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tadaisihironori · 6 months
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パフォーマンス《生命のように冷たい cold as life》の小道具。
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tadaisihironori · 7 months
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tadaisihironori · 7 months
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tadaisihironori · 1 year
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tadaisihironori · 1 year
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一昨年か去年の初めに始めていつからか中断していた映画の企画が金以外、頭とPC、メモ帳の中でうまい具合に転がっていったので脚本の第1稿ができた。ハードコアの文脈的に最初に読んでもらう相手はお母さんが良いのだが、残念ながら19年前に既に他界していた。「映画」と言っても、一般的にイメージされるであろうそれとはかなり様相が違うものになるはずであるため、お母さんが生きていたならば脚本を読んでもらって苦い顔をしてもらえたのに、畜生!
今回は「物語」を描くその対価としてやりたいことをやる。例えばこの日本で芸術なり映画なりをやろうとする場合、しかもより阿らず、傍系または「外道」を突き進むもしくは性質的にそれしかできない場合は家賃なり食費なりを他の経済的手段により賄っていかなければならない。それと同じようなことで、やりたいことをやるためには特にやりたくもないことをやらないといけない時がある。
映像、映画において俺の関心は「物語」には無いと言ってもいい。最近よく20代前半の時にも同じ時期があったが、ヤクザVシネをよく見ている。描かれているヤクザ社会の「物語」を享受したいためではない。いや、それも十分にあり現実のヤクザがファンタジー化された任侠や仁義といった精神性に親和性を感じるが、谷岡雅樹が言うように「ベタ」や「しつこさ」といった(ヤクザ)Vシネの形式から何かないかと、何かを得るぞコノヤローと向かっていくためであり、特に俺の焦点はその独特なコンテクストによる「粗野な撮影」に合わさる。
「劇映画」という言葉はちょっとよくわからない。作家や監督、カメラマンと誰でもいいが、カメラに映るであろう何かしらに何かを指示した時点でそれは劇を撮っていることと同意ではないか。劇映画、文化映画、ドキュメンタリー、フェイクドキュメンタリー、実験映画など映画の分類には様々あって、カテゴライズすることが重要になるのは商業的な宣伝や学術的な研究くらいだろう。これはメタルクラストであってメタルパンクではないとかクソどうでもいい話である。少なくとも俺には全く関係のないことだ。
「物語」自体に興味はないといっても、それに付随する事柄、例えば「物語の破綻」といった類には興味がそそられる。そもそも昔から破綻という言葉に妙に惹かれる節があるので、何かしら破綻と付いているだけでとりあえず訪れてみる。ということはやはり「物語の破綻」に興味があるとは言っても、「破綻」という概念に興味をそそられているだけだ。ただ「物語」を構築することに興味がないかといえばそういうわけでもない。『傷だけらの仁義』というヤクザVシネに竹内力と小沢和義の受話器越しのバチバチの掛け合いがある、あれは何度見てもいい、そのシーンだけを見るためにこの作品を何度も見たい。どう脚本に書かれているのかを知りたかったので、古本屋で台本を買ってみたが、残念ながらこのシーンは書かれていなかった。現場で生まれたシーン、もしくは監督が台本を読んで加筆したものなのだろう。それとも流通している台本はそもそも撮影用の台本ではないのだろうか。どちらにせよ、あのようなシーンを作ることが「物語」のある映画制作の醍醐味なのではないか。
要は「物語」になるためのピースを「物語」とは別の単なる断片として作り積み上げていく作業だけであれば、映画のプロットまたは脚本を書くことに興味が出てくる。しかし、断片を積み重ねることで自然に「物語」が生起するわけでは多分ない。以前真島君と脚本家は脚本をどう書いているかという話をしていて、脚本家は描きたいことを中心に置き、その核のようなものを徐々に大きくしていく作業をしているらしいと真島君は誰かから聞いたという。俺は映画を「映像」から作っていこうとするたちなのでどうしても断片的なシーンが浮かびそれを並べ立てることから始めてしまう。文章を書くときもそうで、書きたいテーマを念頭に置き論理的に構築していく書き方はできなく、パンチラインとまではいかないフレーズがまず浮かびそれを漫然と書いていって落とし所をでっち上げる。限りなく漫然に近い状態で思考がさざ波立っている。これに近いのは酒を飲まなかった翌る日の午前で、どうもパキッとしない。ただパキッパキッとした頭で文章を書いてしまうと、見境なく悪態をついてしまうので逆に眠剤をかじってトロンと書く方がむしろいいのかも知れない。