Tumgik
#バイク買取の元祖
bumaswing · 1 year
Photo
Tumblr media
誠に恐れ入りますが令和5年4月10日までの修理予約は満杯になりました。ご了承下さい。また本日無断キャンセルされた方も大変申し訳ないですが予約の取り直しをお願い致します。 ※急患につきましては、お電話にてお問い合わせ下さい。出来る限り何とかします。 #修理 #バイク修理 #原付修理  #日本最古のバイク買取店 #バイクの日発祥 #バイクの日発祥の店 #東京#埼玉#中野区#豊島区#杉並区#練馬 #江古田 #バイク #原付 #バイクの日発祥の店 #819の日発祥の店 #バイクの日 #バイク買取の元祖bum #バイク買取の元祖 #バイク買取 #bum #bumアズウイング #アズウイング https://www.instagram.com/p/CqLCdM9vlLf/?igshid=NGJjMDIxMWI=
0 notes
kennak · 3 months
Quote
1月2日から14日の2週間で起こった不景気な出来事を総括する「週刊不景気ニュース」。倒産や赤字業績の発表が多い2週間となりました。 破産申請(準備含む)により倒産したのは、新潟の貿易会社「アイ・ディー・サポート」、福島の金型製造「横山鋼業」、新潟の印刷業「野崎印刷」、栃木の出版業「栃の葉書房」、青森の水産品加工「マルカネ」、広島のパン製造・販売「オギロパン」、北海道の結婚式場運営「ジュリアンヌ」となりました。 また、神奈川の食品加工「寿食品」が事後処理を弁護士に一任したほか、東京の元リゾート施設運営「奥白馬高原開発」が特別清算の開始決定を受け、海外では中国の資産運用大手「中植企業集団」が破産を申請しました。 一方、アメリカの事務機器大手「ゼロックス」が約15%の人員削減を発表したほか、地方銀行の「福島銀行」が債権取立不能のおそれを明らかにし、ソフトウェア開発の「sMedio」が子会社「sMedio America」を解散すると発表しました。 そのほか、赤字業績を発表したのは、二輪車買取・販売大手の「バイク王&カンパニー」、通信機器が祖業の「ネクスグループ」、飲食店チェーン運営の「イートアンドホールディングス」、中華レストラン運営の「東天紅」、産業機器商社の「アルテック」、住宅メーカーの「ウッドフレンズ」、光学関連製品開発の「オキサイド」、実演販売・商品卸の「コパ・コーポレーション」などとなりました。
週刊不景気ニュース1/14、倒産や赤字業績の発表が続く 不景気ニュース - 不景気.com
5 notes · View notes
shintani24 · 21 days
Text
2024年4月6日
Tumblr media
時速6キロ以上で歩道は走れない 時速20㎞以上は原付バイクと同じで免許が必要 利用者急増の電動キックボード あなたはルールを知っていますか?(RCCニュース)2024年4月6日
利用者が急増している電動キックボード。街で見かける機会も増えてきましたが、交通違反や事故も増えてきています。あらためて交通ルールなどを調べました。
広島市の中心部でも見かける機会も増えてきた電動キックボード。シェアリングサービス「LUUP」が広島市で事業を開始して8ヶ月。貸し出し・返却する場所はおよそ120箇所にも上ります。
利用者の男性 「バランスがちょっとだけ取りにくいけど、あと車道を走らないといけないというルールがあると思うので、そのあたりは自転車のほうがいいけど、新感覚で楽しめるかなと思っています」
利用者の女性 「最初はちょっと怖かったんですけど、そんな車くらいの速いスピードは出ない乗り物なので、慣れたら操作もしやすかったです」
Tumblr media
「LUUP」の利用に必要なアプリのダウンロード数は100万を超えています。記者も初めて体験してみました。
隈元大樹 記者 「加速が結構スムーズですね。地面に段差があるとなかなか怖いですが、バランスも保てる感じで進んでいきます。操作も簡単で、ちょっとした移動にはすごく便利だと思いました」
初心者でも簡単に楽しめる電動キックボード。一部の機種では運転免許が必要ですが、「LUUP」などは16歳以上であれば、免許を持たなくても乗ることができます。その手軽さから、仕事や観光など幅広く利用されています。
しかし、利用者の急増に伴い、事故や交通違反も全国的に増えてきています。去年12月、長野県では電動キックボードに乗った女性が、信号を無視して交差点に進入。バスにはねられて死亡する事故が起こりました。
今年2月には、愛知県で電動キックボードに乗った男性が、歩行者をはねたうえ逃走する事故も起こり、歩行者の男性は大けがをしました。広島市中心部の本通り商店街でも、スマホを操作しながら電動キックボードを運転する人の姿も見られました。
県警は対策室を発足 交通ルールを周知し取り締まり活動を強化
Tumblr media
広島県警 大木晋 交通部長 「”自転車小型モビリティ対策室”を発足させました。新たな小型モビリティに対する対策というのが、喫緊の課題となっているというところでございます」
広島県警では、利用者が増えてきている電動キックボードなどに対応するため、「自転車小型モビリティ対策室」を新たに発足させました。
自転車小型モビリティ対策室 宮庄律和 室長 「正しく乗っていただくために、交通ルールの周知と、街頭での指導取締り活動を強化していくと言う目的で設置したものでございます」
広島県内では、去年7月1日から先月末までで、電動キックボードの交通違反は6件。そのうち1件は、禁止されている2人乗りで走行したものです。残りの5件は、車道を走る必要があるのに歩道を走行した、通行区分違反です。
「LUUP」などの電動キックボードは、最高速度が6kmに制限されるモードと、それ以上の速度が出せる2つのモードに切り替えが出来ます。6km以上にスピードが出る状態で歩道を走ると、通行区分違反になります。
宮庄 室長 「まずは交通ルールをしっかりと、まだ理解されていない県民の方も沢山おられると思いますので、広報啓発をしていきたいと思っております。」
少し遠い場所へも楽に移動ができる電動キックボード。利用者ひとりひとりが、ルールを守って安全に使用することが求められます。
電動キックボードのルールをおさらい
Tumblr media
■年齢について 16歳未満の人はいかなる種類の電動キックボードも乗ることが出来ません。損保ジャパンが全国のおよそ1000人に実施した調査では、約半数の人が、16歳未満は運転できないことを知らなかったそうです。
Tumblr media
■免許の有無 「LUUP」などは、免許が無くても乗ることが出来ますが、実は、市販されている電動キックボードの中には運転免許が必要なものも存在しています。
最高速度が20km以下であることや、車体の長さが190cm以下かつ、幅が60cm以下など、決められた要件を満たさない電動キックボードは、原付バイクと同様に運転免許が必要となります。
Tumblr media
■歩道か車道か どこを走るべきかですが、原則としては車道です。ただし時速6キロ以下のスピードリミッターがついている車両では、リミッターを作動させることで歩道での走行が可能になります。このリミッターですが、緑色に光るランプ(最高速度表示灯)が点滅していれば、作動していると判断することができます。
Tumblr media
■飲酒運転 当然ですが、飲酒運転は絶対にいけません。自動車と同様、電動キックボードや自転車も道路交通法違反で摘発の対象となります。
「LUUP」でも電動キックボードの交通ルールの周知に向けて、利用者へ講習会を実施するなどしているということです。
Tumblr media
自宅が爆撃され、家族を失った少女。もうひとり生き残った親族の男性と並んで座り込み、言葉を失っていた=2024年3月26日、パレスチナ自治区ガザ南部ラファ、ムハンマド・マンスール撮影
吹き飛ばされた子どもたちはハマスなのか 絶望の街ガザからの報告(朝日新聞 テーマ特集:イスラエル・パレスチナ問題)2024年4月6日
イスラム組織ハマスの奇襲に端を発したイスラエル軍のパレスチナ自治区ガザへの報復攻撃が始まり、7日で半年となる。ガザでは3万3千人以上が犠牲になってもなお戦闘に終わりが見えない。避難民ら150万人が身を寄せる最南部ラファの状況を、ムハンマド・マンスール朝日新聞通信員(28)が報告する。
youtube
【動画】ガザ南部の避難民キャンプ 軍事衝突から半年=ムハンマド・マンスール撮影
人々の心まで変えられてしまった
イスラエル軍の攻撃が始まってからのこの半年で、ガザは大きく変わった。あまりにも多くの罪のない人々が殺された。街は、空爆や砲撃で跡形もないほど破壊し尽くされた。そして生き残った人々の心まで、変えられてしまったと感じる。
「イスラエル軍は、早く殺しに来てくれないだろうか」「長い時間をかけて、恐怖を与えられ、死んでいくことにもう耐えられない」
1週間ほど前からだろうか。ガザ全域からの避難民が身を寄せる最南部ラファでは最近、そんな声が目立ち始めた。これまでになかったことだ。
Tumblr media
イスラエル軍の攻撃から避難した人たちが殺到し、約150万人が集まるパレスチナ自治区ガザ南部ラファの市街地=2024年3月27日、ムハンマド・マンスール撮影
2週間ほど前、ラファの東の方で爆撃音がして、私は現場に向かった。飛び散ったミサイルの破片、がれきにこびりついた大量の血痕……。もう、嫌と言うほど見てきた光景があった。巻き込まれた小さな女の子が病院に運ばれた。追いかけていくと、まもなくその子が亡くなったと聞かされた。
「自分の家が爆撃され、自分の子どもが爆撃されると思わなかった」。父親のムハンマド・アルアサムナさん(35)は、何度も繰り返した。
もちろん、ガザで安全な場所など、とうの昔からない。アルアサムナさんもそれは分かっているはずだ。だが、爆撃されるとは思わなかったのだ。
アルアサムナさんは、ラファで人気の飲食店を経営していた。死亡したイリーンさん(6)は、心優しく、勉強が得意で、誰からも愛される女の子だった。爆撃される理由はどこにもなかった。まさか、とはそういうことだ。
アルアサムナさんは言う。
「これまで不安と緊張、疲労の中で生きてきた。飢えに苦しみ、たくさんの死を目の当たりにし、今日、わが子を失った。これ以上、イスラエルは何を望むんだ?」
これのどこが「自衛」なのだろう
1週間ほど前の夜には、ラファ北部の民家が爆撃され、一家10人と、その家に身を寄せていた避難民らが殺された。近くの電線には、爆風で吹き飛ばされた子どもたちの遺体がぶらさがっていた。
8歳ほどに見える女の子が、爆撃を免れた父親と並んで座っていた。話を聞こうとしても、二人の口から言葉は何も出てこなかった。父親が大粒の涙を流しながら、破壊された家を力なく指さす。
言葉はなくても、気持ちは分かる。吹き飛ばされた子どもたちは「ハマス」なのか。その父親の年老いた両親は、イスラエルの人々に何かしたのか。米国はイスラエルには自衛権があると言うが、これのどこが「自衛」なのだろうか。
女の子が無言でかが��込んでいると、その頭の上に父親が、なだめるように手を置いた。女の子は父親を見上げた。その目は涙でいっぱいだったが、「パパ、泣かないで」と語りかけているように見えた。
この半年間で希望は失われた
罪のない子どもが爆撃で殺されるのも、思い出の詰まった家が突然破壊されるのも、ガザではこの戦争前から「日常」だった。
だから、人々は明るかった。絶望していては生きていけないから、時に憤り、泣き叫び、それでも「また頑張ろう」「何とか生きていこう」と声を掛け合ってきた。
だが、今回は規模がちがう。この半年間で、人々は希望を持って生きていけなくなった。
私も、その一人だ。
侵攻が始まる2カ月前に結婚したばかりだった。経済状況は厳しかったが、何とか幸せな暮らしを築いていきたいと思っていた。
しかし、新しい家も、買いそろえた家具も、爆撃で粉々にされた。祖母は、粉じんを長期間吸い込んだことで肺を病み、避難生活の中で命を落とした。5日には、移り住んでいた家の近くが爆撃され、私たちはテントに避難した。
あまりにも早い速度で友人や親戚が命を落とし、悲しむことさえ難しくなった。
食料や水、燃料など、命をつなぐものすべてが足りず、それらを探し求めて歩き回り、長い行列に並ぶことが一日のほとんどを占めている。
時間の感覚がまひしていき、記者の仕事をしていなければ、もう6カ月経つのだということは分からなかったと思う。
この残酷な戦争が終わってほしい――。自分を捨てず、希望を捨てず、そう祈り続けることは、もう難しい。(ガザ南部ラファ=ムハンマド・マンスール、構成・高久潤)
コメントプラス
高久潤(朝日新聞エルサレム支局長=文化、消費)【視点】 エルサレムを拠点に、イスラエルとパレスチナを取材しています。
ガザについては、外部からガザの中に記者は入ることができないため、この記事を一緒に書いたマンスール通信員ら現地の記者たちが担っています。私たちは携帯電話がつながる限り、必ず毎日その日起きたこと、ガザの市民の間でどんなことが話題になっているのか、そして記者よりも先にガザの市民である彼らが今何を考えているのかについて「おしゃべり」をしています。そこから取材を広げていくのです。
戦闘が始まって、まだほどないとき。「こんなことは経験したことがない」「こんなことは見たことない」「こんなこと聞いたことないという表現について、よく話題になりました。
ガザへの空爆の規模、回数、そして死者数・・・・・・。あらゆる意味で、今回の戦闘でのガザの惨状は「未曽有」というしか言いようがありません。私もこれまで書いてきた記事でそうした地元の人の声をたくさん書いてきました。実際にみな口をそろえて言うからです。
ただ、いくらなんでも「こんなこと起きたことがない」が続きすぎじゃないか? 私はガザに比べればよっぽど安全なエルサレムにいることもあり、口がさけても私からいうことはありませんが、ふとマンスール通信員がそんなことを漏らしました。
「私の表現はおおげさだろうか」と。
もちろんそんなことはありません。確かに日々数十人から百人近くがイスラエル軍の攻撃で死んでいくので、報じていると悪い意味で「慣れてしまっている」と思うこともあります。ただ、やはり現地の様子を伝える映像や写真、そしてマンスール通信員の話を聞いていると、それが「大げさ」とは思わない。だから「そんなことないよ」と伝えます。
ですが、戦闘が始まって3カ月たったころ。彼が「やはりおおげさなんだろうか」と言ってきました。だからそんなことないけど、なぜそんなことを聞くのかと尋ねたらこう言われました。
「いや、こんなにひどいことがおきているのに、どうしてイスラエルの攻撃をとまらないのか。いや国際社会はとめようとしないのだろう。私たちの表現や声のあげかたがおかしいのだろうか」
私は絶句してしまいました。もちろんそんなことはありません。止まらない、止められない理由の責任を最も感じる必要がない人たちにそのように感じさせてしまう私も含めた国際社会、そしてイスラエルとは何なのか。
本日の朝刊2面に引用しましたが、イスラエルのユダヤ人たちは、ガザでの戦闘の継続を決めるファクターとして、ガザの市民の苦しみをまったく考える必要はない、またはそんなに考える必要がない、と答える人が8割にのぼります。どうしてイスラエルのユダヤ人たちがこのように考えるのか。これについては、本日から始まる連載「イスラエル軍の実像」で書いていく予定です。
ただ、理由がなんであれ、半年以上もこのような戦闘が続いてしまっていることをまったく恥じる必要がないのは、ガザの人たちだけだと私は思います。
程度の違いはもちろん人や国や立場で違うと思いますが、少なからずは恥じないといけない私を含めた人たちはまずはガザで何が起き、どうしてこんなことになっているかを知らなければならない。残念ながらこの戦闘の行く末は見通せません。どうして見通せないのか。どうしてそんなことになってしまっているのか。そういうことがわかるような記事をしつこく、書いていきます。
マンスール通信員は日本に来たことがありませんが、日本がとても好きです。いつも「いつか自分たちも日本のようになれるだろうか」と言います(この地域では日本は戦後復興をへて先進国になった『すごい国』と言われることが多いのです)。
でも。もはやこの言葉を私は素直に受け取ることはできません。やはりこの言葉にふさわしくない恥ずかしい存在だと日本や自分のことを感じてしまうのです。半年たって、そう強く感じています。
「FREE GAZA」ガザ侵攻から半年 市民グループが原爆ドーム前で抗議のアートイベント(RCCニュース 4月8日)2024年4月6日に追記
イスラエルによるガザ侵攻について、市民グループが7日、原爆ドーム前(広島市)で抗議するアートイベントを行いました。
「私たちは、パレスチナの人々が解放を求め続けるために、この大量虐殺を終わらせるために行動しています」
抗議活動を行ったのは、「広島パレスチナともしび連帯共同体」です。このグループは、パレスチナ自治区ガザでイスラエルとイスラム組織ハマスの戦闘が始まって間もない去年10月から毎日、原爆ドーム前で停戦を訴えています。
「FREE」「GAZA」と書かれた2枚の横断幕に呼びかけに応じて、集まった市民や観光客などがメッセージを書き込みました
広島市立大学 田浪 亜央江 准教授 「今、どんなことが起こっているのかを考え、自分の体で表現するアクションに参加してほしい」
今後もSNSなどを通じて世界へメッセージを発信したいとしています。
Tumblr media
蛇口に尻こすりつけ使用不可に=「性欲のため」男逮捕―警視庁 (時事通信)
公園の水道に尻をこすりつけ、使用できない状態にしたとして、警視庁が器物損壊容疑で自営業の男(56)=東京都杉並区=を逮捕していたことが6日、捜査関係者への取材で分かった。
「性欲を満足させるためにやった」と容疑を認めているという。
捜査関係者によると、男は1日午前2時20分ごろ、世田谷区粕谷の都立芦花公園で、水道の蛇口に肛門をこすりつけた疑いが持たれている。
公園側は、衛生上の観点から蛇口の使用を禁止した。後日交換する予定という。
同日午前3時ごろ、同区南烏山の路上で、下半身を出して自転車に乗っている男を警察官が発見。男の携帯電話から公園で全裸で自身を撮影した写真が見つかったため、公然わいせつ容疑で逮捕した。その後、蛇口に肛門をこすりつけている写真も見つかり、4日に器物損害容疑で再逮捕した。
男は持ち歩いていた双眼鏡で付近に人がいないことを確認した上で撮影していたという。
Tumblr media
ゆうちょ銀行 通常貯金の金利20倍に引き上げ 利率改定は17年ぶり(FNNプライムオンライン)
ゆうちょ銀行は、8日から通常貯金の金利をこれまでの年0.001%から、20倍の0.02%に引き上げると発表した。
日銀のマイナス金利政策解除決定を受けたもので、通常貯金の利率改定は17年ぶり。
1月に引き上げたばかりの定期貯金の金利もさらに引き上げ、預入期間5年の場合で、年0.07%から年0.2%にする。
0 notes
hiiragisan · 4 months
Text
2023年総括!!
 さぁ今年も総括しますよ! 何年経ってもダメダメすぎる毎年だよ本当に!!!  結論からいうと今年もいろいろ駄目駄目でした。頑張れない自分をマネジメントしてくれる人が必要だよ。。。優しいお姉さんに管理されて何も考えずに言われたことだけやっておきたい……  まぁしょうもないことを言ってても何も変わらないからとっとと総括しましょうねー。
1月  恐ろしいことに記憶がない。。。歳を経るごとに記憶する能力が落ちていってる。。。  とりあえず仕事上の試験があったので、それに向けて勉強&受験してました。まぁ結果は言わずもがな。残念!  あと月末にバイクを見に行ってました。茨城まで。水戸まで。CB400SBをな!そして即決。  結局バイクのカスタムは購入時のエンジンガード+ガラスコートのほかはスマホホルダー取り付けとそれに伴うUSB電源追加くらいしかしてない気がする。元々ETCついてるのではでかい!  ほかは特に何もなかったかな。
2月  1月に買ったバイクの書類関係のもろもろが終わったからあとは現物を受け取るだけ!ってところだったんですけど、受け取りにいくのは流石に無理だったので陸送で送ってもらって受け取ったような気がする。  あとはめっちゃ雪積もった。仙台って山間部以外はほとんど積もらないんだけど、平野部でもたしかめっちゃ積もった。20センチ以上積もったんじゃないかな。改めて当時の写真みると結構やべぇってなってる。まぁ青森はその比じゃないんだなぁって実感したけど。さすが雪国  あと連休つくって、仙台からわざわざ京都に帰省した。目的なんだっけ?思い出せないけど、行き帰りの移動含めて3日だったから、実質1日しかゆっくりしてないけど。親祖父母のこと考えると帰れる時に帰っとかないといけないよなぁって少し思いつつ。まぁ今年の年末年始は帰ってないんだけど。
3月  前の部署の後輩というか部下とツーリング行きました。何気にソロツーじゃないのって10年ぶりくらいじゃない? まだ亀岡いた時代にPCXで連れてってもらった時以来な気がする。。。  仙台に6年いて一回も行ってなかった定義山に行きました。寒かったけど楽しかったわ。あとは秋保で温泉浸かったり、おはぎの有名なスーパー行ったり、堪能しました。
4月  花見に行きました。白石城まで。そして立ちゴケ! くそが!!  千本桜も見に行きたかったけど心が折れたので帰りました。あとは何してたかなぁ。覚えてないや
5月  バイクで仙台から亀岡まで帰ったよ! 850キロくらい!めっちゃ疲れた! ほとんど、というか仙台で東北道に乗って、実家の最寄りのICで降りるまでずっと高速。オール高速。日本の高速網ってすげぇってなった。  ここでも途中でちょっとアクシデントあったけど、結果オーライだったのでヨシ!  帰りはフェリーにも乗りました。バイクで。久々のフェリーも楽しかったなー。アニメ見てほとんど外とか見てないけど。推しの子見始めたかな、確か。あとはバイクの乗り降りでこけないかビクビクしながら移動してたら他の人がこけてた。コワー
6月  このあたりから異動の話がいよいよ避けられないような感じになってきたので仙台離れる前にいろいろ行かないと!と思ってツーリング。  蔵王の御釜を見に行きました。前日までは晴れてたのに当日だけ雲がかかっててなにも見えない! というか寒すぎる! 標高なめてた! なんなら途中雪残ってたし! ブルブルしながら行って帰ってでした。  あとはよくわからんツーリングと連携してる神社にも行きました。ついでにいろいろ見ようと思って適当に言ったところでドローン飛ばして落っことしてお亡くなりになりました。南無  名古屋時代の同期が山形にいるので会いに行きました。青森行くのもあって、次いつ会えるか分からないしね。夕方前から酒飲んでめっちゃ楽しかった。やっぱ同期は最高なんや。。。
7月  登米の明治村みたいなところ行きました。いいよね大正浪漫・・・あ、明治か。  未練たらたらでドローン落としたところをついでに探しにいったら落としたところにそのままありました。川の中に。発見はできたけどさすがに数週間水の中だと復活はしません。完全お亡くなり。南無  あとは部署に対する定期の検査・試験みたいなのがあったから、総出を上げて全力で対応しました。ぶっちゃけ特になにもしてないけど頑張ったで賞もらいました。まぁ月末に出て行くからね……。  あとはマイナンバーカード作ったり、青森の部署に挨拶にいったり、そんな感じでグッバイ仙台!となりました。6年半も住んだ築50年超えのクソボロのお部屋もなんだかんだで愛着があったから出て行く時は寂しかったなぁ
8月 青森新生活!  部屋は前に比べるとめちゃくちゃ新しくなってリフォームして10年経つか経たないかのすごいいい感じだけど、如何せん街の経済規模が!  仙台はなんだかんだで東北一の都会だったんだなぁって改めて実感しました。青森はその何分の1だ・・・人口はともかく、経済規模なんだよ問題は……  まぁねぶた行ったり、竜飛行ったり観光はしてます。
9月  鶴の舞橋っていうところにもいった。全然聞いたことないけど。。。ちなみに工事中だったので風情もくそもありません。  下北半島一周もしました。大間とかね。あと恐山はよかったね。行った方がいいなあれは・・・  尻屋崎は次回持ち越しだけど。あとはガメラレーダーを間近で初めて見た。デッカ!  あと渇水って映画を見ました。プライムビデオで。水道局関係はずんだもんの動画でお勉強してたので、予備知識ある状態で見たけど、まぁ人間ドラマに比重寄せた作品だね、って感想しか。。。  実際の水道局関係のお仕事の大変さもあるけど、より実際的な話だと多分ずんだもんシリーズの方がお勉強になった。こんな人本当にいるんだねぇ。。。。って。支払いはちゃんとしないといけませんね、って実感しました。あとジョンウィックも見ました。最新作の映画は見れませんでした。。。
10月  記憶がない。。。多分バイクも乗ってない。写真も記憶も日記もないからもはや何もしてないのでは?  あ、そういえばインフルっぽいののかかりつつ仕事してました。移さないように徹底的に感染防止しながら。役職的に替わりがいないからね。。。でも2〜3週間かけてだけどなんとか薬無しでなおしました。免疫の力すごい!  それと誕生月でカードのポイントが貯まるから、自分へのご褒美兼ねてamazonのセールと合わせていろいろ買いました。スマートホーム化作戦です。結果最高です。やっぱ売れる製品には理由があるんだなぁ。
11月  雪降る前になんとかもう一回ツーリング!と思ってツーリングしたけどやっぱ少し寒かったね。あと以外と酸ヶ湯ってすぐ行けるところにあるんだって驚いた。気づけば酸ヶ湯だったし普通に通過したし。   で、その翌週にバイク預けに行きました。初雪の日に。寒過ぎ。  あとは仕事で八戸行ったり。青森市に比べるとマシな気がする。  月末に自宅近辺も雪どかっと降ったのでビビりました。え、11月なのに?みたいな  グリッドマンユニバースがプライムビデオでやってたので見ました。これは最高のやつじゃん。。。アニメ版グリッドマンとダイナゼノン両方見た人が見たらもう最高のやつじゃん。。。映画版だからこそのやつです。これぞファンサービス、ファンディスクの極みですよ。。。。
12月  う��の職場以外も含めた我が社全体イベント的な感じでわちゃわちゃしてました。訳わかんねえって思いながらやってました。  雪も積もってやばぇ!って思いながら過ごしてました。年末年始の高温でいままさにかなり溶けてるおかげで助かってるけど。これ年明けにまた気温下がって雪積もったらえらいことになるんだよね。。。困る
 こんな感じでした。段々振り返りも雑になってきてる気がするな……といっても前の時のをほとんど覚えてないからもはやどうしようもないんだけど。  で、今年一年の目標でしたが、 「改善&成長」  改善はしたのか。。。?成長はしたのか。。。?  新しい職場、新しい役職でいろいろ経験はできたけど、成長はできたのか。。。。? いろいろ問題しかなかった気がする。。。  勉強の習慣化は無理でした。。。  改善は・・・仕事関係で改善しようと努力して結局失敗したくらいか。失敗というかデータが消えたというか。。。まぁ挑戦しただけヨシか?  あとはやろうと思ってずっと、具体的には5年以上放置してた種類の投資をようやく始めました。この5年があればもっと稼げてたはずなのに。。。と後悔しても遅いので、じゃあやるしかない! と重い腰をあげました  全般としては駄目駄目です! もっと頑張れ!
