【十番稲荷神社〜東京】かえるさんと七福神さま
ゲコゲコ。「かえるさん」がお出迎え。
はじめは防火、やけどの信仰だったそうですが、今は「無事に帰る」とも言われています。
麻布十番駅から森美術館に向かう途中で出会ったお社。環状3号線沿い。
この辺りは古い年代もののビルが多く、長く続いているらしい小売店も多い。昭和時代の懐かしい雰囲気である。
そんな土地柄だから、小さな神社。歩道から急な階段を登ればすぐ拝殿。お賽銭を入れて参拝。
御祭神は、
・倉稲魂命(ウカノミタマノオオミカミ)
・日本武尊(ヤマトタケルノミコト)
・宗像三女神 市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)
田心姫命(タギリヒメノミコト)
湍津姫命(タギツヒメノミコト)
ウカノミタマは、商売の神様でもあります。麻布十番界隈の商売を見守ってくださっているのでしょう。
階段を降りて右側には「かえるさん」の像。左には七福神さまの面々。
近所に住んでいると思われる女性が、ラフな格好につっかけ姿に白いトイプードルを抱いて参拝中だった。お参りが日常生活の一部になっているようです。
お参りして清々しくなったところで、六本木ヒルズの高層ビル群を目指すのでした。
(2019年10月20日 参拝)
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上り/下り
自宅で本の整理をしていたところ、だいぶ前に購入した県民性に関する本が出てきました(ただし、冒頭の画像は拾いものです)。現在は、本屋さんを覗いてみれば各県ごとにと言っても過言ではないほどに、県民性を扱った書籍がたくさんあります。テレビのバラエティ番組などの影響もあるのだろうと思いますが、それだけ興味・関心を持つ人が増えているのは確かなのでしょう。
冒頭の本は、個人的にひとつの疑問を解決してくれた書籍です。
学生時代、古地図を開いて関東地方を見ていたところ、千葉県北部が下総、その南の房総半島北部が上総と記載されていました。恥ずかしながら歴史に疎かった当時の私には、これがよく判っていませんでした。通常、”上”や”下”とは、都(明治以後なら東京、明治以前なら京都)を基準にして、都に近い側を上、遠い方を下とします(電車や高速道路でいうところの”上り”と”下り”が東京を基準にしてるように)。
そうであるならば、旧東海道を思い浮かべてみても、当時の京都に近いのは千葉県の北部、すなわち房総半島の上側のはずなのに、房総半島の南側が”上”?…と思ったものの、不勉強で歴史に疎く、興味もあまり持っていなかった当時の私は、それ以上深く考えることもなく終わりました。その答えが書いてあった本の一つが、冒頭の書籍です。
ところで、都を基準とした”上”と”下”について、前述のとおり、現代でも鉄道や高速道路などでも目にする表現であることは、皆さんもご存じと思います。つい先日のお盆期間に恒例の高速道路渋滞情報で、東名高速の「東京方面上り」といったテロップが出されたり、東海道新幹線の駅からのニュース中継で「下りの博多方面」と表現されたり、といった具合です。
※画像引用元(PDFファイル)
旧街道宿場町の現状と街なか再生事例について
平成25年3月
公益社団法人 全国市街地再開発協会
市街地再開発研究所
http://www.uraja.or.jp/town/research/doc/kyukaidou.pdf
都といえば、明治以前は京都、明治以後なら東京と多くの人がイメージすると思います。道路の場合は、東京日本橋を起点として、”上り”と”下り”が基本的には定義され、鉄道においては、東京駅を基点にして定義される…というのは確かにある一方で、例えば、道路でいえば、旧五街道(江戸時代の江戸・日本橋を起点に伸びる東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道の五つ)は、明治以前の江戸を起点にしていつつ、上り・下りでいえば京都方面が上りになるわけで、行政上の都合と慣例的な扱いの2面性があるといえるのでしょう。
その一例が、鉄道におけるJR塩尻駅での「上り」と「下り」の取り扱いです。JR塩尻駅は、東京方面と名古屋方面それぞれへ列車を運行しています。そして、上述の定義に従うならは、名古屋→塩尻は「上り」となるはずですが、運行の都合上、「下り」とされています。たとえば下記サイトから一部抜粋してみます。
※画像引用元
電車の「上り」「下り」はどう決まる?
