Tumgik
#高碕達之助
ysformen · 4 years
Text
日中双方の新聞記者交換に関するメモ
1968年の修正 (中略) 1. 中国側は、われわれの間の関係を含む中日関係に存在する障害は、アメリカ帝国主義と日本当局の推し進めている中国敵視政策によってもたらされたものであると指摘した。 2.日本側は、中国側の立場に対して深い理解を示し、今後このような障害を排除し、日中関係の正常化を促進するために更に努力をはらうことを表明した。 3.中国側は、中日関係における政治三原則と政治経済不可分の原則を堅持することを重ねて強調した。日本側は、これに同意した。双方は、政治経済不可分の原則とは、政治と経済は切りはなすことが出来ず、互いに関連し、促進しあうものであり、政治関係の改善こそ経済関係の発展に役立つものであるとの考えであることを認めた。 4.双方は、政治三原則と政治経済不可分の原則は、日中関係において遵守されるべき原則であり、われわれの間の関係における政治的基礎であると一致して確認し、上記の原則を遵守し、この政治的基礎を確保するためにひとつづき努力をはらう旨の決意を表明した。 双方は、一九六八年度覚書貿易事項について取りきめを行なった。 また、同日、先に交わされた記者交換に関する取り決めの修正も合意された。修正内容は次の通り。 一 双方は、記者交換に関するメモにもとづいて行われた新聞記者の相互交換は双方が一九六八年三月六日に発表した会談コミュニケに示された原則を遵守し、日中両国民の相互理解と友好関係の増進に役立つべきものであると一致して確認した。 二 双方は、記者交換に関する第三項に規定されている新聞記者交換の人数をそれぞれ八名以内からそれぞれ五名以内に改めることに一致して同意した。 三 この取りきめ事項は記者交換に関するメモに対する補足と修正条項となるものとし、同等の効力を有する。 四 この取りきめ事項は日本文、中国文によって作成され、両国文同等の効力を有する。日本日中覚書貿易事務所と中国中日備忘録貿易弁事処はそれぞれ日本文、中国文の本取りきめ事項を一部ずつ保有する。 この修正内容のうち、「会談コミュニケに示された原則」とは、会談コミュニケの中の「政治三原則と政治経済不可分の原則」を指す。 「政治三原則」とは、1958年8月に訪中した社会党の佐多忠隆・参議院議員に対し、廖承志(当時、全国人民代表大会常務委員会委員)が周恩来・総理、陳毅・外交部長の代理として示した公式見解以来、中国側がたびたび主張してきた日中間の外交原則である。1960年8月27日に発表された「周恩来中国首相の対日貿易3原則に関する談話」に現れる[2]。この後日本外務省は1968年に日中双方が確認した政治三原則として、次のように外交青書に記している[3]。 中国敵視政策をとらない 「二つの中国」をつくる陰謀に参加しない 中日両国の正常な関係の回復を妨げない 取り決め後の動向 1964年4月 - 高碕達之助事務所と廖承志事務所が貿易連絡所の相互設置と「日中双方の新聞記者交換に関するメモ」を取り決める。 同年9月 - 記者交換として日本側の9社(9人)の記者が中国駐在となる。 同年10月 - 東京オリンピック(同年10月10日-10月24日)開催中の10月16日、中国では初の核実験(596核実験)が新疆ウイグル自治区(ロプノール)で実行される。日本社会党の成田知巳も訪中先の北京で実験は遺憾と談話し、日本国内からも非難の声が上がる。 1966年8月 - 北京の天安門広場で、同月から11月にかけて毛主席による紅衛兵接見が行われる。 同年11月 - 文化大革命による全中への紅衛兵運動拡大とともに、中国国内では紅衛兵運動を行う学生らによる乱闘事件などが多発する過激な運動となり、街頭には政権中枢の抗争激化を示唆する壁新聞が溢れた。この中国国内の情勢を駐在中の日本側記者が報じて、ボーン国際記者賞を受賞、海外にも転電された。 