2023年「改善&成長」 2022年「名実ともに成長」 2021年「着実な前進」
2024年はどうしようか。まぁ仕事関係でいろいろと画策してることもあるし、これこそ本当にちゃんと努力しないと厳しいところもあるし。 「小さな努力の積み重ね」 で行こうかな。でかい結果残すためにも、とりあえず目の前のことやらないといけないのはわかりきってるけど、出来てないから! それをやる年にしろ! おれ!
というわけで今年もありがとうございました! また来年!!!!!
0 notes
20kitan · 2 years
Photo
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
エスケープ/ニコライ・ズダーノフ
追記に詳細設定(テンプレ元)
セリフ集
「コーリャでいいぜ。どうせ短い付き合いだ」 「わかったわかったつうの!纏わりつくな!」 「海の藻屑になりかけてかき集めた金が紙クズになりやがって……ったく泣けるぜこの世はよ」 「故郷でもねえのに故郷の味っつったらロシア料理だ。うちの祖母さんがこればっか作るもんだからな」 「俺が漁師をクビになったのは無能だったからじゃねえ。地球も海も凍っちまったからだ!」 「手足と頭がありゃ仕事くらい調達する」 「普通の家だよ。なんてことはねえただのよくある家だ。俺が息子で兄貴だっただけの……」 「これが小せえ喧嘩に見えるってのか?」 「べっつに構わねえよ」 「おう、どうした」 「へいへい……」 「ふっざけんじゃねえ!!」 「マジかよッ!ファック!」 「豚の餌にもなりゃしねえ」 「主憐れめよ」「主イースス・ハリストス、神の子よ。われら罪人を憐れみたまえ」 「どこでも行けるだろうよ。テメェにその能がありゃ……」 「俺ァ欲しいものをただ待つのは性分に合わねえんだ。それがたとえ嵐の中でもな」
◆ニコライ身上調査書
姓名:ニコライ・ズダーノフ(Nikolay Zhdanov/Николай Лукич Жданов) 愛称:愛称はコーリャ、ニーカ、もっと親しければニコラーシャなど 年齢:29歳 性別:男 血液型:AB型 誕生日:1月1日 星座:山羊座 身長:186cm 体重:86kg 髪色:赤茶色 瞳の色:明るいアンバー 視力:左右4.0 きき腕:右 声の質:低くて響く声(icv.ベオウルフのときの中井和哉) 手術経験や虫歯、病気:体が丈夫、病気をほとんどしないのであまり病院に行かない 身体の傷、アザ、刺青:顔や身体に細かい傷、手が傷だらけでぼろぼろ 胸、腹、二の腕にタトゥーがある その他の身体的特徴(鼻や目の形、姿勢、乳房、足、ホクロなど):恵まれた体格で肩幅が広い。 セックス体験、恋愛、結婚観:交際経験は3~4人。仕事が忙しすぎて連絡できず、自然消滅するパターンが多い。フリーのときは可愛いと思った女性に目をつけている。結婚願望はけっこうある。 尊敬する人:父親 恨んでる人:昔乗っていた漁船の船長、税関、代替わりした本社の社長 出身:アメリカ合衆国アラスカ州 所属:オレゴン州の漁業組合 将来の夢:大きい漁船を持つか、組合の会長 宗教:キリスト教正教徒(ロシア正教) 恐怖:真冬のベーリング海 高波 癖:拳を握る 酒癖:黙り込むか、思い出話をする
*交流向け 恋人:ジズ・サリバン 一人称:俺 二人称:お前、テメェ、あんた 呼び方:下の名前呼び捨て、愛称があればそれ
*概要
 オレゴン州で漁師をやっていた屈強な男。若いころから過酷なベーリング海での漁に勤しんでおり、非常にタフ。洋服を選ぶセンスがなく、出かけるときは恋人に言われるがまま着ている。笑うのが下手。
*性格
 強い信念を持つ働き者。怠けようという気持ちが一切なく、仕事に誇りをもって成果をあげようと努力する。いったんこうと目標を決めたらどれだけ長い時間がかかろうと寄り道も近道もせず忍耐強く熱心に取り組み、厳しいほど己を律して必ず達成する。若いころからの経験や教訓を糧に自立心と強い意志を持ち、誰よりも自分自身を信頼する。そのため人からの助言を受け付けない頑固な部分も。欲しいものがあれば誰かと争うことも厭わず、闘いを重ねることで獲得してきた。  根拠のあるものを信用し、そうでないものを信じきれない節がある。実績には確固たる自信を持つが自分自身にはそれほど自信はなく、不安定になると周りの人間を支配しようしたり、横柄にふるまうことも。外見が威圧的であることを自覚しているが、わざわざ優しく振舞ったりはしない。利己的で実益を求めるあまり淡々としすぎ、温かみや思いやりに欠けることもある。
*人間関係
 人付き合いはそれほど得意ではないと思っているが実は下手でもない。人をやる気にさせたり監督・指導するのが上手い。仕事ではある程度の地位につき、恐れられたり緊張感を与えながらうまく現場を回す。危険なときや指導の際は間をあけず瞬間的に怒るが、案外褒め上手で人の良いところをよく褒める。  特に恩義があったり自分の利益になると思った相手にはきちんと接して関係を保とうとするが、そうでない相手にはそっけない。小さな子供の扱いは比較的上手。自分や家族、それから利益を守るために喧嘩は買う主義で攻撃されれば間髪入れず反撃する。上下関係に厳しく、上には忠実で下を守ろうするが、自分だけ得をしようとしたり従業員を使い捨てるような上の人間には絶対に泣き寝入りせず、猛然と反抗する。
*家族関係、幼少期体験
 アラスカ州の自然豊かな田舎生まれ。祖父母がロシア人移民であり、その3世のロシア系アメリカ人。ロシアに出自のルーツを持つが、本人の意識としてはほとんどアメリカ人。妹が生まれてからしばらくして母親が病気で亡くなり、祖母、父、5つ下の妹と暮らした。
 18歳になるまで公立校に通う。学歴はごく普通。父親が主に過酷なベーリング海のカニ漁を生業にしており、体つきがしっかりしてきたハイスクール時代から死ぬほど手伝わされている。25歳のころ父親が海の事故で帰らぬ人となり、自身が「早死にの家系」であることを悟る。妹が行きたがった大学に行かせるため、アラスカからオレゴン州のポートランドに引っ越しをし、漁師として十分な生計を立てていた。
*能力
 働き者で野心もあり、仕事につけばそれなりの地位につくことができる能力を持つ。とにかく仕事ができるせいで人を頼より自分でやったほうが早いと思いがち。確実に努力したぶんだけの報酬を得て、体力の許す限りいくらでも働くことができる。  家計の管理や家を整えることもあまり苦ではなく、当然のように掃除や洗濯、自炊もする。レパートリーは主に魚料理と祖母から教わったロシア料理。得意なのはピロシキ。将来的に漁船を持ちたいと考えており、大型トラック、フォークリフト、水上バイク、すべての海域での船舶の運転免許、エンジントラブルにも対応できる海技士の資格を取得。乗組員としても重宝される。  また海上での星での位置確認が得意。体内時計を自在に操ることができ、数秒から数時間いつでもどんな場所でも眠ることができる。簡単な大工仕事はお手の物。サバイバルスーツの着用と氷をアイスピックで砕くのが異常に早い。  なんでも実用性を重視するのでファッションセンスはいまいち。ボロボロになるまで着る。
*好きなもの
食べ物:牛肉、カツレツ、新鮮なサラダ、スープ類、チーズ、いちじく、チコリー 飲み物:クラフトビール、ウォッカ、コーヒー 季節:春 色:緑 着るなら黒か茶色 食欲がわくのは赤 香り:普段はほぼ香水をつけずちょっと磯臭い もらいもののヴェルサーチェのエロスをたまにつける ミント、グリーンアップル、バニラの香り 煙草:吸わない 書籍:新聞、情報誌、古典文学 動物:カモメ 異性:自分の手元を離れない女 ファッション:動きやすくて汚れに強い服 もしくは80年代ファッション(他薦) 場所:穏やかな海、家 愛用:エプロン、ゴム製の靴、サバイバルスーツ 趣味:音楽を聴く、映画、読書
0 notes
sagara0220 · 4 years
Text
祖父の話
わたしの祖父は、無口で、頑固で、ぶっきらぼうな職人気質のひとだった。
長いこと基礎工事の仕事をしていて、物心つくころには毎日青色の大きなダンプカーに仕事の道具を乗せ、祖母が作る平たいアルミ弁当に目いっぱいに敷かれた白米と、茹でた塩じゃけ、茹で玉、漬物のお弁当を持って仕事に出かけていた。
祖父は、基礎工事の仕事に就く前は、土方仕事をしていた。母が小学生のころ、通学路を通って学校へ向かう途中で、山から原付バイクを3台引きつれて下りてくる土方仕事のおじさんたちを何度も見かけていた。原付バイクの後ろに、長い長い、水道管のパイプをくくりつけ、さっそうと朝日のなかを走っていく。そのひとりが、祖父だった。まだ父と出会うずっと前のことだ。
青いダンプカーは、乗るとそれはもう揺れた。軽油とコンクリートの匂いがした。夕方、学校が終わってスクールバスが家に着くころには祖父も帰ってきていて、わたしと弟は運転席の祖父と助手席の祖母に挟まれて必ず一緒に畑に行き、祖父母が仕事をしている間じゅう畑の草花を採ったり、側溝にいろんなものを流して遊んだ。見晴らしの良い畑からは向かいの山が見えて、わたしと弟はその山のふもとにヤギや馬やうさぎがいてゴーカ���トのあるすこし大きめの公園があることを知っていたので、もっと小さいころには、畑に行くたびにその公園に行きたいと騒いでたいへんだったみたい。何回かに一回は、祖父母は根負けて連れて行ってくれた。
実家を建て替えるときも、祖父が基礎工事をした。
小学校3年生まで暮らしていた平屋が壊され、更地になった場所でいちからロープをはり、祖父が背中をかがめながら作業をしていた姿を覚えている。基礎というのはその上に家がひとつ建つわけで、わたしが仕事でかかわったお大工さんはみな口をそろえて「基礎工事がなってないと全部だめになる」と言っていた。そうして、職人というのはどこかしらでつながっているようで、地元でお大工さんをしていたひとは、かなりの確率でわたしの祖父を知っていた。みんな、あのひとの仕事は細かくて評判が良かった、世話になった、と言っていた。
そんなエピソードを聞くと仕事では几帳面だったんだろうけど、離れの半地下へ続く地面をならすためのコンクリートの処理はずいぶんと凸凹で傾いており、歩くたびに躓きそうで、たぶん器用なひとではなかったんだろうなと思う。
そうして、短気なくせ、途方もない長い時間をじっと待てるという、相反する特技を持っていた。
携帯電話もない時代、小学生だったわたしと弟は遊びに行くたびに祖父に迎えを頼んだ。でも、小学生の約束なんてきっちり守られるわけもなく、待っているひとの気も知らずにあともうちょっとだけ遊びたい、を何度も重ねてずいぶんと待たせていた。20分以上時間が過ぎたころ外に出ると、祖父は軽トラックで待っている。「ごめんね」と謝るわたしたちに、祖父は「おお」とだけ言って、エンジンをかける。
祖母が抗がん剤の治療をしているときもそうだった。うちは山奥にあって、病院までは片道30分近くかかる。それでも抗がん剤の点滴はいったん帰ってもいいくらいの時間がかかるのに、祖父は軽トラックのなかで祖母の点滴が終わるのを待っていた。昼寝をしたり、ラジオを聞きながら。そうして、帰り道にスーパーに寄って、まぐろの切り落としやイカなんかを買ってきてお昼や夕飯に食べていた。
わたしが高校生のころ軽い脳梗塞を患い、それから仕事をやめた。青いダンプカーは売り、見慣れた景色がひとつなくなった。
仕事をやめてからは、祖母とひたすら一緒にいた。田舎で、酒もたばこもやらない祖父は無趣味といってよく、畑や田んぼの仕事がいきがいだった。離れのさんさんと陽が照る廊下を覗くと、いつだって横たわって目をつぶっていた。祖父母のベッドはセミシングルの大きなものが並べて置かれていて、弟はおどろくことに、大学生で家を出るまで、祖父と祖母の間に潜り込みに行っていた。夜、夕飯を食べたあとに弟の姿が見えなければ、必ずふたりに挟まっていた。
暑ければ軽トラックの助手席に祖母を乗せて畑まで行き、風通りの良い小屋のなかで果物を剥いてたべたり、ふたりでぽつぽつ話をしながらラジオを聴いていた。桜や紅葉が好きな祖母を連れて、季節ごと少しの遠出をしていた。
生きものが死ぬことを嫌がるひとで、弟が猫を拾ってきたとき、死ぬからいやだ、と真っ先に言った。実家で飼っていた犬の散歩が祖父の役目になっていたのだけど、犬が死んでしまった次の日、朝起きてすぐ、祖父は犬小屋を解体していた。無言で柵を外し、屋根を取り、犬がいた証をきれいさっぱりなくした。なんてあっさりしてるんだろうと当時は思ったけれど、見て、思い出すことを嫌がったのだろう。
祖母の具合がだんだん悪くなって、モルヒネを使うようになったころ、祖父は無口に輪をかけ、硬い表情をしていた。あと一ヶ月の余命だと聞いた両親は、祖父には内緒にしておこうと決めたけれど、一週間しかもたなかった。亡くなったその日、祖父は直前まで祖母の病室にいて、もうしゃべれなくなった祖母を、部屋の隅の椅子にじっと座って見ていた。叔母が送っていくと連れ立って出て行って、その15分後に祖母は息を引き取った。
息を引き取った祖母の病室に祖父が戻ってきたときのことを、わたしはあまり覚えていない。たぶん、唖然としていたと思う。
通夜が終わったあと、祖父は娘や祖母の妹、孫たちの話を珍しくにこにこしながら聞き、ずいぶんと夜遅くまで一緒にいた。祖父は、淡々と祖母をおくった。ひとりきりになっても、寝心地が悪くなるからと祖母のベッドは片づけたがらなかった。時折弟が、子ども時代のように野球中継を見る祖父のベッドの隣にもぐりこんでいた。
その年の冬、二度目の脳梗塞を起こした。見つけたのが早かったのもあってほとんど回復したけれど、立て続けにもう一回詰まってしまい、左右とも麻痺があるうえかなり痙性が強くなってしまったため、杖がないと歩けなくなった。祖父は、頑固になった。車の運転を禁止されて、畑を見に行けないと怒った。せん妄もあって、早く家に帰りたい一心でカレンダーをやぶり、「おまえらの暦が違う!」と文句を言っていた。部屋を改築し、祖母のベッドは片づけた。
わたしの勤め先に入院をしていたのだけれど、リハビリの最中わたしの姿をみとめると痙性の強い右手を上げて、にこにことあいさつをしてくれた。無口で、職人気質で、ぶっきらぼうだけど、じいちゃんは笑った顔がとびっきりかわいかった。
ここで祖父のかわいいエピソードを追加しておくと、祖母の月命日のお墓参りにこっそりと行ったと思ったらしょんぼりとして帰ってきて、理由を尋ねたら「マッチじゃなくて線香あげられなかったわ」とつまようじの箱を振っていたことがある。じいちゃんあのね、じいちゃんがスイカに刺して食べていた細い枝、あれがマッチだったよ。
祖母の一周忌。その次の日の朝。
朝食の用意をして、母が祖父を呼びに行った。わたしは出勤前で、携帯をいじっていた。6月の、森の緑は色濃くうぐいすが鳴く、爽やかで美しい朝だった。母が叫んで、でもわたしは朝でテンションが低くて一度目は聞き流し、ただごとでなさそうだったので駆けつけると祖父が白目をむいて痙攣していた。横にして、脈をとる。すぐさま心臓マッサージを始めて、母に��急車を呼ぶように伝える。つかえながらなんとか電話をして、���談みたいだと狼狽えている母に、弟も起こすように言う。離れの、朝日が差し込む廊下の隅で、救急車が到着するまでの永遠みたいな時間、祖父の胸骨を圧迫し続けた。ときどきあえぐように息をするから、じいちゃんって呼び続ける。弟が起きてきて、半笑いになって、冗談だろって笑う。手を止めずに同意する。笑っちゃうよね。現実じゃないみたいだもん。わたしの手のひらの下で、なにか硬いけれど脆いものが、みしみし、と割れていく音がしていた。肋骨が折れる音を初めて聞いたな、と思う。救急車のサイレンが、やまびこになって聞こえていた。
祖父が亡くなったのは、祖母の命日の、次の日だった。年齢は、一歳年上だった祖母を追い越さず、ふたりとも数えで84歳だった。墓碑には綺麗に数字が並んだ。最後の最後まで、仲の良い夫婦だった。遺影には弟がモノクロフィルムで撮っていた写真が選ばれた。とびっきりかわいい、じいちゃんの笑顔の遺影だ。弟のまなざしの美しさに、わたしは毎回泣きそうになる。
どんな物語を読んでもかなわないな、と思う。
朝日がブドウ畑を照らすなか、さっそうと原付バイクで走っていく姿を思い浮かべる。見たことはないけれど、わかる。きっと、祖母の作った茹でじゃけと、茹で卵と、漬物のお弁当を、荷台に入れている。毎日毎日、実直に生きることは、途方もなく美しいものを連れてくるのかもしれない。
2 notes · View notes
kadookanobuhiko · 4 years
Text
白昼の死角 長ねぎが消えた
    来月初旬に、とうとう57歳になる。”オリンピックまであと〇〇日”みたいに、いよいよ還暦が、カウントダウンに入った。東京五輪は延期になったが、年齢にそれはない。
 今年はベートーベンの生誕250年にあたるので、クラシック番組でよく取り上げられている。かつて愛聴した作曲家のひとりである。気になって調べたら、かのベーやんは、56歳で亡くなっていた。
 ちょっと、ドキッとした。九つの交響曲をはじめ、数々の名曲をつくった楽聖。それに比べてオレは・・・。まあ、ジャンルも時代も違うから、問題はない(そういう話かよ!)。
 57という数字は、50代半ばのギリギリだ。58は、間違いなく後半である。あと1年間は、思いっきり”半ば”を満喫しようと思う(何をや!)。
   ◎57◎57◎57◎
 自分の年齢に、あまり実感はない。若いと言うにはとうが立っているが、老いてはいないつもりだ。けれども肉体は正直で、間違いなく衰えている。まずは視覚だ。
 加齢による視力の衰え=老眼は、すでに持病の域に達している。こいつは王様気取りで読書の邪魔をする。すっかり臣下は、二段組や極小文字の本を敬遠するようになった。とはいえ、大きな活字のスカスカ本は、いかにも内容がなさそうで買う気になれない。難しい年頃(性格?)である。
 今のところ、デジタル読書を試すつもりはない。老いてなお、正真正銘の紙の本好きなのである。その私が、インターネット上にブログを書いているのも、変な話ではあるが。
 老眼で一番困るのは、パスタの茹で時間問題である。外国製とくにイタリアのそれは、袋に書いてある茹で時間の字が、異様に小さい。というか、どこに書いてあるのかさえわからない。探すのに往生する。パスタを茹でるのは、元気ハツラツの若者だけじゃないぞ!と、極東から声を大にして言いたい。
 視力だけではない。視野も狭くなっている。広い範囲でものを見ることができないことに加え、奥行きがわかりにくくなっている。茶碗に米飯が残っていることがある。手前の米が、死角になって見えていない。そんなことは、かつてはなかった。神に誓って。
   ◎57◎57◎57◎
 原付バイクに乗って、よく買い物にでかける。長ねぎが、ビニール製の買い物袋からはみ出ていることがままある。店によっては切ってくれるところもあるが、スーパーなどではそのままだ。
 袋から半分くらい顔をのぞかせたそいつを、バイクの胴体のフックに引っ掛ける。長ねぎを両足ではさむ感じで(触れてはいない)出発進行。しばらく走り、赤信号で停車する。
 ふと見ると、長ねぎが袋から消えているではないか。風か振動で、袋から飛び出したのだ。泳げ!たいやきくんみたいに・・・。
 所有者の私は、落としたことに気づいていない。視野が狭いため、出奔した瞬間が目撃できていない。まさに、白昼の死角である。そんなことは、これまでになかった。神に誓って(もうええか)。
 長ねぎくんのいない袋をしばし見つめる私。今来た道を引き返し、長ねぎを探す旅に出るかどうか、迷う。いや待てよ、交通量が多い幹線道路だから、落ちた長ねぎは、間違いなく車に轢かれている。かわいそうな長ねぎよ。いやいや、いち早く探せば、車の犠牲にはなっていないかもしれない・・・。
 でも、探しまわって、見つからなかったらどうする? 警察に届け出るか?
「どうしたんですか?」
「な、長ねぎを・・・落としてしまったんです」
「あ~ん???」
 間違いなく、不審者に見られる。あの長ねぎには、縁がなかったんや。そう自分に言い聞かせ、エンジンをふかす。もう、後ろは振り向かない。
   ◎57◎57◎57◎
 握力も驚くほどなくなっている。加齢に加えて、パソコンが大きく影響していると思う。一日中マウスを握っていると、力が入らなくなるのだ。
 以前めちゃくちゃ忙しかったとき、右手の握力がほとんどなくなっているのに気づき(私は右利き)、何かの病気にでもかかったのではないかと、本気で心配した。五指に力が入らないのである。繁忙期を過ぎると、徐々に持ち直した。意外に”ミッキー”が下手人だったとは。まさに、死角である。
 ビンの蓋も開けにくくなった。若いころ、祖母によく助けを求められた(私10代、祖母60代)。私が試すと、難なく蓋は開いた。老人はなんて力がないんだろうと思った。それが今は、すっかり私は祖母みたいになっている。
「おばあちゃん・・・」
 鏡の中の自分に呼びかけてみる。
 菓子などのビニールの袋類も、開けにくくなった。特にペットフード。どれだけ引っ張っても開かない。そもそも人力では無理なのかもしれない、と思うようにしている。
 二の腕も細くなったので、最近は腕立て伏せを何十年かぶりで始めた。30回が精いっぱいである。憧れのプロ野球選手になるのは、もう無理かもしれない。
   ◎57◎57◎57◎ 
 五十代半ばともなると(まだ言えるぞ!)、時間感覚が伸びたゴムみたいにゆるゆるになっている。二十歳は20年しか生きていないので記憶は鮮明で、ある出来事が何年前にあったかを言い当てるのに、大して誤差はないはずだ。
 ところがわれわれ高齢者予備軍は、ある事柄が2年前だったのか、3年前だったのか、それとももっと前なのか、思い出せないことがよくある(私だけか?)。
 4月のBSプレミアムシネマで『卒業』(監督:マイク・ニコルズ 主演:ダスティン・ホフマン)を放映していた。1967年に公開されたアメリカン・ニューシネマの名作である。かなり昔に観た覚えがあるが(ほら、もう忘れている)、久しぶりに見直したら、やっぱり面白かった。脚本がいいし、カットが凝っている。
 真面目な大学生のダスティン・ホフマンが、けっこう年上の人妻と恋に落ちる。その娘とも恋仲になって最後は・・・。まだ観ていない人のために、口にチャック!
