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yongohingo · 9 months
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ファーストを探せ! その1
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どうも、よんごひんごです。
今回は、『1st隈元』は誰だったのか? を調べてみたい思います。
さて、前提条件として
1、今の所、全国に4,100名程度の隈元さんがいる。 2、鹿児島(南九州)に結構限定された苗字である。
ことが解っています。
そこで、4,100名の隈元さんがどの様な感じで増えきたのか考えてみます。
仮に
『1世代で2つの隈元さん家が発生する』
とした場合
『n世代経つごとに、2^n(2の乗)の隈元さんが発生する。』
しかし戦争や保健環境を考えた場合、『2』ではもしかして多いかも・・・
ということで、『1.5』を基数として、n乗してみることにします。 この場合、4100人の隈元さんが生じるためには、 20〜21世代が必要となります。
人口統計鵜学上、1世代は『25〜30年』となることから 年数でいうと『500〜630年前』に 初めての隈元さんが発生した計算になります。
私を含む基年なので、ちょっと膨らみを持たせ 西暦1300年〜1400年・・・ まぁ、14世紀頃と捉えて良さそうです。
時代として、鎌倉末期から室町初期。
どうやら、このあたりの時期に『1st隈元』が確認できれば、現在の隈元ずは1stさんを始祖としていると言えるのかも知れません。
という事で次回は、歴史資料を参考にファースト探しを続けてみることにします。
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yongohingo · 9 months
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ガラパゴス島津
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こんにちは、よんごひんごです。
隈元さんの地域分布を見た時に、その名前のルーツが『隈元門』にあるとかいてありました。
今回は、ちょっと寄り道して『門割制度』など、島津家の領国統治について、ざっくりと説明したいと思います。
天下分け��の大戦『関ヶ原の戦い』で、奇しくも西軍に与する形になってしまった島津さん。
西軍の敗色が濃厚になる中、東軍の中央を突破してダイナミックな帰宅を果たします。
帰宅後は、徳川に対し臨戦体制を維持しつつ、領土の安堵を画策します。
そのためなのか、諸国が約6%という武士率だったのに対し、島津さんちの武士率は約26%という高武士率。実に4人に一人が武士ですが、臨戦体制を解くと徳川さんがやってくるかも・・・という不安が残ります。
この異常な状態を解決する手段として、『自給自足の駐屯兵団』システムで対応することになります。
システム名は『外城制度』
『麓』と呼ばれる武家集団の集まる町を島津領地内に配置します。その数100余り
自給自足の駐屯兵というとかっこいいですが、実際には『半士半農』です。まぁ、中世武士の形態そのままですね。
結果、他藩では武士のサラリーマン化が進む中、島津領内では江戸期を通して中世的様相が色濃く残ることになります。まさにガラパゴス。
さて、武士の中には島津さんのお膝元(今の鹿児島市)に住居する城下士もいます。彼らは所領を持ってますが、自分では田畑は耕しません。
反して麓の武士は半士半農・・・ 鬱憤が出てきそうですが、実はその真逆。麓の武士団は、自分たちが麓衆であることを誇りに持っていました。
なぜか?
まず、『麓』 とは 『附本』のことであり『島津家直下の武士団』と理解していた様なのです。
そのため、自分たちのことを、君主(島津さん)から武士(戦闘集団)としての本分を任された集団と考えていた節があり、「城下士何するものぞ」という麓衆もいた様です。
さて、麓ですがプチ城下町として発展していきます。もともと軍事ネットワークとして整備されたことから、兵站ライン上にあるわけなので、物流拠点でもあるわけです。
そして、麓にはだいたい裏山があります。これらの裏山は、山城として転用(正確には「復帰」かな?)可能。城下町である麓も、ちょっとした要塞なので、本気の臨戦体制が江戸期を通して維持されていました。
そして、この外城制度と組み合わされたのが、『門割(かどわり)制度』になります。
外城制度が戦闘力の維持システムだとすると、門割精度は兵站(モノ・ヒト)の維持システムです。
麓周辺の村々は与えられた田畑を耕し収穫物を納税したり、役務についたりするわけですが、その管理単位が『門(かど)』であり、4〜5家で構成されていました。
門が集まって「方限(ほうぎり)』というグループを形成し、『方限』が集まったものが『村』になります。
麓 > 村 >  方限 >  門 >  家
という構造で、領内の人民と年貢の管理を行っていました。
さて、耕作物の税率はどれくらいだったのでしょうか?
