Tumgik
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トム・ヴァーレインのブックセールにて
アレックス・アブラモビッチ
昨年の夏、ブルックリンでこんなミームが飛び交った: トム・ヴァーレインのブックセールの会場でキスしたらどうなる? バンド「テレヴィジョン」を結成し、そのフロントマンを務めたヴァーレインは、2023年1月28日に死去した。彼は長年にわたり、アート、音響学、占星術、UFOなど、さまざまなテーマに関する5万冊、20トン以上の本を入手していた。ブルックリンの隣接するガレージで8月に2日間にわたって行われたこれらの本の販売会は、大変な人気だった。アヴァンギャルドポップ・ミュージシャンのアート・リンゼイが立ち寄った。トニー・アウスラーは短いビデオを撮り、インスタグラムに投稿した。旧友たち(中には数十年ぶりに太陽の下に出てきたかのような者もいた)が、長い行列の中にお互いを見つけた。
ヴァーレインは膨大なコレクションをいくつかの倉庫に分けていた。彼が暮らすチェルシーの1ベッドルームから歩いてすぐの場所に1つ、川向こうのゴワナス運河に近いレッドフックに4つ。ヴァーレインはウーバーを使わなかった。ブルックリンの方の倉庫に行くには、おんぼろの食料品カートを持ってF系統の地下鉄に乗り、街でいちばん標高の高い地下鉄駅であるスミス・アンド・ナインストリート駅まで行き、あとは徒歩で移動した。人ごみの中で、ヴァーレインは目立った。背が高く、痩せていて、きれいな姿をしていた。(「トム・ヴァーレインの首はロック界で最も美しい」とパティ・スミスは1974年に書いている。「本物の白鳥みたい」)。彼は一度もタバコをやめず、フィルム・ノワールの登場人物のようなカーコートを着ていた。しかしそんな彼がカートを押して階段やエスカレーターをガタガタと降り、ブルックリン・クイーンズ・エクスプレスウェイの下をくぐり、7車線の道路を横切り、レッドフックに向かっていた。本をどこかに運ばねばならなかったのだろう。
ヴァーレインはストランド書店の常連で、かつて出荷部門で働いていたこともあった。店の前の1ドル均一のカートのまえにいるところを見かけることもあった。ツアー中にはサウンドチェックから開演までの時間を利用して地元の書店を訪れた。ブルックリンでは、倉庫にあまりにぎっしりと荷物を詰め込んでいたため、彼の遺品整理を任された友人のパトリック・デリヴァズは、箱を動かすスペースを確保するためだけに別の倉庫を借りなければならなかった。テレヴィジョンの直近のギタリストだったジミー・リップは、1月にアルゼンチンからやってきたが、7ヶ月後にまだニューヨークにいて作業を手伝っていた。ブッシュウィックの書店「ベター・レッド・ザン・デッド」のデイヴ・モースとマティ・ディアンジェロも整理に参加していた。
モースは言う。「ふつう、『5万冊の本がある』と言う電話がかかってきても、行ってると500冊くらいなんだ。今回、僕らは箱を数えた。5万冊よりは少しだけ少なかったかもしれない。ヴァーレインはパッキングがとても上手だったからね。たくさんの詰め物が使ってあった。波形の段ボールを折ったりプチプチを使って、即席で巣のようなものをつくってある。がさつではあったけれどとても几帳面で、ほとんどの本は素晴らしい状態だった。僕らは計算し、自分たちだけでは無理だと悟って頭をかいた。そしてスペースを持っている知り合いのディーラーを考えた。
ディアンジェロはワシントンDCのキャピトル・ヒル・ブックスを思い出した。そこはブックストア・ムーバーズという姉妹会社を持っていて、トラックも調達できた。そのトラックはいま、ブルックリンのガレージの前にあって、デリヴァズがみている。中の本は「文学」、「詩」、「宗教」といったテーマ別に分類されている。ディアンジェロは、神話や神秘主義、オカルト、超常現象、スピリチュアリティを指す「MOPS」という新しいカテゴリーを作った。イスラム教の旋舞教団、アレイスター・クロウリー、アントン・ラヴェイに関する本が、チャップブック[17世紀ごろからの冊子]や料理本(ヴァーレインがコンロで作ったのはコーヒーだけだったが)、中国に関する本の隣に並んでいた。読書家として、ヴァーレインは心理学や過激な理論に思う存分傾倒した。しかし、何度も立ち返ったテーマがあり、興味がずっと昔にさかのぼるものもあった。ヴァーレインのかつての親友でありバンドメイトでもあったリチャード・ヘルは、2013年に出版された自伝『I Dreamed I Was a Very Clean Tramp』の中で、彼がとても若かった頃のことをこう語っている:
世界は彼にとって理解不能の異様なところと写っており、空飛ぶ円盤のようなものから、極端な陰謀論、不明瞭な宗教的神秘主義まで、あらゆる種類の非合理的な説明に影響を受けやすかった。彼は、これらの信念や疑念が多くの人々にとってクレイジーに映ることを知っていたし、それが彼が人前に出るのを嫌がっていた理由の一つだ。
ブックセールの数日後、私はリップとデリヴァズに会うためにレッドフックの倉庫まで歩いて行った。彼らはアンプ、スピーカー・キャビネット、真空管でいっぱいのユニットを見せてくれた。それもヴァーレインが収集したものだ。「曲のキーがE♭だと、トムは真空管を交換するんだ。ほら、ここに、彼が印をつけていたかがわかるだろう」
販売会場には『The Tube Amp Book(真空管アンプの本)第4版』というカタログが、ギオルギー・リゲティの伝記とブルーノート・レコードの歴史に挟まれてあった。私はいま、それを買わなかったことを後悔している。ヴァーレインはまだ製造が続いているスロバキアから輸送した新しい真空管を持っていた。eBayから入手した、あるいはeBayが存在する前に購入したヴィンテージの真空管も持っていた。何百という真空管を持っていた。
ヴァーレインは高価な機材には手を出さなかった。(ルナ・アンド・ギャラクシー500のディーン・ウェアハムは、ヴァーレインがかろうじて弾ける12弦のエレキを持ってスタジオに現れ、それを見事に弾きこなしたことや、ヨーロッパ・ツアーを全く機材を持たずに行い、各都市で新しいストラトキャスターをレンタルしたことを覚えている)。しかし、彼は自分のトーンにこだわった。ジェフ・ベックのように、アンプに直に接続し、ギターのボリュームとトーンのノブを操作して、他のプレイヤーがエフェクターのペダルでしか作れないようなエフェクトを得ることができた。彼はおそらく、どこまでも繊細だったのだろう。リップは彼らのサウンドチェックの一コマを振り返った。「トムが弾くのをやめて『ブーンという音がする』と言った。俺らには何も聞こえなかったけれどトムは言い張った。俺らはその音の元を探して、やっと会場のうしろのほうで見つけたんだ。その下まで行かなければわからなかったのに、トムはステージから気づいたんだ」
「トムは非常にガード固かった」とヘルは自伝に書いている。「防御が強いんだ。それには良いことも悪いこともある。それは彼にある種の整合性を与えた。流行に流されることはなく、慎重で信頼できた。でもそのせいで一緒に仕事をするのは本当に難しかった」。しかし、6年ほどの間、ヴァーレインとヘルは(ふたりは一緒にデラウェア州の高校を飛び出し、ニューヨークで再会していた)同じアパートに住み、同じダブルのマットレスで眠り、「テレサ・スターン」として一緒に詩を書き、ヘルが主宰する詩誌『ドット』から出版した(彼が最初に出版したのはアンドリュー・ワイリーの詩集だった)。
