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2023年の記録
◆2023年の記録
2023年の記録です。
 声優さん関連という、かつては何もかもが目新しかったジャンルのいろんなイベントも様子がわかってきたし、自分が置鮎さんにはまっているという事実ももはや目新しくもなんともないし、もうそんなに書いておきたいこともないし、一年のまとめも要らないかなーと思っていたんですが、ないと意外と不便だということがわかったので、いまごろ去年のまとめを書いております。この「いまごろ」というのは2024年の4月の中旬です。そんなこともある。
◆ライブ・イベント系
・1/15『狂言男師』昼夜 ・1/21 サンライズフェスティバル『勇者特急マイトガイン』回・『疾風!アイアンリーガー』回 ・2/14 『アザゼルさん』 ・5/12 前進座ゲスト出演 ・5/21 Paradox Live Dope Show 2023 夜回 ・6/3 『テニフェス』昼夜 ・6/4 『テニフェス』 ・6/23 ヘロQ『タイムアフターレコーディング』 ・6/30 ヘロQ『タイムアフターレコーディング』 ・7/2 ヘロQ『タイムアフターレコーディング』 ・7/8 朗読劇『星降る街』昼夜 ・7/19 ゆるとーく現地 ・7/30 『はんなり☆夏語り~繋~』13時回・15時回 ・8/26 『よかも』トーク×2 ・10/8 『こえかぶ 朗読で楽しむ歌舞伎 ~雪の夜道篇~』昼夜 ・11/11 『たすくとしょうや』
◆映像・配信系
・1/7 『ノンレムの窓』 ・8/29 『バービー』吹替 ・11/19 さいたま配信 ・『名探偵だった俺が転生したら赤ちゃんだった件』
◆そのほか
・(アニメ)『ノケモノたちの夜』 ・(ドラマCD)『創竜伝』シリーズ ・(ドラマCD)『新しいゲーム始めました。』 ・(歌ものCD)『Paradox Live Opening Show』 ・(歌ものCD)手塚国光「我が夢の代償」 ・(ゲーム)『真・三國無双8』 ・(プラモ展示イベント)秋工祭 ・(配信)Xのスペース配信
 2023年はですね…2月に観に行った『アザゼルさん』の舞台があんまりにも【自主規制】で、それまでの数年のあいだに集まっていた置鮎さん関連のグッズを処分するという出来事がありましたね…。その勢いで部屋がたいへん片付きました。そのことまでご本人に把握されていて(中略)私の感情がさらにこじれたという余談もありますが完全に余談なのでそのままにしておきます。
 私はもともと演劇のオタクなので、二次元ジャンルの声優さんのご活動の範囲が演劇に重なってくるときに、私の中に昔からいる演劇オタクと、最近になって爆誕した置鮎さんにはまっているオタクとが衝突することはそこそこありました。ひとつのお芝居を、ひとつの体で、ふたつの自分で見ていたような感じです。で、『アザゼルさん』は、演劇オタクのほうの自分にとってほんとーに【自主規制】な舞台だったので、限界がきたんですね。
 置鮎さんがダメだったわけではないんです。いや【自主規制】という点では【自主規制】でしたが。【自主規制】も【自主規制】だし。ほんとーに素直に【自主規制】って思いましたが。あのかたちでやるときの演技のモードとしては置鮎さんが正解をやってた気がします(そもそも【自主規制】っていう問題はありますが)。それに、そのモードでのすごさっていうのもバシバシ伝わってきました。あえて書くと、「自分じゃないものに声をあてる」ってこういう感じなんだ!というか。でも【自主規制】…せめて置鮎さんがもっと下手だったらよかったのに…。
 なおこの一連の出来事は、私が自分で経験しているのでたいへん悔やまれる出来事として記述されていますが、知人に話したらめちゃめちゃ笑ってました。「なんで観に行ったの~」って。この「なんで」は、「観る前からどんな舞台か予想できたでしょう」の意です。そのとおりです。私だって、知人にこんな話をされたら、笑っておんなじことを言います。でもそのときは、「置鮎さんの関連イベント」→「行く」という回路が出来上がっちゃってたんですよ…。
 『アザゼルさん』が【自主規制】だったために、その「イベント」→「行く」という直結回路はめでたくお払い箱となり、私には「主体性」というアビリティならびに「取捨選択」というスキルが追加されました。数年のあいだ、どはまりしたどはまりしたと言い続けてきましたが、とうとう段階が変った感じです。なので今(2024年春)は行きたいイベントだけ行ってます。ふつうだ。いや声優さんのイベントに行くことはあまり普通ではない。まあいいか。
 2023年の他の出来事としては、博多に行っています。置鮎さんにはまってまだ日が浅い頃に、九州でのイベントの告知を「まあそこまでじゃないか」とスルーしたことを、その後突然やってきたパンデミックの間よく思い返していたのです。そのとき行かなかったことを悔やんでいたというより、「いつになったらまたああいうふうになるのかなあ」という気持ちのほうで。そうして「置鮎さんのイベントで九州」というのがパンデミックに奪われてしまったいろんな可能性の象徴みたいになっていたところに今回の博多イベントの告知がきたので、今回の博多は行ってやろうと。
 コロナ禍まっただなかのあの頃とは違い、イベントは無事に開催され、私も参加できて、プラモ関連のイベントならではのお話がいろいろ聞けました。それだけならよかったんですが、置鮎さんはコロナ罹患から完全復活されていないご様子で、結果的にはいろいろと思うところのあるイベント参加でした。
 いまさらながらこうしてまとめてみると、『アザゼルさん』はともかく、2023年も面白いものを観られたなと思います。『バービー』の吹替で、いつぶりかわからないくらいに映画館で吹替版を見たし。『狂言男師』も『こえかぶ』も、欲目ではなくちゃんと見ごたえがあったし、『はんなり』も安定して良かったし。前進座のゲスト出演にいたっては、置鮎さんの声のコントロールが上手すぎて道場破りみたいになってたし。
 そう、前進座のゲスト出演。それは、そういうゲスト出演ではたまによくある、女形の台詞を聞いて、真似してやってみるというコーナーのときでした。そういうのって、「難しいですね~」「そこまでできるなんてさすがですよ~」(拍手~!)ってキャッキャするのが定番の流れじゃないですか。置鮎さんは会場を静まり返らせていましたよ…完コピで、お上手すぎて…。しかも、客席の観客が置鮎さんの上手さに驚いて静かになるのではなく、舞台上の前進座のみなさんと客席の観客が驚いて、その中心で置鮎さんが平然とにこにこしているという構図で。確かにこういうゲスト出演では「さすが声優さんだ」と思わせるのも大事ですが、あれは確実にオーバーキル入ってました。見逃さなくてよかったと思うご出演のひとつです。女形姿も見られたし(あの声のコントロールと艶と伸びだけでじゅうぶんなのに、いったいなにを…??)
 置鮎さんは声の演技がたいへんお上手でいらっしゃるので、あとは脚本の側が置鮎さんの才能に見合うものを用意できているのかの勝負になることが多い。それってどんな感じなのかな~と思ったりもします。ふつうにやったらできちゃう、っていうレベルって(こうやって「ふつうにできちゃう」って書いちゃうと、ご本人にとっては不本意かもしれませんが…)。
 とにかく声の演技に関して、できてないところをめったに見ない。「置鮎さんならこれくらいできるだろうな」というのは当然のこと、その二段階くらい上のものまでふつうにできてしまう。正確には、「ふつうにできてしまう」に見えるものを持ってこられる。「これは大変そうだな」っていうものもきっちりこなして、必要なときには巧さをこえたすごさでばしんときめてくる。他の役のサポートもできるし、長い台詞で世界の中心をぐーっと自分の役に引き寄せることも、短い台詞で鋭く深く長い余韻を残すこともできる。手をのばしたら触れそうなくらい、「そこに才能がある」って感じじゃないですか。
 演劇オタクとしては日頃から、あらゆる才能にそれにふさわしい機会が与えられてほしいと思っているのですが、置鮎さんくらいのレベルになるとその願いのハードさが…「才能が発揮されるにはまず機会が与えられる必要がある」という、「演じる側」にいるすべての人に課せられた条件のハードさがむきだしになる。当たり前のことなんですが、あらためて思います。
 私としては置鮎さんのご健康とご活躍を祈るばかりです。
 できれば、ご活躍をやじうまよろしく眺める身として、もう少しブログも書きたい。なぜならパフォーマンスは消えてしまうし、記憶もまた然り。ブログを書きたいんじゃなくて、残ってほしいのかも。誰も才能に触ることはできないけど、証言することならできる。それを見る力があり、書く力があれば。そうそう。精進します。
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2022年の記録
 2022年の記録です。
 ◆イベント
1/8 昼 朗読歌劇『ラ・ボエーム』 1/8 夜 朗読歌劇『ラ・ボエーム』 1/9 昼 朗読歌劇『ラ・ボエーム』 1/9 夜 朗読歌劇『ラ・ボエーム』 1/15 昼 『タチヨミ』 1/15 夜 『タチヨミ』 1/16 昼 『タチヨミ』 3/27 『パリピ孔明』AnimeJapan 2022 5/4 配信イベント現地参加 5/7 『のじ神』 5/28 Paradox Live Dope Show-2022.5.28 PACIFICO Yokohama 6/2 ヘロQ朗読『心理試験』 6/3 ヘロQ朗読『何者』 6/4 昼 ヘロQ朗読『怪人二十面相』 6/4 夜 ヘロQ朗読『怪人二十面相』 6/5 昼 ヘロQ朗読『D坂の殺人事件』 6/5 夜 ヘロQ朗読『D坂の殺人事件』 6/18 オンラインお茶会 6/27 『世界から猫が消えたなら』 7/1 『テニプリ ソニック2022-おてふぇす in 日本武道館-』 9/4 昼 『パリピ孔明』歌いまくり♪Party Time! 9/4 夜 『パリピ孔明』歌いまくり♪Party Time! 9/25 『文豪とアルケミスト』永井荷風トークイベント 10/1 『こえかぶ』 10/23 『鴨の音』 10/30 昼 『旅のラゴス』 10/30 夜 『旅のラゴス』 11/25 ヘロQ『立て!マジンガーZ!!』 11/26 ヘロQ『立て!マジンガーZ!!』 11/30 ヘロQ『立て!マジンガーZ!!』 12/4 ヘロQ『立て!マジンガーZ!!』 12/27 昼 『城崎プレリュード』 12/27 夜 『城崎プレリュード』
◆配信・テレビ
1/23 ヘロQイベント 1/28 ツイキャス配信 2/19 北京オリンピック関連ナレーション 2/24 ONEラグビー 3/19 パラライ配信 3/25 ONEラグビー 3/26 『ダマせない男』解説放送 3/27 パラライ配信 3/28 ニコ生くじメイト特番ゲスト 3/31 ツイキャス配信 4/6 ツイキャス配信 4/13 ツイキャス配信 4/15 『名探偵コナン 本庁の刑事恋物語』解説放送 4/21 声優ジャックポット 4/21 twitterスペース朗読配信 4/24 ニコ生くじメイト特番 5/5 『パリピ孔明』特番 5/13 ドラマ×マンガ「センゴク」 5/21 ONEラグビー 5/21 テニチャ配信 5/24 ニコ生くじメイト特番 6/3 『ファブル』解説放送 6/15 ツイキャス配信 7/4 あにレコTVテニプリSPゲスト 7/17 ブレソル配信 7/30 ぷよクエ・テニプリコラボ配信 8/6 ツイキャス配信 8/16 ゆめくろ生放送 8/26 ツイキャス配信 9/10 ツイキャス配信 9/17 スクエニ模型店配信 9/25 ブレソル配信 10/24 テニプリ配信 11/16 ツイキャス配信 12/17 昼 ジャンフェス &L&配信 12/17 夕 ジャンフェス &L&配信 12/23 ツイキャス配信 12/26 ブレソル配信 
◆その他
司馬遼太郎傑作選「彰義隊胸算用」 『超勇者展2』 「日本美術をひも解く」音声ガイドナレーション 『真・三國無双』 『ガールフレンド(仮)』体育祭イベント敵キャラCV 『夢職人と忘れじの黒い妖精』フォルクス実装 『ぷよクエ』『テニプリ』コラボ 『三国ドライブ』『パリピ孔明』コラボ ガンダムファンクラブラジオ番組ゲスト出演 Coco'sテニプリコラボ can/gooクラウドファンディング キャラソンいろいろ 『超勇者展』アンバサダーのチェキ当選 くじメイト特番の速水さん連名色紙当選 くじメイト特番の保志さん連名色紙当選 くじメイトA賞オンラインお茶会 
  2022年は『パリピ孔明』の年でしたねえ。原作からちゃんと面白かったし、原作の良さがちゃんと出たアニメ化で、話題にもなって、置鮎さんの声の演技のスキルも個性も活かされてて。こうであってほしいっていうアニメ、どはまりした声優さんにたまにでいいから起きてほしいっていうキャスティングでした。面白いアニメが見られて私が良かったし、置鮎さんにそういうことが起きたことも良かったなって思います。そういうアニメの放送前イベントに行って、放送を先行配信で見て、放送後イベントにも行けたっていうのは、どこか満足感のある経験でした。そういえば幕張のほうのイベントは最前列が当たりました。め、目の前で置鮎さんのラップ披露を…孔明コスプレを見ましたよ私は…。
  置鮎さんのラップを聞いた年でもありました。『パリピ孔明』と『パラライ』。「キャリアと才能が音になって口から出てきた!」って感じで聞いてます。置鮎さんならこれくらいは当然できてほしいっていうことは当然クリアして、さらに当然のようにそれ以上のものを出してくる。ラップであることをあれくらい正面から打ち出したキャラソンってほとんど初めてのはずなのに、いきなり完成形で。置鮎さんにはまって数年、置鮎さんの声の演技について疑ったことはないんですけど、ほんとにすごいって思います。
  それに、『パラライ』のイベントでは、置鮎さんのパフォーマンスの質がよく出ていたように思います。あくまでキャラの演技としてラップを提出してくる。それが台詞であれ歌であれラップであれ、ジャンルもメディアも問わず、声によってキャラクターというものを表現してきた人のラップってこうなるんだ、っていうラップ。声でキャラクターを表現することのプロ。その先にあるラップ。演劇とも音楽とも違う、声優さんの表現。
  初めて行く会場も多かったような気がします。『ラ・ボエーム』の杉田劇場、『パリピ孔明』のイベントの幕張国際研修センター、『文アル』永井荷風のイベントの桶川市民ホール、『鴨の音』の下鴨神社、『旅のラゴス』のTheater Mixa。演劇オタクなので、新しい劇場・会場に行くのは好きなんです。置鮎さんのイベントで、これまでに行ったことのない場所にいることで、青天の霹靂で声優さんにはまったという事実も体感します。
  『鴨の音』では京都に行きました。もともと音楽のライブやお芝居のために旅行するタイプだったんですが、コロナ禍の到来で旅行はあっというまに選択肢から消滅。近所への外出さえ望ましくない日々が続き。一時期は置鮎さんのイベントもキャンセルになり。飽きもせず国内外のニュースをチェックし、コロナ禍への恨みを募らせながら、思っていたんです。私には、まだやっていないことがある。これが終わったら絶対に、次にその機会があったら絶対に、置鮎さんの地方イベントに行こう、と。そんなわけで、置鮎さんのイベントのために初めて関東を出ました。
  2022年は、置鮎さんが参加されるイベントがキャンセルされることもなく過ぎました(公にされることなく終わった企画のことはわかりませんが…)。置鮎さんの配信の現地イベントもとうとう開催されました。ついさっき置鮎さんの声の演技の才能に感服した話をしたばかりなのにあれですが、「この人ほんまいろいろおもろいな」って感じでもう…いえ、たいへん楽しい時間でした。あの配信を聞いてきた、置鮎さんのああいう感じがOKどころか完全ウェルカムなつわものたちが集う場に自分もいるんだという状況も面白かったです。それになんといっても、コロナ禍という異常事態を奇貨として始まったあの配信が現地イベント開催にこぎつけたということが感慨深かったです。私が幕張に京都にと遠出してイベントに参加できたのも、それをして大丈夫だと思えたからなので、なにはともあれ少しずつ「コロナ後」の世界に移行していっているのを感じます。
  ところで、2022年の記録と言いつつ、このブログ記事は1月も終わろうという頃に書いているんですよ。私は1月29日が誕生日なので、毎年なんとなく「29日まではまだ前年と今年のあいだ」っていう感覚があるんです。というのは言い訳で。どうしても書いておきたいことがあるのです。
  2022年は、置鮎さんとのオンラインお茶会をした年でした!!
  アニメイトのオンラインくじのA賞です。1回1,000円で、ボイス、色紙、特賞的な扱いで置鮎さんとのオンラインお茶会が当たるくじで、ボイスを全部集めたくて引いていたら当ててしまったんです。お茶会が当たったときにはソシャゲのガチャでいえばまだ天井にもいっていないような金額だったんですが、A賞を当てたことに動揺していわゆる追い課金もしてました。けっこう動揺をひきずっていた記憶があります。
  オンラインお茶会についてブログ等に詳細に書くことは禁止されているので、ふわっとした感想しか書くことはできないのですが、非常に楽しい時間でした。みなさまも機会があればぜひ。
  それで、思ったことがあるんです。私は置鮎さんと他人ではなくなってしまった。いや他人なんですけど、声優さんと声優さんにはまった人として関係ができてしまった。なにしろオンラインお茶会ですからね。一対一で会話してしまった。というかいま去年のブログを読み返したらすでに「顔を覚えられてる」って書いてありました。そうなんです。オンラインお茶会も、(自分は数週間後に置鮎さんとのオンラインお茶会に臨むのだという事実を受け止めきれず、「初めまして」って言ったら初対面のていで会話が進んだりしないかな~などと思ってみたりしましたが)知ってる人だ感とともにスタートですよ。そりゃそうだ。だって、あれこれイベントに行って、顔バレしてるんですもん。個体認識されている。「初めまして」になるわけがあるか。そして、「初めまして」にならないということは、他人ではないということですよ。
  そしてこうも思ったんです。置鮎さんという人を、才能の乗り物あつかいするのは控えていくべきだと。
  私は置鮎さんの声の演技という才能につねに畏敬の念を抱いていて、キャラのボイスや朗読というかたちでその才能に触れるたびに驚嘆し、そこにその才能があることを楽しんでいる。片方では、ああ今まで読んで・聞いてきていた才能というのはこのことなのかと思うし、他方では、才能というのはいままで知らなかったこんな世界をひらいて見せてくれるものなのかとも思っています。ブログを書くタイプのオタクとして、その才能と、その才能の産物としてのパフォーマンスの良さやすごさをもっとうまく言葉にしていかないといけないとも。あの才能を前に、なかなかできることではないですが。
  ただ、それはどこまでいっても置鮎さんの才能の話なんですよね。言ってみれば、才能そのものに驚嘆していて、その才能に置鮎さんという人がくっついてきている。たぶん、一定以上のたぐいまれな才能をもつ人は、そうなる運命にあるっていうことでもあると思うんですよ。それくらいであってほしいっていう気持ちもある。でも、なんかもう置鮎さんの配信でもすっかり「いつもの視聴者」の一人になってるし、オンラインお茶会もしたし。才能の乗り物としての置鮎さんじゃなくて、なんだかんだ「初めまして」ではなくなった置鮎さんという人、オンラインお茶会で会話したほうの置鮎さんに目を向ける…ことをもっと自分に許してもいいんじゃないかと思うわけです。個人的な感情をもつ。置鮎さんに。なんだろ、感謝とか?
