Tumgik
wakabaroom · 1 year
Text
言葉について考え始めた頃の話(2)
数年に渡り、更新が滞りましたが、 改めまして、また、昔の話です。
高校の授業から解放され、 大学の進学先も決まって、 上京を待つ春先のある日の昼日中のことでした。
私は、とあるテレビ番組を 新聞のテレビ欄で見つけてしまい、 それにそこそこの好奇心をそそられて、 ついつい観てしまうに至るわけですが、 そんなことをしなければ、 こんなに「言葉」への問題意識を 抱えることもなかったかもしれないです。
それは、「若者」対「年配者」という図式の 討論番組でありました。
私の記憶では、 若者の代表は、素人の大学生、複数人。
年配者の代表は、 当時にしてみれば斬新な報道バラエティ番組に レギュラー出演されるようになり、 その期待通りの毒舌コメントで お茶の間を沸かしていたであろうベテランお笑い芸人さん某と、 朝の顔として国民の大多数に知られていたであろう 某アナウンサー。 他にもどなたかおられたかもしれませんが、 今も私の記憶にはっきりと刻み込まれているのは、 このお二人であります。
高校の社会科の先生の影響もあってか、 すでに理屈っぽい社会問題への批評のようなものに いっちょまえに興味を持つようになっていた私としては、 自分より少し上の世代であった その大学生たちが次々繰り出してくる いかにも論理的な発言に、 うんうん、もっともだ、筋が通っている …みたいなことを感じつつ、 こういうふうなのを目指して 大人になっていくんだ…などというあこがれのようなものも 感じていたように思います。
一方で、年配者代表たちは、 その大学生たちに対して 「お前ら、なに言うとるんや」という調子で、 終始、大雑把で感情的な言動を 弄し続けているようにしか私には思えず、 なんでこんなに話が分からない大人が いるんだろうか?…とまで思ってしまうくらい ちょっとイライラしながらその討論を眺めていました。
その時に、そう意識していたかどうかは覚えていませんが、 今、考えてみれば、この年配者たちというのは、 自分からしてみると親や先生くらいの世代であり、 ひょっとしたら、ティーンエイジャーだった自分としては、 なんとなく「大人には分からない」といった類の反発心を抱きつつ、 この討論を追いかけていたのかもしれないです。
番組が終わる頃には、もうすっかり、 「若者が正しい、 年配者はちゃんとものを考えろ」 …みたいな憤りに近い思いで自分を満たすに十分な ウィークデーのひと時となりかけていたのですが、 でも、それでは済まなかったのでした。
最後の最後になって、 今でも大して私は尊敬しているわけではないのですが、 年配者代表の某アナウンサーが、 この討論を総括して感想を述べられたその言葉が すべてを覆してしまいました。 覆されたくはなかったけれども、 無視するわけにはいけないひっかかりを 存分に私に残してくれました。
「どうして若者の言葉が ここまで死んでしまったのだろう」
若者の言葉が死んでいる… この日の私には、なにより納得できていた この大学生たちの理路整然と発せられていた言葉は、 死んでいる? 言葉が死んでいるって、どういうことなんだろう?
それを考え抜く知識や経験を これっぽっちも持ち合わせていなかった私が、 このとき、即、この問題提起の解決に及ぶべくもなく、 これらの疑問は 深く私の中に沈んでいったのでありました。
13 notes · View notes
wakabaroom · 9 years
Text
言葉について考え始めた頃の話(1)
私が取り組ませていただいている仕事のうちの 主だったもののひとつは、 子どもの言葉の発達に関わる支援でありますが、 私がこれまで「言葉」というものに対して 意識させられてきたことは、 単純にポジティブに言えるようなことではないです。
ずっと振り返ってみると、そうした「言葉」への意識は、 すでに私が高校生の頃には 芽生え始めていたようなのですが、 暫く、そのあたりの事情を、 過去を辿りつつ、整理していくことにします。
いろんな境遇の方がおられるとは存じますが、 今の日本人の多くは、 幼稚園や小学校の頃から、 園長先生や校長先生や担任の先生の話というものを、 大事な話だよ…ということで、 ほぼ毎日のように聞きながら大きくなっていくものでしょう。
そういうことでありながら、私は、 大学受験への不安の真っ只中であった 高3の1学期の終業式の朝、 登校の支度をしながら、 ついにこんなことを思いついてしまったのでした。
「校長先生が、なんかためになることを 言ってくれるだろう…と、ずっと思ってきたが、 言葉だけで 今の苦しい状況から抜け出せるわけがないんだ。 言葉なんかより、現実の経過で いったいどれだけ自分がやれるか…ということしか ないではないか。 だから、実際には何にもならないような話なら、 聞かなくても一緒だし、話さなくても一緒だ。」
