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stellabooks32 · 2 years
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メリ様がニャンに会う前に、お顔のお手入れをするお話です。
君に会う前に
 重要な刻の前には、屋敷に戻る。アイメリクはそう決めていた。
 ボーレル邸の自室にて、化粧台の前に腰を下ろす。この化粧台は、生前、養母が使っていたもので、母が亡くなってからは自室に運び入れた。社交の場を訪れる時には、母は決まってこの化粧台を使っていた。鏡の中の自分と微笑み合い、自分の顔に丹念に化粧を施してゆく。そのさまは興味深く、息子のアイメリクは母の部屋の隅でよく母の動きを眺めたものだ。
「あなたも少しお化粧をする?」十五歳の頃、フォルタン家主催の舞踏会をいよいよ二時間後に控える夕べ、化粧直しをしていた母は思い立ったようにアイメリクに声をかけた。
「い、いえ。私は、」
「では、唇と目元だけでもお手入れするといいわ。唇は艶やかであると、それだけで美しく見えるもの。そして目元。目元は疲れが出やすいの。温かいタオルで目の辺りを覆っていると、疲れがとれて表情が柔らかくなるわ。」
「唇はどうやって…?」
母に化粧台の前に呼ばれる。少年は母に席を譲られ鏡の前に腰掛けた。母の顔と自分の顔をじっくりと眺める機会はそう無かったものだから、少年は鏡に映る二人を食い入るように見た。母は目元が柔らかく下がっているが、自分は嫌というほど釣り上がっている。母の鼻は小さく、自分に似ているだろうか。母の口元は皺々だが、温かみがある。対して少年の口は、きゅっと結ばれていた。表情がきつく取っ付きにくそうで、社交場では敬遠される顔つきであると自覚したのは、この時だ。「楽しいことや嬉しいことを思い浮かべながら、お手入れをするのよ。お父様が買って下さった砂糖菓子を食べた日は、あなた、嬉しそうな表情をしていらしたわ。どう?」
「ええ……そうですね、仰る通りです。」
母は小瓶を手に取った。蓋を開けると、蜂蜜を小指の先でほんの少し掬った。少年は母の動作を真似ながら、鏡に向き合って口を薄く開いた。視線を母と自分の唇に注ぎ、小指を下唇の中央に乗せる。唇に、蜂蜜のねっとりとした感触が伝わってゆくのを確認し、小指を唇の両端へと這わせた。そのまま、上唇の端から中央へ。そして対岸の唇の端へ小指を滑らせると、唇はたちまち輝き始めた。唇を閉じて、しばらく馴染ませる。口の中へ、甘い味が広がっていった。
 続いて、湯に潜らせたタオルを手に取る。湯もタオルも程良く冷めて、顔に当てるのに丁度良い温度になっていた。少年はタオルの隅を摘んで、丁寧に畳む。少年の腕の中で、タオルからの湯気がもうもうと溢れた。少年はそのタオルで、目元を覆った。
「気持ちが良いでしょう?」
「ええ。緊張が解れて、良い表情が作れそうです。」
「策略家なのね。お父様も、若い頃はそうだったわ。お父様に似たのね。」
少年は戸惑い、何と返して良いか分からず黙りこくった。目元がタオルに覆われていてよかった、と少年は思った。母もそれ以上はその話をしなかった。
「アイメリク、そろそろその涼しい目を見せてちょうだい。」
少年は言われるままにタオルを外し、鏡に向き直った。
「まあ、素敵よ。」
母の言う通りだ。寄せられた眉根は解れ、釣り上がって鋭くなっていた目は柔らかな印象を与えた。目元全体から緊張がうまく抜けて、表情が随分違って見えた。
「私に似たのかしら。もしあなたが社交界で名を馳せようと思うのなら、表情は武器になる。」
少年は、力強く頷いた。母に促され、鏡の前で微笑みを浮かべる。自分の顔では大人のするような取ってつけた笑顔しか見たことがなかったアイメリクは、鏡に映る自分が花が開くような笑顔を見せていることに驚いた。じろじろと自分の顔を眺める。唇が若々しくきらめているせいだろうか、自分で感ずるのも何だが、とても美しい少年が座っているように見えた。
「あら、知らなかったの?アイメリク、あなたはとっても美しいのよ。」
 大人になったアイメリクは、生前の養母の言葉を反芻する。化粧台の前に座って、母から習ったように鏡に向き合った。口を薄く開き、自分の唇に視線を注ぐ。蜂蜜に浸した小指の先を下唇の中央に乗せた。蜂蜜の感触が唇全体に正しく在るのを確認し、小指を唇の両端へと這わせた。そのまま、上唇の端から中央へ。そして対岸の唇の端へ小指を滑らせると、彼の唇はたちまち輝き始めた。唇を閉じて、しばらく馴染ませる。口の中へ、甘い味が広がってゆく。続いて、湯に潜らせたタオルを手に取る。唇を湿らせている間に湯もタオルも顔に当てるのに丁度良い温度になっていた。彼はタオルの隅を摘んで、丁寧に畳む。彼の腕の中で、タオルからの湯気がもうもうと溢れた。彼はそのタオルで、目元をそっと覆った。美しくなるように、柔らかくなるように、と念じながら。
「さて……」
 あと一時間ほどで、友がイシュガルド・ランディングに到着する。襟元のフリルを正して、鍵と巾着をポケットに仕舞う。最後に、少し屈んで鏡に自分の顔を映し、ふ、と笑ってみせた。さて、この表情を友が好んでくれると良いのだが——アイメリクは眉を下げ、自室を出た。
 廊下の向こうには、養父母の部屋が今もある。アイメリクは、その部屋中に少年の日の思い出が埃のように薄く深く降り積もるさまを思い浮かべる。故人が大切にしていた家具たちは、亡き主人の帰りを待ちながら、時を止めて静かに佇んでいるのだろう。彼は踵を返し、故人の部屋に背を向けて玄関に続く廊下を渡った。
