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#ブラウン管テレビ
taketa-portfolio · 18 days
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【ノイズ】
ブラウン管テレビに映像が映し出されているのを描いてみたかったので。
作品の転載・使用はお断りしております。
※Reproduction and use of the work is prohibited.
・完成日 2024/04
・制作時間 120時間
・使用ソフト CLIPSTUDIOPAINT
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postpunkindustrial · 9 months
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NICOS!
CRT-TV Drums. The sound is produced by catching static electricity from a CRT with the hands and sending electrical signals through the body to a guitar amplifier📺
ブラウン管ドラム。ブラウン管テレビの静電気を手でキャッチして身体を通して電気信号をギターアンプに送ることで音を鳴らす📺
Played by Ei Wada
Created by Ei Wada x Rinichi Washimi x Nicos Orchest-Lab
NEW SINGLE / VIDEO ALBUM
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筆者が「水戸黄門効果」と名付けた現象がある。
それは、TBS系列で放送された時代劇「水戸黄門」において、1997年10月に放送を終えた第25部までは16mmフィルムで撮影されていたが、1998年2月から始まった第26部からは59.94iのVTR撮影となった。すると、それまでと同じセットや衣装などが用いられているにも係わらず、視聴者からの「安っぽくなった」といった投書が新聞に掲載されたのだ。
当時この質感の差が生じる理由は、テレビ映像は電気信号、フィルムは化学変化という、メディアの記録方法による質感の違いだと考えられていた(「水戸黄門」には当てはまらないが、ブラウン管の透過光、スクリーンの反射光���違いという説もあった)。
しかし、1992~3年にフジテレビの深夜枠で放送されたテレビドラマ『La cuisine』において、岩井俊二が監督を務めた「オムレツ」「GHOST SOUP」「FRIED DRAGON FISH」といった作品で、半分のフィールド情報を捨てて30fpsにするという手法が用いられる。
結果は衝撃的で、てっきり筆者は16mmフィルム撮影だと思い込んでしまったほどだった。そしてこの手法は、「フレームレートを落としただけで、主観的にフィルム風のリッチな質感が得られる」と業界で話題になり、競うように多くの映像クリエーターが真似をした。
このあたりの感覚は、テレビ系のエンジニアには理解できなかったようである。筆者がその現象を、ある技術系の学会で報告した時、偉い人から「フレームレートは高い方が良いに決まってるだろ! 低い方がリッチに見えるなんて、そんなバカなことがあるか!」と怒られた記憶がある。
しかし実際にフレームレートを落とすことで、過剰なリアリティがなくなって造り物っぽさが感じられなくなる。「水戸黄門」を観ていた一般人は、それが記録メディアの変更によるフレームレートの違いとは気付かないまでも、質感の違いは敏感に感じ取っていたのだ。
逆に高いフレームレートは、素材感を生々しく認識してしまうため、セットはセットに見え、カツラはカツラに見えるという現象を引き起こす。そのため、視聴者の心理はフィクションの世界に留まれず、現実世界の見え方に近付いてしまうのである。
アバター2はなぜ48コマなのか。HFR映画がもたらす視覚効果とリアリティ - AV Watch
だが、最初は生っぽさに抵抗を感じた観客が、2度目に24fps版の『ホビット』を鑑賞したり、別の3D映画を見た時に、それまで気にしていなかったフィルムジャダーが急に煩わしく思えるようになったと発言していた。
つまり、我々がこれまで24fpsの映像に馴れていただけとも考えられ、DVDで十分だと思っていた人がBlu-rayを体験して後に戻れなくなったように、人間は一度高いスペックを経験すると感じ方が変わってしまうのかもしれない。
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myscrap · 3 months
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(1) Xユーザーのbarrelsake2021Bさん: 「少し寒い時期にスタジオで、夏に発売するビールのCMを撮影をする楓さん #高垣楓 #CM撮影 #ブラウン管テレビ https://t.co/MkSbdylDGM」 / X
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monthly-ambigram · 3 months
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2024-2月号
アンビグラム作家の皆様に同じテーマでアンビグラムを作っていただく「月刊アンビグラム」、主宰のigatoxin(アンビグラム研究室 室長)です。
『アンビグラム』とは「複数の異なる見方を一つの図形にしたもの」であり、逆さにしたり裏返したりしても読めてしまう楽しいカラクリ文字です。詳しくはコチラをご参照ください⇒アンビグラムの作り方/Frog96
◆今月のお題は「レトロ」です◆
今月は参加者の皆様に「レトロ」のお題でアンビグラムを制作していただいております。各参加者が思い描くレトロなものは何でしょうか。ぜひじっくりご覧ください。
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「懐古趣味」 旋回型:きいろいビタ氏
レトロをそのままとらえれば、「Retrospective=懐古趣味」。レトロ文字風にきれいにまとまっています。既存作との違いにも注目してみてください。装飾によりエレガントに仕上がっていますね。
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「懐古趣味」回転重畳型:Σ氏
