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#ペリリュー
shinjihi · 9 months
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「米軍最強の海兵隊を全滅させた男」 を知っていますか? 彼の名前は、 陸軍中将・中川州男(なかがわ くにお) 太平洋戦争において 最大の被害を米軍に与えたと言われる 「ペリリュー島の戦い」を指揮しました。 日本兵1万に対して、 上陸してくるアメリカ兵は4万8000という 圧倒的な兵力差。 この圧倒的に不利な状況で アメリカ軍を追い詰めた作戦とは、、、 ==== ペリリュー島の戦いは アメリカ軍にとって、 隠したくなるほど不名誉で 甚大な被害を出した戦いだった、、、 1944年3月 ペリリュー島に派遣された中川州男 彼はこの時すでに、 絶対的な守備力不足を痛感していました。 「米軍と正面から ぶつかっても勝ち目はない…」 そう考えた中川は ある戦略を実行しました。 それは、、、 島内の中央部に「地下壕」を張り巡らせる というものでした。 ペリリュー島独自の特徴である 天然の洞窟や鉱石の採掘場 の存在に着目し、 大規模な地下陣地を 構築したのです。 日本兵たちは地下陣地を作り、 約5ヶ月という歳月をかけて 入念に準備をしました。 1944年9月、 完全に要塞化されたペリリュー島に 何も知らない米軍が上陸したのです。 まず中川は 米軍が上陸するであろうビーチに 砲撃を降らせました。 そして 米軍を島の内陸に追い込み、 日本兵の姿が見えなくなった と思わせたところで、 地下陣地で待機していた日本兵たちの 容赦ない攻撃が始まったのです。 兵器、兵士の数で 5〜6倍以上の差があったため アメリカ軍の計画では 島を4日で攻略する予定だったと言われています。 それにも関わらず、 最終的に2ヶ月半を要することとなり、 アメリカ軍の作戦計画を 大きく狂わせることとなったのです。 また中川は、 勝利だけにこだわったのではなく 島民への疎開指示を行いました。 そして 島が歪むほどの戦いと表現された ペリリュー島での戦いで 住民の犠牲者は1人も出さなかったのです。 このように中川州男は 圧倒的不利な状況の中でも 冷静に状況判断を行い、 一般市民や部下たち を守りながら 準備周到で アメリカ軍を迎え撃ちました。 そして「米軍最強」と言われた、 アメリカ海兵隊の第 1 海兵師団を 全滅へと導いたのです。 現在でも中川州男は アメリカで称賛されるほど有名ですが 日本では ほとんど知られていません、、、 このように 日本人には知られていない歴史が まだまだ存在します。 教科書では数ページで 終わってしまう近現代の歴史、、、 そこには 全く描かれていないような出来事の中にも 確かに日本人の歩みがあり 先人たちの葛藤や苦悩、 ドラマが詰まっています。 一人一人の軍人たちの生涯と 各局面での意思決定を追っていくと 今まで負けたことだけを クローズアップされていた 戦争の真実が 見えくるかもしれません、、、
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ryotarox · 9 months
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アメリカ軍は日本軍の巧妙な防御戦術を見て、日本軍は緻密に連絡を取り合っており、その手段は伝書鳩と考えていた。そのため、各大隊には狩猟用のショットガンが配られ、ペリリュー島を飛ぶ鳥は鳩でなくとも片っ端からショットガンで撃ち落とされた。しかし実際は日本軍はペリリュー島で伝書鳩は使用しておらず、ペリリュー島の鳥たちにとってはとんだとばっちりであった[48]。
ペリリューの戦い - Wikipedia
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ari0921 · 11 months
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和五年(2023) 6月16日(金曜日)弐
     通巻第7799号
 南太平洋の全域に浸透していた中国の進出、その脅威
  フィジーが親米に転換。パラオ大統領が来日
************************
 南太平洋の島嶼国家へ中国の浸透ぶりに、怒り心頭は米国ばかりか、豪州とNZである。英国連邦の宗主国英国も同列にある。総じて米・英、カナダ、豪、NZは「ファイブ・アイズ」の仲間であり、機密情報を共有している。
