Tumgik
#彫浅
asami-blackeyes · 1 year
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#胸割り #龍 #sleevetattoo #backpiecetattoo LINE: @ blackeyes #武蔵梵天 #彫浅 #高津区 #溝ノ口 #横須賀 #刺青 #横須賀タトゥー #和彫り #入墨 #tattoo #blackeyes #japanesetattoo #tattooart #yokosuka #yokosukatattoo #川崎 (Black Eyes Tattoo 1st) https://www.instagram.com/p/Ck-bbG1rpVN/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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kankan70 · 1 year
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大提灯を下から。
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ijimamasato · 1 year
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#彫刻 #小学生作品 #石と青銅 #浅草 https://www.instagram.com/p/Cpq3PSLPSm1/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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detective100 · 1 year
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私、普段から好奇心を必死で抑えながら真面目に暮らしている探偵なのですが、昨日たまに停める駐車場の横に超〜カッコ良い!ハーレーダビッドソンのヘリテイジクラッシックカスタムが置いてありました。 よく見ると駐車場管理者に勝手にロックキーを設置されて揉めてる模様で電話番号の記載等がある貼紙がありました。 もう、これは流石に好奇心を抑えきれず即電話しちゃいましたw すると、なんと微妙に若干同類の���術家で新宿歌舞伎町の有名な彫金さんの物と判明(元浅草彫金) 事情を聞くと、たまに駐車場ロック版があがらずラッキーと思い停めてたらタイヤロックをされたと。駐車場管理者に電話したら60万円支払えと。バイクで判断されちゃって流石に今時和彫客も多く無く、んな金は無いと。払えないならずっとロックしとくと。 じゃ、 永遠に停めとくとなり、喧嘩だ裁判だと発展しそう。互いに言い方に行き違いがあったのか??そのままさらに半月以上放置とw 一応自動車商もしている私は提携レッカー業者も居るので、やんわり移動提案をさせて頂きました。 で、今日駐車場管理者の横山様へ連絡、中々素晴らしい対応で海千山千な良い感じ。結果今回のみ超特別にレッカー代だけで手打ちと相成りまして、僕は5万円のお小遣いを彫金様から頂きました。で楽しませて頂いた御礼に先程迄共に飲み食いバイク談義等した次第であります。上野、浅草、歌舞伎町なんてのは自浄作用があるからホントイイネ♪ あぁ楽しや探偵業の日々 腕は確かなので是非入れる方はご検討ください♪ 超良い人なんですよ! #探偵 #探偵事務所 #探偵社 #興信所 #和彫 #タトゥーもやってるよ #彫金 #浅草彫金 #歌舞伎町彫金 #戸塚敦士 (新大久保、新宿) https://www.instagram.com/p/CmtzpK5vXvj/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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masami-tokuda · 2 years
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. ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ 浅彫  さくら 漆 ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ #lacquerware #urusi (FUKAI UMI swung) https://www.instagram.com/p/Ci134LCPOcV/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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singosblog · 4 months
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【浅井健一🎸の音楽性について♪】
浅井健一は、1980sのストレイ・キャッツに多大な影響を受けており、ブランキージェットシティ初期の、浅井健一の、ヘアスタイルのトレードマークでもあった、ブロンドリーゼントヘアはストレイ・キャッツのボーカルの髪型を真似したものと思われる。しかし、本人がどう考えているのか、知らないが、顔の彫りの深さから、ストレイ・キャッツより、ボブ・ディランの方に、似ているのである。勿論、個人的な考察に過ぎないのだが。1990年代後期より、リーゼントヘアから、西海岸の海辺にいる、若者サーファーのような、長髪にゆるいまき髪ヘアスタイルに変更されており、それは、今の時代 ( 2023年12月 )まで、継続されていることから、本人に、定着したヘアスタイルと考えても、無論、間違いではない。他には、多機の洋楽を中心に音楽を聴いて、影響を受けており、主なバンドは、カーペンターズ、パートリッジファミリー、ショッキングブルー、ジョン・レノン、井上陽水などから影響を受けたと、公言している。本は、JDサリンジャー著『ライ麦畑でつかまえて』、村上春樹著『羊をめぐる冒険』、ジャック・ケルアック著『路上』である。曲のタイトルが、歌詞にも出てくる、「メリールウ」という主人公の名前を使った曲も楽曲している。映画に関しては、浅井健一の曲自身のタイトルでもある、『小さな恋のメロディー』、『イージーライダー』などが上げられる。他にも、観ていたり、読んだりしてはいるが、公に公言しているのは上記のものだ。音楽性は、ブランキージェットシティ以外、静かめな曲を収録した『SHERBETS』や『JUDE』などがある。ほかは、忘れてしまった。あ、あと、歌手のUAと組んだバンド『AJICO』。浅井健一の書く、詩の歌詞は、社会の片隅で暮らすアウトサイダーたちや、野生動物、『神様』が頻繁に登場する。そこが、私の惚れ込んだ理由の一つでもある。そして、『幸せの鐘が鳴り響くとき、ただ悲しいふりをする』という、曲には、『動物愛護団体』まで、詩に盛り込まれている。アウトサイダーたちで、言えば、売春婦、麻薬常用者、浮浪者、インディアン、精神病者、ヒッピーだ。そして、あと、忘れてはならないのは、『無垢な少年』だ。『綺麗な首飾り』という曲には、『子供の見る夢は、純粋で残酷』というフレーズもある。