1972年、ふたりはバンドを結成した。ヴァーレインはサード・アベニューの質屋でベース・ギターを選び、ヘルに基本を教えた。髪を切り、名前を変え(「マイヤーズとミラー」から「ヘルとヴァーレイン」に)、ネオン・ボーイズと名乗り、ビリー・フィッカを加入させた。数ヶ月間、彼らはヴァーレインのアパートでリハーサルをした。アンプやセットを買う金はなかった。ジャズ志向の優秀なドラマーだったフィッカは、代わりに電話帳でドラムを叩いた。ヘルは「Love Comes in Spurts」、「Blank Generation」、「Eat the Light」など数曲を書いた。ヴァーレインは「Bluebirds」、「$16.50」、「Tramp」を書いた。彼らは『ヴィレッジ・ヴォイス』紙に「ナルシストなリズム・ギタリスト募集、最低限の才能があればOK」という広告を掲載し、何人かがオーディションを受けた(ディー・ディー・ラモーンになったダグ・コルヴィンや、ブロンディを結成することになったクリス・スタインもいた)が、誰もフィットしなかった。1973年になっていた。ヘルとヴァーレインは13番街にある小さな店、シネマビリアで働いていた。マネージャーのテリー・オークは、チャイナタウンのロフトに寝泊まりしていたリチャード・ロイドを推薦し、ロイドを2人目のギタリストに迎えて、彼らはバンド名をテレヴィジョンに変えた。
CBGBのオーナーであるヒリー・クリスタルは、彼のクラブでカントリー、ブルーグラス、ブルースのバンドを取り上げようと計画していた。テレヴィジョンをマネージメントするようになったオークは、代わりに自分のバンドを演奏させるよう彼を説得した。徐々にひとつのシーンが形成されていった。テレヴィジョンはリチャード・ウィリアムズとブライアン・イーノとデモを録音した。もしヴァーレインがイーノのサウンドを嫌っていなければ、イーノは彼らのファースト・アルバムをプロデュースしていただろう。ヴァーレインは、イーノがそのテープをイギリスに持ち帰ったと確信していた。ロキシー・ミュージックの次のアルバムのグルーヴの中に、自分のアイデアが入っているのが聴こえたと思っていたのだ。それが事実かどうかは別として、同じ頃、マルコム・マクラーレンとヴィヴィアン・ウエストウッドは、とんがった髪、破れたTシャツ、安全ピンといったヘルのルックスや態度をコピーし、セックス・ピストルズにあてがった。ヘルは回想する。「俺らの演奏はまるで反逆のスクラップが転がり落ち、ぶつかり合う音みたいで、同時にそれを遠くから眺めているみたいに美しくて胸が張り裂けそうでもあった。感動させられ、揺さぶられ、目を覚まさせられた」
しかし、テレヴィジョンがファースト・アルバムをレコーディングする頃には、バンドはそのメンバーではなくなっていた。ヴァーレインは、徐々に、そしてその後は徐々にではなく、ヘルとヘルの曲を脇に追いやった。『Marquee Moon』を何年もリハーサルして手を入れ続け、���え続け、それは1977年、ヘルの脱退から2年後に発表された。ヘルの代わりにフレッド・スミスがベースを弾いていた。曲はより慎重に構成され、短編小説のように構成された。ヴァーレインはジョン・コルトレーンとアルバート・アイラーを愛し、彼のレコード・コレクションの大半はESPやインパルスといったレーベルのジャズ・アルバムで占められていた。しかし、コンサートでも、テレヴィジョンがノイジーで自由だった頃、ヴァーレインとロイドが奏でる連動したソロは高度にアレンジされていた。ウィリアムズはそれを「金線細工を施された」と表現した。
彼らの曲は文字通り「文学的」だった。ロックンロールではめったに美徳とされないことだが、ヴァーレインにははまっていた。彼は手がかりや警官、裏切り者、その他ハードボイルドな小物でいっぱいの探偵小説を書き、それを打ち砕いているかのようだった。『Marquee Moon』に収録されている8曲のうち5曲は、夜に起こる物語を歌っている。4曲は過去形と現在形を行き来している。ヴァーレインの描くイメージにははっとさせられる。「素敵な小舟が欲しい/海でできた小舟」、「世界はとても薄かった/俺の骨と皮のあいだで」、「思い出す/雷が雷自身に落ちたのを」。
しかし、パンクの先駆けとなったテレヴィジョン(ヘルが所属していたときのグループ)がアナーキーで、1977年のテレヴィジョンがほとんどプログラムされたようにコントロールされていたとしても、両者を異なるバンドと考えるのはまちがいだし、ヘルとヴァーレインを正反対の人物と見るのもまちがいだ。ヴァーレインの歌声は神経質で切迫していた。彼のアルバムはやはりパフォーマンスであり、素早く録音され、多かれ少なかれライブだった。奇妙で、絶望的で、すばらしかった。1曲目の終わりに「愛する人と未来を引きずり降ろせ」とヴァーレインは10回続けて歌っている。彼とヘルには共通の恍惚感があった。
もちろん彼らは憎み合っていた。「あいつには我慢できない」とヴァーレインは言い、ヘルも手加減しなかった。しかし、『I Dreamed I Was a Very Clean Tramp』のエピローグで、ヘルはほんとうに久しぶりにヴァーレインに会ったときのことをこう語っている:
このあいだ、レストランから家に帰る途中、古本屋の前でトム・ヴァーレインが安売り本の箱を漁っているのを見かけたんだ。俺は彼に近づいて、「空飛ぶ円盤について何かわかったか?」と聞いた。
ヘルはヴァーレインの歯(俺の歯よりもっと悪い」)、顔(「でこぼこで膨張している」)、髪(「白髪まっしぐら」)を描写している。
俺は背を向け、ショックを受けて歩き去った。俺たちはまるで2匹の怪物が打ち明け話をしているようだったが、ショックを受けたのはそのことではなかった。俺が愛を感じたからだ。俺は彼に感謝し、彼を信じ、自分の中で、彼がありえない人間であり、彼を好きになることがありえないことを肯定した。それまでもずっとそうだったのだ。俺はこれまでと同じように彼を近くに感じた。彼のような人間以外に何を信じればいいのだろう? なんてこった、俺は彼と同じなんだだ。俺は彼だ。
ヴァーレインの本は、Better Read than DeadやCapitol Hillのサイトでまだ購入できる。彼のレコード・コレクションは、そのうちグリーンポイントとイースト・ヴィレッジのアカデミー・レコード別館で販売されるだろう。その本やレコードははいまとはちがう時代、いまとはちがう街を思い出させる。書店やレコード店が遅くまで開いていて、CBGBで夜遊びした後でも店を覗くことができて、そこで手に入るものは安かったし、それを保管するのに必要なスペースも安かった。たとえ書店で働いていたとしても、その金でオフセット印刷機を買って自分で詩の版元を始めたり、ソーホーにロフトを見つけて自分のバンドを始めたりできたのだ。
2024.3.4
ロンドン・レビュー・オブ・ブックスに掲載
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日本における人種的プロファイリングは蔓延しているが、目に見えない、と一部の住民が指摘
日本における人種的プロファイリングは蔓延しているが、目に見えない、と一部の住民が指摘
専門家によれば、外国生まれの住民に対する警察の差別に関する日本初の訴訟は、システムとしての問題を浮き彫りにしている。
「あなたの髪型が悪いというわけではありません」と、東京駅で通勤客が行き交う中、警察官は黒人青年に丁寧に説明した。ただ、彼の経験によれば、ドレッドヘアの人は麻薬を所持している可能性が高いというだけなのだ。
アロンゾ・オモテガワさんが、2021年に自身が職務質問をされた時のビデオは、日本における人種的プロファイリング[racial profiling, 人種による取締り差別]についての議論と、警察内部での見直しにつながった。しかし彼にとっては、13歳のときに初めて取り調べを受けたときに始まった、長年の問題の一部だった。
