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#アラン・ロブ=グリエ
team-ginga · 9 months
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映画『Nは骰子を振った……』
 ピッコロ演劇学校研究科同期で友人の山田麻結が12月のフランス語の窓主催のコンサートのチラシを作ってくれることになっているので、一昨日8月10日(木曜)に会場を見せがてら一緒に大学へ行きました。そのとき仏文研究室でアラン・ロブ=グリエ監督の映画『Nは骰子を振った……』(1971)を借りて昨日11日(金曜)に見ました。
 『Nは骰子を振った……』はロブ=グリエが同じ年に撮った『エデン、その後』を再編集した映画だそうです。『Nは骰子を振った……』(N. a pris des dés)は『エデン、その後』(L'Éden et après)のアナグラムになっているとのことで、「そうだったのか!」と感心したのですが、一字ずつ確かめてみると……違うやんけ。
 でも、すでに撮った映画の場面を切り取り組み替えて別のストーリーを作るというのは、作り手にとって非常にエキサイティングな試みだろうと思います。
 『エデン、その後』の「エデン」は「エデンの園」の「エデン」ではなく、学生街の喫茶店の名前です。エデンには大勢の大学生がたむろしています。
 ある日、エデンに見知らぬ男がやってきます。ヒロインのヴィオレットはその男と深夜運河のそばで会う約束をします。
 ヴィオレットがその場所に行くと、他の学生たちが自動車でやってきます。なぜだかわかりませんが、ヴィオレットは廃工場のようなところに身を隠します。
 夜が明け、ヴィオレットが工場から出てくると、男は運河で死んでいます。男の上着のポケット(だったかな)を探ると、チュニジアの絵葉書が出てきます。青い空に白い丸天井が写っています。
 ヴィオレットは自宅に親戚の誰かから受け継いだ抽象画を持っています。かなり高価な絵だそうですが、その絵の図柄と絵葉書の写真は同じものを描いているとヴィオレットは気付きます。
 仲間たちと一緒にチュニジアを描いた映画を見ているうちに、ヴィオレットは映画の中に入り込んでしまいます。運河で死んでいた謎の男はチュニジアの海辺の村で絵を描いています。彼はヴィオレットの部屋にかかっていた抽象画を持っているようです。そこからその絵をめぐって争奪戦が始まります。
 ヴィオレットは馬に乗った男たちに誘拐され監禁されます。犯人は彼女の友人の大学生たちです。学生の一人がヴィオレットに薬を渡します。ヴィオレットは牢番をしていた別の学生にその薬を飲ませて殺し牢を抜け出します。
 ヴィオレットは浜辺で彼女そっくりの女性と出逢います。その女性に助けられたヴィオレットがどこかの家に入ると、中庭で仲間の大学生が死んでいます。死体の横には例の抽象画が落ちています。
 ヴィオレットは波止場に行きます。謎の男がいるので近づこうとすると、彼女の脇を一台の車が通り過ぎ、謎の男を轢き殺します。
 気がつくとヴィオレットはカフェ・エデンに戻っています。それまでの物語は彼女の空想だった……ということなのかな。よくわかりませんが、『エデン、その後』のストーリーを合理的にまとめ直すとそんな感じです。
 では、『Nは骰子を振った……』がこの物語をどう作り変えていたかというとーー
 『Nは骰子を振った……』にはまず語り手が登場します。彼はテーブルの上で骰子を三つ振りながら観客に語りかけます。曰くーーあなたたちがテレビで見るドラマ、例えば刑事ドラマは物語が首尾一貫している、一つとして不要な要素はない、しかし私は人でも物でも理解できない謎めいたところに惹かれる。
 これから始まる物語は論理的に一貫した物語ではありませんよということでしょうね。
 映画はヒロインが浜辺で自分とよく似た女と出逢うところから始まります。もちろん『エデン、その後』のヒロイン・ヴィオレットですが、語り手は「彼女の名前は覚えていない。仮にイブと呼ぶことにしよう」と言い、「私の名前はNということにしておこう」と言います。
 なるほど、だから『Nは骰子を振った……』なのですね。そういえば途中「6、1、3」とか「2、4、5」とか謎の数字を言う場面がありますが、あれは語り手のNが骰子を振り、出た目を言ってるのですね。出た目に合わせて物語を組み替えているという趣向でしょうか。
 そういう映画ですからストーリーを合理的にまとめてもあまり意味はないかもしれませんが、全体としてはチュニジアでの出来事(ヒロインの誘拐と脱出)を先に出し、誘拐犯は大学生ではなく謎の男である、つまり謎の男がヒロインを誘拐し、大学生たちがヒロインを救おうとしているという設定に変えています。
 謎の男は波止場で自動車に轢かれますが、直前に海に飛び込んだのか、死体は見つかりません。その後、ヒロインのイブは「ずっと西へ行け」という指令を受けます。司令に従って西へ向かうといつの間にかパリの運河に出ます。ヴィオレットは運河で謎の男の死体を発見し、上着のポケットから絵葉書を見つけます。
 最後に「この映画には意味はない、意味を作るのはあなたたちだ」という趣旨(だったと思います)の語りが入ってオシマイ。
 非常に変わった映画です。
 『エデン、その後』を見ていないと面白くもなんともない、それどころかわけがわからない映画かもしれません
 ただ、『エデン、その後』を思い出しながら、「ああ、あのシーンをこういうふうに再利用しているのか」と思って見ていると、それはそれで興味深いものがあります。
 先月見たアンジェイ・ズラウスキー監督の『COSMOS』で物語の要素を組み換えるだけで新たな物語は無限に作れるという話がありましたが、ロブ=グリエはそれをこの映画で実践しているのかもしれません。
 これで一応ロブ=グリエが監督した映画は全て見たことになります(唯一『狂気を呼ぶ音』だけは見ていませんが、この映画のDVDやBlu-rayを手に入れるのは不可能なようです)。
 あとはそれについて論文を書くだけなんですが……まあ、締切は12月末なのでゆっくり書くことにします。
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ophelia333k · 1 year
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2023年5月15日 文学フリマ、Where is My Mind?
 5月21日の文学フリマ東京 ブースR-20で頒布される、夜流色夜空さん主宰の合同誌『ムジーク! ムジーク! ムジーク!』に、「枝がスルスルと伸びてゆく」という9000文字くらいの散文を寄稿している。
 
 散文、という言い方をしているのには理由があって、実質的には小説のような形式だけれど、小説と呼ぶには小説の形から外れてしまっているし、かといって詩、と呼ぶべきものでもなくて、自分自身、その実体を掴みそこねている蜃気楼みたいな作品かもしれない。
 
 文学フリマについて言えば、(買いたい本もあるので)暇とお金があれば夜行バスか何かで見に行ってもいいかな、と思っていたけれど、現状、クレジットカードの分割払い分の引き落としと、精神科に行ってコンサータをもらうためのお金を調達するためにブックオフで錬金術の本や『夜と霧』など、数十冊の本を売り払ったり楽器を売ったりという感じなので、今回は行ける見込みがほとんどない(もしかしたら行けるかもしれないけれど、どうしよう)。
 
 ***
 
 今日は12:20くらいから自主ゼミでカミュの「シーシュポスの神話」(Le mythe de sisyphe)を読み、15:10から授業でダナ・ハラウェイ「サルと女とサイボーグ」の9章「状況に置かれた知」を読み、18時くらいからは「少女革命ウテナ」の5~8話の鑑賞会をやった。そのあとは流れで、デヴィッド・フィンチャーの「ファイト・クラブ」を見た。
 
 Twitterでも書いたけれど、「ファイト・クラブ」はラストの場面とその台詞がほんとうによいし、そのときPixiesの「Where is my mind?」が流れるのも、そのことを知らなかったので、人生であの曲を聴き続けていた伏線が回収されたみたいな感覚だった。
 詳しく書くとネタバレになるので、台詞だけを抜き出すのなら、「心配するな、これからはすべてよくなる」(Trust me. Everything's gonna be fine.)ということだけど、あの場面でこの言葉を発するというのは一番美しいことだと思う。
 
 あと、数人で「ファイト・クラブ」を見ていて、そのうちの一人が、(作中に「お前は死ぬ そのことから目をそらさずに直視した上で行動しろ」というような台詞があることをふまえて)、「ああいう死の先駆みたいなのは嫌いで、私はこの曖昧な生を生きていたい」ということを言っていたので、それを迷いなく断言できることに気高さみたいなものを感じた。
 死の先駆、という言葉を聞くとハイデガーはもちろんだけど、オウム真理教の「バルドーの導き」という洗脳ビデオのことを思い出す。あれは戦争や死体の動画とともに、麻原彰晃が「お前は死ぬ」と語りかけてくるものだけど、たしかニコニコ動画に全編が載っていて、ニコニコ動画で見ると、どこか気の抜けた意識で見れてしまうね、と昔思った記憶がある。ニコニコ動画のコメントのシステムに特有のメタ性(あるいはネタ性)みたいもの。
 ***
 自分がずっと感じている、「いま生きている現実そのものが一番根底のところではほんとうに単なる虚構にすぎない、ということに思考とかではなくて身体的なレベルで気づいてしまい、その瞬間から自分が誰かも、今がいつなのかも、自分が何を考えていて、何をしようとしていて、何��思っているのかもすべてバラバラになり、発狂しかけるのを抑えて生活している」という感覚について、(ほぼ上の文章ままでChat GPTに聞いてみたら、
〈このような感覚を体験する人は少なくありません。これは、現代哲学の分野で「現象の不安定性」と呼ばれるもので、現実が変化し、崩壊する可能性があるという感覚を表します。このような感覚を持つことは精神的な問題の一つで、専門家と話すことをお勧めします。また、正しい医療が受けられるように精神医学専門家に診断を求めることも考慮してください〉
 という返事が返ってきた。
 でも、「現象の不安定性」なんて言葉は聞いたことがないし怪しいな、と思いながらも、「現象の不安定性」とは何ですか? と聞くと、
〈「現象の不安定性」は、幻覚、現実感喪失、心身症状、解離、デリアリゼーション、ドラマタイゼーション、あるいは存在不安と呼ばれることもあります。一般的に、これらの用語は、「現実を認識している感覚が不安定である」という意味合いを含んでいます。ただし、それぞれの言葉に微妙なニュアンスがあるため、使用する文脈によって言い換え方が異なる可能性があります〉
 という返事。
 アラン・ロブ=グリエの「反復」を借りたので読みたいな、と思うけれど、そんなことよりもただひたすら死にたいな、と心の中でずっと唱えながら(でもそれはほんとうに単なる声で、その声をどこにしまっておくかの問題でしかない。ふと死ぬのはこわい、と思ってはまた死にたくもなる)梅田を歩いて、バイトをして、0時前くらいに電車に乗って帰って来て、そう、その電車の中でさっき書いた、Chat GPTが「現象の不安定性」と呼ぶ感覚になったのだった。これは昨日の話。
 あの感覚になるときはバイト帰りの電車の中か、白い浴室、もしくは深夜に目が覚めた瞬間や、うたたねから覚めた瞬間が多い。あいだ、何かのあいだで遠くなっていく。1000年後の自分がいまこの瞬間の自分を回想している、ということを考えている自分。細長い包丁で豆腐を切る、華倫変の漫画を読む。マイ・ブラッディ・バレンタインの「soon」を聴いている。音楽を聴いていると、時間が急に流れたり、流れなかったりするのではなくて、一定の感覚で流れているということが分かるから安心する。
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honyakusho · 11 months
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2023年5月25日に発売予定の翻訳書(2)
5月25日(木)は英語への翻訳も含めて27冊の翻訳書が発売予定です。 点数が多いので2回に分けたうちの後半です。 白水社の5点は「書物復権」キャンペーンで復刊になったものです。アラン・ロブ=グリエの「幻のデビュー作」がありますね。 共立出版の2点は純新刊です。 小学館集英社プロダクションからはコミックが5点です。
随感録
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アルトゥール・ショーペンハウアー/著 秋山英夫/翻訳
白水社
火 散文詩風短篇集
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マルグリット・ユルスナール/著 多田智満子/翻訳
白水社
文学とテクノロジー
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ワイリー・サイファー/著 野島秀勝/翻訳 高山宏/解説
白水社
火山の下
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マルカム・ラウリー/著 斎藤兆史/監修・翻訳 渡辺暁/翻訳 山崎暁子/翻訳
白水社
弑逆者
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アラン・ロブ=グリエ/著 平岡篤頼/翻訳
白水社
なぜ世界はデジタルになったのか
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Ken Steiglitz/著 岩野和生/翻訳
共立出版
コミュニケーションとしての思考
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Anna Sfard/著 岡崎正和/監修・翻訳 山田篤史/監修・翻訳 岩﨑浩/翻訳 岩田耕司/翻訳 ほか
共立出版
なぜ皆が同じ間違いをおかすのか 「集団の思い込み」を打ち砕く技術
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トッド・ローズ/著 門脇弘典/翻訳
NHK出版
リサとガスパールのであい
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アン・グットマン/著 ゲオルグ・ハレンスレーベン/イラスト 石津ちひろ/翻訳
河出書房新社
フラッシュ:イヤーワン
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ジョシュア・ウィリアムソン/著 ハワード・ポーター/イラスト 秋友克也/翻訳
小学館集英社プロダクション
スパイダーマン・ノワール(仮)
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デイビッド・ハイン/著 ファブリス・サポルスキー/著 カルミネ・ディ・ジャンドメニコ/イラスト ほか
小学館集英社プロダクション
シルク
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モーリーン・グー/著 タケシ・ミヤザワ/イラスト 権田アスカ/翻訳
小学館集英社プロダクション
ウォー・オブ・ザ・レルムス
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ジェイソン・アーロン/著 ラッセル・ドーターマン/イラスト 石川裕人/翻訳
小学館集英社プロダクション
マイルス・モラレス:ストレイト・アウタ・ブルックリン
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サラディン・アーメッド/著 ハビエル・ガロン/イラスト 吉川悠/翻訳
小学館集英社プロダクション
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fujimoto-h · 4 years
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2019年の出来事と読んだ本と観た映画と年末と
 実際にはすでに年は明けてしまっているが、この記事に関してはまだ年末という体で。またあとでべつの記事に年末については書きます。  今年は『フィルムメーカーズ19 ギジェルモ・デル・トロ』(宮帯出版社)に『クリムゾン・ピーク』について書かせてもらったり、『文芸誌 反省しない犬』に短篇を書かせていただいたりと、私個人としてはわりと文章発表の機会が増えた。『白鴉』31号に載せた作品が外部合評でやたら高評価だったが、同人誌評でどうなることやら。  仕事の激務化が進んで読書量が53冊と計測史上最低記録を更新してしまった。昨年は66冊。韓国文学の割合が増したのと、岡和田晃氏に勧められていた山野浩一をようやく読めた。  映画の観賞回数は126回。昨年は116回。『フィルムメーカーズ』に書くのにデル・トロをあらためてまとめて何作��観たのも増えた要因か。わりと邦画ががんばっていた印象。ずっと観たいと思っていた『サタンタンゴ』の上映はまさに事件であった。  あと、ライムスターが結成30周年で全国47都道府県ツアーを行ない、そのうち、岡山、和歌山、滋賀、兵庫、京都、大阪、東京、と参加。白鴉の例会がなければ奈良も行っていただろう。東京ポッド許可局のイベントも楽しかった。  2月に大阪入管前抗議、9月に日韓連帯アクション0907に参加し、神戸と東大阪の在日朝鮮学生美術展へ足を運ぶなどもした。  疎遠になっていたmixiの知り合いとふたたび縁がつながるということがふたり分起き、思えばいちばん実人生に影響を与えているSNSはmixiだなあと。よくも悪くも。
2019年の本と映画の記録。2018年はこちら。
読了本53冊