 日本の尖閣諸島をほぼ連日領海侵犯する中国海警のえげつない主権侵害行為は多くの日本人を怒らせているが、豪州とNZにとって、これと同じような危機意識と怒りがある。南太平洋の島々は「かれらの裏庭」だからである。
 とはいえ、各国に温度差があり、南太平洋諸国はカナダから遠いので無関心、米国もグアム、テニアン、パラオ、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島あたりまでが守備範囲であり、赤道から南は、豪とNZに任せたい。
 2022年に中国がソロモン諸島と協定を締結したため、まわりの国にも米国特使が飛んできた。フィジーは政権交代があり、中国と締結した安全保障協定離脱を示唆した。
 
 これまでNZは親中路線を突っ走って、中国に対してそれほどの強攻策に出たことはなかった。
或る日、気がつけば驚くほどの様変わり。関与にあまり熱心とは言えなかったニュージーランドとフィジーが軍事訓練と海洋安全保障を強化するための防衛協定に署名した。
 6月14日、ニュージーランドのアンドリュー・リトル国防大臣とフィジーのピオ・ティコドゥアドゥア内務・移民大臣はフィジーの首都スバで協定署名式を行った。
この協定の内容は「相互の領土防衛と軍事協力の法的枠組み」である。
 
米国、ニュージーランド、オーストラリアが、この地域で増大する中国に対応するため、太平洋諸国との安全保障上の関係強化を推進している。
米国とパプアニューギニアは23年5月に防衛・海洋協力協定に署名した。
 豪州は中国人の移民がすでに百万人近く、NZも凄いことになっている。
筆者も取材旅行で目撃した驚きは、ウェリントンやオークランドの大学へ行くと中国人留学生だらけ、キャンパスは中国語が飛び交っていた。シドニーではカラーの中国語新聞が日刊で数種もでている
 国防安全保障の研究と提言で知られる米シンクタンク「ランド研究所」の分析に依れば、「北京が昨年、中国・ソロモン諸島安全保障協定の締結に成功したが、これは特にオーストラリア、ニュージーランド、米国との協定によってバランスが取れていない場合、同様の行動をとる他の太平洋島嶼国に衝撃を与えた」とした。
のんびりと外交問題が深刻では無かった国々が目覚めた。それが中国の脅威だった。
 ▼フィジーは中国べったりだった。
 フィジーの宗主国は英国である。プランテーション計画で英国は植民地時代のインドからかなりの数の労働力をフィジーへ移動した。その末裔がフィジーにインドタウンを形成し、経済的には流通や小売りを握った。
 携帯電話はボーダフォン一色だったが、いつしかファーウェイが進出していた。首都スパのサウスパシフィック大学には孔子学院が設立された。
 フィジー前政権が中国と締結した「警察協定」では訓練を中国警察が担当し、警備に必要な物資を提供した。そのなかには暴動鎮圧装備、交通指揮車、無線通信機器や救助活動ゴムボートなどが含まれていた。
 ペリリュー、アンガウルの激戦で知られるパラオは、地政学的には重要な海域の要衝に位置し、大東亜戦争では、日本軍が死力を尽くした。
パラオの人口、僅か1・8万、日本で言えば村である。しかし国連加盟、「大統領」がおられ、親日的である。
 パラオのスランゲル・ウィップス大統領が来日し、6月14日に岸田首相と会見し、今後の協力関係を話し合った。翌日には東京で記者会見し、中国が太平洋島嶼地域への進出を加速させている現実に、「われわれの安全保障の責任は米国にある」とし、米国に支援を要請したと述べた。 
 パラオは台湾と外交関係を維持している。ウィップス大統領はパラオ海域で中国船舶の無断航行が相次いでいるのは「国際法違反だ」と非難した。
「ウクライナで起きているようなことが、太平洋では決して起きてほしくない」。
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momijiyama1649 · 2 years
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mechafactory · 4 years
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uzurakoromo · 2 years
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ペリリューー楽園のゲルニカーで、ヤマザキ春のパン祭りパロディ。
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hydiesadu · 4 years