日本人とバハマ人のの間に生まれ、日本で生まれ育った英語教師のオモテガワさん(28歳)は、「彼らの中では、ただ自分の仕事をしているだけなんです」と語る。
「私はあるがままの日本人と同じで、ちょっと日焼けしているくらいです」と彼は付け加えた。「すべての黒人がドラッグを持っているわけではありません」。
出稼ぎ労働者、外国人居住者、混血の日本人の増加により、伝統的に均質であった日本社会が変化し、部外者に対する根強い猜疑心が試される中、日本では人種的プロファイリングが火種となってきている。
世界有数の高齢化社会と如何ともし難い少子化を背景に、日本は制限的な移民政策の見直しを余儀なくされている。記録的な数の出稼ぎ労働者が日本にやってくる中、ホテルの部屋を片付けたり、コンビニのレジを打ったり、ハンバーガーをひっくり返したりしている人々の多くは、ベトナム、インドネシア、スリランカなどの出身者だ。
しかし、日本に住む外国生まれの人々は、彼らに対する社会的態度の適応が遅れていると言う。今年1月、3人の外国人住民が、日本政府と、東京都と愛知県の自治体を相手取り、警察の対応をめぐる訴訟を起こした。原告らは、人種的な外見を理由に、無作為の職務質問や捜索を定期的に受けてきたと述べた。
この裁判は、警察官が日常的に人種的プロファイリングに基づいて取り締まりを行っていることを主張する日本初の裁判であり、原告や専門家は、日本の一般市民はほとんどこの問題に気づいていないと述べている。
帰化した1人と長年日本に住んでいる2人、合計3人の原告はそれぞれ、年に何度も職務質問を受けてきたと語った。そのうちの1人、日本に20年以上住んでいる太平洋諸島出身者は、警察におそらく70回から100回質問されたとしている。
原告側の代理人である谷口モトキ弁護士は、日本ではすでに現実のものとなっている状況に対して、認識が追いつくのが遅れていると述べた。
「多くの日本人はまだ、日本は均質な国であり、移民は社会を壊すから受け入れるべきではないという幻想の中にいます」と彼は言う。
オモテガワさんのビデオが大きな反響を呼び、東京のアメリカ大使館が人種的プロファイリングについてアメリカ人に警告を発した2021年、日本の警察庁が認めたことと、谷口氏のクライアントの体験は食い違っている。警察庁によれば、約300万人の外国人居住者がいるこの国で、人種的プロファイリングが行われたのは前年はわずか6件だったという。警察当局は、警察官は(その6件についても)「差別的意図」なしに行動しており、合理的な疑いがある場合にのみ質問するよう訓練されている、と警察官を擁護した。この訴訟についてはコメントを避け、プロファイリングに関する最新の統計は持っていないと述べた。
この訴訟は、各原告に約22,000ドルの損害賠償と、人種差別的な警察の取り調べが日本の法律に違反することを認める判決を求めるもので、警察内部のガイドラインの中には、プロファイリングを明確に奨励するものがあると述べている。その一例として、2021年に愛知県で作成された警察の訓練マニュアルを挙げている。このマニュアルでは、外国人を呼び止めて尋問するために、麻薬、銃器、入国管理に関する法律を活用することを奨励している。
この訴訟で引用された下士官向けのマニュアルをニューヨーク・タイムズ紙が確認したところによれば、そこには「何でも通用する!!」と書かれていた。「一見して外国人に見える者、日本語を話せない者は、例外なく何らかの違法行為を犯したと固く信じるべきである」
愛知県警は、その具体的なマニュアルが現在使用されているかは「確認できない」としている。
東京弁護士会が2022年に行った調査では、日本に住む外国人のおよそ10人中6人が、過去5年間に職務質問を受けたことがあると答えた。この調査は外国人住民のみを対象としており、一般的な日本国民との比較は行っていない。何人かの外国人居住者は、警察のプロファイリングは普遍的なものだと感じているとインタビューで答えている。
ウパディヤイ・ウケシュさん(22)は、14歳の時に父親と一緒にネパールから日本に来た。2017年、まだ10代だった彼は、通学途中に呼び止められ、4人の警官に両手を挙げさせられ、バッグの中を調べられたという。彼らは鉛筆、消しゴム、ノート、教科書だけを見つけ、彼を帰らせた。
現在、大阪のホテルで働き、約50人のアルバイト従業員(その多くは日本人ではない)を監督しているウケシュさんは、プロファイリングはそれ以来、定期的な迷惑行為になっていると語った。最近も、路上でガールフレンドを待っていたところ、2人の警官に身体検査を求められたという。
「黙って検査をさせました。でも、理由もなく持ち物をチェックされるのは本当に嫌なんです」。
東京で食料品店の店長を務めるチャン・トゥアン・アンさん(35歳)は、10年前に語学留学生としてベトナムから初めて日本に来たが、年に1、2回は警察に呼び止められるという。一度だけ、電車を乗り換えようと急いでいるところを警官に追い詰められたことがある。最近の刺殺事件に関わっていたと疑われたようだという。
「彼らは私を外国人だと思って追いかけてきました。私が逃げられないように一人の警官が私の前に立ち、もう一人の警官が私の後ろに立っていました」
大阪大学社会学部教授の五十嵐アキラ氏は、日本では個人の態度が変わっても、警察のような官僚組織はより硬化していると指摘する。警察官は、犯罪は移民に多いという誤った前提に基づいて行動しているように見える、と彼は言う。
「日本の警察は、これが差別であることを知らないのです」と彼は言う。
オモテガワさんを含め、少数ではあるが増えつつある他民族出自や帰化した日本人にとって、このような体験は特に衝撃的だ。
スリランカ人の母と日本人の父の間に生まれた永井ローラさん(31歳)は、フィットネス・インストラクターとして出勤する途中、警察に何度も呼び止められ、職務質問を受け、遅刻してしまったという。彼女の上司や同僚は、このようなことがあまりに定期的に起こっていることを信じられず、彼女を信じなかったようだ。
彼女は、最近の訴訟に関する報道で人種的プロファイリングという言葉を知り、大人になってからの人生の大半で経験してきた不安な体験をどう呼ぶのかわかったという。
「日本の普通の人たちは、こんなことが起こっていることを知らないと思います」と永井さんは言った。
ヴィクトリア・キム、ヒサコ・ウエノ
ニューヨークタイムズ紙に掲載
2024.3.4
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ロシアはなぜナワリヌイを殺したのか
反体制派のリーダーは、獄中にいてさえ、腐敗したロシアの独裁者にとって脅威だった
アン・アップルバウム
アレクセイ・ナワリヌイは2021年1月にロシアに帰国した。飛行機に乗る直前、彼は『プーチンの宮殿——世界最大の賄賂の物語』と題する動画をYouTubeに投稿した。約2時間に及ぶこのビデオは、調査報道の並外れた偉業だった。ナワリヌイのビデオは、極秘の設計図、ドローン映像、3Dビジュアライゼーション、建設労働者の証言などを駆使して、13億ドルもする恐ろしい黒海の別荘について語っている。そこには水タバコのラウンジ、ホッケー用のリンク、ヘリコプターの発着場、ワイン用の葡萄畑、牡蠣の養殖場、教会など、独裁者が想像しうるあらゆる贅沢があった。ビデオはまた、実際の所有者であるウラジーミル・プーチンに代わってこの宮殿を建設するために費やされた、目もくらむような費用と財務上の策略についても説明していた。