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1804/25/news044.html
またJR中央本線も、路線全体としては起点は東京駅、終点は名古屋駅と決められています。しかし、実際には、「東京→塩尻」を下りとする東側と、「名古屋→塩尻」を下りとする西側に分けられ、上りと下りが逆になっています。
西側を管轄するJR東海の時刻表を見ても、名古屋行きの列車が「上り」、名古屋発の列車が「下り」という扱いになっています。これは、名古屋が始発駅のような運行上の役割を果たしていることや、塩尻よりも大都市であること等によると考えられます。
※画像引用元
鉄道、道路の「上り」「下り」はどう決まる? 上下逆転のケースも
https://trafficnews.jp/post/60556
鉄道では多くの場合、路線の起点が東京に近いほうとされています。しかし、東京都と愛知県を結ぶJR中央本線は、『鉄道要覧』(国土交通省鉄道局監修)では名古屋駅が終点とされていますが、塩尻駅(長野県塩尻市)を境に西側の区間では、例外的に名古屋行きが「上り」列車として運行されています。
ところで、冒頭の千葉県房総半島の話に戻ります。
学生時代にあまり気にせず流したまま忘れていた疑問は、その後、冒頭の書籍を読み進む中で、私自身の記憶の表層に再び上ってくることになります。
もともと、下総(しもうさ)、上総(かずさ)と呼ばれていた千葉県北部と房総半島北部。この両方を合わせて「総(ふさ)の国」と呼ばれていました。これが、7世紀後半に「上総(かみつふさ)」と「下総(しもうさ)」に分けられます。もちろん、総の国の”上”と”下”は、都に近い方が”上”とされたのですが、当時の「古東海道」は陸路を取らず、相模国(現在の神奈川県における、川崎市と横浜市を除いた地域に相当)から房総半島まで、現在の東京湾を船で渡っていたのではないかと言われているのだそうです。
※画像引用元
Q3. 古代の東海道と江戸時代の東海道ルートはどう違うのですか?
東海道への誘い
【国土交通省関東地方整備局:横浜国道事務所】
http://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index1/a0103.htm
この古東海道に関連した逸話として、「日本書紀」に、ヤマトタケルノミコト(日本武尊)の一行が相模国走水(現在の横須賀市付近)から上総に船で渡る途中で暴風雨に遭い、海神の怒りを静めるために、日本武尊の妃であるオトタチバナヒメ(弟橘媛)が入水した、というくだりがあります。
※引用元
弟橘媛
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%9F%E6%A9%98%E5%AA%9B#cite_note-4
そこより入り幸でまして、走水海を渡りたまひし時、その渡の神浪を興し、船を廻らして得進み渡りたまはざりき。こにその后、名は弟橘比売命白したまひしく、「妾御子に易りて海の中に入らむ。御子は遣はさえし政遂げて復奏したまふべし」とまをしたまひて、海に入りたまはむとする時に、菅疊八重・皮疊八重・絹疊八重を波の上に敷きて、その上に下りましき。是に其の暴自ら伏ぎて、御船得進みき。ここに其の后歌曰ひまひしく、
さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも
とうたひたまひき。かれ、七日の後、その后の御櫛海辺に依りき。すなわちその櫛を取りて、御陵を作りて治め置きき。
※参考サイト
夫婦愛の女神 オトタチバナヒメ
http://rekishi-memo.net/kofunjidai/ototachibana.html
東国遠征を進めるヤマトタケルの一行は、現在の神奈川県横須賀辺りとされる走水の海に差し掛かった。ここを渡り対岸の房総半島に向かおうと船を進めたのだが、その途中で荒ぶる神の妨害にあって海は大荒れとなっていた。ヤマトタケルの一団は大波に翻弄され、進退が取れなくなってしまった。
・・・・・・
このとき夫に従って乗船していたオトタチバナヒメは、「私が御子の身代わりとなって海に入ります。御子は任務を成し遂げ、天皇にご報告下さい」と申し出ると、その身を荒れ狂う海の中に捧げたのである。オトタチバナヒメの犠牲によって海は再び鎮まり、一行は無事に対岸に上陸する事が出来たのだった。
ヤマトタケルノミコトとオトタチバナヒメの一行が辿ったこのルートが「古東海道」なのだとすれば、上総のほうが都に近かった、ということになります。そして現在の旧東海道のように、古東海道が東京湾を船で渡るのを止め、相模国から下総まで陸路を取るようになったのは、上総と下総が分かれて1世紀ほど後の、771年からのことだと考えられています。
※引用元
図版:相模国の駅路
東海道への誘い
【国土交通省関東地方整備局:横浜国道事務所】
http://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index1/a0103e.htm
も���ひとつの東海道、「古代東海道」ってどこを通っていたの?
