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yasukoito-blog · 2 days
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悪戯
 「あじゃらかもくれん てけれっつのぱあ」と唱え、ぽんぽんと手を叩くと死神はそこにいられなくなるのです。床に臥せった病人の、枕元に死神が座っていたら、それは寿命だから諦めなければなりません。そのかわり、足元に座っていたら助かります。この呪文を唱えると、死神はどうしてもそこを離れなければいけない。そういうことになっているからです。必ず病気は治る、これで金もうけができると踏んだ男は、医者の看板を掲げることになるのですが…。
 グリム童話を翻案した落語として知られる「死神」という噺は、明治初期から今日まで語り継がれています。金に縁のない男が「貧乏神どころか死神に憑かれた」と嘆き、川から身投げしようとするところを死神に助けられます。死神が見えるおまじないと、あの呪文を授かったおかげで、古今東西、名医として知られるようになりました。お金持ちになって、嫁も家も取り換えて放蕩三昧。気付けばまた一文無しに逆戻り。
 そこへ、江戸でも指折りの大富豪のご主人が危篤というので訪ねてみると、もう死神が枕元に座っています。これはいけません。寿命なのですから、助かる見込みはないのです。そこを何とか治してほしいと、金二百両を積まれ懇願されます。考えた挙句、布団の四隅を若者に持たせ、頭のところに足がくるように布団をくるりと回しました。幸いご主人の命は助かりましたが、死神の方はおかんむり。これが仇となって、命取りになりました。
 互いに引っぱりあいながら、地球をまわる月。潮の満ち干は、海と月の綱引き。月の満ち欠けは、地球と月のかくれんぼ。夏至から冬至の往復は、今日も続きます。地球もまた、太陽と引き合って回ります。わたしたちの身体とて、例外ではありません。枕元は陰、足元は陽。引力は陰と陽の働きを伴って、地球上の営みに秩序を与えます。誰も遁れることはできません。飴を舐めさせ高みの見物。死神様は、悪戯がお好きなようでございます。
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yasukoito-blog · 25 days
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出稼ぎ
 気分はフーテンの寅さん。車一杯に荷物を積み込んで、目指すは東京お台場の国際展示場。店を閉め、荷物をまとめて、盛岡を後にする。4泊5日の旅の空。平凡な日常としばしのお別れ。着の身着のまま、行き当たりばったりの道すがら。腹が減ったらちょっと休憩。200キロごとに運転を交代しながら、東北道をひたすら南下。片道約500キロ、所要時間は約6時間。オーディオからお気に入りの曲が聴こえたら、アクセルを踏んでいざ出発。
 「骨董ジャンボリー」は1998年に立ち上がった骨董市。冬と夏の年に2回、東京ビッグサイトの国際展示場で行われる。骨董屋による骨董屋の催事は、今年で18年目を迎える。会期は金土日の3日間、日本全国からおよそ500件の業者が集まり、和・洋骨董、トイ・コレクタブルにわかれ、展示販売される。金曜日の早朝から搬入して、同日午後にはアーリーバイヤーのお客が入ってくる。34回目の出店となる百萬堂は、東北の郷土色の濃い品ぞろえで会期に臨む。
 商いの旅は一喜一憂。売れれば面白く、売れなければしんどい。目標は高く、浪費は抑えて。出店料、交通、宿泊、燃料、既に経費は掛かっている。経費と仕入れを差し引いて、これを上回る数字を売り上げたい。こちとら門前の小僧。商品構成と能書きは店主にお任せして、私は売り手に専念させていただく。包装梱包ならお手のもの。花のお江戸は全てが桁違い。お客様方は博学で造詣も深い。目からうろこが落ちるばかり。
 用が済んだら早々に帰り仕度。都会の水は田舎者には合わない。アスファルトで踏み固められた街は、便利だけれど気忙しい。長居はご無用。来た道を引き返すその足取りの重さは、荷物の量に比例する。バックミラーから後ろの景色が見えたら、気分は軽い。白河の関を越えて、ひと安心。水分を含んだ風が、車中を吹き抜けたら、そこはみちのく。疲れた身体を車に乗せて走る。もうすぐ我が家。そこには、いつもと変わらぬ日常が待っているだろう。
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yasukoito-blog · 2 months
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卒業証書