そして、『狼たちが、綺麗な足音を響かせ、森を駆け抜ける』という歌詞も好きだ。『don't kiss my tail』という歌詞には、『ヒッピーに憧れて、旅立ったくせに、多分、彼らの最終系は自殺だなんて言うし』という、とんでもなく、切なく、カッコいい歌詞を書いている。『ひまわり』という、曲では、歌詞の始まりが、『目の前に舞い降りた、小鳥の仕草を、見つめていたのは、倒れたヒマワリ』という、専業作家、顔負けの『擬人法』を盛り込んでいる。そして、『パイナップルサンド』という、曲には、『バナナを一つもぎ取った、お前のその動作、神様が、気にすると思うのかい?』、『明るく生きることが、すべてだから』という、非常に、楽観的な気持ちになれる歌詞も書いている。そして、『寝る前に、ブルーのジェット機に乗る夢を見たいって願う、神様お願い僕に見させて、ブルーのジェット機に乗る夢を』という、無垢な少年の、切実な思いを歌詞にしていると同時に、人間には、日々の、『祈り🛐』が必要なことを、それとなく、歌詞の中で、サラッと匂わせている。浅井健一が、イエス・キリストに選ばれた理由は、以上の功績により、【仏様】、【イエス・キリスト】より、適任と認められ、選ばれるべくして選ばれたのであるから、他の者は、浅井健一を妬んではいけない。きちんと、今までの、功績があって、選ばれているのであるから。少なくとも、浅井健一がテレビや動画、LIVE会場で歌ったことにより、救われた人類は大勢いるのだから。逆に、歯向かう考えを持っている者は、神の道と反れて進んでしまっていると考えていい。最近の浅井健一の活動状況は、ラジオ番組に出演したり、画家としても、活動をはじめ、個展を開いたり、画集を出版したりしている。勿論、音楽活動も続けながら。そして、忘れてはならないのが、『Sexy Stornes』というブランド名の、ブランド服を立ち上げ、代表取締役社長をつとめている。自身のインスタグラムを通じて、販売活動にも積極的にいそしんでいる。そして、少し前の、浅井健一のYou Tubeラジオによると、趣味でサーフィンをやっているとのことも公言している。そして、今年、もうじき、LIVE活動で、地方をまわるという、ネットニュースの記事を読んだ。つまり、浅井健一は、今日も、妹の林檎🍎と違って、頑張っているのである。以上が、浅井健一の音楽性、ないしは、活動状況の報告とする。
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kennak · 2 years
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中国は、石油と鉄鉱石の世界最大の買い手である。自分たちが「えらい客は店に無理を言える」というおごりから、自分たちが石油の価格決定権をもっており、石炭や鉄鉱石の価格決定権ももつべきだ、とおもったのでした。政治的理由で豪州の石炭購入を減らして、豪州の石炭生産と失業増加という影響を与えようとしたのです。豪州炭の8��が中国向けの輸出で、2018年から中国は豪州鉄鉱石の購入を大幅に下げ、価格を20%下落させました。豪州も最初は大変焦って、中国に経済と政治をいっしょくたにしないようにとお願いしたのですが、中国はもう自分たちが勝ったも同然だと思い上がって、多くの豪州炭を積んだ輸送船を中国の港で荷下ろしさせないようにしたのでした。しかし、これは所詮、浅はかな考えでした。制裁の1年後の2020年10月、中国は国内炭の生産能力、風力発電の変動、経済需要の急増などさまざまな要因で、各地で電力不足に陥ってしまったのです。こうした状況の下で、中国では多くの港でそっと豪州炭を荷下ろしし始めたのでした。国際市場における鉄鉱石の需給変化だけでなく、中国自身もエネルギー問題に直面し、1年前に止めていた豪州炭��入をひっそりと再開したのです。
何清漣★ウクライナ戦争で重要性が浮き彫りになった資源確保問題 2022年4月29日|暇爺|note
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79nihs · 1 year
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日記 / 5.7 / 写真を再び
どうもここ数ヶ月、写真が撮れなかった。半年前から撮っている写真のシリーズについてのことだ。製本ワークショップに参加して製本してみて、一度立ち止まって俯瞰的に見てみようと試みたが、これがまさかの急ブレーキとなってしまった。本の形になった高揚感に浸りつつ、「足りない」こと探し、粗探しを繰り返した結果、撮影を始めたときに抱いていた前のめりな感覚を忘れてしまっていたように感じていた。
京都国際写真祭でそれに拍車がかかった。凄みのある作品を三日三晩浴び続けることで、着眼点や撮影の技量、熱量、我が事とする力強さ、数え切れないポイントと比較ばかりして苦しくなってしまっていた。正直、息ができていない状態に陥っていた。1年前は「制作」をしていなかったから、どの作品も憧れのような対象だった。尊敬する写真家の自宅に訪ねて相談させてもらったり、他の写真家の方には、勤務中に彼の働く会社まで足を運んで助言を請うたりした。ようやく、自分なりの視点を持って撮影してこれたのではと、思った今年のはず…と思っていたのだが、違った。「作品をつくるようになった若い人」(と言われるようになった)は、先人たちから厳しいレビューを受け、落ち込んでしまったのだ。この落ち込みを誰かに解消してもらうことなんてできないし、親しい友人に話しても、結局情けをかけてもらいたいという気持ちから始まってしまうわけで、健全ではなかった。
先週には、撮影をお願いしていた方と長い時間お茶をして撮影に望んだが、正直に伝えた。「今は撮れるような状況ではない」と。相手からも、見透かされたような気がして、ブローニーフィルム一本を撮り切ることだけにしか集中できなかった。つまり被写体との対話ができていたとは言い難い。きょう、現像から上がってきた写真たちは、それなりに撮れているのだが、撮ったときの感情をまだ記憶しているので素直に見ることができないことで思い知らされた。現像があがるまでの高揚感、ポジティブな気持ちを抱いていなかったことに気づいた。
ここまでネガティブなことばかり書き連ねているのだが、ようやくトンネルを抜け出せそうな感覚をきょうは覚えた。一日を振り返りながら、いろいろ考えてみようと思ったからきょうは書こうと思う。
まずは、久々に早朝に起床できたことに始まる。朝マックに足を運び、エッグソーセージマフィンのセットを食し、スイッチを入れる。朝ごはんを食べると血糖値が高まり、血の巡りを感じる。ファストフードとはいえ、気持ちが前向きになったようだった。その勢いで、都内の展示へ。本当は丸木美術館に行きたかったが、せっかく晴れている日、2時間も電車に乗るのがもったいないと思い、終了日前日なのに諦めた。
昨日、WHOがコロナ緊急事態宣言の終了を発表。週明けにはコロナが第5類に移行する。パンデミック下に置かれていた日常は、ようやく活気づいてきたことを武蔵小杉から乗り換えた行楽日の総武線快速で感じた。先月行った京都も、外国人観光客が戻ってきて、マスクをしている人がほとんどみなかったので、不思議ではないのだが、東京にもコロナ前の日常が戻りつつあった。そんなことを思いながら、上野に着くとすごい人だった。動物園に並ぶ人々の姿も見えた。美術館前で記念撮影をする人。にぎやかな声が聞こえてくるから、自然と触発される。