しかし、このフィルムのパワーは、映像や、使われたお金の説明だけにあったわけではない。その力は、フィルムのスタイル、そこにあったユーモアやハリウッド・レベルのプロフェッショナリズムにあり、その大部分はナワリヌイ自身によってもたらされていた。それがナワリヌイの才能だった。彼はクレプトクラシー(窃盗政治)のドライな事実、つまり優秀な金融ジャーナリストでさえ辟易するような数字や統計を、エンターテインメントに仕上げることができたのだ。フィルムの中で、彼は普通のロシア人と変わらないように見える。時には接待の規模に衝撃を受け、時には悪趣味を嘲笑う。彼は他の普通のロシア人にとってリアルな人間に写り、彼らの生活に関連する話をする。あいつらがホッケーリンクや水タバコのバーを持っているせいで、あなたがたはひどい道路と粗悪な医療を被っているのだ、と彼はロシア人に語った。
そしてロシア人は耳を傾けた。この動画が公開された1か月後にロシアで行われた世論調査で、ロシア人の4人に1人がこの動画を見たことが明らかになった。さらに40%が動画のことを耳にしたことがあった。それから3年が経過し、この数字は上昇したと推測していいだろう。現在までに、この動画は1億2900万回再生されている。
ナワリヌイは現在、死亡したと推定されている。ロシアの刑務所によると、数か月間の体調不良の末に倒れたという。おそらくはもっと直接的に殺害されたのだろうが、詳細は重要ではない。ロシア国家が彼を殺したのだ。プーチンが彼を殺した――その理由はナワリヌイの政治的成功、人々に真実を伝える能力、そして今や彼の同胞、そして我々の同胞の一部をも曇らせているプロパガンダの霧を打ち破る彼の才能にあった。
彼はまた、それまでに2度も毒を盛られ、逮捕されることがわかっていた中で、2021年に亡命先からロシアに戻ったために死んだ。そうすることで、彼は自分を普通のロシア人から別のものに変容させた。市民としての勇気とはどんなものでありうるのか、それが非常に少ししか存在しない国において示す、モデルとなった。彼は真実を語るだけでなく、それをロシア国内で、ロシア人に聞こえる場所で行いたかったのだ。当時、私はこう書いた: 「ナワリヌイが同胞に勇気の示し方を見せているのであれば、プーチンは勇気が無駄なものだと示したいのだ」
プーチンがまだナ��リヌイを恐れていることは、12月に政権が彼を遠い北極圏の刑務所に移し、友人や家族との連絡を遮断したことで明らかになった。彼は多くの人々と連絡を取っていた。私は彼が獄中から発したメッセージをいくつか目にしている。それは弁護士や警察官や看守を通して送られていた。かつてスターリンのソビエト連邦で、収容所の囚人たちがメッセージを送ったのと同じように。彼は、ロシアの汚職を調査し、国外からであってもロシア人に真実を伝え続けるロシア亡命者のチームである「反汚職財団」の精神的支柱であり続けた。(私はこの財団の顧問だったことがある。)今週初め、倒れたとされる前に、彼はテレグラム [*チャットアプリ] で妻のユーリアにバレンタインデーのメッセージを送っている:「僕は君がどの瞬間もそこいることを感じ、ますます君を愛している」
ロシアに戻り、刑務所に入るというナワリヌイの決断は、彼を好きでない人、彼に同意しない人、彼に欠点を見出す人にも尊敬の念を抱かせた。彼はまた、世界中の他の暴力的な独裁国家の反体制派のモデルでもあった。彼の死が発表されたわずか数分後、私はベラルーシの野党指導者であるスヴャトラーナ・ツィハノウスカヤと話をした。「私たちも国民のことを心配しています」。もしプーチンがナワリヌイを平気で殺すことができるなら、他の国の独裁者たちは他の勇敢な人々を殺す力を得たと感じるかもしれない、と。
ナワリヌイの市民としての勇気と、プーチン政権の腐敗との間には、途方も無いコントラストが残るだろう。プーチンは、彼自身の自己中心的なビジョンを追いかけるという意外に根拠ない、血なまぐさい、無法な、不必要な戦争を戦い、何十万人もの普通のロシア人が死傷している。彼は、卑怯で緻密に管理された再選キャンペーンを展開している。真の対立候補はすべて排除され、メディアに出るのは彼だけというキャンペーンだ。現実的な質問や挑戦に対峙する代わりに、タッカー・カールソンのような飼いならされた宣伝家たちに会い、長ったらしい、回りくどい、完全に間違った歴史の解釈を提供するだけだ。
獄中でさえ、ナワリヌイはプーチンにとって真の脅威だった。なぜなら、彼は勇気が可能であること、真実が存在すること、ロシアが今とは異なる類の国になりうることを示す生きた証拠だったからだ。嘘と暴力のおかげで生き延びている独裁者にとって、そのような挑戦は耐え難いものだった。今、プーチンはナワリヌイの記憶と戦うことを余儀なくされており、プーチンがその戦いに勝つことは決してないだろう。
2024.2.16 アトランティック誌に掲載
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ロワー・イーストサイドの民俗史家
この40年間、この界隈の最も粘り強いアーティスト兼アクティビストだったクレイトン・パターソンのこと
ーーミス・ローゼン、2023.7.8
アーティストであり民間歴史家のクレイトン・パターソンは同じロワー・イーストサイドの店構えに40年間住んでいる。道に面した大きな窓のすぐ内側にある古い布張りの椅子に座って、視線を集めているから、すぐわかる。トレードマークの銀色の髭が胸まで流れ、微笑むスカルがついたオリジナルのクレイトン・キャップをかぶっている。74歳のパターソンは、あまりに長いあいだロワー・イーストサイドでこの場所を題材にしたアートをつくってきたので、ここの歴史と自分の人生とが切っても切れない状態になっている。10年ほど前、彼はこの界隈を出て行きそうになった。ジェントリフィケーションの進行の速さ、行きつけの場所の閉鎖、親しい友人の死などに嫌気が刺したのだ。タイムズ紙は彼が去ることを「マンハッタン最後のボヘミアン」が退場すると記し、一時代の終わりだと告げた。しかし結局パターソンはそこにとどまった。
写真キャプション: ・クレイトン・パターソン。2023年7月6日、自宅にて。 ・ニューヨーク市警が武装した警官を乗せた車両を「ブレット・スペース」(ロワー・イーストサイドのアーティストコレクティブ兼ギャラリー)の前に止めたことに抗議して作られた段ボールの戦車 ・意識がない様子の人をチェックする警官 ・放置されていることに抗議して放火された公衆トイレ ・伝説のミュージッククラブ、CBGB
カナダのアルバータ出身のパターソンは、最近私に自分の出自を「労働者階級の悪い方の端っこ」だ説明した。15歳で家を出ると、その後15年をさまざまな美術学校の学生や教師として過ごした。1979年にパートナーであるアーティストのエルサ・レンサアと共にロワー・イーストサイドに来ると、地主が手を回した放火、政府による差し押さえ、そして10年間にわたって「見て見ぬふり」をされてきたことによって、この移民たちの小さな居住区は廃墟と化した建物と捨てられた注射針が散見される場所になっていた。しかし、ニューヨーカーはなにもない場所を放ってはおかない。この界隈の安い不動産を目指して、すぐに不法占拠者やアーティストや社会ののけ者たちが群がってきた。パターソンはレンサアに贈られたペンタックス125SLRを持って道を歩き始めた。そしてセックスワーカーや詩人、学校に通う子供たちやパンクスなど、ロワー・イーストサイドを自分たちの街と呼ぶ人々の写真を撮り始めた。カメラは街の扉を開く鍵となり、そうでなければ行かなかっただろうところにパターソンを導いた。ピラミッドクラブのドラアグクイーンやハードコアのショー、ストリートの過激な抗議行動、CBGBやブレット・スペースなどのローカルなランドマークやアートイベント。その中には自分の指を切り落としたパフォーマンスアーティスト、ロジャー・カウフマンのイベントもあった。パターソンの写真は、コミュニティの赤裸々なタイムカプセルとなった。彼のロワー・イーストサイドでの生活を記録した「Captured(撮った!)」と題された2008年のドキュメンタリーで、パターソンは「ストリートを眺めているのは、水族館にいるのと似ている。通りを見ていればこういう活動がいつだって見えるんだ」と語っている。
