Tumgik
cotlove · 1 year
Text
「発酵、熟成、タイムマシン」 会田大也 ( [YCAM] アーティスティック・ディレクター )
私の勤めるアートセンターでは、作品保管は行わないが、活動の記録や動態保存といったアーカイブを充実させる取り組みを行っている。一般的に美術館と呼ばれる施設においては、来場者へ作品を見せるということの他に、保管は重要なミッションの一つであり、多くの美術館がそれなりの設備費をかけた保管庫を備えている。作品を未来に届ける使命は、人間の不完全性と関係がある。今ある作品の価値を現代において完全に把握するのは不可能だから、未来の人々へなるべく良い状態で保存し届けることで、将来その価値が拓く可能性を担保するという訳だ。きちんと保管されていなければ、ヴィンセント・ファン・ゴッホの「ひまわり」も伊藤若冲の「群鶏図」も現代には遺されていない。もし人間の知能が完璧であり、価値を余すところなく消費し尽くすことができたなら、作品を保管する必要は無かったのかもしれない。しかし歴史から伺えるのは、作品について同時代的指標から人類にとっての文化的価値を理解し尽くすというのは、かなり難しいことである。
ところで、あまり機会があるわけではないが、熟成寿司なるものを食べたことがある。魚を熟成させ寿司にする、というものだ。店の大将曰く、毎日ちょっとずつ味見をしながら、腐り始める直前まで熟成させて寿司ネタに用いることで、他で味わえないような美味しさを引きだしているとのことだ。1ヶ月近く熟成させたと言われ出されたネタは、新鮮な魚介類とは一線を画してねっとりとした舌触りで、うま味が高まりそれまで食べたことのない味わいであったことが印象深い。魚だけでなく肉についても「エイジング」と呼ばれる熟成方法が流行のようである。風を当てるドライエイジングや真空パック中で熟成させるウェットエイジングなど色々な方法があるようだ。
発酵や熟成と呼ばれる技法は、微生物や酵素の働きによって肉の質を変化させてうま味を高めるやり方であるが、肉からみれば時間が経過して腐る過程であり、人間にとって都合の良い部分を発酵や熟成と呼んでいる訳である。人間の進化の過程で大きくなった脳、そしてそれを保護する頭蓋骨が重たくなったことが先なのか、それとも結果的に脳を大きくせざるを得なくなったのか、どちらとも言えるだろうがとにかく、一日に1回以上食事をすることを前提とした内蔵の構造があり、それに従った生活サイクルが形成された。逆に言えば、人の体は一度の食事で数日活動できるようには出来ておらず、大きな獲物を獲得できた時や大量の作物を手に入れた時でも、それを胃の中に全て放り込むことはせず、何とか数日後の食事へと変換させる必要が出てきたのだ。
数日後まで食料を保存するというのは、冷蔵庫を持つ現代の日本では当たり前のことに感じるが、もし食料の保存ができないと想像するとそれなりに恐ろしい。また、穀物のように貯蔵が容易ではない食料を主食とする生活もちょっと想像が難しいかも知れない。例えば魚を主なカロリー源とする電気の無い孤島での生活は、安定的な漁が出来なければすぐに飢えてしまうだろう。食料を熟成させたり発酵させたりすることで保存することは、食べる時間を未来に先延ばしするという意味でタイムマシン的である。今手元にある食料を、タイムマシンに載せて未来に届ける行為とも言えないだろうか。
現代美術は同時代的に今を生きているアーティストが生み出している作品を取り扱うジャンルだ。歴史の検証を経て価値が確定した作品と異なり、もしかしたらただのゴミかも知れないし、もしかしたら未来の傑作かもしれない。そのことは現代のモノサシだけで測り切れるものでもない。故にタイムマシンに載せて未来へ届ける必要も出てくる。届けかたは一様ではないが、美術館以外の場所でも色んな形で試されるべきだろう。文化の発酵を標榜するcotも、その重要な一端を担う存在と言える。(2023.2.25)
Tumblr media Tumblr media Tumblr media
0 notes
cotlove · 1 year
Text
「かに革命2022/大そうめん流し」―アートか革命か悪ふざけか?ー中野良寿
「かに革命2022/大そうめん流し」―アートか革命か悪ふざけか?ー
先日9月24日に、山口市下市にあるLife and Eat ClubのMEDICAFE2022の一環として「かに革命2022/大そうめん流し」と名打たれたアート・イヴェントが美術家の中崎透氏の企画で行われた。「ナデガタ・インスタント・パーティー」でアートコレクティブとして活動している中崎氏だが近年ではソロワークでの活躍も顕著である。昨年は宇部市のときわ遊園地で行われた「TOKIWAファンタジア2021」でも夜間のイルミネーションをメインにしたアートイベントで多数のコミカルな作品を展示して、多くの子どもたちのファンを増やしたのではないかと思う。
さて、彼の今回の「かに革命2022」についてである。そもそもこの「かに革命」というイベント/作品については、山口市を拠点にしている山口現代芸術研究所(YICA)[現代アートの分野で活動しており、国際的な内容を地域の文化活動に取り込んで20年以上経つ研究所。近年はNPO法人から一般法人として活動している。]で、2005年のアーティスト・イン・レジデンスのアーティストとして彼を招聘した時に始まったプロジェクトである。
その頃YICAの事務局は山口市の瑠璃光寺の裏手の木町地区の古民家を使った「木町ハウス」というところ行われていた。彼はその時、大学の博士課程を終わったところで「看板屋・中崎」という触れ込みで現れた。ライトボックスを使ったあたかも飲屋街で使われそうな文字フォントを駆使した看板作品を作っていた。その時、てっきりそのような看板を木町ハウスで作ってくれるのかと思いきや、然にあらず。滞在の途中、気がつくと「かに」の「革命」をやるから来てね〜というお誘いを受けた。指定の時間に木町ハウスに行ってみると、ハウスの裏手で行うという。木町ハウスのある木町は古い家並みが続く地区で、鬱蒼とした木々や竹、朽ちそうな建物があり、その頃の木町は昭和の風情を醸し出す家々が残っていた。ハウスの奥は山口市でも有名な一ノ坂川につながる浅い川があり、そこでこのイベントが行われた。二、三畳の川床をその川に一時的に作り、その場所でパーティーを行うというものだった。
清流と言えるその川にはサワガニが結構いるのだが、あえてその場所まで行かないと、普段は目にもしない場所である。川床をアートとして設置することで、普段あまり行かない場所での環境の豊かさに気づき、自然の恵みを感じる企画でもあった。
その後、「かに革命」は山口市前町の前町アートセンター(MAC)や椹野川の河川敷のバーベキュー大会の時など、数年ごとに彼が山口に来るたびに行われた。
上述のような流れがあり、Life and Eat Clubの津田さんから中崎氏の「かに革命」を今回もやるということだったので、期待して指定の時間に行ってみた。Life and Eat Clubの前にも小川が通っているので、今回も川床を作るのだと思っていたが、行ってみたら今回は革命の旗を作ってそうめん流しをするという企画だった。現地ではボランティアスタッフや親子の参加者、Life and Eat Clubの関係者ら多数がいた。建物の入口のブルーシートの上に旗になる布がたくさん置かれ、子どもたちが、墨やアクリル絵の具でカニの絵を描いていた。中崎風のキャラクターのカニや子供達ののびのびとしたカラフルなカニ、保護者のお母さんたちのカニ、みんなめいめいバラバラのカニを描いていた。僕もカニを描いて欲しいということで何十年かぶりにカニを描いた。結構適当に描いたが、「ヤバイ、カニってかなり自由に描いてもカニらしさは、ブレない、、、、」なんて思った。そうこうするうちに、建物の中で、そうめん流しの準備をするという流れになり、中崎氏のアイデアで雨樋と机やイーゼルを使い、青竹を使わない簡易そうめん流し装置の全貌が見えて来た。実験として水を流してみたら一箇所ちょっと水が溢れた場所があったが、概ね大丈夫(NHK Eテレのピタゴラスイッチの要領である)。水が流れるということはそうめんも大丈夫だろうという感じに仕上がった。最後にみんなで描いた「カニ革命」の旗をそうめん流しの装置の各所に飾り付けたが、なかなかの出来だった。(この「カニ革命」の旗は後日エプロンになって参加者に配られた。)
