汀・夜・窓Ⅱ
◎三月某日
ある人と話していて、突然「ユーは売れる音楽をつくっていない。」と言われ頭の中が???でいっぱいに。マーケティングとか数字とか…言われると
言葉がでなくなってしまう。
ティーンネイジャーでもあるまいし軽いカルチャーショックでもあった。(今さら)
帰宅すると、三田完さんが送ってくださった新作の小説「鵺」が届いていた。
久世光彦さんをモデルにした小説だという。
三田さんは私を阿久悠さんに紹介してくださり、アルバム制作もしてくださった方。
「渚ストラット」について、「これは、渚の或る到達点」と言ってくださったことがあった。
「音楽にしても文芸にしても、洗練だけでは必ず文化は衰退する。洗練の次には破壊が重要で、フランス人は破壊するために徹底的に古典を学ぶコンセルヴァトワール(保守)と称する教育機関を作り、前衛アーティストを育てています。」
「とにかく破壊ということには洗練よりはるかにエネルギーが必要」とも気遣ってくださったのだが、たしかにあの頃は精神も体調も壊してしまった。
これでもかというくらいに全てが分裂してしまっていた「渚歌謡曼荼羅」(2016)の季節を思い出す。
リサイタルも中止かな。。。というくらいにマズい状態に陥っていたのだが、
唄っているときだけは凪いでいられたのが不思議だった。呼吸だろうか。
相当つらい思いをしたが、20周年の節目を迎えるにあたっての、必要なプロセスだったのかもしれない。
◎
某日
春が近づいてきたので、冨士夫さんの「雪解けを待って」を大音量でかけていると、
久々に入ってきたNさんが
「さっきまでナルシスにいて、凄いレコード聴いちゃって、今打ちひしがれながら歩いてきたんです。」と言う。
アルバート・アイラーの「For Coltrane」に度肝を抜かれてしまったのだという。
途中で渚ストラットのライナーにも出てくるお調子者編集者Cさんが来て、JKSのことをひとしきり。
彼は来るたびに私に書くことを薦める。「野心をもって」と連発する。
帰り際に「こたおちゃん、芸大受かったんだよ。」と嬉しそうに言っていた。こたおちゃんとはCの一押しアーティストでアイドル。
前に高取さんが「美少女です。」と反応していた。
遅い時間に発見の会の美術の深川さんが来てくれて、
JKSが沖縄に行く事になったという。
深川さんは祈祷会ではいつも伊達政保さんと二人でドドーンと経産省前に立ちはだかって旗持ちをしているが、その場所(目線)から聴く「ウミツバメ」があるのを初めて聞いた。沖縄行き、参加したい。
◎某日
汀にて。
ちあきなおみの「夜へ急ぐ人」をかけてくれとのリクエストあり。
「どんな曲?どんな曲?」
と聞いてくる同行者に「ミッチー音頭」みたいな曲だ!っと言ってみたり、
「ジャニスのロールスロイスかけてよ!」と真顔でせまってくる傍若無人な
ひとたちの無邪気な弾丸トーク。
ロールスロイスと何回も叫んでたけど、
メルセデスベンツでは?
(基本的にはリクエストは受け付けていません。)
いつになく多いジンガイさん達もスマホの辞書を使って音声で語りかけてくる。
ドイツの女優・ヒルガルド・クネフのライヴ盤をかけていたら、「音楽を変更!」とスマホ経由でストレートに申し付けてきた。
「言語同断ですよ」とアクションを起こすと
「わかった、わかった。でも日本語多めのが聞きたい」というので
左とん平の「ヘイ・ユウ・ブルース」と「東京っていい街だな。」をかけた。
とん平さんの葬儀ではシナトラの「ニューヨーク・ニューヨーク」が流れていたという。
◎某日
先日の「売れる音楽」ということについて、まだ続きがあった。
こういうのについて考えるのが苦手なので、
しばし考えるのをやめることにする。
タイミングが良いことに、Johnさんにお願いしていたゼニスというエネルギー療法の準備が出来たとい知らせあり。眠る前に受け取ったので、すこぶる調子が良い。
夜、カウンターにて「どんなターゲットにむけて仕事してんの?」
(野暮な質問)と聞いてみたら、
汀常連のあんま革命士は「おれは揉むのが好きで生業にしているが客層に向かって揉んででいない。」
同行したご友人(蟹座・九州出身)は「自分の作った米が大好きだし、そもそも自分で食べている」と
のこと。
そのうち水星が逆行するよ、と星の動きについて話していたら三時を過ぎた。
パカッと何かの蓋が空いたようになって怒濤の宇宙遊泳のような営業終了。
ゼニスのおかげなのか、頭がシャキーンとしてきて、
灰野さんのCDをエンドレスにしながら、某原稿を一気にかきあげた。気がついたら朝9時。
◎某日
新宿梁山泊の「少女都市からの呼び声」を観にいく。
久々の満天星。水星逆行のトレンドに乗ってしまい、駅の出口から何まで真逆に進んでしまい、迷子になり、やっとタクシーをつかまえてギリギリに到着。
唐十郎のセリフの嵐。ラスト、何百?何千個いうビー玉がと舞台を埋めつくした。
金さん曰く「ビー玉は子宮の涙。」
投獄の歌姫を演じた中山ラビさん、昨年のリサイタルで衣装を担当してくれた野村直子さんにも久々に会えた。
新宿駅で同行したO野さんとだし茶漬け。
はっぽんさんと小澤さんにラーメンをあげたら翌朝食べてくれたという。
◎某日
先日、お亡くなりになった英国の宇宙物理学者スティーブン・ホーキング博士の
「ブラックホールに人が落ちたら、すさまじい重力で身体はスパゲティ化される」という御言葉を知り。
にわかにトマトスパゲティを食べたくなり、高田馬場へ。
おしゃれーなレストランはランチで賑わい、連れは他へ行こうと試みたが、すぐに列がなくなりいつもの窓際の席に案内される。
このお店は私が通っていた怪しい専門学校のすぐ近くにある。
校舎も(学校自体も?)今はない。
上京してすぐにバイトを始めたこれまたおしゃれなレストランパブで上司にイビられると、いつもこっちに乗り換えようと
秘かに思いつつ、一度も実行されずに終わった。
食事後すぐ近くの早稲田松竹で、
アニエス・ヴァルダ二本立て。
ミシェル・ルグランの音楽にふとゲイリー芦屋さんの事を思い出した。
エレガンスな狂気。あと、ユーモアも。
秦早穂子さんの文章に惹き込まれる。
「5時から7時までのクレオ」
見終わってロビーに出ると、携帯が鳴る。
水星逆行のトレンドに乗って、急に差し押さえられたとある件の事で、
今回につきお許��いたします。
とのこと。
八方塞がりでもなんとかなると思っていたら、
思いがけず吉日となった。
帰り道、これが花冷えか…というくらい寒い。
その後久々に「花園」に復活。
◎某日
四月になった。
草木が芽吹いてくるとアレな人も増えてくるというが、
花園界隈にに片岡千恵蔵モドキが出没している昨今、先日はその偽物が現れた。トイレは壊されなかったけれど(詰まらされ)その出来事にシンクロしてか、大家さんから「下水の心配はないですか?」とお電話をいただく。
最近の出来事をお話すると、「エ?まさか、、、」と驚いていた。
水の流れも滞りなく…。
「汀は絶対大丈夫!」の言霊と篠崎真紀さんからいただいたグラスで花びら酒=浄化。
◎某日
いつもは目をそむけてしまったり、会話が長続きしないRさんと久しぶりに話が出来た。『アレアレ、漢字四文字!』(訳・人の名前が思い出せない)とか抽象語ばかり使われると、心が砂漠のようになってしまうのだが、今日は珍しくアニエス・ヴァルダの話で盛り上がった。「ヴァルダ、最髙でしょ?」と嬉しそうにして、翌週。彼女の映画に出てたゴダールとアンナ・カリーナの結婚式の写真を持ってきてくれた。
◎某日
母が上京し、美輪様の「愛の讃歌」を観に行くというので初台の国立劇場
に送っていった。
4年前の銀座ヤマハホールでの越路吹雪さんのトリュビュートコンサートの時にヘアメイクのカトちゃんに「もう東京に来れるのは最後かもしれない。」と言っていたと後から聞いた。ちょうどその頃、父の様子がおかしくなっていた頃で(私には知らされていなかった。)祖母も高齢だし、家を離れることが難しくなるだろうということだった。