一見同じ対応付けのように見えますが、字画の差分を重畳型で解決し自然に仕上げています。足し引きの調整が絶妙です。対応付けを読み解いてみてください。
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「レトロゲーム」鏡像型:ヨウヘイ氏
ドット絵にするとレトロ感を感じるのは、実はある程度以上の世代だけなのかも知れません。 ロゴ的にまとまっているのと、ドット表現がぴったりなこともあり、変形していても何となく読めてしまう面白さがありますね。
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「アーケードゲーム」 旋回型:つーさま!氏
同じ形が「アー/ケー/ド/ゲ/ーム」の5とおりに読める力作です。前後の言葉のつながりにより「ケー/ゲ」を振動させているのも面白いです。
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「ブラウン管のレトロなテレビ」 回転型:超階乗氏
ブラウン管のテレビ、今は教科書から知る人も多いでしょうね。 ブラウン管の画像の乱れのような表現が解釈に自由度を持たせているようです。
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「しろくろテレビ/ちゃぶ台」 図地反転型: いとうさとし氏
1950年代のお茶の間の光景ですね。 7文字と4文字で対応付けできてしまうのが神業ですね。文字数の差をどのように吸収しているかに注目してみてみると面白いです。
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「pixel」回転型:繋氏
液晶パネルや電光掲示板なども昔はピクセルがしっかり見えているのが普通でした。 「pi/el」を切り替える共有部分の表現がピクセルにマッチしていて自然ですね。読みやすいです。
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「古びた箱庭の下、広い芒畑が昭和の幻影と馨.辺境が甦る」 鏡像型:ちくわああ氏
文字列生成の大作が仕上がってきました。とにかく解読するのが楽しい作品、すごいです。ぜひじっくり読み解いてみてください。
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「ガリ版」 回転型:lszk氏
謄写版の俗称。昔はテストや学級新聞などもガリ版で刷っていました。 輪郭の角度調節が上手なので、ここまでデフォルメしても容易に読めてしまいます。匠の技です。
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「大正ロマン」 回転型:peanuts氏
大正時代の雰囲気を伝える思潮や文化事象。 既存作とは対応解釈が異なり、余計な線がなくなるように作字している点が優れていますね。作字としてもステキで素晴らしいです。
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「レトロモダン」 図地反転回転型: いとうさとし氏
古いながらも現代的で洗練された意匠。 レトロキネマ風の文字を彷彿とさせるデザインでステキです。「ロ/モ」が裏表にできるのが驚きです。
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「明治モダン」回転型:無限氏
昭和レトロ、大正ロマンときたら明治モダン。 右から左に読むようにデザインすることで対応付けがしっくりくる一石二鳥の解決策です。字形もハイカラでよいですね。
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「セピア色」 振動型:lszk氏
色あせてセピア色になると古さと共にエモさも感じます。 切り替わる字画は一本だけできれいに読みが変わります。素晴らしい発見と表現力です。
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「三丁目の夕日」 鏡像型:kawahar氏
昭和30年代の東京を舞台にしたお話。 影のような表現で斜めになっており純粋な鏡像型アンビグラムとはなっていませんが、この表現が雰囲気と可読性向上につながっていて面白いです。
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「湯沸かし器」振動型:海氏
昭和の台所には湯沸かし器が設置されているものでした。 各文字とも大胆な解釈ですが、確かにそう読めます。「器」の略字を知っているとより読みやすそうです。
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「高度経済成長」 図地反転鏡像型: いとうさとし氏
日本においては1955年頃から1973年頃が高度経済成長期とされます。 さすがの仕上がりです。3組分きれいに対応付けできる言葉を見つけるのも関心です。隙間で調整している部分が気になって文字として読めない人は、薄目でぼんやり見るなどすると読みやすくなるかもしれません。
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「鉄人28号/横山光輝」 回転共存型:兼吉共心堂氏
昭和30年代に描かれた、同時代を舞台にした漫画。 赤字と黄色の縁取りのカラーリングは実際のロゴのうちの一つに似せたものですね。黄色部分をうまく利用して字画あまり部分を処理しています。
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「ティファニーで朝食を」 回転型:.38氏
1958年小説発表、61年オードリー・ヘプバーン主演で映画化。 「朝食」を手掛かりに解読可能なデザインになっていて、「ティファニー」部分の組み方を読み解くのが楽しいです。
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「写ルンです」 鏡像型:douse氏
1986年発売開始、レンズ付きフィルムの先駆け。 「写/す」がピッタリすぎますね。全体的に作字としてステキで、レトロ文字の香りもします。
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「純喫茶」  回転型:螺旋氏
酒類を扱わない純粋な喫茶店のこと。特殊喫茶と区別するため昔は純喫茶と名乗る喫茶店が多かったようです。 随所に思い切った解釈がされていますが、うまい字画配置により読みやすく仕上がっています。レトロ文字風の書体でまとまっていてステキです。
最後に私の作品を。