1967年2月 - この毛主席と文革に関する日本側の報道内容に関して、中国外交部は記者交換協定の精神に背く非友好的な報道と見解を述べ、日本記者団の幹事と毎日新聞の高田記者に抗議と警告を行った。 同年11月 - 中国駐在の朝日新聞社記者に、東京駐在の中国記者が妨害、制限を受けていると警告。 同年9月 - 警告に反し中国情勢を歪曲して報道したとして、毎日新聞の江頭記者、産経新聞の柴田記者、西日本新聞の田中記者の3名に対し国外退去を通告、強制出国となる。 同年10月 - 読売新聞のダライラマ招請に関して、東京の廖承志事務所から読売記者へ北京常駐の資格取り消しが通告される。 これにより北京の日本側記者は、日経新聞、朝日新聞、NHK、共同通信の計4社(4人)となる。 同年12月31日 - LT貿易の協定期限が完了する。 1968年2月 - 古井喜実、岡崎嘉平太、田川誠一の三氏が訪中、覚書貿易と記者交換の継続を交渉。 同年3月6日 - 「覚書貿易」並びに「記者交換に関する取り決めの修正」の妥結。記者交換は継続されたが、記者交換枠の人数が減り5人となる。 同年6月 - 日経新聞の鮫島記者がスパイ容疑で人民解放軍北京市公安局軍事管制委員会に逮捕、拘留される。 1972年9月 - 日中国交正常化。 国外退去処分 この協定に関連してかどうかは不明であるが、参考としてとして記者が国外退去処分を受けた事例を述べる。 中国からの国外退去処分の具体的な事件としては、産経新聞の北京支局長・柴田穂は、中国の壁新聞(街頭に張ってある新聞)を翻訳し日本へ紹介していたが、1967年追放処分を受けた[8] 。この時期は他の新聞社も、朝日新聞を除いて追放処分を受けている。 1968年(昭和43年)6月には日本経済新聞の鮫島敬治記者がスパイ容疑で逮捕され、1年半に渡って拘留される(鮫島事件)。 1980年代には共同通信社の北京特派員であった辺見秀逸記者が、中国共産党の機密文書をスクープし、その後処分を受けた。1990年代には読売新聞社の北京特派員記者が、「1996年以降、中国の国家秘密を違法に報道した[9]」などとして、当局から国外退去処分を通告された例がある。読売新聞社は、「記者の行動は通常の取材活動の範囲内だったと確信している」としている。 2002年5月に発生した瀋陽総領事館北朝鮮人亡命者駆け込み事件(ハンミちゃん事件)のビデオ映像を、共同通信外信部が世界に対して報道。この事件後6ヶ月間、共同通信記者に対して中国から取材・報道ビザの発行が認められなくなった[10]。一般観光客として入国は出来たものの、入国記者はジャーナリスト身分の保障がない状態が続いた。
8 notes · View notes
ari0921 · 6 years
Photo
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
【上島嘉郎】日中記者交換協定のいま 2016年7月12日、 南シナ海に対する中国の領有権主張や人工島の建設などが国際法に反するとして、 フィリピンが中国を相手に提訴した裁判で、オランダのハーグにある常設仲裁裁判所は、 中国の主張に法的根拠がないとの判断を示した。 これに対して、中国は強く反発し、強硬な姿勢を崩していない。 また、8月6日には、日本の尖閣諸島周辺に中国の漁船約230隻が侵入し、 同日、中国の爆撃機が南シナ海を飛行するなど、挑発的な行為を続けている。 この先、中国の国際的立場はどうなっていくのか。それによって、日中関係はどうなるのか。 この24日に東京で日中韓の外相会談が行われましたが、尖閣諸島をめぐる日中間の議論は平行線のままでした。韓国との間には、いわゆる慰安婦問題がありますが、ここでは措きます。 尖閣諸島は、歴史的にも国際法的にも日本の領土であり、中国が自国領と主張し始めたのは1970年代に入ってからです。