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#コダックのいる生活
kayajoe · 1 year
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【最強のパートナーシップ】 26年間、この組み合わせが最強という思いは変わらない。 -- #コダック #コダックのいる生活 #psyduck #enton #psykokwak #ヤドン #ヤドンのいる生活 #slowpoke #flegmon #ramoloss #ぬいぐるみ #ぬい撮り #ぬいぐるみじゃありません家族です #ぬいぐるみは家族 #ぬいぐるみ好き #ぬいぐるみは友達 #ぬいぐるみのいる生活 https://www.instagram.com/p/CmOyz1xviG3/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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tokyomariegold · 8 months
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2023/6/30
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6月30日 母から平日休みに銀行へ行く依頼を受けていて、やっと2ヶ月越しに実施することができた。母とは一年以上ぶりに会うので少し緊張していた。
朝、何となく感じていたバルコニー鳩問題が再発していることをしっかりと確認してしまう。 朝4時〜6時くらいがピーク。そのほかの時間はいないので、いったいどこに行っているのだろう。これはもう、と意を決してバルコニー大掃除と鳩対策をすることに。実家へ帰る道中にamazonでデッキブラシやバケツを購入。
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母はずっと相変わらずつまらなそうで疲れていた。 私が勝手にそう思っているだけなのだけれど、母の印象っていつも疲れていて少し不機嫌な人、なので、一緒にいる間中、間を持たすために喋り過ぎて疲れてしまった。 実家は何も変わりなく、こんなところでよく生活できていたよな〜といつも思う。 私が私でいられない場所になってしまった。
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実家の町で見つけたグルテンフリーのケークサレやマフィンのお店に連れて行ってもらう。(こんなお店がこの町にあるなんて!) ちょうど新商品のキャロットケーキがあって、やった〜とクリームを心配しつつ保冷剤をつけてもらい野菜のケークサレと一緒に購入。 一旦家に戻り冷蔵庫へ入れさせてもらって長島先生のお家へ向かう。
少し寄り道をしながら向かったけれど、本当に何もない。人が道を歩いていない。畑は葱坊主だらけで、水田だったところは土で固められて雑草だらけだった。
先生のお家にお邪魔させてもらうのは6年ぶりくらい。 夏休み中の息子さんもご在宅で、もう大学四年生とのこと! 先生と息子さんはお昼ご飯にカレーうどんを食べるところで、私には「手持ち無沙汰でしょ!」と水を入れてくれた。 2人ともスープを飲み干すタイミングで流しに移動して、立ったままどんぶりを持ち上げて飲み干していて、重くないのかな?と思った。
先生は出迎えてくれた時エプロン姿で「カレーが染みるのがいやで」と理由をお話ししてくださったけれど(息子さんに「ちょっとエプロンで出迎えちゃって変な人と思われちゃったじゃない!言ってよ〜!」と言っていた。)、それよりもインターホンを押してからそういえばかなり長い時間待ったことを思い出して、そちらの方が不思議だった。
本や写真集をたくさんいただいた! 「無理してない?」と聞いてくださって、すごく先生っぽいやさしさに心が温まる。
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ニコンのポートフォリオレビューに申し込んでみようと思った。 あとで調べよう。
また実家に戻り静かな部屋でつまらなそうにパルシステムのカタログを見ている母を連れ出し、駅まで送ってもらう。 先生と先生の息子さんにお会いできて満たされつつも、実家に帰るといつもぐったり疲れてしまう。半分わざと買ったお菓子を冷蔵庫に忘れてきた。
駅から車を降りる時、また一年くらいしたら帰るかもね、と言うと「生きているうちにあと何回あなたに会えるのか」みたいなことを言ってきて、とっさに「まぁまぁ」と言ったけれど、とっても嫌だった。
��武デパートでおかいものクマのクッキー缶を購入して帰路に着く。
写真のことをずっと続けたいと思っていて、モチベーションをうまく先生に伝えられなかった気がする。伝わるものでもないのかな。
先生ももうフィルムはイルフォードかコダックしか買っておらず、デジタルカメラがメインになってきていると言っていた。
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umenoi · 11 months
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●2023/05/27[ドヨービ]
私の人生。
どうせ生きていても何にも役にも立たない、誰にも好かれない、そんな人生であろう。でも歌舞伎ファミリーになることはよろしくないので、ひっそりと生きている。他人との関係を築くことは、今の私には正しいとは思えない。なぜなら、これから親がタヒんで、頼るものが誰もいない故、生活のほとんどを自分でこなさなくてはいけない。
ファミリーの方は全くもって関係の無い戯言です。これからは多分、そんな人が増えるんだろうね。コドオジやコドオバはもっと最悪や。
そんなネガ思考でいるものだから、朝起きたらスマホの写真が消えていた。多分クラウド飛ばされたかな?という。写真展出したいんだがの、困ったもんだ。写真が全部消えていてもそれは、セトモノなどと同じ。セトモノはカナツギできるから、まだまとも。子は鎹というのと似ているかもね。
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昨日の夕飯に食べた、鮭フレークTKGのたまごが双子、しかも大きい!!
