Tumgik
syumidas · 4 years
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『終わりのない』 我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか
黒幕は降りているが、入場した時から森の中のような鳥の声と、耳鳴りのようなキーンという電子音、テレビのホワイトノイズのような電子音が流れている。
それは、これから語られる3つの世界の予告だ。
すなわち、現代のキャンプ場と32世紀の宇宙船、年代不明の惑星である。
幕が上がると、まず美術に目を奪われる。
背景に設えられた大きな円形スクリーンと、対になる円形ステージ。
背景の円は、場面によって月や太陽、水中、宇宙船の窓の見立てになる。
2つの円はブラックホールとホワイトホールのようでもあり、この物語の円環性や、死と再生のウロボロス、輪廻転生を象徴している。
暗闇に響く呼吸音。
水の中で溺れている、幼い頃の悠理だ。
ダイビング中、事故に遭った彼は、当時持っていたひらめきの能力によって溺死を免れ、代わりにその能力を失ってしまった。
ストーリーは、時空をまたにかけたロードムービーのような構成だ。
主人公の悠理は、自意識と周囲のズレを感じて引きこもりがちな思春期の青年。
連れてこられたキャンプで、両親の離婚や友達の進路など、周囲が次々と将来を決めて前に進んでいくことを知りショックを受ける。
時間が止まったままの自分を改めて突きつけられ、苦しむ悠里。
彼には、そうなったきっかけがあった。
中学時代に恋人だった同級生の杏を妊娠、流産させ、受験も失敗してしまった過去だ。
彼女を突き放した苦い思い出を回想し、やけになって泳いだ湖で彼は再び溺れる。
目覚めると、そこは32世紀の入植宇宙船内。
意識は21世紀の悠理のままだが、肉体はこの世界のユーリのクローンだとAIアンドロイドのダンに告げられる。
ダンは、マザーコンピュータ(マザコン?)とつながった複数ある端末の一つで、悠理の意識が入ったユーリに興味を示す。
この世界のユーリは、ひらめき(無意識)のスペシャリストで、地球から他惑星への入植を目指す調査班の一員だったが、アレルギーで事故死した。
メンバーの中には、かつて自分が傷つけた杏とそっくりな女性もいる。
彼女らは、どうしても必要なユーリをクローンで復活させようとしていた。
様子がおかしい悠理を見て、同僚たちはバグだと判断し、悠理を宇宙へ放り捨てる。
皆に必要とされる存在から、一転、いらない子として捨てられる存在に。
まるで自分が切り捨て、流産で流れてしまった胎児のように、宇宙に流される悠理。
この場面で、「宇宙には人類しかいない」と告げられるのがショックだった。
広大な宇宙で、どこまで行っても孤独な人類を想像すると、その絶望と心もとなさが胸に迫る。
再び目覚めた悠理は見知らぬ惑星にいて、遭難者のエイと出会う。
彼は32世紀でブラックホールに飛び込んでホワイトホールを通り抜け、惑星にたどり着いた地球人だと言う。
惑星には、イプノス人という個と全の境界が曖昧で、原始人類のような部族が暮らしている。
イプノス人は杏をはじめ、悠理にとって大切な家族や友人らの顔をしていた。
幼い頃の悠理と32世紀のユーリが持っていたひらめきの能力は、このイプノス人の無意識からの囁きと同種らしい。
すなわちそれは、神のような存在であり、人類にとって精神のふるさとのような、根源的なものだ。
また、それはマザーコンピュータでつながれたAIダンたちも想起させる。
悠理はイプノス人を攻めてきた対立部族から彼らを守るため、自分は対立部族の王子だと偽って立ち向かう。
最初のキャンプ場から比べると、自己犠牲さえ厭わない悠理の精神的な成長が表現されている。
悠理はこの行動によってイプノス人の英雄になる。
それは、個がゆるやかにつながっていた彼らに、自分と他人を強烈に区別させ、自意識を目覚めさせるきっかけになっただろう。
このシーンの山田裕貴は、日頃から俳優王になる!と熱い魂を全開にしている彼にぴったりの熱演だった。
彼を知ったのは、映画『あゝ、荒野』に登場したヒットマンスタイルの敵ボクサー役からだが(今回もボクシングシーンがあった)、ギラギラして前のめりだった当時よりも少し肩の力が抜け、俳優として見やすくなったように感じる。
本作でも、できあがっているイキウメメンバーの中、ほぼ出ずっぱりで、悩み翻弄される等身大の悠理青年を自然体で演じていた。
ところで、前の場面で宇宙には人類しか存在しない事実が語られている。
ならば、この惑星は過去の地球なのではないか。
あるいは、環境破壊が進んで原始へと戻った未来の地球かもしれない。
次の場面は、最初のキャンプ場の世界が繰り返されるが、微妙にメンバーが増えている。
異分子は、杏と杏の父、悠理父の担当編集者だ。
彼らは、宇宙船で会った惑星調査班の同僚と同じ顔をしている。
杏がいるこの世界は、悠理にとって自分の罪がなくなった理想の世界。
だが、悠理はこの世界を選ばないで拒絶する。
そこにダンが現れ、彼と再び宇宙船へ。
この場面で、物理学者である母から平行世界や量子論の話が挟み込まれる。
平行世界は行き来できないと提示されるが、ならばこの場面は悠理が見ている夢なのか。
宇宙船で、悠理はまたしても同僚たちから失敗クローンとして排除されそうになる。
そこで、自分に興味を示していたダンと対話をし、彼を一人の人格として扱うことでダンの中に自我が生まれる。
ダンはマザーコンピュータと自身を切り離し、己の意志で悠理を逃がしてクローン実験を止めようとする。
ここでもまた、自意識の目覚めが重要なファクターになっている。
宇宙船でダンからもらった安定剤を飲み、目覚めた悠理はようやく最初のキャンプ場に戻ってくる。
居心地の悪い、だが、自分の居るべき場所。
たくさんの世界の中から、確かに自分が選択した世界だ。
彼の中に、長い旅を経て経験したたくさんの悠理が一気に流れ込んでくる。
たまらず叫び、嗚咽する山田裕貴。
そう、この場面は物語を紡いできた登場人物の悠理ではなく、物語の外にいる客観的な存在のように見えた。
目の前の舞台世界が一気に崩れ去り、彼以外の演者がステージを降りて去るせいもある。
やがて彼は、ゆっくりと立ち上がり、我々観客を見回しながら噛みしめるように言葉を紡ぐ。
「これは僕の…人類の物語だ…終わりのない…」。
改めて、前川知大のスケール感に驚く。
時空を操り、これだけ抽象的な概念を詰め込みながら、十数メートル四方の空間に、たった2時間で、人類を励ます物語を構築しようとしていた。
ただ、最後の台詞の「人類」は蛇足だったように思う。
冒頭の「これは僕の物語だ」という台詞との対比なのはわかるが、そのワードがなくても、我々人間の物語であることは十分に伝わってきた。
ちょうど同時期に、カミュ戯曲の『カリギュラ』を観たのだが、あれもまた人間が生きて死ぬ不条理と闘い続けた若者が、最後に「歴史の中に入るんだ」、「おれはまだ生きている(常にお前たち人間の中に)」と叫ぶことで、ローマ帝国時代の物語を、一気に今の我々の元まで吸引する力を持っていた。
台詞としては、そちらの方がセンスを感じる。
始まりもなければ、終わりもない。時間と空間。無限の世界。
命は繰り返され、つねに旅の途中にある。
歴史はいつ始まり、物語はいつ終わるのか。
旅、世界、物語。終わりのない。
 (公式ホームページより)
帰属する世界と切り離され、根無し草のように旅をする悠理の寄る辺なさは、物理的な意味だけでなく、自己の核となるもの、根源となる精神的故郷の喪失を意味していると思う。
それは悠理個人だけでなく、人類、とりわけ現代人が失ってしまったと思っているものでもある。
この作品は、青年の思春期成長譚をモチーフとして、そうした孤立感を深めた人類を鼓舞する物語だ。
観客は、始まりもなければ終わりもない、無限の世界を悠理と一緒に旅することで、誰もが過去や未来、平行世界とつながる糸の一つの結び目であることに気づく。
自分で一つひとつ選択していくことで、“今ここ”の結び目にたどり着いたのだ。
俯瞰してみれば、選ばなかったことでできた分岐の糸、糸、糸。
ちょうど、そんな光景を『塩田千春展:魂がふるえる』で見たことを思い出した。
あの中の《不確かな旅》というインスタレーションが、まさにそんな世界を表現していた。
無数の分岐した真っ赤な糸は、数隻の華奢な骨組みの舟と繋がっている。
あの不確かだが確実に前に進んでいく舟こそが、我々の核となりルーツとなる、精神的故郷の象徴なのだろう。
時空を超え、平行世界を旅する悠理を見ていて、何かに似ているなと思った。
それは、現代人のSNSでのふるまいだ。
私たちはLINEやTwitter、Instagram、Facebookで、あるいは、それらの中の複数アカウントを使い分けて、同時並行的にさまざまな世界にログインする。
一昔前のように表裏があるというわけではなく、リアルの家族や恋人、友達と繋がっている自分、仕事上の繋がりの中の自分、趣味仲間との自分、映えるごはんを投稿する自分、情報を取るだけの自分と、生きる上で何人もの自分とコミュニティーを平行移動して使い分ける。
それらすべての自分は、一人の自分をよりよく生かすために自らが創り上げた、All for Oneなのだ。
私たちは、自分で生み出したすべての自分と平行世界を内在させながら、実在の足で独り立ち上がり生きていく。
最初、概要を読んだ時は、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」みたいな世界かと思ったが、実際の印象は7、80年代のジュブナイルSFや、萩尾望都のSF漫画のようだった。
個人的に、資本主義☓民主主義は最早どん詰まりで、それを打破するには宇宙に飛び出して新たなフィールドを開拓するしかないと思っているので、本作は興味深いテーマだった。
我々の自意識が宇宙で生きることを選択した時、我々は世界や人間のまったく新しい捉え方、思想哲学を獲得できるのではないだろうか。
それまでは、この瀕死の地球上に立ち続けるしかないのだ。
そんな人類を、人間を、私を励ます演劇作品だった。
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syumidas · 4 years
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『人形の家 PART2』 話せども、話せども、の向こう側。
常々、「孤独」というのは1人きりでいる時に感じる人恋しさや寂しさではないと思っている。
家族や恋人、友人といったつながりの深いものや、かつてつながっていたものたちと、物理的には一緒にいるのに言葉と心が通い合わない絶望と悲しみ、疎外感と徒労感が増していく感覚。それこそが真の「孤独」ではないだろうか。
この舞台は、主人公のノラと元夫のトルヴァル、娘のエミー、乳母のアンネ・マリーの家族が、一緒にいながら「孤独」なすれ違いを繰り広げる会話劇だ。
かつて夫婦だったもの、母娘だったもの、信頼し合っていたものたちが、宇宙人と会話をしているようにまるで話が噛み合わない。相手の気持ちを理解できない。
その不協和音の積み重ねがボディブローのように効いてきて、互いの凝り固まった価値観をグラグラと揺さぶっていく。
ストーリーは、余りにも有名なイプセンの戯曲を新進気鋭の女性劇作家ルーカス・ナスが発展させた15年後の物語だ。
出奔後、すっかりシングルになったつもりで「女は結婚に縛られるな」的な自伝を書いて成功したノラだが、実はトルヴァルが15年間離婚届を出していなかったことを知り、正式に離婚をするため、再び家族の前に現れる。
借用書の偽造サインが引き金となったイプセン作品と同様に、法律にまたしても足元をすくわれる所も皮肉がきいていて面白い。
「ぜんぶ難しい…人といることは。
こんなに難しくなくちゃいけないのかなあ」。
元夫トルヴァルが絞り出したこの台詞が胸を締め付けた。
思えばイプセンの「人形の家」で、ノラは彼とほとんど話し合うことをせず、夫も父も家庭も全否定して自由の扉から一人で出て行った。
乳母と子供たちにも一切説明せず、妻と母と主婦の顔を一瞬で放り捨て、私を生きると高らかに宣言した。
彼女の中に沈殿していた屈託が噴出するのは必然だったとしても、元夫の有害な男らしさ(トキシック・マスキュリニティ)に満ちた浅はかな行為が決定的だったとしても、それは余りにも唐突だったのではないか。
この後日譚では、そこを埋めるようにノラと家族たちの間で徹底的に「対話」がなされる。
そういえば、元夫と娘の登場シーンが、どちらも扉からいきなりバーン!と入ってくるのが、イプセン作品で唐突に出ていったノラとの対比の意味で面白かった。
他人が自分の中に入ってくるのも、自分の外に消えてしまうのも、突発的で自分のコントロールの外にあることを象徴しているように思う。
ノラと家族は激しくぶつかり合い、話し合いを重ねながら、相手と己を見つめ直して、それぞれの新たな道へ踏み出していく。
いや、物語の結末はどうでもいい。
このぶつかり合って主張し合うこと、相手を認めないにせよ、互いの考えや心の内を「対話」によって知る行為こそ重要なのだ。
そして、とても“今日的”なのだと思う。
イプセンの戯曲が書かれたのは140年前だそうだ。
なのに、私たちは似たようなことで苦しみ続けている。
女性の権利やジェンダーロールの問題も劇的には改善されてはいないし、人間は誰かといる限り「孤独」から逃れられない。
近代のイプセンと現代のルーカス・ナスの違いを考えてみると、やはり希望となるポイントは「対話」なのだと思う。
本作のノラが3人との「対話」を通じて新たな選択をするように、人と人は一緒にいながら「孤独」を受け入れ、傷つけ合いながらも「対話」をすべきなのだ。
相手のわけわからん言葉を聞き、わかってもらえない気持ちを言葉を尽くしてぶつけることで、少しずつでも変化できるのだと信じたい。
それは、「対話」などせずとも「空気を読め」「察しろ」の圧力に支配されがちな日本人にこそ、必要なコミュニケーションなのかもしれない。
初日の観劇ということもあり、台詞の一部でミスや荒削りな部分もあったが、ちゃんと伝わる舞台になっていたと思う。
主演の永作博美さんの舞台を拝見するのは初めてだったが、出ずっぱりで乳母、元夫、娘と総当たり戦の会話バトルを繰り広げるノラは難役だったろう。膨大な台詞量の中で、緊張感が途切れることなく奮闘していた。
ただ、イプセンのノラがベースであるなら、少し神経質で傲慢過ぎた気がする。自立して成熟し、強さと自信を身につけたにせよ、もう少し愛嬌や抜け感が感じられたらいいなとは思った。
その他のキャストは、乳母アンネ・マリーが梅沢昌代さん、夫トルヴァルが山崎一さん、娘エミーが那須凛さん。
個性的なキャラクターとのヒリヒリするような対話が、ノラの人間性を多面的に削り出していく過程が面白かった。
演出は栗山民也さん。古典から現代劇、国内外作品、2.5ミュージカルと縦横無尽な方だ。
前回見た演出作品は「チャイメリカ」だが、イギリスではあるが世界が注目する30代女性劇作家(ルーシー・カークウッド)作品で、日本初上演という点も似ていた。
演出の方向性は全く違ったが、役者の肉体を通した台詞と会話を大切にするところが、彼女たちのような作家と相性が良いのかもしれない。
美術や照明は、以前見た演出作品の「チルドレン」をさらにシンプルにしたワンシチュエーションで、役者の動きも少なく、会話に集中させる仕立てだった。
栗山さんの舞台では、クロスする光が象徴的に使われることが多いが、今回は扉の近くにあり、自分の世界に人が訪れ、人が去る扉がキーポイントなんだなと思った。
脚本のルーカス・ナスは1979年生まれ。本作の初演は2017年のブロードウェイなので、つい2年前、38才時の作品だ。
現代アメリカ社会の真っ只中で生きる女性の主張として、これほど興味深い作品はないだろう。
今後、他の女優、他の演出家で上演される機会があったら見比べてみたい。
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syumidas · 5 years
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多様性と田中圭24時間テレビ
内向きな自分探しや自己実現の時代が平成で終わるとして、次の元号はどんな世の中になるのかを、宇野さん☓柴さんの記事を読んでから考えている。
やっぱり多様な価値観の中で、他人に対して共感はできないけれど、理解はできる、もっと言えば寄り添うことはできるというようなドラマが見たい。
個も全も大切にしながら認め合い、一つにならなくても共に前に進んでいくような、今までとは違う人と人のつながり、「そんな関係の結び方があったのか!」というような新しい発見がある群像劇とかが出てきて欲しい。
(『獣になれない私たち』や『おっさんずラブ』、あるいは疑似家族もの作品などにはその兆しがあったと思う)
そんな多様性時代への過渡期である今、作り手・表現者に関係なく、繊細にアップデートしているか否かの個人差が顕著になってきたと最近感じている。
直近では田中圭24時間テレビ。
詳細は省くけど、デリケートな事柄に対して各々の対応レベルが異なっていたのは、マスではないネットTVだったことと、素が出てしまうドキュメンタリーだったこと、そしてバラエティーのノリのせいだろう。
そう、マスの中のバラエティーやお笑いこそ、今後どうなるのだろう。
ここの所、「ん?」と感じる箇所が一つもなく、最後まで見られるお笑いバラエティーが減ってきた気がする。
IPPONグランプリすらスレスレな所があった。
それは観る側の意識変化のスピードに、バラエティーの有り様が追いついていないからだと思う。
ハラスメントを含んだ笑いに違和感が増していく今だからこそ、新しい笑いが開発されるといいなと思う。
ピンチはチャンスでもあるから。
田中圭24時間テレビの中で、最もアップデートが進んでいるのは田中圭さんだった。
おっさんずラブがここまでブームになったことで、半年以上メディア各所で取り上げられ続け、鍛えられてきたからだろう。
特に最初の方は揶揄されたり、ネタにされることも多かった。
その中で慎重に言葉を選び、繊細に振る舞ってきたことで、自分のものになっているのを感じた。
ちょうど2年前のSPドラマの時点では、全くその域に達していなかったので、連ドラ化にあたって勉強したんだと思う。
24時間テレビで面白いなと思ったのが、LGBT当事者ではない彼が、そういったテーマが雑に扱われそうになったとき、LGBTに配慮しながら、逆に、雑に扱った側をもフォローしていた点。
悪気はないそっち側の気持ちもわかるから橋渡し役になっていて、こういう知的にバランスを取れる人が今必要なんだろうなと思った。
そもそも台本がハラスメントじゃねぇかという気持ちもあるし、綻びや微妙な所もあったけど、それらを抜きにしても田中圭24時間テレビは誰も見たことがない、チャレンジングでめっちゃ面白い番組だった。
ドラマ撮影がどういう段取りで行われるのか、現場で俳優がどんなふうに居て、どんなことを求められ、どんな能力が必要とされるのか、オフと本番のスイッチが切り替わる瞬間などが、メイキングのようなダイジェストではなく、ノー編集で全部さらけ出されていた。
果たして、それを見せるべきか否かの議論はあると思うけど、とにかく贅沢な番組であったことは間違いない。
ゲストや監督の幅広さ豪華さは言うまでもなく、物量的にも500人を超えるスタッフが集結して(12/15・16は業界から優秀なスタッフが消えたと言われたらしいw)、さすがの人脈と潤沢なAbema TVの本気だった。
はっきり言って、できあがった1時間のドラマだけではこの企画の良さは伝わりきらないと思う。
少なくとも、業界に興味がある人は24時間見てもらいたい。
当初、田中圭さんは、次は自分以外の役者でシリーズ化して…などとのたまっていたのだけど、24時間見ていてこれは田中圭さん以外は無理だ、できねぇ!と確信した。
可能だとしたら、歌舞伎役者の方々かなあ。
もちろん、ノーリハで1時間ドラマを撮ったり、10分のエチュード(台本なしの即興劇)を何回もやったり…ができる俳優はいるだろう(劇中、出演していたバイプレイヤーの方々は難なくこなすだろう)。
でも、あのバケモノみたいな体力と集中力、持続力は、日頃あそこまで鍛えていないと無理。
極限状態でも楽しめて、心をフラットに保てるアスリート体質じゃないと絶対無理だ。
その意味で、おさむさんが田中圭さんの強みを最大限に生かした番組だったんだなと今更ながら納得する。
多様性に寄り添う作品は今後ますます増えるだろうし、その意味で表に出る人たちにも意識改革や発言への配慮が求められるようになるだろう。
先日ラジオでJの人のハラスメント発言が物議を醸したところを見ると、おじさんばかりがアップデートできていないわけでもないらしい。
一人ひとりがどれだけ外にアンテナを張っているか、広い視野を持っているか、想像力を働かせる頭があるかという差なのかもしれない。
そして、結局それは対岸の火事ではなく、見ている私たち自身につきつけられている課題でもあるのだろう。
2019年も、そんなちょっと進化した未来を見せてくれるようなドラマに出会いたいし、出会える予感がしている。
最後に昨日入ってきたグッドニュース!!