中国の主張には矛盾が沢山ありますから、日本政府はそれを徹底的に衝き、併せて国際社会に日本の正当性を積極的に訴えるべきです。日本国民はこれを支持しましょう。 しかし、日本のメディアの多くがこれに消極的です。他人事ないし中立といった感じですね。なぜか――。 少し旧聞になりますが、6月9日に中国海軍の軍艦が尖閣諸島周辺の接続水域に侵入し、さらに15日には鹿児島県の口永良���島周辺の領海に侵入しました。日本政府は中国への抗議を重ねましたが、中国はどこ吹く風で、8月初旬には尖閣沖の接続水域に中国海警局の公船と約230隻の中国漁船が入り込みました。 たしかに尖閣周辺の接続水域は、日中漁業協定で中国漁船の操業が認められてはいます。これまでも多数の漁船が操業した例はありますが、海警局の公船と行動し、武装した海上民兵が乗った偽装漁船が含まれていることを考えると、漁業活動が目的ではなく、明らかに対日攻勢を強めることで日本の人心を揺さぶり、尖閣が日米安保条約の適用要件である「日本の施政の下」にないことを米国と世界に印象付けるのが目的でしょう。 6月9日の中国軍艦の侵入について、さすがに新聞各紙は社説で中国の行動を批判しました。 ・読売「危険増した挑発に警戒せよ」 ・産経「危険な挑発行為をやめよ」 ・毎日「緊張を高める行動はやめよ」 朝日新聞はと読んでみると、「尖閣に中国艦 日中の信頼醸成を急げ」という見出しで、読売、産経、毎日とは異なる調子です。 本文に〈中国海軍の動きは決して容認できるものではない。日本政府の抗議を、中国は真剣に受け止めなければならない〉との文言はありますが、肝心なのはこれだと以下のように述べます。 〈危機をあおるのではなく、目の前の危機をどう管理するかだ。海上保安庁や自衛隊が警戒を強めることは必要だが、それだけで不測の事態を回避することは難しい。  政治、外交、軍事、経済、文化など幅広い分野で、重層的な対話の回路を広げていく必要がある。留学生など市民レベルの交流も、もっと増やしたい。  対話のなかで、お互いの意図を理解し、誤解による危機の拡大を防ぐ。求められるのは、日中双方による地道な信頼醸成の取り組みである。〉 朝日は中国の軍艦侵入を偶発的と思っている(考えたがっている)ようです。中国の意図を読み解く気もないらしい。存在しない危機を煽ってはなりませんが、「危機」は今そこに存在しているのです。 百田尚樹さんの『カエルの楽園』をこれまでも再々取り上げましたが、この朝日の社説と同じような場面が同書に出てきます。 楽園ナパージュには、デイブレイクという知的であることを売り物に世論を誘導するカエルがいます。ナパージュに、ウシガエルが侵入してきたときデイブレイクは周りにこう説きます。 〈無闇にことを荒立ててはいけない。まずは状況をしっかり見ることだ〉 〈ウシガエルは虫を追っていて、うっかりと南の草むらに入ってきただけかもしれない。あるいは草むらが珍しくて、見学に来ただけかもしれない〉 〈話し合うことです〉 〈とことん話し合えば明るい未来が開ける〉 デイブレイク(Day Break)=「夜明け」〜「朝日」という百田さんの隠喩ですが、朝日社説とデイブレイクの語りは、表現こそ違っていても中身はそっくりです。 さて、新聞を読む習慣のある日本国民のうちどれほどが「日中記者交換協定」の存在を知っているでしょうか。 日中間に正式な国交のない昭和39年4月、日本と中国は、高碕達之助事務所と廖承志事務所という当時の日中貿易の窓口が仲介して記者交換協定を結びました。 昭和43年3月、それまでの協定が破棄され、新たに田川誠一、古井喜実氏ら親中派の代議士が仲介するかたちで日本の新聞は中国側が条件とした「政治三原則」を守らなければ中国に記者を常駐できないことになりました。 ●「中国を敵視しない」 ●「二つの中国をつくる陰謀に加わらない」 ●「日中国交正常化を妨げない」 日本のメディアが中国に記者を常駐させたければ、以上の三原則を守れということです。相手国政府の方針に従うことを事前に約束するのでは、自由な報道・論評をはじめから放棄したのも同然です。 当時、台湾を取材したNHKがその映像をテレビで放送したところ、画面に「大陸反攻」という蒋介石のスローガンが大書された壁面が映っていたことが非難され、また朝日新聞はラジオ欄でその番組を紹介したことが問題視され、それぞれ中国側に“謝罪”したという話があります。 曽野綾子さんから『この世の偽善』(PHP研究所)という本をつくった際にもこんな話を伺いました。 〈この四十年あまり、産経新聞と時事通信を除く日本のマスコミは、絶えず中国の脅しを受けながら、特派員を受け入れてもらうために、完全に中国政府の意図を代弁する記事を書き続けてきということです。 朝日、毎日、読売などの全国紙、東京新聞他のブロック紙などは、中国批判はただの一行たりとも書かず、私たち筆者にも書くことを許さなかった。私が少しでも中国の言論弾圧を批判すれば、その原稿は私が内容表現を書き直さない限りボツになって紙面に載らなかったのです。 ちゃんと曽野綾子という署名を入れた小さな囲み記事ですら、印刷中の輪転機を止めてまで掲載を許さなかった新聞もあります。私は、その新聞には二度と書かないことに決め、今もそれを通していますが、私にいわせれば、中国報道に関してマスコミは正気で「発狂」していたのです。〉 日中記者交換協定の存在をメディア各社がきちんと読者に説明したことはありません。現在も有効なのか、それとも無効なのか。 産経新聞社はかつてこの「政治三原則」に従うことを拒否し、長く北京に支局を置けませんでした。否、「自由な報道ができないのなら置く必要なし」として台北と香港の支局だけで「自由な中国批判」を展開し他紙の中国報道に勝りました。 1998(平成10)年、産経は31年ぶりに北京に常駐特派員を置くことで中国側と合意し、中国総局を開設しました。記者交換協定に関しどのような折衝を重ねたのか、当時筆者は下っ端社員でしたから知らされませんでしたが、その後、雑誌『正論』の編集記者時代に上役から「中国批判は手控えろ」と指示されたことはありません。 『別冊正論』の創刊編集長として世に送り出したのは《軍拡中国との対決》という特集号でした。 日中記者交換協定がいまも有効だとして、「政治三原則」の三番目は、もはや意味をなしません。中国が最も神経質になっているのは、「二つの中国をつくる陰謀に加わらない」という項目しょう。 明日から、日本と台湾に関する記事に目が止まったら、注意深く読んでみてください。 「台湾の国民が〜」とか「日台双方の国民が〜」と書かれていれば、社の方針かどうかはともかく、二番目の原則に従わない記者がその社にいるということです。 これが「台湾の住民が〜」とか「日台双方の人々が〜」などと書かれていたら……推して知るべし、ですね。
3 notes · View notes
nakanotakeko · 7 years
Text
バンドン会議というのをツイッターで知った。
さあみんな読むんだ。 アジア・アフリカ会議 (バンドン会議)に日本主席代表として出席した高碕達之助 当時の役職は、経済審議庁長官であった。日本代表の一員  加瀬俊一外務相参与加瀬俊一外務相参与(後に国連大使となる)は、外務大臣代理で出席した。その時の模様を平成6年7月に、京都外国語大学における加瀬俊一氏が講演している。
「1955年4月、インドネシアのバンドンという所でバンドンA・A会議が開かれました。A・Aというのはアジア・アフリカです。この中心はインドと中国とエジプトです。インドのネール、中国の周恩来、エジプトのナセルが中心になって、独立したばかりの新興諸国29ヵ国代表が集まりました。その時、日本にも招待状が来たんです。国内ではアメリカに気兼ねして参加に慎重な人が多かったんです。私は『出た方がいい』と言ったんです。敗戦後間もない日本にとっては、国際社会に復帰する絶好のチャンスだった。それで出席することにはなったけれども、外務大臣は都合が悪くて私が行くことになったんです。