  このブログの一年振り返り記事、私が置鮎さんとの距離感を模索するプロセスの記録になっている気がしてきましたね…なぜ…。それもまた、置鮎さんというたいへんお茶目で個性的な声優さんにはまった人のブログっぽいかもしれません。ちなみにいま私は、適当に思いついたいい感じっぽいフレーズでこの話題を雑に流そうとしています。
  先日、知人と話していて、「あなたが置鮎さんにはまっていることはもはやフレッシュではない」という旨のことを言われました。「もはやフレッシュではない」!言われたときには衝撃だったんですが、置鮎さんにはまって5年なので、衝撃も何も、単なる事実の指摘です。そう。私の人生での「置鮎さんにはまっている時期」の割合はじわじわ高まっていっている。いつまでそうかはわかりませんが、そのプロセスを楽しめたらいいなあと思います。
  このブログを書く参考にと2020年の年末まとめ記事を見返して、ライブ・イベントの数の少なさにぎょっとしました。それでもここまできた。2023年はどんな年になるんでしょうね。できるだけ、みなさんにとって良い一年でありますように。
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ヘロヘロQカムパニー『江戸川乱歩パノラマ朗読劇 5人の明智小五郎』「D坂の殺人事件」の感想
 ヘロQの『D坂の殺人事件』(以下『D坂』)4日夜公演の感想です。
 みなさんは、「なんか思ってたのとちがう」ってなること、どれくらいあります?私はいまこのブログがそうです。もはや自分にすら理解できないブログを書いている。私はいったい何を書いているのか、そしてそもそもなぜブログを…。
 気を取り直して。『D坂』は、置鮎さん担当の語り手=「私」が、かつて起きたある事件を回想する話です。先に事件のあらましを確認します。D坂の古本屋で、ある女性が殺される。蓋を開けてみれば、それは不倫カップルのSMプレイ…首絞めセックス中の事故だった(当時想定されていたSM行為についてはまったく知りませんが、女性の着物の裾がけっこうまくれていた的な描写があった気がするのでまあそういうことなんでしょう…)。
 わあー!す・っ・ご・く・ど・う・で・も・い・い!!!!笑
 とはいえ、『D坂』は探偵小説なので、大事なのはオチよりプロセスです。語りの中で、犯人がオランウータンや毒蛇だった先行作品への言及がありました。これも、オチだけ聞いたら「何だって??」となる話。でもそこまでのプロセスが面白ければ、探偵小説としては成立する。なので、このどうでもよさはひとまずおいておきましょう。
 ひとつ前のブログで、話のスケールに触れました。今回のヘロQの朗読劇でピックアップされた作品は、いずれも短編です。でも、話のスケールはけっこう違う。『心理試験』では、事件に、犯人の思想や高慢、科学が関わってくる。「この事件が解決したときに、どんな価値観が勝利し、どんな価値観が敗北するのか」という視点を設定すると、『心理試験』の話のスケールの大きさがわかるんじゃないかと思います。『何者』は、逆に話のスケールが小さい。最初に犯人と思われた男とは別の真犯人がいたという展開は面白いですが、結局は自作自演。犯人は、三角関係と兵役忌避という卑近な目的のために事件を起こしただけ。これこそ関係者以外はどうでもいい話、スケールの小さな話です。
 では、『D坂』はどうか。死因は首絞めセックス中の事故。また言ってしまいますがめちゃめちゃどうでもいい~!まあ、アフタートークで関さんが解説されていたとおり、当時の時点でそうした逸脱した欲望を小説に取り入れることは、一定の雰囲気を演出したことでしょう。今回の上演でいうと、『D坂』のために舞台に仕込まれた、畳を90度立てて、床に倒れて死んでいる女性の姿を観客に正面から見せるというギミックが、死者の姿と舞台美術とを融合させて、乱歩的な世界観を視覚的に打ち出してましたよね。 それはさておき、『D坂』の犯人に目を向ければ、殺意すらない。タイトルに『殺人事件』とありながら、実際には事故しかない。そうすると、『D坂』もスケールが小さい話でしょうか。
 どうも、そうでもない気がするんですよね。ヒントは、「私」の語りです。
 一般的に、朗読で、地の文=語りは、語られる出来事を囲む「枠」を設定する。同時に、語られる出来事を距離化する。これがよく出ているのが『怪人二十面相』の、講談のスタイルです。語り手は、完全に物語の外にいる。『何者』のように一人称視点の語りであっても、過去に経験された出来事―現在の語りという距離は存在する。ここに、探偵小説ゆえの、「読者の皆さんは~」という語りかけまで加われば、語り手である「私」は、かなり特権的な位置を獲得することになります。過去の出来事をすべて知っており、現在において読者に語り掛ける、特権的な存在としての語り手。  『D坂』でも、語り手たる「私」は、過去の出来事を語り、現在において読者に語りかける。今回のヘロQの公演でいうと、『何者』と同じパターンです。でも今回のヘロQの『D坂』は、必ずしも、語られる出来事とそれを囲む「枠」としての語りという構造にはなっていないようなんですよね。そう思わせるのは、置鮎さんの語りです。
 今回、置鮎さんは、過去の「私」の台詞だけでなく、現在において語られている地の文にも、かなり感情をのせて朗読している。まあ、「感情をのせて」っていうのはかなり曖昧な表現ですが。「私は~した」という文だけでなく、「2人は~」という客観性を意識して書かれた文も、「読者は~だろうか」という特権的な立場から発せられるはずの文も、「私」自身の言葉として読まれる。まるで、「私」の語りが、この小説/朗読劇が読者/観客に事件を紹介するための過去の事実の開陳ではなく、現在における「私」の、現在の思索の行為であるかのように。言ってみれば、地の文が、語り手の語りではなく、現在の「私」という人物の長いモノローグのように処理されている。
 では、『D坂』を語ることで、「私」は何をしようと――何を考えようとしているのか。結論を先に言うと、『D坂』は、「私」の価値観の揺らぎ、そして思索のプロセスを描く話になってるんじゃないかと思います。
 最初に「私」の価値観が揺らぐのが、女性の死体を見つけた場面。「私」は探偵小説の愛好家で、日頃から探偵小説に親しみ、探偵談義を語り、探偵についての持論もある。そんな「私」が、初めて本物の事件に遭遇し、本物の被害者の死体を見る。なんか思ってたのと違うな、と「私」は思うわけです。置鮎さんの朗読がお上手なせいで、たぶん、本来想定されているよりも、価値観の揺らぎはずっと生々しく、ずっと深いものになっている。ドーン!死体!!という、これからこの話が解くべき謎は、上述の舞台上のギミックによって、効果的に提示されています。そのうえで、そのインパクトを引き継いで、死体を目撃したことによって「私」の価値観が揺らいだことのほうも印象付けられる。  このあとも「私」は、大小の「なんか思ってたのと違う」という瞬間を経験していく。たとえば、明智の部屋を訪ねた場面。「うわっ」と、びっくりしてしまうほどの量の本。ここも、ずいぶん迫真的な驚きの声なんです。思ってたのと違ったんでしょうね。座りやすそうな本に座れと言われてしまうのも、思っていた「明智の自室の訪問」とは違ったことでしょう。明智との話が続くなかで、差し出された洋書を読む場面も挙げてもいいかもしれません。「私」が明智の部屋を訪ねた目的を考慮すれば、これもかなり「なんか思ってたのと違う」という展開です。  そして、「私」の大きな「なんか思ってたのと違う」の瞬間が、当然、彼の推理を明智に告げたあとの場面です。「私」は、彼なりの推理で、明智が犯人かもしれないと疑っている。そして、自身の推理を明智に告げる。しかし明智は、あろうことか笑い出す。思ってたのと違いすぎです。「私」の推理はあっさりとひっくり返され、逆に明智に彼の推理を説明される。アフタートークで指摘されていたように、明智の推理がどれくらい厳密かというと、ちょっと微妙なところもあるかもしれない。でも、そこに新聞が届き、明智が犯人と名指した人間が自首したことが判明する。  ここで話は終わります。後日譚などは続かない。現在の私から読者への、まとめの語りもない。読者/観客には明智の推理が正しかったことが強く示唆されつつ、同時に、「私」にとっては、そして「私」の語りとしては、いったいどういうことなんだろう、と放り投げるような終わりです。 この、「いったいどういうことだったんだろう」というのが、『D坂』の「私」の語りを貫く一本の軸になっているんだと思います。「私」の抱えている、「いったいどういうことなんだろう」という問い、それを考えるための「私」の回想、それを伝えるモノローグとしての語り。語られる、「なんか思ってたのと違う」という瞬間の数々。そして、「あれってどういうことだったんだろう」という、事件は解決しても解消しない「私」の問い。
 ここまで見てきた「私」の「なんか思ってたのと違う」は、基本的に、それまで「私」が愛好してきた推理小説の世界と、現実の死体や現実に推理することは違う、というものです。探偵小説の探偵は、真実を突きつけるべく犯人の部屋に赴いたときに、犯人候補の男に、そのへんの座りやすそうな本に座れとは言われないですもんね。それに探偵小説の探偵は、推理に成功する。  ただ、「なんか思ってたのと違う」というのは、ある意味では人生の普遍のひとつです。私だっていま、ブログを書き始めたものの「なんか思ってたのと違う」と思っているところです。でも、もっと深刻で取り返しのつかない「思ってたのと違う」に直面する人物がいる。不倫SMプレイ中に殺された古本屋の妻。そして殺してしまった蕎麦屋の主人です。殺してしまったほうの蕎麦屋の主人にしてみれば、既婚者なのに、自分と性的嗜好を同じくする相手がすぐ近所にいてしまったこと、プレイ中に事故で死なせてしまったこと、自首すること。どれをとっても、「思ってたのと違う」の積み重ねです。この不倫カップルの配偶者たちだって、結婚はとんでもなく思ってたのと違う方向に転がっていっています。こんなスキャンダルのあと、それぞれどうやって暮らしていくんでしょうね…。   あらためて眺めると、『D坂の殺人事件』というタイトルも、同じことを示唆しています。絞殺死体、すわ殺人事件、かと思いきや実際には、殺意を抱いた犯人によって意図的にそして計画的に実行されたものとしての「殺人事件」と呼べるもの��なかった。事故があっただけです。作中で言及された、実はオランウータンの仕業だったという『モルグ街の殺人事件』の「殺人事件」とはまた別のかたちで、「なんか思ってたのと違う」を引き起こす事件。つまり『D坂』では、そのタイトルによって、「なんか思ってたのと違う」を、作中の「私」や蕎麦屋の主人、事件の関係者だけでなく『D坂』の読者/観客も体験するよう仕組まれている。  ということは、『D坂』は、「人生って思ってたのと違うよね」ということについての劇なんでしょうか。それはそれで、話のスケールには広がりを認められそうです。不倫カップルの情事中のうっかり事故の話ではなく、残念ながら免れ得ない人生の普遍��ついての話ということになるので。
 しかし、『D坂』にはまだ一人残っています。明智です。『D坂』で唯一、「なんか思ってたのと違う」を経験しない男。事件を期待して古本屋を訪ね、事件に遭遇し、捜査し、謎を説き、突拍子もない推理をする「私」との友情を楽しみ、自身の推理通りの犯人が自首した記事を読む男。  探偵小説って、考えようによっては、「思ったとおりに」をめぐる攻防を描くものですよね。犯人は自分の思ったとおりに犯行を成功させようとする。対して探偵は、犯人の「思ったとおり」を突き崩し、自身の、より強固な「思ったとおり」の結末を構築する。『D坂』では、まず、結果的に殺害者となってしまった蕎麦屋の主人に、殺意も計画もない。SMプレイ中の事故、「思ってたのと違う」があるだけです。次に、「私」という、言ってみればライバル探偵も、「思ってたのと違う」を何度も経験する。それなのに明智だけが、「思ったとおり」の世界の住人。
 つまり『D坂』は、「私」が明智のことを回想し、明智について、いったい何者なのか、と思いを巡らせる物語になっている。明智の推理によって、おそらく、事件は解決した。「私」には解くことのできなかった事件の謎は解かれた。代わりに、というか事件という謎が解かれたからこそ、新たな謎が生まれている。ただ一人、「思ったとおり」の世界の住人である明智という謎。事件のほうは、いったん真相が明らかになれば終わりですが、明智のほうはそうではない。考えれば考えるほどわからないとか、わからないからこそまた思いを馳せてしまうことってありますよね。『D坂』の「私」にとっては、明智がそう。わからないからこそ、「私」の考えは明智へと向かい、その思索のプロセスが『D坂』という物語になっている。なので、今回の『D坂』の構造は、過去の出来事とそれを枠づける現在の語りではなく、現在の「私」の思索という一直線の構造です。
 おそらく、『D坂』のテキストが、最初からそうなっているわけではない。でも、そうなることのできる解釈の可能性を秘めていた。そして、今回のヘロQは、その可能性を開き、『D坂』を翻案した。  それを可能にしたのは、置鮎さんの語りです。比べるなら、『何者』のさとたくさんが、テキストと対峙し、オリジナルなものを引き出してくるタイプ。『怪人二十面相』の森久保さんは、テキストを、まるで最初からそうであったかのように自分のものにするタイプ。『D坂』の置鮎さんは、自分をテキストの側に持っていって、テキストに潜っていく。テキストを忠実に読んでいくタイプなんだと思います。でも、「テキストに忠実」って、とおりいっぺんの解釈で読んでいくってこととはぜんぜん違います。いやそういうときに使う表現でもあるんですけど。なぜか、真にそれをできる人は、テキストに忠実であることで、テキストの新しい姿を見せてくれる。それも、まるで最初からそうであったかのように。うまいってすごい。
 今回の明智は榎木淳弥さん。『D坂』の明智は四畳半で本に埋もれて暮らしているんですが、すごくそういう感じのする明智でした。それから、どこかとらえどころがない。ここまで書いてきた、「私」が抱え続ける謎としての明智、それを思い返すプロセスとしての『D坂』という解釈は、榎木さんの明智あってのものです。「私」の置鮎さんとは年齢差があるんですが、現在の「私」が、過去に決定的な謎として出会った明智を回想するという『D坂』では、その年齢差もうまくはたらいていたように思います。「確かにこの明智はアリだ」と思わせてくれる明智でした。
     またしても置鮎さんのことをあんまり書けないまま終わってしまった。とにもかくにもお上手だわいい声だわ和装だわ眼鏡だわで、さすがヘロQ、置鮎さんのことをわかってるって感じです。しかし『D坂』の話はもう終わりにたどりついてしまったので、詳しくはまた別の記事で。いや見た作品のぶんの感想は書いたのでもう終わりかもしれません。どうなることやら。
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ヘロヘロQカムパニー『江戸川乱歩パノラマ朗読劇 5人の明智小五郎』「怪人二十面相」の感想
 ヘロQ『怪人二十面相』4日昼夜の感想です。
 ヘロQの今回の朗読劇公演も3作品目。「内容が形式を指示する(content dictates form)」というあのフレーズを思い出しながら見ていました。
 最初におさらいしておくと、演劇(演じる)と朗読(語る)というのは、本質的に別のものです。パフォーマンスの質が違う。ビジュアルの豪華さや、台本を手に持っているかどうか、手振りがどれくらいあるかどうかで2つのジャンルが峻別されるわけではない。たとえば、今回のヘロQの公演の語り手役がもし台本をすべて暗記したとしても、同じ述べかたをするならそれは演劇にはならない。芸人さんのコントを思い出してみてもいい。台本を持たず、身振り手振りもつけるけれど、あれも演劇ではない。今回の関さんの言葉を借りるなら、あくまで記号としての身振り手振り。あたかもそうであるかのように/あたかもそのキャラクターであるふりをして/目の前で出来事が展開していくように、という演劇のイリュージョンを生みださないからです。  そして、関さんがアフタートークで繰り返し述べているように、今回のヘロQの公演は朗読劇。どんなに舞台美術が作りこんであっても、演者がキャラクターを思わせる衣装を着ていても、舞台上を動いても、身振り手振りをつけても。舞台美術や衣装をはじめとした、ビジュアル・イメージへの強い指向と、地の文を活かし、語りを多用する朗読への強い指向。このふたつが主軸で、演劇にはならない。そこが今回の公演のポイントになっている。まるで朗読劇じゃないみたい、朗読劇とは思えないから(演劇に似たものになっているから)すごいのではなくて、あくまで朗読劇であり続けていることがすごい。それも、なんだかお金をかけてていろんなことを仕込んだりやったりしているから規模的にすごいというだけではなくて、それをやりながら形式的には朗読劇のまま成立させているところがすごい。
 というのをあらためて確認したうえで、「内容が形式を指示する」の話です。朗読劇という基本線を守りながら、ここまでの3本を見ると、けっこう形式上の変化もある。そして、その形式は、内容の違いに呼応している。
 『心理試験』は、タイトルのとおり、「心理」をめぐる駆け引きの話。そしてその心理は、言葉に現れるものとされ、言葉で説明される。犯行の証拠は言葉の内にあり、犯行の証拠隠滅も言葉で行われる。確か、アクションは冒頭の殺人の場面のみ。極端に言えば、犯人も探偵も、主に喋っているばっかりです。その過程で、こうした心理試験=科学がどれくらい役に立つのか、あるいは犯人の身勝手な哲学や増長が検討される。検討されるもののスケールが大きいというのは、ひとつ前の感想に書いたとおりです。このとき、朗読という形式はけっこう厳格に守られ、語りはストイック。内容の性格と形式が呼応している。  『何者』は、話のスケールが小さい。犯人に特に哲学はなく、動機は月並み、犯行の手法もそんなに目新しいわけではない。なんだかよくわからない行動をする変人(実は明智)も登場する。『心理試験』ほどストイックに進行される必要がない。また、『心理試験』では、冒頭に犯人が明かされていて、あとはじわじわぐいぐいと結末まで進むのに対して、『何者』では真犯人の発覚という大きな転換点がある。この転換点では、劇は朗読から再現に大きく近づく。やはり内容と形式は呼応している。  そして今回の『怪人二十面相』。これは子供向けの小説です。怪人二十面相と明智という、いずれもキャラの立った人物が活躍し、盗難、誘拐、変装、捕り物とイベントフル。少年・小林と怪人二十面相の対決や、明智と怪人二十面相の対決も起き、『何者』では真犯人の発覚という一点に集約されていた、真実が明かされる瞬間が何度も起きます。子供向け娯楽小説のポテンシャルを活かそうとするとき、形式も『心理試験』『何者』とは少し変わってくる。たとえば演者の動き。たぶん、いちばん演者が別の演者とフィジカル・コンタクトをとる作品でした。相手の手をとる、取り押さえる、持ち上げる、など。複数人が、振付と言ってもいい、リズミカルな決められた動きを行う場面もあります。その一方で『怪人二十面相』では、『心理試験』『何者』では舞台のいろんなところで立って語っていた語り手が、舞台前面中央に用意された講談スタイルの座にずっと出ている。より演者の動きが増えるいっぽうで、「語り」であることも、より前景化している。形式的に見て、幅が広がっているんですよね。『何者』では決定的な一瞬での形式的な逸脱が効果的だったけど、『怪人二十面相』では、全編を通しての形式的な幅の広がりが、あれもありこれもありというバラエティに富んだ展開をとるお話の内容と呼応している。
 こうやってみていくと、コンセプトって大事だなーとあらためて思います。しかも今回のヘロQは、コンセプトが計画倒れになっていない。
 ただ、ちょっぴり疑問も浮かびました。上に書いたように、原作『怪人二十面相』は子供向け作品です。推理のトリックは平易で、犯人は不殺が信条。出来事は二転三転し、ヒーローたる探偵・明智だけでなく。小林をはじめとした子供たちも活躍する。原作に内在するその楽しさを、ヘロQの『怪人二十面相』は、舞台上に作れていると思います。ただ、ヘロQの観客は大人です。少なくとも、『怪人二十面相』が読者として想定していた年代の子供たちではな��。だから、子供たちを読者と想定して書かれた小説の、特に大人向けとして大幅に翻案されたわけでもないっぽい朗読劇を、大人たちが観ている。ズレがありますよね。なので、観ながら「あれ、これ誰向け??」と思ってもいました。もちろんヘロQのファン、出演者のファン、このタイトルに惹かれて客席に座っている人たちが満足するようには作られているんだけど、それとは別のところで。
 アフタートークを聞いていると、つい動きを入れてしまう、お芝居っぽくやってしまうという話も出ていました。それはそれで面白い話だなと思います。演技と朗読で、人間の自然なコミュニケーションに近いのは、もちろん演技です。目の前に話しかけるべき相手がいる。あるいは、伝えるべき言葉がある。さらには、舞台のへりの向こうに観客がいる。そのとき、つい、相手への直接的な語りかけや、身体動作が生まれる。言葉が体を解放し、相手がいることや観客がいることはコミュニケーションを誘発する。その先には、やっぱりきっと演劇がある。  ちょっと、西洋演劇のルーツは叙事詩にあるという話も思い出します。古代ギリシャで、叙事詩の朗誦から「ふりをする」俳優が生まれ、いま私たちが考えるかたちの演劇が誕生する。あるいは、中世の教会で、典礼の短い詩行に身振り手振りや「ふりをする」ことが伴うようになり、これまた演劇へと展開していく。そういう、語りから演技へというルートは、確実にある。  この流れに身を任せると、たぶん、たまによくある中途半端で残念な朗読劇になってしまうのでしょう。でも今回のヘロQは、まずあくまで朗読という基本方針をきっちり守ること、地の文を残して語りのボリュームを大きくすること、台本を持ち続けること、その他の細かいあれこれで、朗読に踏みとどまっている。だからこそ、最初の感想に書いたような、関さんの言葉で言うなら挿絵的な、私の印象では紙芝居的な、面白さが生み出される。やっぱりコンセプトが大事だっていう話です。
 今回の明智は森久保祥太郎さん。森久保さんもよかったな~。『何者』のさとたくさんは、テキストと対峙するタイプ。他者の手によって書かれたテキストを、他者のものとして探索し、自分のものを持ち帰る。対して森久保さんは、テキストを自分のものとするタイプ。まるで自分のために仕立てられた服を着こなすように。いますよね、そういう人。というか今日スペース・ゼロにいました。自分のために作られたわけではない、今回はそもそも演じるために作られたわけでもない、何十年も前に書かれたキャラクターを、最初から自分が演じるために書かれたものであるかのように乗りこなす人が。冴えたキャスティング、才能と個性でした。
 ここまで書きそびれていたんですが、岩崎さんも今回いいな~と思ってます。何かの公演のときに、「この人の演技、ここで止まってしまわないといいな」と思った記憶があるような、ないような…。そのあとの公演でもそれぞれ「おお、いいじゃん」という印象ではあったと思うんですが、今回は「おお、」っていうのが取れて、正当な「いい」になった感じです。朗読から演劇に戻ったときに、いまの「いい」も持ち帰ってほしい。あと、『心理試験』からこっちいろんなお衣装の姿を披露してきているので、今回のヘロQ公演は岩崎さんのいろんなかっこうが見たい人にはたいへんお得な公演なんだろうなと思ってます。
 また置鮎さんのことが書けなかった…。ではまた。
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ヘロヘロQカムパニー『江戸川乱歩パノラマ朗読劇 5人の明智小五郎』「何者」の感想
 ヘロQの『何者』3日夜公演の感想です。
 今回のゲスト声優・明智役は佐藤拓也さん。この明智そして今回の公演は、『心理試験』のときよりけっこう再現に寄っていました。はっきりと、明智役の演者と犯人役の演者が目を合わせる瞬間がある。でも、ひとつ前のブログには反するようですが、それはそれでアリだと思いました。
 前回の『心理試験』は、いわゆる倒叙ミステリーでした。冒頭で、犯人の動機も、犯行の手口も明かされている。あとは犯人と探偵の知恵比べになる。すでに起こったことを紐解いていくという展開です。通常、演劇は、ある出来事を、「いかにも今起きているかのように」演じます。対して語りは、ある出来事を、すでに起きたものとして語る。叙事詩でも落語でもそうです。動機と犯行の手口という核心がすでに明かされている『心理試験』と、出来事をすでに起きたものとして扱う語りという形式は相性がいい。  それに、『心理試験』では、語り手の置鮎さんは語り手に徹する。冒頭の家主の女性の台詞を述べるときに、ちょろっと(そして絶妙にお上手に)声音を変えるところはありましたが、それはただ、朗読の枠内で表現に幅を作っただけ。語られる物事の中には入っていかない。語り手の体が舞台空間を移動はしても、形式上での語り手という位置は不動です。
 対して今日の『何者』は、一般的な推理小説と同じ順序をたどる。正確には、犯行の手順が先に明かされたあとで、真犯人と、その動機が明かされるので、ちょっとひねりはありますが。いずれにせよ、観客は、語りの中の視点人物と一緒に事態を知っていく。起きる出来事は語り手の回想=すでに起きたことという体裁をとっていますが、観客は犯行の動機、手口、それに近づくプロセスを「今、知っていく」わけです。  それから『何者』は、語り手=「僕」が、かつて起きた出来事を語る回想形式なので、関さんが、語り手と、語られる物語の中に登場する「僕」の両方を担当する。『心理試験』では、置鮎さんが語り手として物語の外から語り、その語りによって、あくまで朗読であるという盤石の土台を提供していました。対して『何者』では、「語り手」=「僕」による回想であることや、関さんが語り手と物語の中の「僕」の両方を担当するということによって、語りと語られる物語の境界が『心理試験』ほど絶対的ではない。
 『何者』で、探偵が真犯人にその事実を突きつけるとき、探偵の演者と真犯人の演者は、はっきりと向き合います。語りの中で対決していて、それに演者の体=「絵」がついているのではなくて、演者と演者が、その瞬間、「あたかもそうであるかのように」向き合う。ここは、朗読という形式からは明確に逸脱しています。  ただ、その逸脱が、劇として効果的に機能している。上に書いたように、『何者』では、謎は、観客にとっては「今、明かされること」です。真犯人が名指されるという、その一番決定的な瞬間を、形式的に「今、起きていること」であるかのように見せる。ここでは、物語の展開や場面の性格が、朗読から再現へという形式の転換を許容する。というより、ここで朗読から再現へと一瞬だけ形式が転換することが、この物語の決定的な瞬間の緊張感を演出する。ひらたく言うと、見ているほうは「はっとする」わけです。初めて見る、相対する2人に。形式の逸脱に。その「はっとする」感覚が、真犯人が名指されるという決定的な瞬間を盛り上げる。ひとつ前のブログで書いていたような、残念な方向性迷子ではなく、効果的に機能する逸脱。
 そんなわけで、『何者』も、これはこれでアリだな、と思いました。明日から演者の数が増えるので、またどうなるかわかりませんが。
 佐藤拓也さん、よかったな~と思います。テキストからできるだけ多くのものを、しかも自分のオリジナルのものをつかんで戻ってくるぞっていう気概を感じました。そういう姿勢は、単純に見ていて気持ちがいい。あくまで朗読劇だという今回の公演のコンセプトを勘案すると、ちょっと動きすぎ、演技に寄せすぎかなと思う箇所もなかったわけではないんですが、そのブレが、真犯人を名指す決定的な場面のあの緊張感につながっていく。そこまでにちらちら引き起こしていた違和感まで燃料にするみたいに。私は『刀剣乱舞』ではずっと燭台切を近侍にしていたので、 さとたくさんをお見かけすると 「燭台切のボイスの人」というだけでふつうに嬉しいのですが、こういう個性を発揮・堪能できる機会があるならそれはそれでまたお見かけしたい。結局、その「機会」というのが今回のヘロQ出演のようなもののことなのでしょうが。
 関さんも、昨日の置鮎さんの語りとはまた別のかたちで作品の要でした。昨日の『心理試験』では、犯人は独自の独善的な理論で犯行の実行を正当化し(まあ途中まで『罪と罰』のラスコーリニコフなんですが。善行に向かわないラスコーリニコフ。こう書くとひどい…)、己の知識と能力を過信し、それにより追い詰められていく。その犯人の独善性や過信を、置鮎さんの語りは客観的に語る。対して『何者』では、犯人の動機は非常に小さいんですよね。『心理試験』の犯人のように、独善的とはいえ独自の哲学を持っていたり、科学をわが身に応用することによって目的を達成しようとはしない。『何者』の犯人、2つある動機の片方は、三角関係のもつれですよ。知らんがな。動機のもう片方は、兵役忌避。こっちはそれなりに哀れではありますが、三角関係のもつれと合わせて、しかも友人に罪をなすりつけることで一挙に解決しようという心根はやはり小さい。そういうスケールの小さな犯人や、謎の変人(終盤に正体が明かされてみれば実は明智)の登場する事件が、関さんの、ちょっと飄々としたところのある持ち味でもって語られる。合ってました。それに、関さんが、回想の中の「僕」=物語の中の登場人物のひとりとして台詞を言うときに、朗読というモードに徹しているので、さとたくさんが多少演技に寄っていても朗読劇としての全体的な安定感は揺らがない。結果的にいい配役になっていたと思います。
 そして犯人役の光部さん。配役も出演者もほとんど把握せずに観ていた(私はたまたまどはまりした声優さんをめあてに客席に座っていただけのオタクです…)ので、「あれ、今日ってゲスト声優さんは2人だっけ?」って途中で思ってました。こいつよく喋るな~、絶対犯人だわ~、と素直に思わせてくれる喋りっぷり。アフタートークで語られていたような今回の経験を持ち帰って、この先の成長の糧にしてほしい。と私が書くのも変ですね。こういう機会が与えられたらこれくらいできる人なんだと示せたのが、光部さん個人にとっての成功なんじゃないでしょうか。次に舞台で��見かけしたときに、きっと「あ、あのときの犯人役の」と思うことでしょう。本編終了後、関さんが長めに引っ張った拍手、それに値する犯人役でした。
 なんかまた置鮎さんについて書く流れになりませんでしたね。ひとことだけ。置鮎さん、昨日と今日でビジュアルのギャップが激しすぎ���!!!