 アン・バンクロフト扮する人妻が、なんともエロいのである。観ながら思った。この人、2~3年前に亡くなったのを新聞で読んだ覚えがあるーー。あとで確めたら、天に召されたのは、15年も前だった! ぜんぜん違うやん。ゴム、伸び切ってるやん! 
   ◎57◎57◎57◎
 映画の話をもうひとつ。今月18日のWOWOWシネマで『ラヂオの時間』(監督:三谷幸喜、出演:唐沢寿明・鈴木京香・西村雅彦ら、97年)を放送していた。三谷の初監督作品である。彼は以後、大作を数多く手がけていくが、演劇的要素がうまく凝縮したこの作品は、私の中ではベストワンである。
 作中、梅野泰晴が演じる、演歌歌手のマネージャーが出てくる。その場その場で強者に調子を合わせる軽い人間をうまく演じている。一緒に観ていた北川景子は「こういうやつ、おるわ~!」と何度もうなずいていた。
 観たあとの私たちの会話。
「梅野泰晴って、何年か前に亡くなったよな」
 私が言うと、すぐに北川がスマホで検索した。
「まだ生きてはる! 87歳や!」
 60年近く生きていると、誰が亡くなったのか、はたまた生存しているのか、わからなくなってくる。
 この作品の出演者では、藤村俊二、細川俊之がすでに旅立っている(ふたりの演技も良かった)。彼らと混同したのか、それとも別の人と勘違いしたのか、それさえわからない。
 どちらにしても、私の頭の中の記憶のゴム(消しゴムではない)は、やっぱり完全に伸びきっている。
   ◎57◎57◎57◎
 平均寿命が延びることで、人類は人生で得られた知識や経験を後輩たちにより多く伝えることができるようになったーーそのような内容をむかし本で読んだ記憶がある。
 私に限って言えば、その一方で記憶もどんどん失われている。したがって、伝えているのは、あやふやでどうでもいいことが少なくない。
 ん? この原稿が、それ? ・・・確かに。<2020・7・22>
1 note · View note
ryuichi0219 · 4 years
Link
https://www.townnews.co.jp/0112/2020/01/09/512568.html
祖父が以前免許返納をしたときにお世話になったところらしい。 年寄りになるとやはり出張で査定とかにきてもらうのが楽だと言っていた。
https://www.bikeone.jp/area/index.php
自分も以前使ったことがあるバイク買取専門店も出張買取してくれるし、全国エリアで対応しているから、地方でも安心。
1 note · View note
xf-2 · 5 years
Link
事実を知らしめることが親善に
豊田有恒(作家)
愛国の一方で政府批判
 このところ、韓国の反日が常軌を逸したものになっている。いわゆる従軍慰安婦の問題は、日本の巨大新聞が、その強大な影響力を行使した結果、世界中にまき散らされた虚構なのだが、いわば韓国との連携のもとで、拡大した側面も見逃せない。
 明らかに、韓国は、変わってきている。なぜなのだろうか? 私は、1970年代の初頭から、韓国へ通い始め、韓国語も学び、多くの著書を上梓してきた。しばしば、親韓派と目されてもきた。弁解になるが、これには、理由がある。70年代の当時、例の巨悪の源泉である新聞社は、北朝鮮一辺倒だったのである。今日では考えられないことだが、北朝鮮を「地上の楽園」と美化し、相対的に韓国を独裁政権と規定し貶(おとし)めてきたのである。
 私は、もともと、小説家であり、思想的な背景はない。韓国へ行くようになったきっかけは、小説の取材のためでしかなかった。韓国は、あの新聞社が報じるように、独裁政権の国だと思いこんでいた。これは、おおかたの日本人の当時の平均的な理解だったろう。なにしろ、良心的と目されていた大新聞が、北朝鮮への帰国事業などを後援し、後にノーベル賞を受賞する有名��家や、国際無銭旅行で大ベストセラーを出した評論家などが、すっかり賛同しているのだから、実際に韓国へも北朝鮮へも行ったことのない人間は、そうだと信じこむしかなかった。
 しかし、韓国へ通ううちに、日本の報道が、おかしいのではないかと、うすうす思いはじめた。三十代はじめで若かったせいだろう、フットワークが良かったから、取材目的の古代遺跡のほかにも、あちこち歩きまわる。ディスコで知り合ったディスクジョッキーをやっているという同年輩の韓国人と意気投合したが、この男、どこでも政府批判ばかり口にする。こちらが、心配になって、周囲を見回したほどだった。日本では、KCIA(韓国中央情報部)の悪行ばかりが報道されていたから、言論の自由はないという先入観にとらわれていたが、こうした報道が、変ではないかと感じはじめた。
 また、一方では、政府批判もするが、この男、愛国心を口にする。ディスクジョッキーという軟らかい職業の男が、愛国心を口にすることに、違和感も持ったが、やや羨ましくもあった。当時、日本のマスコミは、左翼デマゴーグに牛耳られていたから、愛国心などと言えば、右翼と間違われかねないような風潮が、蔓延していた。しかし、韓国では、こうした言説は、この男だけではなかった。あちこちで、北朝鮮に偏している日本の報道がおかしいとする、多くの韓国人の批判を耳にするようになった。また、必ず日本に追いついて見せるという、愛国心をむき出しにした意見にも接した。
韓国の実情紹介に誹謗中傷
 韓国語が判るようになると、行動範囲も広がってくる。こうした韓国人が、KCIAに監視されているから、点数かせぎに愛国心を口にしていたわけではないと、だんだん判ってきた。バイク・カーマニアだったので、現代(ヒョンデ)自動車(チャドンチャ)や大林産業(テーリムサノプ)のショールームに足を運んで、韓国の自動車・バイク事情に関心を持ちはじめた。
 日本で報道されるような「暗く抑圧された独裁国」といったイメージでないことが、しだいに判ってきた。日本で、しばしば誤解されていることだが、反日の激しさから、韓国人に険しいイメージを持つ日本人が多い。一面では当たっていないこともないが、日常の生身の韓国人は、妙になれなれしく陽気で人懐(ひとなつ)こい。
 あの大新聞は、「暗く抑圧された独裁国」という疑似イベントを売りまくって、北朝鮮を美化し、韓国を貶める方向へ、日本国民をマインドコントロールしていたのだ。
 韓国では、確かに日本より言論の自由が制限されていた。しかし、それは、金日成の個人崇拝による究極の独裁国家である北朝鮮と対峙するためであり、ある程度は強権政治を敷くしかなかったのである。当時、韓国では「誤判(オバン)」という表現が、しばしば使われていた。韓国国内が混乱していると見てとり、好機とばかりに北朝鮮が南進に踏み切るのではないかというわけだ。つまり、北朝鮮に誤判させないように、常に国内を安定させておかなければならなかったのだ。全ての韓国人が、ほん(・・)もの(・・)の(・)独裁国家である北朝鮮を恐れていたからだ。
 こうした韓国の実情を、広く知らせたくなった。小説家という職業柄、書くメディアには、事欠かない。小説家の仕事ではないという躊躇(ためら)いもあったが、最初のノンフィクションとして「韓国の挑戦」(祥伝社)を上梓したのが、昭和53(78)年のことだった。書評では、これまでの日本の対韓認識を一変させたとまで、評された。当時の私には、巨悪と戦おうなどという大それた問題意識は、まったくなかった。
 だが、ベストセラーにはなったものの、あれこれ、雑音が耳に入ってきた。この問題が、当時のマスコミ界では、タブーになっていると知ったのは、発売されてからだった。つまり、ほんとうのことを言ってしまったため、このタブーに抵触した。期せずして、あの大新聞と言う虎の尾を踏んでしまったわけだ。
 朴政権に買収されている―は、まだしも上品なほうで、韓国に愛人がいるとか、韓国成り金だとか、いろいろ悪罵を聞かされることになった。そこで、子供たちもつれて、一家5人で毎年夏休みに韓国へ遊びにいき、印税を使い果たした。
日韓のため尽くした金思燁氏
 あの大新聞が主導して、日本人を親北朝鮮、反韓国という方向へ誘導していたわけだが、最近は、かつての報道姿勢が嘘だったかのように、あの大新聞は、北朝鮮を賛美するようなこともなくなり、いつのまにか北朝鮮への批判を、臆面もなく展開するようになった。
 それどころか、70年代当時あれほど嫌っていたはずの韓国に過剰に感情移入し、悪いのは全て日本人式の報道姿勢で、虚構に基づく従軍(・・)慰安婦(・・・)なる疑似イベントを垂れ流す始末である。多分、従軍(・・)慰安婦(・・・)報道についても、いったん非を認めたものの、真剣に謝罪するつもりなどなく、なし崩し的に、鉄面皮を決め込んで、風当たりが収まるのを待っているのだろう。
 実際、当時、私は、韓国人の魅力にハマってもいた。日本人のように、控え目でなく、陽気に自己主張する姿勢が、一度も宮仕えしたことのない私のような一匹オオカミの作家には、波長が合っていると錯覚したせいでもある。
 当時、知り合った韓国人のなかには、私の終生の師と仰ぐ人も、少なくなかった。東国大学の金思燁(キムサヨプ)先生とは、シンポジウムの席で知り合った。日韓バイリンガルの世代的な体験から、「日本書紀」「万葉集」を韓国語に、「三国(サムグク)史記(サギ)」「三国遺事(サムグンニュサ)」を日本語へ翻訳され、日韓古代史の研究におおいに貢献され、また、東国大学に日本学研究所を設立され、初代所長として、日本研究を韓国に定着させた功績は、おおいに評価されるべきだろう。
 金先生に招かれ、東国大学で講演したこともある。最初、韓国語で話しはじめたのだが、見るに見かねて、助け船を出してくださったのは、先生の優しさだった。私のほうも、日本人を知る方々が物故して、日本語スピーカーが減っていることに危惧を覚え、毎年、拙著も含めた文庫本を教材として日本学研究所へ寄贈し、日韓親善に努めたものである。金先生は、私のささやかな協力に、研究所からの表彰という栄誉で応えてくださった。ほんとうに尊敬できる立派な方だった。
 また、在日の人では、作家の故・金(キム)達(ダル)寿(ス)さんとは、古代史の会を通じて、親しくしていただいた。「日本の中の朝鮮文化」は、十数巻にわたる大著だが、日本全国に足を運んで、いわばライフワークとして書かれる際、金さんが自分に課していたことが、ひとつだけあった。韓国・朝鮮人の書いたものは、絶対に引用しないことだった。韓国・朝鮮人の書いたものなら、例の剣道の起源の捏造のように、なんでも朝鮮半島から渡来したと、こじつける文献が、いくらでも見つかるだろう。
 おそらく、金さんは、韓国・朝鮮人の書いた文章を引用したいという誘惑に駆られたこともあったにちがいない。しかし、日本人が書いたものしか引用しないと、いわば、痩せ我慢のように、心に決めていたのだ。
 金達寿さんとは、酒を呑んだり、旅行したり、また拙著の解説をお願いしたりしたこともある。艶福家で豪快な人だった。
今に伝わらぬ統治のプラス面
 時の政権を批判して、亡命同様に日本へ渡り、「コリア評論」を主宰されていた金三(キムサム)圭(ギュ)さんとも、知り合った。何度か、同誌をお手伝いした記憶がある。金さんは、東亜(トンア)日報(イルボ)の主筆の体験を生かして、当時は画期的だったクロス承認方式を提唱して、健筆を奮っておられた。南北朝鮮の対立状況を解消するため、中ソ(当時)が韓国を、日米が北朝鮮を、それぞれ承認することによって、平和を担保するというアイデアだった。
 しかし、その後の経緯を考えれば、中露は韓国を承認したが、日米は、北朝鮮と国交を持たないままである。あの当時は、かの大新聞の陰謀で、日本では伏せられていたが、北朝鮮という史上かつてない独裁国家の実像と戦略が、今や全世界で周知のものとなったからである。
 例の大新聞は、韓国を独裁国家と決めつけて、あれこれ捏造報道を繰り返したが、まもなく馬脚をあらわすことになった。あまり、褒められた話ではないのだが、不純な動機ながら、多くの日本男性が、韓国を訪れるようになり、本物の韓国を実際に目で見るようになったからだ。
 今も変わらぬ売春大国は、当時から有名だったのだ。空港などでは、団体旅行の男たちが、昨夜の女がどうのこうのと、聞えよがしに話しているのは、同じ日本人として、気が引ける思いだった。当時は、日本世代の韓国人が健在だったから、日本語を理解できる。あまりの傍若無人さに、舌打ちをしながら、露骨に「ウェノム」だの「チョッパリ」だの、差別用語を口にしている韓国人も、珍しくなかった。こうした日本人は、韓国語が判らないから、差別用語で呼ばれても、判らないのだから、おめでたい話だ。
 しかし、不純な動機から訪韓しようと、実際の韓国を見てくれば、韓国が制限付きながら、自由主義の国だと判る人が増えてくる。とうとう、例の大新聞も、疑似イベントのような韓国=独裁国家論を、引っ込めるしかなくなったようである。
 免税店などでは、日本世代の年配の女性が、若い人に日本語を教えているケースもあった。何度か訪れ、親しくなると、世間話のようなこともするようになる。さる女性は、つい最近(当時)、女学校の同窓会を行なったところ、多くの同窓生が日本から駆けつけてくれたと、嬉しそうに話してくれた。
 当時、女子の高等教育は、日本でも朝鮮でも、まだ途上だった。女学校は、いわば最高学歴で、いい家の子女しか、通えなかった。したがって、この方の同窓生は、かつてソウルに住んでいた日本人が多かったわけだ。いや、この方も、元日本人であり、内地か朝鮮かなどと、出自を気にすることなく、自由に青春を共にしていたのである。
 多くの悲劇も誤解も矛盾もあったが、こうした日本統治時代のプラス面が、日本でも韓国でも、今の世代に正確に伝わっていないことが、日韓の最大の問題なのだろう。
良好になりつつあった日韓関係
 70~80年代にかけて、韓国では、慰安婦も歴史認識も、話題にすら昇ったことはなかった。その後、韓国を独裁政権扱いする報道も影をひそめ、日韓関係は、良好な方向へ向かいはじめた。もちろん、一部では、反日もあるにはあったものの、顕在化しなかった。
 むしろ、日本人のほうが、韓国への好感度を増していった。「冬のソナタ」のヒットの影響もあったろう。元のタイトルは「冬(キョウル)恋歌(・ヨンガ)」である。主役の裴(ペ)勇(ヨン)俊(ジュン)の魅力もあったろうが、誰が訳したのか、ソナタという言葉が効いたせいもあるだろう。
 70年代、日本世代の免税店のおばさんたちは、男ばかり来ないで、女性にも韓国へきてもらいたいと、いつもぼやいていた。家内を同行すると、おおいに喜ばれた。当時、ビーズのハンドバッグ、螺鈿(らでん)の漆器、絞り染めの生地など、男には価値の判らない土産物が、韓国では安く買えたのである。時代は、様変わりして、多くの中年女性が、日本から韓国を訪れるようになった。
 私も個人的に、日韓親善に尽くしてきたつもりである。東国大学以外にも、たまたま知り合いができた祥(サン)明女子(ミョンヨジャ)大学(テーハク)など、いくつかの大学へ、文庫本を教材として寄贈しつづけた。韓国の日本語スピーカーを減らさないためである。
 また、本業に関して言えば、日韓の推理作家協会の交流プロジェクトが、行なわれた際には、おおいに働いたと自負している。韓国では、減ったとはいっても、日本語で案内してくれる作家に、事欠かない。しかし、日本では、「韓国の独裁政権、やっつけろ」式の景気のいいスローガンをぶち上げる作家は、たくさんいたものの、韓国語で案内できる作家が、ほとんどいなかった。「あれ(イッチョ)に(ゲ・)見えます(ポイヌン・)建物(コンムル)は(・ン)、国会(クッケ)議事堂(ウィサタン)で(・イ)ございます(ムニダ)」などと、東京観光ではバスガイドのようなことも、しなければならなかった。
 90年代には、日本人の韓国に対する関心と、好感度も高まり、韓国人の日本への興味、関心も、増していった。サッカーW杯の共同開催に向けて、日韓関係は、新たなステージに向かうかに見えた。
日韓離反狙う慰安婦捏造報道
 だが、ここで、あの大新聞は、またしても、その強大な権力を行使して、日韓離反の挙に出た。
 1991年、いわゆる従軍慰安婦な���虚構が、報道されたのである。この巨大新聞は、現在では、いちおう虚妄だったことを認めてはいる。だが、軍隊相手の売春婦である慰安婦と、勤労動員で働いた挺身隊を、混同した報道に関しては、当時は事実関係の研究が進んでいなかったためと、弁解している。
 しかし、年齢の離れた姉が、あのころ女学生で、勤労動員により中島飛行機の工場へ、自転車で通っていたのを、私ははっきり覚えている。もちろん、慰安婦とは、何の関係もない。ことは、姉の名誉とも関わってくる。
 平成に入って早々のころには、あの新聞社にも、私と同世代の社員が、まだ現役でたくさん働いていたはずである。知らないはずがない。二十数年も訂正することなく、頬かぶりをしてきたのは、単なる誤報などではなく、あの大新聞が仕掛けた日韓離反策の一環で、意図的なものだからなのだろう。
 日韓離反を図る大きな意思は、あの新聞の言論支配のもうひとつの柱として、吉田某なる人物による、済州(チェジュ)島(ド)における日本官憲の女狩りという、とんでもない虚構を付け加えることによって、さらに拡大していく。
 しかし、その後の十数年は、この大新聞の企みは、まだ功を奏さなかった。日本では、韓国ブームが続いていたからである。これまで訪韓したことのない、中年婦人層が、韓国を訪れることが多くなり、韓流にはまった韓国語学習者も、増えていった。そればかりでなく、男性のなかにも、韓流ドラマにはまる人が多くなった。韓国の大河ドラマ「朱蒙(チュモン)」は、高句麗の開祖朱蒙を主人公とした作品だが、私の近くのDVD店では、新作が十巻入っても、即日借りだされるほどの人気だった。
 朱蒙は、もともと「三国(サムグク)史記(サギ)」に記録される神話上の人物なのだが、それを強引に歴史ドラマ風に、仕立て上げるところが、まさに韓国人である。元ネタが僅かしかないので、古今東西のエンタテインメントから、使えそうな要素を、流用している。水戸黄門のような部分も、大奥のような部分もあるが、臆面もなく、受けそうな要素を投入しているから、たしかに面白いことは面白い。
 また、韓国側も経済力の伸長と共に、訪日して実際の日本を肌で知る人々が増えてきてもいた。別府の大ホテルなど、経営危機に陥った苦境を、韓国からの観光客の増大で乗り切ったほどである。国際化というスローガンが、しばしばマスコミを賑わすが、お互い知り合う以外に、国際理解が進むことはない。 
慰安婦と同構造の原発報道
 だが、挺身隊=慰安婦という虚妄、済州島女狩りという捏造は、徐々にボディブローのように効いていった。韓国では、従軍慰安婦像なるものが、日本大使館の前に設置され、アメリカ各地へ飛び火していく。あの像は、新聞報道にあった12歳の少女として造られている。挺身隊=勤労動員には、中学生、女学生も動員されたから、その年齢の生徒たちも少なくなかったが、軍隊相手の慰安婦に、その年代の少女がいたという記録もないし、事実もなかった。
 韓国では、挺身隊問題対策協議会という団体が、活動し続けている。あまりにも長ったらしいので、挺(チョン)対(テ)協(ヒョプ)と略している。あの大新聞が垂れ流した挺身隊=慰安婦という虚構を、そのまま踏襲しているわけだ。語るに落ちるとは、このことだろう。
 事実関係が、はっきりしたのだから、あの新聞の責任で、韓国側に訂正を求めるのが、筋だろう。だが、あの新聞は、それをしない。それどころか、慰安婦の存在は事実だから、これまでの方針に変わりないという態度を、とりつづけている。
 なぜ、こうなるのだろうか? 韓国の問題と離れるが、私も筆禍に遭ったことがある。あの新聞社は、取材も検証もしないで、記事を書くことが、はっきり判った。私が受けた筆禍など、些細なことだが、問題の根は、共通している。
 私は、本業のSF小説の未来エネルギーとして、昭和30年代から、原子力に興味を持っていた。そして、日本中の原発と、建設予定地の全てを、取材した。当時、人気の「朝日ジャーナル」誌が、特集を組んだなかに、私の名前も、名誉なことに入れてあった。その特集とは、「わたしたち(原発反対派)を未開人と罵った識者十人」というものだった。もしかしたら、原発反対派を未開人と罵った粗雑な人間が、その十人の中に、いたのかもしれない。
 しかし、私は、そういうことを言ったこともないし、書いたこともない。それどころか、立地点の住民の反対を尊重すべきだと、常日頃から主張してきた。また、すでに物故したが、反対派の大立者の高木仁三郎は、私の中学の同級生で、同じ大学に入った間柄であり、かれが反対意見を発表できないような事態になったら、私と意見が異なってはいても、かれの言論の自由を守ると宣言してきた。さらに、原発に反対する自由のない国は、原発を建造すべきではないと、何度も書いたことがある。
 ことは、原発賛成、反対という問題ではない。こうした報道をするからには、私をふくめて、そこに記された十人が、そういう発言をしたかどうかを、取材確認する必要がある。
 ところが、私には、まったく取材は来ていない。そこで、私は、雑誌「諸君」のページを借りて、当時人気だった筑紫哲也編集長宛てに、私が、いつ、どんなメディアで、そういう発言をしたかと、問い合わせた。もちろん、そんな発言など、あるわけがない。筑紫編集長の回答は、のらりくらりと、話題をすりかえることに終始した。
韓国人と〝あの新聞〟の共通点
 つまり、あの大新聞は、取材も検証もしないで、主義主張に基づくフィクションを、報道の形を借りて、読者に垂れ流しているわけだ。原発などに賛成し、傲慢な発言をする非国民が、十人必要になった。そこで、関係ない人間もふくめて、誌上でさらし者にしたわけだ。つまり、原発推進めいた意見を、圧殺する方針だったのだろう。
 いわゆる従軍慰安婦の報道と、まったく同様の構造である。
 従軍慰安婦なるフィクションを、あたかも事実であるかのように、売りまくって読者を欺いた責任は、まさに重大である。しかも、日韓関係を破壊したばかりでなく、全世界にわたって日本の名誉を泥にまみれさせた罪科は、きわめて悪質である。
 誤報ではなく、明らかに意図的な捏造である。この捏造が,韓国に飛び火すると、さらに拡大していく。その意味では、この大新聞の離反策に、うまうまと乗せられた韓国も、いわば被害者と言えるかもしれない。主義主張を真っ向から掲げて、事実の確認も検証もしない韓国の国民性と、あの新聞の社是(?)は似ているかもしれない。
 私は、過去四十数年にわたって、韓国と関わってきた。最初、自宅ちかくの笹塚の小さな教室で、韓国語を学びはじめた一人に産経新聞の黒田勝弘さんがいる。あちらは、ソウル在住が長いから、私など到底及ばないネィティブスピーカーに近い語学力だが、スタートは一緒だった。
 以後、折々に韓国関係の著書を上梓してきたわけだが、その都度、親韓派、嫌韓派などと、勝手に分類されてきた。例の大新聞もふくめて、日本のマスコミが北朝鮮に淫していたころは、日本のマスコミ批判とともに、韓国擁護の論陣を張り、顰蹙を買った。また、韓国の反日が、度を過ぎたと思えば、遠慮なく韓国批判を展開してきたつもりである。
 国際親善には、王道はないから、知る以外に近道はないと考え、「日本人と韓国人、ここが大違い」(文藝春秋)「いま韓国人は、なにを考えているのか」(青春出版社)など、比較文化論ふうの著書もあり、口はばったい話だが、日本人の韓国理解に貢献してきたつもりである。
 もちろん、私の独断と偏見に堕す危険があるから、多くのコリア・ウォッチャー仲間から、助言や意見も頂戴し、拙著の間違いも指摘された。
転向左翼の韓国利用
 いわゆる韓国病にはまりかけていたとき、早大名誉教授の鳥羽欽一郎先生から、たしなめられた。「豊田さん、日本人と韓国人は、おたがい外国人なのだから、同じ視点に立つということはできませんよ」と、確か、こんなことを言われた。そのときは、むっとしたが、先生は、韓国にのめりこみすぎている私に、ブレーキをかけてくださったのだ。
 70年代、韓国にまじめに取り組もうという日本人は、それほど多くはなかった。田中明氏のような大先達のほか、外交評論の大御所岡崎久彦氏にも、お目にかかり、励ましを頂戴したことがある。外務省在勤中で、本名をはばかったのか、「隣の国で考えたこと」を、長坂覚のペンネームで、早い時期に刊行されている。現在は、本名で再版されているから、入手可能な名著である。
 また、産経新聞の柴田穂さんも、大先達の一人だった。韓国関係の会合で、何度か、お目にかかり、アドバイスを頂戴したこともある。なにしろ、中国政府に批判的な記事を書き、産経新聞が北京支局の閉鎖に追いこまれたとき、支局長として残務を整理し、従容として北京を退去された剛直な方である。支局閉鎖という事態を招いたのだから、本来なら責任重大なはずだが、言論の自由を守ることを優先したのである。
 それに引き換え、当時あの大新聞は、中国べったりの記事を、垂れ流しつづけていた。この新聞社には、Aという名物特派員がいた。中国通をもって自任していたはいいが、他社の記者まで、このA特派員に、お伺いを立てるようになったという。どこまで書いたら、中国政府の逆鱗にふれるか、A特派員に、判断を仰ぎに来たのだ。早い話が、あの大新聞が、日本の中国報道を検閲していたことになる。
 70年代、北朝鮮一辺倒だった日本の文化ジャーナリズムの世界で、一つの伝説があった。いわゆる進歩的文化人は、自分の名前だけ、ハングルで書けたというのである。申し合わせたのかもしれないし、あるいは、あの大新聞の関与があったのかもしれない。現在からは、信じられない話だが、ハングルで名前を書いてみせるだけで、朝鮮問題(?)の権威扱いされたそうである。