https://hamarepo.com/story.php?page_no=2&story_id=1912
…といった具合で、冒頭の書籍を初めて読んだ時は、なにか長年の宿題が解決したような感じがしたのを記憶しています。
それにしても、県民性の話は多くの人の耳目を集める話題であることは確かで、愛知県ならば尾張と三河の関係性は、今も昔も変わらず(そして良くも悪くも)話題にされます。このブログの記事を書いている私は青森市の出身ですが、青森県は伝統的に津軽藩(青森県の西側)と南部藩(青森県の東側)の対立が話題にされます。長野県でいえば、これは多分に地理的な要因が関わっていそうですが北信・中信・南信で様々な文化的な違いが際立ちます。兵庫県などは5つの旧国(摂津・丹波・但馬・播磨・淡路)が合併された形になるわけで、その地域性は果たしてどのようなものなのか。
こう考えていくと、歴史的な経緯を知れば知るほど、県民性はたしかに興味ある話ではある、と思わされます。
オトタチバナヒメ絵馬(上総国二之宮 橘樹神社)
※画像引用元
オトタチバナヒメ
https://blog.goo.ne.jp/seitokudento/e/acc060d96fc96833b753e6eec0763297
(野村)
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木更津、秘数3
木更津という街について語ろう。千葉県は房総半島の中ほどに位置する木更津について。東京から約30キロメートル、千葉市内からも30キロメートルという遠くも近くもない距離にあるこの街を。
この街の地区は元々陸地にあった8つの地区に加えて、「海ほたる」などの人工島の集まりを1つと見なして9つで考えるらしいが、1つの地区になるほど、この島の存在は木更津にとって大きい。「海ほたる」は川崎から木更津を結ぶ東京湾アクアラインの途上にあるパーキングエリア「木更津人工島」の通称だが、この東京湾アクアラインの開通と、近年は三井アウトレットパーク木更津の登場によって街への交流人口が増えている。とはいえ一昔前はアクアラインのストロー現象によって人口が都心に流出し、街が荒んでいたこともまた事実である。
木更津の荒み具合と言えば、1999年から2003年にかけての東京圏における地価下落率トップに躍り出て(躍り出るものではないが)、街の商店街はシャッターが増え、そごうやマルエツといった大型店舗でさえも撤退を余儀なくされているような状態であった。2001年、地価下落率を急激に落としているさなかに、この木更津を逆手に取って、一躍有名にした人物がいる。それが、宮藤官九郎だ。
彼の『木更津キャッツアイ』は木更津の名前を一躍有名にすることになる。三毛猫をトレードマークにした強盗団「木更津キャッツアイ」と野球団「キャッツアイ」の日常が9イニングの野球のゲームになぞらえて複雑に描かれる。木更津という「何もない」郊外を舞台にしたドラマであるにもかかわらず「木更津現象」と呼ばれるブームまで起こせしめた本作はなぜ木更津を舞台にしていたのだろう。
宇野常寛はゼロ年代のカルチャーを扱いながらその時代の社会を浮き彫りにしようとした『ゼロ年代の想像力』の中でこの作品が描こうとしていたことについて、「なんでもない土地を聖地化」することにあったと語っている。日本全国がドン.キホーテやイオンが立ち並ぶ郊外都市に成り果てていく中で、家族でもなく、国家でもない中間的な組織である野球チーム、強盗チームが何の変哲もない地元を彼らにとって特別な「聖地」に変えていくこと。それは木更津という平板な郊外都市に神聖さを取り戻す行為であったのだと宇野は語る。
でもそれはなぜ木更津でなくてはいけなかったのだろう。当初の案では木更津以外にも「西船橋」や「春日部」といった木更津に負けず劣らない郊外都市が挙げられていたと言われるが、それでも最終的には木更津と言う都市が選び取られた。もしも宇野が語るドラマの主題を念頭に置くならば、それは木更津が「聖地」になるべくしてそうなった因果があったのだろうか。
宮藤官九郎は木更津を目指した。そのずっと前、1960年にもある男が木更津を目指していた。丹下健三だ。
