Tumgik
#生駒山 寶山寺
kyotodreamtrips · 6 months
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Hozan-ji on Mount Ikoma, Nara Prefecture Japan.
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crazyfox-archives · 1 year
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A painted image of Aizen Myōō (愛染明王) at Hōzanji Temple (宝山寺) in the Monzenmachi neighborhood of Ikoma, Nara Prefecture
Color on silk dating to the Kamakura period (1185-1333)
Image from the Ikoma City Digital Museum
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naradaily · 6 months
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kayabuki · 5 years
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寶山寺 表参道 by m-louis .® Via Flickr: Nov 23, 2014 at 17:03, Nara 生駒
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shakuhachi-kataha · 4 years
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第六回ミニ講座「聖徳太子と尺八 其の二」
今回の風陽さんの独り言!
 
 
曲を吹(ふく)に初めより終��りまで蓮の茎を折りたるごとく
縁の切れざるように吹べし
息の切目つぎめに心つけて吹べし 
おのづから初めよりの縁のきれざる様に吹べし
ツキイロナヤシなどみな縁のきれまじきためなり
 
*ツキ(小ナヤシ)/イロ(音色か)/ナヤシ(縦ユリ)
 
 
 
蓮の茎を実際折ったことはないですが、調べてみると手でぽきんと折れるものらしい。ようは音の継ぎ目は肝要に、心して吹きなさいということ。
 
 
 
  
さて、今回のテーマも前回に引き続き、
 
 
聖徳太子と尺八 其の二!
「本当に聖徳太子は尺八を吹いたのか?!」
 
 
「尺八史概説」(2005)  山口正義著 を参照に検討したいと思います。
  前回参照させていただいた徳山隆氏も、今回の山口正義氏も尺八演奏家であり研究家でもあるという方です。
まずは聖徳太子が尺八を吹いたという記録の一覧です。
「教訓抄」(1233年成立)
『聖徳太子河内ノ亀瀬ヲ通給ケルニ、馬上ニシテ尺八ヲアソハシケルニ、メテテ山神舞タル由法隆寺ノ檜殿・・・』
教訓抄は1233成立の狛近真(こまちかざね・1177~1242)著の楽書。10巻。前半五巻「歌舞口伝」後半五巻「伶楽口伝」といわれる。興福寺の楽人であった近真が、家芸を継承すべき子をもたなかったこと、鎌倉時代に入って舞楽が衰退したことを嘆き、後世のために残した舞楽の口伝書。
 
 
 
 
 「體源抄」(1512成立)第五巻
『昔聖徳太子生駒山ニシテ尺八モテ蘇莫者ヲアソハストイヘリ。即法隆寺ノ寶物ノ中ニ尺八一管コレアリ、昔ニハ物ト云リ。又山神出テ舞大峯ニ蘇莫者ノタケト云テ今モアリト云』
「體源抄」は豊原統秋著(とよはらすみあき)。豊原統秋は室町時代後期、戦国時代の楽家。歌人、書家、本草家としても活動した。
「教訓抄」と「體源抄」は、場所は異なるものの同じ蘇莫者という曲を吹き、古来法隆寺の尺八が太子の愛用品であるとなっている。
 
 
 
  
 法隆寺古今目録抄(13世紀)
「古今目録抄に云ふ次尺八漢竹也太子此笛自法隆寺天王寺へ御之道椎坂ニシテ蘇莫者樂吹給之時山神御笛二目出御後ニシテ舞ケリ」
(太子が法隆寺から四天王寺に至る途中、推坂(しいさか)でこの笛を吹いたところ山神がそれにあわせて踊ったという伝え)
 
 
 
 
 「天野政徳随筆」(1843年)
『體源抄に、上宮太子尺八を以蘇莫者を吹給ふ事をのす。其管今大和国法隆寺の所蔵、今以猶存ず、去る天保十三年六月、法隆寺の尊像江戸にてをがまれ給ふ時、此太子の管政徳手に取て親敷見たり。今の尺八より細く長し。唯漢竹のほそきを切て孔をうがつ。歌口の処、はすに切りたる許にて、角など用ひず。かざりさらになく、不問して千載以上の物なる事しらる、されば、いにしへの尺八は、洞簫と長短ひとしからざる物か。また洞簫の異制か。猶可考。』
天野政徳(あまの-まさのり1784-1861)江戸時代後期の国学者、歌人。
 
  
  
   
「歌舞音楽略史」(1928年)
『尺八は、今大和法隆寺に蔵する所、當時の物なるべし。曲尺を以てはかれば、一尺四寸五分あり。 これ則唐ノ小尺の一尺八寸なり、唐小尺の一尺、曲尺の八寸五厘強にあたる。近きころまで、普化僧専ら用ゐし、一節切の尺八といふ器は曲尺にて一尺八寸なるは、後世の製造なればなり』
小中村   清矩著(こなかむら きよのり、1822-1895)国学者・日本史学者。
 
 
 
 
ここで尺八の長さ問題。
天野政徳随筆にある「和州法隆寺蔵 上宮太子管 漢竹也」とある尺八の図は、一尺二寸五分で、小中村 清矩著「歌舞音楽略史」によると一尺四寸五分。長さが明らかに違う。
 
 
 
 
そしてさらに山口氏は、
「 ただ呂才が初めて尺八を考案したのが「旧唐書」 の<呂才伝>による629年だとし、且つその後日本に伝来したとすれば、聖徳太子は622年没なので、合わない。聖徳太子が尺八を吹いたという故事は疑わなければならない。」と結んでいる。
 
 
 
 
え!?
聖徳太子が亡くなった後に尺八が考案されたって事?
今までの史料は何だったの!!!
 