特命全権大使として『出た方がいい』と言ったのは私だけなんだけれども、内心不安だった。というのは、アジア・アフリカというけれども、アジアは大東亜戦争の戦場でした。日本はいいこともしているけれども、ご承知のように悪いこともしなかったわけじゃない。それでね『行ったら白い目で見られるんじゃないか』と思ってあまり気がすすまなかった。
しかしその会議に行くとね、あちらこちらからアフリカの代表、アジアの代表が出て来てね、『よく来たね!』『日本のおかげだよ!』と大歓迎でした。それは『日本が大東亜共同宣言というものを出して、アジア民族の解放を戦争目的とした。その宣言がなかったら、あるいは日本がアジアのために犠牲を払って戦っていなかったら、我々は依然としてイギリスの植民地・オランダの植民地・フランスの植民地のままだった。日本が大きな犠牲を払ってアジア民族のために勇戦してくれたから、今日のアジアがある。』ということだった。
この時は『大東亜共同宣言』を出してよかった、と思いました。
我々が今日こうやって独立しました、といって『アジア・アフリカ民族独立を祝う会』というのがA・A会議の本来の目的だった。
こんな会議が開けるのも日本のおかげですと、『やぁー、こっちへ来てください』『いやぁ、今度は私のところへ来てください』と言ってね、大変なモテ方だった。『やっぱり来てよかったなぁ』とそう思いました。( 中略 )その翌年、日本は晴れて国連に加盟して、私は初代国連大使になりました。アジア・アフリカグループが終始熱心に日本の加盟を支持した事実を強調したい。A・A諸国から大きな信頼と期待を寄せられて、戦後我が国は今日の繁栄を築いてきたのです」と語っている。
http://hinode.8718.jp/colonization_congress_asian-african.html
4 notes · View notes
masahironitta · 6 years
Text
「友誼の道―池田大作と中国」展
「友誼(ゆうぎ)の道―池田大作と中国」という展示に行ってきました。
会期:2018年5月23日~6月1日 会場:中国文化センター(東京都港区虎ノ門) 主催:中国文化センター、中国人民対外友好協会、中日友好協会 後援:駐日中国大使館 協力:創価学会
この展示は、池田先生による日中国交正常化提言の50周年、および、日中平和友好条約締結の40周年を記念して行われたものです。 池田先生が長年にわたって、日中友好に尽力してきた足跡が紹介されていました。
第二次世界大戦後に激化した国共内戦を経て、1949年(昭和24年)に中華人民共和国が成立しました。 日本は、1951年(昭和26年)のサンフランシスコ平和条約によって主権が回復しましたが、同時に、日米安保条約によって、反共体制の一環に組み込まれました。 1952年(昭和27年)に、日本政府が国民党政府と平和条約を調印すると、日本と中国との関係に、決定的な溝が生じました。 中国は、ソ連とも対立して国際的に孤立し、国内も文化大革命で混乱していきました。日中友好を主張するなど、もってのほかであるという雰囲気が、日本国内の大勢でした。
このような状況下で、池田先生は、日中国交正常化を提言することを決意します。
彼は、日中国交正常化の提言に踏み切ることが、いかに危険の伴う決断であるか、よくわかっていた。 (中略) しかし、世界の平和を願うならば、そして、そのために日中の友好を考えるならば、誰かが命を張って、声を大にして叫ばなければならない重要な問題である。 伸一は深く思った。 “私が、発言するしかない! 私は仏法者だ。人びとの幸福と世界の平和の実現は、仏法者の社会的使命である。何が起こっても、断行する決意を固めるしかない!” (『新・人間革命』第13巻「金の橋」)