口より先に手が出るという言葉の、暴力の比喩の手を足に変えて、「とりあえずやってみる」といった非常にポジティブなニュアンスを持ちながら赤字の比喩表現としての「足が出る」という慣用句に潜む蹴りを暗示している言葉としてそれを使っていくのはどうか。坂口安吾の安吾巷談に、田中英光は酒の酔いを早めるために眠剤をかじっていたと書かれてある。3日でウイスキー1ダースをひとりで空けたとも書いていて、それは俺には到底できない芸当だが、飲酒中の眠剤は何度もやっている。というのも元々眠剤がないと寝れないので、��おかつ飲酒は大体夜なわけで、一緒に飲むしか無い。デパスは眠剤ではないが、10年近く飲んでいたというか止めれなく去年の4月にやっと止め��ことがてきた。半年かけて自力で減薬していくことで禁断症状も最小で済んだのではないか。坂口安吾が言っているように、薬物中毒は自らの意志でやめるしか方法はない。病院や施設に入り強制的に止めようとすると、解放された時にまたやりたくなるだろう。眠剤はレンドルミン、ハルシオン、マイスリー、デエビゴと色々試したことがある。デエビゴが1番最悪で飲んで数分で意識が落ちていきグロテスクなイメージが浮かんでくる。悪夢が副作用にあるようで、俺は手が焼かれる夢を初っ端で見た。朝目を開けるとひとつも寝返りを打たなかったのか、布団に入った時と同じ体勢のままで、鏡を見ると顔がパツンパツンに浮腫んでいた。デエビゴはベンゾジアゼピン系ではなく依存のリスクか少ないことで今処方されまくっているらしいが、こんな薬を飲ますなよ。
眠ること以外の効能として良かったのがマイスリーで、飲んで10分も経たない内に緩くキマり始めて沈むように意識を無くす。これが結構気持ちがいい。ただバキバキにキマる人がたまにいるらしく、腎臓外科の主治医にもらおうとしたら、止められた。しばらくして近所の処方箋薬局で順番待ちをしていたら、隣に座っていた見たところ80超えた爺さんが先に呼ばれ窓口でマイスリーを出されていた。おじいちゃん大丈夫?パキらない?と聞いてみたかったがやめた。耐え難きを耐え、忍び難きを忍んだ日本人としての人生をパキッて終わる最期も悪くないだろうからだ。覚醒剤は簡単に手に入れられないし、合法でイケるならそれにこしたことはない。ただし眠剤では認知症になって終わるのが関の山だろう。それを止めることができない社会は本当にクソである。早く大麻もクスリも合法にしてほしいもんだ。こっちは毎日瀬戸際でちびちび首を絞められながら飲んでいるのだから。とりあえず大麻だ、みんなでやってクソ仕事からフェイドアウトすれば国は滅びる。コミュニティの喪失と横割り意識が無くなった日本人の暴動は大麻でサボる、これしかない。
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tadaisihironori · 1 year
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『極道たちの野望』のエスタブリッシングショットはデジタルカメラで適当にバカバカ撮った時に出現するゴミのような写真のコンテクストを持っている。ゴミのような、という表現はディスってるわけではなく、アンダーグラウンド版niceの最上級として、賞賛の意味で使っている。通常エスタブリッシングショットは場所や状況の説明、登場人物の位置関係を伝える役目がある。とネットには書いているが実のところ俺は映画の専門家ではないのでよくわかっていない。多分この役目の中で『極道たちの野望』のほとんどのエスタブリッシングショットは場所の説明にあたるのではないか。ただ『極道たちの野望』のエスタブリッシングショットの場合、シーンによって何故か無駄にカット数が多いため、場所の説明という役目を引き剥がした単なる風景ショットになっている。その点が多分、かつてのWEB写真のような、デジタルカメラで(撮る人の方法論によるだろうが)適当にバッサバッサ撮った時の現れとして、アンダーグラウンド版niceの最上級「ゴミのような」と形容される写真と接続される要因になっているのではないか。
エスタブリッシングショットのカット数を多くした理由として「尺稼ぎ」が考えられそうだ。しかし、『極道たちの野望』のエスタブリッシングショットは、一般的なエスタブリッシングショットがそうであるように、1カット数秒なので尺を稼ごうにも高が知れている。何故多くしたのかは作者しかわからないことだろう。作者もわかってやっていない場合もあるので、何故そうしたのか?という「作為」は受け取る側の解釈に委ねられていることがほとんどなのではないかと思うことが多い。作者として明確な狙いがあったとしても外れることもあるし、全く予期せぬ的に当たることもある。受け手としては「作為」であったか「無作為」であったかという作者の意思や手数を考察していくのも必要だと思うが(俺はどうでもいいと思っているが)、どのようなやり方で成されたか?という方法や形式にフォーカスを当てることも重要だろう。 それにしても、何かを作ること、というのは作者にもわからないことだらけであり、作者が意識的に「更地」にしている部分もある。受け手がその「更地」でフルモッシュまたは卒倒、憤死、爆睡するために作者は日々ふざけ倒している。