『田中圭24時間テレビ』の「第3回輝け!AbemaTV AWARDS 2018」最優秀主演賞受賞おめでとうございます!!
2018年は本当に圭くんに助けられました。感謝しかない!!
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syumidas · 6 years
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『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』世界で生きていく私のために。
ロズギルが終わった。
2017年11月は、彼らのことばかり考えていた気がする。
長い旅をしている友人の無事を祈るような、ときどき彼らの様子をうかがいに行くような。
幸い何度が会うことができた、数人のロズギルの様子を記しておこうと思う。
ついに、ロズギルが完全に死んでしまったこの世界で、次のステップに進むために。
※観劇メモを膨らませただけなので結論もなく、とりとめのない文章ですが、ご笑覧いただければ幸い。
  ★ 脚本について ★
 まず、めっちゃ脚本がわかりやすい。ほぼ現代の話し言葉で書かれている。
ストッパードの原書もこんなにコミカルなのかしらん?
元ネタである『ハムレット』の小難しくて大仰な、シェイクスピア劇イメージを忘れて楽しめる。
翻訳劇初心者にもとっつきやすく、それでいて正統派な雰囲気も漂う。
そんな親しみやすさと喜劇的なやりとりに笑いながら、目の端には不穏な影が常にちらつき、通奏低音のように緊張感が解けない。
笑いと恐怖の絶妙な配分に、始終引き込まれ続ける本だと思う。
  ★ 原典『ハムレット』との比較まとめ ★
 ◎
驚いたのは、ハムレットと言えば喪服=黒服なのに、遣都ハムが上から下まで真っ白な衣裳を身につけていたこと。
さらに、うじうじブツブツ根暗キャラのイメージと違い、自信たっぷりでエキセントリックな躁病気味の性格も。
ロズギルには、ハムの性格がそう見えていたということだろうか。
ハムの独り言シーンは舞台袖で見えなかったり、舞台で演じられても無言劇だったりで、観客もロズギルと同じ情報量しか与えられない。
誰もが知っている、お約束の「生きるべきか死ぬべきかそれが問題だ」の名セリフですら無言劇だったのは、「マジ?」って思ったw(髑髏持って口パクしてるシーンね)
原典『ハムレット』でのロズギルは、王やハムとの短い会話シーンしかないせいもあるけど、慇懃無礼な小物の感じ。
それが裏ではこんな悪態ついて、バタバタ右往左往していたかと思うと笑える。
王と王妃も下町食堂の気のいいおっちゃん&おばちゃんという雰囲気で原典のイメージと違う。
王の威厳も魔性の魅力も欠片もないので、不倫とか不義密通とか言われても、最早ギャグとしか思えないし、まったく憎めない。
安西オフィーリア/ホレーシオの配し方が面白い。
男性(本来は少年)が女性を演じることや、1人の役者が2役以上を演じるという、古典シェイクスピア劇でよく使われた手法を踏襲している。
ラストを安西ホレによる、朗々としたザ・シェイクスピアな台詞で締めくくることで、物語が表の『ロズギル』世界から裏の原典『ハムレット』の世界に還っていく。
  ★ 美術・衣裳・照明について ★
 ◎
舞台美術はシンプルというよりもミニマム。
記号的でガランとした空虚な景色が広がっている。
未完成のようでもあるし、あらゆる空間と時間を想像させる普遍性も感じる。
ロズギルの衣裳は濃淡あれどグレー1色。
白黒つけられない不確かな存在を��している。
2人の境界も曖昧、モノトーンの舞台との境界も曖昧で、照明が落ちるとすぐに闇に溶け込んでしまう。
「スピード出したらアスファルトと同化すんねん」(by火花)www
裏の世界=原典『ハムレット』のキャラたちは白一色で、天上人のように現実感がない。
現実と虚構を行き来する芸人一座の劇中衣裳はカラフルで、逆に生身の実在感がある。
iPhoneやストップウォッチなども用いられ、現実と繋がっているイメージ。
照明は闇の使い方が素晴らしい。
2人の周囲を闇で円形に切り取ることで(その円の中をグルグル歩き回るロズ)、袋のネズミな2人の状態と閉塞感を表している。
ラストはロズギルがパッと闇に消える演出。
座長が言っていた、観客が期待するロマンと芝居っ気にあふれた死ではなく、ギルが何度も訴えかけていたような無機質で無情な死の訪れを表現する。
「今ここにいたのに次の瞬間にはいなくなって、もうそれっきり退場。スッと説明もなく消えてしまう。その重さは徐々に増していき、やがてそれが死の重みとなって、ずっしりとのしかかってくる」。
観客は生の終わりの呆気なさ、残酷さ、のしかかってくる死の重みを疑似体験しながら、運命に翻弄されたロズギルを哀れに愛おしく想い涙する。
削ぎ落とされた舞台���美しい佇まいの役者たち、ウィットに富んだ台詞のやりとりと、全体的にスタイリッシュに仕上がっている。
1回目に観た時は、ロズギルパートはもっと猥雑にして、裏の高貴な『ハムレット』世界との落差を出した方がいいんじゃないか?と思ったけど、段々とその洗練されたユーモアが心地よくなっていった。
  ★ ロズギルについて ★
 ◎
客席の明かりも落ちていない中、セッティング中の美術スタッフが大きな板を運び出したら、そこから不意に現れるサプライズな登場。
そのハリボテ感、現実との地続き感。
彼らの(人間の)存在のはかなさ、どこから来てどこへ行くのかもわからない寄る辺なさ。
手品師が1本の紐をちょちょいと結んで作った2つの結び目のような。
最期も、紐を引っ張ったらパッと結び目が消えるように闇の中に掻き消えてしまう。
濃い顔で年上の斗真くんが、純粋で子供っぽいボケのロズ。
スッキリ顔で年下の菅田くんが、理屈をこねくり回して激しくツッコむギル。
敢えて、チグハグな配役も狙いなんだろう。
元々名前すらあやふやな2人だけど、幕が進むに従ってロズが饒舌に語りだし、ギルが子供っぽく不安定に変化して、境界が曖昧になっていく。
ロズが消える直前に菅田ギルが絞り出す「…覚えてない…」が凄く好きで。
観た中で一度、特に幼い声の時があって、まるで親に見捨てられた子のようで。。。胸をギュッと掴まれた。
そんな2人なのに、最期は同時に逝けない残酷。
一人ずつ時間差で闇の中に沈んでいく様に、「死ぬときは独り」という真理を思い知らされる。
膨大なセリフ量は言うまでもなく、特筆すべきはそのスピード!
弾丸トークで漫才のような掛け合いが続き、何度も客席から笑いが巻き起こる。
特に菅田ギル!もしかして、世界最速なんじゃない?ギルデンスターン界のウサインボルトじゃない?(笑)
ラジオでカミカミの菅田くんとは思えないほど(失礼)、見事な滑舌と発声。
何より、「間」の心地よさ。
関西生まれ・お笑い好きで醸成された生来のセンスに、火花を始めとする仕事で磨きがかかったテクニック、何よりもこの時代とぴったりマッチした彼の“今”の感覚。
なんの不安も違和感も感じずに身を委ねられた。
芸達者なベテラン勢ではきっと出せない、フレッシュな必死さ、全身全霊全力投球なエネルギーも好ましかった。
余計な芝居がない。
特にロズとギルは片方が喋っている時、もう片方はほぼノーリアクション。
実は精悍な顔立ちの斗真ロズは黙っていると人形のようで、不気味ささえ感じた。
2人だけのシーンは、さらに削ぎ落とされている。
セットも衣裳も音楽も照明も制限された世界で、コインを扱う以外のアクションはほとんどない。
物語を前に進める推進力は、お互いの会話のみ。
その分、言葉はほとばしり、高速で2人の間を行き交う。
動きで表現できない中、台詞だけで“伝えよう”とするのは、菅田くんも斗真くんも相当な恐怖とエネルギーだったと思う。
そういったリアルな寄る辺なさと居心地の悪さ、蓄積されていくストレスが、ロズギルの孤独や不安を増幅しているようだった。
前回の蜷川ロミジュリが舞台狭しと走り回り、転げ回り、殺陣をする、真逆の“動”の演出だったから、対照的で面白かった。
  ★ メビウスの物語装置 ★
 ◎
舞台上では常に2つの存在や概念が提示され、絶えず転換して定まらない。
それが観る者の不安を煽り続け、クラクラとめまいを起こさせる。
・ロズ⇔ギル
・コインの表⇔コインの裏
・現実⇔虚構(芝居)
・生⇔死
・役者⇔観客
・喜劇⇔悲劇
・スピンオフ『ロズギル』⇔原典『ハムレット』
などなど
この舞台では、コインの表がロズギルの世界で、裏が原典『ハムレット』。
だから、一度だけコインの裏が出た瞬間に『ハムレット』の世界が出現する。
(ロズ「やっぱりお前ツイてたよ、裏だ」のところ)
繰り返しや台詞の反復。
一座が演じる「ゴンザゴー殺し」と舞台上の現実の相似は言うまでもなく、イギリス王との謁見をシミュレーションするシーンは、ロズとギルがまったくそっくりに交互に演じていた(Twitterによると、ギルがむせたアクシデントを、ロズが同様にわざとむせた回があったらしい。斗真くんの対応力!)
そもそも、この舞台自体が永久にループし続ける物語装置だといえる。
ギルは毎回「みてろよ!次こそは上手くやってやる!次こそは!」と捨て台詞を吐き、翌日にはまた板のかげからコインを投げ現れる。
これが初日から千秋楽まで36回繰り返されるのだ。
36回生まれて36回死んだ、あるいは、36人生まれて36人死んだ、ロズとギル。
慣用表現では、36は非常に多くのもの、すべての方法・方位を意味するとか。(wikiより)
何度も何度もロズギルは現状からの脱出を試み、生きる道を模索するが、叶うことはない。
その膨大な徒労と絶望の虚しく無意味な繰り返しこそ、この作品の核だと思う。
ロズギルが一座の劇中劇で、自分たちソックリの2人が死ぬのを観客として観る時、それを観ている私たちという図式に気づいてゾッとする。
私たちの背後に私たちを観ている者はいないのか?
一座の2人←ロズギル←私たち←???