ファン・ジョンウン『誰でもない』(晶文社) ファン・ジョンウン『野蛮なアリスさん』(河出書房新社) チョ・セヒ『こびとが打ち上げた小さなボール』(河出書房新社) 姜英淑『ライティングクラブ』(現代企画室) 村田沙耶香『コンビニ人間』(文春文庫)
ハン・ガン『ギリシャ語の時間』(晶文社) イム・チョル『別れの谷──消えゆくこの地のすべての簡易駅へ』(三一書房) 石垣りん『表札など』(童話屋) 樺山三英『ドン・キホーテの消息』(幻戯書房) キム・スム『ひとり』(三一書房)
石垣りん『略歴』(花神社) ハン・ガン『少年が来る』(クオン) 草野理恵子『パリンプセスト』(土曜美術社) メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』(新潮文庫) パトリシア・ウォー『メタフィクション──自意識のフィクションの理論と実際』(泰流社)
チョン・スチャン『羞恥』(みすず書房) 古田徹也『言葉の魂の哲学』(講談社選書メチエ) ハン・ガン『すべての、白いものたちの』(河出書房新社) 野間秀樹『日本語とハングル』(文春新書) 黄英治『こわい、こわい』(三一書房)
キム・ヨンハ『殺人者の記憶法』(クオン) 廣野由美子『批評理論入門──『フランケンシュタイン』解剖講義』(中公新書) チェ・ウニョン『ショウコの微笑』(クオン) アラン・ロブ=グリエ『消しゴム』(光文社古典新訳文庫) レベッカ・ソルニット『説教したがる男たち』(左右社)
松岡政則『あるくことば』(書肆侃侃房) 内藤千珠子『帝国と暗殺──ジェンダーからみる近代日本のメディア編成』(新曜社)2回目。 内藤千珠子『愛国的無関心──「見えない他者」と物語の暴力』(新曜社)2回目。 アラン・ロブ=グリエ『新しい小説のために──付 スナップ・ショット』(新潮社) 『カム』17号
サミュエル・ベケット『モロイ』(河出書房新社) 鈴木道彦『余白の声──文学・サルトル・在日』(閏月社) アントワーヌ・コンピニョン『文学をめぐる理論と常識』(岩波書店) 原佑介『禁じられた郷愁──小林勝の戦後文学と朝鮮』(新幹社) 林浩治『在日朝鮮人日本語文学論』(新幹社)
サミュエル・ベケット『伴侶』(書肆山田 りぶるどるしおる)通算7回目 林浩治『戦後非日文学論』(新幹社) 金時鐘/佐高信『「在日」を生きる──ある詩人の闘争史』(集英社新書) 『星座盤』vol.13 『骨踊り──向井豊昭小説選』(幻戯書房)
トーマス・ベルンハルト『凍』(河出書房新社) 『babel』3号 『白鴉』31号 サミュエル・ベケット『マロウン死す』(河出書房新社) チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ『なにかが首のまわりに』(河出文庫)
山野浩一『殺人者の空──山野浩一傑作選II』(創元SF文庫) 山野浩一『鳥はいまどこを飛ぶか──山野浩一傑作選I』(創元SF文庫) 山野浩一『X電車で行こう』(ハヤカワ文庫) 山野浩一『ザ・クライム』(冬樹社) 『現代韓国短篇選(下)』(岩波書店)
北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か──不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』(書肆侃侃房) 谷賢一『従軍中の若き哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインがブルシーロフ攻勢の夜に弾丸の雨降り注ぐ哨戒塔 の上で辿り着いた最後の一行「──およそ語り得るものについては明晰に語られ得る/しかし語り得ぬことについて人は沈黙せねばならない」という言葉により 何を殺し何を生きようと祈ったのか?という語り得ずただ示されるのみの事実にまつわる物語』(工作舎) ジャン・ジロドゥ『トロイ戦争は起こらない』(ハヤカワ演劇文庫) 馳平啓樹『かがやき』(水窓出版)
映画観賞回数126回
『審判』(ジョン・ウィリアムズ)シネ・ヌーヴォ 『ヨーロッパ横断特急』(アラン・ロブ=グリエ)テアトル梅田 『嘘をつく男』(アラン・ロブ=グリエ)テアトル梅田 『エデン、その後』(アラン・ロブ=グリエ)テアトル梅田 『快楽の漸進的横滑り』(アラン・ロブ=グリエ)テアトル梅田
『鈴木家の嘘』(野尻克己)塚口サンサン劇場 『ヴェノム』(ルーベン・フライシャー)塚口サンサン劇場 『囚われの美女』(アラン・ロブ=グリエ)テアトル梅田 『不滅の女』(アラン・ロブ=グリエ)テアトル梅田 『ハード・コア』(山下敦弘)塚口サンサン劇場
『リンダリンダリンダ』(山下敦弘)通算2回目。塚口サンサン劇場 『教誨師』(佐向大)塚口サンサン劇場 『ア・ゴースト・ストーリー』(デヴィッド・ロウリー)塚口サンサン劇場 『ギャングース』(入江悠)通算3回目。第七藝術劇場 『寝ても覚めても』(濱口竜介)シネ・ヌーヴォ
『きみの鳥はうたえる』(三宅唱)シネ・ヌーヴォ 『KICKS』(ジャスティン・ティッピング)塚口サンサン劇場 『銃』(武正晴)塚口サンサン劇場 『ヘレディタリー 継承』(アリ・アスター)塚口サンサン劇場 『メアリーの総て』(ハイファ・アル=マンスール)塚口サンサン劇場
『アリー──スター誕生』(ブラッドリー・クーパー)塚口サンサン劇場 『ボヘミアン・ラプソディ』(ブライアン・シンガー)塚口サンサン劇場 『クリムゾン・ピーク』(ギレルモ・デル・トロ)通算2回目。DVD 『デビルズ・バックボーン』(ギレルモ・デル・トロ)DVD 『MAMA』(アンディ・ムスキエティ)DVD
『サスペリアpart2』(ダリオ・アルジェント)DVD 『嵐電』(鈴木卓爾)阪急梅田ホール。第14回大阪アジアン映画祭オープニングセレモニー。 『フランケンシュタイン』 (ジェイムズ・ホエール)DVD 『金子文子と朴烈』(イ・ジュンイク)シネ・ヌーヴォ 『クリムゾン・ピーク』(ギレルモ・デル・トロ)通算3回目。Blu-ray
『いつか家族に』(ハ・ジョンウ)塚口サンサン劇場 『22年目の記憶』(イ・ヘジュン)塚口サンサン劇場 『バーニング』(イ・チャンドン)塚口サンサン劇場 『バーニング』(イ・チャンドン)2回目。塚口サンサン劇場 『ホイットニー── オールウェイズ・ラヴ・ユー』(ケヴィン・マクドナルド)塚口サンサン劇場
『クリード──炎の宿敵』(スティーブン・ケイプル・Jr.)塚口サンサン劇場 『バーニング』(イ・チャンドン)3回目。塚口サンサン劇場 『天才作家の妻──40年目の真実』(ビョルン・ルンゲ)塚口サンサン劇場 『ヴィクトリア女王──最期の秘密』(スティーブン・フリアーズ)塚口サンサン劇場 『未来を乗り換えた男』(クリスティアン・ペツォールト)塚口サンサン劇場
『フロントランナー』(ジェイソン・ライトマン)塚口サンサン劇場 『キャプテン・マーベル』(アンナ・ボーデン/ライアン・フレック)Movixあまがさき 『ちいさな独裁者』(ロベルト・シュヴェンケ)塚口サンサン劇場 『ギルティ』(グスタフ・モーラー)塚口サンサン劇場 『ファースト・マン』(デイミアン・チャゼル)塚口サンサン劇場
『女王陛下のお気に入り』(ヨルゴス・ランティモス)塚口サンサン劇場 『グリーンブック』(ピーター・ファレリー)塚口サンサン劇場 『幸福なラザロ』(アリーチェ・ロルバケル)シネ・リーブル梅田 『ペパーミント・キャンディー』(イ・チャンドン)シアターセブン 『オアシス』(イ・チャンドン)シアターセブン
『主戦場』(ミキ・デザキ)第七藝術劇場 『カメラを止めるな!』(上田慎一郎)11回目。塚口サンサン劇場 『カメラを止めるな!スピンオフ ハリウッド大作戦!』 (上田慎一郎)塚口サンサン劇場 『ROMA/ローマ』(アルフォンソ・キュアロン)塚口サンサン劇場 『ビール・ストリートの恋人たち』(バリー・ジェンキンス)塚口サンサン劇場
『運び屋』(クリント・イーストウッド)塚口サンサン劇場 『ブラック・クランズマン』 (スパイク・リー)塚口サンサン劇場 『記者たち』(ロブ・ライナー)塚口サンサン劇場 『ふたりの女王──メアリーとエリザベス』(ジョージー・ルーク)塚口サンサン劇場 『バイス』(アダム・マッケイ)塚口サンサン劇場
『ゴジラ──キング・オブ・モンスターズ』(マイケル・ドハティ)塚口サンサン劇場 『多十郎殉愛記』(中島貞夫)塚口サンサン劇場 『マイ・ブックショップ』(イザベル・コイシェ)塚口サンサン劇場 『ビューティフル・ボーイ』(フェリックス・ヴァン・フルーニンゲン)塚口サンサン劇場 『コンジアム』(チョン・ボムシク)塚口サンサン劇場
『パドマーワト──女神の誕生』(サンジャイ・リーラ・バンサーリー)塚口サンサン劇場 『オーヴァーロード』(ジュリアス・エイヴァリー)塚口サンサン劇場 『希望の灯り』(トーマス・ステューバー)塚口サンサン劇場 『ドント・ウォーリー』(ガス・ヴァン・サント)塚口サンサン劇場 『ジョーズ』(スティーヴン・スピルバーグ)塚口サンサン劇場
『アナと世界の終わり』(ジョン・マクフェール)塚口サンサン劇場 『愛がなんだ』(今泉力哉)塚口サンサン劇場 『アメリカン・アニマルズ』(バート・レイトン)塚口サンサン劇場 『スノー・ロワイヤル』(ハンス・ペテル・モランド)塚口サンサン劇場 『荒野にて』(アンドリュー・ヘイ)塚口サンサン劇場
『嵐電』(鈴木卓爾)2回目。塚口サンサン劇場 『そうして私たちはプールに金魚を、』(長久允)塚口サンサン劇場 『WE ARE LITTLE ZOMBIES』(長久允)塚口サンサン劇場 『東京裁判』(小林正樹)シネ・ヌーヴォ 『ハッピー・デス・デイ』(クリストファー・ランドン)塚口サンサン劇場
『ハッピー・デス・デイ2U』(クリストファー・ランドン)塚口サンサン劇場 『イメージの本』(ジャン=リュック・ゴダール)堂島リバーフォーラム 『僕たちは希望という名の列車に乗った』 (ラース・クラウメ)塚口サンサン劇場 『ダンスウィズミー』(矢口史靖)塚口サンサン劇場 『よこがお』(深田晃司)テアトル梅田
『新聞記者』(藤井道人)塚口サンサン劇場 『よこがお』(深田晃司)2回目。テアトル梅田 『サウダーヂ』(富田克也)シネ・ヌーヴォ 『RAP IN TONDO』(富田克也)シネ・ヌーヴォ 『ラップ・イン・プノンペン』(富田克也)シネ・ヌーヴォ
『海獣の子供』(渡辺歩)塚口サンサン劇場 『ドッグマン』(マッテオ・ガローネ)テアトル梅田 『サタンタンゴ』(タル・ベーラ)テアトル梅田 『神と共に──第1章:罪と罰』(キム・ヨンファ)塚口サンサン劇場 『神と共に──第2章:因と縁』(キム・ヨンファ)塚口サンサン劇場
『永遠に僕のもの』(ルイス・オルテガ)塚口サンサン劇場 『工作──黒金星と呼ばれた男』(ユン・ジョンビン)塚口サンサン劇場 『ひろしま』(関川秀雄)シネ・ヌーヴォ 『存在のない子供たち』(ナディーン・ラバキー)塚口サンサン劇場 『世界の果ての鼓動』(ヴィム・ヴェンダース)塚口サンサン劇場
『クリムト──エゴン・シーレとウィーン黄金時代』(ミシェル・マリー)塚口サンサン劇場 『ピータールー──マンチェスターの悲劇』 (マイク・リー)塚口サンサン劇場 『イングランド・イズ・ マイン──モリッシー、はじまりの物語』(マーク・ギル)塚口サンサン劇場 『ブルーアワーにぶっ飛ばす』(箱田優子)テアトル梅田 『米軍が最も恐れた男カメジロー不屈の生涯』(佐古忠彦)塚口サンサン劇場
『やっぱり契約破棄していいですか?』(トム・エドモンズ)塚口サンサン劇場 『感染家族』(イ・ミンジェ)塚口サンサン劇場 『守護教師』(イム・ジンスン)塚口サンサン劇場 『ベルリン──天使の詩』(ヴィム・ヴェンダース)たぶん通算5回目ぐらい。塚口サンサン劇場 『ガリーボーイ』(ゾーヤー・アクタル)シネ・リーブル梅田
『よこがお』(深田晃司)3回目。塚口サンサン劇場 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(クエンティン・タランティーノ)塚口サンサン劇場 『ラスト・ムービースター』(アダム・リフキン)塚口サンサン劇場 『アス』(ジョーダン・ピール)塚口サンサン劇場 『ジョーカー』(トッド・フィリップス)OSシネマズミント神戸
『メランコリック』 (田中征爾)塚口サンサン劇場 『ブルーアワーにぶっ飛ばす』(箱田優子)2回目。シネマート心斎橋 『ブラインドスポッティング』(カルロス・ロペス・エストラーダ)塚口サンサン劇場 『ひとよ』(白石和彌)MOVIXあまがさき 『第三夫人と髪飾り』(アッシュ・メイフェア)テアトル梅田
『ある精肉店のはなし』(纐纈あや)第七藝術劇場 『象は静かに座っている』(フー・ボー)シネマート心斎橋 『アイリッシュマン』(マーティン・スコセッシ)シネマート心斎橋 『家族を想うとき』(ケン・ローチ)シネ・リーブル梅田 『去年マリエンバートで』(アラン・レネ)十何年かぶり2回目。シネ・リーブル梅田
『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』(片渕須直)テアトル新宿
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marienbad2019 · 5 years
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【イベント】10/24(木)マリエンバート・ホテルの歩き方@本屋B&B
※こちらのイベントのチケットは完売となりました。
公開前夜、下北沢の本屋B&Bにて公開記念/公開前夜イベントの開催が決定!!登壇ゲストは、菊地成孔さん、町山広美さん、中原昌也さん。公開前夜にこれ以上ないうってつけのトークセッション!更なる迷宮の底へ。
★イベント詳細★
http://bookandbeer.com/event/20191024/
<日時>
10/24(木)20〜22時
<場所>
本屋B&B(下北沢)
http://bookandbeer.com/map/
<料金>
■前売1,500yen + 1 drink
■当日店頭2,000yen + 1 drink
<前売り入手方法>
店頭もしくは、PasMarket(https://passmarket.yahoo.co.jp/event/show/detail/01btfm10hcpbt.html?_ga=2.97141215.1789047056.1568023158-898441596.1564645958)にて。
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「マリエンバート・ホテルの歩き方」
映画『去年マリエンバートで 4Kデジタル・リマスター版』公開前夜
1961年の映画『去年マリエンバートで』が、10月25日(金)よりYEBISU GARDEN CINEMAを皮切りに全国で公開されます。ヒロイン、デルフィーヌ・セイリグのオリジナル衣装を提供したシャネルのサポートのもと完成した、最高精細・最高解像度の4Kデジタル完全修復版での上映となります。
<ヌーヴォー・ロマン>の旗手アラン・ロブ=グリエによる脚本を、<ヌーヴェル・ヴァーグ>の巨匠アラン・レネが監督。映画史は『去年マリエンバートで』以前/以後で分けられる、といわれるほどの比類なき衝撃を与え、今なお多くの人々を魅了し続けている伝説的な名作です。
「史上最も難解な映画」と都市伝説のごとくまことしやかに語り継がれ、おびたたしいほどの分析・解釈がなされた本作ですが、今再び公開され、果たしてどう見られるのか。
東京封切りの前夜、最高のゲスト3名をお招きし、『去年マリエンバートで』の魅力、そしてその嗜み方を語っていただくイベントを開催いたします。
「一個人にその全仕事をフォローするのは不可能」との呼び声通り、音楽・映画・ファッション…あらゆる領域で不世出の痕跡を残す21世紀を代表するカルチャー・ヒーローであり、レネ同様“フロイディアン”を自称する菊地成孔さん。
テレビの人気バラエティ番組の放送作家を本業としながら、女性ファッション誌で各国の映画をポップに紹介する一方、新聞やネットでは世相を痛烈ににらむ。いろんな場所から、唯一無二のまなざしで世界を看破する町山広美さん。
そして、世界的なミュージシャンにして、天才的なユーモアと想像力で<ヌーヴォー・ロマン、その後>を書き殴る作家であり、しかし何よりロブ=グリエの小説に長らく親しんできた中原昌也さん。
「全ては観客の頭の中で起こるのだ。」というレネ/ロブ=グリエの言葉通り、観る者・観る場所・観る時によって、万華鏡のごとく全く異なる姿を見せる本作。では一体、どうみたら良いのか?
日本を代表する映画の語り部たちが一同に会し、『去年マリエンバートで』との付き合い方をレクチャーするまたとない機会。すでに何度も見ている方も、今回初めて出会う方も、予備知識なしで楽しめること間違いなし!迷宮の、更なる深淵へと誘ってくれることでしょう。
寄せてくださった三者三様のコメントが教えてくれる通り予測不能、始まってみないとわからない一夜限りの豪華トークセッション!どうぞお見逃しなく。
【コメント】
美しすぎる記憶の錯綜、迷宮としての美しいホテル、絶え間ないオルガンの美しい不協和音、美しいシャネルの服と美しいモノクロ撮影、美しい俳優と女優に、美しいほど難解な原作小説。あらゆる美しさの贅を尽くして出来上がった、世界そのもののような、誰にも指一本触れられない厳格な存在性。そして、4Kデジタルリマスタリングで蘇ったのは、驚くべきことに、シャネル・ムーヴィーとさえ言える、映画史上最も贅沢な、二度と作られることのないオートクチュールの広告動画。
ーー菊地成孔(音楽家/文筆家)
レネ晩年の作もロブ=グリエの監督作も過去になった未来にいて、再びこの迷宮へ入城する。
38歳の2人のアランの夢想を、女は高笑いで聞き、真顔で睨み返すべきだろう。彼らは願う。永遠の!未然の恋を!
ーー町山広美(放送作家)
どんな歴史的な名作よりも素晴らしい、揺るぎない「永遠」の愛がここにある!オレはコレだけを信じて生きてくよ!ありがとう!
ーー中原昌也(ミュージシャン、作家)
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arg2018 · 5 years
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イメージフォーラム、上映延長決定!
