Tumgik
zenta1989 · 1 month
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ガーっとテーマの話をして、チーンという擬音が見えるほどの沈黙が流れた。一緒くたに考えてくれるなということはよくわかった。we are not marinalized、ということも確かにそうだが、それはわたしが使っていた意味でのmarginalizedと同じ意味だったのだろうか。なるほど、まだ自分の言葉で構築できるほどのコンテクストを持った言葉をつくり出せていないことはよくわかった。
Yuriさんの問題の抹消化が非常に気になった。CPAなんていない、と。しかし、そうではない。
みたくないものが、聞きたくないこと、考えたくないことがあまりにも多いのかもしれない。
反町さんのいうローカルとCPAのいうローカルと、それらとは別に自分自身のなかでのローカルとを分けて、つなげて考えていかないといけないだろう。
まずは文献だけでも十分にやることがある。反町さんに近すぎてもダメだし、CPAに近すぎてもダメだ。人々が手に取れる、mediateする言葉とそれが可能な経験の領域を探し出さないといけない。でなければ、ここで研究を進めていくことができない。
今日のたった1時間の会話はこれ以上になく自分のためになった。どこまでできるだろうか。焦らず、ゆっくりと考えよ。ただ、一方でエキと酒を飲んでいると、必ずしも自分の感覚が間違っていたのかがわからなくなる。というか、沈黙の時も、言葉の角度を間違えた感じはしたが、自分の考えている方向性自体が間違っているとは言えなかった。ただそれ以上にもっとセンシティブに動かしていかないと何も動かないだろうことがわかった。
Land is lifeの例など、それが左派に占有されており、その言葉や感覚はそれ自体は左派より遥か前に先住民の中で育まれてきた考え方だ。しかし、いまその言葉を使えば、それはred-taggingされてしまう。環境NGOもその言葉をそのように使うことができない
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長蛇のカウンター、スピーカーで話す女性、スマホからは嗚咽する音。おそらく彼女の息子だろう、声は幼い。すでに出国モードなのか、彼女の声はわりと冷たく冷静に息子をなだめる。
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zenta1989 · 1 month
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都市にも雨が降る。雨はこの点と線で繋がれた平面の地図に立体を教えてくれる。流れる水がある地点へと集まり、溢れ出す車は逆に流れを止めて、この街の複雑な道筋を示す。傘をさす人々は、人一人が必要とする守るための最低限の空間を作り出し、行き交う人がそれをぶつけ合っている。近づきすぎると、舌打ちの音が聞こえてくる。ただ雨が降るだけで、あるモノは姿を現し、ある物はひっそりと隠れる。 我々のコンクリートの空間の上にも、自然の流れは流れている。気が付かなくとも、それは私たちの一部をしっかりと握りしめている。形のないものに形を与えるのは構造だが、輪郭を掴むことは難しい。いや、むしろ簡単なのかもしれない。絶えず注意深くいることさえできれば。
にしても雨がよく降るなぁ。 ノート 2016年8月13日 19:05
帰るジープ、ナボタスへと向かうにつれて該当の数はこころなしか減っていく。働き、疲れ、休みを求めて帰る人々がなかに乗っている。乾いた冷たい風が吹いたあとに雨は突然降りだすものだ。アスファルトに弾ける雨粒は、一瞬泡のように膨れていく。ドライバーの行く先を、ジープのライトが照らしている。しかし、その先には暗闇がある。雨のカーテンに遮断され、向かいの乗客の間から降りる場所を確かめる。視界は悪く、どこを走っているのか確信を持てない。知らない道に入ったような気がしてくる。あんなところにガソリンスタンドがあったのだっけ?そう思うと、もうどこまでも行ってしまえとそう思う自分がいた。スコールは雨と共にわずかな旅を連れてきてくれます。人にはとても優しくなれる時間が訪れる時があって、そのぬくみを待っていることは生きる幸せのように感じたりします。 8/28 01:05, 2015 フィールドノートより。
久々のマニラだ、、、とか思おうとしたけれどいうほど久々じゃない。けれど窓側の席に座ってしまったのだから仕方ない、、とか思いながら外を見ていると。マニラがチカチカとちらちらと輝いている。きっと電線や木陰の下の電柱からひかりが漏れ出して、移動する飛行機にそのあいまを見せてくれているのだ。ちかちか、そうして目が多くの光へと導かれていくと、何千、何万という膨大の数のひかりの群れ、「有機交流電燈のひとつの青い照明」がただ現れては消え、見えては見えなくなり、巨大なエネルギーを発している。この瞬くひかり、その瞬きの強さと不安定さ、群れとなる有象無象が、わたしが捉えたかったものなのかもしれない。そんなことを思い描きながらひとつの青い照明としてこの街に加わるのだった。