東京計画1960の図面(1)
戦後日本を代表する建築家である丹下健三が1960年の元旦に発表した『東京計画1960』。東京湾上に海上都市を作るというこの大胆な計画は中央に位置する2本の道路を動物の背骨に見立て、そこから枝葉のようにそれぞれの道路が延ばされていくというもの。そして東京から延ばされたその背骨たる2本の道路が向かう先こそ、他ならぬ木更津だった。
宮藤官九郎が木更津を「聖地」にしようとしたように、丹下もまた木更津を聖地にしようとした。なぜか。それは彼の建築家としての人生を追えば驚くほど鮮明にその理由が見えてくる。
「東京計画1960」を考えるために丹下が設計したその他の建築を参照してみたいのだが、彼は1950年代に広島平和記念公園の設計、それから代々木の国立代々木競技場、そして新宿の新東京都庁舎を手掛けている。これらは全てが極めて象徴的な構造をしていて、例えば広島の平和記念公園はフォルマリスティックな軸線構造で、平和記念資料館から軸線で真っ直ぐ見ると原爆ドームが見えるようになっている。代々木競技場もまた船形埴輪の影響を受けていて、新東京都庁舎に関しては中世のゴシック建築さえ彷彿とさせるような象徴性の高さを持っているが、これはなぜなのだろう。
ここで丹下の象徴性のありかを考えるにはレヴィ・ストロースがある象徴的建築について語っていること(「Hourglass Configurations」)が手掛かりになる。彼はポリネシアの民族であるコギ族の小屋とフィジーの寺院、それから伊勢神宮の建築スタイルの分析を行う中で、そうした建築物の中に見られる神話的構造について指摘しているが、とりあえずはその3つの建築を見てみよう。注目すべきはその上部構造である。
コギ族の小屋(2)
フィジーの寺院(3)
伊勢神宮(4)
お分かりいただけただろうか。これらの建築物全てについてレヴィは「その空間上部がツイストしていて、内部空間が外部空間に出て、内部空間と外部空間がねじれるようにして繫がっている」と言うのである。いったいどういうことか。
コギ族の小屋は確かに見た目からも捻れていることが分かるが、一方でフィジーの小屋や伊勢神宮はその上部に付けられた象徴的な装飾が、母親の母胎を表しているのであって、建築的装飾によって母親の胎内という見えない内部が外部に向かって開かれるということを表しているというのである。こうした建築空間の形成方法についてレヴィは、それが神話的思考の表れであると述べる。この神話的思考とは自然に代表される神と、人間が断ち切られることなくつながっている状態であって、出産という神的で不可視の行為の場が、人間の作り出す建築に形として現れ出るという点においてつながっており、神話的であるというのだ。
レヴィはこうした建築構造を「ツイスト」という比喩を使って表したが、この内部と外部(人間と神)がねじれながらその姿を現すという状態はメビウスの輪の結節点であるという風にも言いうることが出来るだろう。メビウスの輪では表と裏が縁を乗り越えずにつながっていて、表を滑走していたはずが、気づけば裏側にいる。表と裏がねじれ、その境界が反転する結節点をこそこうした建築たちは上部に備え付けるのであり、それによって人間界にいるつもりが気付けば神の世界に迷い込んでしまっているような、そうした建築が建てられていたのである。
さて、丹下である。レヴィは丹下の建築を喜んで見つめただろう。つまり丹下の建築は伊勢神宮とかコギ族の建物と一緒で、間違いなく神に向かって開かれている神話的構造をしているのだ。
実際に見てみると、東京都庁舎の2本の尖塔はダイナミズムの表現を作り出すためにその尖塔自体を少しずつねじらせて点に向かって伸びているのだが、図らずもこのねじり(=ツイスト)が古代的建築の相貌を作り出している。そして代々木体育館の建築もまた極めて分かりやすく建物全体にひねりが加えられており、それぞれの頂点はまさに寺社建築そのもののように見え、船形埴輪のモチーフが形の模倣だけに留まらず、神話的構造に直結していて、スポーツというものが古代には神への捧げものとして行われていたことを直感したかのように神に向かって開かれている。平和記念資料館は、というと一見して全てが水平でどこも捻れてなどいないように見えるのだが、そのピロティ部分は伊勢神宮をモチーフにしたと伝えられており、また中谷礼仁が指摘するようにその吹き抜けがゲートの役割を果たしていて、直線状に原爆ドームが見渡せるようになっているという点において空間の捻れ、つまり慰霊空間という異世界への扉がこの資料館の吹き抜けによって表現されている。