写真キャプション: ストリートの撮影に出かけようとしている、パターソンのパートナーであり、クリエーティブ・コラボレーターのエルサ・レンサア
1983年にパターソンとレンサアはエセックス通り161番地を購入した。以前は仕立て屋が入っていた2階建ての建物だ。それから、生活費を稼ぐために「クレイトン・キャップ」を製作した。それは1986年にリリースされた、おそらく初のデザイナー・ベースボールキャップだった。その界隈から急速に消滅しつつあった衣料品産業から救い出して再利用した機械を使って、レンサアが刺繍のパターンをつくった。これがアーティストや著名人の間で大ヒットし、ジム・ダイン、デイヴィッド・ホックニー、ミック・ジャガー、マット・ディロンなどが顧客になった。その同じ年に、パターソンとレンサアは自分たちの店先をギャラリーに改装し、そこでジェネシス・P・オリッジ、テイラー・ミード、クエンティン・クリスプ、ダッシュ・スノーなど、地元の才能の展覧会を開いた。パターソンはギャラリー正面の窓を「ホール・オブ・フェーム(殿堂)」に変え、自らのポートレート写真シリーズ「ウォール・オブ・フェーム」を週替わりで展示した。被写体はほとんどが近所の住民で、グラフィティで埋め尽くされたギャラリーの壁の前でポーズをとっている。
写真キャプション: ・少年と彼のペット ・ポーズをとる若い女性 ・歩道に立つ若者 ・アーティストのブッチ・モリス
エセックス通りはパターソンにとって、80年代の高騰するアート市場への足がかりとなった。しかし彼はその状況にしらけていた。「金を儲けて、オデオンに行ったり、ミスター・チャオで食事したり。ブルペンでいちばん強い牛になるという競争ばかりだった」。その代わりに彼がやったのは、界隈でいちばんしつこいアクティビストとしてのキャリアを築くことだった。レンサアといっしょにつくったクレイトン・キャップを売った資金で「クレイトン・アーカイブ」を設立。ビデオ、アート作品、本、新聞の切り抜き、そしてロワー・イーストサイドからのさまざまな収集物。中には空のヘロインの袋もあった。ストリート写真は何千枚にもなった。「俺は他に誰も写真を持っていない人間の写真を持ってる。火事にあったり、家を失ったり、ホームレスになってすべてを失ったりしてるやつらだ」。パターソンの友人、グライフォン・ルーは、2021年にダウンタウンの書店兼アートスペース「プリンテッド・マター」でパターソンの写真展のキュレーションをした。写真のアーカイブを調べていくのは「段ボールの箱の内側から穴を開けているような、亡霊のポケットの中を探っているような感じだった」と言う。「雪崩てくる魂をどうやって整理しろっていうんだ」。
写真キャプション: ・90年代、9thストリートとアベニューDでの火災の後で ・抗議行動のサイン「ジェントリフィケーションは階級戦争だ。反撃しろ」「金持ちを追い出せ」 ・ホームレスの住宅支援デモに参加するデイヴィッド・(レッド)・ロドリゲス ・抗議団体ARTIST(Artist’s Response To Illegal State Tactics、不法な行政指針に対するアーティストの抵抗)を創設したロバート・レデルマン、1993年
パターソンは長い年月をかけて「ニューヨーク・タトゥー・ソサエティ」を組織してきた。この団体はアンダーグラウンドのアート表現がニューヨーク全体で禁止になったことを覆し、ロワー・イーストサイドを記録した数えきれないほどの本や選集を出版し、毎年実験的なアーティストやアクティビストの仕事を讃えるニューヨーク・アッカー・アワードを創設した。しかしパターソンが果たした最も重要な役割は「市民ジャーナリスト」としてのものだろう。1988年、パターソンがピラミッド・クラブでのパフォーマンスをビデオで録画していたときに、数ブロック先でトムプキンズ・スクエア・パークの暴動が勃発した。警察が公園から人を排除して封鎖しようとした後のことだった。パターソンは現場に駆けつけ、状況を録画し始めた。レンサアはテープを公園からこっそり持ち出して守る手助けをした。その映像はニューヨーク市警が抗議行動を抑圧した残忍な手法を捉えており、ニュースで放送された。ニューヨークの地方検事はパターソンを召喚して映像の提出を求めたが、パターソンは拒否し(その結果、法廷侮辱罪で収監された)、交渉の結果、映像への著作権を手にした。「人は俺のことを反社会的で反政府的なトラブルメーカーで、アナーキストだと思っているが、それはちがう。俺はアーティストなんだ。
写真キャプション: ・80年代後半の裁判所入口 ・ジェントリフィケーションへの抗議活動で投石によって割れたガラスに映ったパターソンの自画像
パターソンの映像と写真の作品はニューヨークやその他の場所で何百回も展示されてきた。その幾つかは、現在、市のフォトヴィル・フェスティバルの一部として野外に設置されている。しかしパターソンは自分を写真家と定義づけることを拒否する。カメラは彼の何十年にもわたる保存プロジェクトの一つのツールに過ぎないからだ。「俺のアートは一つひとつの作品じゃない。それはもっと大きなビジョンであり、生存、存在、そしてクリエイティブであり続けるということなんだ」。
写真キャプション: ・90年代初頭、ふざけてパターソンを撮影する警官。後ろに見えるのはテレビシリーズ “The Church of Shooting Yourself” のリック・リトル(彼が扮するパラノイアのフェイク・ジャーナリストがイーストビレッジの出来事を自撮りする番組)
ニューヨーカーに掲載。2023.7.8
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almostautohonyakudiary · 11 months
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クリームに対するものすごい考え方
ロザンナ・マクラフリンによるエッセイとタルト・ディジョネーズのレシピ
コベントリーのど真ん中に住んでいたにもかかわらず、祖父母の家の玄関は日中いつも開いていた。画家であった祖父は、人と会い、スケッチすることに貪欲で、それでさまざまな人物が予告なしに家にやってきた。全身緑の異教の衣装を身にまとい、バグパイプを担いで玄関で大音量で演奏していた「グリーンマン」のバリーだったり。祖父が電動車椅子で外出中に仲良くなったパンクスだったり。近所に住む問題児のオペラ歌手は、パーティでわざとワインをカーペットにこぼしたところを祖母に見つかって以来10年間も出入り禁止だったが、やがて再び仲間に迎え入れられた。
コーラスガールと工場労働者の娘だった祖母は、1954年に祖父と結婚した。祖母は生涯、文学愛好家であり、家族で初めて大学に進学した。祖父は、ロンドン周囲の保守的なホームカウンティーズの家庭には思いがけない子孫であり、素晴らしく風変わりだった。慢性的に不衛生な男で、バスタブは汚れた皿を入れるところ、手は絵筆を持つために存在し、プディングは天からの贈り物だと信じていた。二人とも、家庭的な世間話など大嫌いだった。お客が美とか詩のような高尚なことを議論していないことに苦々しく思った祖父が、「学位を持っているのにゴミ箱の話をしているのか」と言ったことがある。でも、そんなふうに表向きは下世話な話を嫌っていたにもかかわらず、祖母はものすごく料理が上手く、キッチンは祖父母の社会生活の心臓部だった。