ロズが「そこにいるのはわかってるんだ!こっちへ出てこい!」と虚空に叫ぶシーンを思い出す。
ほぼ全登場人物が嘘をつくか、または演技やフリをしている。
だから現実と虚構が渾然一体となり、どっちなのか判別できない瞬間が何度もある。
・現実そっくりの劇の途中で現実のハムやオフィ、王が乱入してきたり
・劇中の死体がロズギルと入れ替わったり
・死ぬ演技をしていた一座がラストの『ハムレット』の死体に変わったり
・観客にロズが「火事だ!」と叫んだり
・ギルに殺されたはずの座長が実はフェイクで生きていたり。
あっという間にコインの表裏はひっくり返って、何が現実かわからなくなるので気を抜けない。
劇を見ているのか劇中劇を見ているのか、自分は観客なのか舞台装置の一つなのか、足もとがグラグラと覚束なくなる感覚。まるで手品を見ているようだ。
大掛かりな仕掛けも華麗な歌や踊りもパフォーマンスもないのに、2時間半ずーっと飽きないのは、矢継ぎ早に認識を覆す驚きとスピードにあると思う。
  ★ 不条理劇について ★
 ◎
不条理演劇とは、人間、特に現代人の不条理性や不毛性を描こうとする戯曲や演劇の手法もしくはその手法に基づく演劇活動そのものを指す。(wikiより)
『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』も不条理劇と言われている。
帰り道やSNSで「理解できなかったけど泣いた」「意味はわからなかったけど凄かった」という感想をちらほら聞いたけど、それは正しい鑑賞なのだと思う。
そのわからなさや当惑こそ、ロズギルが感じていたものだ。それを共に体験できたのだから。
そして、不確実な状態を生きるロズギルの混乱や憂鬱は、私たち自身の“生きていることのわからなさ、生きているこの世のわからなさ、生きている自分のわからなさ”に繋がっていくのだと思う。
初見の観客はラストがどうなるのかわからないまま鑑賞する。
ロズギルと一緒に突発的な事象に翻弄され、彼らが下手を打って逃げそびれる度にハラハライライラしながら体験を共有する。
対して2回目以降は、ロズギルが絶対に助からない運命にあることを知った上で鑑賞する。
逃れられない一巻の終わりに向かって、右往左往しながら流されていく2人。
メデタシメデタシを望みながら、決して叶うことのないロズギルを見ていると、なんとも言えない哀しさとおかしさと、バカだなあという愛おしさが湧いてくる。
「どうか我らに日常の糧を与えたまえアーメン!」ロズギルは何度も神に祈るのに、神は決して救わない。
祈りは気休めに過ぎず、現実の無慈悲さを前にした時の、宗教の無力さのようなものも感じた。
  ★ 菅田くんについて ★
 ◎
初見からずっと考えていることがあって。
それは、なぜ、菅田将暉と生田斗真だったのか?ということ。
『ハムレット』世界では取るに足らない脇キャラを、当代で最もキラキラしている2人が演じる意味と価値。
涙とオーラを撒き散らしながら煩悶する姿は美しく、ミニマリズムに貫かれた舞台の中で、一層華やかに際立っていた。
彼らが体現する現代性が、口語体の脚本とあいまって、体験すること自体が面白い“今”のエンターテイメントになっている。
共感できる私たちの物語として捉えることができる。
さらに、20代・30代の彼らがみずみずしくスピーディーに演じることで、人生を模索する若者の物語にも見える。
この世の不確実性や生きる目的の不明瞭さに打ちのめされ続けるロズギルの苦境は、世代を問わず人間共通の悩みではあるけれど、そこに青春の悩みのような甘酸っぱさ、愛くるしさ、まぶしさを感じることができた。
自分は2人目から35人目まで、複数のロズギルと会うことができたのだけど、その間の菅田ギルの成長ぶりは凄まじいものがあった。
はっきり言って2番目は最初、まだまだだね…という感じで。
斗真ロズや遣都ハムの完成度がいきなり高かったせいもある。
台詞を間違うことはほとんどなかったけど、一本調子で流れてしまって胸に響いてこなかった。
(あのボリュームをやり切るだけでもスゴイことなんだけど)
だけど3幕のラスト、消える寸前の芝居で、ガラッと人が変わって。
短いながら、誰もが菅田ギルから目を離せなくなるエモーショナルタイムが訪れ、感動に包まれながら終劇。
ここまで豹変できるなら、今後ますます楽しみ!と期待が膨らんだ。
そしてまさに、その通りになった。
考えてみたら、ロミジュリの時も初日からラストまでどんどん進化して、高みへのぼっていった人だった。
それって凄まじい速さで現場から吸収しているってことだよね。
その姿をリアルタイムで!ナマで!観られるっていうのが嬉しい。舞台の醍醐味だ。
結局、観るたびに一つ一つの台詞にニュアンスが生まれ、エモーションやパッションが漂い、ぐんぐんとお芝居が厚みを増して引き込まれていった。
特に、35人目はTwitterにも書いたけど、打ちのめされるほど素晴らしかった。(以下引用)
“今夜の…35番目のギルはヤバかった。爆発してた。
幾つもの爆発が次々起きて、その烈しさと美しさに圧倒された。
帰り途、荒野と同様に、丹田に力を入れてないと嗚咽しそうで。今も。
特に最後の最期は何かが降りてきてた。
劇場が菅田くんの激情の渦に巻き込まれていく。
圧巻な、一巻の終わり。”
菅田ギルが消えた後、安西ホレが滔々と語っている中で、客席から盛大に鼻をかんでいる音がして、思わず笑っちゃった時もあった。(小さくガッツポーズしながら)
今作を経て、また一つ新たな武器を手に入れたんだろうな。
それが今後のお芝居にどう現れてくるのかが楽しみ。
そしてまた別の舞台で、あのキラキラした爆発を観られますように。。。
豪華絢爛なビジュアルも、驚天動地の仕掛けも、ド派手なアクションも一切ないのに、始めから終わりまでドキドキ目が話せず、最後はホロリと感動する最高のエンターテイメント舞台。
『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』けど、私は2人を忘れない。
いつかまた「見てろよ!」の続きができますように。
夢のような1カ月を、ありがとうございました。
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syumidas · 7 years
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映画「あゝ、荒野」の感想
 「いのちを人にささげる者を詩人という。

  唄う必要はないのである。」ー坂口安吾ー
 一篇の詩だった。肉体の文学だった。
ラストの壮絶な闘いの場面に、言葉は無力だった。
野獣の咆哮はいい、荒い息遣いはいい、野次も歓声もウェルカム。
だけど、つくられたセリフは誰も発さないでくれと祈っていた。
映画館の暗闇に響く、おごそかな打撃音と甘い声のカウント。
1、2、3、4…10、20、30…86、87、88、89……
記号に過ぎない数の並びに、言葉に尽くせない詩情が漂っていた。
 このシーンで、私は自殺した昭和東京五輪メダリスト・
円谷幸吉選手の遺書を思い出していました。
  父上様母上様 三日とろろ美味しうございました。

  干し柿 もちも美味しうございました。

  敏雄兄姉上様 おすし美味しうございました。

  勝美兄姉上様 ブドウ酒 リンゴ美味しうございました。

  巌兄姉上様 しそめし 南ばんづけ美味しうございました。

  喜久造兄姉上様 ブドウ液 養命酒美味しうございました。

  (略)
遺していく者への愛と感謝を「美味しうございました」の
韻律で綴った美しい遺書。
バリカンの数えるカウントもまた、神聖な遺書であり、
切実なラブレターでした。
原作ママの場面ですが、映画はふたりの表情を切り取って、
より強く真っ直ぐに胸に響きました。
  ★ 1.  304分の四苦八苦 ★
  考えてみると、この映画には仏教における
人間の四苦八苦が織り込まれています。
生まれる(1生苦)、
老いる(2老苦)、
病気になる(3病苦)、
死にゆく(4死苦)ことのままならなさ。
さらに、愛するものと別れる(5愛別離苦)、
恨みや憎しみと出会う(6怨憎会苦)、
求めるものが得られない(7求不得苦)、
心と体の欲望にとらわれ続ける(8五蘊盛苦)。
人間の苦しみ全てを、描き出そうとしたのでしょうか。
そりゃあ5時間も超えるはずです(w)
 前篇は出会いの物語。ワンピで言えば仲間集め。
喪失し続けたゼロの人々が、新宿の磁場に吸い寄せられて
愛と出会い、ボクシングと出会い、社会と出会う。
不器用に心と体の糸をつなげながら、
生きるための何かを見出し、
それを空っぽの自分の中に少しずつ埋めていきます。
登場人物たちの成長に愛着を感じ、
対戦シーンに高揚しながら、to be continued。
誰もが157分の長さを忘れて、膀胱が許す限り
このまま見続けたい!と願ったのではないでしょうか。
 なのに後篇では、積み上げたささやかな人間関係や
生きるための何かが、指の間から溢れ落ちていきます。
劇的な事件が起こるわけでも、誰が悪いわけでもないのに、
虚しく崩壊していく様が切なく、もどかしい。
高まるフラストレーションをぶち破るのは、
2つの壮絶なファイト。
前篇に比べてテンポが悪いものの、説明し過ぎないところと
ファンタジーの域までボルテージ高めたラストの対戦に、
私は好感を持ちました。
何よりも、これ!この顔が!この画が!
オレは撮りたかったんだ!!というカメラの向こうの叫びが
画面からひしひしと伝わってきました。
つくり手の衝動や我欲こそ、
映画の最も純粋な面白さではないでしょうか。
  ★ 2. ふたつの孤独 ★
  前篇で描かれる孤独と、後篇で描かれる孤独は、
質が異なるように思います。
正確には、裕二戦の前後。
新次は「裕二」、バリカンは「父親」、芳子は「津波」。
前篇での彼らの孤独は、
他の誰かや、外から来た何かのせいでした。
それが、後篇の孤独は誰が悪いわけでもない、
自分の内から湧き出てくる苦しみです。
裕二を倒した後の新次の虚しさ、
新次になれないと気づいたバリカンの絶望、
自分の価値を信じきれない芳子の虚無。
こんなにも苦しくて孤独なのは全て、
私たちが絶対に裏切らない幸福も、
永遠に続く憎しみもない世界に生きているからであり、
一つになれない他人を愛するからであり、
ままならない社会に属しているからなのです。
 後篇、再び孤独にとらわれた人々は、
運命に抗う気力すら失い、闇い目をして現実世界を彷徨います。
それは、不穏な政治情勢や社会のいびつさに気づきながら
思考停止して、何もしない現代の私たち、
震災や自然の容赦なさに打ちのめされ、
心を殺して生きる私たちの姿に重なります。
そんなゾンビみたいな彼らと私たちが最後に辿り着いたのが、
運命に抗い続ける者だけが生きて立ち続けられる、
あの四角いリングサイドなのです。
魂をぶつけ合い、交わり合い、
運命に抗う新次とバリカンを観戦する人々は、
次第に自分自身を彼らにアイデンティファイさせていきます。
ある者は涙を流し、あるものは祈り、ある者は陶酔し、
ある者はやれ!と呟き、ある者は殺せと叫び、
ある者は(私たち観客は)ふたりを永遠に見ていたいと願う。
死ぬまで消えない孤独を抱えながら、それでも運命に抗う
人間のエネルギーと尊さを見せつけられるのです。
  ★ 3. 怪物と仏像 ★
  裕二戦とバリカン戦、2つの試合で見せる菅田くんの対比。
裕貴くんに「人を超えた」とまで言わせた裕二戦は、
濃縮された憎悪が一気に暴発して���
バリカンが壁に描いた邪悪な両眼そのままの怪物でした。
 対してバリカン戦は、憤怒の形相の奥に
バリカンの想いを受け止める慈悲や、
己の孤独を見つめる透徹した精神が宿り、
まるで仏像のようだと思いました。
殴り掛かる怒りの顔は金剛力士、
インターバル中の静かな闘志は広目天、
時にロンパリの目は不動明王。
血と汗に塗れるほどに神聖さを増していく姿は、
まさにバリカンの運命の男にふさわしい、
聖の中の俗、俗の中の聖を体現していました。
 この人だって肉と骨でできた、ただの有機体に過ぎないのに。
カメラの前に全身を晒し、
な���なら雑誌でははらわたまで見せてくれて。
そんな、がらんどうの身体から
何てものを発散し、見せてくれるんだろう。
毎度のことながら、その献身と献心には心を震わされます。
興行のハードルは高くても、
何らかの勲章が彼に与えられますように。
新次が菅田くんで本当に良かった。。。
 菅田くんの本性は優しく柔和で、善良なのでしょう。
前篇は彼の美点や人間としての愛らしさが透けて見えて、
手負いの獣王のような新次には物足りない気がしていました。
ドキュメンタリーっぽい撮り方のせいもあるかもしれません。
けれど後篇は、彼自身を超えるような狂っている瞬間があり、
人間が根源的に持つ凶暴や狂気が写しとられていると感じました。
そのミラクルとパワーを引き出したのは紛れもなく、
相棒のヤン・イクチュンさんです。
「受け」続ける芝居で、ここまでできる演技力と人間力には
尊敬しかありません。
  ★ 4. 最後の表情 ★
 原作にはない、ラストシーンの
なんとも表現できない新次の表情も、
美しい絵画のように深く心に刻まれました。
死亡診断書の謎と相まって、
見る者によって受け取るメッセージは様々でしょう。
私としては、底知れない悲しみを胸に抱きながら、
この人生、この世界、この国家、このコミュニティーという
荒野をただ一人歩いていく。
そうして、自分の体と心で自分を「生きる」。
新次の人間としての覚悟の表情と受け取りました。
そこに「人間として生きる」希望を見たいのです。
   きみは荒れはてた土地にでも
  種子をまくことができるか?

  きみは花の咲かない故郷の渚にでも

  種子をまくことができるか?

  きみは流れる水のなかにでも

  種子をまくことができるか?
  たとえ世界の終りが明日だとしても

  種子をまくことができるか?

  恋人よ 種子はわが愛

  「種子(たね)」ー寺山修司ー
自分も、種子をまき続ける人でありたい。
  ★ 5. あとがき ★
  夏に野田秀樹と勘九郎の「桜の森の満開の下」を観てから、
坂口安吾の孤独や「文学のふるさと」について考えていた
自分には、大分そういう視点からの感想になってしまいました。
文学とはすべからく人間の根源的な孤独から
発するものでなくてはならないと、安吾は言います。
寺山と安吾の関係は門外漢なので知る由もないですが、
「あゝ、荒野」はその意味において文学であり、
その世界を昇華させた映画「あゝ、荒野」もまた、
人間の文学でした。
 同時期に公開している北野映画が、希死念慮をはらみながら
老人たちがハツラツと暴力を弄ぶのとは対照的に、
暴力をスポーツに置き換えて、
若者たちが生きることそのものの苦しみに立ち向かっていく。
「あゝ、荒野」は50年前の原作をベースとしながら、
今を生きる青春映画の代表作であり、
きっと50年後も共感される作品となるでしょう。
 本当はもう一人の主人公、
まるで苦行によって神や世界の真理と繋がろうとする
修行僧のようなバリカンや、
ヤンさんの凄みについても考えたいし、
生と性についても考えたいけど、今はここまで。
今週からはロズギルが私を待っている(わくわく)。
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syumidas · 8 years
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『セトウツミ』青春座談会まとめ
『セトウツミ』7/21(木)19時〜 大森立嗣監督、クイックジャパン続木編集長、ライター森直人さん、 30代40代男子青春座談会。進行の宣伝Pも30代男子。 上映後にゆる〜くセトウツミを語り合う、 大人向け?なトークショーのまとめです。
  ※誰の発言だかわからないところは?になっていますが
  メモから起こしたので間違いもあるかも。
 【森さん】:最初しゃべるだけの映画と聞いて警戒した。
 だがノリは緩いがカチッと作られた映画だった。
 見た順番が良かった。
 菅田さんの情熱大陸見て「これでいいのか!?」と思ったが
 ダウンタウンなう の手紙が完全に演技論になっていて、
 レベルが高くて感動した。
 セトウツミは俳優の能動性がある。
 菅田くんの手紙の実践編だと思った。
 その後、また菅田くんのNHKのSWITCHインタビューを見て、
 これも素晴らしくて。
 この4連発が美しい流れだった。
【大森監督】:俺テレビ見てないんだけど例えばどんなこと言ってたの?
【森さん】:あんまり良くて(菅田くんの手紙を)書き起こした。
 (ダウンタウンの)自然に話すやり方がリアルで(台本がないようで)、
 でも何かしら色気になってると。
 それをロールモデルとして、肉体と思考に落とし込んでいる形が
 セトウツミなんだなと。
 インタビューとかでも論理的だよね彼。
【大森監督】:演技は池松のほうが上手。(キッパリw)
 菅田は角度を変えて撮る時も同じことができない。
【森さん】:それが菅田くんの生っぽさ
【大森監督】:あの歳で珍しく、カッコ悪いこと、みっともないことを
 照れなくやり切っちゃうベテランみたいなとこがある。
 柄本明みたいな面白さがある。
【司会P】:近所中に響く声を出したりしてました。(花火のシーンとか)
【 ? 】:瞬発力と感受性があるんだね
【 ? 】:それも池松くんの演技が、ブレない筋が一本あるから生きるんだね。
【大森監督】:1,2,3話くらいまで池松の笑顔が出てこなくて、
 それが見たくて花火のところはああいうふうに変えた。
 他の映画でもお姉さんに緊張して・・・が多いから違う表情が見たかった。
【森さん】:セトウツミはどうしようもなく映画だと思った。
 もしコントなら、違う精度の高め方がある。
 だがセトウツミは生活環境の中で切り取っている。
 わらかしではない。
 映画であり、俳優の作品だった。
 パブリックビューイングに向いていると思った。
 みんなで鑑賞するって感じ。
【続木編集長】:ボクは逆で。コントっぽいパッケージなので
 ずっと継続してできる、ずっと見たいと思える、
 違う形態の映画だと思った。
【森さん】:イベントムービーになりそう。
 テラスハウスとかテレクラキャノンボールみたいな
 ミニマムな作りで一緒に笑える。
【大森監督】:テレビの深夜枠もいいって感想をよく見る。
 菅田が初日にDVDでいいって言ったし!(笑)
 でもテレビでやったら盛り上がらない。
 コアなファンだけついて視聴率悪いっていう(笑)
【 ? 】:細かく作ってますもんね!