昼の部が終わり、夜の部になってこの装置に、実際にそうめんが流され、様々な薬味を入れた汁でいただいた。どうなることかと思ったが意外と美味しくて楽しい。マスタードシードの薬味なんかもあったりしてとても美味しくいただけた。
ちょっと待って。ここでこのリポートは終わってもいいとは思うが、何かざわざわする。うまく行き過ぎているのである。もしかしてこれでいいのかもしれないが、なんか物足りないかも。  
後日考えてみる。もしかして世界的に長引くコロナ禍、ロシアのウクライナ侵攻、地球温暖化問題、このご時世、世界的に革命の文字は物騒であり、カニと革命の取り合わせはのんびりとした“悪ふざけ”とも言える。しかし「革命」をキーワードに改めてネット検索すると、人類の歴史における○○革命は数知れず。もしかしてどこかに「カニ革命」なるものもあるかも、、と少し穿って考えてみたくなる。昨今のAIの発達、ネット上の偽情報の氾濫、捏造されたプロパガンダ写真などファクトチェックが不可欠な日常になる毎に、自明だと思われたフィクションとしての「カニ革命」も10年以上の歳月を経てあらぬ意味合いを帯びていることに気づいた。
美術家 N3ART Lab代表 山口大学教授 
中野良寿
2022年10月31日
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
0 notes
cotlove · 2 years
Text
第58回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展日本館展示「Cosmo-Eggs│宇宙の卵」報告会 藤川哲
第58回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展日本館展示「Cosmo-Eggs│宇宙の卵」報告会
山口大学教授 藤川哲 
 2019年12月7日(土)、山口情報芸術センターのスタジオCで、ヴェネチア・ビエンナーレ日本館展示の企画者である服部浩之と、出品作家の1人である下道基行を招いて、報告会を行った。来場者は約80名で、スタジオCの定員100名の8割を埋める盛況だった。
 ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展は、2年に1度開催される現代アートの祭典だ。1895年��ら続いており、2019年に第58回展を迎えた。途中、戦争等で休止しているが、120年以上続いている一大イベントである。第58回展には90か国が参加し、5月11日から11月24日までの約7か月間の長期にわたって開催された。
 このヴェネチア・ビエンナーレは、100周年を迎えた1995年頃から全体構成の見直しが進み、現在では、総合監督が出品作家を選ぶ国際企画展部門、各国のキュレーターが展示を行う国別参加部門、そして個展やグループ展など、さまざまな展覧会が認定を受けて参加する並行展部門の3部門で構成され��いる。このうち、国別参加部門が最も歴史が古く、主会場の「ジャルディーニ」と呼ばれる、干潟の上に浮かぶヴェネチア島内では珍しく緑に覆われた公園に、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、ロシアなど、約30の国別パビリオンが建ち並ぶ。会場の雰囲気は、同じく19世紀に始まった万国博覧会と似たところがある。
 約30の国別パビリオンのうち、アジアでは、日本と韓国だけがパビリオンを持っている。日本館は、ル・コルビュジエに師事した吉阪隆正の設計、ブリヂストンタイヤの社長であった石橋正二郎の出資で1956年に開館した。
 「Cosmo-Eggs│宇宙の卵」は、服部が企画し、現代アーティストの下道のほか、作曲家の安野太郎、人類学者の石倉敏明、建築家の能作文徳の4人の「表現者」の協働によるグループ展である。下道が2014年から制作している「津波石」の映像や資料に、安野太郎の作曲によるリコーダーの自動演奏を組み合わせ、石倉敏明は「津波石」が数多くみられる沖縄や台湾等の伝承から新たな「神話」を創作した。それらの映像、音楽、テキストを同時に体験する展示を、能作文徳が、吉阪��正設計による空間を活かしながらまとめ上げるといった仕立てで、ヘテロトピア(混在郷)を想像するためのプラットフォームの実現を目指した、と服部から紹介があった。
 この「ヘテロトピア」は、東日本大震災以降、服部が考え続けているテーマを端的に表すキーワードのようだ。社会や政治的な問題を扱う現代アートの多くが「ディストピア(反ユートピア)」の表現になってしまっている。その一方で、近年、日本の芸術祭の多くで見られる地域の誇りの表現は「閉じたユートピア」と見ることもできる。服部は、「ディストピアでもなく、閉じたユートピアでもなく、現状を認めながら、今を乗り越えていく可能性としてのヘテロトピア」と説明する。また、共同体ではなく「共異体」という、日中韓の歴史を考えるために生み出された造語も紹介した。こうした服部の考えは、報告会を主催したLife&eat clubの代表津田多江子が、Life&eat clubを立ち上げた思いとも通じ合っていたようだ。服部はまた、日本館撤収のために滞在したヴェネチアがアクア・アルタ(高潮)に見舞われていたことに触れ、自然災害と共に生きること、すなわち、「共異体」の構成要素が、異なる職能を持つ人々の協働を意味するだけでなく、人と自然、人と無生物との共存までをも視野に入れたものであり、そうしたものとして、これからの混在郷のあり方、私たちの生き方を想像することを訴えた。「津波石」の圧倒的な存在感は、東日本大震災の津波によって気仙沼の市街地に打ち上げられた第18共徳丸の姿と響き合うものがあった、という下道の説明も、この「自然災害と生きる」というテーマの核心を突くものだった。
 新型コロナウイルスが発見され、日本でも感染が心配されるようになったのは、この報告会の後の話である。「with コロナ」を生きる私たちは、その後図らずも、日々、この混在郷の可能性を模索することになったと言える。
2022.02.28 
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
0 notes
cotlove · 2 years
Text
マルセル・デュシャンのチョコレート粉砕機について 中野良寿
マルセル・デュシャンのチョコレート粉砕機について
-あるいはマルセルデュシャンは何度でも蘇る-
美術家・山口大学教授 中野良寿
もうかれこれ三年前、コロナ禍前の年、Life&eat Clubの津田さんから連絡があった。Life&eat Clubの本拠地オルタナティヴ・スペースCotは私が代表を務めるN3 ART Labとは、山口市内でアートに関するオルタナティヴな活動をしている数件先のお隣さんである。その津田さんからぜひ現代アートの祖とも言われるマルセル・デュシャンのことを取り上げてレクチャーをして欲しいという依頼を受けた。デュシャンの研究者なら快く受けるところだろうが、デュシャンの研究者でもない一介の美術家にとっては荷の重い依頼であった。しかもデュシャンについては現代アートに関わる者にとっては大御所すぎる存在で、「今更またデュシャンかよ」という気持ちもあった。断ろうと思ったところ、Life&eat Clubの主旨から「食がらみ」の内容にしたい、どうしても「チョコレート粉砕器」(注1)について語って欲しいということだった。すぐに思い出したのは新潮美術文庫の表紙の《チョコレート粉砕機 No.2》である。  
この本の執筆者は美術評論家の中原佑介氏(1931-2011)で私の世代にとってデュシャンの入門書として皆が買い求めた本であり、その表紙なので目に焼き付いている。(図1)
Tumblr media
図1 2019年 MEDICAFE2019すてっぷ編「現代アート・レクチャー マルセル・デュシャンとチョコレート粉砕機」(講師:中野良寿)としてレクチャーを行なった。(出典:新潮文庫社「DUCHAMP」