「The radiance 光輝」というでっかいホテルかコンドがマニラ湾沿いに立っている。その下を無灯火のトライシクルが後ろに誰かを乗せて疾走する。時にやみ夜に紛れながら走るその姿は、FF7みたいだ。
あと、空港から降りて、いつも通るPasayのAirport road沿いのガールズバーみたいなところ、なんなんだろう。どういう人がそこで遊ぶんだろう、色々と不明すぎて謎なのであった。ただあっこの場末感はなんでなんだろう。
3/1 久々のマニラだ、、、とか思おうとしたけれどいうほど久々じゃない。けれど窓側の席に座ってしまったのだから仕方ない、、とか思いながら外を見ていると。マニラがチカチカとちらちらと輝いている。きっと電線や木陰の下の電柱からひかりが漏れ出して、移動する飛行機にそのあいまを見せてくれているのだ。ちかちか、そうして目が多くの光へと導かれていくと、何千、何万という膨大の数のひかりの群れ、「有機交流電燈のひとつの青い照明」がただ現れては消え、見えては見えなくなり、巨大なエネルギーを発している。この瞬くひかり、その瞬きの強さと不安定さ、群れとなる有象無象が、わたしが捉えたかったものなのかもしれない。そんなことを思い描きながらひとつの青い照明としてこの街に加わるのだった。
「The radiance 光輝」というでっかいホテルかコンドがマニラ湾沿いに立っている。その下を無灯火のトライシクルが後ろに誰かを乗せて疾走する。時にやみ夜に紛れながら走るその姿は、FF7みたいだ。
あと、空港から降りて、いつも通るPasayのAirport road沿いのガールズバーみたいなところ、なんなんだろう。どういう人がそこで遊ぶんだろう、色々と不明すぎて謎なのであった。ただあっこの場末感はなんでなんだろう。
2024 3/1
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zenta1989 · 2 months
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研究においてみずからの態度を明確にすること、その態度の諸前提が身についていれば良いものを書けるし、小手先であれば良いものは書けないだろう。
真っ当な感覚があるって感じ、大事よね、スコットにもある。けど、わいはTadiarの方がしっくりくる。フーコーは、パワー強すぎる印象。
重要なのは文化人類学に論文を載せることではもはやない。じぶんの思考を単著で十分に伝えるために、その精度を高めるために注力する。
ある意味では10月下旬に花伝社に原稿を出したあとに論文化すればいいか。そうしようかなぁ。
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zenta1989 · 2 months
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...the subject, the epitome of mediation, is the How — never the What, as opposed to the object — that is postulated by any comprehensible idea of the concept ...society is immanent in experience...
(媒介の核心としての主観は、決して客観と対立することがない、いかにであり、それぞれが把握される主観概念の、表象をとおして要求される、なにかであります。たとえ現実的ではないにせよ、主観は可能性として、客観性より除去しては考えられないものでありますが、同様に主観性を客観から除去して考えることは、不可能ではありません。いかにおのれが規定されるか、それに対して冷淡な主観から、存在するものを奪取することは不可能です。・・・なぜなら社会は経験に内在するものであり、別種ノモノにはならないからです。客観性のうちで支配する社会的強制に従い、認識がかかる矯正を考え合わせるのをやめるや否や、認識は客観性を逃しますが、認識の社会的自覚のみが、認識をしてかかる客観性を獲得させるのd巣、社会批判とは認識批判であり、認識批判とは社会批判の謂であります)
Theodor Adornoの「On Subject and Object」(アドルノ(1971)「主観と客観について」前掲 『批判的モデル集Ⅱ――見出し語』所収、201-225 頁。)
Mediators are fundamental. Creation is all about  mediators. Without them, nothing happens.