 しかし、現在の日韓の確執を眺めると、妙なねじれ現象がある。竹島問題にしても、従軍(・・)慰安婦(・・・)にしても、韓国側と共同歩調を取っているのは、70~80年代、あれほど韓国を独裁国家扱いして、忌み嫌っていた進歩的文化人なのである。節操もなにも、あったものではない。日本叩きに資する、あるいは、商売になると判ったら、かつて贔屓にした北朝鮮を見捨て、韓国に媚びるのだから、こういう世渡り上手と戦うのは、容易なことではない。
事実伝えることが真の親善に
 翻って、現在の韓国である。反日は、狂気の沙汰の域に達している。これには、日本世代が現場から退き、あるいは物故したという事実が、おおいに関係している。私が、多くの教示を受けた方々は、もし存命なら、こんなことを言うと怒られるかもしれないが、日韓双方の美点を兼ね備えておられた。
 もう一歩、踏み込んで言えば、日本の教育を受けた方々だった。立派な方というと、ややニュアンスがずれるが、韓国語でいう「アルンダウン・サラム」という方が多かった。こういう世代が亡くなり、反日が質量ともに、変わってしまった。まず、かれらが考える仮想の日本人に対して、際限なく敵意をむき出しにした、いわばバーチャル・リアリティの反日になっている。
 日本では、韓国人は、険しいイメージでとらえられがちである。反日の激しさを見れば、間違いではないが、一面的に過ぎる。日頃の生身の韓国人は、お喋りで、陽気で、図々しいくらい人懐こい。日本人は、以心伝心を理想とする文化を生きているが、韓国人は、口にしたことが全てである。発信能力を磨かないと、生きていけない社会である。たとえ嘘でも、自分の主義主張を正面に掲げないと、たえず足をすくわれる危険に直面している。
 そのため、国際的には、日本人より判りやすいと定評がある。よく見てもらえれば、日本人の誠意が通じるはずだが、韓国人のほうが声が大きいから、知らない人が聞くと本気にする、と言った程度には、説得力を持ってしまう。
 大方の日本人の対韓姿勢は、「また、韓国人が騒いでおる。放っておくのが、大人の態度」といったものだろう。これが、日韓摩擦を拡大した主な原因のひとつである。日本からの反撃がないから、向こうは、さらに反日をエスカレートさせるのだ。
 日本は、和の社会だとされる。これには、聖徳太子が引き合いに出されることが多いが、贔屓の引き倒しの面がある。有名な十七条憲法の第一条が、はきちがえられている。太子は、談合のような和を勧めているわけではない。あくまで論じてからと、なれあいを戒めている。
 まさに韓国相手では、論じなければ駄目なのだ。相手は、合理的な議論が苦手だから、徹底して、論拠を上げて、言い負かすつもりで、追いつめなければ、非を認めない。一見、乱暴なようだが、反日が、高くつくという事実を、知らしめないかぎり、韓国の反日は、拡大するばかりで、絶対に解消しない。
 現在の韓国は、日本世代がいなくなり、歯止めがかからなくなっている。さながら李朝時代の政争のような、権力闘争すら起こりはじめている。日本が、関わりを持つ以前の時代へ、先祖がえり(atavism)してしまった感がある。ここに乗じて、あの大新聞が、新たなテーマで反日の捏造を加えて、逆襲してくる畏れもある。いや、その萌芽は、すでに現れている。
 私の「どの面下げての韓国人」(祥伝社)は、やや刺激的になるのを承知のうえで、出版社と協議して決めたタイトルである。さっそく、左翼弁護士が、噛みついてきた。ヘイトスピーチだというのである。しかし、ネットでは、すぐ反論されている。つまり読んでいないことを白状したようなものだというのである。なかには、あの本は韓国に同情しているのだ、とする感想もあった。こういう応援は、ありがたい。
 私は、あるときは親韓派、あるときは嫌韓派というレッテルを、貼られてきた。私は、日本人であり、日本を愛している。その都度、批判すべきことは、日本であれ韓国であれ、批判してきたつもりである。
 あの大新聞は、苦境を打破するため開き直って、韓国批判の本には、すべてヘイトスピーチだという烙印を押して、葬り去ろうというわけなのだろう。また、いわゆる従軍慰安婦の仕掛け人の元記者の就職先や自社に、脅迫があったという事実をもとに、言論の自由を盾にして、被害者の立場へ逃げこもうとしている。自分が、強大な権力をふりかざして、異な��言論を圧殺してきたことには、すっかり頬かぶりしている。
 韓国には怒りを込めた反論を、あの大新聞には、厳しい追及の手を緩めてはならない。それが、ほんとうの日韓親善につながるからだ。
 とよた・ありつね 昭和13年前橋市生まれ。父の医院を継ごうと医者をめざし、合格した東大を嫌い慶應大に入るも、目標が変わり武蔵大に入学。第1回日本SFコンテストなどに相次いで入賞して在学中の37年作家・シナリオライターとしてデビュー。手塚治虫のもとで「鉄腕アトム」のシナリオを二十数本担当。「スーパージェッタ―」「宇宙少年ソラン」の脚本も手掛ける。『倭王の末裔 小説・騎馬民族征服説』が46年にベストセラーとなる。47年東アジアの古代史を考える会創設に幹事として参画。50年「宇宙戦艦ヤマト」の企画原案、SF設定を担当。SF作家クラブ会長、島根県立大学教授などを歴任。63年オートバイ日本一周を達成。近著に『日本の原発技術が世界を変える』『どの面下げての韓国人』(ともに祥伝社新書)など。
※別冊正論23号「総復習『日韓併合』」 (日工ムック) より転載
3 notes · View notes
bumaswing · 1 year
Photo
Tumblr media
お客様兼高校の先輩より卵の差し入れいただきました。ありがとうございます^^ #卵 #那須 #那須の御養卵 #日本最古のバイク買取店 #バイクの日発祥 #バイクの日発祥の店 #東京#埼玉#中野区#豊島区#杉並区#練馬 #江古田 #バイク #原付 #バイクの日発祥の店 #819の日発祥の店 #バイクの日 #バイク買取の元祖bum #バイク買取の元祖 #バイク買取 #bum #bumアズウイング #アズウイング https://www.instagram.com/p/CqC4qeSvpWQ/?igshid=NGJjMDIxMWI=
0 notes
benediktine · 3 years
Photo
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
【高橋大喜MTBクリニックジャンプ編@ふじてん20210613】 - Plover Cycles Blog : https://behind-the-bar.hateblo.jp/entry/dkfreeride_school_jump20210613 : https://archive.ph/1WYIu 2021-06-17
 {{ 画像 1 : f:id:kisuke1234:20210617103800p:plain }}
噂に聞く、高橋大喜氏のMTBクリニックをふじてんで受けてきた。当日のふじてんは曇り時々雨。梅雨入り前にギリギリ滑り込みで受講出来た。
■《DKFREERIDE MOUNTAIN BIKE LOGICと高橋大喜氏について》
ふじてんでDKFREERIDE MOUNTAIN BIKE LOGICの高橋大喜氏にインストラクションを受講。「スクール受けるならダイキ先生から一回教わった方が良いよ」と、以前より聞いていた。あまり詳しくないのだが、この人の指導でインストラクターになったり、上手くなったりした人、多い模様。要は日本MTBインストラクターの始祖、みたいな方らしい。きぶつじむざんかな? 氏の主催する「DKFREERIDE MOUNTAIN BIKE LOGIC」というMTBパークが静岡にあってここもそのうち行ってみたいんだよな。なんと日本で唯一エアバッグジャンプが出来るところなのだ!
 {{ www.joyridemtbpark.com : http://www.joyridemtbpark.com : https://archive.ph/2E9bJ }}
■《クリニックについて》
ベーシック、アドバンス、ジャンプの3つがある。今回受けたのはジャンプ編。 ジャンプクリニックは、4時間ひたすら飛んで飛んで飛んで飛んで飛ぶ!たぶん100本は飛んだ。 大喜先生からレクチャーを受けたわけだけど、インストラクション詳細は飯のタネコードだと思うので割愛。
ちなみに、「フリーライドクリニックではヘルメット、グローブ、膝、肘のパッドは着用が義務付けられています。必ずご着用下さい。ジャンプレクチャーをご希望の方はフルフェイスヘルメット、ネックブレースの着用を強くお勧めいたします」とのことで、全員フル装備。ここまでプロテクションしっかりしておいた方が安全に挑戦できる。 「膝・肘無し、半ヘルで里山走るの、案外野蛮じゃね?」とすら思ったり。※里山は攻める走りをするところではないぞ※
■《ふじてんについて》
会場はふじてん。横浜から2時間(帰りはもうちょっと)ほどで行ける常設のダウンヒルコース。富士山の裾野を利用していることもあり、斜度があまりなく速度もそこまで出ない。ただし土は火山灰質で結構滑る。この土質結構苦手。 コースの下にスキルパーク(ジャンプライン)が造成してあって、今回のクリニックはここを利用した。 ここ、下り基調でバックサイド緩め。フルサスで飛ぶことを前提にしている感じで、DJバイクを持ってないMTBライダーでもチャレンジしやすいと思う。  {{ マウンテンバイク - ふじてんリゾート : https://summer.fujiten.net/pc/summer_bikecourse.shtml : https://archive.ph/SFJWM }}
■《受けたチームメイトについて》
自分含めてチームメイト3人で受講。2人は以前アドバンス編を受講済み。 名乗らずに受付で挨拶したらいきなり名前を呼ばれてびびる。「今回はじめて受けるのは(自分)さんだけなんですよ。だから分かりました」と。なるほど! ちなみにこの日は全部で12人。つまり11人リピーター。中年比率は高かった気がする。
■《機材について》
受けてた人はほぼ全員29erフルサスのAM/エンデューロバイク。ふじてんですもんそうですよね~。 自分は例によってダウンカントリーのFM936。ジャンプは特に問題なく飛べた。ただ、結構やわいなと思ったのはフォーク。着けてるスタンチョン径34mmのSR Suntour AXON Boost 120mmだと、一番左のラインでラフな着地をするとぐにゃっと嫌な感じが。フォークは太ければ太いほど良いかも。右3つなら34mmで十分だけど、さすがに目線が4m近くまで上がる左ジャンプは剛性が物言う。 ハンドルはもう少し高くても良かった。こんど3インチライズにしてみよう。 ステムも現状の45mmから35mmに変更してみようかな。 MAXXISのクロカンタイヤで行ったけどジャンプ自体は全然平気。まっすぐしか走らないからなんでも良い。講習後にダウンヒルしたけど、さすがにおっかなびっくりw 今のところ、里山メインにCross King 2.4、レースならMAXXISと2セットタイヤ持ってるけど、これに加えてダウンヒルユースタイヤも買った方が良いかもしれない。IRCのタンケンなんか良さそう。
■《受けてどうだったか》
受けた際に感じたことをアトランダムで。
●基本の確認が出来た。自分はもともとある程度ジャンプが出来たので、今回はジャンプの基本ってなんぞ?ということを聞きに行った感じ。まじで理屈からちゃんと教えてくれる。長年なんとなくでやってたことについてきちんと説明を受けて「うぉぉこれか!」となった。理屈が分かってるかどうかは結構大きいなぁと思った。
●ダメなところの指摘が適切。ここも飯のタネコードだと思うので詳細は割愛。でもめっちゃ納得感あるアドバイス。
●指導に嫌味が無い。とにかく褒めて伸ばす、という雰囲気がある。参加者どうしも上手く飛べたら「いぇ~!」と声掛けたりして全体的にポジティブ。 友人どうしだと教えるとき言葉がカジュアルになりすぎることってあるじゃないですか。例)「なんで出来ないの?簡単じゃん?」とかw。ここはすごく印象良かった。
●懇切丁寧。チームメイトの一人はジャンプほぼ初体験だったため、かなりしっかり指導受けていた。マンツーマンとまではいかないまでもかなりそれに近い。最終的に高さは低いもののちゃんと安定してジャンプが出来るようになっていた。
●トリックのやり方を教えてくれた。トリックをやりたくて質問したのだが、これまた理屈から教えてくれる。結局時間内にトリックはメイクできなかったのだが、きっかけや体の動き出しの感触が分かった。練習を続ければ身に付く気がする!(するだけかも) やっぱりインヴァート、ウィップの2つはできるようになりたい!
運動神経があまり良くない人でも、何回か受ければリトルウィスラーのでっかいラインを飛べるくらいまでスキルアップするんじゃないかなという印象。あのラインはスキルよりも大きなキャニオンジャンプに挑戦する精神的なタフネスさが要求されると思うので、受講しさえすればあれを飛べるかと言われると結構微妙だけど、それはさておいて要求スキルは満たされると思う。
●どのくらい上達するのか?
チームメイト含め参加した3名の写真をば。
チームメイトA:54歳。ジャンプはほぼ初体験。右から2番目のラインをほぼ飛び切り。ランディングも良い感じ
 {{ 画像 2 : f:id:kisuke1234:20210617102645j:plain : 54歳気合のふじてんジャンプ }}
チームメイトB:54歳。ジャンプは5~6回目?右から3番目のライン飛び切り。ウィップの動きが結構出来てた。羨ましい。
 {{ 画像 3 : f:id:kisuke1234:20210617102745j:plain : ふじてんでウィップっぽい動き }}
自分:45歳。ふじてん一番左のライン。トリックの余裕無しwww
 {{ 画像 4 : f:id:kisuke1234:20210617102843j:plain : 余裕ゼロ }}
■《受講費用とコスパ》
4時間7,000円(*1) この金額に躊躇するライダーいるかもしれないけど、これは安い。 スキルは一度身に付けたら二度と失われない。長く乗ればのるほど元が取れる投資だ。 また、正しい動きを身に付けることは怪我のリスクを大きく下げる。7,000円をケチって病院にかかって大枚と時間をロスする...なんていうくらいならちゃんと基礎を学んだ方が何百倍も何万倍も良い。
*1:別途ふじてん利用料が掛かり、受講するとふじてん1日券が1000円引きで購入できる
■《まとめ》
理論、親切、丁寧、適切。受けて『非常に良かった!』 リピートライダーが多いのも納得。近く、コーナリングなどに特化したベーシック編とアドバンス編も受けてみようと思ってる。
■《【閑話】MTBのクリニックはもっと普及して欲しい》
大喜先生のクリニックとは直接関係ないのだが…やはり日本でのMTBインストラクターはもっと増えるべきだと思うし、もっと皆受けるべきだと思う(フォレストバイクのときにも書いたけど)。理由はたくさんある。
一番でかいのは、やはりMTBシーンの拡大のため。 良くも悪くもこれまでのMTBシーンは、体当たりで学ぶことが多かった。とりあえず山に連れて行って走らせる。自分で試行錯誤、もしくは誰かの走りを見て盗む。理論が分かってないし無茶もするのでハイリスク。初回で怖い思いをしたり、最悪怪我してドロップアウトしてしまう。。。 毎週毎日近所に走る場所がある人や、若い人はそれでも良いかもしれない。 でもたまにしか走れない人、エイジドライダーはそういうわけにはいかない。安全に効率的にスキルを身に付ける必要がある。
クリニックで理論や基本から学ぶ。プロのインストラクターのレクチャーがあるから最短で上達。理論が分かってるし無茶もしないのでローリスク。楽しかった!またやろう!と思えばドロップアウトもしにくい。 ↑ こう、こうあるべき!安全にはじめられることと、ドロップアウト率が低くなるのはシーンの拡大に必ず繋がると思う。
あと、選手のセカンドキャリアとしての側面も。せっかくプロ/エリートになった人たちのノウハウ。僕らそれを学びたいじゃないですか。選手も自転車に関わって生きていけたら最高じゃないですか。ライダーとして現役を引退した後の道のひとつとしてインストラクターがあっても良いと思う。
まだまだインストラクター制が増えることには意味がある。それはライダーのコミュニケーションの場としての機能。スキルが近いライダーと交流するのは上達に繋がりやすい。
まだまだまだある。乗り方のアップデートの場としての機能。29erになっても26erの乗り方のままの人とかいる。楽器でいうところのチューニングというか、機材を更新したタイミングで受講してバイクに合わせた乗り方を教わるのは良いかなと思った。なんならポジション出しのアドバイスも受けれられるし。
まだまだまだまだ!MTBer全体のレベル向上機能。MTBコース設営で一番難しいところは「どのスキルのライダー」向けに作るかだ。下手クソに合わせるとつまらないし、達人しか走れないコースもまたつまらない。全体のレベルが上がればコースの難易度も上げていけるし、そうすれば世界を目指すライダーの良い練習場所にもなりうるだろう。自分のスキルアップが誰かの世界挑戦へ繋がる!とは言い過ぎだが、そう思えば練習にも力が入るってもんだ。
まだまだまだまだまだ!最後にエイジドライダー対策としてのインストラクター制。要は中年/初老ライダーです。われわれおじさん/おばさんはですね、フィジカルは年々落ちる一方なんですよ。反射神経も、視力も、集中力も…現状維持はあっても伸びることはない。それなのに現状のスキルで今まで通り走れるわけないんですよ。フィジカルを伸ばすのは大変でも、スキルは伸びしろがある。そうしてフィジカルの下げ分を補ってマージンを作るべき。
そんな風にたくさんのメリットがあると思うので、みんな受けてインストラクターの手が足りなくなってもっともっと増えていったら良いなぁと。
悪いことは言いたくないが、ろくに情報発信しない代理店とか、売上至上主義でトレイルがどうなっても良いと思ってるメーカーに金を落とすくらいなら、現場で僕らをサポートしてくれる人たちにお金払った方が気持ち良いと思うんですよ。
kisuke1234
0 notes
pureegrosburst04 · 3 years
Text
「第一話」最強レッドキリング/ドラバズー対邪悪の化身DIO
町で食べ歩きをしている謎の青年レッドラバ。彼はエジプトのアターイフを平らげると人気の無い路地裏に入っていった。チンピラにワザと絡まれる為に チンピラA「金出せよ」レッドラバ「嫌だよゴミクズ」チンピラB「もう一度舐めた口聞いてみろぶっ殺すぞ」Bがナイフを取り出すがレッドラバは少しもビビらず、お前らみたいな雑魚キャラ指一本で充分だぜww。と言った チンピラC「テメェ!!」そこからどう転んだかは現実的で対して意外でも無かった、途中までは 
youtube
ボコボコにされて嘲笑われるレッドラバ、唾を吐かれた時に レッドラバ「””イジメ・フォー・ダイ””」 スタンドが発動した チンピラB「何言ってんだ?ゴミクズw」 この直後Bの頭が吹っ飛び 青年はこう言った レッドラバ「俺は逆境に追い詰められた時にヒロインに””もうやめて!これ以上彼を傷付けないで!””なんて庇われる軟弱じゃねえ。だから、互いの死でケリつけようぜ!❗️」AとCはお前何言って…と言いかけて殺された レッドラバ「強い者虐め超楽しい🎶」そこに不思議な色気を纏った男が現れた 邪悪の化身DIO「それは良かった」レッドラバ「なんだよテメェ」DIO「君のお仲間だよ、私と来る気はないか?。もっと面白い事を教えてあげよう」レッドラバ「馬鹿言ってんじゃねぇ、死ね これが俺様のバッドエンドだ」しかし、青年の攻撃は一発も当たらない レッドラバ「クソックソッ❗️」DIO「その度胸が気に入った」ゴギッと青年の脚が折られる レッドラバ「(駄目だ、俺じゃあ勝てねえ…)」DIO「(こんなものか…)次は腕だ」バギッ レッドラバ「(まあいいか、手下としてのストレス発散は奴隷を買ってすれば……)」…その時青年❓は声を聴いた……新しい血族の頂点❓❓❓「眼を覚ましなさい、純××派×P×r××gr×s×urst0× ×島××」 純××派×P×re×gr×sburst0× ×島××「誰だよ…お前」❓❓❓「悪だ」純××派×P×re×gr×sburst0× ×島××「ソウダ…オレハ…」 
「第二話」???対邪悪の化身DIO
DIO「最後のチャンスだ、君は殺すにはあまりにも惜しい」
純粋×派×P×re×gr×sburst0× ×島××「全部思い出して””此処に””来たぜ、俺の全てが現実に」DIO「何を言っている?隠し球か?……成る程、ほぼ完全に眠っていたのか」純粋×派×P×reEgr×sburst0× ×島×魔「そうだ、仕方ない事だがいつも大切な事を忘れちまうんだ ずっと逃げていた、戦士から、猛者の生命を喰い潰す事から。””子供でも出来る弱い者虐めに””」DIO「(コイツは危険だ!直ぐに殺す!)」純粋×派柱P×reEgr×sburst0× 霧島×魔「俺の本当の願いは…”””””オール・フォー・ダイ”””””」ガギィン❗️❗️❗️ DIO「ぐあああ!?、脚が折れた…」純粋×派柱P×reEgrosburst04 霧島×魔「あの時ネプテューヌに立ち向かっていれば…勇気を出して戦えば、顔をミンチに出来たかもしれない」DIO「一体何を言っている!?」純粋×派柱PureEgrosburst04 霧島×魔「でも諦めた。自分の可能性を捨てて来たんだ、当然俺は勝てなかった。殺せなかったんだよ、ブラックハートもユニも善良な選択をした自分自身さえも。睡眠中だったなんて言い訳だ、それが本物の俺なんだから」DIO「脚が治った!直ぐに逃げなくては」純粋硬派柱PureEgrosburst04 霧島狩魔「だから俺はもう逃げない。お前如きに見せるのが、ぶっ飛んだワーストエンドだ」DIOは脳味噌を啜られて絶命した 
純粋硬派柱PureEgrosburst04(無印)「”死んだ女の服なんか売っぱらえ”か…涙を流す時と状況が間違ってるぜ」
Tumblr media
霧島狩魔「こんなみっとも無いのがお前の終わりかよ、100年あったら何度も虫ケラには生まれ変われるぜ、ある意味最期なのに絶対悪を目指した所で所詮悲劇で作られただけの養殖物じゃねえか(爆)、お前は今死んで、文字通り虫ケラ以下になったんだよ」
純粋硬派柱PureEgrosburst04 霧島狩魔「身体だけ化け物になっても根っこは変えられない、道徳の優れた世界では受け入れて貰えるんだから、覚醒した俺が目指すのは一線を越えるか越えないかじゃねえ、下記の写真の[[[[[[[[御方々]]]]]]]を追い抜く事を目指して、一線の遥か先までどこまで突っ走れるかどうかだ❗️❗️❗️」
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
しかし差は開くばかり…今回の同一の主役達ではこの[[[[[[[[[[より不気味で異質なこの御方々4人は絶対に追い抜けない、別格]]]]]]]]]]
純粋硬派柱PureEgrosburst04 霧島狩魔「だから面白えんだよ❗️❗️❗️❗️」 融合した2人はバイクのブーストターボエンジン全開のバイクで”””2000人”””轢き殺した
🏴‍☠️💀WORST ENDING💀🏴‍☠️
水と油編の遥か先の未来
高級ゴールドキング/バラバズー500F「年の差婚とは素晴らしいとは思わないかね?……しかし女が19歳の少年より年上ならば!」ゴールドバズー「クソババア!!WWW」ゴールドバラバズー500F「しかし男性が30歳以上年上ならば‼️」ゴールドガッチャ「グランドッファーザァーーー❗️」ゴールドバズー「素晴らしい模範解答だぜ!!!」ゴールドバラバズー500F「いついかなる世代でも絶倫ペニスとは正義なのだよ(ドヤア)。それにしても我々の祖先と同等なだけの、ポケモンという下等生物のゴローニャに演技でも涙を流す我々は、全てのジュニアアイドルから見ても魅力的で母性本能をくすぐる程可愛いのだよ🧡(黄金の真実)」 表版仮想大鉱山はあらゆる組織の大傘下でありながら、邪悪さと醜悪さだけはダントツトップ。彼等に良心と言える物は存在しない(ただ弱くて情けないだけなんだ)
