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tanakazuhiko · 4 years
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フリーコンサートと寿町について
 『寿町フリーコンサート』の存在は、心に引っ掛かっていたバンド『じゃがたら』を通して知り、横浜に越して以来運営に関わるようになりました。
 『ウォーターフロントがブームになったりしてるだろ。たしかに設計したヤツの才能もあるかも知れん。だけどな、その建物を作っているのは誰だ?  そこを工事して働いていたおっちゃん達だぞ。そこを忘れちゃダメなんだよ』 1989年。完全に同意です。
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 現場の勘と職人技でステージや夏祭りの櫓を組み上げていく。それも生意気な現場監督につべこべ口出しされることなく。あれほどクリエイティブで自由、かつ幸福な現場はないと思います。熟練の棟梁たちと汗を流し、ポリバケツの冷えた麦茶を飲み干す至福。
 その現場に40年来関わり続けているのが、隣町にある障害者作業所職員たちであることは、もっと知られるべきだと思います。知的障害の息子も就職相談でお世話になり。先鋭的なハードコアパンク系バンドに障害者の介助者が数多く存在しますが、その先駆とも言えるのではないでしょうか。
 大正12年創業、寿を代表する酒屋『山多屋』。その角打ちの軒先から町を眺めていると、車椅子を押すヘルパーが本当に多く。統計によると高齢者の人口比率は全国平均の倍。時代に取り残された町が、この国の数十年後の姿を先取する逆説。もはや寿は日本で最もベーテルに近い町の一つなのではないでしょうか。
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 もし自分が職を失い帰る家も家族も無くしたらどこに行くか、いつも考えます。タワーマンションが立ち並ぶ高級住宅街など、町全体が排除アートと映るのではないか。寿には道端にへたり込んでいても受け容れられる風土があります。それは経済的に困窮した者だけでなく、この社会に生きづらさを感じる全ての人に、開かれているのではないでしょうか。
 1968年祥雲荘火災を契機とする住民団結から、1975年生活館自主管理へと至る時代の熱。あるいは木下陽吉、田中俊夫、宇田知道、谷川弘、村田由夫、野本三吉ら、寿と生きた人々の精神性。そういったものの放つ熱量が、寿の路上に、未だ人肌のぬくもりを与えているのではないかと思います。
 1989年『もうがまんできない』。ステージに上がったおっちゃんを後ろから抱き締めながら「心のもちようさ」が「心の気持ちよさ」に昇華するあの瞬間。
 李政美『京成線』。関東大震災後、日本人の手で殺され荒川土手に埋められた同胞への追悼とともに、自らが生まれ育ち、またかつて虐殺の現場となった異郷の地を『この町もまたふるさと』と歌う。自分もまた、寿という町をいつかそう呼べる日が来ることを願っています。
寿町フリーコンサート40年記録誌/田中 一彦 寿町フリーコンサート実行委員会 2019年8月12日発行
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tanakazuhiko · 4 years
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日本で BLM を叫んだ貴方へ
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問1. 「日本でアメリカのことについて声をあげたって何が変わるの?」
 日本で BLM に関して興味を持ったり実際に声をあげた人の多くも、きっとこの質問について考えてみたことがあると思います。BLM 運動や香港の民主化運動など、今日本で市民たちが連帯の声を出している問題は、残念ながら私たちの手では解決できなさそうに見えます。そこに住んでいる訳でもありませんし、その地域の投票権を持っている訳でもありません。すると、つい「残念だけど日本で抗議したって何も変わらない」と思��てしまうかもしれません。そんな方に、八〇年代の韓国民主化運動を経験した私の父の話を聞いてもらいたいです。
 光州事件、について聞いたことがあるでしょうか。一九八〇年、韓国南部の光州という都市で韓国の軍部独裁に反対するデモに参加した市民たちを、軍の特殊部隊が残虐に殺した事件です。市民たちを虐殺してデモを制圧した軍部は、メディアを統制して事実を隠蔽し、光州事件を民主化運動ではなく北朝鮮の指令によって始まった「内乱」として韓国国民に報道しました。
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出典:imidas, 2020
 しかし、外国記者の取材によって光州事件の真相は韓国以外の世界各国に知られました。そして事件の一年後の一九八一年、光州事件の映像を基に日本では『自由光州』というドキュメンタリーが制作されます。画家の前田勝弘さんなどによって制作されたこのドキュメンタリーフィルムは、韓国に密輸入されて大学生を中心に多くの若者たちに観られたのです。八二年、私の父も大学のサークルの人々といっしょにこっそりとこの映画を観たと聞きました。韓国では禁止された真実が、日本を通って韓国に知られたのです。
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出典:Kプラス
 日本の市民社会は韓国の民主化運動の事実を広げるところで止まりませんでした。光州事件だけではなく金泳三・金大中など韓国の野党政治家に対する韓国軍部の弾圧があるたび、日本の市民社会は不道徳な韓国軍部政権を容認する日本政府をも一緒に批判しました。きっとその時も「日本で韓国のことについて声あげたって何か変わるの? バカじゃね?」と笑った人が居たでしょう。しかし、韓国の市民たちの犠牲、そして彼らの血と涙を忘れずに一緒に声をあげてくれた世界の市民たちの力で、韓国の民主化は実現されました。無関心と冷笑ではなく、連帯が勝ったのです。
 香港の民主化運動や BLM 運動に関して、日本で出来ることは僅かに少ないかも知れません。しかし「日本で声をあげたって何も変わらない」という冷笑に、私たちは『自由光州』のビデオを取り上げてはっきりと答えることが出来ます。「何もしなければ何も変わらないけど、何か小さいことでもしたら、それがいつか変化の手がかりになれる」と。日本で私たちが BLM 運動への連帯の声をあげるのは、決して無意味ではありません。キング牧師の言葉を覚えてください。
「どんな場所の不正義も、あらゆる場所の正義への脅威である(Injustice anywhere is a threat to justice everywhere)」。
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出典:The Bedford Citizen, 2020
Moment Joon 現代思想 10月臨時増刊号 BLACK LIVES MATTER 二〇二〇年九月二三日発行 青土社
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tanakazuhiko · 4 years
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差別発言は「間違っている」
突然お便りさせて頂きます。 お忙しい日々をお過ごしの事と思います。
十月四日の中日新聞を読みまして、私の気持ちをお伝えしたく、書かせていただきます。
私はもうすぐ八十二才になります。 孫の一人が男性ですが、現在男性と一緒に生活して居ります。今、二十六才です。
白石様や杉田様(編集部注:衆議院の杉田水脈氏。「 LGBT は生産性がない」 などと発言し、松岡さんの祖母はそのことに対しても怒っていたという)は同性愛者の人は趣味とお考えではないでしょうか? もしそうだとお考えでしたら、とんでもない思いちがいなのです。
生まれた時からで、治る治らないと云うものではないのです。 自分がどうしても、どれだけ頑張っても、どうにもならないと云うのが、この性の問題なのです。
今、日本の少子化は本当に心配事ですが、自分が好きで同性愛者になったわけでもなく、自分自身にとっても絶対に変える事ができないものなのです。
もし、白石様のお子様かお孫様が LGBT のどれかに関係がお有りでしたらどうでしょう。
新聞に書かれた様な記事は当事者にとっては死への思いを強くします。あまり詳しくない私でさえ、この様なお考えはおかしいと思います。もうこの世に居場所がなくなる…と、自殺に繋がります。
「同性愛が広がれば足立区が滅びる」 等と、恐ろしい言葉を言わないで下さい。
白石様の周りにも LGBT の関係者がいらっしゃるでしょうが、あなたにわからない様に苦労なさっているのでしょう。
時代も変わり、LGBT であることを公表している人が増えてきているのをご存知ですよね。それに合わせて政治の内容も変わっていかなければならないのは当然の事だと思います。
これ以上この国の LGBT の人々が苦しまずに生きていける様にする事が政治が行なうべきことなのです。
是非、同性愛者の方と直接逢ってお話をしてみて下さい。
「人を差別してはいけない」 事を理解していただけますと幸いです。
どうぞよろしくお願い申し上げます。
十月五日 白石正輝様
差別発言は「間違っている」。「LGBT に詳しくない」 81歳 のおばあちゃんは、孫たちのために手紙を書いた https://news.yahoo.co.jp/articles/88129e6cae189d1852c9ce869c850c85ae2aaba7