その後、父の様子も悪化していき、母自身も心臓の大手術もしたりして、大変な時期もあったのに、今こうやって、東京に芝居を観に来れるようになっているのが信じられない。
芝居が終わってから京王新線で新宿に着いた母を迎えにいくと、駅の周辺も
中ももの凄い人ごみ。この中を母が歩くのは無理だと思い、そのまま都営の新宿三丁目にすり抜け、歌舞伎町へ。「汀」荷物を置いて夕食。母は映画のチラシを見て、「ピラニア軍団…?」と不思議そうにしていた。
母が「汀」に来たのは十数年ぶり。そのときも一瞬だけ立ち寄っただけだった。カウンターで写真を写す。
夕食をして、近くのホテルに行く途中、花園神社から水族館劇場のおっきなテントが見えた。
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3月29日 21:39 ·
酒中日記の真似事をしてみる。
《前編》
◎三月某日
全身打撲のようになって丸一日潰してしまった。
昨晩、傾聴してはいけない類の身の上話をバカ丁寧に傾聴してしまった由縁である。
全てが去ったあと、目の前で酔いつぶれていたKサイガに
「なんかさ、、あたしもたいがいにしたほうがいいよね」
と呟くと
「え??笑・・・其所迄しなきゃいけないのかなぁって思って見てた…笑」と言われてしまった。
完全なるバイヤコンディオス。
(よく、ハプ4の故ペペさんが言ってた隠語?ヤバいという意味。)
夜になって雨がざんざん降りしきる中、G街に這い出る。二時間待たせた友人と合流。
汀のカウンターに入っているキャサリンに背中をたたいて貰う。
笹目さんが一日店長をしている五番街の「マチュカバー」へ。
こんな雨で寒いのに大入り満員。後から後から人がくる。
トロトロのカシスINグレープフルーツを二杯。
いつもはリサイタルの制作プロデューサーを頼んでいる笹目さん、用心棒でもある笹目さんはカウンターの中でニコニコ采配。ママがお酒をつくってくれる。
もう一軒、どうしてもいかなければならないバーがあったのだが、
友人が「店の前に行ってから決めれば?」と言うので、その通りにしてみると、そのバーからただならぬアトモスフィアが漂っていたので、入るのをやめにした。
「カモにされるだけやで。」と言い捨てて友人は偶然会ったMさん(ユタの生まれ変わりだという。)と歌舞伎町のラーメン屋へ消えていった。
Mさんが「大丈夫か〜」と何回もこっちを見て心配してくれた。
彼女は複雑な事情により、誕生日が三回あるのだという。
◎
◎三月某日
今日こそは境界線をしっかり持って、アルコールでダムが決壊しないように心を決める。
厄介なことに首をつっこんで、いつのまにかその中心に自分がいることのないようにと。
夜になって「汀」をオープンして静けさの中、お香を炊いていると「マチュカバー」のママさんが昨夜の御礼にとカステラのセットを持ってきてくださった。気遣いが嬉しい。
その後、花粉症でもないのに目がシバシバし過ぎて開かなくなってしまい、原尞の新作の話にもうなづくばかり。
何のデトックスだろう。つらい。
小さな声で「だいじょうぶですか?最近どうですか?」と6回くらい尋ねる人あり。「見たままです。」
全然、信じてくれなくて、外に出て、もう扉から見切れているのに「だいじょうぶですか?」と聞こえてきた。
◎
◎三月某日
今日も旅行者が多い。
「…ジンガイの群れ…。」と無意識に呟いたら
「フライデイチャイナタウンにそんな歌詞がありますよね」と食いついてくる人あり。
ジンガイさんなのに、「この店のコンセプトは?」と尋ねる珍しい人もいた。それを聞くのが禁止なのがコンセプト。
◎
◎三月某日
三人連れのうち一人がすごく質問ばかりするので叱られている。
強い口調の一人が「ボクは国語の教師で…」というので、「あ〜哲学とかですか。」むしろその通りだったらしい。
最後は絶叫。
◎
◎三月某日
私の師匠でもあり、恩人でもあるSさんがむかし撮った写真が展示してあるとのことで、あるバーに行った。
カウンターにアートのようにポテトサラダがしれっと置いてあった。
先に二階と三階で写真を見る。
Sさんてヒッピーだったんだな。三つ編みの女性がギターを弾く後ろ姿の向こうに山が見える写真がよかった。
「おれがつくった酒だ」とマスターに白い茶碗を出される。
「発酵」という言葉が出てこなくて、謎かけみたいになっていると、いきなり男性が3人入ってくる。
初見のようだったが、「発酵ですか?このポテトサラダが?」とやけに爽やかに会話に入ろうとしたり、カウンターに身を乗り出し中を覗こうとしたのが気に触ったのか、「もう二度とくるなよ〜。」とバッサリと斬られるように帰された。口調は殺伐なのに笑顔なのが不気味。何?あの笑顔。私も人のことはいえないなと思った。この村は鏡の世界。そこにはいつもの自分が映っている。
澱みに浮かぶうたかたになってしまわぬうちにお酒半分で退散。
◎
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幻のバス停
3/27 12:10
横尾忠則さんと浅岡ルリ子さんが汀に呑みに来てくれた夢を見た。
ふたりを連れて来たのは「大島渚かな?」と思って、よーくお顔を見たら
発見の会の美術の深川さんだった。
私は慌てて生チョコを買いに走った。
仙石ちゃんがカウンターの中で淡々とお酒を作ってくれていました。
浅岡ルリ子さんだったら、苺の生チョコだなと思って買いにいこうとすると、
近所のお母さん方が汀のレースのカーテンの下から覗き込んでいる。
横尾さんに「友人がボクシングジム行きたいから紹介してあげて」と言った
「西武新宿駅の前の金網がそうです。」とテキトーなことを言ってしまった。
サイケデリックでいきましょう。ギンギラギンにいきましょう。
三番街の友人の店(なぜか夢では一番街の真ん中ぐらい)
細い路地を抜けたら、小窓から中の様子が見える。音楽会をやっているようだ。
そのまま裏道を廻って、区役所通りのローソンに行ったら、駄菓子しか置いていない。焦っても焦ってもタコ?みたいなのとよっちゃんイカと、チロルチョコ。
元ヘアーのVoのジュリーさんの姿も見えた。
夢日記つけようかな。。。
(マルヤスでバイトした夢とか。)
お彼岸にふさわしい。
「浅岡ルリ子のすべて 心の裏窓」
薄暗い小さなクラブのターンテーブルに乗っているときもあった。
可憐で静謐でありながら私にはサイケデリックを感じてしまう。
何故だろう。
「シャム猫を抱いて」は横山剣さんにプロデュースしていただいた「YOKOEKEGANCE・渚ようこの華麗なる世界」(2002)でカバーさせていただいた。
もうひとつの夢。
何故か「マルヤス」でアルバイトをすることになった。
その面談の日に店内の洋服が吊り下がっている中で(学生服とか)、私は木まりさん(亡くなったオカマの先輩)に似た女性に何やら説明を受けている。
そもそもこの女性は今はもう失くなってしまった商店街にあった薄暗いテントみたいな老舗で働いていた姉妹ではないのか。
灯りもランプみたいで懐かしい。
ズタ袋とかシャツとか鞄とか折り重なるようにして売ってた、
「あそこは一体なんだったんだろうね〜」と
実家に出入りしているという業者の人が汀にきて、ぽつりと呟いていたこともあった(これは現実にあった)ぐらいだから私も妄想や思い違いではないようだ。
マルヤスで雇ってもらえて嬉しいと気持ちは高ぶる。
しかし、何故か足立正生さんと山崎春美さんがやってきて邪魔されてしまう。
このお二人に向かって邪魔っていうのも失礼だけれど、
要するに事態をめちゃくちゃにされてしまうのだった。夢。
思えば私の思春期はこんなことばかりで、父のような暴君や不機嫌で理不尽な教師たちによって、翻弄されまくっていた。
よくぞ命を落とす事なく、ここまで生き延びてこれた、自分を労ってあげたい。
夢のつづきとしては、マルヤスの二階らしきところで、女ともだちが数人で仮想して何かの順番待ち。
みんな祭りを愉しんでいる。
私も祭りに行く時に着ていくピンク色のシャツを此処で買った。