前に書いたように、90’sVシネに比べると現行ヤクザVシネには低予算=時間をかけられないという背景がより色濃く作品に出ているようである。恐らく場所の説明をするだけのエスタブリッシングショットに時間をかけられる隙間があまり現場にないのではないか、また脚本段階からそもそも説明のためだけに撮るショットはいるのか?という議論も含めて時間がないのではないか。そのせいなのかはわからないが、任意の場所にカメラをただボンと置いたところから撮ったかのような即物性を『極道たちの野望』のエスタブリッシングショットのいくつかには感じる。五十嵐組組長宅の全景、club Atlantisの看板、club Premaの入り口、鮫島組事務所の廊下、花森組事務所のビルの全景カットなどがそうだ。これらは一般的な商業映画のカメラマンが撮ったら即廃業なんじゃないか、と思ってしまうほど、言ってしまうとがさつなショットだ。少なくとも所得のマイナス申告決定だろう。ヤクザVシネはシネコンでやっているような一般的な商業映画と同じく「商品」ではあるが、こういったがさつなショットが多く散見されるため、作り手にも受け手にも度量があるように感じる。これは実験的に何かを作る人たちの精神性と深く関係していると思うところがある。関係しているのは勿論がさつさではなく、度量の方だ。俺は個人的にがさつさも大歓迎なので、Vシネ作品自体の性質とそれを作っている人たちや享受する人たちの精神性(心意気)に親近感を感じる。ただ、Vシネに限らず映画業界の体質、その政治的内実は男性社会的で古風なシステムの押し付けがやたらと多そうな匂いがプンプンするので距離は置いておきたい。
ヤクザVシネはシネコン的商業映画と同じく「芸術(作品)」ではなく、あくまでも娯楽作品であり「商品」だろう。そのため、やむを得ない事情を除きどんなアクシデントがあろうと兎に角やり切り、形にして売らないといけない責任が作者にはあるだろう。一方「芸術(作品)」はものによっては売るためという動機の場合もあるだろうが、売れるか売れないかは全く問題ではなく、創作にあたっては自らの(創作に対する)欲望に奉仕するしかない。はたまた誰かに見せる必要もない。誰かに見せる、発表する、というのはまた別の欲求であり、作ることとあまり関わりがない。とは言っても、他者(社会)と接したいという欲望も創作の一部である。そのためか、作品を発表することでまた創作の欲望が増すこともしばしばある。しかし、他者(社会)と接するためが創作の目的では決して無い。 芸術は修羅のみちだ。他者(社会)が接触を拒む境目に立つことであり、そこから石を投げ始めることであり、拒絶は確定されそもそも創作自体に含まれている。接触が叶ったとしてもそれは逆に石を投げ返されている時のみだ。 「芸術(作品)」という行為はその根源にある創作の欲望に付き従うしかないため、生命が続く限り、やる気と金があれば続けることが可能である。その金が一番問題だが、運良く作品が売れればいいがなかなかそうはいかず、極論を言うと犯罪でも何でもどんな手を使ってでも他で「金を作る」しかないだろう。やり切らなければいけない、形にしなければいけない、というよりは、やるしかない、ということだ。Vシネなどの商品を作って売る場合はどんな方法を使ってもやり切ること、形にすることが1番最優先にしなければいけないだろう。それを金に変えるために。
この文章をダラダラと真剣に書いている日々の合間にたまたま小沢仁志のYouTubeチャンネルの番組に加藤雅也がゲストに来た回を夜、酒を飲みながら見ていたら興味深いことを話していた。小沢仁志の現場は例え役者の体型が変わりシーンの繋がりがおかしくなっても、「それでいいんだよ!」と進めてしまう。その適応力、臨機応変さが面白いと、加藤雅也。勢いだよな結局。勢いがないと、全部やって成立しなかったりするじゃん、と小沢仁志。こう文字で書くと多少浅い感じがするが、シーンの繋がりなんかカンケーねーよ!と半ば強引に進めていくぐらいの勢いがないと何にもならないことがあるっていうのは、非常によくわかる。誰かと一緒に何かを作ったり、映画制作やバンドなど団体芸をやったことがある人は身に染みてわかるのではないか。強引さの許容範囲はシーン(分野)によって変わるだろうが、特にVシネはほとんどファン商売のところがあるだろうから、一定数の固定客が多分いるだろうから、強引に進めたことによる粗がどれだけ出てしまってもあまり問題にはしないのだろうか? Vシネは現在レンタルビデオ屋ではなく動画配信が主になっているので、アマプラやU-NEXTなどの星取りやレビューにより、(あくまでも一般的な偏った)評価が常に晒されている。しかし、余程の変人でない限り星が二以下であったり、ラーメン屋であればスープに大量の鳥の糞が浮いていたようなもの、などと書かれた作品を見る人はいないだろう。ま、後者は逆にネタとして見に行ってしまうか。 売れなきゃ食えなくなる。 Vシネ30年の歴史の中で、低予算という現実的な問題を対処するために不可抗で生じる粗がどう作品または売り上げに影響を及ぼすか、作り手は実地でその閾値を探っていったに違いない。そうして粗の血肉化を成し遂げたVシネはそれをアイデンティティの一部として、「映画の外道」を歩んできた。それらの根底にあるのは、ある種の賭け、実験的な精神性ではないか。まあ単なるファンの妄想であるが。ノーエビデンス!いつか小沢仁志に会ったら聞いてみよう。