久しぶりにフィルムと使い捨てカメラを見たら、買ってしまう。それがカメラ好きの性なんでしょうね。
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イルフォードにハーマンと書いてあって、あのオーディオ会社の傘下かと思ったら違った。このB/Wはチームラボに行けたら使う。LOMOのフィッシュアイに入れて。それとコダックのviviterのパクリに入れる。やはりフィルムは安心する。ライナスの毛布みたいだよ。
今日は天気も良くて、近所の神社の花手水を撮影しに行こうとしたけど、さすがにストラップのないお高いカメラは怖くなったので、歯ぎしりしながら我慢をした。
それからカメラメーカーなんて、好きなの買えばいい。むしろ、型落ち中古の色んなメーカーを、私はケースバイケースで使いたい。このモデルさんには、この発色のカメラがいいねなど。
白内障
視野狭窄
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yuihyz · 2 years
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だめだ。
誰かに頼りたくて、2人、連絡したけど、みんな忙しいのに、なにやってるんだって。
でもなんか、なんか無理になってる。
今日は楽しかったのに、今日の研修は楽しかった。洗濯も掃除もしてて、コンビニスイーツも今日はやめたし、自炊もした、えらすぎるし、ちゃんと生活してるけど、よく分からないけど無理になってる。
同期たちに愛想良くして、ニコニコして、ありがとうって言うようにして、研修も頭使って、頑張って、でも、イライラしちゃって。
満員電車、嫌いな同期、友達作らなきゃみたいなの、友達じゃないし、仲良しごっこじゃないしみたいな、つんつんしちゃうから。
仕事、私やっぱ休まないな。ちゃんと休まない。サボらないが正しいか。明日の研修終わったらコダック買いに行く。家具も買う。大量に買う。明後日は可愛い服着る。御座とご飯食べたいな。土曜日はゆきちゃんに会える、頑張ろ。
明日の夜ご飯、どうしようね。ご飯楽しみにしてるのも、やばいな。それぐらいしんどいのかもしれない。なにが、なにが
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pudknocker · 4 years
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「コダックを癒やさないとサイコキネシスが爆発するから車内でヒーリングミュージック流し続けてる」って、コダックとの生活を「マジで」考えたことのある人からしか出ない発想だよな
カナミチさんはTwitterを使っています
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38nakao · 4 years
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今日はあの子たちと年忘れなのさ。
 11月は一回も日記を更新しなかった。12月も早半分を過ぎた。ごめんなさい。誰に? なぜか罪深い気持ち。罪だの罰がなくても書くけども。義務化すると、いつも同じ風にしかねない。ので、気が向いたときにやる(酔狂なひとたち、いつもありがとうございます)。  本日、今月3回目の忘年会。年々増えてく気がする。何回、記憶を亡きものにするんだろう。今日のは特別楽しみにしてた、とっておきの忘年会なのだ。地元の幼馴染と、三人でするんだい。
 ひとりは小・中学校の同級生。もうひとりは幼稚園から高校まで同じで、しかも同じ町内、歩いて5分ほどの距離に住んでいる、超!地元の幼馴染。超幼馴染とは、高校卒業後も毎年一回は会う。とはいえ、必ずでもない。3、4年前に共通の友人が亡くなって急遽一緒に法事に出たこともあり、そういう約束は誓い合ってはないものの、大晦日あたりに「初詣どーする?」と互いに気にするようになった。  今年2019年は、元旦(おそらく1月2日)に二人で恒例の初詣(わたしは今年2回目)に出かけた。朝の10時くらいにわたしが超幼馴染の家に向かう。「明けましておめでとう」「寒いね」と交わしながら、神社まで歩く。「久しぶり」とは言っただろうか。そもそも年に一度しか会わないから、そんな当たり前のこと、わざわざ言わないと思う。
 わたしたちの住んでいる町には、わりと大きな神社がある。毎年そこに参拝するものの、おみくじを引いて結果に一喜一憂してても11時には事が済んでしまう。とはいえ昼ごはんには早いので、神社は後にして大通り沿いを試しに歩いてみる。次第に良い時間になり、良い具合に腹が減る。今年は鉄板焼きを食べ、昼からビールを飲んだ。そのうちに、前述の小学生からの同級生は元気かね、会いたいね、という話になった。わたしは連絡先を知らないので、超幼馴染に連絡をとってもらう。しばらく食っちゃべってると、向こうも会いたいねと返ってきた。二人でわくわくして鉄板焼き屋を出る。また小一時間歩いて、地元の駅に向かう。初詣に行った神社も駅も、同じ町内だ(丁は違うけど)。ぐるっと戻ってきたわけだ。この間、ずっと喋り通しである。何を話したか、今となってはあんまり覚えてない。そのときのわたしは、人生で一番仕事に追われていたので、その愚痴や不満は確実に言っただろう。そして、超幼馴染は単に共感するんじゃなくて、一緒に考えてくれたと思う。
 どういう経緯で、友人という関係になったのか今やまったく思い出せない。けれど、幼稚園のことりぐみ(年中さん)のときに、一緒に芋掘りしている写真が残っているのだから、4、5歳には仲良しだったのだと思う。そういえば、20歳とかちょっと大人になってから、わたしの第一印象を覚えているか、という話になったことがある。「泥団子つくるのが得意な子」と言われた。あと、「コダック(ポケモンのキャラクター)のモノマネが上手い子」とも言われた。  恥ずかしい。自分はそんなの忘れてた。でも忘れてなかった。    超幼馴染Tちゃんは、わたしを「さや」と呼ぶ。小学校からの同級生Yちゃんは、「さやっち」呼び。わたしのことを下の名前で呼ぶのは、家族を除いたらほんの数人しかいない。苗字の中尾が、口を閉じなくて済むから、そっちのが呼びやすいのだ。別になんと呼ばれても良いんだけど、あの二人からそう呼ばれると、なんだか懐かしい気分になる。話題はおとなにはなったが、話し方や雰囲気は、あの頃と変わらない。一緒に下校して、本当は別れ道のその前で、立ち止まったまま腹抱えて笑ってた頃と。
 思えば、三人とも趣味も嗜好もまったく違う。YちゃんとSちゃんは同じ吹奏楽部で同じトランペットパートではあったが。なのに、どうして、あんなに仲が良かったんだろう。毎日、何してたんだろう。同じ学校で、同じ教室で、同じ教科を習っているのに。休み時間も放課後も話し込むくらい、何が楽しかったんだろうか。あの時は、別に「あの歌手が好き」とか「あの映画が良い」とか、そんなのはなかった。同じ趣味や嗜好の持ち主同士だと、つい語り合ってしまうが、わたしたちはただ喋るだけだった。