 箪笥の奥にあった丸い筒から、卒業証書をひっぱり出してみた。端正な楷書で私の名前が揮ごうされている。これは一体誰が書いてくれたものだろう。学校長、担任、もしくは専門の人でもいたのかしら。私の学年はひと組40名で3組あったから、最低でも120名は書かなければならない勘定になる。大変な仕事だったことと拝察される。これまで、思いを巡らせたことはなかった。今更になって気が付くというのも、なんとも情けないことである。
 奥中山高原にある三愛学舎は、知的障害を持つ子供のための学校である。生徒の年齢は高校生くらい。本科の3年と専攻科の2年、あわせて5年の月日を過ごした後、社会へ旅立っていく。ここで書の授業を持たせていただいてから15年、卒業証書を手掛けるようになってからは10年になった。子供たちと一緒に過ごすことができるのは本科の3年間、授業は全部で12回。限られた時間の1分1秒は欠片となって、私の中に堆積する。
 書の授業のあと、生活の時間から昼食までを生徒たちと過ごす。調理をしたり、買い物に出かけたり、時には畑の草取りもする。書の時間とは違った側面を出しあうことで、信頼関係を重ねていく。その一挙手一投足を、見逃してはならない。彼らは関心と無関心を肌で感じ取りながら、外界との距離を測っている。ガラスのハートは両刃の剣、壊れやすく傷つきやすい。こころの扉を開けてもらうこと。1枚の証書を紡ぐ、これが第一歩である。
 今年度の卒業生は本科、専攻科ともに12名ずつ、合計24名となった。毎年の事ながら、証書に名前を記すときはいつも緊張する。顔と名前の一致は当然の事、その生徒と交わした些細な会話、その場面が、映像が、名前に代わる。持てる欠片を残らずかき集め、線におこす。おそれ多くも、この子たちのために私ができることといえば、卒業証書の名前を偽りなく書くことだけである。たとえその先に、箪笥の肥やしという避けがたい宿命が待ち構えていたとしても、である。
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yasukoito-blog · 2 months
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おつかい
 おかあさんから、お買い物リストとお財布を握らされる。はい、行ってらっしゃい。背中を押されて外へ出た。買い物は苦手だけど、これはある意味自分の責任でもある。今更カレーライスが食べたいと言ったことを後悔しても、もう遅い。重い足取りで、スーパーこがわへ向かった。通りに出てすぐ右手にあるその店までは、歩いて3分とかからない。不愛想なおばちゃんは、煙たそうな目で私を嘗め回したあと、あらいらっしゃい、重く呟いた。
 じゃがいもや玉ねぎ、にんじんは袋のままカゴに放り込む。ルーも適当でいい。林檎とはちみつがとろーり溶けた、アイドルが宣伝しているあれにしよう。問題は肉だ。肉屋のおじさんはとてもおしゃべりで、関係のないことをあれこれ話しかけてくる。全体、どの肉にしたらいいのかもわからない。リストには「肉」としか書かれていないのだ。ねぃちゃん、お母さんは元気か。お父さんは仕事忙しいか。妹さん、おっきくなったべの。余計なことを詮索しないでほしい。何に使う肉だ、牛か、豚か、それとも鶏か。「えーと、カレーの…」。なぜ、おじさんにわが家の献立までつまびらかにしなきゃならないの、これってプライバシーの侵害じゃないの。何かを悟ったように、おじさんは、経木に肉を乗せてはかりにかける。何グラム乗せればいいと聞かれてもわからない。わからないことだらけで恥ずかしい。子供な自分を思い知らされ、赤面して下を向いていると、ほいきた、緑色の紙包みを手渡される。
 買い物は以上だ。リストにはないけど、カレーと言えば福神漬けだろう。お財布にはまだ余裕がある、籠に入れた。レジの直前、キャラメルコーンの赤に目を奪われる。完璧に買い物を済ませた上に、福神漬けという気の利きよう。これは、お遣いをやり遂げた自分へのごほうびだ。意気揚々として帰宅したのもつかの間、雷が落ちた。福神漬けとキャラメルコーンを持って、スーパーへ逆戻り。口角は上がっても笑っていないおばさんおねがい、そんな目で私を見ないで。
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yasukoito-blog · 3 months
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触媒的(カタライズ)な、ふたり。
 子供の頃は野生動物が好きで、動物園の飼育員に憧れた、山下桂樹さん。おおらかさだけではない、自然の厳しさや美しさに想いを馳せ、弱肉強食の世界に心を奪われた少年期。器用な父親の背中を追ってか、手仕事に関心を抱き、職業訓練校へ進む。あれこれ手がけるも思うようにゆかず、理想と現実の違いに苦悩した。その時、作る側と使う側の間に立てないものかと思い至る。先ずは設計の世界から。30歳の独立をひとつの目標に、東京で経験を積んだ。