『極道たちの野望』のエスタブリッシングショットも粗の血肉化によるカンの冴えが齎したプロの仕事だ。先に書いたように『極道たちの野望』のエスタブリッシングショットはシーンによってカット数が無駄に多いところがある。大体1カットでいいようなところを2カット、3カットと同じ情報(場所の説明)を並べ続けている。2カット目以降は情報としては不要である、余計であるから、それらはエスタブリッシングショットでありながら場所の情報を伝えるという役目を引き剥がされているようになり、あらゆる文脈から切り離されたただの風景ショットに見える。 飯村隆彦の作品に「間:竜安寺石庭の時/空間」というのがある。俺は実際にこの作品を見たことがないが、ネットでその作品ノートが読める。この中に出てくる「額縁なショット」というのは多分エスタブリッシングショットと同義なのではないか。飯村隆彦は「額縁なショット」についてこう書いている。 「最初に石庭を左端から、前景に廊下を置いて、石庭のほゞ全景が斜め位置から、固定ショットで見る。これは最後の右端からのほゞ全景の固定ショットと対をなすもので、作品のフレームの役割を果たしている。(略)かつ、全景を示す固定ショットであることによって、これから持続する移動の部分ショットに対して、パースペクティブを与える。」 -これから持続する移動の部分ショット-というのは、望遠レンズを使用した奥行きを平面化しているショットのようだ。これを読む限り、「額縁なショット」はエスタブリッシングショットのことだろう。確かにエスタブリッシングショットは特に人物の位置関係を示す場合、後続シーンに対しパースを与えている感じがする。しかし、『極道たちの野望』のエスタブリッシングショットは後続のシーンにというより、ヤクザVシネの型自体にパースを与えているようだ。
前にも書いたようにヤクザVシネは組織の構造や人物の関係性を把握しないとついていけない内容が多いので、それを「説明する時間」が平面に積み重なっていき、見終わった時に「書類の山」ができていることが多々ある。しかも例えばa+b+cで成り立つ出来事Aを描くためにa-b-cと直線的に展開していくので、作品全体に奥行きがなくのっぺりとしている。よくある映画の作り方としてaとcだけを見せてbをわからせる(想像させる)ような見せ方もしているが、それ一辺倒の単なる繰り返しであったり、出来事A=a+b+cのa, b, cが他の出来事B=d+e+f+gや出来事C=h+iなどに干渉していくような描き方や、展開図の各面が四散していき、最終的に一つの多面体になるような描き方はあまり見たことがない。 しかし、『極道たちの野望』のエスタブリッシングショットからその役割を引き剥がしたただの風景ショットは、「説明」でもなく展開上必要なものでもないので、出来事A, B, Cの間に突如現れる未知数xとなり(または多面体の展開図にはない、はみ出した面となり)、カットとカットまたはシーンとシーンの連続的な関係性を断つことになる。ジャン=クロード·ルソーの映画でよく使われている黒味に似てなくもない。または音楽における「休符」だ。休符は楽器が楽曲から退き、あらゆる「自然」が、フロアが前景化する。カットの関係性を断ち切るただの風景ショットになった画面もカメラまたはその主体が役者に���わり前景化してこないだろうか。して来ねーよと自分でも思うが、思いついたから仕方ない。
大体俺たちは、俺もお前も表の映画史から出てきた言葉しか喋れない。言われ尽くされてるそんな言葉が核となる人生はクソではないか。皆が見過ごしている裏の映画史ならぬ、「外道の映像史」というのがある。その類は書物や「三脚」を足蹴にして実地でやっていくしかない。
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tadaisihironori · 1 year
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tadaisihironori · 1 year
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『極道たちの野望』は「撮影」によって他のヤクザVシネと差異化できている。特にエスタブリッシングショットが物語の時間から離脱したように感じるほど、他カットに比べ突出している。と言っても、ヤクザVシネのコンテクストの理解と捻くれた精神と偏見を持って取り掛からないと素晴らしいと唸ることは不可能なほど、ゴミのようなカットなので、ゴミの概念の食い違いにより素通りしてしまう人もいるだろう。物語の時間と書いて思ったが、ヤクザVシネに対しては的確な表現ではないかも知れない。前回も書いたがヤクザVシネには一定の型があるので、脚本を書いていく場合、その型に則って新たに自分なりの角度で切り口を入れていくだけの作業なのではないか。抽象的なアプローチで登場人物を動かしていく、話を展開させていくといったような物語の形成では多分ないのではないか。何故なら、例えば組長が殺された後の選択肢としては「戦争」、「手打ち」、「組の解散」くらいしかないだろう。ヤクザ社会では自分が白でも親が黒と言えば黒になるしかない世界とよく聞く。そうするとヤクザVシネと言えどもある程度のリアリティは尊重しないといけないのでその掟に則って人物を描くとすると人物の心情や行動も数パターンくらいしかないだろう。そこには抽象的な事柄を膨らませて具体化していく作業よりは事務作業的な整合性を確認していく単純労働のような怠さとどう付き合っていくかに、作る方も見る方も試されているのではないか。