 ではまた。
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ヘロヘロQカムパニー『江戸川乱歩パノラマ朗読劇 5人の明智小五郎』「心理試験」
 ヘロQを観てきたので感想です。『心理試験』2日19時公演。
 今回のヘロQは朗読劇。パンデミックのあおりを受けての公演中止、場を配信に移してのシンプルな朗読、初期のテレビの配信版のようなドラマ生配信を経て、久しぶりの劇場公演です。
 演劇団体はどこも、公演中止や客入りの減少に苦労している時期。ヘロQも例外ではないはず。だから、もともと声優さんたちがやっている劇団が、少人数・小規模でリスクの少ない朗読劇という形式を選択するのはよくわかる。
 …と思いながら客席に進むと、かなり作りこまれた舞台美術が待ち受けているんです。片方では、ああヘロQの舞台美術だと思い、自分がヘロQの劇場公演に戻ってきたことを実感しつつ、他方ではヘロQの経済観念を疑いもしました。これが本当に、コロナ禍に苦しみつつ劇団存続を模索する劇団の朗読劇の見た目だろうか。
 その疑問には、上演が始まって、答えがやってきます。いや、答えではないかな。あの舞台美術の必然性が用意されていた。
 今回の公演では、アクティング・エリアは中央に半円形に近いエリア、その両側を階段のように上がれて、奥に高くなっているエリア。さらに上手と下手に小さめのエリア。これを基本に、本棚やら額縁やら何やら、けっこう大きめのオブジェクトが空間を埋めている。ざっくり言って、段差が作ってあっていろいろ置かれており、舞台上の空間は区切られ埋められている。前述のとおり、一般的な演劇の公演と比べてそこまで見劣りしない舞台美術です。これよりシンプルな見た目の演劇公演、たくさんありますよね。今回のヘロQは、朗読劇と銘打ちつつ、この空間を埋める方向性の舞台美術なんです。
 その中を、フルに衣裳を来た出演者が動く。ただ、朗読劇によくあるように読む人が椅子に座っていたりマイクの前に固定されてるわけではないという意味では見た目はお芝居に寄っていますが、今回のヘロQの公演はあくまで朗読です。出演者はあたかもある別人であるかのようなふりをしない。上演は何かの再現を目指していない。つまり演劇ではない。
 それに、演劇でもナレーターが入り何かを語ることはありますが、今回のヘロQでは語りを担当する出演者が「ナレーター」というキャラクターを演じたうえで、そのキャラクターの台詞として語るわけではない。ナレーターと観客の明示的なミュニケーションもありません。小説での地の文にあたる語りのボリュームも非常に多い。
 なので、今回のヘロQの朗読劇では、語り、俳優、ビジュアル・イメージがユニークな関係を結ぶことになります。アフタートークで、座長・関さんは今回の公演では舞台が「絵」になっていると言っていました。それから、「挿し絵」だとも。再現を目指すのではなく、しかしそのビジュアルによって語りの内容を視覚的に示すという点では、その「絵」は挿し絵的です。
 ただ、今回の公演での語りとビジュアル・イメージの関係は、挿し絵というより紙芝居的なんだろうと思います。
 挿し絵には、本文との主従関係がある。それに、ビジュアルがなくても成り立つものであることになる。同じ小説で、挿し絵がある版と挿し絵がない版があったりしますもんね。もちろんある本に挿し絵が入っていればそこでは本文と挿し絵のコラボレーションが必ず起きますが、挿し絵はあくまで本文という主に対して従の位置にある。と、ここでは仮にしておきましょう。
 対して紙芝居では、語りと絵のコラボレーションでパフォーマンスができあがる。絵が語りを要求し、語りは絵を必要とする。そして、その相互作用に醍醐味がある。紙芝居で、絵を見せずにテキストだけを読み上げたら、話の中身が伝わるとしてもそれはもう紙芝居ではなくなりますよね。紙芝居のテキストを読んでいるだけです。今回のヘロQの朗読でも、語りと舞台上のイメージや俳優の動作の関係は、主従ではなくコラボレーションです。その意味で紙芝居的。そしてそこに面白さもある。
 かつて、アニメが「テレビ紙芝居」と呼ばれていたことも思い出しながら見ていました。絵の動きが少ないアニメ。ディズニーのアニメ映画のように滑らかに動くアニメではなく、止め絵や動きの少ない絵に音がつくリミテッド・アニメーション。そうした、テレビ紙芝居的なアニメは絵+音(録音)。紙芝居は絵+語り(ライブ)。今回のヘロQは、ライブで、舞台美術と俳優で作られた舞台上のイメージ+語り。だから、今回のヘロQは、前に進みながら先祖返りもしているような印象です。
 でも、それはヘロQが声優さんたちの劇団だからついそう思うだけかもしれないですよね。ここで、たとえば人形浄瑠璃を思い出すこともできる。浄瑠璃(語り)に人形が加わり、人形浄瑠璃(語り+ビジュアル)になる。語りとビジュアルと音楽のコラボレーションの総合的なパフォーマンス。そう考えるなら、今回のヘロQの公演は別に先祖返りではない。単に、語りとビジュアルの関係にはいろんなかたち(たとえば紙芝居、テレビ紙芝居=アニメ、人形浄瑠璃)があって、いずれにおいても語りとビジュアル・イメージは主従というよりコラボレーション(というかそう捉えるほうがおそらく建設的)。そして今回のヘロQの公演は今回のヘロQの公演としてあるかたちを採用していて、そこにある語りとビジュアル・イメージの関係もやっぱりコラボレーション。
 演劇ではなく、あくまで朗読。再現を目指さず、ビジュアル・イメージと語りのコラボレーションでなにごとかを語る。この基本線が打ち出され、かつ守られている。
 基本線として朗読に徹するという、今回のヘロQの朗読劇の方向性は、たまによくある朗読劇の残念さを回避するためにも功を奏しています。
 たとえば目線の向き。まず、残念なほうの朗読劇で何が起きているか。朗読劇で少し動きを付けて、俳優に体の演技を許すと、俳優と俳優が向き合って対話をしながら=演劇に接近しながら、視線は台本に落ちてしまう=演技が中断するとき、パフォーマンスは失速してしまう。再現なのか語りなのかの方向性が迷子になってしまうと言ってもいいし、単に見ていて気が散ると言ってもいい。なんにせよ残念な瞬間です。対して今回のヘロQでは、たとえ対話場面でも、俳優と俳優がキャラクターとして目を合わせるということをしない。立ち位置も、その状況でそこにその2人の人がいたらその位置関係になるだろうなという距離にまで近寄ったと思いきやすぐ離れたりします。あくまで、「ふりをした」人=キャラクターによる対話ではなく、朗読者が台本を順番に読み上げている。再現ではなく、朗読。
 一見すると演劇的な再現っぽく見える場面もあるにはあるんですよね。『心理試験』で言うと、ひとつは殺人の場面。語りは控えられ、演者の動作が観客に何が起きたかの情報を伝える。でもそれも、「あたかもそれが本当であるかのように」という演劇のイリュージョンを伴う再現ではなくて、観客に伝えられるべき内容の視覚化(その意味ではせきともさんが言っていたとおりに「挿し絵」)です。こういうパフォーマンスのタイプの違いって文字では説明が難しいんですが、具体的には、ちょっと段取り的に動くとか、様式的だとか、動作のリズムとテンポだとか、リアリスティックじゃないとか断片的とか、そういうところです。
 それから、犯人が、取り調べ中にあやしい素振りを見せないように訓練する場面。ここでも語りは控えられて、犯人役の演者がある動作を行い、かつ台詞も述べる。演劇なら独白になる場面です。でもここも、まず上記の不自然さが生まれがちな対話ではなく一人の台詞だし、この時点までに語りという朗読劇の土台ががっちり作られているし、演者もあくまで語りとしてキャラクターの言葉を述べるので、「そこだけ演劇かーい!」とはならない。
 端的に言うと、actとperformとnarrateは見た目はとても似ていても本質的には別の行為で、今回のヘロQはnarrateに徹していたってことです。主に、語りの部分の多さ(土台としてのnarration)。それから演者のパフォーマンスのモード(actではなくnarrate)。それから視覚的要素の利用(言葉ではなく動作でnarrateする)。
 そうすると、コンセプトとしては朗読に徹しつつ、上演としては変化を作れるんですよね。語りだけの場面。語り役の語りのあいだ、キャラクターを担当する演者が止まったままの場面。逆に、語りの内容に合わせて演者が動く場面。さらに、語り役が下がって、一人の演者だけの場面。複数の演者による場面。だから、構成にはバリエーションがあって、見ててあんまり飽きない。もちろん、この形式をとる以上、ある人とある人のあいだに視線が交わされ言葉が交わされついに生身の人同士の対決が起きるっていう演劇特有の緊張感はなくなりますが、少なくとも、一時間ちょっとの上演にはじゅうぶんです。
 そんなわけで、今回のヘロQの朗読劇は、舞台でやる朗読のかたちのひとつとして、かなりうまくいっていたんじゃないでしょうか。やりたいことのビジョンがあり、それが妥当なもので、かつきっちり実行されているパフォーマンスを観るのは、ふつうに気持ちがいい。そのどれかが欠けていたり、はき違えていたりするパフォーマンスって、めっちゃめちゃたくさんありますもんね。
 そして、その形式がばっちりきまるためにはヘロQの劇団としての特性が必要になる。まずひとつは、ヘロQが声優さんの劇団だってこと。特に語り役の語りです。今回の朗読劇では、語り役の語りが朗読の土台を作り、また舞台上のビジュアル・イメージとコラボする主要素になる。ここが要です。テキストの量と語り手の技量の両方が必要になる��そのとき、置鮎さんの語りのまー上手いこと上手いこと!上手いって言うことの意味がもはやないほどに、もう磐石の、何の揺らぎもない絶対の土台ですよ。「いいもの聞いた~さすが声優さん~」って満足するだけでもいいんですが(ものすごい満足していますが)、今回のポイントは、それが、この朗読劇を成立させるために機能してるってことです。上手さが、目的ではなく手段。
 もうひとつが、最初に書いた、ヘロQの舞台美術です。今回の上演の、もうひとつの要がビジュアル・イメージ。紙芝居的であるためには、よくあるシンプルな舞台じゃだめなわけです。裸舞台に、言葉と観客の想像力によってなにごとかを生み出してみせるという、『ヘンリー五世』のプロローグにあるみたいなことは目指されてない。そこに、関さんのいう「絵」がないといけない。ときどき「チケット代が舞台美術になって目の前に!」って思うくらいの、あのヘロQの舞台美術が、今回の朗読劇でも活きている。これも、置鮎さんの朗読の上手さと同じく、「装置が豪華だとうれしい」ではなくて、この朗読劇を成立させるためのものです。オプションではなく、必須の構成要素。もろもろ考慮するとちょっと驚くくらいにお金をかけた舞台美術ですが、公演のコンセプトに照らしての必然性がある。
 こうやって振り返ってみると、今回の公演は、上に書いたように、舞台上でおこなわれる朗読劇としてひとつの正解だし、その正解はヘロQならではの正解だったと思います。ヘロQが朗読劇をやるとこうなる。文章にしてしまうとそれだけのことなんですが、その「ヘロQが朗読劇をやるとこうなる」というのを、ヘロQ的な最大の正解としてもってこられた。そういうとこ、さすがだな~。そんな感じの公演でした。
 あれっ、私、置鮎さんがビジュアルも声もすっごく!!!すてきでこりゃまた最高だなってなった話ってしましたっけ?してない!なぜ!
 しかしそれをここに続けて書くことはできません。なぜなら今から3日の夜公演を観るからです。ではまた。
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2021年の記録
2021年の記録です。
◆お芝居・イベント
3/19 『ゴジラ S.P<シンギュラポイント>』完成披露上映イベント@TOHOシネマズ日比谷 4/3 「Rejet Fes.2021 TRY!」昼@立川ステージガーデン 4/3 「Rejet Fes.2021 TRY!」夜@立川ステージガーデン 4/4 『ネオロマンス♥フェスタ 遙か二十年《鬼》祭』 昼 @神奈川県民ホール大ホール 4/4 『ネオロマンス♥フェスタ 遙か二十年《鬼》祭』 夜 @神奈川県民ホール大ホール 5/29 『ネオロマンス・ダンディズムLIVE ~この愛の歌を君に~』昼@KT Zepp Yokohama 5/29 『ネオロマンス・ダンディズムLIVE ~この愛の歌を君に~』夜@KT Zepp Yokohama 9/4 『リョーマ!prince of tennis 新生劇場版テニスの王子様』舞台挨拶12:40回@TOHOシネマズ日比谷 11/23 『召喚IP!~社畜とヴァンプ~』 昼 @カルッツかわさき 11/23 『召喚IP!~社畜とヴァンプ~』 夜 @カルッツかわさき 12/2 『眠れぬ夜のライブストーリー』ゲスト@紀伊國屋ホール
◆配信
1/27 ツイキャス『置鮎龍太郎の道2021 #ぺらゆる32』 3/14 『夢100 6周年プリンスパレード』配信昼 3/14 『夢100 6周年プリンスパレード』配信夜 5/29 『ネオロマンス・ダンディズムLIVE ~この愛の歌を君に~』昼 5/29 『ネオロマンス・ダンディズムLIVE ~この愛の歌を君に~』夜 5/31 テニチャ 6/2 ツイキャス 『ぺらゆるR』 6/12 『ときめきメモリアル Girl's Side DAYS 2021』昼 6/16 ツイキャス『置鮎龍太郎のゆるとーく』 6/30 ツイキャス『置鮎龍太郎のゆるとーく』 7/11 『スーパーロボット大戦 鋼の超感謝祭2021』配信 7/14 ツイキャス『置鮎龍太郎のゆるとーく』 7/28 ツイキャス『置鮎龍太郎のゆるとーく』 8/11 ツイキャス『置鮎龍太郎のゆるとーく』 8/21 ヘロQ・DVD発売記念ツイキャス 配信『バレタアトノハナシ』 8/26 ツイキャス配信 『置鮎龍太郎のゆるとーく』 9/9 ツイキャス配信『置鮎龍太郎のゆるとーく』 9/15 ニコ生『古谷徹のハッピーガチャVol.3 キュンキュンデートの秋編』ゲスト 9/17 『聖闘士星矢RC一周年記念生放送』配信 9/18 ニコ生『置鮎龍太郎のくじメイト特番~ツンデレクール編~#01』 9/19 『TALES OF READING LIVE -ONLINE- テイルズ オブ デスティニー』 9/25 ニコ生 『置鮎龍太郎のくじメイト特番~ツンデレクール編~#2』 10/10 『テニプリ 20th Anniversary Event -Future-』 10/13 ツイキャス配信 『置鮎龍太郎のゆるとーく』 10/20 ツイキャス配信 『置鮎龍太郎のゆるとーく』 10/28 新ディズニープラス スタート記念!ディズニーっコらぢおウィーク『マーベル特番』 11/1 『燈の守り人』明治開国編 第一夜 11/2 『燈の守り人』明治開国編 第二夜 11/23 『召喚IP!~社畜とヴァンプ~』夜 11/27 ツイキャス配信 『置鮎龍太郎のゆるとーく』 12/3 ツイキャス配信 『置鮎龍太郎のゆるとーく』 12/8 ツイキャス配信 『置鮎龍太郎のゆるとーく』 12/18 『JUMP FESTA'22 ジャンプスーパーステージ「新テニスの王子様」』配信 12/18 ツイキャス配信 『置鮎龍太郎のゆるとーく』 12/21 ツイキャス配信 『置鮎龍太郎のゆるとーく』 12/25 『BLEACH Brave Souls “卍解” 生放送X’masスペシャル2021!!』配信 12/26 ツイキャス配信 『置鮎龍太郎のゆるとーく』 12/30 ツイキャス配信 『置鮎龍太郎のゆるとーく』
◆ほか
1/29 (TV)『Mr.都市伝説 関暁夫のゾクッとする怪感話』 6/5 (映画)『劇場版Fate/Grand Order 神聖円卓領域キャメロット後編』挨拶付き上映 6/13 (映画)『劇場版Fate/Grand Order 神聖円卓領域キャメロット後編』 6/20 (TV)『青天を衝け』 7/18 (TV)『青天を衝け』 9/11 (映画)『リョーマ!』応援上映 9/17 (映画)『リョーマ!』応援上映 9/27 (TV)ネプリーグ
◆ドラマCD
『ストレンジ・プラス』2、『忍たま』、『Clock over ORQUESTA』など。聞いたの以外に、『新・オフィス遊佐浩二』、『朗読喫茶噺の籠』、『遙かなる時空の中で4~橿原宮炎上~』などあれこれ積んでます。
◆ゲーム 
(ソシャゲ)『テニスの王子様 Rising Beat』、『Fate/Grand Order』、『ラングリッサーモバイル』、『剣が刻』、『夢王国と眠れる100人の王子様』、『刀剣乱舞』、『聖闘士星矢 ライジングコスモ』、『Sdorica』 (PS4)『無双OROCHI 3 Ultimate』、『新サクラ大戦』、『キャッスルヴァニア 〜暁月の円舞曲〜』 (Switch)『ポケモンスナップ』
◆アニメ・ラジオ・など
『ゴジラSP』、「荒野のスノー」(Love, Death and Robots S2E4 "Snow"吹替)、『忍たま乱太郎』、『名探偵コナン』、『しろくまカフェ』、『ジャングルはいつもハレのちグゥ』、『スラムダンク』、『新テニスの王子様オン・ザ・レイディオ』、日本ラグビー応援TV『ONEラグビー』
◆キャラソン
10曲くらい増えました
 今年も、チケットは取っていたのに中止になってしまったイベントがありました。8/15に川口で開催予定だった『おじさんだけで遊びたい!』。それから、第三波まっただ中+下北沢の狭い小劇場という条件に、さすがに諦めたのが1月の『タチヨミ』。売れ残ってるチケットを買っておいて行かないという、闇のクラウドファンディングみたいなことをしました。そうでもしないと気持ちのもってきどころがなくて。逆に、感染の波の間を縫って、クロケスタのポップアップストアとコラボカフェと、ガンダムカフェには行けました。
 印象に残っているのは『ダンディズム』です。新装Zepp、柿落としからのコロナ禍、初の有観客。本来なら、ただの建築物であった空間に、観客が入り、ホールとして呼吸を始める、特別で、お祝いのはずの日。なのに、席はひと席あけ、マスク着用、発声禁止。100%じゃない…いや、あの日はあれが100%だったんですが、限られた100%だった。あの日にあの空間の観客であることを、光栄に思うと同時に、もどかしさもとても強く感じました。私にできることは客席で観客をしていることだけだけど、それでは足りなすぎた。
 『リジェフェス』も印象に残っています。久々のペンライト系のイベント。ステージに出てきて、カラフルな光に彩られた観客席という光景を目にした、ある声優さんの表情。トークによれば、そのかたはコロナ以降初めての観客の入ったイベントだったそうなんですが、それを聞かなくてもわかるくらいに、心が動いてるのが見えた。声優という職業の人たち、特にイベント出演中も活動の内であるような声優さんたちがライブ・イベントがほぼ全滅した時期に何を思われていたのか、もちろん私には知るよしもないんですが、「その場に集う」ということの大きさを感じました。
 ふだんだったらーーつまり「コロナ前」だったら、『リジェフェス』の感想はきっとこうです。置鮎さんが縁に声をあてているところを初めて見た。イラストがあって、言葉があって、置鮎さんの声がある。どこにも「縁」という存在はいないのに、それでもあの短いライブ朗読の時間、縁が「いる」と思��たーー私もそこにいた。「ゲームで聞くのと同じ声だ」という同一性の確認とは根底から異なる、キャラの実在。それはこれまでのキャラという存在(とその成立のメカニズム)についての認識が覆されるような体験だった。
 そういうことが意味をもたなくなったとはまったく思ってないんです。アニメ、ゲーム、キャラ、演技、その仕組み、成果、みんな面白いと思うし、すごいと思います。少しずつ少しずつでも理解していくのは楽しい。ただ、いままで考えなくて済んでいた、いろんな前提のようなものがいちどに消えて、また手探りで集めて、積み直しているような感じがします。同じイベントであっても、かつてイベントという名前で呼ばれていたものをもう一度作り直した何かのように思えるときも。「そうだった、こんな感じだった」という感覚のあとに、「戻ってきた」が続くのか、「でも…」が続くのか。別のフレーズが続くのか。「またこれをできるんだ」かもしれないし、「これじゃない気がする」かもしれない。あの感覚を言い表してくれる言葉が見つかる前に、違和感のほうがなくなるのかも。どうなんでしょうね。
 こうして今年の置鮎さん活動(どういう呼称だ)を書き出してみても、正直、どう思ったらいいのかわからないところがあります。行けなかったライブ・イベントは、感染リスクの高さを考慮してパスした『タチヨミ』と、チケットを取るのを完全に忘れていた『テニプリ』記念イベント。配信では、ヘロQのライブ配信2作品を見ていません。好みに合わないので。なので、『タチヨミ』以外は、自分の側に理由があって見ていな��わけです。でも、それは私が東京近郊に済んでいて、体が健康で、そして今年もかなりの時期を在宅で過ごしていたから。もし私が地方に住んでいたり、自分や家族の健康に条件があったり、週5で出勤して不特定多数の人に接する仕事をしていたら、つまり生活上の感染する・させるリスクが違ったら、ぜんぜんちがうリストになってたわけですよね。だから、職や収入のことを無視してさえ、これはとても特権的なリスト。でも同時に、私のような人間すら参加を控えていたら、企画が、コンテンツが、業界が、本当に力を失ってしまう。会場に行きたいし、行くことはできるし、行けば楽しかったけど、どこかで絶対に自由じゃなかった。常に選択だったし、リスクのことを考えてた。そんな一年でした。
 現地参加以外での行動の変化としては、「現地参加したのに配信も買う」というのをふつうにやるようになりました。リストで現地・配信に重複があるのはそのせいです。配信のあるイベント、よかったイベントだけですが。ちょろい。
 散財でいうと忘れてはならないのはくじメイトですね。ボイスなどが当たるオンラインの抽選です。楽しかったな。おみくじみたいに毎日引いたりして。サインは、ニコ生配信にゲストで出演された緑川さんとのダブルサインの色紙が当たってました。開封したときは何が書いてあるのか真剣にわかりませんでしたが。自分の部屋に、置鮎さんと緑川さんがサインをされた、自分の本名入りの色紙があるかと思うと、なんだか面白くてときどき笑っちゃいます。なんでこんなことに。もちろん私がくじを引いたからなんですが。なんでこんなことに。本名を呼ばれるボイスのほうは、親しげな演技+本名のコンボから生まれる距離感のなさが苦手で無理でした。宝の持ち腐れとはまさにこのこと。
 あとは、『テニプリ』記念イベントのアフタートークの小野坂さんの言動があまりにひどかったのでtwitterで批判したら、マシュマロ(という名前の匿名メッセージ送信サービスのメッセージ)がめっちゃきました。中身は、ほとんどが賛成、たまに反論という感じ。いろんな意見を聞かせてもらえたので、届いたマシュマロにはすべて感謝しているんですが、声優さんにどはまりして4年、いろんなことが起きるものです。
 そう、置鮎さんにはまって4年です。せいぜい数ヶ月はまって飽きるのかと思いきや、1年程度はまって収まるのかと思いきや、パンデミックのあおりでそれどころではなくなるのかと思いきや、4年!なんと。そのうち2年がコロナ期間なことに、それなりに深い恨みを抱えています。どこにももってきようのない恨みを。上に書いたように、そんなことを恨んでいられる時点でなんにも恨む必要なんてない時代なんですが。にしてもコロナ許すまじ。
 振り返れば4年ということもあり、今回もあれを…そもそもなぜこのコーナー(コーナー???)が書かれることになるのかいまだに意味不明だと思っていますが、いちおうこの一年の記録として書いておきますと、置鮎さんとの距離感が自分の中でちょっと変わったかな~と思ってます。「慣れた」?かなあ。
 たとえば、置鮎さんがされてる配信で、私はいまだに毎回表示名を変えていて(最初は思うところあってそうしていたのですが今は完全に飽きてます)、置鮎さんは毎回私のtwitterのアカウント名前を呼ぶとか。しかも、私は最近twitterのアカウント名を以前とは別のものにしていることが多いので、もはや「旧」アカウント名。SNSで、名前を変えても、前の名前のときに知り合った人は前の名前で呼び続ける現象ってあるじゃないですか。ほぼあれを、どはまりした声優さんとやっている。なんで?
