Kanazawa-Kuruwa
郭の中の金沢、辺京の小宇宙
郭_この辺京の遊郭には、金沢の美しさと醜さがくるわれている。
郭は...
北陸の美学の結晶であった。
卯辰山へまっすぐ伸びる石畳、黒光るボッテリとした能登瓦、弁柄色の木虫籠(きむすこ、細い桟の出格子)。九谷の襖の手掛けや輪島塗りの調度品、べっ甲のかんざしや色とりどりの菓子や酒、夜遅くまで鳴り響く唄、笛、鼓の音色。
同時に人身売買の巣窟でもあった。
極めて幼い頃に身売りされた少女は、楼主と養子縁組を結び、自らにかけられた身代金を返すまで拘束を受け、芸妓・娼妓として働いた。町を彩った女のいくらかは楼主となった。
今回は、金沢の光であり影である茶屋街について、制度・人びと・建物・遊び・性の観点から明治・大正の茶屋を前提にご紹介する。
(参照:『金府大絵図』金沢市立玉川図書館所蔵)
明治に生まれた主計町を除けば、ひがし・にし・きた・愛宕の郭は2つの大きな川、犀川と浅野川の金沢城から見て外側に位置している。(これは、江戸の吉原が常に皇居から見て川向いに建てられて、都市の外周部に位置していたこと同様の理由で、穢の場所を都市の外側に配置するためであろう。)
その中でも、金沢人が憧れと嫉妬を込めて名付けた東の廓(言うまでもなく京都の祇園・東山にかけている)であるひがし茶屋街は、北陸の最も代表的な茶屋街であった。
(参照:『金府町絵図』金沢市立玉川図書館近世資料館所蔵)
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A:郭の制度
金沢の花街の仕組みは京都と同様にお茶屋が客の要望に応じて、芸妓を置屋か ら呼ぶ方式である。芸妓は置屋に所属し、お茶屋から依頼があれば、料亭やホテルなど地域外へも出張することが可能なのも、京都と同様の取引制度である。 さらに金沢の三茶屋街の特色として、お茶屋と置屋の兼業が挙げられる。つまり、お茶屋は場所を提供するのだが、同時に芸妓を抱え、他のお茶屋に派遣することもでき、食事は飲食店から取り寄せることとなる。
お茶屋には上茶屋、中茶屋、下茶屋の3つがあり、上茶屋は5等級に格付けされていた芸者の中でも、一等級のものしか置かなかった。上茶屋は農家の出や他国の婦女は抱えたがらない気風があり、それを誇りにしていた。加賀血筋を大事にし、みっちり芸と作法を仕込むとのこと。明治時代には能登半島をはじめ、日本全国から身売りされた少女が芸妓として所属しており、朝鮮出身の芸妓の記録もある。
郭では「旦那」は芸妓の経済的な保護者であり、後援者であった。旦那は月々お手当を置屋の女将に渡すかわりに、贔屓の芸者を自分一人のものにすることができた。女将は抱え芸者の旦那から一ヶ月の手当をもらうこと大きな収入源であった。ある置屋の抱え芸者が、別の置屋の客を旦那としている場合、旦那はその置屋の女将に毎月の斡旋料を支払うこととなっていた。
お茶屋では客は一見の客は挙げない。理由は、遊興費が後でもらえるか不安なことと、もう一つは酒癖が悪い客を案じてであった。たちの悪い客の中には、火鉢の中に小便をしたり、掛け軸に盆をぶつけたり、美人画を盗む客もいたという。二度目から置屋は電話で芸者の予約を受付け、時間の打ち合わせをする。客は遊興費を何ヶ月に一度、現金で女将に直接手渡しでまとめて払っていた。
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B:郭のひとびと
お茶屋に以下の人々が住み込んでいた。どこの家もかなりの大所帯で、大抵は十数人で寝ていた。
①女将:
多くは元芸者で、お茶屋の経営をするとともに芸妓と養子縁組を組み芸妓を育てるとともに労働者として管理する。
②芸妓、娼妓:
女将と養子縁組を結び、芸者として客に奉仕する。住み込みと通いがあったが、殆どが住み込みで、通いは芸者でも年季明けの終わった歳高の人たちだけだった。年季明けや旦那がお金を支払った場合は妾として茶屋街の周辺に暮らしていた。
③たあぼ:
行儀見習いと諸芸習得の傍ら、日中は走り使いの雑用、夕方からは芸者衆の座敷勤めな三味線をもって供をなし、供先きの置き屋とか料亭では家族用玄関の片隅で芸者衆の座敷終わりを待つ。12歳になると振り袖芸者と呼ばれ見習いの芸者とみなされ、さらに15,6歳になると留め袖芸者と呼ばれ水揚げが行われた。このころには体だけでは���く、三味線・踊り包などの芸も一人前の扱いを受けた。
④ばんば:
年寄りが多く、飯炊賄いが主な仕事。
⑤べえべ:
10-40代、女中、下働きの女で賄い全般、掃除洗濯、女将の身の回りの世話をした。やりてばばあと呼ばれるべえべは客から以下にして金を使わせるか、寝床での振る舞いを芸妓に教え込んだとのこと。
男衆:
登楼のの客引き、芸者の世話役として付き添い、用心棒兼見張り役をする。
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C:郭の建物
(参照:金沢「東の郭」の復元 平井聖・大林組)
茶屋は2つの大門を持ち、文字通り塀によってくるわれていた。門の外には妾宅が並んでいた。2本の大通りは卯辰山に向かい、卯辰山がアイストップの役割を果たしている。かつては壱番町へは小川を越えてアクセスするようになっていた。
(参照:『浅野川茶屋町創立之図』文政3年(1820年) 石川県立図書館蔵 「旧東のくるわ」伝統的建造物保存地区保存対策事業報告書 1975年 金沢市教育委員会)
建物の外観は、1階は出格子となっており、木虫籠と呼ばれる細い縦格子がはめてある。縦桟は断面が台形になっており、外から中が見えにくい仕掛けとなっている。2階は今では小窓付きの雨戸になっており、全て開け放てる仕組みになっている。祭りの際には大通りにステージが設けられ、開け放した2階の座敷から芸者の踊りを見下ろしていたのだという。現在では失われているが、かつては木部分に紅殻色の塗装が施されており、赤い色彩と卯辰山の緑が生えたことだろう。また、屋根はかつて石置き板葺きであったが、今では釉薬を全面に施した北陸特有の黒く厚い瓦が葺かれている。
平面は時代を経て大幅に変更されており、機能上の要求から下記図面の小さい方の平面図(明治以降)へと変更されていったようだ。
明治以降の平面図を前提に話すと、まず玄関を入ると黒漆塗りの大きな階段があり、ハイサイドライトから薄光が差し込んでいる。階段の横は長火鉢が置かれた茶の間であり、女将が座って一切を指示していた。奥座敷と茶の間は主に女将が使用する部屋で、奥座敷は仏間、寝室として使用していた。
みせの間は支度部屋で、芸妓が詰めていたから、街路には芸妓の声がよく聞こえていたことだろう
2階は大きく表(前2階)・中・奥(広間)の3室に分けられ、表と奥を座敷とし、中はロビーのように使用されていた。間口が大きい場合は表と奥は2室に分けられ、4畳の部屋を芸妓が踊り演奏するステージのように使用していた。2階の更に奥には廊下や小階段を隔てて「離れ」があり、数寄屋風のしつらえとなっている。水揚げや日中の娼妓の使用にはこの部屋は人目につかないので都合が良かった。
3階はどの家にもあるとは限らないが、座敷を1間もつ場合がある。
(参照:金沢「東の郭」の復元 平井聖・大林組)
座敷の土壁は紅殻色が用いられる場合が多く、柱は紅殻と灰をあわせて塗装されている。金沢では紅殻色や群青色が来客の場所に使用されることが多いようである。
(参照:https://www.kanazawa-kankoukyoukai.or.jp/spot/detail_10094.html)
(参照:https://www.pinterest.de/pin/523332419194794021/)
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D:廓遊び
(参照:金沢「東の郭」の復元 平井聖・大林組)
宴会は夜だけではなく、遊びなれた客は深更にきて朝帰りということも珍しくなかったし、庄屋の番頭などが小僧の手前もあって夜抜け出せないために早朝に密かに遊びに来ることもあったし、昼遊びの客もあった。これらの時間の揚げ代は夜よりもむしろ高かったとのことである。
客としては、加賀友禅などの伝統工芸の職人の親方や商人、旅の客などがいた。
廓の花代の1単位は45分だった。1時間を1番木と言って、拍子木が隣の控えの間で打たれた。合図の1番木で、芸者は時間切れを伝えて帰り支度をはじめ、そこから客を送り出すまでを15分と見ていたようだ。これは線香1本が燃えるまでに40分かかったことからきていると聞いた。
婚礼の祝宴が夜通し続いたりすると、芸者たちは三日三晩睡眠を取ることもできないこともあった。
芸妓は昼に芸を磨いた。自由を厳しく制限された分、芸に自らの存在価値をかけたからなのであるが、当時の売れっ子は芸を磨くだけの時間的な余裕がなかった。遊客は気に入った芸妓がいると追い回し、昼夜となく名指しをしたため、彼女らは歌や踊りの稽古などしている暇がない。流行りっ子ほど無芸という結果になったのであった。しかし、芸に精進することは文字通り体をいじめ抜くことになり、体の形を崩してしまったようで、例えば、笛の達人と言われた美津は増えをあてがう下唇がミミズ腫れのように腫れ上がっていたとのことである。
お茶屋遊びは数多くあるが、ここで流行ったものに「かんざしえらび」がある。座敷で客と芸妓は輪になって歌った。
お姫さんと寝るがに かんざし引こう
お姫さんを抱くがに かんざし引こう
人のかか抱きゃ せわしない
ほれ せっせっせ せっせっせ
黒く塗った丸い盆の縁にかんざしが10〜20本、妓の数だけ放射状に置かれ、客たちはじゃんけんをして勝ったものからかんざしをとり、そのかんざしの持ち主と一晩寝ることとなった。
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E:郭の性
中店以下にいる芸者は、多くは二枚鑑札を持っていた。芸者と娼妓を使い分けなくては前借りを支払うことができなかったからである。上店では芸者と娼妓の区別が一応はひかれていたが、明治から大正にかけてはほとんど建前になっており、体を張ることによって何十円と貰いが増え、前借金を返すことができたから、体を張る者も多かった。
朝から夜まで客が来た。一人は娼妓を置かなくては営業許可が降りなかったため、芸妓は自分の代わりに一日中客の相手をしてくれる娼妓には感謝していたとのことである。
日露戦争の折には、松山、習志野、大阪に加えて金沢もロシア人俘虜の収容地となり、4000人近くの俘虜が寺院などに収容された。彼らは「大切に」扱われたというが、国から通達を受けた市当局が置き屋の女将に協力を要請し、廓の芸者らがロシア人の相手をしたそうだ。廓には梅毒の予防のために「下洗い」する建物が設置され、性的搾取の対象となった。