ヤクザVシネには「物語」のような何かしらの塊が時間の中で膨らんでいく、というよりかは、延々と「説明」をされる時間が平面に積み重なっていくイメージがある。またその話かよ、といったように、保険屋にあらゆる契約プランを延々と聞かされているような感覚がある。携帯電話会社の約款をずっと読み聞かされているような...。これを書いていてまた思ったが、ヤクザVシネの話の型は昭和のヤクザ社会の話であって、現在ではあり得ない事が描かれているのかも知れない。昨年読んだ「ヤクザに学ぶ組織論」という新書には世のIT化以降組の事務所も少なくなり、シノギの方法も変化しヤクザの潜行化、マフィア化が進んでいると書かれていた。ヤクザによくある「不文律の掟」も有耶無耶になってきていると言う。2006年の本なので、今はよりヤクザ社会がインビジブルな状況かつリベラル化しているのではないか。
「極望」のエスタブを語るにはある写真ついて書かないといけない。俺は昔写真をやっていて、活動中の半分くらいは札幌で生活をしていた。当時、2000年初期くらいから(?)WEB写真(参考 https://dc.watch.impress.co.jp/cda/webphoto/2006/04/06/3585.html)ってのが流行っていて、ベテランから若手、素人の写真家たちが挙ってデジタルカメラで撮りまくった写真をネットにアップしていた。あれはある種のシーンになっていたと思う。その頃ススキノのど真ん中にある三井薬局(2017年閉業)で昼夜問わず配達のバイトをしていた。クラブ、キャバクラ、スナック、ゲイバー、風俗、ストリップ劇場、ヤクザの事務所、連れ出しスナックなどのお得意先にタバコ、化粧品、ティッシュ、鎮痛剤、咳止め、イソジン、海綿体、ローション、コンドームなどススキノならではのものを歩いて届けていた。その際中にコンパクトデジタルカメラで撮った写真をセレクトせずに全て自分のブログに上げていた。ファインダーなど覗かずにただシャッターをバカバカ切っただけの写真群のほとんどは構図に工夫がなく、情報や記号という観点から見ても何が映っているかがわからない、ニュアンスしか映っていないものもある。所謂メタレベルが無いもの、とも似て非なる何も無いものがほとんどだった。他の写真家が撮るWEB写真も大体似たようなもので、当時はWEB上に大量にその類の写真が散りばめられいた。『極望』のエスタブにはこれらの写真に近いものを感じる。
因みに本筋と全く関係がないかも知れないが、その写真群の中には何らかの要因で情緒的に何かを感じるものもあるが、それは一体何なのかはわからない。俺は写真をやり始めた当時から佐内正史の写真が好きで、佐内の写真を見るときによく、懐かしさのような何かよくわからない感覚に陥る。佐内の写真の多分全ては非常に情緒的な見方しかできない。しかし、それが一体何なのかはわからない。例えば独特な倍音成分により琴線に触れる官能的な歌声やグルーヴといったうねりやノリのようなものを佐内は写真で表現してしまっているのではないかと思うことはあるが、写真はそんなことができるメディウムではないだろう。しかし、佐内の喋る言葉はあまりにも抽象的すぎて、悪く言うと何も言ってなく、「内容」が極端に無いため、読んだり聞いたりしてもほとんど何を言っているかわからない。そんなある意味変人だからこそ写真というメディウムを音楽のように扱うことができるのかも知れないとも思うが、それは多分間違っている。音楽も突き詰めると「記号」でありその組み合わせであり、理論的に数学や物理学などで説明できる部分がある。ただ、写真よりは理論や技術を身につけなくてもセンサーが良ければやれますよね?しかし、佐内がやっているのは写真なので、いくらセンサーが良くてもメディウム(装置と言ってもいい)自体に音楽的な機能があるとはあまり思えない。というのも、人は写真を見る時映っているものしか見ることができないからだ。本来は。しかし、撮られた写真を、映っているものそれ自体やコンテクストという観点とは別に、情緒的に見てしまうことが往々にしてある。これを見る側のリテラシーの問題じゃねーか?と言ってしまうとそれまでだが、そうとは言い切れねーでしょう。情緒的に見てしまうとはどういう状態なのか。
「ベルクソン曰く、「時間」は空間として把握される場合、静止させ切り刻む事ができるが、つまり切り刻んだものをひとつひとつ「分析」できるが、本来「純粋時間」はとめどない動きであり、常に流れていくものであるので、分析はできない。「時間」の中にある変化を感じる場合、それを「直線」と感じるならば、その点が直線を離れている場合、即ちその並んでいる点を同時に眺めた時にのみ、それを直線と感ずるのである」と俺のメモ帳には書いている。これは確か澤瀉久敬の「ベルクソンの科学論」の中に書いてあった言葉をそのまま写したか自分で要約したものだと思うが、これ自体とても惹かれるセンテンスだが、「時間」を「作品」、「純粋時間」を「時間芸術」、「分析」を「批評」と言葉を変えても通じるのではと思い多分メモした記憶がある。それを踏まえ、例えば写真を情緒的に見てしまうという現象は「作品」から離れて「批評」的な位置に立っているのではなく、「作品」から離れず「作品」の内に留まっていることでもなく、「作品」を自分の好きなように捻じ曲げている状態なんじゃないか。それはとても暴力的な状態とも言えなくもない。人は自然に任せると自ずと暴力的になる。