向かったのは東京芸術大学陳列館。「解/拆邊界 亞際木刻版畫實踐」(脱境界:インターアジアの木版画実践)(※)を見るためだった。初夏の日差しに浴びる青々とした葉をつけた木々が陰をつくる上野公園がこんなに気持ち良いとは思わなかった。陳列館の2階は、天窓から優しい日光が注ぎ込み、版画がすられたキャンバスや布がゆらゆらとしていた。版画は力強かった。日本、韓国、中国、香港、台湾、フィリピン、インドネシアのアーティストの作品をゆっくり何周もしながらみる。印象的だったのは、タイトルの通り、ボーダーを越えていくことの希望だ。
點印社(香港)の「私たちは輪になって食べる、刷る」は横長の大きな版画。テーブルでご飯を食べる様子を描いているのだが、そこに描かれているのは、人間だけでなく、シャチや、犬など動物もいる。コロナ禍によって幾多の国境が閉ざされた世界で、異なる国籍や民族やルーツ、バックグラウンドを持つ人々の間に境界線が引かれるようになったことを忘れてはいけない。そんな時代だからこそ、他者との時間を共有することを肯定し続ける力強さを感じた。登場する人々や、動物の表情は笑顔で豊かで、美しかった。決して丁寧に、きれいにつくられたわけではないけれど、その雑然さを版画で刻む描くことの尊さを感じた。
韓国のキム・オクさんが制作した7枚の版画からは、いつか未来で消える朝鮮半島の南北の境界線を想像させた。30年以上に渡り、朝鮮半島南部をくまなく歩き、フィールドワークしてきたというキムさん。農村地帯など韓国の原風景が描かれた7枚は、南北統一という先に続きがうまれるはずだという期待を抱かせ、そしていまだ解決しない南北問題について、極東の島国にいる自分をハッとさせた。
何よりエンパワーメントされた。この展示の作家の多くが社会運動に参画し、運動を活性化させたり、アジテーションを強化するという目的を持ったりしながら制作しているということを掲示されているテキストで知る。政治的抑圧に抵抗する。それは大きな主語を語りがちのように感じられるが、版画を刷るということによって我が事として捉える身体性が一層増していくように感じた。何より、作家自ら社会に対して、異議申し立てをするまでのプロセスを、自らの生活実践の場において果たそうとする姿勢が感じられた。だからこそ、「私たちは輪になって食べる、刷る」のカラフルな描き方に心が揺さぶられたのだろう。
何より、描いて、版を作り、刷るという繰り返しを諦めない。その先に、社会的に生じている苦しさから解放されるように思えた。新聞記者として多くの時間を、社会的課題について考えようとしながら、当事者性があるかどうかなど悩み、写真撮影においても強度があるかないかなど気にしていた自分にとって、今までの悩みがちっぽけに思えたし、何よりそうだ、自分が言いたいことを言えばいいんだと思えた展示だった。
彫り続ける作家たちの姿勢に刺激をもらい、浅草に移動してから入ったタリーズで本を開いた。坂口恭平の「継続するコツ」だ。数ヶ月前に綴方で購入したまま開いていなかったが、効果てきめんだった。「才能という言葉」の呪いにかけられたように、他者の作品を羨望の眼差しで見ていた。そして、撮影ができない状態に陥っていたけれど、それは「比較が始まり、否定が始まり、手が止まる」という項で正体が書かれていた。ある程度、自分がやりたいことを続けていくと「慣れ」が生じるというのだ。「慣れ」。なるほど。確かに、慣れてきた。こうして撮っていけばいいのだ。こう進めていけばいいのだという実感は、いつしか、「見る人に伝えるには○○が足りない」と完成度ばかり気にすることに変わっていたからだ。
製本して、足りないことが見えて、評価を受ける作家のアーティストブックやダミーブックに圧倒され、到底その領域に達していないのにと自分を卑下して、比較をし続けていたなと気付かされた。なんか自分が馬鹿らしくなった。撮っていく。それだけでまずは十分じゃないか。当初抱いていた撮りたい写真への気持ちは、いろんな人の助言や苦言や励ましで少しずつ変容したりしているけど、自分の撮りたいという気持ちに正直になれるのは自分しかいないわけなんだから。
そうだ。去年の7月、アレック・ソスに「SLEEPING BY MISSISSIPPI」にサインを入れてもらったとき、メッセージをお願いして書いてもらった言葉を思い出した。「Don't ever forget the feeling when you first piched up a camera」。そうだよね。初心忘れずって言うよね。いま撮っているカメラは別に「First」じゃないけれど、このカメラで撮っていくぞって嬉々としていたときのことを思い出した。小さな1Kで、千尋からも「買ってよかったね」なんて言われて、ファインダーを覗いて初めて装填したネガフィルムに彼女を焼き付けたんだっけ。うまく扱えず、フォーカスと露出を決めるのに時間がかかって切ったシャッターによって写し取られた千尋のふと力の抜けた表情が自分は好きだったんだなと。あの感覚があったから、静かに被写体となる他者に正対する感覚を今でも大事にしているのかもしれない。
そんなことを思いながら、ベトナムの写真作家たちのダミーブック展をあとにしたあと、ブローニーを装填した。ゴールデンタイムの日差しが当たる街にカメラを向けてシャッターを数枚着る。隅田川に沿って歩いていくと、ふと人を撮りたいなという気持ちが湧いた。
ふと、目が止まった。若い男女が微動だにせず、静かに抱き合っている姿に見とれてしまった。高校生か、大学生かな、と思い、声をかけさせてもらった。こうやって街にいる人に声をかけて撮りたいって伝えるの久々だな。心のなかで自分に語りかけていた。それに、やっぱり最初は緊張する。「ティックトックですか?」と聞かれたけど、「いえ違いますよ」という。最近、インスタやYou Tubeのショート動画で確かに「ストリートスナップ撮っているんですけど」という動画が流れてくるなと思い出した。それのおかげなのかな。恥ずかしがっていた彼らは、少し悩むそぶりを見せてくれたけれど快諾してくれた。撮らせてもらえる。高揚感が全身に走った。
マキナで露出を決め、フォーカスを固める。透明の四角いファインダーの向こうで、静かに佇む二人に引き込まれる。女性は恥ずかしいからマスクをしたままだったけれど、風になびく黒髪の隙間から見える青いカラーコンタクトをつけた瞳から向けられる視線が、まっすぐ力強く凛としていた。男性の方も、無表情ながら芯の強さを感じさせていた。
撮影後に聞くと、二人は15歳の高校1年生。男性はぼくの父とおなじ江戸川区で生まれ育ったという。在日朝鮮人の母を持ち、インスタグラムには日本と韓国の国旗アイコンを掲げる。聞きづらかったけれど在日コリアンかどうかを聞いてしまったが、「そうですよ」とさらりと答える。僕がこれまで川崎で取材をしてきたことなども伝えると、親しげな感じを見せてくれた。そして、なにより自分のルーツに誇りを持っているようだった。スケートボードが好きで、スケートボードが「バ先」だといって、店長のインスタグラムアカウントを見せてくれた。女の子はシャイだ。ファインダーの奥に見たあの視線の強さとは相反するのか、不思議だった。