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「感慨」 旋回型:igatoxin
昔を思うといろいろと感慨深いものがあります。レトロ文字風に仕上げてみました。
お題「レトロ」のアンビグラム祭、いかがでしたでしょうか。昔を感じさせつつ新しい風も感じさせる作品が集まったと思います。
さて次回のお題は「うた」です。カラオケ、歌謡曲、和歌、現代詩、Ado、替え歌、ファルセットなど 参加者が自由にうたというワードから発想 連想してアンビグラムを作ります。
締切は2/29、発行は3/8の予定です。それでは皆様 来月またお会いしましょう。
——————————–index——————————————
2023年 1月{フリー}   2月{TV}        3月{クイズ}        4月{健康}   5月{回文}    6月{本}               7月{神話}   8月{ジャングル} 9月{日本史}     10月{ヒーロー}     11月{ゲーム}         12月{時事}
2024年 1月{フリー}  
※これ以前のindexはこちら→《index:2017年~》
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elebota · 11 months
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ボタンの形_四角・フラット|サイン_三角|ひとこと_ボタンも盤も金属製。ブラウン管テレビを思わせる四辺が膨張した四角ボタンに赤い三角サインという大変珍しいエレボタ。こちらも含め関西でしかお目にかかったことがありません|ばしょ_商業施設@神戸市
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ryotarox · 5 months
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TVAL now(ティーバル ナウ) - テレビ番組リアルタイム視聴率
スイッチメディアが独自開発したテレビ視聴調査機器で収集した世帯視聴率です。放送5分後の視聴率が1分ごとに自動更新されます。※サーバーの負荷等によって表示が遅れる場合がございます。 国内最大規模のテレビ視聴調査パネル(関東: 12,000人、関西: 4,000人、中京: 2,000人)から精度の高い視聴率データを生成しています。
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「独自開発したテレビ視聴調査機器」ってなんだろう。今まではどうしてたか。
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視聴率 - Wikipedia
視聴率の測定は基本的に、モニター世帯に設置されるテレビに接続した専用の機器から得られるデータを基にしている。地域や調査内容によっては、日記式のアンケートによる調査を行っているものもある。 視聴率には、世帯視聴率と個人視聴率がある。かつてテレビは高価な上ブラウン管の影響で大きかったため、一般的な家庭では通常1台のテレビしか所有していなかった。このため、その1台のテレビがどのチャンネルを受信しているかを調べるだけで十分だと考えられ、当時の「視聴率」は「世帯視聴率」を指していた。 1958年には社団法人中央調査社[20]が同じく日記式のアンケートによる調査を年に4回開始し、1959年には年12回(毎月)に拡大した[21]。1961年4月、ニールセンが日本に進出し測定機械による世帯視聴率調査を開始し、1962年12月からはビデオリサーチ社も調査を開始した[22]。当時は測定器を該当する世帯のテレビに取り付け、情報を紙テープに記録するオフラインメータ方式[23]で、調査員が記録テープを回収[24]した後に集計を行っていたため、前週の視聴率が翌週に判明する状態であった[25]。 1977年9月26日、関東地区にてビデオリサーチが開発した「ミノル・メーター」[26][27]を使用し、通信回路(電話回線)を経由して情報を自動回収するオンラインメータ方式[23]による調査を開始したことにより、翌日には視聴率が判明するようになった[24][25]。 長らく、このニールセンとビデオリサーチの2社が日本国内における世帯視聴率を測定していたが2000年3月、ニールセンが日本国内における視聴率調査から撤退し[28]、それ以後は世帯視聴率はビデオリサーチの測定した結果のみが用いられることとなった。 2010年代に入り、スイッチメディア(2013年12月から測定開始)やTVS REGZA[注釈 2](2016年春から測定開始)が視聴率測定に参入している[41][42]。なお、両者共にインターネット経由で視聴率を測定しているため家庭や地域的な事情によりブロードバンド回線に接続していない(または出来ない)世帯は測定の対象外となる。つまり、TVS REGZAの場合は同社製造のテレビのみ測定の対象となるため、TVS REGZA以外で製造されたテレビも測定の対象外となる[43][44]。
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REGZA以外でも、テレビ製造メーカーが測定器をテレビに付けて出荷する発想はなかったのかな。
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UX検定基礎(HCD検®認定):ビジネス講座は 日経ビジネススクール
UX(ユーザーエクスペリエンス)やCX(顧客体験)、体験価値という言葉が特にこの数年、注目を集めているのは、アフターデジタル時代の到来、つまりリアル世界にデジタルが浸透する技術革新によって、ユーザー・顧客との長期的な関係��くりが歴史上かつてないほど重要になっているためです。技術革新によってUXが重要になっていることは、さらに2つの理由に分けられます。 1つ目に、属性データだけでなく「いつどこでどのような行動をしているか」といった行動データが得られるようになったため、時間や状況単位でのユーザー理解・顧客理解ができるようになったため。
UXが注目されてる理由のひとつは、時間や状況単位でのユーザー理解・顧客理解ができるようになったため
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harawata44 · 8 months
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【おっさんホイホイ】駄菓子屋があの頃のオレたちを完全再現したらしい : オレ的ゲーム速報@刃
 ・富田商店