(とりわけ重要なのは仲介者です。創造とは仲介者のことなのです。仲介者がいなければ、作品はありえない。) Gilles Deleuze, “Mediators,” Negotiations: 1972–1990 (New York, 1995), p. 125. 記号と事件―1972‐1990年の対話
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zenta1989 · 3 months
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「アカデミックくそやろう」です。
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zenta1989 · 3 months
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恋愛において自然に振る舞わなければならないというパフォーマンスはきわめてジェンダーを再生産する行為化なんだろうな。
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zenta1989 · 3 months
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貢献のイメージ
「新しさ」だと差異を加えること、枝葉を伸ばすこと
それよりは幹を太く、根を深くすること
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zenta1989 · 3 months
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The Slum Chronotope and Imaginaries of Spatial Justice in Philippine Urban Cinema →Knoxも言ってたけど、政治を言語の世界に止めることには反対である。そうではない政治のかたち、それは一つはモノだろうし、またAffect的なものも政治理論を外部に拡張する存在だろう。言語とモノだけってわけじゃない、その外の領域の重要性。というか、そうでなければ、フィリピンにおける公共みたいな概念を取り出すことができないから。
パーソンズの時代:それを罵るミルズ、批判的に社会をみる、個人と全体社会を結びつける想像力、社会構造を理解するための力(自分が経験できるほんのわずかな世界から大きな世界を捉えること)、パーソンズのように客観的に社会を捉えるのではない
人類学的想像力
個人的な異文化経験(FGM、スラムの障害者)と向き合うことで、個々のコミュニティや小さな空間や社会を通して、より大きな世界をどうやって想像するのか。 違うことを徹底していく方向:包摂や支配ではなく、違うこと自体に価値を求めていく 違いを越えて類似性、近似性、普遍性を希求する想像力 【普遍性の追求】人類学、違いを突き詰めると同じである、クラックホーン「人間の鏡」習慣の違いはあっても、人間の基本的な価値観は共感している 色彩研究など 普遍的人権、アメリカ人類学会、ボアズ、ハースコヴィッツ「それぞれの社会において自由であるということは違う」
Michael Burawoy(社会的関与と公共性の学問再編) 道具的知識と反省的知識→社会と繋がるには、学問の普遍的水準を持たなければならない
異文化への介入=植民地主義、それに対する批判としての文化相対主義、
→ストラザーンの人類学的想像力は、比較のあり方/アナロジーの用い方にある。「ストラザーンの比較は、外部(理論的)な視点から見るために並べられるのではなく、横にずれることで実現される」、「二分化から生じる再認識が、「有用に衝撃的なアナロジー」(Tsing, this issue)の基礎」
1.メタファー的利用の再検討、 2.マテリアルな現実
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zenta1989 · 3 months
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この前のReviewについて Private propertyの考え方について KadamayのPandiの占拠 Squatterという土地から切り離された潜在的な労働力とそれが滞留する場所 →しかし、彼らがその土地に住まう時に、その土地と再び関係を結び始めていると考えることはできないのだろうか。 わたしが興味があるのは最初のSquattingをするときにどのように土地と関係を持ち、それを同じSettlersの間で、また外部のアクターとの間で法的にではなくても認めさせるのか。その感覚をフィリピンのタームから説明できないか、ということ。マルクス的なuse valueとcommercial value以外の説明するタームを作れないか。もちろんフィリピンがEconomicalな差異に基づく以上、マルクス的な知識は非常に重要だけど、正当性を表現するための解釈は他にもないのだろうか。 →しかし、こういう取り組みはすぐにVernacularな山地などの先住民の方に行きがちだけどそうだろうか。例えば、Aguilarの初期の農村地域研究を見つつ、そこには単純な近代でも、マルクス的なものでもない所有概念が存在していることを指摘している。 マルクスの労働力が個人に所有されるという理解と、フィリピンのKapwaみたいなIndividualではない人格概念の重要性がなにを意味しているのか。
資本主義社会のイメージは産業的(工業)なものであり、その社会には農民の居場所はない。なぜなら、農民が先に解散することが資本主義の出現の前提条件だからである。
→ こうして考えると、スラムというものは極めてポストコロニアル的な環境のうちにあり、経済的な側面だけではなく、より歴史文化的な理解を必要とするのかもしれない?
The Philippine social formation is thus configured in terms of multiple and overlapping circuits of exploitative social relations. The class structure has become extremely complex such that mechanisms as well as relations of exploitation cannot be observed in a simple dichotomous fashion
・Moral的なもの、Soonの研究にあるように、そうした親密性の政治とCitizenship論との距離。どうしてもマニラで市民権として論じることが響かないのはなぜ?