街で声をかけ写真を撮る。���影時間を入れても、賞味10分ほどしかなかったかもしれない。写真はSHOOTだ。池澤夏樹によると、「Shoot」は銃撃か撮影でしか使わない。だから、若い彼らをカメラの前に立たせる行為というのは、主従関係が生じ、抑圧・被抑圧の関係性が生まれることにほかならない。それでも、撮影を許容してもらうために、僕は彼らに誠意を伝えようとする。そして彼らも受け入れるために覚悟をする(覚悟を強いている可能性も忘れてはいけない)。そのわずかな時間でも、僕と彼ら彼女の間に一定の緊張感が生まれ、正対することによって他者を信じ切るしかないのだ。嘘偽りがないとは言い切れない。それでも、1/500秒という膨大な時間軸における一瞬、フィルムに焼き付ける行為そのものが、僕がこの社会に接点を築いていくことに必要なプロセスなのだと言い聞かせるには十分なんだ。そのことを、二人との出会いによって改めて認識させられた。
これが、明るい兆しだ。写真を諦めなくてよかったと思えた撮影だった。写真を撮ることでしか、僕は社会を知るすべがないことも知っている。それが、なにか明確なメッセージや、スローガンがなくても、そこに写し込まれた人々の姿によって、この社会の輪郭が際立ち、描かれていくことを信じたいから撮っている。僕にとって人を撮ること、正対してポートレートを撮ることとは、その決意表明みたいなものなのだ。沈みかけていた気持ちが、ようやく前を向き始めた。
※参考)近年、アジア各地で木版画による芸術・文化実践が再び���目を集めています。20世紀初頭の中国で魯迅によって始まった近代木版画運動は、民衆自身が社会や現実を表現する運動/方法としてアジア各地に伝播しましたが、20世紀後半になると社会構造やメディア環境の変化により下火となっていきました。しかし、2000年代から2010年代にかけてアジアの芸術家や社会活動家たちの一部は木版画を通じて社会や政治の問題を表現し、文化的直接行動や集団的創造の実験、さらには国境を越えた交流・ネットワークを生み出してきました。 本展は《「解/拆邊界 亞際木刻版畫實踐」(脱境界:インターアジアの木版画実践)》と題し、アジア各地から12の作家・活動団体による木版画を紹介します。とりわけ2020年に始まったパンデミックでは、人やモノの移動を一元的に管理する国境の問題や、差別や排外主義などの社会的、心理的な排除や断絶の問題を現前化させました。本展はわたしたちの生きる世界や社会に張り巡らされた「境界」を改めて主題化し、これらの境界からの離脱・解体を志向するトランスナショナルなアジアの木版画実践とそのネットワークについて紹介します。同時に、コロナ期に各地で制作された木版画を比較することで「アジア」という地理的/政治的概念への批判的認識と、さらなる理解・議論の可能性を開くことを目指しています。
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myonbl · 1 year
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2023年4月10日(月)
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新年度がスタートして10日目、ようやく生活のリズムが固まってきた。このタイミングで、以前からの懸案であった<天満天神繁昌亭昼席配信見放題>に申し込んだ。前期は平日5日間とも出勤なので、なかなか昼席に出向くことはできない。それならと月額4,980円を支払ったのだが、昼席(65歳以上)ライブなら予約で2,300円、いわば2回分のチケットとほぼ同じ金額となる。そう思えば安いものだ、しっかり笑って免疫力をアップしよう。
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5時30分起床。
週末はいささかペースが乱れて、就寝前の日誌記録ができなかった。
今夜から、平日はちゃんとその日のうちにポスト予約しよう。
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洗濯機を回し、朝食にはいつものそば定食を頂く。
月水金は3人分のお弁当を用意する。
ツレアイは休日、1人で出勤する。
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順調に到着、喚起してお湯を沸かし、ルイボスティーで一息つく。
IM嬢が昨日のうちに届けてくれた書籍を持って、図書館に返却に出向く。
履修登録を確認するが、今日の4限の登録ミス(2名)はまだ修正ができていない。
Classroomを確認し、いくつか登録ミスを修正する。2週目からは、こちらを用いて学生に連絡することにする。
弁当を頂き、午後の授業の教室(3618教室)へと移動する。
月曜日3限・4限は「情報機器の操作Ⅰ(看護学科)」、簡単に自己紹介した後で、学内ネットワークの説明・メールの署名設定・Wordの入力練習と進む。最後には、学生たちの<PC/スマートフォン所有情況アンケート>をお願いする。
4限終了後にアンケートの集計、やはり全員がスマートフォン所有、圧倒的に iPhone が多い。PC所有情況については、やはり持たないものの割合が高い。結果を sampe兄に連絡してから退出する。
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4人揃っての夕飯、新ジャガと無添加ベーコンの炊き合わせ、さんだかん燻製工房のちきんジューシー/チキンロール。肴として、独活の揚げ焼きを用意する。我ながらマメである。
録画番組視聴。日曜美術館
重要文化財の秘密 知られざる日本近代美術史
初回放送日: 2023年4月2日
文化財保護法に基づいて国がその価値を認めて指定する重要文化財。美術工芸分野の重要文化財件数は1万件を超える。しかしそのうち明治以降の絵画・彫刻・工芸はわずか68件に過ぎない。時代が浅く、絶対的な評価が固まり切れない中で重要文化財に指定された作品たちはどのような評価を経て、指定されるに至ったのか?誰もが一度は目にしたことのある傑作中の傑作、その知られざる物語をひもとく。
いやぁ、面白い。知らないこと一杯、いい刺激をいただいた。
片付け、入浴、体重は550g減、こうでなければ。
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ウォーキングには出なかったが、なんとか3つのリング完成。水分は1,440mlと、ちと不足なり。
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ophelia333k · 2 years
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2022年9月29日
 図書館を歩いていたら偶然、そこにフェルナンド・ペソアの『不安の書』があったから読んでいるのだけど、あまりにもよくてびっくりしている。
