知識と莫大な経費が必要で、日本の消費者は守られません。
今回の朝日新聞の訴訟で言えば、主要な原因でないとしても、わずかでも名誉が毀損された可能性が否定できないのであれば、一部であっても朝日の責任を認め、朝日に対して有罪判決を下すべきです。
山岡 被害者が存在することはたしかなのですから、少なくとも朝日の広報が〈これで慰安婦報道を巡り弊社を訴えた裁判がすべて、弊社の勝訴で終結したことになります〉と勝ち誇るようなものではありません。
海外に影響を及ぼしたこともたしかで、日本政府は国連で数回にわたって、吉田清治証言を朝日新聞が広く報じたことで海外に誤解が広がり、各地に慰安婦像が建てられた原因の一つになっていると指摘しています。また、2007年に米下院で慰安婦非難決議が可決されましたが、06年に議会に提出された議会報告書では、はっきりと「朝日新聞がこの件に関してキャンペーンを張った」と書かれているんです。
ケント 大事なポイントですよね。せっかくなので触れておくと、この米下院の慰安婦非難決議案は議員同士の駆け引きで成立したものです。中国系の抗日連合会からカネをもらっていたマイク・ホンダ議員が何としてもこれを通したくて、「協力してくれたら別の決議案に賛成する」と取引したものなのです。
しかもこの決議は本来、IWG報告を受けて行われるはずでした。IWG報告とは、ナチスドイツおよび旧日本軍の戦争犯罪に関連する機密文書を機密解除して再調査したアメリカ合衆国政府の省庁間作業班がまとめた報告書のことですが、結果的にIWGは「慰安婦を軍が強制連行などして性奴隷とした証拠はなかった」とするものです。調査員の一人は「抗日連合が期待していた証拠は出てきませんでした。ごめんなさい」なんて書いているのですから、この報告書の内容をちゃんと読ませて議会にかければ、決議は通らなかったかもしれない。その程度のものなのです。
■朝日はいまも「英語で」嘘を書き続けている
山岡 朝日新聞に話を戻すと、吉田清治記事を取り消したあとも、慰安婦問題に対する「誤解」を特に海外にふりまいています。
朝日新聞の英字記事では、慰安婦に関する報道で、〈forced to provide sex〉、つまり「セックスを強制された」という定型文を必ず入れてきます。もうほとんどコピペかフォーマットのようなもので、慰安婦(comfort women)という単語のあとには〈forced to provide sex〉という説明が必ずつくのです。これはケントさんのようなネイティブスピーカーからすると、「物理的な強制によって性行為を余儀なくされた」というイメージを与える表現なんですよね。
ケント そうです。「性行為を強制された」というイメージで、この表現では女性側に断る余地はない。
山岡 朝日新聞の英字記事はたしかに〈sex slave〉、つまり「性奴隷」という表現は使わなくなってきていますが、本人の意思を無視して性行為を強制されるという表現は、限りなく〈sex slave〉に近いものになる。これを印象操作と言わずして何というのでしょうか。
裁判でも〈forced to provide sex〉という表現について、「仮に〈sex slave〉という言葉を使っていなくても、それを想起させる表現を使うのはおかしい」と指摘しました。これに対して朝日新聞側は、「これは強制連行や性奴隷だと明言するものではない」と主張しているのですが、では一体、何を表現しているのか。「無理やり性交渉を行った、としているけれど『強姦』とは言っていない」というようなもので、極めておかしな表現です。朝日新聞はどういう意図で〈forced to provide sex〉という表現を使い続けるのか、その説明責任を果たしていません。
ケント 使っている単語を文字どおりに取ってくれというなら、そうしましょう。〈forced to provide sex〉という表現に従えば、女性の側に断る権利はない。しかし、慰安婦になった女性たちには客を断る権利はあった。多額の報酬も受けていた。
朝日の英字記事では、〈forced to provide sex〉のあとに、〈to Imperial Japanese soldiers〉、つまり「大日本帝国の兵士に」と続きますが、旧日本軍や軍の兵士が女性の権利を奪って「性行為を強要」したのではない。仮に一定の自由を奪われていたとしても、直接女性たちの権利を抑圧した主体は軍ではなく、女性たちを管理していた業者のはずです。つまり、朝日がいくら弁解しても、この表現は事実と異なることを報じていることに変わりはない。
■朝日にとっては事実より主張
山岡 事実と違う表現を使い続け、指摘されても絶対に変えないとなれば、そういう印象を与えると分かっていてあえて書いていると見做すほかはないでしょう。
ケント 少なくとも、「ジャーナリズム」ではありませんね。活動家による機関紙、つまり「赤旗」と一緒です。ジャーナリズムが政治思想を持ってはいけないというわけではありませんが、自分の目的のために事実を捻じ曲げてはいけない。
私は日本のメディアに興味を持つようになって本当に信じられない思いがしましたが、朝日新聞は嘘の記事を書いて30年以上も撤回しなかった。そもそも、朝日の記者たちが吉田清治の話を本気で信じていたとは思えないんですよ。
現在の沖縄タイムスや琉球新報などを見ても、彼らにとっては事実であるかどうかよりも自分の主張が先に立っています。これはジャーナリストではなく、政治活動家。日本のメディアは「言論の自由」を盾に、何でも報じてしまう。しかし、その結果生じた影響については責任を取らなければならない。報じておいてそこから逃げるのは無責任です。〈forced to provide sex〉という表現は、第一に事実ではないという点がありますが、朝日がどうしてもその表現を使うというのであれば、朝日はそれによって生じた責任を取らなければならないはずです。
■慰安婦=性奴隷なのか
──「性奴隷」などの表現の問題でいうと、フェミニズムの研究者などを中心に「性を売る仕事に従事させられ、少しでも自由を制限された女性はすべて『性奴隷』」 「だから『慰安婦=性奴隷』という表現はおかしくない」という意見が出てきています。
山岡 たしかに、「白色奴隷」(19世紀のアメリカで、強制的に売春に従事させられるなど性的虐待を受けた女性への奴隷制を指す概念)のように、「本人が望まないのにそうせざるを得なかった」ケースを全て奴隷と見做すという概念はあります。慰安婦となった女性にしても、当時、公娼制度が合法だったという背景のなかで、生活苦から親が娘をブローカーに売ったケースはあった。娘は内心、嫌ではあったけれど親のため、家のためと思って売られていったということもあったでしょう。
しかし、もともと朝日新聞が報じてきた「慰安婦」とは、「挺身隊という名で騙されて強制的に連行されて慰安婦にさせられた」 「軍隊が組織的に女性を連れ去った」というものであり、韓国側は「十代前半の少女まで連行された」 「慰安婦の多くは証拠隠滅のために殺された」とまで主張しているのです。「日本軍の性奴隷」といった場合にこのような誤った情報が付随してくることに対して、我々は「それは違う」と声をあげているわけで、「性奴隷という言葉は売春に従事している女性を語るうえで一般的な表現だ」という主張は議論のすり替えです。
──「性奴隷」という表現を最初に使ったのは朝日ではない、と朝日批判を批判する論調もあります。
ケント 国連に「性奴隷」という表現を持ち込み、慰安婦と結びつけたのは戸塚悦朗弁護士でしょう。朝日系列の英字新聞「ジャパンタイムズ」も、2016年1月18日の自社の記事で「性奴隷(sex slaves)との表現は妥当である」と正式に明記しています。
山岡 仮に、慰安婦に対して「性奴隷」という表現を朝日より先に使ったケースがあったとしても、大々的なキャンペーンを展開したのは誰だったのかという点で言えば、朝日の責任は揺らぎようがない。
言葉の定義を言うなら、挺身隊と慰安婦の混同は朝日が90年代に報じる以前からあったでしょう。しかし、明確に〈主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した〉(92年1月11日付)という記事を発信した朝日が免責されるはずもない。問題は、「起源」以上に「インパクト」なんです。データベースを検索して「『性奴隷』という表現を朝日よりも前に使っていた海外メディアや論文があった」からといって誰も覚えていない、あるいは誰も知らなければ影響があったとは言えない。「性奴隷=慰安婦」という印象を世に知らしめ、定着させた原因となった記事を書いた朝日新聞の責任が軽減されるわけではないでしょう。
ケント 〈sex slave〉でいうなら、本物の「性奴隷」は現在も存在します。日本でダンサーやホステスをするために来日して業者に雇われた外国人女性がパスポートを取り上げられ、渡航費用の借金返済を口実に売春を強要されるケースです。こういった事例は世界各地にあるし、被害に遭っている女性も大勢いる。これこそ「性奴隷」ですよ。
■朝日慰安婦キャンペーンの確かな影響
山岡 いまの話を聞いて思い出しました。米ジョージア州ブルックヘブンに慰安婦像が建てられたので視察に行きましたが、慰安婦像の隣りに自治体が建てた看板にはこんなふうに書いてある。 〈性的人身売買は、いま世界中で私たちの周りで起こっています。2014年、アトランタ都市圏は全米でも最も犯罪の多い地域であるとFBIに指定されました。この歴史的な記念碑に鑑みて、今日起こっている犯罪を如何に認識し、声をあげたらよいか、考えていきましょう〉
つまり、現在行われている女性の人身売買の「象徴」として、慰安婦像と記念碑を位置づけているというわけです。こんな偽善と欺瞞があるでしょうか。無茶苦茶な話ですよ。しかも、碑文にはこうあります。
〈これは1930年から45年に日本帝国陸軍に奴隷にされた、「慰安婦」と呼ばれる婦女子を称える記念碑です。慰安婦は推定数十万人の20世紀最大の人身売買の一つです。この暗黒の歴史は、1990年代に生存者が勇気をもって沈黙を破るまで、数十年間、隠されてきました。慰安婦はアジア太平洋の少なくとも13カ国の出身で、主に韓国です。ほとんどは第二次世界大戦中に殺されました。この碑はこれらの婦女子の記憶に捧げ、世界に蔓延する性暴力と人身売買を撲滅するためのものです。私たちは決して忘れません。真実を教えます〉
この碑文で特筆すべきところは、〈暗黒の歴史は、1990年代に生存者が勇気をもって沈黙を破るまで、数十年間、隠されてきました〉の一文です。〈勇気をもって沈黙を破〉った人物は、朝日新聞の植村隆記者が91年に「元慰安婦が初めて名乗り出た」との記事を書いた金学順であることは明らか。この碑文は、海外での慰安婦に関する認識において、朝日新聞の90年代のキャンペーンが大きな影響を及ぼしたことを、いみじくも裏付けています。
■なぜ韓国人は海外に慰安婦像を建てるのか
──国内的には、2014年の朝日新聞の吉田清治証言報道の取り消しでひとまず落ち着いた感がありますが、時を同じくして、海外の各地に慰安婦像が建設され始めています。
山岡 なぜ韓国人は、第三国に慰安婦像を建てるのか。日本人には理解しがたい心理ですが、在米韓国人の人たちは、周囲の人をどんどん巻き込み、いかに自分たちが被害者であるか、またいかに日本が加害者であるかを周囲に知らしめることで、自分たちの主張の正当性を担保しようとしているのです。いわば告げ口文化というのでしょうか。
ケント まさに「恨」の思想。常に誰かを批判していないと気が済まない。それが生き甲斐になるだけでなく、自身の正当な生き方であるというふうになっていくんです。事実であるかどうかは重要ではない。これが韓国の人たちの考え方です。なぜ日本人は35年間も朝鮮半島を統治していたのに、こういう韓国人の特性が理解できないのですか。
山岡 戦後植えつけられた罪悪感で、学んだことを水に流してしまったのでしょうか……。
ケント たしかに日本、特に政府の対応に問題はありました。慰安婦問題のそもそもの元凶は、日本政府がきちんと精査してから発表する手段を踏まず、いきなり謝罪したことにあります。日本の発想では、「ごめん」の一言で物事の半分くらいは終わってしまう。謝れば水に流してくれると思ったので���ょう。しかし、韓国の文化はそうではない。というか、日本以外の国はそうではない。たとえば、日本政府が元慰安婦に対して支払った「見舞金」についても、外国人には理解不能です。
山岡 でしょうね。「慰安婦は性奴隷ではないし、強制連行もしていない」と言いながら、謝罪してお金まで払っている。海外の感覚で見れば、相当悪いことをしたに違いないと考えるのが普通です。「やってもいないことに謝罪して、お金払うなんて殊勝ですね」なんて話にはなりません。
■日本を悪魔化する手法
ケント ニュージャージー州フォートリーに慰安婦被害者を追悼する慰安婦碑が建てられるというので、これを阻止すべく、私が市長宛に英語で文書を送りました。そのなかでも見舞金について説明しました。「お金は払ったが、これは見舞金であって賠償金ではない。日本特有のやり方であって、日本軍の強制連行は政府も誰も認めていません」と。
これで少し碑文の表現は柔らかくなったかもしれませんが、地元の日本人の反対の訴えは通らず、昨年末に設置決議が通り、今年5月に除幕式が行なわれました。
山岡 地元では、日本人のお母さんたちが中止要請を行っていたのですが、フォートリー市長は「実際問題、選挙民の多くに韓国人がいるから、その声を無視することはできない」と言っていました。
ケント 韓国人が告げ口文化からこういう運動に勤しんでいる一方、中国人は違います。慰安婦像建設運動にかかわっている抗日連合会は、中国共産党のプロパガンダ組織です。在米韓国人に頼らず、抗日連合会や他の中国人グループが前面に出たのが、サンフランシスコの慰安婦像建設のケースでした。アメリカで抗日連合会などの中華系団体は在米韓国人に近づき、彼らの精神構造を利用して慰安婦像を建て、日米の信頼を崩して離間に結び付けようとしている。これは、戦時プロパガンダと全く同じ手法です。
山岡 中国人は韓国人を信頼していないし、韓国人だけに任せておくと失敗するケースも出てくる。だから中国人団体が出張ってくる。ついには「慰安婦40万人説」を持ち出すようになりました。40万人の慰安婦のうち韓国人が20万人、残りの20万人は中国人だというわけです。アメリカで、アジア系移民の政治活動に関する実地調査を行いました。その結果、分かったのは、日系移民も、中国系も、韓国系も、はじめのうちは「同じアジア系移民として仲良くやりましょう」と言って、一定の連帯感を持っているように装う。しかし、地域住民における中韓系の合計割合が一定を超えると、一気に掌を返すのです。よかれと思って「みんなで一緒に考えましょう。和解はもうすぐ」なんて甘い幻想を抱いていると、手ひどい目に遭います。
ケント 実は私のもとに、カナダで起きている恐るべき実態が寄せられました。トロントに住む中韓系がしきりに反日運動を行い、州議会の中国系議員に働きかけ、慰安婦像を建てようとしているというのです。地元の方が手紙で知らせてくれたのですが、それにはこう書いてあります。
「日本政府のだらしなさに、海外の日系人は絶望的な思いです」
「今の状態を作り出したのは朝日新聞。朝日のおかげで海外に住む邦人は大迷惑です」
「ケントさん、中韓の陰謀阻止キャンペーンを行ってください」
山岡 悲痛な叫びですね。
■外務省の事なかれ主義