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出典:ハフポスト, 2020
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tanakazuhiko · 4 years
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『違いは豊かさ|桜本、共に生きる街』
 多文化共生を模索してきた街・桜本に、思わぬ危機が訪れたのは2015年11月。在日コリアンを主な標的に「出て行け」「国に帰れ」などのヘイトスピーチを投げつける、いわゆる「ヘイトデモ」が、桜本を標的にしていることが分かったのです。
 こうしたヘイトデモは、数年前から東京などでしばしば見かけるようになっていました。それが在日コリアン住民の多い桜本で行われるー。「『ふざけるな』と思いました」と三浦さんは言います。
 当日は、三浦さんも崔さんも抗議のために現場へ。怒りとともに「『差別を許さない』という共感の広がりを感じた日でもあった」と三浦さんは振り返ります。インターネット上での呼びかけに応え、「カウンター」と呼ばれる抗議の人たちが大勢集まり、デモに向かって「差別をやめろ」と声を張り上げたのです。デモ参加者がわずか14人だったのに対し、カウンターに集まった人たちは約300人。最終的には、桜本に入る少し手前で、デモ隊はルートを変更して去って行きました。
 しかしヘイトスピーチを目にし、耳にした桜本住民、とりわけ在日コリアンの人々のショックは計り知れないものがありました。崔さんは「戦中、戦後のすごい苦労を乗り越えて、やっと豊かな老後を過ごしているはずだった一世のハルモニたちが『日本から出て行け』という言葉を投げつけられているのが、つらくて直視できなかった」と振り返ります。
 そして2019年12月、川崎市議会はヘイトスピーチに対し刑事罰を科すという、全国でも初となる「差別のない人権尊重のまちづくり条例」を全会一致で可決・成立。三浦さんは、かつてヘイトデモの現場でヘイトスピーチを制止しようとしなかったことを挙げて、「条例制定は大きな一歩」だと評価。崔さんも「市がヘイトスピーチを犯罪だと認めて、その被害から市民を守るんだと宣言したということ」と意義を語ります。
 とはいえ、条例は今年7月に施行されたばかりで、効果や実効性などは未知数の部分も。それだけに、きちんと機能させていくための���制づくりが今後の課題になっていくでしょう。それとともに、崔さんは「市民一人ひとりが、条例の主人公として運用に関心を持ち続けていくことが大事」だと話します。「『自分が差別をしない』だけでは社会は変わらない。きちんと参画して、差別を許さない声をあげることが、差別のない社会をつくっていくのではないでしょうか」
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『のんびる』 No.162 2020年9月13日発行 パルシステム
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tanakazuhiko · 4 years
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『歴史の狭間を生きる』 李 仁夏 (2006)
 『幸いなるかな柔和なるもの、汝は地を継ぐであろう』 東洋における朝鮮人キリスト者は柔和である。彼らは地を継ぐであろうか。少なくとも日本へ流入してくる人々は、そのように見える。朝鮮半島から日本へやってくる人々が、すべてキリスト者ではない。しかし彼らのうちの幾人かは、すばらしいキリスト者であり、神の愛する僕たちである。彼らは静かに一つの社会に入っていく。そして、彼らに認められた貧しい場所を占める。彼らはなすべき仕事を熱心にやり、決してトラブルを起こさない。あなたがたは、ある朝目覚めて、二階が貸されていて、そこが一つの教会になっているのを発見するであろう。彼らは柔和であり、親しみ深い人々である。(宇治郷穀「戦時中の在日朝鮮人キリスト者運動」『福音と世界』一九七六年一月号、新教出版社)
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『歴史の狭間を生きる』 李 仁夏(イ・インハ) 2006年6月15日 日本キリスト教団出版局
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tanakazuhiko · 4 years
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『明日に生きる寄留の民』 李 仁夏 (1987)
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  桜本保育園のモットーは、聖書からとった「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」という言葉である。自分を愛することと、隣人を愛することが複合してできた言葉である。自分を愛するとは、自分をありのままうけとめるこことである。韓国人は韓国人として、日本人は日本人として、ありのままうけとめる、それぞれの自己定立があって、始めて隣人愛に生きることができるということである。言葉を変えると、韓国人と日本人がお互いをありのままうけ���めることによって正しい隣人としての関係ができるのではなかろうか。
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出典:青丘社桜本保育園 1969-
  民族差別と闘う、部落差別と闘う、障害者差別と闘う等というと、これらのことばは今日人気がない。長い間、寝た子を起こすな、時がたてばそんな問題は自然に解消するといわれた。在日同胞も圧倒的多数は差別を恨(ハン)の世界に閉じ込めて来た。それが間違いであることが、過去十年間の民族差別との闘いの中で明らかにされた。人間を差別に追い込む不条理が明らかにされない限り、差別する側も、される側も人間性を回復することはできない。ブラジルの教育学者、パウロ・フレイレはその著『被抑圧者の教育学』の中で、人間の天職は抑圧し、抑圧される非人間化にある人間を人間化することであるといった。人間はあらゆる非人間的抑圧から逃げるのでなく、時にはその中に自己をさらしながらも、闘う中で人間として成熟していく。被差別集団の差別との共闘は、人間になる! という極めて普遍的な目標をもつものである。
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出典:Wikipedia
  私共の運動は狭い意味での自己解放だけが目的でない。拒否者の若者たちが闘いのなかで自分のアイデンティティ(自分が何者であるかを発見し、自己定立をとげる)を確立した瞬間、かれらは、日本人と共に、互いに尊重しあい、受けとめあえる関係にはいっていく確信を与えられる。私共の運動は、その質の故に、日本人のめざめと、差別体質の克服と国際化を促さずにはおかない。どんな運動も、普遍的真理に支えられないならば、人の心を打つことはできない。私共はそいういう意味で、「共に生きる」社会を実現することに目標を設定している。
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出典:Shoko Kanazawa
  かれ(七〇年代末就職差別と闘いながら韓国籍初の弁護士となった金敬得氏)が私の牧する教会の青年たちとの懇談の席で、極めて意味のある言葉を語った。「差別される側が、差別する側よりも、道義的に優位に立っている」。これは決して自明の理でもなく、また、差別される側の開き直りの論理でもない。私はかれの発言を聞きながら、イザヤ書五三章を連想した。時代の罪と不条理の故に、卑しめと苦難を生きる僕が、その重荷をあえてひきうけ、その時代の人々を贖う何か新しい創造的なものを提示できるのではないか、と。
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出典:MINDAN 2005
  「キリスト者は世界を地獄に落とし込むような、ぞっとする恐ろしい非人間的行為に向かって中立とか沈黙で対することができません。もし、体と魂を分離し、救いは、地上で苦難をうけ助けを求めることとは区別され、自由は死後の天国でのみ保証されるとするならば、イエスの福音的メッセージは水増しされ、薄められ、遂にイエスの福音は収奪されている者、拷問をうける者、抑圧をうける者たちのための阿片に誤用されることになりましょう。非暴力の思想が暴力的支配者に向けられないで、犠牲者に向けられるならば、それは一つの偽善を語ることにしかならないでしょう」(E・ケーゼマン)
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出典:SCM Press 1969
『明日に生きる寄留の民』 李 仁夏(イ・インハ) 1987年6月25日 第1版第1刷発行 新教出版社
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tanakazuhiko · 4 years
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『キリスト者の良心的不服従』 李 仁夏 (1989)
 私ども在日大韓基督教会が、私どもと行動を共にしてくれる日本のキリスト者と共にこの間いろいろな形で学んでくる中で、最も力強い光を与えられたのは、一九五〇年代以来のマーティン・ルーサー・キング牧師の闘いの中で生まれた、キリスト者の良心に基づく市民的不服従(civil disobedience)の運動からである。
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出典:Quora Inc.