 〈確かにわれわれの創作する作品に何か価値があるとは思わない。確かにわれわれは閑つぶしのために創作を行なうが、運命から気を逸らすために藁を編む囚人とはちがって、ほかでもない閑つぶしそのもののためにクッションに刺繍する少女のようになのだ(フェルナンド・ペソア『不安の書』p19〉    〈夢のなかでは手に触れられるほど現実的なある種の現象が現実の空間にはありえない。現実の落日は測り知れないもので、束の間のものだ。夢の落日は固定され、永遠だ。筆のたつ者というのは、自分の夢をはっきりと見ることができ(実際そうしている)、夢で人生を見、人生を非物質的に見ることができ、幻想という写真機で人生の写真を撮ることのできる者だ。この写真機には、重いもの、有用のもの、限定されたものという光線は作用せず、心の感光板に黒く写る(フェルナンド・ペソア『不安の書』p27)〉    〈散文はあらゆる芸術を取り込める。その理由のひとつは、言葉は全世界を含むからであり、またひとつには、自由な言葉は全世界を表現し考えるあらゆる可能性を含んでいるからだ。散文は置き換えにより何でも表現できる。内面的な次元なしに絵画が直接そのものによって表現するしかない色彩と形を、それは表現できる。形のある実体も主題というあの第二の実体もなしに、音楽が直接そのものによって表現するしかないリズムを、それは表現できる。建築家が外界にある所与の固体で作らなければならない構造を、われわれはリズム、ためらい、絶え間なき流動性によって打ち建てる。後光も素材を変成させることもなしに、彫刻家が世界に残さなければならない現実を、それは表現できる。最後に、秘儀参入者のように詩人が、心から厳かにかしずく対象である詩さえも、それは表現できる(フェルナンド・ペソア『不安の書』p47)    〈現実の風景を眺めるのと変わらないほど鮮明にわたしは夢において風景を見る。夢の上に身を乗り出すなら、何か現実的なものの上に身を乗り出すことになる。実人生が過ぎゆくのを見るなら、やはり何かを夢見ているのである(中略)それぞれの生活――夢の生活と現実の生活――は、同じ固有の現実だが異なる現実をそなえている。近いものと遠いもののようだ。夢の姿はわたしにはいっそう近い、しかし(……)。(フェルナンド・ペソア『不安の書』p135)〉    ***  志人/玉兎の「懐胎 解体 Special Episodes」を聴いていた。その歌詞。    「きみは塩水 生きる意味を問う 涙の味は 辛い塩水 母なる地球とわたしとのへその緒切ったメトロポリタン、ウミガメの産卵後この帰り路を阻むテトラポット、銀河結合レールよりもインターネットが進化せど、ほとんどはきみの夢をまるごと強盗する絵空事」     やっぱり自分はこの頃の日本語ラップ(あるいはclassicな日本語hiphop)が好きで、漢a.k.a.GAMIの「紫煙」や刃頭の「野良犬」、志人/玉兎の「懐胎 解体 Special Episodes」(これは最近の曲だけど)、「門外不出」、降神の「SUIKA」や、BHUDDA BRANDの「人間発電所」、なんかをいつまでも聴いてしまう。    ***  夢について。何度も言っていることだけど、なぜか現実世界よりも夢の中の方が感情が鮮明でリアリティがあり、現実世界ではもはや何が起きても感情は曖昧なままほどけていってしまうのに対して、夢の中ではいつも強くて鮮明な感情を覚えている(そしてすべてを忘れてしまう)。  夢の中で覚えている感情というのは渇望であり、(存在しないものへの)恋であり、そして何よりも永遠の切なさだと思う。夢の中では、永遠に日が沈まないまま、夕焼けのような世界だけが続いている。切なさは持続し、消え去ることも解消されることもない。  数日前、夢の中で見ていた風景を覚えている。夢の中で目が覚めて(そこもまた夢の中なのだけど)、家の中の窓から外を見る。すると、雲は分厚く空は暗くもう夜になりかけているくらいなのに、時計を見るとまだお昼の14時くらいで驚く。  あらかじめ失われている夢の王国、ヘンリー・ダーガーの描いた『非現実の王国』と、ルイス・キャロルの『シルヴィーとブルーノ』について。
 ***  左翼は分裂症的(そして双極性障害的)なのに対して、右翼は偏執病(パラノイア)的、という話を聞いた。大雑把なのは間違いないけれど、実際、そうなのかもしれないと思う。浅田彰の『逃走論』はすべてから逃げ続けることを、分裂し続けることを肯定するわけだけど、右翼は逆にすべてを引き受けようとする。伝統を、国家を、天皇を、歴史を(だからこそ、右翼、と呼ばれる人間たちは『逃走論』を読むことでいらいらした心地になるはず)。
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asami-blackeyes · 1 year
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筋彫りは10年前 #五分袖 #龍虎 #sleevetattoo LINE: @ blackeyes #武蔵梵天 #彫浅 #川崎 #溝ノ口 #横須賀 #刺青 #横須賀タトゥー #和彫り #入墨 #tattoo #blackeyes #japanesetattoo #tattooart #yokosuka #tattooartist #yokosukatattoo #tokyotattoo #kawasakitattoo #世田谷 #池尻大橋 #246tokyo #刺青 #どぶ板通り (Black Eyes Tattoo 1st) https://www.instagram.com/p/Co2IV7OLwGu/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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illaalli444 · 2 years
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『犬王』舞台巡り【山陽道編】
友魚の旅路/平家都落ちルートも巡りたいよね、という記録です。関西在住・北部九州出身なのでこの経路なんてもう数え切れんほど往復しているが視点を変えるだけでこんなにも新鮮な旅ができるってすごいなあと思う。
行った場所:腕塚(腕塚堂・腕塚神社)/草戸千軒町遺跡/厳島神社/花岡八幡宮/壇ノ浦古戦場・赤間神宮ほか
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腕塚(兵庫県神戸市・明石市)
腕を埋めて腕塚。一の谷の戦いに破れ西へと落ちゆく途中で非業の死をとげた平忠度の腕を埋めたと伝えられる"腕塚"は神戸市長田区駒ヶ林と明石市天文町の2箇所にある。え どゆことじゃ?と思ったけど知りたいこと全部書いてある論文ありました(大坪舞2008「祭祀される忠度の腕ー伝承を引き寄せる場をめぐってー」『論究日本文学』88)。こちらを参考にすると、そもそも忠度死地は『平家物語』でも史実でも絞り込めない。両地の忠度伝承は、駒ヶ林は17世紀後半(腕塚そのものは19世紀)、明石は17世紀初頭(腕塚は17世紀後半)までは遡れそう、とのこと。
駒ヶ林の腕塚は一の谷からちょっと東に位置。地下鉄海岸線駒ヶ林駅が最寄り。長田港に面する民家に囲まれて"腕塚堂"がある。細い路地に入っていくけど看板や標石があるので迷いはしないと思う。ガレージみたいなお堂。北西に忠度胴塚もある(こっちは看板少なくてわかりにくかった。伍魚福さんの隣)。
明石の腕塚は一の谷から西へ10kmほど離れる。山陽電鉄人丸前駅下りてすぐの"腕塚神社"。神社といってもお堂はごく小さい。木製の腕は地元の彫刻家の方が奉納されたもので、これで患部を撫でるとよくなるとか(境内においてあった「腕塚神社縁起」より)。東南に忠度塚と忠度公園もある。駅をはさんで北の丘陵にある人丸神社は柿本人麻呂を祀るが、境内に"盲杖桜"があり目の見えない人とのゆかりが深い。このへんからは明石海峡と行き交う船たちがよく見えます。
当たり前ですが京都とは全然景色が違っている。南が海、北が山。海を眺めていると友魚としてはこのへんまでは始めて来た場所であっても(見えなくても)"知ってる景色"なんだろうし逆に平家の人びとにとっては都を落ちて流浪の身になってしまったことを思い知らされる景色なんだろうなと思う。