 今、この時点で16時48分。池袋に19時半に集合。解散時間なんて、わかるわけない。ただ飲み友達ではないので、終電間近まではいないだろう。わたしたちは同級生で幼馴染、だから別れ際はドライな気がする。どうせ、また会う。会える。
 来年の春、幼馴染のSちゃんは結婚する。嫁ぐ。また彼女の生活は、少し変わったものになるんだろう。わたしの知らないうちに。仕方ないし、いーーのだ。彼女のことだ、きっと幸せになるんだろう。彼女が一番きれいなときに、わたしも一番きれいになりたいな、と思いつつ、今日も酒を飲むのだった。
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yukaribaj-blog · 5 years
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48.9から始まる減量生活
現体重である48.9㎏から3か月で45㎏以下まで痩せてしまおうかという企画です。
現在生後8か月の娘、コダックちゃんに監督を依頼しつつ、タスクに追われがちな育児中でも、できる限り初志貫徹で頑張りましょう、おー。
===To Do List===
□水を1日1,2ℓ以上飲む
□1口あたり30回以上よく噛む
□1日通算150回の腹筋
□1日20分のウォーキング(雨の日は除く)
□1日15分の読書(脳みそも汗をかかないとね)  
==========
このブログの内容は上記のTo Doリストのチェックおよびその日の朝の体重の記録、加えてその日のよしなしことを書き綴っていければいいなと思っております。
投稿自体は飛び飛びにはなりますが、モチベ維持に繋がることを期待して。
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xf-2 · 5 years
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1927年に権力者になった蒋介石は宣教師たちを蔑んでいた。
 しかし、ある時から自身が洗礼を受け、宣教師たちを擁護するようになる。それは自身の保身のための策略であった。
 ドイツの将軍を軍事顧問に迎えて万全の防御態勢を固めた上海戦で敗北すると、「宣伝戦」に切り替える戦略を採用する。孫子の兵法で称揚されているもので、自国の立場を有利にするプロパガンダ作戦である。
 蒋介石はそのための組織を1937年11月に整えるため、国民党中央党部と国民政府軍事委員会を改組して中央宣伝部を組織する。
 これは、上海戦で敗北し、南京への追撃戦が展開されている時であり、軍事力に代えて、「タイプライターで闘う」戦術への転換である。
 宣伝部副部長には米国の大学を卒業し、新聞編集にも長じた董顕光を当てる。留学以前にはわずかな期間ながら、蒋介石の英語教師をしたこともあり、戦後は台湾の駐日大使となる。
 また、宣伝部の下に対外宣伝を専らにする国際宣伝処を設け、その処長には大学教授で文学者の曾虚白をあてる。
 国際宣伝処の本部は重慶(南京後の国民政府の首都)に置くが、上���と香港に支部を開設、昆明や米英加豪墨印星(シンガポール)の首都か大都市に事務所を設ける。
 特に米国ではワシントンのほかにニューヨークとシカゴにも事務所を構えた(北村稔著『「南京事件」の探求』、以下同)。
 国際宣伝処は蒋介石に直属して各地の党機関と政府機関を管轄して活動する。本部、支部、事務所がそれぞれに刊行物を出し、通信社も設立する。
 宣伝に信憑性をもたせるために処長が採用した方策は、「中国人は顔を出さずに手当てを支払うなどの方法で、『我が抗戦の真相と政策を理解する国際友人に我々の代言人となってもらう』という曲線的手法」である。
 この国際友人として働く中心的な人物が、オーストラリア人の元ロイター通信記者で、当時は英国のマンチェスター・ガーディアン紙中国特派員のティンパーリー(中国名・田伯烈)である。
蒋介石の国民党・国民政府の顧問になり、「百人斬り競争」の武勇伝や「怒濤のごとく南京城内に殺到した」などと日本の新聞が報じると、これらを取り込み「日本軍の悪行」に歪めて『WHAT WAR MEANS』(戦争とは何か)をロンドンで上梓する。
 中国語版の『日軍暴行紀実』が同時並行して出る手際の良さは宣伝網が有効に機能していたことを示している。
 また、ティンパーリーからの話を受けて、金陵大学教授で安全地帯国際委員会委員でもあったスマイス(中国名・史邁士)が南京戦で日本軍が与えたとする被害状況『南京戦禍写実』(通称「スマイス報告」)を著述する。
 いずれも1940年のことで、「両書は一躍有名になった」というが、蒋介石政権の威信をかけた宣伝戦であり、当然であろう。
蒋介石の米国世論操縦策
 日中戦争時の1939年4月から12月まで重慶の国民党国際宣伝処で働き、のちにピュリッツアー賞も受賞するセオドア・ホワイト(中国名・白修徳)は回想録『歴史の探求』で、蒋介石の米世論操縦について明かしている。
 米国への接近は米国で教育を受けた蒋介石夫人の宋美齢が、夫を説き伏せてメソジストに改宗させたことから始まるという。
 そして主要な部長(閣僚)、たとえば財務部長(オバーリン大・エール大卒)、外交部長(エール大卒)、教育部長(ピッツバーグ大卒)、情報部長(ミズーリ新聞学校卒)は米国の大学卒で、政府内の米大学出身者を数え上げたらきりがなかったという。
 そうした中でも、各国に派遣された大使の面々は、圧倒的に米国の名門大学卒業生で、ワシントンにはコーネル大・コロンビア大卒、ロンドンにはペンシルバニア大卒、そしてパリにはコロンビア大で3つの学位を取得した顧維鈞を任命していた。
 顧維鈞は国際聯盟で日本非難の演説を行った人物で、息子もハーバード大に在籍しているのを自慢にしていたという。
 また、中国銀行頭取(ハーバード大卒)、司法院長(コロンビア大・カリフォルニア大卒)、国家保健監督官、海外貿易委員会、塩務署など中央機関のトップも多くが米国の大学出身者が占めていた。
 ハーバード大学を1938年秋に最高学位で卒業したホワイトは、世界旅行の給費を受け、ロンドンを皮切りに、パリからスーダンやパレスチナ、インド、シンガポールなどを旅して、39年初めの数カ月間を上海で過ごす。
上海を根城に北京にも出かけ、また日本軍のスポークスマンに取り入り、満州も旅行する。
 英米人などに牛耳られた上海では工場労働者の少女たちが日に何人もごみの山に捨てられている状況も見てショックを受ける。
 いままでに見たこともない不条理が記者になる決意をさせ、4月から重慶の蒋介石政権の宣伝員に繋がる。
 自身のハーバード大の学位はボストンよりも中国でずっと意味があり、「中国ハーバード・クラブを結成したが、会員にはジョン・F・ケネディ(大統領)がワシントンでハーバード・クラブを作ってもこうはなるまいと思えるほど、蒋介石政府高官の割合は大きかった」と述懐している。