──山岡さんはオーストラリアで慰安婦像設置を阻止しましたが、山岡さんがかかわっていない他の地域では連戦連敗といった印象です。何が原因なのでしょうか。
山岡 いろいろとありますが、一つは英語での説明力と発信力。海外であれだけ誤った発信がなされているのに、英語で即反論することができない。そもそも、日本政府や外務省が発信する文書の英語表現も、まるで日本がとんでもないことをしでかしたような印象を抱かせるものになっていて、逆効果になっています。私自身、慰安婦問題について海外のジャーナリストの取材を複数回受けましたが、きちんとこちらの意見を述べれば、相手に良心があれば少なくともこちらの言い分を記事にはします。なかには、反論されて電話をガチャ切りしたジャーナリストもいましたが(笑)。
ケント 外務省に任せきりにしてきたのは大きな問題でしょう。これではダメ。彼らは事なかれ主義ですから。90年代から、慰安婦問題が日本にとって大きな問題になっていくことが分かっていただろうに、きちんと対処しなかった。問題が発覚した時に特別調査部隊を組織して、アメリカでも韓国でも調査させてきちんとした報告書を出すくらいの努力は必要でした。それなのに、調べもせずに「ごめんね」と言って済ませようというのはね。ご近所トラブルじゃないんだから、それで済むわけないでしょう。
また、日本では英語を言い訳にする人も多いのだけれど、これも怠慢です。日本人が英語が苦手なら、私のようなネイティブスピーカーを雇えばいいんです。これで英語力の面は解決ですよ。簡単な話です。
山岡 最近は外務省も少し変わってきて、「慰安婦制度は性奴隷ではない。強制連行はない」と自ら主張するようになりました。たしかにそれは進歩ではあるのだけれど、まだまだ舌足らずです。「性奴隷ではないと言うなら何なんですか」と言われると、説明できないんですから。慰安婦制度というものは何であったのか、きちんと日本政府が定義しておかなければ反論のしようがないのです。
■日本人に冷たい朝日新聞
──こうしている間も、次々に慰安婦像が海外に設置され、そこに住んでいる在外邦人や日系人たちは肩身の狭い思いをすることになる。これに対して、朝日はどう責任を取るのでしょうか。
ケント 朝日は責任なんて感じないでしょう。謝罪どころか、反省の気持ちなんて全くないんですから。こういう冷酷な新聞は許し難いね。
山岡 そう、朝日新聞は日本人に対して非常に冷酷なのです。韓国人の元慰安婦のおばあさんに対しては「かわいそうだ」 「寄り添わなければならない」と言うのに対し、今回の裁判でもそうだったように、現在、朝日の報道によって被害に遭っている人……つまり、いじめられている子供や、子供を持つ親に対しては、完全に沈黙。全く同情しないし、「彼らが不利益を被っているのは私たちのせいではない」と言い続けている。
「その英語表現がいまなお誤解を生んでいるので、止めてください」と指摘しても、絶対に直さない。「事実と違う情報で日本人が被害を被っています」と言っても、絶対に表現を変えないのですから。
ケント この冷酷さは気になりますよね。日本人に対する上から目線というレベルを飛び越えている。朝日の社是は「日本解体・日本打倒」ではないのですか。だから共通の目的を持つ中国や韓国を擁護する。それどころか、「日本叩き」の材料を中韓に与える。靖国参拝問題はその最たるものです。
山岡 朝日は「『日本打倒』という社是を正式に掲げたことはない」と言うでしょうが(笑)。しかし朝日新聞の日本人に対する冷酷さは、ちょっと異常です。
――朝日新聞は、「愛国心」と聞くと過剰な反応を見せます。かつて天声人語は、〈「日本人としての自覚」 「我が国を愛し発展に努める」といった記述に、ふと立ち止まる。食事中に砂粒をんだような感じがする〉(14年3月7日)とまで書きました。
山岡 朝日新聞は、日本人が愛国心を持つことに対する嫌悪感があるんですよ。これは一体、何なのか。
ケント WGIP(War Guilt Infor-mation Program)、つまり占領政策の影響が残っているのかな。「日本は悪いことをしたじゃないか」と言われたら、条件反射的に謝らなければならないと刷り込まれているのでしょう。
■国民の声で止めるしかない
山岡 いずれにしても、朝日による実害はいまも広がり続けています。これはもはや、国民の声によって止めるしかない。そこで、ケントさんと私は〈朝日新聞に英語版での慰安婦強制・性奴隷の印象操作の中止を求める署名〉活動を行っています。要望は3つ。
「ネイティブが読んだときに、事実と齟齬のある表現を使うのをやめてほしい」
「吉田証言が虚偽であり、記事を撤回した事実を改めて英文で告知してほしい」
「もし、前記表現が軍隊による物理的強制連行や性奴隷化を意味しないと主張するなら、具体的に、『性行為を強制された』とは何を意味するのか明確に説明してほしい」
現在、6千筆を超える署名が集まっていますが、少なくとも1万筆を集めて、然るべき時期に朝日新聞に申し入れたい(※5月号発売時点、現在は1万6千筆あつまり、7月6日に朝日に申し入れ予定)。朝日は「国民の声」にどう応えるのか。これは「言った言わない」とか解釈の話ではなく、現に使っている表現をやめてほしい、使い続けるなら説明責任を果たせという至極具体的な要望ですから、朝日新聞には誠意をもって答えてほしい。
ケント 誠意をもって対応しなかったら、いよいよ朝日はおしまいだよ。
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弘治元年(1555年)、三河国岡崎にて竹田宗仲の子として生まれる。内藤忠政の養子となり、19歳で家督を継いだ。浜松にて徳川家康に召し出され、小姓を務めて信任を得る。天正8年(1580年)、徳川秀忠(当時2歳、清成は26歳)の傅役を任された。天正18年(1590年)正月には、秀忠の供をして上洛した。 同年、家康が豊臣秀吉の命で関東に移封された時、清成は鉄砲隊を率いて江戸入りの先陣を務め、国府路(甲州街道)と鎌倉街道の交差付近に陣を敷き、遠見櫓を築いたという。同年9月、家康より四谷から代々木村にかけて20万余坪もの広い屋敷地を賜る。この拝領地は後に新しい宿場(内藤新宿)開設のため相当分が返上されたが、明治維新まで内藤家の江戸藩邸として使用された(現在の新宿御苑周辺)。江戸入り後の清成は関東八州庶務奉行・関東総奉行・江戸町奉行、老中などを歴任、行政面にて大きな功績をあげ、秀忠の傅役時代からの同僚である青山忠成と共に、幕府初期の治世を支えた。また、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは秀忠に従い上田合戦に従軍している(江戸で留守居を務めていたとする資料もある)。 所領・官位の面では、天正20年(1592年)に相模国東郡に5000石を与えられたのを始め、文禄4年(1595年)には従五位下修理亮に叙任し、豊臣姓を下賜された(村川浩平『日本近世武家政権論』、近代文芸社、2000年、40頁)。 慶長6年(1601年)、常陸国・上総国・下総国内で1万6000石を加増されて2万1000石となり、大名に列している。
内藤清成 - Wikipedia
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monqu1y · 3 years
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戦後の事件簿  「日本が受諾したポツダム宣言は、イギリス首相、アメリカ合衆国大統領、中華民国主席の名において発された。ソ連は後から加わり追認した。中共は、抗戦相手ではなかった。大日本帝国の一部を形成する朝鮮半島の住民と内地の住民も、戦火を交える敵同士ではなかった。しかし、どこまでも敗戦革命にこだわる報道関係者たちは、中国や韓国や北朝鮮に戦勝国とウソをつかせたうえで、日本に対する理由のない非難と恐喝をするよう唆している。そして、韓国人や朝鮮人は本名を隠し日本人名を名乗っている。彼らの犯罪は、日本人による犯罪のように報道されるか、犯罪そのものが報道されない」という話を聞いた  図書館に行って朝鮮人の犯罪を調べたら、次のような記録が見つかった  1945年10月22日、大阿仁村事件が起こった。秋田県北秋田郡阿仁合町の阿仁鉱山で働いていた朝鮮人12名は、午前9時頃、約16キロ山奥の同郡大阿仁村の伏影集落へ行き、共同管理の栗林に侵入し、栗を拾っていた所を村人に発見され、注意したところ乱闘となり、双方数名が負傷した。午後1時になると、約40名の朝鮮人が来襲したので、警察と警防団は直ちに現場に急行し鎮圧の為に急行した  1945年12月24日、生田警察署襲撃事件が起こった。午後9時頃、50名を超える朝鮮人の暴徒が「岡山の刑事を出せ」と叫びながら署内に侵入。署員を拳銃・日本刀・匕首を突きつけて軟禁した上で、岡山県警察部の捜査員を探し始めた。捜査員らが脱出に成功した一方で、暴徒によって署内の警察電話線が切断されたため、警察署は外部との連絡手段を絶たれてしまった。その後、事件を聞きつけた連合国軍部隊によって暴動が鎮圧された。襲撃以前、岡山市内にて7人組による拳銃強盗事件が発生しており、強盗犯を追って岡山県警の捜査官が神戸市まで出張にきていた。この捜査員に生田署が協力していたため、暴徒の襲撃を受けることになった。もっとも以下に挙げた資料には、確かに報復を仕掛けたのは朝鮮人の一団であったが、元の拳銃強盗事件の犯人が朝鮮人であったのかどうかまでは記されていない  1945年12月29日、直江津駅リンチ殺人事件が起こった。午後7時頃、新潟発大阪行の列車が国鉄信越本線黒井駅に到着した。3人組の朝鮮人が列車に乗車しようとしたが、満員のため乗車することが出来なかった。そこで彼らは列車の窓ガラスを叩き割り無理やり乗車しようとしたところ、ある男性の乗客に阻まれたため、已む無くデッキにぶら下がり次の直江津駅まで行く破目になった。列車が直江津駅に到着すると、3人組は自分たちを阻んだ男性に対して、「乗降口から乗れないので仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのに何故妨害した」と詰め寄った。 男性に「窓から乗り込むという方法はない」と反論されたため、その男性を直江津駅のプラットホームに引きずり降ろし、駅の備品であるパイプやスコップを持ち出して男性に襲い掛かり、メッタ打ちにした。男性は頭や左眼などに十数か所の傷を負い、絶命した。警察が緊急配備したところ、直江津の病院で傷の手当てをしていた3人組を突き止めた。そして容疑を認めたため、殺人犯として緊急逮捕した  1946年1月3日、富坂警察署襲撃事件が起こった。正午、春日町交差点において多くの不審者を乗せたトラック2台が富坂警察署方面へ向かうのを、交通整理にあたっていた警察官が発見、直ちに署に連絡した。連絡を受けてまもなく、例のトラックが富坂警察署に到着、警察官の制止を振り切って約80人の朝鮮人が署内に乱入し、留置中の在日朝鮮人の即時釈放を要求した。危険を察知した警部が警察電話を通じて、警備隊の応援を要請したところ、在日朝鮮人20人が電話室に乱入し占拠した。これにより外部との連絡が絶たれた。交渉にあたった署長は「朝鮮人は留置していない」と突っぱねたが、情報が漏れていたらしく、在日朝鮮人たちが留置場を探し始めた。これを阻止しようとした警察官に対して殴る蹴るの暴行を加えて負傷者を続出させた。在日朝鮮人はついに留置場を発見、中にいた容疑者を連れ出し、「署長は、朝鮮人は留置していないと我々を欺いた」と署長を責めた後、富坂警察署の前を通りかかったトラックを奪って逃走した  1946年1月9日、生田警察署襲撃事件が起こった。翌年、三宮ガード下で賭博団が検挙されたことを受け、30 - 40人の朝鮮人が犯人の奪還を目的に再度署内に侵入したが、この事件も進駐軍の協力を得て鎮圧し、首謀者3人を検挙した  1946年5月13日、長崎警察署襲撃事件が起こった。午前10時30分、280人の警官隊が一斉取締を開始し、日本人150人、朝鮮人26人、中国人6人を検挙、長崎警察署に連行した。その直後、在日本朝鮮人連盟や中国人団体が長崎警察署に押しかけ、被疑者の即時釈放を要求したが、署長は取調前の釈放はできないと拒否した。午後2時30分頃、朝鮮人や中国人など総勢約200人がバッドや鉄棒を持って長崎警察署を包囲・襲撃した。これにより警察官1人が死亡、10人が重軽傷を負った。その後、余勢をかって東浜町派出所や港町派出所も襲撃し、警察官に対し暴行を加えている  1946年8月5日、富山駅前派出所襲撃事件が起こった。午後6時50分頃、富山駅において闇米取り締りを実施し、朝鮮人3人を検挙した。しかし、それを見ていた朝鮮人2人が妨害し、3人を逃走させた。そのため自治隊員2人を公務執行妨害罪で逮捕し、富山駅前派出所に連行したところ、朝鮮人約30人が包囲し険悪な雰囲気となった。署に救援を頼んだが、その前に大乱闘となった。その直後に、救援隊が駆けつけて朝鮮人たちを実力で排除した。この乱闘で警察官1人が負傷した  1946年9月22日、坂町事件が起こった。午前0時50分頃、村上警察署の署員8人が坂町駅に赴き、ヤミ米の取締に当たった。署員が現れるや、約50人の朝鮮人・中国人は一斉に姿をかくした。警察官がホーム上に置き去りにされたヤミ米を押収しようとすると、「殴れ!」「叩け!」の叫び声を合図に襲いかかって来た。警察官が応戦している最中に列車が到着し、列車内から朝鮮人20人が下車し加勢、警察官に暴行を加えた後、発車間際の列車に乗り込み逃走した。この日の午後になり、「また、ヤミ米を運搬しようとしている」との情報が入った。警察官 10人が現場に向かい取り締まろうとしたところ、約50人の朝鮮人・中国人が襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加えた。金屋村警防団は警察官の応援に駆けつけたが、逆に鳶口や木刀を取り上げられて、彼等の武器にされる始末であった。その後、撤退命令が出たので、警察官等は一旦引き上げた。その後、進駐軍の新潟軍政部の係官が現地に到着し、朝鮮人・中国人に対して「日本に在住している限り、日本の法律に服さなければならないこと」、「警察官のヤミ米取締を拒むことは、連合国の指令に反するものであること」を言い渡した。軍政部のお墨付きが出たことで、警察は断固とした取締りが可能になり、12人が検挙された  1946年9月26日~29日、新潟日報社襲撃事件が起こった。在日本朝鮮人連盟などの朝鮮人16人が新潟日報社を訪れ、新潟日報社と読売新聞社の両社に対して、「坂町事件の報道に誤りがあると認め、ラジオ放送を通じて新潟県民に誤報であったという声明を出せ」と要求した。両社は「即答はできない」として、29日まで猶予してもらうことになった。その後読売新聞社は、9月28日になって譲歩し、誤報を認め謝罪記事を掲載することで話がついた。9月29日、朝鮮人16人が再度新潟日報社を訪れ、新潟日報社側の返答をせまった。新潟日報社は「警察の調査結果をまって善処する」と答え、彼等の要求を拒んだため、朝鮮人側は憤慨し、茶碗を投げつけたのを合図に一斉に暴れだし、社内の備品を破壊した。新潟警察署は、朝鮮人らを暴力行為等処罰ニ関スル法律違反で逮捕した  1946年12月20日、首相官邸デモ事件が起こった。の全国大会では、約1万人の朝鮮人が結集した。日本共産党の徳田球一も出席しており、徳田球一の演説の後、生活権擁護の決議文を採択し、午後1時頃に集会は一旦終了した。