???「やっと…見つけた。今度は私が友達としてやり直すの」 タメ口を聞かれ続けながら自分の責任と向き合って死に、ゴキブリに生まれ変わらされ踏み潰された少年がいた 彼はまた人間へと生まれ変わる。違うのは前前世の記憶を持っている事。彼は現実の自分を知らない人を””宝石””と呼びネットの自分を見つけ出した元クラスメート達を”””害虫(黄金の真実)”””と呼んだ。一人残らず切り捨てて当たり散らし、高次元から””””❓❓❓「君の願いを私の息子が叶えよう」””””と声が聴こえて、指定された場所に向かうと自分だけが合法的な殺人の喜びを味わえる現場にたどり着いた だって、こんな絶対悪コンビを止められる訳がないんだから  後輩の少女「本当に……御免なさい。」青い宝石を求めた少年「もう遅いんだよ、やるべき事は終わったんだから。僕のプライベートではお前は害虫なんだ(黄金の真実)」レッドラバ「さあ、火炎放射器で焼いてあげていいね?」ゴオオオオ❗️❗️…… 青い少年「これが正義の裁きだ❗️」後輩の少女「アアアアアアアアア‼️‼️‼️」 ジュー……… 青い少年「これで…良かったのかな???」 霧島狩魔「君は思い知らせてやったんだよ。自分を虐めた屑に」無印04「ネットでお前の居場所を奪う事でLINEリストの中でされたブロックを解除して貰おうとした連中をどう思う?」ニチャア❤️‍🔥  霧島04(裏ストボス)「頭に来るだろう?安全なネットの世界で自分より弱いと思っている者にしか発動出来ない{{{嫌われる勇気}}}って奴にさ(赤き真実)」青い宝石を求めた少年「そうさ(これで良かったんだよね?でも僕は皆んなと何がしたかったのか思い出せない。何が欲しかったのかもわからない)」霧島04(裏ストボス)「あの””””真の裏ストボス様方””””にもこんな風に死んで欲しかったよ、でも仕方ないじゃん。俺は劣化版なんだからさ 帰って来たら真心じゃ無くて普段通り媚びを売るんだ。今までずっと”””そう(絶対悪)”””だったんだから(赤き真実)」
超電チャブル「ふーん、俺達がエロい奴だって証明されたらベールさんの勝ちで俺達の記憶が全て渡り、貴女が先にドン引きしたら純粋硬派柱グループの一員になると?」ベール「ですわ」御茶ワールド「女性に興味なんて無いよー(ドヤ〜)、デートとかする暇あるなら自分の体に鍼灸用の針刺して遊ぶんだ〜〜(赤き真実)」ネプテューヌ「新手のおサイコさんなのかな……」超電チャブル「クソ!天然者が相手でも変人アピールでは負けねえぞウォーター。あと今日の8時にピザ届くから俺が心臓発作起こして死にそうになったら代わりに代金払っといて」ユニ「(それは救急車を呼ぶべきなのでは?)」アイエフ「純粋硬派柱は頭のネジがおかしいのよね……」主役二人「(それは<<<相方(水:油)>>>と霧島04だけだよ。まあ後者に比べたら仮面つけた俺と最高の相方併せても霞むけどさ)」
1 note · View note
weblogpunch · 6 years
Text
無職についてのまとめ
2017年9月半ばに退職して以来、8ヶ月ほど働いていなかった。 その間にいくつかの知見を得たので、今後のために残しておこうと思う。 既に退職した人や、これから退職しようと思っている人に役立つかもしれないが、あくまでも私個人の場合なので 参考にするときは「そういうパターンもあるんだ」 ぐらいに留めておくのがベターかと。
退職までの経緯
2016年3月に7年間通った大学を卒業することになっていたので、4月からの働き口を探していた。 就活について何も知らず、働くのが本当に嫌であり、卒論も忙しかったため   就職エージェントを利用して就活を行った。 やりたい事もなく、ぼんやりと「文章を扱う仕事が良い」ぐらいで探してもらって、都内のベンチャーWebマーケティング企業に就職した。
入社した会社について 人数規模の小さい会社だった。   部署には2人しかおらず、職階も部長の上がもう役員。   なのに部署が2つに分かれていて、全部合わせて10人にも満たない会社。   が、売上は良かったらしく割といい場所にオフィスを構え、数年以内の上場を考えていた。   私はいわゆる「事業拡大に伴う増員」の名目で募集された初の新卒採用枠の一人であり、新卒全員とにかくポテンシャル採用、イノベーションを巻き起こすことを期待されての入社だった。
退職の理由 一流のビジネスパーソンになりたいと思わなかったから。 私にとって仕事というのは、楽しく暮らすための食い扶持以外の何者でもなく、会社が要求する「仕事に邁進する、バイタリティ溢れたビジネスパーソン」というのは苦痛でしかなかった。 「成長」が口癖で、仕組みも無いのに毎年新卒を採って、オフィスはどんどん地上から遠くに離れていった。 会社は私に「もっと熱意を見せてほしい」と思っていたし、私は「地獄の果てより嫌いな場所だ」と思いながらやる気なくダラダラと、毎日遅くまで仕事をしていた。 そうしたらある日の朝、とつぜん立ち上がれなくなったので その日は休んで次の日の朝、部長を呼びつけて「もうここにいるの無理です」と言って辞めた。 退職交渉を初めて2ヶ月ぐらいが経過していた。
退職交渉で学んだこと 今はどこもかしこも人が辞めることを恐れているので、ある日「辞めます」と言って「はいそうですか、お疲れ様でした」となることはまずありえないと思う。 特に小さな会社ほど引き止めには必死なので、月並みだけども確固たる意志をもって絶対に辞めるようにしなければならない。 退職願を出してもぐるっと回って社長面談の時に帰ってきたのはちょっと笑ってしまった。
退職交渉が伸びれば伸びるほど後々に影響が出る 最初の退職交渉から実際に辞めるまで、結局2ヶ月ぐらいかかっているのだけれど、最後は逃げるように出てきてしまった。 後々になってこれを非常に後悔していて、できれば「辞めるぞ」から「辞めました」の期間が開かない方がいい。 私が最終的になりふり構わなくなった理由として「メンタル不調」があるわけだけれども、ここまで来ちゃうと回復までかなりの時間がかかる。私の場合は半年ぐらいかかった。(後で詳しく書く) 退職交渉が長くなればそれだけメンタル面の負担は大きくなるため、退職を決めたらなるべく早く辞めた方が良いと思う。
晴れて無職になった 今すぐ辞めさせろと部長に詰め寄ってから少し日が空いて、鍵返したり私物持って帰ったり、なんとなく挨拶したりしなかったりして、2017年9月の中旬に晴れて私は無職になった。 基本的には会社が嫌だったから辞めたけれども、じいちゃんが倒れたり、クソ親父が自己破産したりと相当強めのストレスが一気に来たというのも大きい。 生きていく以上ストレスから逃れられないのは当然だけれど、それらを捌いたりいなしたりできなくなった時は、限界が近いと思うので退職するといいと思う。 退職日はとても天気がよく、忌々しい職場のビルが青々とした空に照らされて、ビビッドに映えていたことを一生忘れないと思う。
退職直後の私
仕事を辞めてから一ヶ月ぐらいはやる事が非常に多くて忙しかった。   時系列はよく覚えていないけれど記す。
じいちゃんが心配で祖父母宅へ行く 退職したその足で母方の祖父母宅へ行き、大丈夫かいという話をしてから仕事辞めた報告をした。 ばあちゃんは心配してくれたみたいで、本当に辞めて良かったのか?という話や働くというのは難しいという話、どんな人生でもいいけれど頑張らないといけない、というような話をしてくれた。 あと、若い頃のばあちゃんは山登り(というかルートを決めてゴールまでの時間を計測する、山岳RTAみたいなの)が好きだったらしい。いつか山にもう一度連れて行ってあげたい。
クソ親父が債務整理をした この世で一番終わっている人間こと、私の父親が債務整理をした。 ちょうどそのタイミングで実家の契約更新があったのだが、返済のことを考えるとなるべく月々のランニングコストを抑えられるもっと安い家の方がいいということで、家さがしと引っ越しをすることに。 父親は平日仕事に行っているため、私がメインで引っ越し準備をしており、債務整理を行ったためお金がないので、私がすべて金を出した。 それ以外にもいくつか頼まれたことがあるのだが、あまり覚えていない。 この頃は忙しさとストレスで正常な判断能力を失っており、今考えると別にいらないことに金を出したり、申し込んだりさせられていた。バグった人間から金を取るのは楽、上手くやったものだ。
今は私が生まれ育った街のあたりに住んでいる。 メンタルが復活するにつれておかしいということに気づいたので、これ以来父親とコミュニケートすることはなく、今後も一切関わることは無いだろう。 引っ越しで使った80万円も返すと言っていたが、どうせ戻ってこないので手切れ金とする。 この人の文句と悪口なら一生言えると思う。 圧倒的な勢いで駆け上がり、私の嫌いな人間ランキング堂々の一位だ。
10月頃の私
引っ越しが終わり、片付けが落ち着いたのが大体10月初旬が終わる頃。  それから何をしていたのかというと、離職票が届くのを待ち続けていた。 もう完全に心が疲弊してしまったので、仕事のことは貯金が尽きてから考えることにして ひたすらゲームをしたり、放ったらかしものを終わらせたりしていた。ドラクエ11は面白かったです。
離職後の手続き 離職票というのは、仕事を辞めたことを証明する証明書のことで、勤めていた企業が離職者に対して発行する紙のことだ。 どうしてこれを心待ちにしていたのかと言うと、ハローワークから失業者手当をもらうためにこれが必要だったからだ。
失業手当について 失業者がお金の心配をせずに就職活動を行うため、一定期間に渡って一定金額を支払ってくれる仕組みを失業手当という。 いくつか条件はあるのだけれど、1年以上働いているなら大体もらえるので、転職先が決まっていないまま退職するなら申請しておく方がいいと思う。
失業手当の期間と金額 辞め方や勤続年数によって結構変わってくるので、それぞれ自分の状況に合わせて調べてほしいのだけれど、私の場合は特に就業困難な理由なく自分の都合で辞める「自己都合退職」だったので、申請してからお金をもらうまでに3ヶ月間待った。(待機期間) その後一日あたり5000円前後を90日間支給され、大体45万円が振り込まれた。(振込自体は月1回)
離職票が来るまで何もできない 大体の会社は月末締め翌月払いなので、本来離職票は辞めた月の翌月給与が振り込まれたあとに発行される。 が、そうなると退職後1ヶ月以上が開いてしまうことになるので、会社に言えば「給与計算中」として発行してもらうことができる。 しかし、私はもうあの人達と連絡をとるのが嫌だったし、何もしたくないという気持ちしかなかったので、結局申請したのは離職票が届いた11月に入ってからだった。 精神的な余裕があるのであれば、早く届けてもらうよう請求したほうがいい。 余談だが、お役所から「保険証返ってきてないんで返してください」という書面も届いたのだが、退職時に渡しているので会社もグズグズした対応したんだろうな、と思った。 こちらも連絡を取るのが嫌だったんで、お役所に「直接聞いて」と書面を返した。
無職ができる期間が決定した 10月暮れに振り込まれたいくらかのお金と、失業手当でもらえる45万円。 期間としては3ヶ月の待機期間と、お金が振り込まれる90日間。 大体この手持ちの武器で無職を謳歌することが決まった。
10月以降の私
大体半年前後は遊べるなということがわかったので、リミットを5月の暮れ(失業手当最終支給日)に設定して無職をやることにした。 10月以降は主に方向音痴王をやり、スケボーをたしなみ、たまにバンドをやって、お金を節約しつつ、いろんな手続きを行いながら生きてきた。 遊びについては日記を読んだりtwitterを見てもらえばわかると思うので、ここからは手続き関係を記録していく。
ハローワークで失業認定をうける 最寄りのハローワークによって違うらしいので、詳しくは各々調べてもらいたいのだけれども 失業認定を受けるためには、説明会をうけたあとで離職票やら顔写真やらを持って、失業認定の申請をしなければならない。 申請が終わって待機期間を過ごしたら、そこから失業手当の支給が始まる。   この説明会というのが月に数度しかなく、これを逃すと来月までお預けになるため、その分支給日も伸びる。 そういう点でのハローワークは結構シビアなので、ちゃんとスケジュールを確認しておくこと。
失業手当は就活のための資金 失業手当は本来「金銭の心配なく就職活動に励めるように」という名目のお金なので、支給にあたって毎月「今月はこのくらいの就職活動をしましたよ」という報告をしなければならない。 大体月二回、職種の相談や求人への申し込みを行うことで就職活動実績となる。 意外とこれを忘れたり、ハンコくれなかったりするので注意。
バイトとかしないの? さっきも述べたが失業手当は「金銭の心配なく就職活動に励めるように」というお金だ。 なので、4時間を超える労働や賃金の発生する労働を行ったらそれを申請しなければならず、その申請があった日の分は後ろ倒しになっていく。 つまり、バイトやクラウドソーシングで稼げば稼ぐほど失業手当は貰えなくなるというわけだ。 それが嫌だったし、働く気もなかったので「現状でどうするか」を考え実行していた。
支払い類の猶予をお願いすること 仕事を辞めたからと言って、各種取り立てが止まないわけではない。 私が払ったもの、止めたものについて記載しておく。
保険について 日本ではあらゆる人間が保険に入っていなければならないことになっている。 これまでは会社に属していたので、社会保険が給料天引きで支払われていた。 それが国民健康保険に切り替わるため、自分で支払わなければならないというわけだ。 これは申請すれば支払猶予期間をもらうことができる。 正直キツいので猶予をもらっておいた方が良い。 失業手当が始まるまでは親や奥さんの扶養に入るという手もある。
年金について これも保険と同じく止まってくれないので、とりあえずすぐに猶予期間申請を行うべき。 ただし、保険も年金も前年度所得がいくら以下なら可みたいな感じだった気がするので、人によっては猶予期間が無いパターンもあると思われる。 また、年金に関しては故意かどうかに関わらず、未納だったとしても過去5年以内なら払うことができるので、忘れてしまっていても後で払えば問題ない。
住民税について 住んでいるだけで金を取られるというのがひじょーに納得いかないのだけれども、とられるので仕方がない。 実は住民税も猶予や免除というものがあるので、前年度所得が規定以下なら申請するのがおすすめ。 ただし、普通に働いてたらほぼ超えてる金額だった気がするのであまり期待してはいけない。 個人的にはこれが一番キツかった。 二期残っていたので総額4万の支払いが必要になってしまい、最後は分割してもらって様子を見ながら物を売ったりしてなんとか払った。
住民税の期間 仕事を辞めるまで知らなかったのだけれども、住民税にはそれぞれ期間があり全四期に分かれているらしい。 それぞれ6月末、8月末、10月末、翌年1月末が支払期限となっているため、退職後の煩わしい手続きや支払いを減らしたいと考えるならば2月に仕事を辞めるのが一番いいだろう。 辞めてすぐ給与計算中の離職票をもらって失業認定の申請を行えば、5月から失業手当を貰えるので6月末の住民税支払いでお金が足りないということもないはず。 冬のボーナスもらった後だし、年越してるから年末調整もないし、ちょうど5月頃から求人増えてくるしで完璧。
年末調整をしにいかなければならない場合がある 退職後、無職のまま年末を迎え年を越してしまうと、年末調整が終わっていないためいわゆる年末調整未済のまま所得税がとられる。 年の途中で仕事をやめているわけだから、当然何ヶ月か給与をもらっていない時期があり、その分所得も下がっているから、所得税も安くなるはず。 なので、大体1万円ちょっとが還付されなければいけないというわけだ。 これまでは会社がやっていたけれど、仕事を辞めたら自分でやらなきゃいけない。 対象になってる場合は確定申告の時期(1月のいつだったか)に源泉徴収票を持って税務署に行けば、全部教えてくれるので混んでない内に行っておくといいです。
必要な支払いは結構ある 無職になったからといって、金をとることは止めてくれないので退職後も支払いをしなければいけないことは結構ある。 ただ、猶予期間を設けてくれたり、場合によっては免除もあるので積極的に活用してほしい。 よくわからんくても大体国からDMが届くので、それに応じて払ったり申請すれば問題はない。 あとはなるべく生活水準を落としておくといざという時に役立つのでいいです。 この文章は失業手当をもらう場合、なのでバイトしちゃった方が次の仕事までのブランクなくなるしお金もらえる���人によっては良いかもしれない。 私はあんま生活水準落とさなかったから、失業手当だけだとちょっとキツかった。
メンタル面の変遷
日々の生活は支払いをしたり、新しいことを始めたりと、わかりやすい形で外に出ていたのだけれど、メンタルはあんまり人に言わなかったり書かなかったりということもあってわかりにくい。 のでここに記しておく。
2017年中は割とボロボロだった 上にも記載があるけれど、とにかく退職から引っ越し、諸々の手続きと疲弊しきっていたので直後の9月10月は本当にひどかった。 退職直前の7月や8月はひどく太り、まともに他人と会話することができず、突然動悸が止まらなくなり、汗が吹き出し、毎日吐きそうになりながら仕事に向かい、手先や足先の感覚があまりなく、物を見ているようで見ておらず、聞いているようで聞いておらず、根拠に基づいた判断や決定が全く下せない状態だった。 そんな中で人に心配をかけないよう取り繕って生きていたというのもあり、正直気が狂う一歩手前だったと思う。 そんな状態から2017年中は本当に少しずつ回復していった。
ボロボロの人間が解放されるとどうなるのか 何もしない。 寝て、起きて、youtube流して、天井をぼーっと見て、また寝る。 最初の数日は本当にこうだった。タバコ吸ったり飯食った記憶もあんまりない。 一週間経ったぐらいから「なにか面白いことを」という感覚が復活してくるので、なんとなくゲームをする。 時間もあるので積んでたゲームをやったり、せっかくだから大作ゲームをということでRPGをやったりする。大体それで1ヶ月ぐらい潰した。 ようやくタバコ吸ったり、外に出たり、買い物をしたりできるようになる。 陽の光を浴びるということが大切なことだと知った。
心がやられてなければこの過程はいらなかった 上にもちょっと書いたが、退職交渉で心がやられていなければこの過程は全く必要なかった。 なので、スパッと仕事を辞めることが大切だし、限界のアラートもちょっと引き上げておくことが大切だと思う。 見ている景色が灰色になって、ろれつが回らなくなって、他人との会話が成り立たなくなったらそれはもう「限界」じゃなくて「崩壊した後」なので、もっと前の毎日吐いちゃうとか、寝なきゃいけないのに寝たくなくて夜更かししちゃうとか、そういうタイミングで歯止めをかけないといけないと感じた。
ようやく復活してきたころに方向音痴王をやる まだ判断能力に若干の不安は残るものの、脳機能がそれなりに復活してきた頃、まゆみ宅へ入り浸っていた。 まゆみ宅はうちから歩いて30分ぐらい、バイクならものの10分ほどだったので非常に行きやすく、まゆみも平日休みがあるのでちょうど良かった。 そんな中で生まれたのが方向音痴王であり、企画立案からルール制定、実施まで非常に楽しかった。 精神的に不安定な時期ではあったものの、あれが脳をしっかり動かし、全然終わらないけど自分のこだわりを余すところなく詰め込める動画制作が自尊心や自己肯定力復活に大変大きく貢献してくれた。 デザインやって動画作ってみんなにわーって言ってもらえるのもすごく嬉しかった。 私へのセラピーじゃないけれど、友人各位のおかげで復活したと言えるので、本当に心から感謝しています。ありがとう。
年明けぐらいから正常な反応を取り戻す 第0回方向音痴王を公開したあたりから、みんなに褒められたり喜んでもらったりして健全な精神が取り戻されたように思う。 思えばこの頃はよく外に出ていたし、お金を使うようにもなっていった。 また、客観性も戻ってきていて、生活時間帯も夜ちゃんと寝て朝ちゃんと起きる感じになってきていたと思う。 ちょうど失業手当支給が始まるタイミングというのもあったと思うけれど、安心が多くあった。
安心感と心の状態が過去に比べると良い 仕事を初めるもっと前から、安心できる状態になると別の不安がよりクローズアップされてしんどくなってしまう、ということが多々あった。 そして体中すべての力が抜けて、完全に堕落した生活を送ったと思ったら、いきなりフルパワーでいろんなことを片付けるという、躁鬱的な心の状態が過去何年も常だった。 それが退職に向けてぶっ壊れていき、年が開けてゆっくりと回復することで「無理のない前向きな考え方」ができるようになったと思う。 何かを振り払うような積極性ではなく、正しく興味関心に対する積極性。 非常に見えにくいことだけれど、個人としては非常に大きなことだった。
年明けから働こうと思うまで 年明け後もいい具合にメンタルが復活しつつあり、よくライブを見に行くようになった。 小さいものから大きいものまで、それらを純粋に楽しめるようになったし、自分で見つけてきて申し込むことをするようになった。 正直、完治するまでにはもうちょっとかかると思うけれど、もうお金も無いので就職しようと思う。 ちょっと働いてもいいかな、と今は思うのだけれども、去年のあの状態からここまで回復するというのはなかなか頑張ったのではないかと思う。
再就職について
失業手当をもらう過程で、就職活動をしなければならなかったため、3月から仕方なく就職活動をしていた。 テキトーに就職活動をした挙げ句、マッチしない企業に入ってぶっ潰れてしまったので、今回は面倒くさいながらもちゃんとやろうと思い(このメンタルの回復よ!)それなりにしっかり就職活動を行った。
基本はハロワで就活をした どこでやってもよかったんだけれど、退職後初回認定のためにハローワークに赴いたところ、再就職に向けて最初のセミナーというのをやっており、それが就職活動実績になるというので参加。 100人規模で大きくやるのかと思ったら、講師の人と数人で超こじんまりとやってるやつだった。 やべぇ失敗したかな、と思ったもののよく話を聞いてみるとちょっと良かった。 基本は個人面談だというので、半ばエージェントのようにしてもらいながら就活するかということで、その講師の人と話しながら進めていくことにした。 新卒入社をエージェント使ってたので苦い思い出はあるものの、やっぱりプロの意見は聞きたいよな、という決断。結果としては大変良かった。
人を介した就活はその人による 当然のことなんだけれど、面談とかしながら進めていく就活はその人によるところが非常に大きいということが良くわかった。 私は絶対転職に失敗したくなかったので、とりあえず書面上だけでも「無視できない条件」をリスト化し、前職をこういう理由で辞めたから、これは無視できないんですというのを講師の方に伝えた。 何回か面談してこっちのパーソナリティをわかってもらいつつ、オミットできない条件を織り込んで「じゃあどう探せばいいのか?」というのを話しながら進めていけたのは本当によかったと思う。 「野心はない」「キャリアアップもどうでもいい」「自己実現は仕事以外でやる」「暮らせるだけ貰えればそれでいい」というような要望も、否定することなく「その上でどうするか」を考えてくれたので、いい人にあたったのだと思う。
実際にやったこと ネット上の転職サイト等も見たけれど、見れば見るだけ情報が増えていくだけで一生終わらんという感じだったので、ハローワークに絞って探し、補完情報を他サイトで得た。 具体的なやり方は以下の通りだ。
まずはハローワークの求人票から、良さそうなものを見繕って10社から20社印刷する
各求人の給与や労働時間などの条件を◎○△☓で評価する
その段階で一度「総合的に良い順」で並び替える
手持ちの求人をすべて「転職会議」と「リクナビ2019」でチェック 転職会議:内容掲載があれば内容について評価、掲載がなければ離職者少ない=良いと判断 リクナビ:新卒求人の内容・文章に前職と同じような文面があるかチェック
上記情報を元に再度並べ替え
ランキング上位のものから「ここなら入っても良い」というところに応募
求人検索前に個人面談で自己分析と、私が何を大切と思っていて何なら我慢できるか、を知っておけばこういうやり方が可能になる。 あとはもう推理と憶測になるけれど、例えば就業場所の人数が少ないと仕組みができていないのではないか、とか業務内容は一番上に書いてあることが一番やってほしいことだ、とか そういう情報を元に優劣付けをとにかく行って応募していった。 最終的に50から60ぐらいの求人を見て、応募したのは3件。 どれも私の基準で言えばA〜Sクラスの求人だったので、いいやり方だったと思う。 (そのかわり、人気でちゃって既に決まった求人というのもいくつかあった)
明日から仕事をする まあ、なんでこんなことを長々と書いているのか、という疑問の答えでもあるんだけれど そうやって決めた会社で明日から働きます。 まだちょっと精神的に復活しきってはいないけれど、お金ないんでそれなりに頑張って働くつもりです。 果たしてそれなりに頑張った就活が上手くいっていたかどうか? それは半年から一年後の私だけが知っているでしょう。
長いようで短かった無職も今日でおわり。 人生においてかならず必要な時期だったと思うので、この8ヶ月間は非常に調子いいです。 どうなるか正直わからないところもあるけれど、とりあえずは頑張っていきます。
1 note · View note
groyanderson · 4 years
Text
ひとみに映る影シーズン2 第二話「高身長でわんこ顔な方言男子」
☆プロトタイプ版☆ こちらは無料公開のプロトタイプ版となります。 最低限の確認作業しかしていないため、 誤字脱字誤植誤用等々あしからずご了承下さい。 尚、正式書籍版はシーズン2終了時にリリース予定です。
(シーズン2あらすじ) 私はファッションモデルの紅一���。 旅番組ロケで訪れた島は怪物だらけ!? 霊能者達の除霊コンペとバッティングしちゃった! 実は私も霊感あるけど、知られたくないなあ…… なんて言っている場合じゃない。 諸悪の根源は恩師の仇、金剛有明団だったんだ! 憤怒の化身ワヤン不動が、今度はリゾートで炸裂する!!