東京都庁(5)
国立代々木競技場(6)
広島平和記念資料館(7)
丹下自身がギリシャ・ローマに赴いた時にヒューマンスケールではなく、神々のスケールで巨大な建築が建てられていることに感動した話は有名だ。その感動が現れ出たのか、丹下は非常に神話的な思考で建築を立てていて、それは彼の建築物すべてに共通して見られる特徴である。そんな神話的思考でもって建築計画を考えていた彼が編み出した都市計画こそ「東京計画1960」なのであって、これは垂直方向に延ばされていた彼の建築的エッセンスを水平方向に引き伸ばしたものに他ならない。
だとすればこの計画された都市がそれまでの丹下の建築のように神に開かれており、その道が向いていた先である木更津が彼の神話的思考の琴線に大いに触れるような、神聖な土地であったと考えるのはごく自然な流れであって、その思考の歩みは宮藤官九郎が木更津を「聖地」化しようとしたこととも何かしらの形でかかわっている。しかしとても残念なことに「東京計画1960」は実際には建てられてはいないわけなのでこの幻の都市がメビウスの輪の結節点としての空間を持っていて、聖地「木更津」へそ���道を伸ばしたのかは分からない。しかし落胆する暇もなく僕たちはこの「東京計画1960」の影響を色濃く受け継ぎながら実際に建ったある一つの道の存在に気が付いてしまうのである。
1つの道。先ほども少し触れた東京湾アクアラインのことだ。この橋もまた木更津を目指すが、でもなぜ?
東京湾アクアライン鳥瞰(8)
その理由の一つに、「東京計画1960」があることは誰も指摘してはいないのだけれど、でもそれはほとんど自明のことだと思われる。東京湾アクアラインの事業計画書は1961年初めて当時の建設省に提出されているから、丹下のこの計画に影響を受けていることは十分に考えられる。でなければ当時は内房総の数ある漁村の一つに過ぎなかった木更津がこんな国家の威信をかけた大プロジェクトの一翼を担う都市に抜粋されることはなかっただろう。
国家の威信をかけた大プロジェクト��んて大それたことを言ってしま��たけれど、でも1961年に計画されたこのプロジェクトは30年以上たってようやく実現にこぎつけた、世界でも稀に見る大規模な工事だったのである。そんな大規模建造物が丹下健三という個人の戯れともいえる都市計画のプランを踏襲しているなんていうことは馬鹿げたことに思えるかもしれないが、この道はよく調べていけばよく調べるほど、不思議なほど丹下が目指したところの建築物に類似しているということが分かってくるのだ。
『東京湾をつなぐ』という本には極めて詳しくこのアクアラインの工事の様子が書かれていて、それによれば川崎から木更津まで、従来100キロメートルだった距離を、30キロメートルという道のりで実現するためには、この道をトンネルだけで作っても、橋だけでも作っても危険であったそうだ。トンネルだけで作ればその水圧に耐えられず、橋だけで作れば近くにあった空港との兼ね合いで飛行機との衝突という危険性が増す。30キロメートルという長さがトンネルと橋梁を折衷させるという妙案を提出させた。
日本で初めてアクアラインはトンネルと橋が折衷された様式としてその生を授けられることになり、そのケンタウロス的な道はそれ以後も日本において生み出されていない。日本で唯一のこの構造は海中と空を一筋の道でつなぎ、そこを通ると海中にいた私たちはいつのまにか空中へと放り出されていて、それはまるでメビウスの輪をなぞっているかのようだ。メビウスの輪をなぞるように私たちは流線型のフォルムをした道に身を任せ、木更津と言う土地に向かっていこうとしている。