11月23日よりイメージフォーラムにて開催中の「アラン・ロブ=グリエ レトロスペクティブ」、12/28(金)までの5週間をもって終了する予定だったのですが、大好評につき、1/11(金)まで、2週間の延長上映が決定致しました!今までお越し下さった皆様、誠にありがとうございます。
毎日11:00~の1回上映となります。アラン・ロブ=グリエととともに、混沌とした年末年始をお過ごしください。
「アラン・ロブ=グリエ レトロスペクティブ」
延長上映スケジュール@シアター・イメージフォーラム
http://www.imageforum.co.jp/theatre/
12/29(土)『不滅の女』
12/30(日)『ヨーロッパ横断特急』
12/31(月)『嘘をつく男』
1/1(火)上映なし
1/2(水)『エデン、その後』
1/3(木)『快楽の漸進的横滑り』
1/4(金)『囚われの美女』
1/5(土)『エデン、その後』
1/6(日)『快楽の漸進的横滑り』
1/7(月)『ヨーロッパ』
1/8(火)『嘘をつく男』
1/9(水)『エデン』
1/10(木)『囚われ~』
1/11(金)『不滅の女』
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kirezilla · 2 years
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彼は、どのような事件にもあてはまるようなことをいいはじめる。
──ときとして、人は犯人を発見しようと夢中になる……
──遥か彼方に、と次長がつづける。ところが、実は手のとどくところに犯人はいる。
──いずれにしても、犯罪はあの市で起こったのだ、この点は忘れないでくれ……
── アラン・ロブ=グリエ『消しゴム』(中村訳)
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c3oyama · 4 years
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8/18米の日 誕生日/中居正広 レッドフォード 名取裕子 吉川晃司 柴田恭兵 KEIKO 清原和博 成海璃子 伊佐山ひろ子 水道橋博士 終戦記念日 誕生日   767年 最澄(傳教大師) (僧,日本天台宗の開祖)[822年6月4日歿] 1864年 伊藤左千夫(作家) 1865年 長岡半太郎(物理学) 1920年 シェリー・ウィンタース(女優) 1922年 アラン・ロブ=グリエ(作家) 1927年 城山三郎 (小説家『総会��錦城』『落日燃ゆ』)1958年下期直木賞[2007年3月22日歿] 1936年 ロバート・レッドフォード (米:俳優) 1946年 島本和彦(スポーツジャーナリスト) 1951年 柴田恭兵 (俳優,歌手) 1952年 伊佐山ひろ子(女優) 1957年 名取裕子 (女優) 1962年 水道橋博士 (お笑い芸人(浅草キッド)) 1964年 いとうまい子(伊藤麻衣子) (女優,歌手) 1964年 高城剛(ハイパーメディアクリエーター) 1965年 吉川晃司 (歌手,俳優) 1965年 堀江しのぶ (女優,タレント)[1988年9月13日歿] 1965年 大谷育江(声優) 1967年 清原和博 (野球(内野手)) 清原引退 長渕トンボhttps://youtu.be/8RuYPg_rAnc (https://youtu.be/8RuYPg_rAnc) 1969年 クリスチャン・スレーター(俳優) 1970年 小池映(歌手) 1972年 KCO(KEIKO) (ミュージシャン(globe/ヴォーカル),小室哲哉の妻) 【globe】TKメドレー【KEIKO】https://youtu.be/BYqFCutz6jE (https://youtu.be/BYqFCutz6jE) 1972年 中居正広 (歌手,俳優(SMAP)) 1972年 岡田ひらり(女優) 1973年 五城楼勝洋(浜風親方) (相撲) 1973年 光法賢一(安治川親方) (相撲) 1976年 李承{火華}(イ・スンヨプ) (韓国:野球(内野手)) 1980年 高木晋哉 (お笑い芸人(ジョイマン)) 1983年 前田綾花 (女優) 1992年 成海璃子(女優) 誕生花は タマリンド(tamarindo)、花言葉は“贅沢” 誕生石は アクアマリン(aquamarine)、宝石言葉は“聡明” 米の日 「米」の字を分解すると「八十八」になることから。 高校野球記念日 1915年のこの日、大阪の豊中球場で第1回全国中等学校優勝野球大会が開会した。 地区予選を勝ち抜いた10校が参加し、京都二中が優勝した。第10回から甲子園球場が会場になり、1948年から全国高校野球選手権大会となった。 ビーフンの日 ビーフン協会が制定。 ビーフン(米粉)はその名の通り米の粉から出来た麺であり、「米」の字を分解すると「八十八」になることから。 伝教大師誕生会 平戸ジャンガラ(長崎県平戸市) 二輪・自転車安全日 米食の日 頭髪の日 太閤忌 豐臣秀吉の1598(慶長3)年の忌日。 享年61。「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」の辞世を残した。 歴史・出来事 1871年 明治天皇初めて馬車にお召し 1915年 第1回全国中等学校優勝野球大会開催 #今日は何の日 #パーソナルカラー #カラードレープ #カラーパレット #色見本 #PCCS #ドレープ120色 #パーソナルカラー用品 #テストドレープ #金��ドレープ #ケープ #カラーシート #カラーチップ #C³ #色のみかた #顔タイプ #顔タイプ診断 #パーソナルカラー診断 #シーキューブ #毎月 #16日 #色の日 #insta_higashinada #神戸市 #東灘区 (パーソナルカラー用品ドレープ、見本帳,PCCSのご用命はc3(シーキューブ)) https://www.instagram.com/p/CEAT0ZNgDF9/?igshid=3rl6yilt49b0
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team-ginga · 11 months
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映画『グラディーヴァ、マラケシュの裸婦』
 大学の仏文研究室から借りてきたDVDでアラン・ロブ=グリエ監督の映画『グラディーヴァ、マラケシュの裸婦』(2006)を見ました。大昔に見た記憶がありますが、内容は全く覚えていませんでした。
 これで一応ロブ=グリエの映画で手に入りそうなものは全部見たことになります(『エデン、その後』を「再構築」したという『Nは骰子を振った……』(1971)は仏文研究室にアラン・ロブ=グリエBlu-rayボックスが入り次第見るつもりです。ディミトリー・クレルクと共同監督したという『狂気を呼ぶ音』(1995)は全く見る方法がありません)。
 『グラディーヴァ』というのはドイツの作家ヴィルヘルム・イェンゼンが1903年に発表した中編小説で、フロイトが精神分析的観点から分析したことで有名です。
 少し長くなりますが、まずイェンゼンの『グラディーヴァ』のあらすじを書いておきましょう。
 主人公は若き考古学者のノルベルト・ハーノルトーー彼は古代ローマ美術コレクションを見に行って、若い女性が歩いている姿を描いたレリーフをいたく気に入り、その複製を買い求めます。ノルベルトはその女性の特徴のある歩き方ーー彼女は一方の足を地面にピッタリつけ、もう一方の足を地面に垂直に立てていますーーに注目し、本当にそのような歩き方をする女性がいるかどうか、街を行く女たちを観察します。彼はレリーフに描かれた女性にラテン語で「歩く女」を意味するグラディーヴァという名前をつけます。
 ある夜、彼は夢を見ます。夢の中で彼はヴェスヴィオス火山が噴火した日のポンペイにいます。ふと前を見るとグラディーヴァが歩いています。ノルベルトはグラディーヴァに危険を知らせようとしますが、彼女には聞こえません。グラディーヴァは次第に石像のようになり敷石の上に横たわります。火山灰が彼女の体を埋めていきます。
 また別の日、誰かが飼っているカナリアの鳴き声を耳にしたノルベルトは旅に出ることにします。行き先はイタリアーーローマからナポリを経て、彼はポンペイに滞在します。
 ポンペイの街でノルベルトはグラディーヴァそっくりの女性を見かけて、あとをついていきますが、女性は壁の中に吸い込まれるように消えてしまいます。あれはヴェスヴィオス山の噴火で死んだグラディーヴァの亡霊なのだとノルベルトは思います。
 翌日、ノルベルトはまたその女性を見つけます。今度は首尾よく話しかけることができます。会話が成立するということは亡霊ではなく実在の女性だということになりそうですが、ノルベルトはまだ亡霊だと信じています。
 その翌日(だったかな?)の午後、ノルベルトは老紳士が草むらでトカゲを捕まえようとしているところに出くわします。老紳士はノルベルトと顔見知りであるような口を聞きますが、ノルベルトは老紳士が誰だかわかりません。その夜、ノルベルトはまた夢を見ます。夢の中ではグラディーヴァがトカゲを捕まえようとしています。
 さらにその翌日、ノルベルトはまたグラディーヴァと会って話をして、彼女が実在の女性であること、それどころかノルベルトの家の近くに住んでいて、幼い頃よく一緒に遊んだこと、ノルベルトが会った老紳士は彼女の父親であること、彼女の名前はツォエ・ベルトガングであること、ベルトガングという名前は「歩く女」が語源である、つまりグラディーヴァとベルトガングは同語源であること、ノルベルトを旅に誘ったカナリアはツォエが飼っているものであることがわかります。
 ノルベルトはグラディーヴァことツォエに愛を打ち明け、二人は結婚してめでたしめでたし……
 たわいもないと言ってしまえばたわいもない話で、フロイトが分析したということがなければ、時代とともに忘れ去られてしまうような小説かもしれません。
 また、フロイトの分析にしても、伏線とその回収、つまり作者が意図的に書いたことを精神分析による「発見」として自慢げに書いているような感じで、決して面白いものではありません(私はフロイトが好きですし、私自身文学作品の研究に精神分析を応用することを実践していますが、それはそれ、これはこれです)。
 では、ロブ=グリエはこの小説をどう料理したのか……まあロブ=グリエのすることです。原型はほとんど留めていません。
 舞台はモロッコのマラケシューー廃墟となった宮殿にドラクロアの絵画を研究する男が住んでいます。名前はジョン・ロック。17世紀英国の哲学者ロックと同じ名前ですね。なぜなんだろう……
 ジョンはアラブ人の女中ベルキスを愛人にしています。ある日、ジョンがドラクロアのスケッチのスライドを見ていると、ベルキスが小包を持ってきます。誰から送られてきたものかはわかりませんが、中にはある女性を描いたスケッチのスライドが何枚も入っています。見たことのないスケッチですが、どうやらドラクロアのもののようです。
 場面が変わると、ある女性が何やらものを書いています。ジョンの元に送られてきたスケッチのスライドに描かれていた女性です。
 次の場面では彼女は裸体が透けて見えるような薄衣をまとい、メディナを歩いています。
 翌日、街に出たジョンはメディナで薄衣をまとった女性を見つけます。彼女は骨董屋に入っていきます。ジョンは後を追って店に入りますが、骨董屋はそんな女は見なかったの一点張りで埒があきません。
 店先にいた盲目の物乞いに女が通らなかったかと尋ねると、物乞いは「誰も通らなかった」と答え、「ドラクロアが書いたスケッチを持っているコレクターがいる。タクシーで連れて行ってやろう」と言います。
 危ないですね。いい子はついて行ってはいけません。でも当然ながら(?)ジョンはついていきます。
 タクシーはアナトーリという男の邸宅に着きます。ジョンは盲目の物乞いに言われるがままに一人で邸内に入っていきます。アナトーリは全て承知といった感じでジョンを歓迎し、ドラクロアはモロッコに滞在中ある女性と恋仲だったと言い、秘書兼愛人風の女性を裸にして乳首を愛撫しながら、ドラクロアがその女性を描いたスケッチを見せます。
 邸内では女たちの悲鳴が聞こえます。どうやらアナトーリはあちこちから女性を攫ってきては邸内でSM的なプレイをしているようです。
 気分が悪くなったジョンにアナトーリは「では今夜は泊まってらっしゃい」と言って別棟の13号室の鍵を渡します。別棟の入り口には黒服のガードマンがいて身体検査をした後、「これをお持ちください」と言って短剣を渡します。
 それからどうなるんだっけーーいくつか幻想的なシーンがあって(結構記憶がいい加減です)、気がつくと、ものを書いていた女性=薄衣をまとってメディナを歩いていた女性が短剣で刺されて全裸で死んでいます。
 死体を見つけたジョンは手に持っていたスモモ(だと思います)を食べます(え? なぜ?)。スモモの赤黒い汁が彼の顔やシャツにつきます。彼は血に塗れた短剣を拾い上げます。そこでフラッシュが焚かれます。写真を撮られたってことですかね。そんな写真を見たら、彼が殺したって誰だって思いますよね。ジョンはアナトリーの邸宅から逃げ出します。
 で、シーンが変わって、ものを書いていた女性が友達と思しき女性(後でクロディーヌという名前だということがわかります。なお、このクロディーヌはアナトーリの秘書兼愛人の女性と同一人物ーー少なくとも同じ女優が演じています)と話をしています。ものを書いていた女性(ええい、面倒臭い。グラディーヴァです)はクロディーヌに「私は過去は書かない。未来を書く。例えば私が「男はバイクに乗っている」と書けば、男はバイクに乗る」と言います。
 次の場面では実際ジョンがバイクに乗っています。「そうか! グラディーヴァはジョンの夢の女だと思っていたが、そうではなくジョンがグラディーヴァの物語の主人公なんだ」と私は思いましたが、その後の展開を見れば、そういうことでもなさそうです。
 ジョンはバイクで家に戻ります(えーっと、アナトーリの家にはタクシーで行ったはずです。どこでバイクに乗ったんでしょう)。女中のベルキスは忠実にジョンを待っています。二人はそのままベッドを共にします。
 えーっと、それからどうなるんだっけ……夜の廃墟でジョンがグラディーヴァと出会うシーンがあって、翌日の夜ジョンがグラディーヴァの歌声に誘われて廃墟で行こうとするのを女中のベルキスが止めるシーンがあって、それでもジョンはグラディーヴァに会いに行って、日中にカフェでジョンがクロディーヌと会うシーンがあって、クロディーヌがジョンを秘密の出し物に招待して、行ってみるとSMショーのようなものをやっていて、そこでジョンは警察の偉いさんと知り合って、そこにはグラディーヴァもいて、なぜか彼女はジョンのことをよく知っていて、でもグラディーヴァはすぐにどこかへ行ってしまって、その翌日ジョンはカフェでまたクロディーヌと会って、クロディーヌは翌日海で撮影があるので一緒に来ないかとジョンを誘って、翌日カフェに行ってみるとグラディーヴァがいて、自分は夢の中で芝居をする女優だと言い、あなたの夢の中にも何回も出演したと言って、でも気がつくと彼女はいなくなっていて、代わりにクロディーヌが来て、警察が車を用意したからそれに乗って一緒に海に行こうと言って、車にはなぜか警察の偉いさんも乗っていて、海辺の撮影があって、気がつくとジョンはなぜかドラクロアの格好をしていて、ホテルで12号室を探していて、12号室がないので苛立って13号室のドアを叩くと、グラディーヴァが出てきてジョンを中に招き入れて、「これは夢よ。現実のあなたは12号室で眠ってるわ」というようなことを言って、窓を開けると外は海辺で、いつの間にかジョンは海辺を歩いていて、グラディーヴァがどこかの男と抱き合っているのを見て頭に血が上ったジョンは持っていた短剣で襲いかかって、でもなぜか男の姿は消えて、グラディーヴァが刺されていて、ジョンは警察の人間たちに囲まれるのだけれど、その場面がなぜか海岸からホテルの一室へ、そこからさらにどこかの家の中へと変わっていって……という具合に訳のわからないシーンが続きます。
 一方、女中のベルキスはグラディーヴァに嫉妬したのか、引き出しからジョンのピストルを取り出し、最初に送られてきたスライドを写し、グラディーヴァの顔を描いたスケッチのスライドが写っているスクリーンに向かって発砲します。その後彼女はピストルを持ったまま部屋を出ます。銃声が響きます。
 ちょうどその時、ジョンがバイクに乗って戻ってきます(え? キミは逮捕されたんじゃなかったの?)。ジョンは銃声を聞いて、何事かとベルキスを探します。するとベルキスは二人が愛を交わしたベッドに横たわっています。ピストルで自殺したということですね。
 ジョンはベルキスを抱いて廃墟に向かいます。最後に薄衣をまとったグラディーヴァが写ってオシマイ。
 うーん。
 私はロブ=グリエの映画は決して難しくない、むしろわかりやすいし面白いと言い続けてきたつもりですし、そういう方向で論文を書こうと思っていたのですがが、これは確かにどこから見ても難解だわ。
 原題はC'est Gradiva qui vous appelleーー直訳すると「あなたを呼んでいるのはグラディーヴァだ」という意味です。
 映画の中ではグラディーヴァの歌声に誘われて彼女に会いに行こうとするジョンにベルキスがC'est la mort qui vous appelle「あなたを呼んでいるのは死よ」と言っていましたし、同じ言葉が映画のラストでもボイス・オーバー(画面に写っていない人物の声が流れること)で流れていました。
 グラディーヴァに関われば死ぬことになる、だから行くなということでしょう。そういうファム・ファタル的な要素はロブ=グリエの他の映画にもありました。でも、実際に死ぬのはジョンではなくベルキスですから、ちょっと納得のいかない気もします。
 また、ジョンが海辺に行く際、車の中にいた警察の偉いさんがジョンにC'est la mer qui vous appelle「あなたを呼んでいるのは海です」とも言っていました。
 でも……だからどうだというんでしょう。
 もちろん悪くはありませんし嫌いでもありません。
 でもどう捉えていいかわからない映画でした。論文にどう書こう……
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2fishinme · 4 years
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“オアシスは誰にも行き着けない蜃気楼だが
地図から抹消できない
あまりに近く鮮やかに見えるからだ”
アラン・ロブ=グリエ 「エデン、その後」 (1979)
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soneman · 4 years
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本日は映画からスタート。『去年マリエンバートで』@ 恵比寿ガーデンシネマ。一時期 アラン・ロブ・グリエの小説に嵌まったんですよね。 https://www.instagram.com/p/B4WyMA9nj9R/?igshid=1lwuarus15mvh
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honyade · 5 years
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【満員御礼】菊地成孔 × 町山広美 × 中原昌也「マリエンバート・ホテルの歩き方」 映画『去年マリエンバートで 4Kデジタル・リマスター版』公開前夜
1961年の映画『去年マリエンバートで』が、10月25日(金)よりYEBISU GARDEN CINEMAを皮切りに全国で公開されます。
ヒロイン、デルフィーヌ・セイリグのオリジナル衣装を提供したシャネルのサポートのもと完成した、最高精細・最高解像の4Kデジタル完全修復版での上映となります。
【予告編】はこちら
<ヌーヴォー・ロマン>の旗手アラン・ロブ=グリエによる脚本を、<ヌーヴェル・ヴァーグ>の巨匠アラン・レネが監督。 映画史は『去年マリエンバートで』以前/以後で分けられる、といわれるほどの比類なき衝撃を与え、今なお多くの人々を魅了し続けている伝説的な名作です。
「史上最も難解な映画」と都市伝説のごとくまことしやかに語り継がれ、おびたたしいほどの分析・解釈がなされた本作ですが、今再び公開され、果たしてどう観られるのか。
東京封切りの前夜、最高のゲスト3名をお招きし、『去年マリエンバートで』の魅力、そしてその嗜み方を語っていただくイベントを開催いたします。
「一個人にその全仕事をフォローするのは不可能」との呼び声通り、音楽・映画・ファッション……あらゆる領域で不世出の痕跡を残す21世紀を代表するカルチャー・ヒーローであり、レネ同様“フロイディアン”を自称する菊地成孔さん。
テレビの人気バラエティ番組の放送作家を本業としながら、女性ファッション誌で各国の映画をポップに紹介する一方、新聞やネットでは世相を痛烈ににらむ。 いろんな場所から、唯一無二のまなざしで世界を看破する町山広美さん。
そして、世界的なミュージシャンにして、天才的なユーモアと想像力で<ヌーヴォー・ロマン、その後>を書き殴る作家であり、しかし何よりロブ=グリエの小説に長らく親しんできた中原昌也さん。
「全ては観客の頭の中で起こるのだ。」というレネ/ロブ=グリエの言葉通り、観る者・観る場所・観る時によって、万華鏡のごとく全く異なる姿を見せる本作。
では一体、どう観たら良いのか?
