Tumgik
ikazuravosatz · 10 months
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 どうすべきかをめぐって女たちは言い争い、そのうちに何をするにももう遅くなった。
ジェイン・ハーパー著, 青木創訳『潤みと翳り』
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ikazuravosatz · 2 years
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 私にも、子どものころにくりかえし読んだ本がある。宮尾しげをの『団子串助漫遊記』がそれだ。『流れのほとり』(福音館書店、一九七六年)の著者で、私より一歳下の神沢利子は、子どものころ同じ作者の『軽飛軽助』を愛読し、その戦記の語り、「ギリガン、ギリガン、ギリガンガン」と口に出して唱えると、元気が出たそうだ。
 子どものころのくりかえし読み、少年のころからの早読み、老年になってからのおそ読みと思い出し読み。八十歳を越えて振り返ると、早読みした本の記憶は失われて、くりかえし読みとおそ読みの本は残る。くりかえし読みをした本を、何十年もへだててさらに思い出してみて、それでもおもしろいものは、やはりおもしろい。
 私が二歳から三歳のころ、英語の絵本が家にあって、それを親に読みきかせてもらったことはなかったが、絵から筋を想像できた。『しょうがパン人間(Gingerbread Man)』という本だった。
 老人夫婦が、小麦粉をこねて、子どもの形のパンを焼いた。その子供は家からかけだして、囲いを越えて出ていく。そのあとはよく見なかった。おそろしい絵が出てくるので、こわくてわざと忘れたのだろう。
 何十年かたって、『おだんごぱん』(せたていじ、福音館書店、一九六六年)という日本語の本を自分の子に朗読してやって、そのときはじめて、しょうがパンの末路を知った。しょうがパンの子どもは、せっかく自由になって野山をかけまわったあと、狐に食べられてしまうのだった。
 私としては、家を離れて、野山を自由にかけまわるところに心をひかれて、悲しい結末は見たくなかったから、見なかったらしい。八十年たって民話のあらすじを知ってながめると、自分の生涯がこの物語にすっぽり入っているようにも見える。
「悲しい結末」, 鶴見俊輔『思い出袋』所収.
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ikazuravosatz · 2 years
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 クリスティは、百年は生きのこる名探偵をふたりつくりだした。
 ひとりはエルキュール・ポワロ。ベルギー人。見栄っ張りで、衣服と口ひげの手入れに気をつかう。イギリス社会の最上層を動く顧問となり、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカを旅してまわる。犯人をあてる方法は、仮説演繹法にもとづき、決定的証拠のありかを割りだし、それを見つけて、一挙に事件を解決する。その結論は、犯人をふくめて、犯人と疑われたすべての者を一堂にあつめてその前で明かされる。
 もうひとりはジェーン・マープル。イギリスの田舎、セント・メアリー・ミードの外に出ることはまれ。都会で事件がおこって相談に引っぱり出されたとき、自分の観察の中から似た例を思いだして、犯人をあてる。ミス・マープルが死ぬ前に作者が死んだから、今も生きているとすると百歳を越える。
 [中略]
 家の中のことを見とどける女の頭脳は、天下の事を見わける方法につながる、という考え方に立って、女性作家クリスティは、ポワロよりもマープルをひいきにしていた。
「ミス・マープルの方法」、鶴見俊輔『思い出袋』所収
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ikazuravosatz · 2 years
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絵本の本懐は子供を楽しませることであって、子供の方を見てるふりして親に説教垂れるのも、自分の思想を子供に植え付けようとするのも、全てまとめてクソです
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ikazuravosatz · 3 years