 知り合いの設計士の勧めで読んだ雑誌で、加藤大志朗という存在を知る。「家と人。」の編集長、リヴァープレス社代表。土地売買の相談をきっかけに、氏と初対面。北国の生活は酷い。取材先で出会った老人の、枕元にあった湯呑に氷が張っていたのが許せなかったと語っていた。30余年にわたりジャーナリスト、エディタ―としての目線から、暮らしの舞台である家と人の在り方を世に問い続ける。ぐいと胸ぐらをつかまれ、気付けば「家と人。」から、原稿を依頼されていた。
 編集を軸に情報を集め発信する加藤氏と、建築の現場で経験を積んできた山下さん。手段こそ違え、人の間に立ち、求めに応じるところに共通点を感じる。物質は変化するときに熱を発する。その際、必要とされる触媒としての役割とは。通り一遍の建築論や既製概念は、岩手では通用しない。自然と共生する、東北の暮らしは易しくない。創作意欲とは別のところにある、建築。氏の発する一語一語が響く。批判と協調の間で、うわのせできる人になれ。背中を押された。
 カタライズとは、触媒すること。化学変化を促しながら、自身は変化しない。遅々として進まない原稿。これではまずいと、受講した加藤氏による文章講座は、同氏による住宅講座よりもやり甲斐を感じている。800字から1200字に膨らんだ原稿を提出。食うか食われるか、自然の摂理は決して一方的ではなく、相互関係にある。相手を生かせば自分も生きる。また逆も然りである。建築に携わり人と関わることは、そのまま、自身と向き合うことだった。だけどお金持ちにはなれないけどね、加藤氏は笑った。
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yasukoito-blog · 4 months
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 段取り。
 大根をまるまる2本頂いたので、新鮮なうちにおでんにしよう。洗濯機を回して台所へ。土鍋に水と昆布を入れ、弱火にかける。輪切りにした大根は8切れ。一個ずつ皮をむいて面取りしたら水に浸す。鍋はちょうど好い加減で、昆布は大根と交代である。弱火でコトコト煮込む横で、シャツにアイロンをかける。洗濯物を干し終わるころには、大根も煮えている。味を整え火を止めたら、余熱で出汁が入るのを待つと言う寸法である。
 青森のお蕎麦屋さんから頂いた筆耕の仕事は、とにかく数が多い。全部で14種類。これを2日で書きあげなければならない。効率よくするためには、手間のかかる原稿から取り掛かる。卓上のお品書きは20センチ×8センチの紙に表面16行、裏面13行の細字である。等間隔を守り可読性を最優先に淡々と描く。これさえクリアできたらあとは大物と短冊だけ、原稿に従って書いた先から並べて乾かす。あとは梱包、発送をするだけである。
 講座の仲間と昼食後のお茶の席のこと。「継母さんのことには触れませんね」と先生に言われたときは自分でも驚いた。言われて初めて、そのことを無意識に避けていたことに気付かされたからである。課題に書くことを避けていたのではない。その部分に向き合うことを避けて、今日まで生きてしまったことにだ。だから今期は継母を書くことに徹した。セピア色の憧憬は景色だけが残像する。かさぶたは剥がれて、跡形もないようだ。
 夏休みの宿題は忘れ物だらけ。ちゃんと片づけておかないと、大人になっても終わらない。横目に遣り過ごして、逃げ切る選択肢だってあるだろう。何事にもひとつずつじっくり向き合えば、出来ないことなどなかったのではないかとも思う。屁理屈を叩いて弁解ばかり上手い大人になるのはいやだ。易しいことばかり優先すると大儀だけが残るが、厄介なことから先に片づけてしまえばあとは楽、その程度の事なのだけれども。
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yasukoito-blog · 4 months
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失恋の帯留
 葡萄の果実と葉にかたどられたべっ甲は、鈍くあめ色の光沢を放っていた。水色の紐に濃いピンクが二筋入っている。その帯留は、かあさんからもらったものだ。
 そのむかし、かあさんは恋をした。2人は相思相愛だった。道ならぬ恋に未来はない。おわりの日は速足で訪れた。別れのしるしに贈られたのが、この帯留であった。かあさんは後生大事に、肌身離さず持っていた。これに「失恋の帯留」と名付けたのは、某割烹の女将である。かあさんと女将は仲がよかった。モノの貸し借りなど、茶飯事だった。お座敷の席にあわせて、よく拝借しにきていたと目を細めていた。