日本を代表する映画の語り部たちが一同に会し、『去年マリエンバートで』との付き合い方をレクチャーするまたとない機会。 すでに何度も見ている方も、今回初めて出会う方も、予備知識なしで楽しめること間違いなし!迷宮の、更なる深淵へと誘ってくれることでしょう。
寄せてくださった三者三様のコメントが教えてくれる通り予測不能、始まってみないとわからない一夜限りの豪華トークセッション! どうぞお見逃しなく。
【公式HP】はこちら
【コメント】 —————————————–
美しすぎる記憶の錯綜、迷宮としての美しいホテル、絶え間ないオルガンの美しい不協和音、美しいシャネルの服と美しいモノクロ撮影、美しい俳優と女優に、美しいほど難解な原作小説。 あらゆる美しさの贅を尽くして出来上がった、世界そのもののような、誰にも指一本触れられない厳格な存在性。 そして、4Kデジタルリマスタリングで蘇ったのは、驚くべきことに、シャネル・ムーヴィーとさえ言える、映画史上最も贅沢な、二度と作られることのないオートクチュールの広告動画。 ―菊地成孔(音楽家/文筆家)
レネ晩年の作もロブ=グリエの監督作も過去になった未来にいて、再びこの迷宮へ入城する。 38歳の2人のアランの夢想を、女は高笑いで聞き、真顔で睨み返すべきだろう。 彼らは願う。永遠の! 未然の恋を! ―町山広美(放送作家)
どんな歴史的な名作よりも素晴らしい、揺るぎない「永遠」の愛がここにある! オレはコレだけを信じて生きてくよ! ありがとう! ―中原昌也(ミュージシャン、作家)
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【出演者プロフィール】 菊地成孔(きくち・なるよし) 音楽家としてはソングライティング/アレンジ/バンドリーダー/プロデュースをこなすサキソフォン奏者/シンガー/キーボーディスト/ラッパーであり、文筆家としてはエッセイストであり、音楽批評、映画批評、モード批評、格闘技批評を多数執筆。 ラジオパースナリティやDJ、テレビ番組等々の出演も多数。 2013年、個人事務所株式会社ビュロー菊地を設立。 映画批評の著書に『ユングのサウンドトラック』など、ファッションについても『服は何故音楽を必要とするのか?』の著作がある。
町山広美(まちやま・ひろみ) ADを経て、20歳で放送作家に。 バラエティー番組を持ち場として、現在の担当番組は『有吉ゼミ』『マツコの知らない世界』『MUSIC STATION』ほか。 『幸せ!ボンビーガール』ではナレーターも兼任。 映画レビューも女性誌を中心に多数執筆。 『In Red』の長期連載「レッド・ムービー、カモーン」では同時期に公開される2本の映画を同時に、『and GIRL』では「町山広美の女子力アップ映画館」と題したコラムを連載中。
中原昌也(なかはら・まさや) 80年代末からノイズユニット「暴力温泉芸者」を立ち上げ、97年からユニット名を「Hair Stylistics」に改め活動。 また、音楽活動と平行して小説家・画家としても活躍。 2001年に『あらゆる場所に花束が…』で三島由紀夫賞、2006年に『名もなき孤児たちの墓』で野間文芸新人賞、2008年『中原昌也作業日誌20042007』でBunkamuraドゥマゴ賞を受賞。 最新刊は、『パートタイム・デスライフ』『虐殺ソングブックremix』。 映画についての著作・対談集に『エーガ界に捧ぐ』『映画の頭脳破壊』など多数。
【重要なお知らせ】 10月1日からの消費税率の引き上げに伴い、チケット価格を変更いたします。
9月30日までにチケット購入の場合… 前売1500円+ドリンク500円(共に税込)=2000円 当日2000円+ドリンク500円(共に税込)=2500円 ↓ 10月1日以降にチケット購入の場合… 前売1500円+ドリンク500円(共に税別)=2200円 当日2000円+ドリンク500円(共に税別)=2750円
くわしくはこちらのページをご覧ください。
10月1日0時より自動的に価格が切り替わりますので、ご参加のお客さまはお早めにお申し込みください。
時間 _ 20:00~22:00 (19:30開場) 場所 _ 本屋B&B 東京都世田谷区北沢2-5-2 ビッグベンB1F ▼入場料 ■前売1,500yen + 1 drink(税別) ■当日店頭2,000yen + 1 drink(税別)
※追加チケットは完売しました
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イベント情報の詳細はこちら
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fujimoto-h · 4 years
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『ある精肉店のはなし』とアディーチェと『マッドマックス──地獄のデスロード』と『菊とギロチン』と山野浩一と
 『ある精肉店のはなし』を観ていたらエンドロールに協力者として見憶えのある名前があり、おそらく作品のテーマ的にも白鴉OBのTだEみこ氏でまちがいないだろうと思う。『家族を想うとき』が容赦なくてやはりケン・ローチ監督最高だなと。これにくらべたらやはり『ジョーカー』なんかは1回観れば十分…。
 21日、アディーチェ読書会。東梅田へ早めに行って周辺の建物を楽しんでいた。会場の居酒屋は巨大椎茸が有名らしく、なんとなく人に会いたくない気分だったところ、それを楽しみに足を運んだというのに椎茸を切らしていた。テンション激落ちである。短篇集『なにかが首のまわりに』から各々好きな作品を選んでいく流れだったが、私が選んだのは「ひそかな経験」「先週の月曜日に」「セル・ワン」。「ひそかな経験」はふたりの登場人物間に流れるぎこちなさ、いたたまれなさが最高によかった。最後までまったく仲良くならないところもいい。「先週の月曜日に」は語り手の白人中流家庭へのまなざしが味わい深い。「セル・ワン」も全体的に流れる空気感が好み。アディーチェ作品、けっして後味よく仕上げようとかそんな意思をまったく感じさせないところが最高なのではないだろうか(重くて暗くて無理だったという声もネット上にはちらほら見かける)。アイロニーというか。なんだか好きな作家を聞かれたりしたが、いざ聞かれると誰だったっけ、となり、まあ、強いてひとり挙げればトーマス・ベルンハルトかサミュエル・ベケットということになるが、説明とか面倒なのでできればいないと答えたい。説明したところでどうせ読まないし、読んだら読んだで読めないとか私に文句言ってくるし。面倒なら日本人である大江健三郎を出せばいいわけだが、わかられたらわかられたで好きな作品とかへ話が発展するのが目に見えてるし、あと、さいきんはB校生でも大江健三郎を読んだことがない人がいるらしいことから、一般人とおなじくここでも「知らない」と答えられたら後々夜闇に潜んで狙撃とかしてしまいそうなので、おたがいの生命活動のためにもできれば言わないでおきたい。吉川英治にしとくか。私の好きな作家は吉川英治です。吉川英治ですよ。吉川英治最高。  22日、「尾を喰う蛇」の作者でおなじみの江戸前握り氏祝賀会出席のため、天満の焼肉屋へ。「尾を喰う蛇」の合評会があったらしいのだが、私のような批評の苦手な人間が行ったところでなんの参考にもならないだろうと、参加を免除していただいていた。体感的に江戸前握り氏に肉迫するぐらい私の話題が出ていて戸惑ったが、U川氏(本名がT橋でしたっけ)の言い放った、「蟹」は名作、という言葉を私はいつまでも憶えているだろう。「は」とはなんなのか。さては「アゴアク」挫折組か。M上氏が『マッドマックス──地獄のデスロード』をまだ観ていないらしいのでぜひ観ていただきたいと思った。カーチェイスの参考になりますよ。バイク好きとしてはオートバイの魔改造ぶりも必見。YAMAHAのYZF-R1とか、原形留めていなさすぎて10回見てもどのバイクがそれかわからないという。あとパンフレット購入お勧め。あと監督と私とは誕生日が一緒。首都圏に文校的なところがないかのような話もあったが、『おらおらでひとりいぐも』の作者って神奈川文学学校の生徒じゃなかったっけ、とか埼玉文学学校関係者の知人がネット上にいる私は思っていたが、こういうシチュエーションが嫌いではないので黙っておいた。まあ、たしかに文フリでは見かけなかったけれども。焼肉終了後、残った何人かでサンマルク。ブルーベリーフローズンパフェとホットコーヒー。B校同期であるMRSNの名前を久々に聞いた。I塚チューターに1回も褒められたことのない私であったが、やはりI塚チューターは評価基準が甘いことで有名らしい。
 私が昨年2回観て、推しに推していた『菊とギロチン』を褒め、とくに韓英恵を激賞していた、『吟醸掌篇』代表でおなじみの栗林佐知氏より、『白鴉』31号購入依頼。この作品はまだまだ、韓英恵史上、圧倒的最高峰なのであった。  岡和田晃氏にお勧めしていただきながらなかなか読めていなかった山野浩一をようやく何冊か読めたが、なるほどなかなか参考になるなあと。思想やら思索をこうやって作品に落とし込んでいけばいいのだなと。そして正確にはいつ紹介してもらっていたのか思い出そうとして思い出せないのだけれど、たぶん「蟹」でまほろば賞特別賞を得たタイミングかなあと。どうも読んでいただけているらしいので。感想は怖くて聞いてませんが。作品的に、これ読んでたらたしかに勧めそうな感じもあり。ちなみに彼は「アゴアク」もおそらく某新人賞の下読���で「革」として読んでるはず…。ただの憶測ですが。ともかく買えるやつは読んで、あとは『レヴォリューション』と『花と機械とゲシタルト』を借りた。岡和田氏による、ロブ=グリエお勧め摂取順の通り、『消しゴム』からマリエンバートへ行ったので、次は『覗く人』である。わりと好きで3回は読んでたはず。
最近読み終えた本 山野浩一『殺人者の空──山野浩一傑作選II』(創元SF文庫) 山野浩一『鳥はいまどこを飛ぶか──山野浩一傑作選I』(創元SF文庫) 山野浩一『X電車で行こう』(ハヤカワ文庫) 山野浩一『ザ・クライム』(冬樹社) 『現代韓国短篇選(下)』(岩波書店)
最近観た映画 『ひとよ』(白石和彌)MOVIXあまがさき 『第三夫人と髪飾り』(アッシュ・メイフェア)テアトル梅田 『ある精肉店のはなし』(纐纈あや)第七藝術劇場 『象は静かに座っている』(フー・ボー)シネマート心斎橋 『アイリッシュマン』(マーティン・スコセッシ)シネマート心斎橋 『家族を想うとき』(ケン・ローチ)シネ・リーブル梅田 『去年マリエンバートで』(アラン・レネ)十何年かぶり2回目。シネ・リーブル梅田
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marienbad2019 · 4 years
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「ふたりのアラン」特集@シネマテークたかさき
12/7(土)〜12/13(金)、群馬県高崎市のミニシアター・シネマテークたかさきにて、「去年マリエンバートで」とアラン・ロブ=グリエ監督作を一挙に上映する特集「ふたりのアラン」が開催される運びとなりました。
開館15周年記念でもあり、また高崎が生んだ伝説のシネアストにオマージュを捧げた名物企画「BOM(ベスト・オブ・茂木正男)シリーズ 」Vol.12という、同館にとって特別な機会での上映となります。また、12/8(日)14:10〜、現代の映画論壇を代表する映画批評家・廣瀬純氏(『シネマの大義』)をお招きし、トークイベントを開催いたします!
本特集をご覧になった/なる予定の方はどなたでも参加できます。
ロブ=グリエとレネの邂逅の奇跡を、鮮烈な知性で語るまたとないスリリングな機会になると思います。ぜひお越しください。
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【ご入場方法】
特集上映作品いずれか1作品ご鑑賞の方がご参加いただけます。
※8(日)トーク開催前にご鑑賞の場合、トーク受付時にチケットの半券をご提示ください。また、開催後にご鑑賞の場合、トーク受付時にご鑑賞料金をご精算ください。
ただいま、事前ご予約受付中
劇場窓口または電話(027-325-1744)にて受付。
※定員(58席)に達し次第受付終了いたします。
※全席自由席。開始10分前より受付番号順にご案内いたします。
劇場窓口または電話(027-325-1744)にて受付中。
http://takasaki-cc.jp/info/8976/
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arg2018 · 5 years
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タイムテーブル決定!
11/23(金・祝)から12/28(金)、「アラン・ロブ=グリエ レトロスペクティブ」会期中、全36日間の《シアター・イメージフォーラム》での上映プログラムが決定!是非劇場でご堪能ください。
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シアター・イメージフォーラム
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【渋谷より】
JR渋谷駅より徒歩8分。東口駅前の宮益坂上がりきり、ガソリンスタンドの五差路を直進、一つ目の信号を右に入る。 ※宮益坂、青山通りの左側の歩道を歩くと歩道橋を使わずに済みます。 バスをご利用の場合は東口駅前からC88系統新橋行きで一つ目、渋谷二丁目バス停下車、1分。循環ハチ公バスも渋谷二丁目バス停下車、1分
【表参道より】
徒歩10分。青山通り渋谷方向、青山学院を過ぎ、二本目の通り左入る。
Adress:〒150-0002 東京都渋谷区渋谷2-10-2
Tel : 03-5766-0114
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sasakiatsushi · 7 years
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小説家蓮實重彦、一、二、三、四、
人間に機械を操縦する権利があるように、機械にもみずから作動する権利がある。 ーー『オペラ・オペラシオネル』ーー
一、
 二朗は三度、射精する。そしてそれはあらかじめ決められていたことだ。  一度目の精の放出は、ハリウッドの恋愛喜劇映画を観た帰りの二朗が、小説の始まりをそのまま引くなら「傾きかけた西日を受けてばふりばふりとまわっている重そうな回転扉を小走りにすり抜け、劇場街の雑踏に背を向けて公園に通じる日陰の歩道を足早に遠ざかって行くのは和服姿の女は、どう見たって伯爵夫人にちがいない」と気づいたそばから当の伯爵夫人にまるで待ち構えていたかのように振り返られ、折角こんな場所で会ったのだしホテルにでも寄って一緒に珈琲を呑もうなどと誘いかけられて、向かう道すがら突然「ねえよく聞いて。向こうからふたり組の男が歩いてきます。二朗さんがこんな女といるところをあの連中に見られたくないから、黙っていう通りにして下さい」と、なかば命令口調で指示されて演じる羽目になる、謎の二人組に顔を視認されまいがための贋の抱擁の最中に起こる。
 小鼻のふくらみや耳たぶにさしてくる赤みから女の息遣いの乱れを確かめると、兄貴のお下がりの三つ揃いを着たまま何やらみなぎる気配をみせ始めた自分の下半身が誇らしくてならず、それに呼応するかのように背筋から下腹にかけて疼くものが走りぬけてゆく。ああ、来るぞと思ういとまもなく、腰すら動かさずに心地よく射精してしまう自分にはさすがに驚かされたが、その余韻を確かめながら、二朗は誰にいうとなくこれでよしとつぶやく。
