Tumgik
yomichiwa · 5 years
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7
梅雨のあいだはもっぱら眠り続けていたようだ。もちろん目を覚ますこともあるが、そう長くは続かない。雨の音で目を覚ますことはなく、雨がやむと驚いて目が覚めることがあった。隣家の窓から髪に寝癖のついた子供がこっちを見ていて、何か云っているのが口の動きでわかった。声が小さすぎるのか、窓が閉じているせいで聞こえないのか。部屋の壁に花柄の壁紙が見えていた。夜には子供はいなくなり、かわりに青い隈取りのピエロの人形が置かれていた。それはぬいぐるみやマリオネットの類ではなく、等身大で精巧につくられた人形だ。蝋人形かもしれないが、ほんのわずかでも動いてくれたら人間が座っているのだと納得することができる。わたしが眠っているあいだは動いているのだとすれば、なぜそんな芝居をするのか困惑してしまう。雨が激しくなると隣家の窓どころか、家全体の輪郭がはっきりしなくなってきた。そんなときは誰かに見られていることも忘れて、カーテンを開けっぱなしでぐっすり熟睡することができた。見ているのが子供でもピエロでも、視線を感じれば夢に同じ姿で現れる。それは一匹のカミキリムシだが、遠すぎて生きているのか死んでいるのか、ここからではわからない。
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yomichiwa · 5 years
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6
人間に残された可能性の中に、これらの星がちりばめられていると云えないだろうか。わたしは自分の胸にそう訊ねてみた。胸の奥でうなずく、人の頭のような影が見えた気がした。たしかに夜空とは可能性そのもののような光景で、見ているだけで言葉にならない声が漏れてくるような気持ちになる。たぶんこれらの星にはみんな名前があるのだが、それは誰かが勝手につけた名前なのだ。ほとんどの人がそんなものを知るはずがなく、つまり星の名前と無関係に生きているのだ。わたしと無関係なものがこんなにたくさんあるのなら、それらと今後出会う可能性を数えだしただけで眠れなくなる。まして、田舎に行けばはるかに多くの星が空を埋め尽くしているのだ。それにも全部名前がついているのだろうか? だとすればめまいがするほどの人間の膨大な営為を感じてしまうが、考えようによってはこれも全部正反対の話になる。名付けられてしまった星は、夜空からあらかじめ可能性を奪っているとも云えるだろう。どんなに田舎へと移動して空を見上げても、この地上にいるかぎり同じ可能性の範囲に収まっているのだ。田舎のびっしりと空を埋め尽くすような星空も、都会の遠慮がちな星空の延長にすぎない。そこにひろがる可能性は見掛け倒しのもので、とくに希望を見いだす隙などなかったのだ。期待した者はやがて馬鹿を見ることになり、痛い目に遭うことは必至である。そう云いきりたい気持ちはやまやまだったが、そう云いきれない気持ちもまたわたしには残っていたのだ。人間に残された可能性について、わたしにいったい何がわかるというのだろう。可能性の側から眺めれば、わたしなど無数の星の中にひとつにすぎないのだ。星が自分の名前を知らないように、わたしもまた自分について何も知らない。そうとは考えられないだろうか? わたしは自分の胸に問いかけたが、胸の奥の人影のようなものは首をひねるばかりで、何も答えてはくれなかった。それはおそらく、窓の外に枝を広げる葉桜の一部が、星の光の影をおとしていたのだろう。そんなものがわたしの周囲にはありふれていた。空には星が光って、そのあいだに広がる闇をきわだたせていた。田舎に行けばその闇は狭くなるが、そのぶんずっと濃くなるのだ。
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yomichiwa · 5 years
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5