 かあさんは明治45年、8人兄弟の末っ子として生まれた。白梅から東京の文化裁縫女学校、現在の文化服飾学校へ進み、和洋裁を学んだ。帰盛して結婚しても、かあさんは自由だった。着流しで長唄の稽古へ出かけると、旦那が怪しんで後をつけてきたこと。書の達人でもあり、素紅という雅号を持っていた。ホームスパンでマフラーやマットを織った。これで小遣いを稼いだ。月に数回は麻雀をした。同世代の女友達を集めて、朝早くから深夜までそれは続いた。部屋にはカンナやカマが常備されて、草も刈れば、枝も伐った。風呂では鼻歌を歌った。海外旅行も出掛けた。行き先はどこであろうと、常に和装だった。タバコは92歳まで現役だった。新聞は、隅から隅までかならず読んだ。宇野千代さんを強く意識していた。オレ、死なねんでねぇんが、笑っていた。逸話は枚挙にいとまがない。環境が変わっても、毅然としていた。反発を脱ぎさり、流れに身を任せ、力を抜いて、最期まで生きた。享年96歳だった。
 後から聞いたはなしだが、かあさんは私との初対面のあと、旦那にこう言ったそうだ。「牛の角をためるようなことをしてはならない」。わがままに生きてきた私を、一瞬で見抜いた。それは単なる眼力だけではない。きっと、かあさんもそうだったのだと、今ならわかる。水に母と書いて「海」。女という海は、とてつもなく蒼くて暗く、そして深い。
※角をためて牛を殺す=すこしの欠点を直そうとして、その手段が度を過ぎ、かえって物事全体をだめにしてしまう。(広辞苑 第四版)
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yasukoito-blog · 5 months
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ハレーすい星
 花屋と飲み屋と自宅を往復する日々だった。どこへ行っても変わり映えのしない景色だ。同じ顔ぶれに、同じ会話、同じ展開、バカらしいけど日常なんてそんなもんだろう。やがて何も感じなくなって、何の疑問も持たずにのっぺらぼうになっていく。誰が誰とくっついたの、とったのとられただの、どうでもいいことだ。こうしている間にも地球は回っていて、太陽は燃えている。どの星にも寿命があって、いつかは朽ちる。太陽がなくなったら、地球だってないんだ。そんなこと考えもしないんだ。ったく、おめでたいやつらだ。
 昼間に、高校の先生が花屋を訪ねてきていた。ハレーすい星が、地球に大接近すると言っていた。北半球では見られないため、オーストラリアへ行ってすい星を観測する計画があるという。一緒に来ないか、という誘いだった。
 学校の天体望遠鏡で、土星の輪っかと、木星の大赤斑と、金星の満ち欠けを肉眼で見てからというもの、すっかり天体に取りつかれてしまっていた。空ばかり見て走って、自転車ごと電柱にぶつかったのも2度3度ではなかった。アルデバランやベテルギウスの膨張を案じ、オリオン大星雲から新星の誕生を祈り、アンドロメダ座の膝にあるブラックホールを怖れていた。南半球の星座を見てみたい。本物の南十字星が見られるかもしれない。千載一遇のチャンスだ。胸が躍った。当時1986年4月、わたしは23歳。これを逃したら、次は75年後の2061年。生きているうちにすい星を見ることはできないだろう。仕事なんか辞めたっていい。絶対に行きたいと思った。問題はお金だ。働き始めてから、実家には月3万円ずつ入れている。継母はこれを結婚資金と称して貯金している。もう4年くらいになるから、まとまった額になっているはず。これだ。
 はたして、わたしの一生に一度の願いは却下された。なにを言ってもダメだった。これが現実というものである。それでも地球は回っている。
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yasukoito-blog · 6 months
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 灼熱の太陽に焼かれた衣服にはまだ、夏の熱が残る。内側の芯はいつまでも熾(おき)のようにくすぶっているようだ。季節は巡り、また冬がやってくる。その前に、体温を逃がさぬ算段をしなければならない。油断すれば、朝夕の気温差に自律神経がやられる。寒暖の振り幅が広いほど、かじ取りは難しい。そうなるまえに冬支度をしなければ。ふと、服を畳む右手に目が止まった。
 この手を母に焼かれそうになったことがある。こんないけない手は焼いてしまいますと言って、台所のガスコンロまで無理やり引っぱられた。なぜ叱られたのかわからない。毎日決まったお小遣いでは足りないから、貯金箱を開けてみんなにあげた。それで、もっとくじ引きやお菓子が買える。ただお友達を喜ばせたかった。善悪の区別がつかなかったあの頃の、遠い記憶がよみがえった。