諸藩は『四公六民』(40%)とか『五公五民』(50%)だったところ、島津さんところでは『八公二民』だったと言われます。
とってもブラックな香りがしますね・・・
さて、今回は島津さんの領地統治の2本柱についての、ざっくりとした説明でしたが、次回からは本来の目的「ルーツ探し』に戻ろうと思います。
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yongohingo · 9 months
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どっちを調べるか問題
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こんにちは、よんごひんごです。
ルーツ探しを行うとき、 ①家に伝わる文献(家系図など)からたどる ②明治期までなら、戸籍を調べる ③お寺の過去帳を調べる などの方法があるわけなのですが、
①の家系図は、爺さんの本家にあるらしいのですが、その本家がどこにあるか不明なので断念(鋭意調査中!)
③の過去帳については、廃仏毀釈がその行く手を阻みます。 明治初期において、全国的に発生した廃仏毀釈ですが、特に鹿児島は激しく、幾つものお寺が姿を消していきました。
その中で、過去帳も失われていくわけです・・・
しかたないので、②の戸籍を使って明治期まで調べてみました。
隈元 カソ  ┃  ┗興三次(松本 正右衛門の次男)    ┃ 養子として入籍:明治27年5月15日    ┣━━━━━━━━┓    ┃        ┃   稲田 スキ     ┃             ┃    ┏━━━━━━━━┛    ┣━長男:邦夫 / 早世    ┃    ┣━長女:モヨ / 桑幡家へ嫁ぐ    ┃    ┣━次男:昌(祖父)    ┃  ┃    ┃  ┣━ 父 ━━ 私    ┃  ┃    ┃ 山下 スミエ    ┃    ┣━次女:チノ / 徳永家へ嫁ぐ    ┣━三男:益雄 / 本家を継ぐ    ┗━四男:菊哉 / セレベス方面にて戦死(海軍)
系図を遡りつつ確認してみる・・・
まず、祖父は次男だったが、長男が早世したため本来なら家を継ぐはずでした。が、諸般の事情により師範学校(今の教育大学的機関)に通うため、三男が本家を継ぐことになります。この三男の家に家系図が伝わっているらしいです。
そして、曾祖父が松本家から隈元家に養子として入籍しています。これは、松本家が隈元家の株を買って次男を隈元籍にしたことに起因しています。
さてこの場合、どちら(隈元 or 松本)を自分のルーツとして遡るべきか問題です。
しかし、ここで思いました。
「この先も同様のケースは発生するのではないか?」
「まずは、家のルーツを調べて、血のルーツはその後に調べればよいのでは?」
ということで、まずは『隈元家』のルーツを調べていくことにします。 *松本についても並列して調査を進めてますが、記事としては隈元優先でいきます。
ちなみに・・・
口伝によると、父の祖父(?)は、『松本操』というらしいが、戸籍上でその事実は確認できていない。
興三次を、『みさお』とでも読むというのか!?
もしくは、興三次の兄のことなのか?
ちなみに、隼人警察署長だったらしいので、���察署に問い合わせするのもアリかもしれないが・・・まだ電凸していない。
と、いうことで
今後は隈元家のルーツについて調査を継続していくことにします。
もしも、鹿児島出身の隈元・松本(元)の方が運悪くこのブログを見てしまった場合、ご連絡いただけるとありがたいです。
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yongohingo · 10 months
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『隈元さん』の生息域
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『隈』
この漢字、読めますか?