これが私の記憶に残っている 一番古い、自分の「言葉への懐疑」を 言語化してみたものです。
暑い日のことでした。
皮肉なことに、その日の終業式は、 校長先生だけでなく、 生活指導の先生だったかが、 「最近のお前らはたるんでいる」と、 私の人生では前例がないくらい これでもかと延々と説教を続けていたのを覚えています。 体育館の暑さとともに、言葉の不条理さが、 私の身に沁み込んでくるかのごとく…。
しかしながら、これとは対照的な出来事もありました。 記憶をさらにちょっとその前日にまで遡ってみると、 その一学期最後の授業の日に、 生徒の間で「ホトケ」と呼ばれていたある先生が、 そのホトケぶりからは想像のつかない 重みのある話を突然されたことを、 私は今でも思い出すことができるのです。
「自分は、昔は大学に行こうとは、 全然考えていなかった。 しかし、あるきっかけで大学に進学した。 そのきっかけについては、 プライベートなことなので言わないが、 自分が大学に入学したのは21歳のとき、 つまり、3年ほど、無駄に過ごしたわけ。 しかし、自分にとって、 その3年間が何にもなっていないとは 少しも思わない。 自分にとってはだぞ。 だから、僕は、君たちには、 自分の行ける大学を探すバカはいない…と 言いたい。 大学を選んで、 そこへ自分が行けるようにならないといけない。 大学が君たちを選ぶのではなく、 君たちが大学を選ぶんだ。」
この2日の間に出会った言葉のいったい何が違うのか?
…そんな問題を立てることすら、 当時の私にはできませんでしたが、 大人になるにつれ、そういう問題を意識し、 今に至り、不完全ながらも、 少しは何かそれらしいことを 言えるようになってきたようではあります。
さて、ここまでのところで、 私が「言葉への懐疑」を持ちながら、 それを言葉を使って表現してしまう…といった、 矛盾が浮き上がってきているような気もするのですが、 そこが人間の厄介なところじゃないですか…などという言葉で、 ここはとりあえず、お許しいただくことにして、 不完全ではありながらも、なぜか、 言葉によって言葉自体について語ることもできるよう��すから、 それで自分がどこまで表現できるのか、 追々、少しずつ書かせていただきます。
ちなみに、これほどまで 私が昔のことを詳細に覚えていることが、 不自然で、作り話のように受け取られると心外なので、 一応、補足させていただきますが、 私、ちょうど高3の頃に日記をつけていたのです。 それで、自分の記憶を辿りつつ、 詳細はその日記を引っ張り出してきて、 エピソードを綴らせていただきました。 高2の頃から、友達間でくだらない作文を 余ったプリント用紙の裏に書く遊びが流行っていたり、 家に遊びに行くと、 自分の日記を読めと薦めてくる友達がいたり、 私だけでなくみんなが、言葉を面白がっていたし、 言葉に助けられているところがあったのです。
42 notes · View notes
wakabaroom · 10 years
Text
自分の文脈において、「当面の絶対」を持つ。
前回は、もし私が他者について 言及せざるを得なくなったなら、 どんな思想や方法でも、 不正やインチキのようなものが 明らかには認められないという限りにおいては 相対化して語るべきであろう…と、 そんなことを述べさせていただいたわけですが、 それを今度は、 自分自身が実践の主体になろうというときにまで貫こうとすると、 いったい自分はなにを根拠にどんな方法を採れば良いのか? …といった決断をそこで迫られるわけですから、 ジレンマに陥ってしまいます。
押し並べて、なんだっていいことになる。
「私でなくても、よいのではないか?」という空虚さも生じてくる。
わかばルームを続けていく意味も見失うことになる。
そもそもが、「科学的」ということは、
「交換可能な存在になること」であると、
学生時代に教わりました。
そういうことからすると、こういうことは、
「私でなくてもよい」で、本望であるはずなのです。
でもここで、少なからずも、ご来室下さる方が
わかばルームを選択して下さっているという事実を
真摯に受け止めさせていただくならば、
私は私自身の採り得るパラダイムを
どうにかして表明してみせる責任があるのではないかと
思い至ってくるわけなのであります。
ニッチ志向を標榜し、
必要な方に選ばれるような相談室を模索し、
わかばルームとはこういうものだと
インフォメーションしている時点で、
これはもう、「交換可能」を放棄しているし、
「私でなくてもよい」はありえません。
おおよその「科学」は「絶対」を追及しているはずですが、
前回
述べさせていただいたように、
そうした「絶対」は、
ある枠の中に限って考えての「絶対」であり、
問題を解決する上で
「交換可能」ということを言いつつ、