・Tondo、特にSmokey mountainでKadamayなどと関わりのあるNGOやActivistを教えてほしい。 Loobとは、空間的な内部でもあるが、同時にPersonでもある。それは西洋的な個人やセルフといった人間にかんする概念とズレが存在する。人類学では、個人を始点とし社会(関係)を考える研究に対する批判がメラネシアの事例などからなされているが、その際、関係を始点として議論は展開する。
そうしたLoobという人格の理解は、フィリピン人が新自由主義経済に包摂されるにつれてますます再考する必要と重要性が高まっている。
すでに関係に注目することは、フィリピン研究のスタンダードとなっているが、それだけでなく、その関係的な議論をふたたび人格の問題と絡ませながら考えることが必要である。
そして、そうした人格をめぐる議論の検討は、その人格の外部、そしてそのLoobの外部といかなる関係にあるのかを考えないといけない。なぜなら人格に関する思弁的研究ではなく、それが現代の経済・政治構造といかに摩擦を引き起こしているかが問題だからである。
Loobanの理解はあくまで都市空間における内部、的なところで止まってしまっているようにみえる。
“The street is the heart of slum life. The common expression “anak ka ng kalye” (child of the street) metaphorically exemplifies the importance of the street to the lives of the people in Looban.” – (F. Landa Jocano 1975 p. 37).
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zenta1989 · 3 months
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欲望の対象がわからないこと、何を欲しているのかを与えられないことの苦しさとおもしろさ
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zenta1989 · 3 months
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In fact, many of the accounts in the hegemonic text (such as People Power) took on biblical forms; they were told as parables, testimonies, juridical witnessings, and exegeses. And the entire revolt is told as a parable of a Church-sanctioned miracle.90 As the filling of a lack (Ninoy's death), the fulfillment of a promise (national redemption), and the expulsion of a surplus object of antagonism (Marcos), the EDSA experience served to encapsulate the crisis that is the nation as the crisis of the nation, which had now been dealt with and overcome. Thus the nation building that came afterwards could not be founded from another point radically different from the point from which it had been hitherto constructed and maintained. As I argued in the first chapter, the fantasy upon which the Marcos regime had been founded was still in place, even if the state would undergo alterations in the process of accommodating the excessive desires of the people. Viewed in terms of Ninoy's death in the hands of the Marcos-military regime, the debt that marked the nation's constitution was seen then to have been paid or recompensed (such that even the military's complicity came to be overlooked). Rather than being seen within the context of the international fantasy of imperialism, it was seen only as an internal, domestic problem. In other words, the national crisis was not addressed within this larger context, outside the grasp of the Free World fantasy. Dependence was seen as a symptom of only an internal national failure rather than as the product of international dreamwork. Thus the emphasis on inner strength and transformation, thus the spiritual solution — 'reconciliation' — to the antagonisms that pervade the Philippine socius. No doubt, these are the 'empty gestures' by which we assume our subjective freedom as a community. But that subjective freedom is the condition of struggle, not its end. In order to transform our concrete 'reality', we must also undo the fantasyscenarios that organize it and dream other realities into being. The political imaginary that needs to be transformed to revolutionary ends, however, subsists in concrete social relations — in the world men and women make with the instruments of their lives as well as with their minds. In the words of Sekou Toure, 'the world is always the brain of mankind [sic].'91 Hence, any struggle to transform the fantasy-reality of our society must also be a material struggle to transform the socio-political structures and institutions it regulates. For history is made on the fantastic terrain that stretches between a society's objective institutions and its living imaginary. More importantly, it is made by the people who ply that terrain, who are no longer willing to be resigned to the possibilities of life 'reality' affords, and who decide to act, to heed other callings and make 'reality' yield to their desires. This is where true 'people power' or, as some have put it, 'people's power', lies.