  
と、いうことになるが、
 
 
もう一人忘れてはならない重要人物
音楽評論、音楽史の権威者、田辺尚雄著「日本の音楽」の一部を抜粋すると、
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まず右側の抜粋では、
「従来それを試みた人は呂才であると称されて居たが、実はそれよりも尚ほ少し以前ではないかと考へられる」
とあります。これは何に基づいてそう推察されているのか書いてありませんが、唐は618年 - 907年、呂才は600年生まれ665年没。
尺八は629年に呂才が考案したと伝えられていますが、「尚ほ少し以前」というのはどれくらい前のことなのでしょうか。
呂才考案以前は籥か籥長笛か洞簫の縦笛が存在していた。(第三回ミニ講座を参照してください)
 
 
左側の抜粋からは、「法隆寺にあったけど今は博物館の中にある。これを見ると、唐の尺八と洞簫の中間の性質を持っている。隋の頃のものとして首肯できるが、中国の尺八とは断定出来ない。寧ろ洞簫とよんでおいたほうが良いが,近代の洞簫とは頗る異なり、頗る雅楽尺八に近い」そうだ。
 
 
なんと、法隆寺にあった尺八そのものが、尺八では無いとのこと。
 
 
 
 
まとめは上野堅実著「尺八の歴史」(2002)より参照
「尺八は629年に呂才という人物が考案したと伝えられている。中国においても唐楽が整備されるのは、唐が建国されてからしばらく後のことであったといえる。また蘇莫者という舞も、唐代中期に成立した舞楽のようで我国への伝来は聖徳太子の時代より後のことになる。ただし唐代以前から中国では竹製の縦笛が存在しており、舞楽などに使われていた。したがってそれが6世紀末までに我国に伝わっていた可能性が無いとは断言できない。4世紀半ばからは、朝鮮半島の任郡(みなま)府などを通じて大陸文化が盛んに我国へ伝えられ、五世紀に入ると東晋(とうしん)や宋に遣いを出すなど、中国大陸からの直接的な交流も増すので、何らかの形で古くから大陸の音楽文化がの流入があったと見るべきであろう。」
 
 
 
 
と、いうことで、
 
聖徳太子、やっぱり尺八は吹いてないかも。
 
 
でした。
 
 
 
なんともロマンが無い結果に💦
 
 
 
 
ただし、
ひたすら「尺八」にこだわっているので、聖徳太子が吹いたのは、籥でも洞簫でも尺八でも縦笛は縦笛でどれでもいいじゃないかという話です、実は。
 
 
 
いやいや、この辺はっきりしといてもらわないと。
洞簫と尺八は構造が違うんですから!
 
 
 
 
この際キチンと、
「聖徳太子って尺八吹いたの?」なんて聞くんじゃなかったって聞いてくれた人に後悔されるくらいに、くどくどと説明してあげましょう!
 
 
 
 
ミニ講座の終わりに「蘇莫者」を演奏させていただきました。
雅楽風に吹奏するのハマりそうです♪
と、いうことで、
二回に分けてたっぷり「聖徳太子と尺八」でした〜
 
 
 