人間には、まだいくつかの可能性が残っている。とはいえ、大した可能性は残っていないのだ。いくつかといって数えられる程度なのだと思う。だがその中にとんでもない可能性が潜んでいるかもしれない。そんな期待をしたくなる日もあるけれど、実際のところ碌な可能性の残りは期待できないのだ。それでも可能性があるのはたしかだから、希望を捨てるのは早計だ。もしかしたら大変な花が咲くかもしれないのだ。そう思うと期待で手のひらに汗が滲んできて、何度もハンカチで拭き取ってしまう。暗くなってから空を見上げれば、こんなにたくさんの星が光っていることに気づくのだが、それでも本当の星の数のごく一部にすぎないのだ。田舎へ行けばびっくりするほど星のかがやく空を見ることができ、その数の多さに驚くだろう。都会ではけっして見ることのできない星空がある。見えていないものは存在しないのではなく、ただ見えていないことをしか意味しない。そんな当たり前のことが、ただ空を見上げるだけでわかってしまう。だから都会から田舎へ、夜空を見上げるためだけに移動するのはいいことだ。可能性について考えるいい機会になるだろう。人間にはまだかくされた可能性があるのだ。あまり期待し過ぎるのもどうかと思うが、無視するのも味気ない話だ。とはいえ、期待し過ぎるのも問題だと釘を刺しておきたい。いくつかの可能性はあるはずなので、ただそのことだけを気に留める程度がいいだろう。希望を持つのも程度問題ということだ。だが、そんな斜にかまえた言葉を口にしていても、手のひらはじんわりと汗ばんでいるのだ。ハンカチでそれを拭いながら、すっかり暗くなった窓の外を見た。空には星がかがやいていて、希望そのもののように眺めてしまう。都会ではこの程度だが、田舎に行けばもっとたくさんの星が見られるだろう。その数の多さは、こちらの予想をはるかに超えている。都会ではけっして見ることのできない星空だ。
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yomichiwa · 5 years
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4
でも、春の終わりからはどうだろう。家の前の通りで工事がはじまって、少しずつ移動しながらとうとう我が家の前に作業の一団が陣取った。わたしは窓から工事のようすを眺めるだけで一日が過ぎることが増え、当然散歩の回数が減った。あれは水道管の工事なのだろうか。想像だが、地面の下には他にも様々な管がはしっているはずだ。中には名前のないものもあるだろう。名前のない管を横目に見ながら、ただ目的の水道管だけを交換したり、点検しているのかもしれない。その日は妙に蒸し暑くて、わたしは窓を開け放って日記を書いていた。散歩を休むと何も書くことがなく、ページを走り書きのスケッチで埋めてしまうこともある。工事を眺めていれば、もちろんそこで働く作業員に目がいって、ヘルメットと蛍光色のチョッキが右往左往するさまを手早くページにスケッチしてしまう。たまに顔を上げた誰かと目が合うこともあるが、手を振っても戸惑ったように目をそらされるだけだ。工事が休みの日に、ひさしぶりに歩いたその道はにせもののように足になじまない気がした。おかげで気分も乗らず散歩中も後ろばかり振り返って、いつもの半分ほどで切り上げてしまった。帰り道ですれ違った自転車は全体が金色で、前かごに古びたラジカセが入っていたことを、今でもよく思い出す。
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yomichiwa · 5 years
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3
天井の低い部屋のような毎日が続いて、わたしの散歩もとぎれることがなかった。散歩をするとき、私が履いているのはスニーカーやサンダルだ。もちろん履いているものによって足音が違うから、その日によって歩行のリズムにも変化が生まれる。サンダルの片方が途中で脱げてしまい、いったん通り過ぎた道をえんえんと引き返してきたことがあった。サンダルは水たまりに裏返しになって浮いていた。アメンボがひょいひょいと移動する水面に、わたしの顔と電柱が映っている。その電柱には何年も前から迷い犬の貼り紙があって、犬の写真がすっかり退色して空白ができていた。わたしは濡れたサンダルを履いて歩きはじめた。乾いている方の足と濡れている方の足では、地面を踏んだときの音が違っていた。公園に差し掛かると子供たちの声が花火のように重なって聞こえてきた。私は立ち止まってしばらく子供の顔や手足の長さ、帽子の有無などを見比べた。みんな一人一人さまざまであって、じつにおもしろい。感心してうなずいていると首の関節が乾いた音をたてた。それはまるでスイッチのようにふたたびわたしが歩きだすきっかけになった。空には端のほうから赤い色が混ざりはじめていた。
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yomichiwa · 5 years
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2