祖父に貰った小遣いで買ったパールのバレッタも今も大切に持っている。
此処で生活している人達には失礼な言い方かもしれないけれど、この場所が今も残っていることに正直いって驚いた。
昨年の九月の初めに父が急逝した翌日に、
朝からずっと自転車で街の中を走り回っていた。
父が乗るはずだった新しい自転車で小さな角を幾つも曲がった。
○○銀座商店街と名付けられた通りはもう何年も前に道路拡張の為に失くなっていたし、雪の中、母の後を追いかけて歩いていったあのお菓子屋さんも隣りのバス停も少しハイカラな感じのする雑貨屋(シャンプーや化粧品などが売っている)や
おばあちゃんや一本づつ焼いてくれる団子屋や夏になると店先に花火がバーッと並ぶお店も、
みんなのたまり場になっている文房具屋も脆とも消え果てた。
今でも思い出すのは角の魚や野菜も売っているお店の前の信号待ちで、よく
有線で歌謡曲が流れてきたこと。
八百屋から流れてきたテレサテンの「つぐない」のイントロと「窓に西陽があたる部屋は」の出だしのリリックに幼いながらも惹き付けられた。
(今思えばまるでイタリア映画みたいだ。)
友だちは靴屋があったというがそれはどうしても思い出せない。
こうやって記憶もひとつづつ欠落していく。
だからこの香しいパープルの色彩のシャッターが路地裏に残ってたのがすごくびっくりしたし嬉しかった。
夢の話に戻ると、
父の亡くなる前日に幼な友だちの家の近くの路地を行ったり来たりする夢を見た。
その友だちとは学生時代もずっと仲が良く、つるんでいたけれど、
ふとしたことから疎遠になってしまい、なんとなく連絡をとらなくなってしまっていた。
この日は彼女の家の廻りをずっとウロウロしている。入りたくても入れない。
「もうお嫁に行ったかあそこにはいないんだ、会えないんだ…。」と
彼女の部屋のあった二階のあたりをじっと見ているなんともすごく悲しい夢。
ときどき同じモチーフの夢を何度も見ている気がするのだが、
「今日は誰と遊ぼうか。」
「あのひともこのひともみんな今はいなくなったし。」
といつも友だちを探している夢。
目が醒めて、「ウワ…」と反芻する間もなく、
父が危篤との報せが入った。
父の葬儀の前日に私は思わず彼女の実家に電話して連絡先をきいた。
すぐに駆けつけてくれた彼女に夢の話をすると、
「お父さんが会わせてくれたのかもしれない。」と言った。
父の遺影に使う写真を葬儀屋に届けに行くのにも迷ってしまった。
たしかにこの通り沿いだったはずだけど…と電話をしながらやっと辿り着いた。
私の記憶には小さな佇まいのお店の息づかいが残っているのに、目の前にただただ広い道路が広がっている。
ふと、
「風景の死滅」という言葉が浮かんだ。
帰り道、標識の行き先が消えかけてるのを見た時、
「もう限界…。」と思った。
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3/22 19:10
昨日はオミっちゃんの出版記念会で写真集を開いたら、
いきなり桂のマスターのナカジマさんが出て来て笑った。
「これ!」と笑いながら涙がいっぱい出てきてマイクが回って来てまた泣いた。
オミっちゃんのお店に薔薇の花束持って来たこと、
「妄想があの世で十倍だよ」の一言で色々思い出しちゃった笑
ナッカジマ!!
投げつけ過ぎてひび割れたレコード、懐かしい。
浪花節とかダウンタウンブギウギバンドとか、都はるみとか。
あれだけ破天荒でむちゃくちゃなくせして、
ベッド・ミドラーとかフラッシュダンスのサントラ聴いて、ひとりしんみりしてるときあるんだよね。
そこへいきなり入っていくと、
「オヌシは…。」と一席ブチ始める。
最後の方はほんとうに殴られたりして頭きたけど、時々また逢いたくなる。
三門博お唄入り観音経と葛城ユキのデビュー盤、橋幸夫の潮来笠は
時々聴いてるよ。
「に」のところにコマ劇場に話をつけてくれた群馬の山中でサーカス学校をやっている西田さんが載ってた。
シュールな似顔絵のような写真もオミッちゃんらしい。
西田さん、どうしているだろう。
何故あのとき西田さんに「コマ劇場でやりたいです。話をつけてもらえませんか?」と言ったんだろう。
出会ったばかりでよく知らないのに、西田さんは「本気なのか」と言ってあらゆる条件を教えてくれて、約束を果たしてくれた。
むかし、内田栄一さんの追悼イベントで
安田南がどうとか、某女優さんとどうとか、耳ダンボになるような話はステージ袖で聞いてたんだけれど、
地雷で家族を失ったカンボジアの子ども達のサーカスを日本に呼んだりしているのを観にいったりしているうちに、ココロが決まった。
何ヶ月かが過ぎて、コマの日取りが決まり、
ゲネプロで二日間借りれることになった。
(当然、小屋代の料金は同じ金額かかる。)
タイトルは、
「渚ようこ…国定忠次?……舞う?か?」
「新宿ゲバゲバリサイタルでいきます。」
あれから十年たつ。
まだまだ旅の途中。
ゆけ!ゆけ!二度目の処女、もとい、花の凪砂の阿呆鳥。
「地下へ降りるぜ 三白眼
甲州路へのエスカレーション
アキレタカフェのアクショントリップ ”
地下に降りるシンジュクステーション ” ジョウ・ゲン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
佐々木美智子写真集
「新宿ゴールデン街のひとびと」
2018年03月20日発売 単行本
2,800円
七月堂
(寄稿・足立正生「新宿、獣道の尽きるところで」���田征太郎 手紙とイラスト
坂田明「おみっちゃんのこと。ちょっとだけ。」外波山文明「おみっちゃんのこと
長谷川和彦「オミチに乾杯」森山大道「巨大なモンスターとの伴走記」
山下洋輔「ゴールデンゲートの末席から」山谷初男「新宿は猥雑で面白い街だった。」…他
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もう会えなくなった懐かしいひとたちがたくさんいて、涙がでそう。
私撮っていただいてて、「なぎさ」とひらがなで書いてあるのが通り名みたいで嬉しい。
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紅い椿がほろりと散った
可愛 あの娘の亡骸に
早朝帰宅したら、大輪の椿が落ちていた。
全身ガチガチになった身体をT先生にマッサージして貰って、朝7時。
途中に或るバンドの話になり、
「あのボーカル名前なんだっけ?」「なんかさ、、え?感があるんだよねぇ」なんて言ってたら、ふいになんか黒いものの気配を感じ「夜道が…」と不安になり、すでに丑三つ刻にもなっているしで、泊めてもらう事にした。
T先生もそういうときは直観に従った方がいいとのことで布団を多めに敷いてくれた。
彼女は6時に起きて星占いの講座に出かけていった。
もう何年もいつもピンチの時に助けていただいているが、
去年からは自宅から歩いて10分もかからないところに、二人でお部屋を借りた。
夏は屋上に布団を敷いて満喫していたが、
冬や雨の日は本当に助かる。
(衣装や舞台セットも全部運びこみ、極楽極楽。)
…と二人でゲラゲラ笑っていた。
この近くの喫茶店で珈琲を飲んでいる時、
あまりの荷物の多さに圧し潰されたようなセイカツに、「モォ〜我慢できないっ!」と一人、癇癪を起こし、不動産に電話したのが去年の五月。そのときには視野に入っていなかったこの建物は不思議な偶然だけれど、あのときの喫茶店から目と鼻の先にある。
今度一階のショールームみたいなところにパン屋が出来るらしく、朝の匂いが愉しみ。
お花シリーズではないが、
雨に濡れたこぶしの花を見つけた。
「北国の春」にも出てくるこの花は地元のイメージ花?で煎餅だか饅頭もあった。
こぶし咲く あの丘 北国の ああ、北国の春〜♪
「季節が都会ではわからないだろうと 届いたおふくろの小さな包み」
という歌詞も心に残る。
オリジナルの他には、