デュシャンは多作な作家である。最も有名でセンセーショナルなものは、1917年ニューヨークのアンデパンダン展に出品されたレディメイド(既製品)の男性用小便器に“R.Mutt”という署名をしたものに「Fountain(噴水/泉)」というタイトルをつけたものだ。レディメイド(既製品)をオリジナル作品として出品したこの所業は、当時の審査員やメディアも含め、これは芸術か否かの論争が起こり、大スキャンダルとなった。出品された作品そのものは紛失してすでにもうないので、その後再制作されたコピーしか現在では見ることができない。このように様々な作品の周囲に様々な尾ひれがつく(現代ではSNSの炎上というところか)ことはデュシャンの作品の特徴の一つであるが、この《チョコレート粉砕機No.1》《チョコレート粉砕機No.2》という作品については特にセンセーショナルな作品ということではない。
ところで私個人の話をすると大学3年生の時、なけなしのバイト代を使ってアメリカに行った。それはフランクロイドライト建築が点在するアメリカの西海岸から東海岸へ。またマルセル・デュシャンのコレクションがあるフィラデルフィア美術館に行くことがテーマの海外旅行だった。当時大学の同級生はこぞってヨーロッパに出かけていたが、私はなぜかその頃フランク・ロイド・ライトとデュシャンがマイブームとなり、友人と一緒にアメリカに��ったことを思い出した。
お題としていただいた「マルセル・デュシャンとチョコレーと粉砕機」について述べよう。この「チョコレート粉砕機」については《チョコレート粉砕機No.1》と《チョコレート粉砕機No.2》がある。《チョコレート粉砕機No.1》においてデュシャンは子供時代にフランスのルーアンにあった菓子店で見た「チョコレート粉砕器」から発想を得て、独特の図像を完成させる。当時珍しかった回転する機械に纏わりつくチョコレートにエロティックな想像力がかきたてられたのだろう。(注2)また図像的には「チョコレート粉砕機」を時代遅れのルイ15世風の猫足テーブルの上に置き、「チョコレート粉砕機」の上部には円形ネクタイを配置し作品化した。
デュシャンのこの作品について前者(No.1)はキュビズムやシュルレアリズムの影響下の油絵の陰影や奥行きを踏襲しており、ボリューム感がある。しかし後者(No.2)においては糸を画面に直接貼り付けるやり方で幾何学的な要素を強調してボリュームや陰影を最小限に抑えて“図面的”に見える絵になっている。このことがその後の《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》(通称:大ガラス)の作品へとつながる。この大ガラスは、「独身者を表す下部」と「花嫁を表す上部」に分けられる。「チョコレート粉砕機」は当然下部の独身者の中心部分となっている。つまり「チョコレート粉砕機」は独身者の自慰的な側面も表しており、デュシャンにとっては少年期から青年期に至る精神性を表す非常に重要な作品/図像となっている。デュシャンはダダイズムの動向とも連動し、従来の油彩画の常識を乗り越えるためこの画面に糸を張るなど、様々な実験的な素材や作品を制作するが、「視覚を楽しませるだけの網膜的な作品表現」ではなく言葉とイメージの戯れを追求した作家であり思考を楽しむ手段としての美術を切り開いた点において現代美術のコンセプチユアル・アートの創始者の一人と言える。フィラデルフィア美術館にはその全貌が見られるコレクションがあり、《1.水の落下、2.照明用ガス,が与えられたとせよ》(通称:遺作)の作品までも一挙に見ることができる。それを見た当時の自分はある程度自分の中のデュシャンは腑に落ちた気がしていた(もちろんその後も事あるたびにデュシャンは気になる作家であったが)。その後驚くべきことに日本でもそのコレクションをみる機会があった。2018年に東京国立博物館にフィラデルフィア美術館から特別交流企画で「マルセル・デュシャンと日本美術」というタイトルでのデュシャン展が行われたのだ。当然見に出かけて30年前の思い出が蘇り、改めてデュシャンの世界観の奥行きと広さを味わった。
しかし今回のレクチャーは食をテーマにしたLife&eat Clubの津田さんの企画であり新たな切り口で語って欲しいという要望であった。この難問について、津田さんとの遣り取りで、さらりと概説することでは収まらず、チョコレートをカカオから粉砕して攪拌するところから再現してみようということになった(なんと彼女はチョコレート粉砕機・メランジャーを自前で持っているという)。そういう経緯で、オルタナティヴスペースCotにて実際にその様子を見せていただいた。(図2)(図3) 最近日本でもカカオの原産地に出かけて直接輸入し、チョコを作り販売する起業家が増えている。TVでもそういう店のこだわり具合を相次いで特集していた。しかしながら「チョコレート粉砕機」が動く様子はあまり見かけなかった。チョコの攪拌を生で見るのは私にとって初めての体験だった。回転するドラムやチョコの表面がなかなかいい。確かにエロティックな感情を喚起する気がする。
Tumblr media
図2 カカオ豆を砕いて細かいカカオマスに。
Tumblr media
図3 ココアバターを入れてよりなめらかに。撹拌すること17時間。なめらかで独特の質感になってく
ネットでその様子を探してみるとたくさんの動画が挙がっている。それぞれなかなかいい感じである。改めてデュシャンの《チョコレート粉砕機 No.1、No.2》を眺めてみる。するとここで気づくことがあった。津田さんの持っているメランジャーのドラムは2個である。しかしデュシャンの《チョコレート粉砕機 No.1、No.2》のドラムは3個なのだ。しかもチョコレートを逃す隙間が少なく、ドラムが大き過ぎる。なぜか、、、、しばらく考えた後、これでは勢いよく回転できない、機能的にチョコを攪拌するためにはドラムは2つで十分なのだ。つまりデュシャンは機能的に不具合のあるドラムを持つ「チョコレート粉砕機」をあえて構想した。また、それを支える台座もルイ15世の時代の家具調テーブルの脚は猫足で、しかも3脚しか見えない(ルイ14世が好んだ家具の脚はライオンのような堅牢な意匠が多い)。なんということだ、機能的で快適な回転する機械とは程遠い三連で重いドラムを上部に持ち、猫足で不安定な三脚のテーブルを持つ「チョコレート粉砕機」。デュシャンの屈折した内面が垣間見えた瞬間だった。30年前にわざわざフィラデルフィアまで行って、デュシャンをわかったつもりになって帰ってきた私は、その後デュシャンにとらわれずアートの先端的表現を模索しようとした。確かに様々な新しい表現にも影響を受けて、デュシャンから離れられた気がしていたが、この体験で新たにデュシャンからの息吹を直接吹き込まれたような気がした。美術史上のレジェンドからの謎かけは、現在でも廃れることなく、この先も何度でも蘇るのかもしれない。
-----------------
注1 chocolate grinderを画集によりチョコレート粉砕機、チョコレート粉砕器、チョコレート磨砕器と訳しているものがある。本稿では『デュシャン』 (新潮美術文庫49)に習い、チョコレート粉砕機とする。 注2 この《チョコレート粉砕機No.1》を発想するきっかけとして、1911年に制作した《コーヒー挽き》のドローイングにアイデアの端緒を見ることができる。
------------------
2022.02.28
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
0 notes
cotlove · 3 years
Text
"MediaCafe2019"text
Tumblr media
 「相手を変える、という考えを変える」
オープンしたばかりのcotに僕が寄稿した文には、「醸されるモニュメントについて」という捩じれたタイトルが付いていた。cotが人々の関係性を普通とはちょっと異なるやり方で掘り起こす事になるだろう、ということを予見した文章である。
 普通はモニュメントとは変化しないもの、多くは石や金属といった素材でできていて、それは「人間の一生に比べれば充分長い」寿命を持つ。人間の寿命は100年に満たないし、記憶というのは通常はもっと短い。モニュメントは例えば墓石のように"代々受け継がれる"ことを宿命づけられている。人間は忘れやすく変化しやすい生き物でもあるからこそ、モニュメントという「変化しづらい」ものを外部にとどめておくことが、時に必要だ。