 あるいは、置鮎さんのエゴサの対象範囲にいることに疲れて、置鮎さんのアカウントをブロックしたり。ブロックするほうもするほうですが、そもそもなんでそんなことが必要に?と考えるなら、そもそもあの頻繁で継続的なエゴサはいったい?冷静に考えて、「置鮎さんだから許されてるけど別の人だったらやばい」って感じじゃないですか??(それなのになぜ置鮎さんだと面白くなってしまうのか…)
 上に「意味不明」と書きましたが、たぶん納得いってなかったんだと思うんですよね。なんというか、完全に自分のペースじゃなかったので。確かに置鮎さんは面白いし、かわいいし、リプライをいただいたらめっちゃテンション上がります。これでも人間なので、物理的に舞い上がるのはちょっと無理ですけど、気持ちは舞い上がります。元気がないときはほんとーーに効きます。それは今でも変わらない。でも疲れるときもある。光が強すぎるときが。
 で、そこまで含めて慣れてきた。twitter上で置鮎さんに私を私と認識されてることとか、twitter上じゃなくても顔を覚えられてることとか、受け入れるのにだいぶ時間がかかったんですけど、いまは平気。いや平気ではないんですが(平気なわけがあるかーーー!!!)、平気ではないことまで含めて平気に。なった?あらためて書くとやっぱり平気ではないかもしれませんね…。なんだろう、「慣れた」…「受け入れた」…悟りを開いた??
 私は私で、置鮎さんは置鮎さんで、私は置鮎さんにどはまりして、あとはときに起きることが起きる、ことがある。なんか、人間と人間のコミュニケーションなんだからそりゃそうだろうというような、だからなんでここにそのコミュニケーションがあることになってるのよというような、いっそ運命のような。不思議ですね。ひらたく言うとわけわかんないですね。
 でも、先のわからない、わけのわからないこの一年で、置鮎さんはハッピーなびっくり箱みたいで、私のこの一年に置鮎さんの存在…置鮎さんにどはまりしたという状況があってよかったなと思います。
 去年と同じフレーズを書きます。どうか来年は、みなさんにとって良い一年でありますように。
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2020年の記録
2020年の記録です。
◆お芝居・イベント
1/13 『タチヨミ』@下北沢小劇場B1 1/18 『タチヨミ』@下北沢小劇場B1 2/2 『遙か 節分祭』@クルーズ・クルーズYOKOHAMA 2/15 「名探偵コナン 緋色の弾丸」公開記念 赤井一家セレクション上映スペシャルトークショー@池袋HUMAXシネマズ
9/13昼 『VOICARIONⅨ帝国声歌舞伎~信長の犬~』@帝国劇場 9/13夜 『VOICARIONⅨ帝国声歌舞伎~信長の犬~』@帝国劇場 9/17 『タチヨミ』@草月ホール 11/30 リーディングシェイクスピア『マクベス』@サンシャイン劇場
◆配信
1/17 モンストアニメ公式youtubeチャンネル「新超絶シリーズ『悪しき天聖』第4弾!!天聖ケテル 初挑戦!」 1/29 『おしゃ5』生配信
3/21 関智一さん生配信 3/21 『BLEACH』20周年プロジェクト生放送(youtube) 3/25 『BLEACH Brave Souls』生放送(youtube) 3/28 関智一さん生配信 3/28 ヘロQ『ヘロQだよ!全員集合!!~みんなの力をオラに分けてくれ~』 3/29 『置鮎龍太郎の道(みち)2020~あかぺら ゆるいち』
4/5 『S.S.D.S. 第1回TV診察会 桜吹雪でランランラン♪(仮)』 4/11 『置鮎龍太郎の道(みち)2020~ぺらゆる2』 4/17 ロフト応援企画『置鮎龍太郎の道(みち)2020~ぺらゆる3』 4/26 ロフト応援企画『置鮎龍太郎の道(みち)2020~ぺらゆる4』
5/2 『置鮎龍太郎の道(みち)2020 ぺらゆる5』 5/3 『置鮎龍太郎の道(みち)2020 ぺらゆる6』 5/3 『置鮎龍太郎の道(みち)2020 ぺらゆる7』 5/16 『置鮎龍太郎の道2020 #ぺらゆる8』 5/16 『置鮎龍太郎の道2020 #ぺらゆる9』 5/28 『置鮎龍太郎の道2020 #ぺらゆる10』 5/31  ヘロQ『ヘロQだよ!全員集合!!~朗読『怪人二十面相』~』
6/13 『置鮎龍太郎の道2020 #ぺらゆる11』 6/14 『置鮎龍太郎の道2020 #ぺらゆる12』 6/21 『ヘロQだよ!ほぼ全員集合!!~朗読『少年探偵団』~』 6/28 『置鮎龍太郎の道2020 #ぺらゆる13』
7/5 『置鮎龍太郎の道2020 #ぺらゆる14』 7/12 『置鮎龍太郎の道2020 #ぺらゆる15』 7/18 テニラビch 生放送スペシャル(youtube) 7/19『 BLEACH Brave Souls 5周年記念“卍解”生放送』(youtube) 7/24 『置鮎龍太郎の道2020 #ぺらゆる16』 7/26 ヘロQだよ!ほぼ全員集合!!~朗読『怪奇四十面相』(二十面相シリーズ朗読劇1stシーズンファイナル)~ 7/29 『置鮎龍太郎の道2020 #ぺらゆる17』
8/7 『花慶の日2020-夏の陣-ONLINE』(youtube) 8/9 『置鮎龍太郎の道2020 #ぺらゆる18』 8/9 『置鮎龍太郎の道2020 #ぺらゆる19』 8/14 『緑川光の毎日生対談~光おにいさんと一緒♪~』【6日目】@ニコニコネット超会議2020夏
9/3 『ヘロヘロ大パニック バレルナキケン with コロナ』15時 9/6 『ヘロヘロ大パニック バレルナキケン with コロナ』16時 9/19昼 『ネオロマンス♥フェスタ 遙か二十年祭』 9/19夜 『ネオロマンス♥フェスタ 遙か二十年祭』 9/21 『タチヨミ』ライブ・ビューイング(※映画館上映) 9/27 『BLEACH Brave Souls “卍解”生放送 TGSオンラインスペシャル!!』(youtube)
10/3 『置鮎龍太郎の道2020 #ぺらゆる20』 10/7 『置鮎龍太郎の道2020 #ぺらゆる21』 10/17 「理系が恋に落ちたので証明してみた。研究発表会」13:45回 10/18昼 「新・オフィス遊佐浩二 大報告会2020 AW Collection」 10/18夜 「新・オフィス遊佐浩二 大報告会2020 AW Collection」 10/21 『置鮎龍太郎の道2020 #ぺらゆる22』
11/3 『置鮎龍太郎の道2020 #ぺらゆる23』 11/15 新テニスの王子様 オフィシャルチャンネル #3 11/16 『置鮎龍太郎の道2020 #ぺらゆる24 ~誕生日スペシャル~』 11/23 『置鮎龍太郎の道2020 #ぺらゆる25』
12/2 『置鮎龍太郎の道2020 #ぺらゆる26』 12/9 『置鮎龍太郎の道2020 #ぺらゆる27』 12/11 「バック・アロウ」ABEMA特番 ~最新情報発表SP~ 12/16 『置鮎龍太郎の道2020 #ぺらゆる28』 12/20 ジャンプフェスタ 2021 ONLINE テニラビch出張版 12/23 『置鮎龍太郎の道2020 #ぺらゆる29』 12/28 『置鮎龍太郎の道2020 #ぺらゆる30』 12/29 『置鮎龍太郎の道2020 #ぺらゆる31 忘年会SP』 12/31 ヘロQ「ヘロQだよ!ほぼ全員集合!!〜朗読『クリスマス・キャロル』〜」
◆ドラマCD ハイスクール・オーラバスターCD+BOOK 朗読劇Collection 『千夜一夜の魔術師』 ハイスクール・オーラバスターCD+BOOK 朗読劇Collection 『緋色の糸の研究』 集英社CDブック ハイスクール・オーラバスター『迷える羊に愛の手を』 『ストレンジ・プラス - The Drama CD-』 『天国に涙はいらない 臥竜鳳雛夫婦雛』 ドラマCD「オフィス遊佐浩二」社外活動1 ~オフィスの危機!?~ 『CLAMP学園怪奇現象研究会事件ファイル1st FILE』 『真・三國無双6 烈星・衝天煌舞』ミニドラマ【晋】「天命を求め THE LONGING FOR...」 『バレスタ』1 『バレスタ』2 『メモリアル・ドラマCD ラングリッサーⅡ』
◆ゲーム 『テニスの王子様 Rising Beat』 『Fate/Grand Order』 『ラングリッサーモバイル』 『剣が刻』 『茜さすセカイでキミと詠う』 『夢王国と眠れる100人の王子様』 『刀剣乱舞』 『BLEACH Soul Rising』 『ロックマンX DiVE』 『聖闘士星矢 ライジングコスモ』 『名探偵コナンパズル 盤上の連鎖』 『クリムゾンクラン』 『悪魔城ドラキュラX 月下の夜想曲』(スマホ版) 『無双OROCHI2 Ultimate』(PS4) 『真・三國無双7 with 猛将伝』(PS4) 『Bloodstained: Ritual of the Night』(PS4)
ソシャゲのカード実装とガチャの内訳は ・『テニラビ』→2月、4月、7月、10月、11月、11月(ログイン配布)、12月 ・『Fate/Grand Order』→4月にロムルス ・『ラングリッサーモバイル』→12月に世界樹の賢者 ・『剣が刻』→1月に縁 ・『茜さすセカイでキミと詠う』→5月、9月 ・『夢王国と眠れる100人の王子様』→3月、9月、12月 ・『刀剣乱舞』→8月
◆アニメ・ラジオ・など 『理系が恋に落ちたので証明してみた。』S1 『勝負師伝説 哲也』E1 『疾風!アイアンリーガー』E8くらいまで 『名探偵コナン から紅の恋歌』 『忍たま乱太郎』4/13、11/10 『歌舞伎町シャーロック~パイプキャットラジオ~』3/4 『新テニスの王子様オン・ザ・レイディオ』7月パーソナリティ 司馬遼太郎短篇傑作選『貂の皮』(7/11~8/22、計7回) 日本ラグビー応援TV『ONEラグビー』 『ワンピースバラエティ 海賊王におれはなるTV』
◆キャラソン 15曲くらい増えました
 それから、チケットは取っていたのに中止になってしまったイベント。 ・Symphonic Drama 『火の鳥 ~黎明編~』 ・ヘロQ『立て!マジンガーZ!!』 ・『S.S.D.S.第23回診察会』  チケットは取っていなかったんですが、『ACTORS』の5月のイベントも中止でした。『ときメモGS』の4月のイベントは延期。ほかに、告知されることもチケットが販売されることもなかった、どれだけのイベントがあったのか。知るよしもないんですが、想像してみようとしては、失われたものの大きさにおののいています。
 なので今年は…ううん…ちょっと言葉がないです。ひきこもって配信とソシャゲに明け暮れた一年だった気もします。自分史上最高にソシャゲに課金した年でした。でも、秋以降のライブ・イベントも行けるものは行っているので、オタク的用事で東京に行く状況ではなくなった人々のことを考えたら…。ううん。このブログも、勢いで作って、年末にその年の置鮎さん活動をまとめて(ちなみに「置鮎さん活動」というのは知人のネーミングです)、それが今年はパンデミックで一変した置鮎さんのご活動の一端を反映することになるとは。
 この1年いったい何をしてたんだろうって思うんですけど、あらためて書き出してみると、やっぱり置鮎さん活動はしてたのかも。「かも」ではないな。してましたね。置鮎さんが、某所でおっしゃっていたようにばかみたいに(ひとにお金を払わせといてなんて言い草だなんて思ってないですよ☆)配信をして、こっちも飽きもせず視聴して。春頃は先の予定が立たなくなっていたので、ぺらゆるの予告だけが未来を刻んでいた時期もありました。アクション・ゲームに没頭することが、唯一の気分転換の方法だった、数えきれない明け方も。その意味では今年も、「どはまりした声優さんがいる」という事実は私を動かす動力のひとつでした。
 一年前のこのブログにこう書きました。
あくまで2019年の記録という趣旨の文章なので特記事項として書きますが、置鮎さんとすっかりtwitter上の顔見知りみたいになりました。え、なにそれ…
いまはどうかなあ。置鮎さんが配信を始められて、配信のプラットフォームはtwitterのアカウントと紐づけされていて。思うところがあって毎回表示名を変えていってるんですが、もうぜんぜん通用しない。わざわざtwitterでの名前を呼ばれます。なぜ。30回も、自分もよくやるなあと思いますが、置鮎さんのほうもあれはなんなんでしょうね…。いまだに距離感がわかりません。そもそも、なぜ距離感云々の話になっているのかも。
 置鮎さんにはまってこのかた、置鮎さんの声の演技の上手さを疑ったことは一度もないです。声と演技がキャラに合う・合わない、解釈の妥当さ、上手さの性質や種類はあれど、ほんとうに上手い人だと思います。でも、ううん…どうでしょう。配信が始まったこともあって、置鮎さんの個性を多めに目撃する年でもありました。
 それから、この一年の私の置鮎さん活動を記録するという趣旨のこの文章の、2020年ぶんの特記事項は、おそらく置鮎さんに顔を覚えられた、ということでしょう。その事実が確認されたのは今年の1月のこと。なんでしたっけ、言いかたありましたよね。「認知」?こっちからは謹んで否認申し上げたいところなんですが、そんなことが起きるのも、ライブ・イベントが当たり前に開催されていたからこそと思うと、なんだか愛しい事実のような気もします。いや、嘘です。いまちょっといい話にもっていこうとしましたが、そんな事実ぜんぜんいらない。次に顔を合わせるまでに忘れておいてほしい。
 その「次」がいつになるのかもわからなかったときのことも思い出します。「次」というものがあまりにも不確かで、遠くて、その言葉のはかなさに心を焦がされ、不安を抱え、無事であれと願った季節のことを。そしていま、「次」と書くときの、甘美な響きと、静かな痛み。
 どうか来年は、みなさんにとって良い一年でありますように。いつかまた、どこかで会いましょう。
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2019年の記録
 2019年の記録です。
◆お芝居・イベント 1/19 テニプリBest Festa! ライブビューイング 1/20夜 テニプリBest Festa! @お台場 2/2夜 ヘロQ『DARK CROWS』@スペース・ゼロ 2/3昼 ヘロQ『DARK CROWS』@スペース・ゼロ 2/7昼 ヘロQ『DARK CROWS』@スペース・ゼロ 3/3昼 無双フェス@市川 3/3夜 無双フェス@市川 3/30昼 『ほし×こえ』@さいたま 3/30夜 『ほし×こえ』@さいたま 5/19昼 『ネオロマンス ダンディズム2』@神奈川県民ホール 5/19夜 『ネオロマンス ダンディズム2』@神奈川県民ホール 8/2夜 『はんなり☆夏語り』@赤坂 8/5夜 『はんなり☆夏語り』@赤坂 9/28昼 ヘロQ『冒険秘録菊花大作戦』@スペース・ゼロ 10/4昼 ヘロQ『冒険秘録菊花大作戦』@スペース・ゼロ 10/6昼 ヘロQ『冒険秘録菊花大作戦』@スペース・ゼロ
◆映像 『おねがいマイメロディ』S1終盤~S2 『7 SEEDS』 『マージナルプリンス』 『Actors -songs connection-』 『学園BASARA』 『悪魔城ドラキュラ』S2 『BLEACH』E16~E24 『フルーツバスケット』E1 『エガオノダイカ』E1 『トリコ』E1 『疾風!アイアンリーガー』E1 『バビロン』E1 『テニスの王子様ANOTHER STORY~過去と未来のメッセージ』 『名探偵コナン から紅の恋歌』 『名探偵コナン 紺青の拳』 『ACTORSスペシャルイベント 天翔学園音楽祭2017』 『遥かキャラソン祭り テイクアウトライブ』
◆ドラマCDなど 『ナデプロ!! Vol.1』 『ナデプロ!! Vol.2』 『ナデプロ!! Vol.3』 『ナデプロ!! Vol.4』 『ナデプロ!! Vol.5』 『ナデプロ!! SPCD1 近況報告』 『ナデプロ!! SPCD2 続・近況報告』 『ナデプロ!! さいごの!!』 『ナデプロ!!~キサマもラジオ聞いてみろ!~置鮎龍太郎VS野島健児バージョン』 『ナデプロ!!~キサマもラジオ聞いてみろ!~置鮎龍太郎VS甲斐田ゆきバージョン』 『ナデプロ!!~キサマもラジオ聞いてみろ!~置鮎龍太郎VS小西克幸バージョン』 『WAO! AMUSEMENT PARK 第1弾「ようこそここへ! ���ック81編」』 『WAO! AMUSEMENT PARK 第2弾「戦隊モノはじめました編」』 『WAO! AMUSEMENT PARK 第3弾「愛の激情編」』 『WAO!AMUSEMENT PARK 第4弾「バンドやろうぜ!編」』 『Happy☆Magic! イントロダクションCD ニャー散歩「潜入!私立オルタンシア学園にゃ!」』 『Happy☆Magic! ラブx2デートCD 城崎翠雨』 『赤毛のアン』 『KISS×KISS collections「ヒーリングキス』』 『くすぐらせてもらったCD』 『ハイスクール・オーラバスター「烙印の翼」SIDE-A 聖痕(スティグマ)』 『ハイスクール・オーラバスター「烙印の翼」SIDE-B 聖界(サンクタム)』 『ハイスクール・オーラバスター「Gate-for "the Lovers"-」』 『ハイスクール・オーラバスター 「Alchemic Exodus」』 『那由多の軌跡 ~夜明けの星~』 『ミラクル☆トレイン ~中央線へようこそ~』 『Shinjuku with You』 『シカリンA』 『声優小倉百人一首 緑川光・置鮎龍太郎』 『バレスタ 第一巻』 『Marginal Prince Drama CD 1』 『Marginal Prince ソクーロフ博士の噂:ジョシュア篇』 『Marginal Prince ソクーロフ博士の裸のカウンセリングルーム:ジョシュア』 『Marginal Prince レディオマージナル ダイジェストCD』 『Marginal Prince Fan Event Greeting CD』 『卒業M Short Story 4』 『ときめきメモリアルGirl's Side プロローグ~ファースト・ラブ』 『ときめきメモリアルGirl's Station ラジオCD vol.1』 『戦国武将物語外伝 ~14の大名物語~』 『ラジオの世界エルハザード』 『癒守石 05』 『Reader Song Love Letter 2』 『Double Score ~Marguerite~』 『メモリアル・ドラマCD ラングリッサーⅡ』
◆ゲーム 『テニスの王子様 Rising Beat』 『Fate/Grand Order』 『リボルバーズエイト』 『ラングリッサーモバイル』 『剣が刻』 『星鳴エコーズ』 『茜さすセカイでキミと詠う』 『グランブルーファンタジー』 『鬼ノ哭ク邦』 『遙かなる時空の中で3』 『キングダム・ハーツ バース・バイ・スリープ』
◆キャラソン 50曲くらい増えました