実際、覇権主義的なテキスト(『ピープルパワー』など)の記述の多くは聖書の形式をとっており、たとえ話、証言、法学的証言、釈義として語られている。そして、反乱全体が教会公認の奇跡のたとえ話として語られるのである90。欠落(ニノイの死)を埋め、約束(国家の救済)を果たし、余剰の敵対対象(マルコス)を追い出すものとして、EDSAの経験は、今や対処され克服された国家の危機として、国家という危機を包み込む役割を果たした。したがって、その後の国家建設は、それまで国家が構築され維持されてきた地点とは根本的に異なる別の地点から立ち上げることはできなかった。第1章で論じたように、マルコス政権が基礎としていたファンタジーは、たとえ国民の過剰な欲望を受け入れる過程で国家が変化を遂げるとしても、依然として存在していたのである。ニノイがマルコス=軍事政権の手によって死んだという観点から見れば、国家の憲法を象徴する負債が支払われた、あるいは返済されたと見なされたのである(軍の加担さえも見過ごされるようになった)。帝国主義という国際ファンタジーの文脈で捉えられるのではなく、国内の問題としてのみ捉えられた。言い換えれば、この国家的危機は、自由世界ファンタジーの把握の外にある、より大きな文脈の中では扱われなかった。依存は、国際的なドリームワークの産物としてではなく、国内的な失敗の症状としてのみ見なされた。こうして、内なる強さと変容が強調され、フィリピン社会全体に蔓延する軋轢に対する精神的な解決策、つまり「和解」が強調された。間違いなく、これらは共同体としての主観的自由を前提とした「空虚な身振り」である。しかし、その主観的自由は闘争の条件であって、その終わりではない。私たちの具体的な「現実」を変革するためには、それを組織化し、他の現実を夢想する空想的シナリオも解かなければならない。しかし、革命の目的のために変容させる必要のある政治的想像力は、具体的な社会関係の中に、つまり、男女が自分たちの生活の道具と心で作る世界の中に存在する。セクー・トゥーレの言葉を借りれば、「世界はつねに人間の頭脳である」91 。それゆえ、私たちの社会のファンタジー=現実を変革するための闘いは、それが規制する社会政治構造や制度を変革するための物質的な闘いでもなければならない。歴史は、ある社会の客観的な制度とその社会の生きた想像の間に広がる幻想的な地形の上で作られるからである。より重要なことは、その地形を行き来する人々、もはや「現実」が与えてくれる人生の可能性に見切りをつけることを望まず、他の呼びかけに耳を傾け、「現実」を自分たちの欲望に屈服させるために行動することを決意した人々によって作られるということである。これこそが真の「ピープル・パワー」であり、「ピープルズ・パワー」と呼ぶ人もいる。
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zenta1989 · 3 months
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消失点は描くことができない。絵画の平面上に現れるのは権力者のヘゲモニーの範囲で現れたものに過ぎず、けれどそれを立体的に理解可能にするのがサバルタンである。ゆえにフィールドワークでそれらの声を聞き取ることができれば権力の絵画は不成立となる
先住民という立場性とサバルタンというドキュメントに残らない立場性、結構この違いが大事やんな
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zenta1989 · 5 months
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どうやって生を位置づけるか、この怠惰に怠惰を重ねた11月。社会的な生を感じることなく、死んだように酒を飲み、ただただじぶんを殺し続けていた。負のサイクルから抜け出す手だてが何処にあるのか、なにから手を付ければいいのかもイメージできず、すべてが無へと帰る瞬間を待つように沈殿する。
わたしはそういう風に生きるのが下手で、ドライバーのふんじばって生きているその生にとても憧れている。自分たちで自分たちが生きる空間と土壌を耕す。そのために政治もするし、変えようとするし、狡い生き残り戦略もする。ブレることがない日常をつらぬく強さ��憧れる。
一方でこんなふうにしか生きられていない自分が彼らよりも金をもらっていることに可笑しさを感じる。民衆のために、民衆として生きている。その民衆とは単に貧しさに根拠づけられた同一性に裏打ちされているわけではない。たしかにそれは部分的にはそうとも言えるが、この都市の流れをつくり続けてきた土壌に、かれらの生が肥やしとして混ざっている。
都市は労働力をとりあげて、人びとの死骸となった労働のうえに都市が立つ。イマでは世界中のフローを支えるフィリピン人、だからこそかれらがどういう風に自らの空間を創り出していくのかを問わないといけない。これは資本とグローバリゼーションに最も深く取り込まれて、絶え間ない流れに巻き込まれ��都市でそこで民衆が民衆のために都市を生みだし作り変え続ける物語であり、そのための手立てとなる想像力を都市の底流から彫り上げる試みである。
流されるだけでなぐ、泳ぎ、自分で流れをつくりみずからの、じぶんたちの意志で生きるという感覚
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zenta1989 · 5 months
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わたしのエゴに学生を付き合わせてはいけない。教科書はそういう点で大事なのかもしれない。
わたしのエゴは授業のアクセントとしてあればいい。
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zenta1989 · 5 months
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接頭辞への注目は、そのことばが持っているベクトル(運動性と運動能力)を調整しようとする、みたいなイメージで調べている。
eviction: (司法判決による)自分の所有物の回復」、evincere の過去分詞語幹の動作名詞で、文字通り「克服する、征服する」(evict 参照)。1580年代から「司法判決による占有離脱、正当な法の手続きによる他人の所有物からの土地や長屋の回復」として使われるようになった。
demolition: 1540年代、比喩的な「破壊、転覆」、1610年代、文字通りの「(建造物を)引き倒す、破壊する行為、取り壊される事実」、フランス語 demolition「取り壊し、敗北、敗走」(14c. ラテン語 demolitionem (名詞 demolitio)、demoliri 「取り壊す」の過去分詞語幹の動作名詞、de 「取り壊す」(de- 参照) + moliri 「建設する、構築する」、moles (属格 molis) 「巨大な構造物」(mole (n.3) 参照) から。 )).