 一方、醸す、発酵するということは、それに比べれば短い時間での変化といえる。菌が糖をアルコールへ変化させるのには100年も必要ない。発酵というプロセスはもっと短い時間、数ヶ月でも達成できる。発酵によって元々の素材はドラスティックに変化を遂げ、その変化によってもたらされた成果を、人間たちは享受してきた。人間は世界を人間中心に考える傾向がある。"発酵する"と"腐る"との間に科学的な違いはない。人間にとって有益か無益か、その違いを言い表しているだけである。素材を新しく入れ替えるのではない。発酵によって素材自身が変化するのである。
 数ヶ月でドラスティックに変化しているという事でいえば、ウィルスによって人類も大きく変化しつつある。2020年現在の我々は、人類史上最も速く大きく変化したとも言えるかも知れない状況にある。史上もっとも地球上を人が行き交う時代、飛行機をはじめとする高速移動手段を手に入れ、くまなくこの惑星上を移動できるようになった人の能力をテコにして、新種のウィルスは一気に拡散した。
 もちろん、これまでも人類は様々な疫病とともに"戦って"きた。しかし人と人とが交流する以上、"根絶"できる可能性は非常に低い。というよりも、歴史上人類はあらゆる感染症と共に生きてきたと言うほうが、事実に近いだろう。ここで強調しておくべきことは、人は恐怖に駆られて、慌てて見つけやすい"敵"を確定したがる、という事実である。実はその相手を見誤るべきではない。本当にウイルスが"敵"であるのかどうか?落ち着いて考えれらはしないだろうか。ウイルスの混乱に乗じて様々な憶測や恐怖が煽られてしまったり、特定の人々への負担や攻撃が集中してしまうことこそ、実際の恐怖だとは考えられないか。そうした災難に対しては、ウイルスを根絶するだけでは対処できない別の問題が潜んでいる。
 この原稿を書いている2020年4月段階では、確定的な診断技術も伝搬を断ち切るためのワクチンも確立していない。なので状況を楽観視しようと言いたいわけではない。ただ、アートがこの状況に何かの形で貢献できるとするならば、それは医学や疫学的な視点というよりも、人々の視野が凝り固まっている状況を解きほぐし、様々なスケールの視点を提供することであろう。cotが人々の繋がりを掘り起こしたり解きほぐしたりしていく場となっていたのは、ものすごく小さかったり、ものすごく長い時間であったり、つまり人間には見えづらい、または認識しづらい対象と付きあっていくための知恵を、アート的な視点によって醸し出していたからだと思う。
 遠い���来からこの時期を指して、人類そのものが見えない力によってドラスティックに発酵・変容していったようなものだ、と捉えるのは実際不謹慎な考えであろうか?
2020年4月
会田大也
Tumblr media Tumblr media Tumblr media
0 notes
cotlove · 3 years
Text
Cot Opening Exhibition「津波石」 text
Tumblr media
life&eatdesign2018.2.18
「醸されるモニュメントについて」
cotはもともと、40年前に建てられた古い木造の一軒屋だ。 建てられた当時はオイルショックはあったにせよ、直前まで60ヶ月近く続いたいざなぎ好景気の 流れや、第二次ベビーブームといった中で、多くのお父さん達が「一国一城の主」を目指してロー ンを組み必至に働いていた。世界は終わらない拡大再生産を続けていくかのようにみえた。
それから40年経った現在、価値観、働き方、婚姻の形式の多様性、医療技術の発達といった状況 によって、少子高齢化は課題でも問題でもなく、必然であり状況としてただ目の前にある。騒ぐ ことでも嘆くことでもなく、ここから何ができるのかを考えるための起点。これが、今年42歳に なる僕の見立てだ。 少子高齢化が課題になった時期はあった。1980年代にその課題に多くの人が気付いて対策をして いたら少子高齢化は現在より緩やかだったという試算があるそうだ。80年代、日本はバブルに浮 かれ、それどころではなかった。
僕は未来に対して前向きでいたい。変わらない状況を嘆き続けるぐらいなら、この状況のなかで どんな事をするべきなのか考えることの方が楽しく感じる。量や規模を目指すのではなく、質に 目を向け知恵を練っていくことこそ、日本に生まれた我々が創造性を発揮できる余地というもの だろう。世界のどこでもそんなことに知恵を絞っている人はいない。世界の課題トレンドは人口 爆発問題だ。
これからこの場所では糀のラボを作ると聞いた。直接的な意味でも比喩的な意味でも、この場で 展開していくことは、文化を醸(かも)すことだと思う。醸すということは量を増やすこととは 異なり、今ある素材を菌の力で変質させて、より美味しくて栄養価の高い食べ物や飲み物へと変 えていくことだ。つまり質の変化に主眼が置かれる。
質の変化というのは結果だけを比較すればその差は一目瞭然だが「変化の過程」というのは人間 の目で観察するのは難しい。cotのオープニング展覧会を飾るのはアーティストの下道基行だ。下 道作品は、僕の目にはいつも「モニュメントとその変化」を扱っているように思える。モニュメン トは、人が持つ「象徴を読み解く力」に依拠して成立している。モニュメントそれ自体が何かを表 現することはなく、人がモニュメントに見出してしまう、文脈と読み解く人間の関係によって、そ の存在が純化されていく。そしてその象徴される背後の意味すなわち読み解く人間の視点もまた、 時とともにゆっくり微かに質的な変化の過程を辿るという性質を持つだろう。
この場所が多くの人々の手によって、じっくりと文化を醸す場所へと変容していくのが今から楽し みである。
会田大也
Tumblr media Tumblr media
youtube
0 notes
cotlove · 3 years
Text
"D.I.Y.Cooking.Animation"text
Tumblr media
life&eat design 2010.3.23 @MAC
D.I.Y.Cooking.Animation
経験を創造に変換する ─日常的創作編集行為としての料理からアートを考えてみる─
“DIY Cooking Animation”、「なんのこっちゃ?」と思われるようなこのタイトル。「DIY = Do it Yourself」、「Cooking = 料理」、そして「Animation = コマ撮り映像」という一見なんの脈絡もない3つの要素をつなげたものです。料理という誰もが行う日常行為に少し異なったスパイスを加味して実践することで、編集的創造について考え、ひいては現代アートの能動的な鑑賞のための手掛かりを発見しようという目論見のワークショップでした。DIYと聞くと日曜大工などを想像する方も多いかもしれませんが、今回は文字通り「自らの手でやってみること」に焦点を当てています。目の前にたまたまある材料を用いて料理をすることで、「自分自身で考え発見する新たな視点や方法」を獲得しようと試みました。
お題は「おせんべいをもちいた料理とそのレシピづくり」。おせんべいは誰でも気軽につまむもので、基本的には完成された加工食品です。これを料理のためのメイン材料として夕食をつくり、その作り方の重要ポイントを写真で抑えてコマ撮りの映像レシピにしました。ワークショップには大きく2つ目指すものがあって、「物事を既成概念にとらわれることなく様々な方向から眺める柔軟な視点を獲得すること」、そして「編集的な感覚をもって身の回りの当たり前のことに創造性を発見すること」です。と思ったためです。