 なにが「これでよし」なのか。ここは明らかに笑うべきところだが、それはまあいいとして、二度目の射精は、首尾よく二人組を躱したものの、ホテルに入るとすぐに新聞売り場の脇の電話ボックスに二朗を連れ込んだ伯爵夫人から先ほどの抱擁の際の「にわかには受け入れがたい演技」を叱責され、突然口調もまるで「年増の二流芸者」のようなあけすけさに一変したばかりか��青くせえ魔羅」だの「熟れたまんこ」だの卑猥過ぎる単語を矢継ぎ早に発する彼女に、事もあろうに「金玉」を潰されかけて呆気なく失神し、気がつくと同じ電話ボックスで伯爵夫人は先ほどの変貌が夢幻だったかのように普段の様子に戻っているのだが、しかしそのまま彼女のひどくポルノグラフィックな身の上話が始まって、けっして短くはないその語りが一段落ついてから、そろそろ「お茶室」に移動しようかと告げられた後、以前からあちこちで囁かれていた噂通りの、いや噂をはるかに凌駕する正真正銘の「高等娼婦」であったらしい伯爵夫人の淫蕩な過去に妙に大人ぶった理解を示してみせた二朗が、今度は演技と異なった慎ましくも本物の抱擁を交わしつつ、「ああ、こうして伯爵夫人と和解することができたのだ」と安堵した矢先に勃発する。「あらまあといいながら気配を察して相手は指先を股間にあてがうと、それを機に、亀頭の先端から大量の液体が下着にほとばしる」。  そして三度目は、伯爵夫人と入れ替わりに舞台に登場した「男装の麗人」、二朗への颯爽たる詰問ぶりゆえ警察官ではないにもかかわらず「ボブカットの女刑事」とも呼ばれ、更に「和製ルイーズ・ブルックス」とも呼ばれることになる女に案内されたホテルの奥に位置する「バーをしつらえたサロンのような小さな空間」ーー書棚がしつらえられ、絵が飾られ、蓄音機が置かれて、シャンデリアも下がっているのだが、しかしその向こうの「ガラス越しには、殺風景な三つのシャワーのついた浴場が白いタイル張りで拡がっており、いっさい窓はない」ことから戦時下の「捕虜の拷問部屋」を思わせもするーーで、この「更衣室」は「変装を好まれたり変装を余儀なくされたりする方々のお役に立つことを主眼として」いるのだと女は言って幾つかの興味深い、俄には信じ難い内容も含む変装にかかわる逸話を披露し、その流れで「金玉潰しのお龍」という「諜報機関の一員」で「かつて満州で、敵味方の見境もなく金玉を潰しまくった懲らしめの達人」の存在が口にされて、ひょっとしてこの「お龍」とは伯爵夫人そのひとなのではないかと訝しみつつ、突如思い立った二朗は目の前の和製ルイーズ・ブルックスをものにして俺は童貞を捨てると宣言するのだが事はそうは進まず、どういうつもりか女は彼に伯爵夫人のあられもない写真を見せたり、伯爵夫人の声だというが二朗の耳には自分の母親のものとしか思われない「ぷへーという低いうめき」が録音されたレコードを聞かせたりして、そして唐突に(といってもこの小説では何もかもが唐突なのだが)「こう見えても、このわたくし、魔羅切りのお仙と呼ばれ、多少は名の知られた女でござんす」と口調を一変させてーーここはもはや明らかに爆笑すべきところだが、それもまあいいとしてーー血塗れの剃刀使いの腕を自慢するのだが、その直後におよそ現実離れした、ほとんど夢幻か映画の中としか思えないアクション場面を契機に両者の力関係が逆転し、言葉責めを思わせる丁寧口調で命じられるがまま和製ルイーズ・ブルックスは身に纏った衣服を一枚一枚脱いでいって最後に残ったズロースに二朗が女から取り上げた剃刀を滑り込ませたところでなぜだか彼は気を失い、目覚めると女は全裸でまだそこに居り、これもまたなぜだか、としか言いようがないが、そもそも脱衣を強いた寸前の記憶が二朗にはなく、なのに女は「あなたさまの若くて美しいおちんちんは、私をいつになく昂らせてくださいました。たしかに、私の中でおはてにはなりませんでしたが、久方ぶりに思いきりのぼりつめさせていただきました」などと言い出して、いまだ勃起し切っている二朗の「魔羅」について「しっかりと責任は取らせていただきます」と告げて背中に乳房が押しつけられるやいなや「間髪を入れず二朗は射精する」。  帝大法科への受験を控えた二朗少年のヰタ・セクスアリスとして読めなくもない『伯爵夫人』は、ポルノグラフィと呼ばれてなんら差し支えないあからさまに助平な挿話とはしたない語彙に満ち満ちているのだが、にもかかわらず、結局のところ最後まで二朗は童貞を捨て去ることはないし、物語上の現在時制においては、いま見たように三度、何かの事故のようにザーメンを虚空にぶっ放すのみである。しかも、これら三度ーーそれもごくわずかな時間のあいだの三度ーーに及ぶ射精は、どうも「金玉潰しのお龍」が駆使するという「南佛でシャネル9番の開発にかかわっていたさる露西亜人の兄弟が、ちょっとした手違いから製造してしまった特殊な媚薬めいた溶液で、ココ・シャネルの厳しい禁止命令にもかかわらず、しかるべき筋にはいまなお流通しているもの」の効果であるらしいのだから、しかるに二朗は、一度として自分の意志や欲望の力によって己の「魔羅」に仕事をさせるわけではないし、彼の勃起や射精は、若く健康な男性の肉体に怪しげな薬物が齎した化学的/生理的な反応に過ぎないことになるわけだ。実際、物語上の時間としては過去に属する他の幾つかの場面では、百戦錬磨の女中頭の小春に技術を尽くして弄られようと、従妹の蓬子に「メロンの汁で手を湿らせてから」初々しくも甲斐甲斐しく���られようと、二朗は精を漏らすことはないし、ほとんど催すことさえないかのようなのだ。  つまりここにあるのは、その見てくれに反して、二朗の性的冒険の物語ではない。彼の三度に及ぶ射精は、詰まるところケミカルな作用でしかない。それでも三度も思い切り大量に放出したあと、二朗を待っているのは、今度は正反対のケミカルな効用、すなわち「インカの土人たちが秘伝として伝える特殊なエキスを配合したサボン」で陰茎を入念に洗うことによって、七十二時間にもわたって勃起を抑止されるという仕打ちである。三度目に出してすぐさま彼は「裸のルイーズ・ブルックス」にその特殊なサボンを塗りたくられ、すると三度も逝ったというのにまだいきりたったままだった「若くて元気なおちんちん」は呆気なく元気を喪い、更には「念には念を入れてとスポイト状のものを尿道にすばやく挿入してから、ちょっと浸みますがと断わって紫色の液体を注入」までされてしまう。サボンの効果は絶大で、二朗の「魔羅」はこの後、小説の終わりまで、一度として射精もしなければ勃起することさえない。物語上の現在は二朗がケミカルな不能に陥って間もなく終了することになるが、それ以後も彼のおちんちんはまだまだずっと使いものにならないだろう。七十二時間、つまり三日後まで。そしてこのことも、ほとんどあらかじめ決められていたことなのだ。  『伯爵夫人』は小説家蓮實重彦の三作目の作品に当たる。一作目の『陥没地帯』は一九七九年に、二作目の『オペラ・オペラシオネル』は一九九四年に、それぞれ発表されている。第一作から最新作までのあいだにはじつに三十七年もの時間が経過しているわけだが、作者は自分にとって「小説」とは「あるとき、向こうからやってくるもの」だと言明しており、その発言を信じる限りにおいて三編の発表のタイミングや間隔は計画的なものではないし如何なる意味でも時期を心得たものではない。最初に『陥没地帯』が書かれた時点では『オペラ・オペラシオネル』の十五年後の到来は想像さえされておらず、更にそれから二十二年も経って『伯爵夫人』がやってくることだって一切予想されてはいなかったことになるだろう。偶然とも僥倖とも、なんなら奇跡とも呼んでしかるべき小説の到来は、因果律も目的意識も欠いた突発的な出来事としてそれぞれ独立しており、少なくとも「作者」の権能や意識の範疇にはない。第一、あの『「ボヴァリー夫人」論』が遂に上梓され、かねてよりもうひとつのライフワークとして予告されてきた映画作家ジョン・フォードにかんする大部の書物の一刻も早い完成が待たれている状態で、どうして『伯爵夫人』などという破廉恥極まる小説がわざわざ書かれなくてはならなかったのか、これは端的に言って不可解な仕業であり、何かの間違いかはたまた意地悪か、いっそ不条理とさえ言いたくもなってくる。仮に作者の内に何ごとか隠された動機があったにせよ、それは最後まで隠されたままになる可能性が高い。  だがそれでも、どうしてだか書かれてしまった「三」番目の小説である『伯爵夫人』が、「二」番目の『オペラ・オペラシオネル』から「二」十「二」年ぶりだなどと言われると、それを読む者は読み始める前から或る種の身構えを取らされることになる。なぜならば、ここにごく無造作に記された「二」や「三」、或いはそこからごく自然に導き出される「一」或いは「四」といった何の変哲もない数にかかわる、暗合とも数秘学とも、なんなら単に数遊びとでも呼んでしかるべき事どもこそ、小説家蓮實重彦の作品を貫く原理、少なくともそのひとつであったということがにわかに想起され、だとすればこの『伯爵夫人』もまた、その「原理」をほとんどあからさまな仕方で潜在させているのだろうと予感されるからだ。その予感は、すでに『陥没地帯』と『オペラ・オペラシオネル』を読んでしまっている者ならば、実のところ避け難いものとしてあるのだが、こうして『伯爵夫人』を読み終えてしまった者は、いま、読み始める前から或る独特な姿勢に身構えていた自分が、やはり決して間違ってはいなかったことを知っている。二朗が射精するとしたら、三度でなければならない。二朗が不能に陥るとしたら、三日間でなければならないのだ。では、それは一体、どういうことなのか?  どういうことなのかを多少とも詳らかにするためには、まずは小説家蓮實重彦の先行する二作品をあらためて読み直してみる必要がある。数遊びは最初の一手からやってみせなければわかられないし、だいいち面白くない。遊びが遊びである以上、そこに意味などないことは百も承知であれば尚更、ともかくも一から順番に数え上げていかなくてはならない。そう、先回りして断わっておくが、ここで云われる「原理」とは、まるっきり無意味なものであるばかりか、おそらく正しくさえない。だが、意味もなければ正しくもない「原理」を敢然と擁護し、意味とも正しさとも無縁のその価値と存在理由を繰り返し強力に証明してきた者こそ、他ならぬ蓮實重彦そのひとではなかったか?
二、
 小説家蓮實重彦の第一作『陥没地帯』は、あくまでもそのつもりで読んでみるならば、ということでしかないが、戦後フランスの新しい作家たち、誰よりもまずはクロード・シモンと、だいぶ薄まりはするがアラン・ロブ=グリエ、部分的にはモーリス・ブランショやルイ=ルネ・デ・フォレ、そしてジャン=ポール・サルトルの微かな影さえ感じられなくもない、つまりはいかにも仏文学者であり文芸批評家でもある人物が書きそうな小説だと言っていいかもしれない。日本語の小説であれば、これはもう疑いもなく、その五年ほど前に出版されていた金井美恵子の『岸辺のない海』へ/からの反響を聴き取るべきだろう。西風の吹きすさぶ砂丘地帯から程近い、こじんまりとした、さほど人気のない観光地でもあるのだろう土地を舞台に、ロマンの破片、ドラマの残骸、事件の痕跡のようなものたちが、ゆっくりと旋回しながらどことも知れぬ場所へと落ちてゆくのを眺めているような、そんな小説。ともあれ、冒頭の一文はこうだ。
 遠目には雑草さながらの群生植物の茂みが、いくつも折りかさなるようにしていっせいに茎を傾け、この痩せこけた砂地の斜面にしがみついて、吹きつのる西風を避けている。
 誰とも知れぬ語り手は、まずはじめにふと視界に現れた「群生植物」について、「その種類を識別することは何ともむつかしい」のみならず、「この土地の人びとがそれをどんな名前で呼んでいるのかは皆目見当もつかないだろう」と宣言する。結局、この「群生植物」は最後まで名前を明かされないのだが、そればかりか、物語の舞台となる土地も具体的な名称で呼ばれることはなく、登場人物たちも皆が皆、およそ名前というものを欠いている。この徹底した命名の拒否は、そのことによって否応無しに物語の抽象性を際立たせることになるだろう。  もっとも語り手は、すぐさま次のように述べる。
 何か人に知られたくない企みでもあって、それを隠そうとするかのように肝心な名前を記憶から遠ざけ、その意図的な空白のまわりに物語を築こうとでもいうのだろうか。しかし、物語はとうの昔に始まっているのだし、事件もまた事件で特定の一日を選んで不意撃ちをくらわせにやってきたのではないのだから、いかにも退屈そうに日々くり返されているこの砂丘でのできごとを語るのに、比喩だの象徴だのはあまりに饒舌な贅��品というべきだろう。いま必要とされているのは、誰もが知っているごくありふれた草木の名前でもさりげなく口にしておくことに尽きている。
 だから実のところ命名は誰にでも許されているのだし、そこで口にされる名はありきたりのもので構わない。実際、わざわざ記すまでもないほどにありふれた名前を、ひとびとは日々、何のこだわりもなくごく普通に発話しているに違いない。そしてそれは特に「群生植物」に限らない話であるのだが、しかし実際には「誰もが知っているごくありふれた」名前さえ一度として記されることはない。凡庸な名前の、凡庸であるがゆえの禁止。ところが、ここで起きている事態はそれだけではない。かなり後の頁には、そこでは弟と呼ばれている誰かの「ここからでは雑草とちっともかわらない群生植物にも、ちゃんと名前があったんだ。土地の人たちがみんなそう呼んでいたごくありきたりな名前があった。でもそれがどうしても思い出せない」という台詞が記されており、もっと後、最後の場面に至ると、弟の前で幾度となくその名前を口にしていた筈の姉と呼ばれる誰かもまた、その「群生植物」の名を自分は忘れてしまったと告白するのだ。つまりここでは、名づけることのたやすさとその恣意性、それゆえのナンセンスとともに、たとえナンセンスだったとしても、かつて何ものかによって命名され、自分自身も確かに知っていた/覚えていた名前が理由もなく記憶から抜け落ちてゆくことのおそろしさとかなしみが同時に語られている。ありとあらゆる「名」の風化と、その忘却。覚えているまでもない名前を永久に思い出せなくなること。そんな二重の無名状態に宙吊りにされたまま、この物語は一切の固有名詞を欠落させたまま展開、いや旋回してゆく。そしてこのことにはまた別種の機能もあると思われるのだが、いま少し迂回しよう。  右の引用中の「物語はとうの昔に始まっているのだし、事件もまた事件で特定の一日を選んで不意撃ちをくらわせにやってきたのではないのだから」という如何にも印象的なフレーズは、語句や語順を微妙に違えながら、この小説のなかで何度となく繰り返されてゆく。これに限らず、幾つかの文章や描写や叙述が反復的に登場することによって、この小説は音楽的ともいうべき緩やかなリズムを獲得しているのだが、それはもう一方で、反復/繰り返しという運動が不可避的に孕み持つ単調さへと繋がり、無為、退屈、倦怠といった感覚を読む者に喚び起こしもするだろう。ともあれ、たとえば今日という一日に、ここで起こることのすべては、どうやら「昨日のそれの反復だし、明日もまた同じように繰り返されるものだろう。だから、始まりといっても、それはあくまでとりあえずのものにすぎない」という達観とも諦念とも呼べるだろう空気が、そもそもの始まりから『陥没地帯』の世界を覆っている。  とはいえ、それは単純な繰り返しとはやはり異なっている。精確な反復とは違い、微細な差異が導入されているからではなく、今日が昨日の反復であり、明日が今日の反復であるという前後関係が、ここでは明らかに混乱を来しているからだ。この小説においては、物語られるほとんどの事件、多くの出来事が、時間的な順序も因果律も曖昧なまましどけなく錯綜し、あたかも何匹ものウロボロスの蛇が互いの尻尾を丸呑みしようとしているかのような、どうにも不気味な、だが優雅にも見える有様を呈してゆく。どちらが先にあってどちらがその反復なのかも確定し難い、起点も終点も穿つことの出来ない、方向性を欠いた反復。あたかもこの小説のありとある反復は「とうの昔に始まって」おり、そして/しかし、いつの間にか「とうの昔」に回帰してでもいくかのようなのだ。反復と循環、しかも両者は歪に、だがどこか整然と絡み合っている。しかも、それでいてこの小説のなかで幾度か、まさに不意撃ちのように書きつけられる「いま」の二語が示しているように、昨日、今日、明日ではなく、今日、今日、今日、いま、いま、いま、とでも言いたげな、現在形の強調が反復=循環と共存してもいる。それはまるで、毎日毎日朝から晩まで同じ演目を倦むことなく繰り返してきたテーマパークが、そのプログラムをいつのまにか失調させていき、遂にはタイマーも自壊させて、いま起きていることがいつ起こるべきことだったのかわからなくなり、かつて起こったことと、これから起こるだろうことの区別もつかなくなって、いまとなってはただ、いまがまだかろうじていまであること、いまだけはいつまでもいまであり続けるだろうことだけを頼りに、ただやみくもに、まだなんとか覚えていると自分では思っている、名も無きものたちによるひと続きの出し物を、不完全かつ不安定に延々と繰り返し上演し続けているかのようなのだ。  二重の、徹底された無名状態と、壊れた/壊れてゆく反復=循環性。『陥没地帯』の舞台となる世界ーーいや、むしろ端的に陥没地帯と呼ぶべきだろうーーは、このふたつの特性に支えられている。陥没地帯の物語を何らかの仕方で丸ごと形式的に整理しようとする者は、あらかじめこの二種の特性によって先回りされ行く手を塞がれるしかない。「名」の廃棄が形式化の作業を露骨な姿態で誘引しており、その先では程よくこんがらがった毛糸玉が、ほら解いてみなさいちゃんと解けるように編んであるからとでも言いたげに薄笑いを浮かべて待ち受けているだけのことだ。そんな見え見えの罠に敢えて嵌まってみせるのも一興かもしれないが、とりあえず物語=世界の構造そのものを相手取ろうとする無邪気にマクロな視点はいったん脇に置き、もっと単純素朴なる細部へと目を向けてみると、そこではこれまた見え見えの様子ではあるものの、相似という要素に目が留まることになるだろう。  たとえば「向かい合った二つの食堂兼ホテルは、外観も、内部の装飾も、料理のメニューも驚くほど似かよって」いる。しかし「ためらうことなくその一つを選んで扉を押しさえすれば、そこで約束の相手と間違いなく落ち合うことができる。目には見えない識別票のようなものが、散歩者たちをあらかじめ二つのグループに分断しており、その二つは決して融合することがない」。つまり「驚くほど似かよって」いるのにもかかわらず、二軒はひとびとの間に必ずしも混同を惹き起こしてはいないということだ。しかし似かよっているのは二つの食堂兼ホテルだけではない。他にも「まったく同じ様式に従って設計されている」せいで「どちらが市役所なのか駅なのはすぐにはわからない」だの、やはり「同じ時期に同じ建築様式に従って設計された」ので「旅行者の誰もが郵便局と取り違えて切手を買いに行ったりする学校」だのといった相似の表象が、これみよがしに登場する。建物だけではない。たとえば物語において謎めいた(この物語に謎めいていない者などただのひとりも存在していないが)役割を演じることになる「大伯父」と「その義理の弟」と呼ばれる「二人の老人」も、しつこいほどに「そっくり」「生き写し」「見分けがつかない」などと書かれる。  ところが、この二人にかんしては、やがて次のようにも語られる。
 あの二人が同一人物と見まがうほどに似かよっているのは、永年同じ職場で同じ仕事をしてきたことからくる擬態によってではなく、ただ、話の筋がいきなり思わぬ方向に展開されてしまったとき、いつでも身がわりを演じうるようにと、日頃からその下準備をしておくためなのです。だから、それはまったく装われた類似にすぎず、そのことさえ心得ておけば、いささかも驚くべきことがらではありません。