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当代の柳家小三治も、悩んで名人になった人である。小三治もまた、「真面目すぎる」という評に苦しみ、ジャズの演奏家たちの人生を知って振り切ったと言っていたが、実際、一九七九年ころ、それまであまり映えなかった小三治が、急に化けたのを私は記憶している。つい一年ほど前の「厩火事」が、ただ教わったとおり演じているものだったのに、突如、細部まできめ細かな演出を施されたものに変わったのだ。その後小三治は次第に「マクラ」を独自のものに仕立て上げていった。ここで小三治が身につけたのは、「小言幸兵衛」のペルソナと、「間」というにはあまりに長い沈黙である。小言幸兵衛なら、「ぼやき漫才」めくが、漫才のように突っ込んではもらえない。そのためには、幸兵衛が滑稽に見えるのと同じように、小言を言う小三治自身を、そのまま観客に「笑わせ」なければならない。 「落語はなぜ凄いのか」
「落語はなぜ凄いのか」p. 159(小谷野敦『リアリズムの擁護 近現代文学論集』所収)
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ikazuravosatz · 3 years
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こういうパンとバタなどというものはどこにでもあってどれも似たり寄ったりだと思ったのでは少くとも朝の食事がまずくなる。戦後は殊にそうで戦争が始る頃までは確かに東京でも横浜でも旨いパンがあり、どこからか旨いバタが送られて来ていたが、それが戦後はどうもアメリカさんの影響で、或は日本を占領しに来た種類のアメリカ人の好みのせいでパンはただ砂糖を入れて焼いて真っ白で甘いものならばいいことになり、バタは単に脂を補給する方法になった。勿論ものを食べるというのが単に栄養を補給する方法でしかないならば甘く白いパンでもただの脂のバタでも構わない訳である。そうした考え方が行き着く先が月まで飛ぶ時の食べものとも言えない食糧であるが、やはり命が惜しければ食べものは食べものらしい方がいい。そしてどうした訳か神戸で食べるパンやバタは昔通りの味がする。
「□神戸のパンとバタ」『私の食物誌』p.4
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ikazuravosatz · 3 years
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歌舞伎の話をしましょう。  [引用者補, 五代目]勘九郎さんは「演技で大事なのは型である」と言う。同時に、「その型をするときに、なぜこういう演技になったのかを考えることが大切だ」とも言ってるんですね。  ある場面でよろよろと躓いて、膝をぽんと打つ型があるとすれば、なぜここでそういう所作をするのかを自分で考えてからやらないと心がこもらない、と。僕は、これは実に素晴らしい演技論だと思います。つまり型の成立する原点まで戻って考えて、その上で学ぶわけですね。  先代[引用者補, 十三代目片岡]仁左衛門さんの型についての説もおもしろい。仁左衛門さんは、「役者ってものはみんな身長その他違うんだから、人の型なんか取入れたってあんまり意味がない」と言うんですね。これも僕はいい意見だなあと感心した。  勘九郎さんの説と先代仁左衛門さんの説は、一見まったく違ったことを言ってるようですが、どちらも型と演技との根本的な関係を言っているわけです。一番大事なのは演技と心との関係であるということですね。  これを延長して言えば、型の生れたゆえん、自分と型との関係、そういったことを考えないで、ただ型をなぞるのでは意味がない。つまり通説、定説に無批判に盲従していても意味はないということです。それは官僚主義というものですね。
丸谷才一「レッスン5 考えるコツ」(『思考のレッスン』所収)
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ikazuravosatz · 3 years
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本多秋五さんに『古い記憶の井戸』(武蔵野書房刊)といふ随筆集がある。いろんな修理の文章がはいつてゐる本で、随筆集と呼んではいけないのかもしれないが、このあひだ読売文学賞随筆紀行部門といふので受賞作になつたのだから、まあ、かまはないでせう。[中略]  昔、窪川鶴次郎が『風雲』といふ小説を書いたが、その主人公は気分がさつぱりしないときは手を洗ふ癖の男で、それは彼が堀辰雄から教へられたことであつた。(小説の話のなかに突如として実在の人物が出て来るのは、わが国の現代文学では当り前のことである。そのへんは読者諸君もとうに御存じのはず。)その小説を読んでから、本多さんは、頭がはつきりしないときは手を洗ふやうになつた。原稿を書くときには何度も洗ふ。ついでに顔も洗ふし、足を雑巾で拭く。