pixiv版 (※内容は一緒です。)
☆キャラソン企画第二弾 青木光「ザトウムシ」はこちら!☆
དང་པོ་
 時刻は十四時三十分。MAL五八便が千里が島に到着してから既に五分以上経過した。しかし乗客はなかなか立ち上がれない。体調を崩して客室乗務員に介抱される人や、座席備え付けのエチケット袋に顔を突っ込んでいる人も見受けられる。機内に酸っぱい臭いが充満してきたあたりでようやく、私達したたびチームを含め数人がフラフラと出口に向かった。  機体と空港を繋ぐ仮設通路は『ボーディングブリッジ』というらしい、という雑学を思い出しながらボーディングブリッジを渡る。ある先輩俳優がクイズ番組でこれを『ふいごのトンネル』と珍回答して笑いを取っていたけど、なるほど確かにこれはふいごのトンネルだ。実際に歩きながら、言い得て妙だと感じた。  空港に入って最初に目についたベンチに佳奈さんが横たわった。ドッキリ企画の時から着っぱなしだったゴシックタキシードのボタンを外し、首元のヒラヒラしたスカーフで青い顔を拭う。 「うぅ、吐きそう……もらいゲロかも……」 「おいおい、大丈夫ですかぁ? トイレまで歩けます?」  一方ケロッとしているタナカD。口先では心配しているような言い草だけど、ちゃっかりカメラを回し始めた。 「やめろー撮るなぁー! ここで吐くぞー……うぅるぇっ……」 「ちょっと、冗談じゃなく本当に吐きそうじゃないですか! 大惨事になる前にトイレ連れてってきます」  私は佳奈さんに肩を貸してトイレへ向かう。タナカDの下品な笑い声が遠のいていった。洋式の個室で彼女を降ろし、自分も二つ隣の空いている洋式個室に入る。チャンスだ。まず壁にかかったスイッチを押し、滝音と鳥のさえずりが合わさったエチケット音声を流す。次にトートバッグから小さなクナイ型の物を取り出す。これは『プルパ龍王剣(りゅうおうけん)』という密教宝具だ。私が過去に浄化した悪霊を封じこめてあり、そいつから何時でも力を吸い出す事ができる。 「オム・アムリトドバヴァ・フム・パット」  口を閉じたまま、他人に聞こえるか聞こえないかギリギリの声で真言を唱える。すると、ヴァンッ! プルパは私から黒々とした影を吸い上げ、龍を刺し貫いた刃渡り四十センチ程のグルカナイフ型に変形した。 「う……うぅ……」  プルパに封印された悪霊、金剛倶利伽羅龍王(こんごうくりからりゅうおう)が呻き声を漏らす。昔こいつは人を呪ったり、神様の振りをして神社を乗っ取ったり、死んだ人の魂を監禁して怨霊に育てたりと悪行の限りを尽くしていた。ご立派な名前に似合わず、とんでもない奴だ。 <機内での騒動を聞いていたな。あの毛虫みたいな化け物は何だ?>  影を介したテレパシーで、私は威圧的に倶利伽羅に囁く。ついでに壁のボタンを押し直し、エチケット音を延長。 「ア……? 俺様が知るわけがぼがぼぼごがぼごがガガガ!?」  しらばっくれようとした倶利伽羅の顔を便器に沈めて水を流した。 <どこからどう見てもお前と同類だったろうが! その縮れた灰毛、歯茎じみて汚い皮膚、潰れた目! もう一度問う。あれは何だ?> 「げ、っほ、うぉ゙ほッ……! あ、あれは散減(ちるべり)……『母乳を散り減らせし虫』……」 <母乳?> 「母乳とは……親から子へ引き継がれる、『血縁』のメタファーだ。母乳を奪えば子は親の因果を失い……他人の母乳を飲ませれば、子とその相手は縁で結ばれる」  縁。そういえば千里が島の旧地名は散減島で、縁切りパワースポットだったか。あの怪物、散減は、どうやらその伝承と関係があるようだ。それにしても、 <ならその散減とお前には如何なる縁がある? またお前を生み出した金剛有明団(こんごうありあけだん)とかいう邪教の仕業か> 「知らん! だいたい貴様、そうやって何でもかんでも金剛のせいにがぼろごぼげぼがぼげぼろこゴゴポ!!?」  流水。 <資源の無駄だ。節水に協力しろ> 「ゲッ、ゲエェーーッ! ゲホガホッ! 本当に知らな」 <それとも次は和式の水を飲みたいか> 「知らないっつってんだろぉ!! 確かに散減も母乳信仰も金剛の叡智だ。だがそれをこの田舎島に伝来したのは誰か知らん! 少なくとも俺様は無関係だ!!」  残念だけど、こいつから聞き出せる情報はこの程度のようだ。私は影の炎で倶利伽羅を熱消毒して、洗面台でプルパと自分の手を洗った。 「ぎゃああああ熱い熱い!! ぎゃああああああ石鹸が染みるウゥゥ!!」  霊的な炎にスプリンクラーが反応しなくて良かった。  ベンチに戻ると、佳奈さんは既に身軽なサマードレスに着替えていた。脱水防止に自販機でスポーツドリンクを買い、大荷物を待っていると、空港スタッフの方が私達のスーツケースを運んできてくれる。 「ようこそおいでなすって、したたびの皆さん。快適な空の旅を?」 「いやあ、それがとんでもない乱気流に入っちゃいましてね。だぶか墜落せずにここまで運んでくれた機長さんは凄いですなぁ」 「乱気流が! ははぁ、そいつぁコトだ。どうか島ではごゆっくり」  尻切れトンボな口調でスタッフの方がタナカDと会話する。これは『南地語(なんちご)』と呼ばれる、江戸の都から南方にあるこの島特有の方言だ。『~をしましたか?』が『~を?』、『~なのです』が『~ので』、といった調子で、千里が島の人は語尾を省略して喋るんだ。 「佳奈さん、私南地語を生で聞くの初めてです。なんだか新鮮ですね」 「千里が島スタイルでは南地語(なっちご)って読むんだよ」 「へえ、沖縄弁がうちなーぐちみたいな物なので?」 「そうなので!」 「「アハハハハ!」」  二人でそれらしく喋ってみたけど、なんかちょっと違う気がする。案外難しい。それより、佳奈さんがちょっと元気になったみたいで良かった。今日この後はホテルで企画説明や島の情報を聞くだけだから、今夜はゆっくり休んで、気持ちを切り替えていこう。
གཉིས་པ་
 空港出入口の自動ドアを開いた途端、島のいやに生ぬるい潮風が私達を出迎えた。佳奈さんがまた気分を悪くしそうになり、深呼吸する。私も機内の騒動で平衡感覚がおかしくなっているからか、耳鳴りがする。 「ともかくお宿に行きたいな……」  そう独りごちた矢先、丁度数台の送迎車がバスターミナルに列をなして入ってきた。特に目立つのは、先頭を走るリムジンだ。白く輝く車体はまるでパノラマ写真のように長い。 「わぁすっごい! 東京からテレビが来たってだけあって、私達超VIP待遇されてる!」 「いえ、佳奈さん、あれは……」  ところがリムジンは大はしゃぎする佳奈さんを素通り。入口最奥で待機していた河童の家一団の前に停車する。すかさず助手席からスーツの男性がクネクネしながら現れ、乗降ドア前に赤いカーペットを敷き始めた。 「どうもどうもぉ、河童の家の皆様! 私めはアトムツアー営業部の五間擦(ごますり)と申します。さあさ、どうぞこちらへ……」  アトムツアー社員は乗車する河童信者達の列に跪いて靴を磨いていく。全員が乗りこむと、リムジンはあっという間に去っていった。 「……あーあ。やっぱ東京のキー局番組じゃないってバレてたかぁ~。リムジン乗りたかったなぁ」 「ただの神奈川ローカルですからね、私達」 「こう言っちゃなんですけど、さすがカルト宗教はお金持ってますなあ」 「タナカさん、今の台詞はカットしなきゃダメですよ」 「あっ一美ちゃん! 私達の、あっちじゃない?」  リムジン後方から車間距離を空け、一糸乱れぬ隊列を組んだバイク軍団が走ってくる。機体はどれも洗練されたフォルムの高級車で、それに乗るライダー達も全員眩しくなるほど美少年だ。 「「「千里が島へようこそ、お嬢様方! アトムツアー営業部ライダーズです!」」」  彼らは私達の目の前で停車すると、上品なダマスク柄の相乗り用ヘルメットを取り出し白い歯を見せて微笑んだ。 「えーっ、お兄さん達と二ケツして行くって事!? やーんどうしよ……」  佳奈さんがデレデレと伊達眼鏡を外した瞬間、 「きゃー!」「ライダー王子~!」「いつもありがとぉねぇー!」  加賀繍さんのおばさま軍団が黄色い悲鳴を轟かせ、佳奈さんを突き飛ばしてイケメンに突進! 一方イケメンライダーズは暴れ牛をいなす闘牛士の如く、キャーキャー飛び跳ねるおばさま達にテキパキとヘルメットを装着し、バイクに乗せていく。ところがおばさま軍団の殿を堂々たる態度で歩く加賀繍さんは、彼らを見るや一言。 「ヘン。どれもこれも、モヤシみたいのばかりじゃないか。コールもろくに出来なさそうだねぇ」  イケメンライダーズには目も合わそうとせず、一番大きなバイクにどかっと着席。バイク軍団は颯爽とリムジンを追いかけていくのだった。 「……あーあぁぁ。やっぱ小心者モデルじゃイケメンバイクはダメかぁ~」 「腹黒極悪ロリータアイドルじゃダメって事ですねぇ」 「加賀繍さんも稼いでるもんなあ。コールですって、きっとホスト狂いですよぉあの人」 「タナカD、その発言OA(オンエア)で流したら番組打ち切りになるよ」  三人で管巻いていると、少し間を置いて次の送迎車が現れた。トココココ……と安っぽいエンジン音をたてて走る小型シャトルバスだ。私としては別に河童の家や加賀繍さん方みたいな高級感はいいから、さっさとホテルで休ませて欲しい。ランウェイを歩いていた午前中から色んな事が起こりすぎて、もうヘトヘトなんだ。「あ、あの……」しかしバスは残酷にも、私達の待つ地点とは反対側のロータリーに停車。玲蘭ちゃんと後女津一家を乗せて去っていった。「あの、もし……」小さくなっていく『アトムツアー』のロゴに、佳奈さんが中指を立てた。私もそれに倣って、親指を 「あの! お声かけても!?」 「ふぇ!? あ、は、はい!」  声をかけられた事に気がつき振り返ると、背の高い男性……を通り越して、日本人離れした偉丈夫がいつの間にか私達の背後に立っていた。しかも恐縮そうに腰を屈めているから、まっすぐ立ったら少なくとも身長二メートル以上はありそうだ。 「遅くなっちまって失礼を。僕は千里が村役場観光事業部の、青木光(あおきひかる)です。ええと、したたびさんで?」 「ええ。しかし、君が青木君かい!? 大きいなあ、あっはっは!」  タナカDが青木さんの胸のあたりをバシバシと叩いた。青木さんはオドオドと会釈しながら後込む。身体が大きいから最初は気がつかなかったけど、声や仕草から、彼は私と同い年か少し年下のようだとわかる。 「あ、あのォこれ、紅さんがいつも髪にチョークされてるので、僕も髪色を。ど、どうです……派手すぎで?」 「あ、ヘアチョークご自分でされたんですか? すごくお似合いですよ!」 「い、いえ、床屋のおばちゃんが! でも……お気に召したなら、良かったかもだ」  青木さんは全体をホワイトブリーチした目隠れセミロングボブを、毛先だけブルーにしている。今日は私も下半分ブルーだからおそろいだ。ただ、このヘアメイクに対して彼の服装はイマイチ……素肌に白ニットセーター直着、丈が中途半端なベージュカーゴパンツ、ボロボロに履き古された中学生っぽいスニーカー。確かに、『都会からテレビが来るから村の床屋さんが髪だけ気合い入れすぎちゃった』みたいな情景がありありと目に浮かんでしまう。もうロケそっちのけで青木さんを全身コーデしたくなってきた。 「それより青木君、私達の車は?」  佳奈さんが荷物を持ち上げる。 「え。いえその、言いにくいんですけど……」  青木君は返答の代わりに、腕を左右にスイングしてみせた。まさか…… 「徒歩なんですか!?」 「すす、すみません、荷物は僕が! 役場もコンペに予算とか人員を削がれちまって、したたびさんのお世話は僕一人などと。けど僕、まだ仮免だから……」 「「コンペ?」」  首を傾げる佳奈さんとタナカD。私は飛行機内で聞いた除霊コンペティションの話をかいつまんで説明した。 「困るよぉそれ! 除霊されたらこっちの撮れ高がなくなるじゃんかよ!」 「ゲ、やっぱり! 聞いて下さい青木さん。この人達、宝探し企画とか言っておきながら、本当は私を心霊スポットに連れて行く気だったんですよ!?」 「ええっ肝試しを!? 島のお化けはおっとろしいんだから、それはちょっとまずいかもけど!」  目隠れ前髪越しでもわかるほど冷や汗を流しながら、青木君は赤べこみたいにお辞儀を繰り返す。 「そら見なさい、触らぬ神に祟りなしですよ。私達だけ徒歩になったのだって、きっと罰が当���ったんだ」 「そーだそーだ! 青木君に謝れタナカD!」 「なんだと? あなただって紅さんを地上波で失禁させるって息巻いてたじゃないか!」 「佳奈さん!!」 「そこまでは言ってないし!」 「ややや、喧嘩は!」 「あ、気にしないで下さい。私達これで平常運転ですから」  この罵り合いはホテルに到着するまで続く。したたびロケではいつもの事だ。私達は良く言えば忌憚なく話し合える仲だし、悪く言えば顔を合わせる度に言葉の殴り合いをしている気がする。それでも総括的には……仲良しなのかな、どうなんだろう。  空港からホテルへは、石見サンセットロードという遊歩道を行く。海岸沿いの爽やかな道とはいえ、心霊スポットという前情報のせいか海が陰気に見える。船幽霊が見えるとかそういう事はないけど、島の人も霊も全く外を出歩いていなくてだぶか不気味だ。  到着した『ホテル千里アイランドリゾート』はそこそこ広くて立派な建物だった。それもそのはず。青木さんによると、ここは島で唯一の宿泊施設だという。但し数ヶ月後には、アトム社がもっと大規模なリゾートホテルを乱造するんだろう。玄関に到着すると、スタッフの方々が私達の荷物を運びに…… 「って、玲蘭ちゃんに斉一さん!?」 「あっ狸おじさんだ! ……と、誰?」  そうか、普段メディア露出をしない玲蘭ちゃんを佳奈さんは知らないんだった。 「この方は金城玲蘭さん、沖縄の祝女……シャーマンですね。私の幼馴染なんです」 「初めまして志多田さん、タナカさん。金城です。こちらの彼は……」  玲蘭ちゃんが話を振る直前、斉一さんの中にさりげなく、ドレッド狸の斉二さんが乗り移るのが見えた。代わりに斉一さんらしき化け狸が彼の体から飛び出し、 「どうも、ぽんぽこぽーん! 幸せを呼ぶ地相鑑定士、毎度おなじみ後女津斉一です!」  彼はすっかりテレビでお馴染みの風水タレントの顔になっていた。芸能界で活躍していたのはやはり斉二さんだったみたいだ。 「あの、どうしてお二人が?」  客室へ向かいながら私が問いかけると、二人共苦笑する。 「一美、実は……私達、相部屋だったんだ」 「え!?」  すごすごと玲蘭ちゃんが襖を開けると、そこはまさかの宴会場。河童の家や加賀繍さん達で客室が埋まったとかで、したたびチームと玲蘭ちゃん、後女津家が全員大部屋に押しやられてしまったのだという。 「はぁ!? じゃあ私達、川の字で雑魚寝しなきゃいけないワケ!? 男女分けは……まさか、えっこれだけ!?」 「すみません、すみません!!」  佳奈さんが宴会場中央の薄っぺらい仕切り襖を開閉するリズムに合わせ、青木さんはベコベコと頭を下げる。 「やめましょうよ佳奈さん、この島じゃ誰もアトムには逆らえないんですから」 「ぶっちゃけ俺や金城さんも、半ばアトムに脅迫される形でここに連れてこられたんだよねぇ……あ、これオフレコで」 「いやいや狸おじさん、もう全部ぶっちゃけたっていいんですよ。うちのタナカが全責任を負って放送しますから」 「勝手に約束するんじゃないよぉ! スーパー日本最大手の大企業に、テレ湘なんかが勝てるわけないんだから!」 「「「はあぁぁ……」」」  全員から重たい溜め息が漏れた。
གསུམ་པ་
 簡単な荷物整理を終え、したたびチームはロビーに移動。改めて番組の企画説明が始まった。タナカDが三脚でカメラを固定し、語りだす。 「今回は『千里が島宝探し編』。狙うはもちろん、徳川埋蔵金ですからね。お二人には明後日の朝までに、埋蔵金を探し出して頂きます」 「見つからなかったらどうなるんですか?」 「いつも通り、キツい罰ゲームが待っていますよぉ」 「でしょうねぇ」  埋蔵金なんか見つかりっこないのは分かりきっている癖に。完全に出来レースじゃないか。 「もちろん手掛かりはあるよ」 佳奈さんが机に情報フリップを立てかけた。書かれているのは簡略化された千里が島地図だ。 「山の上にあるのが噂の縁切り神社、『御戌神社(おいぬじんじゃ)』。そこから真下に降りたところ、千里が島国立公園のところに書いてあるこのマークが『ザトウムシ記念碑』。一美ちゃんは、民謡の『ザトウムシ』は知ってるよね?」 「もちろん知ってますよ。お店で閉店前によく流れる曲ですよね? あれって千里が島の民謡なんですか」 「そうなの。そしてザトウムシの歌詞は、一説によると徳川埋蔵金のありかを示す暗号だと言われてるんだ!」 「へえ、そうなんですね。じゃあ暗号は解けてるんですか?」 「それはこれから考えるんだよ」 「はぁ……」  なんだか胡散臭い手掛かりだ。 「だいたい、埋蔵金なんて本当にあるんですか? そもそも、千里が島と徳川幕府に関係性が見えないんですが」 「じゃあまずは千里が島の歴史を知るところからだね。青木君ー!」 「はい、ただいまー」  佳奈さんが呼びかけると、大きなホワイトボードを引きずりながら青木さんが画角内に入る。実はさっきから、彼は私達の真横でずっとスタンバイしてくれていたんだ。青木さんはホワイトボードにゴシック体みたいな整った字で『千里が島と徳川家の歴史』と書き、解説を始めた。  千里が島、旧地名散減島。ここは元々江戸時代に都を脅かした怨霊を鎮めるためだけに開拓された地で、その伝説が縁切りや埋蔵金の噂に繋がる起源なのだそうだ。  事の発端は一六七九年。徳川幕府五代将軍、徳川綱吉が男の子を授かった。名を徳松という。しかし徳松は一歳を過ぎても母乳以外なにも飲み食いできず、見るからに虚弱だった。これを訝しんだ綱吉が時の神職者に相談してみると、徳松は江戸幕府征服を目論む物の怪によって、呪われた悪霊の魂を植え付けられていたと判明する。 「物の怪は徳松の体のミルクから、縁を奪ってたんですだ」 「ミルクから……縁?」  既に倶利伽羅から軽く説明を受けていたけど、番組撮影のためにも改めて青木さんから話を聞く。 「昔の伝承じゃ、おっかさんのミルクにゃ親子の縁が宿るなど。ミルクをとられた子は親と縁が切れて、バケモノになっちまうとか。だから徳松は、本能的にいつまでもミルクを」 「へえ、そういう信仰があったんですね」  神職者が提示した儀式は、三歳、五歳、七歳……と二年毎に分けて行われる。魂が完全形成される前の三歳の時に悪霊を摘出し、代わりに神社の聖なる狛犬の魂を素材として魂を作り直す。五歳になったら身を守るための霊能力を与えて修行を積ませ、七歳で悪霊退散の旅に向かわせる。それが幕府と神職者が本来描いていた運びだった。 「ちなみにこれが七五三参りの起源なんだよ……だがしかしィーっ!」  佳奈さんがフリップに貼ってある付箋を勢いよく剥がす! 「デデン! なんと徳松は五歳で死んでしまうのです!」 「えぇ? 七五三参りの起源になった子なのに、七歳まで生きられなかったんですか!?」 「まあ現在の七五三参りは、男の子は五歳しかお参りしませんけどね」  タナカDが画面外から補足した。徳松は修行の途中物の怪に襲われ、命を落としてしまったんだ。それでも彼は物の怪を体内に封印し、二年間耐え抜いた。しかし物の怪は激しく縁に飢え、徳松の精神をじわじわと狂わせる。そして一六八五年、人の縁を完全に失った徳松の魂は大きな狛犬のような怨霊となって江戸中の縁を貪った。徳松に縁を食われた人々は不幸にみまわれ、家族や仕事を失ったり、人間性を欠きケダモノめいて発狂したりと大パニックだ!  ついに諦めた幕府と神職者は、徳松を江戸から追い出してしまう。彼らは江戸中の女性から母乳を酒樽一斗分集め、それを船に乗せて江戸から遥か南の無人島に運んだ。徳松も船を追って海を渡ると、そのまま神職者は島に神社を建て、徳松の魂を神として奉った。以降徳松は悪縁を食べてくれる縁切り神として有名になり、千里が島は今日も縁切りパワースポットとして名を馳せているんだそうだ。 「では一美ちゃん、ここでクイズです! 怨霊事件から更に二年後、一六八七年。怨霊がいなくなった後も徳松の祟りを思い出してノイローゼになっていた綱吉は、ある法律を制定しました。それはなーんだ?」 「え、法律!?」  急に佳奈さんがクイズを振ってきた。歴史は得意でも苦手でもない方だけど…… 「ええぇ、徳川綱吉で法律といえば、生類憐れみの令ぐらいしか……」 「ぴんぽんぴんぽんぴんぽーん!!」 「え、生類憐れみの令でいいんですか!?」 「その通り! 綱吉は犬畜生を見る度に徳松を思い出してしまう! そして祟りを恐れて動物を殺さないように法律を作った。それが生類憐れみの令の真実なのだあ!!」  ババババーン! と、オンエアではここで安っぽい効果音が入るのが想像に難くない。しかし七五三参りだけでなく、あまつさえ生類憐みの令まで徳川徳松が由来だったなんてさすがに眉唾な気がする。 「徳松さんってそんなに歴史的に重要な人だった割には、あまり学校じゃ習わないですね」 「今青木君と佳奈さんが説明した伝承は、あくまで千里が島に伝わる話ですからな。七五三も生類憐れみの令も、由来は諸説あるみたいですよ」  タナカDが蚊に食われた腕を掻きながら再び補足した。すると佳奈さんが反論する。 「でもだよ! もし千里が島の伝説が本当なら、法律にしちゃうほど当時の江戸の人達が徳松を恐れてたって事だよね! だったら幕府は、だぶか大事な物は千里が島に隠すと思うんだ。まさに埋蔵金とか!」 「うーん、百歩譲ってそうだったとしても、それで私達が埋蔵金を見つけて持って行っちゃったら、徳松さんに祟られませんか?」 「もー、一美ちゃんは相変わらずビビりだなあ。お化けが怖くて埋蔵金がゲット出来るかっ!」 「佳奈さん。そんな事言ってると、いつか本当にとんでもない呪いを背負わされますよ」 「その子の言う通りさね」 「え?」  突然、誰かがトークに割り入ってきた。私達が顔を上げると、そこにいたのは加賀繍さんと取り巻きのおばさま軍団。なんてことだ。恐れていた展開、ついにアサッテの霊能者に絡まれてしまった。
བཞི་པ་