 先の建築物にしたって、後になると「二軒並んだ食堂兼ホテルは、いま、人を惑わすほどには似かよってはおらず、さりとてまったくきわだった違いを示しているわけでもない」だとか「学校とも郵便局とも判別しがたく、ことによったらそのどちらでもないかもしれぬたてもの」などといった書かれぶりなのだから、ここでの相似とは要するに、なんともあやふやなものでしかない。にしても、二つのものが似かよっている、という描写が、この物語のあちこちにちりばめられていることは事実であり、ならばそこにはどんな機能が託されているのかと問うてみたくなるのも無理からぬことだと思われる。  が、ここで読む者ははたと思い至る。相似する二つのものという要素は、どうしたって「似ていること」をめぐる思考へとこちらを誘っていこうとするのだが、それ自体がまたもや罠なのではないか。そうではなくて、ここで重要なのは、むしろただ単に「二」という数字なのではあるまいか。だってこれらの相似は難なく区別されているのだし、相似の度合いも可変的であったり、そうでなくても結局のところ「装われた類似にすぎず、そのことさえ心得ておけば、いささかも驚くべきことがらでは」ないというのだから。騙されてはならない。問題とすべきなのは相似の表象に伴って書きつけられる「二」という数の方なのだ。そう思って頁に目を向け直してみると、そこには確かに「二」という文字が意味ありげに幾つも転がっている。「二」つ並んだ食堂兼ホテルには「二」階があるしーーしかもこの「二階」は物語の重要な「事件の現場」となるーー、市役所前から砂丘地帯までを走る路面電車は「二」輛連結であり、一時間に「二」本しかない。とりわけ路面電車にかかわる二つの「二」は、ほぼ省略されることなく常にしつこく記されており、そこには奇妙な執着のようなものさえ感じられる。陥没地帯は、どうしてかはともかく、ひたすら「二」を召喚したいがゆえに、ただそれだけのために、相似という意匠を身に纏ってみせているのではないか。  「二」であることには複数の様態がある(「複数」というのは二つ以上ということだ)。まず、順序の「二」。二番目の二、一の次で三の前であるところの「二」がある。次に、反復の「二」。二度目の二、ある出来事が(あるいはほとんど同じ出来事が)もう一度繰り返される、という「二」がある。そして、ペアの「二」。二対の二、対立的(敵味方/ライバル)か相補的(バディ)か、その両方かはともかく、二つで一組を成す、という「二」がある。それからダブルの「二」、二重の二があるが、これ自体が二つに分かれる。一つの存在が内包/表出する二、二面性とか二重人格とかドッペルゲンガーの「二」と、二つの存在が一つであるかに誤認/錯覚される二、双児や他人の空似や成り澄ましなどといった、つまり相似の「二」。オーダー、リピート、ペア、ダブル、これらの「二」どもが、この小説にはあまねくふんだんに取り込まれている。オーダーとリピートが分かち難く絡み合って一緒くたになってしまっているさまこそ、前に見た「反復=循環性」ということだった。それは「一」と「二」の区別がつかなくなること、すなわち「一」が「二」でもあり「二」が「一」でもあり得るという事態だ。しかしそれだって、まず「二」度目とされる何ごとかが召喚されたからこそ起こり得る現象だと言える。  また、この物語には「大伯父とその義理の弟」以外にも幾組ものペアやダブルが、これまたこれみよがしに配されている。あの「二人の老人」は二人一役のために互いを似せていたというのだが、他にも「船長」や「女将」や「姉」や「弟」、或いは「男」や「女」といった普通名詞で呼ばれる登場人物たちが、その時々の「いま」において複雑極まる一人二役/二人一役を演じさせられている。この人物とあの人物が、実は時を隔てた同一人物なのではないか、いやそうではなく両者はやはりまったくの別の存在なのか���つまり真に存在しているのは「一」なのか「二」なのか、という設問が、決して真実を確定され得ないまま、切りもなく無数に生じてくるように書かれてあり、しかしそれもやはりまず「二」つのものが召喚されたからこそ起こり得た現象であり、もちろんこのこと自体が「反復=循環性」によって強化されてもいるわけだ。  こう考えてみると、もうひとつの特性である「無名状態」にも、抽象化とはまた別の実践的な理由があるのではないかと思えてくる。ひどく似ているとされる二者は、しかしそれぞれ別個の名前が与えられていれば、当然のことながら区別がついてしまい、相似の「二」が成立しなくなってしまうからだ。だから「二軒並んだ食堂兼ホテル」が名前で呼ばれることはあってはならないし、「女将」や「船長」の名が明かされてはならない。無名もまた「二」のために要請されているのだ。  陥没地帯は夥しい「二」という数によって統べられていると言っても過言ではない。それは文章=文字の表面に穿たれた数字=記号としての「二」から、物語内に盛んに導入された二番二度二対二重などのさまざまな「二」性にまで及んでいる。二、二、二、この小説に顕在/潜在する「二」を数え上げていったらほとんど果てしがないほどだ。とすれば、すぐに浮かぶ疑問は当然、それはどういうことなのか、ということになるだろう。なぜ「二」なのか。どうしてこの小説は、こうもひたぶるに「二」であろうとしているのか。  ここでひとつの仮説を提出しよう。なぜ陥没地帯は「二」を欲望するのか。その答えは『陥没地帯』が小説家蓮實重彦の一作目であるからだ。自らが「一」であ��ことを嫌悪、いや憎悪し、どうにかして「一」に抗い「一」であることから逃れようとするためにこそ、この小説は無数の「二」を身に纏おうと、「二」を擬態しようと、つまり「二」になろうとしているのだ。  すぐさまこう問われるに違いない。それでは答えになっていない。どうして「一」から逃れなくてはならないのか。「一」が「一」を憎悪する理由は何だというのか。その理由の説明が求められているのだ。そんなことはわたしにはわからない。ただ、それは『陥没地帯』が「一」番目の小説だから、としか言いようがない。生まれつき、ただ理由もなく運命的に「一」であるしかない自らの存在のありようがあまりにも堪え難いがゆえに、陥没地帯は「二」を志向しているのだ。そうとしか言えない。  しかしそれは逆にいえば、どれだけ策を尽くして「二」を擬態したとしても、所詮は「一」は「一」でしかあり得ない、ということでもある。「二」になろう「二」であろうと手を替え品を替えて必死で演技する、そしてそんな演技にさえ敢えなく失敗する「一」の物語、それが『陥没地帯』なのだ。そしてこのことも、この小説自体に書いてある。
 つまり、錯綜したパズルを思わせる線路をひもに譬えれば、その両端を指ではさんでぴーんと引っぱってみる。すると、贋の結ぼれがするするとほぐれ、一本の線に還元されてしまう。鋭角も鈍角も、それから曲線も弧も螺旋形も、そっくり素直な直線になってしまうのです。だから、橋なんていっちゃあいけない。それは人目をあざむく手品の種にすぎません。
 そう、複雑に縒り合わされた結ぼれは、だが結局のところ贋ものでしかなく、ほんとうはただの「一本の線」に過ぎない。ここで「二」に見えているすべての正体は「一」でしかない。あの「向かい合った二つの食堂兼ホテル」が「驚くほど似かよって」いるのに「ためらうことなくその一つを選んで扉を押しさえすれば」決して間違えることがなかったのは、実はどちらを選んでも同じことだったからに他ならない。このこともまた繰り返しこの物語では描かれる。河を挟んだ片方の側からもう片側に行くためには、どうしても小さな架橋を使わなくてはならない筈なのに、橋を渡った覚えなどないのに、いつのまにか河の向こう側に抜けていることがある。そもそもこの河自体、いつも褐色に淀んでいて、水面を見るだけではどちらからどちらに向かって流れているのか、どちらが上流でどちらが下流なのかさえ判然としないのだが、そんなまたもやあからさまな方向感覚の惑乱ぶりに対して、ではどうすればいいのかといえば、ただ迷うことなど一切考えずに歩いていけばいいだけのことだ。「彼が執拗に強調しているのは、橋の必然性を信頼してはならぬということである」。二つの領域を繋ぐ橋など要らない、そんなものはないと思い込みさえすればもう橋はない。二つのものがあると思うからどちらかを選ばなくてはならなくなる。一番目と二番目、一度目と二度目、一つともう一つをちゃんと別にしなくてはならなくなる。そんな面倒は金輪際やめて、ここにはたった一つのものしかないと思えばいいのだ。実際そうなのだから。  それがいつであり、そこがどこであり、そして誰と誰の話なのかも最早述べることは出来ないが、物語の後半に、こんな場面がある。
 よろしゅうございますね、むこう側の部屋でございますよ。(略)女は、そうささやくように念をおす。こちら側ではなく、むこう側の部屋。だが、向かい合った二つの扉のいったいどちらの把手に手をかければよいのか。事態はしかし、すべてを心得たといった按配で、躊躇も逡巡もなく円滑に展開されねばならない。それには、風に追われる砂の流れの要領でさからわずに大気に身をゆだねること。むこう側の扉の奥で待ちうけている女と向かいあうにあたって必要とされるのも、そんなこだわりのない姿勢だろう。
 躊躇も逡巡もすることはない。なぜなら「こちら側」と「むこう側」という「二つの扉」自体が下手な偽装工作でしかなく、そこにはもともと「一」つの空間しかありはしないのだから。そしてそれは、はじめから誰もが知っていたことだ。だってこれは正真正銘の「一」番目なのだから。こうして「一」であり「一」であるしかない『陥没地帯』の、「一」からの逃亡としての「二」への変身、「二」への離脱の試みは失敗に終わる。いや、むしろ失敗することがわかっていたからこそ、どうにかして「一」は「二」のふりをしようとしたのだ。不可能と知りつつ「一」に全力で抗おうとした自らの闘いを、せめても読む者の記憶へと刻みつけるために。
三、
 小説家蓮實重彦の第二作『オペラ・オペラシオネル』は、直截的にはジャン=リュック・ゴダールの『新ドイツ零年』及び、その前日譚である『アルファヴィル』との関連性を指摘できるだろう。小説が発表されたのは一九九四年の春だが、『新ドイツ零年』は一九九一年秋のヴェネツィア国際映画祭に出品後、一九九三年末に日本公開されている。同じくゴダール監督による一九六五年発表の『アルファヴィル』は、六〇年代にフランスでシリーズ化されて人気を博した「レミー・コーションもの」で主役を演じた俳優エディ・コンスタンティーヌを役柄ごと「引用」した一種のパスティーシュだが、独裁国家の恐怖と愛と自由の価値を謳った軽快でロマンチックなSF映画でもある。『新ドイツ零年』は、レミー・コーション=エディ・コンスタンチーヌを四半世紀ぶりに主演として迎えた続編であり、ベルリンの壁崩壊の翌年にあたる一九九〇年に、老いたる往年の大物スパイがドイツを孤独に彷徨する。  『オペラ・オペラシオネル』の名もなき主人公もまた、レミー・コーションと同じく、若かりし頃は派手な活躍ぶりでその筋では国際的に名を成したものの、ずいぶんと年を取った最近では知力にも体力にも精神力にもかつてのような自信がなくなり、そろそろほんとうに、思えばやや遅過ぎたのかもしれない引退の時期がやってきたのだと自ら考えつつある秘密諜報員であり、そんな彼は現在、長年勤めた組織へのおそらくは最後の奉公として引き受けた任務に赴こうとしている。「とはいえ、この年まで、非合法的な権力の奪取による対外政策の変化といった計算外の事件に出会っても意気沮喪することなく組織につくし、新政権の転覆を目論む不穏な動きをいたるところで阻止しながらそのつど難局を切り抜け、これといった致命的な失敗も犯さずにやってこられたのだし、分相応の役割を担って組織にもそれなりに貢献してきたのだという自負の念も捨てきれずにいるのだから、いまは、最後のものとなるかもしれないこの任務をぬかりなくやりとげることに専念すべきなのだろう」。つまりこれはスパイ小説であり、アクション小説でさえある。  前章で提示しておいた無根拠な仮説を思い出そう。『陥没地帯』は「一」作目であるがゆえに「一」から逃れようとして「二」を志向していた。これを踏まえるならば、「二」作目に当たる『オペラ・オペラシオネル』は、まずは「二」から逃走するべく「三」を擬態することになる筈だが、実際、この小説は「三」章立てであり、作中に登場するオペラ「オペラ・オペラシオネル」も「三」幕構成であり、しかも「三」時間の上演時間を要するのだという。これらだけではない。第一章で主人公は、豪雨が齎した交通機関の麻痺によって他の旅客ともども旅行会社が用意した巨大なホールで足止めを食っているのだが、どういうわけかこの空間に定期的にやってきている謎の横揺れを訝しみつつ、ふと気づくと、「いま、くたびれはてた鼓膜の奥にまぎれこんでくるのは、さっきから何やら低くつぶやいている聞きとりにくい女の声ばかりである」。
 いまここにはいない誰かをしきりになじっているようにも聞こえるそのつぶやきには、どうやら操縦と聞きとれそうな単語がしばしばくりかえされており、それとほぼ同じぐらいの頻度で、やれ回避だのやれ抹殺だのといった音のつらなりとして聞きわけられる単語もまぎれこんでいる。だが、誰が何を操縦し、どんな事態を回避し、いかなる人物を抹殺するのかということまでははっきりしないので、かろうじて識別できたと思えるたった三つの単語から、聞きとりにくい声がおさまるはずの構文はいうまでもなく、そのおよその文意を推測することなどとてもできはしない。
 むろんここで重要なのは、間違っても「誰が何を操縦し、どんな事態を回避し、いかなる人物を抹殺するのか」ということではない。この意味ありげな描写にごくさりげなく埋め込まれた「たった三つの単語」の「三」という数である。まだある。主人公が実際に任務を果たすのは「ここから鉄道でたっぷり三時間はかかる地方都市」だし、このあと先ほどの女の突然の接触ーー「かたわらの椅子に身を埋めていた女の腕が生きもののようなしなやかさで左の肘にからみつき、しっかりとかかえこむように組みあわされてしまう」ーーが呼び水となって主人公は「最後の戦争が起こったばかりだったから、こんな仕事に誘いこまれるより遥か以前」に「この国の転覆を目論む敵側の間諜がわがもの顔で闊歩しているという繁華街の地下鉄のホームでこれに似た体験をしていたこと」をふと思い出すのだが、そのときちょうどいまのようにいきなり腕をからませてきた女と同じ地下鉄のホームで再会したのは「それから三日後」のことなのだ。  「三」への擬態以前に、この小説の「二」に対する嫌悪、憎悪は、第三章で登場する女スパイが、いままさにオペラ「オペラ・オペラシオネル」を上演中の市立劇場の客席で、隣に座った主人公に「あなたを抹殺する目的で開幕直前に桟敷に滑りこもうとしていた女をぬかりなく始末しておいた」と告げたあとに続く台詞にも、さりげなく示されている。
 もちろん、と女は言葉をつぎ、刺客をひとり始末したからといって、いま、この劇場の客席には、三人目、四人目、ことによったら五人目となるかもしれない刺客たちが、この地方都市の正装した聴衆にまぎれて、首都に帰らせてはならないあなたの動向をじっとうかがっている。
 なぜ、女は「二人目」を省いたのか。どうしてか彼女は「二」と言いたくない、いや、「二」と言えないのだ。何らかの不思議な力が彼女から「二」という数の発話を無意味に奪っている。実際『陥没地帯』にはあれほど頻出していた「二」が、一見したところ『オペラ・オペラシオネル』では目に見えて減っている。代わりに振り撒かれているのは「三」だ。三、三、三。  だが、これも前作と同様に、ここでの「二」への抵抗と「三」への擬態は、そもそもの逃れ難い本性であるところの「二」によってすぐさま逆襲されることになる。たとえばそれは、やはり『陥没地帯』に引き続いて披露される、相似をめぐる認識において示される。どうやら記憶のあちこちがショートしかかっているらしい主人公は、第一章の巨大ホールで突然左肘に腕を絡ませてきた女が「それが誰なのかにわかには思い出せない旧知の女性に似ているような気もする」と思ってしまうのだがーー同様の叙述はこの先何度も繰り返されるーー、しかしそのとき彼は「経験豊かな仲間たち」からよく聞かされていた言葉をふと思い出す。
 もちろん、それがどれほどとらえがたいものであれ類似の印象を与えるというかぎりにおいて、二人が同一人物であろうはずもない。似ていることは異なる存在であることの証左にほかならぬという原則を見失わずにおき、みだりな混同に陥ることだけは避けねばならない。
 この「似ていることは異なる存在であることの証左にほかならぬという原則」は、もちろん『陥没地帯』の数々の相似にかんして暗に言われていたことであり、それは「一」に思えるが実は「二」、つまり「一ではなく二」ということだった。しかし、いまここで離反すべき対象は「二」なのだから、前作では「一」からの逃走の方策として導入されていた相似という装置は、こちらの世界では「二」から発される悪しき強力な磁場へと反転してしまうのだ。なるほどこの小説には、前作『陥没地帯』よりも更にあっけらかんとした、そう、まるでやたらと謎めかした、であるがゆえに適当な筋立てのご都合主義的なスパイ映画のような仕方で、相似の表象が次々と登場してくる。女という女は「旧知の女性に似ているような」気がするし、巨大ホールの女の亡くなったパイロットの夫は、第二章で主人公が泊まるホテルの部屋にノックの音とともに忍び込んでくる女、やはり亡くなっている夫は、売れない音楽家だったという自称娼婦の忌まわしくもエロチックな回想の中に奇妙に曖昧なすがたで再登場するし、その音楽家が妻に書き送ってくる手紙には、第一章の主人公の境遇に酷似する体験が綴られている。数え出したら枚挙にいとまのないこうした相似の仄めかしと手がかりは、本来はまったく異なる存在である筈の誰かと誰かを無理繰り繋いであたかもペア=ダブルであるかのように見せかけるためのブリッジ、橋の機能を有している。どれだけ「三」という数字をあたり一面に撒布しようとも、思いつくまま幾らでも橋を架けられる「二」の繁茂には到底対抗出来そうにない。  では、どうすればいいのか。「二」から逃れるために「三」が有効ではないのなら、いっそ「一」へと戻ってしまえばいい。ともかく「二」でありさえしなければいいのだし、ベクトルが一方向でなくともよいことはすでに確認済みなのだから。  というわけで、第三章の女スパイは、こんなことを言う。