 一九五五年末に起こったモントゴメリーのバス・ボイコットがこの運動の始まりであった。当時は白人の座る席と黒人の座る席が隔離してあり、ある婦人が仕事の帰りに大変疲れて、白人の場所に座って、そこを退くように求められたときにがんとして拒否をするところから始まった。これは当初においてはきわめて受動的な抵抗運動であった。キング牧師を中心としたリーダーシップは、バスに乗ることを拒否しただけであり、従って法を破ることにはならなかった。
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出典:David Burns 2010
 法を破る、あるいは法に従わないという運動展開は、それから五年の歳月を要した。そこから能動的な市民的不服従運動へと、全く新しい局面を迎える。それは人種隔離に関する法律に挑戦するために、あえてそれに従わないという行動、すなわち不正な法には服従を拒否するという行動であった。ただしキング牧師はガンディーから学び、若い世代の黒人たちのいらだちの原因となるほど、その抵抗運動は徹底した非暴力による方法をとった。
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出典:UNESCO 2018
 少し前までは、黒人は牢獄に行かないことを自慢の種にしていたが、監獄に行かないことが善人の印ではない、今や黒人は堂々と監獄に行ける、と述べている。ちなみに最近のアメリカの教会の指導者のうちには、若い教職、あるいは神学生であったときに、このような法律に不服従の行動に出てシット・インなどをした結果、警察あるいは��務所に留置された経験を持っている人が圧倒的に多い。キング牧師のような方だけではなしに、最近訪ねてきた教会総会の議長など、人種を問わず、すぐれた指導者といわれている人たちはほとんど抵抗運動から投獄された経験を持つ。
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出典:New Journal and Guide Archives
 キング牧師と公民権運動をていねいに紹介している本『約束の地をめざして』の著者、梶原寿氏によれば、キング牧師は能動的市民的不服従の論拠として正しい法と不正な法を峻別し、「人は正しい法に従うべき法的責任だけでなく、道徳的責任をも持っている。だが逆に、人は不正な法には従うべきではないという道徳的責任をも持っているのである。私は、聖アウグスティヌスが『不正な法はそもそも法ではない』と言ったことに同意するものである」と語り、次いで、ある法が正しい法なのか不正な法なのかを何によって決めるのかという疑問に答えて、「正しい法とは、-これもアウグスティヌスに拠っていますが、-道徳法ないしは神の法に合致する人工の法規にほかならない。そして不正な法とは、道徳法と調和しない法規のことである。……人間の人格を高める法は正しい法であって、低めるものは不正な法である。あらゆる人種隔離の法規は、魂をゆがめ人格を損なうゆえに不正な法である。それは隔離する人間に誤れる優越感を与え、隔離される人間に誤れる劣等感を与える」と述べ、続けて、かつてヒトラーがドイツで行ったことはあの当時の法律によって合法的になされていたが、もしあの時代に自分がドイツに生きていたならば、法に反してユダヤ人を助けたであろうと言った。
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出典:新教出版社 1989
 このようにキング牧師の闘い方がきわめてラディカルであることによって、黒人であれ、白人であれ、同僚牧師から批判を受けることになる。しかし彼はそれに対して、憎悪のためのラディカリズムに走るのであったら自分も反対である。しかし愛と正義のためのラディカリズムはあり得る、イエスは愛のラディカリズムに生きたからである、と答えた。
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出典:tillymook
 道義的な大義に立って非暴力を貫きながらこのように闘ってきたキング牧師は、差別する側もされる側も共に神の恵みにあずかれる新しい社会を展望し、それが “I Have a Dream” という、有名なワシントンの演説の中にいみじくもあらわされてきたわけである。
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 私どもの指紋押捺拒否をしながら語っている若い者のきわめてアイロニカルな言葉は、 「指紋押捺拒否は日本人へのラブ・コールである」 である。ラブ・コールであるということは、日本社会を拒否しているのではなくして、責任をとって日本の社会に参加したいという願いである。
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出典:川崎在日コリアン生活文化資料館 2006
『キリスト者の良心的不服従』 李 仁夏(イ・インハ) 「共助」1989年8, 9月号 キリスト教共助会発行
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tanakazuhiko · 4 years
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『寄留の民の叫び』 李 仁夏 (1979)
 今日、人間が抑圧されている状況をどのように知り得るだろうか。特に、たてまえのうえで民主的国家を標榜する日本のような社会では、ある個人、もしくはあるグループの基本的人権がどのように取り扱われるかという問題を通して明らかにされる。政治、経済、その他の社会的要因が抑圧をもたらす場合にも、具体的には基本的人権の侵害という形をとって表される。社会正義の問題も、具体的には人権の保障があるか、ないかで問われる。キリスト者は、特に、今日における社会正義の問題が人権の形をとることを知らなければならない。ひとりの人格が神の創造によって存在し、全世界をもってしてもとりかえることのできない重さをもって、救済の対象とされているからである。それ故、人権は神の意志としての正義の別の表現であり、個人が正義の名によってなす具体的要求である。キリスト者が隣人に関わることは、まさに、他者が基本的人権を享受できるよう助力し、そのために戦うことをも意味する。
 在日韓国(朝鮮)人の人権が侵害されていることを訴えると、多くの日本人−進歩的と自他共に認める知識人も例外なく−は反問してくるか、時には不快な表情で、日本国籍を持たない者が日本人と同じ権利を主張するのは、おかしいのではないかという。多少、アメリカの黒人運動を知っているひとは、彼らの運動が同じ市民権を持った者としての権利主張だから、あなたがたも日本国籍をとった上でならわかるが、外国人に差別があるのは当然ではないのですかという。そして、追打ちをかけるように、嫌ならば自分の国に帰ったらよいのではないですかとくる。日本人のこの反応にこそ問題がある。事柄を平面化して考えると、論理がとおっているようである。しかし、このような発言こそ、日本人の没歴史性を暴露している。
 韓国(朝鮮)人が日本に存在すること自体が、歴史的所産であることを認識する必要があろう。多くは好き好んで日本に住みついたわけではない。日本帝国主義の過酷な植民地支配の結果、日本が本来責任を担うべき存在としてある。その間の歴史を謙遜にひもとくならば、アフリカからの奴隷としてアメリカに連れてこられた黒人とそんなに変わらない存在として、違った意味では、もっと巧妙な差別をもって抑圧された存在としてある。国籍が違うのだから仕方がないのではないかという反問に対して、再び、問う。在日朝鮮人が法的に「日本人」として、天皇の臣民である誓詞を強要された時(一九一〇年の韓日合併より一九五二年の講和条約発効の時まで)、日本人と同じ基本的人権を享有したであろうか。土地を収奪され、強制連行で日本に連れてこられて、賃金の格差では日本人より差別的待遇にあまんじてきた。それにもかかわらず、炭鉱、道路、線路、ダム建設と、国会議事堂まで含めて、この国の国土開発にたずさわってきた。そこで流された血の代価をもってしても、この国に居住する権利は充分にあるものとみる。しかも、六一万の内訳をみると、もはや四分の三が日本生まれによって占められている。したがって、在日韓国(朝鮮)人の存在に対して、日本人が自らの責任として(人間が歴史的存在であることを自認するならば)関わらなくてはならない。