 (テレビで)ぼーっと見てたら9割見逃す!
【続木編集長】:1話でお金渡す封筒が白くま柄とか。
【大森監督】:あれは本当にあるやつだよ。
【続木編集長】:カレーの初日とか、
 おかんの服がヒョウ柄じゃなくてヒョウとか(笑)
【森さん】:後ろで何やっているのかが気になる。
 鈴木卓爾さんとことか。あれは板尾さんでもハマる!
 (瀬戸と内海が)横に並んでしゃべっているのに対して
 縦の線で(別のキャラクターなどが)入ってくることで
 空間が歪むところが、監督の底力だと思った。
【大森監督】:嬉しい。監督をぜんぜん褒めてくれないから(笑)
【森さん】:この作品は下手にやったら地獄ですよ。
 よくこんな高いレベルに持って行ったなと。
【 ? 】:長いポテトとかよく再現しましたね。
【大森監督】:あれは普通に売ってるもの。
 「見つけましたーーー!」って助監督が菅田より興奮してた(笑)
【司会P】:マックには無許可で撮影してます。
 (いいの?とザワつくw)
【司会P】:日本映画の今って少女漫画原作が多くて、
 これが成立したのはどう思います?
【森さん】:実験だけど成功した。漫画原作は企画が通りやすいから。
 フェイクで企画通した感じ。よくここまで広げた感がある。
 監督が男同士のバディもの映画をつくってきて、
 菅田くんがダ���ンタウン好きだったみたいな根っこがあったからだと思う。
【大森監督】:結局、池松・菅田がお芝居ができたからだね。
 それで築いていけたんだと思う。
 映画は関係性が揺れるから奇数(のキャラ数)がいいってよく話す。
 素数がいいという話もある(素数?w)
【司会P】:登場人物が部活していない帰宅部ってキャラが(監督に)合っている。
 帰宅部が主人公の映画って他にありましたっけ?思い出さないんだけど。
(ここで客席から「男子高校生の日常」!というアンサーが)
【 ? 】:(帰宅部のキャラクターもそうだが)この映画には時代性もある。
 ある程度、BLにも見える。
 男子同士がじゃれていて、樫村さんが嫉妬している構図とか。
【司会P】:ラストのミルクティーのシーンが好き。
 BLっぽさがある。
 あれは池松くんのアドリブ。菅田くんも監督もびっくりしていた。
【森さん】:(今日)裏で、企画意図とかダウンタウン世代だなと話していた。
 脱力した会話のやりとりは、監督の2作目以降に通じる。
【続木編集長】:ダウンタウンは社会のメインから少しハズレた人を面白悲しく描く。
 外れたところにある笑い。
【大森監督】:くだらないのが好きなんで、ダウンタウンも好きだけど
 本当に好きなのは赤塚不二夫のアナーキーな笑いだけど。
【 ? 】:原作者も30代の同世代ですよね。だいぶ変わり者でした(笑)
【 ? 】:菅田くんは世代的には下だけど、DVDでダウンタウンを見ていたんだね。
【大森監督】:彼はしゃべると凄く頭がいい。論理的にいい。
 そう見えないところがいい。
 新井浩文もそう。麻雀の打ち方とか理数系の脳。
【森さん】:俳優は頭いい人が多い。頭悪いとやってらんないんじゃないか。
 表現者であり、同時に職人性を持ち合わせている。
【 ? 】:俳優のやりたいことを追求していったら、新しい日本映画ができるのでは。
【 ? 】:過去作品を掘っているよね(よく見ている)。情報量が多い。映画狂が多い。
【大森監督】:良いと思う反面、危険だと思う人もチラホラいる。
 (知識がいっぱいあっても)現場でやるときは全部飛ばさないと。
 頭でっかちはダメ。
【 ? 】:池松くんもめちゃ詳しいよね。
【 ? 】:松居大悟さん、池松くん、クリープハイプの尾崎世界観さんは
 3人で昔からよく飲んでて。松居さんが一番年上なのに金払わない。
【司会P】:樫村さん超カワイイですよね。
【大森監督】:カワイイから選んだ。お芝居はちょっとしか経験がなくて、これからの人。
 (池松くんの後を小走りで追いかけるのが超絶かわいいとおじさんたち大盛り上がり)
【大森監督】:内海がひっぱたかれるシーンで、
 スタッフがみんな「俺もー!」って言ってた(笑)
 大物感ある。きれいなのに天王寺の子でフランク。
 (天王寺にあんなカワイイ子いたか?とまたまた大盛り上がりしてタイムリミット)
【大森監督】:上映はまだまだ続くので応援してください。
 (フォト・セッションすると言ったら、「マスコミいるんだ、知らなかった!」と監督。
 クランクイン!さん他、3媒体来ていました)
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syumidas · 8 years
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『星ガ丘ワンダーランド』試写会の感想
2016年2月10日に新宿のバルト9で行われた 『星ガ丘ワンダーランド』舞台挨拶付き試写会の 映画を観た感想です。 Twitterにも流しましたが、記録としてこちらにも。
光と雪が織りなす映像美。 特に多彩な光のいろ、明暗の対比がすてき。 CM的なキャッチーな構図や、 視線を操るテクニックも駆使されてて、ニヤリ。
ストーリーはシンプルで、心のすれ違いやねじれが 各々の人生の糸に頑なな結び目を作り それがまた解きほぐされていく物語。 この感じ、何かに似てるなと思ったら 昔の少女漫画を読んでいる感覚に近いです。 ファンタジックな雪や光の映像も、 そういえば少女漫画チック。
セリフによらずビジュアルで丁寧に、 淡々とつむいでいくので、 まったりとしてしまうところは否めないけど、 監督が仰っていた余白から、登場人物たちが抱える 想いに想像を巡らせて楽しみたい作品。
描かれるのは、母と子供たちの 様々な「別れ」を中心とした家族の物語。 リアルな母親が観たら、もしくは大人になって 親への想いが変化してきた子供にとっても、 きっと胸に響いてたまらない映画です。
倫也さんは、心に傷を持つ優しい青年、温人を 繊細に演じていました。 倫也さんから感じる柔和で穏やかな雰囲気、 明るさの中に見え隠れする、冷静さとどこか寂しげな表情が まさにぴったりの役所でした。
(もっと言えば、個人的に倫也さんの中に感じる 静かな狂気みたいなものも、 この役に深みを与えているんだろうなと思って観ていました)
菅田くん演じる雄哉は、ナイーブな少年の幼さを残した青年。 行き場のない葛藤や鬱屈を持て余している苦しさが 全身からあふれていて、まるで駄々っ子のようで 切なく愛らしかったです。抱きしめたい! (はっ!これが母性本能をくすぐるちゅーやつ!? byぼくらの時代) そんな雄哉と対比することで、 希ちゃん演じる姉、七海の健気さや 人柄の美しさが一層際立っていました。
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syumidas · 8 years
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そういえば、「しょーもな!」ってワード、 関西に縁のない私はイマイチ、ニュアンスを 把握しきれていない気がします。
子供の頃のシーンでは、 どうにもならない状況に苛立ちを募らせて 「むかつく!」な感じで言い捨てていたけど、 最後の「しょーもな!」は突き放しながらも温かく、 決別のような、始まりのような、 想いを捨てたような、愛を感じるような ごっちに向けてのような、自分に向けてのような、 いろんな意味に捉えられました。
関西弁に限らず、方言って、表面的には言い表せない 微妙曖昧な気持ちまで内包できるのが素敵。 「しょーもな!」だけでなく、りばちゃんの関西弁は、 映画の中で効果的に使われていましたね。
ミルクマン斉藤さんが監督へのインタビューで 最後の「しょーもな!」は「菅田くんの声?」と聞いていて、 結局、正解は裕翔くんの声だったのだけど、 確かに菅田くんの声だったら、途端に話が元に戻って ループするエンドレス物語になって、 ますます不思議な映画になっていましたね(笑) まあ、それだとスタイルが過ぎるかな…。
映画『ピンクとグレー』 2回目の感想
わかりあえないし、 わからなくていい。 それで、いい。 それが、いい。 ごめん。
だったかな? 柳楽ごっちの最後のセリフ。違っていたらSorry。 とにかく、この、「それ“が”、いい」というセリフが良かった。 いろいろと救われました。
最後のシーンが、裕翔りばちゃんの心象風景であるなら、 首を吊ったのは、 自分はごっちを理解し、受け入れることができるのか? という自問自答の象徴なんだろうと思いました。
そして、りばちゃんはできなかった。 姉��命日に自殺すると決めていたごっちの心を 理解して受け入れることはできませんでした。
他人の心なんて、わからない。 それでいいし、それがいい。 受け入れることはできないけれど、 受け止めてあげることはできる。 理解も納得もでき��いけれど、 寄り添って抱きしめてあげることはできる。 だから、他人といることができる。 他人といることに意味があるんだと思える。
そんなことを考えていました。
将暉くんがインタビューで前半を「茶番だ」と言っていた意味が 2回目でなんとなく理解できました。
あれは真のりばちゃんではなく、 あくまで成瀬が創り上げた、りばちゃん像なんですね。 りばちゃんを演じている、成瀬を演じている、菅田将暉!って、 もはや三重構造!こんがらがるう〜!<(@_@)ノ
成瀬が嘘くさいと思っている美談映画「ピンクとグレー」の登場人物で 成瀬から見た、りばちゃん像なんでしょう。 だから、あんなにイラつく小さいヤツなんだ。 (結果、観客にとっては、人間味にあふれた 愛すべきキャラクターになっていると思うんですが…)
「あんなキレイなもんじゃないでしょ?」と 成瀬が裕翔りばちゃんにしつこくからんでいたのも、 二人の友情物語を嫌悪して、嘲笑っていたからなんでしょうね。 傷害事件まで想定していたかはわからないけれど、 あの、「こいつ、やりやがったwww やっぱり馬鹿で甘ちゃんのガキだったwww」 みたいな嘲笑いからすると、 おとしめてやりたかったのは、本音なんでしょう。
ますます成瀬や三神には見せていた、 ごっちのもう一つの顔が知りたくなりました。
1回目を観てから、 「他人に決められるアイデンティティー」について気になっています。 そしたら先日、ほぼ日で糸井さんがこんなことを書いていました。
『アイドルとかスポーツのスター選手みたいに「かっこいい」が職業の人は、「もっとかっこいい」を目指して、いつでもなにが「かっこいい」かを考え、それをやってみせることが職業的使命になる。そして、そうした職業的な「売り」のところが、「その人」であるかのように記録され、記憶される。「ほんとは、そんな人じゃないんですよ」と家族や友達は思っているような気がする。職業的な能力として見せていたところが全部無かったとしても、残っている「その人」。もっと、ださかったり、ろくでもないところも含めた、いわば「ただのその人」の方が、「その人」だ。「かっこいい」は、おまけみたいなものだ。すごいところは、ぜんぶ、おまけなんだと思った。』(←要約しています)
スターに限らず、ださかったり、ろくでもない「ただのその人」を ちゃんと知っていてくれて、なおかつ愛してくれる 存在が身近にいる人は幸せです。 そういう意味では、成瀬の方が ごっちを幸せにできたのかもしれないなと思いました。 どういう状況かはわからないけれど、ごっちは成瀬や三神には、 ろくでもない自分を見せることができたんだから。
裕翔りんのラヴシーンは 夏帆ちゃんの脚の位置にびっくりしたよね。 あれで生々しさが増した気がします。
Twitterにも書いたけど、微妙にTIFFと カットが違うところがある気がするのは勘違いなのかしら? 印象的な(お気に入りの)カットがあって、 そこがなかった気がするんですよね… 見逃しただけかもしれないけど… おっぱいのとこなんだけど… 3回目は目ん玉ひんむいて確認したいと思います。
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syumidas · 8 years
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映画『ピンクとグレー』 2回目の感想
わかりあえないし、 わからなくていい。 それで、いい。 それが、いい。 ごめん。
だったかな? 柳楽ごっちの最後のセリフ。違っていたらSorry。 とにかく、この、「それ“が”、いい」というセリフが良かった。 いろいろと救われました。
最後のシーンが、裕翔りばちゃんの心象風景であるなら、 首を吊ったのは、 自分はごっちを理解し、受け入れることができるのか? という自問自答の象徴なんだろうと思いました。
そして、りばちゃんはできなかった。 姉の命日に自殺すると決めていたごっちの心を 理解して受け入れることはできませんでした。
他人の心なんて、わからない。 それでいいし、それがいい。 受け入れることはできないけれど、 受け止めてあげることはできる。 理解も納得もできないけれど、 寄り添って抱きしめてあげることはできる。 だから、他人といることができる。 他人といることに意味があるんだと思える。
そんなことを考えていました。
将暉くんがインタビューで前半を「茶番だ」と言っていた意味が 2回目でなんとなく理解できました。
あれは真のりばちゃんではなく、 あくまで成瀬が創り上げた、りばちゃん像なんですね。 りばちゃんを演じている、成瀬を演じている、菅田将暉!って、 もはや三重構造!こんがらがるう〜!<(@_@)ノ
成瀬が嘘くさいと思っている美談映画「ピンクとグレー」の登場人物で 成瀬から見た、りばちゃん像なんでしょう。 だから、あんなにイラつく小さいヤツなんだ。 (結果、観客にとっては、人間味にあふれた 愛すべきキャラクターになっていると思うんですが…)
「あんなキレイなもんじゃないでしょ?」と 成瀬が裕翔りばちゃんにしつこくからんでいたのも、 二人の友情物語を嫌悪して、嘲笑っていたからなんでしょうね。 傷害事件まで想定していたかはわからないけれど、 あの、「こいつ、やりやがったwww やっぱり馬鹿で甘ちゃんのガキだったwww」 みたいな嘲笑いからすると、 おとしめてやりたかったのは、本音なんでしょう。
ますます成瀬や三神には見せていた、 ごっちのもう一つの顔が知りたくなりました。
1回目を観てから、 「他人に決められるアイデンティティー」について気になっています。 そしたら先日、ほぼ日で糸井さんがこんなことを書いていました。
『アイドルとかスポーツのスター選手みたいに「かっこいい」が職業の人は、「もっとかっこいい」を目指して、いつでもなにが「かっこいい」かを考え、それをやってみせることが職業的使命になる。そして、そうした職業的な「売り」のところが、「その人」であるかのように記録され、記憶される。「ほんとは、そんな人じゃないんですよ」と家族や友達は思っているような気がする。職業的な能力として見せていたところが全部無かったとしても、残っている「その人」。もっと、ださかったり、ろくでもないところも含めた、いわば「ただのその人」の方が、「その人」だ。「かっこいい」は、おまけみたいなものだ。すごいところは、ぜんぶ、おまけなんだと思った。』(←要約しています)
スターに限らず、ださかったり、ろくでもない「ただのその人」を ちゃんと知っていてくれて、なおかつ愛してくれる 存在が身近にいる人は幸せです。 そういう意味では、成瀬の方が ごっちを幸せにできたのかもしれないなと思いました。 どういう状況かはわからないけれど、ごっちは成瀬や三神には、 ろくでもない自分を見せることができたんだから。
裕翔りんのラヴシーンは 夏帆ちゃんの脚の位置にびっくりしたよね。 あれで生々しさが増した気がします。
Twitterにも書いたけど、微妙にTIFFと カットが違うところがある気がするのは勘違いなのかしら? 印象的な(お気に入りの)カットがあって、 そこがなかった気がするんですよね… 見逃しただけかもしれないけど… おっぱいのとこなんだけど… 3回目は目ん玉ひんむいて確認したいと思います。
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syumidas · 8 years
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ここで“PG-12”と書いてしまっていますが、誤りです。 「ピンクとグレー」は G:General Audienceなので、 どなたでもご覧になれます。
TIFFの時はまだ映倫区分が決まっていなかったので、 勘違いしちゃいました!テヘペロ 訂正してお詫びいたします。
映画「ピンクとグレー」   @東京国際映画祭の感想
〜書くしかない。書かないなんてないから。〜
2015年10月28日に東京国際映画祭にて上映された、 映画「ピンクとグレー」の感想です。  行定勲監督/加藤シゲアキ原作  中島裕翔・菅田将暉・夏帆・柳楽優弥・岸井ゆきの出演
完全ネタバレしておりますので、ご注意を!!