第二次世界大戦の際には、芸者は三味線を弾くことや太鼓を禁じられ、専ら復員や動員に押しかける兵隊を相手に慰安婦、接待婦として働いた。
15歳ほどになると水揚げがある。水揚げの相手の旦那は、女将同士であらかじめ相談し、決められ多くは老人だったとのことである。若者では手荒く、過ちがあると良くないと考えられたためと、水揚げをするには大金が必要だったからである。相手が年寄りであることは女たちは皆嫌がった。水揚げというものは一回きりで一人前の女になるというわけではなく、二度も三度もしなければならない。水揚げは特別に料金が高いからお茶屋が儲かったとのことである。場所は自分の住むお茶屋とはとは限らず、離れの間が使用される事が多かった。
(旦那衆が人目を避けて利用した梅ノ橋とかつての妾邸)
金沢の芸妓の生涯を描いたノンフィクション小説である『郭の女』(井上雪著)には花街の美しさと醜さがよく描かれている。
読者は気がつく。
あの美しく見えた芸妓は木虫籠という籠に囚われているのだと。
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Shirakawa-go and Gokayama
山峡のトライアングル、祈りのかたち。
白川郷または五箇山は、「日本の原風景である農村文化・生活・暮らしを深く感じることができる「日本の故郷」」(公式サイトより)として宣伝されており、また合掌造りの建物やそれらが生み出す景観の美しさと、地域に根付く住民同士の相互扶助の営みが評価されて世界遺産の一つとなっている。
しかしながら、合掌造りやこれにまつわる生産や暮らしは極めて独自のもので、「日本の原風景」からはほど遠く、ユニークなものと言える。
今回は養蚕、塩硝生産、浄土真宗の点から白川郷や五箇山の合掌造りをご紹介する。
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X:はじめに
白川郷(萩町集落)及び五箇山(相倉集落・菅沼集落)は、天領・加賀藩領という違いはあるが、ともに庄川の流れる山間に位置している。いずれも民家の配置には僅かな違いがあるものの、田んぼの中に民家が点在し、合掌造りと言われる小屋組みをもち、茅葺きの屋根が葺かれている点は共通している。合掌造りの起源は約1700年ほどだと言われており、五箇山のほうが先であるようだが、荻町集落のほうが規模が大きい。
白川郷(萩町集落):風を流すため、また太陽の光を屋根で受けるために民家の妻面が南北に向いている。平入の民家である。
(参照:https://wattention.com/world-heritage-5-shirakawa-go-and-gokayama/)
五箇山(相倉集落):妻入りが主な形式。五箇山はかつては加賀藩の流浪地であり庄川を挟んで反対側に犯罪者たちが住み着いていた。
五箇山(菅沼集落):川の曲がりくねった内側に位置し、円形の配置計画をとる。屋根が入母屋のように見えるが、実際は庇が変化したもので入母屋ではない。
(参照:https://thesmartlocal.com/japan/suganuma-village/)
合掌造りは江戸中期の1700年前後から明治・大正・昭和時代の約250年間に建てられた。は小屋組みと軸組からできている。屋根の小屋組みは丸太を三角形に組んで作られ、その形は仏を拝む「合掌」の姿に似ている。
この作りは、以下の
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A:養蚕のための民家
・養蚕に効率のいい形となっている
・シルクは蛾の幼虫であるカイトの繭を絆した糸からつくる。
当時はヨーロッパの生糸生産が危機にひんしていたため、1700年代から日本の大きな輸出品になっていた。
山間部に位置しているため、田畑として使用できる面積が小さい。税として生糸をおさめていた。
カイトの育成には多くの面積が必要だが、田畑の面積を削ってまで建物を建てるのは無駄であった。
屋根の形としては切妻、寄棟、入母屋等があるが、切妻が最も容積が大きく、また、開口も取ることができ、養蚕に向いている形である。
切妻屋根を採用し、屋根裏に2・3層の空間を設けていたと考えられている。
ちなみに、養蚕の地域には同様の例がいくつもある。がここまで勾配を急にする例も少ない。
合掌造りの時代
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B:塩硝生産のための民家
塩硝とは火薬の原料である。ここでは家の床下で塩硝の生産を行っていた。
火薬の製法は3種類ある。123この中でもっとも優れた方法であった。
床下にて人糞、蚕の糞、桑の葉、そばの葉
カイコの生産、食生活、がこの塩硝の生産に結びついていた。
これらは税として収めており、必要分以上自由に取引できた。
桑の葉を食べるカイコ
(参照:https://tsuruoka-matsugaoka.jp/news/1299/)
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C:祈りのための民家
この民家は祈りの場所でもあった。
加賀藩は戦国時代から浄土真宗(一向宗)の特色が強い土地である。
これを反映して、浄土真宗の「道場」の特色が強く、家の中に仏壇と祈りのための空間を設けている。
2種類に分けられる。
合掌造りの合掌とは宗教への祈りの形なのであった。
以上のように、生産や生活、宗教とが民家と強く結びついていたという点で、白川郷と五箇山の民家は極めてユニークな存在である。
これらからわかるのは、状況に応じて住まいと生活を切り替えていく逞しさと豊かな生活への祈りである。勾配のきつい三角形の小屋組みは、山の力強さに押しつぶされていない気がする。
ところで、
五箇山は平家の落ち武者が集まって切り開いた村だと言う節がある。
例えば、この田楽の装束の帽子には貴族の纓(えい)のような装飾が取り付いている。
五箇山のこきりこ節を聞く。
それはかつてみた京へ夢ではなく、目の前の生活への逞しさが歌われている。
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Paris
華麗なる記憶の断片、パリ。
何度も訪れたのにもかかわらずパリを紹介する文章をいつまでも書けなかったのは、「ストン」と心の中で納得することが無かったからか。
パリに確固たる全体像がないことに気がついて、その断片を集めることによってパリのまとめとしようと思う。これは、個人の記憶の集合から集団の夢を描き出そうとしたヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』に倣い、様々なメディアからパリを提示する試み。とりわけ自分が親しんだメディアから。
もともとベンヤミンは「個人にとって外的であるようなかなり多くのものが、集団にとっては内的なものである」ということに関心をもっていた。
個人の内部性と集団の外部性を問題にしたのでは、ない。逆である。個人の外部性と集団の内部性に関心をもったのだ。それがベンヤミンの「集団の夢」なのだ。
松岡正剛の千夜千冊
http://1000ya.isis.ne.jp/0908.html
A : 鉄骨建築/パサージュ/現代音楽
表紙となっている音源は、エストニア生まれの作曲家ペルト (1935~)による
シルエット ― ギュスターヴ・エッフェルへのオマージュ(2009)
打楽器とピッチカートの響きが美しく、小さなアーチのついた鉄塔が風になびかれてしなっている情景を描いたと言われる。
曲のインスピレーションは、副題にあるエッフェル塔の設計者ギュスターヴ・エッフェルの仕事から浮かんだ。ペルトは設計プランと青写真が掲載された本を読んで、バランスのとれた合理的構造とエレガンスをあわせもつエッフェル塔のすがたに、音楽との共通点を感じた。ヴィブラフォンやタムタムなど打楽器の響きが霧のように広がる中、コントラバスから順に弦楽パートが重ねられていく導入部に続いて、弦楽がゆったりと奏でるワルツは「まるでエッフェル塔の先端が風で揺れているよう」(ペルト)。憧憬(しょうけい)と哀感が入り混じったペルト一流の響きだ。しだいに音量を増して頂点を築いたあと、導入部が回想されて終結する��
NHK交響楽団・曲目紹介https://www.nhkso.or.jp/library/sampleclip/music_box.php?id=391&iframe=true&width=840
Vivienne Gallery, ジャン=ウジェーヌ・アジェ, Paris, France, 1906
事実、アジェによるパリの写真は、シュルレアリズム写真の先駆であった。...被写体をアウラから解放したことは....最近の写真家流派による、最も疑いの余地のない功績だが、その口火を切ったのはアジェである。....
『写真小史』ヴァルター・ベンヤミン
ノヴェンバー・ステップス
フランス近代音楽から影響を受け、フランス文化勲章を受賞した武満徹。CDはどこかに行ってしまった。ドイツ系の現代音楽と違って、身が締まるような清々しさがあるような気がする。
B : 墓地/地下水/雨/処刑
『カタコンベ』は浜田知明が1966年に製作した銅版画。
浜田知明の《カタコンベ》は、ローマやパリといった都市にある地下墓所を描いたものですが、画面左手の細く長い階段によって、そこが異界の入口であることがわかります。このような都市と死者の世界が背中合わせになっている神話的なコスモロジーに対して....
国立近代美術館「都市の無意識」展
http://archive.momat.go.jp/Honkan/unconsciousness_of_the_city/index.html
The Music of the Night - The Phantom of the Opera (original 1909)
Andrew Lloyd Webber
『オペラ座の怪人』の舞台となったオペラ座。
ここは水はけの悪い場所として有名であったそうだ。
その地下に怪人が棲み着いているという想像も決して難くない。
ちなみに、21歳で一人旅行した時にロンドンで観たオペラ座の怪人が忘れられず、CDを100回以上聴き込んだのはいい思い出。
Crosswalk on the Rue de Rivoli (also called Le Passage clouté), 1937.