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First catch for the day💪😆 nearby the coast of Peleliu, Palau🇵🇼 With a nice pull, good fight it was. Spent so much quality time fishing with my best fishing buddies. Thanks for the time🙏 今日は久々の釣り🎣 I日中、海にいたせいか帰宅した途端、立っていると体が揺れている感覚に... 船酔いって、後から来るもの💦? #fishingtrip #catchoftheday #qualitytime #bestbuddies #boatride #goodcaptain #palautrip #peleliu #釣り #海でのんびり #リラックス #ペリリュー島 #楽しい休日 #釣り仲間 #パラオ生活 #パラオ旅行 #コロナにまけるな #コロナが早く終息しますように (at Peleliu) https://www.instagram.com/p/CAQBGQHBnI6/?igshid=u7jjx9ih3k1b
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hina-yuko · 5 years
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大東亜戦争中の1944(昭和19)年9月~11月にかけて、パラオのペリリュー島では大激戦が繰り広げられました。  日本軍は玉砕、米軍も約1万人が死傷したと言われています。  今でも生々しい戦跡が数多く残されるこの島の名は、2015年に天皇皇后両陛下が公式訪問され、広く知られる事になりましたが、私も恥ずかしながら、その歴史の事実すら知りませんでした。 (学校では教えてくれませんからね…)  なので日本出発前から、ペリリュー島には観光ではなく、日本人として戦没者慰霊の為に訪れようと決め、予習して行きました。  現地で案内してくださった元自衛官の平野さんの魂のこもった語りは心の奥底に響くものがあり、何度も目頭が熱くなりました。   「1人でも多くの日本人に、この歴史を知ってもらいたい」と強い使命を持ってガイドを務めておられる平野さんに敬意を表します。  「祖国」のために戦った勇者の敢闘、そして英霊の存在があることを、日本国民として忘れてはならないと思いました。  #ペリリュー島の戦い #ペリリュー平和記念公園 #千人洞窟 #バベルダオブ島 #海軍砲台 #ゼロ戦 #通信所跡 #戦跡 (Peleliu) https://www.instagram.com/p/B3_rbfJgkmo4RYtFASsrOWeR9i_GtkSo09oHn00/?igshid=1p0ozryptm98p
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mr-lucky-man · 5 years
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Memories of travel! パラオで戦車! Japanese tank in Palau. #ペリリュー島 #パラオ #japanesetank #palau #旅行 #memories #travel #戦車 (Peleliu Island, Palau) https://www.instagram.com/p/BLYXlZojL-N/?igshid=1dh37ffjnrlrm
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ysformen · 4 years
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ペリュリュー島の日本兵と島民 昭和16(1941)年、大東亜戦争が始まりました。 日本はこの年の翌年早々にはパラオ南部のペリリュー島に、1,200メートルの滑走路2本を持つ 飛行場を完成させています。 パラオは、開戦した日本にとって、グアムやサイパンの後方支援基地として、また日本の太平洋 防衛圏上の、重要な拠点となったのです。 日本にとって、防衛上重要拠点であるということは、敵対する米軍にとっては、脅威です。 なぜならフィリピン奪還に総力をあげる米軍にとって、パラオ・ペリリュー島の日本軍基地は後背 部を脅かす存在だからです。 