 
。。。
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crystalpeggy · 4 years
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白馬
碧海藍天 白駒過隙 香草市集思想起: 芳香詩歌 水晶色彩 Correspondence Charles Baudelaire Nature is a temple whose living colonnades Breathe forth a mystic speech in fitful sighs; Man wanders among symbols in those glades Where all things watch him with familiar eyes. Like dwindling echoes gathered far away Into a deep and thronging unison Huge as the night or as the light of day, All scents and sounds and colors meet as one. Perfumes there are as sweet as the oboe's sound, Green as the prairies, fresh as a child's caress, -And there are others, rich, corrupt, profound And of an infinite pervasiveness, Like myrrh, or musk,or Amber,that excite The ecstasies of sense, the soul's delight. 波特萊爾的詩。自然是殿堂。香水和雙簧管ㄧ樣甜美。綠茵,芳香,音樂,詩歌都很療癒。沒藥,麝香,琥珀讓靈魂歡喜 Simon and Garfunkel lyrics Scarborough Fair 香草市集歌詞思想起: Are you going to Scarborough Fair: Parsley, sage, rosemary and thyme. Remember me to one who lives there. She once a true love of mine. On the side of a hill in the deep forest green. Tracing of Sparrow on snow-crested brown Blankets and bed clothes the child of the mountain Sleeps unaware of the clarion call. Tell her to make me a cambric shirt: Parsley, sage, rosemary and thyme; Without no seams nor needle work, Then she'll be a true love of mine. On the side of a hill in the sprinkling of leaves. Washes the grave with silvery tears. A soldier cleans and polish a gun. Sleeps unaware of the clarion call. Tell her to find me an acre of land: parsley, sage, rose and thyme; Between the salt water and the sea strands. Then she'll be a true love of mine. 鼠尾草,迷迭香,白里香,香草市集,森林深處的山丘。園藝香草是解憂煩的桃花園。這首經典Sarah Brightman 唱得迷幻嘹亮。 Rosemary迷迭香 Marianne Moore Beauty and Beauty's son and rosemary- Venus and love, her son , to speak plainly- Born of the sea supposedly, At Christmas each, in company braids a garland of festivity. Not always rosemary- Since the flight to Egypt, blooming in differently with lace like leaf, green but silver Underneath, its flowers-white originally turned blue. The herb of memory, imitating the blue robe of May is not too legendary To flower both as symbol and as pungency. Spring from stones beside the sea, the height of Christ when he was thirty-three. If feeds on dew and to the bee "Hath a dumb language "; is in reality A kind of Christmas tree. 