夜のパリを撮ることで有名であった、写真家ブラッサイ。
ヌメヌメとした背景に張り付いたモフモフの女性。
ポツポツとした白点もリズミカル。
『イノサン』坂本眞一
とにかく、美しい漫画
ところで、残虐な処刑に心を痛めていた人ももちろん多かったのだが、もう一面においては、処刑が当時の人々にとって一種の娯楽、見世物になっていたということを指摘しておく必要もあるだろう。国家の側が処刑を公開していたのは、見せしめのためだった。しかし、一般の人々は、国家のこのような願望をほとんど意に介していなかった。人々にとっては、処刑を見物することは、スポーツ観戦や観劇と同じように、一種の気晴らしに近かった。友人知人とわいわい騒ぎながら、ひとたび処刑が開始されると、その光景を固唾を呑んで見守るのであった。
http://youngjump.jp/innocent/history/vol01/03/
C : ローマ/ロマ/倦怠
Made In France
ロマ系のギタリスト、ビレリ・ラグレーンによる作曲。この曲をクラシックギター演奏会で10人程度で弾いた時、頭でやや飛び出してしまった自分は4年続けたギターを辞めることを決意した。思い出の曲。
サン=ジェルヴェ・サン=プロテ教会
Les Deux Plateaux - 2つの舞台 (1986)
ダニエル・ビュレン
「ストライプは様々な文化圏に伝播し、利用されている。視覚的に大きな価値と力を持っているからだ」
変哲もない既存の空間や物体が、白ともう一色を組み合わせたストライプの作用で、途端に個性を獲得し、新たな文脈を見せ始める。以来、この「視覚の道具」は不可欠の表現手段となり、キャンバスに描いたり、布に染めたり、造形物にしたりと、さまざまな形に生まれ変わっている。「8.7センチ」は自身が見つけた布地の幅が、このサイズだったからという。
高松宮殿下記念世界文化賞
http://www.praemiumimperiale.org/ja/component/k2/buren
D : 絵本/ピアノ/移民
『Parisの破片』茂田井武
遠い異国で謳歌する自由――
その自由な魂から生まれる絵
1930年、21歳の春に、茂田井は鞄一つで欧州放浪の旅に出ます。滞在先のパリやジュネーブで、夜な夜な絵日記のように描きためた画帳「Parisの破片」「続・白い十字架」には、異国の人々と哀歓を共にした青春時代の日々が、生々しく映し出されています。
安曇野ちひろ美術館http://www.chihiro.jp/azumino/museum/schedule/2017/0301_0001.html
のだめカンタービレ (2001-2010)
ピアノの森 (1998-2005)
以上、パリに関わり自分が経験したことのあるメディアを抽出し、自分がパリで感じたものに近いものでA,B,C,Dの4つのグループを作った。それぞれのグループに対応する様な価値観は以下の通り。
A : 透き通った、張り詰めた、繊細な、霧っぽい
B : ぬめぬめした、じめじめした、暗い、不気味な、野生の
C : 倦怠感、古典的な、砂っぽい
D : わくわく、キラキラ、可能性、希望、自由
ここに4つしかないというのが、自身のパリ体験の貧弱さなのだろう。
おわり
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Zürich
1581年の地図
Swiss National Museum (2017)
Christ & Gantenbein
http://www.archdaily.com/781176/swiss-national-museum-christ-and-gantenbein
Erweiterung Kunstmuseum Winterthur (1993-1995)
Annette Gigon / Mike Guyer
Renovation und Anbau Sammlung Oskar Reinhart 'Am Römerholz', Winterthur (1995–1998)
Annette Gigon / Mike Guyer
Zürich West
Bürohochhaus Prime Tower, Maag-Areal, Zürich (2004–2011)
Markthalle und Läden »Im Viadukt« in Zürich
EM2N, Zürich
Toni-Areal (2014)
EM2N, Zürich
Schiffbau (2001)
Birch Schule
Peter Märkli
Zürich Main Station
http://www.archdaily.com/597314/zurich-main-station-durig-ag
Seniorenresidenz Spirgarten in Zürich-Altstetten (2004-2006)
Miller & Maranta
http://sieplcoatesstudio.weebly.com/seniorenresidenz-spirgarten.html
Leutschenbach School (2009)
http://www.archdaily.com/382485/leutschenbach-school-christian-kerez
Christian Kerez
Stadelhofen Station (1990)
Santiago Calatrava
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Alvar Aalto
北欧のアラカルト、アルヴァ・アアルト
ガイドはゴリ、主食は肉団子。
フィンランドにフルコースがあるとはとんと知らないけれど、
「モイモイ✳︎1」言いながら見て周ったのは確かにアラカルトだった。
(MoiMoi✳︎1:フィンランドの挨拶、ハロー, バイバイ、元気?等を意味する。
ちなみにゴリの口癖は「ふすふす」 )
フィンランドをめぐる北欧女子。(年増)
彼女らが手にする地球の歩き方のモデルコース、マリメッコに次ぐチェックポイントは、なぜか彼による建築だ。
今回は、そんな愛くるしい、はむはむムーミン女子に捧げる
Alvar Aalto (1898-1976)の楽しみ方講座。
Studio Aalto (1954-1955)
まず3つの扇型の部屋、2つのスタジオと屋外劇場を構想したのだろう。
そう思わせるに十分なほど、3つの場所の噛み合わせはぎこちなく(故意に?)
一つ一つの室としての完成度は高い。(俺が言うのもおこがましい)
表紙になっているスタジオが、弧を描きつつ天井高が高くなり、右手や奥の窓から視線が抜けるために伸びやかさを感じさせるのに対して、奥行きの深いスタジオ(✳︎2)は直線の柱梁のリズムがより身の締まるような感覚を抱かせる。もう1つの扇型である屋外劇場(✳︎3)は、波打つ外壁をもつスタジオを背にして地形に沿って緩やかに傾斜する。
(✳︎2)
(✳︎3)
こうした3つを中心にそれぞれの美味しい料理(部屋)がなんとなく集まって形をなしているのが彼の料理(建築全体)で、テーマを一貫させるために犠牲にする料理(部屋)はあまりない。これは一見簡単なようで、実はものすごく難しいことだ。
例えば、
南青山にジョー君(仮名)が誕生日デートに行ったときだって、彼女が
「赤ワインの気分だなぁ~」
なんていうものなら、「肉系のフルコースに甘さ控えめのデザートを添えて…」なんて一貫しテーマで手堅く決めてしまえるものだが(あぁ、ジャパニーズの想像力のなさよ)アラカルトでいこうなんて日には「カレーと、トンカツは一緒に食えるのか、いやそもそも…誕生日に食べるべきものとは、はて」なんて迷いは尽きない。
「特別さ」「気品さ」を担保してくれるフルコースを捨てて、誕生日にふさわしいディナーを演出することはできるのか。ジョー君、二人の夜の行方は。
参照:https://www.architectural-review.com/today/for-balkrishna-doshi-architecture-urbanism-and-landscape-are-inseparable/10005827.article
The Aalto House
アアルトの自宅兼スタジオ。南側に下る斜面の頂上にL字型の形で立っている。ここでも全体をまとめるテーマはなく、スタジオ、リビング、ダイニングの全く異なる空間が三色だんごのように連なり、二階ではそれとは無関係の並びで、個室が居間を囲む。(テラスも入れれば4色だんご)
http://www.archigraphie.eu/?tag=alvar-aalto
図書館から続く天井が高い縦長のスタジオ(✳︎4, 5)が、ハイサイドライトと空と海に抜ける窓しか持たずに奥行き感と禁欲性の特徴を持つのに対して、リビング(✳︎6, 7)は窓や家具の高さが低く横に長い窓とともに水平に広がる特徴を、さらにはダイニング(✳︎8)は小さな窓から絵画のように風景をフレーミングする。
(✳︎4)
(✳︎5)
(✳︎6)
(✳︎7)
(✳︎8)
ここでも全体を統合する大きなテーマは見えないが、デザインが他人に伝えることを前提にしたものならば、これは致命的な弱点だ。
このとき、ジョー君に残された手段は2つ。
それぞれの料理になんらかのテーマを見出すか (こじつけ)、
とびきり美味しいアラカルトを選び続けるのか。
自分が思うにアアルトはその後者で、それぞれの部屋が抜群に良く、その分外形はまとめきれずにあまり明確な形をとらない。(意図的?)
それにしても、個室(✳︎9)は小さいながらも窓のプロポーション、柱、カーテン、机の位置等、ほのぼのといい。
(✳︎9)
Säynätsalo Town Hall (1951)
水しぶきが跳ねるのを聞いて目を覚ました。
シエナのカーテンの隙間から窓を覆う蔦が朝日を浴びる。
村役場であるとともに集合住宅、図書館、カフェ、ゲストハウス、商業施設で、それらが持ち上げられた中庭を囲む。二角が出隅の庭はヴィラのような廊下と蔦の茂るゲストハウスに囲まれて、緩い。議場は階段を絡めてタワーとなり、シンボリックに立ち上がる。そこでは窓から差し込んだ弱い日光が傾斜する天井を柔らかく照らし、女郎蜘蛛のように足を広げた構造体を暴く。
城門のようなシンボル性とヴィラのような放牧さを持ち、複合性と誰もが入れるような雰囲気を併せ持つ民主社会の役場の傑作。
Experimental House (1953)
神話的世界の美だ。
きっとそういう事なのだと思う。
波音もない、永遠に続く湖水地域の島々。どっしりと、巨大な岩石の上にその建物は立っていて、天に向けて煙を抱く。
岩石の舟着き場、草木に覆われる事のない巨大な岩の上り坂。建物は蔦の絡まった白く崩れかけた建物が空に向けて突き出ているように見えて、まるでアクロポリスに立つパルテノン神殿のようだ。
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ハウルの動く城の暖炉に住む火の悪魔カルシファーが動く城全体の心臓であったように、暖炉は歴史的に精神的にも物理的にも家の心臓部たり得た。ここではそれを中庭に持ち、火の向こう側、南の壁と壁の間からは木立と湖水、なだらかな山々が眺められて、放牧的に語る。
名もなく、ただ実験住宅と呼ばれたこの家は、パースから建物の外形を決めたりや外部空間から建物を構成するという彼にとっては通常行わない遊びにあるれていて、彼の少年のような無邪気さがしみじみと感じられるものだった。
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Villa mairea (1938)
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PUFFYの『アジアの純真』が「北京、ベルリン、上海、ラザニア」と脈絡のない言葉がリズム感によってただ並ぶように、ここでは日本、中国建築の要素や船舶や森林を思わせる要素が羅列する。
つまり、ボリュームの雁行であり、平面の内部分割、煙突状のアトリエ、そして乱立する柱が同時に存在し、ここでもアラカルト的に様々な部屋を同時に作り出している。
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Alvar Aalto は20世紀を代表する世界的なデザイナーであり有機的建築の旗手として有名だけれど、それは木材の使用、曲面の多用といった表面的なことではなくて、彼のアラカルト的アプローチがもたらす建物の親しみやすさ、楽しさ、そしてゆるさなのだと思う。それは古典主義建築やそれに連なる近代建築にないが、集落にはあったものだ。
果たしてそれが「一流の料理(建築)」だったかは知らないが、ジョー君の夜は、こうして究極のアラカルメニューを連続して提供することで救われたのである。
あれ、なんの話だったっけ?