 教会が在日同胞の民族的状況に関わる時、在日同胞を囲む日本社会の差別体制に目を注がなくてはなりません。日本の差別社会の変革が、教会の宣教的課題とならなくてはなりません。教会は神が支配する終末論的歴史に生きています。しかし、現実の歴史は、いまだに、悪がさまざまな形をとり、その力をふるっている舞台でもあります。この日本の社会において、同胞が政治的・経済的・社会的・思想的抑圧を受けている現実も、その一面であります。これらの諸悪は、イエス・キリストにおいて克服されているという福音の終末論的告示は、教会をして、それらと闘う宣教の課題を担わしめます。この闘いに参加する中で、民族的主体性も確立することができます。そういう意味で、民族的帰属性を獲得することは、同時に、それを剥奪してきた同化と排外の差別社会と闘うことと関わります。この闘いは、この国もすべてのひとびと、寄留の民だけでなく、日本人の真の人間としての解放に貢献することになります。他者を抑圧する非人間性も解放されなければなりません。それ故に、この闘いは終局には愛の営みとなります。
 日立の就職差別事件を契機にして、朴君を支援する日本人学生と青年の意識変革はめざましいものがあります。彼らはひとりの在日韓国人に関わることによって、韓日間の不幸な歴史を知り、韓国人を差別へと追いたてる日本社会の経済・政治体制につきあたります。さらに、それを支えてきた日本の天皇制を頂点とする精神構造にまで肉薄します。偏見と差別が車の両輪のごとく動いて、増幅作用をおこす社会心理学の分析もでてまいります。われわれは依然として、差別に絶望するだけで、ぶつぶつ不平だけを言いながら、差別の現状肯定におち込んでいきます。今や、勇気ある朴君のように、差別の不条理に挑戦して、それを支える社会的・精神的構造に肉迫する闘いを組み、その中で民族的主体を確立しなくてはなりません。その闘いが同時に、日本人に向かっては日本人としてどう生きるかという新しい主体確立をうながすことになり、その人間性の回復にもつながりましょう。
  「マイノリティー問題は、気の毒なひとびとを、自分たちの位置に引き上げてあげる温情主義的発想では解決しない。むしろ、抑圧されているひとびとの足下に降りて、そこに一緒に立ってみて、自分たちの立つ社会の仕組みそのものが、どこか根本的に間違っていることに気づく」(マイノリティ問題の国際会議における被差別部落民に関わる日本人教師)
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『寄留の民の叫び』 李 仁夏(イ・インハ) 1979年8月10日 第1版第1刷発行 新教出版社
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tanakazuhiko · 4 years
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『入管体制を許していてはならない』 飯沼 二郎 (1973)
 資本主義社会は、みずからの階級闘争を貫徹するために、すべてのものを利用する。入管令および外国人登録法の本来の目的がどこにあったかはともかくとして、すくなくとも、こんにちにおいては、それが在日朝鮮人を抑圧する手段としての役割を担わしめられていることは、明らかである。
 こんにち、在日朝鮮人六十万の多くは、資本主義による階級的抑圧の最底辺に位置せしめられている。彼らは、階級的抑圧を強化し、同時に隠蔽するために利用されている。このような朝鮮人を、「生かさぬように、殺さぬように」しめあげているのが、客観的にみて、入管令と外国人登録法の役割なのである。
 とくに、そのような役割は、日韓条約批准後、格段に強化された。それは、反共を国是とする朴政権下の韓国にとって、最も目ざわりな存在である、日本において「反朴・親共」的な活動をする朝鮮人にたいして、強力な圧迫を加えるためと考えられる。
 日本人の多くは、もちろん「親共」ではない。しかし、朴政権が、反共の名において、韓国人の人権を抑圧している事実をみるとき、基本的人権の立場に立つ日本国憲法の主権者として、日本人の多くは、「反朴」の立場に立たざるをえないであろう。
 そして、日本帝国主義による植民地支配の結果、去りがたき故国から日本に追われてきた朝鮮人、すでに生活の基盤を日本におき、日本から離れることのできない朝鮮人をしめ上げ、抑圧している入管体制にたいして、わたしたち日本人は、憤りをもってはっきりと反対の意を表明しなければならない。
 かつて、植民地支配の時代に、わたしたち日本人の多くは、日本政府による朝鮮人抑圧の事実を知らなかった。そして、こんにち、また、わたしたち日本人の多くは、入管体制による在日朝鮮人六十万にたいする抑圧の事実に、ほとんど気がついていない。わたしたちは、植民地支配の時代の愚を、ふたたび、くりかえしているのである。
 この人々の苦しみを、わたしたち自身の苦しみとして受けとめ、ともに闘っていくときに、はじめて、日本人をも、同じように抑圧している日本政府の真の姿が、はっきりと、わたしたちの目に映じてくるであろう。
 基本的人権の立場に貫かれた日本国憲法の下に、このように非人道的な入管体制など、あってはならない。在日朝鮮人六十万とともに連帯して、この��うな入管体制の打倒に闘っていくときこそ、真の民主化の道が開けていくであろう。
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『見えない人々 在日朝鮮人』 飯沼 二郎 日本基督教団出版局 1973年4月5日 初版発行
photo by @Sacklaver
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tanakazuhiko · 4 years
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『見えない人々 在日朝鮮人』  飯沼 二郎 (1973)
 大阪府高槻市には、六つの中学校がある。その中のひとつ、第六中学校は、一九六三年に開校された、いちばん新しい学校であるが、その通学区域に、「成合」という、在日朝鮮人のかたまって住んでいる地域がある。
 成合地域から高槻六中に通学している朝鮮人の子どもたちが、「高槻六中、成合こども会」という会を作った。一九六九年の春、卒業を前にして、その三年生たちが、”差別を摘発するために”文章を書いて、『生い立ちの記』という小冊子を発行した。
 わたしは、一九六九年に読んだ書物のなかで、この小冊子ほど大きな感動を受けたものはなかった。たんたんと書かれているこれらの子どもたちの文章に、わたしは、なみだをとどめることができなかった。これらの子どもたちの小さな胸にあたえた深い傷口にたいして、わたしたち日本人は、すべて、共同の責任を負わなければならない。
はじめに
 僕たちがこの”生い立ち”の記を書いたのは、「差別を摘発する」ためです。
 僕たちのこれまでの生活の中で受けた差別をあらゆる面から書いてみました。。
 自分の両親がなぜ日本に渡って来たのか、それから今日までどのようにして生きのびて来たのか、そしてどのようにして僕たちを育てて来たのかーそれが、この生い立ちの記録に、はっきりと、うそ、いつわりなしに書かれています。それを明らかにしないかぎり、これからの僕たちの生き方もはっきりしないし、みんなにも差別の実態や原因がわからないだろうと思ったからです。僕たちはこれを書くのにたいへん苦労したし、勇気を出して書いたのです。これを読む君たちは、僕ら朝鮮人の本当の姿を理解し、これからどのようにして差別に立ちむかっていくかを考えてほしいと思います。僕たちもこの文集を土台にして、差別とたたかうことをみんなに宣言して卒業します。
一九六九年三月  高槻市立第六中学校成合こども会三年生一同
差別に抵抗する人間に
李 敬宰(イ・ジヨンセ)