 ただ、誤解のないようにいいそえておくが、これから舞台で演じられようとしている物語を、ことによったらあなたや私の身に起こっていたのかもしれないできごとをそっくり再現したものだなどと勘違いしてはならない。この市立劇場であなたが立ち会おうとしているのは、上演を目的として書かれた粗筋を旧知の顔触れがいかにもそれらしくなぞってみせたりするものではないし、それぞれの登場人物にしても、見るものの解釈しだいでどんな輪郭にもおさまりかねぬといった融通無碍なものでもなく、いま、この瞬間に鮮やかな現実となろうとしている生のできごとにほかならない。もはや、くりかえしもおきかえもきかない一回かぎりのものなのだから、これはよくあることだと高を括ったりしていると、彼らにとってよくある些細なできごとのひとつとして、あなたの世代の同僚の多くが人知れず消されていったように、あなた自身もあっさり抹殺されてしまうだろう。
 そもそも三章立ての小説『オペラ・オペラシオネル』が、作中にたびたびその題名が記され、第三章で遂に上演されることになる三幕もののオペラ「オペラ・オペラシオネル」と一種のダブルの関係に置かれているらしいことは、誰の目にも歴然としている。しかしここでいみじくも女スパイが言っているのは、如何なる意味でもここに「二」を読み取ってはならない、これは「一」なのだ、ということだ。たとえ巧妙に「二」のふりをしているように見えたとしても、これは確かに「くりかえしもおきかえもきかない一回かぎりのもの」なのだと彼女は無根拠に断言する。それはつまり「二ではなく一」ということだ。そんなにも「二」を増殖させようとするのなら、その化けの皮を剥がして、それらの実体がことごとく「一」でしかないという事実を露わにしてやろうではないか(言うまでもなく、これは『陥没地帯』で起こっていたことだ)。いや、たとえほんとうはやはりそうではなかったのだとしても、ともかくも「二ではなく一」と信じることが何よりも重要なのだ。  「二」を「一」に変容せしめようとする力動は、また別のかたちでも確認することが出来る。この物語において主人公は何度か、それぞれ別の、だが互いに似かよってもいるのだろう女たちと「ベッドがひとつしかない部屋」で対峙する、もしくはそこへと誘われる。最後の場面で女スパイも言う。私たちが「ベッドがひとつしかない部屋で向かい合ったりすればどんなことになるか、あなたには十分すぎるほどわかっているはずだ」。「二」人の男女と「一」つのベッド。だが主人公は、一つきりのベッドをそのような用途に使うことは一度としてない。そしてそれは何度か話題にされる如何にも女性の扱いに長けたヴェテランの間諜らしい(らしからぬ?)禁欲というよりも、まるで「一」に対する斥力でも働いているかのようだ。  こうして『オペラ・オペラシオネル』は後半、あたかも「一」と「二」の闘争の様相を帯びることになる。第三章の先ほどの続きの場面で、女スパイは主人公に「私たちふたりは驚くほど似ているといってよい」と言ってから、こう続ける。「しかし、類似とは、よく似たもの同士が決定的に異なる存在だという事実の否定しがたい証言としてしか意味をもたないものなのだ」。これだけならば「一ではなく二」でしかない。だがまだその先がある。「しかも、決定的に異なるものたちが、たがいの類似に脅えながらもこうして身近に相手の存在を確かめあっているという状況そのものが、これまでに起こったどんなできごととも違っているのである」。こうして「二」は再び「一」へと逆流する。まるで自らに念を押すように彼女は言う。いま起こっていることは「かつて一度としてありはしなかった」のだと。このあとの一文は、この小説の複雑な闘いの構図を、複雑なまま見事に表している。
 だから、あたりに刻まれている時間は、そのふたりがともに死ぬことを選ぶか、ともに生きることを選ぶしかない一瞬へと向けてまっしぐらに流れ始めているのだと女が言うとき、そらんじるほど熟読していたはずの楽譜の中に、たしかにそんな台詞が書き込まれていたはずだと思いあたりはするのだが、疲労のあまりものごとへの執着が薄れ始めている頭脳は、それが何幕のことだったのかと思い出そうとする気力をすっかり失っている。
 かくのごとく「二」は手強い。当たり前だ。これはもともと「二」なのだから。しかしそれでも、彼女は繰り返す。「どこかしら似たところのある私たちふたりの出会いは、この別れが成就して以後、二度とくりかえされてはならない。そうすることがあなたと私とに許された誇らしい権利なのであり、それが無視されてこの筋書きにわずかな狂いでもまぎれこめば、とても脱出に成功することなどありはしまい」。『オペラ・オペラシオネル』のクライマックス場面における、この「一」対「二」の激しい争いは、読む者を興奮させる。「実際、あなたと私とがともに亡命の権利を認められ、頻繁に発着するジェット機の騒音などには耳もかさずに、空港の別のゲートをめざしてふりかえりもせずに遠ざかってゆくとき、ふたり一組で行動するという権利が初めて確立することになり、それにはおきかえもくりかえしもききはしないだろう」。「二」人組による、置換も反復も欠いた、ただ「一」度きりの逃避行。ここには明らかに、あ��『アルファヴィル』のラストシーンが重ね合わされている。レミー・コーションはアンナ・カリーナが演じるナターシャ・フォン・ブラウンを連れて、遂に発狂した都市アルファヴィルを脱出する。彼らは「二人」になり、そのことによってこれから幸福になるのだ。『ドイツ零年』の終わり近くで、老いたるレミー・コーションの声が言う。「国家の夢は1つであること。個人の夢は2人でいること」。それはつまり「ふたり一組で行動するという権利」のことだ。  かくのごとく「二」は手強い。当たり前だ。これはもともと「二」なのだから。しかも、もはや夢幻なのか現実なのかも判然としない最後の最後で、主人公と女スパイが乗り込むのは「これまでハンドルさえ握ったためしのないサイドカー」だというのだから(これが「ベッドがひとつしかない部屋」と対になっていることは疑いない)、結局のところ「二」は、やはり勝利してしまったのではあるまいか。「二」が「二」であり「二」であるしかないという残酷な運命に対して、結局のところ「三」も「一」も歯が立たなかったのではないのか。小説家蓮實重彦の一作目『陥没地帯』が「一の物語」であったように、小説家蓮實重彦の第二作は「二の物語」としての自らをまっとうする。そして考えてみれば、いや考えてみるまでもなく、このことは最初からわかりきっていたことだ。だってこの小説の題名は『オペラ・オペラシオネル』、そこには「オペラ」という単語が続けざまに「二」度、あからさまに書き込まれているのだから。
四、
 さて、遂にようやく「一、」の末尾に戻ってきた。では、小説家蓮實重彦の第三作『伯爵夫人』はどうなのか。この小説は「三」なのだから、仮説に従えば「四」もしくは「二」を志向せねばならない。もちろん、ここで誰もが第一に思い当たるのは、主人公の名前である「二朗」だろう。たびたび話題に上るように、二朗には亡くなった兄がいる。すなわち彼は二男である。おそらくだから「二」朗と名づけられているのだが、しかし死んだ兄が「一朗」という名前だったという記述はどこにもない、というか一朗はまた別に居る。だがそれはもっと後の話だ。ともあれ生まれついての「二」である二朗は、この小説の「三」としての運命から、あらかじめ逃れ出ようとしているかに見える。そう思ってみると、彼の親しい友人である濱尾も「二」男のようだし、従妹の蓬子も「二」女なのだ。まるで二朗は自らの周りに「二」の結界を張って「三」の侵入を防ごうとしているようにも思えてくる。  だが、当然の成り行きとして「三」は容赦なく襲いかかる。何より第一に、この作品の題名そのものであり、二朗にははっきりとした関係や事情もよくわからぬまま同じ屋敷に寝起きしている、小説の最初から最後まで名前で呼ばれることのない伯爵夫人の、その呼称の所以である、とうに亡くなっているという、しかしそもそも実在したかどうかも定かではない「伯爵」が、爵位の第三位ーー侯爵の下で子爵の上ーーであるという事実が、彼女がどうやら「三」の化身であるらしいことを予感させる。『オペラ・オペラシオネル』の「二」と同じく、『伯爵夫人』も題名に「三」をあらかじめ埋め込まれているわけだ。確かに「三」はこの小説のあちこちにさりげなく記されている。たとえば濱尾は、伯爵夫人の怪しげな素性にかかわる噂話として「れっきとした伯爵とその奥方を少なくとも三組は見かけた例のお茶会」でのエピソードを語る。また、やはり濱尾が二朗と蓬子に自慢げにしてみせる「昨日まで友軍だと気を許していた勇猛果敢な騎馬の連中がふと姿を消したかと思うと、三日後には凶暴な馬賊の群れとなって奇声を上げてわが装甲車舞台に襲いかかり、機関銃を乱射しながら何頭もの馬につないだ太い綱でこれを三つか四つひっくり返したかと思うと、あとには味方の特殊工作員の死骸が三つも転がっていた」という「どこかで聞いた話」もーー「四」も入っているとはいえーーごく短い記述の間に「三」が何食わぬ顔で幾つも紛れ込んでいる。  しかし、何と言っても決定的に重要なのは、すでに触れておいた、二朗と伯爵夫人が最初の、贋の抱擁に至る場面だ。謎の「ふたり組の男」に「二朗さんがこんな女といるところをあの連中に見られたくないから、黙っていう通りにして下さい」と言って伯爵夫人が舞台に選ぶのは「あの三つ目の街路樹の瓦斯燈の灯りも届かぬ影になった幹」なのだが、演出の指示の最後に、彼女はこう付け加える。
 連中が遠ざかっても、油断してからだを離してはならない。誰かが必ずあの二人の跡をつけてきますから、その三人目が通りすぎ、草履の先であなたの足首をとんとんとたたくまで抱擁をやめてはなりません、よござんすね。
 そう、贋の抱擁の観客は「二」人ではなかった。「三」人だったのだ。しかし二朗は本番では演技に夢中でーー射精という事故はあったもののーー場面が無事に済んでも「あの連中とは、いったいどの連中だというのか」などと訝るばかり、ことに「三人目」については、その実在さえ確認出来ないまま終わる。つまり追っ手(?)が全部で「三」人居たというのは、あくまでも伯爵夫人の言葉を信じる限りにおいてのことなのだ。  まだある。一度目の射精の後、これも先に述べておいたが伯爵夫人は二朗に自らの性的遍歴を語り出す。自分はあなたの「お祖父さま」ーー二朗の母方の祖父ーーの「めかけばら」だなどと噂されているらしいが、それは根も葉もない言いがかりであって、何を隠そう、お祖父さまこそ「信州の山奥に住む甲斐性もない百姓の娘で、さる理由から母と東京に移り住むことになったわたくし」の処女を奪ったばかりか、のちに「高等娼婦」として活躍出来るだけの性技の訓練を施した張本人なのだと、彼女は告白する。まだ処女喪失から二週間ほどしか経っていないというのに、お祖父さまに「そろそろ使い勝手もよくなったろう」と呼ばれて参上すると、そこには「三」人の男ーーいずれも真っ裸で、見あげるように背の高い黒ん坊、ターバンを捲いた浅黒い肌の中年男、それにずんぐりと腹のでた小柄な初老の東洋人ーーがやってきて、したい放題をされてしまう。とりわけ「三」人目の男による見かけによらない濃厚な変態プレイは、破廉恥な描写には事欠かないこの小説の中でも屈指のポルノ場面と言ってよい。  まだまだある。二朗の「三」度目の射精の前、和製ルイーズ・ブルックスに案内された「更衣室」には、「野獣派風の筆遣いで描かれたあまり感心できない裸婦像が三つ」と「殺風景な三つのシャワーのついた浴場」がある。伯爵夫人が物語る、先の戦時中の、ハルピンにおける「高麗上等兵」のエピソードも「三」に満ちている。軍の都合によって無念の自決を強いられた高麗の上官「森戸少尉」の仇である性豪の「大佐」に、山田風太郎の忍法帖さながらの淫技で立ち向かい、森戸少尉の復讐として大佐の「金玉」を潰すという計画を、のちの伯爵夫人と高麗は練るのだが、それはいつも大佐が「高等娼婦」の彼女を思うさまいたぶるホテルの「三階の部屋」の「三つ先の部屋」でぼやを起こし、大佐の隙を突いて「金玉」を粉砕せしめたらすぐさま火事のどさくさに紛れて現場から立ち去るというものであり、いざ決行直後、彼女は「雑踏を避け、高麗に抱えられて裏道に入り、騎馬の群れに囲まれて停車していた三台のサイドカー」に乗せられて無事に逃亡する。  このように「三」は幾らも数え上げられるのだが、かといって「二」や「四」も皆無というわけではないーー特に「二」は後で述べるように伯爵夫人の一時期と切っても切り離せない関係にあるーーのだから、伯爵夫人が「三」の化身であるという予感を完全に証明し得るものとは言えないかもしれない。では、次の挿話はどうか?  三度目の射精の直後に例の「サボン」を投与されてしまった二朗は、今度は「黒い丸眼鏡をかけた冴えない小男」の先導で、さながら迷宮のようなホテル内を経巡って、伯爵夫人の待つ「お茶室」ーー彼女はあとで、その空間を「どこでもない場所」と呼ぶーーに辿り着く。そこで伯爵夫人はふと「二朗さん、さっきホテルに入ったとき、気がつかれましたか」と問いかける。「何ですか」「百二十度のことですよ」。今しがた和製ルイーズ・ブルックスと自らの「魔羅」の隆隆たる百二十度のそそり立ちについて語り合ったばかりなので、二朗は思わずたじろぐが、伯爵夫人は平然と「わたくしは回転扉の角度のお話をしているの。あそこにいったいいくつ扉があったのか、お気づきになりましたか」と訊ねる。もちろんそれは、小説の始まりに記されていた「傾きかけた西日を受けてばふりばふりとまわっている重そうな回転扉」のことだ。
 四つあるのが普通じゃなかろうかという言葉に、二朗さん、まだまだお若いのね。あそこの回転扉に扉の板は三つしかありません。その違いに気づかないと、とてもホテルをお楽しみになることなどできませんことよと、伯爵夫人は艶然と微笑む。四つの扉があると、客の男女が滑りこむ空間は必然的に九十度と手狭なものとなり、扉もせわしげにぐるぐるとまわるばかり。ところが、北普魯西の依怙地な家具職人が前世紀末に発明したという三つ扉の回転扉の場合は、スーツケースを持った少女が大きな丸い帽子箱をかかえて入っても扉に触れぬだけの余裕があり、一度に一・三倍ほどの空気をとりこむかたちになるので、ぐるぐるではなく、ばふりばふりとのどかなまわり方をしてくれる。
 「もっとも、最近になって、世の殿方の間では、百二十度の回転扉を通った方が、九十度のものをすり抜けるより男性としての機能が高まるといった迷信めいたものがささやかれていますが、愚かとしかいいようがありません。だって、百二十度でそそりたっていようが、九十度で佇立していようが、あんなもの、いったん女がからだの芯で受け入れてしまえば、どれもこれも同じですもの」と,いつの間にか伯爵夫人の語りは、またもや「魔羅」の話題に変わってしまっていて、これも笑うべきところなのかもしれないが、それはいいとして、ここで「四ではなく三」が主張されていることは明白だろう。とすると「ぐるぐるではなく、ばふりばふり」が好ましいとされているのも、「ぐるぐる」も「ばふりばふり」も言葉を「二」つ重ねている点では同じだが、「ぐる」は「二」文字で「ばふり」は「三」文字であるということがおそらくは重要なのだ。  そして更に決定的なのは、伯爵夫人がその後に二朗にする告白だ。あの贋の抱擁における二朗の演技に彼女は憤ってみせたのだが、実はそれは本意ではなかった。「あなたの手は、ことのほか念入りにわたくしのからだに触れておられました。どこで、あんなに繊細にして大胆な技術を習得されたのか、これはこの道の達人だわと思わず感嘆せずにはいられませんでした」と彼女は言う。だが二朗は正真正銘の童貞であって、あの時はただ先ほど観たばかりの「聖林製の活動写真」を真似て演じてみたに過ぎない。だが伯爵夫人はこう続けるのだ。「あのとき、わたくしは、まるで自分が真っ裸にされてしまったような気持ちになり、これではいけないとむなしく攻勢にでてしまった」。そして「そんな気分にさせたのは、これまで二人しかおりません」。すなわち二朗こそ「どうやら三人目らしい」と、伯爵夫人は宣告する。二朗は気づいていないが、この時、彼は「二」から「三」への変容を強いられているのだ。  ところで伯爵夫人には、かつて「蝶々夫人」と呼ばれていた一時代があった。それは他でもない、彼女がやがて「高等娼婦」と称されるに至る売春行為を初めて行ったロンドンでのことだ。「二朗さんだけに「蝶々夫人」の冒険譚を話してさしあげます」と言って彼女が語り出すのは、先の戦争が始まってまもない頃の、キャサリンと呼ばれていた赤毛の女との思い出だ。キャサリンに誘われて、まだ伯爵夫人とも蝶々夫人とも呼ばれてはいなかった若い女は「聖ジェームズ公園近くの小さな隠れ家のようなホテル」に赴く。「お待ちしておりましたというボーイに狭くて薄暗い廊下をぐるぐると回りながら案内されてたどりついた二階のお部屋はびっくりするほど広くて明るく、高いアルコーヴつきのベッドが二つ並んでおかれている」。こうなれば当然のごとく、そこに「目に見えて動作が鈍いふたりの将校をつれたキャサリンが入ってきて、わたくしのことを「蝶々夫人」と紹介する」。阿吽の呼吸で自分に求められていることを了解して彼女が裸になると、キャサリンも服を脱ぎ、そして「二」人の女と「二」人の男のプレイが開始される。彼女はこうして「高等娼婦」への道を歩み始めるのだが、全体の趨勢からすると例外的と言ってよい、この挿話における「二」の集中は、おそらくはなにゆえかキャサリンが彼女を「蝶々夫人」と呼んでみせたことに発している。「蝶」を「二」度。だからむしろこのまま進んでいたら彼女は「二」の化身になっていたかもしれない。だが、そうはならなかった。のちの「伯爵」との出会いによって「蝶々夫人」は「伯爵夫人」に変身してしまったからだ。ともあれ伯爵夫人が事によると「二」でもあり得たという事実は頭に留めておく必要があるだろう。そういえば彼女は幾度か「年増の二流芸者」とも呼ばれるし、得意技である「金玉潰し」もーーなにしろ睾丸は通常「二」つあるのだからーー失われた「二」の時代の片鱗を残しているというべきかもしれない。  