 米国の学歴を持つ中国高官が多かったのは、ホワイトには「好都合な人脈であったが、中国国民にとっては大いなる悲劇であった」と冷静である。
 立派な英語を話す政府高官たちではあったが、「自国の民衆とは異質の存在で、民衆に対する理解を―重慶という古都についての理解さえも―欠いている」ので、「中国で何が起きているのか」さえ知らないと手厳しい。
 ホワイトは蒋介石に最初は尊敬と称賛の念をもっていたが、「次第に憐れみを感じ始め、最後は軽蔑するようになった」という。
 それでも「私はアメリカの世論を操るために雇われたのだ。日本に敵対するアメリカの支援は、政府が生存を賭ける唯一の希望だった。アメリカの言論を動かすことは決定的(に)必要なのだ」と述べる。
 当時のホワイトは、軍国主義日本に対する中国政府は正義という認識に立っており、「アメリカの言論界に対して嘘をつくこと、騙すこと、中国と合衆国は共に日本に対抗していくのだということをアメリカに納得させるためなら、どんなことをしてもいい、それは必要なことだと考えられていた」と明言している。
報道の真実性
 ホワイトは国際宣伝処で「自身が脚色した」戦時報道の実例を2つ挙げている。
 一つは、日本軍に占領されていた浙江省のある所の劇場で、日本軍兵士が観劇中に蔡黄華(ツアイ・フアン・フー)という中国人女性が手榴弾を投げ込んで数人を殺し、無事に逃げおおせたという中国語の記事を目にしたことである。
 ホワイトは文字から忠実に「ミス・ゴールデン・フラワー・ツアイ」とし、「ゲリラの首領、中国抵抗戦士団の巴御前」と英語に翻訳し、少しだけ脚色したというのだ。
 すると、ニューヨーク・タイムズ特派員のダ―ディン記者を除き、通信員たちは飛びつき、各通信員の本社からは写真を要求してきたという。
 そこで情報部の同僚が、腰に二挺拳銃を下げた若い中国人女性の写真を提供すると、彼女は「二挺拳銃のゴールデン・フラワー嬢」となる。
 通信員たちはますます情報を欲しがり、情報部は気前よく彼らの要求に応じ、数カ月のうちに「ゴールデン・フラワー」ツアイは、蒋介石夫人に次ぐ抵抗運動のヒロインになったというのである。
 リライトマンの手にかかった彼女の偉業は、米国で伝説となり、ホワイトがタイム誌の極東部長になっていた3年後には、タイム誌で取り上げたらどうかとの提案が持ち上がり、作り話の張本人であったことを白状しなければならなくなったというのである。
 もう一つは難民と彼らの苦難についての記事で、1937年から38年の漢口陥落までの14か月間に、国民救済委員会は難民キャンプに2500万食配ったというものである。
 ところが「どうしてか間違って」、記事では「統計によると中国が抵抗を始めた最初の数年間に日本軍侵略者の手を逃れてきた人々の数は、2500万人にのぼる」となってしまったという。
 数字は海外に伝送され、新聞社の資料に残り、雑誌の記事に使われ、日中戦争の学術的数値となって何度も現われ、「すでに歴史の一部となってしまった」と述べる。
 実際は「二百万あるいは五百万だったかもしれない」が、「二千五百万という数字がほとんど全ての歴史書にしっかり残っている」ので、「日本軍による混乱を(正しくは)誰一人知ることはないだろうと悟った」と自省している。
 誰も否定できない「嘘」の独り歩きは、「南京大虐殺」の構図を想起させる。
中国における米国人宣教師たち
 1931年に上海副領事として赴任し、第1次上海事変を体験した米外交官のラルフ・タウンゼントは、その後福建省副領事となるが33年に帰国すると外交官を辞する。
 そして、中国の真実が外部世界に伝わっていないとして著述したのが『暗黒大陸 中国の真実』である。
 中国に住んでいる外国人で中国の国情を把握しているのは宣教師、民間事業家、そして領事館員や外交官等の政府役人であるが、宣教師は事実が知られると援助が打ち切られる危惧を持ち、事業家は不買運動を恐れ、政府役人は外交辞令的なことしか言えないわけで、一種の「箝口令ともいうべきものが敷かれる」結果だという。
 3年の外交官生活でしかなかったが、新聞記者と大学教授をそれぞれ3年づつ経ての外交官であり、他方で書籍を通しての中国しか知らないで赴任したことや好奇心が旺盛であったことなどから、「中国の真実」が全く伝わっていないことを痛感し、その現実を宣教師と事業家と政府役人の在り様に見つけたのだ。
 全10章のうち大部は中国人と中国の実情、そして阿片に費やし、日本(人)と中国の関係などもあるが、中でも宣教師と布教については2つの章を割いて実例を挙げて「糾弾」ともいえる記述をしている。
 事業家や政府役人は概ね都市部に所在するが、宣教師は啓蒙などの使命から、辺鄙なところに所在し、危険なところなどにも出かけたりして、中国の実体を事業家や政府役人より詳しく知っているからである。
 他方で、米国では富める人も貧乏な人も分に応じた寄付をすすんで行うのは、それが有効に使われているという認識に立っているからであるが、中国での布教は不毛の歴史であったし、いま(当時)の布教活動の実態は国民の期待に沿うようなものではないとバッサリ切り捨てる。
 カトリックやプロテスタントを問わず、ミッション・スクールには米国から多大の金が投入されているが、聖職者になるのはほんのわずかでしかない。宣教師が中国人の孤児を育てても、成人して泥棒の親玉になって育てた宣教師を狙う話なども書かれている。
 宣教師の敷地を貸したら、ついには住みついて、返却を要求しても逆に損害賠償を請求される状況であるという。
 こうした事例をいくつも挙げ、他にも理解できないようなこと、理不尽なことが数え切れないほどあるが、ともかくこうした実態は何一つ本国、なかでも支援者たちに全然伝わっていないし、事実は全く逆のことになっているという。
 タウンゼントは上海や福建省で見た宣教師を主体に論述しているが、南京の宣教師たちも日本軍を悪者にする嘘を捏造してでも報告するのが中国(蒋介石政権)を助ける道という意識が通底していたと思われる。
 だからこそ、南京の宣教師たちは、日本軍兵士が行ったとする掠奪、強姦、放火(これらも中国敗残兵によるものが多いとみられるが)などを大虐殺に仕立てる蒋介石のプロパガンダ作戦に進んで協力したのだ。
宣教師による米国内の宣伝行脚
 国民党・政府の意を受けて大活躍するのはティンパーリーである。
 日本の罪行を告発する『WHAT WAR MEANS』を著述する前から、国民党外交の主目的である米国への工作を推進する。
 南京安全区国際委員会委員で国際赤十字委員会委員長でもあったアメリカ人のジョン・マギー牧師が撮影した金陵大学病院で治療中の民間人負傷者を示す16ミリ・フィルムが宣伝に活躍されることになる。
 ティンパーリーは米国人のジョージ・フィッチが持参したこのフィルムを見て、一計を案じる。フィッチはYMCA理事で、教会の関係者として、またロータリー・クラブの会員など交友範囲が絶大なことから、全米の宣伝マンにする発想である。