 玄関のドアを開けようとすると、廊下の向こうからボーレル家の飼猫がゆっくりとした足取りで歩いてきた。アイメリクが神殿騎士団に入隊したのと同じ時期であったか、両親が寂しがって路地裏を彷徨っていた子猫を引き取ったと記憶している。今は甲斐甲斐しく世話をしている執事によく懐いている。視力がすっかり落ちているらしく、猫は一歩一歩確かめるような足取りで歩む。アイメリクがいると嬉しそうに脚に身体を擦り寄せるものの、猫とアイメリクは真に通じ合うことはなく、一人と一匹は入れ違いにボーレル家を守る一人っ子同士だった。
「行ってくるよ、レディ。今日は友人を招くつもりだ」
猫は小さく鳴いて、玄���の窓枠によたよたと飛び乗った。家の外へ出て、玄関の鍵を閉める。猫の視線はアイメリクを追う。彼は猫に手を振って、私邸を後にした。
 アイメリクは、夢想した。——艶やかな唇に触れれば、導かれるように口付けをしてしまうだろう。何度も親指で私の口元をなぞっては口付けを降らし、私の唇をしとどに濡らすのだろう。若々しく、かつ柔らかな目元から潤んだ蒼き瞳が覗けば、奴はたちまち理性を手放してしまうだろう。その眼が好ましいと奴は決して語らないが、好ましく思っていることくらい所作で判る。誘えば誘うほど、深みに嵌ってこちらまで堕ちてくる。慈しめば慈しむほど、情欲という手垢のついた愛が返される。
 ああ、面白い。ああ、なんと愛おしい。
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stellabooks32 · 2 years
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東方への気儘な旅の終わり頃、エスティニアンは何をしていたのだろう、と妄想してみました。
友に宛てた手紙を書き切れず、出せずにいるエスティニアンのお話です。
前略、草々
 エスティニアンは、薄目を開けた朝陽に横顔を照らされながら、潮風亭の客席の隅で墨を磨る。それは、いつもの帳簿をつけるためではない。珍しく彼は、自分自身のために墨を磨っていた。
 硯の陸に一ギル硬貨の大きさくらいの水を落とす。その水を、真っ黒な墨の塊で円を描くように磨ってゆく。力を込める必要はなく、弱い力で辛抱強く、ゆっくりと撫でてやるのがコツだ。硯自体が黒く見えにくいが、よく見ていると、段々と水に黒い筋が溶け出す。同時に、雨上がりの森のような、苔生した岩肌のような香りが漂い始める。
 さら、さら、さらと墨を磨り続けるとき、エスティニアンの頭は空っぽになる。墨が溶け出すように、心臓の奥に巣食う言葉にならぬものたちが、さら、さらと落ちて墨に混じってゆくような心地がするのだ。懐かしい香りでもないのに、墨の香りは不思議と心を落ち着かせる。水がすっかり夜空の色になるまで、墨を磨る行為は続く。
 出来上がった墨はすっかり墨池に流れ落ちていた。エスティニアンはその池に筆の穂先を浸して引き上げ、縁に沿わせて余分な墨を落とした。このちょっとした作業は丁寧にやらなければ、紙が墨でふやけてしまう。エスティニアンは陸に線を一筋引いて、墨の付き具合を確認した。そして、夜と朝の白んだ隙間のような色をした紙に、穂先をそっと落とした。
「帝国との戦闘が激化しているとのことだが、息災か。こっちは、ガレマール帝国大使館と治安維持部隊の赤誠組がピリピリしている以外は、いつも通りだ。
 お前は、七夕という行事を聞いたことはあるか?最近、店先に笹がよく飾られている。笹は、青々とした細枝に、細く長い葉がついた植物だ。その笹に、長細い、願い事を書いた紙を紐でくくりつけて飾り付けをしていく。七夕はまぁ、星芒祭のような季節ものの行事で、その季節になると、色とりどりの紙が提げられた笹が、あらゆる店先に並ぶんだ。そいつが風に揺られると、さらさらと音がして、紙が回って綺麗なもんさ。
 俺も願い事をしてきた。お前なら何を願う?そういやいつか、オーロラに願掛けをしたことがあったな。東方は、星や天に祈りもするが、特に強く願い事をする行事がこの「七夕」ってやつらしい。
 夜になると、黄昏橋に人が集まって、皆で打ち上げ花火を楽しむ。クガネの港から少し離れたところまで船を出して、海から打ち上げているそうだ。俺が厄介になっている店は、二階辺りは入り口を開放して、花火を眺められるようにしてある。花火を観ながら酒が飲めるってんで、その席はすぐに埋まる。
 星五月になると飾り付けは終わっちまうから、七夕の見頃は丁度今だな。
 東方の旅は悪くない。目が開かれるからな。帝国でさえ行儀が良い。不可侵条約によって、帝国は船の動力源の補給を行う代わりにひんがしの国には攻め入らないことになっている。イシュガルドと違って、こっちは神々が多いのも興味深い。八百万の神らしいぞ。俺たちはせいぜいハルオーネと、何人かの聖人くらいだったろう。