おねえさん、あんたはそのうち社長になるよ。ベンチの座面に浮き出ている顔は真面目な口調でそう云った。わたしはもちろん鼻で笑ってまともに聞きはしなかった。座面の顔はいかにも頭が悪く軽薄そうな、口先だけの言葉を自分でも信じてつらねてしまうタイプの人間に見えた。まともに取り合うだけ時間の無駄だと思ったのだ。なによりも、厚く溜まった土埃を拭き取ってやったことへのお世辞も含まれていたかもしれない。頭の悪い人間ほどお世辞にためらいがないような気がするのだ。火星開発会社の社長になるよ、と顔は続けた。おねえさん声がずいぶん小さいね、雨だれを聞いてるみたいだ。それきり口をつぐんで、云うべきことはみんな云い終えたとばかりに顔は結び目がほどけたように、本来の杢目の模様にまぎれてしまった。午後の日差しはうす曇りの空から満遍なくふりそそぎ、白っぽい空気で周囲の樹木や彫刻をふちどっていた。空では下手くそなカラスの鳴き声が、怯えたように鳴き交わしている。
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yomichiwa · 5 years
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1
将来、わたしは火星開発会社の社長になる。そのことはどうやら運命として決定しているらしい。だが今はその兆しさえ見えなかった。 火星開発会社は火星を開発するための会社だから、建物は火星にあるのだろう。 道のりが遠すぎて見えないというより、道が折れ曲がっているので死角に入っていて見えない種類の未来もある。わたしは秋から冬にかけて毎日散歩をしたけれど、とくに気に入っていたのは中央公園を斜めに通り抜けるコースだった。しだいにそのコースしか歩かないようになり、公園のプラタナスの木の前にあるベンチで休憩するのが習慣になった。そのベンチと向き合ってもうひとつのベンチがあり、そちらには誰も座っていない。座面が汚れているようだと思い、あるとき雑巾を持ってきて拭ってみると、汚れだと思ったものは木の表面の模様で、拭うことでよりくっきりとしたようだ。それは人間の顔だった。
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yomichiwa · 5 years
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8
「わたしはバスを降りてから顔見知りのお爺さんに会ったわ。名前は思い出せないし、訊ねるのも失礼でしよう?
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yomichiwa · 5 years
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7
「西だよ。西に向かってのびてた」
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yomichiwa · 5 years
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6
「ちょっと待って。道はどっちの方角にのびていたの?」
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yomichiwa · 5 years
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5
「公園は実はもうひとつあった。いくつあってもいいんだけど、まあ今はひとつということにしておこう。行きはすっかり見落としていて、帰りに残業疲れで瞼が重くてね、何度も車に轢かれそうになりながら歩いてたら、ふいに目に飛び込んできたんだ。それは朝に見た公園よりさらに一回り小さな、気の毒なほど狭い公園だった。月の光を浴びて白��て丸い花がぽつぽつと咲いてるのがわかったよ。そんな花が咲いてなければ、ただ家と家の間のちょっと無駄な空間としか思わなかっただろう。そんな空間ならこの町にはいくらでもあるからね。ぼくらの家の隣だって、よく見れば草ぼうぼうで何もない土地なんだ。あんなところに動物の死体でもあったら、夏は臭くてたまらないだろうな。ぼくはよくそんなことを想像するよ、草を刈ろうとは思わない。公園には壊れかけたベンチだけがあった。誰かが壊したというより、年月の重みがベンチの強度を上回ったんだ。空には意外と雲も流れていて、時々月光が遮られて辺りが真っ暗になった。そのとき初めて、自分が公園にぼーっと突っ立っていたことに気づいたんだ。道は街灯が点々と照らしていて、句読点みたいに感覚がまちまちだった。ぼくは靴の中に石頃が入り込んでいると思った。でも暗いだろう? 石ころかどうかなんて確かめられないし、想像だけが先走ってしまうのもどうかと思ったけど、にやにやしたり、ぞくぞくしたりしながらベンチに腰掛けてみた。気の割れた部分がお尻に刺さって痛かった」