それだから故に「科学的であること」という制限を
加えるのであれば、
それは、アプローチできる枠が
限られてくることを意味してしまうので、
現実の子育て場面周辺で直面する
雑多な現象面の階層に生じる諸問題全てには
対応できなくなるのは当然でありましょう。
「これは科学では解決できない」ということになる。
ニッチは、例えばそういうところに生じる。
そこで、そのニッチを埋め尽くそうとして、
自分が、
純粋に科学的であると一般に認められている領域も、
一応は科学の範疇ということで標榜されている領域も、
非科学的であると一般に看做されている領域も含めて、
あらゆる流派に精通し、
あらゆる方法を使えるようになればなるほど、
対応できる問題も増えてくるわけですが、
しかし、その全てを網羅することは、
時間的にも労力的にも不可能なことであります。
少なくとも、
私には不可能であると自認いたします。
そういうことになってくると、
私の採り得る態度が
さらに次の次元へと昇華して参ります。
それはつまり、
相対化して捉えるべき一般論の存在と並行して、
私の個人的な志向のレベルが
もともとから厳然として存在しているということを、
私が自身に対して抑圧する必要などないではないか
…という態度であります。
なぜなら、それによって、
現実に私の対応できる枠や立場というものが
確定しているわけですから、
これはむしろ、
相手に否定されることも大いにありうることも承知の上で
自分の志向を明らかにしてみせ、
その上で相手に、それを採用か、不採用か…を
選択していただかなければならないことなのであります。
あるアプローチすべき現象に直面した際に
自分が信じて依拠する見方や方法は、
自分が生きてきた文脈の中で
対峙することとなった問題の中から
見出されてきた思考や行為のパターンなのでありますが、
そうして培われてきた
自分にとっての「当面の絶対」という��うなものを、
自分のものとして、とりあえずでも持てていなければ、
人様にアプローチする資格など
派生してくるわけがないでしょう。
この「当面の絶対」は、「絶対」ではありません。
むしろ、「これが絶対」と
決めてしまえるものが見つかった気がしてしまったら、
自分は終わりだ…と、私にはそんな予感があります。
常に新しい「当面の絶対」を発見して、更新していく営みが
永久に続くものであろうと、私は存ずるのです。
だから、今の自分は間違っているかもしれない…
そういう危うい自覚もあったほうが良いと考えております。
そう言えば、私の立場というものも、
ここで、人様から相対化していただける対象と
なりうる可能性があるではないか…と
気付いてもくるのですが、
世の中そんなふうにはいかない場合も多いだろうと
経験的に存じ上げておりますし、
そもそもが、普遍的な「絶対」は無いとしても、
誰にだって、自身の文脈の中で生じる「好き・嫌い」というものは、
間違いなくあるはずですから、
対面していくあらゆる方々の「好き・嫌い」から
私が逃れようとしても、それは無理でしょう。
諦めるほかはありません。
否定されることも受け入れなければなりません。
なにしろ、私のは「当面の絶対」であって、
「絶対」ではないのですから。
私といたしましては、
自分の文脈にないものを、補助的に使うことはあっても、
それを中心に据えて親子にアプローチさせていただくのは、
不誠実そのものであると存ずるわけなのであります。
否定されようと肯定されようと、
自分が「当面の絶対」として行き着いているところを、
誠実に、どうにか伝わるように表現させていただくことでしか、
ご来室下さった方々にお応えすることはできないのであろうと、
覚悟を何度も新たにしつつ、日々を送っております。
「一般論における相対性」と、
「個人レベルでの文脈から派生する志向」。
この二段構えが、私の採るべき最善のスタンスであろうと、
今のところ、そんなふうに考えています。
私が、ある時点で確信するのは、
普遍的・絶対的なものではないので、
「私はこのように存ずる」という言い方で示していく。
それをみなさまには、自由に採用・不採用していただく。
この場で、私は、自己批判・批評に徹したく存じますが、
やむを得ず、他者の方法論に触れざるを得ない場合には、
どこかの親子を傷つけることがないように、
この私流の二段構えで語るよう、努めて参ります。
そんな中で、本当にお役に立てる方に
わかばルームの存在を知っていただければ良いな…と、
そんなふうに願うわけなのであります。
4 notes · View notes
wakabaroom · 10 years
Text
どんな思想や方法も「相対化」して語る立場を保ってみる。
前回、述べさせていただきました続きで、 子育てや療育に関する特定のメソッドや流派についての批判が どこかの親子を傷つけてしまう事態を避けつつも、 もしも、自分が他者について 言及せざるを得ない文脈に陥ったならば、 採りうる方策は、いったいどんなものになるか?…です。