そのため、来客はいつ来るのがベストなのか、すぐに察しをつけるようになった。午前11時ならコーヒーとビスケット、正午ならラムシチューやクレソンスープ、プレイス[***カレイの一種]のパン粉焼き、洋ナシと赤ワインゼリー、チョコレートプディングなど、祖母が日常的に作っていた素晴らしい昼食を食べるチャンスがあった。ある夏の朝には、祖父母の生活で転倒が頻発するようになり、定期的に呼ばれるようになった救急隊員が、あまりの楽しさに無線を切って数時間、庭にいたのを覚えている。私は祖母に頼まれてフランス産のバタービスケットとコーヒー(いつもクリーム入り)を皿に載せて持って行き、救急隊員はそれを蔦の陰でくつろぎながら楽しんでいた。
祖父の死から数年が経った昨年11月、祖母が亡くなった。今、二人のことを思い出すと、最後まで親しい人々で賑わっていた家のことが思い出される。祖父は救い難い甘党で、糖尿病で片足を失った後も道路を隔てたリドル・スーパーマーケットからルール違反のヌガーを入手していたことを思い出す。祖母の台所に座り、食事の準備を手伝いながら、文化や政治に関するあらゆる事柄について祖母の強い意見に耳を傾けたことも。あるとき、エンドウ豆の鞘とったり、ジャガイモの皮を剥いたりしながら、肥満に対処するためのおせっかいな戦略に関する記事について話し合ったことがある。「たとえ顎をワイヤーで固定されていたとしても、ストローでダブルクリームを吸うわ」と彼女は宣言した。また、80代後半になって、サリー・ルーニーの小説を読んだ後に、「英語は完全にあきらめた、これからはフランス語の小説しか読まない」と宣言したこともあった。
でも私がいちばんに思い浮かべるのは、タルト・ディジョネーズだ。チーズ、マスタード、卵、クリームを混ぜた濃厚なソースをシュー生地に塗り、玉ねぎとパプリカを重ねたもの。妻のメリッサと私が訪れると、祖母はよくこのレシピを選んだ。私たち夫婦はベジタリアンという恐ろしいものの手中に落ちており(祖母はあるときそれを選ぶことは「反社会的な行為」だと表現していた)、それはオムレツと並んで、彼女が作る数少ない肉や魚を使わない主食のひとつだったのだ。昼になり、私たちが祖母の料理と文化的見解と無尽蔵の赤ワインを求めて集まった客人たちに混じると、そのタルトが台所のテーブルに頻繁に並んでいた。
晩年、祖母の足が不自由になると、台所が心許ない場所になることがあった。パントリーの棚に腐ったクリームケーキが置かれ、その横のジャガイモはあまりに青く芽吹いていてまるでウニのようだった。その頃には、祖母は口述でほとんどの料理をするようになっており、リビングルームの肘掛け椅子から家族に指示を出した。祖母は年をとるにつれてほとんど家から出なくなったが、気前のいい食卓が、世界を彼女の方へと連れてくるのだった。祖母は、料理が友情とコミュニティを維持するために果たす役割を知っていた。料理は、人々を結びつける善意と優しさの行為だった。
数年前、メリッサに頼まれ、祖母はタルト・ディジョネーズのレシピを書き出した。パントリーにあったデリア・スミスの料理本の表紙の裏に挟んであった黄ばんだ新聞の切り抜きを写し、括弧書きで自分のコメントを加えた。メリッサと私は自宅で何度もこのタルトを作ったが、祖母の死後数か月間は、このタルトを作るとほろ苦い気持ちになった。タルトの生地は、クリームとマスタードとチーズを乗せ���土台であると共に、悲しみの受け皿でもある。それでも料理は、コヴェントリーから数百マイル離れたサセックス海岸の私たちの台所へ、祖母を呼び寄せる手段なのだ。
タルトを包丁で切るときのカリカリという音は、祖父母の台所の小さな食卓を囲むグラスの音や、チラシやバスの時刻表や古い果物の種が山積みになった本棚に囲まれたダイニングルームでの食事を思い起こさせる。炎のように赤いパプリカは、祖母のもてなしと同じように鮮やかで、マスタードの刺激には祖母との会話と同じような満足感がある。タルトはいつもおいしくできるが、クリームに対するものすごい考え方を持った祖母が手順を見守っていた時のおいしさとは、比べようがない。
***
タルト・ディジョネーズ (「メゾン・ベルトー」のタルトをベースにしたマーク・ヒックスのレシピ)
シュー生地 250g(20×30cmの大きさに伸ばしたもの。わたしは既製品を使う)
玉ねぎ 大1個(みじん切り)
赤パプリカ 2個(種を取り除き、細かく刻む)
オリーブオイル 大さじ2
ミディアムまたはストロングチェダー 150g(細かくすりおろす)
卵 2個(軽く溶きほぐす)
ダブルクリーム 大さじ2
ディジョンマスタード 小さじ2(好みでもっと加えてもいい)
塩 適量
挽きたての黒胡椒 適量
オーブンを200℃に予熱しておく。20×30cmくらいのベーキングトレイを用意する。深さ1~2cmの浅いものが理想的。ベーキングシートを敷いておく。
中くらいのフライパンに、みじん切りにした玉ねぎとピーマンとオリーブオイルを加える。蓋をして中火にかけ、よく混ぜながら約15分、野菜が柔らかくなり、焼き色がつくて前まで炒める。火からおろし、そのまま冷ます。
野菜が冷めている間に、ベーキングトレイにペイストリーを敷き、10分焼く。ペストリーは少し盛り上がって淡い黄金色になり、冷めるとまた沈む。
玉ねぎとピーマンを炒めたものに、チーズ、卵、クリーム、ディジョンマスタード、塩、コショウを加える。混ぜ合わせ、味を整える。
トレイの中のペイストリーシートを裏返し、その上にトッピングを厚く、均等に広げる。オーブンに戻して18~20分、縁に軽く焼き色がつくまで焼く。
できれば温かいうちに、サラダと一緒にでも召し上がってください。
Vittlesに掲載 2023.5.31
ロザンナ・マクラフリンは、イースト・サセックスを拠点とするライター兼編集者。著書に『Double-Tracking:Studies in Duplicity』(Carcanet、2019年)、『Sinkhole:Three Crimes』(Montez、2022年)がある。『The White Review』[***アートと文学の雑誌]共同編集者。
Vittlesは、レベッカ・メイ・ジョンソン、シャランヤ・ディーパック、ジョナサン・ナンが編集し、ソフィー・ホワイトヘッドが校正と副編集を担当している。『Cooking from Life』のレシピは、ルビー・タンドウによって試作されている。
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almostautohonyakudiary · 11 months
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トルコのロシア人は、ウクライナ戦争に反対する新しい方法を見つけている
100年前の同胞たちのように、イスタンブールのロシア人は、関わりたくない紛争について考察している
——フューチュラ・ダプリール
ある春の日、オレグ・チェルヌソフが、イスタンブールで妻のサーシャと経営するアートとファッションの書店「ブラック・マスタッシュ」に到着した時には、すでに正午に近かった。妻は不安と興奮でいっぱいだった。オレグはその朝、夜明けとともに起きて空港に行き、ロシアからの特別な配達物を受け取るために、知らない男性と会っていた。荷物をすばやく受け取った後、オレグはボスポラス海峡に面したトレンディなモーダ地区にある書店に急いで戻ってきた。妻は、荷物の中身に興奮を隠せない。二人はこの瞬間を長い間待ち侘びていた。