◆その他 『司馬遼太郎短篇傑作選 八条宮』 『テニスの王子様 オン・ザ・レイディオ』出演回 『ACTORS-ラジオ配信してみた!-』出演回 『ランモバ特別番組 兄貴からの挑戦状』 『ランモバ特別番組 新米指揮官放送』 『新テニスの王子様 We Love テニプリCH#1』 『BLEACH Brave Souls』イベント生中継 ジャンプフェスタ『テニスの王子様』ステージ生中継 NHK『逆転人生』ナレーション 日本ラグビー応援TV『ONEラグビー』
 ガチャは、『テニラビ』サマーバレンタインの手塚先輩で大阪一泊二日行けるくらい。ヘロQの物販で缶バッジを引くのにチケット一枚ぶんくらい。関連イベントは『遥か』コラボカフェ、『ACTORS』コラボカフェ、『テニプリ』原画展、『ACTORS』先行上映。あとはヘロQの物販でパンフレットにサインをいただいたり、ラジオに送ったメッセージが読まれたり。渋谷のHMVにサインを見に行ったりもしました。そして、これはあくまで2019年の記録という趣旨の文章なので特記事項として書きますが、置鮎さんとすっかりtwitter上の顔見知りみたいになりました。え、なにそれ…こんなはずでは…。
 ブログの数は減りました。パソコンが壊れたのが主な理由です。いやになったり飽きたりするならまだしも、そんな即物的な理由で更新が減るとは。それから、なんだかんだで2年目、見るものすべてが初遭遇!異文化!新鮮!という、ブログを���かずにいられないほどの衝撃はなくなってきたという理由もあります。あくまで初遭遇の衝撃がなくなってきただけで、毎回いろいろ衝撃がありますけれども。置鮎さん、なんとはまりがいのあるひとだったことか。うまく書けないもどかしさはいつもあるけど、たまにブログを読み返すと「こいつほんま楽しそうやな…」と思うので、自分ではまあまあ気に入ってます。
 「どはまりした声優さんがいる」という事実には、なにかしらエネルギーを補充してくれるものがありますね。楽しかったし、自分には特別な人がいるんだということを自覚し、そのことを楽しんでいく一年だった気がします。なのでこれは、2019年の私を動かした動力の記録。
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はんなりラヂオプロデュース公演その9『はんなり☆夏語り~令~』の感想
 8月に赤坂RED THEATERで上演された『はんなり☆夏語り~令~』を見てきた感想です。
 この公演は朗読劇3本のオムニバスで、演目は『居留地の女』『ねこのあとさき』『人生双六』の3本。それぞれ小説からの翻案、書下ろし、松竹新喜劇からの翻案です。で、さらにそれぞれ『蝶々夫人』『吾輩は猫である』『勧進帳』が透けている。おまけに、3本がゆるく関連している。コンセプトからうまくいっていて、出演者たちもそれぞれ良さが活きてて、コンパクトで感じのいい公演でした。
 まず『居留地の女』から。これは小説を朗読劇に翻案していて、台詞部分を担当する俳優と、地の分を朗読する俳優に分かれています。3本の中ではいちばん「朗読劇」という感じがしました。ざっくりいうと、居留地で洗濯屋さんを営む女性・丸山志津のところに、丸山志津をよく知っているという男性・浦松が訪ねてきて、彼女は彼がよく知っている「丸山志津」ではないという。ここから、丸山志津と名乗る女性の正体、男性がやってきた理由、人間模様が描かれていきます。
 たぶん、「あいだ」で起きることについての話なんですよね。お話の時代が、前近代から近代へと移り変わるあいだの時期。居留地という場自体が、ふたつの時代の移行期に用意された制度です。そして、居留地は海外と日本のあいだでもある。「あいだ」であることは、たとえば、志津が和装、浦松が洋装という2人のかっこうにも表れているし、志津が営んでいる西洋式の洗濯屋さんという職業にも表れています。クリーニングをひとに頼むという習慣のない前近代の日本の文化と、クリーニングをひとに頼むという習慣のあるヨーロッパの文化のあいだ。
 でも、志津のお店は、洋風の洗濯と言いつつ、その実態は名ばかりのものにすぎない。劇の中で、預かった洗濯ものに残された体臭に彼女が嫌悪感を覚える場面があります。洗濯ものに残った他人の体臭なんて誰でもイヤだと思いますけど、ここでは、服を脱いできれいさっぱりとはいかない残滓としての体臭に、やはり過去を脱ぎ捨ててきれいさっぱりとはいかない自分とが重ねられている。前近代から近代、古い仕事から新しい仕事、そして、古い自分から新しい自分。昔の恋からいまの恋。うまく移行していける人たちもいるけど、そうできない人たちもいるわけです。古い服を脱ぎ捨てて新しい服を着るようにはいかない。
 …と、ここまで書いたところで2か月近くほっといたので、もう何を書こうとしてたのか覚えてません。ざっくりいきます。これは丁寧さという概念を一切放棄したブログです。
 浦松のほうは、将来を誓った女性・志津を置いて、仕事でアメリカに。3年のつもりの滞在は8年に延び、帰国後に将来を誓った相手を探して見たら、そこには志津の名を名乗る、別の女性がいた。浦松は、その志津を名乗る女性のところに居候して、将来を誓った相手・志津を探すことになる。8年も待たせて、マメに連絡もしてなさそうっていう時点でけっこうあれな男ですけど、彼もまた「次」にうまくいけない人。「8年も経ったらそりゃそうか、ふっきろう」とならない。そして、アメリカと日本のあいだ、居留地にたどりつく。
 浦松と志津の関係も「あいだ」にある。この流れで居候って相当とんでもない話に思えてしまうんですけど、そこも前近代の…こう、外という公共のスペースに対する家、部屋、そこは個人のスペース、っていう近代の感覚がまだあんまりないんでしょうね…。で、婚姻関係でもないのに他人でもない、居候という「あいだ」な関係になる。浦松の寝るスペースと志津の寝るスペースのあいだには梯子があって、夜になるたびに梯子を外す。浦松と志津のあいだには、以前の人生と今の人生、以前の生活と今の生活、以前の感情と今の感情、その「あいだ」が横たわっている。男女の情の機微ですねえ…私にはぜんぜんわかりませんけど…。
 この2人と対照的なのが、志津に名を譲り渡したほうの女性。元・丸山志津、現在はウィリアムズ夫人となっている女性です。彼女は外国人の男と結婚して、名前も過去も、和装も、海外に行ったまま帰ってこない恋人も脱ぎ捨てて、新しい暮らしにすぱっと移行している。最後には日本という故国も後にして旅立っていく。彼女の着替えの場面は、新しい装いにぴったり収まっている彼女の人生への態度を示している。
 で、『居留地の女』の先に『蝶々夫人』が透けてみえるわけですよね。『蝶々夫人』のほうでは、日本の長崎にいる女性が、かつて結婚し、国に帰ったきりぜんぜん戻ってこない海外の男に心を寄せている。海外にいる男のほうは、女のことは気にも留めずに別の女と結婚しているのに。『居留地の女』のほうでは、日本にいる女性は、ぜんぜん帰ってこない男のことをすぱっと振り捨てていて、男のほうが女を忘れていない。でも、出島なり居留地なりという特殊な場所で、留まった人と置いていった人がいるという状況で、そんなに簡単に「次」にいける人ばかりじゃない。待つ/待たれる、男/女といった状況を変えながら、すっきりいかない「あいだ」の存在が描かれていく。待っていてほしいという幻想の押し付けでも、待つことの美学の犠牲者でもなくて、ただ、人間ってそうだよね…というお話。そこに人情の真実も、このお話の良さもある。そういう劇なのかな~と思いながら見ました。
 小説から朗読劇への翻案にあたって『居留地の女』では、登場人物の台詞部分を対話として取りだしながら、地の文もかなり残すという選択をしている。なので、朗読のブロック、対話のブロック、対話と朗読が混在するブロック、という三つのブロックがある。そして当然ながら、対話のリズムと朗読のリズムは異なる。対話の内容によってもリズムは異なる。そうすると、朗読劇が進行するときに、パフォーマンスのリズムが次々に切り替わるんですよね。それが、全体としてこの劇のリズムを生みだしていく。言ってみれば、朗読する俳優と台詞を朗読する俳優とでバトンを渡したり一緒に走ったりしているのを聞いているようで、面白かったです。小説の形式の良さを活かした、この形式の朗読劇ならではの面白さ。
 2本めの『ねこのあとさき』は、男性と女性の二人芝居。こっちはコメディ。面白かったです。まず、「いま言っていることが面白い」という、瞬発的な面白さ。それから、「それってそういうことだったの!」という、遠投の面白さ。このふたつがうまく配分されている。このテキストがどういう状況で、どういう観客を前に語られるのかを完全に理解している人が書いている脚本。その劇場の、その舞台の、その空間で、その瞬間に発せられることを理解しているから、観客の反応を操っていける 。書いてるうちからもう、劇場で観客と一緒に呼吸してるみたいなテキスト。面白かったし、出来の良さが気持ちよかったです。コメディの良さですね。
 しかも、今回はオムニバス形式の公演。ということはそれぞれ自立したひとつの劇…かと思いきや、『ねこのあとさき』は前の作品と思いがけないかたちでつながっている。そして、『居留地の女』が『蝶々夫人』、後述するように『人生双六』が『勧進帳』を絡めた作品であるときに、『ねこのあとさき』は『吾輩は猫である』のパロディでもある。『居留地の女』と『人生双六』は原作があるので、今回の3本のうち、オリジナル作品は『ねこのあとさき』だけ。それでこれをもってくるっていう発想がすごい。落語で、先に出演した噺家がやったねたを後から出演するベテランが確認して、自分のねたをうまくかぶせていくっていう話を思い出しました。そういうところまで含めて出来が良い。
 3本めの『人生双六』は、松竹新喜劇の作品が原作。舞台は昭和30年代、貧しさの底で偶然出会った男二人が、ここを振り出しにもう一度やり直そう、そして五年後に再会しようと約束をする。前半が偶然の出会い、後半が五年後の再会です。芸人によるコメディといえば、リアリズム系の、俳優のエゴを消して「なりきる」演技とは違うスタイルで演じられるもの。もともとそういう演技スタイルのために書かれたお芝居と、脚本を片手に演じるっていう今回の朗読劇の形式が意外とマッチしていて、ちょうどいい感じでした。脚本を片手にとは言いつつ、3本の中ではいちばん演劇演劇していて、新喜劇的なコメディと、俳優が動いて演じるっていうエネルギーもちょうどいい相乗効果を生みだしていて。笑いと人情のバランスも新喜劇っぽい。
 『人生双六』には『勧進帳』が透けている。というか、長唄を練習している音が聞こえてくるという場面が置かれているので、透けるも何もふつうに教えてく��ていますね。『勧進帳』は、ある使命を背負った人が嘘をつく、そして相手は嘘に勘付きつつ知らないふりをし通す、という話。嘘をつかなければいけない事情と心情、嘘を嘘と知りつつ知らないふりをする心意気、そんなものがポイントになる。『人生双六』でも、さまざまな事情と人情のもと、嘘と、知らないふりとが交錯する。『勧進帳』という補助線を入れることで、『人生双六』の良さがより引き出される。ウェルメイドな商業演劇って感じがします。今回こうして上演されたのもわかる。
 で、済ませられたらよかったんですけど…私は『人生双六』はちょっと微妙だなーと思いました。いま上演するには微妙に古すぎる。『人生双六』の筋書きはこうです。浜本と宇田は、貧しさの底で出会う。宇田との会話から、貧しい中でも誠実に生きることの大事さを思い出させられた浜本は、お互いがんばって、五年後に再会しよう、と宇田にもちかける。五年後、浜本は成功していますが、宇田は五年前よりさらに状況が悪くなっている。偶然それを知った浜本の義理の母・きく江が宇田に金を貸し、宇田は身なりを整え、嘘とともに浜本との再会に向かう。さらに偶然真相を知った浜本は、宇田の上着のポケットに現金の入った封筒を入れる。それに気づいた宇田は、気持ちを汲み、感謝しながら去る。人情に次ぐ人情。そして、宇田の愚直なまでの正直さ、不器用さは、それゆえに周囲とのズレは、じゅうぶんなくらいの笑いを劇場に生みだしていた。笑いあり涙ありで、申し分ない劇に思えます。
 が、しかし。劇の前提にちょっと亀裂がある。浜本にとっては、貧しさの底にいる浜本と宇田は同類です。しかし実際には、宇田は宿無しで文無しなのに対し、浜本には狭いながらも住居があり、まだ現金も持っている。この決定的な差は、「人生双六」という、まるで一緒にゼロから再スタートするかのようなタイトルのもとでは隠されてしまう。浜本は、宿無し文無しの男を気にかける優しさ、初対面の男に五年後の再会をもちかけられるコミュニケーション能力、再会を心の支えにしようというポジティブ思考などによって成功していく。五年後には、浜本は小さな会社で将来を約束され、結婚もしている。いっぽう宇田は、身を粉にして働くも体を壊し、会社が倒産し、自殺を考えるまでになっている。宇田は、人の名前を覚えられなかったり、状況を読み違えたりと、コミュニケーション能力が極端に低い。まあ、この劇ではそのずれが笑いを生み出すわけですが。しかも宇田は、浜本との再会の準備のためにと渡された現金を、浜本の妻へのプレゼントに浪費してしまう。これも、劇の中では宇田の心の純粋さの表れとして扱われるわけですが。
 これらの宇田の特徴が示唆しているのは、彼には五年後の再会というポジティブな目標や目先の現金よりももっと根本的な援助が必要だということです。浜本と宇田は、同じくどん底にいるように見えてもはっきりと経済的な差があるし、それは、同じく再スタートするように見えながらもはっきりとみてとれる、能力的な差に由来している。でも劇が宇田に何をオファーするかというと、善意と現金だけです。見方を変えれば、人生双六の一周目では文無しでスタートして挫折した宇田に、いくばくかの現金とともに二周目をやってこいという終わり。しかし、宇田の話によれば彼は一度体を壊しているし、ついさっき自殺しようとしていた。しかも宇田は、前述のとおりコミュニケーション能力が決定的に欠けているし、金銭の運用能力にも欠ける。二周目がうまくいくか?見通しは悪い。
 世の中には、個人の努力や他者の善意だけではどうにも苦境を抜け出すことができない、弱者と呼ぶべき人がいて、社会からの支援を必要としている。ここまでみてきたように、そのことは『人生双六』にも書きこまれている。ただ、問題となっていないだけ。2019年の今になってこの劇を観たら、当然のように問題として見えてくるものがある。でも今回の上演は、それを問題として描いてなかったんじゃないかと思います。心の純粋さ。人情。善意。まっとうにやっていれば、いつかまっとうな暮らしができる。そういう、現在となっては幻想でしかない昭和30年代のイデオロギーが、舞台の上で是として提示される。描かれるのは、古き良き時代なのかもしれない。せいいっぱいの人情なのかもしれない。でも、ノスタルジーや人情の裏で、宇田は勝ち目のない二周目に送りだされている。人情は美しいけど、同時に、人情には明らかに限界がある。宇田の弱さを笑ってあげることも、登場人物たちの人情に感じ入ることもできるけど、2019年のいま、それだけでは厳しいかなあ、というのが私の感想です。
 と、3本めの上演コンセプトにはちょっとひっかかりましたが、全体としては観に行ったのがお得な公演でした。こうしてみていくと3本とも、観客を含めていま誰が何を知っているのか、そして何を知らないのかが劇の大きなポイントになっている。そして、その事情や、知る/知らない、そして何より知らないふりをとおして、劇の良さが生み出されていく。「そうではないと知っているけれど知らないふりをする」というのは、つまりは演劇の約束事です。あるお話が語られるところを観ながら、同時に演劇であるところも観ている。観客として、その知る/知らないのゲームに参加する。そういうふうに3本とおしての足場がしっかりしてるから、その上で安心して楽しめる。
 なにしろみなさま、達者でいらっしゃる。ときどきイギリスの俳優リチャード・ウィルソンの「すべての若い俳優はハムレットを演じるべきだ」という言葉を思い出すことがあるんですが、今回の公演は『ハムレット』じゃないし、出ている誰にとっても役はハムレットじゃない。そういう意気込みで取りかかるのではなく、ふつうにやったらこれくらいきっちりできるんだなあ、というキャスト陣でした。3本とも、テイストや形式は違いつつそれぞれの良さがある脚本で、キャストの個性も活きてて、それによってまた脚本の良さが引き出される。そもそものコンセプトとキャスティングが良いんですね。
 劇場の雰囲気としては身内公演。でも、私がこれまでどれだけぐだぐだの身内公演を観てきたと…世の中にはこれくらい安定感のある身内公演があるんだ…って、おのれの演劇オタク遍歴をちょっと振り返りました。そんなつもりで観に行ったのではなかった。なぜ。
 あれっ置鮎さんのかっこうがすっごくすてきだった話をしましたっけ!?私が見かける範囲では置鮎さんはカジュアルなかっこうをされていることが多いようなんですが、今回はシャツにジャケットという落ち着いたかっこうで、めがねをかけて、朗読がたいへんにおじょうずで…すてきすぎて直視はできないわ朗読は聞きたいわで、たいへんなことでした。やたらと間が良い。でもこれは、そう、置鮎さんにとってまったくハムレットではないんですよね。それでもこの身内公演でこれくらいの朗読をすんなりできる。おじょうずなおかたで…しかもすてきなおじさま風情で…なんともたいへんなことですね…。公演後、はんなりさんからお礼状が届いた(身内公演ですねえ)のも記念になりました。というかこれを書いていたらあの日の置鮎さんのすてきさがまざまざと思い出されてきました。やばい。というわけで今回はこれで。
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今日もキャラソンを聞く
 置鮎さんにどはまりしてこのかた、ほとんど毎日のように置鮎さんがおうたいのキャラソンを聞いています。置鮎さんのキャラソンを浴びせすぎて、部屋の壁の分子構造が変わってるんじゃないかというくらいに。もしいま私が森の奥の怪物に食べられたら、怪物の口から置鮎さんのキャラソンが流れ出すんじゃないかというくらいに。なので、怪物に食べられる前にブログに書いておこうと思います。置鮎さんのおうたについて。
 私が置鮎さんのおうたについてどう思っているのかについて書く前に、置鮎さんご自身がどう言っているのかを確認しておきましょう。キャラソンCDのブックレットやボーナス・トラックに、置鮎さんのコメントが収録されています。まずポップ・ミュージックのカバー・アルバム『タイムカプセル3』では、「全部難しかったです」というコメントを確認できます。BLEACHのアルバム『BLEACH BREATHLESS COLLECTION: 06』では「そんなに歌唱力もないし誰か助けてみたいな感じに」という発言、そして『ナデプロ』のキャラソンのCDでは「どうやって歌えばいいんだろう~!」という言葉も。
 弱音!?