女性歌手ではテレサ・テンも唄っていて、しんみりとしていていい。
テレサ・テンといえば、汀の常連であり、リサイタルの時に大きなお花を贈ってくださる僧侶の石井さんが先日、台湾のお土産にテレサ・テン人形をくれた。
石井さんは空港から汀に来てくれたらしく、「ィ横山自動車」のTシャツを着ていたが顔には疲れが滲みでていた。
聞けば、台湾の葬儀場やお墓をあちこち回っていたらしい。
お墓の大きさも葬儀のやり方も日本とは違うらしく、
「え〜っ?」と言うような話をたくさん聞いた。
葬儀場での話だが、「皆、コンビニからお酒を買って来て…」というくだりで、
維新派の人のお葬式のときのアウトロー的なエピソードを思い出した。
(これも聞いた話です。)
父の遺品の写真があまりに沢山ありすぎるので、業者にまとめてスキャンして貰うかもと報せがあり、私がやるから甥っ子に「手伝ってよ」と電話してみた。
いつもなら「金寄越せ」だが今回は「いいよ。」とすんなりOK。
彼は4月からとうとう一人部屋になるらしい。
彼が4歳くらいのときに、無邪気になついて遊んでいたのに、寝る時間になったらシビアーな口調で追い出されたことがある。
聞こえないふりをしてグダグダと寝転んでいたら起こしにきて、
母の部屋を指差し「ひーちゃんの部屋で寝て!」と言う。
何回も繰り返す。
泣き真似してみたら、本当に泣かれて「ひーちゃんの部屋で寝て!」と
わめくので諦めて出ていった。
私が帰った後に「いなくなると淋しいね。」と言っていたと言うが、
その彼もとうとう一人部屋。
「これで私も泊まれるね」と電話口で喜んでいると、
「ん〜…それは考えとく。」
だと。
「お邪魔しました〜」
と子どもたちの声が電話の向こうから聞こえてきたのが微笑ましい。
(遊びにきてた友だちだろうか。)
「また歌舞伎町でクレープ食べようよ〜」と真剣に言ってみたが、
「ア〜」と交わされた。
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汀夜窓Ⅰ
3/20 16:56
三月に入ってからの金曜日は雨が多い。傷口の痛みに沁みて、冷たく流される浄化の雨。
むしろ、天気だったら絶望と思えるくらい、
そのとき私には水が必要だった。
「きすひけ、きすひけ、きすぐれて
どうせおいらの行き先は
網走番外地」
藤圭子の唄う「網走番外地」のかすれたドス声が今の私にはとてもやさしく。。。
やっとこさ、汀に辿り着くと
用意していた大荷物が何処に行ったのかも判らないぐらい頭が茫洋としていることに気がついて途方にくれる。
そこへ三人のジンガイ様が来店。
「カバーチャージOK!」
と言ってくれたのは良いのだが、
「アナタは〜英語できますかぁ?このお店はぁ、いつからありますかぁ?」
と前のめりになって質問攻めにしてくる。
………。
「ソーリー」
と言うのがやっとの私は、
ふしぎそうにニコニコしているジンガイ様に
小声(省エネ)で「アイアム、、、パニック。サイレント、カオス、、、」と現状を説明。
いたたまれないようなタイミングで店の中が無音になるが我関せずだ。
ジンガイさんはクスクス笑っている。
マイクチェックの音と灰野さんの小さな話し声。
PAに指示しているのか。
急に音が大きく出て哀秘謡の「愛しマックス」
なくしたと思っていた大荷物は外に放り出されているのをジンガイ様が見つけてくれた。
雨が上がったようで、タイガーマスク(ジュクの新聞配達人)が「唐獅子牡丹」のカセットを流しながら通りすぎていく。あの音が遠くから聞こえてくるとちり紙交換を思い出して癒される。
しばらくして、現れた常連のOZAWAさんが、
「イムジン河をカバーしてる韓国の女の子がよかった。」と言った。
「それ、イ・ランですよね。」と少し離れた隣りに座った事件記者K氏。
少し前まではガラケーしか持っていなかったのに、今ではアイパットを駆使して、私にイ・ランの唄う「イムジン河」を聞かせてくれた。
涙の粒のようで少女みたいな声。
手話を使いながら伝える詩。
すごくいい。
映像で彼女が踏みしめている雪と傍を流れている河。
このところの、私の身に起きたことを知っているK氏に、「お客さんのアナタにこんなこというのも、アレなんだけどさ・・・どうしても聞いてほしいことがあんのよ・・・」と
本日の、、、、を打ち明けた。サイレントカオスの理由を。
一瞬、深刻になりそうなイキフンが漂ったあとに、
K氏が「…それって、○○○○○ってことじゃないの?」「うん、、そうなんだけどさ…。それは自分でもわかってるんだ。。でもさぁ…」
疲れ果てた私の話を聞きながらK子はずっと半笑い。
「○○○○○って実在するの?」
その瞬間、ドアが開き、眼鏡をかけたスーツ���紳士。
イラッシャイマセ…というべきなのだろうだが、
「手前を待ってたんだよっ!」
知らない人だ。
何でスイッチが入ったのかはわからないが、続けざまに私はマシンガントークをぶっ放した。
「ヘイ!ミスター○○○○○!!!」
ぽかんとしていた紳士も急にノってくれたのか、
「オマエ、しらふのくせしていい演技するじゃねえかよ!」と
○○○○○プレイが始まり、「財布なくした!」と外へ飛び出したかと思うとジンガイ様8名ツアーを引き連れてハイテンションで戻ってきた。
気がつけば、オールスタンディングでK子も乾杯に加わらされている。
「ヘイ!モンキーマジック!(西遊記)」
さっきまで私の泣き言を聞いてくれていた
K氏が追い立てられるように帰ってからは「オマエがこの店を通して伝えたいことは何だっ!」とミスター○○○○が迫ってくる。
「うるせえ、酒呑めって言ってんだよっ」「わかったよ、For drink !
For drink!」と身を乗り出してジンガイさんたちに呼びかけるも誰も聞いてはいないのに、カウンターには
「客に向かってオマエとは何だ、どこまで敵対してくる気だよっ」とオヤジも負けてはいない。
Thank you,○○○○○、深刻な悩みは笑いに転化するのが身体にイチバンいい。
皆が帰ったあと、シーンとした店内。
ミスター○○○○○とどうでもいい会話をし過ぎて疲れてしまった。
仕方なく
「オマエ、血液型何型?」
と訊くと、
「B型」
たいがい、こう聞いたり、出会い頭にマシンガンTになってしまうときは俄然B型相手が多い。
「Bか…。じゃ、おひつじ座だな。」
「…?…なんでわかるんだよっ」
と、奴は驚いていたが、なんとなくわかるときがあるのだ。
「そっか、、じゃぁ、閉店だから帰れ。ありがとな。」
飲み代は払わないとか何とか捩れ、ごねたあげく
「この店の写真は誰が撮ったんだっ??おまえはフロイト知ってんのか!どこ出身だっ?」と何度も繰り返していたけれど、間もなく帰った。
帰り際になんだか荷物をひっくりかえしたようで、
ごちゃごちゃと往復していたが、私の大切なショールと新しいコートが見えなくなっていた。
何故、こんな事になってしまったのか。
世間は今「三寒四温 」という時期で四季の節目ということらしい。
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女虎と宇宙を泳ぐ友人達の魂と再会
佐々木美智子さんの出版記念会のお知らせを纏めました。
連絡のつかなくなった方、郵便を出しても戻ってきた方がものすごく多いとのことで、ここに告知させていただきます。
おみっちゃんをご存知の方も知らない方にもぜひ見ていただきたいとのこと。
皆様、是非、足を運んでいただけたらと思います。
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寒中御見舞い申し上げます。
念願の写真集がやっと出来上がりました。
写真集 新宿 ゴールデン街のひとびと
七月堂より3月20日愈々発刊!
映画人、役者、作家、ミュージシャン、バーのマスター、ママ、右翼や左翼、酒屋やラーメン屋……。84歳の今も毎夜、新宿ゴールデン街のバー〈ひしょう〉に立つ写真家が、60年以上撮りためた濃厚で濃密な〝新宿村の人々〟300人余の群像!