※この映画は、初回は絶対ネタバレを見ないで観た方が楽しいです。
 釜山やTIFFの先行上映で、既に観た方のみ、どうぞ。
それと、アホみたいに長文です。 菅田くんの役所だけでしたら、★ 5. 菅田エロス!!! ★だけ、 お読みいただければよろしいかと思います。 色々と穿った見方をしていますが、一個人の愉しみということで ご理解いただけると幸いです。つまり、チョコリエッタの時と同じく、 ※文章はイメージです!
★ 1. はじめに ★
TIFFのティーチインを仕切られた司会の方が、この映画を 「構造としての面白さ」✕「多様な愛」✕「不条理」という 3つの要素で簡潔に表現していましたが、まさに、それ。
行定勲監督自身が「実験的」と述べているように、 原作を忠実に映像化した作品ではなく、 一つの原作解釈による映画表現として、 とても面白く完成された作品になっていました。
それができたのも、原作の加藤シゲアキくんの 処女小説「ピンクとグレー」に、 様々な解釈が許される懐の深さがあったからだと思います。
★ 2. エゴとエロス ★
この映画が最も鮮やかに描き出したのは、 監督が原作を読んで感じた「多様な愛=エロス」だと思います。 エロスと言っても、人妻のエロス〜ハァハァ(´д`*)的な 単なるスケベ、ヤラシイという意味ではありません。 エロスとは、愛、恋愛、性愛。 ごっちとりばちゃんの親友を超えた同性愛的なエロス、 ごっちと姉の姉弟を超えた近親相姦的なエロス、 りばちゃんとサリーの友人を超えた共依存的なエロスには、 どれも愛と危うさと官能が漂っています。
エロスとは、無償の愛のように深く優しい、穏やかなものではありません。 自分の中で肥大する、どうしようもない孤独や満たされなさを埋めるために 相手を貪る、自己中心的で身勝手な愛のこと。 例えば、映画のりばちゃんがサリーに求めた慰めのように。
あるいは、相手の心に自己を永遠不滅に焼き付けるために 傷つけることも厭わない、嵐のような愛のこと。 死者ほど生者を強力に縛るものはありません。 自死をもって、姉がごっちに魅せつけた圧倒的な美しさや、 ごっちがりばちゃんを引きずり上げたスターの座も、 相手の中で自分が永遠になることを望んだ エゴイスティックで残酷な愛のように思えます。 愛しい相手の中に自分をねじ込んだという快感は、 自らの遺伝子を次世代に託そうとする性愛に近いのかもしれません。
監督お墨付きの(w)ごっちとりばちゃんの同性愛っぽい関係は、 原作でも映画でも重要なエッセンスです。ムフフ。 自殺によってりばちゃんを縛り、自分の身代わりにスターダムに押し上げ、 消えない傷痕のように彼の中で生き続けたいと望んだ、ごっちの究極の愛… …「変態じゃないかっ!」by貝原さん りばちゃん→ごっちのエロスは、 原作では自殺の後始末をするシーンから強く感じたのですが、 残念ながら映画では省かれていました。まあ、仕方ないよね…。 しかし、その分を埋めて余りある、 菅田くんの目が語るエロス!エロス!エロス!(笑) りばちゃん役として、成功してゆくごっちを見る時の、 喜びとリスペクトと妬ましさがないまぜになった熱い視線。 モノクロの世界で、成瀬としてりばちゃんを見る時の、 残酷に見下しながらも好奇に満ちた乾いた視線(グラサン付き)。 それらが、映画に官能的な香りを与えているのです。
対照的に裕翔くんから漂うのは、上品でノーブルな佇まい。 菅田くんが評した高級食材感を遺憾なく発揮して、 ややもするとドロドロしがちな世界観をスマートに格上げしています。 「エロスを描くとしても、今の時代に濃密なエロスはそぐわない」 と監督が言っていたように、 エロスにあふれながらも空虚感が漂うドライで都会的な青春は、 裕翔くんが本来持っているカラーと、 今の東京の、最もスノッブな芸能界という舞台を切り取った 今井孝博カメラマンのスタイリッシュな映像によるものだと思います。 菅田くんと裕翔くん、異質な2人の絶妙なバランスは、 演技派俳優同士のバチバチでは絶対に見られない趣を作品に与えていて、 ユニークな映画になったなあと改めて感じました。 裕翔くんという洗練された縦糸と、 菅田くんという官能的な横糸で織り上げた、 仕立ての良いスーツをイメージさせるような映画です。
★ 3. エンドのエロス ★
エロスは、フロイト的には生の欲動を意味します。 生きたいという気持ち(エロス)と、死にたいという衝動(タナトス)の 葛藤も、この作品が描いているテーマです。 ごっちは姉、りばちゃんはごっちという圧倒的な存在に取り残され、 どちらも自殺という暴力的な手段で打ちのめされました。 残された方はどうやって、そのかけがえのない者の死に向きあえばいいのか? 映画では、2つの道が提示されます。 ごっちは姉の死に魅入られたまま同じ自死の道を追随し、 りばちゃんは死にきれず、生きねばならないことを受け入れるのです。 両方とも死に向かう道(りばちゃんは一応不確定ですが…)を提示した 原作とは、そこが大きく違います。
不甲斐なく愚かでも、生きる選択が腑に落ちてしまった、 映画のりばちゃんの物語は、“これから”なんだと思います。 これから、この無意味で無慈悲な世界に“反抗”し、 生き続けていかなければならないのです。 まさに、カミュ的な不条理への反抗。 ごっちにサリーを頼まれたことが、 頼まれたようにりばちゃん自身が思えたことが、 彼が生きる世界にも光はあると思える、唯一の救いでした。 監督曰く、「(りばちゃんは最後に己の)愚かさがわかってきた。 サリーを大切にするくらいしか、自分にはできないんだってことを」。 原作ではごっちと結ばれ、その後、3人の輪からあっさり離れていった サリーの立ち位置を、映画で改変してりばちゃんの隣に据えたのも、 性格が随分健気になったことも、その意味でとても納得ができました。 PG-12ながら、現役アイドルが主役の青春映画にふさわしい、 成長譚になったのではないでしょうか。 裕翔くんもラストのシーンが好きだと雑誌インタビューで語っていましたね。
ところで、映画のごっちが瞬く間にスターダムを駆け上ることができたのは、 最初から死の覚悟があったからのように思います。 人間はいつか絶対に訪れる自分の死を、 危機に直面しない限り、何となくずっと来ないような心持ちで、 気づかないふりをして日々過ごしています。 それは崖に向かって歩いているのに目隠しだけして安心しているようなもの。 でも、映画のごっちは、1月24日に死ぬと決めていました。 きっと、その日までやれることを全てやり、少しの余力すら残さずに 超人的なエネルギーで芸能界を駆け抜けたのだと思います。 その覚悟に満ちた神々しいオーラは、誰よりも眩しく、美しく、 万人の目を釘付けにしたに違いありません。
★ 4. 凄キャラたちのエロス ★
実は、62分後のごっちが柳楽優弥くんだったのは予想外でした。 マネージャー田中役かなあと思っていたんです。 最後のシーンしかしゃべらないのに、それまで他人が演じていた役なのに、 一瞬でごっち=柳楽くんと納得できてしまう説得力。 幻覚として無言で立っているだけで(にらむでもなく普通の顔で!)、 生きている者の心をかき乱す圧を与えるなんて、 確かに同世代では柳楽くんしか演じられないでしょう。 柳楽ごっちが幻覚として現れたのは、 りばちゃんのアイデンティティの揺らぎを表していたのだと思います。 「本当の私って何?自分でもわからないのに」 と夏帆ちゃんの役に言わせているように、 「アイデンティティは他者が決めるもの」と監督は言っています。 りばちゃんは一躍時の人になったものの、 他人が自分に望むものが全てごっちを通してで、 誰も自分を見ていないことに気づき、 おのれが何者なのか、わからなくなっていったのだと思います。 サリーだけは、りばちゃん自身を真っ直ぐに見ていてくれたのに。
夏帆ちゃんは後半が凄まじくてビックリ! あのフェロモン全開の甘ったるい猫なで声、ナニッ!? ベッドシーンなしの朝チュン♪だったとしても、 裕翔りばちゃんとの夜がどんなもんだったか想像できちゃいます。 前半で、菅田りばちゃんに押し倒されて泣いていた乙女と同一人物だとは、 とても思えませんでした。 改めて女優ってコワッ!!(w)
★ 5. 菅田エロス!!! ★
菅田くんが前半で演じたりばちゃんは、劇中劇のキャラクターです。 その事実をカモフラージュして、62分間、観客をだますために、 リアル以上の“そこに生きている感”と説得力が求められたのだと思います。 実際、私も原作既読で62分後のトラップは予想がついていたのに、 スクリーンの中でイキイキと生きる菅田くんの印象が鮮烈過ぎて、 役がスイッチしても度数の違うメガネをかけたみたいで、なかなか 裕翔くんに焦点を合わせることができませんでした。 頭ではわかっていても、暫く戸惑い、裏切られた気分になったのは、 心がすっかり騙されていたからだと思います。 菅田くんのりばちゃんは、弱くて愚かで、だから愛しい魅力的なクズでした。 最初は、サリーへの幼稚な恋心と欲を抱いた普通の思春期男子だったのに、 ごっちが売れていくにつれて翳を帯び、荒み始める様子が、 妙にギラギラとした落ち着きのない瞳に生々しく表現されていました。 半身であった、ごっちとの関係変化に対する戸惑いや、 このままじゃ置いていかれるという焦り、 彼の成功を賞賛したいのにメラメラと燻る醜い嫉妬と劣等感、 そんな惨めな自分への激しい嫌悪感。 二律背反の感情に心が引き裂かれていく様子が、 スクリーンの中から痛いほど伝わってきて、 逆にりばちゃんを人間味豊かに魅せているのが印象的でした。 多分、生半可な俳優では、たったあれだけの尺と場面で、 りばちゃんをここまで魅力的に表現することはできなかったでしょう。
そしてもう1人、菅田くんが演じたのは、 見た目も行動もエキセントリックな映画のオリキャラ、成瀬。 奇抜なだけでなく彼の言動と行動と気持ちが合っていない不協��音な感じや、 敵なのか味方なのかわからない人を不安にさせる感じ。 クセの強い難役を、見事なクズっぷりで演じていました。 てか、成瀬ってメチャクチャ才能のある演技派俳優ですよね! いたらファンになってるわ!(w) りばちゃんパートとのギャップで、カメレオン俳優・菅田将暉の実力を 余す所なく発揮していて、凄いもの見せられた!感が半端なかったです。 成瀬の役は、ただの狂言回しにも見えるのですが、 ごっちとの過去を匂わせる発言と、りばちゃんへの異様な執着で、 もしかしたら裏設定があるのでは…と勘ぐってしまいます。 成瀬は、芸能界のごっちの何を知っていたのか?2人はどんな関係だったのか? ごっちに対して何か屈託があって、 だから、代わりにりばちゃんを貶めようとしたんじゃないか?とか。 逆に、ごっちを崇拝していて、 りばちゃんがごっちに成り代わっていることが許せなかったのか?とか。 それとも、主人公には理解不能な存在、つまり世界の不条理の象徴として りばちゃんを翻弄するために置かれたんじゃないか?とか。 妄想は無限に広がりますが、原作にも答えのない寂しさ。 その辺りが描かれなかったのは、仕方ないけれど非常に残念ですね。 彼の不可解な行動の真意を、監督に質問したかったです。
それにしても、1本の映画で全く異なる2人のキャラクターのお芝居が 見られるなんて、菅田くんファンはラッキーでハッピーです。 ヤッター!!\(^o^)/
1粒で2度おいしいと言えば、 ドラマ「民王」の泰山と翔ちゃんの演技が記憶に新しいですが、 それらともまた違う新たなキャラクターを世に生み出してくれました。 (実際はピンクとグレーの方が先ですけどね!) 最早、「演じ分け」などという言葉は必要ないほど、 その者として生きている存在感。 りばちゃん役から成瀬への落差はまことに見事で、 見ていて、くらくら目眩がするほどでした。 先程も言いましたが、頭では理解していても心が追いつかなくて 混乱したのは、物語の構造を見事に演技で成立させ切った、 菅田くんの芝居力が大きいと思います。 こういった真っ直ぐでみずみずしい全身全霊の演技は、 今の若くてパンパンな(心がね)菅田くんだからこそ できるんだろうなあと思います。 本人は全力投球とか絶対に言われたくないだろうけど(笑) そう、アウトプットこそ全て。 いつだって想像を超える姿形、立ち居振る舞い、役の生き様を魅せつけて、 驚きと感動を与えてくれるのが嬉しいです。 これからどんな風に変化していくのか、 役者としてだけでなく人間的なセイチョウも含めて ワクワクドキドキしながら追いかけて行ければと思います。 ε=ヽ(●´Д`)ノマッテー
ところで、おまわりさんコス、サイコーでしたな! もう、「ごっちごっち」でしたよ(笑) それと裕翔くんも含め、赤い学校ジャージ! 着る人のルックス次第でこうも変わるか!?と、ちょっと衝撃でした。
★ 6. 雑記 ★
【表現者の業】 ごっちの姉の死に方が原作から改変されたのは、 ごっち→姉だけでなく、姉→ごっちへのエロスも、 わかりやすく見せるためかなと思いました。 原作の姉の想いは、弟との関係よりも スポットライトを浴びて生きる表現者の“業”と“美学”の部分に 比重が置かれています。 最上の芸を極め、そこからの景色を見られるのならば、 全てを投げ出しても、死んでも構わない。 そんな、常人には高尚なのかエゴイスティックなのか理解し難い欲望。 それは、原作者の加藤くんが第一線のアイドルであり、 芸能の光と影の深淵を身を持って知っているからこそ描き切れた、 真理なのだと思います。 「やるしかない、やらないなんてないから(There’s no reason not to go)」 「やりたいことじゃない、やれることをやりなさい」という言葉は、 長い芸能人生で加藤くん自身が獲得した至言なのでしょう。 それがどれほどの重みを持つかは計り知れないけれど、 彼は、登場人物たちをことごとく、この言葉に殉じさせたのです。 監督が、この重要な部分を大胆にカットして作品を構成したのは、 きっと賛否両論を覚悟してのことだと思います。 【アノ店】 裕翔くんがインタビューで語った“刺激的な場所”は本当に刺激的でしたね。 そして菅田くん成瀬は役の上ですが、とてもイキイキしていました…(爆) 「芸能人はあんな所に行かないので安心して」と裕翔くん言ってましたが…。 【コンテンポラリー】 小林涼子さんは、ごっちのファムファタールにふさわしい 美少女ぶりだったのですが、ダンスはちょっと残念。 バーの立ち姿を見てもクラシック経験者だと思うのですが、 コンテはやったことないのかな?と思いました。 しかも、TIFF直後に吉田都さんの似たシチュエーションの作品 (階段を上ってクライマックス!)を観てしまい比べざるを得なく…。 そりゃ、ロイヤルの元プリンシパルと素人を比べちゃダメですけど。 好きなので、バレエだけは目が厳しくなってしまうのですよねー。 なので、裕翔くんのSPドラマ「バレリーノ」も 期待と不安がフィフティ&フィフティ…。 あ、伊藤さとりさんがガッツリ出演なさっているのも驚きました(w) 【シリアナ】 原作に「ピアスホール」→「アスホール」って台詞があって、 映画にはそのシーンはなかったんです。 でも、別シーンの英語字幕にASSHOLEがあったので、 もしかしたら訳者が原作を読んでいて、遊びで入れたのかな?と思いました。 フツーの捨て台詞系下品スラングなんで偶然かもですが。 主題歌のファレノプシスが英語だったのもビックリしました!