昭和18(1943)年、米軍は、アメリカ太平洋艦隊司令長官、連合軍中部太平洋方面の陸海空3軍 の最高司令官であるチェスター・ニミッツ提督の指揮下、このパラオ・ペリリュー島の攻略作戦を 計画しました。 当時、ペリリュー島には、899名の島民がいました。 米軍は、刻一刻と迫ってきます。 島民たちは、白人統治の時代を知っています。 そして日本統治の時代も、身をもって経験しています。 日本兵と仲良くなって、日本の歌を一緒に歌っていた島民たちは、集会を開きました。 そして全会一致で彼らは、大人も子供も一緒になって日本軍とともに「戦おう」と決めました。 こうした村人の会議という制度は、パラオ古来の慣習です。 いまでもパラオではこうした会議が行われ、そこには村人全員が参加します、全員です。 そして話し合いは、全員がひとり残らず納得するまで、何日でも続けて行われます。 議場に籠って話し合い続けるのです。 そうして、みんなの意思を固める。 全員一致で「日本軍とともに戦う」と決めた彼らは、代表数人で日本軍の守備隊長のもとに向か いました。 当時のペリュリューの守備隊長は、中川州男(なかがわくにお)陸軍中将(任期当時は大佐)です。 日頃からもの静かで、笑顔の素敵なやさしい隊長さんだったそうです。 中川大佐がパラオ、ペリュリュー島に赴任したのは、昭和18(1943)年6月のことでした。 家を出る時、奥さんから「今度はどちらの任地に行かれるのですか?」と聞かれた中川中将は、 にっこり笑って「永劫演習さ」とだけ答えられたそうです。 「永劫演習」というのは、生きて帰還が望めない戦場という意味です。 温厚で、日頃からやさしい人であっても、胸に秘めた決意というのは、体でわかるものです。 そしてそういう中川隊長なら、パラオの島民たちが、自分たちの頼み、一緒に戦うことをきっと喜 んで受け入れてくれるに違いない。 だって、ただでさえ、日本の兵隊さんたちは兵力が足りないのだから。 ペリュリューの村人たちは、そう思い、中川中将のもとを尋ねたのです。 そして中川中将に、「わたしたちも一緒に、戦わせてください!」と強く申し出ました。 「村人全員が集まって、決めたんです。これは村人たち全員の総意です。」 中川隊長は、真剣に訴える彼らひとりひとりの眼を、じっと見つめながら黙って聞いておられたそ うです。 一同の話が終わり、場に、沈黙が訪れました。 しばしの沈黙のあとです。 中川隊長は、突然、驚くような大声をあげました。 「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」 烈迫の気合です。 村の代表たちは、瞬間、何を言われたかわからなかったそうです。 耳を疑った。(俺たちのことを「土人」と言った?) そのときは、ただ茫然としてしまいした。 指揮所を出てからの帰り道、彼らは泣いたそうです。 断られたからではありません。 土人と呼ばれたことがショックでした。 怒りではありません。 あんなに仲良くしていたのに、という悲しみの方が大きかった。 日頃から、日本人は、自分たちのことを、仲間だと言ってくれていたのに、同じ人間だ、同じ人だ、 俺たちは対等だと言ってくれていたのに。 それが「土人?」 信じていたのに。 それはみせかけだったの? 集会所で待っている村人たちに報告しました。 みんな「日本人に裏切られた」という思いでした。 ただただ悲しくて、悔しくて。 みんな泣いてしまいました。 何日がが経ちました。 いよいよ日本軍が用意した船で、パラオ本島に向かって島を去る日がやってきました。 港には、日本兵はひとりも、見送りに来ません。 島民たちは、悄然として船に乗り込みます。 島を去ることも悲しかったけれど、それ以上に、仲間と思っていた日本人に裏切られたという思い が、ただただ悲しかったのです。 汽笛が鳴りました。 船がゆっくりと、岸辺を離れはじめました。 次の瞬間です。 島から「おおおおおおおおおおお」という声があがりました。 島に残る日本兵全員が、ジャングルの中から、浜に走り出てきたのです。 そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、ちぎれるほどに手を振って彼らを見送ってくれたの です。 そのとき、船上にあった島民たちには、はっきりとわかりました。 日本の軍人さん達は、我々村人を戦火に巻き込んではいけないと配慮したのだ、と。 そのために、心を鬼にして、あえて「土人」という言葉を使ったのだと。 船の上にいる島民の全員の目から、涙があふれました。 そして、岸辺に見える日本兵に向かって、島の人たちは、なにか、自分でもわからない声をあげ ながら、涙でかすむ目を必死にあけて、ちぎれるほど手を振りました。 船の上から、ひとりひとりの日に焼けた日本人の兵隊さんたちの姿が見えました。 誰もが笑っています。 