 「ハル(国務長官)からはきっと会見を申し込まれるだろうし、もしかすると、大統領(ルーズヴェルト)とも会うようなことになるかもしれません。彼のワシントン行きは、将来アメリカの中国政策にとって重大な意義をもつようになるでしょう」(北村著)とまで述べている。
 実際にマギーのフィルムをもって渡米したフィッチがたどった道を眺めてみよう。
 1938年1月19日、日本軍の許可を得て、軍用列車で日本兵とともに南京から上海へ行く。
 このとき、虐殺場面を撮ったとされるネガ・フィルム、8リール(ほとんどは大学病院で撮影したもの)をオーバーの裏地に縫い込んでいたため、「少し気を遣った」という。
 上海では直ちに複写するためにコダックの営業所に行き、4セットを作成する。
 フィッチは約5週間滞留しており、ティンパーリーに会い、米国での面会者などの根回しをしたに違いないが、ティンパーリーのことも、滞在間に何をしたかについても一切言及していないとされる。
 2月25日に上海を立ち、香港を経て広州���らハワイに飛ぶ。ホノルルでは「ある中国人グループと食事をし」、次のサンフランシスコでは中国総領事に会い、「中国人の友人」も交えてチャイナタウンで会食する。
 さらに「ロサンジェルスなどで持参のフィルムを交えた2、3の講演会を行った」という。
4月18日、ワシントン着。国務長官や大統領には会えなかったが、国民政府の米国大使・王正廷に会い、また旧知のホーンベック国務省次官(彼は反日親中の中心人物)の斡旋で中国に関係の深い米国人の要人たちに面会し、下院の外交委員会、戦時情報局、新聞記者団に件のフィルムを見せている。
 その後、ニューヨークに赴き、6月に中西部を経由して7月に再び西海岸に戻り、サンフランシスコで講演する。
 このとき、会場にいた唯一の日本人から「脅迫に近い抗議を受けた」とされる。北村氏は、この頃に日本側もフィッチの反日的言動をマークし始めていたとみる。
 フィッチはこのあと再びニューヨークに戻るが、やがて体調を崩して入院。11月10日に西海岸のロングビーチから中国への帰途に就く。
 「フィッチのアメリカでの活動は文字通りの大旅行であり、多額の資金と周到な計画を必要としていた。これら全てが、国民党国際宣伝処によりアレンジされたことは容易に想像がつく」と北村教授は述べる。
当時の日本側の見方
 『スマイス報告』は、昭和15年、興亜院(1938年に設置され、42年に大東亜省に吸収)に勤務していた吉田三郎氏が上海に調査に行き、同所でアメリカ長老教会のミリカン夫人を知り、同夫人から紹介された金陵大学のベイツ教授から説明を受けた時に入手する。北村教授の前掲書中の「『スマイス報告』の徹底的検証」から、当時の日本がどのように見ていたかが分かる。
 吉田氏は「こういうものを世界中に配って基金を集めているのです。その中には南京地方に於ける農産物の調査、南京地方の人口調査等、いわゆる科学的調査を標榜しつつ、そのことによって日本が飛んでもないひどいことをやっているような印象を世界中に統計を通して与えている。しかしよく見ると科学的な研究という面を被った排日宣伝文書であります」と報告を見抜く。
 その理由として、「南京地方における損害の統計を作る場合に、(中略)火災の場合についていえば、支那軍が逃げる時に放火したために焼けたものまで皆その中に一緒に入れてある。・・・これで見ると皆日本軍がやったことのように見えるのです。斯様に巧妙なる科学戦争というものが世界中に、この機関を通してまかれている事実を見た」というように、的確に指摘している。
 また、ベイツ教授は「今度の戦争による被害が支那全体でどの位あるかということを書いたものですが、それを是非読んで貰う必要ある」として「WHAT WAR MEANS」を紹介する。吉田氏は上海の書店で入手する。
殺人競争の章を見て、「材料は日本の新聞から取ってありました。何々少尉武勇伝という記事がそのまま載せてあったのであります。そういうように新聞記者が日本の文献その他日本側に不利な情報を編集してできているのがこの本でありまして、かような排日的な宣伝文書は外国人の間に多く読まれている」として危惧する。
 ミリカン夫人にこのことを話すと、「ぎょっとして『あれはあまりよい本ではない。あの書物は熱を以て書かれているのだから、歴史家があれをそのまま談じては困る。あなた方は歴史家であるから、もっと客観的にものをみなければならない。・・・ああいうものが全部であると思われては困る』と言って居りました」と、外国人でも疑問視していたことを指摘している。
 「その書物を見ますと、日本の官憲の或る部分はこの書物を出すことを支持していると書いてある。・・・恐らくそれは嘘だろうと思います。この書物による利益は皆赤十字社に寄贈すると書いてある。なかなか上手に出来ています。かような種類の本がどんどん売れているのですから全く困ったことです。日本の左翼の人がそれを訳すことを許可してくれといって盛んにミリカンのところへ来る」と聞いたと述べる。
おわりに
 当時の日本人の方が賢明ではなかっただろうか。世間の信用をバックに、戦争に伴う「通常の犯罪」(もちろんないに越したことはない)を「大虐殺」に衣替えさせるのに米国人宣教師たちが大いに関係していたのだ。
 すべては全世界に巧妙に張り巡らせていた国際宣伝処の仕業であったことが今や明確になってきたのではないだろうか。
 日本軍も犯罪は犯した。しかし、それは中国が主張するような人道に悖る何十万人の市民を虐殺するなどではなかった。
 中国は依然として「南京大虐殺」を主張し、拡大流布さえしようとしているが、論点のすり替えや証拠資料としていたものの撤去など、綻びも見えてきた。
 日本は決然と否定することが大切ではないだろうか。
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humantailjapan · 5 years
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最近ブログの文章が短いんじゃないか
だらけてるんじゃないか!と思ってませんか?
その通り
いやいや冗談ですメメメしく言い訳さしたったってつか~さい
ブログを始めた4月や5月は比較的現場仕事が薄い時期なので余裕プリタツ勢い良く書き込めたんだけど
もう随分と自分の時間がない
共働きのコダックさんはバンド活動も大変なくらいでほとんどの日は仕事や家事を終えて寝床に入ってからカキコしてる
朦朧としながら2、3分位ウルトラマン並の短時間非集中型妄想ブロガー発動してます
自分寝るのを我慢するのは我慢ならんのでし!
自分本当はダラダラダラしていたい人なんでし!
こんな生活いつまで耐えられるだろうかと思いつつ意外と大丈夫です
それはたまにやってくるHUMAN TAILというスペシウムボーナスステージがあるからに他ならない
音楽に救われてる~の体現者だ
みんなもそうでないかい?