それは、「相対化」して語ることでしょう。
そのように、かなり前から私は思い至っておりまして、
意識して、そのようにして参りました。
だいたいが、どこかの誰かに
それなりに支持されている思想や方法が
現在も存続しているということであるならば、
それは、それなりの支持される理由や実績が
あるからとしか思えないでしょう。
「プラシーボ効果」ということもあるかもしれませんが、
信じられていて、なんらかの変化が実感でき、
救われているのだったら、
金銭的な不正も、
なにやら不条理な
脅しや強制をされているようなことも、
もはや退廃しきって
惰性でやっているようなこともないのであれば、
たとえ幻想であったとしても、信じたらよいではないですか。
「救われる」ことが、大事なわけですから、
敢えて、他人がぶち壊すようなことではないように、
私は思うのです。
だから、そういうものを「絶対的」に評価や断罪しない。
自分をニュートラルなポジションに置くようにして
語るように、努力する。
「ニュートラル」ということは、
「第三者的」と捉えると、わかりやすいかもしれません。
「こういう枠で問題を捉えるなら、
○○法がぴったりじゃないですか」
「○○法の長所はここで、
短所として、こういうところに気を配ったらいいと思います」
「あなたの志向からすると、
○○法が合っていると思いますよ」
「○○法が成立した経緯には、
こんな問題意識があったんですよ」
…とまあ、そんな感じで
「相対的」に語っていくと、
そういう言説が好評を得る…なんていうことまでも、
私の場合、実際に起きたので、
相対的な語り口は、
聞く側の興味を惹き付けつつ、
苦しくさせない…ということに
意外になるのではないかと
経験的に存ずるわけなのです。
結局のところ、
ある一つの思想や方法論が通用するかは、
現実に、どの枠で問題を捉えているか?
…ということだけのように、私は考えています。
だから、「相対化」が可能になる。
よく言われるように、
ある結論は、ある枠では正しくても、
ある枠では正しくなくなるのです。
逆に言えば、ある枠の中では、
絶対に正しいことがある
…そういう見方を私は支持しています。
例えば…、
公共の場で子どもが元気に騒ぐことへの対処も、
「表現豊かに育つように、
子どもらしく、自由に活動できる環境を
用意すべき」という枠で捉えれば、
大人が受容的で寛容になり、
創造性豊かな表出を奨励するような方法論に依拠すべき。
「公共のマナーといった、
社会性を身に着けさせる環境を
用意すべき」という枠で捉えれば、
毅然としたルールを事前に提示して、
活動に制限を加えつつ、
そうしたルールを守る心地よさを
実感できるような方法論に依拠すべき。
…そんな感じでしょうか。
ただ、これをやるには、
人の何倍も勉強しなきゃいけないってことでもあります。
自分の嫌いな流派のことも知らなきゃならないからです。
自分の「嫌い」という感情も乗り越えなくてはなりません。
それでも本当は、そういうことが実践家としての懐の深さを
形成していく…ということでもあるのでしょう。
しかしながら、「相対化」して語ることは、
ある思想や方法論を
狂信的なくらいに信奉している方に対しては、
失礼かもしれません。
そうなったら、ひたすた、
「それで、良いと思います」と、
その方に支持を表明すべきです。
すでに狂信できる思想や方法論がある方には、
自分などが申し上げることなどなにもない…と、
認識するべきでしょう。
万が一、他人に対して、
その思想や方法論を強制してくるのなら、
それは厳然として対処すべきですが、
自分が信じられる思想や方法論があるということ自体は、
とても大事なことだと、私は存ずるのです。
ただし、そこで支持を表明したその思想や方法論を
私も実践するかどうかは、別の話です。
ここに、「相対化」という方策を採った場合に
次に派生してくる問題があるように存ずるのですが、
それについては、また次回、述べさせていただきます。
1 note · View note
wakabaroom · 10 years
Text
批判記事は、どこかの親子を傷つけているものなのだ。
まだしばらくは、拙ブログを どのように書かせていただくか?…で悩んでみますが、 そこにおいて浮き彫りにされる 「わかばルームって、なんだろう?」も あるような気がいたしますので、 この成り行きのまま、書かせていただきます。 前々回に書かせていただいたように、 この場で私は自己批評・批判のようなことを させていただこうと考えているわけなのです。 自己批評・批判というものは、 自己を自己から分離させ、 俯瞰的にというか、第三者的に自己を眺める 「メタ自己」とでも言うべき位置を確保したうえで、 そこのところから自己について言及してみたり、 自己と他者との比較を行ってみたり、 あるいは他者の目から眺めた自己がどんなであるかを想定して そこから自己を批評・批判してみたりとか、 そんなことになるのではないかと存ずるわけであります。