歌声が聞こえます。 そこには中川隊長の姿もありました。 他のみんなと一緒に笑いながら、手を振ってくれていたそうです。 素敵な笑顔だったそうです。 当時の人は、その笑顔が、ずっとまぶたに焼き付いていたといいます。 昭和19(1944)年9月12日、ペリリュー島をめぐる日米の戦闘の火ぶたが切って落されました。 島に立てこもる日本軍10,500名。 対する米軍は、総員48,740人です。 火力に勝る米軍は、その日から、航空機と艦砲射撃によって、すでに補給を断たれた日本軍の 数百倍の火力を小さなペリュリュー島に投下しました。 最初に米軍は、艦砲射撃と高性能焼夷弾の集中砲火を浴びせ、周囲のジャングルを完全に焼 き払いました。 海上に築いた日本軍の防衛施設も、完全に破壊しました。 そして9月15日、「2、3日で陥落させられる」との宣言の下、海兵隊を主力とする第一陣、約28, 000人が島に上陸を開始しました。 米軍の上陸用舟艇が、続々とやってくる。 島はじっと沈黙したままです。 米軍は、海岸に上陸し、そこに陣地を巡らしました。 そのときです。 突然の集中砲火が、米軍の上陸部隊を襲ったのです。 それまで、地中深くに穴を掘り、じっと時を待っていた日本軍が、満を持して反撃を開始したの です。 水際での戦闘は凄惨を極めました。 米軍の第一次上陸部隊は大損害を蒙り、煙幕を焚いて一時退却をしています。 この戦闘で、米軍の血で海岸が赤く染まりました。 いまでもこの海岸は「オレンジビーチ」と呼ばれています。 10月30日には米軍第1海兵師団が全滅しました。 米海兵隊の司令官はこの惨状への心労から、心臓病を発病して後方に送られています。 将官が倒れるほど、それほどまでに、すさまじい戦いだったということです。 この時点で3日で終わるとされた戦いは、なんと1ヶ月半も継続していました。 けれど、日本軍には、補給が一切ありません。 食料も水もない。 夜陰に紛れて、せめて怪我をした仲間のためにと水を汲みに行って米軍の猛火に遭います。 だから水場の近くには、日本兵の死体がかさなりあっていました。 日本軍の抵抗は次第に衰えを見せはじめます。 米軍の火炎放射器と手榴弾によって日本軍の洞窟陣地は次々と陥落していきます。 11月24日、日本軍は司令部陣地の兵力弾薬も底を尽き、司令部は玉砕を決定します。 中川州男隊長、村井権治郎少将、飯田義栄中佐が、この日、司令部で割腹自決を遂げます。 その後に、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られました。 そして翌朝にかけて、根本甲子郎大尉を中心とした55名が、最後の突撃攻撃を敢行しました。 こうして11月27日、ペリリュー島は、ついに陥落したのです。 米軍の上陸開始から2ヵ月半が経過していました。 戦闘が終結したあと、米軍は島のあちこちに散る日本兵の遺体を、そのまま放置していました。 米兵の遺体はきちんと埋葬しても、日本兵の遺体は、ほったらかしだったのです。 戦闘終結からしばらくたって、島民たちが島に戻ってきました。 彼らは、島中に散らばる日本兵の遺体をひとつひとつ、きれいに片付け、埋葬してくれました。 戦後、パラオは、米国の信託統治領となります。 けれど、米国は、島民たちへの教育はおろか、島のインフラ整備にも消極的でした。 島民たちは、パラオ本島と一緒になり、独立運動を開始します。 そして、ようやく戦争から36年目の昭和56(1981)年、パラオは自治政府の「パラオ共和国」と なりました。 そのパラオが米国の信託統治を外れて、名実共に独立国となったのは、なんと平成6(1994)年 のことです。 http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1594.html
http://hmpiano.net/peryuryu..html
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tomoya-jinguuji · 5 years