午後1時30分、「朝鮮人虐殺政策絶対反対」「吉田内閣は日本の敵だ」といったプラカードを掲げてデモ行進を開始。午後2時頃に首相官邸前に差し掛かると、突如警察官の制止を無視して官邸正門前に殺到した。警官隊は侵入を阻止するため門を閉鎖しようとしたが、デモ隊は投石やプラカードを振り回すなどして暴れ、遂に首相官邸に侵入した。午後2時30分頃にアメリカ軍憲兵隊が出動し、まもなくデモ隊全員を解散させた。この事件で、警察官23人が重軽傷を負い、拳銃2丁が奪い取られた  1947年10月20日、尾花沢派出所襲撃事件が起こった。朝鮮人7人は警察によるヤミ米摘発の鬱憤を晴らすべく、派出所の襲撃を計画し、午後3時頃に楯岡警察署の尾花沢派出所に乗り込んだ。警察官が不在だったため、派出所内の器物を破壊し、門標を取り外した後引き揚げた。その後、外出から戻った警察官が、派出所内の惨状を見て驚き、直ちに署に連絡した。その直後、前述の朝鮮人7人と他の朝鮮人30人が派出所を取り囲み、火鉢を投げつけるなどの暴行を働いた。楯岡警察署は隣接の新庄警察署や進駐軍の応援も得て、29人を逮捕した  1948年4月23日~25日、阪神教育事件が起こった。9時、大阪府大阪城前の大手前公園で、朝鮮人学校弾圧反対人民大会が開催された。集会には在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余が集結した。16人の代表が選出され、大阪府庁舎で大阪府知事・赤間文三との交渉を行うことになった。12時30分、大阪府庁知事室において副知事と朝鮮人代表者16人との交渉が始まったが合意には至らず、15時になって在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余の中からシュプレヒコールが起こった。同時に50人余の青年が行動隊を編成し、スクラムを組んで大阪府庁前の阻止線を突破した。15時30分には行動隊に続いて、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余も大阪府庁に暴力で突入し、3階までの廊下を占拠。副知事は警察官の誘導で、戦時中に作られていた地下道を通って脱出した。17時頃には群衆が知事室になだれ込み、ドアや調度品を破壊するといった行動に出る。日本共産党大阪地方委員会に派遣されていた増山太助は川上貫一衆議院議員とともに知事室に駆けつけたが、収拾がつかない状態だった。夜になって大阪城周辺の各所で在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人によってかがり火が焚かれ、朝連としては川上を代表として交渉の場を作ろうとした。しかしそこへアメリカ軍や武装警官が到着し、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人らと乱闘。在日朝鮮人のうち1人が死亡し20人が負傷した。警官側の負傷者は、31人だった。179人が騒擾罪で検挙された。4月25日には朝連や日本人約300人が南警察署に押しかけ逮捕者の釈放を要求したが、抗議に来た群衆に向けて警官隊が威嚇射撃を行い追い返した。翌4月26日に朝連は大阪東成区や旭区などで「朝鮮人学校弾圧反対人民大会」を開催。午後に���朝鮮人代表者と赤間府知事との間で再度交渉が行われたが、15時40分に別室で待機していた大阪軍政部のクレーグ大佐が、交渉の中止と大手前公園に集結していた在日朝鮮人2万人の解散を指示。これに対し在日朝鮮人1600人のデモ隊が再び大阪府庁に向かい、武装警官隊の阻止線で投石を開始。武装警官隊は消防車に放水をさせ、デモ隊に突入し拳銃で発砲した。この衝突で当時16歳であった在日朝鮮人金太一が死亡する。検挙者は軍事裁判にかけられ、日本人9人と在日朝鮮人8人が重労働4年以下の判決を受けた。このうち当時の朝鮮総連の朴柱範兵庫県本部委員長は神戸刑務所に服役し、1949年11月25日に病気を理由に仮釈放されたが僅か数時間後に死亡した。事件解決後、大阪市警察局は、アメリカ陸軍第25師団司令部より感謝状が贈呈された。兵庫県非常事態宣言布告を報じた朝日新聞号外アイケルバーガー司令官の神戸視察を報じた神戸新聞10日に兵庫県知事・岸田幸雄は、朝鮮人学校に対して封鎖命令を発令。これを受けて14日に朝連は兵庫県庁を訪れ、岸田との交渉を要求した。言動はしばしば威圧的・脅迫的になった。4月23日に警官隊と米軍MPが朝鮮人学校灘校と東神戸校を封鎖すると、翌24日に封鎖に抗議する在日朝鮮人や日本人が兵庫県県庁前に集結。9時30分に兵庫県庁知事室で、岸田知事と神戸市長・小寺謙吉、検事正ら15人が朝鮮人学校閉鎖仮処分執行問題と在日朝鮮人の抗議集会対策を協議。協議が行われているとの情報は朝連にも伝わり、約100人の在日朝鮮人や日本人が兵庫県庁内に突入。知事応接室を占拠して備品などを破壊した後、壁を打ち破って知事室になだれ込み岸田知事やMPを拉致監禁するに至る。知事室に乱入した在日朝鮮人や日本人は電話線を切断して外部との連絡を絶ち、「学校閉鎖令の撤回」「朝鮮人学校閉鎖仮処分の取り消し」「朝鮮人学校存続の承認」「逮捕された朝鮮人の釈放」などを岸田知事に要求。半ば監禁状態にあって岸田は、17時に諸要求の受け入れを誓約。しかしその日の22時に岸田知事と吉川覚副知事・市丸検事正・田辺次席検事・出井兵庫県警察長・古山神戸市警察局長らが、占領軍兵庫県軍政部に召集され、23時に兵庫県軍政部が「非常事態宣言」を発令。軍政部の非常事態宣言によって兵庫県と神戸市の全警察官はアメリカ軍憲兵司令官の指揮下に入り、兵庫県庁への乱入者の徹底検挙命令と共に岸田知事が一旦受け入れた在日朝鮮人の要求への誓約を無効とした。25日早朝にMPと米軍憲兵司令官指揮下の警官による県庁乱入者の検挙を開始し、29日までに、1590人もしくは7295人 を検挙。日本共産党の神戸市議会議員・堀川一知も拘引された。4月28日には米軍軍政部の非常事態宣言も解除。検挙した者から主だった者を拘留し、23人を軍事裁判にかけた。唯一の日本人被告人だったは堀川は重労働10年の判決を受け、在日朝鮮人には最高重労働15年の判決が出されて刑期終了後は本国に強制送還されることになった  1948年10月11日~12日、評定河原事件が起こった。の10時から開会式が始まった。北朝鮮国旗の掲揚をめぐり仙台市警察が警告を発するなどのトラブルがあったが、1日目は特に混乱も無く終了した。2日目の10月12日は運動会が開かれた。国旗掲揚���代わりに国旗を頭上に捧げ持って行進したため、米軍の憲兵が行進の中止を命じた。その後、運動会は再開され、16時30分頃に閉会式が開かれた。そのとき、酒を飲んだ数人の朝鮮人が会場内に入って歌を歌い始めた。これに同調する者が次々と現れ、赤旗を掲げてデモ行進するなど不穏な空気に包まれた。その中で、北朝鮮国旗を持った一団がデモ行進をし、米軍憲兵の制止を無視し行進を続けたため、米軍憲兵は国旗を押収し、参加者4人を検挙した。その後の米軍憲兵隊の捜査で、更に2人が検挙された  1948年12月9日、宇部事件が起こった。約200名の朝鮮人が宇部市民会館に参集し生活擁護人民大会を開催していた際に、在日本朝鮮人連盟山口県本部委員長を進駐軍憲兵および警察隊が逮捕した。大会参加者は集団的に同被疑者を奪還しようとして警察側と衝突し、双方に多数の負傷者が出る騒ぎとなったが、警察側の発砲によって鎮圧された  1949年1月25日、益田事件が起こった。島根県美濃郡益田町の朝鮮人集落において密輸入物資が隠匿されているとの密告に基づき、進駐軍島根軍政部将校2名と経済調査官2名が同行して、令状なしで摘発に乗り出したが、「令状のない捜査は違法である」と拒否されたため、警察官10名が応援して違反物資を押収したが約100名の朝鮮人に奪還された。翌日、被疑者9名を検挙したものの、夜に入って約200名が警察署に押しかけて被疑者の釈放を要求し、署内に侵入しようとしたために警察官と乱闘になり48名が検挙された。逮捕されたもののうち9名が起訴され、騒乱罪で有罪となった  1949年4月6日~13日、枝川事件が起こった。午後6時頃、3人の捜査員は主犯を発見、逮捕しようとした。しかし主犯は別人を主張、周りの朝鮮人数人も捜査員を見ていたため、任意同行に切り替えた。そして、屋外に出ようとしたところ、主犯は捜査員を突き飛ばし、裸足のまま逃走した。捜査員は拳銃を3発威嚇発砲して制止しようとしたが、逃走を続けたため、遂に主犯に向けて発砲した。そしてなんとか逮捕することができたが、主犯はその際に負傷した。それを見ていた約40人の朝鮮人が「仲間を殺したやつは殺してしまえ」と捜査員2人に襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加え重軽傷を負わせた上に在日朝鮮人連盟の施設に連行した。もう1人の捜査員は、事態の重大性を察知し、近くの民家の電話を借りて枝川地区を所轄する深川警察署と月島警察署に通報した。まもなく深川警察署と月島警察署の応援部隊が在日朝鮮人連盟の枝川支部に急行したが、激しい抵抗にあい、警察側に負傷者を続出させたが、アメリカ軍憲兵隊が来ると急に態度を軟化させた。その後の交渉で朝鮮人側は暴行犯人の引渡しを確約したが、4月8日になっても引き渡さず、逆に捜査員の処分を求める有様であった。4月9日より、警察は枝川地区に架かる橋に検問所を設置、通行者全員に検問を開始した。それと並行して内偵調査を行った。その結果、警察官に暴行した容疑者が割り出されたため、4月13日に一斉捜査が行われ、容疑者5人が逮捕された。4月19日までに更に10人が逮捕された  1949年4月7日~11日、高田ドブロク事件が起こった。午前6時頃、取締部隊は朝鮮人集落に到着し一斉取締を開始した。早朝であったため、この取締そのものは整然と行われ、午前8時30分頃には引き上げた。午前10時40分頃から朝鮮人たちが高田市警察署に集結し始め、正午頃になると200人に膨れ上がり、検挙者の釈放を要求した。しかし警察側が断固拒否したため、警察署に向かって投石を行い窓ガラス十数枚を破損させた。4月8日も朝鮮人約200人が警察署前に集結し、釈放を要求した。4月9日正午、一人の朝鮮人女性が高田税務署に現れた。一人であったことから税務署を警備していた警察官も、一般の利用者と思って油断していたところ、あっという間に14・15人の朝鮮人女性が集まり、署長との面会を要求してきた。警備の警察官が退去を勧告したところ、「人殺し」と叫び座り込みをはじめた。午後1時になると多くの朝鮮人男性が押しかけ、税務署内に突入しようとしたので、小競り合いになり双方に負傷者を出した。4月10日、検挙者の自供により、高田市においても密造酒の醸造が行われていることが判明したため、在日朝鮮人連盟信越支部などを家宅捜査した。4月11日、約500人もの朝鮮人が高田市に集結、デモ行進を行った。彼らは市民に対して「警察が朝鮮人に対して不当な弾圧を加えている」「放火して高田市を灰にする」などと叫び牽制していた。ここに至り、警察もデモの首謀者12人を検挙したため、この事件も収束に向かい始めた  1949年6月2日~11日、本郷村事件が起こった。国家地方警察福井県本部若狭地区警察署の本郷派出所の警察官が朝鮮人地区の地図を作成したことについて、在日本朝鮮人連盟の幹部が抗議した。幹部は一旦戻り、在日朝鮮人70人を引き連れて、派出所を包囲した。そして中の警察官に暴行を加え、そのまま居座り続けた。若狭地区警察署は署員を急派したが、なおも居座り、6月4日になってようやく解散した。朝鮮人側は 暴行警察官の罷免 被害者に対する損害賠償 朝鮮人に対する謝罪 朝鮮人問題については、事前に朝連と連絡協議をすることなどを要求したが、警察は6月10日に朝鮮人2人を逮捕するために現地に向かった。待ち構えていた朝鮮人200人が、石や糞尿を投げつけて逮捕を妨害したが、なんとか強行突破し、2人を予定通り逮捕した。その後朝鮮人たちは、「民族弾圧、ファッショ警察の再現」と叫んで警察署前に居座ったり、「ファッシズム国警若狭地区警察の真相」と題するビラをばら撒くなど示威行動を続けた  1949年8月20日、下関事件[騒乱]が起こった。19日午後11時頃、朝連事務所前に約150人の在日朝鮮人が集結し、民団を非難する集会を開いた。集会そのものは特に問題なく終了したが、警備に当たっていた朝連の構成員と民団の構成員が路上で遭遇、乱闘となり、民団側が所持していた日本刀で朝連側に負傷者を出した。朝連は、これに報復すべく8月20日午前2時30分頃、構成員約200人を招集し、民団下関支部や民団構成員の自宅を襲撃した。そして被害家屋から金品を略奪するなどの狼藉を働いたあと解散した。このため、未明にも係らず市内は一時大混乱になった。下関市警察は、直ちに国家地方警察山口県本部に応援を要請した。国家地方警察は、自治体警察を含む山口県内の全警察に非常招集を発令、警察学校の学生をも動員した。県内各地から来る応援部隊の到着後、朝連や民団の施設を一斉に捜索を開始し、939 人の警察官のうち 14 人が負傷したが、73人を検挙した。翌日8月21日には、下関市警察と国家地方警察の合同による「下関事件合同警備本部」を設置するとともに、市内各所に検問所を設けて逃亡を阻止した。最終的に208人が検挙され、殺人未遂罪のほか、騒擾罪などで75人が起訴された  1950年3月20日、台東会館事件が起こった。10日午前9時、東京都の係官が台東会館に赴いた。警視庁では不測の事態に備えて多数の警察官を警戒に当たらせた。係官は会館を引き渡すよう命じたが、旧朝連はそれを無視したばかりか、投石を行い抵抗した。そのため、この日の接収は一旦取りやめになり、3月20日に再度接収を行うことになった。旧朝連側は接収予定日の前日から、会館入口にバリケードを設け、周辺道路を巡回して警戒していた。3月20日午前7時、係官が台東会館に入ろうとしたが妨害を受けた。そして、警戒に当たっていた警察官に向かって、石や唐辛子粉を投げつけて抵抗した。そのため警察は強行突入を断行し、朝鮮人119人を検挙した  1950年8月15日、連島町事件が起こった。1949年9月8日、GHQの指示を受けた法務府は告示第51号を出し、在日本朝聯と在日本朝鮮民主青年同盟に対し団体等規正令を適用して解散命令を下す。また朝鮮学校と民団総連も解散請求を受けた。これらの措置は在日朝鮮人の生活に直接の打撃を与えた。将来に不安を抱いた朝鮮人同胞らの中には、革命を叫んで公共施設を不法占拠し火炎瓶で武装した事件が起きた。こうした世情不安の中、岡山県浅口郡連島町で、朝鮮解放5周年を祝って約700名の朝鮮人が集まり集会を強行したため、これを制止しようとした警察と乱闘になり8名を検挙した。この事件で警察官15名が負傷した  1950年11月20日~27日、長田区役所襲撃事件[第二神戸事件]が起こった。午後1時、約200人の朝鮮人が神戸市長田区役所に押しかけた。要求は「市民税免除」と「生活保護の徹底」である。しかし区長がこれを認めなかったため、区長を軟禁状態にして騒ぎ出した。神戸市警察は直ちに出動、30人が逮捕された。11月24日午前11時、約300人の朝鮮人が再度長田区役所に押しかけ、区長との面談を要求した。区長が拒否したため、朝鮮人たちは区役所に乱入し、窓ガラス等を破壊した上、出動した警察官に対しても暴力を振るったため、不退去罪の現行犯として26人が逮捕された。