 ホテルロビーの椅子と机はフロントより一段低い窓際に位置する。フロント側に立つ加賀繍さんとおばさま方に見下ろされる私達は、さながら熊の群れに追い詰められた小動物のようだ。 「あんた、志多田佳奈だっけか? いい歳して幼稚園児みたいな格好して、みっとみないね。ご先祖様が泣いてるよ」 「ですよねぇ先生、大人なのに二っつ結びで」「嫌ーねー」  初対面で早々佳奈さんを罵る加賀繍さんと、それに同調するおばさま軍団。 「これはゴスロリっていうんですーっ」  佳奈さんがわざとらしく頬を膨らませた。こんな時でもアイドルは愛想を振りまくものだ。 「ゴスロリだかネンネンコロリだか知らないけどね。あんた、ちゃんとご先祖様の墓参りしているのかい? この島は特別な場所なんだから、守護霊に守って貰わなきゃあんた死ぬよ。それこそネンネンコロリだ」  出た、守護霊。日頃お墓参りを怠っていると、ご先祖様が守護霊として仕事をしなくなり不幸になる。正月の占い番組でよく聞く加賀繍さんの常套句だ。更に加賀繍さん直営の占い館では、忙しくてお墓参りに行けない人に高価なスピリチュアルグッズを売りつけているという噂だ。現に今も、おばさま方が怪しい壺やペットボトルを持って、私達をじっとりと見つめている。 「それから、そっちの黄色いの。あんたはちゃんとしてるのかい?」  黄色いの? ……ああ、アイラブ会津パーカーが黄色だから私の事か。佳奈さんは芸名で呼ばれたのに、ちょっと悔しい。 「定期的に帰ってますよ。家のお仏壇にも毎日お線香をあげてますし」  実家では、だけど。ここは彼女を刺激しないようにしたい。 「ふぅんそう。けどそれだけじゃあ、この島じゃ生きて帰れないだろうさ。仕方ないね、今回はあたしが特別にエネルギーを分けてやるよ」  そう言い加賀繍さんは指を鳴らす。するとおばさま方が私達のテーブルからフリップや資料を勝手にどかし、怪しい壺とペットボトル、銀のボウルをどかどかと並べ始めた! 慌ててタナカDが止めにかかる。 「ちょっと、加賀繍さん! 困りますよぉ、撮影中です!」 「はあ? 困るですって!?」 「あなた! 加賀繍先生が直々に御力添えして下さるのを、まさか断るってんじゃないでしょうね?」 「あ、いえ、とんでもございません」 「もー、タナカD~っ!」  しかしおばさま方に気圧されてあっさりと机を譲ってしまった。佳奈さんがタナカDの頭をペチッとはたいた。おばさまの一人がペットボトルを開け、ボウルに中身を注ぎ始める。ボトルには『悪鬼除滅水』という何やら物騒な文字が書かれている。横で加賀繍さんも壺の蓋を開ける。何か酸っぱいにおいが立ちのぼり、佳奈さんが私にしがみついた。 「エッヤダ怖い。あの壺、何が入ってるの!?」  小声で佳奈さんが囁く。加賀繍さんはその壺に……手を突っ込んでかき混ぜ始めた! グシュ、ピチャ、ヌチチチチ。まるで生肉か何かを攪拌しているような不気味な音がロビーに響く。 「やだやだやだ! 絶対生モノ入ってる! まさか、ご、ご、ご先祖様の……ご、ご、」 「ご遺体を!? タナカさん、カメラ止めにゃ!」  気がつくと青木さんまで私にしがみついて震��ていた。かく言う私はというと、意外と冷静だ。あの壺や水からは、なんら霊的なものは感じない。強いて言うなら加賀繍さんご本人の中に誰かが宿っている気がするけど、眠っているのか気配は薄い。それより気になるのは、ひょっとしてこの酸っぱいにおいの正体は…… 「ぬか漬け、ですか?」 「そうさ」  やっぱり! 加賀繍さんは壺から人参のぬか漬けを取り出し、ボウルの悪鬼除滅水でぬかを洗い落とした。 「あたしん家でご先祖様から代々受け継がれてきたぬか床さ。これを食えばあんたらも家族と見なされて、いざという時あたしの強力なご先祖様方に守って貰える。ほら、食え」  加賀繍さんが人参を佳奈さんに向ける。でも佳奈さんは受け取るのを躊躇った。 「うわぁ、せ、先祖代々って……なんか、それ大丈夫なんですか?」 「なんだって!?」 「ひい!」 「し、しかしですねぇ加賀繍さん、お気持ちは有難いんで大変申し訳ないんですが、演者に生ものはちょっと……」 「カメラマン、あんたも食うんだよ」 「僕もですか!? いえ、僕はこないだ親戚の十三回忌行ったばっかだから……」 「美味しい!」 「一美ちゃん!?」「紅さん!?」  誰も手をつけないから私が頂いてしまった。これは普通に良い漬物だ。塩気や浸かり具合が丁度よくて、野菜がビチャッとしていない。ぬか床が大切に育てられている事がよくわかる。 「美味しいです加賀繍さん! 福島のおばあちゃんの漬物を思い出しました。佳奈さんも食べてみればいいじゃないですか」 「一美ちゃん案外勇気あるな��……。じゃ、じゃあ、いただきます……エッ美味しい!」 「でしょ?」 「はははははっ!」  私は初めて、ずっと仏頂面だった加賀繍さんがちゃんと笑う所を見た。 「あんたは本当にちゃんとしているんだね、黄色いの。よく墓参りをする人は、親や祖父母の実家によく帰るだろ。だから家庭の味ってやつをちゃんと知っている。人にはそれぞれ家族やご先祖様がいて、それが良縁であれ悪縁であれ、その人の人生を作るのさ。だから墓参りはしなくちゃいけないんだよ。この島の神様は縁を切るのが仕事のようだけど、あたしゃ自分に都合の悪い縁を切るなんて愚かだと思っているのさ」 「そうなんですね。ちなみに私、紅一美です。覚えて下さい」 「あ? 紅? じゃあ何でそんなに黄色いんだい。今日から黄色ちゃんに改名しな! ハハハハ!」  どうやら私は加賀繍さんに気に入られたようだ。地元を引き合いに出したのが良かったみたいだ。それにしても、彼女の話はなかなか説得力がある。どうする事もできない悪縁を切るために神様を頼るのが間違っているとまでは思わないけど、そうする前に自分のご先祖様や恩人との縁を大切にする方が大事なのは明白だ。彼女がアサッテだからって偏見の目で見ていた、さっきまでの自分が恥ずかしくなった。ところが…… 「じゃあ、これ御力添え代ですわ。ほい」 おばさま方の一人がタナカDに請求書を渡す。するうちタナカDは「フォッ」と声にならない音を発し、冷や汗を流し始めた。あの五百ミリリットルサイズの悪鬼除滅水ボトルに『¥三,〇〇〇』と書かれたシールが貼ってあった気がするけど、人参のぬか漬け一本は果たしていくらなんだろう。それ以外にも色々な手数料が加算されているんだろうな……。 「加賀繍さんにパワーを貰えてラッキー! 果たして埋蔵金は見つかるのか!? CMの後、急展開でーす! はいオッケーだね、じゃ私トイレ!」  佳奈さんは息継ぎもせず早口でまくし立て、脱兎のごとくホテル内へ去っていった。 「あっコラ極悪ロリータ! 勝手に締めて逃げるなぁ!!」 「青木さん、私ぬか漬け食べたらお茶が飲みたくなっちゃったなー!」 「でしたらコンビニなど! ちぃと遠いかもけど、ご案内を!」 「おい青木と黄色! この裏切り者ーーーっ!!」  私と青木さんもさっさと退散する。まあタナカさんには、演者への保険料だと思って何とかして欲しいものだ。でも私は内心、これで番組の予算が減れば今後大掛かりなドッキリ演出が控えられるだろうと少しほくそ笑んでいた。
ལྔ་པ་
 新千里が島トンネルという薄暗いトンネルを抜けた所に、島唯一のコンビニ『クランマート』があった。アトム系列の『プチアトム』ではなくて良かった。私はカフェインが苦手だから紙パックのそば茶を選び、ついでに佳奈さんへペットボトルのピーチサイダーを、タナカDへは『コーヒーゼリー味』と書かれた甘そうな缶コーヒーを購入した。青木さんも私と同じそば茶、『おおきなおおきなエビカツパン』、梅おにぎりを買ったようだ。青木さんが持つエビカツパンは、なんだかすごく小さく見えた。  外は既に夕日も沈みかけて、夕焼け空が夜に切り替わる直前になっていた。黄昏時……そういえば、童謡『ザトウムシ』の歌い出しも『たそがれの空を』だったな。私はコンビニ入口の鉄手すりに腰掛け、先程タナカDから渡されたペラペラのロケ台本をめくる。巻末の方に歌詞が書いてあったはずだ。するとタイミング良く、クランマートからも閉店ミュージックとしてザトウムシが流れ始めた……。
【童謡 ザトウムシ】  たそがれの空を  ザトウムシ ザトウムシ歩いてく  ふらついた足取りで  ザトウムシ歩いてく
 水墨画の世界の中で  一本絵筆を手繰りつつ  生ぬるい風に急かされて  お前は歩いてゆくんだね
 あの月と太陽が同時に出ている今この時  ザトウムシ歩いてく  ザトウムシ ザトウムシ歩いてく
 おうまが時の門を  ザトウムシ ザトウムシ歩いてく  長い杖をたよって  ザトウムシ歩いてく
 何でもある世界の中へ  誰かが絵筆を落としたら  何もない灰色を裂いて  お空で見下ろす二つの目
 ああ月と太陽はこんなに出しゃばりだったのか  ザトウムシ歩いてく  ザトウムシ ザトウムシ歩いてく
「改めて読むと、確かに意味深な歌詞だな……」  私が独りごつと、隣の鉄手すりに座ってエビカツパンを咀嚼していた青木さんが口を拭った。 「埋蔵金探しは、したたびさんより前にも何度か。大体皆さんザトウムシ記念碑からスタートされて、『ザトウムシ』という歌詞の数だけ歩くとか、夕焼けの時間にどっちの方角を向くなどと……。けど、それらしい物が見つかったのは一度もだ」 「そうなんですね」 「そもそもどうしてザトウムシを……徳松さんに縁があるのって、どちらかと言えば犬では? けど何故か、島ではザトウムシを特別な虫だなどと」 「言われてみれば、生類憐みの令といえばお犬様! ってイメージがありますね。……ていうか、なんか、すいません。余所者のテレビ局が島のお宝を荒らすような真似して、島民の青木さんはいい気持ちしないですよね」 「そ、そ、そんな事! だぶか!」  青木さんは慌てた様子で私の方を向き座り直した。 「僕は嬉しいんだから! だって今まで、おっとさんらは島のこと僕に何も教えてくれないし、何もさせてくれなくて。けど今回は、社会人として初めて仕事を任されたので……ので……」  緊張したような様子で青木さんの姿勢が丸まる。コンビニから流れるザトウムシのメロディに一瞬振り返った後、彼はパンの袋を両手で抱えて更に縮こまった。 「……僕だって縁切りやお化けなんか、ただの迷信と。だけどこの島の人は実際、内地に比べてよそよそしいかもだ。何も言わず友達が引っ越してたり、親戚がいつの間にかおっ死んじまってたりなど……。それで内地の人と関われる役場の観光課に入ったのに、アトムさんがリゾート開発おっ始めて公務員は御役御免。僕は島に縁を切られたので?」 「青木さん……」  私も会津の田舎町で育ったから、彼の気持ちはわかる。狭いコミュニティに住む人々は、距離が近いようで時にとても排他的になるものだ。それは多かれ少なかれ互いを監視し、情報共有し合っているから当たり前の事だけど、縁切りで有名なこの島は特にそういう土地柄なのかもしれない。 「したたびさんのおかげで、やっと僕にバトンが回ってきたんだから。僕達で絶対埋蔵金を見つけにゃ。それで島のおっとさん方もアトムも、お化けも霊能者の先生方も……」  青木さんは腰を上げ、猫背をやめて私の前にまっすぐに立った。 「僕達の縁で、みんなを見返してやるんですだ!」  その瞬間、風が彼の重たい前髪をたくし上げた。彼の子犬みたいな笑顔を見た私は初めて、以前雑誌のインタビューで適当に答えた『好きな男性のタイプ』と青木さんが完全に一致している事に気がついたのだった。
0 notes
gunosy-news · 4 years
Text
人間、捨てたもんじゃない…知らない人から受けた「親切」に心あたたまる
集計期間:2020年3月4日~3月6日 回答数:14138
Tumblr media
 人間関係の希薄化が叫ばれる現代社会では、人の嫌な面ばかりが見えてしまいがちです。ニュースでも、毎日のように残酷で陰湿な事件が報じられ、思わず人間に絶望してしまいそうになるという人も多いのではないでしょうか。
 しかし、他者を信用できない世の中ほど寂しいものはありません。そして、そんな世の中だからこそ、人の親切に触れた時に受ける感動もひとしお。
 そこで今回は「知らない人から受けた親切」にまつわるアンケート調査を行いました!
Q1.知らない人から親切にされた���とはありますか?
Tumblr media
 回答者14138名のうち、全体の約4分の3にあたる人々が「見知らぬ誰かから親切にされたことがある」という結果に。なんとも希望を持てる数字ですね!
 ここからは、具体的なエピソードを見ていきましょう。
<具体的な親切エピソード>
Tumblr media
【赤ちゃん・子供・妊婦のエピソード】
・小さい子供が二人いるので、電車に乗る時や電車を待っている時、道を歩いているだけでたくさんのひとから話しかけられ、譲っていただいています。
・子供が電車のドアに腕を引き込まれてしまった時に見知らぬ男性が助けてくれた。お礼をしようとしたらその電車に乗って去ってしまった。
・年子の赤ちゃん連れて買い物へ行った際に、スーパーや薬局などのレジでお会計しながら袋入れしてもらうことが結構あり助かりました!
・5カ月の子供と電車に乗ったとき、泣き出してベビーカーを嫌がる息子。その時若い10代のカップルが、『ベビーカー僕たちが見てるので、ここ座ってください』と席を譲ってくれた。都会も捨てたもんじゃないな
・妊娠中、電車で席を譲ってもらった。
・妊婦の私が電車に乗った時、腰が痛かったので座りたかったけど席が空いてなくて、優先席の人も見て見ぬ振りをされてしょうがないなと窓際に立っていたら、離れた場所に座っていた女性が、自分が座っていた席に荷物を置いてキープしたまま席を立って私のところまで座ってくださいと言いにきてくれました。とてもありがたくて、こういう事ができる女性になりたいなと思いました。
・レジに並んでる時、子供がぐずってたらあやしてくれたり、順番変わってくれたりしてくれた
・子供の頃、自転車のチェーンが外れて困ってたら助けてくれた
・子連れでいると、年配の方に「頑張ってるね」「いま大変かもしれないけど、頑張ってね!」と温かい言葉をかけてもらうことが多いです。妊娠中は電車の中で20-30代の男性がよく声をかけてくださり、席を譲ってくださいました。
・息子がまだベビーカーに乗っているとき、駅で乗り換え方がわからずそこにいた学生さんに聞いたら『私、時間あるのでその駅まで一緒に行きますよ(^-^)』と言ってくれて、更にマザーズバッグを持ってくれて一緒に電車に乗って私が行きたい駅まで同行してくれた!帰り際に名前聞いたけど教えてくれなかったー!どこかの学生さんに間違いないけど本当に感謝しています。世の中イイ人もたくさんいる(((*≧艸≦)
・子供が小さいときに席を譲っていただき、「何年か経って大変そうな子供連れの方がいたら、代わってあげてね。私もそうしていただきながら、子供を育てたのよ。」と言ってもらいました。今、親切はそうやって世の中を巡っていくのだと思っています。
・妊娠中に会社から帰宅中に、上の子を迎えに行き電車に乗ってすぐに気を失って倒れてしまいました。子供に後で聞いたところ、車掌さんに連絡をしてくれた方、上の子の手をずっと繫いでいてくれた方、ホームから担架でおろしている間もまわりの方々が親切にしてもらったようです。ありがとうございました。
・抱っこ紐を忘れて赤ちゃんを抱っこしたまま買い物した物を袋詰めしてたら、やってあげるわよと言って袋詰めしてくれ、車まで荷物を運んでくださった親切なおば様。
・電車で泣き止まない息子に焦っていたら、声をかけていただいて、あついのかなー?おなかすいたのかなー?ママも大変ねって笑ってくれて、本当に嬉しかった。人の目があったので、怒られたら、と心配になってましたが、おかげで注意や非難されることなく無事に目的地に着きました。
・このコロナ騒ぎの最中、買い物にでかけた先で大量の鼻血を出した息子回りは白い目で見てた中、おばちゃんがポケットティッシュをポンとくれたちょうどティッシュなどの紙類がなくなる中、気にしなくていいからと去っていった姿にジーンとした 
【雨のときに…】
・野外ライブで雨が降り、傘しか持ってなかったのに使用禁止で困っていたら、隣りの人がゴミ袋をくれた。
・急な豪雨で雨宿りしていたら、傘をくれた方がいた。
・バス停でバスを待ってたら突然の雨、知らないおばさんに傘いれてもらった。
・子供と散歩中、急に雨が降ってきて傘を持ってなかったので濡れて帰ろうと遊びながら帰っていると、車で通りかかった男性がわざわざ降りてきてくれて『傘使ってください!もういらないので!』とビニール傘を差し出してくれました。結構な雨の量だったのですごく助かりました。
・足の骨折で片松葉づえ状態の時、腎臓病の猫の通院日が雨だった。右手杖、左手猫のかごなので、傘させず雨の中帽子だけかぶって濡れながら駅に向かっていたら、知らない方が傘をずっとさしかけてくれた
・雨の日、子供を抱っこして予防接種に向かう途中あと少しで病院というところで、さしていた傘が崩れ壊れた。通りかかった年配のご婦人が赤ちゃん濡らしちゃったら大変と、折り畳み傘をくれた。その後病院にいる間に雨が強くなってきたようで、ご婦人が折り畳み傘じゃ濡れると病院まで普通の傘をわざわざ持ってきてくれた。ご近所にお住まいだったようだが、わざわざそこまで気にかけて頂き親切にしていただいて、本当に助かりとても感謝しています。
【電車内で】
・電車に乗っていたら知らないおばちゃんからみかんもらいました。
・特に人が多い日に満員電車に乗った際、押しつぶされ倒れてしまいました。その時に男子中学生が手を差し伸べて大丈夫ですか?と聞いてくれました。毎朝イライラしてる人が多い電車の中で心優しい子もいるんだなと嬉しかったです。
・色々な方に親切にしていただいた事があります。中でも20年前くらいのことですが、仕事で現場に向かう途中の朝の通勤ラッシュの電車内で貧血と過呼吸に見舞われ、意識が遠のいてしまった事がありました。意識が薄れる中、微かに「大丈夫?」と女性の声が聞こえたのを覚えているのですが、気づいた時は降りる予定の駅で、ドアが開くと同時に駅員の方が二人で私を抱えてくださっていました。その時は駅員さんに御礼を言うのがやっとでしたが、きっとあの時の声の方が、駅に連絡をしてくださったりしたのではないかと思います。どれくらい意識を失っていたのかも分からないので、誰かに引き継いでくださっての到着だったかもしれないので、もしかしたらその方だけではなかったのかもしれません。どんな方だったのか、何人だったのか、なぜ降りる予定の駅で救護して貰えたのか、など分からない事がばかりですが、ただ一つはっきりとした事実は、その時その場所には人の善意しかなかったという事です。恥ずかしながら今の私は辛い状況の中にいるので、その時の事を思い出すと、もう少し踏ん張って見ようと思えます。
【海外で困ったときに…】
・海外旅行中、ケネディ空港で迷子になり、搭乗口がわからなかった時、たまたま日本人おばちゃんが前を通りかかったので声をかけた時、自分と同じ飛行機に乗るとの事で搭乗口まで一緒に行ってくれた。1人旅で心細かったのでとても助かった。
・学生時代、海外でテイクアウトのコーヒーを買った。飲み始めて現金があと1ドル足りないことに気付いた。もう飲み始めている上に後ろにも列が出来ていた。カードも何も無くて半泣きになっている私に見知らぬ男性が黙って1ドル置いて立ち去った。追いかけてお礼を言うのが精一杯でお金を返せなかった。あれから30年以上経つが未だに忘れられない思い出です。
・オーストラリアのシドニーでお店を探していたら男性が話し掛けてくれた。店の行き方を教えてくれた、すぐ近くの銀行員だったが本当にありがたかった。
・パリで乗る電車が分からないとき声をかけてもらいました。
・バスに乗り間違えてロサンゼルスの郊外で迷子になった時、その場にいたメキシコ出身と思われる男性が親切に正しい戻り方を教えてくれた。無事に帰れたお礼を伝えることができず、今でも連絡先を聞かなかった後悔と、見ず知らずの若い日本人を助けてくれた恩に感謝しています。
・子供の頃バンコクに家族旅行に行った際、つば付きのキャップが風に飛ばされ水上ボートだったのですが船頭の少年が川に飛び込んで取ってきてくれた。
・アメリカでガソリンが無くなって困っていた所ガソリンスタンドまで乗せて行ってくれて携行缶を借りてくれようとしたが借りられず、自分の家のガソリンを取りに行ってお金も受け取らず助けてくれました。
・韓国に行った時、行きたい場所にたどり着けず困っていたらその場所まで一緒に歩いて連れて行ってくれたり行きたい店が見つからずHPを見せたら携帯で電話して聞いてくれたりとにかくとても親切でした日本でいるとイメージが真逆でびっくりしました
・台湾で夜に道がわからなくなってコンビニに入って店員さんに聞いたら、店内にいる他の人達もそれに気づいて一緒に探してくれて、最後には「女の子1人で夜道は危ないから」ってタクシーも呼んでくれて、到着後支払おうとしたら「友達だから!」ってタクシー代まで支払ってくれていた。海外で言葉もなかなか通じないのに、こんなに親切にしてくれて、本当に感謝と感動が止まらなかった。連絡先を聞き忘れた事を未だに後悔している。また出会えないかなぁ、と台湾に行くたびに思う。
【お金がらみのエピソード】
・小さい頃、スーパーのレジで金が足りないとき、レジの人が足りない部分の金を払ってくれた。
・子供のころ、買い物で10円足りなかったところ、知らない高校生の男の子が10円くださり、買い物ができました。自分も、大人になって、困っている子供に同じ事をしたことがあります。
・所持金が5000円しかない状態で深夜にタクシーに乗った時、その旨と予算内ギリギリの所までの走行をお願いしたのですが、500円ほど予算オーバーにも関わらず、5000円で自宅前まできちんと届けて頂いたことがあります。
・高校生のとき友達とスーパーの惣菜コーナーをみていたら知らないおばあさんにお金をもらって好きなものを買いなさいって言ってもらった
・終電で寝過ごして、同じ状況の人とタクシーで相乗りして帰った。その人は先に降りられ、私が家に着いたら全額払っていてくれた。
・他人から何故か駅でSuicaチャージする時にどうぞって1000円渡されたことある、全く知らない男
・高校生の時に定期を忘れて、遅刻したくない勢いで駅員さんに相談したら、しょうがないなぁ、と個人的にお金を貸してくれた
【迷子になったとき…】
・学生時代、道に迷って困ってたら道案内してくれた
・知らない土地で迷っていると声をかけられて、車で道案内してもらった上に食事まで奢ってもらえた。
・道を聞いたら、言葉だけでなく、わかりにくい道なのでと、分かり易くなるところまで連れていってくれたこの人はお年寄りでした
【ケガ・体調不良のときに…】
・体調を崩している所に、お水を渡してくれた
・山でバイクで怪我をしたとき、車で通りかかった夫婦に麓の病院まで乗せて行っていただいた時
・銭湯でのぼせたときに冷たいタオルを首に巻いて、水を飲ませてくれた
・駅で派手に転んでしまったら、若い男性が大丈夫ですか?と手を差し伸べてくれて、余計恥ずかしかった。
・体調が優れずに駅のホームにうずくまっていたら、周りの人が駅員さんをよんでくれた。苦しい間励ましてくれた。
・花粉症で鼻水ズルズルのとき知らない人からティッシュもらった
・骨折して松葉杖で歩いていたら雨が降ってきて知らない大人が車で家まで送ってくれた中学生の時
・ 脚を手術し、しばらく松葉杖で歩いていたら駅の階段で荷物を上まで運んでくれたひとがいた。
・風邪を引いてる時に寄ったコンビニで店員の女性がのど飴をくれた
・酔っぱらって道端で苦しんでいたら、知らない人がお手拭きをくれて、私の背中をさすって、「がんばれー!」って介抱してくれた。
・泥酔して気持ち悪くなって駅のホームで休んでいたら 見ず知らずの方にお水を自販機で買っていただいて 大丈夫ですか?と声を掛けて頂いたことがありますとてもありがたかったです
・高校生の時、学校に登校する途中で派手に転んで膝から血が出た。でも一旦家に帰ると遅刻してしまうためそのまま電車に乗った。膝から出る血をティッシュで押さえながら電車に乗っていたら、知らないおばさんが声をかけてくれて絆創膏をたくさんくれた。
・貧血でふらついてて転んで怪我をした時、手当てをしてもらった。自分が持っていたハンドタオルを濡らして血を拭いてくれて、バンドエイドを貼ってくれました。ありがとうございますとしか言えなかった。その節は本当にありがとうございました。
・出勤のため雪道を自転車で走っていたら見事なくらい派手にすっ転んだ。歩行者の女性と、車からわざわざ男性が降りてきて自転車を起こしてくれたり助けてくれた。恥ずかしいやら申し訳ないやらで、ひたすらすみません!有難うございます!大丈夫です!を繰り返しながら全身ビッショビショで仕事場に向かったけど、嬉しかった。
・バイクで自損事故をした時に119番して救護をしてくれた人が居た。知らん顔して遠巻きに見てる人が集まる中、その方の車の中からバスタオルを数枚持って来てくれて頭の下に敷いてくれたり会社にまで連絡をしてくれたらしいけど、救急車が来て立ち去った。聞けば祖母の病院へ着替えやバスタオルを持って行く途中だったとのこと。助けられました。 
・足に釘が貫通した時、病院へ看護師さんを呼びに行って車椅子を持って戻ってきてくれた。 
【色んな意味であたたかい】
・寒いなか外で仕事してたら、ホッカイロもらった。ありがたかったです
・飛行機に乗っていて寒いのを我慢していたら、隣の紳士なおじさまがブランケットをCAさんに頼んで「良かったらどうぞ」と笑顔で渡してくれた
・子供と某テーマパークのアトラクションに並んで100分が経過した頃あまりの寒さに泣き出して帰る!と言われ半泣きしていると、後ろに並んでいたカップルがホッカイロをくれた。
・フェリーのざこ寝の大部屋で、有料で毛布を借りるのをケチってそのまま眠った。目が覚めたら毛布であたたかい。途中の港で早朝下船した隣のおじさんがそっと毛布をかけてくれたらしい。
【遺失物・忘れ物がらみのエピソード】
・財布落としたら交番に届けてくれた方、本当にありがとうございました!