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(宮内記者会代表質問) 天皇陛下として迎えられる最後の誕生日となりました。陛下が皇后さまとともに歩まれてきた日々はまもなく区切りを迎え、皇室は新たな世代が担っていくこととなります。現在のご心境とともに、いま国民に伝えたいことをお聞かせ下さい。 (天皇陛下) この1年を振り返るとき、例年にも増して多かった災害のことは忘れられません。集中豪雨、地震、そして台風などによって多くの人の命が落とされ、また、それまでの生活の基盤を失いました。 新聞やテレビを通して災害の様子を知り、また、後日幾つかの被災地を訪れて災害の状況を実際に見ましたが、自然の力は想像を絶するものでした。命を失った人々に追悼の意を表するとともに、被害を受けた人々が1日も早く元の生活を取り戻せるよう願っています。 ちなみに私が初めて被災地を訪問したのは、昭和34年、昭和天皇の名代として、伊勢湾台風の被害を受けた地域を訪れた時のことでした。 天皇の望ましい在り方を求める日々 今年も暮れようとしており、来年春の私の譲位の日も近づいてきています。私は即位以来、日本国憲法の下で象徴と位置付けられた天皇の望ましい在り方を求めながらその務めを行い、今日までを過ごしてきました。譲位の日を迎えるまで、引き続きその在り方を求めながら、日々の務めを行っていきたいと思います。 第二次世界大戦後の国際社会は、東西の冷戦構造の下にありましたが、平成元年の秋にベルリンの壁が崩れ、冷戦は終焉を迎え、これからの国際社会は平和な時を迎えるのではないかと希望を持ちました。 しかし、その後の世界の動きは、必ずしも望んだ方向には進みませんでした。世界各地で民族紛争や宗教による対立が発生し、また、テロにより多くの犠牲者が生まれ、さらには、多数の難民が苦難の日々を送っていることに、心が痛みます。 戦後の道のり 以上のような世界情勢の中で日本は戦後の道のりを歩んできました。 終戦を11歳で迎え、昭和27年、18歳の時に成年式、次いで立太子礼を挙げました。その年にサンフランシスコ平和条約が発効し、日本は国際社会への復帰を遂げ、次々と我が国に着任する各国大公使を迎えたことを覚えています。そしてその翌年、英国のエリザベス二世女王陛下の戴冠式に参列し、その前後、半年余りにわたり諸外国を訪問しました。 それから65年の歳月が流れ、国民皆の努力によって、我が国は国際社会の中で一歩一歩と歩みを進め、平和と繁栄を築いてきました。 昭和28年に奄美群島の復帰が、昭和43年に小笠原諸島の復帰が、そして昭和47年に沖縄の復帰が成し遂げられました。沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました。皇太子時代を含め、私は皇后と共に11回訪問を重ね、その歴史や文化を理解するよう努めてきました。沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません。 そうした中で平成の時代に入り、戦後50年、60年、70年の節目の年を迎えました。先の大戦で多くの人命が失われ、また、我が国の戦後の平和と繁栄が、このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず、戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています。 そして、戦後60年にサイパン島を、戦後70年にパラオのペリリュー島を、更にその翌年フィリピンのカリラヤを慰霊のため訪問したことは忘れられません。皇后と私の訪問を温かく受け入れてくれた各国に感謝します。 平成に起きた災害 次に心に残るのは災害のことです。平成3年の雲仙・普賢岳の噴火、平成5年の北海道南西沖地震と奥尻島の津波被害に始まり、平成7年の阪神・淡路大震災、平成23年の東日本大震災など数多くの災害が起こり、多くの人命が失われ、数知れぬ人々が被害を受けたことに言葉に尽くせぬ悲しみを覚えます。 ただ、その中で、人々の間にボランティア活動を始め様々な助け合いの気持ちが育まれ、防災に対する意識と対応が高まってきたことには勇気付けられます。また、災害が発生した時に規律正しく対応する人々の姿には、いつも心を打たれています。 障害を抱える人に 障害者を始め困難を抱えている人に心を寄せていくことも、私どもの大切な務めと思い、過ごしてきました。 障害者のスポーツは、ヨーロッパでリハビリテーションのために始まったものでしたが、それを越えて、障害者自身がスポーツを楽しみ、さらに、それを見る人も楽しむスポーツとなることを私どもは願ってきました。パラリンピックを始め、国内で毎年行われる全国障害者スポーツ大会を、皆が楽しんでいることを感慨深く思います。 海外と日本 今年、我が国から海外への移住が始まって150年を迎えました。この間、多くの日本人は、赴いた地の人々の助けを受けながら努力を重ね、その社会の一員として活躍するようになりました。こうした日系の人たちの努力を思いながら、各国を訪れた際には、できる限り会う機会を持ってきました。 そして近年、多くの外国人が我が国で働くようになりました。私どもがフィリピンやベトナムを訪問した際も、将来日本で職業に就くことを目指してその準備に励んでいる人たちと会いました。 