 私の驚きを伝えるために、ここでイギリスの誇る名優イアン・マッケランの言葉を紹介します。2018年の『リア王』公演で、80歳にならんとする彼はずぶ濡れになったり他の俳優を背負ったりする。身体的にかなり負担がかかるはず。でも、インタビューで彼は言います。自分は現役の俳優(working actor)。大変なのは自分の問題で、観客が気にすることではない、と。観客は、俳優の大変さの先、達成された成果を見る。もしがんばっていることを誉めるなら、それは幼稚園の運動会を応援するようなもの。プロのわざに対してそんな態度は失礼にあたる。少なくとも私は演劇オタクとしてどこかの段階でそういう感覚を学んだし、マッケランが言ってるのもそういうことですよね。俳優の矜持と観客の礼儀。それなのに置鮎さんのコメントときたら、マッケランの対極じゃないですか。
 そりゃまあ置鮎さんの歌は、オーセンティックなミュージシャンたちのように、音楽とコミュニケートして自由自在に歌いこなすっていうものではないかもしれませんよ。でも歌えてないわけじゃない。というか、これまでに(置鮎さんのキャラソンのついでにたまたま聞くことになった)声優さんたちでそういう歌を歌っている人、音楽している声優さんはそんなにいない。音楽しているどころか「これほんとに商品として売ったんですか」という歌を披露する人さえいる。キャラソンのコンピレーション・アルバムがあったとして、置鮎さんはいちばん歌唱力のある人ではないかもしれないけど、いちばんだめな人でもない。置鮎さんの歌はぜんぜん聞ける。だからこそこうして飽きもせず聞く。
 なのに、なんなんだろうこの弱音(?)の数々は。なんでこんなおちゃめなこと言うんだろう。歌えてないわけじゃないのに、これをリスナーに訴えてどうしたいんだろう。マッケランの発言にあるような感覚を身につけて育ったオタクとしては戸惑いもある。あえて言葉にすると、「またそんなこと言って~」みたいな気持ちで聞いてました。
 と、ここまでが、CDに収録された歌についての話です。でも、ライブ・イベントでおうたを聞く機会を重ねるにつれ、少し別の考えをするようになりました。ここからはその話です。
 たまに、置鮎さんのおうたは崩れる。どのイベントかを書いてもしょうがないので書きませんが、崩れたおうたも確かに聞いている。聞いているけど、単純にそれどころではなかった。置鮎さんのキャラソンをライブ・イベントで聞くときにはたいてい、「お・お・お・置鮎さんの口からあのキャラソンがーーー!!!」って心の中で叫んでます。ほかのことを思う余裕、歌を歌として聞く余裕なんてほんとーにない。それに、音楽のテストのように歌唱力の点数を付けにイベントに行っているわけではないし。この文章も、置鮎さんの歌唱力にどうこういう文章ではないです。
 それでもあるとき気付くわけです。丁重に無視してきた、ライブ・イベントで置鮎さんのおうたがたまに崩れるという事実が何を指し示しているのかを。私が悟ったのは、去年のカラオケ企画のときでした。それまで行っていたようなキャラソンのイベントではなくて、カラオケのイベントだったからかもしれません。置鮎さんが担当するキャラのキャラソンではなくて、置鮎さんが置鮎さんとして選曲して歌うイベント。キャラの制約、キャラソンの縛りから外れた、置鮎さんのおうた。
 置鮎さんはたぶん、ふつうにしていて無理せず歌える音楽の範囲はそこまで広くない。広くないというか、たぶん年相応よりは広いというくらいなんだと思う。そして、置鮎さんがお仕事で歌うことになる音楽の範囲は、それよりずっと広い。なぜなら置鮎さんが歌っているのはキャラソンだから。
 キャラソンは、置鮎さんが歌うことになる曲ではあるけど、置鮎さんのために書かれる曲ではない。キャラのために書かれる曲。そして、キャラが置鮎さんよりずっと下の年齢の、たとえば中高生なら、彼らのキャラソンは、置鮎さんの世代相応よりもずっと新しい音楽になる。だから置鮎さんは、多くの場合、置鮎さんが快適に歌える範囲の外の曲を歌っている。
 ある曲を歌えるかどうかって、単純な「歌唱力」だけの問題ではないじゃないですか。かつてレナード・バーンスタインがジャズの要素を取り入れた曲をニューヨーク・フィルでやろうとしたら、オーケストラの団員たちはスイングをまるでできなかったという逸話を聞いたことがあります。ニューヨーク・フィルのミュージシャンたちが演奏が下手なわけがない。そんな彼ら彼女らでも、別の音楽、別のジャンル、別のフィーリングを出せるかどうかは別だった。置鮎さんのキャラソンを聞いていると、そういうことも思い出します。
 私がCDやイベントで聞くのは、つまりは完成品です。商業娯楽の商品として差し出されたキャラソンに対して、ほとんどの場合「歌えてる」と思う。それを前提に、キャラの表現や声の好みについて騒ぐ。手塚先輩のキャラソンのときの高音は最高だなとか、白哉のキャラソンのときの低音の声の艶は最高だなとか、アイドル・ソングのときの「その声どっから出してるんですか!?」ってキラキラ・ボイスは最高だなとか。それから、そう、「そのお歳でこの曲調をおうたいになるので!?」っていうポップ感も最高だなとか。「tとかkの発音がすごく声優さんっぽいな~」「ここの母音のaからeの移動たまんないな~」なども思います。やたらと聞いている。そうやって商品を、嗜好品を、消費する。それでいい。それでいいというか、それしかできないし。気楽なもんです。
 でも、ここまでもってくまでに、置鮎さんはものすごく苦労…がんばっているんじゃないだろうか。カラオケのイベントの会場で置鮎さんのおうたを聞きながら、なんだか愕然としたのを覚えてます。え、いまこの曲でその歌で、あのときの曲だとあの歌で、って、え?そんなに?あの曲もあの曲も、そんなに努力して歌ってる、歌えるようになってるの?そんなに??そうなの??って。
 弱音なの!?って聞いてたコメントは、たぶん、私が思っていたより本音だった。もちろん、だからって私がそれを聞き入れなきゃいけないわけじゃない。何かを思ったり、聞きかたを影響されたりする必要も。でも、あのコメントを面白がるべきじゃなかった。そんなに本音なんだったら。ちょっとへこみもしました。
 まあ、実際のところはわかんないですけど。わからないし、それ以上に、私にはどうにも関係がない。演劇において私が観客であるように、キャラソンにおいて私はコンテンツの消費者なので。でも、マッケランが「それは観客の気にすることではない」と言っても、80歳手前の男性が身体を酷使していることが観客に見えていないわけじゃない。置鮎さんのおうたの、あの歌であるための努力も、聞こえてくる。
 置鮎さんのおうたには余裕も遊びもない。でも手抜きもない。丁寧で、まじめ。並外れた真剣さ。その良さは、逆説的だけど、置鮎さんのおうたの守備範囲の狭さからきている。自分が歌がうまいと思ってない人のおうただな~と思うこともあります。だからこそ、出し惜しみなく注ぎこむ。お声やキャラの表現をこえて、このまじめさをこそ私は聞いているのかもしれないと思うこともあります。このおうたを通してしか触れられないもの。たたずまい。姿勢。なんでしょうね。ふっと聞き入る…聞き入らせる、置鮎さんのおうたのあれは。
 そんなことを思いながら、今日もキャラソンを聞いてます。
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『ほし×こえ』@大宮の感想
 さいたま市宇宙劇場で開催された『ほし×こえ』を見てきました。3月30日の2回です。「プラネタリウム…?」と思いながら行ってみたら、映像投影を活かしながら声優さん2人の朗読劇を聞く企画で、思ったよりずっと朗読が主体でした。
 朗読で語られるお話の場所が、まさにそのプラネタリウムという設定。ちょっぴりサイト・スペシフィックですね。site=場所、specific=固有の・特定の、ざっくり言うとサイト・スペシフィック・アートというのはその場所で展示される・上演されることを想定して作られた作品のことです。今回の朗読劇でいうと、プラネタリウムという場所で上演されることを前提にして書かれた戯曲、そしてプラネタリウムでの上演。といってもプラネタリウムならどこでもよかったと思うので、ゴリゴリにそうというわけではないですが。でも、上演される空間と内容の結びつきが、ふつうの朗読劇よりも深い。劇を聞きながら、劇の中にともに身を置くような。
 今回の朗読劇の登場人物は男性2人。もうキャラの名前を覚えていないので、「津田健さんのキャラ」「置鮎さんのキャラ」でいきます。この2人は高校の同級生で、ともに天文部に所属していた。卒業から30年後、40代になった2人は、プラネタリウムで偶然再会する。2人の間で交わされる会話が朗読劇として演じられます。
 近況報告や思い出話という、再会につきものの話題から、会話は高校の文化祭へと流れていきます。2人は、高校の文化祭で、プラネタリウムを一から自作して展示することにした。紆余曲折もありつつ、プラネタリウムは完成し、評価され、部員は増えた。2人にとっての良い思い出、努力が報われる成功体験だったことが確認されます。
 その経験は、高校時代の良い思い出というだけでは終わっていなかった。置鮎さんのキャラが転職し、「夢」をもてる仕事であるプラネタリウムで働くきっかけにもなっていた。置鮎さんのキャラのこの話をきっかけとして、今度は津田健さんのキャラが、現在の仕事を「夢」のあるものに変えていこうと決意する。
 こうまとめると他愛のない話なんですが、もう少し広がりがある。劇中のプラネタリウム上映の場面では、そこで働く置鮎さんのキャラの解説も流れ/朗読されます。この解説は、ブラックホールについてのもの。ブラックホールの強力な重力は光さえも捉えるので、外部に光を出しません。ということは観察することができない。ブラックホールは見えない天体です。でも、見えない天体までも含めて夜空はできている。ブラックホールをも含めて夜空を眺めるように、プラネタリウムの解説は促します。
 この解説が、2人の会話の内容と響きあっていきます。高校の文化祭でプラネタリウムを自作したことについて、大変だったけど成功したという大筋では2人の記憶は一致しています。でも、お互いに知らなかったこともあった。置鮎さんのキャラは、プラネタリウムを一から自作することになったきっかけを知らないでいた。津田健さんのキャラは、自分が作ったプラネタリウムが先生に褒められていたことを知らないでいた。ということは、知らなかったことを含めて過去はできている。思い出すことのなかった過去を含めて人生はできている。つまり、偶然の再会とプラネタリウムでの会話によって2人は、知らなかったことを含めて過去を眺め、過去を含めて現在と未来を見つめることを学ぶ。お話の核である、津田健さんのキャラの未来へ向かう変容も、彼がこれを学んだことによってもたらされる。
 しかも、劇にはもう一段階ある。劇は、2人の会話の途中で終わります。2人が別れる場面��でを描いて区切りをつけることはせずに。じゃあ、会話の続きはどこにいくのか。
 劇中、置鮎さんのキャラはいくつか天文ねたを話します。たとえば星の光の話。星々はとても遠くにあり、光が宇宙を旅するのに時間がかかるので、私たちが地上で見る星の光は、過去に発せられた光だということ。それから生命の起源の話。宇宙からやってきたものが、地球の生命を作った(かもしれない)こと。星、宇宙、あるいは過去という遠くからやってきたものが、私たちに届く。
 登場人物たちに目を向けると、かつて、高校時代の文化祭の思い出は、置鮎さんのキャラに届き、彼に「夢」を見つけさせた。劇の中では、置鮎さんのキャラのその過去が、津田健さんのキャラに届き、彼に「夢」を見つけさせる。遠くからやってきたものが、届いて、ひとを未来へと向かわせる。
 2人の会話の途中で劇が終わる。ということは、現実の上演としては朗読劇は終わるけれども、会話は終わっていないし、ある意味では劇の終わりは開いている。劇の最後の会話では、「短くてもいいから、懸命であることで光り、届くように」というようなことが語られます。彼らの人生について言及されているのと同時に、これは、この短い朗読劇のことでもある。過去から思い出が届くように、宇宙から星の光が、もしかしたら生命までもが届くように、この劇から観客に届けられるものがある。会話の続きは観客に委ねられる。この劇に、何を見出すのかも。
 劇がプラネタリウムという場所を舞台にし、現実のプラネタリウムで語られること。観客もまたプラネタリウムにいること。劇において語られる内容。劇の終わりかた。これらがつながっているから、フィクションから観客への回路が開かれ、届けられる何かがある。おそらくは、お話の中の2人が思い出に未来へと向かうきっかけを見出したように、この朗読劇が、観客が未来へと向かうきっかけとなるようにと。知らなかったことまでを含めて過去があるように、見えない天体までを含めて宇宙が存在しているように、見えないもの、フィクションまでを含めて現実はできている。そこに、未来につながるような何かがある。そのことに目を向けられるようにと。
 だいたいそんなような劇だと思いました。「プラネタリウムで・男性の声優さんふたりで・ファン向けの・朗読」という条件���先行していて、それなりにいい感じの脚本をっていうのが次の条件だとすると、しっかり及第点だったんじゃないでしょうか。再会した二人が語る思い出はちゃんとひとつの事実に収束し、過去は美しく、現在に力をくれ、未来を照らしてくれる。宇宙の話のメタファも易しく、優しい。マイルドで優しいお話でした。欲を言えば声優さんの演技と個性の幅が出せるところがもう少しあれば嬉しかったと思うんですが、きっとプラネタリウムらしくなくなっていたことでしょう。内容もトーンもマイルドなお話。でも、プラネタリウムという落ち着いた空間にはそれが合ってる。
 パフォーマンスは2回目のほうが断然良かったです。緩急やメリハリの出しかたが。特に、劇の締めくくりのテーマ的な会話での強力なリタルダンドが印象に残ってます。記憶が正しければ、1回目はかなりあっさり終わっていた。でも2回目は、お二人の朗読が劇をぐいぐいと終わらせにかかって、しっかり余韻を残して終わった。目の前で、ちゃんと朗読ができる2人の人が、呼吸を合わせて、朗読劇を作っていっている。それを聞いたから、上に書いたような解釈もできるようになった。パフォーマンスをライブで見ること、同じパフォーマンスを複数回見ることの面白さも感じました。
 …と書くとまるでちゃんと聞いてたみたいなんですけど、置鮎さんがステージ下手側、私が3列目下手端だったので置鮎さんが非常に見やすく、ずーっと「置鮎さんがお仕事をしている…」という雑念に襲われてました。お仕事拝見。社会科見学。そんな感じでした。置鮎さんがお仕事しているのを眺めてきた。って、私はいったい何を言っているのか。私が見たことのある置鮎さん、ぜんぶお仕事をしているところなのに。
 たぶんですけども、置鮎さんが映像を前に演じているところをほとんど初めて見たんだと思うんです。絵の付随しない、純粋に言葉だけの朗読劇や、後ろに一枚絵が表示されている前でキャラの声をあてるというイベントなら見たことがあるんですが。今回はプラネタリウムの映像投影を利用しての朗読劇なので、動く映像の前で喋るところを見る。あれ、なんだったんだろう。観客の前で、脚本に書かれた言葉を読んでいるのは同じなんだけど、演技を映像に投げこむような、声を映像に差し出すような…映像と声とでひとつの作品にするために読んでいるところ。わかりませんがとにかくいままで私が見てきたパフォーマンスとはモードが違ったため、私にとって精一杯の表現として「お仕事をしている…」というフレーズが出てきたんだと思います。単純に近さにびっくりしてただけかもしれませんけども。
 朗読劇のあとにトークのコーナーがあったのも面白かったです。私が聞きなれている、演劇でよくあるアフタートークとはぜんぜん違って。作品や演技のことも喋るけれども、声優さんたち自身のことも喋る。会場である大宮に来たのはいつぶりかとか、着てきた服の選択とか、桜の季節だったのでお花見の話とか。声優さんたちのドラマCDについてくるキャストトークのライブ版みたいでした。新鮮。やはりここは異文化。
 大宮なので、私にとっては近場のイベントではなかったんですが、行ってみてよかったです。優しいイベントでした。
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劇団ブルドッキングヘッドロック『芸術家入門の件』の感想02
 劇団ブルドッキングヘッドロック『芸術家入門の件』、感想の続きです。芸術家入門の話が抜けてたので。タイトルなのに。
 『芸術家入門の件』というタイトル、勝手に「芸術家入門・の・件」だと思ってました。前回の感想でも『芸術家入門の件』を『芸術家入門』と略してます。でも、劇場で俳優が口にするときの音はどちらかというと「芸術家・入門の件」でした。『入門の件』という略しかたのほうが適当だったかもしれない。「芸術家・入門の件」だと、芸術家を標榜する主人公が「芸術家」に入門する顛末を描く劇であることのほうが前に出る。そして「芸術家入門・の・件」だと、そもそも芸術家に「入門」するなんて可能か?「芸術家入門」って、それ何?という問いのほうが前に出る。今回の感想は後者についてです。
 前回の感想のおさらい。『芸術家入門』は、ひとつには、プロセスについての劇だった。いろんな要素がこのことを支えている。まずプロットが、主人公である「芸術家」の男が大スランプに陥って作品を作れないところから作品を完成させるまでのプロセスを描く。それからたとえば、美大パートの主な舞台が作業場であること。そこで学生が作品を作っていること。作品を作る話をしていること。これを反転させて、男の現代パートで作品を作らない・作れないことを扱っていること。古代ギリシャのパートが、巨大な像の建築過程を扱うこと。美術作品の制作プロセスに呼応する、演劇のリハーサル場面が置かれていること。リハーサルされる作品が『オイディプス王』であること。『オイディプス王』は「誰がライオスを殺したか」という謎をめぐる推理劇です。犯人だけ知ってもしょうがない。犯人捜しのプロセスが劇の中心。そもそも、演劇というジャンル自体がプロセスを見せるものでもある。2時間半なら2時間半の上演時間、そのプロセスが上演そのもの。さらに演出。最終的に完成する巨像を舞台の端のほうで作り続けていること。その巨像が、未完成なまま完成とされること。
 このように美術/演劇/作品制作のプロセスを前景化することで、『芸術家入門』は何を言おうとしているのか。前回の感想の結論は、「実践は芸術に先立つ」なんじゃないかというものでした。
 今回は、前回の感想でかなりほったらかしていた、「芸術家入門」のパートからいきます。『芸術家入門』では、あたまと終わりに「芸術家入門」のパートが置かれている。劇のあたまでは、大スランプに陥った男が、溺れる者が藁をつかむかのように「芸術家入門」の看板を叩く。劇の終わりには、かなり抽象的な空間でながら、芸術家指南の女性と主人公の男の会話が置かれている。
 この「芸術家入門」パートは、芸術家指南の女性が男を「芸術家」にしていこうとするプロセスだとみなすことができます。芸術家指南の女性は、男に、「ふつう」ではない感じで書類にサインをしろと迫ります。小劇場系でよく見る、いきなりお題を与えられたほうがお題にそぐう身振りをしないといけないやつです。演劇のトレーニングでよくやるやつでもあるので、「プロセスを見せる」というほうのコンセプトにもかかわる場面。それからもうひとつ注目したいのが、ここで女性は男に身振りや動作を指示していること。つまり、彼女は男を演出しようとしている。芸術家指南の女性と男の関係は、劇を通じて、この延長にあります。彼女には「芸術家」についてのビジョンがあり、その「芸術家」像に男があてはまるように指導していく。ということは、『芸術家入門』では、主人公の男が作品を作れずにあがくと同時に、芸術家指南の女性が男性を彼女の作品にしようとしている。彼女による、男性の「芸術家」化という作品制作のプロセス。
 片方の人が、相手を自分の思うような存在に変えていこうとしていると考えると、ジョージ・バーナード・ショウの『ピグマリオン』っぽさもありますね。もちろん『ピグマリオン』の題材はギリシャ神話、理想の女性の彫刻を作る男の話。ショウの『ピグマリオン』で、作る側のヒギンズが音声学の教授、作り変えられる側のイライザが彼の生徒であったように、『芸術家入門』での芸術家指南の女性と主人公の男も教える人と教わる人という関係にあり、「入門」という枠組みの中にある。ここから、『芸術家入門』のもうひとつの層、芸術と教育制度についての話がみえてきます。
 芸術家指南の女性は、明らかにやばい。言うこともやることもめちゃくちゃです。そもそも「芸術家入門」という看板からして明らかにおかしい。初登場場面の女性の発言もシュールすぎる。溺れる者でなければ絶対につかむことのない藁です。にもかかわらず男が入門してしまうのは、ひとつには特大スランプでにっちもさっちもいかなくなっているせい。それからもうひとつが、「入門」という言葉が示唆する何かを男が期待するから。制度の中で、教えてもらえることを。
 美大パートの美大生たちは、「美大」という制度の中にいる。芸術界にとって正規の教育制度。美大生たちの台詞で、実作と理論の話や、学年が上がるにつれて学習内容と課題が変わる話が出てくるように、ちゃんとしたカリキュラムがある。教授の印象がどうの、先輩の講評がどうのという、評価の基準もある。その場においてある程度信頼できる評価です。美大は、信頼できる、正規の芸術教育制度。
 主人公の男の家の場面では、彼の見習いだという青年も登場する。ほとんど描写はないんですが、男と見習いの青年は、師匠―弟子という関係にあるとしましょう。慣習的な芸術教育制度としての徒弟制度。見習いの青年に対しては、彼が独り立ちせずに見習いでいるほうが師匠のサポートとして望ましいという、けっこうむごい台詞もあります。美大が公的な芸術教育制度であるのに対して、徒弟制度は私的な芸術教育制度。
 では「芸術家入門」パートはどうなっているのか。芸術家指南の女性は、主人公の男の家に住み込みの家政婦として入りこみ、男の「芸術家」化をサポートします。教えるほうが住む―教わるほうが住みこむという関係は反転していますが、2人の間にも徒弟関係のようなものを認めることはできる。でも、芸術教育制度としては相当あやしい。「入門」というからには、その先があって教えてもらえるはず。入門、初心者、中級者、師範…とか、なんでもいいですが、段階を追って。でも、この劇の「芸術家入門」に信頼できるカリキュラムや教授法はない。信頼も何もって感じです。指南役の女性は、男を自分のイメージする「芸術家」にすること、つまり自分の作品を完成させることを第一に考えていて、男が作りたい作品や、男がなりたい芸術家像には価値をおいていない。正規の公的な芸術教育制度としての美大、慣習的で私的な芸術教育制度としての徒弟制に対して、「芸術家入門」は言ってみれば野生の、自称の教育制度です。
 たぶん、芸術教育制度の外にあたるものも用意されてるんだろうと思います。男の現在パートに付随するかたちで演じられる、男の孫たちの場面とか。孫のほうは、芸術家である祖父のあと��たどるようにプレッシャーがかけられてはいますが、まだ何者でもない。もう一人、生来の芸術センスがあるように描かれる子もいる。こっちは勝手に何かやっている。両者とも、まだ制度に組み込まれてはいない。古代ギリシャのパートは、たぶん、「芸術家」の育成がまだ制度としては確立していない時代。美大の講義では、古代ギリシャのパートは「芸術家」の概念の成立以前の時代ということになっているので、芸術家の育成方法も制度化されていない。像を兵士から女神に変えるという「芸術的」決断は、あくまで現場の職人が景色を眺めて得たインスピレーションが導いたものであって、芸術教育を施された成果ではない。
 まだ制度に組み込まれていない子供たち→教育制度に組み込まれた美大の学生たち→「芸術家」という、「正規の」芸術家完成ルートを想定することもできる。主人公の男もそのルートをたどってきている。でもそれでは「芸術家」は完成しなかった。少なくとも男は、自分が芸術家だと思えなくなった。そして「芸術家入門」という野生の芸術教育制度に、芸術家になるための再教育を求めた。
 この劇で、芸術教育制度の正解は提示されたか。特に提示されていないんだと思います。美大パートの美大生たちの将来が明かされるわけではないので、美大での芸術教育が彼ら・彼女らを芸術家にするかはわからない。古代ギリシャのパートでは、そもそも教育制度が存在しない。男の現在パートでは、男はおそらく芸術家入門の女性の指導とはあまり関係なく作品を完成させた。それに、誰かが「芸術家」だったのかもわからない。
 ということは、やっぱり、残るのは「作られた」ということのほう。巨大な像の説得力がここでも活きてきます。この劇では、芸術を教育する制度がひとを芸術家にするのか、どの制度がいちばん望ましいのかはわからない。同時に、「美大卒」「誰それ先生の弟子」といった「芸術家」承認システムも拒絶される。どの制度が芸術家を育てるために望ましいかわからないのなら、どれかの制度で教育されたことは、その人が芸術家としてよりふさわしいことを保証しないので。でも作る人がいて、作られた作品がある。そっちのほうが大事だし、芸術教育の有無や、受けた芸術教育の種類に先立つ。
 最後に構造について。『芸術家入門』のどあたまでは、主人公の男が「自分は芸術家だ」と客席に語りかけています。ということは『芸術家入門』では、いちばん外側に、男による語りという枠が設定されている。男は続く場面で「芸術家入門」の看板をくぐるにいたるので、男による語りの内側に、芸術家指南の女性による男の「芸術家」化という作品制作の枠。その内側に、男の現在・美大・古代ギリシャの3つのパート。劇の大詰め、3つのパートで巨大な像が完成したあとに、芸術家入門のパートがきます。前回の感想で書いた、指南役の女性が男に誰かを殺せと迫る場面です。この場面に決着がついて、指南役の女性による作品制作の枠も閉じる。劇の終わりは男の台詞ですが、どあたまに提示された男の語りとは内容的にあまり呼応していないし、芸術家指南の女性と2人の場面になっている。なので、ここで男の語りという枠は閉じているとはいえない。ということは、構造がきれいに閉じていない。劇は終わるけど、終わりきってない。未完成のまま完成となった巨像と同じ状態です。
 しかも、芸術家指南の女性による作品制作の枠が閉じ、主人公の男の語りのパートに移行するのかな?というところで、男はたぶん一回死んでいる。誰かを殺せと迫られた男は、ナイフで自分を刺す。でも次の場面ではまた立って喋っている。死んで、でも生きる。そういう終わりです。
 男が死んで、でも生きる。芸術教育制度について、答えをださない。『芸術家入門の件』というタイトルで、芸術について扱いながら、それを現在と過去、教育制度、制作プロセス、作品と作り手へと分解していく。作品を作りながら、完成させることを逃れる。未完成のまま完成させる。一度は作った像を壊し、また作る。上演を終え、また次の上演に向かう。あと、『オイディプス王』は完結したひとつの演劇作品であると同時に『アンティゴネー』『コロノスのオイディプス』と一緒に三部作として捉えることもできるので、ここにも完成/未完成、終わる/続くことをめぐる複雑さがみてとれますね。「芸術/芸術家かどうか」よりも、実践という営みについての劇。そして、「芸術/芸術家とは」についての答えを提示するよりも、それについて問う劇。
 ときどき、アメリカの劇作家デイビッド・マメットの「議論の余地のないことを主題にする劇というのはなにも探求しておらず、なにも探求したくないという欲求のほかにはなにも表現していない」という言葉を思い出すことがあります。もしマメットのいうところの探求する意志の有無を、消費に供するものとしての娯楽と、それだけではない何かを志向する芸術とを分けるものだとするなら、『芸術家入門の件』は確かに芸術だった。芸術/芸術家とは何かを提示することによってではなく、芸術/芸術家とは何かを探求することによって。「ここに芸術はない」、それによって芸術たり得ている。そういう劇だった。
 というのが私の『芸術家入門の件』の感想です。まあ、脚本が手元にあるわけでなし、1回観ただけなので、わかんないですけど。
 
 別にファンではないとはいえ、置鮎さんのお名前を出しながらよその劇団の感想を書くので気を使…う必要はぜんぜんない公演だったんですが、芸術に行き詰まった男が試行錯誤の末に「芸術家入門」の看板をくぐるのと、置鮎さんにどはまりするあまりに迷走した私が『芸術家入門の件』を観に行くの、読み返すと完全にパラレルでした。まさかそんなオチとは。しょーもない下心で公演を観に行ってざくざく感想を書くって、ずいぶん無作法なことをしてしまったなあと反省してもう一度感想を書きにきたんですが、これ、無作法を上塗りしただけですね。野生の無作法ブログ。
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劇団ブルドッキングヘッドロック『芸術家入門の件』の感想
 置鮎さんにどはまりした人活動の一環として、劇団ブルドッキングヘッドロック『芸術家入門の件』@吉祥寺シアター、20日夜の回を観てきました。作・演出が『テニプリ』海堂先輩の喜安さん。
 置鮎さんが出てもいないお芝居を観に行くのがなぜ置鮎さん略の一環かというと、ヘロQ以外の「声優さんがかかわるお芝居」も観てみないとヘロQが&ヘロQで置鮎さんが何をやってるのかよくわからんよな…と思い立ったからです。それに、もともと気が向いたってだけの理由でお芝居を観に行くタイプの演劇オタクなので。置鮎さんの舞台を初めて観に行ったときもそうでした。そういうもんです。
 『芸術家入門の件』(以下『芸術家入門』)は、作品を作れなくなって行き詰まったけっこういい歳の造形作家の男が「芸術家入門」というあやしい看板をくぐるところから始まり、場面は彼の現在、美大の造形学科、古代ギリシャの石像建設現場を行き来していきます。あれこれあって、最終的に劇場に巨大な像が立ちます。すっごいでっかいやつが!