 価値観がまるで違う国にいると、イシュガルドにいた頃の俺がひどくちっぽけに思える。俺たちの千年戦争は、世界のほんの片隅での出来事だったんだと思わずにはいられん。それは俺を冷静にさせてくれるが、同時に虚しくもなる。イシュガルドでは先祖の犯した過ちが原罪となって、あんなに多くの命がドラゴン族に踏みにじられた。俺は故郷も家族も失った。戦争が原因で孤独の身になった子どもは俺だけじゃない、山のようにいる。そして俺たちもまた、多くのドラゴン族を屠ってきた。だがひんがしの国じゃあ、山の都で凄惨な戦いがあったことを民衆はあまり知らない。イシュガルド出身だと言えば、「第七霊災以来、万年冬らしいじゃないか。どうだい、こっちは暖かいだろう」ときた。だが、こっちにも竜がいると聞いていざ逢いに行ってみると、あの戦争は決して片隅の出来事ではないと確信する。俺たちの長い戦いについて悲痛な声で語り、ニーズヘッグの血が流れる俺を憐れみに似た目で見てくる。俺たちクルザスの民とドラゴン族は、共に当事者なんだろうな。あの戦争の重みを知っている奴に出会えると、ドラゴン族だろうが人だろうが、なぜだか安堵する。
 話は変わるが、初めて米酒というものを飲んだ。こいつはうまいぞ。うんと冷やして飲むと、味も香りも最高だ。ヤンサ地方で収穫される米が上等で、そいつを使っているらしい。甘い酒なんだが、お前が飲んでいるバーチシロップとは全然別物だ。米そのものの柔らかい甘みが生かされていて旨い。これが素材の旨味ってヤツなんだろうな。お前にも飲ませてやりたいが、お前はそれどころじゃあないだろうな。
 先の神殿騎士団の出兵に加われとの要請だが、悪いが俺は力を貸さん。イシュガルド最大の戦力としての立ち居振る舞いは、もう俺を磨り減らすだけだ。それに、もうお前たちは、自分の足で歩んでいける。人はドラゴン族よりも、ずっと弱い。俺の力がなくとも、」
 エスティニアンは、硯の陸に筆を休ませた。彼は、同じく陸で休んでいた固形墨を眺める。磨り減った角は丸くなって、水に濡れたおかげで艶やかにきらめていた。
 配達士モーグリを通じて神殿騎士団病院から送られてくる小瓶をポケットから取り出して、液体を喉に流し込む。
「俺はとっくに、正気なんだがな」
憂いを滲ませた瞳が、書きかけの手紙をとらえる。エスティニアンは小瓶をテーブルに置くと、手紙の端と端を握って、——くしゃくしゃに丸めた。
 潮風亭の会計所にも、笹があった。「生まれ落ちた命が等しく共にこの星で生きられるよう」、そう書かれた短冊が風に揺れ、笹の葉に触れてさらさらと音を立てた。
 手紙はその後も、書かれては丸められ、また書かれては燃やされ、を繰り返した。そうして、エスティニアンの記憶には、かの友に宛てた手紙が何通も積もっていった。
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stellabooks32 · 2 years
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ご提供いただいたお題「一度キスしだすとなかなか止まらないエスアイ」をもとに書いてみました。
キスは、猛毒。
青き生物毒のパレード
 双眸の細き透明な青に、吸い寄せられる。俺が劣情に駆られるとき、こいつの青は、毒になって俺に牙を剥く。
 アイメリクの瞳は、夜が訪れると日蝕のように縁に透明な色を残して、あとはほとんど闇に覆われ昏くなる。その青が青色でいられるのはせいぜい陽の下だけで、夜になるとガラス玉の如く周囲の色を吸って変化する。透明な青き瞳は薄く開かれ、瞼には、あくまで己が道を行き、他者の意思を眼に入れはすれども受け入れぬという我が宿っていた。俺はその上瞼を親指で押し上げ、砂糖菓子にするごとく舌を突っ込んで透明な眼球を味わう。アイメリクは瞼を強張らせると、親指を振り解くように瞳を固く閉ざして二、三度瞬きをし、俺の唾液を押し流した。眼の端を真っ赤にし、「また、お前は、」と俺の喉元で呻いた。「減るもんじゃなし。」鼻先であしらって、こいつの大粒のピアスに歯を立てる。石を口に含んで引っ張ると、こいつは必ず苦痛に顔を歪めて息を切らした。「悪戯が過ぎるぞ、エスティニアン…」アイメリクは俺の腕の中で身じろぎし、ピアスを外して懐に仕舞った。耳朶に開いた大穴の向こうから、こいつの艶やかな髪が俺を見ている。アイメリクの髪に指を差し込み、顔をより一層俺の頬に近付けて、粉雪がするごとくこいつの頭のてっぺんから口付けを降らせた。「っ、あ、」そのまま、額へ、瞼へ、鼻先へ。こいつの鼻を艶めいた音が抜ける。唇には降らず、頬へ、耳の後ろへ、ツンと尖った耳の先を噛んで、耳朶へ。首筋へ下り、隆起した喉笛へ。アイメリクはかぶりを振った。「いつまで待たせるつもりだ?」「何のことだか。」すっかり浅くなった呼吸が、互いの咥内で交わった。俺たちは、蛇になり、竜になり、蜥蜴になる。脳に抜ける痺れや、雪に焼かれた真昼の視界のような白く熱き光を抱いて、俺たちは唇を重ね一つに融け合って、蛇になり、竜になり、蜥蜴になった。肉体が丸ごと創り変わる歓びは流れる血という血を腹へと集める。俺たちは息を切らしながら、歓びのうちに脱皮を繰り返す。纏わりついた殻を一つ残らず脱ぎ捨てて、乾き切らぬ生々しい肌を晒すのだ。俺たちは蛾であり、蝶であり、かつて芋虫であったものだ。俺は蛹から成虫になったアイメリクの命に敬意を表し、手を取って指先に口付けを落とした。アイメリクは頬を上気させ、俺の肉体に蔦の如く絡みついた。俺はこいつの肉体の隅々に口付けを落としては、唇に還った。戯れ合って絡み合って、俺たちは互いの腕の中で羽を育てる。来るべき絶頂を待ち望み、心臓の鼓動に頬擦りし、蛾として、蝶として、飛び立つその時を待つ。