以下転載 https://twitter.com/TomitaShouten/status/1699208651112841596?s=20
富田商店の2階では、懐かしのブラウン管テレビでファミコンが楽しめます!#レトロゲーム #ファミコン
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leomacgivena · 1 year
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柞刈湯葉(いすかり・ゆば)さんはTwitterを使っています:「広告が何を見てもおもしろい。テレビに「いちど調整するだけでよい自動焦点式」とあって何のことかと思いきや、このころは電力供給が不安定で夕方になると電圧が下がるのでブラウン管の焦点がずれて調整が必要だったらしい」
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tamanine · 9 months
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街とその不確かな壁/君たちはどう生きるか/ジブリ・春樹・1984
最初のジブリの記憶は『魔女の宅急便』(1989年)だ。母がカセットテープにダビングした『魔女の宅急便』のサントラを幼稚園の先生に貸していたから、幼稚園の頃に見たのだ。
まだ座席指定の無い映画館に家族で並び、私は映画館の座席で親に渡されたベーコン入りのパンを食べていた。4・5歳の頃の記憶だ。
その夜、私は夢の中で魔女の宅急便をもう一度見た。私は親に、夢でもう一度映画を見たと伝えた。
『おもひでぽろぽろ』(1991年)も映画館で見たが、あまりよく分からなかった。『紅の豚』(1992年)も映画館で見た。帰りにポルコ・ロッソのぬいぐるみを買ってもらい、縫い付けられたプラスチックのサングラスの後ろにビーズで縫い付けられた黒い目があることを確認した。
『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994年)『耳をすませば』(1995年)までは両親と一緒に見たと思う。
父はアニメに近い業界にいたため、エンドロール内に何人かの知人がいたようだった。アニメーターの試験を一度受けたそうだが、他人の絵を描き続けることは気が進まなかったらしい。
家のブラウン管の大きなテレビの台の中にはテレビ放送を録画したVHSテープが並び、ジジやトトロの絵とタイトルを父が書いていた。テレビ放送用にカットされたラピュタやナウシカを私は見ていて、大人になってから初めて見たシーンがいくつかあった。
“家族で映画を見る”という行事はジブリと共にあった。ジブリ映画の評価は今から見て賛否両論いくらでもあればいいと思うが、批評も何も無い子ども時代に、母がとても好きだった魔女の宅急便や、戦争は嫌いだが戦闘機が好きな父と紅の豚を見られたことは幸福な年代だったのだと思う。
評価が何も確定していない映画をぽんと見て、よく分からなかったり面白かったりする。
親は『おもひでぽろぽろ』を気に入り、子どもにはよく分からない。父からは昔の友だちが熱に浮かされたように「パクさんは本当に凄いんだよ」と言い続けていたと聞かされた。
大人になった私は『ゲド戦記』(2006年)を見て「面白い映画に必要なものが欠けているこの作品を見ることにより今までに見たジブリ映画のありがたみが分かった」とぐったりし、『崖の上のポニョ』(2008年)を新宿バルト9で見て、全然楽しめず、新宿三丁目のフレッシュネスバーガーで「神は死せり!」と叫んでビールを飲んだ。
2020年には『アーヤと魔女』の予告編に驚愕し、『モンスターズ・インク』(初代、2001
年)からずっと寝てたのか!?と罵倒した(見ていない)。
私が持っていたジブリという会社への尊敬は過去のものになり、多彩な才能を抱えていたにもかかわらず明らかにつまらないものばかり作る血縁にしか後任を託せない状況にも嫌悪感を抱いた。
期待値は限りなく低く、『君たちはどう生きるか』を見ようかどうか迷っている、とこぼしたら「見て文句も言えるからじゃあまあ一緒に行く?」という流れになり、見た。
あまりにも期待値が低かったため、文句を言いたくなるような作品ではなかった。私は2023年、もっともっとつまらない映画を何本も劇場で見ている。つまらない映画を劇場で見ると、もう2度と見なくて良いという利点がある。
『君たちはどう生きるか』の序盤、空襲・火災・戦火で街が焼ける場面、画面が歪で、不安で、安定感がなく、私はホッとしていた。綺麗に取り繕う気のない、表現としての画面だった。
複数の場面に対してセルフ・パロディーであるというテキストを読んでいたが、私にはあれらはオブセッションに見えた。小説家でも芸術家でも脚本家でも、何を見ても何度も同じことを書いているな、という作家に私は好感を持っている。少なくとも、いつも結局テーマが同じであることは減点の理由にはならない。
『君たちはどう生きるか』になっても高畑勲の作品に比べればどうにも女性の人格が表面的で、天才はこんなにもご自身の性別をも超えて何もかもわかり物語に落とし込めるのかと感激した『かぐや姫の物語』(2013年)に比べてしまうと胸の打たれかたが違うのだけれども、でも私は取り憑かれたテーマがある作家のことが、いつも好きだ。
スティーブン・スピルバーグは『フェイブルマンズ』(2022年)でもう大人として若い頃の母親を見つめ直せていたように思うが(フェイブルマンズで取り憑かれていたのは別のものだ)、
宮崎駿は小さい頃に一方的に見つめていた母に取り憑かれ、母の内面には踏み込めないまま、少年・子どものまま母を見つめ続け、自分が老年の大人として若い母親を見つめ直す気は無い。
そして、母親の方を少女にして映画の中に登場させる。しかも「産んでよかった」という台詞を創作する。
貴方は大人なのにずっと子どものままで母親に相対したいのですか、と思いはするものの、子どものままの視線で母を見つめ続けたいのなら、それがあのように強烈ならば、それがオブセッションなら全くかまわないことだと思う。
最初に屋敷に出てきた7人のおばあちゃんがあまりにも妖怪じみているので驚いたが、あれは向こうの世界とこっちの世界の境界にいるかた達という理解で置いておいてあげよう。
それにしてもアオサギが全く可愛くもかっこよくも無いことに最後まで驚いていた。頭から流れる血液も、赤いジャムも気持ちが悪い。途中途中、激烈に気色が悪い。世界や生き物は気持ちが悪く、性能の良い飛行機みたいに美しくは無い。カエル、内臓、粘膜、血液、食物もグロテスクだ。嫌悪ではない、全部生々しい。生々しく、激烈だ。その生々しさを必要としたことに胸をうたれた。