夏はシャワーを浴びる。[中略]  つまり自分は、湯浅芳子、杉村楚人冠、堀辰雄の三人から影響を受けてゐる、といふ随筆であつた。剛直質実な文藝評論家にふさはしからぬ、しやれた味のもので、どこがどうおもしろいのかはうまく分析できないが、しかしおもしろい。  そこで、わたしもまた同じやうに影響を受けてゐるのぢやないかと考へてみる。  まづさきに思ひつくのは、村上元三氏の影響である。昭和三十年代に、村上さんが何かのインタビューで、徹夜で仕事をするときのコツは何か、と問はれ、眠くなつたら、顔と手を、シャボンをつけて湯で洗ふこと、足もさうするとなほいい、と答へてゐたことがあつた。それを読んでわたしは、なるほどなあと感心し、実行することにしてゐる。もちろん当時の村上さんと違つて、わたしは徹夜なんて、ごくまれにしかしませんがね。  でも、この教訓は非常によかつた。殊に、足を洗ふといふのが急所である。顔と手を洗ひ、それから足を洗ふと、さあ書くぞといふ気がみなぎるのである。
「影響」(丸谷才一『好きな背広』所収)
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ikazuravosatz · 4 years
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二部、つまり夜学がある大学なので、週に二晩は夜も教へた。夜学の教員室は人気がなくて、秋になると殊に寂しいものだが、ある夜、教室から引上げて来ると、出してある火鉢のそばに、同じく新任の、ただしドイツ語の教師のNがゐた。給仕もゐなくて、N一人だけがゐた。二言三言、話をしてゐると、風采(ふうさい)のあがらない、一度も見かけたことがない老人がノソノソはいつて来て、火鉢のそばに来る。  そのときぼくは、何となくイヤな予感がして、火鉢から離れ、事務室のほうへ行つた。それで助かつたのである。  しばらくして、教員室へ戻ると、Nが妙にシヨンボリして、浮かぬ顔である。 「おい、どうした?」  と声をかけると、Nは小声で、「まづいことになつた」  と言ひ、顔をクシヤクシヤさせた。  事情を聞いてみると――  風采のパツとしない老人は、Nをつかまへて、 「あなたは新しい先生かな?」  と訊(たづ)ねた。その言ひ方がすこぶる横柄である。Nはカツとして、 「ああ、さうだよ」  と答へ、一体この爺(ぢぢい)はどこの爺だ、と心のなかで思つた。老人はNのゾンザイな答へ方にびつくりした様子だつたが、 「教へていらつしやるのは?」 「ドイツ語」  とNは相かはらずゾンザイに答へ、心のなかで、かういふどこの馬の骨か判らないやうな奴が教員室にノコノコはいつて来て、大きな面をするのはじつに不愉快だ、いや、小使かもしれないぞ、と考へた。  すると老人は、スタスタと教員室から出て行つた。そのとき、事務室へ通じる別の入口から、給仕の女の子がはいつて来て、 「N先生、学長先生はどちらへいらつしやいました?」  と訊ねた、といふのである。  Nはしきりに、ああいふ風態(ふうてい)の爺が学長なのは秩序が乱れるもとだ、と言つてぼやいてゐた。ぼくも同じだが、彼は、まだ学長と会つたことがなかつたのである。  ここで念のため言ひそへておくが、Nにはもちろん何のおとがめもなかつたし、学長は間もなく代がかはつて、現在のこの大学の学長は風采の立派な老紳士である。そのせいか学内の秩序は乱れてゐない。
丸谷才一「先生であること 1」『低空飛行』所収
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ikazuravosatz · 4 years
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坪内 歌舞伎座の前に、仕出し弁当の「辨松」があるでしょ。あれが「木挽町辨松」で、それと別に「日本橋弁松」もあるじゃない? 福田 ワタクシが好きなのは日本橋。 坪内 オレは木挽町。東京の魚河岸はもともと日本橋にあって、そこに弁松もあったんだよね。それが関東大震災で魚河岸が築地に移ったんだけど――「木挽町辨松」は、魚河岸と一緒に移動した正統な店なのか、それともちゃっこいヤツが勝手に築地の近くで「辨松」を名乗って店を作っちゃったのか、いまだにわからないんだよ。お店の人に聞けばいいのかもしれないけど、怖くて聞けない。福田 大丸の地下に入ってる弁松はどっちなの?坪内 あれは日本橋。東横のれん街とかに入ってるのが木挽町。どっちも江戸前の仕出し弁当だから甘辛いんだけど、木挽町のほうがちょっと薄い。福田 要するに、昔で言う二級酒に合う味だよね。坪内 日本橋のほうが味が濃いから、さらに二級酒に合う。木挽町のは一級酒にも合うの。
坪内祐三 福田和也『羊頭狗肉 のんだくれ時評65選』扶桑社, 2014.