どちらの腕塚も、いまも地元の人に愛されているのが伝わってくるたたずまい。腕塚が複数箇所にあるの、後世の人たちが"物語"を求めた結果だと思うのでそんな人間の営みが愛おしくなります。
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草戸千軒町遺跡(広島県福山市)
直接の舞台ではないのですが、湯浅監督がふくやま草戸千軒ミュージアム(広島県立博物館)の街並み復元模型に言及されていたので。博物館では中世の人々の生活に関連する出土品を沢山見られる。本編で町の人たちが持ってて印象的な曲物の容器もいっぱい並んでる。
草戸千軒町遺跡は当時の海岸線で芦田川の河口付近にあった中世の港町。友魚と谷一さんも寄ったかな?と思っていたのですが、拠点的な大都市というわけではないようなのと、どうやら14世紀後半は一時的に町が衰退していたようなので寄ってないかもしれません。友魚が魚をほぐしているシーンはまだ広島らしいので(オーコメより。広島を2年もまったり旅していたのはちょっと謎)、このあたりかなと思っていたのですが、お金持ちがの人がいるのは尾道とか鞆とかかな。
遺跡現地は博物館から西南約2kmに位置。調査後に掘削されあとかたもありませんが、法音寺橋に説明板が設置されている。橋を渡って芦田川の右岸には草戸稲荷神社と明王院(常福寺)がある。明王院は本堂が1321年、五重塔が1348年に建てられたものなので、友魚たちが見たかもしれない建物がそのまま残っていることになる。明王院入り口付近の石垣にはひょうたん形の石が組み込まれている箇所があり(現地に説明板あり)、犬王ポイント高いように思います。
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厳島神社(広島県廿日市市)
あれに見えるは厳島(ここでお社は映さないの超好き)。斎き島=神様をお祀りする島 として古くから信仰されてきた。1151年に安芸守となった平清盛は厳島神主家の佐伯氏と関係を深め、12世紀後半に海上の社を造営。その後何度か建て替えられているが、主要な建物の配置は基本的には変わっていないらしい。特に印象的な回廊は、現在のものは永禄~慶長年間(1558~1615)の再建。作中の回廊は、1241年に再建され、1537年に焼けたものにあたる。
干潮のタイミングで訪問したので、社殿が建ってるベースとの距離感がわかってよかった。友魚が落ちちゃっても自力で這い上がれそうな深さで安心(海の子なので心配には及ばないんだろうけど)。社殿が海に浮かんでいる姿が見られなかったのがかなり残念だけど、昼に干潮だと夜に満潮になる、という関係が理解できた。
大鳥居は改修中だったので足場が組んであり近くまで行けず。でも社殿の柱にもフジツボいっぱい付いてるのが確認できました。大鳥居も何回か建て替えられていて、現在のものは明治期の再建。1325年に2代目が倒壊してから1371年に3代目が建てられるまで空白期間があるので、友魚訪問時(1360年代後半くらい?)、実際には建ってなかったぽい。
しゃもじって琵琶みたいな形だな~と思いながらお土産見てたのですが、弁財天の琵琶っぽい工芸品としてつくられるようになったんですね。知らなかった。
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花岡八幡宮(山口県下松市)
境内に友魚が雨宿りしてた塔(閼伽井坊多宝塔)がある。多宝塔の建てられた時期、立て看板では「室町中期」となっているのですが、ガイドブックやウェブ上で「室町末期」説も見るのでど~いうこっちゃと思っていたのですが、建築様式からみて室町中~後期、解体修理で見つかった木片に永禄3年(1560)の墨書あり、ということのようです(下松市HPより)。また、お宮そのものも創建当初の鎮座地から1489年頃に現在地に動いているらしい。作中で描かれているのは実際よりも少し下った時期の姿になるのかなと思います。
多宝塔の実物は思っていたより小さい印象を受ける。というか、ここに友魚があの感じで座っているのを想像すると、まだだいぶこどもだな...?!と感じました。
旧山陽道に面した丘陵上に位置し、高いところにあるのでめちゃくちゃ石段を登る。現代人にとっては雨宿りにちょっと寄るレベルを越えてるので、参道入り口あたりでお寺の人が友魚に声をかけたのかもとか想像します。
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壇ノ浦古戦場・赤間神宮ほか(山口県下関市)
鴨の河原と同様、壇ノ浦も始まりの場所であり終わりの場所。
壇ノ浦古戦場跡は関門大橋の下関側のふもとに「みもすそ川公園」として整備されている。ちょうどこのあたりに友魚の暮らしていた集落があったのかなと想像できる景色。作中では霧に包まれて対岸は描かれていないけど、九州側の門司がかなり近くに見える。この土地も"境界"ですね。
赤間神宮は壇ノ浦古戦場跡から南西1kmに位置。壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇を祀る。江戸時代までは阿弥陀寺で、明治の神仏分離により天皇社赤間宮へ。1940年に赤間神宮に改称。1958年につくられた水天門は「波の下にも都がございます」の竜宮城を地上に造りだす意図でデザインされている。
耳なし芳一の舞台でもあり、境内の片隅に芳一堂あり。宝物館ではいろんな種類の琵琶も見られる。境内に平家蟹の標本も置いてる。
生きてる平家蟹は市立しものせき水族館海響館で見られる。海響館ができるまえの旧下関市立水族館は長府にあったのだけど、敷地内に"鯨館"という鯨形の建物があった。現在は中には入れないけど外観は見られます。小さい頃訪れたことがあって、でっかい鯨!のイメージだったけど今回再訪したら思っていたより小さいな...となりました。場所は関見台公園。下関は近代捕鯨発祥の地とされ、鯨とゆかりが深い。たまたまかもしれませんがモチーフの重なりが面白いです。
旅してこの文章を書くことで、山陽道、というか瀬戸内の海辺が友魚の旅路であり作中作(腕塚、鯨、竜中将)の舞台でもあるという重なりをはっきり認識できたのでよかった。この作品の重層的につくられているところが大好きです。
文献(本文中で言及したものを除く)
小川國治編 2001『長州と萩街道』街道の日本史43 吉川弘文館
県立広島大学宮島学センター2020「宮島 大鳥居のひみつ」
広島県歴史散歩編集委員会編2009『広島県の歴史散歩』山川出版社
ふくやま草戸千軒ミュージアム2020『瀬戸内の交流 まちのにぎわい 人のつながり』
峰岸隆2015『日本の回廊、西洋の回廊』鹿島出版会
山口県歴史散歩編集委員会編2006『山口県の歴史散歩』山川出版社
山口佳巳2008「仁治度厳島神社廻廊の復元的研究」『国立歴史民俗博物館研究報告』第148集
頼祺一編 2006『広島・福山と山陽道』街道の日本史41 吉川弘文館
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utautain-suzuri · 2 years
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たのしい指墨と拓本
とても楽しみなイベントに参加致します! 短歌のイベントです。遊びに来てね、もしくは配信でのご視聴お待ちしております~!