維納斯和愛自海洋誕生。記憶的藥草。 象徵的花朵 海邊石畔的春天。 露和蜜蜂。 像聖誕樹。 芳香療法,音樂,詩歌,園藝讓我們滿心愉悅,樂自心中來。 認識水晶的種類特色,寶石物語啟發很療癒舒壓。 白水晶Quartz 守護,淨化,傳達祈求。白水蔟淨化負能量。 黃水晶Citrine,法文是檸檬的意思,巴西黃水晶像雪莉酒,帶來繁榮,排解悲傷。 美麗透明的粉紅碧璽tourmaline 讓我們去愛。 海水藍寶Aquamarine,帶來平靜,開拓視野。 瑪瑙Agate 質地軟有蠟狀光澤,彎曲紋路,色彩豐富,切口像貝殼美麗,消除緊張。 紫水晶Amethyst 適合冥想,解憂。 粉晶Rose Quartz 召喚愛情。 深邃的琥珀Amber 平衡太陽叢能量,象徵植物能量,常被當護身符。 有彩虹光澤的黑曜石Obsidian 透露真相。 多看綠水晶幫助我們尋找生活目標。 佩帶紅色石榴石garnet給我們勇氣希望。 祖母綠Esmeralda 象徵無私的愛和善良。 Prehnite葡萄石消解負能量 棲息地中海,太平洋熱帶海域的珊瑚coral 從埃及古文明時ㄧ直是珍寶。 拉長石Labradonite消解多餘的煩惱 煙水晶smoky Quartz , 適合冥想。 天青石Celestine 幫我們做自己。 伊朗產的藍色土耳其石Turquoise 石色濃深,表面黑褐網狀石脈紋路,守護平安,消解疲累。 虎眼石Tiger's eyes,帶來幸運,給我們勇氣。 紫龍晶charoite 帶淡黃色,讓我們看開接受改變。 紅幻影Phantom Crystal ,適合想要愛情,重新出發和冥想。 方解石Calcite,美麗潤澤適合創意發想。 粉紅色菱錳礦Rhodochrosite ,像貝殼紋路,象徵堅強熱烈愛情。 Rhodonite,薔微輝石讓我們和大地聯結,和緩情緒。 真珠pearl美麗夢幻潤澤,是佛經描述珍寶。 美麗夢幻的深藍青金石Lapis Azul有黃鐵礦金粉,從古埃及時就製成首飾。幫我們理解,直達事物的核心,深化直覺. 紅玉髓Cornelian agate橘或棕色,幫助內向害羞的人們,接受自己,象徵大地能量。 Amazonite 天行石有珍珠光澤。 綠色Aventurine 東菱石 砂金石很療癒。 蛋白石opal美麗的光澤迷人。 Ruby紅寶石 緬甸紅寶是大理岩,很多金紅石。莫三比克紅寶角閃片麻岩,偉晶花崗岩,常有金紅石。泰國紅寶石是玄武岩。 象徵富饒豐盛。 印加Inca, Maya馬雅,Toltec, Olmec古老美洲將水晶,黑曜石當能量神聖源頭。 養護水晶可以薰香,用鼠尾草,迷迭香或雪松等植物,乳香,檀香也很好。放在唱缽singing bowl, 敲打唱缽,產生穩定迴盪泛音和水晶共振。新月或滿月時在月光祈福。 繽紛建築的色彩很多啟發 。環繞地中海的教堂,建築和清真寺迷幻熱情,是建築師對上帝和神的愛。蔚藍海岸,薰衣草田紫,向日葵黃,還有沙哈拉沙漠紅褐色。白牆,貝殼,馬賽克鑲嵌,門廊,圓拱圓頂,鏤空設計讓我心神飛揚。 寶石ㄧ樣濃深的綠色在阿拉伯文化中是神聖的顏色, 像天空和海洋藍色的,寶石綠色的清真寺深情裝飾, 像花卉美麗的黃色象徵寧靜 和真善美, 天空和海水藍色代表和平 寶石翠綠色 像天一樣神聖。 義大利佛羅羅斯聖母教堂Santa Maria Novella 綠色白色的立面樸素美麗,ㄧ見難忘,像天堂入口。修道院的芳香療癒,淡雅的玫瑰香水,洗髮精,沐浴精乳液,香袋和茶讓我覺得幸福。 喜愛西班牙阿拉布罕宮Alhabram de Granada:潺潺流水, 紅色 城堡的藍色,金色,白色礦石。 植有香桃木,安達魯香亞愛情物語是愛情蜜語,美麗的香桃木院。 獅子院有12乳白的獅子,4渠道象徵水河,奶河,蜜河,酒河。 兩姊妹廳迷人美麗的建築裝飾白日夜晚不同風情。 Washington Irving 寫的Tales of Alhabram很奇妙。 Antoni Gaudi高第用43年心血熱情傾注的天主教聖家堂教堂Sagrada Familia如夢如幻,像天堂的贖罪教堂。 希臘美麗的大理石 石灰石建築 西門町八角紅樓的清水磚發思古幽情,想起古早時的稻荷神社 保佑豐饒豐盛,五榖豐收,鳥居的狐狸如今安在,歲月長流裡我們都是滄海ㄧ粟。 海洋河流靜靜流深 讀詩歌吟唱,賞音樂,觀賞晶石,看繽紛燦爛色彩,看陽光樹影花朵光影交錯之舞,人生像千陽燦爛。 人生的織錦靠我們刺繡的顏色材料去織夢想。2020是��火如荼的貝多芬音樂年,音樂的演奏年年有新意。貝多芬音樂雄壯偉麗,祝大家為理想勇往直前,為自己命運當舵手。
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liyangxu110-blog · 7 years
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中國文物造假調查:河南制假村眾多騙倒不少專傢
www.gurkhaguard.com.hk
瞭望東方周刊2013年第23期封面報道
文物鑒定之亂
“故宮(微博)博物院陳列的玉器也都是標準件,不是那些個‘金縷玉衣’專傢鑒定的,但是傅忠謨先生沒有教出徒弟來”
《瞭望東方周刊》記者張海林、特約撰稿何盼婭 | 北京報道