 地球は丸いのに、なぜ人間には感じないの?理科の先生に質問すると、そのことが分かる現象は、つねに身の回りに起きています、と教えられた。太陽フレアが通常の1000倍以上の規模で放出されたと報道され、地上は慌てた。太陽は一億五千キロメートルの果てから五十億年間、太陽系を照らし続けている。フレアは珍しい現象ではない。規模に多少の差異はあれ、常に起きていることだ。
 太陽はいつもそこにある。誰も、この恩恵が途絶えることなど想像しない。夏に蓄えた熱を冬に浪費し、また取り戻そうと、わが身を養うので手いっぱい。照れば熱いと言い、翳れば寒いと人は勝手なことばかり。現在45億歳と言われる太陽の寿命は、約100億年と言われている。無限と思われた太陽さえ有限なのだ。頭では納得したつもりで、また日常に逆戻り。今日も暑くなりそうだ。
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yasukoito-blog · 6 months
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うたう。
 紅白も退屈な大晦日の夜、テレビで第九に行き当たった。言わずと知れたベートーベンの「第九」は、耳慣れた旋律で心地よく身体に入ってくる。落雷のような激しい音から始まる第一楽章、テンポをあげて時に荒々しく進む第二楽章、美しいメロディでゆっくり流れる第三楽章、混沌から歓喜へ向かう第四楽章。総勢200名による大合唱に、身体が震えた。わたしにもできるかな、いつか歌ってみたい。果たして、その数年後にその願いは現実となった。扉を叩け、そうすれば開かれるのである。
 本番までの3か月間は、わからないことばかりだった。最初に楽譜とCDを準備する。当たり前のことだけど、ドイツ語の歌詞と自分のパートを覚えなければならない。合同練習の際に、先生が仰った注意点を書き留めて持ち帰り、家で復習した。ベートーベンのことも、詳しく知っておきたい。書籍やDVDを、片っぱしからむさぼった。対訳付きの歌詞を書写し、音読した。オーケストラの音とセットで身体に入れていく。適当にしていた、浅い呼吸も見直す必要がある。舞台でぐらつかずに、最後まで立っていられるかしら。不安は尽きない。
 声を出して歌う。こんなシンプルなことが、こんなに難儀なこととは思わなかった。音符に従って伸ばす、とめる、強弱をつける、周りと合わせる。至って明快なことが、容易ではない。お隣のベテランさんが、何処までも響き渡る声で朗々と歌っている。なにが違うのか。どうやら、腹筋も鍛えた方がよさそうだ。
 2016年2月11日 岩手県民会館大ホール。開演から約1時間半、あっという間に演奏は終了した。200名の合唱団はひとつとなり、全力で謳いあげた。ベートーベンの調べとシラーの詩は空中で溶けてひとつになり、昇天していった。
 
 そのときのために身体を整え、頭を使い、筋肉を鍛え、感性を磨いておく。歌を筆に置き換れば、日常と大差ないことなのだった。
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yasukoito-blog · 7 months
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あがっちゃん
 花屋の仕事が終わる間際、マスターから電話が入る。花を適当に見繕って配達たのむ。いいタイミングだ。ラナンキュラスを1束包み、店を出る。どうせまっすぐ家へは帰らない。焼うどんでも食べさせてもらおう。この前聴きそびれた、ムーンライダースのアルバムもあるし。メニューを書いたギャラの代わりに、入れてもらったボトルもある。店から歩いて10分。「801g」はサントリー会館の1階、入口の左側にある。カウンターの奥には、丸��鏡の男が一人背中を丸めていた。東京からきた客らしい。
 芝居仲間のたまり場だった。稽古が終わると連れて来られたこの店には、19歳から通っている。小学校の頃習っていたピアノの先生が、マスターの母親だったり。同級生や先輩、友だちの友だち、ここに来る連中は、かならずどこかで繋がっていた。カウンター奥の丸眼鏡が、顎で会釈した。今度ここでライヴやるから、やっこ、ポスター作って。マスターが笑った。わたし20歳、丸眼鏡35歳。これがあがた森魚さんとの出会いだ。
 予告もなくやってきては歌をうたい、風のように去っていく。街から街へさすらう彼に、生活感はない。おっきなバッグを一個背負って、歌ひとつで渡り歩く。その奔放さは、魔法のようにみえた。大人の大半は、あんなふうに生きられないことくらい、みんな知ってる。やがて街を離れて、ツノを丸め、暮らしも変わり、時は過ぎた。わたしが彼を忘れても、彼はわたしを忘れなかった。弘前から青森、青森から盛岡へ移り住んでも、彼は現れた。どの街にも共通の知人がかならず居て、連絡がついてしまった。