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Wuppertal
ヴェストファーレン、山峡のプリズム。
Nordrhein-Westfalen(ノルトライン・ヴェストファーレン州)ヴェストファーレン地方、又の名をウェストファリア。三十年戦争終結の条約が結ばれたこの地は多くの山脈に覆われ、そこに散らばった多くの街はひっそりと隠れんぼをしているような雰囲気を持っている。
世界最古の懸垂式モノレールを有するWuppertalもそうした街の一つで、ドイツには珍しく線状の都市構造を成し、合併のために複数の中心を併せ持つ。この街の主要なエレメントは何と言っても14kmに渡るモノレールで、ヴッパー川と幹線道路の上空を走り、河川上空においては両岸の程よい距離感と、道路上空においては都市生活に適切なスケールを作り出すが、この下でマーケットが開かれるのはこうした理由によるだろう。
モノレールの軌道を支える鉄骨の構造体は地面に近づくにつれて細くなり軽やかかつユーモラス。
(イメージ参照: http://mapa-metro.com/en/Germany/Wuppertal/Wuppertal-Schwebebahn-map.htm)
The Mariendom Neviges(1968)
山間の町Nevigesの斜面地に建つ、ゴットフリート・ベームによる巡礼教会。周囲を住宅と駐車場に囲まれているものの、高低差と城壁のように立ち上げたコンクリートの壁によってそれらが目に入らないようにされている。前庭が広くとられており、コロネードを持つ付属の宿泊施設と石壁で囲い込み、緩やかに流れる階段と規則的に並べられた樹木で教会堂へのアプローチを演出する。リズミカルな低層棟は巡礼者の一団のようにも見え、それが前庭のスケールを小さくし、樹木のスクリーンの向こうにはエントランスが待つ。
教会堂の造形は一見ランダムにも見えるが、山のように天に尖る部分と、その周囲に回された垂直に切り立つ部分の二つに大別することができ、前者が身廊と付属の教会堂からなりトップライトと鐘楼を有するのに対し、一方後者は側廊からなっている。販売していたパンフレットによると、教会堂のかたちは巡礼の旅を象徴する「テント」であり、終着地である「丘の上の神の町」と解釈できるらしいが、確かになるほど波打つ屋根はテントのようでもあり、垂直に立ち上がる外壁はドイツの切妻の街並みに見えないこともない。いずれにせよ、立面の陰影は太陽の位置によって様々に変化し、この建物の位置する山脈に呼応しているように見える。外壁は10mほどで、意外にも周囲への圧迫感は少ない。
内部に至れば、彫刻的な柱によって身廊と側廊は隔てられてバシリカ式の片鱗が伺え、右側の側廊が3層のアーケードとなるのに対して、左側の側廊は2つの小さな付属礼拝堂と地下礼拝堂への階段を収める。内部でも外で見られたテーマは繰り返され、波形のペイブメントがイチョウの葉のように繰り返され、3層のアーケードに穿たれた穴は家々の窓のようで、天井はマーケットのテントのようにジグザグに波打つ。
特質すべきは奥行きの楽しさと光の捕らえ方であろう。
アーケードも付属礼拝堂も、奥の空間に通じている道や開口が小さく設定されているから、奥行きが感じられ、かつ奥がカラフルなステンドグラスで照らされているからそこに行ってみたい気持ちが沸き起こる。また、面が直角に交わる箇所と面が鈍角で交わる箇所が意図的に区別されていて、前者の部位では明暗がはっきりと区別され、後者の部位では光がコンクリートの面の上を回り込む。シャープかつマッスなこのコンクリートの彫刻はプリズムの美だ。
St. Ludger (1962)
一方、こちらはEssenの回でも登場したルドルフ・シュバルツによる、小規模な礼拝堂。Wuppertalの丘や林を背景にして、木立や住宅の中に隠れるようにしてひっそりと建つ。立面として、エントランス前の木立の道からは象徴的に天に突き出しているように見え、道路からは矩形の事務棟が付くために世俗的な建物のように見える。構成としては、身廊と2つの側廊(兼礼拝堂)、さらに事務棟からなり、祈りの空間と、そうでない空間とではプランが大きく異なる。身廊と側廊はそれぞれ一本、合計2本の柱で非対称に分けられていて、その上部にはコンクリートの梁が架けられる。
カラフルなステンドグラスから入る光は滑らかなレンガの曲線をなぞり、レンガに落ちる光の表情の豊かさは彼による他の教会を思い出させる。天井に架けられた木造のトラスはシンプルで、天井から離れており、レンガやコンクリートと対峙してひどく軽やかだ。位置のずれた柱も楽しげで、小さいながらも考え込まれた上品な教会。
谷間の町は、生まれ育った町を思い出す。
静かに、ひっそりと暮らす人柄は、建物や町の表情にもなってしまうが、そこにはミュンヘンなどのおおっぴらな街にはない美点が存在している。
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Essen, Aachen
工場マニアの聖地、エッセン。ちなみに、essenは英語ではeat。
今日は工場マニアが鼻時を出すかもしれない世界遺産のツォルフェアアイン炭鉱業遺跡群。ここは1851年以降、石炭の採掘場かつ鋳鉄の採掘場として操業され、世界遺産となった現在では博物館、美術館、公園、学校、ワークショップスペース、さらにはスケートボードやウォールクライミング、仮設の結婚パーティーの会場としても使用されている。バウハウスの卒業生によって設計された建物群と、ダクト等にあふれた、建物というよりも生産のための機械のような建物群からなる。
「バウハウス様式で建てられて、世界で最も美しい工場と呼ばれている」
という解説が度々されるが、これは形態独自の価値を認めないというバウハウスの考えとは全く反対の評価だ。彼らは「この工場を美しく作ろう!」などという思いはなかった。少なくとも表向きは。
バウハウス、いや合理主義の考えは、建築形態を合理的に創造しようとするものだった。彼らは客観的な機能的・構造的要請から方法論的に形が導き出されるべきで、それは個人の恣意性を離れて集団的にコントロール可能だと考えられた。
だからこの工場には以下のような特徴がある。
壁面の強調(レンガを直截に使えば壁は垂直に、角は直角になる)
無装飾
外から読み取り可能な構造・機能の表現(柱や梁の位置など)
標準化(柱梁の長さ等の統一、これが進みプレファブリケーションになる)
これらの建物は他のダクトで溢れた「機能的な」建物と著しく対立し、結果的に「世界で最も美しい工場群」を形成するが、審美性を考えず機能的に作られたものが時代を経て審美的に評価されるという、面白さ。やっぱり、建物も人も綺麗なものは正義なのかもしれない。
Kirche St. Antonius (1959) Rudolf Schwarz
1958年ごろからエッセンはケルン、ミュンスター、パーダーボルンと司教区の統合を行った結果100以上もの現代的な教会を建設する必要に迫られた。そのとき活躍したのがノルトライン=ヴェストファーレン州の地元建築家Rudolf Schwarzだったらしい。
住宅地に囲まれて角地に立つこの教会は、左右前後で全く異なる立面を持っていて、住宅地側では身廊と祭壇の上部にガルバニウム鋼板(?)が貼られて建物の大きさが和らげられている。
内部は正方形の平面を持ちT字型に身廊と祭壇が収まり、余剰部分は側廊となる。身廊が天井が高くハイサイドライトから色のついた色を落とすのに対して、側廊は横に広く上から押し潰されて傾く天井とともに教会全体の中心性を高めている。
コンクリートの力強さとレンガの優しさを組み合わせ、各部を標準化しつつもランダムかつダイナミックに見せる。
Kirche St, Andres (1954-1957) Rudolf Schwarz
彼による別の教会。ここでもコンクリートの梁で壁面を分割する手法が取られているが、ここではガラスが嵌め込まれて、窓というよりも、日本の障子と同じく「光る壁」としてガラスが用いられている。窓のそばには建築化された家具としてベンチが備え付けられている。
アーヘン大聖堂 (796-805)
ノルトライン=ヴェストファーレン州の教会といえば、ここアーヘン大聖堂。神聖ローマ帝国の王の戴冠式はアーヘンのこの教会にローマ教皇が来ることが慣例となっていた。
現在大聖堂の外陣となっている八角形がかつての施設礼拝堂でアーチと円柱を組み合わせた垂直性の高い華やかなタワーからなり、屋根にはドーム状のボールトを頂く。増築によって長方形を横にくっつけているからその二つの平面の接合部は異世界を覗き見る窓のようで、そこに立てば眼前には赤青白の光の筋が降り注ぐゴシック的世界が広がる。
しかし、この建築の魅力は増築が繰り返された故のゆるさにあるだろう。
八角形の外周を回る動線や、鐘楼にかけられたブリッジ、ファサード上部に位置するロッジア等、様々な建築言語が様式に関わらず組み合わされ、教会にもかかわらずゆるく、とても親しみやすく、何よりも楽しい。
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Prague
可愛さと不気味さが共存するゴスロリな街、プラハ
百塔の都市と呼ばれるプラハは、赤い屋根とカラフルな淡い色の壁面が並ぶキュートで、少女趣味的な、絵本のような街だと知られている。その一方で、どこか不気味で魔術的���雰囲気さえ醸し出している街で、なぜか常に不安になる街だ。
今日の表紙の写真は建築でも街でもなく旧ユダヤ人墓地。
チェコには早くからドイツ人とユダヤ人(民族ではないけれど)が入植し、ユダヤ人は例に漏れず経済的に優位性を発揮していたが、ドイツ人が政治的な優位性を発揮していたためにそこまで目立たず激しい排斥にあうことが比較的少なかったという。それでも幾分か迫害を受けていた彼らは居住地区が制限され、墓地も新たに建設することができなかった。
墓地は12層重ねられており、1万2000もの墓石があるという。土が重ねられているから地面は周囲よりも高く、僕らは塀を越えて街路を見下ろす。ラザニアのように重なる墓石は混乱を極め、前後左右に傾いてひどく不安な気持ちにさせる。
今回はあえてこの街の不気味な面に焦点を当てて、
プラハの、プラハにしかない美を、みる。
新旧シナゴーグ (1270)
西洋の現存する最古のシナゴーグ。
敷地は空地に接して建つが正面はユダヤ人墓地へ至る細い路地に向けられている。ファサードはバットレスが飛び出し、上部にはギザギザのペディメントらしきものが載る。開口部が少なくロマネスクを思わせる中央の天井の高いホールが先に建設され、後に低層のボリュームが周囲に付属した。
内部は地面の高さから2メートル程低く天井がとても高いから、逃亡者の考えを体現したかのようだ。秘密を隠し持っている。平面では二本の柱が中央のホールに落ち、古代の日本の神社建築のようで柱が象徴的に使われる。
光はわずかに幾つかの小さな窓から入るのみで、そのことが返って中心性と神秘性を高めている。
ちなみに、ドラクエで有名なゴーレムの起源はここで、この建物の屋根裏にはゴーレムが眠ると言われている。