【ロケーション】 ロクシタンカフェをはじめ、渋谷を中心に結構知っている場所が ロケ地になっていて、聖地巡りには事欠かなさそうですね。 知り合いの事務所が入っているビルも映っていて、 一気にテンション上がりました(笑) 【縊死】 「ピンクとグレー」の翌日に、同じくTIFFで「残穢」も見たのですが、 どちらも首吊りが重要なファクターで。 2日間で、どんだけ首吊りシーンを見せられたことか! ピングレは菅田くんの、残穢は竹内結子さんの、 テンションの低いナレーションが、同様に印象的でした。
★ 7. おわりに ★
まだ1回目なので、これから回を重ねるごとに違う感想を持つんじゃないかな? 生きる、死ぬ、愛する、人生、自分、他人、世界… そんな普遍的なテーマに触れている作品だからこそ、 観る人によって、観る時によって、色々な見方が楽しめる映画だと思います。 来年の公開が楽しみです!!
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syumidas · 8 years
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ユリイカ2015.10月号「マンガ実写映画の世界」覚書
「暗殺教室」「セトウツミ」をはじめ、 今後も「マンガ実写映画」を観る機会は多そうなので、 都度、チェックするポイントとして、 気になった箇所を書き出してみました。
マンガ実写化には、良い意味での“換骨奪胎”が 必要不可欠であるのは、作り手も批評家も共通認識のようです。 どれだけ巧みに完成度高く、それをやり遂げるか…。 考える程、オリジナルものより作業も人員も気遣いも むしろ膨大になる印象を受けました。(´ヘ`;Aタイヘンダー
★★★ 覚書 ★★★
◎大根仁 映画監督
「原作ものを脚本家、映像化するときの心得は?」 橋本忍の本の伊丹万作とのやりとり。 原作を一匹の牛に喩えて、牛をとことん観察する。観察して急所を見つけたら、そこに入っていって一撃で殺す。そうして血だけ抜いて帰ってくる。欲しいのは、血だけ。 それ(血)によって、また別の生き物を作り出す。
コスプレはしないように心がけている。 コスプレになってしまうと、原作と原作ファンに対する媚びになってしまう。
オリジナル作品で、面白いものが、一番偉いとも思えない。
◎渡邉大輔 映画研究批評
ゼロ年代以降の視覚文化論的背景をまとめると、 ・デジタル化→高度な視覚化を可能に。 ・ネットワーク化(データ化)→個々のメディウムの溶解。ユーザー体験もオープンエンドでノンリニアに。 そんな時代のエンターテイメントにおいて、物語コンテンツの規範的モデルや素材として選ばれているのが、世界観が既にしっかり築かれていて、消費者がその中で存分に遊ぶことができるストーリーマンガである。
近年のマンガ実写化作品を観る���、人間と非人間のハイブリディティ(サイボーグや、モノのうごめき)を主人公や主題として扱っている作品が多い(進撃の巨人、寄生獣、GANTZ)
マンガとデジタル映像、メディアの特質として両者に共通するのは、「可塑性」と「ハイブリディティ」だ。 ・マンガ的図像には通常の絵画的図像にはない「可塑性」があり(通常のパースや物理法則に則らない表現をもリアルに見せられる)、命を持つものも持たざるものもインクの染み一つでいっしょくたに存在させることができる「ハイブリディティ」の特質を持つ。 ・デジタル映像もまた、3DCGやデジタルアニメーションによって、バーチャルで「可塑的」な運動をリアリティ豊かに見せることに成功している。そして、巨人やミギーなど、ただのイメージを人間といっしょくたに動かして存在させてしまう「ハイブリディティ」の特質を持つ。
こうした映画文化は、今の世の中の状況を反映しているだろう。 自分の思考、記憶、感情のかなりの部分をスマホに譲り渡している人間の生活。 人間と技術が共生体になっている、深い意味でのサイボーク化した人間の姿。 その一方で、AIなどのモノはネットワーク化が進んで、より自律的、能動的に人間の圏域を脅かしつつある。 マンガ実写化は、私たちの新たなモノとのふれあい方や関わり方、新たな文化的リアリティを体現しているのかもしれない。
◎三輪健太朗 マンガ研究
マンガをカリカチュアライズと捉えるならば、マンガ実写は困難をはらむ。 予め虚構化されることで成立した表現を、強引に現実へ差し戻す試みだからだ。
マンガ実写では、リアリズムの記号的描写を一定の水準に「固定」した「お約束」を積み重ねることで、その世界のリアリティを出す。 それは、様式美として見せるリアルだ。
キャラクターと俳優のあり方を巡る問題。 同じマンガ原作である2.5次元ミュージカルとの違いは、舞台俳優(の芝居)と映画俳優(の芝居)の相違である。 2.5次元ミュージカルの俳優は自らの身体をキャラクターの依代にすることで、別の人物を演じることに成功する。 同時に、それを観る観客にも、俳優とキャラクターを二重写しにして見る視覚の鑑賞態度が要求されるのだ。 ところが映画にはそんな鑑賞態度はない。 映画の登場人物は、俳優とともに生き、俳優とともに死ぬ。 映画の登場人物は、それを演ずる俳優から離れて美学的に存在することはない。
映画にも、キャラクターと俳優を二重写しにして観るような鑑賞態度が育まれたら、マンガ実写映画のマンガ的リアリズムも変わるだろう。
◎本郷奏多 俳優
なるべく努力して原作に寄せる作業を強くした方が、評価されることも多いと感じている。
原作ファンが何を好きかというのは変えちゃいけない。
キャラクターごとに使う声の音域を変えている。
幼稚園くらいから全く髪型を変えていない。 僕はずっとイメージを変えてこなかったからこそ、これをやらせるんだったら本郷だなと思ってもらえることも多分ある。 こういう一つのスタイルもあっていいのかな、と今では思っています。
◎泉信行 マンガ研究
漫画は虚像に拠って虚構を作ろうとする。 映画は実像によって虚構を作ろうとする。 漫画を映画にするということは、虚像を実像に変えることを意味するのだろう。
◎藤津亮太 アニメ評論
マンガ実写化の分水嶺は2002年ピンポン。2.5次元感覚で作られている。
「外見だけ似せること」に力を入れただけではキャラクターというのは成立しない。 肉体を持った役者が演じる以上、「役者がそのキャラクターを演じる手がかりとなる内面」が用意され、かつそれが観客にも共有されないと、映画やドラマの中でキャラクターが生きてこない。 この内面があるからこそ、役者の身体を通じて、キャラクターが実体化できるのである。
るろうに剣心は一つの基準点。 キャラクターの記号性はできる限り拾い、リアリティラインを実写寄りに変更。 殺陣に凝ることで説得力を持って視覚化した。
◎篠儀直子 翻訳者 「マンガ」と「映画」と綾野剛の「身体」
以下全て、綾野剛に関する言及。
役の外見を決め、自分とは全く別人の姿として現場に入れば、役が「下から上がってくる」のを待つだけ。 上から降りてくるのではなく、役の外見をまとって現場に入り、現場にインスパイアされて出てくるものを表現すること。
演じるキャラクターの立場や性格がすぐに観客に伝わる、曖昧なところの少ない演技を選択している。
マンガが映画に転じるに当たって付け加わることになる「運動」の内容を多様化し、映画ならではのスペクタクルを実現している。
マンガ実写映画においてキャラクターを体現する存在である俳優は、まさにマンガと映画のインターフェイスに位置していると言えるが、これについて考えるべき論点は膨大にあるだろう。
◎大友啓史 映画監督
実写化されるならキャストはこの人!みたいな議論はあふれているが、それは一義的には外見が似ているということが優先されている。 作り手は全部の役のコラボレーションによって考えていくから、似ていることは第一義ではない。 ただ似ていてもダメ。 キャスティングにしてもビジュアルにしても技術がいる。
カメラ前で試行錯誤しながら原作に寄せていく。 しかし、寄せるのが目的ではなく、原作を端緒にして、生きたキャラクターを作るのが目的。 しかも見てくれだけでなく、役者が鏡で自分を見た時、「俺、イケてる」と思えないと、俳優も自信を持ってその役を演じ切ることができない。
一人の作家(マンガ家)の発想から、僕らはどうやって飛躍して自律し、自立していくのか。 作品性を同じレベルで競い合って、二次元の発想を再現しようとした瞬間、ダメになる。 こちら側の作品として地に足の着いた、しかも似て非なるものを作らなくちゃいけない。 期待を裏切らず、予想を裏切っていく。 予想を裏切って、どこかで「おおっ!」と思わせないと、マンガ原作は絶対に成功しない。
佐藤健には、観ている人の期待に応える芝居をしなきゃいけない。そこから外しちゃいけないんだという想いがある。 演じるだけじゃなく、魅せるということを客観的に意識して演じている。 現場に入り込みながら、原作のスタンスに立ち戻って「いいのそれ?」と言っているもう一人の自分が常にいないと、マンガ原作というのは危険である。
今は映像もマンガ的な虚構が平然と入り込んでいる。(ど根性ガエル、暗殺教室) それを許容してしまう感性によって、僕らの作るフィクションの許容量を押し広げて、作るものの幅を広げていく可能性もあるが、そこに甘えているとハリウッドのリアリティには勝てない。 舞台と違って映画はナチュラルアクティングによってリアルに写しとる、その映画がフィクションをどう押し戻していくのか、そういう部分を大切にしたい。
フィクションを、僕の持っているリアルな設定の中にきちんと落としこんで、嘘を本当にあったことのように魅せていく。 そういうスタンスで実写化と向き合っていきたい。
◎小田切博 ライター
オリジナルコンテンツの再現性を問題にするような視点自体、漫画や映画が「文芸」メディアとして扱われるようになって以降の、比較的最近定着した考え方なのでは?
◎堀禎一 映画監督
基本、映画っていうのはフィクションを演じているけど、それを演じている人たちのドキュメンタリーなんだから。 特に若い俳優は短い現場の期間でものすごい顔が変わっていく。
若い役者さんだったら、まず動く楽しみとか、こんなに動いて良くて、こんなに自分で表現してもいいんだっていうことを、まず感じてもらわなきゃいけないでしょう。 そして、好きに動ける怖さも知らないと。
◎トミヤマユキコ マンガ研究
少女マンガの実写化において、俳優部はキャラクターとしての再現性を高めつつ、観る者の胸キュンを担保しなければならない。 なるべく似せる、そして萌えさせる。それが俳優部のミッションである。
少女マンガの映画化急増の理由について、製作者側の3つのメリット。 1.ターゲットが明確で、2.低予算の制作費で若手が育成でき、3.原作の基礎票がある。 マーケティング的にはベターな選択。 但し、ファンによる減点法的鑑賞が介入してくるデメリットもある。
のだめカンタービレ、ホタルノヒカリの成功は。 ヒロインが恥を捨ててやり切る身振りが、映画版の成功に繋がっている。 マンガ的であることをヒロインが全力で引き受けているかどうかが重要。
ヒロインに相対する男たちに要請されるマンガ的身振りとは。 基本的にはヒロイン同様、恥を捨ててやり切ることにあるが、バカがやれるかどうかよりも、過剰なまでの愛情表現をやれるかどうかに重きが置かれている。 大の大人の俳優が男子高生を演じるという、どう考えてもムリめな状況を、彼らは全力で押し切ろうとする。でも、それでいいし、それしか道はない。
ある少女マンガが映画化される際に求められているのは、マンガ的であることを引き受けられるヒロインであり、そんなヒロインのたくましさを生かせるイケメンであって、重要なのは男女間の程よいパワーバランスなのだ。 そして、そのパワーバランスを統べるのは、何より彼らの身体そのものである。 選ばれ、愛される受動性の中に、私こそが選び、愛しているのだという能動性がチラつくようなヒロインの身体性に着目しつつ、そんなヒロインに壁ドン的愛情表現で迫るイケメンの身体性を愛でる。 そうすることが再現性を気にするあまり殺伐としがちな減点法的鑑賞から私たちを解放してくれるのではないか。
★★★ 所感 ★★★
菅田くんがマンガ実写に向いているなと思うのは 彼が持つ可塑性=思う形に変幻できる、器のしなやかさと、 特撮によって培われたバーチャル映像との親和性、 そして、膨大なマンガ読書体験にあるような気がします。
コマ(止め絵)から立ちのぼる キャラクターらしさを表現する「運動」や、 紙の上には描かれない、コマとコマの間を埋める「運動」を 多彩にイメージングできる能力。
しかも、マンガをリスペクトしているからこそ、 原作ファンやキャラクターファンが大事にしている部分や 魅せてほしいポイントを直感的に察知できる。
もちろん、それらを演技として成立させるチカラもある。 たとえ観ている人にとっての解釈と違っていても 「これはこれでアリだな」と説得するためには、 観客をスクリーンの夢から覚めさせない演技力が 俳優には必要不可欠なのだと思います。
大友監督が言うように、「期待を裏切らず、予想を裏切る」。 それを可能にする素養があると思うのです。
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syumidas · 8 years
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映画「ピンクとグレー」   @東京国際映画祭の感想
〜書くしかない。書かないなんてないから。〜
2015年10月28日に東京国際映画祭にて上映された、 映画「ピンクとグレー」の感想です。  行定勲監督/加藤シゲアキ原作  中島裕翔・菅田将暉・夏帆・柳楽優弥・岸井ゆきの出演
完全ネタバレしておりますので、ご注意を!!
※この映画は、初回は絶対ネタバレを見ないで観た方が楽しいです。
 釜山やTIFFの先行上映で、既に観た方のみ、どうぞ。
それと、アホみたいに長文です。 菅田くんの役所だけでしたら、★ 5. 菅田エロス!!! ★だけ、 お読みいただければよろしいかと思います。 色々と穿った見方をしていますが、一個人の愉しみということで ご理解いただけると幸いです。つまり、チョコリエッタの時と同じく、 ※文章はイメージです!