1968年(昭和43年)9月8日、創価学会の第11回学生部総会が、東京・両国の日大講堂で開催されました。ここに集った1万数千人の学生を前に、池田先生は、日中国交正常化提言を発表しました。 その柱は、(1)日中の国交正常化、(2)中国の国連加盟、(3)経済・文化交流の推進、です。 この提言は、マスコミも報道し、大反響が広がりました。 日中友好を真摯に願ってきた人たちは、諸手を挙げて賛同しましたが、同時に、その何倍もの、激しい非難中傷の集中砲火を浴びることになりました。 中国の周恩来総理は、この提言が行われる前から、創価学会と池田先生に注目していました。日本の政治家の松村謙三氏や高碕達之助氏を通して、創価学会を知り、中国人民外交学会に調査させていたのです。 松村謙三氏が間に立つことで、1971年(昭和46年)に、公明党の代表団の訪中が実現します。日中国交正常化の基本的な条件について合意が成立しました。 アメリカが中国との国交樹立に動き出したこともあり、日本政府も方針を転換します。 1972年(昭和47年)にも、公明党の代表団が訪中します。日本が中国に与えた戦争被害の賠償問題で、周総理は、中国は対日賠償の請求を放棄すると語りました。
日本政府にとって最大の難問は、日本が中国に与えた戦争被害の賠償であった。 対日戦争での中国側死傷者は三千五百万人、経済的損失は直接・間接合わせて総額六千億ドルともいわれる(1995年中国政府発表)。しかし、周総理は、公明党との会談で、その対日賠償の請求を放棄すると言明したのである。 ――かつて中国は、日清戦争に敗れ、日本に多額の賠償を払った。そのため、中国の人民は重税を取り立てられ、塗炭の苦しみをなめた。戦争は一部の軍国主義者の責任だ。日本の人民も軍国主義の犠牲者である。その苦しみを日本の人民に味わわせてはならない。 それが、周総理の考え方であった。 自国の人民が苦しめられたら、報復しようというのが、人間の常といえよう。しかし、周総理は、だからこそ、日本の人民にその苦しみを味わわせまいとしたのだ。 これによって、日本がどれほど救われるか――伸一はそう思うと、いかに感謝しても、しきれるものではないと思った。 日本は、その恩義を、永遠に忘れることがあってはならない。 (『新・人間革命』第20巻「友誼の道」)
こうして条件が整い、田中角栄首相が訪中し、1972年(昭和47年)9月29日、日中共同声明が調印され、国交が樹立しました。
1974年(昭和49年)5月30日、池田先生が中国を初訪問します。広州、北京、西安、鄭州、上海、杭州の各都市を回り、国家指導者、教育機関、庶民、子どもたちなどと、行く先々で友情を結んでいきました。
伸一は、国交の眼目とは、ただモノなどが行き交うことではなく、人間と人間の交流にこそあると考えていた。さらに、青年と青年の交流があれば、万代にわたる「友誼の道」を開くことができると確信していた。 青年のために、道を創れ。その道は、はるかなる未来に通じる――それが伸一の信念であった。 (『新・人間革命』第20巻「友誼の道」)
当時、中国とソ連は、関係が悪化しており、戦争が起きるかもしれないという緊迫した状況にありました。 池田先生は、1974年と75年の間に、中国に3回、ソ連に2回訪問し、対立する両国の懸け橋となりました。(1997年までに10回訪中) 共産主義の国であろうが、資本主義の国であろうが、そこにいるのは、平和を願う、同じ人間です。その人間の心と心を結ぶことが、平和への最も確かな道であるというのが、池田先生の信念でした。