(参照:http://www.prague.eu/en/object/places/1635/old-new-synagogue-staronova-synagoga https://www.studyblue.com/notes/note/n/final-exam-image-set-iv/deck/13087793)
旧市街市庁舎 (1338)
火薬塔 (16C)
チェコの建物のプロポーションはとにかく不思議だ。それはローマ由来の安定していて優美な姿とは違って、不安定で神秘的。屋根は鋭く尖り、長方形の窓は縦長、一階にはアーチを持つものも多い。頭でっかち。
こうしたかたちが気味悪さの一因であるようにも思う。
ブラックマドンナ (1912)
キュビズムといえば、ピカソやブラックでよく知られている運動だけれど、ここチェコではそれが唯一建築に適用されたとしてどの観光マップにも掲載されている。
それにも関わらず、建築の歴史でそれが扱われることはほとんどないし(そもそも東欧がほとんど扱われないのだけど)この運動も10年ほどで途絶えてしまった。
キュビズムの形態の特性はピカソの絵を思い出すとわかりやすい。
視覚を幾何学的な秩序で構築する(カクカクとか丸とか)
対象を平面的な構成要素に解体、相互貫入させて三次元に統合(影を持たず立体感がなく、横向きの顔と正面の顔が合体していたりする)
視点の主従のヒエラルキーが無い
対象を背景と融合(人が背景と一体化してる)
さてさて、ピカソとブラックはこれによって視覚のみならず知性の表現にたどり着いたとされているけど、建築にこれを適用すると困ったことになるのは建築がそもそも三次元のものだからだ。
彼らは絵画を視点が一つしか無く遠近法に基づく世界観への抵抗を行ったのだが、そもそも建築や家具を見るには決まった視点は無く、要素を再統合する必要性も必然性も無かった。現実世界で背景と融合することももちろん困難なので、上記の1しか達成することはできず、キュビズムの思想から離れてほとんどかたちの新しさだけになってしまった。
それでも、チェコに近代建築を持ち込んだことは素晴らしいし、研ぎ澄まされ陰影に富むかたちは見るものを魅了する。
(参照:http://i.idnes.cz/12/123/cl6/OB4826e3_lukes6)
ネクラノヴァ通りの集合住宅
ミューラー邸 (1930)
アメリカ帰りでウィーンに住み始めた途端セセッション館の審美的傾向を批判したり、『装飾と罪』でアールヌーヴォーを近代文化にふさわしい尊厳を持ち合わせていないなどと語るなど、中々お騒がせなおじさん、アドルフ・ロース。
そんな彼は単に装飾の批判をして無味乾燥した形を推奨したのでは決して無く、ラウムプランという新しい美学を打ち出したのだった。形態がその目的用途を表現し部分が一つの統一体にまとめられている場合のみ美しい、とした彼の言う通り、この建物はそれぞれの部屋はそれぞれにふさわしい広さと高さを自由に持ちつつそれが幾何学的外形にまとめられていて、少しずつ床の高さが違う部屋をつなげるように階段が全体を魅力的に結び付けている。
この設計は一見しても相当難しい。答えのない木のどうぶつパズル(幼児教育?)を立体的に面白くなるように組み合わせて立方体を作るような感じ、といえばわかりやすいような、わかりにくいような。
装飾を放棄した外観はシンプルだが、その分プロポーションの重要性は増し、壁面と開口部の関係性に注意が向けられたという。外形は単純な立方体では無く、一見してその形を掴むことはできない。
内部に至れば、少しずつ異なる階を巡りながら階段によって上昇していく。その上昇の体験がとにかく魅力に満ち溢れている。まず玄関から緑のタイルの道を通りクロークを抜け、狭く暗い階段をカーブしながら登れば大理石にあふれた豪華なリビングに至る。階段は二手に分かれて一つはダイニングと上階に通じ、もう一つは夫人の部屋へと通じてリビングを見下ろすテーブル席へ至る。階段は屋上のテラスで終結し、眼下の家々を見下ろす。
彼の思想・作品の影響は大きく、ル・コルビジュエ等以降の合理主義に広く受け入れられた。
(参照:https://rosswolfe.files.wordpress.com/2014/03/mullerova-vila-adolf-loos-praha)
ダンシングハウス (1996)
プラハ城大広間
聖ヴィート大聖堂
ミュシャであり、雑貨であり、お城であり、絵本でもある一方で、
ゴーレムであり、ユダヤであり、錬金術であり、ドクロであるプラハ。
人々はそこで世界一ビールを消費し、西洋一神を信じない。
以下は、チェスキークロムロフ。
だまし絵の街だけど騙されてはいけない。
バドワイザーはもともとこの周辺地域のビールらしいよ。
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Wien
幻想的な白昼夢、皇帝の都ウィーン
現在のヨーロッパの礎となった神聖ローマ帝国皇帝のお膝元、ウィーンの話。ご存知ハプスブルク王朝は西はポルトガル、東はポーランドまでを覆うヨーロッパ連合の中心にして、約700年間に渡りローマ世界の世俗の最高権力者として西欧の歴史に名を残した王朝だ。
重要な君主は主に4人。
ブルゴーニュ公マクシミリアン一世
スペイン王、ナポリ王カール5世(新大陸アメリカの君主でもある)
女帝マリア・テレジア
最後の皇帝フランツ・ヨーゼフ
スイスの片田舎の弱小君主だったハプスブルク家をマクシミリアン一世がブルゴーニュ公国の跡取り娘と結婚したのを皮切りに、結婚政策によって領土を広げ、カール五世の治世ではスペインからアメリカ大陸までを支配下に入れた。マリア・テレジアは16人の子供を育てつつ、ネーデルランド、北イタリア、ハンガリー、ボヘミアまでを領土に組み込み、オーストリアを官僚制をもつ近代的な国家に改革したが、民族運動と第一次世界大戦、フランツ・ヨーゼフの死とともに帝国は瓦解し、共和制に移行する。
ちなみに、おなじみのマリー・アントワネットはテレジアの娘、ミュージカルで有名なエリザベートはフランツ・ヨーゼフの妻だった。
表紙になっているのは、郵便貯金局 (1904-1906) オットー・ワーグナー
郵便貯金局はリンクシュトラーセ内側の東端に位置し、台形平面のやや中心に写真のホールを持つ。外壁は大理石をアルミニウムのボルトで抑え、内部もボルトを装飾として扱う。ホールの柱は矩形断面をしており上方に行くほど太くなって、霧のように白いぼんやりとした光を落とすガラスの天井を貫く。床はガラスブロックによって下階に光を導く。
彼は『近代建築』を著し、水平線・平屋根・平滑な面からなる「浄化された様式」を主張し、課題・材料・構造への誠実な対応を求めた。そんな彼らしくこれまでの古典主義建築の要素や装飾は影を潜め、鉄骨・ガラス等の近代の材料を持って新たなバランス感覚で霧に包まれるようなホールを生み出した。
彼とその弟子、芸術家達が生み出した世紀末ウィーンの世界。
1895年から1905年、サラエボの銃声が響くまでの約10年間にわたって繰り広げられるこの動向は、産業革命・市民革命・労働者階級の台頭・アールヌーヴォーなどを背景に、幻想的な世界観を形作った。
セセッション館 (1897-1898) オルブリヒ
過去様式との分離を掲げる「分離派」の殿堂、セセッション館。
過去様式とはもちろん古典主義建築であり、ロマネスクであり、ゴシックで、彼らは使い古された形態の使用を拒む。球・直方体などの幾何学的形態と、月桂樹・フクロウ・トカゲ等具象的モティーフを組み合わせて象徴的意味に溢れている。ワーグナーの弟子であるオルブリヒ、ヨーゼフ・ホフマンのうちオルブリヒが設計した。
ファサードは凱旋門のような大きな足と、それとは不釣り合いな凹型のボリューム、それが持ち上げる金の月桂樹の球でできている。古典主義のプロポーションから大きく外れ、エジプトのスフィンクスのようでもある。窓がないから記念碑的で、装飾は限定的かつ平面的に用いられる。ホールはここでも天井から幻想的な白い光を落とす。
ちなみに、地下には分離派のメンバーの一人であるクリムトのベートベンフリーズが飾られている。
(参照:https://de.wikipedia.org/wiki/Beethovenfries#/media/File:Beethovenfries.jpg)
レッティ蝋燭店 (1964-1965) ハンス・ホライン
歴史は下り、戦後ウィーン。
この小さな店舗は、日本でいう銀座のようなウィーンの高級ブランド通りに立ち、それゆえ敷地は小さく経済的な効率性が求められていた。彼はその条件を満たした上で、けばけばしいネオンサインや商品でいっぱいのガラス張りの店舗ではなく、一面のアルミニウムと僅かな商品が並ぶだけの気品のあるファサードを作り出した。
宗教的な門を想起させるファサードでは、当時最新の材料であったアルミニウムが小さな開口部の内部まで連続していて、小さな場所に入り込んでいく感覚を抱かせる。しかし、内側に至れば部屋の両面に貼られたガラスによって無限に広がる感覚を味わう。
メディアの発達を背景に、「すべては建築である」と、建物そのものを超えて体験までをも建築と言い放つ彼の出世作。
(参照:http://www.hollein.com/ger/Architektur/Nach-Typus/Shops-und-Interiors/Retti)
シュリン宝石店 (1972-1974) ハンス・ホライン
ハース・ハウス (1985-1990) ハンス・ホライン
西洋人は本当に都市をつくることを大切にするけれど、それは日本人にとっては少しわかりにくい。それは西洋の街がかつて城壁に囲まれて生活圏が非常に限られた範囲にしか無かったからかもしれないし、街路も住宅内も石で作られていて住宅の外部もリビングと見なせるのだと言った人もいた。
何にせよ、街をつくることが景観をよくすることや商業活動を活発にすること、コミュニティーをつくることを超えて、彼らの知性の集合させる行為だということを示す好例がこのハース・ハウスだ。
シュテファン大聖堂を擁するシュテファン広場の隅に位置し、ウィーンの最も中心の商業地区であるグラーベン広場、そしてその中間のシュトック=アム=アイゼン広場に接する。街の主な軸線がここで90度屈折し、グラーベン広場に至る。ここはローマ要塞の隅部にあたり、かつては曲線の城壁が立ち上がっていた。
明確に分離されていた3つの広場が戦後の開発によってダラダラとつながり、ただ街角を曲って流れていく幅の広い構造化されていない街路空間が感じられるのみだった。シュトック=アム=アイゼン広場に至っては、かつては広場に面する建物の違いから認識できたものの、もはや広場として認識できないただの広い場所となっていた。
シュテファン大聖堂は間違いなくウィーンの精神的世界の中心であり、グラーベン広場は俗なるものの象徴であったから、これは日本人にもわかる卑近な例で言えば、先祖代々の墓の隣に壁なくして台所が置かれているような状態だった。
そこで、既存の街路空間を都市空間的に広場を構成するかたちで構造化することが求められ、提案はそのために中間休止をつくることであった。