 ガラス玉を宿した三日月は口の端から恍惚の声を上げると、こちらを真っ直ぐに捉え、笑みを湛えて言った。「エスティニアン、お前の眼もよく見せてくれ」アイメリクは、俺の眼の色を飲み込んで、その瞳を白銀の色に煌めかせた。俺はその色を喰らわんと、アイメリクの瞳に唇を近づけた。「こら、」窘めるような溜息混じりの嗤い声と、俺の嗤いが重なった。
 アイメリクの口に俺の肉体の一部が深々と呑み込まれ、俺はこいつと一つになってゆく。耳の奥を轟々と流れる血液は鳴り止まぬ喝采のようで、押し寄せる悦びが俺を人から生き物へ変える。俺はこいつの体内で、鰐になり、隼になり、鯨になった。こいつが俺の肉体に降らせる溢れんばかりの口付けによって、俺は至福のうちに、ベッドの上でたちまち形を失った。こいつが俺に、その眼に宿した青き毒を打ったに違いない。アイメリクは、蜂であり、蟻であり、蜘蛛であった。
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stellabooks32 · 2 years
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ニャンとメリ様の若き日の初夜。
友の一線を超え、戻れぬ道を歩み始める。
純潔は死んだ
 ドラゴン族との戦いがいよいよ激化したころ、若き神殿騎士団に宛がわれた宿舎で、聞こえるはずのない音が聞こえるようになった。すすり泣きと、うめき声。そして、古びた家具の軋み。それが何処かの部屋から聴こえ始めた夜は、物好きな騎士たちはまるでそれらの音が自分自身に注がれているかのように夢想し、息を切らしたという。私は書物を開き、ペンを走らせる音で室外の音を掻き消した。
 私たちは、清貧を尊び、純潔を貫き、神の名のもとに戦う騎士である。だが、我々は一人の男児でもある。戦いが激しければ激しいほど、命が危機に晒されれば晒されるほど、本能が子を残さんと熱をもつ。そして、本能に刺激され沸き立った血は終着点へと集まり、精が今か今かと退路の確保を待つ。私にも、心当たりが無いわけではない。ゆえに、あってはらないが理解はできる、というのが私の意見だった。
 ある吹雪の晩のこと。神殿騎士団本部に足音がいくつも交差したかと思うと、程なくしてコマンドの招集がかかった。本部へ向かう廊下で、すれ違いざまにコマンドの話を漏れ聞いた。帰還した竜騎士団の人数が少ない、ドラゴン族の襲撃に遭ったらしい、と。
 私は個人的に状況を把握したく、友の影を探し求めた。彼は死なない。だが、生きて帰ったことをこの目で確認せねば気が済まなかった。竜騎士団の屯所でイニアセルから「さっき食堂に向かったぞ」と聞いて向かうも出会えず、その食堂で虚ろな目をしたブルスモンに逢った。「エスティニアンを知らないか?」「おいおい…俺の帰還も祝ってくれよ。あいつなら、何も腹に入らんからと、湯浴みへ行ったぞ」「ありがとう。ブルスモンも……よく生きて還ったな。情報、感謝するよ」食堂を出て湯浴みに行くならば、一度宿舎に寄る必要があろう。エスティニアンの足取りを追って、食堂を出る騎士たちを掻き分け、宿舎へと向かった。努めて顔を上げ、彼の灰青色の瞳を探す。だが廊下では、ついぞ出会えなかった。
「エスティニアン、いるか?」
友の部屋を訪ねたが、返事がない。何度かノックをして反応を待った。しかし、この扉が開く気配はなく、私は諦めて次へ行くことにした。大浴場に向かわねばならない。
「アイメリク。」
「エスティニアン!」
踵を返すと、エスティニアンが私の背後に立っていた。既に湯浴みは済ませた様子で、首にタオルを引っかけていた。
「生存確認か?」
「ああ。…いや、…用件は以上だ。疲れたろう、失礼するよ」
ようやくエスティニアンに逢えたというのに、心にもない言葉が零れた。エスティニアンの纏う雰囲気がそうさせたのだろうか。彼は四肢を揺らめかせ、眼光を鋭くし、瞳をひどく潤ませていた。いつもならもう少し入念に乾かしているはずの髪からは、雫がいくつも滴り落ちていた。
「ブルスモンから、お前が俺を探していたと聞いたのだが」
「いや……様子を見て、気が変わったよ。お前に必要なのは休息だ。明日、また話を聞かせてくれ。」
「話か。話ならできる」
エスティニアンは私の手首を掴み、潤んだ瞳を私の眼に近づけた。「入れよ」部屋の鍵を開け、扉を押し開けて私を部屋に引き摺り入れた。後ろ手で部屋の鍵を閉め、私を掴んでいた手を空いたベッドに投げ出した。エスティニアンは、ベッドに倒れ込んだ私を温度の失われた表情で見下ろして、眉根を寄せた。気が立っている。そう理解するには十分過ぎるほどの歓迎を受けた。
「エスティニアン……何があった?」
「異端者の竜化…キャリッジに乗って、帰還を目指すところだった。キャリッジの行く手を竜と化した異端者らに阻まれたかと思うと、邪竜の眷属に上空から襲われた。一瞬の出来事だった。即座に反応できた奴はキャリッジから飛び退けたが、そうでなかった者たちが、六名、キャリッジの下敷きになって死んだ。応戦し、討伐には成功したが……。俺たちは、朝、帰還する予定だった。それが、仲間の遺体を担いで、徒歩での帰還ときた。お陰でもうこんな時間だ。」
エスティニアンは額に手を当て、痞えを取り払うように息を深く、長く吐き出した。
「惨い死に様だった。死んでいった奴らの家族は、慰霊の金と栄誉の勲章を掴ませて黙らせるんだろう?死なないようにするのは、個人の努力に任されている。俺たちが命を落とすことは、法や規則で予め想定されている。刺し違えても構わないからドラゴン族を殺せと…俺たちは奉仕者であると。もっとも、俺の目的は邪竜の討伐だ。故に、誰がどうなろうが構わん。だが、この国で政治をやろうというお前なら、知っておかねばならんこともあるだろう」