11月27日朝、24日に逮捕された仲間の奪還などを求め、姫路市、明石市、尼崎市などから約600人の朝鮮人が神戸に向かっているとの情報が警察にもたらされた。警察は甲号非常招集を発令、神戸市警察および国家警察兵庫県本部の警官約3000人に待機命令をかけた。長田区にある西神戸朝鮮人学校に神戸市在住の者も含め約千人の朝鮮人が集結。「祖国統一決起大会」を開催し、投石用の石や棍棒を用意するなど不穏な状勢となったため、正午頃に解散を命じたが、「犬め、殺してやる」「貴様等人民裁判にかけてやる」と暴言を吐いて命令を無視、午後3時20分頃には、学校から出てデモ行進を始めた。遂に警察は神戸市電湊川大橋停留所付近で検挙を開始したが、デモ隊は激しく抵抗し、約60人が逮捕された。その残党は新湊川沿いに北上、長田区役所や長田税務署を襲い、窓ガラスを割るなどした。最終的に179人が逮捕された  1951年1月23日、四日市事件が起こった。旧朝連四日市支部を接収しようとしたところ、居合わせた朝鮮人約20名が、器物やガラスの破片を投げつけたり、灰・唐辛子による目潰し攻撃をしたり、濃硫酸を浴びせて接収の妨害を行った事件。そのため、執行係官7名が全治2 - 3週間の重軽傷を負った。警察が出動して、公務執行妨害容疑で15名を検挙した  1951年3月7���、王子朝鮮人学校事件が起こった。当日、王子警察署は周辺の道路を封鎖し、同校生徒以外の群集の流入を阻止しようとしたが、群集はそれを無視し最終的に2000人が集まった。集会は午前10時から始まった。一方、学校外にいた群集が警察隊に対し、投石や唐辛子粉の噴霧など抵抗したため、ある警察官が付近の民家の2階から写真を撮ろうとした。しかしそれを見た群集が民家に乱入、その警察官に暴行を加え、カメラを破壊した。応援に来ていた蔵前警察署員が救出しようとしたが、逆に返り討ちにあい、重軽傷を負わされた上、拳銃や警棒などが奪われた。警視庁は、遂に群集を強制的に解散させることを決断、警官隊が校内に突入しようとした。群集は煉瓦や石を投げつけるなど強硬に抵抗したが、午後2時50分までに全員を校外に排除した。警察はこの事件で28人が重軽傷を負った  1951年6月13日、神奈川事件が起こった。横浜市神奈川区にある青木小学校分校において、神奈川県朝鮮人学校PTA連合運動会が開かれていたが、参加者の一人が警備をしていた警察官に対して暴力をふるったため、公務執行妨害で検挙しようとしたところ、これを妨害しようとして大乱闘となった。これにより、双方ともに数名の負傷者を出した。運動会終了後、約500名の在日朝鮮人が横浜市警察本部に殺到し、玄関前でスクラムを組んで奇声をあげた。 そのため、横浜市警は約1000名の警察官を動員し、公安条例違反容疑で28名を検挙した  1951年10月22日、下里村役場集団恐喝事件が起こった。下里村において、在日朝鮮人約200名が、「生活保護」「強制送還反対」の陳情をするために村役場に押しかけた  1951年12月1日、東成警察署襲撃事件が起こった。午前11時頃、朝鮮人たちは旧御幸森朝鮮人小学校に集まり、東成警察署までデモ行進した。その後、元御幸森朝鮮人学校に集合し、12時15分ごろ東成警察正門前に到着した。さらに同署の東方道路から約20名、南方道路から20名が殺到し気勢を上げて署内に突入しようとしたので、大阪市警視庁機動隊はそれを阻止した。その際デモ隊は、クロールピクリン酸入りサイダーびん3本、投石や唐辛子を投げつけて抵抗した。この事件で3人が公務執行妨害罪で逮捕された 。12月16日午後、不法デモをおこない3隊に分かれ、生野区、巽町の工場を襲撃した  1951年12月18日、日野事件が起こった。10月18日午前11時30分、滋賀県蒲生郡桜川村に、在日朝鮮統一民主戦線や祖国防衛隊のメンバーが集結し、自転車にスピーカーを取り付けて自転車デモを行おうとした。滋賀県公安条例の届出を出していない違法デモであった。国家地方警察滋賀県本部蒲生東地区警察署では、これを制止しようとしたが、デモ隊は強行突破し、日野町内に侵入した。デモ隊は日野郵便局前で「朝鮮人強制送還反対」「軍事基地化反対」などの演説を行った。その間、周辺在住の朝鮮人が集まり、ピケを張ったりバリケードを作ったりした。そして警官隊に棍棒で襲い掛かったため、公務執行妨害罪で20人が検挙された  1952年2月21日~23日。木造地区警察署襲撃事件が起こった。国家地方警察青森県本部木造地区警察署は、傷害容疑で在日朝鮮人2名を逮捕した。これに対し、在日朝鮮人数十人が検挙者の即時釈放を要求して連日署に押しかけた。2月23日に入り、在日朝鮮人約70名が署内への侵入を図って警備の警察官と揉み合いになり、警察署の玄関のガラス戸が破壊された。また同日午後7時、応援に駆けつけていた弘前地区警察署の署員11人が、国鉄五能線木造駅を警備していたところ、在日朝鮮人に取り囲まれ、警棒を奪われる事件も発生している  1952年3月26日~30日、多奈川町事件が起こった。以前より多奈川町警察は、隣接の国家地方警察泉南地区署の応援を得、幾度も朝鮮人による密造酒の摘発を行っていたが後を絶たず、増加するばかりであった  1952年3月24日、大阪国税局は、同局泉佐野税務署・大阪地方検察庁岸和田支部・国家地方警察泉南地区署と合同捜査会議を行い、一斉摘発を決定。同年3月26日午前5時40分ごろ、泉南地区署に、国税局員45名・検事1名・副検事1名・検察事務官12名・制服警察官50名の合同捜査チームが集合。10班に分かれ、トラック10台に分乗し、多奈川町9ヶ所、深日町1ヶ所、計10ヶ所の密造場所に向かう。納屋や豚小屋に偽装された密造工場の各所で、朝鮮人による抵抗に遭うも、検察庁職員によって容疑者の逮捕、国税局員によってドブロク・コウジ・蒸留機などの酒造器具を証拠品として差押さえるなどし、各班は逐次南海電気鉄道多奈川線多奈川駅前に集合。この時、婦女子を先頭にした朝鮮人約200人がトラックの前に座り込んだり、大きな石をいくつも道路上に置いて交通を妨害。これを排除しようとした警察官が激しい抵抗に遭っている間、手薄な警備に勢を得た朝鮮人の数はさらに増え、ついには「生活権」を訴える怒号に扇動された朝鮮人が「殺してしまえ」とわめきながらトラックに殺到し、タイヤの空気を抜く、窓ガラスを叩き割る、トラックの運転手を袋叩きにする、差押えた証拠品を叩き落して破壊・強奪する、被疑者を逃がすなどの暴挙に出た。 この危機を脱したトラック3台は集合場所の大阪拘置所に向かったものの、残る7台は駅前の国道で立ち往生となる。1個班につき警察官が5人と言う手薄な警備体制が招いた失敗であった。不測の事態を受けた合同捜査チーム総指揮官大坪検事及び泉南地区警察署長は、深日町警部派出所から国家地方警察大阪府本部に応援を要請。検挙は後日に譲ることとし、後日の検挙に備え多数の現場写真を撮影、道路上の妨害を排除しつつタイヤの空気を入れなおし、午前7時半ごろ、捜査チームは泉南地区署に引き揚げた。午前8時過ぎごろ、朝鮮人約30名が多奈川派出所に押しかけ「俺たちの生活をどうしてくれる」と抗議。間もなく代表者3名を残し引き揚げる。午前9時ごろ、取材に来ていた毎日新聞社大阪本社の記者がドブロク密造地区捜査取材のため多奈川派出所に向かう途中、朝鮮人の暴徒に囲まれて殴打され、石を投げつけられ、全治2週間の怪我を負う事件が発生。また、この騒ぎで城東税務署員も右手に怪我を負っている。事態を重く見た国家地方警察大阪府本部は27日・28日の2日間にわたり、現場証拠写真、現場に出動した警察官、第三者の証言から被疑者の割り出し、証拠収集にあたる。結果、被疑者17名を特定し、29日、暴力行為等処罰に関する法律違反、公務執行妨害および傷害ならびに酒税法違反容疑で逮捕状・捜査令状を大阪地検より受けた。同年3月30日午前2時、検事らをはじめ、大阪府下8地区署から制私服警官警察官・警察学校生徒など、約450名が大阪市城東区関目の大阪府警察学校に集結。午前5時すぎ、自動車・トラック約30台に分乗して多奈川町小田平、朝日、東、湊、深日町兵庫の5地区21ヶ所に急行し、逮捕、押収捜索にあたった。捜査員が被疑者を逮捕しようとした際、人糞を降りかけられる、手を噛まれる、水桶・たらい・マキなどを手当たり次第投げつけられる、クワ・こん棒などを振り回して暴れる、トウガラシの粉を投げて目潰し戦術に出るというようなことがあり、捜査員3名が打撲傷などを負ったが、前回ほどの組織的集団抵抗はみられなかった。この検挙の際、26日の暴行首謀者とされる3名が逃走。緊急逮捕を含む27名の逮捕者は取り調べののち、5名を釈放。残り25名を酒税法、公務執行妨害、傷害、業務妨害などの容疑で大阪地検に送庁、19名が起訴された。3月30日の検挙活動の際、朝鮮人1名が職務質問を受け逃走、追いついた警官ともみ合いになり拳銃の引き金が引かれ、弾が右腹部を貫通、重傷となり、数日後に死亡した  1952年5月1日、血のメーデー事件が起こった。GHQによる占領が解除されて3日後の、第23回メーデーとなったこの日の中央メーデーは、警察予備隊についての「再軍備反対」とともに、「皇居前広場の開放」を決議していた。大会は午前10時20分ごろ開会され、途中、全学連を中心として人民広場への乱入を扇動しようとする乱入者が相次いだものの、午後0時10分に閉会し、同25分より、北部・東部・南部・中部・西部の各コースに分かれて、予定のデモ行進に移った。デモ行進の途上でも、人民広場への乱入を扇動しようとする試みが相次ぎ、一部のデモ隊は当初のコースから外れて投石などを行ったほか、西部コース指導者は人民広場への乱入を拒否したために暴行を受けるなどの混乱が生じたものの、最終的には午後2時から4時にかけて順次に予定の解散地点に到着し、解散した。しかし特に混乱が著しかった南部コースを中心として、日比谷公園で解散したデモ隊の一部は、その中の全学連と左翼系青年団体員に先導され、朝鮮人、日雇い労務者らの市民およそ2,500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出はじめた。警視庁は、会場や行進中には主催者の自主的統制に待つこととしていたが、5,600名の部隊を編成して雑踏警備にあたっていたほか、各署員1万名以上を待機させて即応体制を整えていた。日比谷交差点を通過して無届デモを開始した群衆に対して、まず丸の内警察署長以下60名が制止したが、投石や竹槍・棍棒による攻撃を受け、13名の負傷者を出した。デモ隊は外国人の自動車19台に投石して窓ガラスを次々に破壊しながら北上した。馬場先門においては、第一方面予備隊と三田・東京水上・高輪の3警察署による470名の部隊が警備にあたっていたが、方面予備隊の一部が拳銃および若干の催涙弾を装備していたほかは警棒を携帯しているのみであった。またデモ隊は極めて先鋭的であったことから、周囲の一般通行人への被害も憂慮した方面予備隊長は車道の警戒線を解き、デモ隊は皇居前広場になだれ込んだ。乱入したデモ隊は、二重橋正面で警備にあたる丸の内警察署員および増援の第一方面予備隊2個中隊に対して投石を開始した。祝田町警備巡査派出所ではボックスが押し倒され、警察官は袋叩きにされて拳銃を奪われた。警察部隊は催涙弾を使用して鎮圧にあたり、午後3時頃には暴徒を中央自動車道まで後退させ、にらみ合いの状態となった。しかしこの頃、桜門および祝田橋でも警戒線が突破されたことで暴徒は8,000名に増加した。警察側も逐次に予備隊を配置転換して体制を強化したが、暴徒との攻防は激しく、一部ではやむなく拳銃を使用した。この結果、暴徒が混乱に陥ったことから、警察側は体制を整えて一気に鎮圧を図り、午後3時40分までには暴徒の大部分を広場外に排除した。しかし広場外に排除された暴徒はその後もしつこく攻撃を繰り返し、祝田橋では第一方面予備隊の隊員4名が包囲され、角棒で乱打のうえで凱旋濠に投げ込まれ、更に投石を加えられた。また他の隊員4名も包囲されて同様の暴行を受けそうになり、拳銃の威嚇射撃でやっと難を逃れる状況であった。またこのほかにも、警察官への暴行が相次ぎ、拳銃を奪われる例もあった。午後3時50分頃には、桜門前濠端側に駐車されていた外国人自動車14台を転覆させて火を放ち、炎上させたほか、付近をサイドカーで通行していた交通第一課員を取り囲んで暴行を加え、サイドカーにも放火した。その消火のため出動した消防隊も投石や殴打を受けて13名が負傷、ホースも切り破られた。これらの暴徒も午後4時頃には離散しはじめたが、その後も有楽町巡査派出所が襲撃されたり、また一部は日比谷公園に逃げ込んで投石を続けていた。皇居前広場・日比谷公園が平静を取り戻したのは午後6時過ぎのことであった。これらの騒動の結果、デモ隊側は死者1名、重軽傷者約200名、警察側は負傷者832名を出す流血の惨事となった。当日は警察予備隊の出動も検討されていたが、一般警察力によって収拾されたため、出動を命じられるには至らなかった。 なお、この事件に出動した「予備隊」とは「警視庁予備隊」のことであり、後の機動隊である。警察予備隊のことではない
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 1952年5月12日~25日、大村収���所事件が起こった。法務省は朝鮮人410人を韓国の釜山に強制送還したが、韓国政府は125人については引き取りを拒否し、日本に送り返した。これらの逆送還者は大村収容所に収容された。逆送還者は、韓国政府の逆送還で収容根拠を消失したと主張し、収容所からの即時釈放を要求した。これに在日朝鮮統一民主戦線が同調し、「逆送還者奪還闘争」が繰り広げられた。11月11日午前10時30分、収容者の代表が所長との面談を申し入れたが、当局がこれを拒否したため、午後3時20分になって暴動が発生した。収容所の警備官や大村市警察の警察官は、催涙弾と消防車でこれを阻止し、ようやく鎮圧した  1952年5月13日、広島地裁被疑者奪回事件が起こった。午後2時55分から広島地方裁判所第二号法廷で勾留理由開示を開くことになっていた。対象となった被疑者は、4月30日と5月1日に、国警広島県本部安佐地区署古市町駐在所と民家に、それぞれ火炎瓶を投げつけて放火した容疑で逮捕された朝鮮人4人であった。勾留理由開示は予定通りに開廷されたが、傍聴席には多くの朝鮮人が陣取り、赤旗や北朝鮮旗が掲げられるなど異様な雰囲気での開廷であった。閉廷直前の午後5時20分、傍聴席の朝鮮人約200人が被疑者と傍聴者を分ける柵を乗り越え、被疑者に手錠をかけようとした看守を妨害して、被疑者4人を奪還した。広島地方裁判所の事務室には、万が一の時のために広島市警察の警察官約70人が待機していたが、現場に駆けつけたときには、既に逃走された後だった  1952年5月26日、高田事件が起こった。民団愛知県本部の顧問は、北朝鮮系の在日朝鮮人の脅迫を受け続けてきた。同年3月には自宅を襲撃されたり、殺害予告のビラが貼られたりしていた。午前5時40分頃、北朝鮮系朝鮮人数十人が顧問宅に侵入、ドアやガラスを破壊したりするなどの狼藉を働いた。顧問は何とか逃げ出し、名古屋市警察瑞穂警察署高田派出所に助けを求めてきた。まもなく顧問を追跡してきた一団が高田派出所に押しかけ、備品を破壊したり火炎瓶を投入したりして焼き討ちした。顧問は警察官の誘導で裏口から退避し、道を隔てた高田小学校正門より用務員室に向かったが、追いつかれ暴行により全治10日の傷を負った  1952年5月31日、奈良警察官宅襲撃事件が起こった。