この建物は主に二つのボリュームからなる。一つ目がグラーベンとシュトック=アム=アイゼン広場に接して立つもので、もう一つはシュテファン広場の境界に浮かぶシリンダーだ。一つ目のボリュームがかつて存在したローマ要塞の曲線にそって湾曲しグラーベンの街並みから次第にガラスになっていくのに対し、浮遊するシリンダーの方はシュテファン広場の隅部をつくり他の広場と分節し、区画整理前のこの地域の街並みを想起させる形をとる。
シュトック=アム=アイゼン広場に対してはガラスについた列柱廊を対応させたが、これは1972年にカルロ・スカルパが委員長となって行われた設計競技でホラインが提案したものだったらしい。
シリンダーの分節はシュテファン大聖堂を想起させるし、屋上のボリュームが合体した造形は周辺の建物の屋根の作り方を強調したものだ。
この建物の構成や動線、ガラス等の材料の使用についてピーター・アイゼンマンはプラトン『国家』を引用して説明していて、それは正直よくわからなかったのだけれど、ガラスに映るシュテファン大聖堂そしてキッチュな材料の使用はどこか皮肉的で理性的。
フンデルトヴァッサーハウス (1983-1987)
「直線は神なきものであり非道徳的なものである。直線は、非創造的的であり再生産された線にすぎない。そこには、神も人間精神も宿ることなく、ただ快適性のみを追い求め考えることを失った大衆がいるだけである」
この理論にさえなっていない宣言を出し、新表現主義の潮流を��実にしたフンデルト・ヴァッサー。彼の宣言の背景には第二次大戦後から中国革命、ベトナム戦争、そしてインドネシア独立戦争等の現実を眼前にして生まれた地域主義・経験主義・新表現主義という3つの考えが深く関わっている。
政治的に平和共存の社会への希望が挫折し、技術への不信感と人格や地域の伝統へのロマン的嗜好が高まった結果生まれたのが、地域主義(昔ながらの建築の作り方、理解されやすい形態・技術、伝統との結びつき)であり、経験主義(親しみやすさのための自由な形態・色彩・材料)であり、新表現主義(人間性の回復、形態の多様性と豊かな表現)だった。
建物は木材、陶器、ガラス、煉瓦等様々な材料でできていて、色とりどりの壁面、大小様々な窓、球体や円柱など様々な形を組み合わせた柱等、まるで絵本の中の世界のようだ。
色や植物に溢れる華やかなファサード、大理石等高価な材料・工業製品の不使用。建築の構成は全く面白くないが、ロマンいっぱいの超個人的建築。
Hotel Sofitel Vienna Stephansdom (2010)
ガソメーター(1999-2001)
(参照:http://www.wiener-gasometer.info/images/historisch/gasometer6)
DC タワー1(2014)
シェーンブルン宮殿(18C)
最後にウィーン郊外に建つシェーンブルン宮殿。
マリアテレジア時代にロココ様式で改修され、明るい淡白さと女性的な優しさがある。優美かつ繊細だがウィーンらしく平面的で、付け柱もほとんど壁面から飛び出さず、中央のボリュームも左右の翼からほとんど出て来ない。裏手には巨大な丘とその上にグロリエッテが建ち宮殿からの視線を受け止める。こちらは独立柱の列柱が並び記念碑的で、また宮殿の南に位置しているから午後には太陽がハプスブルクを象徴する双頭の鷲の背後から後光のように強烈に輝く。
ベルサイユのような永久に続いていくような庭園ではないが、限られた敷地と地形の捉え方で権力を象徴した大舞台。
王都ウィーン。
昼過ぎに居眠りをして見る浅い夢のような儚さと幻想性。
見た目はこざっぱりと品があり、それでいて中身は濃厚。
まるでザッハトルテのようなウィーン。
また行こう。
以下はグラーツ、ザルツブルク。
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Le corbusier
建築は単なる事業なのではなく詩なのだと、気づかせてくれるもの。
フランス東部オート・ソーヌ県のロンシャンを見下ろす丘の上にこの礼拝堂は建つ。四方を豊かな自然に囲まれ、西はソーヌの平野、東はベルフォールの隘路に開け、ヴォージュ山脈とジュラ山麓に挟まれる。ノートルダム=デュ=オーの礼拝堂(Notre-Dame-du-Haut)。
ごつごつした外観に相反し、外壁の大部分は耐力を担わない。
三角形の形をした耐力壁の両側に金網が引かれ、そこに厚さ4cmのコンクリート膜が張られていて、厚そうに見える壁はフェイクでしかない。
その代わりに、構造から解放された壁は詩を語ることを仕事とした。
東と南の窪んだ外壁はともに訪問者を迎え入れる役割を持つが、東側の外壁が祭壇を持ち「一万人の巡礼者」のために青空の下の礼拝堂を供するのに対して、南側の外壁は大地に呼応するように内側に傾斜する。西と北の外壁はくるりと内側に巻きつき、3つの塔はまるで蒸気船の煙突のように屹立する。
南側にあるエナメルで装飾された鋳鉄の扉。とてもカラフルで巨大なその扉はコンクリートの白い塊と対照的でとても綺麗なのだけれど、そこからは内部に入ることはできない。内側に巻かれて塔を形作っている北西の外壁ぐるっと回ると、そこには屋根に降り注いだ雨水を美しく流すガーゴイルと塔に挟まれた入り口がある。
透かし彫りのように南からの日光が色とりどりに入り込む。城壁に穿たれた窓のように先が小さくなっているから、側面に色が写り込んでとても綺麗だ。色を塗られたガラスはステンドグラスと異なり、近づけば風が木の葉を揺らすのがわかるし、遠く山脈を望むこともできる。
正面を向けば、北から祭壇をほんのり照らす光や天井との隙間を通る線のような光、ゴシックのような縦に連なる光も星のようにまたたくような小さな光もある。床は斜面に沿って傾斜し、屋根は湾曲して覆いかぶさってくるかのようだ。
3つの塔はそれぞれ小礼拝堂を囲い込み、上方から光を落とす。
東からは朝日の強烈な光を赤い壁に反射させて建物に火を灯し、北からはぼんやりとした光を拡散させ、西からは1日の最後の光を唯一建物に落とす。
この礼拝堂と合理主義との関連について以下のように言われている。
「...非合理主義的な彫塑的建築であって、それはル・コルビジェ自身の合理的立場を危うくするように見える。.....この礼拝堂の表現は宗教的課題を機能と同時に人間の感情との関連で追求した結果得られたものであった。」
ー『現代建築の潮流』
光、窓、外部と内部、上と下、重さと軽さ...明確で効果的ないくつもの遊びにあふれ、誰もが歩き回り発見者になれる、建築の楽しみを凝縮した建築。近代建築五原則、何それおいしいの?
小さな家(Villa Le Lac)
スイスはレマン湖の湖畔に建つ母の家。
湖畔には家屋が並び、斜面には葡萄畑と鉄道が走る。
15m×4mの長方形をしたこの住宅では回遊性が面白いとか最小限の寸法が面白いとか人によって色々意見はあるようだけれど、何といっても湖をどのように眺めるかが一番大切であると思う。
家の前に立つと、湖は高い塀によってほとんど眺めることはできず、玄関を訪れてもそれは変わらない。ところが、リビングに至ると突然眼前が開け、11mもの長方形の窓から湖を眺めることができ、それは水平に湖を切り取った絵画にようで平面的だ。
ゲストルームを抜けて小さな階段を降りて庭に出ると、窓の空いた塀とコンクリートのテーブルで設えられたテラスに至る。このテラスでは湖を正対して眺めるのではなく、列車で旅に出るときのように風景を斜めから眺め、とても動的でダイナミックで風景を眺めることができる。
前庭を抜けて外階段を上がるか、のちに増築された二階の寝室に至れば、そこからは湖とともに煙突、一階の屋根上のテラス、水辺に降りていく階段を同時に眺めることとなる。ギリシャ、サントリーニ島の集落の書斎から地中海を見下ろしている、そんな気持ちにさせてくれる。
そして、室内から庭へ出るときの階段、庭から湖の防波堤に設けられた小さな階段。それら境界を超えるところに設けられた階段は僕らの動きを些細だけれど劇的に見せてくれる。
とても小さくシンプルな住宅だけれど、随所に詩的イメージをちりばめた絵本のような住宅。
一見、一つ目の建物は彫刻的で恣意的な形であって表現主義的であり、二つ目の建物は合理的で「ふつうな」建物だという風に見えるかもしれない。しかし、実際にはそれぞれの課題に対して合理的な回答を持って答えたものであり、すべての形には理由がある。ただ、その理由が経済性や「使いやすさ」(使いやすいものが本当に使いやすいかは別として)ではなく、詩的イメージに置かれているのだろうと思う。
小さな家を訪れたとき、日本人の大学の研究室一行15人ほどが他にも訪問客がいるにも関わらず建物の至る所で実測をし、景色の良いテーブルを独占し、無許可で椅子をひっくり返して実測していて、管理していたお姉さんがひどく困惑し、他の訪問客は怪訝な顔をしていた。本当は建物を尊重などしていないのであろう彼らが、同じ日本人としてひどく恥ずかしく注意しようとしたが、その大半が30歳以上中には60歳近い人もいて何も言えなくなってしまった。
篠原一男は他人の敷地に入る時には必ず靴の汚れをはらったという。学部の時には、そういう「物への感性」がなければ建築などやめてしまえと先生に言���れたものだった。
海外にいても日本の年齢の序列を気にして何も言えなかった自分をひどく情けなく思い、帰路につく。小学生の自分だったらひどく彼らに悪態をついて、絵本のような彼の建物をもっと楽しんでいたのであろうに。
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Nederland
カラフルな夢の国
世界各国の港町の例に洩れず、ここアムステルダムも寛容な街だ。
売春やドラッグはもちろん合法だし、ユダヤ人等の他民族だって受け入れる。デカルトだってスピノザだってアンネ・フランクだって逃げてきたここは、街並みも建築もどこか温かく人間的で、自由に満ちている。
(そういえば、美輪明宏が子供時代を過ごしたころの長崎も同性愛者を、キリスト教を、西洋文明を受け入れる街だった。美輪明宏の自伝『紫の履歴書』は描写の美しいドキュメンタリーとして傑作。)
16世紀のアムステルダム
堤防上の道路に沿って建てられた集落は13世紀には都市に発展した。それぞれの大きな河川にはダムが建設されて、そのダム自体は中央広場となり、タウンホールや軽量所、時には教会が建てられたのだという。主な河川の間には代替水路が引かれ、主な交通路として河川沿いに交易に関係する倉庫や事務所が建設されたほか、それらの河川の間には交易に関係ない住宅や作業場が置かれた。
(参照:http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00902/1996/16-0319.pdf)
17世紀のアムステルダム
アムステルダムの経済は急成長し、人口流入で20万人を超える都市に成長した結果、市域の拡張が急務となった。1612年からは三本の同心円状の運河が開削され、運河に沿って宅地が造成された。西教会を中心に裕福な市民が居住し、高さ10mほどに抑えられ間口の狭い住宅が立ち並んだ。3運河沿いは今でも高級住宅地として良好な環境が維持されている。
その西側のヨルダン地区は都市域に編入される以前の農地の農道と水路の土地割に沿っていて、同心円状とは無関係のグリッドに乗っている。二つのグリッドの接する部分では不規則な平面を持つ建物も多い。この地区は外国からの宗教上の避難民や下層労働階級の居住地となった。