 ムーンライダースや、矢野顕子、YMO、ティンパンアレイ、好きなミュージシャンの背後に、常に彼は居た。彼の音楽のことはよく知らないし、映画も見ない。15年前、クラムボンで再会したとき、初めてサインをもらった。俺もついに結婚して家を持ったよ、と力なく笑っていた。彼が東京の人ではなく、北海道留萌出身で今年75歳になることも、今日調べて初めて知った。
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yasukoito-blog · 8 months
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愛を読むひと
 ハンナは文盲だった。それを知られたくなかった。そのことを除けば、至って普通の女性だった。多少の不幸な境遇や、不運な生い立ちはあったかもしれない。けれど、五体は満足で、言語も堪能で、働く場所もあった。電車の車掌をしながら、ひとりで生活していた。文字が読めなくとも、身を養うことはできた。そんなある日、マイケルと出会った。20才も年の離れた少年に、性を与える代わり朗読を求めた。彼が音読する、詩人ホーメロスや、チェーホフの世界は、次第にハンナの心を潤していった。
 仕事を認められたハンナは、事務職への昇格を打診され、姿を消した。時が経ち、法律を学んでいたマイケルは、法廷の傍聴席でハンナと再会。アウシュビッツ強制収容所の看守として働いていた彼女は、殺人の罪に問われ、被告として裁かれていた。看守としての仕事をこなす合間、囚人に本を読ませていたこと。他の看守たちは、ハンナにすべての罪を着せたこと。矛盾だらけの証言の中、筆跡鑑定を拒み、自分で朗読することを拒み、罪を認め、投獄されてしまった。
 マイケルは獄中のハンナへ届けるために、本を朗読して録音した。これをもとに、ハンナは音を聴いてアルファベットに書き起こした。“The Lady With the Dog”。テープの音に続いて音読したあと、本の文字を指で数える。そのあとで、かみしめるように”The”とつぶやくシーンは、忘れられない。音でしか知らなかった単語を、初めて文字として認識できたのだ。独学で単語を覚えたハンナは、やがて、マイケルへ手紙を書くようになった。仮出所の日、身元引受人のマイケルと再会することなく、ハンナは独房で命を絶った。最期まで、誰とも生きることを選ばなかった、潔い女性の物語。
 
 この映画を5回観た。観るたび、深い絶望に苛まれる。おなじ映画を何度も観ることは多くない。きっとまた、観るだろう。見えているつもりが、ほんとうはなにも見えていない、自分を戒めるために。
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※ 愛を読むひと/ The Reader 監督:スティーブン・ダルドリー 原作:ベルンハルト・シュリンク 「朗読者」 2008年 アメリカ・ドイツ合作映画
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yasukoito-blog · 9 months
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ドロボウ
 性格にムラがある。落ち着きがない。言葉に毒気がある。授業中に大きな声を出す。隣の人にいたずらをする。よいときと悪いときの差が極端。能力があるのだから、努力しましょう。
 これは小学校の通信簿の所見欄、先生方のわたしに対する評価です。学期末に渡される通知表を見るのは、恐怖でした。自分には身に覚えのないことばかりですが、すべては事実なのです。親に見せることよりも、本当の自分を知るのが怖かったのかもしれません。決して良い子ではありません。むしろ悪い子でした。
 ピアノが上手なYちゃんのお母さんは、とても美人。家にはグランドピアノがあって、本棚には漫画本が1号も欠けることなく並んでいました。広い台所からは、ケーキの焼ける甘い匂い。広い庭、駐車場には的のついた緑色のネットが張ってありました。きれいな生活。完璧な暮らし。わたしはそこにあった漫画の付録のノートを鞄に入れ、家へ持ち帰ってしまいました。
 次の日、そのノートを学校へ持っていきました。自分のもののように開き、そして使いました。すると、先生から呼び出され教員室へ連れていかれました。ノートを盗ったことを認め、謝り、返しなさいと言うのです。他人のものを盗ることはいけないことだ、と叱られました。そんなことは分かっていました。外が真っ暗になって先生が諦めるまで、譲りませんでした。あのノートはわたしのものだと言い張りました。ウソつきはドロボウの始まり。わたしはドロボウ。あの日から、ずっと苛まれていました。
 十数年後、クラス会の席でYちゃんに謝りました。彼女はそのことを覚えていませんでした。それはとても小さなことだけど、わたしにはショックなことでした。あの時の衝動は、まだ昨日のことのように覚えています。あの日家へ持ち帰ったのは、ノートという名の憧れだったのかもしれません。深い闇に潜む決定的な欠陥。これを自覚しなければいけないという自意識がどこかにあって、通知表を棄てることができません。