25日、桜井町で民団磯城支部書記長が、旧朝連系の在日朝鮮人に襲われる桜井町事件が発生した。国家地方警察奈良県本部は犯人を検挙し、奈良地検に送致した。5月30日、奈良市警察に国警磯城地区警察署から「在日朝鮮人の一団が奈良市に向かっている」との連絡が入った。在日朝鮮人の一団が奈良地検に突入したため、奈良市警は実力で排除した。このことから、旧朝連系は奈良市警に反感を持つようになった。襲撃を受けた奈良市警の警察官宅は、桜井町事件が発生した桜井町に所在していた。5月31日、桜井町の奈良市警警備課巡査部長宅に約10名の在日朝鮮人が覆面姿で押しかけて戸を叩いた。巡査部長の父親が戸を開けたところ、いきなり暴行を加え意識不明の重体にした。そして窓ガラスや障子を破壊して逃走した  1952年5月31日~6月5日、万来町事件が起こった。当時、宇部市には約3100人の在日韓国・朝鮮人が居住しており、大半が生活保護受給者だったが、市当局は彼らが「日中ブラブラしていた」ことから、「潜在収入がある」として、生活保護費増額を見送っていた。朝鮮人側はこれに激昂し、以降、連日宇部市福祉事務所に押しかけ、市職員を吊るし上げた。6月3日になると約400人に達したため、宇部市警察は全職員を動員して対処したが、朝鮮人側はその隙をねらって、留守中の上宇部派出所を襲撃した。6月5日、宇部市万来町において、朝鮮人解放救援会山口県本部が「民主愛国青年同盟」を結成し、当日は県内各地から朝鮮人が多数集結した。うち約70人が午前11時に宇部興産の工場に乱入、守衛を殴打し、電話線を切断するなどの行為をおこなった。続いて民団の団員宅を襲撃した後、引き揚げた。警察は襲撃犯を逮捕するため、午後2時に解放救援会事務所を包囲した。警察は解散を呼びかけたが、朝鮮人側は投石などの手段で抵抗した。午後3時半より警察は実力行使を開始し、午後4時からは催涙ガス弾も導入してようやく鎮圧した  1952年6月10日、島津三条工場事件が起こった。午後4時頃、トラックに乗った祖国防衛隊所属の在日朝鮮人約50人が、京都市中京区にある島津製作所三条工場に押しかけ、守衛の制止を振り切って中に突入、破防法反対のアジ演説を行った。工場側の要請を受けた京都市警察堀川警察署の署員約15人が現場に急行、五十代くらいの朝鮮人が妨害したため、ただちに検挙し京都市警南部警邏隊のパトカーに収容した。すると、付近にいた朝鮮人約100人が騒ぎ出した。パトカーがサイレンを鳴らして発進し、春日通三条にさしかかったとき、多数の朝鮮人が前に立ちふさがり、車内に火炎瓶を投げ込んだ。パトカーはたちまち火の車となり、道を大きくそれて京都市バスの車庫に入り込み、バスに激突した。乗っていた8人の警察官は重軽傷を負った。検挙者も火傷を負ったが逃げおおせることに成功した  1952年6月13日、醒井事件が起こった。滋賀県坂田郡醒井村では、民団系と在日朝鮮統一民主戦線系の在日韓国・朝鮮人間で対立が起きており、10日と6月11日の2日連続で乱闘事件が起きていた。午前5時頃、国家地方警察滋賀県本部坂田地区警察署の警察官は、被疑者逮捕のために現地に向かったが、朝鮮人は事前に察知し、ピケを張るなどして自宅に立て篭った。朝鮮人側が、投石や棍棒を投げつけるなど被疑者の逮捕を妨害したため大乱闘となったが、警察はこれを鎮圧し公務執行妨害罪で48人を逮捕した  1952年7月7日、大須事件が起こった。日本社会党の帆足計と改進党の宮越喜助の両代議士が、ソ連及び中共を訪問して日本国政府の方針に反する「日中民間貿易協定」を結んだ後に帰国し、6日に名古屋駅に到着した。両代議士の歓迎のために約千人の群集が駅前に集合、無届デモを敢行したが、名古屋市警察によって解散させられた。その際に12人が検挙されたが、その中の1人が所持していた文書から、翌日の歓迎集会に火炎瓶を多数持ち込んで、アメリカ軍施設や中警察署を襲撃する計画が発覚した。7日、名古屋市警察は警備体制を強化し、全警察官を待機させた。午後2時頃から、会場の中区大須球場に日本共産党員や在日朝鮮人を主体とする群衆が集まり始め、午後6時40分頃に歓迎集会が挙行された。午後9時50分に集会が終わると、名古屋大学の学生がアジ演説を始め、その煽動によって約千人がスクラムを組みながら球場正門を出て無届デモを始めた。警察の放送車が解散するよう何度も警告したが、デモ隊は放送車に向かって火炎瓶を投げ込み炎上させた。警察は暴徒を鎮圧すべく直ちに現場に直行したが、デモ隊は四方に分散して波状的に警察部隊に対して火炎瓶・投石・竹槍・プラカードで攻撃を行い、路上の一般の乗用車に放火するなど、大須地区は大混乱に陥った。また、大須のデモ隊とは別に、アメリカ軍の駐車場に停めてあった乗用車を燃やしたり、中税務署に火炎瓶を投下する事件も発生している。この事件で、警察官70人、消防士2人、一般人4人が負傷し、デモ隊側は1人が死亡、19人が負傷した。名古屋市警察は捜査を開始、最終的に269人を検挙した。その内、半数以上が在日朝鮮人だった。捜査の結果、この事件は共産党名古屋市委員会が計画し、朝鮮人の組織である祖国防衛隊とも連携しながら実行に移されたことが分かった  1952年11月9日~12日、大村収容所事件が起こった。5月12日、法務省は朝鮮人410人を韓国の釜山に強制送還したが、韓国政府は125人については引き取りを拒否し、日本に送り返した。これらの逆送還者は大村収容所に収容された。逆送還者は、韓国政府の逆送還で収容根拠を消失したと主張し、収容所からの即時釈放を要求した。これに在日朝鮮統一民主戦線が同調し、「逆送還者奪還闘争」が繰り広げられた。11月11日午前10時30分、収容者の代表が所長との面談を申し入れたが、当局がこれを拒否したため、午後3時20分になって暴動が発生した。収容所の警備官や大村市警察の警察官は、催涙弾と消防車でこれを阻止し、ようやく鎮圧した  1952年11月19日~26日、五所川原税務署襲撃事件が起こった。仙台国税局は警察の協力を得て、青森県北津軽郡板柳町周辺の在日朝鮮人が経営する密造酒工場を摘発し、密造酒約100石、酒粕約400貫、その他容器約200点などを押収、酒税法違反として45名を検挙した。また、摘発を妨害したとして、在日朝鮮人7名を公務執行妨害の現行犯で逮捕した。その後、在日朝鮮人は「生活権の保障」と「職の斡旋」を要求し、国警板柳地区警察署と五所川原税務署に連日抗議活動を行った。11月26日には約60名が五所川原税務署に押しかけて署内に乱入し、署を占拠した
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yotchan-blog · 27 days
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2024/4/2 12:59:37現在のニュース
斉藤鉄夫国土交通相「静岡県とJR対話促す」 リニア令和9年断念 一日も早い開業を([B!]産経新聞, 2024/4/2 12:57:21) すし屋からラーメン店、トルコ料理の総菜屋‥近鉄・阪神「大阪難波駅」の構内は食の宝庫([B!]産経新聞, 2024/4/2 12:57:21) そごう・西武、本社部署半減 執行役員も減らしスリム化 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/4/2 12:57:17) 国内借入金利、15年ぶり上昇 ゼロゼロ融資の反動で - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/4/2 12:57:17) カーディガンとジーンズ姿の「警察官」、手帳の提示求められ逃げ出す…窃盗未遂容疑で高校生逮捕([B!]読売新聞, 2024/4/2 12:54:12) 18歳未満にわいせつ行為の教員、一律免職処分へ 神奈川県教委(毎日新聞, 2024/4/2 12:53:53) 営業利益率は4割 「再生ウエハー」首位のRSテクノ - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/4/2 12:51:39) 廃線跡を自転車道に再生 国も転換後押し りんりんロード、旧駅舎の休憩所が好評 /茨城 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/4/2 12:51:34) 「幸せを呼ぶ黄色い電車」前で相鉄新入社員は記念撮影 神奈川県内で入社式や入庁式([B!]産経新聞, 2024/4/2 12:51:27) 三陸鉄道40周年、記念列車に地元住民から温かいエ��ル 163キロを約4時間半かけて運行([B!]産経新聞, 2024/4/2 12:51:27) 40年で70億円、まいた種が大きく育った エジプト考古学者・吉村作治さん(4完) アーカイブ「わたしの失敗」([B!]産経新聞, 2024/4/2 12:51:27) 南海高野線、夜桜の歓迎 7日までライトアップ 九度山 /和歌山 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/4/2 12:45:38) 福岡市地下鉄、延伸1年 七隈線、増便で皮算用 混雑緩和&脱赤字 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/4/2 12:45:38) 東北新幹線、東京-福島間で運転再開 福島-仙台間は見合わせ続く | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/4/2 12:45:38) 震災乗り越え40年、三陸鉄道が記念列車 「あまちゃん」にも登場 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/4/2 12:45:38) 科技立国 反転の糸口(1) 研究力向上へ最後の好機 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/4/2 12:45:18) 上川外相、UNRWAへの拠出再開表明 テロ関与疑惑で一時停止(毎日新聞, 2024/4/2 12:39:39) JR北海道が運賃8%上げ検討 新観光列車開発も 中期計画発表 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/4/2 12:39:34) 道内初、積み替え施設 函館貨物駅 「24年問題」見据え /北海道 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/4/2 12:39:34) ���陸鉄道 震災乗り越え40周年 記念列車運行 住民らお祝い /岩手 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/4/2 12:39:34) 加西列車転覆事故 戦争ない地球を願い 慰霊祭に20人 /兵庫 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/4/2 12:39:34) https://mainichi.jp/articles/20240401/k00/00m/040/281000([B!]毎日新聞, 2024/4/2 12:39:34) 福岡空港、複合商業施設の新設や国際線路線数6割増で収益力アップ…設備投資5年で1070億円([B!]読売新聞, 2024/4/2 12:37:18) 北海道に豪華観光列車を投入へ…「ななつ星」デザイナーが手がける「赤い星」と「青い星」([B!]読売新聞, 2024/4/2 12:37:18) 勤務中の警察官、サングラスもコンビニ買い物もOK 期待する効果は(朝日新聞, 2024/4/2 12:35:10) 歌舞伎町の質屋に強盗容疑、3人逮捕 「即日お金」闇バイトに応募か(朝日新聞, 2024/4/2 12:35:10) 13歳だった同級生、あの日も隣のコートに 「今でも帰国を夢見て」(朝日新聞, 2024/4/2 12:35:10) DENZAI、浮体式洋上風力工事に参入 200億円投資 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/4/2 12:33:22) 長周期地震動とは 震源遠くても注意、階級4区分など分かりやすく解説 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/4/2 12:33:22) 鉄鋼業界「脱炭素」で鉄スクラップ不足に 相場高の足音 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/4/2 12:33:22) 夢の核融合発電 調達100億円超スタートアップは14社 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/4/2 12:33:22) 路線バス減便で高校生にタクシー券 山口・光市が実証実験(毎日新聞, 2024/4/2 12:32:26) 捏造? 護衛艦「いずも」のドローン動画が物議 防衛相「分析中」(毎日新聞, 2024/4/2 12:32:26) 松山駅高架下 14店公表([B!]読売新聞, 2024/4/2 12:30:29) コロナで経営悪化、公営地下鉄やバス支援へ…住民の交通インフラ維持([B!]読売新聞, 2024/4/2 12:30:29) 三陸鉄道が開業40周年、オリジナル記念鉄印を発売…宮古駅で記帳受け付け([B!]読売新聞, 2024/4/2 12:30:29) JR北海道が来年4月に運賃8%値上げ…年37億円増収見込み、国の支援から自立目指す([B!]読売新聞, 2024/4/2 12:30:29)
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carguytimes · 6 years
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北海道・礼文島の見どころを結ぶドライブコース(北側)【車中泊女子の全国縦断記】