「二」から「三」への転位。このことに較べれば、回想のはじめに伯爵夫人が言及する、この小説に何度もさも意味ありげに登場するオランダ製のココアの缶詰、その表面に描かれた絵柄ーー「誰もが知っているように、その尼僧が手にしている盆の上のココア缶にも同じ角張った白いコルネット姿の尼僧が描かれているので、その図柄はひとまわりずつ小さくなりながらどこまでも切れ目なく続くかと思われがちです」ーーのことなど、その「尼僧」のモデルが他でもない赤毛のキャサリンなのだという理由こそあれ、読む者をいたずらに幻惑する無意味なブラフ程度のものでしかない。ただし「それは無に向けての無限連鎖ではない。なぜなら、あの尼僧が見すえているものは、無限に連鎖するどころか、画面の外に向ける視線によって、その動きをきっぱりと断ち切っているからです」という伯爵夫人の確信に満ちた台詞は、あの『陥没地帯』が世界そのもののあり方として体現していた「反復=循環性」へのアンビヴァレントな認識と通底していると思われる。  「このあたくしの正体を本気で探ろうとなさったりすると、かろうじて保たれているあぶなっかしいこの世界の均衡がどこかでぐらりと崩れかねませんから、いまはひとまずひかえておかれるのがよろしかろう」。これは伯爵夫人の台詞ではない。このような物言いのヴァリエーションは、この小説に何度もさも意味ありげに登場するのだが、伯爵夫人という存在がその場に漂わせる「婉曲な禁止の気配」だとして、こんな途方もない言葉を勝手に脳内再生しているのは二朗であって、しかも彼はこの先で本人を前に朗々と同じ内容を語ってみせる。一度目の射精の後、まもなく二度目の射精の現場となる電話ボックスにおける長い会話の中で二朗は言う。「あなたがさっき「あたいの熟れたまんこ」と呼ばれたものは、それをまさぐることを触覚的にも視覚的にも自分に禁じており、想像の領域においてさえ想い描くことを自粛しているわたくしにとって、とうてい世界の一部におさまったりするものではない。あからさまに露呈されてはいなくとも、あるいは露呈されていないからこそ、かろうじて保たれているこのあぶなっかしい世界の均衡を崩すまいと息づいている貴重な中心なのです」。これに続けて「あたくしの正体を本気で探ろうとなさったりすると、かろうじて維持されているこの世界の均衡がどこかでぐらりと崩れかねないから、わたくしが誰なのかを詮索するのはひかえておかれるのがよろしかろうという婉曲な禁止の気配を、あなたの存在そのものが、あたりに行きわたらせていはしなかったでしょうか」と、小説家蓮實重彦の前二作と同様に、先ほどの台詞が微細な差異混じりにリピートされる。こんな二朗のほとんど意味不明なまでに大仰な言いがかりに対して、しかし伯爵夫人はこう応じてみせるのだ。
 でもね、二朗さん、この世界の均衡なんて、ほんのちょっとしたことで崩れてしまうものなのです。あるいは、崩れていながらも均衡が保たれているような錯覚をあたりに行きわたらせてしまうのが、この世界なのかもしれません。そんな世界に戦争が起きたって、何の不思議もありませんよね。
 いったいこの二人は何の話をしているのか。ここであたかも了解事項のごとく語られている「世界の均衡」というひどく観念的な言葉と、あくまでも具体的現実的な出来事としてある筈の「戦争」に、どのような関係が隠されているというのか。そもそも「戦争」は、前二作においても物語の背景に隠然と見え隠れしていた。『陥没地帯』においては、如何にもこの作品らしく「なぜもっと戦争がながびいてくれなかったのか」とか「明日にも終るといわれていた戦争が日々混沌として終りそびれていた」とか「戦争が始まったことさえまだ知らずにいたあの少年」とか「戦争の真の終りは、どこまでも引きのばされていくほかはないだろう」などと、要するに戦争がいつ始まっていつ終わったのか、そもそもほんとうに終わったのかどうかさえあやふやに思えてくるような証言がちりばめられていたし、『オペラ・オペラシオネル』の老スパイは「最後の戦争が起こったばかりだったから、こんな仕事に誘いこまれるより遥か以前」の思い出に耽りつつも、知らず知らずの内にいままさに勃発の危機にあった新たな戦争の回避と隠蔽に加担させられていた。そして『伯爵夫人』は、すでに見てきたようにひとつ前の大戦時の挿話が複数語られるのみならず、二朗の冒険(?)は「十二月七日」の夕方から夜にかけて起こっており、一夜明けた次の日の夕刊の一面には「帝國・米英に宣戦を布告す」という見出しが躍っている。つまりこれは大戦前夜の物語であるわけだが、ということは「世界の均衡」が崩れてしまったから、或いはすでに「崩れていながらも均衡が保たれているような錯覚」に陥っていただけだという事実に気づいてしまったから、その必然的な帰結として「戦争」が始まったとでも言うのだろうか?  伯爵夫人は、二朗を迎え入れた「お茶室」を「どこでもない場所」と呼ぶ。「何が起ころうと、あたかも何ごとも起こりはしなかったかのように事態が推移してしまうのがこの場所なのです。(中略)だから、わたくしは、いま、あなたとここで会ってなどいないし、あなたもまた、わたくしとここで会ってなどいない。だって、わたくしたちがいまここにいることを証明するものなんて、何ひとつ存在しておりませんからね。明日のあなたにとって、今日ここでわたくしがお話ししたことなど何の意味も持ちえないというかのように、すべてががらがらと潰えさってしまうという、いわば存在することのない場所がここなのです」。だからあなたがわたくしを本気で犯したとしても「そんなことなど起こりはしなかったかのようにすべてが雲散霧消してしまうような場所がここだといってもかまいません。さあ、どうされますか」と伯爵夫人は二朗を試すように問うのだが、このとき彼はすでに「サボン」の効用で七十二時間=三日間の不能状態にある。  そしてこの後、彼女はこの物語において何度となく繰り返されてきた秘密の告白の中でも、最も驚くべき告白を始める。そもそも先に触れておいた、二朗こそ自分にとっての「三人目らしい」という宣告の後、伯爵夫人は「お祖父さま」にかんする或る重要な情報を話していた。自分も含め「数えきれないほどの女性を冷静に組みしいて」きた「お祖父さま」は、にもかかわらず「あなたのお母さまとよもぎさんのお母さまという二人のお嬢さましかお残しにならなかった」。事実、隠し子などどこにもいはしない。なぜなら「それは、あの方が、ふたりのお嬢様をもうけられて以後、女のからだの中ではーーたとえ奥��であろうとーー絶対におはてにならなかったから。間違っても射精などなさらず、女を狂喜させることだけに生涯をかけてこられた。妊娠をさけるための器具も存在し始めておりましたが、そんなものはおれは装着せぬとおっしゃり、洩らすことの快感と生殖そのものをご自分に禁じておられた」。ならばなぜ、そのような奇妙な禁欲を自ら決意し守り抜こうとしたのか。二朗の死んだ兄は「「近代」への絶望がそうさせたのだろう」と���っていたというのだが、それ以上の説明がなされることはない。  だが実は、そうはならなかった、というのが伯爵夫人の最後の告白の中身なのだ。「ところが、その晩、そのどこでもない場所で、たったひとつだけ本当のできごとが起こった。ここで、わたくしが、お祖父さまの子供を妊ってしまったのです」。どういうわけか「お祖父さま」は伯爵夫人の膣に大量に放出してしまう。それが不測の事態であったことは間違いないだろう。だがやがて妊娠は確定する。当然ながら彼女は堕胎を考えるのだが、「ところが、お祖父さまのところからお使いのものが来て,かりに男の子が生まれたら一郎と名付け、ひそかに育て上げ、成年に達したら正式に籍に入れようという話を聞かされました」。こうして伯爵夫人は「一郎」を産んだのだった。しかもそれは二朗が誕生する三日前のことだったと彼女は言う。やはり隠し子はいたのだ。一郎はその後、伯爵夫人の母親の子として育てられ、いまは二朗と同じく来年の帝大入学を目指している。「しかし、その子とは何年に一度しか会ってはならず、わたくしのことを母親とも思っていない。ですから、ほぼ同じ時期に生まれたあなたのことを、わたくしはまるで自分の子供のようにいたわしく思い、その成長を陰ながら見守っておりました」。この「女」から「母」への突然の変身に、むろん二朗は衝撃と困惑を隠すことが出来ない。それに伯爵夫人のこのような告白を信じるにたる理由などどこにもありはしない。むしろ全面的に疑ってかかる方がまともというものだろう。二朗は自分こそが「一郎」なのではないかと思いつく。そういえば何度も自分は祖父にそっくりだと言われてきた。容貌のみならず「おちんちん」まで。それについ今しがた、伯爵夫人はここが「どこでもない場所」であり、それゆえ「明日のあなたにとって、今日ここでわたくしがお話ししたことなど何の意味も持ちえないというかのように、すべてががらがらと潰えさってしまう」と言ってのけたばかりではないか。その舌の根も乾かぬうちにこんな話をされて、いったい何を信じろというのか。  ことの真偽はともかくとして、ここで考えておくべきことが幾つかある。まず「一郎」が伯爵夫人と「お祖父さま」の間の秘密の息子の名前だというのなら、二朗の死んだ兄の名前は何だったのか、ということだ。そもそもこの兄については、曰くありげに何度も話題にされるものの、小説の最初から最後まで一度として名前で呼ばれることはなく、そればかりか死んだ理由さえ明らかにされることはない。幾つかの記述から、亡くなったのはさほど遠い昔ではなかったらしいことは知れるのだが、それだけなのだ。まさかこちらの名前も「一郎」だったわけはない。一郎が生まれた時には二朗の兄は生きていたのだから……書かれていないのだから何もかもが憶測でしかあり得ないが、結局のところ、兄は二朗を「二」朗にするために、ただそれだけのために物語に召喚されたのだとしか考えられない。そして別に「一郎」が存在している以上は、兄には何か別の名前があったのだろう。いや、いっそ彼は「無名」なのだと考えるべきかもしれない。実在するのかどうかも定かではない「お祖父さま」と伯爵夫人の息子には名前があり、確かにかつては実在していた筈の二朗の兄には名前が無い。「どこでもない場所」での伯爵夫人の最後の告白を聞くまで、読む者は二朗の兄こそ「一郎」という名前だったのだろうと漫然と決め込んでいる。だからそこに少なからぬ驚きが生じるのだが、つまりそれは「二」の前に置かれている「一」がずらされるということだ。その結果、二朗の「二」はにわかに曖昧な数へと変貌してしまう。それどころか彼には自分が「二」ではなく「一」なのかもしれぬという疑いさえ生じているのだから、このとき「一」と「二」の関係性は急激に解け出し、文字通り「どこでもない場所」に溶け去ってしまうかのようだ。  もうひとつ、このことにかかわって、なぜ「お祖父さま」は「一郎」の誕生を許したのかという問題がある。彼にはすでに「二」人の娘がいる。その後に奇妙な禁欲を自らに強いたのは、すなわち「三」人目を拒んだということだろう。「二」に踏み留まって「三」には行かないことが、二朗の兄言うところの「「近代」への絶望」のなせる業なのだ。つまり「三」の禁止こそ「世界の均衡」を保つ行為なのであって、このことは「お祖父さま」の爵位が子爵=爵位の第四位だったことにも暗に示されている。ということは、彼はひとつの賭けに出たのだと考えられないか。確かに次は自分にとって「三」人目の子供になってしまう。それだけは避けられない。しかし、もしも伯爵夫人との間に生まれてくるのが男だったなら、それは「一」人目の息子ということになる。だから彼はおそらく祈るような気持ちで「一郎」という名前をあらかじめ命名したのだ。逆に、もしも生まれてきたのが女だったなら、その娘が果たしてどうなっていたか、考えるのもおそろしい気がしてくる。  「三」の禁止。仮説によるならば、それは『伯爵夫人』の原理的なプログラムの筈だった。「一郎」をめぐる思弁は、そのことを多少とも裏づけてくれる。だがそれでも、紛れもない「三」の化身である伯爵夫人の振る舞いは、この世界を「三」に変容せしめようとすることを止めはしない。彼女は二朗を「三」人目」だと言い、たとえ「一郎」という命名によって何とか抗おうとしていたとしても、彼女が「お祖父さま」の「三」人目の子を孕み、この世に産み落としたことには変わりはない。「一」郎の誕生を「二」朗が生まれる「三」日前にしたのも彼女の仕業だろう。やはり「三」の優位は揺るぎそうにない。だから二朗が射精するのは「三」度でなければならないし、二朗が不能に陥るのは「三」日間でなければならない。考えてみれば、いや考えてみるまでもなく、このことは最初からわかりきっていたことだ。なぜならこれは小説家蓮實重彦の第三作、すなわち「三の物語」なのだから。  そして、かろうじて保たれていた「世界の均衡」が崩れ去った、或いはすでにとっくに崩れてしまっていた事実が晒け出されたのが、「ばふりばふりとまわっている重そうな回転扉」から「どこでもない場所」へと至るめくるめく経験と、その過程で次から次へと物語られる性的な逸話を二朗に齎した自らの奸計の結果であったとでも言うように、伯爵夫人は物語の末尾近くに不意に姿を消してしまう。どうやら開戦の情報を知って急遽大陸に発ったらしい彼女からの言づてには、「さる事情からしばらく本土には住みづらくなりそうだから」としか急な出奔の理由は記されていない。かくして「三」は勝利してしまったのか。本当にそうか。実をいえばここには、もうひとつだけ別の可能性が覗いている。すなわち「四」。ここまでの話に、ほぼ全く「四」は出てきていない。しかし「三」であることから逃れるために、いまや「二」の方向が有効でないのなら、あとは「四」に向かうしかない。では「四」はいったいどこにあるのか。  伯爵夫人が「伯爵」と出会ったのは、バーデンバーデンでのことだ。「あと数週間で戦争も終わろうとしていた時期に、味方の不始末から下半身に深い傷を追った」せいで性的機能を喪失してしまったという、絶体絶命の危機にあっても決して平静を失わないことから部下たちから「素顔の伯爵」と呼ばれていたドイツ軍将校と、のちの伯爵夫人は恋に落ち、彼が若くして亡くなるまでヨーロッパ各地で生活を共にしたのだった。バーデンバーデンは、他の土地の名称と同じく、この小説の中では漢字で表記される。巴丁巴丁。巴は「三」、丁は「四」のことだ。すなわち「三四三四」。ここに「四」へのベクトルが隠されている。だが、もっと明白な、もっと重大な「四」が、意外にも二朗の身近に存在する。  二朗が真に執着しているのが、伯爵夫人でも和製ルイーズ・ブルックスでもなく、従妹の蓬子であるということは、ほぼ間違いない。このことは、ポルノグラフィックな描写やセンセーショナルな叙述に囚われず、この小説を虚心で読んでみれば、誰の目にも明らかだ。この場合の執着とは、まず第一に性的なものであり、と同時に、愛と呼んでも差し支えのないものだ。確かに二朗は蓬子に触れられてもしごかれてもぴくりともしないし、小春などから何度も従妹に手をつけただろうと問われても事実そのものとしてそんなことはないと否定して内心においてもそう思っているのだが、にもかかわらず、彼が求めているのは本当は蓬子なのだ。それは読めばわかる。そして小説が始まってまもなく、蓬子が伯爵夫人についてこともなげに言う「あの方はお祖父ちゃまの妾腹に決まっているじゃないの」という台詞が呼び水となって、二朗は「一色海岸の別荘」の納戸で蓬子に陰部を見せてもらったことを思い出すのだが、二人の幼い性的遊戯の終わりを告げたのは「離れた茶の間の柱時計がのんびりと四時」を打つ音だった。この「四」時は、二朗のヰタ・セクスアリスの抑圧された最初の記憶として、彼の性的ファンタズムを底支えしている。それに蓬子は「ルイーズ・ブルックスまがいの短い髪型」をしているのだ。二朗は気づいていないが、あの「和製ルイーズ・ブルックス」は、結局のところ蓬子の身代わりに過ぎない。そして何よりも決定的なのは、蓬子という名前だ。なぜなら蓬=よもぎは「四方木」とも書くのだから。そう、彼女こそ「四」の化身だったのだ。  小説の終わりがけ、ようやく帰宅した二朗は、蓬子からの封書を受け取る。彼女は伯爵夫人の紹介によって、物語の最初から「帝大を出て横浜正金銀行に勤め始めた七歳も年上の生真面目な男の許嫁」の立場にあるのだが、未だ貞節は守っており、それどころか性的には甚だ未熟な天真爛漫なおぼこ娘ぶりを随所で発揮していた。だが手紙には、緊急に招集された婚約者と小田原のホテルで落ち合って、一夜を共にしたとある。婚約者は誠実にも、自分が戦死する可能性がある以上、よもぎさんを未婚の母にするわけにはいかないから、情交には及べないーーだがアナル・セックスはしようとする、ここは明らかに笑うところだーーと言うのだが、蓬子は「わたくしが今晩あなたとまぐわって妊娠し、あなたにもしものことがあれば、生まれてくる子の父親は二朗兄さまということにいたしましょう」と驚くべきことを提案し、それでようやっと二人は結ばれたのだという。それに続く文面には、赤裸々に処女喪失の場面が綴られており、その中には「細めに開いた唐紙の隙間から二つの男の顔が、暗がりからじっとこちらの狂態を窺っている」だの「あのひとは三度も精を洩らした」だのといった気になる記述もありはするのだが、ともあれ二朗はどうしてか蓬子のとんでもない頼みを受け入れることにする。彼は小春を相手に現実には起こっていない蓬子とのふしだらな性事を語ってみせさえするだろう。それは「二」として生まれた自分が「三」からの誘惑を振り切って「四」へと離脱するための、遂に歴然とその生々しい姿を現した「世界の均衡」の崩壊そのものである「戦争」に対抗し得るための、おそらく唯一の方法であり、と同時に、あるとき突然向こうからやってきた、偶然とも僥倖とも、なんなら奇跡とも呼んでしかるべき、因果律も目的意識も欠いた突発的な出来事としての「小説」の、意味もなければ正しくもない「原理」、そのとりあえずの作動の終幕でもある。
(初出:新潮2016年8月号)
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