幸いにも、私が批評・批判しようとしているのは、
自己に含まれるようなものでありながら、
それほどまでには自己そのものではない
「わかばルーム」でありますから、
真性の自己批判・批評よりかは、
メタな視点を確保しやすい気はいたします。
「私の考えからすると、この現状は…」とか
申し上げることになるのだろうと、想像できます。
しかしながら、ここで意識しておかなければ
陥ってしまうであろう落とし穴があって、
それは、私がわかばルームについて言及しているうちに、
明に暗に、他者について言及せざるを得ない局面に
嵌り込むかもしれない…ということなのであります。
「わかばルームとはAである」という言い方では明示できず、
「わかばルームはBではない、Cでもない」と
言わなくてはいけなくなることもあろうかと
大いに予測されるのです。
これは、デリケートな問題です。
少なくとも、私にとっては。
もう何年も前のことですけれど、
インターネットで療育に関するあちこちの記事を閲覧していて
私はふと気付きました。
とにかく不特定多数に対して開示している公の場で
子育てや療育に関する特定のメソッドや流派を
完膚なきまでに批判し尽くしてみせると、
もし、それを信じ、救われていた親子が
現に存在していたのだとしたら、
それは、その批判を読んでしまったそのどこかの親子を
恐らくは傷つけているはずでしょう。
子育てや療育の分野で、我々の為すべきことは、
自分の信じるイデオロギーを他に認めさせることではなく、
親子を支援することではなかったのか?
「この方法に出会えて、この人に出会えて、
本当に私たちは救われた」…と、
安堵している親子に対して否定を突きつけることが、
いったいなんになるというのか?
ここで、「親子を傷つけたとしても、
根拠のない方法論を喧伝する怪しげなグループは叩き潰して、
親子が騙されてしまう被害を防ぐことが第一」
…というような主張をすることも可能でしょう。
確かに、「絶対にこのグループはインチキ」と
言い切れるのでしたら、そうすべきでしょう。
しかし、その特定のグループに対する批判を行うには、
批判を行う側に確固とした「絶対性」があるのでなければ、
今度は、その批判の正当性の方に、
幾分かの疑義が生じるわけでしょう。
無論、ひとつの方法論や理論をより良いものに昇華するために
議論を尽くすことは大いに為されるべきですが、
そうではなくて、その「絶対性」を担保するために、
現実に、方法論だの理論だの根拠だの云々について
いくら議論をしてみたところで、
とんでもなくしんどくなりながら、
お互いがお互いに「自分が正しい」と
言い張ってみせているというだけのことで
永遠に100パーセントの決着がつくような話にはならなくて、
それよりかむしろ、可能性があるとしたら、
金銭的な不正が行われているとか、
反社会的な破壊活動が行われているとか、
世論を欺くための隠蔽工作が行われているとか、
例えばそういった側面を実証することにおいてのみにしか、
インチキなどとは言えないのではないかと、
それこそ、絶対性などには到底及ぶはずもない私が、
そのように存ずるわけでありますが、どうなのでしょう。
私事をもう少し申しますと、
方法論や理論や自己の在り様について
「迷いのない臨床家は、そこで終わりだ」…と、
常日頃から考えておりまして、
それに反して、自らの絶対性を確信できたうえで、
自らの正義のために、少々、どこかの親子を傷つけようと
構いやしない…というような発言者のことを、
一般に信じられる方、支持できる方が
多数おられるというのでしたら、
正に迷える臨床家のような者である私の方が、
ひっこむしかないです。
支持者が多いと絶対性を帯びていると
看做されてしまうというのが現実であろうからなのですが、
しかしここでも、「支持者の多少」というものは
絶対性と関係がないと、
容易に気付けるものでもありましょう。
ともかく、ここで考えてみなければならないのは、
私自身がどうするのか?…ということでありますので、
畏れ多くも一般論としての批判のやり方について
ここで決着をつける必要はとりあえずなかったのでした。
今回は、私自身が、ここに落とし穴がある…と
意識していることを表現する趣旨で、
述べさせていただいた次第です。
次回は、この落とし穴に対する私の採り得ている方策について、
綴らせていただきます…が、
実際に、もうすでに今回ここで
その一端を披露させていただいたわけでもあります…。
5 notes · View notes
wakabaroom · 10 years
Text
対象は「親子」?