2013年5月中旬,北京保利國際拍賣公司、北京中貿聖佳兩傢拍賣公司先後發出公告,要拍賣錢書書信手稿,遭到錢書遺孀楊絳反對後,兩傢公司陸續宣佈撤拍。
在保利撤拍的3封信中,有兩封被通信人、上海古籍出版社前社長魏同賢指為偽造,對此保利方面表示:“相關拍品已撤拍,不予回應。”
這為近年來文物和藝術品拍賣市場亂象又添一新例。“20年時間,從零到現在的幾百億,市場發展迅猛勢必帶來很多問題,比如人才問題,對這個行業特性的認知問題等,都存在著缺陷。”文化部文化市場發展中心藝術品評估委員會委員、北京華辰拍賣董事長兼總經理甘學軍對《瞭望東方周刊》說。
2012年3月16日發佈的《2011年國際藝術市場:藝術品交易25年之觀察》報告披露,中國已超越美國成為世界最大的藝術品和古董市場,結束瞭美國數十年來在該領域的領導地位。據《2011中國文物藝術品拍賣市場統計年報》顯示,2011年度,全國共舉辦779場文物藝術品拍賣會,成交額達553.53億元。
此外,近年來民間收藏熱潮使得對於文物藝術品鑒定的需求暴漲,隨之而來的鑒定騙局和亂象層出不窮。2011年3月,《北京商報》記者探訪北京琉璃廠附近文物市場,報道稱,北京琉璃廠東西兩條街上,存在眾多貼有“文物鑒定”字樣的商鋪,“隻要肯出錢,即便你拿來的東西是新貨,也有人能夠把它包裝出歷史背景,即便你拿來的是塊石頭,也有人能‘指鹿為馬’。事實上,這種明碼標價的藝術品鑒定證書,在任何場合都不具有法律效力,但出於各種目的,仍有人願意出錢做鑒定。這個市場非常火爆,而且水太深。”
本刊記者梳理瞭近年來文物藝術品鑒定領域內的重大騙局,以探析當下文物鑒定的技術缺漏和現實瓶頸。文物鑒定走在商業化和文物保護的雙軌上,能否擺脫分裂的痼疾,理順內在血脈,尚不明晰。
騙局鬧劇屢屢刷新“底線”
2004年9月25日,“中國青銅器鑒定第一人”、上海博物館前館長馬承源去世。他的死,被摯友稱為“喪失瞭一個天才,一位如此熱愛文物的大師”。
早年,馬承源為海內外收藏傢鑒定文物,不收分文。馬承源一生著作等身,出版瞭80餘部青銅專著和論文。同行、著名歷史學傢李學勤評價:“他的16冊《中國青銅器全集》是目前中國最好的一部青銅器書。”
對於馬承源的離世,官方報道稱其因病逝世,但臺灣《中國時報》曾發文《上海博物館館長馬承源2004年自殺之謎》,透露馬承源或因受到偽造竹簡的謠言刺激而跳樓自殺。
文章提及2002年馬承源接受《中國時報》專訪時談到這批竹簡,稱1994年春,香港古玩市場陸續出現一些楚簡,其中有真的,但是假的也不少,幾可亂真,多數是大陸不肖文物專傢偽造。那幾年,香港、臺灣都買過偽造竹簡,日本書法傢也買過。
當時香港中文大學漢學傢饒宗頤取得一批竹簡,經過鑒定,排除假的,有十枝為真的戰國楚竹簡。在香港非常關註戰國竹簡文字編纂的張光裕教授迅速把古玩市場消息告知上博,並電傳一批摹本。馬承源和專傢研究後,竹簡文字文體及墨色與已出土的戰國楚簡文字一致,證明這批楚竹書確實是真品,決定立即搶救這批竹簡。
收購竹簡後,上海博物館投入巨量人力及經費整理竹簡,但當2002年古竹簡出專書發表研究成果後,“用國傢經費買的楚竹簡是假的”這樣的消息陸續傳出。
文物鑒定的難度和紛亂從上述頂級專傢雲集但真相卻渺茫的事件中可見一斑,而近年來曝光的文物鑒定騙局更是屢屢擊穿輿論底線。
上世紀90年代,河南洛陽孟津南石山村高水旺燒制的仿北魏陶俑的工藝品,於1994年夏在北京古玩市場上被國傢機構列為“搶救性收購”的“北魏珍貴文物”。
2011年9月5日,原華爾森集團董事局主席兼總裁謝根榮繼一審被判無期徒刑之後,接受二審。自此,“金縷玉衣”的驚天秘密被公眾知曉。
金縷玉衣本是漢代規格最高的喪葬殮服,大致出現在西漢文景時期。商人謝根榮的“金縷玉衣”是他找來一堆玉片,請北京中博雅文物鑒定中心鑒定委員會主任牛福忠串成的。牛福忠又請來中國收藏傢協會前秘書長王文祥、故宮博物院前副院長楊伯達、北京大學寶石鑒定中心前主任楊富緒、國傢文物鑒定委員會前副主任委員史樹青,5位專傢在裝“金縷玉衣”的玻璃櫃子外“走瞭一趟看瞭看”,為這件“文物”估價24億元。
謝根榮用這一紙估價說明騙銀行放出7億元貸款。
另一場鬧劇曝光於2012年初。漢代玉凳由北京中嘉國際拍賣有限公司於2011年初拍出2.2億元天價,成為當年拍賣市場的“最貴玉器”。漢代玉凳為漢代青黃玉龍鳳紋化妝臺之組件,曾被拍賣公司說成是一套“讓今人看後嘆為觀止,具有極高的收藏和歷史價值”的文物珍品。
但一年之後,關於這套玉器到底是國寶還是贗品的爭論突然爆發。2012年2月23日,邳州寶玉石行業協會會長汪如棉公開表示,這個所謂的“漢代玉凳”2010年產自邳州市,當初是作為高仿工藝品出售的,由向陽村幾個小夥子忙活一年多,他們還幾次請自己去做指導,提出造型、紋飾及圖案的設計建議,最初以230萬元的價格賣給瞭一個外地人。汪如棉說,“不知怎麼回事,弄到今天竟成為一件價值連城的文物進行拍賣瞭”。
2012年,十位中央美院油畫系首屆研修班的學員聯名發表關於“徐悲鴻油畫造假”的公開信,針對2010年6月在北京九歌國際拍賣有限公司春拍中以7280萬元成交的名為《人體蔣碧微女士》的“徐悲鴻油畫”,信中指這幅畫隻是當年他們研修班的習作。
宋徽宗《千字文》被疑作假、唐大禧被拍賣畫作系仿作等事件,一再將那些新高迭創的拍賣會變成瞭贗品鬧劇。
鑒定難度不斷升級
伴隨層出不窮的鑒定醜聞,各地文物造假的內幕也浮出水面。從制假到��假的產業鏈條在中國已經發展成熟,作假的手段五花八門。