自然に任せる、それ自体はすげぇいいことじゃねーか!精神の解放だ!さあスケボーに乗ってそこらへんの車に火をつけて回ろうじゃねーか!ギガ盛ギガギガ盛ギガビッグマックと吉牛超特盛つゆだくだくだくだくだくだくをユニクロに投げつけようぜ!まあリベラルが許容する暴力はギリギリここまでだろう。ただし真のリベラルな。安倍が狙撃されて、民主主義への凶行とか言ってる似非リベラルじゃなくてね。みたいな事で、写真、または映像をそのコンテクストに触れずに情緒的に見るというのはある意味自然に身を任せる行為であり、ギリギリ許される暴力だろう。 gigagiliyangudakugili。2019年の香港抗議デモで非暴力の和理非派といわゆるブラックブロック、暴力やむなしの勇武派が協調したのは2014年の雨傘運動のように分裂しないことのポーズでもあったらしいが、かなり一丸となっていたのではないかと思う。https://www.subculture.at/tactics-and-methods-surrounding-the-2019%E2%80%9320-hong-kong-protests/ https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20191025/pol/00m/010/012000c ブラックブロックという戦術はひとつの抵抗の捉え方として、尊重すべきだ。しかし、そのような戦術だけではあまりうまくは行かないだろう。末期資本主義を生き抜くためにはずる賢くなる必要がある。あらゆる角度からコンテクストを読み解く必要があるわけだ。
写真や映像をコンテクストに触れずに情緒的に見る見方はひとつの方法として認めなければいけない、正攻法ではないが、非常に素朴な(暴力的な)見方として受け入れるべきだろう。しかし、佐内の写真は情緒的にしか見ることができない。これはどういうことなのか。裏を返せば情緒的に捉えるようにしか佐内は撮ってない、ということなのだろうが、佐内は赤富士を撮って悦に入ってる爺さんとカメラを扱う精神性は似たようなものなのかも知れないが、多分佐内の写真のポストカードが観光地に置いてあってもモネの睡蓮を見て、わー綺麗な色ねー!と騒ぐだけのような婆さんは決して買わないだろう。前に母方の祖母に佐内の「わからない」という写真集を見せた時に、自分が感じるようなよく分からない良さは全く伝わらず、写っているものだけしか見ていないようだった。それがある意味写真の真っ当な見方だと思うが、佐内の写真のよくわけのわからなさはある特定の人だけにしか伝わらないようだ。つまりあるコンテクストを共有していないと分からないものを佐内は撮っているということになる。
それは多分「記憶」と関連するものの中でも、郷愁とまではいかない近い過去に見たドメスティックな情景で強烈な印象となっていないもの、だろうが、その「記憶」に対してエモーショナルな気持ちを喚起させることに抵抗を示さないこと、例えばハードコアで言うとオールドスクールよりニュースクルール、ニュースクールの中でもNYHC経由の極悪なビートダウンやモッシュコアやエッジメタル系ではなく、ヴィーガンストレートエッジを経由したカオティックハードコアも好む人たちとも違うエモと言ったらわかりやすいだろうか。わかるかい。刑事ドラマでいうと、刑事貴族よりはぐれ刑事純情派を好む人たちと言えばわかるだろうか。どちらかと言うと人情重視、心情の吐露を厭わないタイプ。いや、そんな比喩で逃げるのはハードコアじゃねぇ、いや、「逃避」こそが佐内のよくわからなさにある根源なのではないか。かつてエモが暴力の横行するある意味マッチョ化したD.Cハードコア、ストレートエッジからの脱却であり、リベラル的な「逃避」であったように。佐内の写真は硬派な文脈からの「逃避」、写真のアサイラムなのではないか。それに共鳴するひとたちに通じるコンテクストなのではないか。それを成し得る方法として佐内はカメラを誤用しているのではないかと思いつきで思った。「カメラの誤用」とはノイズミュージャシンがミキサーを誤用するようなものだ。俺も大概はカメラを誤用しているが、俺の場合の誤用はカメラの本性のダイナミックレンジを最大に使っている感じである。佐内は多分そのダイナミックレンジをかなり狭めてカメラを使っているのではないか。要するにカメラを身体と一体化させるような…。つまり自分の撮りたいように撮れる技術が相当高い、という事だろう。それってカメラの真っ当な使い方ではないか、と思うかもしれないがカメラの本性を考えると自分の撮りたいように撮れることというのは「カメラの誤用」の極右である。佐内はそれを実践している。本筋からかなりズレた感じがするが、何かまだ綻びを繕うことができそうだ。
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tadaisihironori · 1 year
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デスメタルのリフを遅くして、ハードコアパンクの形式にザクザクと刻みを入れてみる(ビートダウン)。またはツービートや横山やすし・西川きよしの漫才のテンポを遅くし、ザクザクと分節した時間を引き延ばしてみる(ダウンタウン)。みたいな書き方をしてみるのはどうか。またはベルンハルトのようにダラダラと思考を冗長に垂れ流すのはどうか。That’s life.