(参照:http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00044/1991/11-0155.pdf)
ベネチアを始め、各地の港町ではどこかもの寂しさが漂っていると思う。
空は曇り、霧の中をボートが行き交うベニスの商人の世界のような、
ソーダ水の中を貨物船が通るユーミンの『海を見ていた午後』のような。
窓が大きく、間口が狭いから威圧的な感じを与えないからだろうか、
不思議とこの街では温かさと明るさがもの寂しさより優っている。
建物の材料が石ではなく煉瓦だということや、家の中の家具や人を街路から見ることができるからかもしれない。
ちなみに、写真にもあるボートハウスはアパートのように賃貸で住むことができ月に500ユーロほどの金額で住むことができるが、非常に人気で予約が取れないのだという。
アムステルダム証券取引所 (1889-1903)
オランダ近代建築の父、ヘンドリク・ペトルス・ベルラーヘの代表作。
1602年設立の世界で最古の証券取引所であるアムステルダム証券取引所のため、のちに中心の河川を埋め立てて建てられた。写真は中央駅駅方面のファサードで建物の裏側にあたる。
外観は幾つかのファサードをスーパーインポーズして重ねたかのようで、アムステルダムの街並みを編集したかのようで周囲によく馴染んでいる。
一方で、反対側の広場に面するファサードは鐘塔とロッジアで平面的かつ記念碑的にできている。
ホールのアーチはライズが低く、斧や仮面のようでもあり宗教儀礼を思い起こさせる。
さて、レンガの組積像の上に鉄骨でアーチを組むことも、ガラスの天井を持つことも当時全く新しいこ��ではなかった。
では、なぜ彼がオランダ近代建築の父たり得たのか。
19世紀の産業革命以降、鉄骨の普及と歴史主義の普及によって、クリスタルパレス等の鉄とガラスで作られる建築や、ベルリンのアルテス・ムゼウムのようなギリシャ・ローマ等かつての建築様式を編集して作られる折衷様式の建築が主流となっていた。
そんな中で彼が打ち出したのは滑らかな平面の詩学だ。激しい凹凸のない平面を美しいと思う感性。この感性はミースファンデルローエ等合理主義建築家たちに引き継がれ、今でも僕らの世界の美的感覚の一部になっている。
19世紀の間に一度解体した壁が、ここに禁欲的な閉鎖性を取り戻した。
(写真: https://de.pinterest.com/pin/335870084681477120/)
(写真: http://www.jbdesign.it/idesignpro/Hendrik%20Petrus%20Berlage.html)
海運ビル (1911-1916) ヨハン・メルヒオール・ファン・デル・メイ
ベルラーへ以降オランダはアムステルダムを中心にし、表現主義的建築を模索するアムステルダム派とロッテルダムを中心に面と線による建築を推し進めるデ・ステイルによって発展していくこととなる。
「建築には装飾が必要だ。」この海運ビルはそんなアムステルダム派の始まりを告げる金字塔であって、彼らの夢があふれんばかりに詰まっている。
アムステルダム臨海部に建ち、三角形平面の中心に豪華な装飾を施した階段ホールをもつ。階段ホールは海図の描かれたトップライトからぼんやりとした白い光を採光し、折返し階段が上昇する。手すりや天井は波のようにリズミカルに踊り、くっきりとした陰影を作り出す。深海生物やタコをかたどった照明やネプチューンの銛の形をしたドアの取っ手、星座をモチーフにした装飾など、海洋をテーマにした物語が無尽蔵に現れる。
下の二枚目の写真は、かつて航海へ向けたチケットを販売する場所だったらしい。この建物は現在高級ホテルとして使用されている。
古典主義に基づかない形態をいかにつくるのか。
アールヌーヴォーが鉄の技術を応用して植物を模ったように、ここではコンクリートによって海洋を量塊によって表現している。
Zuid Plan (1917)
1901年に労働者住宅の改善を目的に住宅法が制定され、ベルラーヘによってアムステルダム南郊にこの低所得者住宅は建設された。主要幹線を美的に処理し、アイストップには公共建築物をおいて都市的な要請に応えるとともに、細い街路と細長い街区を採用し、入り隅と出隅を組み合わせた広場をバランス良く配置した。街区の中庭は労働者たちが集まることができる場所として想定されていた。
スパールンダムメル緑地の集合住宅 (1913-1919) デ・クレルク
アムステルダム派は石とレンガ、茅などのオランダ古来の建築素材を使用し、建築形態の可能性を追い求めると同時に、労働者階級のための集合住宅をアムステルダムに生まれた新街区に建設した。
「The Ship」と呼ばれる、まるで豪華客船のようなこの集合住宅はアムステルダム西側に立ち、学校や郵便局を抱え込んだ労働者住宅として計画された。
ファサードは構造や機能との対応をほとんど持たず、レンガの目地や屋根瓦が装飾的に用いられて、波打つとともに水平線を強調した造形がなされている。
こうした夢のような装飾は、近代以降「罪悪」として忌避されてゆく。
だが彼らはこう思ったのではないだろうか。
労働者こそ夢を見るべきではないかと。
ヘンリエッテ・ロンネル広場の集合住宅 (1920) デ・クレルク
スパールンダムメル緑地の集合住宅以降、彼はベルラーヘの平坦な抑揚の少ない表現に立ち戻った。ここでは実際は巨大な集合住宅を住宅単位に分割し、各々6世帯用のアパートメントハウスとして設計し、公園沿いに戸建て住宅が建ち並ぶように見せている。
まるで、幼稚園で4つ子が並んで母親の迎えを待っているようで、キュートかつユーモラス。
NDSM (オランダ造船会社) 造船所跡
アムステルダム中央駅から運河を挟んだ対岸にこの造船所は立つ。周辺は巨大な空地と放置された工場が立ち並ぶ漠然とした場所だが、工場に一歩足を踏み入れると世界は一変する。
工場内には小さなアトリエが積み重なり、スケートパークやイベント会場が並ぶ。
1984年のオランダ造船会社(NDSM)の倒産以降、アムステルダム北部のこの工場地帯は社会から放置された状態が続き、千を越えるアーティスト、デザイナー、劇場関係者、新鋭芸術家達が無断占拠の形で建物に住み着き表現活動を行っていたという。
しかし、アムステルダムの数多くの工場跡や古い波止場が完全撤退や廃棄の対象に上がり、アムステルダム市の支援を受けたアーティストのコミュニティがこの土地の使用権を購入し、この土地一帯を管理しているらしい。
アムステルダム中央駅とのフェリーも再開し、アムステルダムの芸術の中心として人気の場所となっている様だ。
新アムステルダム国立美術館 (2013)
建築家は真ん中の道路を美術館へ至るスロープとして計画し、自転車の侵入を禁止する計画でコンペに勝利したが、市民はこの設計に猛抗議。結果、美術館の再開まで10年の月日を要したが、無事自転車でも通り抜けできる美術館として改修された。その経緯は下のリンクにて。
https://www.youtube.com/watch?v=NuILclQ7Bv4
ピトン橋
オクラホマ (1994-1997) MVRDV
シュレーダー邸 (1924) リートフェルト
モンドリアンらが在籍したデ・ステイルは、建築においては三次元的なヴォリュームではなく面と線による造形を目指す。
有史以来、建物はヴォリュームー量塊の組み合わせで建物を建ててきた。
そこでは閉じた箱を想定し、それを組み合わせることで建築を成立させてきたが、それは伝統的な教会が基本的には直方体や円柱の足し算で構想されていることからも容易に想像できるだろう。
これに対して、デ・ステイルは面と線による造形を提案する。
箱は当初想定されず、面と線を組み合わせた結果生まれる場所が空間となるが、これは現代的なオフィスビルが床と柱という面と線によって成立し、ガラスが補助的に周りを覆っていることからも想像できよう。
ユトレヒトに建てられたこの実験住宅はデ・ステイルの形態言語を発展させ、白・黒・灰色の面と赤・青・黄の三原色からなる線から建ち上がる。
水平要素と垂直要素は互いに交差し、かみ合い均衡を取る。
Markthal Rotterdam MVRVD
Cube House (1978)
一見ひどく乱雑としたこの建築はロッテルダムの旧市街の周縁に建てられて、旧市街と港湾地区を陸橋によって結ぶ。
住宅の入るキューブは傾けて持ち上げられているから、陸橋のレベルには光や風が良く通り抜けている。
少し上がった場所には3住戸で一つのテラスが設けられ、そこから各住戸への玄関に至る。住宅は玄関、リビングダイニング、ベッドルーム、テラスの四層に分かれ、リビングダイニングでは壁が上方に広がっていくから開放感を感じ、ベッドルームでは壁が上方にすぼんでいくから包まれるような感覚を覚える。
開口部に関して、下二層では視線は下向きに、上二層では視線が上むきになるため、他の住戸と視線がかみ合わずプライバシーが守られているように感じた。
オランダは夢の国だ。
有り余る自由と平等がここにはあって、合理的思考と個人の尊重によってそれが支えられている。オランダに生まれた合理主義建築も表現主義建築も両者この原則に根ざしているように思える。
オランダ建築の懐の深さはこんなところにあるのだろう。
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Berlin
今この時代で最も面白い街の一つだと思う。
ベルリンは何と言っても壁の街だ。
東西冷戦時代に建造されたいわゆる「ベルリンの壁」だけではなく、都市国家ベルリン=ケルンを囲っていた13世紀の城壁、大選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム(祖父)が築かせた17世紀の星型城壁、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルムⅠ世(孫)の建設したベルリン関税障壁が未だに都市の骨格を決定づけている。
都市国家ベルリン=ケルンを囲っていた13世紀の堀(後に城壁も建設される)
http://www.kcn.ne.jp/~ksuzuki/nachlass/berlin/berlin-3.html
現在のベルリンはベルリン Berlin とケルン Cölln (新年に暴徒事件のあったKölnとは異なる)という中洲に生まれた二つの集落から発展し、中世には二重都市として発展した。現在美術館島として世界遺産登録されている地区がケルンの庭園部分であったことが伺えるだろう。また、それぞれに地区教会を持ち現在のニコライ教会も見うけることができる。
大選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム(祖父)が築かせた17世紀の星型城壁
http://www.kcn.ne.jp/~ksuzuki/nachlass/berlin/berlin-9.html
現在のアレグザンダープラッツに至る東西線、山手線で言えば東京駅から新宿を結ぶ中央線であるが、これはこの城壁の跡地に高架鉄道として建設された。ちなみに、なぜ城壁の先が尖っているかというと、敵に死角を与えないためらしい。