日系の人たちが各国で助けを受けながら、それぞれの社会の一員として活躍していることに思いを致しつつ、各国から我が国に来て仕事をする人々を、社会の一員として私ども皆が温かく迎えることができるよう願っています。 また、外国からの訪問者も年々増えています。この訪問者が我が国を自らの目で見て理解を深め、各国との親善友好関係が進むことを願っています。 皇后陛下 明年4月に結婚60年を迎えます。 結婚以来皇后は、常に私と歩みを共にし、私の考えを理解し、私の立場と務めを支えてきてくれました。また、昭和天皇を始め私とつながる人々を大切にし、愛情深く3人の子供を育てました。振り返れば、私は成年皇族として人生の旅を歩み始めて程なく、現在の皇后と出会い、深い信頼の下、同伴を求め、爾来この伴侶と共に、これまでの旅を続けてきました。 天皇としての旅を終えようとしている今、私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝するとともに、自らも国民の一人であった皇后が、私の人生の旅に加わり、60年という長い年月、皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労いたく思います。 そして、来年春に私は譲位し、新しい時代が始まります。多くの関係者がこのための準備に当たってくれていることに感謝しています。新しい時代において、天皇となる皇太子とそれを支える秋篠宮は共に多くの経験を積み重ねてきており、皇室の伝統を引き継ぎながら、日々変わりゆく社会に応じつつ道を歩んでいくことと思います。 今年もあと僅かとなりました。国民の皆が良い年となるよう願っています。
天皇陛下の記者会見 全文
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jaguarmen99 · 6 years
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大東亜戦争終結により日本が立ち去った後、パラオの公用語は英語に変わり、アメリカによる目に余る反日教育が行われました。 歴史の授業では、米国で作られた教科書が使われ、日本人による「パラオ人虐殺事件」などの掲載された、反日的歴史教科書もありました。 ところが、パラオの年長者が「そんな話しはない」と否定したため、この疑わしい史実はパラオには浸透しませんでした。 お気に入り詳細を見る
【ペリリューの戦い】日本人が知らなければならない大東亜戦争の真実 - NAVER まとめ
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isshinotasuke · 2 years
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水戸歩兵第二連隊 記憶の島展  2021年7月24日~11月27日
南太平洋に浮かぶ島々、パラオ諸島。その南方に位置するペリリュー島では、1944(昭和19)年9月15日から70日以上に及ぶ日米の激戦が繰り広げられました。 日本軍守備隊人員は歩兵第二連隊と歩兵第十五連隊(一大隊欠)、海軍の西カロリン航空隊(臨時編成の陸戦隊)を主力とする約1万名、対する米軍は第一海兵師団、第八十一海兵師団を主力とする約4万人でした。
この企画は、特に“戦争を知らない世代へどう記憶を継承していくか”をテーマに開催いたしました。
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tmng · 3 years
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【パラオ】ロックアイランド。コロール島とペリリュー島の間にある200~300の島々の総称。 傘のような形をした島々に美しいラグーンが広がり、ダイビングスポットとして世界的に有名です。2012年7月3日、世界遺産に登録されました。 https://t.co/HQICGynQ8A
— 一度は行ってみたい世界の絶景 (@WonderSightTW) Jan 23, 2019
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uzurakoromo · 3 years
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小説同人誌の表紙絵が出来たので、ここにも載せます。
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