 8/28(日) 19:00  「雷鳴は ヴォリュームあげて きっと来る さよなら、夏の カメラかかげて」
――――― 私はチラシを製作したので、こちらではそのお話を致します。 長い蛇足ではございますが、休み休みご覧頂ければと存じます。
扨、今回は「箸」と「爪」を用いよう!となりました( イベントのゲストの方のお名前から )。
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◆指墨
先ず爪で字をかきます。
爪でかく字は爪ごとに、角度がそれぞれになります。私は右手人差し指の爪を少し伸ばして用いました。小指の方が意味が含まれるかなと考えたのですが、うまくかけず。
ペンを持つような、指ハートするような手の形で。親指は出過ぎず、人差し指の第一関節に副えるようにするとよかったです。この辺はもっと表現によって変えていく方が面白いのかもしれませんね。
爪の背と、爪と指の間にこまめに墨を注いでかきます。
これは、「書く」行為でもあり、「掻く」行為でもあります。それから支持体との距離が間接的ではなく、直接である点も言い添えておきたいです。
墨が一度に出てあまり続かないのですが、接地面を少なくすると少し持続します。また、接地の度合いに違いをつけたり動きに緩急をつけると生き生きとしてきます。波磔のようなものもできます。これは全体のバランスに注視しつつ遊びたい所。
爪を真横に動かすと細い、縦に動かすと太い画が書けますので、鱗のない明朝体のようにもできます。平筆や刷毛で書いた字にも近いでしょうか。カタカナをかくとエレガントな線になってしまうような…?
円や墨を持続させる必要がある画(草書のような)、爪より太いか細いかの線、掠れで魅せる場合はあまり向いていませんね。
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注意点は、一度に多く墨が出やすいので下に何か敷く事(何を敷くかも影響します)、力いっぱい掻かない事。それから爪が傷むので、手入れを。
紙は、半紙のようなものは破けてしまうと思います。とはいえ水分が浸透しない紙に墨をのせると合わないです。和紙は掠れが出て思うような感じと異なりました。(この、「違うな」という感じが手に直接伝わってきて妥協できないというか)。正直、コピー用紙が最もかき易いかもしれません。
とは言え表情を出したい。今回はマーメイド紙を用いました。マーメイド紙は細波のような凹凸が紙の面にあります。紙の地合いにも頼りつつ、です。また別の機会があればざら紙などもよさそう。紙の選択はPCでの画像処理の事も考えないといけません。
爪でかいた字は、太さのコントラストに限界があります。今回のように少し長めの文をかくのは、あまり見た目がよろしくない。もちゃっとします。
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「指墨」、「指頭画」は水墨画のひとつで、爪ばかりでなくその名の通り指は勿論の事、掌や肘も筆となる手法です。中国で起こり、本邦では池大雅が能くしました。
箸での書き方は、墨をまめに注いで、指揮棒をふるうように。繊細に、丁寧に、大胆に。先が円いものの方が扱いやすいです。必要であれば削る、軸を太くするなど。
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◆木彫り
…それで、今回は指墨でかいた字を句の頭に持ってきて、それを木に彫って拓本を取ろうかと思い至りました。
「物としての字」みたいな事をしたく。それから彫ることで「欠く」行為が加味される、という意図で。
爪でかいた文字をPCにとりこみ、きれいにして実寸より2倍サイズで印刷。それを彫り易く平滑な板に貼り付けて、カーボン紙で輪郭を映します。そして彫ります。
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彫る道具ですが、私はカッターがメインです。刃がすごく減ります。刃の交換が容易なものの方が適しています。輪郭にカッターで切り込みを入れ、周囲を浚うように…削るように(?)カッターを持つ手の形を変えて刃を寝かせて動かします。木は常に彫り易い向きで、熱中し過ぎて怪我をせぬように。
切り込みの段は鉛筆持ちなのですが、削る際は注意が必要。カッターの刃を反し自分の外側に向け、寿司を握るような手つきにします。合谷にカッターを乗せず、カッターの柄を掌で覆うような。それから中指は薬指側に副え、人差し指で刃の根元を押さえます(刃を持つのではなく根元です)。親指でカッターの側面を、人差し指でカッターの背を、掌と他の指でカッター全体を握りしめて、しっかりと押さえます!もう片方の手の親指で刃の背から、そっと進行方向に動かしてあげます。木への入射角は浅く。
無理せぬよう少しずつ、切り込みの周りの木を削っていきます。刃だけ上げる等すると、刃先が折れて没入して困ったり、目に飛んできて困ったりします。木が固い時は別のアプローチを模索の事。
上に紙を乗せて軽く鉛筆で擦るなどして、様子を見て彫りの工程を完成させます。必要であれば彫刻刀も用いましょう。
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先日ポストを木で作った時に文字の部分を少し彫ったので、その際のやり方を参考に進めました。
◆湿拓法
次に拓本です。
(もし行われるようであれば、公共物や他人の持ち物の拓本を取る場合は許可を得て、害わぬよう充分気を払って行って下さい。)
拓本にするつもりなので、そもそも木の節がないものを選び、文字は反転せず。それを今回はPCにとりこみますので、広範囲の彫りは致しません。この辺は大分助かりました。節があると固くて彫れないので。
拓本は当初より考えていたので、試作品も作って画材や紙との相性も見てみたのですが、正攻法で行きました。墨と、半紙ではなく水墨画用の紙を使用。クレヨンでの乾拓法もありだなと思ったんですが、またいつか。
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彫った木の滓を掃います。あまり道具で擦ると木が毛羽立ってしまう。
紙をテープで固定します。これは乾くまでそのままの方が紙が撓みません。木は少し歪みます。湿拓法を行うのは、木より岩などの方が良いでしょう。
脱脂綿などで全体を濡らし、輪郭が出るようにしっかりと際を押さえ込みます。紙を破かぬよう。
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濡れて変色した所が他と同じくらいの色に戻るまで乾かします。7、8割水分が飛ばないと、この後のせる墨が対象物に染みてしまいます。
