「さよなら」を言いに
「さよなら」を言いに
小沢 純
暑さにうんざりしながら、昼のTVニュースをぼんやり眺めていた。
今年は、九月になっても真夏日が続くという。そのニュース映像に
県民ホールの前の太陽にぎらぎら光る噴水が映った。懐かしい。そ
こに大枝涼子が映っていないだけで、あの写真と同じフレーミング
だった。
あの日も同じようにぎらぎらした夏だった。乗り気でない涼子を
拝み倒して、一日だけモデルになってもらった。噴水の水しぶきを
高速シャッタで止めたその向こうに細身の可愛い笑顔の涼子が立っ
ている。「夏の少女」とタイトルを付けた、たった一枚のそれが、
俺が大学時代に、唯一賞らしいものをもらった写真作品だった。
涼子に渡すつもりでその写真を四つ切りのパネルに仕上げた。け
れど、あのどさくさで渡しそびれてしまった。涼子に最後に会った
のは、内田の通夜の晩だった。
その年、夏休みも終わりに近い頃、俺は朝早く電話で起された。
内田信彦の彼女からだった。なんだ、朝からのろけでも聞かされる
のかと、わざと気だるそうな声で電話に出た俺に、半べそかいてい
るような声で佳美が言った。
「内田君が・・死んじゃったの」
まだ半分眠っていた俺の脳味噌は急発進で活動を始めた。いった
い何があったんだ? 俺は一週間くらい前に、やつの部屋で仲間三
人と酒飲んでギター弾いて一晩騒いだばかりだった。やつは、いと
しのエリーを佳美のために絶唱していた。それが、どうしたという
のだ?
予備校時代に知り合った仲間うちでペアが何組か誕生した。その
一組が内田と佳美だった。どちらかというと、気の強い佳美に優し
い内田が振り回されているという感じのペアだった。
ある時など、俺が俺の女とウィンドショッピングデートをしてい
る時、ランジェリーショップの前で、居心地悪そうに突っ立ってる
内田に出逢ったことがある。デート中に彼氏を置いて、下着選びと
は、しっかり尻に敷いてるなと思ったものだ。俺の女は、笑って俺
に言った。
「私なら、あなたに選んでほしいのに。佳美さんって?」
その夏、内田は佳美を、式根島へのお泊りデートに誘った。
けれど、陽射しの苦手な佳美は、内田の誘いを断ったそうだ。
そこで、内田は親友の大枝がそれぞれの妹同士も友達だったのを、
幸いに、それぞれ妹を誘い四人で式根島へ泳ぎに出かけた。
妹を連れ出したのは、うまいこと親から旅費の一部を出してもらう、
口実だったらしい。
式根島は小さな船で数時間くらいかかる距離の、海の奇麗な小島だ
そうだ。
佳美の話では、その式根島で、前日の午後、内田が溺れ死んだと
いう。内田の姿が見えなくて、みんなで探しはじめて、まさかと、
潜った海の底に沈んでいる内田を発見したのは、大枝だったそうだ。
そういえば大枝は水泳部だったはずだ。大枝は、救命法を試みた。
しかし、助からなかったそうだ。
「私、これから島へ行く」
佳美は、そう言って電話を切った。
受話器を置いてから俺は、朝刊を開いた。
「シュノーケル初使用で大学生水死」
の見出しで、深さ五メートルの海中に沈んでいる内田を大枝が見つけ、
人工呼吸などをしたが間もなく、死亡したとの記事が載っていた。
通夜で大枝は半狂乱に近かった。自分の親友を海底から引き揚げ
た上に、死なれてしまってはショックもでかいだろう。佳美���の仲
を知っている友達たちは、佳美を気づかっていた。けれど佳美は、
気丈夫にも
「私より、大枝君の心配してあげて」
とまで言った。
俺は、涼子を探した。涼子は、ハンカチを握り締めて終始うつむ
いたままだった。
納骨も終って、涼しくなった頃、俺はひとりで内田の墓を訪ねた。
妹が墓まで案内してくれた。俺は、持参したオールドの瓶を持ち上げ
「飲めよな」と心の中でつぶやいた。
そんな昔のことを思い出して、涼子に電話してみた。涼子はまだ
独身で親元にいた。ちょっと会わないか?と誘うとドライブでよけ
ればいいよという返事だった。最近運転が楽しいらしく、黒のセリ
カに乗っているという。
「え?そんな活発なタイプだったっけ?」
とおどけると、ケラケラ笑っていた。
新しくできた地下鉄の駅で拾ってもらって、涼子の運転で海辺を
ドライブした。とある海岸で、涼子は車を止めた。
「二年くらい前までスキューバに凝ってたの。夜、潜るのって怖い
けど素敵よ。この海も良く潜りに来たわ」
夕焼けも消えてすっかり闇に包まれた海辺で涼子は、貝殻を拾い
ながらそんな話をした。目の前の海は、真っ暗でとても夜潜りたい
とは、俺には思えなかった。
そういえば、と内田の話になった。あの夜、涼子の兄の大枝は警
察へ事情聴取に呼ばれて、民宿の部屋で内田の妹と二人きりだった
そうだ。窓の外に人の気配を感じたので不審に思い、二人で意を決
して、窓を開けたそうだ。けれど、
「誰もいなかった」
と言う。
涼子は、前の赤信号を見つめながらはっきり言った。
「ぜったいに、誰か居る気配がしたの。」
「私、内田君がきっと、さよならを言いに来てくれたんだと思って
るの。 今でもよ」
それは、俺に口をはさませないような強い言い方だった。霊感で
も強いのか、それともなんだろうと、考えていた。この信号機を右
折すると裏道で近道なのだけどなと思ったけれど、声に出せなかっ
た。
ふっと、思い当たった。
もしかしたら、もしかしたら、涼子がいまだに一人なのは、内田の
ことが、今も好きだからなのかもしれない。その俺の思いは、しだ
いに確信に変わっていった。
スキューバで真っ暗な夜の海に潜って、涼子はなにを考えていた
のだろう。内田の気持ちを追いかけていたのではないだろうか?
ハンドルを握る涼子の横顔を見ながら、いろんな想いが俺の中を駆
け巡る。結局そのことは何も言葉にできないまま、別れる駅に車は
着いた。
「じゃあな、元気で」
と車を降りた。
「うん、あなたもね」
涼子の目が、寂しそうに笑っていた。
持参した例の四つ切りの写真パネルは、はっきり渡すこともできず、
リアシートに置き忘れることにした。
俺は、地下鉄の階段を降りながら涼子の言葉を反芻していた。
「 さよなら を、言いに来てくれたんだって思ってるの」
でも、涼子はいまだに、内田に「さよなら」を言っていないんだ。
今になって、気づくなんて俺もどうしようもなく鈍感な男だ。
あのとき、ハンカチを握り締めていた涼子の姿を記憶から振り払う
ように、俺は、残りの階段を一気に駆けおりた。
内田の死から、すでに数十年の年月が流れた。
俺のところには、佳美がみんなに分けてくれた式根島の砂と、
海や民宿を背景に、すかしたポーズの内田の写真が残っている。
その写真の数時間後には、死ぬとも知らずに。
内田 信彦 に捧げる。 2015.08.31 改稿
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