「……貴重な意見をありがとう、エスティニアン。」
目を伏せ、エスティニアンの話を反芻する。キャリッジの屋根が開いていれば、上空からの襲撃を目視できたはずだ。材質が軽ければ、這い出すことも可能だったろう。そも、神殿騎士団や教皇庁が私たちを消耗品と扱いさえしなければ、救えた命があったはずだった。エスティニアンはコップに水をなみなみと注ぎ、口許に近付けると一息で飲み干した。
「俺からできる話はそれだけだ。団長なら、もう少しマシな報告ができただろうがな。俺はこれでも当事者なんでね。」
「十分だとも。よく生きて還ってきてくれた……」
私たちの間を、沈黙が横切った。
「アイメリク、」
彼は椅子に掛けたままこちらを見ている。だが、瞳は潤み、狂気とも言うべき熱をぐらぐらと滾らせていた。私の本能が警告を発する。「エスティニアン、毒でも盛られたか?」「毒であれば、どれほど良かったか。」「そろそろ戻るよ。長居はお前の身体に障る」「待て」立ち上がり、歩き出した私の手首がエスティニアンの指に攫われた。その指は私の手首に深々と喰い込む。
「あ……いや、すまない、俺がどうかしていた」私の手首に縋ったまま、エスティニアンは力が抜けたように項垂れた。
「どうした、エスティニアン。言ってくれ。」
「クソッ……覚えはないか?生を渇望すればするほど、この身に通う……」
彼の狂気の正体に名前がついてしまえば、理解しやすい。彼も他の騎士と変わりなく、一人の人間であったというだけのことだ。私の心は、ひどく凪いでいた。
「お前は今……その欲に曝されていると?」
「認めるものか……」成程、抑制できぬ感情に呑まれることほど、恐ろしいことはない。ましてや、蒼の竜騎士の称号を継がんとする彼にとっては、それは恐怖を超えて悪そのものであった。私は、息を切らすエスティニアンの前に膝を折り、私の手首に在る指をひとつひとつ剥がして、己の指を重ね合わせた。
「エスティニアン、私を使え。幸い、お前に対する好意は無い訳ではない。」
エスティニアンは顔を上げ、馬鹿なことを、と言いたげな顔をした。眉根を寄せ、嫌悪感を滲ませる。その嫌悪感は、私にではなく、痛ましくも己自身に向けられたもののようであった。
「宿舎に響く、聞こえるはずのない音の存在を知っているか?」私は、空いた手でエスティニアンの頭を自分の肩に引き寄せた。「すすり泣き、うめき声。古びた家具の、軋む音。この意味が、わかるだろうか?」重ね合わせた指を絡める。エスティニアンからの応答は無い。エスティニアンの息遣いが速くなってゆく。やはり、友は聡い。
「純潔は、死んだ。私たちは一人の男として、産まれなおせばいい。」
エスティニアンは今にも泣きだしそうな表情を浮かべ、震える指で私の唇に触れた。その手を取って指を絡めると、今にも折られそうなほどに握り返された。もう二度と引き返せぬことを、理解しているのだろう。その指の強さには、悔しさが滲んでいた。彼は、私をひしと掻き抱き、空いた手で私の腹に触れた。
「すまない、アイメリク――」ならばこちらから、受け止めてやらねばなるまい。私は彼の耳元で、低く呻いてみせた。「私も焦らされるのは好かないんだ」エスティニアンは弾かれたように私の唇に噛み付いた。口の端から涎が滴るのも構わず、私たちはとうとう互いの口の中で、蛇のごとくのたうち回った。
 嗚呼、私たちの肉体が、精神が、作り変わってゆく。一人の男になるとは、これほど後ろめたく、満たされるものなのだろうか。
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stellabooks32 · 2 years
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――イシュガルド行きの飛空艇を待っているとき、不意にニーズヘッグの思いがエスティニアンの胸を突いた。
エスティニアンが、己の記憶のように、ニーズヘッグの記憶を抱いて宥める話です。
ラザハン・ランディングにて、かの竜へ
 エスティニアンは、ラザハン・ランディングで、イシュガルド行きの飛空艇を待っていた。  どこまでも高い空。眼前に広がるのは色鮮やかな大振りの、様々な形をした葉や花々。土さえも色付いていて、岩肌も陽気だ。胸を、腕を、額を、背を湿らせ、髪と躍る風は、人の心を開け放つ。太陽は僅かに傾くも、未だ空が暮れゆく時には程遠い。遠くの海は、陽の光に照らされて、色様々な青を見せる。此処にはもう、死する脅威はない。  そう思ったとき、ニーズヘッグの想いが震えるような感覚が胸の奥を突き、わけもなく、涙が溢れた。  かつてエスティニアンは、ニーズヘッグの影をその身に宿したことがあった。竜の眼に選ばれ、蒼の竜騎士を拝命した彼だったが、日毎眼の力に蝕まれた魂はついに邪竜の支配を許して呑まれ、ニーズヘッグと一体になってしまったのだ。エスティニアンはその支配を脱して自我を取り戻したものの、まるで自分自身が人に対して轟々と燃える炎のような怒りを抱き、また半身たる妹を失って、止まった時の中で先へ進めず悲しみを抱き続けているかのような感覚が残った。エスティニアンの旅はある意味で、ニーズヘッグの魂を鎮め、かの竜が進めなかった時を生きる旅でもあった。  わけもなく、涙が溢れ続けていた。 