お題をおせんべいとしたのは、そのまま食べるのが当たり前と私たちが思い込んで疑わないせんべいを、もう一度よく観察しその可能性を引き出すことで新たな料理へと変換するという、異なった角度からの視点、すなわちオルタナティブな視点を参加者の方々にみつけてもらいたいなと思ったためです。ちなみに青森県に伝わる郷土料理に「せんべい汁」というものがあります。これはせんべいをけんちん汁のようなスープに入れてしまうという発想の転換の賜物のような、目から鱗の料理です。せんべいって通常はポリポリした歯ごたえを楽しみながら食べるものだと思い込んでいますが、せんべい汁はスープに入れてすこしふやけた食感を楽しんだり、あるいはもっとスープに浸して柔らかくして麩のようにして食べるもので、その思い込みを見事に打ち砕きます。こういう物事の思いもよらない可能性を引き出すことは、日々の生活においても非常に示唆に富むもので、実はアートが根本的に提示するものでもあります。30分弱の短いレクチャーで、当たり前と思われていることを異なった視点から眺めて価値を見出したり、疑問を投げかける現代アート作品や、ホストとゲストの相互関係で成立する茶室での振る舞いなど茶道の空間なども紹介しながら、料理と芸術の意外な関係を考えるように進めていきました。
ワークショップでは、ほんの一時間程度でせんべいラザニア、せんべいソースのパスタにせんべいのデザートと、バラエティに富んだ料理が登場しました。よく子供の自由な想像力や発想力はすばらしいと言われますが、今回は大人の経験を踏まえた創造力の見事さを実感する結果となりました。もちろんこどもたちも楽しく料理をし写真を撮影しましたが、大人のちからが特に冴えていました。
現代アートの楽しみ方にもつながることですが、経験から得た知識はなにかを創造するためには非常に重要だったりします。せんべいと参加者がもちよったありあわせの材料のみで新しいレシピをつくる料理は、それぞれが自身のなかに経験という名の引き出しをどれだけ持っていて、それをいかに組み合わせて提示できるかという、編集的創造力が非常に重要でした。アートは、その作品が持つ文脈を理解することで鑑賞が非常に豊かになるものです。そして鑑賞者が能動的に関わろうとすればするほど様々な視点や作品の価値が引き出されていきます。料理も素材やその背景にある物語を知ることで、どんどん可能性が引き出されていきます。レストランの完成された商品としてのレシピではなくて、日常生活でのそこにあるものによるオルタナティブな創造によるレシピ。それを魅力的に見せる方法としての写真の編集。
これは料理という誰もが実践している行為を素材として、編集的な視点をもって創造すること、そして様々な角度からものごとを捉えることを考えるという、ある種の現代アートとポジティブにかかわる根本的な態度を見出すためのワークショップでもあったのでした。もう一度繰り返すと、大人の日々の経験に立脚した創造力と編集力の見事さがよく引き出された時間で、こういう体験がアートをより積極的に楽しむ小さな手掛かりを掴める場としてどんどん広がっていけばと思います。ちなみに「おせんべい」というキーアイディアを最初にあげてくれたのは、MACのだいやくんとLife&eatclubのたえさんです。僕はおふたりのお力添えのもと、すこし視点を変えてそれを編集や創造の素材としてポジティブに読み替えてみたのでした。
服部浩之
https://lifeandeatclub.tumblr.com/post/45486307218/diy-cooking-animation-44427
youtube
1 note · View note
cotlove · 3 years
Text
"libraryradio archive exhibition@yamakitchen"text
Tumblr media
駅通りのYAMAKITCHENにて「ライブラリーラジオ・アーカイブー見えない風景ー」展。テキストは、本展の共催山口情報芸術センター[YCAM]から寄稿いただきました。
ーーーーーーーーーーーーーー
本展は、山口情報芸術センター[YCAM]が、約1年に渡り開催する長期ワークショップシリーズ「meets the artist(ミーツ・ジ・アーティスト)2011」の活動から始まった、「ライブラリーラジオ」のアーカイヴを公開する展覧会です。
2011年の長期ワークショップ「meets the artist 2011」では、東京芸術大学の桂 英史氏(図書館情報学)を講師としてお招きし、公募で集まった市民コラボレーターのみなさんと共に、YCAM館内に併設される中央図書館のローカルラジオ局として「ライブラリーラジオ」を開設しました。集まった市民コラボレーターのみなさんは、もともとメディア技術を使った表現や創造に直接的な関わりがなかったにも関わらず、基礎的な録音・編集技術の習得から初め、現在では、インタビューであれば、収録したその日のうちに編集を終え配信してしまうほど、ローカルラジオ局というメディアを使いこなしています。ワークショップの期間終了後も、市民コラボレーターのみなさん自身の手により、「ライブラリーラジオコミッティ」として、ラジオ番組の制作や配信にとどまらない様々な活動を展開してこられました。その活動内容は、トークイベント、展示、ワークショップなど様々な形に発展していきましたが、いずれの活動にも、「誰もが自らの手で配信できるパーソナルメディア」に対する強い関心や実験精神が含まれているように思います。
YCAMの長期型ワークショップ「meets the artist」は、このように1人または1組のアーティストや研究者である講師をYCAMにお招きし、市民コラボレーターのみなさんと長期的に協働することで、メディア技術や表現活動への深い理解を目指すプロジェクトです。それと同時に、ライブラリーラジオのように、コラボレーターのみなさんの活動が、私たちが思いもよらない方向へと発展していくことを意図し、自発的な活動を促すことを目指してきた企画でもあります。
3年に渡り継続されてきた「ライブラリーラジオ」の活動は、私たちの「meets the artist」の活動成果としても非常に意義のあるものだと考えています。
山口情報芸術センター[YCAM]
2015.3
Tumblr media
youtube
0 notes
cotlove · 3 years
Text
"memory kitchen"recipe
Tumblr media
Memory Kitchen〜料理から記憶を導く〜キャッサバワークショップ
このオペラシ・キャッサバ「キャッサバミュージアム」はアーティストのリム・コクヨン(右の水色エプロン)とヤップ・ソービン(左奥のブルーのエプロン)らによって2012年か らマレーシアを拠点に始まった継続的なプロジェクトです。マレーシアの歴史や文 化を象徴する食材としてキャッサバを取り上げ、ソーシャルネットワークシステム を介して、レシピや個人的な記憶を集めることにより、マレーシアの文化的なアイ デンティティの検証を行っています。
http://simply-simple.net/cassava/index.php/ project/
この度のMEDIA/ART KITCHEN YAMAGUCHI地域に潜るアジア:参加するオープンラボラトリー関連ワークショップでは、プロジェクトのきっかけともなったリム・コクヨンの個人的な動機でした。彼の祖母の語り(マレーシアに日本軍が占領し、キャッサバを主食と命じたという辛い彼女の体験談だったこと)そのネガティブな印象のキャッサバをつかった家族の為につくるキャッサバケーキをつくる調理の動き・香り・食べるコントラストからマレーシアの食文化への追体験を試みました。
イントロダクションでは映像メディアから特徴的なマレーシアの食文化・食材・調理過程を考察し日本人にはない調理の動きに意識的になることで浮き上がる差異と生活習慣に向き合うことを体験していきました。
現在を生きる私たちですが、過去を知らないことと通りすぎるのではなく過去の出来事それによって平常心を取り返すことがどれほど時間を要するかという現実。ワークショップが過去と現在に誠実に向き合う手だてとできたらとアーティストや井高さんYCAMのみなさんと一緒につくってきました。参加者のみなさんも加わりとても熱いアジアなワークショップとなりました。
参加者みなさんの感想は一部ライブラリーラジオ89.2MHZで放送されます。ぜひ聞きにいかれてください。
オペラシ・キャッサバ(キャッサバミュージアムYCAM版はこっち→http://opscassava.com)への投稿もお勧めしています。私もしました!