 僕の母は、韓国で生まれた。朝鮮とはちがう韓国だ! 母が生まれてから日本に渡って来たらしい。理由は、母の父が日本にいたからである。父は、小さい時、誰かに日本へ行ったららくになると聞いて日本に来たらしい。その当時、韓国は日本人に支配されていたから、食べるものもないし、やむおえず日本に渡って来たのだと思う。初め日本に来た時はものすごく、困った。それは、韓国から、渡って来たばっかりで日本語も話せないし日本人がなにを話しているか、わからなかったからだ。だからやむおえず、田んぼにたててある小屋にとまって眠たり、朝早く畑になっている、キューリやナスビをとってだべてその日ぐらしをしていた。それからお寺におせわになった。その頃はもう日本語を覚えていた。寺におせわになってから寺のふきそうじをしたりギターをひいて流したり、それでも、寺のふきそうじなどをしてもらったお金の中から、韓国にいる自分の母や弟たちに、いくらか仕送りしてたらしい。僕はこの話を聞いて父を尊敬した。それから何年かたち母と結婚した。
 そして兄が生まれた時は、そのころは戦後だったから、家はまずしかった。そのころ父と母は今のユアサの近くに鉛がたくさん、落ちていたのでそれを拾い集めて、その鉛を売ってその生活をしていた。少し豊かになってくると母は家にいて兄のめんどうを見て、父は鉄クズ拾いをやっていた……。それから三年後姉が生れ、そして僕が生れた。僕が生れた時は母が家にいて、小学校二年の時仕事に行った。それもけっして良い所とは、いえない。日本人が少ない「砕石」である。その頃はまだ差別が何かわからなかった。そして僕が生れて初めてこのやろう外国人と思って差別しやがって……と思ったのが、小学校三年それは、注射の時だった。
 僕はその頃韓国の名前で『李 敬宗』と名のっていた。僕は、李だから一番最後だった。僕の前の湯口と、もう一つ前の南とが話しをしていた。そうすると保健の沢村と言う先生が来て「李うるさい何話してるね!」と僕の顔をなぐりやがった。その時俺は、くやしくてくやしくてたまらんかった。僕は心の中で「なぐりやがって大きなったらしかえししてやるからなあ」と思った。今でもにくたらしいなあと思っている。
 もう一つ大きな差別があった。それは夏僕らが水泳に行った。僕たちは気持ち良く泳いで服を着がえて帰えろうとした時、日本人の子のお金がなくなった。その時僕たちがうたがいをかけられた。それから先生となくなったお金のことで話しをしてたらまるで俺達がとったみたいな言い方をされた。その時はもう韓国人としてなんで生まれたんやろ、どうせ生れるねんやったら日本人に生れてくるんやったと、バスに乗って家へ帰えるまで考えていた。
 朝鮮人! 韓国人! いやだ! いやだ!
 僕は、日本人がうらやましい。差別されない日本人が……。だが今は嫌いな日本人!
 小学校までの覚えてることはこれくらいだ。中学生になってからは、僕は韓国人ですよと六中生に言ってるみたいだった。僕はこういうことをされてるうちに六中が嫌いになった。だから僕は初めのうち僕が韓国人であるという事を誰にもわからないように言葉にも態度にも気をつかっていた。だから、日本語か朝鮮語かわからない時は、友だちと話を、したくてもなかなか話しをしなかった。そういう態度がきゅうくつでしょうがなかった。そんな時に、僕を批判してくれたのが、もと二年五組の生徒であった。その内容は、徳山、福本らは、自分が朝鮮人である事を公にしていたが、僕はかくしていた。僕は韓国人である事を一人でも多くの人に知られたくなかったからです。一人でも多くの人に知られたら、僕に対して差別する人が一人でも増えると思ったからだった。
 初めは、六中精神といっても、ただ皆が、先生に、おしつけられてしかたなく差別を無くそうなんていってただけで、やがて社会に出たら、六中精神なんかすぐ忘れてしまい、やがて六中から出た生徒もしだいに差別していくから、僕が韓国人という事を公にしてもしかたがない。この日本いやこの世界から、差別をなくそうなんて不可能やと思ったからである。けれども今はちがう。今はこの世の中から少しでも、差別と言う言葉が無くなってくれたらええなあと思ってる。このええなあと思ってるような優しい考えでは、あかんねや。もっと差別者に対して、強引に強引に、アタックせなあかん。少しでも少しでも差別がなくなるように。でも僕は、こういう事を、言う権利があるのだろうか?
 僕は一度も差別してないとはいえない。かならず差別しているはずだ! 岡村昭彦さんが言ってた「かわいそう」と思うのも差別しているし、あいつ「アホ」とちがうか言うことも差別している。僕がこんなに他人をみくだしていても「あいつ僕達韓国人を差別しやがって」と言える権利があるのかなあ……あるのか! 差別を無くそうと言う権利があるのか!
 それから進路のことだが大倉先生から「関倉は差別がないから」とすすめられて決めたのだが、ぼくは、むしろ差別のある所の方が抵抗力がつくし、社会に出てからがんばるのにと思った。また試験を受けにいって、普通科や商業科に比べてぼくの電気科は下みたいでひけめを感じた。しかし、合格した限りはがんばるつもりだ。
 次に一番心にのこっている「二年五組」のことについてのべたい。
 僕を本当の韓国人つまり朝鮮人にしてくれたのは、昭和四十二年度の二年五組である。
 その中でも山田俊彦と久永祐司です。
 山田は前に書いたように僕が朝鮮人であることをなるべく多くの人に知られないように、隠していたのを強く追求してくれて、本当の朝鮮人にしてくれた。
 僕が朝鮮人である事を隠していたのを山田に追及された時は、はずかしくて、はらがたったのと、僕の心の中は嵐のようだった。
 でも今は違う。山田に追及されてからは、りっぱに僕が、朝鮮人であることを言える。
 その証拠に、二年生の時の、学年集会の場で自分の父がどうして日本に来たか皆の前でりっぱに言ったし、二年五組の「ブッチャケタ話」と言う学級で作った本にもりっぱに僕が父に思っている事なども書いたし班日誌にも自分が朝鮮人だという事も書いたと思う。
 こういう風なりっぱな人間(りっぱな人間かどうかはこれを読んでくれる人の判断にまかせて)にしてくれたのは、山田、久永と二年五組の生徒全員である。僕をこの人間にしてくれた人たちに感謝している。
 ありがとう二年五組の全生徒。僕は、ほんとうに感謝している。
 僕は初め六中に入った時は、いやな学校だと思っていた。僕達が朝鮮人であることを明らかにするのは日本人にこいつらを差別してやってくれといってるみたいであった。ところが入学してから日々がたっていくごとに、それは僕の誤解であることがわかりそして生徒会に立候補し六中生を指導しそして又、先輩に指導された。この三年間は、僕が社会に出て、差別に負けそうになった時、心のささえとなるのが、この三年間の出来事と六中精神であろう。
 この三年間と六中精神は、僕が死ぬまで、心のささえになるでしょう。
 先生に怒られた時もあった。先生や生徒にはげまされた時もあった。けんかをした事もあった。朝鮮人であることを明らかにした。先生と生徒が文化祭体育大会も取り組んだ。ヴェトナム戦争の事を話し合った。こういう事すべてが僕の心のささえである。
 差別に抵抗する時の心のささえである。
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『見えない人々 在日朝鮮人』 飯沼 二郎 日本基督教団出版局 1973年4月5日 初版発行
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tanakazuhiko · 5 years
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川崎市教育文化会館ヘイト集会に対する抗議文 (2019)
川崎市教育文化会館 御中
 川崎市民の安心と安全を守る市政にご尽力頂いておりますことに敬意を表します。2019年2月11日(祝)川崎市教育文化会館で開催されるヘイト集会に抗議します。
 1923年の関東大震災後、『朝鮮人が井戸に毒を入れた』というデマに踊らされた日本人が罪のない数千の朝鮮人を虐殺した事実はご存知でしょうか?  職員の皆様は、『朝鮮人が井戸に毒を入れた』 と同レベルの流言蜚語/差別扇動に加担しているというご自覚はおありでしょうか?  21世紀も過ぎた現在、日本人の人権意識が当時から全く進歩していない現実をどのように受け止めていらっしゃるのでしょうか?