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katslefty · 3 years
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Posted a blog [in Japanese]: iPhoneは今のブローニーカメラかもしれません。
先日、ふとした風景をiPhoneで撮りました。本当に簡単に、ポケットから取り出して写真を撮る事ができました。そこでiPhoneが写真を撮るという行為だけでなく、写真という概念そのものを変えてしまったことを実感しました。
写真や撮影行為は約150年前から存在していますが、その起源はそれ以前まで遡ることができます。しかし、現在のようにこれほど直感的で、私たちの日常生活の一部となっているものではありませんでした。写真の歴史は新しい化学薬品であれ、新しいフィルムであれ、新しいセンサーであれ、新しいレンズであれ、この分野における技術の進歩は、大抵の場合、写真をより簡単に撮れることを可能にしてきました。その結果、写真を撮ることが非常に簡単になって今日に至っています。特に意識することなくできるようになってしまっています。
iPhoneは多くの点で、もうひとつの画期的なカメラ、Brownieを思い出させてくれます。前世紀の変わり目に発売された初代ブローニーかめらは、写真で世の中を記録するきっかけとなりました。
古来は、写真は非常に裕福な人々だけのものでした。多くの場合、プロの写真家に自分の肖像を後世に残し、プレートに保存してもらうためにお金をかける余裕のある唯一の人たちの行為でした。1880年代、銀行員で写真愛好家だったジョージ・イーストマンがフィルムの前身となるものを発明したことで、すべてが変わりました。彼の発明により、写真は複雑なカメラや実験室の制約から逃れることができました。イーストマンはその後、Eastman Kodakという会社を設立し、写真を改革することになります。
コダック以前には、コマーシャル用の写真を撮ったり、ガラス板に座ってポートレートを撮ったりするプロの写真家がいました。また、クリエイティブでファインアートな写真を追求するアマチュア写真家もいました。一方、コダックは、第三のカテゴリーにアピールしました。スナップショットターとは、芸術やプロ意識を装わずに写真を撮りたい人たちのことです。
最初のカメラは、100枚の写真を撮影するのに十分なフィルムを内蔵したコダックのシングルボディカメラでした。「コダックは、ビューカメラやハンドカメラのすべての機能を1台のコンパクトなカメラにまとめたものです」と広告にありました。最初のコダックカメラの価格は5ドルから35ドルで、19世紀末にはまだ高額でした(現在のドルで150ドルから1059ドル)。1898年に発売された本作は、約15,000台が売れたと言われており、この時代にしてはかなりの数になります。それよりも、一般の人々の写真に対する考え方に大きな影響を与えたことが大きい。それまでの重くて、雑なカメラでは持ち運べなかった場所に、突然、人々がカメラを持ち込むようになったのです。
写真とビジュアルコミュニケーションの関係を大きく変えたカメラは、「ブローニー」と呼ばれる地味で無邪気な小さな茶色の箱でした。イーストマン・コダックのエンジニア、フランク・ブラウネルがデザインしたこの箱は、段ボールで作られ、安っぽい模造皮革で包まれ、ニッケル製の金具で固定されていました。今日の基準では目立たないように聞こえるかもしれませんが、20世紀の変わり目には驚嘆すべきものでした。
イーストマンは、フィルムカートリッジを入れてファインダーを覗き、スイッチを回して写真を撮影することを望んでいました。そのシンプルさと使いやすさには目を見張るものがあり、新しいカテゴリーの写真家に向けて完璧に仕組まれていました。ブラウニーは写真撮影を劇的に、そして間違いなく簡略化したのです。
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最初のブラウニーは1ドルでした。フィルムカートリッジはさらに安価で、約15セント(現在では約1ドル)でした。その携帯性と手頃な価格は、一般的な写真撮影に適していました。Eastman Kodakは約15万台のブローニーカメラを販売しましたが、これは当時としては驚異的な数で、80年の間に何百万台ものバリエーションを販売することになりました。写真は一般的になりました。
ブラウニーほど写真を民主化したカメラはありません。フォトジャーナリズム、ストリート写真、そしてファッション写真までもが、この小さな茶色の箱のおかげで一世を風靡しました。実際、20世紀初頭から私たちが文化的な歴史について知っていることの多くは、この安価なカメラにまで遡ることができます。
ブラウニー以前は、遠く離れた環境を撮影するための遠征は、しばしばポーターやラバ、爆発を伴う遠征でした。冒険好きな写真家は、重い機材を運び、たくさんの有毒な化学薬品を運び、不正確なプロセスに対処する忍耐力が必要でした。それをブラウニーと対比させると、それは誰もがどこでも写真を撮ることができるかのようにほとんどでした。
1912年には、バーニス・パーマーは、カーパシア号に乗船しておりブローニーを持っていました。彼女は17歳の誕生日プレゼントとしてカメラを受け取っていました。カーパシア号が救助任務のために流用されたとき、パーマーが撮影したタイタニック号を沈めた氷山と救助された乗客の写真は、その初期の悲劇の唯一の記録的な画像となりました。
ブラウニーが最初の携帯カメラではなかったように、iPhoneも人々が写真を撮ることができる最初の携帯電話ではありませんでした。iPhoneが発売されたとき、当時の最高のカメラ付き携帯電話ではありませんでした。
しかし、ブローニーとiPhoneの両方が達成したことは、技術を超えたものです。約100年の歳月を隔てて、両者は明らかに実用化されていたのです。ブローニーは写真をアマチュアの手に渡し、iPhoneも同様でした。
それぞれの時代に気楽な写真の台頭に貢献しました。ブローニーでは、人々はカメラを持ってビーチやクルーズ船、その他の休暇の目的地に出かけていました。もちろん、スマートフォンはさらに携帯性に優れています。今では誰もが持ち歩いていますし、どこにいてもすぐに写真を撮って、すぐに共有することができます。
当時の写真家たちはブローニーの台頭を嘆いていましたが、それは現代のブローニーであるiPhoneと同じです。「それは本当に奇妙なことだ」と、ロンドンを拠点とする写真家のアントニオ・オルモスは、2013年後半にガーディアン紙との会話の中で語りました。「写真はこれほどまでに人気があったことはありませんでしたが、破壊されつつあります。これほど多くの写真が撮影されたことはありませんでしたが、写真は死にかけています」と。彼の理屈は「iPhoneはレンズがダメダメだから」との事です。「iPhoneで美しい写真を撮って、それをプリント用に吹き飛ばしても、ひどい写真になってしまう」そうです。
100年経ってもなお、多くのプロ写真家たちは着眼点を見落としていたのです。写真とは表現の道具なのです。イギリスに本拠地を置く王立写真協会の会長マイケル・プリチャード博士がインタビューで語ったように、「ブラウニーは、人々が写真を撮り、ほとんどの場合、まともな結果を得て、その写真を家族のアルバムを通して共有することを可能にし、技術的な知識がなくても、ずっと早くて簡単な方法で写真を撮ることができるようにしたので、変革的なものでした」と。
プロの写真家(そしてハイアマチュア)は、技術にとらわれ過ぎて、人がどのように画像を作るかが重要であることを忘れてしまうことが多いと感じます。また、新しい技術の開発に貢献し、業界の規模を大きくしてきたのは、カジュアルな写真家であることも認識しておく必要があります。
気楽さが情報を育むこともあります。ブローニーの普及によって可能になったスナップショットは、他の方法では明らかにされなかった人々の多くを捉えています。人々は、赤ちゃん、近所の風景、家族の集まりなど、日常の写真を撮り始めました。インスタグラムを見てみると、人々は大体同じことをしています(ブローニーの時代よりも食べ物の写真の比率が高いかもしれませんが)。