わかばルームには、 親子でご来室いただいている場合がほとんどなのですが、 そうでない場合もあります。 しかしやはり、現状として、親子の場合が多いということが、 自ずとわかばルームをご利用いただける対象の方々を、 なんとなく規定してしまっている様相なのであります。 果たして、それで良いのか? 現状云々を申さずとも、 そもそもが、開業当初、すでに私は当然のごとく、 「ここは親子でご来室いただく場所」という意識でおりました。 しかし、だんだんと、「親子」と申しましても、 実質的には、「親」と「子」のどちらに どのくらいのウェイトを置くのがベストなのか、 それぞれの場合で、それぞれいろんなバランスのバリエーションが 自然発生してくるのがわかるので、 そういうものに一応は逆らわず、枠にこだわらず、 試してみては、このバランスで良いのかを反省しつつ、 時には意図的に修正しつつ、 アプローチを進めるようになって参りました。 こうしたことは、ある親子に初対面した時点で決められることではなく、 必要に応じて、適切なアプローチの重点を探っていくうちに、 自ずと、そのようなスタイルになっていく…ということなのであります。
しかしながら、残念なことに、このバランスをうまくとることが、
なかなか難しい場合も正直ございまして、
このあたりのセンスを養っていくのは奥が深く、
そこを精進していくことが、地味ではあるけれども、
私の仕事の根幹を支えるひとつになるのではないかと、
存ずるわけでもあります。
あくまで「必要に応じて」で、
そうなることが偉いということでもなんでもありませんが、
形態として究極的に、お子さんが大きくなるにつれ、
親御さんには送り迎えのみしていただく形で、
私がお子さんの学習支援を進めていくような場合もあって、
こうなってくれば、もう、親子でご来室していただいている…とは
言い難くなって参ります。
中学生くらいになってくると、
お子さん一人で通室するような場合もあります。
しかしながら、このスタイルに至るまでに、
私がどういう考え方で子どもに接しているのか、
親御さんにご理解いただき、信用いただいていなければ、
これはできないことでありますし、
私としても、その段階に至らないうちから、もし、これに踏み切ったとすると、
それは危険なことであるだろうと感じます。
ですから、やはりこの場合でも、
「親子」という視点を持続させることが、必要であると存ずるのです。
そんなわけで、やはり「親子」と共に進めさせていただく場合が、
ご来室いただいている大半となってくるわけなのですが、
一方で、最初から「親子」という枠を度外視して関わらせていただいる場合が
多くはないですけれど、いくつかあるのも事実です。
それというのも、裏メニュー的な枠として、
男女を問わず、全年齢層を対象としたピアノ教室や、
福祉施設や学校等にお勤めの方を対象としたお仕事の悩み相談や
公的ならびに私的な研修会講師もお受けして参りました実績がございまして、
そんな前例も揃ってくれば、そこで、
「別に親子という枠にこだわる必要はないではないか?」
…という感覚が次第に芽生えてくるということはあります。
しかしながら、ここで申し上げておきたいのは、
「親子」という枠であろうとなかろうと、
今現在、私自身が行っているあらゆるアプローチに関する“超統一理論”は
「存在感」というキーワードに、成り行き的に収斂されてきておりまして、
そこで、ある人の「存在感」にとって、「親子」という関係性は、
決してそれが全てを確定してしまうわけではなく、
他にも道筋はあると考えてはいますが、
かなりの無視できない梃子となり得るということがありまして、
そこで���はり、「親子」という枠にこだわってはいなくとも、
もともとは「親子」という枠の中で為されてきたアプローチや、
そこから、アンチとなるものも含めて
派生してきた「存在感」に関わるアプローチが、
私の“ひきだし”には多くなっているのではないかと、
ここで分析されてくるわけなのであります。
つまりは、「私」という「資源」が、
ご来室いただく方々の「存在感」にとって
お役に立てることでしたら、
なんでもさせていただいている…ということであります。
さて、そういうことになってくると、
「私」とはいかなる「資源」なのか?…という問いへの答えこそが、
わかばルームをご利用いただける対象の方々の範囲を
規定できるという話になって参ります。
しかしながら、そこがまた具体的な一言では申せないところでありまして、
ここのところはしっかり言葉を編んでいきたいところですので、