そしてそのメビウスの輪の結節点、つまり海から空中へ行かんとする場所に木更津人工島、通称「海ほたる」は建っている。丹下がメビウスの輪の結節点を必ずその建築に入れ込んだように、「海ほたる」はそれ自体がメビウスの輪の結節点にあって海と空中を繋いでいる。海の底は黄泉の国につながっていて、イザナミはそこでイザナキと永遠の別れを果たすことになったが、そんな海の世界と地上が結ばれる、その異界と人間が邂逅する地点にこそこの島はたたずんでいる。
ところで「海ほたる」という名称は一般公募から決まったものらしく、海の中で島が光るさまを表したらしい。しかし海の中で光る生物というのはたくさんいるはずで、例えばチョウチンアンコウしかり、深海生物は暗黒の海底を微小な光で照らしている。「海ほたる」が取り立てて選ばれたのは、ただ海の中で光り、そして語感が可愛いからなのだろうか。
海ほたるを生物学的に調べてみるとこの生物はどの辞典にも体調3mmと書いてあって、進化生物学において古生物と原生生物を繋ぐ生物、つまり生きた化石として知られていると記載されている。これは重要な点で、海ほたるという生物は古生物と原生生物とのパイプ役になっているわけで、特に実験などによく用いられる類の生物なのである。それはこの生物の体長に依っていて、大きすぎるわけでもなく、小さすぎるわけでもないので、採集がしやすく、かつ観察もしやすいのだという。
ここに太古の時代という神しか知り得ないものと、現在を取り結ぶ結節点としての海ほたるがいる。それは私たちが知ることの出来ぬ太古の生物への扉を、体長3mmというサイズ感によって少しだけ開いてくれているようなものであって、それ自身は原生生物と古生物のちょうど中間に位置するような、そんな不思議な生物。木更津という不思議な土地の魔力に引き寄せられるようにして、海ほたるはメビウスの輪の結節点としてそう名づけられたに違いないのである。
さらに指摘すべきはそれがまた地質学的にも結節点を形成しているということである。つまり、もっとも根本的な理由で、なぜ川崎から木更津というポイントが選ばれたのかというその理由にもまた、結節点というキーワードが絡んでくるのである。それを調べるために今度は地理学の見聞を借りることにして、貝塚爽平の『東京の自然史』から「東京湾の生い立ち」という章を見てみることにしよう。
東京湾地層分布の図(9)
これは東京湾の地層分布の模式図だが、ここで注目してほしいのは黒い矢印の部分だ。これは地層年代で言うと、新第三紀から始まって現在の関東平野、及び東京湾を作り出したいくつかの沈降運動の中心地となる部分を指し示しているのだが、それが指し示すポイントの一つがほぼ海ほたるの位置に重なるのだ。一体何の因果か、それは地球の内部、つまり僕たちが普段見ることが出来ない世界と地表との境目の上にあり、そのポイントは地球内部の運動エネルギーをダイナミックな形で地表に伝えてきたのである。
このようにあらゆる面での結節点に海ほたるはあって、それは丹下が「東京計画1960」で果たそうとした夢を叶えたともいえる。海ほたるは、東京湾の真ん中にあるにもかかわらず、木更津市の所有するところになっているが、これは宮藤官九郎や丹下健三が木更津に神聖さを求めたことと大きく関係があって、神聖かもしれない土地、木更津をめぐるある一局面を示唆しているのである。木更津に惹きつけられた者たちは、皆そこに神聖さを見出そうとするが、これは何故なのか、更に木更津を調べていくことでここに立ち現れるもっとも根源的な理由が見えてくる。
木更津に向かって作られた「海ほたる」という建物は神に開かれている神話的構造をしているのだが、実際、神話の時代にこの「海ほたる」の道筋をなぞるかのようにしてはるか太古の時代に木更津へ向かおうとした人物がいる。
ワカタケルノミコトだ。
それは神話的構造と言うよりも、神話そのもののなかに現れる古代のアクアラインをなぞっている。
いまはむかし、房総半島にいた敵を制圧するためにヤマトタケルノミコトはその本拠地に乗り込もうとするが、その途上、現在の東京湾上で大波に遭い、船もろとも海へ沈んでしまいそうになる。その窮地を助けたのがワカタケルの妻であったオトタチバナノヒメであって彼女は自らの身を犠牲にしてワカタケルを助けたのである。ワカタケルはこの救出の後に偶然にもある漁村に辿り着き、オトタチバナノヒメを想って、