オレグが持ったバッグの中には、モスクワで制作されている独立系のカウンターカルチャー雑誌「モロコ・ピウス」が12冊入っていた。アナーキストのジャーナリスト、パシャ・ニクリンによって2015年に創刊されたこの雑誌の名前は、文字通り「ミルク・プラス」を意味し、アンソニー・バージェスの小説 『時計仕掛けのオレンジ』に登場するドラッグ入りのカクテルを指している。雑誌は、社会における暴力のさまざまな側面に焦点を当てている(小説では、主人公は一晩の暴力行為に乗り出す前にカクテルを飲み干すのだ)。チェルヌソフ夫妻は、刑務所や戦争をテーマにしたこの雑誌の最新号を注文していた。しかし、雑誌をトルコに持ち込むのは容易なことではなかった。
「雑誌がトルコに到着したとき、税関はそれを何の説明もなくモスクワに送り返したのです」とオレグは本誌に語った。「それから、ロシアのアナキストの友人たちに助けを求めました。彼らは、イスタンブールに来る予定があり、雑誌を届けてくれる人を見つけました。余分な荷物の分の代金を支払わなければなりませんでしたが、やっと手に入れることができました」
夏にモロコ・ピウスの次号が発行されるときには、チェルヌソフ夫妻は再びロシアのアナーキストのコミュニティに頼って、税関で拒否されないように密かな配送を頼むつもりだ。「なぜ送り返されたのか理解できません。この雑誌は毎号600部しか印刷されないため、ロシアでは入手が非常に困難で主流の書店では手に入りませんが、違法出版物ではありません」とオレグは説明する。それでも出版社はロシア政府と、政府による印刷できるものとできないものに関する制限を警戒している。例えば、この雑誌の第9号「戦争」にはタイトルがない。黒一色の表紙には文字がなく、そのかわり中央に9本の白い剣が描かれている。昨年2月、ロシアがウクライナに本格的に侵攻したことを、全く言葉を使わずに記号で表現することにしたのだとオレグは言う。
「2022年以降もこのようなものを出版し続けることはとても勇気のいることです」とサーシャは言う。「革命的な行為であり、私たちはここでこれを販売することを誇りに思っています。独立系ジャーナリストを支援し、国のために何かをする、私たちなりのやり方なのです」彼女はテーブルの上に「モロコ・ピウス」を広げた。そこにはすでにアートやデザイン、ファッションに関する本がいっぱいに並んでいる。ブラック・マスタッシュのビジネスの中心は、これらの本が担っている。店名は、夫妻の名字を直訳した言葉遊びのようなものだ。店内の壁のペンキや白黒のチェックの床など、いたるところに黒が使われている。
二人は昨年3月、ロシアの侵攻後まもなく、11歳の娘とともにロシア第2の都市サンクトペテルブルクを離れた。男性の大量徴兵を避けるためであると同時に、自分たちの意見が原因で投獄される可能性が高まったからだ。ウクライナ侵攻以前は、二人とも芸術関係の仕事をしていた。イスタンブールに到着した二人は、書店を立ち上げることに一定の慰めを見出した。それは同じ考えを持つ人たちとつながり、新しいアイデアを自由に表現できる場所だ。
「私はこれまでもずっと活動家でしたが、戦争が起き、沈黙しないことがより重要になりました」とサーシャは説明する。隣に座っているオレグもうなずいて賛同する。彼は、最近ロシアで政治活動や反戦デモに参加したことで逮捕された8人の女性を紹介するポスターを指差す。それぞれの写真の横には、その人物の個人的な生活や訴訟についての情報が書かれている。いちばん若いヴィクトリア・ペトロヴァは、青いスーツを着た、茶色の長いポニーテールの28歳。昨年春に戦争反対で逮捕されるまで、彼女はサンクトペテルブルクでビジネスマネージャーとして働いていた。現在彼女は裁判を待つ身であり、最長で10年の懲役刑に処される可能性がある。
ここ数か月、ロシアでは異論に対する弾圧が強まっており、同国のソビエト時代の過去のぞっとするような再来を思わせる。ロシアの人権団体OVD-Infoによると、ウクライナ侵攻が始まって以来、ロシアは政治的・反戦的な抗議行動で約2万人を拘束している。そのほとんどは短期間の拘束だけで、刑期は軽微なものだが、同じ罪で再逮捕されれば、最長で5年間を塀の中で過ごすリスクがある。4月には、野党政治家で英露二重国籍のウラジミール・カラ・ムルザが懲役25年の判決を受け、ロシアの人権擁護者たちはその厳しさをスターリン的と評した。
「12月から3回にわたり、政治犯が収容されているロシアの刑務所の悲惨な状況について話し合うイベントを開催し、みんなに彼らへの支援の手紙を書いてもらいました」とオレグは説明する。
書店の一角にあるコーヒーテーブルの上には、政治犯に手紙を書きたい人のための無料のポストカードが置かれている。チェルヌソフ夫妻はそれを集めて、2020年に創設され、政治犯に精神的なサポートと連帯を提供するボランティアプロジェクト「Uznik.Online(囚人オンライン)」で働くイスタンブールのロシア人女性に手渡す。ロシアの刑務所では電話や面会が制限されているため、手紙は獄中の人たちが外界とコミュニケーションをとるための貴重な手段であると同時に、外界から彼らに安らぎを与える手段にもなっている。ウクライナ戦争が始まって以来、ロシアで政治犯の数が漸増するにつれて、彼らに手紙を書くことへの関心も高まっている。政治犯にメッセージを送るもう一つのプロジェクトであるロス・ウズニクは、昨年少なくとも2,500通を送っている。
ロシア人亡命者���イスタンブールに住むようになったのは、これが初めてではない。1917年のボルシェビキ革命の後、約20万人の白系[**反共産主義]ロシア人が当時コンスタンティノープルと呼ばれていたこの都市に逃れ、最終的に総人口の約5分の1を占めるまでになった。そのほとんどはロシア革命から逃れようとする貴族たちであり、中には後に小説家となるウラジーミル・ナボコフや、作家レオ・トルストイの姪も含まれていた。トルコ帝国の首都に到着した彼らは、絵画のスタジオやパティスリーを開き、男女混合の海水浴場を作り、バレエを紹介した。ビーフストロガノフやボルシチが食べられる「1924」という名のレストランなど、いくつかの白系ロシアのランドマークが今日まで残っている。
現在、ロシア人の実数は同程度だが、人口に占める割合は少なくなり、100年前ほどの影響力はない。イスタンブールの地政学アナリストでロシア史の専門家であるヨルク・イシク氏は、「現在ではこの都市があまりにも大きいので、彼らは溶け込んでしまう。しかし新しいロシア人たちの存在は、すでにかつてのようにイスタンブールの文化に影響を与えている」と語り、地元のレストランがロシアから来た人々に馴染みの料理で対応し始めていることを付け加えた。
トルコ内務省の統計によると、2023年4月現在、154,817人のロシア人が、少なくとも1年間は国内に滞在できる短期滞在許可証を取得している。NATOに加盟しているにもかかわらず、トルコはロシアのディアスポラに対して国境を開放している世界でも数少ない国の1つだ。2国間には毎日多くのフライトが飛んでいるが、この流入は減速していく可能性がある。「12月中旬以降... 却下される申請が増えています」と、ウクライナとの戦争やプーチン政権による政治的迫害のためにロシアを離れた移民を支援するNGO、ザ・アークの現地コーディネーター、エヴァ・ラポポルトは言う。
却下される理由は公式には「必要書類が足りない」というものだが、役所による形式的な対応が5月中旬の大統領選を前にした政治的な動きであることは間違いない。ロシア人が住み着いた地域の家賃が高騰し、トルコ国民から苦情が相次いでいることも動機の一つかもしれない。
本を読んだり、絵画の政治的な意味合いを議論したり、関わりたくない戦争について個人的な意見を口に出したりすることは、強力な抵抗行為だ。それはトルコだけでなく母国においても生き方を変えることは可能なのだと気づき始めた亡命者たちの最初の一歩なのだ。