 講演会関係者の発言はご確認されているかと思いますが、いくつかピックアップいたします
『日本人の生命が在日韓国・朝鮮人によって危険に晒されている現在、我々日本人が自らの生命の安全を訴えて起ち上がるのは当然であり、我々愛国者の責務でもあるのです』
https://twitter.com/seto_hiroyuki/status/491036298996486144
『歴史認識について、更にくどくなるが言わせてもらえば、韓国は日本への協力者であった。従軍慰安婦などは朝鮮人の女衒が日本軍の駐屯地に連れてきた。勿論両親なども合意の上、つまりは戦地売春婦。日本にもあったし、そのような認識で間違いないだろう』
https://twitter.com/seto_hiroyuki/status/492613397423214593
『朝鮮学校は、その不透明な経理から、犯罪組織=朝鮮総連への資金流入が指摘されてきた。鈴木信行は、昨年葛飾区に朝鮮学校生徒児童への補助金支給は違法だと監査請求を起こすも、却下された。朝鮮学校への補助金廃止、そして朝鮮学校そのものの廃止に向け、全国の地方議員の先頭で動きたい』
https://twitter.com/ishinsya/status/924195974540492800
『日本軍は慰安婦の強制連行やってないよ。 慰安婦はいたよ。日本人慰安婦もいた。高額な報酬取った挙句に生き残ったら朝鮮人だけ特別扱いか。ソウルの売春婦像を撤去させるか、日本大使館が撤退するかだろう! これだから朝鮮半島とかかわるの嫌だよ』
https://twitter.com/ishinsya/status/768312324662841345
 『教育文化会館』 の名に相応しい、実に 『教育的』 で 『文化的』 な内容ですね。このような恥知らずな人間に何の躊躇もなく講演の場を貸し出す職員の皆様方の知性/教養に恐れ入ります。あなた方は、会場を貸しただけでご自身はいかなる政治/思想的立場にも偏らない公正中立な立場と認識されているのかもしれませんが、とんでもありませんよ。
 エリ・ヴィーゼルをご存知ですか?
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We must take sides. Neutrality helps the oppressor, never the victim. Silence encourages the tormentor, never the tormented.
私たちは常にどちらかの立場を取らなければならない。中立は抑圧者を助け、犠牲者を救うことは決してない。沈黙は加害者を励まし、被害者を勇気づけることは決してない。
(The Nobel Acceptance Speech delivered by Elie Wiesel in Oslo on December 10, 1986)
 中立/沈黙すら抑圧者の味方というインテリジェンスを前に、抑圧者の活動に便宜を図り彼らを調子づけるあなた方がどちらの立場に立っているか、言うまでもありませんね。
 そもそもヒトラー礼賛本まで上梓している瀬戸氏に講演の場を与えるあなた方に、アウシュヴィッツを生き延び人種差別を批判し続けたヴィーゼルの思想を理解できるとも思いませんが。
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 いじめを見て見ぬふりすることは、いじめられる側ではなく、いじめる側に加担するのと同じ。そう小学校で教わりませんでしたか? それ位近所の小学生でも知ってますよ。あなた方の人権意識はこの小学生より遅れています。
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 会館から歩いて20分の距離にある桜本という町をご存知ですか?
 戦後変わらぬ日本人の差別に絶望し、『朝鮮人を皆殺しにしろ』と叫ぶ狂人を放置する日本社会に絶望し、90年前の日本と同じように自分も殺されるのではないかと恐怖に怯える人々が隣町で声を押し殺し泣いていても、何も聴こえませんか?
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 『朝鮮人を皆殺しにしろ』 そのような主張を繰り返してきた人物が、お上のお墨付きを与えられ公然と講演を行う公共文化施設に、『母親が殺される。日本人の大人がヘイトスピーチをやめさせて下さい』 そう泣き叫ぶ近所の中学生が足を踏み入れると思いますか? 学びを得る機会があると思いますか?