2012年3月,一份涉及中國文物的《地下作舊產業調查》公佈。該調查對中國龐大的文物造假體系產業鏈進行瞭分析,並對文物造假按照類型進行分區。
陶瓷造假重災區以江西景德鎮、河南(洛陽孟津南石山村、禹縣神鎮、寶豐縣)、浙江龍泉地區、廣東潮州等地為重;青銅器造假重災區則是以河南洛陽伊川縣煙澗村為代表的制假村;玉器造假重災區:河南(南陽鎮平縣石佛寺鎮)、安徽(蚌埠),這些地區主要是漢代玉器造假地,遼寧是全國90%的仿制紅山玉的聚集地;書畫造假重災區:天津鼓樓地區為最廣,北京潘傢園、琉璃廠等地的假書畫多是由地方流入,南京夫子廟和清涼山古玩市場則多為當地書畫傢,作品被造假嚴重。
眾多造假地區中,“河南造”是一個讓收藏界和鑒定界都頭疼的詞,不少專傢都曾經栽在“河南造”上。
走進北京大大小小的古玩市場上,每個青銅器銷售點上都有產自河南的青銅器。歷史留給瞭這裡的人們鑄造青銅器的工藝,在這片土地上,青銅時代鑄造瞭夏商周“九鼎帝王”;進入20世紀末,隨著收藏熱的大潮,河南地區的一個個制假村應運而生。
河南省伊川縣煙澗村是中國著名的“青銅器之村”,因為出產高仿青銅器而聞名中國甚至世界。數據顯示,這個村子的專業加工戶達到300多傢,從業人員1880餘人,年創產值9000餘萬元,主要產品有東漢馬踏飛燕、東周天子駕六、戰國方鼎、春秋蓮鶴方壺及各種造型壁掛、仿古臺燈等1000餘種。
此外,以洛陽為中心的河洛地區也存在著數量眾多的“青銅村”、“制假村”,村子裡不論男女老少都能制作青銅器。每天成千上萬的仿古青銅器從這裡流向全國和世界。
河南目前有很多村鎮都以生產贗品作為當地的支柱產業。河南省寶豐縣汝瓷研究所所長馬聚魁2009年接受《北京科技報》記者采訪時說,一個隻有300多戶人傢的村落,成規模的文物仿制廠就有20多傢,小作坊更是為數眾多。他們除瞭仿造、復制三彩、陶器等作為工藝品出售外,同時也仿造、做舊“文物”,當作另一種價格稍高的“工藝品”公開出售,銷路都非常好。
馬聚魁介紹瞭當地農民將器物做舊的過程。對於瓷器,他們會將剛燒制成的器具埋入土中,時間長的可以達兩三年;然後再將鹽酸和無水乙醇塗抹到器具上,讓瓷器與土結合得更加緊密,給人一種在地下埋藏多年的滄桑感。對於銅器,工匠會戴上厚厚的手套,對著銅器的邊緣使勁摩擦,並用鐵棒打磨銅器邊緣,為的是讓銅器有使用過的痕跡,最後再塗抹上化學試劑讓其形成腐化層。
此外,作為全國最大的古玩市場,北京潘傢園的字畫造假早已形成系統產業鏈,2000年後開始繁榮起來。當時湧現瞭大批造假者和大量假字畫,齊白石的蝦、鄭板橋的竹、范曾的“關公”,啟功、歐陽中石以及劉炳森的書法,王沂東、張曉剛的油畫,還有郎世寧、左宗棠、魯迅的作品,用潘傢園不少賣主的話說:“哪個名傢的都有,如果找不到,那肯定是剛賣完。”
北京大學文物學院院長李彥君曾提供一組數據:2007年,全國的藝術品拍賣行拍出的官窯瓷器達2萬件。2006年到2009年乾隆玉璽共拍出100多件,而實際上乾隆玉璽真品流出的僅有3方。
李彥君解釋,之所以沒有人追究,是源於中國藝術品市場的霸王條款。這個條款由拍賣行業制定:拍賣行不負責拍品的真偽和瑕疵。
除瞭造假井噴帶來的鑒定困難,造假技術“升級”,也使文物鑒定亟需尋找新方法。
以書畫復制技術的進步為例,“現在北京就有很多電腦復制、打印的東西,很多博物館的老專傢之前沒接觸過。如果按照傳統鑒定方法,對圖章、氣息、神韻,查著錄,等等,都已經失效瞭。”湖南省文物鑒定專傢李智勇說,現在吳冠中的油畫或水粉都可以打印出來,而且具有立體效果,現代科技已經到瞭肉眼無法辨識的地步,“我們以前就是靠眼睛,靠手摸一摸就可以知道,現在靠鼻子聞,靠耳朵聽。”
此外,不同的文物鑒定難度亦不同。“書畫在中國市場最大,制假手段豐富,鑒別復雜。那麼多名頭那麼多畫傢,每一個畫傢創造那麼多東西,都不一樣,無法歸類和標準化,甚至不能用一個標準來看同一個畫傢的東西。”甘學軍告訴本刊記者,瓷器鑒定相比書畫稍微單純一些,“玉器有材質和工藝水準的高下指標,在鑒別上相對便利,書畫就更麻煩瞭。”
經驗鑒定存在歷史斷代
在中國國傢畫院原副院長、著名文物鑒定專傢趙榆看來,文物鑒定目前除瞭科技鑒定沒有跟上之外,經驗鑒定亦存在歷史斷代。
“1949年之後文物市場沒有瞭,鑒定專傢隻能在文物市場裡培養,沒有市場就沒有課堂。老一代的鑒定傢在市場中鍛煉,解放之後進入文博單位,所以現在的博物館陳列,特別是故宮博物院、國傢博物館(微博)、上海博物館,各個門類的物品都是標準件。因為它們是被鑒定領域裡公認的權威所鑒定的。”趙榆對《瞭望東方周刊》說。
趙榆舉例,瓷器類,新中國成立初期故宮博物院用的是著名瓷器鑒定傢孫瀛洲和他的得意弟子耿寶昌,“所以在故宮博物院陳列的瓷器都是標準件,沒有偽件。”
玉器專傢是傅增湘的長子傅忠謨(傅忠謨的長子傅熹年是國傢文物鑒定委員會主任委員),“所以故宮博物院陳列的玉器也都是標準件,不是那些個‘金縷玉衣’專傢鑒定的,但是傅忠謨先生沒有教出徒弟來,因為沒有文物藝術品市場,沒有課堂。現在出的那些笑話,原因之一就是那批‘專傢’他們沒有跟傅忠謨先生學,名師才能出高徒,市場才能鍛煉本領,這兩條都沒有。”趙榆說。
“關於鑒定培訓班,‘文革’前舉辦過一期,‘文革’開始時夭折瞭。1974年,‘文革’後期,我調入國傢文物局,1975、1976年開始辦文物鑒定學習班,請啟功先生、徐邦達先生、劉九安先生等到學習班講課,從那時開始,鑒定技術和知識由老一代傳下來。”趙榆告訴本刊記者。