七月堂http://www.shichigatsudo.co.jp/
出版記念の御案内です。
①桜の花が舞う立春の日から三日間
3月21日(水)22日(木)23日(金)
②場所 新宿駅東南口 甲州街道沿い徒歩3分
新宿区新宿3-35 3F 守ビル
シアターPOO 03-3341-8992
③会費 八千円也 写真集一冊とお酒つき
④第一集に収まりきれなかった人々を私が手作りで当日に間に合うように作りました。 二千円也
編集グループを代表して 佐々木美智子
〒160-0021 新宿区歌舞伎町1-1-8 2F ひしょう
http://hisyo.main.jp
発起人
秋田明大
足立正生
石塚俊明
石橋蓮司
岩本茂之
大木雄高
太田篤哉
長部日出雄
北村皆雄
黒田征太郎
沢木耕太郎
坂田明
高橋伴明
喰始
外波山文明
友川カズキ
渚ようこ
早川節子
長谷川和彦
長谷百合子
原一男
左時枝
南らんぼう
三上寛
森山大道
山下洋輔
山谷初男
(あいうえお順で敬称略)
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佐々木美智子写真集
「新宿ゴールデン街のひとびと」
2018年03月20日発売 単行本
2,800円
七月堂
(寄稿・足立正生「新宿、獣道の尽きるところで」黒田征太郎 手紙とイラスト
坂田明「おみっちゃんのこと。ちょっとだけ。」外波山文明「おみっちゃんのこと
長谷川和彦「オミチに乾杯」森山大道「巨大なモンスターとの伴走記」
山下洋輔「ゴールデンゲートの末席から」山谷初男「新宿は猥雑で面白い街だった。」…他
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シンジュク、女虎、アマゾン、赤い宝石
3月18日(日)
新宿に佐々木美智子さんという女性がいます。
彼女が長い歳月をかけて新宿で出会った人達を撮りためた写真集がこのたび完成しました。
「新宿ゴールデン街のひとびと」
2018年03月20日発売 単行本
2,800円
七月堂
3月21日(水)22日(木)23(金)に新宿南口のシアターPOOにて出版記念会を開催することになりました。私も発起人になっております。
今日の昼間にこの会のお知らせの手紙を持って新宿の街を歩いているおみっちゃんと偶然遭遇し、色んな方に手伝って貰いながらも殆ど独りで切り盛りされているのを知り、私からも宣伝させていただくことになりました。
是非、会場に足を運び、彼女が生きてきた熱い時代を感じていただきたいと思っています。
2012年に私が書いたブログより抜粋。
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おみっちゃんこと、佐々木美智子さんは新宿の伝説の女性。
昭和三十年代に北海道の根室から上京し、新宿で屋台をひきながら生活。
日活で映画の編集をしながら、日大闘争を撮り続ける。
ゴールデン街に「むささび」というバーを開き、解放区とする。
その後のコマ劇場近くのグランドキャバレー跡に開いた「ゴールデンゲート」では、
右翼も左翼も有名無名の映画人も学生も入り乱れて飲んだくれていたという話は何度か聞いたことがあった。
そして、単身ブラジルに渡り、バーやレストランを開き、
作家の沢木耕太郎さんに寄贈された二万冊の蔵書などを元にブラ��ルに私設図書館を造った。
というところまでは、前作の「新宿発アマゾン行き」にも書かれていたのだが、
この「新宿、わたしの解放区」ではその激動の日々の何気ないエピソードが、
おみっちゃんらし優しい語り口で綴られている。
私が、この伝説の女性という「おみっちゃん」に初めてであったのは、
ゴールデン街の「汀」をオープンして一年ぐらいの頃に、���上の「一草」の
カウンターに入っていたおみっちゃん宛てにきた郵便物が間違って届いていたのがきっかけだった。
「おみっちゃん」のイメージは「伝説の女闘士」というイメージだったのだが、
そこにいたのは、まるで「少女」のような女性だった。
今回の本の聞き書きをされた北海道新聞の岩本茂之さんが、以前に北海道新聞でおみっちゃんの
記事を連載していたときに、映画監督の足立正生さんが
そして大変な苦労があったのにも関わらず、、、まるで少女なようなおみっちゃんを
「いつまでも少女という人は何人か知っているけど、
すべてを引き受けていつまでも少女という人はいない」と語っていたのを思い出す。
(この記事は連載当時よりも長いものがこの本の巻末に記されている。)
ちょうど、7年前に彼女が入っていた、ゴールデン街の「チキート」というバーで、
ブラジルのガラナや薬草で作ったお酒を呑みながら、昔のはなしを聞かせてもらい、
ひと夏を過ごした。
おみっちゃんの友人だった、浅川マキさんに会いにいったこともあった。
再会した瞬間に「マキ、会えてよかった、、、」と抱き合って涙ぐんでいたことを憶えている。
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「新宿、私の解放区」
佐々木美智子/岩本茂之
寿郎社
ISBN:9784902269536
2012年09月発売 単行本
2,625円(税込
1960年代後半から、新宿ゴールデン街で学生運動家や文化人らに知られた“伝説のバー”を経営しながら、全共闘運動などの写真を撮った女性の破天荒ともいえる半生記である。
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冬のあいだ編んでいたセーターが出来上がってご満悦。去年は同じ色のセーターを友だちにプレゼントしたが、2月19日の祖母の誕生日にはベージュのセーターを編んだ。来年はざっくりしていて色が綺麗なタートルを沢山つくって展示したい。(野望)
もう十五年も前に手芸店で箱買いした可愛いモヘア達がクローゼットの奥に眠らせてしまっていたのを思い出し急に火がついたようにセーターを編みはじめた。これまではマフラーや帽子しか編んだことがなかったのだが、
難易度の高いものにチャレンジするほうが、夢中になれる。
私の周りで編み物好きといえば、はっぽんさん(俳優の山谷初男さん)だが、いつもリハーサルのとき着ている鮮やかな黄色のセーター、オレンジとブルーとグレーのボーダーのタートル、細く繊細に編まれた黒のベストなどは、全部ご自身のお手製。はっぽんさんといえばいつも編み物。電車の中や映画やドラマの収録の待ち時間にも…と聞いていたが、本人によると「役者の間では流行ってたの。」
皆さん、楽屋でよくやられていたようだ。楽屋といえば、私もよく編み物をしながら出番を待つ。もうだいぶ前になるが大阪のキャバレーサンでのイベントのときもずっとトリコロールのマフラーを編んでいた。蜜柑とマフラーとのっさん(クレイジーケンバンドの小野瀬正生さん)極悪癒し系談義が懐かしい。
編み物をしていると、頭の中がいっぱいなときも思考が整理されてくる。
モーニングコーヒー変わりにするのが好き。ちょっとしたストレス解消にもなり、テトリスみたいなカタルシスがあるけれど、ゲームと違って消えてなくなるものではなく、素敵なセーターも出来上がっていく過程の愉しみもあるので時間泥棒にならない。
祖母のために編んだベージュのセーター(むらさき小唄と命名)は
昨年の11月のリサイタルの準備期間から少しづつ編みはじめた。ドラマ「淋しいのはお前だけじゃない」を横目で見ながら、セリフや空気感までが染み込んだセーター。劇中で流れていた「流す涙もお芝居ならば〜」という市丸さんの唄声を聴くとその時間がブワッと蘇る。
父が亡くなった事や、リサイタルのイメージを膨らませる事からしばし離れて淡々と手を動かすことに没頭していると感情が平らになるようだったがその分少し楽にもなった。
友人へのセーターを編んでいたときは、大変な事が起こっていた。
ちょうど一年前、母が急に倒れて、心臓の手術をすることになった時期。