タンポに墨をつけ、もうひとつのタンポに墨を移します。後者のタンポは文字より一回り大きいくらいが良いです。布は目の細かいものを。一度ガーゼを使いましたが粗かったので、古いシーツを改めて用いました。タンポに直接墨をつけて、もうひとつのタンポを擦り合わせる手法もあると思います。
要らない紙で濃度や斑がないかを確認します。
紙をタンポで、優しくとんとんとたたきます。
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乾かします。以上。
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この拓本はうすめにとる「蝉翼拓」というものを目指しました。(タイトルに夏が入っていたので)。コントラストをはっきりさせる方が本来は主流と聞きます。
これをPCにとりこんで、縮小・配置など致しました。
イベント会場に使用した木を置いていますので、もし気になった方はご覧下さいませ。
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おまけ。
拓本と同じ工程で、彫っていない木に紙を留め、湿し乾かし、次に紙で形を切り抜いたものを乗せ、ぽんぽんとタンポでたたくと、一味違うステンシルができます。
技術があれば、木目を生かしておもしろい表現ができるかもしれません。
あらゆる手法を採用する時、よりそれぞれを活かして融合させられるようになれれば、もっとおもしろいだろうなと感じています。
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リソグラフ印刷〔色紙(ブルー)+若葉/コニーラップ(ブルー)+蛍光イエロー・若葉(中は共に青インク)〕。
蛍光のインクはUVライトで光ります。鋭い光を。
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masami-tokuda · 2 years
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. ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ 浅彫 さくら 漆 ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ #lacquerware #urusi (FUKAI UMI swung) https://www.instagram.com/p/Ci13mVGvWB0/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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psytestjp · 7 days
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mataaeru · 27 days
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柔らかな毛布に包まれて眠る。それ以上の幸せを知らない。知らないだけだよって君はいうけど、本当にそれ以上の幸福があるの? あるなら教えて欲しいと甘えてみれば浅い眠りの狭間、波打ち際を歩くように微睡みながら朝、目が覚める。
 カーテンの隙間から光が差し込んでいる。その光を見ただけで叩いて引き伸ばした金属板のように滑らかな空を思い浮かべることができて、それはなんだか大気圏も連想させて、薄くなればなるほど澄んでいく空気の感触を匂わせている。彗星はそんななかで燃焼していずれは燃え尽きて小さな石ころになって果てには塵クズになって消えてしまう。でも、それはそれでいいのかなって思わせる健全さも冬の気配には満ちているから。このうらぶれた季節が案外好きだ。
 拡散された光に舞う埃の粒子が薄く開いた瞼の下のまだ霞んでいる左目に映り込む。今日はどんな1日になるのかな、なんてとりとめもないことが頭の片隅で回り始めれば五感はゆっくりと現実に戻ってくる。分厚いマットレスを通して伝わるフローリングの底冷えや、布団から露出した頬をエアコンの暖気が呼吸の軌跡ごと包み込んで撫でる、その肌触りまでを感じることができる。瞼を一度閉じてまた開ける。明瞭になった視界に季節の輪郭���尖って世界のディティールがピントの合ったレンズみたいに浮き彫りになる。
 それから控えめな伸びをして起きあがれば絹のパジャマが肌着と擦れあってささやかな静電気が生まれる。この瞬間に見えなくたって結晶のようなきらめきが飛び散ったのがわかる。今まで眠っていたベッドの余白にはもう一人分の空白があってそこにはまだ温もりが残っている。小さな部屋の扉の向こうに存在する小さなキッチンから聞こえてくる鉄同士がぶつかる音やスリッパ越しの足音、蛇口から流れる水の音はそれぞれが独立してる生活の物音のくせにちゃんと調和していて、森の動物たちで編成された楽隊が遠くからこちらに行進してくるようで、なにか予感を引き連れてくる。
 おはようと言い合える人がいること、コーヒーメーカーが全自動で淹れてくれるコーヒーは一人分には少し多いから、それを分かち合える人がいること。退屈であろうと忙しかろうとお互いに腕を広げて抱擁し合えるということ。当たり前と呼んでしまうにはあまりにも傲慢なかけがえのなさをどれだけ心に留めておくことができるのだろうと思う。広大な海に錨を下すように君の肩にそっと体を寄せる。
 凪いだ海が突然の嵐によって荒れようとも火は絶やさないように、いまさら口には出せないけどそう心から思うから、代わりに熱されたフライパンに乗る丸いパンケーキを見て、綺麗な焼き目だねって伝えてみる。隣に立つ君はわかりやすく顔に出る人だからニヤニヤを1ミリも隠せないまま、でしょう。と浮き立つ。パンケーキの上に四角いバターを乗せてメープルシロップをかける、そんなほんの少し先の未来の動作を想像してみる。まだ熱い表面にバターが溶け出して透明な液になる。その上からチューブのシロップを垂らしていく。粘度の濃いそれがパンに染み込んでいけばいくほど甘い匂いが立ちのぼる。フォークを突き刺しながらナイフで4等分に切り分ければ、その柔らかな感触がステンレスのカトラリ越しに皮膚に伝わってきて、自分が自分のままでいれる喜びや君が君のままでいてくれる頼もしさなんかを、あるいは夜から朝へと綿連に繋がるありふれた特別な日々の実感なんかを受けとって、こそばゆくなって肩を寄せたまま笑ってしまう。
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