前者は放逐、後者は破壊(社会的な暴力と物理的な破壊を伴う暴力)
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zenta1989 · 5 months
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重要なのはEthnographic moment not ethnograhy itself. 
人類学のいう誠実さ、エスノグラフィックな誠実さ。それはつねに「社会」をそのまま記述することではない、かもしれない。
わたしは、フィールドワークを通して、かれらの社会性や在り方を借用し、それを紹介する。もちろん盗用になってはいけない、誠実さが必要。だが、この借用という学びの形式は、かれらの生の在り方をこちらへと、そしてかれらの姿から学ぶように示す。
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zenta1989 · 6 months
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インフラストラクチャーは、モノ、物質、商品、身体の運動だけでなく、日常生活や世代間生活の運動、欲望の循環、集団運動の可能性、そしてLauren Berlant(2016)によれば、"社会形態の運動やパターン化 "にとっても重要である。法律や他の社会的再生産システムが担っているのは、このような運動である。法は、すでに構成された社会秩序を規制するのではなく、それを実現するためのインフラストラクチャーとして機能する。例えば、(犯罪性ではなく)法がカルチェラリティを生み出すのである。ベルラントは、世界の構築をインフラストラクチャー作りとみなすよう私たちに勧めている。インフラストラクチャー分析は、私たちが一般的に構造と呼ぶものが、空間と時間を超えた連続性の難解な原理ではなく、遠くから見たときだけ強固である動きのパターンにおける力と価値の収束であることを理解するのに役立つ」(Berlant, 2016, p.394)と示唆している。このように、一見固定された構造の代わりにさえ運動を主張するインフラストラクチャーは、再生産とその根本的な変革の「方法」に関心を持つ私たちにとって、抗しがたい存在である。
インフラストラクチャーは、物体、物質、商品、および身体の動きにのみならず、日常生活と世代間の移動、欲望の循環、集団運動の可能性、そしてLauren Berlant(2016)によれば「社会的形態のモビリティまたはパターン化」にとっても重要である。法律や他の社会的再生産システムが担っているのは、このような運動である。…Berlantは、世界の構築をインフラストラクチャー作りとみなすよう私たちに勧めている。インフラ分析は、「私たちが一般的に構造と呼ぶものが、空間と時間を横断する連続の不変の原理ではなく、遠くから見たときにのみ堅固な移動のパターンで力と価値の収束であることを私たちに見せてくれる」と述べている(Berlant、2016、p. 394)
これは法律や他の社会的再生産システムが担っている基盤です。法律は既に構築された社会秩序を規制するのではなく、それを実現するための基盤として機能します。例えば、法律(犯罪ではなく)は監禁性を生み出します。Berlantは、世界構築を基盤の構築と見なすよう私たちに提案しています。彼らは、「基盤分析は、私たちが一般的に構造と呼ぶものが、空間と時間を横断する連続の不変の原理ではなく、遠くから見たときにのみ堅固な移動のパターンで力と価値の収束であることを私たちに見せてくれる」と述べています(Berlant、2016、p. 394)。このような構造と見られるものでも実際には動きがあるという主張は、再生産とその根本的な変容に興味を持つ私たちにとって、基盤を魅力的にしています。
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