手術の経過が不安になり、心も身体も持っていかれそうになっていたがあえて淡々と手を動かしていた。イヤフォンで灰野敬二さん、坂本慎太郎さん、そのほか激しいノイズ音楽を聞きながら待合室で8時間。淡々と手を動かしていた。時折、待合室の窓の外を眺めたり、池田晶子さんの本を読みながら必死に自分を保っていたが。時々我に返り、不安になるのを繰り返し、あれほど時間の経過を感じたことはなかった。
グリーンのセーターに名前をつけるとしたら「祈り」だろう。
無事に手術が成功した帰り道に雪が降り続けてきた山中の風景を思い出すと切なくなるが、先日、その日からちょうど一年経って、母の経過は良好だと聞き、安心した。
そして、誕生日を迎えた祖母はお医者さんに「百歳まで生きられますよ!」と太鼓判を押されたと喜んでいた。
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先日読んだ新聞に
九十歳を超えると「老年的超越」という指標(境地)で示される幸せの感覚の度合いが高くなるという記事があった。
「高齢になれば、それまでのように心身の若さを保つのは難しくなるし、衰えが避けられなくなるし、高血圧、骨折、白内障、認知症も併発してしまい、
いつか限界がきてしまうが、
「以前のようにできない」ことを悔やまない、
よいことも悪いこともあまり考えない
周囲の人への感謝と十分に生きたという感覚に包まれる。」
「ひとりでいてもさほど孤独を感じず、できることが減っても悔やまないようになり、周囲への感謝の気持ちが高まりやすいのだとという。
「成功」や「達成感」を重視する若い頃とは異なる穏やかな幸福感。
「ベッドにほぼ寝たきりでも「昔を回想するだけで楽しい」健康を失ってしまっても幸せでいることはできるんです。」という人もいるのだそうだ。」
スウェーデンの社会学者によると、高齢期に高まるとされる「老年的超越」とは「物質主義的、合理的な世界観から宇宙的、超越的世界観からの変化」
それがほんとうだとしたら長い歳月生きてきた人たちにとって、宇宙からの最髙の贈り物だ。
長生きの秘訣は、怒ったり、悲観的になるより、いつも笑っていることとは聞いたことがあったが、祖母は孤独よりも周り(家族やデイサービスの職員さんたち)への感謝の念が強く、いつも自分は恵まれていると口癖のように繰り返している。
皆がいつも一緒に居てくれて、生活をし、会話したり食事したりできることを心から喜んでいる。
おいっこからは「はるさん」と名前で呼ばれていて、
あまりに何度も繰り返す祖母の語り口があまりに重厚的で、まるでこれから不幸が訪れる。。というような導入部でもあるかのように怪談話のように感じてしまい、そこまで言わなくても…と思っていた時期もあったが、祖母が
デーサービスに通うようになって、出会った人の話を聞き、そううまくいっているところばかりではないというのを見聞きしてきてそれをそのことに軽い衝撃を受け、自分はなんて恵まれているのだろう。としみじみ感じているのだった。当たり前のことがそうではないと。祖母の話を聞いていると、その相対的な見方に驚かされる。
母は曾孫からは「はるさん」と名前で呼ばれていて、食事が終われば、いつも一緒にテレビを見たり、彼がゲームをやっているところに連れていかれるのだそうだ。彼にとっても祖母がただ黙って共に居ていれる時間が嬉しいし、落ち着くのだと思う。
『「まんが日本むかしばなし」の魅力は恐ろしさに多くある。』と市原悦子さんが語っていたことがあったが、『心がけよく生きていれば良いことがあるとか、努力すれば報われるとか、そんなことはなくて、人間なんてちっぽけな存在で、理不尽なことが多く世の中がどんなに残酷かということを描いている。』という文章を読んだとき、私は祖母の人生を思った。
長い人生を歩んで来た中で何故なのか人よりも苦労の多かった彼女の心の中にどんな光景が広がっているのだろうと思うと切なくなる。。
私と祖母は離れて暮らしていても深いエンパシーで繋がっていて、お互いの調子が悪いときなどは、なんとなく伝わって、どちらかが電話をかけたりしている。時には同じ日に同じような夢を見て互いに泣いているときもあった。
���の中には私が小さいときに過ごした祖母の家や畑の風景が出て来た。
祖母はその頃のことを繰り返し繰り返し何度も話す。それはもう楽しかった日々、やがて訪れる受難も含めて、まるで昨日のことのようにディティールまで細かく話し続ける。でも祖母の本当に言いたいことは吐き出されてはいない。それでも懐かしく昔を語る。聞いているうちに涙が止まらなくなり、「もうやめて」と頼んだこともある。そんな長いあいだ抱き続けてきた思いが私にも手にとるようにわかってしまい、重苦しくて辛くなってしまうこともあった。
祖母が生きてきた時代は戦争もあり、誰もが辛く苦しい経験をして来たのだと思うが、それでも祖母は人よりも苦難が多くふりかかる人生だった。
「本を書いたらよかったのに。」と近所のおばさんたちによく言われたそうだ。そのおばさんたちも皆畑仕事をしたりしながら、必死に子どもを育てたり、家族の面倒を見ていた。私が小さい頃はよく一緒に唄を唄った。
そんな生活の中で文章など書く術などはないと知っていながらも、そんなことを言ったのは、祖母が歩んだ(選んだ)苦難の道を知っていたからであろう。そのおばさんたちもみんなこの世にはいない。
いつか祖母の半生を変わりに書いてみたいと思う。
今でも、突然祖母から電話がかかってくることがある。
そういうときはたいてい私が地の底まで落ちそうになっているときか何かに憑依されてしまったかのように苦しんでいるとき。
血を吐き出すかのようにいい年をして泣き出したりすると、急に祖母はしゃきっとして、しっかりとした口調になる。耳が遠くなってしまっていて会話が噛み合なくなっているのに、このときは通じあっているのか、体調のことも気遣ってくれたり、世話を焼いてくれようとする。(電話なのに。)
やっぱり幾つになっても孫なのだ。
心配することが嬉しそうは祖母が微笑ましくなり、私に取り憑いていた悪魔的要素は半分くらい吹き飛んでいる。
私は記憶力が恐ろしくいい方なのだが、すっかり記憶が抜け落ちているが、
祖母がタクシーで山を越えて中学まで来てくれたことがあったのだという。
その頃の私はつらいことが重なって、消えてしまいたいと思っていた。思春でもあり、少しだけ文学にかぶれて、死への強い願望もあり、あやうい状態だった。家も学校も全てが八方塞がり。どこにも安らげる場所はなく、もうどうすることも出来なかった。
祖母は突然私のことが心配でたまらなくなって、昼の時間にタクシーで駆けつけてくれて、玄関で私を呼び出したが、私は「誰とも会いたくない」と答えたのだそうだ。その記憶はまったくないのだが、遠く山の中からタクシーで来てくれた祖母のことを思うと心が痛む。
三年前に寺山修司80年生誕祭で唄ったときにPANTAさんの「さようなら世界夫人よ」を聞いて、その頃の灰色の空を思い出し、「なぜ、あのとき思いとどまれたんだろう。」と切なくも不思議に思っていたが、あれだけ追い込まれた十四、五歳のあの時期に、逃げる場所も理解してくれる人もないままに、
「死」に直結しなかったのはこういう祖母の思いがあったおかげだったのだろう。
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「Nightclub of Particulates 渚ようこ×哀秘謡」
2017年の10月歌手デビュー20周年記念リサイタルと銘打って開催した「渚歌謡曼荼羅」にスペシャルゲストとして「夢は夜ひらく」と「黒い花びら」を唄ってくれた三上寛さんが、
「渚、オメデトウ!それでいいんだ〜!」と花束のように宙に言葉を投げてくれた。
「そう、それでいいんだ。初期工事完了!あとは自分の好きな絵を描いてください。」
この言葉で祝祭が終わってしまった虚無感や淋しさが薄らぎ、今、自分が好きな絵を描くとしたら……「灰野敬二さんとライヴがやりたい」という思いがふと浮かんだ。
新宿JAMの協力で、すぐに灰野さんに連絡がとれることになり、直接お話したいと思い、12月に明大前のキッドアイラックホールのライヴに出向いた。
この日は、「ポリゴノーラ」という植物から生まれた音階を実現する楽器と琵琶と尺八を使ったアコースティックライブだった。