君さらず 袖しが浦に立つ波の その面影をみるぞ悲しき
と詠むのである。
かくしてこの土地は、ワカタケルによって朗詠されたこの歌の最初の一句から、「キミサラズ」と命名されることになった。この名前から「ミ」が抜けてのちの「キサラズ」になったとされている。ワカタケルの朗詠こそが「木更津」という土地の名前を決めてしまったことは、いまだに木更津市民の心を打っているらしく、この神話を取り除いては木更津のことを考えることは出来ない、と『木更津町史』に記載されているほどであって、確かにこのドラマティックな出来事は、木更津のその後の運命を大きく変えてしまうことになるのであるが、その裏には僕たちにとって見過ごすことの出来ないあまりにも重要な事態が発生していたということにまだ誰も気づいていない。
僕たちが注目しなければいけないのは、ワカタケルが難破しそうになったことでもなく、オトタチバナノヒメがその身を犠牲にしたことでもなく、「キミサラズ」が「キサラズ」になってしまったことなのである。そのさなかにこの街が体験したのは、「ミ」という音の喪失である。それは現代の僕たちからすればあまりにも些細で取るに足らないことであって、考えもつかないことかもしれないが、古代人の感覚から言えばそれはあまりにも大きな損失であって、それは「ミ」という文字が持つ神秘的なパワーに依っている。
「ミ」。何とも深遠で神秘的なパワーをその中に秘める「ミ」。古代人はこの神聖な文字の力をよく理解していたようで、神格の尊称にはこの「ミ」(御)という文字が駆り出された。
それだけでない。「ミ」という文字は漢字として巫女の「巫」、母なる生命の源である「海」、そして神聖数字である「三」といった同音異義語として様々な使われ方をしながら神なき現代においても、そのパワーを潜在させていて、僕たちはこの「ミ」という文字の隠れた力にひれ伏さざるを得ない。しかし木更津はその「ミ」によって得ることの出来た神聖さを、いつのまにか失ってしまったのである。
しかし勘の良い人はもう気付かれたかもしれない。そう、木更津をめぐる事象の背後には常にこの「ミ」とそれが呼び覚ます神聖さを取り戻そうという、まさに「ミ」のレコンキスタ運動があったことに。木更津は常にその失ってしまった「ミ」とそれを取り戻そうという力のさなかに存在している。
どういうことか。僕たちは今まで木更津に何かの力によって誘引されてきた人々や事象について考えてきた。なぜ、宮藤官九郎は郊外都市の代表として木更津を舞台に選んだのか、なぜ丹下健三は東京計画1960を木更津に向けて伸ばそうとしたのか、なぜ海ほたるはメビウスの輪の結節点にあって、木更津市の所有するところになっているのか。
その答えはいとも簡単で、全て「ミ」(=「三」)が神聖さを引き寄せたのである。海ほたるは、30キロメートルという長さからトンネルと橋が折衷され、新第三紀から発生した地層の沈降運動の中心地点の上に位置し、3mmという体長が海ほたるという名称をもたらし、三という数字をその名前を持つ丹下健三は神と人間の橋渡しをするというその建築志向から木更津に引き寄せられ、三×三という「ミ」の重層的な重なりをその名前に持つ宮藤官九郎は9人で行う9イニング制のゲームであるところの野球を用いながら木更津を舞台にしてそこを文字通り「聖地」へ変えるという試みに身を投じた。全ては「ミ」が神聖なる土地としての木更津を呼び寄せるのであって、彼らは「ミ」をその手中に携えて聖地としての木更津を奪還しようとする東京湾上のレコンキスト達なのだ。
大いなる「ミ」の力。それは「木更津」という街に多くのレコンキスト達を呼び寄せて、その運命をかくも大きく変えてしまったようだ。ワカタケルがもし「君去らず……」の歌を詠んでいなかったら……。
全てはワカタケルの朗詠、「ミ」という言葉の力に始まる。それは1300年代には木佐良津という4文字になり、神聖さを失ってしまった。木更津が「木更津」という3文字で表されるようになったのがいつ頃であるのか知るものはいないが、ここにもまたひそやかに「ミ」の宣言が成されている。