恵まれない人々の生活が記録されるようになり、一日に撮影される写真の数が飛躍的に増えていき、その傾向は今も続いています。スマートフォンもその一環です。世界中で何百万人もの人々がスマートフォンを持っていて、1世紀以上もアナログカメラが普及しなかった地域に住んでいたにもかかわらず、今ではコミュニティの写真を撮って共有しています。ブローニーと一緒に撮ったスナップショットのように、これらの何気ない写真は、私たちの歴史的な理解の礎となるでしょう。
ブローニーはまた、順全足る画像の質から視点を遠ざけました。写真は美学ではなく、その瞬間、スナップショット、感情を重視するようになりました。iPhoneも同じ道を辿ってきました。
どちらのデバイスも、(当たり前ですが)画像撮影の芸術を破壊するために作られたわけではないです。ブローニーカメラはフィルムを売るために作られました。iPhoneのカメラは、電話を売るために作られて、改良に改良を重ねました。Appleはすぐに、写真は人間の表現をつなげるものとして、iPhoneのためのキラーアプリであることに気がつきました。その洞察力とマーケティングは報われているようです。ブローニーカメラは昔ながらの写真撮影の終焉を早めましたが、スマートフォンがコンパクトデジタルカメラや本格的な一眼カメラの販売を包括してしまいました。ニコンやキヤノンといったかつての巨人たちの販売台数は年々減少しています。
現代のブローニーカメラはポータブルで、手に入りやすく、子供でも操作できるほどシンプルで、何よりも楽しいです。ジョージ・イーストマンが見たら微笑んでくれることでしょう。
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kayajoe · 2 years
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【態勢強化】 黒幕「最後の戦いまで残り146日!!迎撃に備え、我が研究室に配備や!!」 全員「へいっ!!」 -- #コダック #コダックのいる生活 #psyduck #enton #psykokwak #ヤドン #ヤドンのいる生活 #slowpoke #flegmon #ramoloss #ミュウ #mew #ぬいぐるみ #ぬい撮り #ぬいぐるみじゃありません家族です #ぬいぐるみは家族 #ぬいぐるみ好き #ぬいぐるみは友達 #ぬいぐるみのいる生活 #推しのいる生活 https://www.instagram.com/p/CiYh2BrPooT/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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dotomtom · 4 years
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「コダックを癒やさないとサイコキネシスが爆発するから車内でヒーリングミュージック流し続けてる」って、コダックとの生活を「マジで」考えたことのある人からしか出ない発想だよな kanamichi_ann さんのツイートから
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takashimatakehiko · 4 years
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写真の歴史
【写真発明以前】
写真が発明される19世紀以前にも、光を平面に投影する試みは行なわれていた。画家達は、16世紀頃には立体の風景を平面に投影するためにカメラ・オブスクラと呼ばれる装置を用い、その中に投影された像に似せて実景に似た絵を描いた。これらの初期の「カメラ」は像を定着(写真用語の「定着」ではない)することはできず、単に壁に開いた開口部を通して���くした部屋の壁に像を投影するだけのもの、つまり部屋を「大きなピンホールカメラにしたもの」だった。カメラ・オブスクラ とは暗い部屋といった意味である。18世紀には、銀とチョークの混合物に光を当てると黒くなるというヨハン・ハインリヒ・シュルツェによる1724年の発見をはじめとして塩化銀やハロゲン化銀など銀化合物の一部は感光すると色が変わることが知られており遊戯などに用いられていたものの、これとカメラ・オブスクラなどを組み合わせる発想はなかった。
【写真発明以降】
19世紀初めに、カメラ・オブスクラの映像と感光剤とを組み合わせ映像を定着させる写真の技術は、ほぼ同時に多数発明された。このとき美術は新古典主義とロマン主義の並存する時期であった。また、大勢誕生した中産階級によって肖像画の需要が高まっていた。そして、石版画の技術が新聞図版や複製画などに活用され、広まりつつあった。現存する世界最古の写真は、1825年にニセフォール・ニエプスが撮影した「馬引く男」(Un cheval et son conducteur)である。
現代の写真処理は1840年から最初の20年の一連の改良を基底とする。ニセフォール・ニエプスによる最初の写真の後、1839年にはダゲレオタイプが発表され、直後にカロタイプも発表された。写真の普及は肖像写真の流行、1851年の湿式コロジオン法の発明、1871年のゼラチン乾板の発明へと続いた。1884年、ニューヨークのジョージ・イーストマンは紙に乾燥ゲルを塗布する方式を開発し、もはや写真家は乾板の箱や有毒な化学物質を持ち歩かなくて済むようになった。1888年7月、イーストマンの設立したコダックカメラが「あなたはボタンを押すだけ、後はコダックが全部やります」との触れ込みで市場に参入した。こうして現像サービス企業が登場し、誰でも写真撮影が可能な時代となり、複雑な画像処理の道具を自前で持つことが必要ではなくなった。1901年にはコダック・ブローニーの登場により写��は市場に乗った。1925年、ライカ等の登場で一般性、可搬性(カメラの持ち運び易さ)、機動性、フィルム交換のしやすさが高まってスナップ写真が広まるなどした。20世紀以降、カラーフィルム(多色フィルム)やオートフォーカス(自動合焦:ただし必ず自動で合焦するわけではない)やオートエキスポーズ(自動露出)が広まった。画像の電子記録も広まっている。
現在ではデジタルカメラの液晶画面によるインスタントプレビューが可能であり、高画質機種の解像度は高品質の35mmフィルムのそれを越えているとも言われるようになった。コンパクトデジタルカメラの価格は大幅に低下し、写真を撮ることはより容易になった。しかし、専らマニュアル露出、マニュアルフォーカスのカメラと白黒フィルムを使う撮影者にとって、1925年にライカが登場して以来、変わった点はほとんどないとも言える。2004年1月、コダックは「2004年末をもって35mmリローダブルカメラの生産を打ち切る」と発表した。フィルム写真の終焉と受け止められたが、当時のコダックのフィルムカメラ市場での役割は小さなものであった。2006年1月、ニコンも同様にハイエンド機F6とローエンド機FM10を除いたフィルムカメラの生産を打ち切ると発表した。同年5月25日、キヤノンは新しいフィルム一眼レフカメラの開発を中止すると発表したものの、販売するフィルム一眼レフカメラが1機種になったのは2008年になってからであり、2004年1月のニコンの発表以降も4機種ものフィルム一眼レフカメラを供給していた。35mmカメラおよびAPSコンパクトカメラの値段は下落してきた。恐らく直接的なデジタルカメラとの競争と中古フィルムカメラ市場拡大が原因である。
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neko73 · 4 years
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@kanamichi_ann(カナミチ)