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yasukoito-blog · 9 months
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然 シカル
 然ると言う字は「肉」と「犬」と「火」で出来ている。言葉の意味は、そのような、とか、そんな、といった対象を漠然と示すものとなっているが、漢字のつくりにそのような穏やかさは見られない。肉と犬を火で焙るとはつまり神事の際、犬を犠牲に用いることを意味する。犬は犬牲として、地神を祀るには土に埋められ、天神を祀るには火に焼かれたのだという。これによって、その場所は清められる、ということがあるようだ。
  45歳で水疱瘡に罹ったときは、もうダメかと思った。1週間、40度の熱の中で意識を朦朧と過ごした。地に足のつかぬような状態で病院へ通い、1時間半点滴を受ける。芥子粒のような発疹は水泡を伴って、この世のものとは思えないほどの不気味さで全身を覆い尽くした。嘘のように全快したとき、わたしの身体はすっかり別物になっていた。ガン細胞さえも消滅させる高熱は、全身を熱湯消毒したようなものだと誰かが言っていた。
   日本の神事に火は欠かせない。毎年3月、奈良の二月堂で行われる「お水取り」は、遠くペルシャに波及したゾロアスター教の日本伝来と仮説したのは作家の松本清張だった。祆教は「光は善で闇は悪」という善悪二元の思想を持つ。文字は火から生まれた。火は太陽であり、太陽は神だった。太陽が示す卜(うらない)はそ���まま、神の言葉であり、文字となった。そして人々はいつも神の言葉に忠実だった。
  春は芽吹き、夏は盛り、秋に枯れ、冬に眠る。四季の移ろいは、生命の縮図のようだ。甲乙丙丁から始まる十干という数え方も、甲は殻、乙は芽、丙は台、丁は釘といったように、生命消長の循環過程を分説したものと言われている。初春の神事に火による禊が多くみられるのは、炎による生命の再生を象徴する意味があるのかもしれない。
 
 とはいえ、5円足らずの賽銭で願い事が叶うなんて虫が良すぎる話である。高熱で救われた細胞だって、いつまでもきれいなままであるはずがない。ガソリンが底をついたら車だって動かなくなる。怠るなかれ、燃やす努力は。
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yasukoito-blog · 10 months
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時の計り。
 「この落款のところを社名にしてもらえませんか」この一言から、その会社との取引は始まった。カレンダーのデザインはそのままで、落款の部分を差し替えるだけなら、全体の雰囲気は損なわれない、やりましょう。あれから25年、いまも変わらず注文を頂いている。ここがどんな会社で、どのくらいの規模で、どんな仕事をしているのか、いまだによくわからないが、そんなことはいい。今もやり取りが続いている、そのことが有難いと思う。
  携帯電話を持たない社長との通信手段はひとつ。朝8時半の電話だけ。年にいちど、それが未だに一番ユウウツである。朝礼直後の、硬く乾いた社長の声が耳に痛い。もっと元気に、不景気を吹き飛ばすような字を頼むよ。受話器のこちら側で、私は米つきバッタのように頭を下げている。いつもの部数で、なるべく早めに送ってくれ、じゃ頼んだよ。ほんの数分の会話が、永遠のように長い。今年も注文がもらえた安堵に脱力する。
  ひとつきひともじ、12個の文字を象形に書き起こすのが至福なのだ。1年に1度の仕事。とはいえ、翌年の暦が完成した先から、もう来年の事を考えている。おかげさまで、普段から暦を意識して暮らす日常である。浮かんでは消える言葉を、メモ用紙に書き散らかしている。暦つくりの歴史は古い。太陽や地球を中心とした、宇宙の摂理が基本。そこに十干十二支や二十四節気、雑節が加わって原型が完成。365日と12文字を筆耕するのが、私の仕事だ。
  たったひとつでいい、なにか生涯通して続けたい。というのはキレイごとで、本音は仕事がほしい一心で始めた暦づくりであった。1年間、壁に掛けて一緒に暮らしてもらいたい。ふと何かの拍子に気付いたり、言葉の符号が、偶然になにかと一致したら面白い。物言わぬ、文字の声が聴こえたらうれしい。
  暦は不毛な大地に敷かれた方眼紙。遠い未来の途中に立つ標。とりあえず一年先まで計ることができる、一本の定規みたいなものだ。
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yasukoito-blog · 10 months