・落とし物を拾ってもらい、さらに速達で自宅に送ってくれた。無記名で手紙付きで。感謝しかないです。
・先日買い物の際財布を入れた鞄をショッピングカートにかけていたのを取り忘れたまま帰宅‼️途中気づいて慌てて戻ったらサービスコーナーに届けられてました。届けて頂いた方は名前も言われず行かれたとか。入ってた財布は諦めてたけどホント届けていただいた方には感謝‼️
・財布を落としたら後ろを歩いてた人に声かけてもらって財布を拾ってもらいました。今の嫁です。
・北海道で一人旅をしていて、バスに乗るって時に少し前に立ち寄った所に手荷物を忘れたので取りに行こうとバスの運転手さんに忘れ物を取りに行くので先に行って下さいと伝えたら、『 わかりました』と言ってたんですが、約1時間後再びバス停に戻ると同じバスが待っていて不思議だなと思い乗り込むと、運転手さん初め乗客の皆さんから拍手喝采。『 荷物が見付かって良かったね』と。私の事が心配で待っていてくれていたのです。その場に居た皆さんには感謝しかなかったです。初めての場所で初めて会う方々なのにとても優しさを感じました。
・私が学生の頃、電車に飛び乗ったとき、電車のホームに定期券を忘れてしまいました。しかし、私は定期券に気がつかず電車の扉が閉まってしまいました。そこに見知らぬ男性が私の定期券を持ちながら「車掌さんにこれ(定期)わたすよ」という身振りをしてくれました。後からその駅に戻ると私の定期を車掌さんが持っていてくれ無事に手元に戻りました。あのときは、ほんとうにありがとうございます。
【何かをもらった】 
・ライブの当日券売り場に並んでいたら見知らぬ男性が良い席のチケットが余っているとただでチケットをくれました。
・イベントの入り口で入場券を買おうとしたら、余っている無料券を貰えた!
・スーパーで1000円毎に応募券もらえるっていうキャンペーンやってて、1000円いかなくてもらえなかった時に、おじさんが応募券いらないからあげるよって渡してくれた!すっごく嬉しかったです!
・牛丼屋でバカ食いしてたら、しらないオバサマから割り引き券を貰った。 
・部品がなくなったときに、ホームセンターの人に、無料で譲ってもらったこと
・先日ドラックストアで、買いそびれたマスクを見ず知らずのご婦人に、譲っていただいた。ただ、自分も多少ストックが家にあったので、更に必要に迫られている知人に譲りました。
・ウォーキングしてる時、向こうから歩いて来たおばあちゃんから、タケノコあげると言って呼び止められ、結構な量のタケノコ頂きました。
・潮干狩りでちっとも獲れなかったんだけど、幼かった子供にたくさん貝をくれた。美味しくいただきました。
・何年も前の話です。出先でレジ袋を置いていないスーパーで買い物をし、会計時にそのことに気づきました。段ボールは置かれていたので、それに詰めて持って帰ろうかと夫と話をしていたら、知らない女性が手持ちのビニール袋を渡してくれました。とても有り難かったです。日頃から人に親切にすれば、困ったときに返ってくると信じて私も親切にしようと心がけています。
【行列で】
・イベントの並ぶ列がわからず困ってたら教えてくれた
・飛行機の搭乗手続きで 間違えた列に並んでいたのに気づかずにいたところ、後ろに並んでいた方が気づいてくれて 正しい列の場所を教えてくれました。
【災害時に】
・311の大震災の時、仙台駅から地元まで歩いて帰りました。高いヒールで、立ち止まったりしながら寒い中歩いていた時に、渋滞している車に追い越し追い越されをしていました。その時に親切な方に乗りなよ!って声をかけてもらったのですが、人見知りだし好意に甘えることに抵抗があり断りました。が、また歩いていると先ほど声をかけてくれた奥様の車が追いつきやっぱり乗りな!高校生の息子とその友達しか乗ってないから!と、断った私にまた声をかけてくれました。私に気遣い安心させてくれる声がけ。また、再度声をかけてくれたのを断るのは違うと思い乗せていただきました。さらに、乗車後にこんなのしかないけど、とバナナとチョコを、くれました。きちんとお礼ができていないのが悔やまれます。が、本当に人の暖かさに触れた瞬間でした。
【何か手伝ってもらった】
・スーパーで箱入りブドウを買うつもりで持ち歩き他の買い物してる時にブドウを落としてバラまいた時に一緒に拾ってくれた一人の方がいたこと
・買い物で自転車からちゃんと縛ったつもりの買い物した物が沢山入った段ボールが落ちて道路に散乱。知らないおばあちゃんが転がった玉ねぎやキャベツ大根など拾ってくれて段ボールに入れてくれた。
・駅の駐輪場で自転車がずらーっと倒れていてその間に自分の自転車があり、ひとつひとつ立てていってたら知らないおじさんがスマートに手伝ってくれた
・病院の駐車場で父を車から車イスに乗せかえる時に、それを見て知らない男性が車からサッとおりて来て「お手伝いします!」と言われて大変感動しました!以来私も知らない人が困っているのを見かけたら迷わず親切にしています!
・小学1年生の頃、終業式の日に学校に置いていた教材などを全て家に持ち帰らなければならず、それらを入れた重い袋を引きずりながら歩いていた学校の帰り道。知らないおばさんが「重そうね〜ちょっと持ってあげようか」と声をかけてくれて、しばらく持って歩いてくれた。
・20年位前、大きなスーツケースを持って、通勤ラッシュの浜松町駅の階段を登っていたら、ふっと軽くなり、あれ?と思ったら後ろからきたサラリーマンの人が私のスーツケースを持って階段の一番上に。そのまま颯爽と行ってしまいました。振り返る事もなく、あっという間の事��後ろから「ありがとうございます」と言うのが精一杯。スマートでありがたかったです。
【事件に巻き込まれたとき】
・車で信号待ち中に当て逃げされた時 逃げた車の後を走ってたというカップルの方が前の車の様子がおかしかったからってナンバーも覚えてくれてて慌ててる私に直ぐに警察へ行き!とナンバーと車種を教えてくださったこと。おかげで直ぐに相手が判り認知症のお爺さんでした。
【車にまつわるエピソード】
・豪雪の夜中に車のチェーン着けるの手伝ってもらった!しかもご飯までご馳走になってしまった!トラック運転手さんありがとうございました!
・何年か前の母娘旅行で、船の時間間に合わない時、駅にいてた旅館送迎の運転手さん(宿泊してないです)が船着場まで送ってくれました!その旅館のお客さん乗ってたのに、その場のお客さんも文句言わず、無事間に合いました!
・早番の出勤で駅までのバス待ちをしていたら、大型トラックのドライバーさんが止まって「途中事故があって当分バス来ないから駅まで乗せてあげるよ」と親切に乗せて下さった。最初は知らない人の車で怖かったけど、とても良い方だった。
・免許取り立ての時 コンビニにいったら隣にトラック 後ろに街頭で 斜めに出る技術がなく 四苦八苦してたら知らない人が車を出してくれた。
・自分の車が脱輪したときに、周りの人が大勢助けてくれた。 
・車で走行中にマフラーが外れてしまい、知らずに走っていたら、すぐ後ろの車の人がわざわざ教えに来てくれた。その後、とりあえず応急処置をしようとしていたら、知らないお兄さんが声をかけてくれて、やり方を教えてくれたけど、あまり機械に詳しくないと言ったら、全���そのお兄さんがやってくれた。神!
・冬、国道から路肩の雪山に車が落ちて埋まった時、見ず知らずの方達が何台かとまってくれ、交通整理をしたり車を引き上げてくれた。
・田舎で一日数本のバスを乗りすごし歩いていた時に通りがかりのタクシーの運転手さんに駅まで料金を取らずに送ってもらえたことがあります。お金を払うって言っても回送中なので受け取れませんということでした。
・昔、友達にバイクを借りて家に向かう途中、カーブを曲がりきれずガードレールに突っ込んでしまい、借りたバイクは一発廃車私は血だらけ、、周りにたくさん人もいて恥ずかしさの余りその場から早く立ち去りたかったので、逃げる様にその場から急いで去ろうとした時に声をかけてくれた障害者のお兄さん、私がパンツ丸出しで倒れてるのを見てハンカチで隠してくれてました。あの時はお礼も言えなかったけど感謝です。
・仲間とドライブして山で迷子になり挙げ句ダブルでパンク、冬場で雪も降り始めガソリンも底をつき途方に暮れてたと頃、麓のおばあちゃんが通り掛かり自宅に招待してくれ食事から宿泊まで��倒をみてもらって修理費まで建て替えてくれた。その後何年間か交流してくれたけど、暫くぶりに伺ったら亡くなれて家もなかった。
・職場から自家用車で帰宅途中、ふと気づくとワイパーに小さなメモが挟まっていた。気になったので高速道路に乗る前に車を停めて確認すると、「恐らく右の後輪がパンクしてると思います。JAFを呼んだ方がいいです。」と。朝、確かに変な形の石に乗り上げていたのと、運転中右にハンドルが取られる気がしていたので即納得、JAFを呼びました。メモは、近所に住む車に詳しい警備員の方からでした。通りがかりに気になって教えてくれたそうです。あのまま高速に乗っていたらと思うとゾッとします。
【喫煙者同士の絆】
・何年も前の事ファーストフード店でタバコを吸おうとしたらライターを忘れていた恐縮しながら近くの人にライターを借り、一服していたら、『1つ余分にありますから』と借りた方がライターをくれました
【トイレを我慢しているとき…】
・子供のトイレが漏れそうな時、順番を譲ってもらった
・子供の頃、トイレに行きたくて我慢出来ず、近くの家に飛び込んだとき、見ず知らずの私を快く家に入れてくれた。もちろん、トイレも借りました。
【そっと教えてくれる人】
・電車でチャック開いてたのをそっとおばあちゃんがおしえてくれた
・スカートの後ろチャックが開いていたのを、こっそり教えてくれて、サッと去って行った紳士
・出先でトイレ後、トイレットペーパー引きずって歩いてたのをそっと教えてくれたご婦人。
・カーディガンを裏表着てた時に教えて頂きました、今の旦那のご両親に会う時だったので本当に感謝してます!
【その他】
・徳島県で遍路道を歩いていた時、様々な人に励まされ、親切にされた。ご年配の方からも小学生からも親身になっていただき、無事に歩き通しました。
・社員旅行で、まだ入社したてだったからか、休憩のサービスエリアに置き去りにされ、携帯で連絡はできたが移動手段がなく困ったので、駐車場の車に声を掛けて、次のサービスエリアまで乗せていってもらった。
・花火大会で普段着慣れない浴衣の帯が取れて困っていたとき、通りすがりの女性に締め直してもらった。
・幼少期にプールで溺れて知らない人に助けて貰った。その人がいなければ今生きてない。
・ケンカの仲裁をされました。他人なので冷静になりましたね。
・人ではないがネコ、喧嘩の仲裁をしたその後 お礼なのか仕留めた鳩を加えて玄関へお土産として置いった。複雑な気持ちになった。
・バスの中で変な人にからまれ、外国人の方に守って頂いた。
・初めて甲子園に行ったとき、席探してると、阪神応援団の方が席案内してくれて、初めてだと言うと、選手応援歌の歌詞が書かれた紙をくれたこと。阪神ファンは怖いとか言う人いるけど、いい人ですよ。
・買い物中に顔面蒼白だったらしく、見知らぬご婦人から鏡を貸して頂いた事がある 
・MonsterHunterWorldというゲーム内で慣れないことをやっている時、オンラインで他のプレイヤーがサポートしてくれたおかげで簡単に終わりました。そんプレイヤーは報酬を受け取らず、途中で離脱していったのが、またシブイです。
・昔、銭湯で知らない人に背中を洗ってもらいました
・子供が家出をしたが、知らない人が心配して連絡をくれた
・観光地でカップルでもじもじしてたら「撮りましょうか?」と。いい記念写真とれました。
・ジム行って機械の操作がわからなく色々なぶっていたら、このジムにいつも通っている人が近くに来てくれて操作を教えてくれた。
・蜂に刺された時、その場の近くの家の人がアロエを持ってきてくれて、刺されたところに塗ってくれた
・近所のスーパーで、お婆ちゃんが袋詰めの極意を教えてくれた
<まとめ>
Tumblr media
 以上が、皆さんの「見知らぬ他人から受けた親切エピソード」でした。どれもこれも、読んでいるだけで心あたたまる話ばかりでしたね。
 寄せられたエピソードの中でも印象的だったのは、親切にしてくれた人から「私も以前、人に助けてもらったことがある」と明かされ「次は自分も困ってる人を助けてあげたい」と決意する人が多かったことです。一人の親切心が、大きな輪を広げていくのがわかりますね。
アンケートにご協力いただきありがとうございました。
グノシーの「アンケート」タブにて、毎日新しいアンケートを更新しています。ポイントが手に入るものもあるので奮ってご参加ください。
Tumblr media
こちらの記事に関するお問い合わせは [email protected] までお願いします。
0 notes
20130805 · 5 years
Text
20181231
ここの存在を忘れていた訳ではなく、前回以降にPCが壊れ、新しくしてからパスワードを思い出せなかったのだ。
何かに控えていたはずで、だけど思い出せず。適当に思い当たるものを入力するも当然はずれる。
そのまま2年も経ち、今回ふと入力を試みればなんとまあヒットするという事態。どういうことなのだろうか。
折角いい機会だし、この備忘録にまた投稿を試みる気になった。
今年を振り返るバトン
①今年のCDアルバムBEST3
今年1回もCDを再生していない。
②今年の映画BEST3
見る事がなかった。
③今年の本BEST3 (マンガ・雑誌除く)
・蠕動で渉れ、汚泥の川を
去年買ったものをかなり時間がかかりながら読み終わったもの。
相変わらず西村賢太作品は読み続けてる。女の人でこれが好きな人がいたら会ってみたい。絶対に同感することなんてないんじゃないのかと勝手に思った。
・ボクたちはみんな大人になれなかった
twitterのTLに流れてきて本屋に行ったら丁度いいタイミングで在庫していたので買ってみた。
あまり内容に関しては分からないところも多かった。恋愛に関する箇所に関して深く理解しようとも思わず流して読んでしまった箇所もある。
・サリン事件死刑囚 中川智正との対話
今年一番深く読んだ。電子書籍にまで手を出して購入。仕事に追われて疲れていても何なら仕事中でも読んでいた。このような作品は大学4年の時に林郁夫の書いたものを読んだ以来だった。オウム関連の作品は何故か個人的にのめり込んでしまうものが多い。
何かの機会にまた別の作品が出るのであれば、どこに居ようと手を出すだろう。
④今年のゲームBEST3
1.真女神転生ディープストレンジジャーニー
2.ペルソナ4ザゴールデン
3.ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド
やる気があるのかないのか、全て未攻略。
⑤今年のテレビ番組BEST3
見てるんだろうけど、印象にない。
⑥今年を漢字一文字で表すと?
⑦今年の自分の中での流行語
無料案内所
⑧この1年を月ごとに振り返ってみてください.(総評も)
■1月 年明け早々は地元にてずっと生活。楽しすぎたのがまずかった。
仕事は順調にめんどくさくなっていった。働くとはどういうことかがよく分からなくなってきた時期。ちょくちょくどこかへ出かけていた。
■2月
仕事が繁忙期で忙しすぎて思い出すのも嫌である。そんな中で地元の人間の結婚報告を受け気持ちが持ち返した日があったのは記憶の中に残っている。幸せになってほしいと今でも思い続けている。
■3月
忙しすぎてクソな毎日。相変わらず。転勤を願うも見事にハズレ。文句と愚痴しか吐いていなかった。呪詛を残して消えてしまおうかとも思うくらいであった。同い年の新入社員が入ってきたものの、強烈なキャラクターで自分には扱いきらなかった。基礎知識というものがどれだけ大切かを身をもって体感した月。
■4月 GWの事しか考えられなかった。仕事なんてほったらかして全てを諦めて遠くへ行きたい。それしか考えなかった。自分なりにずっと職というものを考えた方が良いのかと思っていた。地元に帰った際は周りの人間に良くしてもらってストレスが解消されて、地元が非常に大切なものに感じた。
祖母の急逝もあり、気持ちの整理が付かず塞ぎ込み気味であった。何もかもが嫌になりつつあった。
■5月 GWはあったが、4月のこともあり気持ちは明るくなかった。いつになれば気持ちが晴れるのかが気になって、どうしようもないやり場もない毎日だった。
その中で祖父も旅立ってしまった。今まで生きてきた中で最悪と言ってもいい。こんなことがあっていいのか、誰かがいけない訳でもないのにこんな気持ちになってしまう。これから生きていく中でこんな気持ちになることなんてないのではないかと思うくらいの最悪な月。もうこんな経験は絶対にしたくない。
■6月 趣味に没頭できる環境を与えてもらうことが出来た。誘いのダイレクトメッセージや、LINEによる招待等である。気持ちが落ち込んでいた分の反動によりかなり嬉しかったのは事実である。しかし、体力的なこと、時間的な制約もありやりたいことが上手く出来なかった。非常に悔やまれる。
何かを達成したり、満足するには環境を自身で整える力が強くなければならないという考えに至った。成功したり、成長していく人を見ていると特にそう思うことが多かった。
■7月 相変わらずの気持ちの低下具合の中、面白い出会いがあった。その方とは今でも連絡を取り合う等している。クソのような仕事に追われながらもその方に毎日連絡を取り合い日々のメンタルを整理することが出来た。毎日感謝の気持ちを伝えていたのではないか。今でもそうだが、上手く言葉に出来ず伝わってないかもしれない。
前月の趣味の件が落着した。
自身が何か上手いものを生み出せたかと言われると何も言えないが、集中する時間が取れただけでも嬉しかった。8月にあるイベントに参加すれば、気持ちの切り替えも出来るのではないのかと思い特に誰にも言うことなく突発的に参加することをこの時点で決めた。
■8月 盆休みをどう過ごすかを毎日考えていた。先月決めたイベントのことや、祖父母の墓参り等の事である。祖父の故郷は新潟で、自身も行く機会は大学2年以降に無かった事もあり、祖父の好いていた日本酒を手に入れるため新潟に向かうことにした。供える線香や杯も用意したく、善光寺にも寄るなどして自分の気持ちを整理した。利己的な部分もあったかもしれないが、後悔はしていない。
趣味のイベント参加は、思った以上に反応があった。自分のようなものに声をかけるだけならまだしも、握手やサイン等を求められることもあり異世界に入ったような気分であった。新たな出会いもあり、内に篭るより外に出ることで得られるものが相当数あることを再度認識した。自分のやってきたことは一般的なものではないのだろうが、認めてもらえることや相談を受けることがどれだけ嬉しいことなのかはその一般的な事柄をしてきた方々には味わえないだろうと思った。このような機会は逃すことなく参加していきたいと思った。
先月の出会いから話が進み、その方と直接食事をする機会があった。これ以降定期的にそのような機会があるなんてその時は思いもしなかった。
■9月 イベントが新たに渋谷で開催されることを知り、先月の経験もあることから訪れることにした。イベント後にも宴会等が催されていた様子であったが時間的な制約をここでも受け、仕方ないと思いながらも気持ちは複雑であった。参加できる環境はその時点で整えることが難しかった。
11月には住んでいる場所付近にてイベントがあるとの事を知り、それを目標に仕事を進めようと考えた。
■10月 今まで思ったことも無いような事に手を出していた。中型バイクの免許取得が良い例である。何がそうさせたのか自身でもわからないのだ。教習所へ通うべく願書の手配や住民票の切り替えなどを集中的に行った。目標は1ヶ月で取り、バイクに乗ることであった。その時の自分は年内には環境を整えたかったのだろう。
■11月 イベントの開催。参加を楽しみにしていた。
宴会もあるようだったので電車にて移動した。これが失敗であった。まさか遅延に巻き込まれるとは誰が想像出来たか。結局は実質1時間程度の参加となってしまった。
教習の開始に伴い週末は毎度のように教習所へ通った。新鮮で、楽しい週末を送ることが出来た。
趣味においてありがたいことに、誘いを受け動画を撮ろうとするも実力が伴わないようなものを撮ろうとし結果中途半端になってしまった。
それでも声をかけてくれたりアドバイスをしてもらえることに関して感謝の気持ちしかなかった。
8月に食事をした方とは、この月にも再度食事をする機会があった。仕事にかまけすぎて場所の段取りが上手くできなかったが、話に徹すると食事よりも飲酒が進む事がわかったため次回以降は酒の豊富な場所を選ぼうと考えた。
■12月 年末頃に地元、福岡それぞれにおいて飲みの席を設けた。社会人になってから飲みの席を設けることが幾度とあったため段取りにはあまり困らなかった。
各々の方面からの話を聞けただけでも開催が正解だったと思える。こう言う様な環境が非常に心地良くて楽しいのだ。時間と都合が合うのであれば再度の開催を検討したい。自身のみの予定では成り立たないので、開催が難しいかもしれないが、返信があるだけでも気持ちは高まることが分かった。
自分の都合のつけやすい様な環境を整える力を付けることが出来れば、動きはもう少し変わったのではないかとこれを書きながら思った。
⑨来年の目標は? 自分に多少なりとも芯を設けること。
⑩このバトンを回す人たちに一言。 ない.
0 notes