Tumblr media
memorykitchen2014.7.8
0 notes
cotlove · 3 years
Text
"Re-Fort Project 6 海を眺める方法 How to look over the sea/その先の眺め" text
Tumblr media
その先の眺め
皆既日食で薄暗くなった白昼の空に花火を打ち上げ、その風景を眺め、響き渡る音に聴き入ったのは2009年の夏だった。花火は北九州市和布刈公園の高台にある砲台跡地から打ち上げられ、我々は関門海峡を挟んだ下関側の戦争遺構跡がある火の山公園の展望台で、ビデオカメラを手にその様子を眺めていた。震災が起こる以前だったが、少し不吉な暗さをもつ空に美しい花火が散る様を眺めるのは、かつてあった、そしてこれからも世界のどこかで起こるかもしれない戦争について想いを巡らせ、日常生活が何らかの要因で突然途絶えてしまう可能性があることを意識するには充分な経験だった。下道基行を中心に僕も含め5人のメンバーが主催した《Re-Fort PROJECT 5─太陽が隠れるとき、僕らの花火が打ちあがる》の概要を書き出すとこんなところだろう。あれから既に5年が経過していた。
戦後放置された軍事施設の廃墟を探し出し、その新しい使い方を話し合い考え、そして実際になんらかの方法で使ってみて、また何事もなかったように元の状態に戻す、というのがRe-Fortの一連の流れだ。
日本の海岸線には、戦争のためにつくられた建築が役目を終え、姿を変えつつもまだ多数残存している。これらの建築の多くは実際に戦闘で使用されたことはほとんどなく、外敵の侵入を防ぐための監視の場、あるいは抑止力として機能していた。外敵を見張るために遠くまで眺められる必要がある軍事施設は、常に見晴らしのよい場所に設置された。この戦争建築がそもそも本質的に備える特性に着目したのが、《Re-Fort PROJECT 6─海を眺める方法》だ。兵士に替わって画家が、武器を絵筆に持ち替え、海を眺めその先にみえる風景を描く。絵画は風景を記録する方法として重要なメディアである。
この作品では、鋭い観察眼を持って風景を眺め独自に解釈して出力する専門家としての画家が風景を描く様子を、さらにその後ろから私たち鑑賞者が眺める構造となっている。兵士たちは海の先に存在するかもしれない外敵を必死に探していたのだろうか。あるいはその美しい風景にときに目を奪われていたのだろうか。眺めるための場所で、その当時とは異なった目的で異なった方法で眺めている画家の背後では、ほんの少しかつて様子を想像することができるかもしれない。遠くを眺めるための望遠鏡も戦争のために発展し利用されたのではと想像してみたり、女子中高生が着るセーラー服が元々水兵の服であったことが思い出されたりすると、意外と私たちの生活と遠くない地点に、戦争は常にあるということが見えてくるだろう。
戦争をきっかけに、眺めるという行為の本質的な可能性を問う本作を前にし、私たちはその先に如何なる未来を描出することができるだろうか。
服部浩之
:::::::::::::::::: 個展 exhibition Re-Fort Project 6 海を眺める方法 How to look over the sea 下道基行 Shitamichi Motoyuki 2014年8月7日ー9月21日 木日11:30-15:00 金土18:30-21:30 N3 ART Lab 山口県山口市駅通り 1-7-7 協力:秋山幸、多田友充 主催:Life&eat Club/共催:N3 ART Lab Re-Fort Projectは、砲台などの軍事施設の廃墟を再利用するプロジェクト。前回の第5回目は2009年関門海峡の砲台跡から打ち上げ花火を打ち上げ、その展示は山口市内で行なわれた。その続編となる本展時は、昨年度開催された森美術館での『六本木クロッシング』で発表され、この山口で再編集されインストールされる。
Tumblr media
0 notes
cotlove · 3 years
Text
"OpenKitche/Relation"秋吉台国際芸術村あーとルームtext
Tumblr media
飛躍の作法を発見する 
今回のワークショップをはじめて実施したのは2010年の冬くらいで、なんとなく震災以前だったように記憶している。MACに集まってくる人々と一緒に大人も子供も入り交じって料理を楽しむなかで、日々何気なく行っているなんでもない料理に焦点をあて、有り合わせの材料により限られた状況で料理をつくる過程に潜む、様々な知恵や創造力に少し意識を向けてみようということで、スープづくりのワークショップが考案された。スープというシンプルな料理は、シンプルである分、ぴりりとした隠し味を加えるなどほんの少しの匙加減により劇的に味が変化する。この劇的な変化、つまり飛躍のさせ方を考えてみようというのが、本ワークショップの重要なひとつのテーマだ。
物事が飛躍する瞬間というのは、眼から鱗が落ちるような体験と感動を与える。それは偶然が引き起こすこともあるし、人間の知恵や創造性が引き出すこともある。ワークショップでは、参加者全員が一品ずつスープの素材を持ち寄り、くじ引きでその野菜の加工法が決定される。ここで、りんごを輪切りにする、えのきを擂り下ろすなど、通常の料理ではほぼ絶対に起こりえない素材の扱いが発生する。
次に、参加者は自分の素材とその加工法にとって相性のよさそうな仲間を発見しなければならない。リンゴの輪切りと合体して美味しいスープになるのは、どんな加工を施される野菜なのか、それぞれが想像力を働か���、5人程度のチームを組む。チームが決まると、各具材とその加工法がすべて出そろう。通常のスープ作りではありえない素材の出会いが既に起こっている。通常では起こりえない状況だ。ここで、スープの味付けがはじまる。あるグループは最終的なスープの方向性をある程度思い描き味の方向を決定していくが、あるグループはなんとなく行き当たりばったりで少しずつ調味料を加えていく。正しい方法などもちろんないが、ものを「創造する」ことに少しだけ意識的になってみること、そしてこの状況にこの味を足したらどのような味が生じるか「想像する」こと、それが非常に重要になってくる。
スープというシンプルな料理をつくるために、最大限の回り道とあり得ない状況を設定されることで、ひとつひとつの行為に対して自覚的になれる。与えられたたくさんの偶然を整理整頓しながら、「おいしいスープをつくる」という目標に向かっていくなかで、スープの味をぐんと向上させるスパイスとなる隠し味を意識的に発見する。この創造に対する想像のちからが、物事を飛躍させる瞬間を生み出す。
アーティストがアーティストたる所以は、多くの人と同じものを眺めても、それを少しだけ違う角度から捉えたり、あるいは通常とは異なる扱いをしてみることで、何でもない事象に全く新しい価値を与え、物事や状況を大きく飛躍させるところにある。そしてその飛躍は、大がかりななにかから生まれるのではなく、料理におけるスパイスのように、ほんのささやかな隠し味を加えることで実現されるのだ。
本ワークショップでは、このようなアートやアーティストがもつ飛躍の作法を紹介すること、そして簡単なルールを設けて偶然の出会いを演出することで、何でもないスープづくりのひとつひとつの行程に意識的になり、創造活動における飛躍の瞬間を体験してもらうことを目的とした。そしてその経験は、日常生活におけるなんでもない行為をより能動的に楽しみ、創造の喜びを発見していくことにつながるのだ。
服部浩之
Finding a method of the leap
When I first carried out this workshop it was in the winter of 2010. I vaguely remember it was before the earthquake. Enjoying cooking together with people of all ages coming to MAC, this soup making workshop emerged with an attempt to look at variety of wisdom and creativities in the cooking process with leftovers by putting focus on everyday meal. Soup making is usually simple and that is why when special recipe is added the taste of the soup dramatically changes. One of the most important theme in this workshop is to think about the method of leaping, the dramatic change of the taste.