塔の中のインコについて、愚かな大衆だとかジブリはもう人が多すぎてしまったんだとか商業主義的な人間の表現だというテキストも読んだのだけど、私はあのインコたちがとても好きだった。
インコたちは自分達で料理をして、野蛮で、楽しそうだった。終盤、緑豊かな場所にワッセワッセと歩いていくインコさんが、「楽園ですかねぇ」「ご先祖さまがいますねぇ」と言ったようなことを言うシーンが面白く、可愛らしく、インコたちの賑やかな生活(時に他者に攻撃的であっても)を想像した。
私は水辺の近くをよく散歩していて、大きな渡り鳥が飛来してまた消えていくのをじっと見つめている。鳥たちがある日増えて、いなくなる。国を越えて飛んで行き、地球のどこかには居続けているのがいつも不思議だ。
映画の中で、鳥やカエルはあのように生々しく、実体をつかんでアニメーションに残すことができるのに、全てを生々しく捉える気が無い対象が残っている。どうしてもそれを残すことが寄す処なら、それはそのままでかまわない。
小説では、村上春樹の『街とその不確かな壁』を読んだ。
私の父は村上春樹と同い年で高校卒業後に東京へ出てきたので、『ノルウェイの森』で書かれている、まだ西新宿が原っぱだった頃を知っている。その話を友人にしたところ、『西新宿が原っぱだったというのは春樹のマジックリアリズムかと思っていた』と言っていた。
私が村上春樹を読み始めたのは及川光博が「僕はダンス・ダンス・ダンスの五反田君を演じられると思うんだけど」と書いていたの読んだのがきっかけだ(曖昧だけれども、1999年くらいか?)。
『風の歌を聴け』は家にあったので、そのまま『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』『ダンス・ダンス・ダンス』を読み、その後短編集をあるだけと、『ノルウェイの森』『世界の終わりとハートボイルドワンダーランド』を読み、『ねじまき鳥クロニクル』は途中途中覚えていないが一応読み、『スプートニクの恋人』(1999年)を高校の図書館で読んだがあまり面白くないと感じた。
最近ではイ・チャンドン監督の映画『バーニング』(2018年)が素晴らしかったし、濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』(2021年)も面白かった。
『ドライブ・マイ・カー』の原作(短編集『女のいない男たち』収録)は映画を見た後に読んだが、反吐が出るほどつまらなく、気持ちが悪い短編だった。
イ・チャンドン監督も、濱口竜介監督も、「今見たらその女性の描写、気持ち悪いよ」を意識的に使っていたのだろう。『バーニング』は『蛍・納屋を焼く・その他の短編』時期の初期春樹、『ドライブ・マイ・カー』はタイトルこそドライブ・マイ・カーだけれども、ホテルの前の高槻の佇み方はダンス・ダンス・ダンスの五反田君であろう(港区に住む役者である)。
村上春樹のことは定期的にニュースになるのでその度に考えているのだけど、2023年に、フェミニズムのことをある程度分かった上で過去作を読むのはかなり厳しい気もしている。
次から次にセックスをしているし、主人公はガツガツしていない風なのに何故かモテているし、コール・ガールを呼びまくっている。
『ダンス・ダンス・ダンス』に出てくるユキは13歳の女の子で、ユキの外見・体型に関する記述はそこまで気持ち悪くはないのだが、『騎士団長殺し』に出てきた未成年の女性に対する描写はとても気持ちが悪かった(はず。売ってしまったので正確ではないのだが、あまりに気持ちが悪くて両書を比較をした)。
いくら今「この人は世界的巨匠」と扱われていても、作品を読んで気持ち悪いと思えばもう読む価値のない作家であるので、まだ読んだことがない人に読むべきとは全く思わない。
けれども、20年前に読んだ村上春樹は面白かったし、『ダンス・ダンス・ダンス』に書かれる母娘の話に私は救われたのだと思う。
最近友人に会い、「村上春樹は読んだことないんだけど、どうなの?」と聞かれたので、「春樹の物語は色々な本で同じモチーフが多い。主人公がいて、どこかへ行って、帰ってくる。戻ってきた世界は同じようでいて少し変わっている。私たちが現実だと思っている世界は世界の一部分に過ぎず、どこかでみみずくんが暴れているかもしれないし、やみくろが狙っているかもしれないし、誰かが井戸の底に落ちたかもしれない。だけど主人公は行って、戻ってくる。どこかで何かが起こっていても、行って戻ってくる。一部の人は行ったっきり、帰ってこられない。」
「この世では 何でも起こりうる 何でも起こりうるんだわ きっと どんな ひどいことも どんな うつくしいことも」は岡崎京子の『pink』(1989年)のモノローグだけれども、何でも起こりうる、現実はこのまま永遠に続きそうだけれども、ある日小さなズレが生じ、この世では何でも起こりうるんだわ、という小説を次々に読みながら大人になったことを、私は愛している。日常を暮らしていると現実の全てに理由があるかのように錯覚してしまうけれども、「何でも起こりうる」世界には、本当はあまり理由がない。何か理由があると錯覚し過ぎてしまうと、公正世界仮説に囚われて、善悪の判断を間違ってしまう。
「主人公が、行って、帰ってくる」形は数えきれないほどの小説・映画の構造なので特徴とも呼べないところだけれども、『君たちはどう生きるか』もそうだし、『ダンス・ダンス・ダンス』も、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』も、昔読んだ『はてしない物語』だって勿論そうだし、『オズの魔法使い』もそうで、『君の名は。』もそうだったような気がする。
『はてしない物語』の書き方はわかりやすい。
「絶対にファンタージエンにいけない人間もいる。」コレアンダー氏はいった。「いけるけれども、そのまま向こうにいきっきりになってしまう人間もいる。それから、ファンタージエンにいって、またもどってくるものもいくらかいるんだな、きみのようにね。そして、そういう人たちが、両方の世界を健やかにするんだ。」
『街とその不確かな壁』は春樹の長編も最後かもしれないしな、と思って読み始めたが、半分を超えるまで全然面白くなく、半分を超えてもちょっと面白いけどどう終わるんだろうこれ、の気持ちだけで何とか読み終わった。
17歳の少年のファーストキスの相手の音信が突然途絶えようと、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の世界の終わり側の話をもう一度読まされようと、どうしてそれを45歳までひっぱり続けるのか、読んでいて全然情熱を感じなかった。
イエロー・サブマリンのパーカを着た少年が何のメタファーなのかは勿論書かれていないが、春樹は昔に還りたいんだろうか?何故か「あちらの世界」から物語がこちらに、鳥に運ばれてきたみたいにするすると現れ世界を覗けたあの頃に?活発な兎が息を吹き返すように?