礼文島の見どころを結ぶドライブコース、前回は香深(かふか)フェリーターミナルを起点に南端をおよそ2時間で廻りました。稚内から朝イチのフェリーで来島した場合は午前中で済ませられるので、今度は北側へ向かいます。 道道40号線、香深井あたりから見た利尻富士。手前は昆布干し場です。砂利が敷き詰められているところは「空き地」ではなく昆布干し場ですのでドライブの際は駐車しないようお気をつけください。 香深フェリーターミナルから約25km、一気に利尻島最北端の【スコトン岬】へと走ります。礼文島を南北に縦断する道道40号線は延々と海岸を走るのでロケーション抜群です! スコトン(須古頓)岬は海が一望できるうえ、朝日も夕陽も見られる贅沢な景勝地。水平線に浮かぶ海驢(トド)島は現在は無人島ですが、かつては名前の通りトド漁が行われており、船泊港から観光船が航行し民宿もあったそうです。 スコトン岬で唯一のお店【島の人 礼文島本店】では、特産の昆布やウニをはじめとしたお土産品のほか昆布ソフトクリーム、昆布ビールが味わえます。2018年6月時点ではお食事メニューはありませんでした。 【島の人】が経営する最北のお宿【民宿スコトン岬】は岬の東側、波打ち際に佇む一軒家風の民宿で、目の前はプライベートビーチ状態! 泊まってみたくなる素晴らしい立地です。 スコトン岬から戻って約5km地点から右折、約3kmで行き止まりとなり、礼文島西海岸に位置する【澄海(スカイ)岬】に到着。駐車場とトイレ、売店が3軒並んでいます(6月時点では1軒お休み)。 駐車場から岬までは遊歩道で5分程度。澄海岬(西上泊園地)は丸い湾になっていて、その海の青さたるやまるで南国のようです! 時間に余裕があれば、売店のある駐車場から岬の向こう側の鉄府漁港までトレッキングコースで繋がっているので、途中まででも歩けばより素晴らしい絶景を堪能できます。 こちらの名物は『トド串(250円)』。春先に漁師さんが穫ったトドを、売店の女将さんがオリジナルのタレに漬け込んだ手づくりの逸品です。 歯ごたえがあり、味は鯨肉に似ています。トド肉の缶詰を食べた経験がありますが、それと比べると柔らかいし味付けが濃すぎず臭みもなくて、美味しかったです。 澄海岬から、また戻って6kmほどで久種湖へ。香深からスコトン岬へ行く途中、ここを通り過ぎて来ています。礼文島では行ったり来たりが多いんですよね。 筆者は、この湖畔にある【久種湖畔(くしゅこはん)キャンプ場】を拠点に滞在していました。テントサイト、オートサイト(電源付き2,500円)、コテージ、バンガローがあります。コインランドリー(洗濯機300円、電気乾燥機30分300円)、シャワー(15分100円)あり。ペット不可。駐車場での車内泊もOK、大人1名600円です。 ちなみに久種湖畔キャンプ場から【うすゆきの湯】までは約18km。礼文島内にはもう1ヶ所、島の真ん中あたりに【緑ヶ丘公園キャンプ場】もあるのですが大型キャンピングカーには道幅が狭いだろうと観光案内所からご助言いただいたので、遠慮しました。 久種湖畔には遊歩道が整備されており、野鳥観察小屋までは湖畔沿いのフラットな小径、展望台へ登れば久種湖や船泊港、金田ノ岬が一望できます。森林の丘展望台にも駐車場がありますが、トイレは閉鎖されていました(2018年6月現在)。キャンプ場から森林の丘経由で湖畔を戻るトレッキングコースは約1時間くらいです。 周辺にはスーパーもコンビニもないので、お買い物には船泊港付近の【漁協ストアー】がオススメ。夕方には売り切れてしまうので、できれば早い時間帯に来店すると海老やホタテなど新鮮魚貝類が手に入ります。 また、町役場支所【輝(きらり)交流館】にてWi-Fiが利用できます。余談ですが礼文島内で公衆Wi-Fiが利用できるのは香深港FT、礼文島郷土資料館(ピスカ21)、礼文町役場、北のカナリアパーク、そして輝交流館の5ヶ所しかパンフレットには載っていませんでした。 久種湖から約3km、スコトン岬とは反対側、東側に突き出している【金田ノ岬(金田岬)】は断崖絶壁という訳ではなくなだらかな岩礁。お店が1軒ポツンと建っています。この金田ノ岬の丘の上に礼文空港があるのですが、現在は休港中です。 海岸線に浮かぶスコトン岬(西側)、利尻島(東側)など景色を楽しむのはもちろんですが、ここで最も有名なのは… 野生のアザラシです。天気が穏やかな日には、岩礁を寝床にのんびり寛いでいる姿を間近に見る事ができます。波打ち際まで来る事もあるので、驚くほど近いです。写真愛好家の方は、水平線から昇る朝日をバックにアザラシを撮るため早起きしてスタンバイするのだとか。夏の北海道、日の出は4時前後くらいでしょうか。 金田ノ岬でただ1軒のお店【あとい】では、お土産品のほかご当地ならではの新鮮魚貝類をふんだんに使ったお食事が楽しめます。海鮮丼 2,800円(写真)、三色丼 3,500円など豪華な海の幸に舌鼓。 礼文島の北側にはお食事処が少ないので、そういう意味でも金田ノ岬に立ち寄る事をお薦めします。営業時間は15時までですが、お食事するなら14時までに入店した方が確実です。 ラストは、レッキングすることなく礼文島の固有種をはじめ高山植物を見る事ができる【高山植物園】。営業期間5月~9月(9月のみ日曜定休)、9:00~17:00、入園料300円。礼文アツモリソウは見頃を終えていますが、ここでは咲く時期を調整しているので礼文ウスユキソウなら8月まで見られる可能性があります。自然界では、今年は全体的に花の開花が早いようです。 売店などはないのですが、帰りに植物園で採集した様々な植物のタネをプレゼントしてくれます。筆者は欲張って10種類ほどいただいちゃいました。他にない、素敵なお土産にもなりますね。 香深港への帰り道、ちょうど礼文島の真ん中あたりにある【うに剥き体験センター】では、ウニを自分で割って食べるという体験ができます。1個800円で、所要時間は10分程度だそうですのでフェリー乗船までの時間調整にももってこいです。 【ドライブコース】 香深フェリーターミナル → スコトン岬 → 澄海岬 → 久種湖 → 金田ノ岬 → 高山植物園 → 香深FT で、およそ64km、ノンストップで走れば約1時間半です。 香深FTから一気にスコトン岬へ行くか金田ノ岬へ行くかは、金田ノ岬でランチにするかどうかで決めるといいと思います。 礼文島から稚内へのフェリー最終便は17:05発-19:00着(7〜8月)。洋上から水平線に沈む夕陽と利尻富士が眺められるかも知れません。 次回は利尻島へと上陸します。ちなみに礼文島から利尻島(鴛泊港)へのフェリー最終便は16:25発-17:10着(7〜8月)です。 (松本しう周己) 【関連リンク】 ハートランドフェリー http://www.heartlandferry.jp/ あわせて読みたい * 北海道・礼文島の見どころを結ぶドライブコース(南端)【車中泊女子の全国縦断記】 * キャンピングカーで行く礼文島・利尻島の渡航費用【車中泊女子の全国縦断記】 * 旅先での急な体調不良、ひとの優しさが身にしみる……【車中泊女子のキャンピングカー生活】 * 世界自然遺産・知床の自然を守る知床財団の活動を足元から支援するグッドイヤー * クルマにアリが巣を作ってしまう前に予防と対策を【車中泊女子のキャンピングカー生活】 http://dlvr.it/Qbc4f9
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manbastaff · 7 years
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マンガプレゼン大会を開催しました!
10月21日(土)渋谷のマンガサロン「トリガー」で、マンガプレゼン大会を開催しました!天気はあいにくの雨。台風上陸前夜にも関わらず、たくさんのマンガ好きがお越しくださいました。
プレゼンされたマンガは、ジャンルも年代もバラバラ。お集まりいただいたスピーカーの方々も、マンガ好きという共通点を除いて様々。なんと岡山から足を運んでくださった方まで!
マンガ好きの熱い想いが飛び交う素晴らしいイベントになりましたので、その様子をお伝えします。
マンガプレゼン大会とは!?
本題に入る前に、まずはマンガプレゼン大会について簡単にご紹介します。事前に申し込みいただいたスピーカーの方々に、「今、私が1番推したいマンガ」について制限時間5分でプレゼンしていただきます。そして、最後に観客の皆さまが「1番読みたくなったマンガ」を投票で選びます。決まりごとはこれだけの、シンプルなイベントです。
今回は9名の方々が、スピーカーに名乗りを上げてくださいました。
ダイジェスト版 プレゼン大会!
それでは、発表されたマンガとプレゼンの様子をダイジェストでご紹介いたします。作品はレポートの最後にリストにまとめています。気になったマンガはぜひ読んでください!
モリモトタカシさん アサイ 作『木根さんの1人でキネマ』
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最近、映画を題材にしたマンガが増えてきました。その火付け役になった作品だと僕は考えています。映画が大好きなアラサーのOL木根さんが、映画を見て感想をいう話です。特徴は映画のことを全く知らなくても面白いということ。それどころか、映画が見たくなる。そんなマンガです。
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そして、映画について語っているだけではありません。映画をモチーフにした話も多く、例えば『インディ・ジョーンズ 』を扱った回では、「嵐の中、なぜ映画館に行くの?」「そこに宝があるからよ!!」といったインディ・ジョーンズさながらのやりとりが、クライマックスになる話になっています。
片桐さん はらだ 作『にいちゃん』
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恋愛を描いたマンガは、その恋が困難であればあるほど面白くなると思います。はらだ先生の「にいちゃん」のジャンルはBL。BLマンガを読んで、僕が面白いと思うポイントは、恋愛のハードルが飛躍的に上がるところです。例えば、BL作品は友達というだけで恋愛のハードルがとても高くなります。
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このマンガの描く恋愛は、男性同士というだけでなく、少年愛という禁忌にも踏み込んでいます。また2人の関係が共依存的で、BLでしか描けないドロドロした展開は、ダウナー系の話が好きな人にはおすすめです。
三溝さん 佐藤将 作『アコヤツタヱ』
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日本の古代史、ちょうど鉄が伝来した頃の日本が舞台。その鉄の製法を巡る、山のウエの村とシタの村の戦いを描いています。もう一つの軸としては、山の神のオロチが登場し、主人公の少女を狙う影の存在として暗躍しています。
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このマンガは佐藤将の過渡期に当たる作品だと僕は考えています。前作はバリバリギャグマンガを描かれていますが、この次の作品では原作として、シリアスな話を書いています。救いのない終わり方をするので、シリアスな調子で話を作りたかったのかなと思いつつも、ギャグを交えたバトルをやりたそうな雰囲気も端々から感じます。そんな過渡期の作品で、この時にしか出せない情念があります。
ヒラタトモヨシさん 美内すずえ 作『ガラスの仮面』
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今というか、40年間ずっと応援しています。演劇が題材のマンガなので、劇中劇が何度も描かれます。そこで主人公の北島マヤとライバル姫川亜弓が、バトルをします。スポーツマンガでいえば試合のようなものです。
北島マヤは実に多彩な技の持ち主で、すごいと思ったのは、脚本を全部組み替えて一人芝居にしてしまったり、劇場の気温を上げる技です。
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ただ、マンガの技がこれだけすごいと、リアル演劇が物足らなく感じる時期が私にはありました。しかし、90年代に『ガラスの仮面』に登場する技を、本当にやった人たちがいます。「惑星ピスタチオ」という劇団で、佐々木蔵之介さんや西田シャトナーさんを輩出しています。まれにですが、そんな方々も現れるので、マンガの世界と現実の世界をクロスしながら楽しむといいと思います。
さえきさん 横田卓馬 作『背すじをピン!と~鹿高競技ダンス部へようこそ~』
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社交ダンスってご存知ですか?男女がペアになって踊る、童話の舞踏会をイメージをしていただくとわかりやすいと思います。その優雅で美しい世界を王道少年マンガにしたのが、この作品。バトルマンガとして読むとすごく面白い。つまり、舞踏マンガを武道マンガにしたんです。
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フロアにいるダンサーたちが、競技中にペアだけでなく敵とも意思を通わせるシーンが出てきます。自分が思っていること・相手の考えていることを伝え合い、ダンスだけでなく脳内の戦いを繰り広げるわけです。僕はダンサーとして活動をしていますが、実際にあるんだけど見ているだけではわかりづらい部分を表現したいいマンガだと思います。
千葉さん 佐藤史生 作『やどり木』
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佐藤史生さんは作品の世界観を完璧に作り込むマンガ家です。紹介する『やどり木』はバーゲンセールで安く売られた辺境の惑星ハザンを舞台に、「超人」になるため、ミスルトという植物を摂取し新しい脳を手に入れようとする少年たちの話です。
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100ページ弱の短編作品に、壮大な世界観が詰まっています。それなのに、使い捨てなのか!と残念になってしまうほど、この世界や設定は他の作品には登場しません。読むたびに新しい星や世界と出会えるのが佐藤史生先生の魅力です。
にゃんたんさん 岩明均 作『風子のいる店』
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岩明均先生の初連載作品です。吃音を治すために喫茶店で働く風子が、喫茶店にいる人々と交流を深めながら成長していく話。「究極のリアリズムマンガ」とも呼ぶべき作品で、読者も風子と一緒に成長している気持ちが味わえます。
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この漫画には「才能があるからといって、その道に進むばかりが良い人生とは限らない」という裏テーマがあります。後半に登場する陸上部の田島は、将来を有望視される選手ですが、風子に影響を受け「走る」以外の人生を歩みます。ここには、田島の人生が描かれている。それがいいと思うんですよ。全4巻で半日あれば読めます。読まずに死ぬのはもったいない。
国府町怒児さん カトちゃんの花嫁 作『歯のマンガ』
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「歯のマンガ」というアカウントで2012年から、Twitter上で更新されているウェブマンガです。 独特の雰囲気が受け高い人気を博していますが、なかなかその面白さを言語化するのは難しいです。 ただ今回はプレゼンということで、私なりに気づいたいくつかの人気の秘訣を紹介しようと思います。 まず、ボケやツッコミの明確な役割が存在しないこと。 かっちりと関係性を決めすぎないことで、キャラクターに幅が生まれます。
さらに誰かを傷つける話がないこと。 そして、ゆるさによって作られるなんでもありな世界観が、強気なギャグを納得させているのかなと思います。 歯が自由に動き回るファンシーな世界を一度味わってみて下さい。
以上、8名のプレゼンをご紹介してきました。スライドを使う方、マンガを片手にトーク一本で勝負をする方、ノートに手書きで紙芝居形式で発表する方など、プレゼンの手法も様々。
しかし、皆さま一様に、マンガへの思い入れ、熱量、愛情は並々ならぬものがありました。
ダイジェスト版ゆえに、ここには書ききれなかったこともたくさんあるので、次回はぜひ会場までお越しください!