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ikazuravosatz · 4 years
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▽身なりを構わぬ弊衣破帽、天下国家を論じる東洋豪傑風を誇りとする明治後期の第一高等学校、その校長に就任した新渡戸稲造は、インフルエンザが流行した時、生徒を集めて講演した。「葉書一枚でいいから郷里の家族に出しなさい。文章を考えるのが面倒なら無事勉強の四文字だけでもいい。金がないのなら申し出なさい。一枚ずつ上げるから」。その日のうち売店の葉書は売り切れたという。寛大さ、謙虚さ、心の触れ合い、ソシアリティの勧め。独りよがりの大言壮語癖 が減少した。
「 人間の善意に対する共感と尊重を軸として」(谷沢永一『石つぶて(全)』文春文庫, 1986)
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ikazuravosatz · 5 years
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折も折、作者がこの物語の中で表立って登場させたことのない百子の兄が、盲腸炎で入院する というさわぎが起った。  彼は煙ったような存在だった。そのためにこの物語の中ですでに起ったさまざまな小事件に も、ついに顔を出す機会がなかったのである。私立大学の英文科を出て、小説家になろうという 奇妙な野望を起し、それでも駆落や心中さわぎで両親を泣かせたことはなく、借金を作るではな く、適当に家業を手つだい、適当に小説の反故をこしらえ、誰の邪魔もせず、誰にも邪魔をされ ず、「沈香を焚かず、屁もひらず」という諺を、絵にかいたような男であった。
三島由紀夫『永すぎた春』新潮文庫, 1969.
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ikazuravosatz · 5 years
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私が薔薇座の中で感じていたあの、下積みの人たちが、私たちを容赦しないあの目つきが、街一杯にひろがっているように、私に段々思われて来た。ああいう目を注がれる身なりをすることはできな い、と私は思った。男には當り前の、身ぎれいな、それでいて目立たない服装がある。男はいい。 しかし女には、自分が満足する着物で、同時に他人の心を傷つけないという、着物が、殆んどないことに私は気がついた。金のあるのを見せびらかすものでない着物、持たないものに反感を覚えさせることのない着物、と考えてさがすと、ずっと年上の、四十すぎの柄を選ぶことになって しまうので、私は苦笑した。
伊藤整『火の鳥』新潮文庫, 1958.
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ikazuravosatz · 5 years
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私は、型どおり、大都劇場の廣い舞臺で、ワーリャの役をしていたけれども、大鳥さんや笛子さ んや高澤さんや潮田さんの舞臺での動きが、急に速度が落ちたように感じた、無意味な、持ってまわった言い方で、十九世紀のロシア人の生活の死骸を、いま私たちは総がかりで下手に眞似し ている、と私は感じた。本當に生きる甲斐のある命の焔が、いま私を呼んでいる。私はその火のなかで焼かれなければならない。そして私はその次の中からよみがえる。私は自分の命を火のなかに投げ入れては甦るあの不死の火の鳥だ。
伊藤整『火の鳥』新潮文庫, 1958.
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ikazuravosatz · 5 years
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「かもめ」は、静かな劇だ。アルカージナを演ずる役者のためには随分多くのシチュエーション があって面白いけれども、外のどの役も自分が完全に役を果たしたような気がしないらしい。性 格の切れっぱしのようなセリフだけがあちこちに散らばっている。 「君たちはこの芝居では、一人一人、自分の役を十分にやっていないような気がするだろう。だ から、きっと満ち足りないような気がするだろうけれども、たがいに言い合っていることの全體に注意したまえ。それがチェーホフだ。そしてその全體がシンフォニイとなるためには一人一人 が、自分は人生の切れっぱしだけを表現しているという意識がなければならない。」先生の言葉。
伊藤整『火の鳥』新潮文庫, 1958.
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ikazuravosatz · 6 years
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僕の希望はこの映画が生きている何かと似たものになってくれることです だから1つのテーマで映画を始めてはダメなんです 僕たちは映画をテーマだけで観てはいない そんな見方をするのも幼い頃の訓練のせいです ”この作品のテーマは?”というやつですね でも実際映画を観る時はそんなものがなくても感動します 僕は漏斗(じょうご)で集めたものには興味がないんです
映画『教授とわたし、そして映画』
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ikazuravosatz · 6 years
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池田成彬(しげあき)によると、幕末から明治にかけての日本人には、日本語のむずかしさをさける工夫があった。自分よりもさらに年長の人に「池田ナルヨシ君」と呼びかけられて、自分の名前は「ナリアキラ」と読まれることはあるのですが、と言うと、自信をもって読めない漢字はすべて「ヨシ」と読めばいいと教わったそうだ。
鶴見俊輔「翻訳のすきま」『思い出袋』岩波新書所収
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