宮崎駿のオブセッションや視線は今も跳ね回っており、村上春樹の滾りは、もう私にはよくわからないものになった。
私は昔『ダンス・ダンス・ダンス』を何ヶ月もずっと読み続け、どのシーンにどんな形の雲がぽつんと浮かんでいるかも記憶していた。欲しいものだけ欲しがればいいし、くだらないものに対してどんなことを友だちと言い合いビールを飲めば良いかを知った。
岡崎京子に「幸福を恐れないこと」を教えてもらったみたいに。
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yumatomiyasu · 1 year
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Remains of Shadowings 2022 Setouchi Triennale 2022 Teshima, Kagawa, Japan Oil on board, antique frames, surveillance cameras, monitors, sound, radio, CRT TV, sand, furniture, household items, others Photo: Keizo Kioku This immersive installation uses a 100-year-old dilapidated house. Visitors follow a route through 13 rooms, corridors, and a garden, including semioutdoor storage rooms and collapsed rooms. 12 of the 13 rooms are each decorated with a painting, which depicts some part of the space in which the painting is placed. The exhibition spaces are set as a mixture of fiction and fact, with rooms that have been purposely left in their original state as if they were ruins, a room in which a dining table has been recreated as if someone had been inhabited a moment ago, a room in which stairs have been set up in unnatural combinations, and rooms with newly installed waste materials as if they had been dilapidated. The viewer has no way of knowing which are the objects newly exhibit and which are originally there. In the thirteenth room, at the end of the route, twelve monitors are installed. Here, for the first time, the viewer can learn that all 12 rooms s/he has seen so far have been monitored by surveillance cameras. (All of the surveillance cameras in each room are carefully installed in a concealed manner, so it is difficult for the viewers to notice the cameras in advance.) On the monitors, the paintings in each room are shown in close-up, and the viewer is now looking through the screens at the paintings s/he has just seen in the previous rooms. The “objects” in the rooms, the “paintings” depicting them, and the “images” monitoring the paintings — different “dimensions” exist in the work, and the viewer experiences a back-and-forth between these multilayered dimensions. The title of the work, “Remains of Shadowings”, is referred from “Shadowings”, a collection of short stories by Lafcadio Hearn (Yakumo Koizumi). The inspiration for this work was taken from a piece “The Reconciliation” in “Shadowings”. The visitors will experience the world of “Reconciliation”, which takes place in an abandoned house and moves back and forth between dimensions from reality to dream, and from dream to reality again, by walking through the sites in order. かげたちのみる夢 Remains of Shadowings 2022 「瀬戸内国際芸術祭2022」 展示風景 豊島 甲生地区, 香川 木板に油彩、アンティークフレーム、監視カメラ、 モニター、サウンド、ラジオ、ブラウン管テレビ、 砂、家具、日用品ほか 撮影: Keizo Kioku 築100年余りの朽ちかけた古民家を使用した没 入型インスタレーション。半屋外の物置や倒壊 しかけた離れなどを含めた13の部屋と廊下、庭 などを使用しており、鑑賞者は順路に従って進 んでいく。13のうち12の部屋にはそれぞれ絵 画が1点飾られており、絵画の中にはその絵画 の置かれている空間の中のどこかが描かれてい る。会場内は、廃墟のように雑然としたまま本来の姿を敢えて残した部屋や、あたかもさっきまで人が住んでいたかのように食卓が再現された部屋、階段などが不 自然に入り組んで設置された部屋、わざと荒廃したように新たに廃材を設置した部屋など、虚実が入り混じっており、鑑賞者はどこからが「展示された」もので、どこ からが「元々あった」ものなのか、知る由もない。動線の最後にある13番目の部屋には12個のモニターが設置され、ここで初めて、鑑賞者は今まで観てきた12の 部屋が全て監視カメラでモニタリングされていたことを知る。(各部屋の監視カメラは全て隠されて設置されており、鑑賞者が事前にカメラに気付くことは困難であ る。)モニター上では各部屋の絵画が大きく映し出されており、鑑賞者はすぐ直前まで観てきた絵画を、今度は画面越しに鑑賞することとなる。 部屋内に存在する「もの」、それを描いた「絵画」、そしてその絵画をモニタリングした「映像」−−異なる「次元」が作品内に存在し、鑑賞者は多層化する次元を行き 来するような経験をする。 なお、作品タイトルにある「Shadowings」は、小泉八雲による短編集『影(Shadowings)』より引用されている。『影(Shadowings)』の中の一編『和解』から《かげたちのみ る夢 Remains of Shadowings》は着想を得ており、廃屋を舞台に現実から夢へ、そして夢からまた現実へと次元を行き来する『和解』の世界観を、敷地内を順路通り 歩くことで鑑賞者は追体験することとなる。
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catdoll007 · 1 year
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昭和の生活面📺️💇📖🖋️
昭和らしいミシンや、こたつの掛け布団☺️
懐かしいオカマドライヤー💕
時代は進化しているが
時が止まったような感覚になれる場所🕰️
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dameinuhound · 1 year
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パラノマサイトクリアしたぞぃ
と、いうわけでさすがにツイッターに垂れ流すのも何なのでパラノマサイト真エンディングまで行けたのでその感想でも。 盛大にネタバレが入ってるから折りたたむのや!あと支離滅裂だぞ。
このゲーム、メタ視点も入れての攻略が必要になってくるわけだけど、まさか、まさかそのプレイヤー自身がマジモンのキーマンだったとは。
いや、ね?中盤のヤッコちゃんとミヲちゃんの憑依の話を聞いててうっすらと「まさかこいつ(プレイヤー)もそういう存在とかじゃねーだろーな…?」とかっては疑ってたんですよ。
チュートリアル後の案内人さんの何人殺したと思う?>答えは一人だけ というやり取りはてっきり興家君が知らない呪詛珠つかってやっちまったとかっていう感じだったのかと勘違いしてたの。 何人殺した?という質問と一人だけという答えっていうのはまさに自分(プレイヤー)が直に手を下した人数だったわけだ。(憑依先の興家君ははっちゃけ無双しちゃったけどあくまでプレイヤーがやったわけではなく「興家君」自身が勝手にやったことなんだよなぁ) ここ、チュートリアル興家君の時、何にもしなくても勝手に呪詛行使するんですよ。条件満たせば自動的に発動するもんだと思ってたんだけど、興家君以外の憑依した人物の呪詛行使、プレイヤーが押さないと行使できないんですよ。 行使ボタン押さなかったら何にもしないんですよ。 いやーよくできてる!コマかぁい!!あれ気づけた人いるのかな?