「ミ」というものがただの文字であることをやめて、自律的に意味を持ってしまうこと。神聖文字としての「ミ」は、ある単語を形成するただの音などでは決してない。「ミ」は何者かに奉仕するだけの存在ではなく、むしろそこに奉仕しているかのように見せかけてその裏でとんでもなく重要なことをさらりと行ってしまうトリックスターであって、その秘密裡の働きによってレコンキスト達は駆動される。
「ミ」は言葉を表すための材料ではない。ハイデガーはかつて「言葉は存在の家である」と書いたそうだが、彼は僕たちのように現実に存在している存在者の本質である存在を表すための道具として言葉を捉えていたらしい。言葉を道具として使い続けることによって本質に到達すると考えたのだが、これは僕たちが今まで考えてきたことからすれば少しばかりおかしいと分かるだろう。
この命題において、もっともおかしく感じるのは、その形容に「家」という土台ががっちりとした、静態的な状態が使われていることである。言葉は存在と言う得体の知れないもののために奉仕して、その静態的な状態におけるパーツの一つにしかならないのだろうか。いや、そんなことはないはずである。
そもそも「君去らず……」の歌は木更津の成り立ちを説明するための歌で、いわば言葉という道具によって木更津を説明しようとするものであったはずな���に、その歌のただの一音である「ミ」が自律的に意味を持ち、あろうことか説明するべき木更津を分けの分からない方向へ変化させてしまったのである。だから「言葉は存在の家」なのではなく、その説明するべき存在さえも突き動かしてしまうという点においては「言葉は存在の乗り物」だと形容した方が、その動態的な状態を表すのに適当である。言葉によって存在などというものは、分けの分からない方向に突き進んでしまい、気づけばとんでもない地点にいてしまったりする。
もちろんこんな考え方は極めて東洋的な考え方だと言わざるを得ない。そもそも東洋思考では、口に出したことが本当に起こってしまうというような「言霊思想」があったぐらいで、ヤマトタケルも『古事記』や『日本書紀』の中で度々、言霊思想に基づいた「言挙げ」なんて儀礼を行ってるぐらいなのだから、言葉がその中に潜在的に秘めている力について東洋人はとてつもなく敏感でそれに絶えず反応してきたのだろう。木更津をめぐるレコンキスト達だってそうに違いない。
ハイデガー自身、この「言葉は存在の家である」という命題について、かくいう日本人との対話の中でこんなことを言う。
私は、実にぎこちないながら、言語を存在の家と名づけていました。人間が自分の言語によって存在の呼び求めの中に住まうなら、私たちヨーロッパ人は、どうやら東アジアの人間とは全く別の家に住んでいることになります。違う。ハイデガーもまたこの思考の違いに気が付いていたようだが、上手く言語化することが出来なかったのだろう。東アジア人は違う家に住んでいるのではなく、乗り物に乗っているのだ。
「言語は存在の家である」という命題はもう少し東洋的な思想によって考え直されねばならない。東洋思想では西洋思想がロジカルに考えてきたことを凌駕する出来事がいつも起こっている。ハイデガーが西洋的な論理性を突き詰める形で存在を考えてきたことに対して異論はないと思うが、その論理をするりとかわしてしまう「ミ」のような存在がいることを忘れてはならない。
湾上のレコンキスト達。この甘美な響き。ワカタケルの朗詠によって打ち立てられた「ミ」とその喪失。
これからも木更津はこの「ミ」の喪失によって、何かよくわからないものに変貌していくだろう。そこで言葉はもはや「木更津」の由来を説明してはくれない。ただ湾上のレコンキスト達を駆動し木更津を変貌させ、乗り物に乗っているかの如く私たちを見たこともないような世界へ連れて行ってくれるだけなのである。
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こんな感じで文章書いてました。図番については別途投稿するのでそちらを参照してください。
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