「ラタトスク、」 溢れる涙と共に口から零れた名は、ニーズヘッグが愛した妹。ニーズヘッグより孵るのが遅かった、愛おしい妹。常に『我』を慕って『我』の後に続き、共に空を駆けた妹。『我』とは正反対の気質で、人を好み、言葉を好んだ。人のことを知りたがる、好奇心が旺盛な竜だった。休眠期に入らんとする父祖ミドガルズオルムに代わり、『我』はラタトスクを我が子のように守り、育てた。彼女は『我』にとって、妹以上の存在であった。 「なぜ、」 拭えども拭えども、涙が溢れて止まらない。かつては涙の一滴も零れぬほど凍り付いていたニーズヘッグの想いは、近頃、なぜだか涙を流すようになった。それは、エスティニアンが人の温かさを知り、人の役に立つ喜びに気が付いた頃からだった。或いは、ラザハンの熱が氷を溶かしたのか、それとも懐かしき末弟の気配がそうさせたのか。  心の奥底から湧き上がるのは常に、氷よりも冷たい温度。それは、人に裏切られ、目をくりぬかれ、刃をその身に突き立てられた妹の亡骸の体温と同じ温度。かつて喜びを詠う彼女の声には熱が籠り、希望に満ち溢れていた。寄り添えば温かく、その体温を『我』にも分け与えてくれた。そのラタトスクが、最も愛した人の子らに裏切られた。悲しみに顔を歪め、痛みに肉体を小さく折り畳んで、身体の奥深くまで冷たく、固くなっていた。  あの光景が、エスティニアンの眼前を霧の如く包んでゆく。ニーズヘッグが片時も忘れられなかった光景。そこから抱いた思いが、まるでエスティニアンのもつ記憶の如く首をもたげた。胸を刺すような痛みに、足が竦む。 「俺の生きる時まで、止めんでくれ……なぁ、ニーズヘッグよ。俺はお前から受け継いだ力を、お前のような思いをするヤツを一人でも減らすために使うと言ったろう。」 邪竜の竜血がこびりついた魔槍。槍を這う血は主を喪い、止む無く槍を覆い、留まり続けている。エスティニアンがたとえ握っても、その血が邪竜の肉体から流れ出でたものであるとはいえ、ニーズヘッグそのものが声を上げることなどない。だが、握れば掌いっぱいに、不思議と吸い付くような感覚が伝わるのだ。偶然だろうが、エスティニアンはこれをかの竜からの返答であると受け取った。  涙ははたと止まり、濡らされた頬が乾いて引き攣り始めた。針の先でつつかれたような痛みを覚え、手の甲でぐいっと頬を拭うと、ほんの細き一筋だが、胸を覆う夜が払われたような心地がした。 「まぁ、俺なりに、できることを精一杯やるさ。」 吹く風は、こんなにも温かい。末弟が愛して守り抜いた、末弟によく似たラザハンの優しい体温が、いつか、兄の心を癒すといい。エスティニアンはそう願い、笑みを湛えて瞼を下ろした。目の端に引っ掛かっていた涙が一滴、頬を伝って膝にしみを作った。
 飛空艇の搭乗時間まで、あと15分。  槍を赤子のように抱えて微睡む男が、一人。
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stellabooks32 · 2 years
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第七霊災後から、クルザスではオーロラが観測され始めた。それがなんだか知らなくて、当時の人々はオーロラのことを「ハルオーネの道行き」と思っていたといいな。そんな世界設定妄想話です。
おすそ分けして頂いたお題「今夜オーロラが出るらしい、見に行かないか、とエスティニアンに誘われて、一緒に家を抜け出し一夜の小旅行をするアイメリクのエスアイちゃん」より。
ハルオーネの道行き
 『ハルオーネの道行き』。夜空に青緑色のヴェールが架かる現象をして、誰かがつけた名が仲間内で広まり、あれはそう呼ばれている。  第七霊災後から現れるようになったそれは、次の観測条件を満たす必要がある。「快晴の日の夜、雲一つない夜空」。雪に鎖されたクルザス地方に快晴の昼夜が来る確率は低い。哨戒任務にあたる騎士たちは皆、前日の晩から空を見上げて祈り、澄んだ青空を心から待ち望んだ。  アイメリク率いる分隊が出立する前日の晩は強く吹雪いていて、とても『ハルオーネの道行き』など観られる気配は無かったが、今朝は蒼く澄んだ空に恵まれた。皇都からクルザス西部高地に向かってチョコボで飛び立つ時、仲間の一人は、眼前に広がる雲一つない蒼に涙した。 「今日は観られるかもな」「来るぞ。こんなに晴れた夜は滅多に無い」未だ西方向に薄らと薄青が残っている。焚火を囲みながら、皆がそわそわと空を見上げ始めた。星は零れ落ちそうなほど眩く光り輝き、月は目を細め、星々を見守っている。「ハルオーネよ……」数名の騎士は、天を仰ぎ戦神に祈り始めた。ハルオーネは、まだクルザスの子らを見捨ててはいない。第七霊災で終わらぬ厳冬と救えぬ命の終わりを目にして絶望したクルザスの人々にとって、あの青緑色のヴェールは、燦然と輝く希望だった。  焚き火を囲みながら談笑し、空を見上げてハルオーネの訪れを待ち望む。胸を踊らせる部下達に目を細め、神殿騎士団コマンドのアイメリクは早々にテントへ引っ込んだ。その姿を見た若き騎士達は、アイメリクのテントを指差して顔を見合わせ、表情を曇らせた。  アイメリクの背を追ったのは、分隊に同行していた竜騎士団のエスティニアンだった。「チッ……世話が焼ける!」髪紐を解いて二、三頭を振ると、彼の肩や背に銀の小川が流れ落ちた。彼は雪に足を引っ掛けられながらもずんずん歩いた。