こういったちょいちょい自分に掛かってきそうな伏線を拾い集め、調べられるところはとことん調べてつぶしながら進んでいく奴大好き!!メタ視点も実はそういう存在だからこその演出って感じになるのはうまい調理方法やなぁって感心しっぱなしです。
また感動したのが徹底的にあの昭和!な雰囲気。UIもその時代背景に合わせたような雰囲気で、ブラウン管テレビを見てるかのような細やかさはそれを知ってるのと知ってないのとでは感動も違うんじゃないかなー?とも思わなくもない。いや普通に感動したんですよ。メニュー画面まんまブラウン管テレビの映り方そのものじゃん…!って。
あの画面のゆがみ、ブラウン管(カラーテレビ)ならではの色収差、チャンネル変えた際のグリッチノイズ。まさに案内人さんと一緒にテレビ見てチャンネル変えてるかのような空気感。
群像劇の人たちとはまた違う立場だからこそできる演出は憎いねーって思う。
久方ぶりに面白いゲームに出会えてうれしいことこの上ないのです。
キャラも全員立ってて文章の進みも小気味よくて緩急のつけ方が上手いなーって思います。あのクズオブクズの用務員()とかも結構好きなんですけど、クズはクズでもあのサイコパスあやめ女史だけはむりやったなぁ。同情できる部分はあるんだけどサイコパスすぎるやろ…やっぱりもう一回燃やしませんか。津詰のおっちゃんには非常に悪いんだけどさ。
あやめエンドはほんとなんというかもう…お前…!お前!!!!!って感じでした。目的の人物の復活さえ叶えば自分はどうでもいいって思ってるからなおさらやるせねぇというか。こえぇよあいつ。
で、すべて巻き戻っちゃって黒幕が死んでる所からだから彼女おっちゃんとの和解もなにもリセットされてる分なぁ…。いやまぁ…ある意味での親殺しの未来は回避できたからいいという見方もできなくはないけどいやでもなぁ…?
個人的に好きなの津詰のおっちゃんと襟尾君の漫才コンビとヤッコちゃんとミヲちゃんだったなー。いや全員良いキャラしてるよほんと。
幸薄マダム個人のエンディングはなんというかうん、これがエンディングでいいよ…!ってちょっと思ってしまった。(燃やしてくれたしな)
櫂さんに関してはいいキャラしてるというか駄菓子屋さんのおみくじで一喜一憂してるのかわいいな…かわいいぜ…っておもいました(小並感)
あとは回収しきれてない資料となめどりコンプを頑張るくらいかな。 資料集めもそうだけどコンプまでチャートをあさるのはちょっとき��いかも。システムに関しては既読個所のスキップ機能とエンディング確認用のエンディングリスト欲しかったなぁ
いやしかしこれが2000円もいかないのすごすぎない…?安い…
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sakanafromhell · 1 year
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テニスコートに右脚が(2222字)
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 死に場所を探すという言葉があるが、私には心に決めた死に場所がすでにある。文字通り自分がそこで死にたいと願う場所。それは近所のゴミ捨て場だ。正確には誰かの広大な私有地らしいのだが。少なくとも10年以上は放置されている。いつの頃からか誰もが何のためらいもなくゴミの不法投棄を繰り返すようになった。土地そのものが不浄を求めているとしか思えない、ある種の魔力に満ちた空間だ。とくに珍しくもないだろう。
 私はこのゴミ捨て場が好きだ。長靴をはいて散歩することも多い。冷蔵庫、洗濯機、ブラウン管のテレビ、5連のCDチェンジャー、2年分の月刊アフタヌーン誌、茶釜、神棚、フェラガモの赤いバレエシューズ……そんなものが積み重なって、遠目には賑やかな新興都市のよう。近づけば目を背けたくなるような欲望の汚泥だ。人類の営みの薄暗い情念。その壮大なエコー。  私はここで静かに息絶えたい。壊れたレーザープリンタとか、錆びたバーベキューセットとか、X68000と書かれた謎の黒い箱とか、そんなものと並列の物体になって、資本主義の短い歴史とともに人生を終了させたい。  初代iPod。成人指定のDVD。割れた植木鉢。私の死体。
 朝の4時17分。  そのゴミ捨て場に、原因不明の死にたさを抱えた私の姿があった。といっても、実際に自殺する可能性は2%ほどだろうか。高いとも低いとも思わない。  無印良品の椅子。工事現場の三角コーン。露出度の高い服を着た女の子のフィギュア。それらを踏みしめ、一歩一歩ぐらつきながら歩く。新米のピエロみたいな足どりだ。死ぬ前に何かの新米になれるなんて、なかなか素敵なことだと思う。死の確率が7%あたりにまで上昇する。もはや無視できない数字といえる。  半径50メートル以内で唯一の動く物体が私だ。そのことがなんだか恥ずかしい。