中日文化交流史に詳しい清華大学の蔡徳リン教授は、『東洋の智慧の光』(鳳書院刊)で「日中国交正常化実現のために無私の献身で、茨の道を切り開き、奔走し、社会に広く訴え、貢献した多くの日本の友人の中にあって、池田大作氏は中国人民から最も尊敬を集める人物である。とりわけ『日中国交正常化提言』は、至上の先見の明と卓見を具えたものであり、大智大勇の歴史的壮挙である」と、高く評価している。 (「人民日報海外版」2012日本月刊)
今年は、 1968年9月8日の日中国交正常化提言から50年、 1972年9月29日の日中共同声明から46年、 1978年8月12日の日中平和友好条約から40年 です。日中両国の交流は、着実に拡大しました。
昨年、訪日した中国の旅行者は700万人を超えた。今月には、李克強首相が就任後初の来日。「両国は風雨を経て曲がり道をたどったが、風雲は過ぎ去り晴れ空となった」と語るなど、日中関係は新たな段階に入っている。 (2018年5月30日 聖教新聞社説)
池田先生は、日中国交正常化提言で次のように訴えました。
「諸君が、社会の中核となった時には、日本の青年も、中国の青年も、ともに手を取り合って、明るい世界の建設に、笑みを交わしながら働いていけるようでなくてはならない。 この日本、中国を軸として、アジアのあらゆる民衆が互いに助け合い、守り合っていくようになった時こそ、今日のアジアを覆う戦争と残虐と貧困の暗雲が吹き払われ、希望と幸せの陽光が燦々(さんさん)と降り注ぐ時代である」 (『新・人間革命』第13巻「金の橋」)
しかし、現状は、「日本の青年も、中国の青年も、ともに手を取��合って、明るい世界の建設に、笑みを交わしながら働いていける」ような状態であるとは言えません。 国際政治学者の三浦瑠麗氏の調査によると、日本人の、中国人に対する好感情が低いです。
日本人は米国への好感度(73.3%)が目立つ一方、中国(11.1%)、韓国(22.9%)、ロシア(23.8%)への好感情が低く、とりわけ、中国への悪感情は際立っている(60.4%)。この傾向は安定しており、日本人の対中感情が好転する見通しはしばらくない。 https://www.fnn.jp/posts/00318860HDK
これは、日中友好の道を切り拓いてきた先人たちにすると、憂うべき現状ではないでしょうか。 日本社会は、これから人口が減っていきます。日本人が、近隣国の人びとを尊敬できないような、閉ざされた心のままでは、日本は後退していくだけです。
1993年にハーバード大学で行った講演「21世紀文明と大乗仏教」の中で、池田先生は次のように述べています。
ある仏典が釈尊を「喜びをもって人に接し、しかめ面をしないで顔色はればれと、自分から先に話しかける人」としているように、その生涯は、一切のドグマから解放された「開かれた心」による「開かれた対話」に貫かれていました。 (中略) 釈尊の言葉に「私は人の心に見がたき一本の矢が刺さっているのを見た」とあります。「一本の矢」とは、一言にしていえば“差異へのこだわり”といってよいでしょう。 (中略) 「民族」であれ「階級」であれ、克服されるべき悪、すなわち「一本の矢」は、外部というよりまず自分の内部にある。ゆえに、人間への差別意識、差異へのこだわりを克服することこそ、平和と普遍的人権の創出への第一義であり、開かれた対話を可能ならしめる黄金律なのであります。 http://www2.sokanet.jp/download/koen/01.pdf
自分自身の心に、「一本の矢」が刺さっていないか、自身を見つめるべきだと思います。 開かれた心で、差異を多様性として認め、互いを尊敬し、友情と信頼の絆を広げていくところに、真の平和友好が成り立つといえます。
0 notes
ryomakado98-blog · 6 years
Photo
Tumblr media
高槻市名誉市民・故高碕達之助は 戦後外交、日本躍進に不可欠な人物。 この会の会長に父就任。 私も足運びます。是非お越しください。
0 notes