普段お世話になっているボディートーク(エネルギー療法で意識と量子力学に基づいたホリスティック心身統合的ヘルスケア)の施術士のAさんから、私の身体の水分には倍音が合うのではとアドバイスをいただいたことがあったのだが偶然にもこの日その音に出会い、聴いているうちに細胞にまで染み渡っていくようで気持ちよかった。
終演後に楽屋で灰野さんにご挨拶すると、すぐに、
「一夜限りの哀秘謡再結成というのはどうかな!」と言っていただき、私は舞い上がった。
まっさきに「微粒子たちが集まるナイトクラブ」というキーワードが思い浮かび、NY在住の友人のJustinに訳して貰い、タイトルは「Nightclub of Particulates」とした。
日本の歌謡曲やGS、唱歌・童謡を歌詞はそのままに、メロディーやアレンジを変えて歌う哀秘謡のまさに9年ぶりの復活。以前はギターも弾きながら唄っていたという灰野さんも今回はハーモニカを吹きながらボーカルに専念。まさに男性専属歌手。女性専属は私で
フロアのムード音楽担当には、DJ2741さんにお願い出来ることになった。
数ヶ月のあいだ5月のライブに向けて動き出す。
いつものことだが、私は儀式の前になると決まって分裂症状が起きる。それが物理的な方面からくるのか、人間関係や感情方面からくるものかは予測できない。生みの苦しみともいうのだろうか。嵐のような日もあれば、これに抗ったり、泣いてみたり、ここで殻に閉じこもり、辛いひずみと血の滲むような不可思議な脱皮を繰り返し、本番を迎えるのだ。すべてはいつもどおり。膿を出し切る。
灰野さんの著書「捧げる」に収められた後飯塚僚さんとの対談で、「場と反応」について語っているのが興味深い。
『ホタルは発光するとき、同調して点滅する。体内時計に似た振動子が波打って発光する。ホタルがある周期で波打ってるのが、集団になって相手が見ると、光の周期を調整していき、そのうち全部の波が合わさっていくシステムがある。たとえば三千個の細胞を固まらせ、ある程度培養してやると目の形のものができてくる。個と同調ね。こんなふうになろうねっていうのがある瞬間伝わるんだ。そしてまたあるところで別のものが起こって、「違う曲になっていく。」』
「素粒子のナイトクラブ」でも、こんな魔法のような連鎖反応が起こったら素敵だなと思った。
5月13日は夕方まで降りしきっていた雨も上がって、満員のお客様。
「渚ようこと花園臨界実験所」は「女のみち」ではじまった。いつにも増してフリーキーな臨界実験所の演奏と、様式を持ちつつチャーミングに弾けるデリシャスウィートスの躍りで伸び伸びと唄う事を愉しんだ。「津軽海峡冬景色」でワンネス。
「哀秘謡」はまるで漆黒の白昼夢を見ているような歌謡世界で皆を魅了させてくれた。
「黒い花びら」「愛しのマックス」「ダイナマイトが150屯」「朝まで待てない」など、まるで子守り唄のように体内に刷り込まれている馴染みの歌謡も
原曲の持つ様式は美しく崩されて、サイケデリックに鳴り響く。
「錆びたナイフ」で「恋の亡骸、捨てたか…。」と震えるように囁く灰野さんの声そのものが楽器のようでもあったし、他にはない詩情を感じた。
アンコールは「若者たち」を超高速で演奏し、嵐のようにステージから去っていった。
DJ2741さんの選曲は渇いたニューロックあり、インストゥルメンタルありの
どこかファニーなムードが漂い、不可思議な既視感に襲われる。幼い頃に行ったことのある(ような)ドライヴインか、喫茶店かゲームセンター(スマートボール?)に置いてあるジュークボックスから流れてきたようなかっこいい音楽、異次元のディスコでもいい。異次元のナイトクラブ。
JAMに集まってくれた人たちの細胞が、あの場でのひとつひとつの呼吸や轟音や静寂に反応して同調して、ホタルのように発光できていたらいいな。
灰野さんには、「またいつかやろう、キミの唄は嫌いじゃない。」と言って貰って凄く嬉しかった。
来れなかった人たちの「次の機会には必ず!」というメッセージに応えながら、もしも次があったとしても「Nightclub of Particulates 」 は一夜限り、同じ夜は二度とないんだよな。」と一抹の寂しさが湧いて来た。
(ホタルの美しい点滅やハーモニーを奏でられるには、この日までの裏方の積み重ねや店長の石塚さんの協力があったから…。)
勿論JAMがその年の末に閉店してしまうことは考えもしなかったけれど、
本当に一期一会だったのだと思う。
でも、また別の場所で灰野さんと邂逅する事が出来るのなら、今度こそ、セッションをやりたいな。
瞳孔開き切って唄うあのスキャット。
かつて、安田謙一さんが書いてくれた、
「死姦の肌の冷たさを知れ」と云う、そう、アノ曲を一緒に唄ってみたい。
番外編
この日、MCでも話した、上京した当時の話。
西武新宿線の東伏見に住んでいてキャバレー歌手を目指していた頃、
なかなか唄う機会に恵まれず、寂しく荒んだ生活をしていたのだが、駅の改札やコンビニや帰り道に長髪で黒づくめの灰野さんによく遭遇した。
「あの不気味に謎めいた方は誰なんだろう。」といつも思っていた。
いつも途方にくれていた東伏見の二年間の風景には不思議なことにいつも灰野さんがいた。勿論話したこともなかったけれど。
にわか仕立てで組んだバンドで学祭に出ることになり、メンバーの女子たちが泊まりにきたときに、「あ!灰野敬二だ!」と言われ、初めてわかった。
不思議なのは、今回のライヴ前に訪れた、ボディートーク
(エネルギー療法で意識と量子力学に基づいたホリスティック心身統合的ヘルスケア、特定の病気を治したり診断をするものではないけれど、意識、心、身体、ものの見方、関わり方などあらゆるレベルでバランス(調和)を取り戻していくプロセスの中で症状なども改善される可能性がある。)では、
「二十歳の頃の悲嘆」という記憶が身体の中から一番最初に浮かび上がってきたことだった
ボディートークのセッションでは
いつも不思議な体験をさせていただくのだが、今回もまたユニークなもので、
「犬に吠えられる恐れ」というものもあり、どこか身に憶えありそうでなさそうなものから、「死への怖れ」「突然のハプニングには対応しかねる不安」からくる
無力感を小腸でバランスしてもらったり、出会いや縁を深めることを怖れていて、いずれ来る別離の怖れに繋がっていたものを解除してもらったりと振り幅が激しい。自分の無意識の中にはこんなに多くの物語があったのかという発見に驚きと切なさに呆然としながら
自分がこれまで辿ってきた場所への忘れ物をとりにいったような安心感もある。
一番興味深かった「二十歳の頃の悲嘆」
歌手修行として場末のスナックを点々としていて、気まぐれで自堕落な人達の人生論に翻弄される日々だった。小さな挫折を繰り返していた頃の改札から歩いてくる黒い影の存在。
ただそれだけのことなのだが、縁とは異なものです。あれから二十年くらいの歳月が流れて、唄い手となって灰野さんと同じステージに立てることが嬉しかった。
閃光のように一瞬で過ぎた一夜。ありがとうございました。
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2017年12月26日(火)
年末で閉店してしまう「新宿JAM」のフィナーレを飾る、
「デリシャ●カニバルとびだせ!人間
第29回目〜大合唱!新宿JAM万歳感謝祭の巻~」に出演。
私は「新宿マドモアゼル」「世迷い言」「津軽海峡・冬景色」を唄わせてもらった。
「新宿マドモアゼル」はもう20年前くらいにJAMの深夜にひっそりと行われていた
謎のパーティ(?)「ようこの夢は夜ひらく」で初めて唄ったナンバー。
昨年、名古屋で20周年のライヴを開催したときに宣伝を担当してくださったTHE OTHERのinstagramに当時のことを書いている。
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ようこの夢は夜ひらく
#2「R&B花ざかり」
時は90年代後半、新宿の地下にはむちゃくちゃ尖っててかっこいいボーイ&ガールがワンサカいた。(超絶的にダンスのウマいトモコさん、山口小夜子みたいでほんと素敵だった。今はどうしておられるのだろうか?)