『極道たちの野望』のエスタブリッシングショットが面白い。タイトルからして一見ヤクザ映画だと思うかもしれないが、いや、ヤクザ映画なのだが、これはジャンルとしてはヤクザVシネである。ヤクザVシネを見たことが無いという方は一度動画配信サブスクに入ってワンシーンでもヤクザVシネを見て欲しい。いや、見なくてもいい。見たところで思う何かは人生にとって重要なものとなるにはあまりにも時間が短すぎる。私たちは呆然とする時間などない日常で、剰余価値生産のほんの僅かな間隙を縫って作った政治活動の時間までコンテンツ消費に使わなければいけない。どうせ死ぬのだからと、右翼の街宣車をハイジャックしストサベのHardcore Prideを轟音で鳴らしながら財務省に投石、火炎瓶、そのまま突っ込み身体に巻いていたダイナマイトで爆死する心積もりならば、こんな駄文を読んでいる暇などない。早く行け。俺はやることが他にあるからそれをやってから行く。と、ある友人にメールを打ってからというもの、以下のようなメールが絶えない。急なDM失礼します。ママ活をしたい女性からの問い合わせが多く男性が足りておりません。綺麗な女性が沢山いますので是非この機会に参加してください。ご質問等ある方もLINEを追加してご連絡ください。募集中のママさんを公開していますのでよかったら見てください。今日から募集の方も何名かいらっしゃいます。ご連絡お待ちしております。 ヤクザVシネの見つけ方として、まず動画サブスクの検索バーに「小沢仁志」、「中野英雄」、「清水健太郎」、Fuck「中条きよし」、「白竜」などと打ってクリックすると、怖い顔のジャケがずらっと並ぶと思う。その中でタイトルがどうも「臭う」ものを選んで再生ボタンを押してみよう。またはレビューの星の数が3ないし2以下のものを選ぶとより高い確率でヤクザVシネに辿り着けるはずだ。まずは3分見てみる。すると自分の映画鑑賞史の中で培った映画的感覚が妙な違和感を示すはずだ。何かがおかしい…。アナーキーな整音、虚無な照明、身体性がハイのカメラ、アウトオブコントロールな役者、RAWハードコア解像度、shit美術などなど、カチッと何かにハマってない、どこか外れた感じがあるだろう。非芸術的な粗雑さと細部の欠陥、冗語気味な展開、これがVシネの持つ特有のコンテクストである。俺はこれを多大な賞賛を含んだ意味で「映画の外道」と呼んでいる。その中でもヤクザVシネは「映画の外道」の看板ジャンルである。他にエロVシネや金融系、麻雀系、ヤンキー系、パロディ系のVシネなど色々ある。Vシネとは何なのか?ネットにこう書いてあった。
《Vはvideo(ビデオ)の頭文字》東映が平成元年(1989)に発売を開始したオリジナルビデオ映画。 映画館公開のためではなく、最初からビデオとして発売したり、レンタル店に配給したりするために作った映画作品。 商標名。
1989というとベルリンの壁崩壊、昭和天皇崩御、ジョージ・H・W・ブッシュが大統領就任、天安門事件、ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!が放送開始など日本然り世界的にも歴史の転換期となった出来事が起こった年だ。そんな激動の裏っ側でレンタルビデオショップに卸されるためだけに作られたビデオテープの映画作品がVシネというわけだ。今はデジタル化に伴いソフトはDVDとなり、主な販売先は多分ネット配信サービス会社だろう。
『極道たちの野望』は2016年に作られた正統なヤクザVシネだ。竹内力主演で、1997年に竹内力が設立したRIKIプロジェクトが製作、販売?はオールイン エンタテインメントを引き継いだライツキューブである。内容はヤクザ社会の勢力争いと内部抗争がセットになったものと、跡目レース、ヤクネタ、御法度の凌ぎ(シャブ)話がプラスされたものだ。これはヤクザVシネで形式化された話の型の一つだろう。これ系のヤクザVシネはごまんと作られたはずだ。ヤクザVシネにはこうした話の型があるので、その微妙な切り口の差異を「撮影」で見て楽しむ、というのは私の鑑賞方法だが、ヤクザVシネ好きは結構そういう人が多いんじゃないか?例えばハードコア(パンク)も大体の形式があり、その範囲内で微妙な違い、またはパターンや要素の組み合わせを楽しむ音楽ジャンルなので、似ている面がある。ただ、ハードコアは特にメタルと融合することで水平的に発展していった歴史があり、いくつもの派生ジャンルが生まれている。逆に初期のUKハードコアの形式(D-beat)の攻撃性やスピード感はスラッシュメタルに影響を与えている。のちにクロスオーバースラッシュというスラッシュメタルとハードコアが融合したジャンルが生まれるが、パンクとメタルが融合してハードコアに派生ジャンルが生まれまくったその原点は初期のUKハードコアの形式=D-beatおよびDischargeにあると言えるんじゃないか。ヤクザVシネはどうだろう。見ている本数はそこそこあるが、というか沢山見る必要性も感じていない、時代的に時間が有限すぎてとても見尽くせない、けれども、水平的にあらゆるジャンルが派生していった、ということは聞いたことがないし、自分が見ている限り何を見ても全て大体同じではないか?と感じる。先に書いた型を発展をさせずにずっと守り続けているのが、ヤクザVシネということだろう。