 右足がシャンデリア、左足がエスプレッソマシンに乗った状態で私は歩みを止めた。  生首が落ちている。  まだ若い女の子の。  死にたいと7%ぐらい思っているときに本物の生首を見せられるとは。出鼻をくじかれたような気分になる。  生首だ!  などと私が慌てなかったのは、それがちっとも死人の顔には見えなかったからだ。ゴミの山から顔だけを突き出している。目をぱっちり開けて、頬をばら色(としか言いようがない色)に染めた可愛らしい女の子の、どこにも接続されていない頭部。この場所においては、大きめの電球と同じ意味しか持っていない。 「おはよう、良い天気だね!」と生首が喋った。 「おはよう、良い天気だね」と私も返す。 「今日は部活の朝練なんだ。でも昨日あんまり寝てなくて。ついついゲームしちゃってさ。眠い。だるい。つらい」  ご丁寧にあくびまでしている。 「大変だね」と私。 「部活は何? って聞かないの」 「え? じゃあ……。部活は何?」 「軟式テニス部!」元気いっぱいに生首は答える。「ダブルスの後衛なんだよ。上手ではないけど。打ち方に変なクセがあってね。パワー不足だし、スタミナもない。まあ、わりと課題は多いタイプのプレイヤーだね。我ながら」 「そうなんだ」 「前衛の松川さんが、近眼で乱視のくせにメガネしないのも勝てない要因なんだよ。メガネは似合わないから嫌で、コンタクトは怖いから嫌なんだって。たまに勘でラケット振ってるとか言うんだよ!」 「それは酷いね」 「もっと練習して上手になりたい」 「がんばって」 「今の話、ぜんぶウソだよ」 「うん」 「生きてる頃は園芸部だった。園芸部の花壇からテニスコートが見えたんだ。きらきらしてて、みんなきれいだったな」 「遠くから見てるからだよ」 「近づいたらきれいじゃないの?」 「たいていのものは」 「私ね、サニーレタスの収穫予定日に殺されたんだ」 「可哀相に」 「サニーレタスが? 私が?」 「どっちも」 「どっちもか」 「ねえ」私は生首に聞く。「その犯人の顔って、覚えてる?」 「もちろん」と生首は顔をしかめた。 「私に似てなかった?」 「うーん」生首が私をしっかり観察する。「似てないかな」 「そう」 「あなたが犯人だったら文句言えたのに」 「ごめんね」 「あーあ。なんか疲れた。喋りすぎ。少し眠るね」  女の子の生首は目を閉じた。皮膚が急激に土気色になり、腐乱し、崩れて、まさに惨殺死体といった姿に変貌する。  自殺の予感は0.2%にまで低下していた。
 その夜、夢を見た。  6つに分断された少女の肉体のありかが、すべて明示される夢。  それは現実には発見されていないのだ。  私は生首の指示に従って、一緒に体のパーツを集めて回る。  彼女の立派な右脚は、今はもう使われていないテニスコートの草むらに静かに放置されていた。  彼女のものだけではない。テニスコートには無数の右脚が転がっている。ゴミのように。そこには私の右脚もあった。  15歳だった私の。  右脚が。  私も当時は軟式テニス部で、ダブルスの後衛を務めていた。生首の女の子が見ていたのは、私だったのかもしれない。遠くから見たら、きれいで楽しげだったのかも。今の私の目にも、あの頃の自分は美しく映る。それだけ遠くなってしまったということだ。
 パーツをすべて回収しても、女の子は元通りにならなかった。  命がないから。 「だったら、こうして喋っている私は誰?」と生首。 「生きてた頃のエコーだよ」と私は答えた。「じきに消える」  そこで目が覚めた。  歯を磨きながら、私は15歳の自分の右脚をもう一度だけ見てみたいと思った。  じつに見事な右脚だった。  あの頃のエコーが今の私。じきに消える。
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sasuray · 1 year
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テレビの向こう側でなにがあったんだろうね。お茶でも飲もうか。ただ何となく観てたテレビ、ずっとブラウン管の画面の荒さのよく見ると色んな色が混ざっててとってもきれいで灯油ストーブで暖まりながら観るテレビはぬくい。灯油補充して外に出るとき寒いのに無性にわくわくして灯油を真剣にヒーターのタンクに移して部屋にもってく時なんか誇らしく感じる思い出とか感覚とか忘れたくないや。
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powerful-pineapple · 1 year
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メモ
色味や階調数よりも画質(ノイズの量)
色味も当然大事(カラーパレット的な話)
GIFの階調などのように、データをセーブするための技術によって生まれたもののは古いもの特有のもの
ゲームモニターとテレビ、ブラウン管の描画方法の違い
ニューノスタルジックは今の20代くらいが限界?
それ以上上にとってはコンピューターを使うこと自体がオタクよりだった
生きている感じがしない、みているこちら側が無理やりキャラクターを見出す感覚。→怖さと魅力、新しいもの
侵略しに来たもの的な。ゴジラなどの怪獣ものなど、古典的に感じる。UFOとかも。ザ・敵。みたいな。
小さい頃の思い出→輝いて見えたり懐かしく思う(必然)→シンプルなパーツで作られた生き物。捉えやすいもの。簡単な形で作られたもの。→昔のものみたいだあ
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