The moment that things leap gives us awakening experience and feeling. Coincidence may make it happen and human wisdom and creativity can also bring it about. In the workshop, all the participants bring one ingredient each and they decide the cooking process for vegetables by lottery. Here, abnormal cooking method for the ingredients emerges like cutting an apple in round slices and grating enoki mushrooms.
In the next step, the participants are asked to find teammate who can be compatible to their own ingredients and the cooking method. For delicious soup by mixing together with the round slices of apple, the participants need to use their imaginations to seek vegetables with specific cooking process and team up with 5 other participants. Upon making a team, each ingredient and the methods become clear. Here you can see unusual encounters of ingredients for soup making. It is totally unusual. Then, flavoring on soup begins. Some continue the cooking by imagining the completed soup and the others just continue adding condiment and seasoning little by little without any vision. Of course there is no correct method but it becomes important to become conscious about “creation” and about the taste by “imagining” which flavor should be added.
To make a soup, simple dish, under the given condition that requires detour for the completion of the soup, the participants can become self-conscious about each activity. By sorting out many of the given coincidence, they consciously find the hidden spices that enhances the taste when proceeding to the goal of “making delicious soup”. This power of imagination for such creation produces the moment of the leap.
The reason why artist is artistic is because they transform things and situation by adding completely new value on ordinary things by looking at them with different perspectives and approaches to them, even though they look at the same thing that ordinary people also look at. Then, such leap emerges not out of extraordinary attempts but out of small thing like the hidden spice in the cooking.
This workshop aimed to offer an opportunity to experience such moment of leap in creative activities by directing such coincident encounters under the given simple rules that makes each participant becomes aware of each process for such ordinary soup by introducing the moment of the leap that art and artists have. And, such experience leads us to discover pleasure of creation by actively enjoying ordinary acts in everyday life.
Hiroyuki Hattori
0 notes
cotlove · 3 years
Text
"cinema kitchen"text
Tumblr media
cinema kitchen「プロジェクトFUKUSHIMA!」×監督藤井光トークより
ぼくたちは食べ物に関して、何でも食べているとうわけでもなく、毎日選んでいます。まずは、どういうものを食べたいか。今日は中華や和食にするかなど。それだけではなく、こだわりのある人は産地を選んでみるなど、震災以降は産地を選ぶこと、それ以前からも食に関して舌が肥えている人も多く吟味することは自然に行われています。
食事をつくるつくり手もそれを享受する側も適当なものは淘汰されていくかなり厳しい面もあり、これは食べる側が舌が肥えそういう意識が高くなってきているからです。映像も毎日身体のなかに取り入れられているもので、それは生活の中のインターネット・街の中のディスプレイ・みんなの近所にあるYCAMなど、いやおうなく入ってきてしまうものです。そういう文化圏で生活している時に、映像についても吟味する能力や習慣はどこまであるのか考えたときに、意外に映像に関してはそんなに厳しくなくなんでも取り入れている状況であるように思います。
映像は、やはり目を開くと入ってきてしまうものであり一方的なメディアでもあるからです。映像を吟味する習慣・文化がもう少し発展していくとよいと思っています。その中で映像を吟味することを楽しんでいく習慣を考えてみます。食事と映像を比較しても差を味比べしていくことがあります。そうすることがよいとか、そうするべきではなく、実際に吟味すると幅もひろがり楽しいからです。比べて何が優性であるか劣性であるかではなく、セレクトできる状況を知ること、オピニオンの違いの落差が楽しめてくることで差異事態を感じて楽しむことができてくるからです。テレビから流れる映像には派手さ刺激物を身体に取り入れている状態に近くなり過剰な方向性にいって多様性とか幅といった感受できる味覚・視覚・聴覚の対応できる幅が狭くなってしまいます。本当はもっと可能性としては広いはずなのに。
レモスコープ(定点撮影・ズームなし・撮影時間1分)のような映像作品をみんなで観ていくととても楽しいのですが、それをテレビで流そうと考えると、刺激物をいっぱいとっている状態に近い身体は定点映像に耐えられない。ハリウッド映画のように展開のスピードのある映像と定点映像両者どっちにもついていける身体を養っていけるとよいと思っています。
藤井光(映像監督/美術家)
From a conversation with Hikaru Fujii about Cinema Kitchen “Project Fukushima”
About our food, we don’t eat whatever we can eat but rather we select it everyday. First of all, we question ourselves about what we want to eat. For instance, Chinese food or Japanese food? Beside it, for some people who have specific preference they select the producer. For some other people, they became more aware about the area of the productions after the earthquake. Then, for some who like richly tasty food they naturally carry out careful selections of food.
Producers and the consumers have gained higher awareness about taste through the intense selections of food by eliminating poor ones.
Images are also the ones that are to be consumed to our body and they are undeniable, like the ones in out life such as images on the Internet and displays in your neighborhood and the ones in YCAM. When we think about our ability and habits for careful selections of them, I surprisingly find that we consumed them without much difficulty. Images are the ones pouring into us when we open our eyes and they are one-way communicational media. I wish we improve our habit and culture for careful selections of images.
So, let’s think about habits to enjoy careful selections of images. When we look at food and images we can compare differences in them. Thinking about “should or should not”, careful selections of images give us wider understanding and more fun. This is not about superior or inferior but this is about getting to know out choice of selections of images and this gives us chance to see different opinions and we can enjoy such differences themselves.  When we watch TV it is like consumption of intense and stimulating images into our body and our sensitive abilities, such as taste, visual and hearing ability, decrease, even though these abilities are potentially much higher.
It’s probably interesting to watch together video work like ???????, fixed shooting, no zooming and 1 minute shooting. However, when broadcasting it through TV, our body can’t endure it since our body is full of consumptions of stimulating images. I hope we improve our body to catch up with both speedy images like Hollywood movies and images by such fixed shooting.