詳しくは追々、回を重ねつつ書かせていただく所存でありますが、
ここでは、とりあえずのところをできるだけ簡潔に申しますと、
まずは、私が資格も���験も有するところの
「言語(コミュニケーション)」や「発達」に関する諸問題、
そして、それに伴い、
私にはどうしても捨象できず、関わらざるを得なかったが故に、
「言語」「発達」以上に取り組んできたことであり、
詳しいノウハウを持つに至ったと申し上げても
過言ではない「子育て」上の諸問題、
…この2つがやはり、
入り口になるのではないかと存じますが、
これらはあくまで「入り口」に過ぎません。
ちょっと強引な比喩でまとめさせていただきますと、
「寿司屋」「中華料理店」「イタリアンレストラン」のような
前提として料理のテーマが定められている店ではなくて、
作れない料理は作らないけれども、
作れる料理は何でも作る「多国籍創作料理店」というか、
「小さい居酒屋」のような状態になっておりまして、
そこで「親子」という枠に限定されることなく、
ご来室いただく方の「存在感」にとって
お役に立てる方には、お役に立てるように
努めさせていただきたい…というところが
私の心意気なのでございます。
それというのも、前者のような既成の概念で分割された領域のサービスは、
すでに行政や大手の療育機関や教室で
大々的に行われているところのものであり、
その一方で、小規模の「民間の相談室」というものが
大いに世の中のお役に立てる可能性は、
その隙間=ニッチにあるのだ…という認識を
私が持つに至ったことの帰結であるように存ずるわけなのでありますが、
そのあたりの事情につきましても、
また回を改めまして、書かせていただきます。
8 notes · View notes
wakabaroom · 10 years
Text
『わかばルームって、なんだろう?』って、なんだろう?
今年の春に、ひどくおなかをこわしてしまったことがありました。 病気中に朦朧としていると、 いろんなアイデアが浮かんでくることはありませんか? 私、正にそんな状態になっておりまして、 ただ、残念なことに、ひらめきまくる代わりに 物忘れもひどくなるようで、 せっかくひらめいても、なにをひらめいたのか、 全く覚えていられないんですね。 …ですが、このアイデアだけは覚えていられたのです。
突然、なんの脈略もなく
『わかばルームって、なんだろう?』というブログタイトルが
頭の中に湧いて出てきました。
んー、そう、これだよ。
前回
書かせていただいたように、
成り行きで、自分でもうちが何なのか
よくわからなくなっているのだから、
それを公衆の面前で探求してみせるブログを
始めてしまえばいいんだよ…って、
後付けで加えた解釈が
自分で気に入りました。
自分で自分をお薦めするのではなくて、
自己批判とか自己批評してみせるブログ。
この距離感自体が、
うちの立場の表現になる。
「わかばルームは素晴らしい」などと、
自分にもよく分かってもいないものを
ポジティブにどうにか言い立ててみせて、
それを多くの方々へ向けて見せるために
時間を割く必要を、私は感じないですし、それどころか、
私がこれからこの場に書かせていただく「わかばルーム」の姿は、
きっと「迷い」を多分に含んでいるものであろうことを
承知している次第なのであります。
そもそも、人を育てることには「迷い」が付き物であり、
それを絶えず乗り越えては、また改めて迷い始めるという繰り返しの中に、
育てる側の成長や生きることの意味が生じてくるようなものではないかと、
私自身においては、そのように存ずるわけなのであります。
我々は、「結論」においてではなくて、
「迷う」ことの中で生きているのかもしれない。
そのやりようによって、自分の存在感の充実を感じているのかもしれない。
そして、そこに同行者がいてくれると、より充実するものなのかもしれない。
だから、この場で、それをやって御覧に入れたいと私は所望したのであります。
この営みに、今までと違った何かを予感し、
希望を見出される方がおられるかもしれない。
だから、書かせていただく。
無論、「結論」の重要性も無視できず、
それをどう位置づけるかという問題があるようにも存ずるわけなのですが、
私が「わかばルーム」でさせていただいている実践は、
あくまで私の文脈上たまたま生じている物語であって、
それを人に認めさせる気はないけれど、
いまのところ正しいと信じていることはこれだよ…と
自分をも相対化してしまうスタンスを維持しつつ提示した上で、
皆様には、採用され���うと拒否されようと、ご自由になさっていただきたい。