http://www.waseda.jp/w-com/quotient/publications/pdf/wcom425_03.pdf
プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルムⅠ世(孫)の建設したベルリン関税障壁
ちなみに、ベルリンの観光名所であるブランデンブルク門はこの関税障壁に作られた門の一つで、行き先の地名を示しており、ベルリンに点在する「~Tor」という名はその時代の名残なのだとか。
ドイツ国会議事堂
非常に有名なノーマンフォスターの手がけた改修。
ガラスに覆われたドームは二重螺旋のスロープによって形が決定され、見学者を上部の展望台へ誘い、展望台からはベルリン市街とデンマーク戦争の戦勝記念塔の金の天使を望むことができる。ドーム下部の議事堂とは視覚的に連続していて、「開いた議会を象徴する」とは有名な話であるけれども、ドーム中心の逆円錐形が太陽の位置によってガラスの角度を変え、議場に一定して光を落とすことと、内部の空気を自然換気によって放出していることは以外と知られていない。
ドーム。パンテオン以来、閉鎖性と同時に壮大な宇宙観を提示してきた使い古された建築言語は、ここでは神の死んだ時代の開放性と現実的な世界を見せる役割を持っている。
ユダヤ博物館
目の前に無いものを想像することはとても難しい。
プラハやベネチアには今でもユダヤ人地区が現存し、彼らの生活を偲び、その悲惨な歴史を今でも感じることができるけれど、ベルリンにはその生活の跡がまるで無い。まるで無いから、きっとこの建物なしでは展示品はイギリスの大英博物館に置かれたモアイ像のようになったいたかもしれない。建物自体にも展示品と同等の価値が求められたからこそ、ユダヤ系アメリカ人のダニエルリベスキンドのこの案が選ばれたのだろう。
建物は脱構築主義の例に漏れず、スケールの欠如、表層への関心等あるけれど、何よりもストーリーに満ち溢れている。溢れすぎている。
「3つの軸」(亡命の軸、継続の軸、ホロコーストの軸)。「亡命の庭」、「ホロコーストの塔」「ヴォイド(線と線の間の設計)」
関連しない複数の事件が次々と起こる推理ドラマのようで、彼独自の建築言語がポンポン出てくるから、一体何が形を決定しているのかがとても分かりにくいけれど、そう考えること自体ナンセンスかもしれない。
映画と違って直接お金を生み出してはくれないから、映画としての建築が成立するかのラインは空間に説得力があるかどうかだろう。その点、「3つの軸」はともかく、「ヴォイド」に関しては成功していて、ひどく冷たく、そしてひどく何もなかった。
虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑
これは海なのだと思う。
もちろん外から見ると墓石の群れのようなのだけれど、歩みを進めていくと知らず知らずのうちに体は群れに吸い込まれて、地面は波打ち、周囲の雑多な建物は視界から消える。ただ空と繰り返される影、突然現れる通行人だけが見え隠れして(びっくりする)まるで、海の底に沈んでしまったかのように、穏やかで途方もない気持ちになる。
中学生の時、夕暮れ時一人校舎の裏の忠霊塔に一人腰掛けていたことを思い出す。それはタワーだった。
通っていた中学校は墓地を掘り起こして建てたから、校舎の裏手の日の当たらないところ、敷地のギリギリのところのそれを建てられたのだけど、なぜタワーだったのだろう。
背後に説明などあるものだから、自分はその周りをぐるぐる回っていた。
回っていた?!
WTCの跡地には双子の地下に流れ落ちる滝が作られたけれど、滝の淵には亡くなった人の名前が刻まれている。きっと親しい人の名前を見つけるまで穴の周りをぐるぐる回るのだろう。
立方体の反復で水平に広がるこの記念碑は一見単純だけどひどく複雑で、
ぐるぐる回るだけの単純さなどとは別次元だ。
地下の展示室の入り口にはイタリアの詩から引用した一節が掲げられている。
“It happened, and therefore it could happen again; this is the core of what we have to say,”
ニュー・ナショナル・ギャラリー
Less is moreとはよくいったもので、敷地への関心はless、ヒューマンスケールもlessであれば、空間的遊びもless、機能的要請への関心もlessだった。基壇の上にどしんと載るのは、8本の十字形断面の柱によってピン支持された溶接鋼材の大屋根と構造支柱から自由になったガラス面。これはもともとキューバに建てる予定だったものをほとんどそのままここに実現したことからも分かる通りの、ひたすら構造形態の洗練につき進んだ彼の記念碑。
ベルリン科学センター
ベルリン・フィルハーモニーホール
敷地はかつての東西ベルリンの境界近くにあり、その当時まだいわゆるベルリンの壁の建設前であったから、ハンス・シャロウンはここに東西ベルリン市民の交流の場所を作ろうとしたと聞いた。このため、このホールには「裏」がなく、周囲のどこからでもアクセスすることができ、ホワイエは幾つもの階段や高低差があってまるで中世都市の街路のようだ。ステンドグラスから光が差し込む中を座席への経路は枝分かれしながらどんどん上昇していく、どこまでも行けそうな予感。
パリのオペラ座やミラノのスカラ座は王政時代の華やかさで満ちていて、人間スケールは超えているけれど、それはそれでかつての王侯貴族の見栄と止まることを知らない想像力を感じられて楽しい。日本の新国立劇場のような建物は集団としての人間の視点が求められて、数百人がまとまって同時にいることを前提とした空間が作られた。「〜人が一緒にいれる大きさ」ということで計算して設計されているから大量の観客を効率的位に裁くことができるのだけど、どこか自分が集団の中の取るに足りない一人のような気がして、寂しい。それに対して、ベルリンフィルは十数人のスケールの場所が至る所にあって、個人の尊厳を失うことなく集合することができる。
ホールは中心に作られたステージを観客が囲む形式で客席は幾つかのグループに分かれて設けられている。中段にも演者が踊ることができるスペースがあって観客と演者が一体となることができるのだという。
ちなみに、毎週火曜日には無料のコンサートがホワイエで行われていて、皆階段や地面に腰掛けて本当に街路のようだった。
広場に置かれた金色に輝く仮設テントなんだ。
Neues Museum
世界遺産の美術館島に建つ博物館。
第二次世界大戦でその大部分が破壊されたものをデイビット・チッパーフィールドによって戦争で欠けた部分を補うかたちで改修された。
日本で歴史的建築物の改修となると「復元」の話がよく出てきて、さていつの時代がオリジナルでいつの時代のものを手本に復元するかということではた困ったとなる。日本人に親しみ深いものは東京駅の改修で、東京駅の屋根は建設当時の丸屋根のもの、爆破されて壊れたもの、再建された八画垂のものの3種類があって、当時はすべての屋根を3つの屋根でそれぞれ表現して改修するなんて案も歴史家から出されたほど。結局、口当たりのいい「建設当時の姿に復元する」という考えで、再建されたのだけれど、ご高齢の方しか知らない東京駅が復活してどこかよそよそしく、ポップな黄色で塗られたホールは真新しくて安い結婚式場のよう。
また、古いものと新しいものを「対比」させようというというものもあって、ロンドンのテートモダンなんかがその例になるだろうか。
他に改修で有名なのはカルロ・スカルパのカステルベッキオ美術館で、彼はそこで古代ローマ時代からナポレオンの時代までのあらゆる建物の歴史を「並置」することを目指して、古い壁の表面を引っぺがして5つ以上の時代の材料を同時に見せていたりする。ここでは「復元」するというわけではなく、いまあるけど隠れているものを明らかにして、新しい現代という時代のレイヤーを足すという考え。
さて、この博物館で恐らく建築家が考えたのは、基本的には失われたものを再建すること、ただし再建されたものはそれと分かる形で。だから、再建された柱や階段は白いコンクリートで再建されていて一目でそれとわかり、大階段は装飾を抽象化してマッシブなコンクリートで、エジプトの中庭は装飾のあったであろう円柱を抽象化して角柱で表現される。「復元」に近いけれど「対比」でもあるような、そして壊れた壁も部分的に残されているから「並置」でもあったり。
全体ではとても厳格であるけれど、中庭に建つフォリー(??)の図と地を反転させて上階から地下までを一体化させたり、中央の階段をさらに下の階に連続させるなど、シンプルで効果的な手法でおもしろい場所をいくつも作っている。
ドアの木の組み方一つを取っても面白く、考え方を変えるだけでこんなにも世界が変わるのかと考えさせられ、うろうろすること気がつけば5時間。ちなみに、展示室の各部屋はそれぞれ建築意匠・構造の歴史そのものになっていて、天井、柱、門があらゆる様式でつくられている。アーチ、ボールト、ドーム、ペンデンティブドーム、タイビーム、格天井、オーダーの各柱、等々諸々の建築言語が、煉瓦、石、鉄、コンクリートの材料で作られていて、展示室をめぐるだけでも壮大なドラマを体験出来る。
チッパーフィールドの事務所に勤めている方は素材感の良さを挙げていたけど、自分はそれに知性を加えて、近年の傑作の一つだと思う。
サンスーシ宮殿
さて最後にベルリン近郊のポツダムに建つサンスーシ宮殿。
宮殿はブドウ畑の小山の上に立ち、遥か南のハーフェル川を望む。北側の半円状に広がる列柱廊からアクセスし、南のブドウの装飾を施されたホールへ至り、ブドウ畑へ降りていくことができる。建物は一層の小規模なものであるにもかかわらず、地形を巧みに捉えて威厳のあるファサードを作り出している。夏には階段状の庭園が緑で覆われ、連続する末広がりの階段とともにスカートを履いたような華やかさで王侯貴族や学者たちを迎えたことだろう。エントランスの回廊からは北側の山の斜面と遺跡を望むことができ、ランドスケープと一体となった配置計画がなされている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%82%B7%E5%AE%AE%E6%AE%BF
さて、ベルリンでは落書きだらけであったりやエレベータに穴の空いたアパートメントばかりが立ち並び首都とは思えない様相であったけれど、そうしたところがアーティストたちの居場所となっていて偶然生まれた自由な空気を胸いっぱいに吸い込んでいるように見えた。
そんなベルリンにも開発の手が迫っていて、ソニービルを筆頭にどんどん綺麗になっていく、まるで東京から「原宿」、「渋谷」、「下北沢」、「吉祥寺」が消えていったように。
かつてはそれがとてつもなく悲しいことのように思えていたけれど、その変化こそ新しい可能性を生み出しているように思えて、そして一層その時代にそこにいることの喜びを感じることができて、何となく受け入れられるようになったのがついこの間。
いいものも撮れたしね。
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