 劇場に入ると幕もなく、ブラックボックス型を活かした広く四角い空間。舞台エリアにはイントレ(小劇場系のお芝居でちょくちょく見かける例の足場)が組まれ、��優たちが何やら作業をしている���
 開演前から、なんだか自分の大学時代を思い出すお芝居でした。私が通ったのは美大ではないごくふつうの大学でしたが学生演劇が盛んなところで、知人の演劇サークルを手伝うこともありました。あの作業場の雰囲気。
 誰かが大道具を作っている横で、誰かは足りない単位の話をしている。自分の劇団を立ちあげる計画をしている人もいれば、2年でサークルも演劇もやめるつもりの人も。こっちのサークルが作っている横で、別のサークルも制作作業をしていたり、していなかったり。こっちの劇団の公演が終われば、あっちの劇団の公演が始まる。誰かが作ったり作らなかったり、誰かが公演したりしなかったりしながら、演劇は続く。
 『芸術家入門』もそういうお話だった気がします。いろんな人がいて、美術への向き合いかたも様々。でも誰かがやっていて、制作の営みがあり、作品がある。そしてそれは、「芸術家」というラベルに先立つ。
 美大パートでは、主な場所は造形学科の学生たちが来ては去る作業場。芸術をやっていこうと思っている学生もいれば、就職するつもりの学生もいる。作品をパパッと作れる学生も、時間がかかる学生も。作品制作を続ける学生も、理論に転向しようかという学生も。教員に見込まれる学生も、そうじゃない学生も。制作の話をする学生もいれば、学食やドライブの話をする学生も。何かの話をする学生もいれば、話に入らない学生も。そして誰かが何かを作ったり、作らなかったりしている。とはいえ、場所が美大の作業場というだけあって、作る場所、作る人たちではある。それだけが共通点。まだ何者でもない彼ら・彼女らが、作っている。
 主人公である男の現在パートは、主な場所は彼の家とアトリエ。冒頭で男の「芸術家入門」の先生として登場した女性が住みこみで働いています。彼女の指導のもと、男は芸術家たるにふさわしい振舞いを身に着けようとし、いまいちな感じで失敗していく。彼女と男の間で、実際に作品をどう作るか、あるいは何がひとを創作に向かわせるかといった対話はまったくおこなわれません。振舞いや家族構成、性癖といった外的な要因だけが取り沙汰される。彼女が男に指導しているのは、芸術・作品を作る人としての芸術家ではなく、「芸術家」像にすぎない。しかも、おそらくは多くの芸術家の実像からかけ離れた、ステレオタイプとしての、エキセントリックな「芸術家」像です。  現在パートには、彼に作品制作を依頼したパトロンや、芸術的なセンスを期待されている彼の孫、彼の見習いなどが登場します。作品を作れない男は芸術家といえるのか?作品を作りはしないけれども作品制作のための資金を出すパトロンはどういう存在になるのか?芸術的であれということは、誰かに押し付けられるのか?「見習い」と「芸術家」の違いは何なのか?そして、盗作と創作の違いは?美大パートでは「作る」という行為が空間を漂い続けているのと対照的に、現在パートでは「作れない(作らない)」とい��ことを中心に芸術家とそれ以外を分けるものが問題になる。
 古代ギリシャのパートでも、芸術とパトロンの関係が扱われます。アテナイの威光を諸国に示すために、巨像の建設が計画されている。当初の計画では戦士の姿の像を作ることになっていますが、現場を担当する男は、像は女神の姿で作ろうと思い立つ。下からの提案が上に伝えられ、モデルも決まり、女神像が作られていきます。このプロセスはけっこうまだるっこしくて、責任者のOKをなかなかもらえなかったり、コネでモデルが決まったりする。さらに、途中で計画に横やりが入り、いいところを別の集団にもっていかれそうになったりもします。パトロンがいる制作では、思い通りに作品を作ることはできない。  もうひとつ、このパートではインスピレーションもポイントなんだろうと思います。戦士の像を作るという計画なのに、現場に立ち海を眺めインスピレーションを得た男が計画を変更する。「変更する」というか、勢いと熱意で「変更させる」というほうが正確です。それによって、単なる巨像制作事業だったものがアート・プロジェクトの様相を帯びてくる。いっぽう、主人公の男にはそのインスピレーションがない。古代ギリシャの男は、戦士の像を作るという与えられた仕事を、女神の像を作るという自分自身の仕事に変えていく。でも主人公の男は、頼まれて作ることと勝手に作ることのはざまに落ちてしまっている。
 ほかに、美大パートのサブ場面として『オイディプス王』のリハーサルの場面もちょろっと出てきます。西洋演劇の起源としての古代ギリシャ演劇、その代表作としての『オイディプス王』。『オイディプス王』ではライオス殺害の犯人を捜索するオイディプスがその過程において自分の過去のおこないに向き合い、自身が何者かを知ることになる。『芸術家入門』では、芸術家になりたいと模索する主人公の男が、その過程でやはり自分自身の過去のおこないに向き合うことになります。
 こういう劇で、どういう答えが提示されるのか。終盤になって、劇ははっきり現実とは断言できない領域に入っていきますが、たぶん以下のような感じです。現在パート。行き詰まっていた男は、過去と向き合い、とにもかくにも作品を完成させる。かつて苦し紛れの出まかせにパトロンに語ってみせたとおりの、数メートルはある巨大な像。美大パート。それぞれいろんなことを抱えた学生たちは、合宿で巨大な像を完成させる。古代ギリシャのパート。女神像の威光むなしく、攻撃にやってきた隣国の石礫が降り注ぐ。
 それから「芸術家入門」パート。「芸術家」への指南役である女性は、主人公の男に誰かを殺すことを迫る(このへん、微妙~に『ピピン』っぽさもありますね)。男の作品が完成することと、男が彼女にとっての「芸術家」として完成することは別のことになっています。「芸術家」たるもの、ひとの一人も殺さねばならない。迫られた男は、ナイフで自分を刺します。そのあと、像の前で男と指南役の女性のあいだで短い会話が交わされ、像の背中の翼が羽ばたき、劇は終わります。
 文章では「像」としか書けないんですが、劇場の大きさに比してほんとにでっかい像です。開演前には骨組みだけだったものが、劇の終わりには巨大な像として完成する。しかも、上に書いた劇がアクティング・エリアで演じられるあいだ、その横、つまり舞台スペースの端では常に誰かが何か作業をしている。像のパーツを作っているんです。いっぽう、(このへんからアフタートークの内容を参照して書きます)アフタートークで喜安さんが言っていたとおり、演劇は時間の芸術でもある。2時間の公演なら2時間、2時間半の公演なら2時間半、俳優と観客が時間の経過を共有する。その経過の内に演劇の上演がある。ということは『芸術家入門』では、劇という虚構においてなにごとかが演じられ結末にたどりつくというプロセスと、劇場という現実の空間で巨像が制作され完成するというプロセスが重ねられている。
 上に結末部分をまとめて書きましたが、私の記憶力と文章力の問題だけじゃなくて、よくわからないんですよね。そういうふうに作ってある。ただ、演じられて、終わったことは確か。演劇の上演が完成した。巨大な像も。この劇ではそっちのほうが大事になってくる。
 演劇では、「何か」が演じられているだけでなく、まず何かが「演じられている」。このへんもアフタートークで触れられていました。後者を強調して示す仕掛けとして『芸術家入門』では、一人の俳優が複数の役を演じるという演出手法も使われています。たとえば、美大パートのあの人が、古代ギリシャのパートではまた別の人を演じるというふうに。しかも、あるキャラクターが「次の役をやらないといけないから」みたいなことを言いながら退場したりする。一人が複数の役を演じることは隠されていない。むしろはっきり伝えられている。ある役を演じることで虚構を生み出すという結果よりも、演じているというプロセスのほうを見せる。
 「作られた、そして完成した」ということを何より雄弁に語るのが、最後に劇場にそびえたつ像なんだろうと思います。何度も書きますがほんとにでかいんです。私が最前列=傾斜のある客席の一番低いところで見ていたせいもあるかもしれませんが。で、その大きい像を上演中に舞台のど真ん中で組みあげるので、お芝居として見ると多少もたつくんですよね。リハーサルが繰り返され、遅滞なく進んでいく、上演の流れの一部としての巨像制作ではなく、その場で大勢が協力して取りかかる作業としての巨像制作。意図していないとしても、このもたつきも「いま・作っている」というプロセスを観客に意識付けていくことになる。とにかく作られている。その過程を見ている。完成を見る。
 劇中では、美大の講義として、古代ギリシャ~ローマには「芸術家」がいなかったという話が出てきます。ざっくりいうと、芸術家ではなく手先の器用な人々や職人がいた。いま博物館・美術館に所蔵されているのも、芸術家ではなく職人の制作物だったというような話です。これも、「誰か」つまり芸術家と称されるような何者かが作ったかどうかではなく、誰かが「作った」ものであることのほうに目を向けるエピソード。それから、「何が」、たとえば芸術と称されるに値するような何かとして作られたのかどうかよりも、何かが「作られた」ということのほうに注目するエピソードでもある。
 作品制作に行き詰まっていた主人公の男は、なにはともあれ作品を完成させる。それが満足のいく作品か、あるいはその作品は芸術かということより、作品が作られたということのほうが大事。そして、彼が作品を作るとき、劇の結末はもたらされる。彼が「芸術家」になれたかどうかの答えはでない。でも、彼が作品を作ったことと、彼が作品を作る人だということが残る。
 創作の営みがあり、作品がある。そしてそれは、「芸術/芸術家」というラベルに先立つ。『芸術家入門』はそれをいろんなかたちで取りだしてみせてる劇なのかな~と思いました。こうやって考えていくと、ちらしのコピーのとおり、ここに芸術はない。芸術はないけど、何事かが作られ、そして実際に作られた。実践は芸術に先立つ。この結論を打ち出しているという点で、『芸術家入門』という劇は喜安さんの芸術論にはなっている。それにこの結論は、俳優、声優、脚本家、劇団の作・演・主宰と、メディアと立場をかえてさまざまに活動してきた人にふさわしい主張なのかも。ぜんぜん知らないので印象としてしか言えませんが。
 ここで『芸術家入門』の感想は終わりなんですけど、置鮎さん略の一環なのでそっちについても書いておくと、「『芸術家入門』は演劇してるな~~!!」と思いました。私がふだん見るタイプの演劇ではないですけど、私が知ってるタイプの演劇ではある。ふりをする。身体と言語を用いて何事かを語る。演劇であるということと向き合う。利用する。たとえ舞台上に巨大な像を作るとしても、テーマに即した必然性がその像をそこに存在させている。ひるがえって思い返すと、ヘロQはやっぱりスペクタクルだな…(知ってた…)。
 あと、ついでにもうひとつ。いまわたしたちが考える「芸術」観の成立については『芸術の逆説―近代美学の成立』(小田部胤久、東京大学出版会、2001年)、ある作品がどう「芸術」に列せられるか=何が作品をアートにするのかについては『アート・ワールド』(ハワード・S・ベッカー、慶應義塾大学出版会、2016年)や『アートとは何か:芸術の存在論と目的論』(アーサー・C・ダント、人文書院、2018年)など、わたしたちには書物と2,500年にいたる思考の蓄積があるわけです。繁華街のあやしい看板をくぐる前に!  でも、それが主人公の男に役立つかどうかはまた別の話なんですよね。美大パートでは、制作を続けるか理論に移るかという話がでてくる。理論に移れば、ここに挙げたような本を入口に、劇で主人公がたどったのとは別のルートで「芸術とは何か」「芸術家とは何か」を模索することもできる。でも男のように実践を志すなら、どこかで実践に身を投じないといけない。答えのない、実践という営みに。劇の最後の最後の男の台詞も、実践という営みの答えのなさ、終わりのなさに言及しています。
 作品は完成するけど、実践に終わりはない。だとしたら、作品が完成することさえ、実践という長いプロセスの一部にすぎない。『芸術家入門』の巨像は、頭がないままで完成とされる。完成と未完成のはざまのイメージです。その像が上演中に作られ、そびえ立ちながら、終演後には次の上演のために崩され、また作られていく。いちどの上演の完成を越えて、巨像制作も公演も、演劇の実践も続く。やっぱり、実践が何にも先立つっていうことについてのお芝居だったんだろうと思います。
 たまたま観に行っただけですが、それがこの作品でよかったな。そんな観劇でした。
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 美大の講義の話のあとに入れようと思った文章なんですが、構成的にうまく流れなかったので、註がわりにここに置いときます。
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 これと対照的なエピソードとして、男にセクハラをされたという女子学生が訪ねてくる場面があります。男は彼女にヌードモデルを頼んだ。でも彼はモデルを作品制作につなげられなかった。ということは男は彼女のヌードを眺めていただけ。女性にとっては脱ぎ損、見られ損。それでセクハラを訴えにくる。では、作品を作れていたらそれはセクハラではなかったのか?チープなセクハラ批判批判と解釈することも可能な場面ですが、おそらく男の立場を浮き彫りにするために置かれている。女性の裸を眺めるという行為は、芸術につながれば許容され、芸術につながらなければ許容されないのか?ひとりの男がいるとして、何をすれば彼は芸術家になるのか?(どんなとき、彼は芸術家でなくなるのか?) 裸を眺めるという行為なり男という存在なりについての評価が、作品や芸術が介在することで変わる。いずれにしろ、とにかく作らなければはじまらない。
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『カラオケMAX』の感想
 2018年12月29日の『カラオケMAX』に行ってきた感想です。もう2月も終わるというのに去年の年末のイベントの感想を書いている。なぜなら「そういえば今月はブログ書いてないな」と思い出したからです。twitterに投げた感想のまとめです。
 「異文化!!」というのが第一印象でした。
 これまでに行ったイベントでは、基本的にキャラソンの伴奏は録音。生演奏のときもありましたが、そもそも伴奏まで含めた音楽それ自体を聞かせることを目的にしたイベントではない。音楽を聞きに行くイベントでもない。キャラソンのイベント。声優さんのイベント。声優さんの歌。それなら、いっそ開き直ってカラオケというのはアリだろうというくらいの気分で行きました。
 会場に着いて最初の感想は「帰りたい」。出演者の方々の傾向もあったんだと思いますが、会場は男子優勢の空間。野郎空間でした。圧迫感がすごい。席のせいでステージが見えにくかったこともあって、イベントが始まってもしばらくはだいぶ帰りたいと思ってました。会場の盛りあがりにおされて、ちょっと意識が遠のきかけました。
 そう、私は気付いたのです。イベントが始まってしまってから。これは、オタクの中でもリア充側の人々の集まるイベントだと。わざわざ好んで「カラオケ」に出かけて、集団で盛りあがりたがる人たち。『けものフレンズ』のテーマ曲にあんなに盛りあがる空間があるなんて初めて知りました。アニソンで盛りあがる。アニソンで盛りあがるための独特のやりかたを、頭と声と体で理解している。「トライブ」って、きっとああいう集団のことを言うのでしょう。そういう集団を予想して組まれたイベント。できあがってました。文化が。
 私はその文化にはまるで属していない。『けものフレンズ』の曲だってわかったことを誉めてほしいくらいです。あといつものことですが出演者の方々のこともよく知らないし。でも、ひとの歌を聞くのは好きなので、それはそれで楽しめました。確か2曲目に、すっごくかわいい声をしたすっごくかわいい女の子が、とても人間が歌うように書いてるとは思えない曲をモリモリ歌いはじめたときに、これはただのイベントじゃないぞってはっきり理解しました。
 お名前だけは知っていたのが仲村宗悟さん。周りが遊んでいるゲームの人、「みんなが言ってる『しゅーごくん』だ」という知識は、「みんなに愛されてる『しゅーごくん』だ」にアップデートされました。見ててハッピーな気持ちになる人でした。歌がべらぼうにお上手で、面白もできる。それに、オーディエンスとのコミュニケーションのとりかたもばっちりで、すてきな青年でした。青年ではないか。愛されて生きていってほしい。
 そういうふうに、カラオケMAXは、終わると出演者の人たちのことを好きになっているイベントでした。音楽性も演奏も関係なく、歌える人たちの歌を聞くというシンプルなコンセプト。歌う・聞くというかたちで歌を楽しむ人たちが、ステージの上と下の両方にいるという状況のハッピーさ。私にはわかりませんが、アニソン系の曲でその状況であるということも、トライブとしてのアイデンティティを確認するのではないかと思います。
 もうひとつ、「そういえばカラオケってこういう感じだった」という感想も抱きました。『テニプリ』大石先輩の近藤さんはレミオロメンの「粉雪」を選曲。歌いきっているさまがかっこよかったというだけじゃなく、選曲に世代を感じました。そういえば、カラオケってそういうところがある。選曲がその人についてなにごとかを語っていて、それを知っていることで共感が高まって、カラオケ特有の一体感のようなものを生みだしていく。
 アンコール曲は全員で大塚愛「さくらんぼ」でした。このキュートな曲で世代関係なく盛りあがるというのも、正しく楽しいカラオケという感じがしました。「そういえばカラオケってこんな感じだった」と、「そういえばカラオケって楽しいんだった」を思い出した気がします。
 「異文化」「曲がわからない」と書きつつ、この日のカラオケMAXで歌われた曲のうち3曲は、そのアーティストのコンサートに行ったことがありました。言うほど異文化ではない。というか、歌と音楽という共通項があれば、なんだかんだの差を越えて楽しめるのかもしれない。それもまたカラオケの良さなのかも。
 というわけで企画としてはとても楽しかったのですが、ダメだったのは会場設営。段差のないフラットなフロアに椅子を並べているだけ。そこに2,000人の観客を入れる。それなのに、そんなに高さのあるステージを組んでいるわけではない。観客は身長差のある男女が混ざる。結果的に、舞台がまったく見えない。不幸中の幸いで通路際の席だったので、少し通路側にずれたらディスプレイの映像は見えました。これが通路際じゃなかったら音しか聞こえてなかった。そういう状態の私で、前から3分の2くらいの位置。私より後ろの人たちのことを考えたら、フラットなフロアで2,000人という形式は限界を越えてます。終演後には、「ぜんぜん見えなかった」という感想も聞こえました。「すごく楽しかったから、出演者が好きなら絶対絶対行ったほうがいいよ」と言いたい気持ちと、「席が悪いと不幸なことになるから気をつけて」と言わなきゃいけない気持ちと。そんなイベントでした。感想終わり。
 いや終わりではない。ウサミミ仮面と置鮎さんの話が残っている。
 曲がりなりにも置鮎さんにはまって1年。いま、置鮎さんの歌われたキャラソンはだいたい150曲くらい集まってます。その中で、「おれはウサミミ仮面」はライブで見たい曲ナンバーワンでした。謎テンションで面白い曲だし、置鮎さんはイベントのキャラソン披露でわりあい生真面目に歌われることが多いようだったので、ふりきれて歌っているところが見たかった。でも、実際に聞けるときがくるとは思っていませんでした。そもそも置鮎さんはミュージシャンじゃないし、キャラソンはキャラの曲であって、置鮎さんの曲ではない。ウサミミ仮面の『おねがいマイメロディ』はもう何年も前の作品。ということは、イベントで聞く機会は望み薄だなあ。
 と思っていたらね、イントロが流れてきたんですよ…。タイトルが出た瞬間の会場のどよめきたるや。「おおっ」と「ええっ」と「それ!?」と「きた!」とが入り交じったような、独特のどよめきでした。わかる。今回のイベントで、置鮎さんは見るからにベテラン枠。そのベテラン声優が、「おれはウサミミ仮面ー」って歌って、イケメンビームを��つ。そりゃ盛りあがる。楽しい。
 置鮎さんの歌う「おれはウサミミ仮面」は、私の予想を吹き飛ばすくらいにのびのびとすてきでした。ウサミミ仮面で、キャラソンでカラオケで、2,000人のオーディエンスに愛されていて。とても置鮎さんでした。
 「冬っぽい曲」というお題では、置鮎さんは槇原敬之「冬がはじまるよ」を選曲。歌としては丁寧に歌っていたと思います。ただし、置鮎さんはちょいちょいお茶目さを発揮。歌前に「おっきーがまっきー」(※置鮎さんは「おっきー」とも呼ばれています)という面白を放りこんだり、歌詞の「油断させないで」のあとに「油断せずにいこう」と『テニプリ』での持ちフレーズをかぶせたり。カラオケでこういうことする人いる。置鮎さん、そういうタイプの人だったんだ。
 ものまねというお題への選曲は「真赤なスカーフ」でした。たぶんささきいさお版(1974年)を知ってる人が少なすぎて、ものまねというよりただの声の貫禄増し気味の置鮎さんになっていたのもだいぶ面白かったです。似ていたかはわからない。いい声だったのはわかる。いい声タイム。置鮎さんの歌う「真赤なスカーフ」は『百歌声爛』収録のメドレーで少しだけ聞いてたので、思いがけずこの曲もライブで聞けたぞという驚きはあります。