★ 1. はじめに ★
TIFFのティーチインを仕切られた司会の方が、この映画を 「構造としての面白さ」✕「多様な愛」✕「不条理」という 3つの要素で簡潔に表現していましたが、まさに、それ。
行定勲監督自身が「実験的」と述べているように、 原作を忠実に映像化した作品ではなく、 一つの原作解釈による映画表現として、 とても面白く完成された作品になっていました。
それができたのも、原作の加藤シゲアキくんの 処女小説「ピンクとグレー」に、 様々な解釈が許される懐の深さがあったからだと思います。
★ 2. エゴとエロス ★
この映画が最も鮮やかに描き出したのは、 監督が原作を読んで感じた「多様な愛=エロス」だと思います。 エロスと言っても、人妻のエロス〜ハァハァ(´д`*)的な 単なるスケベ、ヤラシイという意味ではありません。 エロスとは、愛、恋愛、性愛。 ごっちとりばちゃんの親友を超えた同性愛的なエロス、 ごっちと姉の姉弟を超えた近親相姦的なエロス、 りばちゃんとサリーの友人を超えた共依存的なエロスには、 どれも愛と危うさと官能が漂っています。
エロスとは、無償の愛のように深く優しい、穏やかなものではありません。 自分の中で肥大する、どうしようもない孤独や満たされなさを埋めるために 相手を貪る、自己中心的で身勝手な愛のこと。 例えば、映画のりばちゃんがサリーに求めた慰めのように。
あるいは、相手の心に自己を永遠不滅に焼き付けるために 傷つけることも厭わない、嵐のような愛のこと。 死者ほど生者を強力に縛るものはありません。 自死をもって、姉がごっちに魅せつけた圧倒的な美しさや、 ごっちがりばちゃんを引きずり上げたスターの座も、 相手の中で自分が永遠になることを望んだ エゴイスティックで残酷な愛のように思えます。 愛しい相手の中に自分をねじ込んだという快感は、 自らの遺伝子を次世代に託そうとする性愛に近いのかもしれません。
監督お墨付きの(w)ごっちとりばちゃんの同性愛っぽい関係は、 原作でも映画でも重要なエッセンスです。ムフフ。 自殺によってりばちゃんを縛り、自分の身代わりにスターダムに押し上げ、 消えない傷痕のように彼の中で生き続けたいと望んだ、ごっちの究極の愛… …「変態じゃないかっ!」by貝原さん りばちゃん→ごっちのエロスは、 原作では自殺の後始末をするシーンから強く感じたのですが、 残念ながら映画では省かれていました。まあ、仕方ないよね…。 しかし、その分を埋めて余りある、 菅田くんの目が語るエロス!エロス!エロス!(笑) りばちゃん役として、成功してゆくごっちを見る時の、 喜びとリスペクトと妬ましさがないまぜになった熱い視線。 モノクロの世界で、成瀬としてりばちゃんを見る時の、 残酷に見下しながらも好奇に満ちた乾いた視線(グラサン付き)。 それらが、映画に官能的な香りを与えているのです。
対照的に裕翔くんから漂うのは、上品でノーブルな佇まい。 菅田くんが評した高級食材感を遺憾なく発揮して、 ややもするとドロドロしがちな世界観をスマートに格上げしています。 「エロスを描くとしても、今の時代に濃密なエロスはそぐわない」 と監督が言っていたように、 エロスにあふれながらも空虚感が漂うドライで都会的な青春は、 裕翔くんが本来持っているカラーと、 今の東京の、最もスノッブな芸能界という舞台を切り取った 今井孝博カメラマンのスタイリッシュな映像によるものだと思います。 菅田くんと裕翔くん、異質な2人の絶妙なバランスは、 演技派俳優同士のバチバチでは絶対に見られない趣を作品に与えていて、 ユニークな映画になったなあと改めて感じました。 裕翔くんという洗練された縦糸と、 菅田くんという官能的な横糸で織り上げた、 仕立ての良いスーツをイメージさせるような映画です。
★ 3. エンドのエロス ★
エロスは、フロイト的には生の欲動を意味します。 生きたいという気持ち(エロス)と、死にたいという衝動(タナトス)の 葛藤も、この作品が描いているテーマです。 ごっちは姉、りばちゃんはごっちという圧倒的な存在に取り残され、 どちらも自殺という暴力的な手段で打ちのめされました。 残された方はどうやって、そのかけがえのない者の死に向きあえばいいのか? 映画では、2つの道が提示されます。 ごっちは姉の死に魅入られたまま同じ自死の道を追随し、 りばちゃんは死にきれず、生きねばならないことを受け入れるのです。 両方とも死に向かう道(りばちゃんは一応不確定ですが…)を提示した 原作とは、そこが大きく違います。
不甲斐なく愚かでも、生きる選択が腑に落ちてしまった、 映画のりばちゃんの物語は、“これから”なんだと思います。 これから、この無意味で無慈悲な世界に“反抗”し、 生き続けていかなければならないのです。 まさに、カミュ的な不条理への反抗。 ごっちにサリーを頼まれたことが、 頼まれたようにりばちゃん自身が思えたことが、 彼が生きる世界にも光はあると思える、唯一の救いでした。 監督曰く、「(りばちゃんは最後に己の)愚かさがわかってきた。 サリーを大切にするくらいしか、自分にはできないんだってことを」。 原作ではごっちと結ばれ、その後、3人の輪からあっさり離れていった サリーの立ち位置を、映画で改変してりばちゃんの隣に据えたのも、 性格が随分健気になったことも、その意味でとても納得ができました。 PG-12ながら、現役アイドルが主役の青春映画にふさわしい、 成長譚になったのではないでしょうか。 裕翔くんもラストのシーンが好きだと雑誌インタビューで語っていましたね。
ところで、映画のごっちが瞬く間にスターダムを駆け上ることができたのは、 最初から死の覚悟があったからのように思います。 人間はいつか絶対に訪れる自分の死を、 危機に直面しない限り、何となくずっと来ないような心持ちで、 気づかないふりをして日々過ごしています。 それは崖に向かって歩いているのに目隠しだけして安心しているようなもの。 でも、映画のごっちは、1月24日に死ぬと決めていました。 きっと、その日までやれることを全てやり、少しの余力すら残さずに 超人的なエネルギーで芸能界を駆け抜けたのだと思います。 その覚悟に満ちた神々しいオーラは、誰よりも眩しく、美しく、 万人の目を釘付けにしたに違いありません。
★ 4. 凄キャラたちのエロス ★
実は、62分後のごっちが柳楽優弥くんだったのは予想外でした。 マネージャー田中役かなあと思っていたんです。 最後のシーンしかしゃべらないのに、それまで他人が演じていた役なのに、 一瞬でごっち=柳楽くんと納得できてしまう説得力。 幻覚として無言で立っているだけで(にらむでもなく普通の顔で!)、 生きている者の心をかき乱す圧を与えるなんて、 確かに同世代では柳楽くんしか演じられないでしょう。 柳楽ごっちが幻覚として現れたのは、 りばちゃんのアイデンティティの揺らぎを表していたのだと思います。 「本当の私って何?自分でもわからないのに」 と夏帆ちゃんの役に言わせているように、 「アイデンティティは他者が決めるもの」と監督は言っています。 りばちゃんは一躍時の人になったものの、 他人が自分に望むものが全てごっちを通してで、 誰も自分を見ていないことに気づき、 おのれが何者なのか、わからなくなっていったのだと思います。 サリーだけは、りばちゃん自身を真っ直ぐに見ていてくれたのに。
夏帆ちゃんは後半が凄まじくてビックリ! あのフェロモン全開の甘ったるい猫なで声、ナニッ!? ベッドシーンなしの朝チュン♪だったとしても、 裕翔りばちゃんとの夜がどんなもんだったか想像できちゃいます。 前半で、菅田りばちゃんに押し倒されて泣いていた乙女と同一人物だとは、 とても思えませんでした。 改めて女優ってコワッ!!(w)
★ 5. 菅田エロス!!! ★
菅田くんが前半で演じたりばちゃんは、劇中劇のキャラクターです。 その事実をカモフラージュして、62分間、観客をだますために、 リアル以上の“そこに生きている感”と説得力が求められたのだと思います。 実際、私も原作既読で62分後のトラップは予想がついていたのに、 スクリーンの中でイキイキと生きる菅田くんの印象が鮮烈過ぎて、 役がスイッチしても度数の違うメガネをかけたみたいで、なかなか 裕翔くんに焦点を合わせることができませんでした。 頭ではわかっていても、暫く戸惑い、裏切られた気分になったのは、 心がすっかり騙されていたからだと思います。 菅田くんのりばちゃんは、弱くて愚かで、だから愛しい魅力的なクズでした。 最初は、サリーへの幼稚な恋心と欲を抱いた普通の思春期男子だったのに、 ごっちが売れていくにつれて翳を帯び、荒み始める様子が、 妙にギラギラとした落ち着きのない瞳に生々しく表現されていました。 半身であった、ごっちとの関係変化に対する戸惑いや、 このままじゃ置いていかれるという焦り、 彼の成功を賞賛したいのにメラメラと燻る醜い嫉妬と劣等感、 そんな惨めな自分への激しい嫌悪感。 二律背反の感情に心が引き裂かれていく様子が、 スクリーンの中から痛いほど伝わってきて、 逆にりばちゃんを人間味豊かに魅せているのが印象的でした。 多分、生半可な俳優では、たったあれだけの尺と場面で、 りばちゃんをここまで魅力的に表現することはできなかったでしょう。
そしてもう1人、菅田くんが演じたのは、 見た目も行動もエキセントリックな映画のオリキャラ、成瀬。 奇抜なだけでなく彼の言動と行動と気持ちが合っていない不協和音な感じや、 敵なのか味方なのかわからない人を不安にさせる感じ。 クセの強い難役を、見事なクズっぷりで演じていました。 てか、成瀬ってメチャクチャ才能のある演技派俳優ですよね! いたらファンになってるわ!(w) りばちゃんパートとのギャップで、カメレオン俳優・菅田将暉の実力を 余す所なく発揮していて、凄いもの見せられた!感が半端なかったです。 成瀬の役は、ただの狂言回しにも見えるのですが、 ごっちとの過去を匂わせる発言と、りばちゃんへの異様な執着で、 もしかしたら裏設定があるのでは…と勘ぐってしまいます。 成瀬は、芸能界のごっちの何を知っていたのか?2人はどんな関係だったのか? ごっちに対して何か屈託があって、 だから、代わりにりばちゃんを貶めようとしたんじゃないか?とか。 逆に、ごっちを崇拝していて、 りばちゃんがごっちに成り代わっていることが許せなかったのか?とか。 それとも、主人公には理解不能な存在、つまり世界の不条理の象徴として りばちゃんを翻弄するために置かれたんじゃないか?とか。 妄想は無限に広がりますが、原作にも答えのない寂しさ。 その辺りが描かれなかったのは、仕方ないけれど非常に残念ですね。 彼の不可解な行動の真意を、監督に質問したかったです。
それにしても、1本の映画で全く異なる2人のキャラクターのお芝居が 見られるなんて、菅田くんファンはラッキーでハッピーです。 ヤッター!!\(^o^)/
1粒で2度おいしいと言えば、 ドラマ「民王」の泰山と翔ちゃんの演技が記憶に新しいですが、 それらともまた違う新たなキャラクターを世に生み出してくれました。 (実際はピンクとグレーの方が先ですけどね!) 最早、「演じ分け」などという言葉は必要ないほど、 その者として生きている存在感。 りばちゃん役から成瀬への落差はまことに見事で、 見ていて、くらくら目眩がするほどでした。 先程も言いましたが、頭では理解していても心が追いつかなくて 混乱したのは、物語の構造を見事に演技で成立させ切った、 菅田くんの芝居力が大きいと思います。 こういった真っ直ぐでみずみずしい全身全霊の演技は、 今の若くてパンパンな(心がね)菅田くんだからこそ できるんだろうなあと思います。 本人は全力投球とか絶対に言われたくないだろうけど(笑) そう、アウトプットこそ全て。 いつだって想像を超える姿形、立ち居振る舞い、役の生き様を魅せつけて、 驚きと感動を与えてくれるのが嬉しいです。 これからどんな風に変化していくのか、 役者としてだけでなく人間的なセイチョウも含めて ワクワクドキドキしながら追いかけて行ければと思います。 ε=ヽ(●´Д`)ノマッテー
ところで、おまわりさんコス、サイコーでしたな! もう、「ごっちごっち」でしたよ(笑) それと裕翔くんも含め、赤い学校ジャージ! 着る人のルックス次第でこうも変わるか!?と、ちょっと衝撃でした。
★ 6. 雑記 ★
【表現者の業】 ごっちの姉の死に方が原作から改変されたのは、 ごっち→姉だけでなく、姉→ごっちへのエロスも、 わかりやすく見せるためかなと思いました。 原作の姉の想いは、弟との関係よりも スポットライトを浴びて生きる表現者の“業”と“美学”の部分に 比重が置かれています。 最上の芸を極め、そこからの景色を見られるのならば、 全てを投げ出しても、死んでも構わない。 そんな、常人には高尚なのかエゴイスティックなのか理解し難い欲望。 それは、原作者の加藤くんが第一線のアイドルであり、 芸能の光と影の深淵を身を持って知っているからこそ描き切れた、 真理なのだと思います。 「やるしかない、やらないなんてないから(There’s no reason not to go)」 「やりたいことじゃない、やれることをやりなさい」という言葉は、 長い芸能人生で加藤くん自身が獲得した至言なのでしょう。 それがどれほどの重みを持つかは計り知れないけれど、 彼は、登場人物たちをことごとく、この言葉に殉じさせたのです。 監督が、この重要な部分を大胆にカットして作品を構成したのは、 きっと賛否両論を覚悟してのことだと思います。 【アノ店】 裕翔くんがインタビューで語った“刺激的な場所”は本当に刺激的でしたね。 そして菅田くん成瀬は役の上ですが、とてもイキイキしていました…(爆) 「芸能人はあんな所に行かないので安心して」と裕翔くん言ってましたが…。 【コンテンポラリー】 小林涼子さんは、ごっちのファムファタールにふさわしい 美少女ぶりだったのですが、ダンスはちょっと残念。 バーの立ち姿を見てもクラシック経験者だと思うのですが、 コンテはやったことないのかな?と思いました。 しかも、TIFF直後に吉田都さんの似たシチュエーションの作品 (階段を上ってクライマックス!)を観てしまい比べざるを得なく…。 そりゃ、ロイヤルの元プリンシパルと素人を比べちゃダメですけど。 好きなので、バレエだけは目が厳しくなってしまうのですよねー。 なので、裕翔くんのSPドラマ「バレリーノ」も 期待と不安がフィフティ&フィフティ…。 あ、伊藤さとりさんがガッツリ出演なさっているのも驚きました(w) 【シリアナ】 原作に「ピアスホール」→「アスホール」って台詞があって、 映画にはそのシーンはなかったんです。 でも、別シーンの英語字幕にASSHOLEがあったので、 もしかしたら訳者が原作を読んでいて、遊びで入れたのかな?と思いました。 フツーの捨て台詞系下品スラングなんで偶然かもですが。 主題歌のファレノプシスが英語だったのもビックリしました!
【ロケーション】 ロクシタンカフェをはじめ、渋谷を中心に結構知っている場所が ロケ地になっていて、聖地巡りには事欠かなさそうですね。 知り合いの事務所が入っているビルも映っていて、 一気にテンション上がりました(笑) 【縊死】 「ピンクとグレー」の翌日に、同じくTIFFで「残穢」も見たのですが、 どちらも首吊りが重要なファクターで。 2日間で、どんだけ首吊りシーンを見せられたことか! ピングレは菅田くんの、残穢は竹内結子さんの、 テンションの低いナレーションが、同様に印象的でした。
★ 7. おわりに ★
まだ1回目なので、これから回を重ねるごとに違う感想を持つんじゃないかな? 生きる、死ぬ、愛する、人生、自分、他人、世界… そんな普遍的なテーマに触れている作品だからこそ、 観る人によって、観る時によって、色々な見方が楽しめる映画だと思います。 来年の公開が楽しみです!!
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syumidas · 9 years
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映画「明烏」DVD&Blu-ray 発売イベント @タワーレコード渋谷店
基本はオフレコということなので、
他人ネタ以外の、菅田くん関連の安全な話をふたつだけ。
ムロさんの話で、菅田くんが大阪のmuro式を見に来てくれて、
その際、最高の褒め言葉をくれたんだよね!と。
曰く、「出たかったー!」と。
「楽しかった」「面白かった」ではなく、「出たかった」。
その言葉が竜也くんもムロさんも、何より嬉しかったそうです。
その想い���いつか、ぜひとも叶えてほしいですね。
muro式の将暉くん絶対面白い!!
もう一つは、DVD特典に入らなかった裏?特典があった話。
コメンタリーを聞いた方はラストシーンあたりで、
ムロ「それでは歌っていただきましょう、若葉竜也で『全然まだまだ』!」
菅田「良いんですよ〜竜也くんの歌声」という話から、
竜也くんが歌う方向に話が広がり、竜也くんも嫌々ながらも
了承したような形になったのを覚えていると思います。
結局、菅田くんにまで「参加しろ」「デュエットしろ」
と矛先が向かったため、最終的に「ま、なんて冗談もね?」
と菅田くんが締めちゃって濁した感じになっていますが、
実は、コメンタリーで「オレ今日撮りに行きます!竜也くん家に」
とノリノリで宣言していた通り、
竜也くん宅でバッチリ収録したんだそうです。
そこには太賀くんもいて、作詞を菅田くんが、
作曲・弾き語りを竜也くんが担当。
菅田くん太賀くんの2カメで録画して、
事務所やキャストに動画を送ったそうです。
ところが、残念なことにスタッフにはそのままスルーされてしまい、
特典に入ることもなかったわけです。。。。ひ・ど・い!
イベント参加してくれた方には特別に…と、
吉岡ちゃんがスマホに入っていた動画を聞かせてくれました。
菅田・太賀カメラワークも見たかったけど、さすがに小さすぎて…
それでも竜也くん渾身のギター弾き語り『全然まだまだ』w
十分に堪能させていただきました!
歌い出しは「♪まぁだまだぜんぜん〜、もっとやれ〜るよお〜♪」って感じ。
コメンタリーの吉岡ちゃんの希望通り、
のんびりしながらもエールと元気を送る歌詞になっていました。
さすが、ギリギリの詩人(でしたっけ?)菅田将暉!
ムロさんが覚えちゃって、さんざん竜也くんモノマネで歌ってました。
動画流している間、竜也くんは舞台の隅で膝抱えて
じっと耐えて下向いていて、めっちゃ可愛かったですwww
動画の中でも、歌い終わって「どう?」「どう?」「ね、どう?」
と撮っている菅田くんや太賀くんに何度も聞くんだけど、
結構長い時間、泳がされていて、そこもカワイソ可愛かった(笑)
ちなみにムロさんが、若葉くんの歌を「ニコ動に流そう」
と言ってくれたんだけど、実現するのかしら?