アイメリクのテントは、他の騎士よりも一つ離れたところにある。エスティニアンは、テント入り口の垂れ幕を鷲掴みにすると、「おい、俺だ。開けるぞ」勢い良くそれを押し上げた。アイメリクは、革表紙の本を膝の上で開いたまま、目を白黒させた。 「エスティニアン、何か用か…?」 「今夜、『ハルオーネの道行き』が観られるらしい。観に行かないか」 アイメリクは眉根を寄せると片膝を立て、本の小口を親指の腹でぱらぱらとなぞった。 「そういうことは若い者に任せておけ。」気乗りしない様子で、エスティニアンに顔を背けた。コマンドになってからというもの、アイメリクは変に神を信じなくなった。もとより神に期待しない性質であったが、ここ最近は、力だけが我が友といわんばかりの不信心ぶりを見せることがあった。エスティニアンにだけ、父親の説く教義やその周囲に居る者たちがうっとりと語る父親の様子に寒気がする、と零した夜があった。アイメリクが神の力ではなく民ひとりひとりの力を信ずるようになる、少し前のことである。 「年寄りぶるな。行くぞ」エスティニアンはテントに片脚を突っ込んでアイメリクの手首を掴むと、力任せに引っ張った。アイメリクはテントから引き摺り出され、雪の上に倒れ伏した。 「年寄りぶりたいなら、行って民の無事でも祈ってやれ。」「神に祈れと?」「運に祈れよ。そう見られんものが見られるんだ。誰の運だか知らんが、あやかっておいて損はないだろう?」「……敵わんな、お前には。」アイメリクは力無く笑みを浮かべると、エスティニアンが差し出した手を掴み、冬眠から目覚めたばかりの熊のようによろめきながら立ち上がった。全身についた雪を溶け切らぬうちに払い、手首を掴まれたままエスティニアンの後に続いて歩き始めた。  アイメリクは努めて真っ直ぐに脚を下ろし、雪を踏み締める。足取りは決して軽いものではなかった。 「『ハルオーネの道行き』を、誰よりも楽しんでやれ。お前がテントに引っ込むと、下の奴らが遠慮する。」 「私が引っ込めば、皆が私に気を遣わずに済み、遠慮なくこの場を離れられると考えたのだが……」「急な寒さで頭がいかれたか?隊の者に規律違反紛いの行為をさせるな。……おい、アイメリク分隊長は『ハルオーネの道行き』に祈りを捧げるべく、少しの間、この場を離れるそうだ!」エスティニアンは騎士たち全員によく聞こえるよう声を張り上げ、辺りに告げた。夜空とアイメリクのテントを交互に見ていた騎士たちが、ぱっと表情を輝かせた。誰もが口元を綻ばせ、目を細めて顔を見合わせた。「お前たちも各々観に行って、民の無事とイシュガルドの繁栄を願って来いと仰せだ!」アイメリクが大きく頷くと、若き騎士達は威勢の良い返事と共にすっくと立ち上がり、数名のグループを形成しながらあっという間に散らばっていった。拠点には、以前の任務でハルオーネの道行きを見たことがあるという料理番たちが数名残った。エスティニアンはそれを横目で確認し、アイメリクの手首を緩やかに引いた。 「観に行かないか?」 エスティニアンは星空の下にアイメリクを招いた。アイメリクは小さく頷いて一歩を踏み出し、エスティニアンと共に並んで歩き始めた。  夜が深まっても、雪がぼんやりと光を放っているお陰で辺りは明るい。故に幸いランプを持たずとも充分遠くまで歩いて行けた。ゴルガニュ牧場を臨む小高い丘、長く緩やかな斜面を下る。歩くたび、ざく、ざくと雪を切る音が二人の耳をくすぐった。牧場には人気こそもう無いものの、大きく丸められた干し草が転がっていた。「懐かしい。ああいうのを、俺も親父と一緒に作ったもんだ。」エスティニアンはアイメリクの手首から手を離すと、一人柵まで近付いていった。柵の外から干し草に手を伸ばしてみると、表面が薄く凍っており指が滑り落ちた。表面をつついて氷を壊し、指を深く突っ込んでみると、丸めた草の奥に必ずあったあの太陽の熱は寒さに奪われ、塊は底の底まで冷えていた。幼い頃はこの干し草の塊を触る度生き物の強き生命力を感じたものだが、この塊は、静かに死んでいた。小さく丸まったエスティニアンの背を、アイメリクは離れた場所で見守り続けた。 「向こうへ、行ってみよう。」アイメリクは南を指差す。「そうだな」二人は、ゴルガニュ牧場に至る道を逆さに進み、牧場正面の階段を下っていった。『冷たい』『寒い』と書かれた風が鼻を掠め、鼻先はたちまち真っ赤に染まった。様々な息吹を閉じ込め圧縮した匂いが微かに体内に流れた。  リバーズミートに向かって丘を下りてゆくと、凍りきったクルザス川の中流に差し掛かった。「もうここに水が流れることは、ないのだろうな。」以前は子どもがこの川を飛び越えて遊ぶ姿や、鳥、羊、牛などが口を付ける姿などがよく見られたものだ。今は、口をつけるどころか、大人二人が歩いて渡れてしまうほど、深々と凍っている。 「霊災を生き延び、コマンドの職に就いた者として、如何にあるべきか…考えている。」 アイメリクは川辺にしゃがみ、凍った川を指先で撫でながら、ぽつり、と零した。 「目先の些事に囚われんことだ。コマンドで神殿騎士を終える訳でもあるまいに」 さすがだな、と零し、アイメリクは小さく笑った。エスティニアンほど、自身の目的に純粋で、大義のために突き進む者はいない。そのエスティニアンの眉が下がっているのを見て、アイメリクはまたくすくすと笑った。笑うアイメリクに文句を言いたげに眉根を寄せたエスティニアンの顔を見て、アイメリクは堪らず声を出して笑った。エスティニアンは苛立ちを呆れで包み、ため息をついた。 「行こう。