 あなた方は法律に従っているだけで、ご自分には何の責任もないとお考えかもしれません。ガーンディーはこう言いました。
法律が気に入らないのにもかかわらず、それに従うような教育は、男らしさに反しますし、宗教に反しますし、隷属の極みです。政府が、裸になって踊るようにいったら、私たちは踊るでしょうか? サッティヤーグラヒーであるのなら、私は政府にいいます。『その法律は自分の家に置きなさい。私はあなたの前で裸にならないし、踊りもしません』。それにもかかわらず、私たちは非サッティヤーグラヒーになっているので、政府の命ずるまま、裸になって踊るよりももっと下劣なことをしているのです。
HIND SVARAJ by Mohandas Karamchand Gandhi, 1910
 あなた方が1923年に生きていればデマを信じて朝鮮人を虐殺していたでしょうし、1940年に生きていれば政府に言われるまま朝鮮人を撃ち殺していたでしょう。歴史から学ぶこともないし自らの加害者性を省みることもない、残虐非道な日本人マジョリティそのものです。
 かつて会館前で差別に抗議し路上に寝そべった市民を見下し、薄笑いを浮かべていた貴文化会館職員の顔が目に浮かびます。前掲の差別主義者が貴文化会館職員と十数年懇ろな関係にあることも市民は知っていますよ。
 あなた方は公正中立で無謬な善人などではありません。human rights の名の元、あなた方は guilty です。 『政府の命ずるまま、裸になって踊るよりももっと下劣』な行為である差別扇動へのこれ以上の加担、及び2月11日ヘイト集会の中止を求めます。
2019年2月11日
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tanakazuhiko · 6 years
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『夜を賭けて』 梁 石日 (1994)
 しかし大村収容所の内部では毎日のように何かの事件が発生していた。絶望的な状況に追い込まれている人間が、生き延びるためにあらゆる方法を模索していた。昨日もカミソリを数枚呑み込んで病棟に収容された男が、夜中に脱走しようとした事件があった。場合によっては命を落としかねない危険をおかしてまで生きのびようとする気が知れなかった。だが、いつか自分もそうなるのかも知れないと思うのである。警備官たちのぞんざいな口のきき方や傲慢な態度の前で味わう屈辱と恥辱は、日を追うごとに金義夫の精神と肉体を蝕んでいくのだった。いったいいつまでこの屈辱と恥辱に耐えられるだろうか。人間は人間としての最後の尊厳をも放棄することができるのだろうか。収容所側の人間たちは、何と引きかえにあのようにあさましくも傲慢な態度をとれるのだろう。
 「せやけどよう考えたら、あいつらも可哀想な人間なんや。わしら朝鮮人を差別し、憎まんことには、あいつらも立つ瀬がないのや。わしら朝鮮人を差別し、憎むことで、自分いうもんを、何ちゅうたらええかな、自分を見せびらかしとんのや。わかるか? せやけど、わしらはいつまでも卑屈になったらあかん。わしらが卑屈になればなるほど、あいつらは傲慢になって救われない最低の人間になってしまう。せやさかい、わしらは闘わなあかん。わしらが闘うことで、あいつらも少しは目覚めて人間らしい人間になって救われるのや。ちがうか?」
 「敗戦したドイツは戦争責任の償いを徹底的にしている。ところが同じ敗戦国の日本は戦争責任の償いどころか、いまも平然と人間の尊厳を踏みにじって省みようとしない」金南はアルマイト食器から何本目かの煙草を拾って火をつけた。「アウシュヴィッツを知ってるやろ」金義夫が「知りません」と言った。「アウシュヴィッツを知らんのか。おまえも情けない男やな。ナチスの強制収容所や。そこでユダヤ人が何十万人も虐殺されたんや」「何十万人もでっか。そんなこと、よう許せまんな」「あほ、おまえはほんまにあほやな。おまえと話してると力が入らんわ。大村収容所は日本のアウシュヴィッツ言われてるんじゃ」
 「デモはこれが初めてばってん、こいからは定期的に月一回やります。周囲からいろいろ言われると思いますが、はっきり言って、これはわれわれ日本人のためにやるとです。プラカードにも書いてありますように、大村収容所は長崎県の恥であり、日本の恥です」
 「われわれ納税者を無視するというのですか。日本人の市民を無視するのですか。この建物もあんた方の給料も、われわれ市民の税金ですよ。それがわからんのかね。警備してるだけが能じゃないんだ。それくらいのことがわからずに警備官がよく務まるね」
 「お願いです。デモをやりましょう。少人数でもデモをやるのとやらないのとでは周囲に与える影響がちがいます。少人数でもデモはやるのだというこちらの強い意志を示す必要があります。わたしは一人でもやるつもりです」
 「このご恩は生涯忘れません」初子は原口弁護士に��々と頭を下げて礼を述べた。「いや、わたしのほうこそ、一人の日本人としてあなた方に謝らなければならないと思っています。わたしのやったことは、そのほんの罪ほろぼしですよ。わたしよりも初子さんのほうが大変だったでしょう。長崎にとどまって三年半近くも頑張ったんだからね」日本人にもこのように謙虚な人間がいるのを知って何かしら希望が湧いてくるのだった。一緒にデモを闘った人たちもみなそうだった。初子は生まれてはじめて人間が連帯することの素晴らしさを経験した。連帯することで困難な状況を克服していけるのだということを知った。
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1994年(平成6年)12月 NHK出版
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tanakazuhiko · 6 years
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ECDIARY
2004年3月14日(日)
 昨日の夜十時、仕事を終えて職場から駅へ向かう歩道を歩く僕の前を、同じ方向に警官が二人並んで歩いていた。二人はのんびり歩いているので急いでいる僕は彼らを追い越そうとした。近づいてふと見ると、右側を歩く警官の右手には伸ばした警棒がムキ出しで握られていた。僕はその警棒とガードレールの間をすり抜けて行かなければならなかった。当然いい気持ちはしない。よっぽどひとこと注意してやろうかと思ったがなにしろ急いでいたのであきらめた。通常のパトロールで警棒ブラブラさせて歩いていいのだろうか。
 “差別”というのはやっかいだ。この間、あるお店で同席した人から、エミネムってのは最下層からのし上がってきたことがウリなのに何でゲイや女性を差別するようなことを言うのか、と訊かれた。そうなのだ。パブリック・エネミーのチャック・Dですら、かつて、人種差別と戦うあなたがなぜゲイに対する差別は容認するのか、と問われ、ゲイは人間の自然な姿ではない。間違った存在だからだ、というような苦しい答えをしていた。その人にもその話をした。他に答えようがなかった。あとから考えてみたら、実は僕はこの問題につい最近ひとつの答えらしきものを出していた。それを結び付けて考えられなかった。他でも書いたことなので簡単に説明する。悲しいことだが人は人を嫌ったり、憎んだりする。その理由というのは正当化するのが難しい。理由もわからず憎んでいると自分の方が悪者に思えてきたりする。憎しみに理由がほしい。正当化したい。差別というのは世間や権力がくれた”憎しみ”に対するおスミ付きである。人を嫌ってしまう、憎んでしまう、という苦悩から逃れるために人は差別というものを利用する。石原慎太郎の差別発言みたいなものがそういう臆病者たちを勇気づける。権力はひとりひとりが持っている憎しみを差別という形で独占し管理する。表向きには差別はいけない、というモラルがあるが、それは日本ではピストルは一般人は持ってはいけない、というのと同じことだ。本来なら、人間は自分に芽生える憎しみにちゃんと向き合うべきなのだ。それがもとでトラブルに発展したとしても、当事者同士で解決すればよい。他者の介入を許してはいけない。
 ひとりひとりがひとりひとりのサイズで持っている限りどんなに悪しき感情も容認していいと思う。そのかわりその悪しき感情に味方を求めてはいけない。それを誰かと共有しようとしてはならない。エミネムやチャック・Dが容認しているように見える差別はそういう悪しき感情なのではないかと思う。だから、誰かに渡すよりは自分がそれを持っていることを表現する。
 人はひとりひとりでは無力だ。だからこそ、その無力のうちにとどめておかねばならない種類のものがあるということだ。差別に力を与えてはならない。
『ECDIARY』 二〇〇四年九月十九日初版 著者 ECD 発行所 株式会社レディメイド・インターナショナル 装丁 石黒景太
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tanakazuhiko · 7 years
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貧困について話す人たちに心を奪われてしまうと、貧しい人々と話す時間がなくなってしまいます。 飢餓の話をする人はいますが、彼らは決して私のところに来て、「マザー、ここに五ルピーあります。これで恵まれない人々のために食料を買ってください」とは言いません。 しかし、彼らはとてもすばらしい飢餓に関するレクチャーをすることはできるのです。 私はかつてボンペイで、とても興味深い体験をしたことがあります。 ボンペイで飢餓に関する大きな会議が開かれることになっていました。 私はその会議に出席するはずでしたが、途中で道に迷ってしまったのです。 突然、私は食料と飢餓についての議論をしている会場にたどり着きましたが、そこで死に瀕した男性を見つけました。 私は彼を連れ出し、家に連れて帰りました。 彼はそこで死にました。 飢えのために死んだのです。 なのに、会場にいる人々は十五年後に食料がどれぐらいあるか、これがどれぐらいあるか、そんなことを話していました。 そして、男は死にました。 この違いがわかりますか?