Hikaru Fujii (Film Director/Artist)
0 notes
cotlove · 3 years
Text
"tommorow kitchen ~our space for food"text
Tumblr media
life&eat design2013.6.29
制約が生む自由と表現
 アートのもつ創造性を介して、食や生活の場を豊かにしていこうと試みているワークショップ&レクチャーシリーズも3年が経った。これはアートに関心を抱く女性たちが中心となって、アート愛好者だけでなく子供を育てる母親なども対象とした食とアートにまつわる自主的な活動である。つまりそこで扱う「食」とは、レストランのような専門店においてサービスとして提供される完成された定型の食ではなく、予算や時間などすべてが限られた状態で毎日の生活を築くために必要不可欠な食だ。このシリーズで鍵となっているのは、ある種の「制約」である。制約があるからこそ生まれる知恵や創意に意識的になることで、日々の生活をより豊かにし愉しく生き抜く力を獲得しようということがこのワークショップの目的のひとつであると考えている。
 今回のテーマは「キッチンとダンス」。ほとんどなんの脈絡もないように思える「キッチン」と「ダンス」の共通点を考えると、「制約」と「行為」というキーワードが挙げられる。
 約10名の参加者に自宅キッチンの見取り図と写真を持参してもらい、普段どのようにキッチンで料理しているかをものの位置関係などを手がかりに考察していく。家庭のキッチンは限られた空間であることが多く、冷蔵庫や食器棚、調理器具などの配置により、料理の手順や動線がほとんど規定されてしまう。逆に言うと、如何に効率良く動きやすい動線を確保するかは、ものをどのように配置するかによってほぼ確定されるということだ。参加者には提示してもらった見取り図に基づいてどのように動いているかを説明してもらう。冷蔵庫と調理台の関係、手ふきやキッチンタオルの位置、包丁の収納法、鍋を掛けるか棚にしまうか等々、キッチンにおけるこれらの位置を聞くだけで、そこでの動きは容易に想像できてしまう。ものの配置は、キッチンの主が無意識のうちに決定しているルールであり、ダンスに置き換えると振り付けに相当すると言ってよいであろう。基本的にダンサーの動きは振り付けによって規定されており、その振り付けというルールを踏まえたうえで、ダンサー個別の身体性や表現力が大きな意味を帯びてくる。今回の講師のひとりである竹下暁子はダンスの制作やプロデュースを職業としており、その観点からキッチンでの人の動きを読み解く手法は非常に興味深いものだった。竹下は、即興のダンスにおいては環境により踊り手の動きを決めるルールがいかに規定されていくかを(ウィリアム・)フォーサイスとオハイオ州立大学のプロジェクトの《Synchronous Objects》という作品を例に挙げることで示し、キッチンにおけるものの配置などの環境がいかに人の料理法を規定しているかを考察していった。即興は、単なるその場の成り行きで生まれるものではなく、環境という制約に触発されて動きが発せられるのだ。それらは制限が生む作法といってもいいだろう。その環境により規定される無数の決断の積み重ねを徹底的にビジュアル化して分析し、ダンサー同士のコミュニケーションのパターンを抽出したのが《Synchronous Objects》であった。この作品とキッチンでの振る舞いの結果としての料理を結びつけてみると、キッチン空間をつくりあげた本人が、ほぼ無意識のうちにものの配置を決定し、自身の行為に対して無数の制約を設けその動きの流れを規定することで、ありとあらゆる可能な選択の連続において小さな創造性を発揮させる状況が定まり、その人ならではの美味しい料理がうまれるということだ。
 アートは「自由な表現」などとよく言われる。その「自由」とはなんだろう?アートとは一見なんでもありで、感情の赴くままにアーティストが「自由」に生み出すものだと思われているかもしれない。しかし、実はアーティストの表現行為も環境などの様々な条件が生む無数の制約を前提としており、その制約のうえで豊かさが生み出されているのだ。料理における隠し味のように、制限に触発されるささやかな一手が作品を大きく飛躍させるスパイスとなったりする。そう思うと、日々のキッチンでの定式化された振る舞いの連続に小さな違和を発見することに、豊かな創造が生まれるきっか��があるのではと思われる。誰もがもつ創造性は、実は「制約から生まれる自由の表現」に依るところが大きいのかもしれない。
服部浩之
0 notes
cotlove · 3 years
Text
"Kitchen2.0"text
Tumblr media
なんでもない日常とアートの結節点としての食事の場
生きていくためにもっとも重要なもののひとつに食事がある。食事は日々のなんでもない営みなんだけれども、必要不可欠なものだ。そのルーティンとしての食事をもう一度新鮮な視点で捉えなおし、日常を楽しく実践するためのツールとして、そこに潜むクリエイティビティを発見し再考しようというのがキッチン2.0の試みとして非常に重要なものであると思う。
現代美術においてもこの20年ほどで、観客とのコミュニケーションを重視したり、人と人との関係や日常のありかた自体をテーマとするリレーショナルアートなどと呼ばれる活動が様々なアーティストにより作品やプロジェクトとして提示されてきた。そんなリレーショナルアートの第一人者のひとりとされるリクリット・ティラバーニャは「食事とそれにまつわる関係性」をアートのなかに持ち込んだ作家だ。
彼はアルゼンチン生まれのタイ人で、外交官の父のもと様々な異なった環境の国々で少年時代を過ごした。そのため、海外にいれば外人であると感じ、タイに戻ってもそこでの生活経験もほとんどない外国人であった。なので彼は特定の場所への愛着心はほとんどなく、逆にどこにいても料理や食事などを介した人との出会いや会話など、普通の日常生活で誰もが経験することにもっとも本質的な関係を見出していた。
そこで彼はタイ風焼きそばパッタイを振る舞うプロジェクト《パッタイ》や、タイカレーを観客にサービスするなどを、アート作品を展示するギャラリーで料理をつくって振る舞いみんなで食事をすることをパフォーマンスとして実践したのだ。それによって、彼は普通の人々の日常にある食事を通じたなんでもないけれども必要不可欠なコミュニケーションの本質性を照射し、人間の日常的な行為をもう一度見つめなおし再考する手法を鮮やかに提示したのだ。
あたりまえの日常をちょっとだけ異なった視点で眺めてみることにより、本質的な関係性を見出すことができたり、あるいは他人の価値観や思考の多様性を認められないことにより地球上で日々発生している様々な問題を解決する糸口を提示できるかもしれないのだ。キッチンで引き起こされるちょっとした会話から、豊かな生活のあり方が模索できるならば、そんなに素敵なことはないだろう。まさに「日常の創造的な実践」としてのキッチン2.0である。
服部浩之
A place of meal as a connecting spot of everyday life and art
Meal is one of the most essential things for living. A meal is just ordinary activities in everyday life but it is essential. Investigating meals as our routine activity with fresh perspective on it, Kitchen 2.0 attempts to rethink creativity hiding in such routine with a meal as a tool which makes our routine joyful.
In the last 20 years of contemporary arts, artwork and projects by various artists have been presented that were categorized relational art which focuses on situation of everyday life and relationships between people with emphasis on communication with audience. One of the pioneers of such relational art is Rirkrit Tiravanija who brought an idea about “relationships about meal and relational art”. He is Thai born in Argentinea who spent his youth in variety of environments in different countries under his father, a diplomat. Because of that, he felt himself a foreigner while he is abroad and even when he returned to Thailand he was a foreigner who hasn’t had much experience there. So, he doesn’t have much specific attachment to any particular place and that’s is the reason why he found the most fundamental relationship in experiencing ordinary days such as encounters and conversation with cooking and meals.
So, he carried out “pattai”, a project to offer you Thai grilled noodles and Thai curry as artwork in gallery and demonstrate to eat them together as a performance. Because of this, he suggested a method to re-investigate our everyday activities by exposing fundamental quality of essential communication even though they are ordinary meals in our everyday by ordinary people.
By looking at ordinary activities in everyday life with a different perspective, you may be able too find fundamental relationships and may be able to suggest hits for solutions against a variety of problems that takes place everyday on earth because of disagreement of values and diversities of other people. If we can explore rich life from conversations in a kitchen it would be a wonderful thing. This is very much the Kitchen 2.0 as “creative demonstration in everyday life”.
Hiroyuki Hattori
life&eatdesign2010.12.25
0 notes