“1992年後有瞭拍賣市場,鑒定人員開始在市場上邊學習,邊自己買自己賣,跌爬滾打,練出來一些社會上的鑒定專門傢,雖然沒有出現像解放前那種權威,但還是有很多中青年人的鑒定水平得到很大提高。”趙榆說。
2009年中國嘉德征集到一件宋人《瑞應圖》手卷,開始定為價值3萬元的“蘇州片”,“經過章津才、傅熹年先生鑒定,確定為珍貴的宋代書畫,國傢博物館一級藏品,最後以5824萬元成交,搶救瞭一件國寶。”趙榆說,這些年比較嚴肅的鑒定專傢還是有的,“比如齊白石的一隻老虎,南方的鑒定傢說他是假的,寫文章在報紙上攻擊,北方的許麟廬、章津才、米景揚說它是真的,結果經過一些買傢瞭解,確實是真的,3000多萬元成交。”
同樣是業界專傢的中國社會科學院學部委員、中國社會科學院考古研究所原所長、著名秦漢考古學傢劉慶柱則認為,憑著名鑒定專傢的經驗其實也可能鬧出笑話。“漢代玉凳”就是一個典型的例子,“幾個專傢簽瞭字鑒定瞭,連故宮有的專傢都說是真的,卻忽略瞭基本常識,漢代都是席地而坐的,違背考古學常識。”他對《瞭望東方周刊》說。
“鑒定技術整體來說需要科學化,大陸的科學研究體系就是師徒相傳,看什麼像什麼。雖然器物類有采用科學檢測,比如瓷器的熱釋光、木器的碳-14檢測,以及青銅的金相學檢測和自然銹蝕檢測,等等,但這方面目前的鑒定隊伍我覺得做得不夠。”劉慶柱說,目前高等學校缺乏這方面的系統學科,“還談不上是個學科,隻是根據市場流傳的一些東西進行摸索,相當不成熟。”
“從寬”還是“較真”
甘學軍親歷瞭拍賣市場從無到有的歷史,24歲時從國傢文物局正處級管理崗位上離開,下海經商,參與組建新中國成立以後的第一傢拍賣公司。他認為,在收藏領域,“鑒定是一個永遠要解決但永遠也解決不瞭的問題。古今中外都是如此。”
“近十年來中國文物藝術品市場蓬勃發展,藝術品投資的氛圍越來越濃烈,對於藝術品鑒定的需求越來越迫切,大量的行外人加入瞭這個市場,產生一個新的行當---鑒定業。”甘學軍說,從收藏傢或投資者等不同角度出發,形成瞭不同的鑒定方法和理念。
權威準確的鑒定涉及各種因素。“瓷器鑒定在技術上層次已經很高,玉器有材質、工藝等標準,最復雜的是書畫,無法歸類和標準化。”甘學軍說,某一個地區對某一個東西更熟悉,準確率相對較高是很正常的,“比如齊白石,一個生長在北方的畫傢,他的畫風比較適應北方人的情趣,北方人比較喜歡,在北京地區鑒定水平就會高一些,而且大量齊白石藏品集中在北京地區。南方如海派,對於南方某些畫傢的鑒定水平會高一些。”
“但區域性隻是對於近現代書畫的鑒定比較重要,關於歷史文物書畫界定,區域性就差瞭,因為歷史時間沉淀太久,就要看鑒定傢的修養和學識。”趙榆說,其他的都是分階段分領域的,比如有的對宋元鑒定修養高一點,對於明清又差一點,“一個專傢要是自稱通才和大師的,都值得畫問號,一個鑒定專傢不可能是全才。”
除瞭鑒定本身遇到的難題之外,從事文物藝術品經營、出版及鑒定工作20多年的北京榮寶拍賣有限公司總經理劉尚勇對《瞭望東方周刊》說:“文物鑒定問題實際上是在不同層次、不同語境下、不同維度上發生的一個問題。”
“如果從文化保護的角度來講,就要從寬。已故的國傢文物局全國古代書畫鑒定小組組長謝稚柳先生曾說,看著30分、50分,就差不多判斷是真的瞭。現在這個觀點被文物界很多人反對,說太松瞭。可是不能說有的是假的就不保護瞭,我們先保護起來,讓子孫再研究。謝先生當時的觀點就是文物保護。”劉尚勇說。
另一個角度是拋棄社會功利目的的學術研究,“這個就必須較真,到底是不是真的,學術研究還允許翻盤,今天說是真的,明天說是假的,後天又有瞭新證據說是真的,來來回回翻盤都可以。學術鑒定是不斷趨向於真理,還原歷史的真相。在這個過程中不斷否定之否定。”
劉尚勇說,書畫鑒定大傢徐邦達先生的鑒定就偏重於學術鑒定,他的文章翻來覆去在變化,“學術鑒定,基本上可以總結為鑒而不定,一直在鑒定,但是永遠定不下來,因為學術允許百傢爭鳴。比如故宮收藏的所有名畫都被人質疑,但質疑不可怕,名作仍然是名作,絲毫不影響其價值。張伯駒向故宮捐贈的‘中國第一帖’《平復帖》,無論學術上怎麼爭論,它依舊是國寶。”
此外就是市場鑒定,“市場是用估價來表明其看法的。如果特別真,就100分;比較真,90分;有點像,80分;或者有點影子,30分;等等。它是用價格的尺子來表明態度。像齊白石的畫,貴的上億,有的幾十萬。”劉尚勇說。
他認為,從不同領域、不同的維度和角度看到的是不一樣的鑒定,“所以沒有辦法大傢坐下來討論所謂的鑒定問題,各自有立場,沒有統一的標準,要分別研究對待和去把握,很大程度上不是法律問題,也就無法用法律去規范。”
有沒有必要對鑒定機構(專傢)進行政府認證?
現實中,文物鑒定難以在商業化和文物保護之間平衡,在巨大利益糾葛之下,假文物被鑒定為真、真文物被鑒定為假的荒誕實例屢有發生,且利益勾兌層出不窮。
2003年,故宮博物院與嘉德拍賣行協議,以2200萬元購買瞭一幅有爭議的書法作品《出師頌》。《出師頌》自唐朝以來,一直流傳有序,1945年後失落民間,2003年7月突然在中國嘉德2003年春季拍賣會上亮相,引起業界軒然大波。8月21日,時任故宮博物院副院長肖燕翼公開承認,他和嘉德拍賣行周末拍賣部的肖洋是父子關系,輿論一時更加質疑故宮此次收購存在暗箱操作。
2003年8月22日,故宮博物院舉行《出師頌》學術研討會,時任財政部教科文司文化處處長王傢新對收購價格、收購理由和收購程序等作出詳細解釋,關於收購程序,王傢新介紹,首先是故宮給文化部、財政部、北京文物局打報告,接著由專傢對原件進行鑒定,判斷評估其價格,後來動用瞭國傢優先購買權從嘉德拍賣公司購得。