さて、ベストプレゼンテーターに選ばれた方のプレゼンに移る前に、大人気だったケータリングについても、ちょこっとご紹介させてください。
かわいくておいしいと好評の「粒粒」!
19時。普段なら、夜ご飯を食べているような時間ですよね。大好物とはいえ、マンガの話でお腹は膨れませんので、当日は軽食を用意していました。
今回お願いしたのは、「粒粒」さん。おにぎり中心のメニューは、おいしくて、見た目もかわいい素敵な料理ばかり。盛り付けにもこだわっていただき、透明なアクリル板からマンガが覗くようになっています!
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選ばれたベストスピーカーは…!!
さて、ついにベストスピーカーの発表です。並みいる強豪をおさえ、見事ベストスピーカーに選ばれたのは、さのあやなさん!
わかりやすくキレイなスライド。要点をシンプルにまとめた構成力。あふれる作品愛。とても素晴らしいプレゼンでした。マンバからは、賞品としてオリジナルデザインの図書カードを贈呈。今後のマンガ読みのためにご利用いただけると嬉しいです。
そんなさのあやなさんのプレゼンを少し長めにご紹介‼︎
さのあやなさん 衿沢世衣子 作『うちのクラスの女子がヤバい』
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思春期の女子にだけ発動する役に立たない超能力「無用力」。そんな能力を持つ女子たちが集まる共学高校が舞台です。推薦ポイントは「少女漫画と少年漫画のハイブリッド」「推しが見つかるオムニバス形式」「モノローグを使わない手法」の3つ。
少女漫画はリアルな会話や感情表現、心の機微を描き、なにも起きなくても面白いのが特徴だと思っています。逆に少年漫画はあらすじを聞くだけでも面白いですよね。『うちのクラスの女子がやばい』はそのどちらも兼ね揃えたハイブリッド漫画です。
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また、いろんな力を持った女の子が登場し、毎回違う女の子にフォーカスを当てる1話完結のオムニバス形式。主人公として描かれた女の子が、次の話では脇役のクラスメイトとして登場したり、1話につき楽しみポイントがたくさんあるシステムになっています。
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そして、『うちのクラスの女子がヤバい』にはモノローグがほとんどありません。私たちの生活にモノローグってありませんよね。現実に即した手法が、突飛なキャラクターでも本当にいそうに思えてしまう力を与えていると思います。
とにかくキャラクターが魅力的です。超能力とか不思議な力を持っているんですけど、普通の子たちとして個性を愛を持ってかき分けている作家さんなので、あなたの周りの同僚や友人、家族がもっと愛おしく思えるようになるはずです。
いかがでしたでしょうか。当日の雰囲気が少しでも伝われば幸いです。
紹介されたマンガはいずれもマンガ好きの一推し作品です。気になったマンガは全部読んでみてください!
これからも楽しいイベントを企画していきますので、よろしくお願いいたします。
プレゼンされたマンガリスト
アサイ『木根さんの1人でキネマ』
はらだ『にいちゃん』
横田卓馬『背すじをピン!と~鹿高競技ダンス部へようこそ~』
佐藤将『アコヤツタヱ』
美内すずえ『ガラスの仮面』
衿沢世衣子『うちのクラスの女子がヤバい』
佐藤史生『やどり木』
岩明均『風子のいる店』
カトちゃんの花嫁『歯のマンガ』
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mitenjaneeyo2525 · 7 years
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「木更津駐屯地創立49周年記念行事・第45回木更津航空祭」は2017年9月10日(日)、千葉県木更津市の陸上自衛隊木更津駐屯地で開催されます。駐屯地の一般開放は8時30分から16時です。 木更津駐屯地には第1ヘリコプター団本部があり、第1輸送ヘリコプター群のCH-47J/JA、第102飛行隊のUH-60JA、OH-6D、特別輸送ヘリコプター隊EC-225LP、連絡偵察飛行隊のLR-2、東部方面航空隊第4対戦車ヘリコプター隊のAH-1S、OH-1が所在します。 航空祭ではこれらの機体による祝賀飛行、編隊飛行、訓練展示などを見ることができます。また、航空、海上自衛隊所属機の参加も恒例となっています。 2017年の催しは、抽選で約600名を対象に大型輸送ヘリコプターのCH-47体験搭乗を実施し、海ほたるや東京湾アクアライン上空を飛行します。飛行時間はおよそ10分間です。抽選リストバンドは、8時30分からH格納庫で配布し、11時に当選発表後、A格納庫で受付を実施します。また、大型の輸送ヘリコプターCH-47の地上滑走試乗を行い、整理券で先着1,020名を対象に実施します。 このほか、航空機地上展示、装備品展示、ミニ服着用コーナーに加え、高校生以下を対象に缶バッチの景品がプレゼントされるスタンプラリーなどが開催されます。 アクセスは航空祭当日、小湊鉄道がJR木更津駅から木更津駐屯地の航空隊前まで、臨時バスが運行されます。木更津駅西口発の始発は8時で、乗車バス停は西口4番線で、11時以降の三井アウトレット行きの定期バスは2番線からの発車です。運賃180円で、PASMO、Suicaも利用できます。 ■第45回木更津航空祭 <プログラム> 8:30~ 開場 9:40ごろ~ 航空機離陸    音楽隊演奏    CH-47による追悼編隊飛行 10:05ごろ~ オープニングセレモニー 10:25ごろ~ 編隊離陸    防衛大学校儀仗隊    編隊上空通過    航空機紹介    航空機支援車両紹介    らっぱ吹奏 12:10~ 東部方面音楽隊演奏    吹奏楽演奏 (拓殖大学付属紅陵高校)    チアリーディング (木更津総合高校)    自衛太鼓演奏 (木更津・下志津駐屯地合同) 13:10~ ヘリコプター体験搭乗    ヘリコプター地上滑走 16:00 閉門 <その他の行事> ・航空機地上展示 ・装備品展示 ・ミニ制服 ・らっぱ体験 ・スタンプラリー ・駐屯地美術展 ・ゆるキャラ ・模擬売店など
http://flyteam.jp/news/article/81844
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ari0921 · 7 years
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北朝鮮を動かすのは、やはり「軍事的圧力」という現実 2017-08-28 02:37:03NEW ! テーマ:北朝鮮 米朝関係の軍事的緊張が増し、いよいよ武力衝突に至る可能性も高まっている。北朝鮮がこのまま核開発を続けるか、あるいは本当にグアムにミサイル攻撃を行うような事態でも発生すれば、日本のみならず周辺諸国は米朝軍事衝突に必ず巻き込まれていくことになる。  日本のメディアも、ここまで来てようやく北朝鮮の脅威については報じてはいるものの、一方で、日本はどう対応したらよいのかという点については殆ど論じていない。米国の行動の推移を見守るだけで、我が国の「敵基地攻撃能力保有」の議論を始め、主体的に対北朝鮮政策をどうすべきか、あるいは対中、対露政策をどうすべきかという点については、殆ど触れられていないのが現状である。 そこで、ここでは今後の北朝鮮の動向と、今後日本が取るべき安全保障政策について考察してみたい。 北朝鮮による核ミサイル開発が現実化してきた これまで北朝鮮は、これ以上ないくらいの強い言葉で、米国や韓国、そして日本などを非難し、敵意をむき出しにしてきた。「韓国は一撃で灰になり、日本列島は沈没し、米国本土には核が降りそそぐ」などという挑発的な発言を行い、6カ国協議をはじめ外交交渉は全て自らの我儘とも言える理屈で頓挫させてきたのは、周知の事実である。今日に至っては、豪州に対しても「米国への無条件かつ熱狂的な追従をやめなければ核ミサイルで攻撃する」と主張し、中国に対してまで「我々との関係に及ぼす破局的な結果も覚悟すべき」と言うに至っている。 一方周辺諸国は、そうした北朝鮮の言動に対し、これまでは冷静に対応してきた。ミサイルを近海に打ち込まれる事態に至っても、日本はこれまで通り「抗議」を繰り返し行うのみで、経済制裁は維持強化するものの、北朝鮮は中国ロシアとの貿易を維持しており、その効果が限定的であることも理解していながら、それ以上の行動は取らなかった。 その理由は二つである。一つは、北朝鮮の挑発は、あくまで食糧難や人権侵害などに苦しむ国民の不満や、国内での熾烈な権力抗争から、外へ目を逸らすことが目的だとするもの。そしてもう一つは、北朝鮮のように経済力や技術力をはじめ、国力の小さな国が、実際核ミサイル開発を実現し、まして自滅の道となる他国を攻撃することはないだろうという分析である。 確かにこの二つの分析は、それぞれ一定の説得力がある。しかし、昨今の北朝鮮情勢を見ると、金正恩は国内外において非常に追い詰められており、状況もそれに応じて大きく変わってきた可能性がある。北朝鮮は今年に入り、既に12回ミサイル発射をし、米国ワシントンに届くミサイルを開発する可能性が現実化してきた。実際、米紙ワシントン・ポストは今月8日、北朝鮮が核弾頭を小型化し、大陸間弾道ミサイル(ICBM)への搭載が可能になったとする米国防情報局(DIA)の分析を伝えている。 そして、自滅となるはずの攻撃も辞さないと強気の姿勢を具体化し、グアムへの攻撃を明言する事態となった。北朝鮮国営の朝鮮中央通信は、「金絡謙朝鮮人民軍戦略軍司令官が、「米国に厳重な警告を送るため」として、中長距離弾道ミサイル「火星12」4発を米グアム島周辺に同時発射することを慎重に検討していると発表した」と報じた。 北朝鮮は国内の不満を抑えきれず、核ミサイル開発の成功をもって、本当に武力攻撃や戦争を始める可能性も否定できなくなってきたのである。 トランプ大統領が北朝鮮に強硬に出た三つの理由 こうした北朝鮮の軍事的挑発を受け、トランプ大統領は「これ以上、米国を脅さない方がいい。世界が見たこともないような炎と怒りに直面することになる」と異例の強い表現で警告した。しかもその後、「炎と怒り」では「言葉に厳しさが足りなかった」と述べ、11日には「軍事的な解決の体制は整った」と発言している。理性的とはとても言えない北朝鮮が、一連のトランプ大統領の言動に対して「理性を失っていると」批判したとのことだが、トランプ大統領の強い発言の背景には大きく言って3つの理由があると考えられる。 まず一つ目の理由は、実際、北朝鮮の核ミサイル開発を阻止するため、先制攻撃も辞さないと考えていることだ。確かに、時間が経てば、北朝鮮の核能力が向上し、阻止することが事実上困難になる。従って、今米国は、軍事力を使って核ミサイル開発を阻止するか、核保有を容認するか、時間的に選択を迫られている(この選択を迫られているのは、実際は米国だけではなく、日本などの国際社会全体も同様なのだが)。そしてもし、核ミサイル開発を阻止する選択肢をとるのであれば、それは早い方が合理的である。一方で、核保有を容認するのであれば、北朝鮮の横暴を認めることとなり、国際社会は対北朝鮮政策やNPT体制に関しての理論を根本的に転換せざるを得ない可能性も生じる。また北朝鮮が核ミサイルを保有すれば、テロリストに拡散する恐れもある。従って、北朝鮮がグアムに攻撃をしなくても、核ミサイル開発を続ければ、米国が核ミサイル除去のために核施設などを先制攻撃することは、安全保障上、十分理にかなっていると言える。 二つ目の理由は、北朝鮮の攻撃を支持する国内世論の存在がある。北朝鮮が米本土に届く弾道ミサイルを持つに至ったことで、米国民の間では警戒感が高まっている。8月9日に発表されたCNNの世論調査によると、米国民の62%が北朝鮮を「脅威」と認識しており、軍事行動を支持する米国民も55%に達している。しかも、共和党支持者の間では、実に74%が北朝鮮への軍事行動を支持する結果となっている。国内におけるトランプ大統領の支持率が38%と過去最低水準と言われる中、「トランプ大統領にとって北朝鮮問題は、国内の不満を外に向けるという意味で、これ以上ない好材料だ」との指摘もある。実際。就任直後に低支持率であったブッシュ大統領が、9.11と対テロ戦争をきっかけに支持率をV字回復させたこともあり、歴史的には戦争や外敵を理由に国内の対立を克服し、政権基盤を築いた指導者は多い。従って、北朝鮮への軍事行動を支持する国内世論の存在が、トランプ大統領の強気の発言の背景にあると思われる。 三つ目の理由は、「米軍・軍需産業界からの期待」であ��。8月14日産経新聞は「米軍需企業の株価急上昇 北朝鮮緊迫化で業績期待」と題して、「北朝鮮の脅威が増大したことで、米国のほか日本や韓国で迎撃ミサイルの需要が高まり、業績が伸びるとの期待が背景にある。」と報じた。記事によれば、北朝鮮が7月4日に初めて大陸間弾道ミサイルを発射してから、実際ロッキード社の株価は8%以上上昇し、最高値を更新。トランプ米大統領が今月8日、米国を脅せば「炎と怒りに直面するだろう」と警告するなど米朝の応酬が激化するのに伴い、株価の上げ幅も拡大した。ノースロップ・グラマンやレイセオンの株も買われ、最高値を更新した。 