さとうさんがオーガナイズしていた
「R&B天国」には数々のヒップなバンドが出ていたと思うけれど、名古屋とのつながりがものすごく強かった。
99年に発表された実況録音盤「R&B天国」を聴くと
そんな狂熱の日々を思い出す。このライヴの頃はヘアのボーカルがジュリー田中さんから鈴木パンサーさんに変わった頃。黒っぽいフィーリングで渋い唄声の鈴木さんは名古屋・大須のTheOTherのオーナーであり、顔役という雰囲気。
ファンキーなデュオ「エム&チク」の洋と邦入り交じった絶妙なハーモニーも大好きだった。私の「ふたりのシーズン」や「ホールド・オン」も収められている。「ドック・オブ・ザ・ベイ」も何度もトライしていたけど、さとうさんに「もっと日本海が見えるように!(唄って)」というダメだしを何度も得てお蔵入り。(個人的には鈴木さんのドック・オブ・ザ・ベイ聴いてみたい!とふと思う…♪)
TheOtherのハルミさんにもこの頃に出会った。ハルミさんが制作、プロデュースされた「アングラポップイン大須」の一枚目、松石ゲルくん率いるハレンチ・ロック・グループ「ザ・シロップ」のアルバムがリリースされた2000年に私もあいさとうさんプロデュースによる「アダムとイヴのように」を出して貰った。和モノグルーヴ花ざかりの季節から豊潤な果実が実っていくようなめまぐるしい季節だった。
#3「ワタシは新宿マドモワゼル」
そんな花ざかりの日々、まるで裏番組のように新宿JAMで真夜中のDJパーティー「ようこの夢は夜ひらく」でネオンカップスという家出娘たちで結成されたダンサーをバックに歌謡ショーをやったりしていました。( といっても平日の夜中だからお客さんも数人しかいなかった…。)このショーの仕込みのためにDJの山下タクくんと(懐かしい!)と彼の持っている和モノインストのレコード(猪俣猛とか石川晶とか江藤勲とか)から曲も演奏もアレンジもかっこよくて、しかもキーがあうものを選んだり、の働いていた某老舗レコード店の開店前に出かけていって膨大な和モノインストレコード(民謡クラシックやスクリーンミュージック含む)の中から何百枚も試聴してみたり。(なかなか唄が乗せられそうなのは難しかった。例えばジミー竹内はドラムソロが長過ぎて…)
一回目のショーでたまたま唄ったチコとビーグルスの「新宿マドモワゼル」の評判が良くて、唄うたびに「あの曲は?」と聞かれるよ
うになったので、定番曲として唄うようになってそれが今日まで来ております。初めてのソロリサイタル(のちに実況録音盤も発売)のタイトルにも使わせていただいた「新宿マドモワゼル」(勿論、松石ゲルくんにサウンドプロデュースしていただいたゴールデン歌謡シリーズでも第二集・エロスの朝に収録)
この曲はもう何百回唄ったかな?何度唄っても飽きることはなく、新鮮な気持ち。いつ��「夕陽のようなカクテル飲んでネオンの海を泳いでゆくの」この偉大なるマンネリズムが歌謡曲の真骨頂かな。 (2016/11)
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新宿JAMにはこんなに沢山の思い出があって、そしてそれがまるで今日まで地続きで、そしてそれがこれからもずっと続いていくものだと思っていた。JAMはなくなることなんてなくて、ずっとあの場所に存在してくれると思い込んでいた。
「R&B天国」の頃は月に一回必ず通っていたし、ヘアとのリハーサルも地下のスタジオで音を出していたので、いつもライブステージを横目に見ながら(聴きながら)、スタジオに潜り込んでいた。
デビューアルバムのレコーディングもJAMで録音した。プロデューサーのさとうさんやメンバーはみんな一階のスタジオにいるのだが、「幽霊が出るよ」とかおどかされて、真夜中の地下のステージでひとり唄うのはちょっと怖かった記憶がある。
お客さんが数人だけ…という、深夜の歌謡ショーを経て、
DJのたっくんと企てた私の初めてのソロリサイタは歌謡インストレコードだけで唄う二部構成のショー。
この日のために何ヶ月もたっくんが働いていた某中古レコード屋の開店前に何回か通い、倉庫を見せてもらって、和モノのインストレコードを手当たり次第探しまくり、唄がのせられて、なおかつアレンジがイカした曲をセレクトした。これは意外と気が遠くなるような作業で、せっかくアレンジがよくてもキーが合わなかったり、ドラムソロがあまりにも長過ぎたり、曲自体はかっこいいのだけど、聴いてみると今ひとつだったり…と難しかった。
(たっくんはその頃はまだほとんどいなかった和モノDJの先鋭で、独自の美学があって、彼のお眼鏡にかなわない曲はほとんどNGで選曲が大変だった(笑))
音はCDに編集したりせず(その頃はまだカセットだった。その後少しだけMDの時期もあった。)ターンテーブルから出すというスリル満点のものだった。
劇中、ステージを70年代のブティックのように飾り立て、「ファッションビレッジ・ジ・アップル」と称して寸劇みたいなこともやってみたりして、恥ずかしいけれど、懐かしい思い出。
歌謡インストに紛れて意外と多いのがビートルズのナンバーだったが、、あの頃に出会った「カム・トゥギャザー」のイカしたアレンジのインストや伊東きよ子の唄う「サムシング」の音源はいったいどこに行ってしまったんだろう。
その後にヘアのあいさとうさんが生演奏のリサイタルを企画してくれて、
「新宿マドモワゼル」が開催された。
それまでは、あいさとうさんが主催する「R&B天国」でヘアをバックに二、三曲唄っていたのだが、初めてのフルステージ。
一部の演奏は「ダ・ヒップス」二部は「あいさとうグループ」によるもので
ゲストにクレイジーケンバンドの横山剣さんをお招きして「また会う日まで」(デュエット)「サニー」を唄っていただいた。いつになくたくさんの人達で溢れかえった夜になった。
それから十年ぐらいご無沙汰してしまったのだが、早川義夫さんとシベールの日曜日との「断崖のオペラ」昨年は灰野敬二さんとのツーマン「Nightclub of Particulates」とやらせてもらった。
店長の石塚さんには本当にお世話になった。他の場所にはない人情みたいなものを感じていて、本当に感謝している。
あの楽屋につながる階段の暗闇がなくなってしまう。
JAMに限らず、今はどんどん、古いけれど味わいのある建物が壊されて、新しく建て替えられ、街や路地が消えていく。
その場所自体がなくなってしまえば、壁や天井に染み込んだ音や思い出がもぎ取られてしまうようで淋しい。(デリシャの描いたあの壁画も消え去ってしまう。)
ふと、通りの向こうからJAMを眺めてみると、いつのまにか辺りは最新のビルや駐車場だらけになっていて、JAMが入っているセントラルビルは、まるでエアーポケットのように長いあいだ、静かに呼吸し続けてくれていたんだということに気がついた。
ありがとう、さようなら、新宿JAM
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渚ようこリサイタル2017〜花吹雪、シュトルム・ウント・ドラング篇@四谷区民ホール
「少しクセのある十品目新宿弁当」「坂口安吾の桜の森の満開の下」「歌謡ショーとは似て非なる歌謡ショーとは似て非なる、演者が背負ってきた人生が歌の向こうに浮かび上がるような圧巻のステージ」「コロッケ」
等々たくさんの嬉しい御言葉をいただきました。
◎アンコール「ガセネタの荒野」「ソーラン渡り鳥」「渚のズンドコ節」より
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本日は私のリサイタル「花吹雪、シュトルム・ウント・ドラング篇」にお越し頂き、有り難うございます。
今回のリサイタルのタイトルをどうしようか迷っている時にふと、
「シュトルム・ウント・ドラング」という言葉が浮かびました。
その瞬間から言霊は動き出し、この数ヶ月のあいだ、さまざまなドラマがありました。
いいことも悪いことも嬉しいことも哀しいことも波のように押し寄せ、渦の中に巻き込まれそうになっても、幕が上がれば私はステージの中央でライトを浴び、さまざまな人間たちのドラマを唄っているわけです。
「シュトルム・ウント・ドラング」は、
日本では「疾風怒濤」と訳されていますが、「嵐と衝動」という意味でもあり、
詩人のゲーテやシラーが中心となり古典主義に反抗し感性の非合理性を主張した18世紀後半のドイツ文学の革新運動で、「ものごとを論理、理屈、善悪などで考えて、その考えを広めようと言う意図の下にあった文学」のあり方を批判し「理屈ではない人間の感情の自由を描き、人間がもつ、善悪などで縛れらない人間性を描いた」と言われていますが、私の敬愛する作詞家の阿久悠さんの作品や心意気に通じるところもあるような気がします。
(阿久さんが天に召されてから今年で十年。今日は阿久さんの盟友でもあった上村一夫さんの描いたイラストをステージに投影させていただき、阿久さんに書き下ろしていただいた曲も唄わせていただきます。)
シラーの戯曲である「群盗」(1781)の中には、例えば郷土愛、自由へのあこがれ ���存の学問に対する軽蔑、自然への愛、独創的な天才であらんとする衝動が展開されているそうですが、
私の歌謡曲の原風景といえば、やはり生まれ育った山村の日々にあります。
今は消失してしまったその家屋や風景の記憶を原動力に、これまでに出会っ
たたくさんの仲間や友人たちとの出会いに刺激され、時には軋轢が生まれたり苦難の連続に陥ったりしても、創造することを失わずにこれたような気がします。
ご協力いただきました上村一夫オフィス様、千社札のリングネームを考案してくださいましたワードプロセッサー様、出演者、演奏者、制作・舞台スタッフの皆様、そして本日お集まりいただいた全ての皆様に心より感謝申し上げます。
2017年11月23日
渚ようこ
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