 デュエットは、近藤さんと『硝子の少年』。置鮎さんは、歌の途中で企画元締めの小山さんに絡みにいっていました。カラオケでそういうことする人いるいる。歌えるんだから素直に歌っててもいいのに面白を狙う。絡みにいっておいてのアフターケアのなさで、小山さんをかりそめに失恋させていたのもなかなか見ものでした。いる。そういう人。
 選曲から歌いかた、周りの人とのコミュニケーションまで、カラオケはカラオケに特有のかたちでその人の人柄を見せる。もしそれがカラオケの醍醐味だとしたら、カラオケMAXはカラオケの醍醐味をよく伝えてくれるイベントでした。カラオケとして楽しいだけじゃなくて、カラオケの醍醐味を利用して声優さんたち自身について伝えてくれるイベント。
 人柄といえばもうひとつ。女性の声優さんが歌の途中で小道具的なアイテムを落としたら、置鮎さんが拾ってあげるという一幕がありました。大先輩が、後輩の落としたものを拾う。それも、恩に着せるでもなんでもなく、ただ普通に。司会の小山さんはかなり出演声優内の上下関係に言及して笑わせていて、前述のとおり会場はかなりの野郎空間。なのに置鮎さんは、先輩風ひとつ吹かせず笑っていて。すごい…すっごいいい人なのでは…。歌には関係がない、一瞬のことなんですが、なんだか印象に残りました。
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司馬遼太郎『沖田総司の恋』朗読劇の感想
 司馬遼太郎の短編小説『沖田総司の恋』の朗読劇(昼・夜)に行ってきた感想です。
 もし選べるなら先に上演を観てからテキストを読みたいタイプなので、小説は読んでいきませんでした。そうしたら、お話の中で描かれる沖田総司の恋がかなり「あ~~恋~~!!」という恋で、帰結もなかなか、しかも切り良くスパッと終わるので「待って、余韻を、気持ちの整理を」と思っているあいだにアフタートークが始まりました。それだけ聞かせてくれる朗読でもあったってことですよね。面白かったな。アフタートークも、作品と朗読・演技の話に焦点をあて��いたので私は聞きやすかったです。
 形式の話から入って、内容の話をして、パフォーマンスの話をして、萌えの話で終わります。
 司馬遼太郎といえば地の文という印象があるので、朗読劇ではどうするのかと思っていたんですが、今回はそもそも「劇」ではなかった。朗読でした。小説というメディアのために書かれた作品を劇というメディアのために翻案するというより、小説をかたまりに分けて朗読していた。かたまりごとに地の文を読む人が決まっていて、かたまりの中のせりふ部分はそのキャラクターを割り振られた俳優が担当する。「小説を舞台で読み上げる」にかなり近い。ただ、アフタートークで置鮎さんが言っていたとおり、『沖田総司の恋』はもともと声に出して読むための言葉じゃない。劇のための構造ももっていない。それなのにイベントには「朗読劇」という名前がついていたので、のみこむまでは少し退屈にも感じました。
 コンセプトを理解してからは、それはそれでなかなか面白かったです。ふつうの劇では、出演者たちが台詞のかけあいというかたちでひとつの場面を作っていく。いってみれば、全員せーので走る。今回は、かたまりごとに主に担当する人がいて朗読していくので、リレーのバトンを渡していくみたいな面白さがありました。この形式にはこの形式固有のスリリングさがある。変な言いかたですが、プレッシャーがすごそう。
 で、内容のほう。司馬遼太郎というと、どこからか司馬遼太郎大好きおじさんがやってきて蘊蓄を語ってくるイメージがありました。というか実際に遭遇する。でも、司馬遼太郎を好きな人には遭遇するわりに、これまでに実際に触れたことのあるのは置鮎さんが朗読を担当された別の小説だけ。それでも、硬派だの地の文だのイデオロギーだのといったイメージは漠然と浮かびます。今回の小説も、司馬遼太郎のものである限りにおいては確かに硬い。漢字が多い。文体も特徴的。乗りこなすのに苦労する、朗読するのに準備がたくさん要るテキストなんだろうと思います。
 それを前提として、かなりユルさもあった。ユルさと、それからユーモア。たとえば近藤や土方へのため息まじりの愛情や、沖田の淡い恋へのまなざし。青天の霹靂で娘の結婚話を持ち込まれた父親の動揺の描写。沖田総司の恋の顛末を描くうえで、そこここにユーモアは盛りこまれている。
 なにしろ、恋。恋の話ですよ。淡い淡い、でも確実に恋で、いじらしさ全開の恋。誰なのこのタイトルを朗読劇に選んだのは。沖田の恋の初々しさに客席でにやついてました。司馬遼太郎といえばストイックなイメージだったのに、まさかこんな胸キュン話だったとは。みんな客席でどうやって耐えてたのって感じです。(寝てる人いましたけど!!)でも、沖田の淡い恋は台無しになってしまうんですよね…。沖田かわいそう…。
 キーワードは家制度かな~と思います。沖田の恋がなぜだめになってしまったのか。
 今回の主人公の沖田総司。冒頭に彼についての説明があって、その中では彼は「欲がない」と評される。でも、周囲にも地の文にも欲がない男だと評されながら、お話が進んでいくと彼にも意志があることも示される。何かというと、家制度に対する態度です。沖田は、跡継ぎ問題的にややこしい位置に生まれた。そして、家制度の一員たれという願いと、家制度の難しさの両方とをはらんだ「宗次郎」という名前が与えられていた。でも沖田は、途中から自分で「総司」と名乗った。ということは彼には、家制度から距離をとりたいという意志がある。
 いっぽう、土方と近藤の関係。これも冒頭に説明がある。当時、彼らの関係は友情とは呼ばれずに義兄弟としてとらえられてた、と。つまり、いまの感覚でいえば土方と近藤という個人と個人の関係=「友情」であるはずのものが、お話の時代では「兄弟」という家族体制に疑似的に回収されてしまうということ。沖田を預けられると二人に保護者としての責任が生まれるのも、沖田にとって彼らが「兄」として位置付けられるから。
 沖田は、生まれたときから墓を守る・跡取りになるといった家制度にからめとられている。この点では、家制度は沖田にとってマイナスにはたらく。でも、近藤や土方が沖田を弟として受け入れ、兄なり父親なりとして振る舞うとき、沖田には家制度下の庇護が与えられる。ここでは家制度は沖田にとってプラスにはたらく。では、沖田の恋にとってはどうか。
 残念ながら、『沖田総司の恋』では沖田の恋と家制度は正面から衝突する。沖田にとっては、恋は恋だった。ひっそりと胸に秘めて、遠くから相手を眺めていられたら十分な、個人的なもの。でも、近藤と土方にとってはそうではなかった。恋・即・結婚という価値観のもと、「兄」たちは先回りして結婚を画策する。その目的は、沖田を家制度における家父にすること。つまりは家制度の維持のための行為です。それはもう、恋ではない。
 恋は、沖田と沖田が好きになった女の子の間では破れない。近藤と、女の子の父親の間で破られてしまう。冒頭では、この時代には個人と個人の関係であるはずの「友情」は「兄弟」という疑似家族に回収されることが述べられた。同じように、沖田の恋をめぐっては、個人の感情であるはずの「恋」は「結婚」という家制度の維持にすり替えられる。沖田が恋した女の子は家制度のもとで父親の所有物だから、個人の意志では恋も許されない。個人という存在が、家制度のもとで割り振られたある立場に回収されること。その立場のもとで、ある役割を強制されること。自分の恋を生きることができないこと。そういう社会であること。それが、沖田総司の恋の帰結を決める大きな要因になっている。
 ある面では、かわいい弟分の恋をどうにかしようと画策する近藤と土方の様子は微笑ましくもある。正直、「ある面では」どころではなく相当微笑ましいです。朗読を聞きながらにやにやしてしまうくらい。でも、近藤や土方が沖田を心から、責任をもって、年長者らしく庇護しても、それではうまくいかないというのが今回のお話です。近藤と土方の良心が裏目に出ただけ、恋の機微を二人が知らないだけだったというには、二人には沖田に家制度下の一員たれ、結婚し跡継ぎとなる子を成せと求める下心がありすぎる。家制度に規定された思考をもっていて、それに基づいて行動する限り、ダメ。どんなに良かれと思っていたとしても。「欲がない」と思われるほどに表だっては言わない、家制度から距離を取りたいという沖田の意志も、ただ遠くから眺めていたいという沖田の恋も、潰えてしまう。みんな沖田に悪意も敵意もない。ただただ、家制度を基本にした考えかたで行動しているだけ。
 沖田の恋の恋っぷりに読者/観客を引きこむからこそ、何がその恋を台無しにしてしまったのかも問われることになる。二段構えと言ってもいいのかもしれない。個人と家制度。家制度は個人を抑圧する。それを、恋というとてもとても個人的なものに焦点をあてることで描きだす。家制度という、司馬が称賛していそうだと思っていた価値観に対して、実はかなりドライそうだというのが面白かったです。ぜんぜん知らなかった。
 というのがお気付きのようにテキストについての感想でありまして、パフォーマンスでいうと、前提としてみなさまたいへんにお上手でいらっしゃる…。もちろん、お仕事としてそれが当然の人たちに「上手い」っていうのは失礼なんですけど。アフタートークで確か緑川さんが「実力オンリー」と言ってたように、今回は実力を試されるテキスト、実力を必要とする演出。そういう場で聞くと、ほんとーに上手い。地力がすごい。
 たぶん石川さんが言ってたように、今回は朗読だった。ライブの朗読で、劇ではなかった。ただし、声優さんたちの朗読。「字面」という言葉が何度か出ていたとおり、字面を読みあげて伝えることのプロ。朗読という範囲にとどまりながら、台詞部分で発揮できる表現力をもってる、読みあげることのプロの人たちの朗読。プロのお仕事を聞いてたな~って思います。
 置鮎さんは土方歳三。この短編の土方は、新撰組で襲撃事件(いまならテロ行為と呼ばれていることでしょう)をやっている男なりに優しいとこあり、やわいとこあり、素朴なとこあり、それはあかんやろー!なとこあり。けっこうチャーミングに思える男っぽかったです。そうでないと、上に書いたような、個人としては悪くないけど家制度という規範が悪いっていう作品のコンセプトも出てこないですもんね。役柄と置鮎さんの出しているニュアンスが合っていて、聞いてて得した感もありました。置鮎さんを目当てに聞きに行ったわけなので。
 置鮎さんがもうひとつ担当された、沖田の恋した女の子の父親である医者のキャラクターも、置鮎さんがやりそうな男の雰囲気がありました。と、そのときは思ったんですが、「たとえばあの作品のこのキャラ系」というのが出てこないので、私の勝手なイメージかもしれません。新選組の男が突然やってきて、おたくの娘さんをうちの隊士の嫁にくださいって言われたらたいへんですよね。青天の霹靂すぎる。表向きとしては落ち着いていないといけないんだけど内心ではびっくりっていう。そして彼もまた、悪気はない。悪気はないけれども、自分の立場・相手の立場・その他もろもろを考え合わせるとそんな縁談は当然断るほかない。恋を壊すほかない。こっちも役柄と置鮎さんのニュアンスが合ってたと思います。二役ともこの感想になるというの、単純に役と置鮎さんが合ってたっていうだけじゃなくて置鮎さんがそう作ったってことなのでは…。とにかく、聞けて嬉しい感じの役柄でした。
 テキストにあるユーモアを取り出すのは朗読者の解釈。それを観客に伝えるのは朗読者の朗読スキル。そういうことも思いました。アフタートークでは今回のイベントのことを「まじめ」「硬い」と言っていた記憶があります。ごまかしを許さないコンセプトのイベント。司馬遼太郎はそれでいい。そのコンセプトによって活きる作家。文章。作品。
 アフタートークでは、観客への「サービス精神」がつまりアドリブであるかのように言われていた局面もありました。たしかにそれはそう。でも、テキストをきっちり伝えることにも「サービス」はある。それがふさわしいテキストも。たとえば今回の司馬遼太郎の小説のように。観客にではなく、テキストに奉仕することで初めて生まれる良さ。今回の緑川さんの沖田や置鮎さんの土方が、そういうものだったんだろうと思います。わざわざ自分で・自分を・アドリブで面白くしようとしなくても、テキスト自体が面白いから、丁寧にやることが最大限のサービスになる。そういうテキストはある。やっぱりあるんだな~。そりゃそうか。
 聞いてるぶんにはそんな感想でしたが、夜の部の朗読が終わってアフタートークに出てこられたキャストの方々からすでに「やり終わった…!」という空気がでていたので、それぞれたいへんだったんだろうと思います。おつかれさまでした。
 私は置鮎さんが朗読するときの地の文とキャラクターのせりふの部分の語りわけとか、基本的に朗読であるうえでキャラクターを生き生きさせるとことか、声の艶のでてきかたとか、そういうもろもろがけっこう好きだな…とあらためて思ったりもしました。朗読って、地の文からせりふ部分に移るときとか、あるキャラクターから別のキャラクターに移るときとか、その移行の差異のうちにえらい萌えがありますよね…。朗読ベースで、演技のときほど別物に切り替わらないからこそ語りわけが際立ち、その抑制された差異のうちに…萌えが…なぜ最後に萌えの話に落ちてしまうのか‥。
 置鮎さんのお声と司馬遼太郎の文体は合っていると思っているので、どんなかたちでもまた司馬遼太郎の朗読聞けたらうれしいだろうな。そんなことを思いながら帰りました。
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2018年の記録
 2018年終わりです。
 置鮎さんにどはまりした今年。勢いあまってブログまで始めたんだし、今年の記録を(あやうくあんなはしたない文章で一年を終えてしまうところだった!)。書きだしてみると、思ったよりあるような、ないような。そういうものですよね、きっと。
◆お芝居 2/17 朗読劇×オーケストラ『ハムレット』 3/2 バカバッカ『バッドアス サイキックス』ゲスト出演 5/15 ヘロヘロQカムパニー『無限の住人 完結編』 5/17 ヘロヘロQカムパニー『無限の住人 完結編』 5/22 ヘロヘロQカムパニー『無限の住人 完結編』 8/19 ヘロヘロQカムパニー例外公演acht『今度は愛妻家』 8/24 ヘロヘロQカムパニー例外公演acht『今度は愛妻家』 8/26 ヘロヘロQカムパニー例外公演acht『今度は愛妻家』 9/29 劇団ヘロヘロQカムパニー例外公演neun『電波ヒーロー』 9/29 劇団ヘロヘロQカムパニー例外公演neun『電波ヒーロー』 11/13 『さよなら、チャーリー』 11/16 『さよなら、チャーリー』 11/24 朗読劇『沖田総司の恋』昼 11/24 朗読劇『沖田総司の恋』夜
◆イベント 6/6 『大地丙太郎スタイル25・十兵衛ちゃん ラブリー語りの秘密』 6/23 『二人だからできること+』vol.7 昼 6/23 『二人だからできること+』vol.7 夜 7/28 『ネオロマンス♥ダンディズム』昼 7/28 『ネオロマンス♥ダンディズム』夜 9/9 『ブレフェス2018』トーク出演 9/15 『ナルウザクスダ結成10周年記念ライブ』 9/22 オジサマ専科2018autumn『ハロウィンパーティー』夜公演 10/7 『テニスの王子様 BEST GAMES !! 手塚 vs 跡部』上映会&トークショー 12/16 『遥か キャラソン祭』昼 12/23 S.S.D.S.第22回診察会『白衣にラブ・ソングを♪2』昼 12/23 S.S.D.S.第22回診察会『白衣にラブ・ソングを♪2』夜 12/29 『カラオケMAX』第9弾 夜
◆映像 『テニスの王子様』たぶん70話くらいまで 『地獄先生ぬ~べ~』 『潔癖男子!青山くん』 『刀語』 『神秘の世界エルハザード』 『新世紀GPXサイバーフォーミュラ』S1の10話くらいまで 『名探偵コナン』沖矢昴出演回 『異世界魔王と召喚少女の奴隷魔術』何回か 『あそびあそばせ』 『おねがいマイメロディ』E26まで 『悪魔城ドラキュラ』(吹替) 『白鯨との闘い』(吹替) 『バトルシップ』(吹替) 『ロミオとジュリエット』(監督ゼフィレッリ・吹替) 『フェルディナンド』(吹替)  『テニスの王子様 BEST GAMES!! 手塚vs跡部』(映画館上映×3) 
◆ドラマCDなど 『ACTORS』ドラマCD 『ときめきメモリアル Gilr's Side』ラジオドラマ Vol. 2~feat. 姫条まどか・鈴鹿和馬 『ときめきメモリアル Gilr's Side』Prologue #03 Another Season Summer 『ときめきアソート vol.2 応援チョコレート bitter』 『Sound Story BALLAD』 『ヴェノマニア公の狂気 ~君ト見ル迷夢~』 『お迎えです。』ドラマCD 『魍魎姫伝』ドラマCD 『クラ×ラバ~ファンは、かく語りき~』 『「クラ×ラバ」~マイスターシンガーズの憂鬱~』 『ハイスクール・オーラバスター』ドラマCD『天使はうまく踊れない』 『ハイスクール・オーラバスター』ドラマCD『セイレーンの聖母』 『ハイスクール・オーラバスター』ドラマCD『迷える羊に愛の手を』 『ハイスクール・オーラバスター』ボイスドラマ「魔法を信じるかい?」 『サモンナイト~界の狭間のゆりかご~』ドラマCD 『ハレのちグゥ』ドラマCD 1 『ぽっぷるメイル パラダイス』 『ぽっぷるメイル パラダイス』2 『ぽっぷるメイル パラダイス』3 『〆切CD 今夜は眠らせない』 『羊でおやすみシリーズ』Vol. 7「おやすみなさいませ お嬢様」 『添い寝羊CD vol. 1』 『��国BASARA弐 戦国トラベルナビ ~大阪・岐���編~』 『神秘の世界エルハザード』「陣内の世界エルハザード」 『銀河アイドル超カレシ』06「木星のボルケーノ・ポルポル」 『王子様(笑)シリーズ VOL. 1』 『王子様(笑)シリーズ VOL. 2』 『王子様(笑)シリーズ ~王子様と眠れる森~』 『王子様(笑)シリーズ ~王子様はカエル~』 『王子様(笑)シリーズ ~王子様と二羽の姫君~』 『王子様(笑)シリーズ 最終章 第1巻』 『王子様(笑)シリーズ 最終章 第2巻』 『王子様(笑)シリーズ 最終章 第3巻』 『王子様(笑)シリーズ ラジオドラマCD 第1巻』 『王子様(笑)シリーズ 1st Vacation』 『王子様(笑)シリーズ 2nd Season』 『王子様(笑)シリーズ 3rd Party』 『王子様(笑)シリーズ 4th Legend』 『王子様(笑)シリーズ 読み語りCD 第1集』 『王子様(笑)シリーズ 読み語りCD 第2集』 『王子様(笑)シリーズ デートCD 第2巻』 『王子様(笑)シリーズ  if 〜王子様(笑)学園〜』 『王子様(笑)シリーズ if 〜王子様(笑)学園 2学期〜』 『王子様だらけの打ち上げパーティー 反省会編』 『王子様だらけの打ち上げパーティー ~没デート編~』 『王子様だらけの禁断の打ち上げパーティ ~NG大賞スペシャル~ 1』 『王子様(笑)シリーズ 第1集特典CD 王子様たちの告白&キャストコメント』 『忍たま乱太郎』ドラマCD「保健委員会の段」 『忍たま乱太郎』ドラマCD「六年生の段」 『氷菓』ドラマCD Vol. 1 『遙かなる時空の中で - 花鳥風月 -』
◆ゲーム 『剣が君』 『悪魔城ドラキュラX 月下の夜想曲』 『テニスの王子様 Rising Beat』 『Fate/Grand Order』 『文豪とアルケミスト』
◆キャラソン  もう書ききれません。たぶん150曲くらい。
◆その他 『あそびあそばせらじお おききあそばせ』出演回 『テニスの王子様 オン・ザ・レイディオ』ラジオ出演 『BLEACH Brave Souls』イベント生中継 『テニスの王子様 Rising Beat』イベント生中継 『文豪とアルケミスト』イベント生中継 NHK『朝ごはんの現場』5/9ほか NHK『マリーの知っとこ!ジャポン』 日本ラグビー応援TV『ONEラグビー』たまに
 あと、置鮎さんが組まれたプラモを見に秋葉原にも行ったな…。大阪で『無敵の大勇者展』(の置鮎さんのサイン)を見たりもしました。ほかにも何かあったかも。あったな。twitterで置鮎さんからリプライをいただいたりもしていました。いいんだろうか。このブログもたいがいですけど、私、twitterだともっとぐずぐずなんですよ…。それから飴をいただいたり、ラムネみたいなお菓子をあてたり。声優さんにはまったのになぜお菓子をもらった話をしているのか??
 このブログをどうして始めたのかももうよく覚えてないんですが、ブログを書くのも楽しかったな。ブログはこの文章を除いて42本。え、42本!?すっかり堕落しましたねえ。ここで、「来年はもう少しなんとか…」とかなんとか殊勝なことを言えたらいいんですが、そういうのはないです。心のままにいきます。
 なにはともあれ、2018年はこんな感じですねー。  楽しかったなあ。うん。楽しかったです。
 ひとつだけわかってるのは、置鮎さんはこの一年で私に起きたいちばんいいことだったってことです。
 おつきあいありがとうございましたー。
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