ザ・アークはブラック・マスタッシュと同様のイベントを開き、交流の場を主催しており、時には政治的、反戦的なプログラムも行っている。また、イスタンブールとアルメニアの首都エレバンの両方で、一時的なシェルター、語学コース、法的・心理的支援を提供している。
トルコのように公共の場でのデモに対する厳しい規則があり、NGOの活動も厳しく管理されている国で、こうした取り組みを行うのは容易ではない。しかし、政治的な思想を持った会合に対する公式の許容度が低い中で生活し、法的な障害や課題を乗り越えていくことは、ロシア人にとって新しいことではない。
ラポポルトは、ロシアの政治犯の状況についての認知を高めるために、他の方法も考えている。4月には、広大なアタチュルク文化センターにある映画館で、アカデミー賞を受賞したドキュメンタリー映画『ナワリヌイ』の上映会を開催した。それは成功を収め、ロシアの野党指導者アレクセイ・ナワリヌイの毒殺未遂と投獄を描いたこの映画は完売し、多くの観客が上映後に残って現在のロシアの政治問題について語り合った。
その中には、45歳のオルガ・シニャエワもいた。彼女は自身の、ウクライナを支援するための資金を調達するロシア人とウクライナ人の新しい組織について広めるためにイベントに参加した。彼女によると、イスタンブールのウクライナ人コミュニティが主催する反戦デモに参加するロシア人は最近、排斥され、懐疑的な目で見られるようになったため、彼女とロシア語を話す移民のメンバーたちは、議論と参加のための新しい場を作り出した。組織のインスタグラムページで前回のイベントの写真を見せながら、「誰でも参加できます」とシニャエワは説明する。彼女にとって、このプロジェクトに関わることは、戦争のショックを克服し、トルコでの最初の数か月間に感じたうつ状態を癒し始める方法でもあった。「ウクライナとロシアの人々のつながりを取り戻すことから始め、戦争に対してここから多くのことができます 」と彼女は付け加える。
ロシア人のサニヤ・ガリモワが、昨年12月に「ポロトリ・コムナティ 」(ロシア語で「ひと部屋と半分」という意味)という書店をオープンさせたのも、同じ動機からだった。彼女は、安全上の理由から匿名を希望するウクライナ人男性と共同でこの店を立ち上げた。書店の名前は、ロシアの詩人ヨーゼフ・ブロツキーが1986年に発表したエッセイ「In a Room and a Half(ひと部屋と半分の中で)」へのオマージュだ。サンクトペテルブルク(当時はレニングラード)にあり、詩人が両親と暮らしたソ連の小さな共同アパートを描き、思春期にそこを本でいっぱいにしたことが書かれている。「しかし、ガールフレンドや友達は、本よりも増え方がゆっくりだった。それに、本はずっとそこにいてくれた」。イスタンブールの中心部、ベヨグル地区にあるこの書店の入り口を、セメントに描かれたブロツキーの大きな色とりどりの壁画が飾っている。この書店は、トルコのノーベル賞作家オルハン・パムクが設立した「無垢の博物館」からほんの数メートルのところにある。
「ロシアを離れなければならなかったとき、私たちは図書館やその周辺のコミュニティ、母語で本を読む可能性など、小さなものも失いました」と、店の中央に置かれたヴィンテージソファのひとつに座ったガリモワは語る。正面の入り口には、(母語である)キリル文字のネオンサインがある。
現在、ポロトリ・コムナティではロシア語の本しか扱っていないが、近々ウクライナ語の本も加わる。これは、この書店を母国やロシア人コミュニティと再びつながる場所と考えるウクライナ人ディアスポラのためだ。「ウクライナ人の中には、ロシア人のお客さんとの間に緊張関係を作りたくないのでここに来たくないという人もいますが、ここで時間を過ごし、2つの国で起こっていることを話し合ったりすることが重要だという人もいるのです」
3月下旬、ウクライナの反戦バンド「ネムノゴ・ネルヴノ」(「少し緊張する」という意味)が書店内で演奏した。彼らの民族的なメロディーを聞こうと、50人ほどのロシア人の観客が詰めかけた。バンドが立っている一角だけが、本棚に吊るされたほのかな暖かい色の電球で照らされていた。
ポロトリ・コムナティは、ディアスポラの新しいメンバーのためのイベントを絶えず開催している。その多くは、モスクワやサンクトペテルブルクの西洋寄りの教育を受けたエリートにとって馴染みのあるもので、サンクトペテルブルクのヨセフ・ブロツキー記念博物館の創設者���ヴェル・コトリャーによる講演や、かつてモスクワの小劇場で演じられた演劇、核攻撃の危険性に関する反戦トークなどがある。最近の美術展では、ウクライナ侵攻以来のロシア人の大量移民を検証し、彼らがトルコに持ち込んだ持ち物を取り入れていた。
ロシアやウクライナから逃れてきた人たちの間では、戦争のトラウマが繰り返し語られる。「私たちは、すべての男性が入隊させられると思っていました 」とガリモワは振り返る。「私は夫のことが心配でした。戦争で死ぬのは、ただ死ぬよりもつらいことです。強制的に戦わされ、侵略者となり、殺人者となり、その直後に死ぬのです」侵攻が始まってから9日以内に、ガリモワと夫、そして10歳の娘はロシアから外国に渡り、予定していなかった新しい生活をスタートさせた。彼らは今、トルコで、ロシアで何が起こるかを見守っている。「夫と私は、ウクライナが戦争に勝ち、ロシアの政権が倒れると考えていますが、その後は内戦になると思います」と彼女は予測する。
しかし、イスタンブールは、ロシア人コミュニティの全員にとって最終目的地ではない。イリヤ・ソルントセフは25歳で、同じくポロトリ・コムナティで働いている。アルメニアとグルジアで数カ月を過ごした後、トルコに来た彼は、おそらくパリかベルギーで勉強を続けたいと考えている。彼は、書店のスピーカーからチルアウトミュージックを流しながら、自分の計画を話してくれた。もし彼が人道的ビザを取得し、ヨーロッパ諸国がロシアとその国民に対して課している制限を克服することができれば、EUの大学に行く夢は実現するかもしれない。
18歳になったばかりのアーニャは、オランダでロジスティクス工学を学ぶ予定だ。降りしきる雨の大きな音の中、プライバシー保護の観点から名字は伏せて語ってくれた。「皮肉なことに、戦争は私に新たなチャンスを与えてくれました。戦争は私の古い人生を奪い去り、やり直すことを強要したのです」
その一方でガリモワはポロトリ・コムナティをロシア人とウクライナ人のディアスポラにとって我が家のような場所にしようと奔走している。彼女は似たようなプロジェクトを手がけた先人たちからインスピレーションを得ている。例えば、イスタンブールでは、中国政府からの圧力にもかかわらず、追い詰められたウイグル人コミュニティが自らのために運営する3つの書店が営業を続けている。ロンドンでは1970年代後半から昨年末に閉鎖されるまで、アラブ人ディアスポラに尽くしていたアル・サキ・ブックスがあった。
オレグとサーシャは、ブラック・マスタッシュもモーダ地区のランドマークになることを望んでいる。「私たちはイスタンブールに移住するつもりはなかった。でも今はここに居続けたいのです。私たちはこの場所と、アートが人々をつなぐ力を持つおかげで生まれたこの場所を中心としたコミュニティに対して、責任があるのです」と、小さな書店の棚から棚へと視線を移しながらサーシャは語った。
ニューラインズマガジン、2023.5.23掲載
フューチュラ・ダプリールFutura D'Aprileは、ローマ在住のイタリア人ジャーナリスト。トルコで定期的に取材を行っている。
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