『阿武隈』の『隈』です。
東北地方にお住まいの方、 もしくは、艦艇好きの方であれば、 すんなり『くま』と読んでいただけるのでしょうが、 結構の確率で『すみ』と読まれることが多いです。
こんにちは、そんな『隈』が名前に入る、よんごひんご隈元です。 私の属している『隈元さん』とは、どのあたりの名前なのか・・・ を、ネット上のデータをもとに紹介しようと思います。
早速、苗字由来ネットさんに聞いてみました。
【名字】隈元 【よみ】くまもと,すみもと 【全国順位】 3,151位  【全国人数】 およそ4,100人 【名字の由来解説】  現鹿児島県である薩摩の有名氏族  現鹿児島県東部である大隅にもみられる。  近年、鹿児島県。熊本県に多数みられる。  中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)がある。
九州の南部に多い苗字で、全国に4000人近くの隈元さんがいるらしい。
ちなみに、爺さんからは中臣鎌足が家系図に載っていると聞いたことがありましたが、私は実物を見たことないのでちょっと真実味が増したような気がします。
さて、もう一つ、日本姓氏語源辞典さんでも調べてみました。
クマモト 【隈元】5 日本姓氏語源辞典 鹿児島県、宮崎県。 ①熊本の異形。鹿児島県鹿児島市城山町が藩庁の薩摩藩士、宮崎県宮崎市佐土原町上田島が藩庁の佐土原藩士に江戸時代にあった。 ②地形。隈のそばから。江戸時代にあった門割制度の隈元門から。門の位置の例。鹿児島県鹿屋市川西町、鹿児島県鹿屋市下高隈町、鹿児島県鹿屋市輝北町市成、鹿児島県肝属郡肝付町前田。門による明治新姓。
『門割制度』ってなんでしょうか? よくわからないので、今後の調査対象として、まずは生息域を優先します・・・
で、分布図も出てきました。
ものの見事に鹿児島に偏った生息域になっています。
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関東・関西・中部・福岡(都会)における分布は、仕事や学校の関係で南九州を脱出した隈元さんたちだと思われます。
北海道にほんの少し生息しているようですが、これは明治期における開拓団の名残だと思われます。(サッポロビールは鹿児島出身の方が北海道で立ちあげています。)
熊本県にも、ほんの少〜し分布している様ですが、県境から滲み出たものと思われます。
宮崎は、都城市は島津藩領でしたし、宮崎市(佐土原)にも佐土原島津藩があったので、その名残でしょう。 *宮崎には、島津家の他に「延岡藩」「高鍋藩」「飫肥藩」や天領がありました。
と、いうことで
隈元さんの主な生息域は、鹿児島(九州の南の方)ということがなんとなく解りました。
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yongohingo · 10 months
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我が家のルーツはどこにあるのか・・・
初めまして よんごひんご です。
休みの日はバイク乗ってツーリングしてます。
昔は、  ・面白い道  ・美味しいもの  ・綺麗な景色 を目指していたツーリングですが、
ここ最近は  ・自分のルーツ探し  ・ルーツ探しの過程で生じた疑問の調査 が、主な目的になってきています。
不思議なことに、 自分のルーツを辿っていくと、人生のターニングポイントとか、キーになった出会いといった類の出来事が、ご先祖からのシグナルだったのではと、思ってしまうことが少なくありませんが、そのような話は一旦横においておき・・・
未だ調査中ではありますが、色々とわかってきたご先祖様のことを覚え書きとしてここに残しておこうと思います。
ちなみに私の本職は舞台照明家です。 よって、本職の歴史家ではありません。
そのような一個人の歴史妄想、 『よんごひんごな妄想』 をこれから始めたいと思います。
気が向いたら読んでいただけるとありがたいです。
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