カルカッタのマザー・テレサ
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tanakazuhiko · 7 years
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東京都知事 小池百合子様 (2017)
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 このたび、今年九月一日に東京都立横網町公園で行われた「朝鮮人犠牲者追悼式典」に、都知事としての追悼辞を寄せられなかったことにつき、再考いただきたくお手紙を差し上げました。
 私たちは、一九八二年から墨田区の荒川河川敷で震災当時虐殺された韓国・朝鮮人犠牲者の追悼・調査を行ってきた団体です。この場所では、民衆・軍隊による虐殺があり、埋められた遺体は一九二三年十一月に二度にわたって警察・憲兵らがどこかに持ち去ってしまったのです。
 いうまでもなく、虐殺事件は関東大震災という大災害をからくも生き延びた人たちの中で起きた、ジェノサイドでした。流言蜚語の下とはいえ、日本人官民は、「朝鮮人」を敵視し、捕らえ、殺害していったのです。そして戦後も長く、虐殺事件のことは歴史のタブーでした。一九六三年に在日朝鮮人・韓国人の研究者が資料集をまとめ、やっと研究が緒についたのです。
 横網町公園に「朝鮮人犠牲者追悼碑」が建立されたのはその一〇年後、震災当時二〇歳だった方も、まだ七〇歳という現役の時代です。横網町公園では三月と九月に震災と戦災の犠牲者を悼む慰霊大法要が営まれていましたが、朝鮮人虐殺の犠牲者を悼み、不幸な歴史を繰り返さないためにと、「関東大震災五〇周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会」が発足し、東京都に追悼碑の寄贈となりました。
 実行委員会役員に都議会各派幹事長が参加されていることは、この追悼碑建立に広範な都民の願いが込められていたことを意味します。五〇周年当時、朝鮮人犠牲者を悼み、ジェノサイド再発防止を願うことは、保革のイデオロギーの問題ではなく、人道の問題だったのです。
 このたびの追悼辞を出さない決定は、今年三月の自民党・古賀俊昭議員の質問に呼応したものでした。古賀都議は、朝鮮人追悼碑の犠牲者数「六千余名、あるいは流言飛語などの表記」を「根拠が希薄」「一方的な政治的主張」といい、その裏付けに工藤美代子『関東大震災 朝鮮人虐殺の真実』をひきました。しかし、古賀都議が都議会で述べた朝鮮犠牲者数=「不法行為を働いた朝鮮独立運動家ら」約八百人、自警団の過剰防衛・誤殺の犠牲者二三三人という箇所は、工藤氏の著作でも悪意ある操作がいちばんわかりやすい所です。最大の犠牲者を出した被服廠跡を含む本所区の対人口死亡率以上の二〇%を東京府と近県の朝鮮人人口にかけて、自然災害の朝鮮人犠牲者を多く=虐殺犠牲者を少なくした操作の結果だからです(*)。
 朝鮮人犠牲者六〇〇〇余名というのは、碑建立当時の研究水準上特に異論のない数字でした。史料批判を行う研究者であれば、震災直後の「朝鮮人暴動」等が流言蜚語であった事に異論はありません。
 しかし、現在都知事の行為を賞賛する「当たり前だ!震災に乗じて、朝鮮人が強盗・殺人・放火を行った事は全くの事実」等の書き込みが、インターネット上にあふれています。都知事の行動は、犠牲者を再度おとしめ、韓国・朝鮮人を敵視する人たちを力づけてしまいました。このようなことが起きないよう、古賀都議の先輩方も共に追悼碑を建てたにも拘わらず、です。
 五〇万余の外国人都民をも擁す東京都のトップとして、都知事にはヘイトクライムを未然に防ぎ、差別扇動を起こさせない取組を行う責務があります。ぜひこの基本に立ち返り、多様性ある都民が不安無くすごせる東京都をめざし、歴史に学んで追悼辞を寄せない行為を撤回いただきたいと思います。
 最後になりましたが、残暑の折、都知事のますますのご健勝を祈念いたします。
二〇一七年九月二日
関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会
*工藤氏著作批判は「民族差別への抗議行動・知らせ隊+チーム1923」のインターネットサイトに多大な教示をいただきました。
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tanakazuhiko · 7 years
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やまゆり園殺傷1年『出会い重ね違い尊重』(2017)
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 寿で伝道所の牧師をしながら、外国人支援に携わってきました。その経験から殺傷事件の報を聞いて、1人の有名な政治家を真っ先に思い浮かべました。
 彼は差別発言を繰り返しています。障害者施設を視察後に「ああいう人ってのは人格あるのかね」と言い放ち、自衛隊の駐屯地では「不法入国した多くの三国人、外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している。治安維持も大きな目的として遂行してほしい」と演���しました。
 兵隊として戦争に行けない障害者は価値がない。日本人は優れた民族であり、アジアの人々、とりわけ朝鮮人や中国人は劣等民族である。彼も私も少年時代にそんな思想をたたき込まれた世代です。彼は自分が価値の低いと見なす人をおとしめてもよいと考えています。
 殺傷事件直後、被告の精神科病院への入院歴を問題視する風潮がみられました。精神障害者に対する差別が増すのではないかと心配しましたが、今回の凶行の背景に障害の有無は関係ありません。差別発言をする政治家が元凶と言えます。優生思想を垂れ流し、差別の芽が人々の心に植え付けられていく。そして病気で苦しんだり、失業して自暴自棄になったりして理性をコントロールできない状況に陥った時に爆発し、ごく普通の人が事件を起こすんです。
 その意味で、ヘイトスピーチは殺人につながります。心に不満を抱えている人が街頭で連呼される「殺せ」という言葉を聞けば、外国人に敵意を持ち、短絡的に刃を向けるかもしれません。関東大震災の時に「朝鮮人が井戸に毒を入れた」とデマが流れた結果、朝鮮人に対する潜在的な差別に火が付き、ついには虐殺へとつながりました。日本社会が怖いのは、差別を野放しにしてきたことです。
 寿の視点から殺傷事件を見ると、少年グループが野宿者を相次いで襲撃し、死者も出た事件を思い起こします。事件後、少年たちは「ごみを掃除した」と供述しました。なぜ野宿をせざるを得ないのかと思いを巡らせる想像力も、野宿者も同じ人間だという認識も決定的に欠落しています。
 障害者に対して差別意識を持つ人は、外国人も野宿者も差別します。自分は優れ、彼らは劣っていると考える。根っこは同じです。
 では問題の根本は何か。アイデンティティーの立て方が間違っています。「自分は愛され、大事にされている。だから生きる価値がある」と考えるのが健全なアイデンティティーです。しかし、自身を大切な存在だと思えなければ、他者を差別することで「自分は良いんだ」と確認するというゆがんだアイデンティティーを持ってしまいます。
 格差社会ではいくら頑張っても報われず、生きづらさを感じます。生きる意味を見いだせず、心のよりどころを自分よりも貧しい人、見つからなければ外国人や障害者へと求めるようになり、「自分はあいつらより優れている」と考えようとします。
 異なる文化を持つ人との出会いを重ね、お互いに相手を尊重する中で、違いこそが豊かさだと実感する。そして自身の良さを再発見し、自分も大事な存在なんだと自覚する。その積み重ねが大切です。
(聞き手・田中 大樹)
カラバオの会メンバー 渡辺英俊さん
わたなべ・ひでとし 1933年生まれ。61年に牧師となり、87年から2014年まで横浜・寿地区の日本キリスト教団なか伝道所の牧師。NPO法人移住者と連帯する全国ネットワーク(移住連)副代表理事、外国人人権法連絡会共同代表、神奈川人権センター理事などを務める。
神奈川新聞 2017年8月27日 社会面
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