また、この北朝鮮のミサイル問題を、米軍がミサイル防衛システム(MD)の絶好の試験台と捉えているとの指摘もある。北朝鮮がグアム近辺の海に4発のミサイルを���弾させると予告している今回のケースは、限りなく実戦に近い状況で、米軍のMDを試す機会になり、また、米軍にとってMDの有効性を試すテストを行うことは、北朝鮮に対してだけでなく、ロシアや中国、イランなどをも念頭に置いた国防計画において意味があるという意見から、北朝鮮のミサイル攻撃を好機とさえ捉える考えも、米国の中では存在するのである。 中国が初めて本気で動いた いずれにしてもトランプ大統領の強い言動は、中国を動かしたという点でも非常に大きな意味を持つ。 トランプ大統領は、「炎と怒り」発言を北朝鮮に向けて行う一方、依然として北朝鮮に効果的圧力を加えない中国に対しても強硬に出ている。8月14日、中国による知的財産の侵害などをめぐる問題で、関税の引き上げなど一方的な制裁措置を発動できる通商法301条の適用を視野に入れた調査の手続きを始めるよう求める大統領令に署名した。 先にも少し述べたが、昨年の北朝鮮の対中国貿易額の割合は9割を超えている。つまり、いくら日本や米国が経済制裁をしても、中国の存在がある以上効果がないことが指摘されてきた。しかも今年、中国と北朝鮮の貿易額は第1・四半期に40%近く増加したこともわかっている。従って、米国も国際社会も中国の役割を重視し、中国の行動を変えなければ北朝鮮の核ミサイル開発は止められないという結論に達していたのである。 そこで、トランプ大統領が、先に述べた通商法301条の適用に向けて行動を起こしたことは言うまでもない。トランプ大統領の行動は、これまでに無い強いものだと言える。そうした状況から、いよいよ中国も北朝鮮に対し、本気の経済制裁に乗り出した。中国商務省は14日、北朝鮮からの石炭、鉄、鉄鉱石、海産物などの輸入を15日以降、停止すると発表した。また、中国の王毅外相は15日、ロシアのラブロフ外相と電話会談し、21日から始まる米韓の合同軍事演習を念頭に、対立回避へ向けて協力を呼びかけたことが報じられた。これまでの中国からすれば劇的変化である。そして、これらはトランプ大統領の強い言動から導き出された状況であることは言うまでもない。 国際金融犯罪による資金調達の可能性 一方で北朝鮮にとっては、もはや中国の経済制裁も効果がなくなりつつあるのではないかという指摘もなされるようになってきた。それは北朝鮮が「金融犯罪」によってミサイル開発やテロ工作の資金調達を行っている可能性があるからである。 昨年2月、バングラデシュ中央銀行がサイバー攻撃に遭い、8100万ドル(約92億円)が盗まれるという事件が発生した。当初は、犯罪組織による国際金融犯罪だと思われたが、今年5月10日、米国の情報セキュリティー会社「シマンテック」の上級ディレクター、ジェフ・グリーン氏が、連邦議会上院の国土安全保障委員会で開かれた公聴会で、「北朝鮮がバングラデシュ中央銀行にサイバー攻撃を仕掛け、8100万ドルを盗み取っていた」と証言した。また、同様の被害はベトナムなど30カ国以上で確認されており、グリーン氏は北朝鮮がバングラデシュ以外でも「銀行を攻撃している」との見解を示した。シマンテックは、3年前に北朝鮮がソニー・ピクチャーズエンタテインメントにサイバー攻撃を行ったものと同じ有害なコードがバングラデシュの銀行での攻撃に使われたと指摘している。 こうした状況を見ると、中国がようやく経済制裁に動いたことは、確かに既に時遅しかもしれない。北朝鮮は核ミサイルを開発するための資金調達を既に終えているか、新たな資金調達方法を得ている可能性があるのだ。 しかしだからといって、今から経済制裁をやめるべきだということではなく、多方面における、かつ国際社会全体でより一層協力をした対策が必要であるということである。とりわけ先に議論になった「国際組織犯罪防止条約」などに基づき、加盟国と協力して国際金融犯罪の取締りを強化するなどの対策が必要であろう。 強硬路線が北朝鮮の譲歩を引き出したという現実 米国はこれまで、20年以上にも渡って「戦略的忍耐」とも呼ばれる、かなり譲歩した政策を取ってきた。例えば、1994年に北朝鮮と結んだ「米朝枠組み合意」は、北朝鮮に核開発を諦めさせる代わりに、日韓が費用を分担して軽水炉を建設し、完成まで重油も提供する合意だった(日韓が費用を分担する当該枠組みは、それはそれで別の問題がある)。 しかし、そこまで譲歩しても、こうした「戦略的忍耐」と呼ばれる甘い北朝鮮政策は、全く意味のないものであった。北朝鮮はその後も核開発を続け、国際原子力機関(IAEA)の査察を受け入れないどころか、IAEAから脱退し、合意は水泡に帰した。北朝鮮には、譲歩や甘い政策は意味をなさないということが、この20年で証明されたと言って良い。 一方、今回のトランプの強い言動は、そうした北朝鮮から「譲歩」を引き出しつつある。事実、トランプ大統領の「炎と怒り」発言を受けて、北朝鮮の金正恩は「米国の行動や態度をしばらく見守る」と強硬路線を換え、グアムへのミサイル攻撃を見合わせる選択をしたことが既に報じられている。そうした金正恩の「譲歩」を受けて、トランプ大統領も今度は「金正恩委員長は非常に賢明で、理にかなった判断を下した」とし、「別の選択をしていれば、壊滅的な結果をもたらしていたし、到底容認できなかった」とコメントした。 また、8月21日から始まった米韓軍事演習に関して、当初北朝鮮は「我慢にも限界がる」とし「予測や想像が不可能な無慈悲の物理的行動をとる」と軍事的措置を仄めかしていたが、現在のところ北朝鮮が取った行動は、「長中距離弾道ミサイル発射」ではなく、「短距離ミサイル発射」でもなく、「3発のロケット発射」で、しかもグアムではなく日本海に撃ったものであり、いずれも失敗だとの分析だ。また今回の「飛翔体」の発射は「弾道ミサイル」ではないので「安保理決議違反」でもない。つまり北朝鮮は、国内の不満を解消しつつ、米国を刺激しないように最大限の注意を払って行動していると言える。こうした行動からも、やはり米国の強い言動が、金正恩の「譲歩」を引き出していると言って良い。 しかし一方で、北朝鮮が核ミサイル開発を断念したわけではない。そしてトランプ大統領は、北朝鮮が更なる核ミサイルの開発を辞めなければ、軍事行動も辞さない構えを崩しておらず、事態はいつでもエスカレートする可能性があるのは事実だ。 北朝鮮が核ミサイルを開発し、量産する体制を整えれば、もはやどこの国も手出しできなくなる。そして、核ミサイルが北朝鮮を通じて、他国やテロリストなどに拡散する可能性もある。こうした状況を打破することは、まさに日本を含めた国際社会の喫緊の課題だ。そしてそうした事態を打開することができるのは、国際社会の北朝鮮に対する「強い言動」だということが、これまでの北朝鮮を見ると明らかだろう。 「外交のソースは軍事と援助」 国際政治学では「外交のソースは軍事と援助しかない」と言われる。確かに歴史上は、理想や道義が他国の賛同を集め行動を変えることもあるが、往々にして自国の有利なように外交を展開しようとしたら、軍事力という「ムチ」によるか、援助という「アメ」を与えることが最も効果的で現実的だという考え方である。これまでの行動を見ると、確かに北朝鮮はまさに、軍事か援助でしか動かない国だと言える。 北朝鮮が「譲歩」や「謝罪」をした過去の事例を見ても、そのことは明らかだ。例えば、2002年北朝鮮金正日が日本人拉致を認め謝罪し、2004年に8人の拉致被害者が帰国した際、同時に当時の小泉純一郎首相から、人道支援として25万トンの食糧支援と1000万ドルの医療支援が表明された。どう考えても、経済支援が拉致を認め謝罪したことと無関係ではない。 また大前提となる国際情勢として、拉致を認め謝罪した2002年という年は、2001年の「9.11」を受け、テロとの戦いを宣言した米国が、イラク・イランと並べて北朝鮮を「ならず者国家」として制裁を加える旨宣言していた時期であり、米朝関係の悪化という背景も日朝接近の原因となったことは言うまでもない。つまり拉致被害者の帰国は、「軍事と援助(アメとムチ)」の結果であったと言えるのである。 また最近では、2015年8月、南北朝鮮が対立する軍事境界線を境界線とした非武装地帯で地雷が爆発して韓国軍兵士が負傷した事件において、北朝鮮を批判する韓国国内の世論の拡大に押され、韓国政府が北朝鮮に謝罪と責任者の厳重処分を強く求め、それがないと「政府は必要な措置を講じる」とまで述べると、北朝鮮は「遺憾の意」を表明し、事実上謝罪した。 今回、トランプ大統領の強い言動で譲歩したところを見ても、結局のところ北朝鮮は、対話による説得では無く、軍事的圧力などの強い言動でしか譲歩しないことが分かる。 「外交のソースは軍事と援助」という歴史的な外交の現実を踏まえて、経済援助で効果がないなら軍事的な行動も視野に入れることを日本も考えられるように今後の安全保障体制の整備が必要だろう。拉致問題を見てもそのことは明らかだと私は考える。 迎撃ミサイルシステムの課題と限界 日本はこれまで北朝鮮などのミサイル攻撃に備え、迎撃ミサイル(ミサイルディフェンス:MD)の配備に力を入れてきた。防衛省の予算は5年連続の倍額要求だが、それはミサイル防衛の増強に力を入れてきたことによる。 現在、日本のミサイル防衛システムは、イージス艦に搭載した海上配備型迎撃ミサイル(SM3:高度100キロ以上の大気圏外で迎撃する)と、地上配備型の地対空誘導弾パトリオット(PAC3:高度十数キロの大気圏内で撃ち落とす)の二段構えをとっている。 しかし、北朝鮮がここ最近、ミサイル技術を進展させたことにより、日本の迎撃システムの無力化が指摘されている。例えば、北朝鮮は最近移動式発射台から前兆なくミサイルを撃つため、兆候を把握しにくくなっていること(しかも10分以内に着弾する)、そして、北朝鮮がミサイルを通常の軌道よりも高く上げて近くに落とす撃ち方(「ロフテッド軌道」と呼ばれ、高く上がった分だけ落下速度が増し、今のシステムでは迎撃は難しくなると言われる)を取るようになったことなどである。また、そういったミサイルでなくとも量産し、一度に撃たれた場合でも、対応が非常に困難となる。 当然日本もこれに合わせて、通常よりも高い機動で飛来するミサイルに対応する海上配備型迎撃ミサイル「SMブロック2A」やPAC3の防護範囲を2倍に広げる改良型、そして最新鋭の地上配備型迎撃システム「終末高高度防衛(THAAD)ミサイル」の取得といった迎撃システム向上に力を入れているが、大事なことは、米国に払う武器の購入費も膨大で、また、どれだけミサイル防衛の強化を行っても、北朝鮮が対策を講じるため「イタチゴッコ」になっているということだ。つまり、ミサイル防衛にも限界があるということである。 米国が20年以上北朝鮮に譲歩する政策を取ってきたことは既に述べたが、これは北朝鮮の存在により、日韓が在留米軍を受け入れ、有事を想定し迎撃ミサイルなど高額な兵器を購入するなど、米国にとって利益を産む状況であったからとの指摘がある。米国にとって北朝鮮が直接的な驚異になら無いのであれば、「必要悪」として存在させていた方が、国益にかなうというものだ。残念ながら、日本にとってはMD構想を続ける限り、非常高額なミサイルを更新し続けなければならないため、米国に膨大な費用を支払い続けなければならない(これはまた別の問題だが)。 「敵基地攻撃能力」を持たないと、防衛も外交も出来ない そこで、これらの問題を解決する方法が、「敵基地攻撃能力」の保有である。 今月4日、小野寺五典新防衛大臣が、「敵基地攻撃能力」の保有について前向きな見解を示した一方、6日には、安倍総理は「現時点で具体的な検討を行う予定はない」と述べたことが報道された。しかし、これまでも述べてきたように、日本が「敵基地攻撃能力」を持つことは、もはや必要不可欠であると私は考えている。 これまでの政府見解でも「攻撃を防ぐのにやむを得ない必要最小限度の措置として発射基地をたたくことは自衛の範囲」となっている。つまり「敵基地攻撃能力」をもつことは憲法上認められているということであり、法的に問題はない。日本国民を守る決意があるなら、この「敵基地攻撃能力」を可能な限り早く整備すべきだと私は考える。 ここまで、核ミサイル問題ばかり述べてきたが、日本には北朝鮮との関係で長年悩んできた「拉致��題」がある。これまでどれだけ話し合おうと、経済支援を表明しようと、「対話と圧力」と称して経済制裁を加えようと一向に進展しなかった。それは、端的に言って、日本が軍事的に全く脅威ではないからである。一方で米国に固執し、米国の言動に左右されるのは、米国が北朝鮮にとって軍事的に最大の脅威となりうるからだ。 8月10日、ロシアが北方領土で1000人以上の兵士が参加する軍事演習を開始したと発表した。択捉島と国後島の演習場で実施しているもようだ。北朝鮮の脅威を理由に、北東アジアでの軍事力を強化する米国を牽制する狙いだと報じられているが、ここでも日本は配慮すらされていない。北方領土で共同経済活動を行い両国の信頼関係を築こうとしている矢先に、である。ロシアにとっても注視すべき最大の相手は、決して日本ではなく米国だということを意味している。 良いか悪いかの価値判断は別として、現実主義的に考え、どう考えても日本の外交防衛体制を強化するために、「敵基地攻撃能力」保有の議論を具体的に始めるべきだ。 武藤貴也衆議院議員ブログより
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