間もなく『ハルオーネの道行き』が見られる頃合いだ。」アイメリクは水面に視線を落としたままゆっくりと立ち上がった。クルザス川の凍った水辺を眺めるアイメリクの瞳は、川の氷を吸ったような色で、夜の闇に溶けることも凍り付くこともなく、澄んだまま穏やかだった。  二人は川沿いを下りながら、宛てのない旅を続けた。アイメリクは、月を追わんと顔を上げた。 「……あっ、」 「おお」  『ハルオーネの道行き』だ。  星々が煌々と輝く空に、『ハルオーネの道行き』があった。  あれはまさに、クルザスの星空に足をつけたハルオーネが、衣服の裾を引きながら歩くさまだった。その裾の輪郭まではっきりと見える。きらきら、と揺らめいて、ふわり、ふわりと闇を照らしながら靡いてゆく。 「もっと高くへ!」「ああ」二人はハルオーネの後ろ姿を追って、駆け出した。じっとしてはいられない。歩いてもいられない。ハルオーネに呼ばれたような、ここで立ち止まってはならないような、堪らない気持ちで、走った。南西に向かって川をどんどん下ると、追っていた川はクルザス川の大河と合流した。二人は尚も走り続け、船着場に背を向けて付近で最も高い岩を目指した。 「登るぞ、アイメリク」 「そうしよう」  北方向にダスクヴィジルの城壁、西方向には臥竜島。岩は高く迫り出しており、岩の中腹までは雪を踏んで駆け上がる。中腹を越えてしまえばあとは頂上をめざすのみ。頂上までは足を滑らせなければ登れそうな様子だった。二人は一目散に駆け、雪を蹴ってあっという間に中腹まで辿り着いた。腕防具をよく確認し、岩の僅かな窪みに手足を掛けて、慎重に上ってゆく。傾斜が十分にあったお陰で、幹部候補生、竜騎士候補生の時分ほど苦労はしなかった。多少息を切らしつつも岩を登り切り、二人は『ハルオーネの道行き』を再度確認した。  なんそうものみどり。いくつものあお。ハルオーネの裾はさらさらと風にそよぎ、この道行きに出会えたクルザスの子らは、ハルオーネに頭を垂れる。神の存在そのものを否定しつつあったアイメリクでさえ、『ハルオーネの道行き』の前に跪き、恭しく頭を垂れた。エスティニアンはその場に腰掛け、腿の上で両掌を合わせた。 「ここが最も高い場所だろうか…」 「人の足で登れる中では、なかなか良いんじゃないか」  ぽつぽつと言葉を交わした後は何も語らず、ただ穏やかに整ってゆく呼吸を聴きながら、二人は岩の頂上に座り続けた。エスティニアンは横目でアイメリクの様子を確認し、再び夜空へ視線を移した。少し腰を浮かせて、体重を移動させ、エスティニアンはアイメリクの背に己の背を寄せた。アイメリクは、鎧の上からでも伝わるエスティニアンの体温に目を細め、甘やかな溜息を一つ洩らして、彼の背にしなだれかかった。エスティニアンはアイメリクに頭を預け、アイメリクの肩に己の髪を落とした。
 どれほど眺めていただろうか。  ハルオーネの道行きは少しずつ闇に融け始めた。 「旅立つのだろうか」 「いや、見てみろ。こちらに移動してはいないか」エスティニアンが指差した方向に、新たなみどり、新たなあおが揺らめいていた。その様はまるで、ハルオーネが夜空を横断してゆくかのようだった。融けだした裾は端からすっかり闇に流れ出し、ハルオーネが歩む如く、対岸の空に彼女の裾が現れ始めた。 「ゆえに、『道行き』か…」ふ、と吐いた息は白く、風に霞んでたちまち飛び去った。ハルオーネの裾に触れられそうなほど高くに居るのに、実際に手を伸ばしてみても、星の一つも掴めはしない。アイメリクの手は宙を掻いて、雪上にぱたりと落ちた。 「エスティニアンは、何を願う?」 「仕方ない……お前が組織で伸し上がってゆくその道に、光あれと、祈っておくか」 「ならば私は、お前の無事を願おう。いついかなる時も、必ず愛しい者の傍に還れるよう。」 エスティニアンの手は腿から雪上へと滑り落ち、アイメリクの手を探した。アイメリクはその気配に気が付き、手の甲でエスティニアンの指に触れた。二人の指がぎこちなく重なって、親指が交わる。エスティニアンは、アイメリクの手の甲に己の手を乗せ、指と指の間に己の指を滑り込ませた。アイメリクは再び甘やかな溜息を洩らして、小さく背を反らした。 「神に祈るなど、いつぶりだろうな。祈っても聞き入れられぬことばかりで、神の存在など忘れていた。」 「無理もない。だが、心の拠り所や、揺るがぬ軸として神を信じている奴がいる。お前がたとえ忘れていても、誰かにとっちゃあ、あれは忘れがたい大事な存在だ。特に、イシュガルド人にとってはな……蔑ろにするなよ。恨みを買うぞ」 「私を咎められるのはお前くらいだ、エスティニアン。」 「光栄だが、俺の言葉しかまともに聞いちゃいない、の間違いだろう」 「ああ、その通りだ」 アイメリクはくつくつと笑って、エスティニアンの背に体重を預けた。エスティニアンは片膝を立て、体重を受け止めた。絡めた指を握りこむと、金属の擦れる音が小さく鳴った。体温を奪ってゆくような冷たく痛い温度が、エスティニアンの鎧に伝わっていった。 「ありがとう」 アイメリクの掠れた言葉は風にさらわれてたちまち消えてゆく。エスティニアンは返答の代わりに、指にそっと力を込めた。
 ハルオーネはクルザスの透き通る星空を、ゆっくりと歩んでいった。たくさんのみどり、いくえのあおをまとって、その裾を靡かせ、彼女を愛するすべての子どもたちに祝福を与えながら。
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