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父と葡萄
 借家には、一坪程度の庭があることはある。手入れらしいことはひとつもしていない。おそらく前に住んでいたであろう誰かが植えたチューリップやヒヤシンス、ムスカリなどが、春に咲く程度だ。ど真ん中に一本ずつ、沙羅の木とガクアジサイがある以外は雑草が貧相な表土を隠してくれて、適度な緑が目に優しい。たとえば酸性だった土をアルカリ性にして、野菜だとか、ハーブだとか植えればきっとそれなりの成果が得られる程度の広さではある。でもやらない。出来そうもないことは、わたしはやらない。
  そこに父が半ば強引に葡萄の苗木を挿した。最初の年、苗木は棒切れに終わった。次の年、一瞬根付いたかのように見せてすぐに枯れた。土が痩せてるんじゃないか。ところが去年の秋のこと。懲りずに植えた苗木が越冬して、嘘のように根付いた。三度目の正直か、芽が出たのである。父の教えに従い、果実用の肥料を根元に撒き、米のとぎ汁をかけ、米糠を周りに敷いた。一昨年のことを思い出しては、また枯れるのではないかと疑っている。そんな不安をよそに、葡萄はぐんぐん細い触手を伸ばしていった。
  一度枯らせてしまったものは、また枯れる。土がダメ、環境がダメ、水がダメ。わたしなら出来ない理由をたくさん並べて、やらない方がいいと決めつけるだろう。でも父は違う。全然懲りていないどころか、恐ろしく前向きである。新しい苗木を持ってきては、硬い土に挿し続けた。ダメならまたやり直せばいい。そのうち何とかなるだろう。別に急ぐことではない。気長にやればいい。そして気付けば、本当になんとかなってしまうからすごい。
  子供の頃から葡萄の木と一緒に暮らしてきた。日の当たらない、狭い粘土の地面に、それは根付いていた。転居しても変わらない。なぜか、それはかならずわたしの部屋の横にあった。今度は棚を作ってやる。借家の庭に葡萄畑をもくろむ父の計画は、ここ盛岡でも着々と進んでいる。
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yasukoito-blog · 11 months
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五郎さん
 古藤五郎さんは昭和17年生まれ、「嘉七(かしち)」という名の骨董屋さん。長野は善光寺正面に向かって左へ折れたところに、店はあった。屋号はおじいさんの名前だと言っていた。昭和30年代、日本橋から芝へ移転した小料理屋 浪華家(なにわや)は、五郎さんの生家だった。 子母澤寛著「味覚極楽」に紹介されている。『わたしはお客様の釣銭に��決して汚れたものは出さない』と書かれている。 これ、ぼくのおじいさん。初版本を大事そうに開いて、嬉しそうに教えてくれた。
  宿は、東京プリンスホテルと決まっていた。五郎さんにとって芝公園周辺は、庭も同然である。僕の家はあの辺だったんだと指さす先に、いまはルフトハンザ航空のビルが建っている。嘉七と百萬堂は、東京の催事でお隣同士になってかれこれ15年の付き合いになった。いつのまにか私たちは、宿と食事を共にして行動するのが当たり前になり、台場への往復も五郎さんのボルボに便乗して通うようになっていった。
 長野を訪ねたこともあった。観光に明るくない私たちを車に乗せ、小布施へ連れて行ってくれた。北斎館、岩松院。どこへ行っても、骨董屋の見るところはちょっと違った。落款、そして、筆跡。作品を凝視しながら、うなったり、独り言をつぶやいている。そういう時はたいてい、なにかある。なにかというのはつまり、化けるか化けないか、ということだ。
  搬入の前日は芝大門の「味芳斉(みほうさい)」で食事をする。搬出のあとは麻布十番の「登龍(とうりゅう)」。鰻が食べたいときは「野田岩(のだいわ)」へ連れていかれた。どの店も顔なじみで、まるで自宅へ帰るように暖簾をくぐった。骨董に関しては、知識も客筋もお道具も桁外れに一流だった。わからないことがあれば、いつも的確に教えてくれる。年の上下にかかわらず、業者の誰からも信頼され一目置かれていた。
  五郎さんへの電話が通じなくなってまる4年、誰に聞いても消息がわからない。長野の家を出て千葉へ移ったらしい、骨董市に出ていたなど未確認の情報が錯綜した。業者も口々に水臭いだ、情けないだ、やりきれない愚痴をこぼした。そしてつい2週間前、訃報が届いた。3月のことだったそうだ。
  之(ゆ)く日と書いて「時」。時間という砂は、掬いあげた先からこぼれ落ちていく。わたしたちは、今も芝界隈に宿を取って台場へ通っては、業者さんと五郎さんの噂話をする。
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