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yomichiwa · 5 years
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4
「わたしは今朝バスに乗っているあいだ、ずっと車内で虫の声が聞こえてた。どうして虫だとわかったかと云うと、声に羽があるように右、左、前、後ろと移動していくから。とある髭面の男から聞こえてきたときには、男の髭が鳴いているのかと思ったほどだけど、考えたらあれはコオロギによく似た髭だった。窓の景色はびゅんびゅん飛ぶように流れて、たまに信号でぴたりと止まることがある。するとあきらかに空き家に思える家があって、二階の窓からがらんとした部屋が見えたの。ああ、あの部屋で眠りたいってそのとき思って、どうしてかわからないけど部屋の天井にある大きな三角形の染みまで見えた気がした。あれと同じ三角形が末の弟のおしりにもあるわ。もっとも、それは染みではなくて火傷の痕だけれど」
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yomichiwa · 5 years
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3
「今日、ぼくは小さな公園を見つけた。通勤路はここ二十年ほど変わらないから、毎日前を通っていたはずなのに、今日はじめてぼくの心をとらえたんだ。草に囲まれた土地にブランコとベンチだけがあった。ベンチには格子柄のマフラーとからっぽの煙草が置かれていて、足元は水たまりだった。水面に映る空をとても小さな雲がよこぎっていったよ。あれは本当に雲だったんだろうか? 空の高い所をポリ袋が飛んでいくのを何度か見たことがある。今日は風のない日に思えたけれど、地上と上空では世界はまるでちがって感じられるものだ。駅前の広場には警官が何人も立って険しい表情をしていた。ぼくは昔警官だったから、あんな人たちを見ると鏡の前に立ったようにびくっとしてしまう。きっとぼくも意味もなく険しい表情をしていたことだろう。電車が止まってるんじゃないかと心配したけど、そんなことはなかった。警官の一人は頭にポリ袋をかぶり、その袋に目鼻が書かれていた。とてもハンサムな警官だったが、手足を街路樹のようなポーズに固めたまま動かないんだ。背丈もちょっとした街路樹くらいはあった。最近はあんな警官が多いのかな? だとしたら僕の頃とは大違いで、もう先輩面してあれこれ口出しする気も起きないな」
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yomichiwa · 5 years
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2
わたしはその日あったことをだらだらと話すのが好きだった。組み立てたり、取捨選択することは好きではない。頭に浮かんだそばから、全体が見える前に話しはじめてしまう。そのため話が尻切れになることもしばしばだった。それにくらべて夫の話には勢いがあり、調子に乗れば何時間でも止まらないほどで、そんなときたぶんわたしは途中で寝ているのだ。夫の声を聞きながらの眠りは、不思議なラジオの中にいるようだった。じっさいそんな夢を見ることもあり、水槽のように透明なラジオの中でわたしは隙間を埋めるように横たわり、夫はよどみなく低い声でその日の出来事を語った。愉快な話のこともあれば、しんみりする話のこともあった。とりとめのない事実が羅列されることもある。眠っているので言葉は聞き落としているが、声の調子で内容がわかるのだ。
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yomichiwa · 5 years
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1
最近はと云うと、わたしたちは寝床の闇の中でしか話し合わなかった。夫は無口な人で、ひどく照れ屋でもある。顔を見ながらあれこれ語り合うなどもってのほかという考えだった。わたしはそれほどでもなく、時には昼の太陽が会話を弾ませると思っている。だが夫婦というのはどちらかが譲って成り立つことのくりかえしだ。そのかわり、部屋の明かりを落とした後の夫は人が変わったように饒舌だった。日によってはこちらが口を挟む隙もないほどで、暗がりにうっすら浮かぶ唇のうごきに見とれてしまう。宙に浮かぶ小さな生き物を見ている気分になることもあった。だが別の日には、本当にそこにいるのか不安になるほど静かだった。そんなときは夫の髪や耳を、何度も手で触れてたしかめてしまう。
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