雖然有澄清,但《出師頌》收購風波已然使得外界對於文物鑒定的權威性產生瞭懷疑。而大量鑒寶類電視節目的誕生,更是將文物鑒定推上瞭風口浪尖。
2012年5月,《天下收藏》節目組將王剛6年裡砸掉的315件民間持寶人帶來的、被節目組專傢團鑒定為贗品的“寶貝”碎片拼貼,與首都博物館館藏真品對比展出。展覽到8月,中國收藏傢協會玉器委員會主任姚政先後帶30個專傢和收藏者,看瞭5次展覽,得出的結論是:王剛砸掉的90%是真品,其中30%是珍品。
對於“錯砸”,《天下收藏》制片人韓勇表示,節目專傢由專業機構的專傢、拍賣公司的高級從業人員以及高端藝術品行業當中的經紀人等三部門組成。“我們拿這些東西也不是什麼疑難器物,對於鑒定結果我們是完全可以負責任的。”
雖然有解釋,但由於拍賣市場的增速發展、全民收藏熱的襲來等,文物鑒定不斷受到商業利益的沖擊,被疑為早已走上為商業背書的歧路。
2011年3月15日,央視3·15晚會曝光一起關於文物鑒定的黑幕,央視記者拿著從古玩市場花300元買下的一幅齊白石畫作,來到北京金坤國際拍賣有限公司。鑒定師顏仲省斷定這幅畫是贗品,但在收下瞭1000元鑒定費後,還是開瞭寫著“齊白石本人畫”的證書。隨後,記者花200元買的小瓶,在北京聚寶齋文物鑒定中心鑒定師劉育新過目後,搖身一變又成瞭價值20多萬元的光緒仿品。被央視曝光的“給錢就出證書”的公司包括:北京金坤國際拍賣有限公司、北京聚寶齋文物鑒定中心、鴻騫文物鑒定品收藏中心、北京古雅閣 文物鑒定中心。
而民間鑒定機構和專傢產生背後,是洶湧的民間藏品的鑒定需求。目前國內最權威的文物藝術品鑒定機構---國傢文物鑒定委員會,主要從事博物館的藏品鑒定和司法鑒定。
“市場有這麼多需求,公立的學術機構中的學術資源和專傢應該更多地跟社會大眾的需求結合起來,發揮更大的作用,而不應該關門。既然拒絕民間鑒定,就應該為社會提供規范的高水準的服務。”甘學軍說,此外,政府應該制定行業規范和規則,把鑒定的流程和責任確認下來,“不過,政府沒有必要、也沒有能力去認定某機構某人有鑒定資格,否則出瞭問題,和現在的區別就是公眾對市場的抱怨轉化為對政府的抱怨,這樣解決不瞭問題。所以政府搞認證既是越俎代庖,也是不切實際、沒有意義、適得其反的做法。”
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Hozan-ji on Mount Ikoma, Nara Prefecture Japan.
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The Pleasant And Calming Aroma Of Incense. Incense in Buddhism is considered a symbol of the transient nature of life. The fragrant smoke rising from the burning incense represents the ephemeral nature of all things, reminding practitioners of the impermanence of life and the cycle of birth and death, which is a central concept in Buddhism. Purification and Cleansing: Incense is used for purifying the environment and the practitioner's mind before engaging in religious activities. The act of offering incense is seen as a way to cleanse negative energy and create a serene, pure atmosphere for meditation and prayer.
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The area around Hozan-ji was originally a place for training Buddhist monks. The name of the place at that time was Daisho-Mudo-ji. Mount Ikoma was originally an object of worship for the ancient people in the region, so this area was selected for religious training. The training area is said to have opened in 655 by En no Gyōja. Many Buddhist monks, including Kukai (空海), are said to have trained here.
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