できれば流して欲しいけどなあ〜。
イベントの最後の一言も、
ムロさん→吉岡ちゃん→福田監督→若葉くんでシメ!という
鬼畜の順番でw、しかも、スタッフもよくおわかりのようで、
若葉くんにだけわざわざピンスポ当ててくれて、
最後までイジられまくりでした。
でも、それらを許しているのは、竜也くんの懐の深さだと思います!
(最後に取ってつけたようになってるけど本心!)
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syumidas · 9 years
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映画芸術 450号 の感想
「映画芸術」ざっくり読んだけど、何でこの雑誌同人誌じゃないんだろ?というのが正直な所。 でも直ぐに、いや、こういう「ナニ」ーみたいな雑誌が書店に並んでるって事実が、この世界がそう捨てたもんじゃないってことを証明しているのだわと思い直しました。
どういう雑誌かは、巻末の編集後記のページだけ読めばわかると思います。 まあ女性蔑視はひどい。第一印象は「問題のあるレストラン」の雑誌版だあと(w)
ただ読む前は、何で「そこのみにて光輝く」がワーストワンなの!?もっとひどい映画いっぱいあるのに!と思っていましたが、そういうことではないのだ、というのは理解しました。
注目せざるを得ないから、でも許せないからって意味でのワーストワンなんですね。 編集長評に“作り手の「思想」がイヤだと思った”ってあって、それが全てを物語っているなと思いました。 私も映画芸術の思想がイヤだもの。
SEXを人間生理として謳い上げろと言いながら、男側の過剰な幻想が見え隠れするマッチョな思想はそれこそ時代錯誤。 何で思想が左の人も右の人も、行き着くとこういうところだけは似てくるんだろう。メビウスの輪みたい。
映画と批判精神が切っても切れないのは当たり前で、そこが甘いというのは、各々のセンサーレベルがあるだろうから、納得はできなくても理解はできます。 でもやっぱり、大衆を馬鹿だって言う奴こそ、馬鹿なんだと私は思う。
ただ、最後の一文「だから、受けたのだろう。」ってのは、笑っちゃったけど。 何でしょうね、憎まれ口叩きながら、ついルサンチマンがポロリと出ちゃうところは可愛げがあると言っていいのかな?
菅田くんのインタビューは良い話も引き出しているのだけど…いや、答える方が上手に話を深めてあげているんです。 とにかく質問者の決めつけが鼻について、インタビュアーとしてソレどうなの?と読んでて原辰徳。
インタビューの最後の方の発言は、いま結構興味があるトコロなので、言及してくれたのは嬉しかったです。 それは今後、大きなプロジェクトで主役を張ることにも繋がっていくと思うから。 でも、ここまで明確に課題発言できるってことは、もしかして予定でもあるのかしら?と期待しちゃう!
他にも、選者の一人である村上賢司氏のそこのみ評にあった菅田くんへの賛辞も嬉しかったです(P42)
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syumidas · 10 years
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映画『チョコリエッタ』@TIFF の感想。
★ ネタバレ感想なのでお気をつけください  ★
★ 私の独断と偏見と勘違いに基づく感想です ★ 
※文章はイメージです。←で切り抜けられるかな?
・最初に言っておきたいのが、この映画には2つの見方があるということです。1つは青春成長映画、もう1つは反核反戦映画。
同じセリフでも視点を変えることで、その意味は違ってきます。トリックの効いた本格ミステリーみたいな仕掛けがあるのです。
その意味で、監督は、言葉にはかなりのこだわりがある方なんだろうなと伺えます。練られた、というべきか。
現場でセリフを足したり膨らましたりしないと仰っていたのも、脚本にこだわりと自信があるからなのだと思います。
さて、本来は、視点ごとに二つのお話にまとめればわかりやすいのですが、目的は自分の覚書なので気づいたことからテキトーに箇条書きしていきます。わかりにくくてもご容赦。
・まず2回目の鑑賞で、最初の方のテロップの「2010年夏」に気づいてはっとしました。
今の知世子が10年後だったら、この映画の話は2020年じゃないか!現代よりもっと先じゃないか!と。
その後、監督Q&Aで11年後ということが発覚。つまり2021年の近未来のお話だったのです。
ということは、幼い知世子が事故に遭い、彼女の世界がガラガラと崩れ落ちた7ヶ月ほど先に、あの、3.11が起きるのです。
風間監督が再び「撮らねば」と思うきっかけになった、あの出来事が。
・そして物語は私たちが今いる「2014年」を追い越し、世界は変容します。
高校生の知世子や浪人生の正宗先輩が生きているのは、私たちの知らない近未来の世界です。
知らないけど、「もしも」の世界だけど、でも絶対にこうならないとは言い切れない、現代の延長線上にある世界。
・その近未来は、今の日本のどこで起きてもおかしくないことがすでに起きてしまっていて、日本人はみな一様に被爆し、それがアタリマエノ日常になってしまっている世界だと監督は仰いました。
しかも、その近未来に生きる人たちは、誰もその話をしません。その言葉は言っちゃいけない。考えちゃいけない。ふたをして閉じ込めて見ないふりをして生きる。そんなふうになってしまった日本だと。
だから、書斎に「No NUCLEAR NO WAR」のポスターが貼ってある正宗先輩は、相当イカれた危ないやつってことがわかります。
・核だけでなく、もう一つ気づいてぞっとしたことがあります。冒頭の知世子のクラスのシーンで。
教室の最後列には遺影が数枚置かれています。そして、掲示板には「志願兵」を募るポスターが貼ってあるのです。描かれてはいませんが、もしかしたら日本は戦争をしているのかもしれません。死んだ子たちは、戦争で死んだのか被曝して死んだのかはわかりません。誰も、ソノ話をしないから。
・そう。高校生たちは現代と変わらない学校生活を送り、部活に勤しみ、クラスメイトとふざけ合い、生活指導を受け、文化祭の出し物の話をしています。まったくもって平和そのものです。
でも、身近なところに核や戦争や友達の死はあふれている。
なのに、ただ受け入れて考えない。現代の私たちがニュースや歴史書で知る戦時下の生活とは全く違う、一種異様な世界。でも、もしかして日本だったら、あり得そうな世界。
・モザイクで見えない場所だらけのGoogleMAP、「安全は希望です。 希望党」という一党独裁を思わせるポスター、廃墟のような商店街とそこに住む見捨てられた貧しい老人たち、公園に林立する瓦礫の柱、ふたりの鼻血、除染効果の噂があったひまわり畑、鉛入りの防護服を着た男、知世子がファインダー越しに唱えるベクレル数などなど、これでもかというほどサインがちりばめられています。
・「クソまみれの世界」という正宗先輩のセリフは、だから言えない言葉をクソやウンコに置き換えたものなのでしょう。もちろん青春映画として見ればそれは嘘と欺瞞に満ちた大人世界に対するアンチテーゼでもあります。
世界はクソに満ちている。空気のように全てを覆い尽くしている。息をする度に体の中に蓄積し、死の不安と生の不安で体の中を少しずつ蝕んでいく。
体の中の膿を吐きだせ、叫んで吐きだせ、絶叫しろ。それが本当に息をするということじゃないか?声を上げなきゃ生きてないのと同じじゃないか?
・「映画は不滅だ」。小説ではこの言葉が知世子の小さな種になります。映画ではより不滅感を強調するために、母の高校時代の8ミリフィルムが出てきます。
死んでいる母のイキイキと動く姿。映画の中の母は自分と同じ年頃で、自分にとても似ていて、自分と同じく不機嫌な顔と不遜な振る舞いをしている。そして、「いつまで撮ってんだよ、ばーか!」というセリフ。
母の学生時代に比べて、世界はすっかり変わってしまったはずなのに、何より母自身が、この世からいなくなって無になったはずなのに、母は確かに自分の中にいる。DNAはまるで映画のフィルムのように母から私の中に不滅に続いている。
そんな風に知世子は思ったのかもしれません。
・正宗先輩が「手応えを感じ」「何かつかんだ」ところの描写は、小説と映画ではずいぶん変わっていました。多分、映画では港のシーンに当たるのでしょう。
港のシーンで正宗がつかんだことは一体何だったのでしょうか。
おのれが世界に絶望すること。それこそが、このクソまみれの世界に完全敗北することだ。
と気づいたことだと私は思います。小説とはずいぶん違うところです。
彼は「オレは抵抗する奴隷だ」「だからオレは誰も殺さない」と宣言します。
生き続けてやることこそ、最上の抵抗であり、ざまあみやがれな道なのだと。
ここでふたりに鼻血を流させるのは、なかなか残酷です。青春の昂ぶ���と言ってしまえばそれまでですが。
もちろん、あのような具合で出た鼻血に科学的根拠はありません。でもそれは被曝のシンボルでは、あります。
正宗先輩は叫びます。「地球最後の日まで映画を撮ってやるからな!」「ぜってえ長生きしてやるからな!」と。
・そう、正宗も港で一瞬何かをつかんだようであったのに、最後のシーンで自分の名前を連呼し、頭を叩き、絶叫して暴れるのはなぜなのか?ここは私の中ではまだ決着がつかないところです。
一つは、絶叫して暴れることこそ、彼にとっての前に進むことだった説。彼は知世子への振る舞いを見てもわかるように、「殺したい」と言いながら暴力など全く振るえないヘタレだと思います。つい突き飛ばしちゃった後の落ち込み具合も凄かった。
それは猫を殺した反動なのか、ジジイの呪いなのかはわからないけれど。そんな彼が暴れること自体、彼が「変わった」ことなのかもしれません。「抵抗」の表現なのかもしれません。
そしてもう一つは、正宗の中にはいまだ知世子のような「不滅なるもの」がないため。
これは監督も仰っていたことだけど、知世子は何か先に進んでしまったみたいなのにオレは何やってるんだ?オレはなんだ?何やってんだ!?みたいな感情に突き動かされた説。
彼にはまだ軸がない。ブレブレなのです。その証拠に、犬小屋を燃やした後もまだ撮られるのを嫌がっている。知世子に「お前の名前は?」と聞かれて答えられない。まだ自分の足下ばかり撮っている。
「まだ」なのです。
監督が言っているのだから、それが正しいのかもだけどイマイチしっくり来ていない自分がいます。
来年公開されたら、もう少し正宗先輩について考えてみたいです。
監督が敢えて原作よりもバージョンアップして光を当てた正宗先輩にこそ、この映画世界の秘密が隠されているような気がするから。
理由のひとつは、単純にバディ的なロードムービーにするためだったとは思いますが。
あと、単純に菅田将暉くんが演じる正岡正宗がとても魅力的だったから。突き詰めると、そこに行き着く。(笑)
・前にRTしたNY在住の日本人アーティストの言葉。
「闇を描かなければ、光を描く事はできず、光が無ければ、色を認識することができない。果たして認識されない「紅」は「紅」というアイデンティティがあるのだろうかー。」
この言葉を見た時、「チョコリエッタ」と「そこのみにて光輝く」をこの視点に当てはめて考えてみたいなと思いました。「そこのみにて光輝く」はまた別の機会として。
知世子と正宗のアイデンティは、母を亡くした闇、猫を殺した闇、クソの世界の闇に沈んでいて、自分自身が何色なのかも認識できない状態にあったのだと思います。
それが映画の終わりでは、かすかな光が差して、薄ぼんやりと自分の色が認識できてきたのでしょう。
その光は外から来たものではなく、自分の闇を見つめる勇気とともに自分の中からほんの少し生まれたもの。
正宗先輩が暴れたのも、やはりそんな自分の闇を見つめる一歩だったのかもしれません。
・「生きることと死ぬことはいっしょだ」。そんな言葉があります。
物語だったり宗教だったり、あるいはマンガやアニメでもたまに見る言葉です。結構この言葉に触れる度に意味を考えていて、毎度何かをかすめるのですが、ガッツリとらえられたことは未だかつてありません。
チョコリエッタでも、そんなかすめたような感覚がありました。下記のように知世子と正宗先輩に言い換えてみたら、ストンと心に落ちました。
「死にたい」も「殺したい」も「生きたい」といっしょだ。と。
・なにぶん公開前なので、余りまとまりはないですが、つらつらと感想でした。
でも思ったより愛がヘビーで、自分でもドン引きしています。。。ははは。
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syumidas · 10 years
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闇金ウシジマくんPart2 オーディオコメンタリー
私が気になった所まとめ。
オーディオコメンタリーのメンツはやべさん・山田さん・中川さん・メアリージュンさん・監督。
◎【菅田】パンイチガムテぐるぐる巻きシーン
・菅田くんの最初のカット、クランクインだった
・(ガムテで)あんだけぐるぐるでよく喋るよね(w)
・マサルが首を動かすガムテの音は後でつけてる[監督]
◎【柳楽】
・引きで変態ってわかる!
・ちょっと天才的だよなあ
・薬局のゴム万引きシーンがクランクインだった[監督]
※みなさん「ヤバい」「アウトでしょう!」連呼。総じてみんな大好き!って感じ。
◎通帳屋のシーンは新宿ロケ地[監督]
◎【窪田】公園で麦ちゃんにハサミを渡すシーン
・ワンカットで長台詞だったのに、当日セリフが変わって大変だったと窪田が言ってました[山田さん]
◎【菅田】半裸の母ちゃんと出くわすシーン
・母ちゃんを見た時の菅田くんの顔に「いい顔するな!」[やべさん]
・山田さん「住所と名前」と言うところを、「苗字と名前いっしょだからな」とセリフミスった話を
・みんなでマサルの人物像について。「頭いいのに巻き込まれるとアワアワしちゃう」「アイデアは出るけどどうなるか判断できないから、結果こうなっちゃう」
◎【窪田】麦ちゃんがかけてきた電話に思わず「…ってんだよ!」というイマドキっぽい言葉遣いをしてしまうシーン
・窪田くんはホストと同年代の男の子をうまく演じ分けてる[監督]
◎【菅田】ビニール被せられてリンチされるシーン
・医者が見て、「リアルで殺しかけたな」と言ったらしい。
・「気合入ってんな」[山田さん]
・割と長い時間しめられてて、オレ怖かったもん!リアルか区別つかなかったもん!この状態で「今大丈夫すか?ハイー本番!あ、ちょっと車一台待ってくださいー」この(目の前のシーンとスタッフの)ギャップ?[やべさん]
・試写の後、へこんでましたけどね。「自分はもっと暴れてるつもりだったのに絵で見るとイマイチだった。動き小さかった」と。[山田さん]
・(マサルが助けられて叫ぶシーン。カットされたけど助けたのはやべさん)リハの時(菅田くんの絶叫が)すごすぎてずっと笑ってたもん。お金なめたらこうなりますよ、ってことですわ[やべさん]
◎【菅田・中尾】光石さん誕生日会に乗り込む直前の車中シーン
・菅田くんと中尾くんのカットバックは結構時間かけたんですよね。二人とも凄い表情いいので、どっちを生かすか。[監督]
◎【菅田】なんで誰!?のシーン
・なんでなんでは全部アフレコなんだけどこれ結構面白いですよね。[監督]
◎【窪田】焼き鳥屋で泣くシーン
・窪田くんも涙止まんなかったですね。[監督]
◎【綾野】ウシジマくんと別れて、たばこを吸いながら歩くシーン
・急きょ追加したシーン。当初はウシジマくんと握手して、という形だったらしいが変更。[監督]
◎【メアリージュン】メアリージュンさんの犀原オーディションは、マサルが橋の上で発砲したラストシーンの後だったとか。そう言えば公園でオーデションしたとメアリージュンさん言ってたし。よっぽど犀原のキャラに監督のこだわりがあったんでしょうね。原作だと男みたいだし。
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syumidas · 10 years
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胸にグサリと…
DVD「闇金ウシジマくんPart2」のオーディオコメンタリーで、グサリときた言葉。 発言者は山田さんの声に聞こえたのですが、自信なし。
「取材で女性たちに意見聞いてて、“実際ホストクラブ行ったことないから”って人いたんですけど、ホストで考えるとそうですけど、例えば、俳優でも、アイドルでも、ミュージシャ���でも、何でも一緒で、そこに凄い入り込んで、どんどんどんどんお金を使うと、結局一緒なんですよね」
…って。まじつらたん(笑)
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