撮影技術の極端な洗練されてなさがヤクザ映画のアンダーグラウンド、「映画の外道」の真髄であると言ったら怒られそうだが、洗練されてなさ、愚鈍、crass的な要因は低予算=時間をかけられないという背景にもあるだろう。そのためまだ予算がある程度潤沢だったであろう90~00年代より、(ピンク映画監督の江尻大 a.k.a EJD曰く) 2010年以降予算が付かなくなってからがVシネ業界を非技術によるAnything goesが席捲し、ファン側からするとより益体の無いマニアックな見方ができるようになったという点で「映画の外道」の全盛期と言っていい。以前であれば非技術によるAnything goesのようなものを「映画の(素材の)拡張」と書いていたが、自分の作品でもよく使っていた言葉だが、どこかグローバリズム臭がするんですよね、ローカルを守り楽しむ方法を考えたいと、マニアしかわからなく��いいじゃないすか?というかグローバルに誰でもわかることなんかやってねーよってことで使用禁止にしてます。 一方でVシネは無名な俳優が沢山出ていることから雇用を生み出す役目も果たしているように見える。というか、製作側からするとエンターテインメントとしての需要もあるだろうが、雇用を創出することが本来の目的なのではないだろうか。昔からヤクザVシネくらいでしか見ない俳優が沢山いる。しかもあらゆるヤクザVシネが大体同じメンツ、しかもギラついた男のような人間しか出ていないので、非常にホモソーシャルなコミュニティの中で経済が回っているようである。その人たちを食わすためにヤクザVシネが未だ滅びずに存続しているのではないか。また、そのために型を守り続けている、ということではないか。型が発展しサブジャンルが生まれると必要な人材も変わってくるし、元のジャンル自体の資本が分散してしまい、自ずと分配も減る(んじゃないのか?)。ただでさえ日本の映画界はーまあ知らんけどー資金集めに苦労しているのだから。ハードコアのライブに行くとNYHCやビートダウン、パワーバイオレンス、メタルコアなどのモッシュ主体のジャンルや激情系には若い人がチラホラいるが、クラスト、ノイズコア、グラインドにはジジイババアしかいない。というのと同じことで、派生ジャンルが発展すると古いジャンルは淘汰される。この変化や発展を食い止めるための型の保守なんじゃないすか?もしや。大ヒット作『日本統一』シリーズはそんな連綿と続く「終わりなき古き良き労働」の一端から商業的に確変をものにした作品だろう。
先日ヤクザ映画のオーバーグラウンド『新・仁義なき戦い』(2000年)を見返したが、岸部一徳、豊川悦司、松重豊と等価に映る大地義行はやはり凄味がずば抜けている。俳優としてのではなく、魔のような地の凄味だ。大地義行のあのやさぐれた狂犬が魔物に取り憑かれたような威圧感は同じくヤクザ映画のオーバーグラウンド『新・仁義の墓場』(2002年)で菅田俊に詰め寄る時のジャケットのボタンを外すシーンがクローズアップされたカットに集約されていると思っている。なぜあのカットを撮ったのか?多分撮影を指示したのは監督の三池崇史だろう。だがどうでもいい。あのシーンの現場にいる誰もが大地義行のボタンを外す仕草に震えたはずだ。大地義行は京都の自宅にいた内縁の妻を放火で殺した罪により無期懲役になり、今刑務所にいる。罪状が真実であれば鬼畜の所業だ。EJD a.k.a 江尻大から大地義行が嫁を殺して逮捕された!と知らされたのはもう20年前のことだ。現在は無実を訴え再審請求を目指しているようだ。2000年前後、あらゆるヤクザ映画のバイプレーヤーとして活躍していた大地義行が今も娑婆にいられたなら(少しでも尋常さがあったならいられたはずだ)、当時同じく名舎弟役として売れまくっていた山口祥行と「映画の外道」を盛り立てていたに違いない。しかし、今の日本社会または映画界に大地義行のような無頼の塊のようなはぐれものが生きられる場所はどこにもないだろう。この世で生きていくためには地獄へ足を踏み入れるしか術がない人間がいる。リベラルが望む「平等」はこの世に生まれ持った魔物が存在する限り叶うことはないだろう。
なげーから続きは次回。
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