イデオロギーには関わりたくない。
リアリティに関わりたい。
そういうわけで、自分の今のところ辿り着いている結論を明示した上で、
できることなら、その場で自分で自分に問いを投げかけて御覧に入れるという
表現スタイルを採ることにしたのであります。
そして、これが危険な営みであるかもしれないことも
認識しているわけなのであります。
4 notes · View notes
wakabaroom · 10 years
Text
わかばルームが、いまひとつわからない。
自分、2007年の春に、 「わかばルーム」という小さな場所を作らせていただきました。 本当に、様々なご縁があってのことと存じております。 なにものでもなかったところに、 自分がそういうものを作らせていただこうと決心し、 その当時、私に関わってくださった方々にも 「そういうものがある」ということで認めていただけたおかげで、 「わかばルーム」はたしかにそこにあるものとなりました。
月並みながら、「ことばと子育ての相談室」と銘打ってみました。
そして、「わかばルーム」を続けていく中で、
私は様々な現実に突き当たり、
たくさんのことを考えさせられ、試行錯誤し、
…そうこうするうちに、折に触れて気付いてみると、
「わかばルーム」の姿はだんだんとうつりかわっていくのでありました。
私がやろうとすることの是非を審判する役職の人は
この職場にはいませんから、
私とクライエントとの合意だけがそれを決定していくというこの仕事の有様が、
なにかこれまでの私が見てきたものとは違う次元を
私の目の前に繰り広げさせてくれたように思うのです。
いや、それだけではありません。
それまでの私だって、すでに異質な志向でもって
今に繋がる仕事をさせていただいてきたようにも思うのです。
その志向が惹き寄せられていく先のどこかに
私は尊敬すべき先達を探し求め、
一方で、世間やシステムというものにも人一倍の意識を向けた上で、
数々の刺激を受けながら
ようやく築き上げられてきた独自でささやかな舞台を、
すでに自分の中に浮かび上がらせていたのではないかと思うのです。
だから一応、「わかばルーム」には
当初から保ち続けている枠というものがあるので、
外からは一見なにも変わっていないように見えるのかもしれません。
しかしながら、その内実において、
決して少なくはない変貌を遂げてきたのだと、
私自身は認識しているわけなのです。
なにかを狙って変貌してきたわけではありませんが、
なにかの成り行きで出遭う問題を乗り越えていくたびに、
私はなんらかの決断をしてきました。
そういった結果的に「違うもの」になっていく少しずつの決断は、
たしかに私自身がその責任を背負うことで積み重ねられ、
だんだんと積もり積もっていったのです。
私自身の本性を振り返るに、
人に合わせるのが得意なところがある一方で、
そもそも、もともと世間に流されることなく、
「自分で決断する」ということを意識的にやっていくべきだと考える習癖も
昔からあったものですから、
その挙句の果てに、
一言で「わかばルーム」を正しく説明できる概念が、
世間では見つけられない状態まで来てしまっていることに、
最近になって気付いてきました。
私は、私が間違っているのかもしれないという不安を
多少なりとも抱えていますが、
だからといって、感謝すべきことに、少なくとも、
「支持してくださる方は、誰もいない」と否定することは
できない状況なのであります。
控えめにみてもそれは確かにそうだと判断できるのであります。
そんなわけで、
「わかばルーム」が自分にもなんなのか
いまひとつわからなくなってきたことと、
それなのに「わかばルーム」がなんなのか
自分にはわからなくなってきたなんて
気付かないフリしている場合じゃなくなったことを、
ぼちぼちと認識いたしました次第でございます。
これは、情けないことが起きているのかもしれないし、
貴重なことが起きているのかもしれないし、
どうでもいいことなのかもしれない。
「わかばルームって、なんだろう?」
完全には無理だとしても、その答えを限界まで言葉にしていくことが、
ここでの私のためであることであり、
世の中に対して、ひょっとしたら自分が機能できることであるかもしれない。
その作業を通じて、そこに姿をあらわしてくるであろう矛盾をも乗り越えるべく、
「わかばルーム」は、また違うものに姿を変える必要があるのかもしれない。
いや、そうなる予感はすでにある。
そこで、この場をお借りすることを決断するに至ったわけなのであります。
Tumblr media
3 notes · View notes