「コダックを癒やさないとサイコキネシスが爆発するから車内でヒーリングミュージック流し続けてる」って、コダックとの生活を「マジで」考えたことのある人からしか出ない発想だよな
TwitPanePlusから
https://twitter.com/kanamichi_ann/status/1263818336313339904
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of-tn · 5 years
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20190610-11
昨日は有給を取ってお休み。車屋に忘れた傘を回収してラーメン屋に行ったあとユニクロ。ポケモンのTシャツはまだ販売が始まってないことに来てから気づく。終始ダラダラして1日を過ごす。
今日は普通に仕事したあとポケカ部の活動。ヤドン&コダックがつよい。寮生活だと大雨でも割と楽にみんな集まれるのがいいね。
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techonewap · 6 years
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いまだ科学が説明できないUFOミステリー6選! 専門家を悩ませ続ける写真や映像!  迷宮入りした未解決事件があるように、科学的に解明できない現象もある。写真や映像に記録されたものの、どうしても説明��つかない6つの事例が再び注目を集めているようだ。 ■今なお現存する迷宮入り超科学ミステリー6選  何の気なしに撮影したものの、その後に写真をよく見てみると説明できないモノや現象が写り込んでいることがある。それでもその多くは専門家などによって信ぴょう性の高い仮説が提案されるが、中にはどうにも解釈できない事例もある。今になってもまったくといっていいほど説明が不可能な謎の事例をオンラインメディア「Collective Evolution」の記事が紹介している。 【動画と画像はコチラ→ 1. STS-48ミッションで撮影された一群の“UFO”  1991年9月に行われたNASAのスペースシャトルミッションであるSTS-48で撮影された映像は、今もなお専門家たちの頭を悩ませ続けている。  ともあれ動画に目を通してもらうしかないが、衛星軌道上から地球の地平線をとらえた映像の中で、いくつもの白く輝く浮遊物体がまったくランダムに動き回っているのだ。  NASAは、この浮遊物体はスペースシャトルのエンジンから放たれるジェット噴射の影響を受けて、氷の粒子が不規則に動いているのだと説明している。しかしそうだとすればこれまでにも同様の映像が撮影されていてもおかしくないはずだが、この一群のUFOが写り込んだ映像は公式にはこの映像のみであるようだ。専門家の中にもUFO説を支持する者が少ないということで、今なお謎が謎を呼んでいる。 2. ヘスダーレンの光  ノルウェー中央部に位置するヘスダーレンという村の谷に頻繁に現れる奇妙な光球(オーブ)が今もなお科学者たちを悩ませている。“ヘスダーレンの光”と名づけられたこの現象は、何度となく撮影され科学的な観測も行なわれたのだが、今もってクリアな科学的説明には到達していない。  ノルウェー・エストフォル大学の調査チームは世界で唯一、24時間体制の未確認飛行物体(UFO)観測所で公式に活動し、この光を何度も観測して分析を行うもいまだに結論は出ていない。レーダーとカメラで捕捉したある“ヘスダーレンの光”は、現時点で知られているどの航空機よりも速く、時速3万キロメートルという超高速で飛行するオーブもあったということだ。 3. フック島のシーモンスター  オーストラリア・クイーンズランド州の沖合いにあるフック島(Hook Island)で1964年に滞在中のカップルによって目撃・撮影されたのが“フック島のシーモンスター”である。  この写真はカップルが所有する小型ボートの上から撮影され、目撃談によれば全長は24メートルほどで、オタマジャクシのような姿をしていたということだ。 “��ンスター”はしばらくジッとしていたため、クジラのような大型海洋生物の死骸なのかと思ったというが、カップルは意を決してボートを降りて泳いでこのモンスターに近づいていったという。しかし人間の接近に気付いたからか。モンスターは口を大きく開けて泳ぎだし、この場を離れたということだ。 4. ソルウェー湾の宇宙飛行士  1964年、イギリス・ソルウェー湾を望む公園で父親のジム・テンプレトン氏が娘の写真を撮ったところ、現像した1枚に“宇宙飛行士”が写り込んでいたのだ。テンプレトン氏はこの写真の撮影時に、娘の背後には誰もいなかったと主張している。宇宙服らしき白い衣服に身を包みヘルメットをかぶっているこの“宇宙飛行士”はいったいどこから来たのか?  いくつかのメディアが取り上げたことでこの写真は世界中で話題となった。騒ぎを聞きつけた当時の写真用品世界最大手コダックが写真を詳細に分析した結果、この写真は何ら手が加わっていない純正のものであると発表している。  後にBBCがテンプレトン氏を取材してインタビューしており、それによれば、この写真が大きな注目を集めていたある日のこと、2人の黒服の男(メン・イン・ブラック)が家を訪ねてきて、この写真を撮った正確な場所を訊いてきたということだ。 five. フェニックスの光  1997年3月13日、米アリゾナ州フェニックス上空を中心に夜間に長時間にわたって目撃された複数のオーブが“フェニックスの光”だ。数千人が目撃したとされ、1990年代で最も有名なUFO目撃事件である。  フェニックスの光は2つのイベントが組み合わさったものだと考えられ、まずは三角形型に並んだ光点が上空を通り過ぎ、その後に数多くのオープが上空にほぼ静止した状態で浮遊する現象が続いたとされる。  米空軍の説明では当日の同空域で、軍用機であるA-10サンダーボルトIIの飛行訓練を行っており、訓練中に同機から照明弾を複数発投下したことをアナウンスしている。  しかし当時のアリゾナ州知事であり、この一件の目撃者でもあったファイフ・サイミントン氏などによれば、このとき空は実に静かであったことが報告されており、けたたましい騒音を放つ軍用機が飛んでいたとは到底考えられないということだ。米空軍の説明をそのまま鵜呑みにはできないという目撃者も少なくないのである。 6. 238メートルの巨大ミステリーサークル  ミステリーサークル(クロップ・サークル)で有名なイギリス南西部ウィルトシャーで2001年に、これまでの概念を覆す直径238メートルという超巨大ミステリーサークルが出現した。なんと合計で409ものサークルが描かれていたのだ。  実のところミステリーサークルはまさに“職人技”で一夜にして作りあげる専門家集団が存在することが確かめられている。だからといってすべてのミステリーサークルが人の手によるものだと断定するにはまた謎が多く、そしてこの超巨大ミステリーサークルのように短時間のうちにどうやって作ったのか全く見当もつかないケースも少なくない。  オレゴン大学の物理学者であるリチャード・タイラー氏によれば、この超巨大ミステリーサークルを作成するにあたっては高度なハイテク装備が必要であることを指摘している。具体的にはGPS、レーザー、マイクロウェーブ発振機などである。そうしたハイテク機材がないことには、いかに専門家集団でもここまで大きく、サークル数の多いミステリーサークルを一晩のうちに作ることはできないということだ。はたして人の手によるものなのか、それとも……。  数多くの人工衛星が地球を包囲している今日、いわゆる“秘境”や前人未到の地がどんどんなくなっているが、このようにまだまだサンエンスで説明できないミステリアスな現象は今もなお根強く残り続けているようだ。(文=仲田しんじ) ※イメージ画像は、「Thinkstock」より Read More
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